21世紀に漂流する国家「日本」
-この国はどこへいこうとするのか?-
「金魚のウンチ」的国家組織としての日本国政府論
2003年3月20日「米‐英」軍は
イラクへ侵略,攻撃をはじめた。
斎藤貴男『不屈のために-階層・監視社会をめぐるキーワード-』
(筑摩書房,2005年6月)は「あとがき」でこう述べた(2003年7月時点の記述)。
第3次世界大戦間近しを思わせる
ブッシュの狂気と小泉の忠犬ぶり。
構造改革の美名とともに進む階層社会化。
国民総背番号制や盗聴法,監視カメラ網の構築などによる
超管理国家への潮流。言論統制。大衆のファシズム願望……。
【
あれから1年後,2004年3月時点でのある論評 】
フセイン政権を倒せば,まわりの国にも平和が広がり,中東は安定する。
米国は「民主化ドミノ論」を旗印のひとつにして,イラク戦争をはじめた。
しかしこの1年,波打つように世界に広がったのは,自由ではなく,テロだった。
(『朝日新聞』2004年3月22日夕刊「窓」)
【
あれから約3年後,2006年4月時点でのある新聞報道 】
ブッシュ米大統領本人がイラク機密情報の漏洩に関与していた疑惑が浮かび,
低支持率にあえぐ政権に追い打ちをかけた。
最近は,沈没寸前の「タイタニック」に例えられるほど手詰まり感が漂う。
秋の中間選挙を前に民主党は批判の勢いを強め,
共和党議員や支持者にも「ブッシュ離れ」の動きが出ている。
「テロとの戦い」一辺倒では政権浮揚につながらず,
政策の実現にも支障をきたしかねない。
(『朝日新聞』2006年4月8日朝刊)
★
BLAIR
is BUSH's
poodle.
★
Who are BUSH's
the
other puppies
!
●
そのイラクに日本政府が自衛隊を派遣したのは,
2004年1月19日のことだった。
●
遅ればせながら,いったい誰のため,なんのため
日本の軍隊を派遣したのか。
● 金魚のウンチという譬えがあるが,それである。
【
むろん,金魚とはアメリカの藪君のことであり,ウンチとは
日本の
リトルスプリング
と ストーンデストロイヤー
両君のことである
】
●
「日本国はアメリカ合衆国の日本州ではない」と怒るある論者は,
「小泉首相とブッシュ大統領は非常に似ている」という。
●
「知性の欠如,論理的思考の軽視,屁理屈の集大成,激情性,感情
的発言,聞く耳のなさ,それに支持率の圧倒的高さ」
などが,それである。
●
「かくて,狂気とそのグローバル化は主要国を包みこんだ」。
戦前は天皇の権力を背景にした軍部に支配され,
戦後は一転してアメリカ追随。
●
日本という国は,民主主義が定着しないまま,外の力によって
支配されてきた。
(柴田治夫『戦争に傾斜する時代』近代文芸社,2004年,152頁,207頁)
日本はアメリカ追随しかできない国なのか?
2003年3月20日「米‐英」軍は
イラクへ侵略,攻撃をはじめた。
誰のため,なんのための戦争か? そのとばっちりをうけ,
無辜の市民‐大衆が数千,数万,数十万も傷つき殺されるだろう。
2001年9月11日におきた同時多発テロで
数千の命が奪われた。その代償,報復だというのか。
だとしたら,米英はテロリストとなんらかわらない
「帝国主義的暴力団国家」にすぎない。
イラクはすでに,「アメリカとイギリスに次いで
日本は敵対的だ」という評価を日本に与えていた。
アメリカが圧倒的な武力で審判を買って出るとき
それはスポーツとまったく異なりルールなき世界の暴力である。
(以上,京都大学
山極寿一)
イラク攻撃への不参加を表明しているドイツのシュレーダー首相は
2003年の新年メッセージで,こういった。
「私の目標はまだ,戦争ではなく国連による平和的解決だ」
21世紀は新しい形態の帝国主義の時代に突きすすむのか?
■ 和田和幸『イラク戦争
日本の分け前-ビジネスとしての自衛隊派兵-』
(光文社,2004年2月)は,
アメリカの尻馬に乗るかたちでイラクへ自衛隊を
只(ロハ)で派遣するくらいなら,
もっと自衛隊を大勢送って日本の政治経済的な利害を確保・拡大しろ,
と主張する著作である。
(→関連するくわしい議論は,以下,筆者「本文」中にも言及がある)
つまり,ブッシュによるアメリカ軍のイラク侵略戦争は,
絶好・格好の
the chance of war
business だというのである。
日本も今回の商売に乗り遅れるな(!)と叱咤・激励している。
この本を読めばたしかに,
「イラク戦争の意味がすべてわかる!」ような気分になれる。
だが,イラクの人びとの不幸‐悲惨など《河童の屁》とみなした本でもある。
本書はだから,アメリカ「帝国主義」的な軍事‐経済行動を
批判しながらも,日本も同列に並ぶことを勧めている。
ただし,一読の価値は十分ある図書だ。
【 本ページの本文記述
】
① は じ め に
筆者は,本ホームページの最新稿文「2002年夏‐秋‐冬に考える外交政治問題-オキナワと有事法制法案-」(2002年8月~12月執筆)をもって,日米安保条約の軛につながれ,いまだアメリカの意向に右往左往させられるばかりでなく,その指図に忠実にしたがうしか能のない国家である「日本」の動向を批評した。 つづいて,新しく書きはじめたこの稿文「21世紀に漂流する国家「日本」-この国はどこへいこうとするのか?-」ではさらに,新書判だが考えさせられる2著,①植村秀樹『自衛隊は誰のものか』(講談社,2002年1月),②横山宏章『中華思想と現代中国』(集英社,2002年10月)を参照しつつ議論をすすめたい。 ② 横山宏章『中華思想と現代中国』2002年10月
②-a)「戦前型変人指導者:小泉純一郎」 横山『中華思想と現代中国』は,こういう結論を提示した。「日本が選択できる唯一の道は,アメリカに媚びることなく,同時に中国に媚びることなく,帝国の論理を超えた平和国家の道をしめすことだ」(以下しばらくは,横山,同書「後記」186-187頁参照の記述)。これと同じ主張を筆者も,前稿「2002年夏‐秋‐冬に考える外交政治問題-オキナワと有事法制法案-」のなかでとなえた。 問題はいまのところ,今後採るべきこうした〈日本の道〉に向かって指導力を発揮できそうな日本の政治家が,皆目みいだせないことである。なかでも自民党はすでに,人材面に関して「セミの脱け殻」,「収穫後の田んぼに立つ案山子」,「枯れ木も山の賑わい」のような様相を呈した政党である。 2000年4月,清新な人材の選抜に窮した自民党はあえて,変人と名高い小泉純一郎〔世襲政治家〕を総裁に選んで総理大臣に送りだし,今後日本の舵取りを任した。
2001年9月11日同時多発テロをうけてからの大国アメリカは,精神的な衝撃=狂乱状態から抜けきれない国家態勢のまま,世界各国に対して帝国主義的な恫喝外交でこう迫った。つまり,世界中の国々に対して,テロリズムへの対応姿勢をめぐって「わが国:あめりかに協力するか否か」〔アメリカ帝国の定義する「正義に付くか否か」〕,と態度の表明を強要した。 だが,とりわけ日本は,〔2002年12月20時点で〕イラクへの攻撃を準備中の「対アメリカ政策に成功しても,対アジア政策としては失敗である」ことの深刻さを,なお事前に認知できていない。 イージス艦まで派遣した日本であるが〔2002年12月16日4隻保有のイージス艦のうち「きりしま」が横須賀基地を出港〕,アメリカに頥使される軍事的関係でしか軍艦を繰りだせないのであれば,主体的な軍事作戦上の貢献は無理である。 それとも,「アメリカ帝国」の家来たる立場を重々覚悟のうえで,高性能のイージス艦を提供〔=アメリカのために派遣〕したつもりであるのか? そんなことをやっていても,いまやアメリカは,日本より中国を重視している。「アメリカ帝国」と「中華帝国」の調整が必要だからである。今後は,その「帝国」の狭間で日本は苦しむことになるであろう。それゆえ,世界を席巻する「アメリカ帝国」に対抗し,ヨーロッパは「EU帝国」を築きはじめた。 「ソヴィエト帝国」は崩壊したが,この危機に当たって「ロシア帝国」の志向が強まるであろう。「文明の衝突」は「帝国衝突」でもある。恐ろしい時代に突入した。21世紀に入るや否や明確になったこの「帝国の時代」,中華人民共和国は,かつての「中華帝国」にも似た国家体制の構築に拍車をかけている。 だからいまこそ,感情的な対応ではなく,冷静な分析と行動が求められる。アメリカの「報復戦争」への日本の自衛隊による協力〔すでにおこなっている海上自衛隊による補給行動,そしてイージス艦派遣〕は,それが終わったあとの周辺国家の反撥を考えると,あやまった選択である。
日本の自衛隊は,アメリカへの協力だけでなく,テロ撲滅をめざす世界平和への貢献だという。しかし,世界がひとつになることはないのだから,軽々しく「世界平和への貢献」ということばをつかってほしくない。海外における自衛隊の軍事行動は,その既成事実をもって将来は,日本周辺のアジア諸国に刃が向けられるのではないかと心配するのは当然である。 ③ 日中関係の回顧と展望〔過去と未来〕
③-a)「中国と日本」 中国が伝統的な中華帝国へ回帰し,それに対抗して日本が国家主義的様相を強めれば,けっして日中関係の未来は明るくない(以下しばらくは,横山,前掲書,5「日中関係について-歴史認識の違いが物語るもの-」131-184参照の記述)。 「怨みに報ゆるに徳を以てす」(『老子』のことば)。 これは,日中戦争が終息したとき,蒋 介石が引用した有名なことばである。ソ連は多くの日本兵をシベリア抑留へと駆り立てたが,中国は日本の敗残兵を武装解除し,戦争責任者をのぞいて,報復の虐殺をくわえることなく無事に帰国させた。この温情には,それに感謝する日本人を改悛させ,2度とこうした過ちを犯すことはしなくなるであろうという気持がこめられている。 それは,優れた中華世界が野蛮な夷狄を処遇するひとつの姿勢の表われである。そのことによって,中華は夷狄とは格がちがう徳治国家であることを強調したかったのである。 だが,日本にはその温情が充分に伝わらなかった。伝わったとしても,それに応える「徳」を日本はもちあわせていなかった。日本は冷戦の論理で対応するだけであった。中国敵視政策はつづき,日本を許した中国に感謝する気持は生まれなかった。 日本は,アメリカの庇護のもとで急速に大国化の道を歩み,侵略を肯定する機運まで生まれている。中国からみれば,日本人はまったく「改悛」していないと映る。 1952年の「日華平和条約」で,台北政府は日本への賠償請求を放棄した。同じように1972年の「日中共同声明」で北京政府も戦争賠償請求を放棄した。こうした2度にわたる温情にもかかわらず,日本は性懲りもなく,恩を仇でかえすような対応を繰りかえしている。そのように中国‐中国人が理解するのは当たりまえである。 さて,中国にも問題がある。中国が「中華世界」にこだわれば,それは「アジアの国家」を超えることができないことを意味する。中国が伝統へ回帰する危険性は,中国を中心とする「アジア」を強調しすぎるところにある。だから,人権など普遍的な価値観よりも,アジア的・中国的価値観を強調することになる。アジアの再生をとなえることは,イスラーム世界の再生をとなえる原理主義とかわらない。 かといって,日本もその呪縛から解放されていない。「脱亜入欧」といいながら,けっして「入欧」できたわけではない。国家主義的な方向は,いわば逆に西欧的価値観からの離脱である。「一国平和論」が批判されるが,「一国価値論」が国家主義のよって立つ論理である。 それは「アジアの国家」から,さらにせまい「日本の国家」への回帰である。日中の衝突を避ける道は,それ自身がひとつの価値観でもあるが「多元的価値観」の尊重であり,価値観の相対化が必要である。
③-b)「予想される悲劇」 伝統に回帰する中国は,日本にとって脅威となるであろうか。日本はまちがいなく「大中華の世紀」に反撥し,日中間のトラブルを絶え間なく生みだすであろう。ポスト冷戦における小泉首相の挑戦はその第1歩であり,「つくる会」もその挑戦に期待している。 戦後の日本外交は一種の「気配り外交」であった。悪くいえば,アメリカ‐中国‐ソ連の顔色をうかがいながら,自己主張しないのが日本の生きる知恵であると考えていた。日米同盟を機軸としながら,平和外交‐アジア重視が外務省の基本方針であった。 経済成長第1主義の日本は,冷戦的対立構造のなかで戦争に巻きこまれないために,ひたすら過激なトラブルを避けようと,気配りしてきた。だから,「アメリカへの追随外交」あるいは「中国への土下座外交」と罵られてきた。 しかし,冷戦が終焉すると様相がかわってきた。肝腎の日本経済のバブルがはじけ,アメリカは1人勝ちし,日本のODA最大の受益者であった中国は,急速に経済大国化の道を走りはじめた。気がつくと「気配り外交」は,けっして日本の立場を有利に運んでくれるものではなくなっていた。 こうして「気配り外交」をみなおそうという機運が生まれた。それは,東京都知事に当選した石原慎太郎の「慎太郎人気」にみられ,また「小泉人気」としても結実した。彼らはいずれも青嵐会的な国粋主義的体質をもった政治家である。特徴は,はっきり自己主張するところにある。その自己主張が「うしなわれた10年」に苛つく人々の共感を呼んだのである。 一見,大向こううけする「自己主張の外交」のそのゆきつくさきは,日本は善であり,アメリカや中国は悪であるという二元論におちいる。世界は相対主義を求めるのに対し,日本は自己中心主義に向かっている。いわば「気配り外交」への反動である。 歴史教科書や靖国問題で中国や韓国が抗議すれば,その抗議する内容を論じることなく,ひたすら「外圧に屈するな」と叫び,外圧を排除する姿勢だけが讃えられる。これでは,親の説教に感情的に反撥する反抗期の子供の抵抗である。成熟した外交とはほど遠い。このままでは国際社会がみえなくなる「夜郎自大」におちいる危険性がある。 「自己主張の外交」が危険なのは,それが国家利益‐国家価値を優先する国家主義的な道に向かう恐れがあるからである。いま,世界は国民国家体系がゆらぎはじめ,国家主権の絶対化が問われはじめている。国家主権の相対化もはじまっている。日本的価値観を自己主張しても,それは世界では通用しない時代である。 日本のそうした国家主義的な主張が復古的に現われているのは,そのひとつに中国の大国化,伝統中国への回帰が,日本に危機意識を募らせているからである。日本が中国への「気配り」をやめようとしているのは,中国が日本への「気配り」をやめはじめたことと関係がある。 中国は日本に利用価値をみいだすかぎり,きわめて柔軟であり,優しい「気配り」をしてくる。中ソ同盟と日米同盟が激突した冷戦初期は,中国は日本に冷たかった。当然である。中国の東夷である日本が「アメリカの犬」となって,再び中国に敵対したからである。その後,中ソ関係の変動にともない日中関係においては「気配り外交」が展開されてきた。 転換期は1990年代前半にあった。そのころから中国は日本政府の足元をみるようになり,日本から多額の経済援助をうけながらも,日本に対する批判がはげしくなった。天安門事件で文句をいいながらもアメリカや日本は,中国を制裁することができず,結局は中国市場への投資圧力は減少しないことが,中国にはわかったからである。同時に,「中国脅威論」が日本で燃えあがった。それは,天安門事件の痛手をいち早く回復した中国の自信が日本に脅威論を生んだためである。 日本では「ソ連脅威論」が消えたあと,一時流行した「北朝鮮脅威論」にかわって「中国脅威論」が抬頭した。天安門事件にもめげず経済発展をつづける中国の底力に,バブルがはじけた日本人は脅威を感じたのである。 1998年,江 沢民が国家元首としてはじめて日本を訪れた。そこではげしく日本の歴史認識を非難したことは有名である。それは逆に日本世論の顰蹙を買ったが,徐々に中国もまた日本に対する「気配り外交」をうすめてきている。 日本もまた中国に対する「気配り外交」から転換をはかっている。そのゆきつくさきは悲劇しかありえない。
③-c)「日本国民の戦争責任」 中国がこだわるのは,靖国神社にいわゆるA級戦犯が合祀されていることである。それは当然非難されることだが,はたして一般国民に戦争責任はないのか。大いに疑問である。 中国の歴史認識では,日本の中国侵略の責任は,一握りの軍国主義者にあり,日本国民はその戦争遂行責任者によって苦しめられた被害者であり,軍国主義者と国民を区別する歴史教育をほどこしてきた。 だが,日本国民はけっして戦争責任がない「無辜の民」ではない。その戦争責任者である軍国主義者を積極的に支持し,日本軍による「首都・南京の陥落」に狂喜乱舞したのは,戦争被害者であるはずの日本国民であった。 中国のいう「日本国民」は被害者どころか,戦争と侵略の加害者である。その加害者責任は免れえない国民が,小泉首相を生みだし,圧倒的支持を与え,その「小泉人気」に気をよくした首相の靖国神社公式参拝を後押ししたのである。罪深いのが名もなき庶民である。 中国は,善意にもとづいて戦争賠償を放棄したのに,裏切られたと憤慨する。裏切ったのは,小泉1人ではない。中国を裏切ったのは,多くの日本国民でもある。「一握りの軍国主義者」と「多くの日本国民」を区別する中国の論理は破綻している。破綻した論理になぜ固執するのか。今後も固執しつづけるのか。 破綻した論理は,マルクス主義の階級史観にある。この階級史観で長く中国人を教育してきたから,その影響でいまでも「日本国民」の戦争責任を糾弾できない。もし,一般国民を糾弾すれば,日本の中国侵略を許してきた中国人民の不甲斐なさを認めざるをえない。それは,中華民族全体の不甲斐なさを認めることになる。中国の伝統的な歴史観とも深い関係がある。 これまでも,中華世界はたびたび周辺の夷狄に侵略をうけてきた。その責任は,いつも夷狄と妥協した民族の裏切り者にある,彼らは夷狄の侵攻を裏でみちびいた民族の背信者である。それを「漢奸」という。いつも悪い裏切り者は,一握りの「漢奸」である。 マルクス主義の階級史観は,いずれ中国国内でも破綻する。現に,破綻しつつある。だが,「漢奸」思想は破綻しそうもない。しかし,日本は侵略された経験がほとんどないから,中国のような「倭漢」という概念はない。朝野一体となる恐ろしさがある。 --さて,横山『中華思想と現代中国』のいう「日本国民」は,旧日本軍の兵士だった男性はむろんのこと,旧日本帝国の植民地地域で生活してきた女性や老人,子どももふくめ,とりわけ1931年から1945年までの「15年戦争」中,一般民衆〔正確には「日本帝国臣民」〕として,中国侵略への尖兵あるいは関与者だった罪悪をよく認識できていない。それゆえ,反省も十分していないことは,横山のいうとおりである。 ごく少数派にすぎないけれども,中国‐中国人に対する戦争加害の事実を本当に深く悔悟し,その後には,その歴史精神的な後悔の過程を踏まえ真摯に,中国‐中国人との友好的つきあいをしてきた「日本の人民」もいないわけではない。 しかしながら,かつて中国戦線に送りこまれ侵略者の手先となった「日本帝国臣民」将兵のほとんどは,自分たちが加担してきた《三光作戦》に代表される加害行為をその後,自身の脳髄の記憶のなかに封印してきた。 敗戦後,復員‐帰国し,庶民の立場にもどった「日本国民」たちは,以前自分たちが兵士として送りこまれた中国の地で,中国人に対してなにをしてきたか語ってこそ,感性的にはもちろん理性的にも,みずからの罪状・非行を真正面よりみつめることができたはずだった。だが,その点は徹底的に避け,怠ってきたのである。
③-d)「小泉首相の靖国神社公式参拝強行」 2001年8月,歴史教科書が解決しないまま,小泉首相は中国や韓国の反対を押しきって靖国神社公式参拝を強行した。8月15日の予定をずらして2日前の8月13日に参拝した。 その「姑息なやりかた」には,日程以前の問題がある。侵略で被害をうけた国々の民族感情を逆撫でしてでも,戦没者へ哀悼の意を表わすべきであるという日本国内の感情を優先した。「不当な外圧に屈しない快挙」という評価すらあった。国内人気が圧倒的に高いときの小泉首相のパフォーマンスであったから,国内感情を優先するのは理解できるが,外交感覚はゼロである。 国内の論理を絶対化し,その論理で外交を展開すれば,摩擦が発生するのは当然である。国際社会の常識によれば,戦争犯罪者は仏さんになろうがなるまいが,その戦争責任は糾弾されるべきである。 ヒトラーも仏さんになっているかどうかわからないが,その霊前に詣でれば,非難される。靖国神社への公式参拝が国益を損なう愚行であることは明らかである。 それにもかかわらず,靖国参拝を強行した姿勢に危機が感じられるが,それ以上に問題なことは,「小泉人気」を背景にそうした行為を容認する日本国民の国際感覚のなさである。 もっとも,歴史教科書問題と靖国神社公式参拝問題に対する中国の対応も,かなり弱腰であった。日本との経済関係を重視して,全面対決を避けたかったのだろう。「理解に苦しむ」とか「疑問をもたざるをえない」とか,きわめて穏健な批判に終わった。 日本は,アジアとの一体感に欠けている。その原因を5つあげよう。 1) 根強い民族感情・民族主義。日本民族の優越性感情,日本民族の利益優先・宣揚がアジア排他的な態度を形成している。 2) 日本とアジアとのおおきな経済格差。日本の国内総生産は,中国と韓国に東南アジア10カ国をくわえた総額よりもおおきい。そのアンバランスな経済関係によって,アジアにおける日本の傲慢さの物質的基礎がつくりだされている。 3) 日本経済の世界志向は,アジア以外の地域をとくに重視させている。 4) 日本とアメリカが安全保障条約で同盟関係を締結している。 5) 日本国内には平和主義勢力が強いとはいえ,右翼勢力がアジア諸国に日本への警戒心をおこさせている。 以上は,中国の立場‐利害に即した分析内容である。具体的には,中華世界から離脱し,欧米との関係を強化している日本に対する「中国がわの民族的反撥」が読みとれる。日本に対する「畏れ」「蔑視」「反目」が言外ににじみでている。
③-e)「アジア政治情勢背景の変質」 過去に2度あった教科書問題騒動では,鈴木善幸内閣・中曽根康弘内閣が中国や韓国の抗議をうけいれて,事実上の修正をおこなってきた。それにくらべ2000年~2001年の教科書問題騒動では,抗議を部分的修正で乗りきり,中央突破しようとしている日本政府の変化がおきている。 1) 1980年代までの冷戦構造はもはやない。ソ連の脅威が存在し,このソ連と対抗する中国の存在は日本にとって非常に大切であった。中国を刺激することは,冷戦構造のなかで最適の選択ではなかった。外圧に屈したかにみえる関係になろうとも,内政干渉を盾に中国〔や韓国の〕要求をはねのけることは,日本の国益を確保するためには得策ではなかった。 2) その後,冷戦構造が終焉した。ソ連の脅威が消え,1991年の湾岸戦争で日本の国際貢献のありかたが問われた。 3) 1993年8月,細川護煕首相は侵略戦争を認めて,「過去の日本の侵略行為や植民地支配などが,多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたことに,あらためて深い反省とおわびの気持を申し述べる」と所信表明した。 4) 1995年8月,自社政権時代に戦後50年の節目に,社会党の村山富市首相は,日本の植民地支配や侵略の被害をうけたすべての人々に対し,率直な反省と謝罪の気持を明らかにした。 以上,3) と 4) は自民党内部におおきな不満を募らせた。同時に過去の侵略に謝罪する姿勢は,日本人の誇りを傷つけたという民族主義的反撥も生んた。「本当に日本は悪いことばかりを犯してきたのか」と。しかしまた同時に,村山首相は従来の社会党路線を大転換し,日米安保体制を容認した。こうして日米同盟を強化する選択肢に異議をはさむ勢力が後退した。 5) 1994年5月,北朝鮮の核疑惑‐ミサイル開発などが表面化し,アメリカも,アジア太平洋地域への10万人の軍事プレゼンスを保持しつづけることを表明した。ポスト冷戦にもかかわらず,日米同盟があらためて強調されはじめた。 こうしたなかで,中国の「改革‐開放」政策の成功はいちじるしい発展をもたらし,ソ連脅威論‐北朝鮮脅威論に代わって中国脅威論が抬頭した。一方,バブル経済がはじけた日本は「失われた10年」が強調され,危機意識が募ってきた。 その間,アジアにおける日本の危機意識と謝罪の歴史認識に対する反動として,日本国内に国家主義が抬頭してきた。そのひとつの表われが「新しい歴史教科書をつくる会」の積極的な行動であり,この行動に対する少なからずの共鳴であった。こうした国家主義は,急速に抬頭する中国への対抗意識であり,一種の不健全なナショナリズムでもある。 不健全というのは,国際協調・相互依存関係のなかで自国のアイデンティティを確認するのではなく,ナショナリズムにはナショナリズムで対抗するという不毛な対立構造をもたらす危険があるからである。とくに,歴史教科書問題における日本政府の姿勢は,そうした背景から生まれている。だから容易に中国や韓国と妥協しようとはしてこなかった。 6) 以上のような日本政府の姿勢は,新たに東アジアに不毛の摩擦を生む要因である。経済摩擦には政治解決が必要であるように,歴史摩擦にも危機克服のための政治解決が必要である。 それは,それぞれのナショナリズムが昂揚しても,たがいに共存できる健全なナショナリズムは,他人の痛み・他国の痛みを思いやるナショナリズムでなければならない。 自国中心のナショナリズム讃歌は,他国の痛みを忘れることとなる。侵略‐植民地化という痛みを抱く人々からみれば,自国中心の国家主義的ナショナリズムの抬頭は,耐えがたい痛みの再生産である。 西尾幹二編『新しい歴史教科書「つくる会」の主張』は,韓国が「建国神話」を日本に押しつけることは,「神話と史実の混同を他国にまで押しつける」ことであり「御免こうむる」,それこそ「偏狭なナショナリズム」だと批判する。しかし,同会の教科書は同じように日本の「建国神話」を強調し,それを生徒に押しつけようとしている。西尾の批判は「天に唾する」行為であった。 そのように「内政不干渉」という陳腐な護符でナショナリズムのぶつかりあいを繰りかえせば,自尊心だけは満足できようが,ナショナリズムを超えた未来は展望できない。歴史教科書問題は,そのナショナリズムの質を問うものである。
③-f)「小泉政権の国家主義的タカ派的本質」 国民的な人気の高い小泉政権は,中国にとってもっとも危険な政権である。最初に外務大臣に任命した田中真紀子は,父親の政治遺産を食いつなぐため,中国に同情的だったかもしれない。だが,政権そのものの性格は,いわば〈国家主義的なタカ派〉である。憲法改正,集団的自衛権容認など,外交的には東アジアの政治秩序を変更しようとする意図が明らかである。 --以上,横山『中華思想と現代中国』は,東アジアの政治情勢・背景をみすえ,日本国の現政権をになう小泉純一郎首相の〈全般的な危険性〉を指摘している。国家主義的保守性とタカ派的資質が骨髄まで染みこんでいる宰相小泉純一郎は,人材面で枯渇状態の自民党から「瓢箪から駒」のごとく飛びでてきた。このことは実は,周辺諸国にとってだけでなく,日本国民にとっても不健全な事態の発生を意味している。 歴代の日本政府政権は,1945年までの日本帝国の罪悪性をなんどか,アジア諸国に対して外交辞令的に謝罪してきた。にもかかわらず,小泉政権は,その姿勢を弊履のごとく否定する国内意識を反動的に形成した。それだけではない。彼は,この国の宰相となってからみずから率先して「過去の古傷」を引っかきまわす所業をおこなってきた。 そのため,日本と東アジア諸国との関係は,20世紀末期に生じた世界政治経済的情勢変質の影響もおおきくうけ,よけいにぎくしゃくした雰囲気をつくりだした。それは,30~40年まえの「日本‐東アジア諸国」関係に舞いもどった様相さえ感じさせる。 日米安全保障条約下においてアメリカに首根っこを抑えられてきたこの日本は,そのアメリカにはまったく頭が上がらない間柄を強いられてきた。しかも,このコンプレックスは捻転させられ,アジア諸国を傲岸不遜にみくだす日本民族意識の昂揚によって埋め合わせられねばならなかった。 だからだろうか,最近における日本と東アジア諸国との関係は,明治開国をアメリカに迫られた江戸幕府が明治政府になったのち,日本帝国となってアジア諸国を蔑視しだし,そして,アジア侵略の政策を実行をしてきた時代に似た空気を漂わせている。 今後5年から10年経ったら中国は確実に,経済力をもっと飛躍的に高揚させる。日本の経済力はそれにくらべ,相対的にも絶対的にも急激に低下,弱化する。以後,両国間における力関係が激変することは,必至である。〈日本の未来像〉を踏まえるならば,いつまでも自国ナショナリズムに固執するようでは,19世紀後半に旧来の封建世界から〔うまく〕脱出をなしとげたはずの,この国の体験〔のよい面〕を生かすことができないだろう。 日本は古代より,中国の「中華思想」に対抗する方途で「大和:日の本の国」を形成してきた。しかし,中国の中華思想に反撥するあまりか,国造りをする地平をみうしなってその展望をまちがえ,「神州:神の国」意識を狂信的に抱くにいたった。結局,膨張主義路線に走った。そういうときのこの国はいつも,周辺の東アジア諸国に甚大な不幸をもたらしてきたのである。 日本は今後,アメリカとの外交関係の現状を,どう変革し打開していくのか。この国ではいまのところ,そのことを実現するために必要な国家哲学を用意し,これにしたがってさらに,具体的な政治的施策を推進できる馬力をもつような人材が,残念ながら出現していない。 中国や韓国など東アジア諸国の民族ナショナリズムを,歴史他虐的に刺激することの上手なこの国であっても,アメリカの一国帝国主義をすこしでもよいから牽制しえ,世界政治をわずかでものぞましい方向に動かすために働ける日本の政治家がいない。 敗戦後より今日までの《日本国》の経過:生態を観察するに,なにゆえ,これほどまで経綸に貧困なまま時代の流れを無為に過ごしてきたか,といぶかれる国もほかにない。いわば「宗主国:アメリカ」の意に沿う国内行政しか日本はやってこなかった。軍事,外交方面の内実にいたっては,その基本方針すらなかった。そして「経済大国」の実質もその後は,アメリカ流アングロ‐サクソン資本主義にそのうま味だけを吸いとられ・ついばまれている最中にある。
④-a)「戦争させる人,させられる人」 1) 戦争をはじめるのは年寄りだが,戦争で未来を奪われるのは若い人である(あとがき,205頁)。 --中曽根元首相はかつて,日本をアメリカのための「不沈空母」に譬えた。日本は実際,半世紀以上も無条件に近いかたちで「不沈空母として沖縄」をアメリカに貸し与えてきた。しかも,在日米軍駐留経費にくわえて「思いやり予算」なども,熨斗を付けてあげるほど気前がよいのである。 1991年1月におこされた湾岸戦争のとき,日本は不沈空母たる沖縄をアメリカに存分につかわせるだけでなく,日本各地に散在する米軍基地も無条件につかわせた。朝鮮戦争やベトナム戦争時のことは,思いだすまでもないだろう。日本の米軍基地は,アメリカ軍の世界的な軍事作戦の展開にとって必要不可欠の,かつまた非常に使い勝手のよい足場なのである。 ドイツ第3帝国「ナチス」政権の地政学的思想は,国家社会主義的・純粋民族主義的イデオロギーとして「血と地(血統と土地)」(Blut und Boden) を強調した。ここではくわしく触れないが,それがユダヤ民族虐殺を正当化する「理由なき論拠」であった。 ともかく,湾岸戦争で費消されたアメリカ〔などで編制された多国籍軍の〕軍事費に大金を提供し,多大な貢献をしたはずの日本だったが,結果はボロクソの評価で終始した。 だが,Blut =「将兵の生命」を湾岸戦争に提供しなかった日本ではあったけれども,Boden =「国土のすべて」をアメリカに無条件で提供していた。この役立ちは,一口では簡単に評価できないほど非常におおきな軍事的貢献,いいかえれば,湾岸戦争の兵站を展開しなければならなかったアメリカ軍に対して,惜しみない強力な後方支援を与えたことになる。 2) 1991年の湾岸戦争が「文明の野蛮に対する戦争」ではないように,こんどのテロ〔2001年の9・11同時多発テロ〕に対する報復戦争にも,正義はない。それなのに,アメリカがつくった単純な図式に乗って「貢献」を考えることじたいが,日本の行動の幅をせまくしている。 湾岸戦争に 130億ドルも出しながら評価されなかったというが,自衛隊を出さなかったことではなく,そこになんの理念もなく,語るべきことばをもたなかったところにこそ問題があったのである。日本はつねにアメリカの問題設定に乗り,なにもしないか,アメリカに追従するかというふたつの選択肢しかもたない日本外交の不毛は,国家の根幹にかかわる問題である(202頁)。 --前著,横山『中華思想と現代中国』に関する前段記述の最後部でも論じたように,この日本という国の「政治的主体性のなさ,独自の国家理念の不在,自己主張を欠いた態度」が実は,そのようなアメリカ追従というか,アメリカに「盲従しかできない政治路線」を醸成させた,もっとも根本的な原因であった。しかも,日本がそうした態度を保持してきたことは同時に,アジア諸国には背を向け軽視してきたことも意味した。
④-b)「日米安保の再々定義」 1) 「テロ対策特別措置法」(正式名称:「平成13〔2001〕年9月11日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」平成13〔2001〕年11月2日法律第113号)と,それにもとづくアメリカ軍支援は,日本政府にとってはテロの問題ではない。それは日米関係の問題なのである(197頁)。 日米安保体制は,条約そのものから漂流しはじめた。日本「周辺」での紛争で自衛隊は,アメリカ軍の戦闘に参加することになった。しかし,これに満足しないアメリカ政府関係者は,再々定義を要請した。日米安保体制が,すなわちアメリカは,自衛隊をどこへ連れていこうとするのか? すでに有事法制法案が準備されてきており,成立までにいたらなかったが,2002年中に開催の国会には再度上程されてもいた。有事法制は,国民の権利を制限するものであるが,テロ事件ではずみがついた同盟強化の流れが,この有事法制にも深い影をおとしている(198-199頁)。 「テロ対策特別措置法」の内容は要するに,アメリカ軍支援である。これでは,時代遅れだと思っていた「教え子を戦場に送るな」という日教組の標語は,にわかに現実味を帯びることになった(197頁)。 2) アメリカとの同盟関係によって日本はえるものがあるが,失うものもある。日本もテロの脅威にさらされることを強調することを,国民への脅迫にすり替えてはならない。 今回の対米支援〔イラク攻撃を準備中〕では「武力行使と一体化しない」と日本政府は強調するが,相手〔攻撃をうける国や組織〕からみれば,日本も軍隊を派遣した以上は参戦国である。それが国際的な常識である。 小泉首相は国会審議で「常識で判断する」と繰りかえし答弁したが,肝心なところで常識からおおきくはずれている。事実上の戦時に軍を派遣したことで,明らかに日本は参戦したとみなされる。これが常識である(200頁)。 自衛隊の佐久間 一 元幕僚会議議長は,「日本は戦争を放棄していても,戦争のほうは日本を放棄していない」といった。しかし,戦争は地震や台風ではない。外交努力などで戦争を遠ざけることは可能である。近視眼的に武力を用いるアメリカと一体化することは,不必要に戦争の危険を引きよせる恐れがある。 戦争と軍隊を放棄することを宣言した日本国憲法は,いわばこれまでにない上等な国家を建設しようという理想をかかげている,とみることができる(201頁) --戦争の現場から遠くはなれて安全な場所でいられる人々は,スポーツを楽しむかのように戦争に関する傍観者的な発言をよくする。 佐久間 一なる人物は現在,1978年(昭和53年)10月に設立された財団法人平和・安全保障研究所(Research Institute for Peace and Security) の常務理事を勤めている人物であり,現職は東日本通信電話株式会社の特別参与である〔インターネット上の検索でこの会社はヒットせず,ここでその詳細はよくわからない〕。 小泉首相も有事という「戦時体制」問題の本質を,はたして,わかっているのか疑わせるような能天気な,トボけた〔寝ぼけた?〕発言がめだつ。 軍事方面に関する状況認識の方法において「常識で判断」することが,いかに愚かであり,現実軽視の判断であるか確認しておかねばならない。憲法第9条をもっているこの国だからといって,軍事事項に関して意図的ともうけとれる〈ボヤカシタ発言をする姿〉は,尋常ではない。 3) 日本政府はそのくせ,テロ対策法にともなう自衛隊法改正案のなかに秘密保護の条項をひっそりすべりこませていた。防衛庁が自在に「防衛秘密」を指定して,防衛政策を国民の目から遠ざけることができるようにした。そのように火事場泥棒のようなしかたで提出すべきではない。せっかく自衛隊の存在が国民に認められるようになってきているのに,防衛庁は国民に背を向けた(198頁)。
④-c)「テロ事件と報復の意味」 1) この項目はすでに関連の言及があったものである。2001年9月11日同時多発テロ事件がおきた。今回の事件は規模はおおきいが,あくまで犯罪である。したがって,アメリカは連邦捜査局(FBI)の出番であるはずだが,ブッシュ大統領はこれを〈戦争行為〉として,軍に出動を命じた。 ブッシュは,自由が攻撃された,民主主義への挑戦だと強調したが,そうではない。アメリカの経済のシンボルと軍事力の総本山が攻撃されたことからみても,狙われたのはアメリカ合衆国そのものである。 事件にはウサマ・ビン・ラディンが深く関与している可能性が高いが,もしそうだとすると,パナマのM.ノリエガ将軍,イラクのサダム・フセイン大統領のばあいと同じ構図が浮かびあがってくる。 アメリカの対外政策は,目先の国益を性急に追求するあまり,中長期的な視点に立ってものごとを考えることができず,その結果としておおきな問題を生みだしてきた(191-192頁)。 ウサマ・ビン・ラディン,ノリエガ将軍,サダム・フセインなどいずれの事例も,アメリカが目先の利益のための行動をとり,目的を達してじゃまになると,口実をみつけて軍事力で叩くという構図のなかで結果した人物たちである。 ブッシュ大統領は,父親がパナマやイラクでしたことと同じことをしている。息子の大統領は,アフガニスタンへの攻撃を「自由を守る,テロリズムを根絶する」という名目で正当化している。犯罪者を捕まえるといいながら,事件とは無関係の市民に多くの事件と難民を生みだした(192頁)。 2) 今回の事件にかかわったテロリストへの報復は,同時に新たなテロリズムを生むことにつながる可能性がある。アメリカはどれだけの恨み,憎しみを買っているか。ひとつのテロ組織を追いつめながら,その反面で,新たなテロリズムの種をまいている。テロリズムの歴史をひもといてみれば,政府によるテロ,つまり国家による犠牲者がもっとも多い(193頁)。 ブッシュは,アメリカへの各国の協力ぶりを「採点する」といった。低い点を付けられた国は,アメリカの政治‐経済的な報復を恐れるだろう。目的のために恐怖という手段を用いるというテロリズムの定義からすれば,これは暴力なきテロリズムといえる(194頁)。
④-d)「日米同盟の現実」 1) 日本の防衛庁は,情報機能を強化するため1997年1月に情報本部を設置した。アメリカはこの計画段階から関与してきた。問題はそれが助言‐協力の範囲にととまらず,情報本部への出入りはきびしく規制され,同本部所属の職員であっても,出入りできる場所は職務によって制限があることである。 その情報本部には常時,10人近いアメリカ人が出入りしている。 また現在,各自衛隊のデータを共有するシステムの構築をすすめているが,これにも3軍自衛隊すべてでアメリカが深く関与している。こうなると,防衛庁・自衛隊の力量としった話を超えて,独立国家としての主権が問われるほかない(187-188頁)。 --筆者は,本ホームページ各頁のなかでしばしば,日本国の「アメリカへの属国性」を指摘してきた。上述のようにこの国の実態においては,防衛庁=「軍部」の「中枢機関を意味する重要組織」の首根っこがアメリカに抑えられ掌握されているのである。筆者のその主張を裏付ける一例が,そこに,みごとにしめされている。 防衛庁「情報本部」の運用実態は,日本の軍隊組織:自衛隊としての本質的な内情の一端〔没主体性〕をのぞかせており,さらには,自国を守るのだというこの国の軍部=防衛庁の,現実面における赤裸々な姿でもある。 2) アメリカは,最近注目の「エシュロン」といわれる「世界的に広がる巨大な盗聴システム」をもっている。このエシュロンの基本機能は,「国家を挙げて産業スパイをする」システムである。しかも,アメリカを中心にアングロサクソン系の国々だけが専用するそれである。 日本には青森県の三沢基地にもエシュロン関連施設がある。こうした動きがすすめば,自衛隊からはアメリカ軍はよくみえないが,アメリカ軍からは自衛隊はまるみえという,マジックミラーをとおしたような関係になる(188-189頁)。 --イラク攻撃をまぢかに控えたこのごろ〔この段落記述は,2002年12月下旬時点の話である〕,日本は海上自衛隊のイージス艦を1隻,インド洋‐アラビア海‐ペルシャ湾に派遣した(12月16日出港)。このさい,「アメリカ海軍のイージス艦」と「日本の海上自衛隊のイージス艦」との運用上の関係は,前段にいわれている「マジックミラーをとおしたような関係」である点に,あらためて注目しなければならない。 「データ→インフォメーション→インテリジェンス」,日本語的にいえば「記録→資料→情報(有力情報)」という情報濾過の質的段階において,日本の自衛隊〔イージス艦という護衛艦〕は,前2段階までしか,作戦行動上関与させてもらえないのである(この点はさらに後述する)。 防衛庁,日本の海上自衛隊は「最新鋭のもっとも優れた戦闘性を有する軍艦:イージス艦」4隻を保有する。だが,この軍艦においてもっとも肝心な《イージス装置一式》に関する軍事的機能の性能は,そのとおりに発揮できないかたちに封印されたまま,運用させられている。この事実をみても,日本の「アメリカへの〔軍事面での〕属国性」は明瞭である。 3) アメリカ軍の日本駐留について中曽根元首相は,「アメリカに金をだしてやり,軍隊を駐留させてやり,うまく番犬として日本がつかう」と述べたことがあるが,これは実態からはほど遠い。円高を理由にはじまった「思いやり予算」だが,その後,アメリカ経済が空前の好況をつづけ,日本が長い不況におちいっても,アメリカが「思いやり」をしめしてくれたことはない(189頁)。 --在日米軍を「番犬」と表現したその日本の政治家は,自国がまるでその「番犬の引き綱(リード)」をにぎっているつもりである。もっとも,実際の日本は「番犬:猛犬のリードをくわえた子猫」のような存在なのである。滑稽の一言につきる。 4) 1976年9月6日,ソ連のミグ25戦闘機‐乗員がアメリカへの亡命を求めて函館空港に強行着陸した事件がおきた。この事件の処理に当たった「日本政府の優柔不断」と,これに対する「陸上自衛隊」の連繋‐対応,いいかえれば,「ソ連軍来襲の危険性」を警告したアメリカ軍情報に対して陸上自衛隊がしめした「独断専行的判断」は,多くの教訓をもたらしたはずである。そのさいの状況は,つぎの文章に表現されている。 「陸上自衛隊第11師団第28連隊基幹の部隊はただちに臨戦体勢に入るも,政府首脳は防衛出動命令の発令を躊躇。止むなく制服組は独断で防衛出動を決意し,行動を開始し〔ようとし〕た……」(http://www.gakken.co.jp/m-bunko/_200110/cul_76.html 参照)。 この文章の示唆する深刻な問題点の議論は,ひとまずさておく。ともかく,ミグ戦闘機の機体はアメリカ軍が解体したあと元にもどし,やがてソ連に返還された。解体の現場には自衛隊員は1人も入れなかったという。 日本国の領空を侵犯して強行着陸し,その機体は日本国政府が管理していたのに,なぜ,そのようなことが許されるのか。日本国はそのとき,国家主権をうしなっていたというべきである。ただ,このミグ事件を契機として自衛隊には中央指揮所が設置された(182頁)。 --日本の政治家のなかには異常に力んで,この国を「普通」の〔戦争ができる〕国家にするのだと提唱する者もいる。だが,民間航空機の利用する空港において,ソ連空軍機ミグ25戦闘機‐乗員の亡命事件が発生したとき,アメリカ軍がその処理〔情報収集〕過程に排他的に介入し,しかもそのミグ機を独占的に調査して機体の情報を入手するという「きわめて異様で専横な関与」があった。これでは,GHQが1945年8月から1952年4月まで,日本を占領統治下におき支配していた時代と同じである。 5) 参考までにいえば,日本国全体の空域のうち相当の領域は,アメリカ軍によって軍事用に占有支配され,自由に利用されている。アメリカ軍機はこれまで,重大な航空事故をおこしている。アメリカ軍機は,ヨーロッパでも同じように,重大な航空事故をおこしている。 ところでわれわれは,オキナワの那覇空港へ着陸する民間航空機が,どのような態勢で入るかしっているか。さらに,羽田空港を離陸し,西日本方面に向かう民間航空機が,どのような航路を飛ぶかしっているか。
だが,いずれにせよ,ミグ戦闘機・乗員の亡命事件の発生があらためて浮き彫りにした「日米間における主従的関係」の明確化を契機に,日本に対する「みのがすわけにいかない内政干渉」だとか反撥したり,日本を実質的に「属国あつかいするにひとしい横暴な行為」だとかその非を指摘したりして,アメリカに抗議して,問題化するような「まともな保守‐右翼‐国粋的な愛国の識者・人士」はいなかった。 それは,教科書問題や靖国神社参拝問題に対して生じた「中国や韓国などの批判や非難に対して,前記「同類の人々」などからかえされた反応や反撥にくらべてみると,日米同盟関係に関する「〈彼ら〉の感応・態度」は,驚くほどあるいは異常といえるほどおとなしい。それこそ,音無しの構えである。つまり,借りてきた〈子猫〉が眠っているみたいな姿=反応なのであった。 かつては,某々国を「鬼畜米英」などと口汚くかつ勇ましくののしってきた〈同類の彼ら〉であった。だがこんどは,アメリカさんにはまったく頭が上がらないのか? そうではなく実のところ,アメリカに「首根っこを抑えられている」から,頭を上げられないだけのことなのである。
④-e)「普通の国(?)になりたいが,なれないこの国」 1) 1993年5月29日,北朝鮮がミサイルの発射実験をおこなった。「ノドン1号」と指称されたそのミサイルは,射程距離約千キロとみられており,核兵器を搭載可能となれば日本を核攻撃できる。 1994年,北朝鮮の核兵器開発をめぐる疑惑がさらに深刻化し,アメリカとの緊張が高まった。アメリカは,かねて準備していた作戦を発動する寸前までいった。つまりあと一歩で第2次朝鮮戦争というところまでいった。湾岸戦争とそれにつづくこの朝鮮半島危機が,自衛隊と日米安保体制に新たな存在意義をもたらした(167頁)。 1995年11月,日本は「わが国の防衛力の在り方についての指針をしめす」「新しい防衛計画の大綱」を発表した。陸上自衛隊の〔未充足だった〕定員を,あえて2万人減らして16万人とし,量的にはコンパクト化しつつも,「わが国に対する侵略の未然防止のみならず,わが国周辺地域の平和と安定の維持に貢献している」日米安保を重視していた。その役割において,ソ連の脅威から日本を守ってもらう安保条約に顕著な変更を認めたのである(167-168頁)。 2) 1995年2月,アメリカは,地域戦略として「東アジア戦略報告」をしめした。東アジアには,ヨーロッパの北大西洋条約機構(NATO)に当たる機構がなく,アメリカは日本,韓国,フィリピン,タイなどと個別に安全保障条約をむすんでいる。ともかく,いかなる国にもこの地域の主導権をとらせないようにすることがアメリカの戦略の基本である。したがって,日本に対するアジア諸国の不信感は,アメリカにとっては好都合なのである(168頁)。 先述 1) の後段で触れた日本の「新しい防衛計画の大綱」は,アメリカのアジア太平洋戦略のために日米安保があり,自衛隊はそのための部隊だというメッセージにみえてくる(169頁)。 3) 1994年の朝鮮半島の危機のさい,アメリカは日本に軍事協力を求めたが,日本はこれに応える態勢ができていないことが明らかになり,それがみなおしのきっかけとなった。1年半におよぶ検討の結果,1997年9月に新しい指針〔新ガイドライン〕が発表された。この指針には自衛隊だけでなく,民間もふくめて,アメリカ軍に協力するためのさまざまなことが盛りこまれている(170頁)。 新ガイドラインのなかでとくに重要なのは,ロジスティック〔logistics :兵站〕を「後方」と訳した点である。日本政府は,補給・輸送などの任務「兵站」を「後方支援」と称しているが,これはれっきとした軍事活動である。外務省訳は「兵站:logistics 」意味を正しく伝えていない(171頁)。 --筆者も他所で論じたが,日本が過去の戦争で完敗した基本の原因は,その「兵站:logistics」を頭から軽視したところにあった。だから,その反省もあって,またその失敗の原因にかかわる用語をつかいたくなかったのか,兵站を後方支援と意訳したのである。 その訳しかたは,かつて日本帝国軍隊が「敗退」を「転進」,あるいは敗戦後の日本政府が「占領軍」を「駐留軍」といいかえたやりかたと同類であって,現実に生起している事態の意味合いを,姑息なことば:意味のすり替え=〈飛躍した意訳〉をもってそらそうとする「概念上の狡猾な操作」である。 4) さて,新ガイドラインは文字どおり指針にすぎない。これを実施にうつすのに必要な国内法が1999年5月に成立した「周辺事態法」である。この法律は正確には「周辺事態に際してわが国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律」という。この日本語的には破綻した文言「周辺事態」は,「周辺」といいながら「地理」的概念ではないと,珍妙な説明をすることになった。 「周辺事態法」とは要するに,日本の「周辺」地域において「そのまま放置すればわが国に対する直接の武力攻撃にいたる恐れのある事態」がおきたばあい,これに参戦したアメリカに判断の主導権をにぎられるかたちで日本は後方支援し,第2の参戦国として敵対国になることを強制される法律なのである(172頁)。 5) 1994年5月テポドン事件に対した日本政府の対応のお粗末さは,目をおおうばかりだった。パニック状態になり,機能不全をおこしていた。日本列島の上空を横切ったという情報は,外務省にはアメリカから伝えられたが,首相にはすぐには届かず,防衛庁がえた情報は,首相よりさきに防衛庁と関係の深い議員に伝えられた。 各省庁の連絡‐調整役になるはずの内閣安全保障‐危機管理室は置き去りにされ,日本政府として情報をどこで統合し分析するかが不明確になった。安全保障会議〔国防会議を改組〕,合同情報会議など,関連する会議はいずれも開かれなかった。人も情報もてんでんばらばらにまさに右往左往した。 1993年のノドン問題のとき自衛隊は,なにも把握できなかったが,その日〔1994年5月29日のテポドン事件の〕日本海では,海上自衛隊のイージス艦「みょうこう」が大手柄を挙げた。最新の防空システムを備えた同艦は,その高性能のレーダーでテポドンの航跡をとらえていた(173頁)。 --なお,前段の記述で該当のイージス艦を「みょうこう」とするには疑問がある。というのは,同艦は,1996年に竣工,1997年に配備されているからである。多分,1993年に日本の海上自衛隊にはじめて配備されたイージス艦「こんごう」のまちがいではないかと思われる。 6) もっとも,北朝鮮がミサイルの発射準備をしているという情報は,半月まえにアメリカから伝えられており,アメリカは,横須賀を母港とするイージス駆逐艦「カーチスウィルバー」を日本海に派遣していた。 海上自衛隊のイージス艦「みょうこう」(?である点は同上に指摘,以下も同じ)とアメリカ海軍のイージス艦「カーチスウィルバー」は,情報システムでつながっているが,軍事衛星などから「カーチスウィルバー」に入ってくる最新情報は「みょうこう」には遮断されており,「カーチスウィルバー」の位置のほかは,なにもわからなかった。くわえて,アメリカがどこまで探知したかも,日本がわには不明である(174頁)。 ところで,「みょうこう」がとらえたデータは,アメリカに丸投げされたといわれている。それも,弾道ミサイルの性能を方位‐距離‐高度の3次元で総合的に解析することが日本がわではできないからである。それをするだけの力が日本にはないことが露呈した。アメリカは,日本が独自に国産の軍事衛星を打ち上げる計画には,いい顔をしなかった。日米関係の微妙なところである(175頁)。 --日本は,アメリカから高価なイージス装置を購入‐調達し,4隻のイージス艦を建造した。しかしながら,この艦艇の心臓部である「イージス装置一式」は,兵備として軍事的にはまともに運用できないシステム段階に留めおかれて〔封印されて〕いる。いったい,なんのために日本は「アメリカ」からイージス艦を買ったのか。 海上自衛隊は,肝心要(カンジンカナメ)の主装備の兵器をまともに動かせないイージス艦艦,つまり,まったくもって馬鹿馬鹿しくも値の張る軍艦を保有させられている。日本政府‐防衛庁は,われわれの支払った血税を充当して,そういう愚かで高値の「買い物」をしてきた。 自動車でいえば,トップギアーを封印されていて,その最高速度の出せない高級スポーツカーを買わされたみたいなものである。スペインもイージス艦を1隻保有しているが,同様な運用実態なのかどうかわからない。 しかし,それにしてもずいぶん,他国=日本〔政府‐防衛庁〕を小馬鹿にした話である。筆者は,そんな法外な買い物をさせられるなら,アメリカはイージス艦を60隻も保有しているのだから,また最近のアメリカは景気も〔日本に比較して〕よくなっているのだから,日本の保有するイージス艦4隻を買いもどさせ,アメリカ海軍が直接運用させる「本来のかたち」にすればよい,そうであればきっとその本来の性能を発揮できる,と記述したことがある。 要は,アメリカは,日本も広い意味では再び「仮想敵国」になる選択肢を捨てていない。かつては,アメリカにとって最大の強敵になったこともある日本のことである。「オレンジ計画」というものがあった。いつかまたこの国は,敵となって戦う相手になるかもしれない。アメリカは,そのくらいのことは最低限,常時想定している国である。
7) 日米安保条約は「東アジアに位置した日本国に対する〈ビンのふた〉」の役割もふくんでいる。とはいえ,「こちら」〔日本をふくむアジアのがわすべての国々〕は,アメリカという国の歴史〔=軍事外交史〕をよく回顧し,そうしたアメリカの軍事戦略思考方式をしかと認識しておかねばならない。 だからこそアメリカは,日本保有のイージス艦については心臓部の兵備を基本的に機能させないように軍装技術的な制約をかぶせ,ブラックボックス化しておきその核心を教えず,利用もさせていないのである。そうした軍事的な米日〈主従の関係〉を,アメリカは当たりまえのこととして振るまってきている。この軍事的問題において,アメリカに対する屈辱的な関係を許してきた日本はウブに過ぎるというほかない。 一言でわかりやすくいえば,日本は甘チャンの国であり,アメリカは大人〔それも相当に乱暴で身勝手な〕の国である。 さらにいえば,日本はアメリカという親分の子分であり,舎弟:「パシリ(使い走り)」の国である。アメリカ追随路線の兄弟国イギリスが「アメリカのプードル犬」といわれるなら,アメリカ依存路線の舎弟国日本は「アメリカの忠犬ハチ公」といわれてよい。 親分のアメリカいわく,オレ=親分と同じ性能を装備,発揮できる軍艦など,本当は,子分のオマエ=日本は保有してはいけない,生意気なのだ。オレ=アメリカがこのまえ,金の手持ちがなくなってこまったとき,イージス艦を4隻,子分のオマエ=日本に買わせて金を都合した。だが,この高性能の軍艦を保有していても,その本来の武装を完全につかうことはまかりならぬ,いいか,そういうことにしておけ,と指示してあったのである。 過去の日米両国の経済関係において,たまたま日本が圧倒的に優勢だったとき,アメリカが苦しまぎれになって日本に買わせた4隻のイージス艦:「イージス装置」であった。しかし,日本の海上自衛隊護衛艦:イージス艦〔こんごう,きりしま,みょうこう,はるな〕の4杯は,高性能の「イージス装置一式」を装備するにもかかわらず,実戦における機能発揮においては,その筋のお達しによって決定的な制限をうけている。 8) あるホームページ〔引用元を表示するほどのそれではない〕をみたとき,韓国〔北朝鮮ではない〕がイージス艦をほしがっているが,アメリカが売ろうとしなかった事実をとらえて,「キチガイ(→韓国)に刃物(イージス艦)」と書いているのを,みた〔読んだ〕ことがある。 日本のばあいは,イージス艦という高価なオモチャを,アメリカ〔大人?〕の都合のいいように〔その好みで〕買わされた〔押し売りされた〕あげく,しかも,それで十分遊ばせてもらえない子どものような状態,→まともに運用できない軍事的な日米関係におかれている。これが日本の防衛庁:海上自衛隊(!)の実相なのである。 したがってみかたによっては,イージス艦を「もたざる韓国」と「もてる日本」は大同小異の感すらある。 アメリカは,韓国にイージス艦を保有させたら,対北朝鮮に対して「実戦的に運用する」ことは目にみえており,現在日本に保有させているような「中途半端な運用のしかた」では済まないことを承知している。 アメリカは基本的に,自国による世界支配,具体的には東アジアにおけるアメリカの軍事戦略に支障が出かねないような〈イージス艦の軍事的な利用〉を,他国の軍隊には絶対望んでいない。 むろん,イージス艦の運用に関する核心の技術やノウハウも教えたくない。そう考えているはずである。だから,韓国にはイージス艦をもたせたくなく,売らなかった。 9) 「死の商人」である軍需産業は,売れば儲かるのだから,アメリカ政府が認める認めないにかかわらず,韓国にもイージス艦を買ってほしいことにかわりなかったはずである。だが,韓国へのイージス艦〈販売〉は,アメリカ政府の方針・判断によってだめ,ということだった。 それにくらべて,この国=日本なら安心〔なんで?!〕であり,大丈夫〔なにが!?〕である。つまり,この国の海軍にイージス艦を保有させても多分無害有益だ,だから買わせたのだという理屈だったと推理する。 しかも,今回「イラク攻撃」にさいしては,アメリカ軍の支援のため《日本のイージス艦》を後方に控えさせる配陣となり,自国の軍艦のようにつかいまわせる〔支援させる〕のだから,アメリカ政府にとってこれはもう,願ったり適ったりである。 日本がイージス艦の派遣を決定したとき,アメリカ政府の高官の「うれしさを押し殺しながらの〈コメント〉」が印象的であった。きっと,こういう気持だったはずである。 「日本にイージス艦を売った甲斐があった!」 10) 防衛庁はこれまで,自衛隊をできるだけちいさくみせようとしてきた。そうした習慣はまさに「習い,性となる」のことばどおり,防衛庁の体質として染みついてきた。 防衛庁が2000年暮れに発表した「中期防衛力整備計画」(2001年度からの5ヶ年計画)」に新しいヘリコプター搭載護衛艦の計画がふくまれている。基準排水量1万3千5百トンというおおきなもので,これまでなんども出ては消えたヘリ空母ではないかと話題を呼んだ。 そういう護衛艦を導入すれば,艦隊の性格や運用にも変化が出てくるだろう。つまり,古くなった装備の更新という名目を利用して,防衛計画を事実上変更しようとしているのではないか,と考えるのが普通の感覚である。 さらにいえば,護衛艦のおおきさを表わすトン数の表示にも注文を付けたい。世界の標準は満載排水量による表示だが,防衛庁はすこしでもちいさくみせようと,基準排水量で表わしている。 テポドンをとらえたイージス艦は,7千数百トンと表示しているが,実際は満載排水量では9千トン近いはずである。ヘリ空母かと疑われている護衛艦は,1万7千トン近くになるはずである(ここ 10) では再び,植村,前掲書,178頁,179-180頁)。
④-f)「情報公開の促進を」 1) 「普通の国」の軍隊になりたい日本の自衛隊=防衛庁は,叙上のような姑息な情報操作を繰りかえしてきた。しかし,それならば防衛庁には,防衛政策に関する情報の公開を急がさなければならない。 40年もまえの防衛計画でさえも,現在の自衛隊の能力を推測できる可能性があるとの理由で,多くの不開示部分がある。採用されず廃案となった計画案でさえそうである。どう考えても,合理的な理由とはいえない。単なる秘密主義にすぎない。 さきに言及した「ソ連ミグ25戦闘機‐乗員亡命事件」のさい,首相からの防衛出動命令が出そうにもないということで,陸上自衛隊は「独断専行」で出動しようとした。しかも,用意周到なのか,自衛隊のトップからは命令文書がなく,口頭での指示だけだった。「使い慣れた〈独断専行〉という自衛隊用語」なる表現もあるくらいである。まるで旧日本軍のようである(180-181頁)。 「ソ連ミグ25戦闘機‐乗員亡命事件」の関係書類はすべて焼却したという。その焼却は,自衛隊が自発的におこなったのではなく,防衛庁の内局,つまり官僚の指示によるものらしい。都合の悪いものを焼き捨てるのはまさに旧日本軍のやりかたである。関係書類をすべて焼却したことが事実であれば,国民に対する背信行為といわざるをえない(182頁)。 2) ドイツ第3帝国を造成したアドルフ・ヒトラーは,政府および軍に対する命令を文書でのこさない形式で命令を下してきた。そのためたとえば,ユダヤ人虐殺の命令がいつ,どのように指示され実行にいたったか,学問的にも非常に究明の困難な論点になっている。 自衛隊の幹部連中は,いつまでも・どこまでも「文民統制(civilian
control)」をうけたくない意向をもつようである。民主主義国における軍隊・軍人の管理掌握をすべき政府‐行政当局は,日本のばあい安保条約体制下に長い間おかれてきたせいか,いかにも貧弱であって,その意識水準も低いのである。
⑤-a) インド洋へ派遣された艦隊乗員の規律弛緩 1) 現在(2002年12月下旬),イラク攻撃を控えてインド洋‐アラビア海‐ペルシャ湾に遊弋中のアメリカ海軍艦艇を「後方」支援するために派遣されている海上自衛艦は,護衛艦3隻と補給艦2隻である。 2001年12月16日,日本の軍港から出動したイージス艦「きりしま」は,そのうちの1隻の護衛艦と交替するかたちで「現地」に派遣されたのである。 イージス艦派遣にさいして強調されたところの〈戦闘〉性能に関する「乗員にとって〈高い居住性〉」というような説明は,本筋の説明とはいえず,苦しまぎれのものである。ともかく,なにやかや海上自衛隊の内部にもさざ波を立て,疑問を載せての船出となった。 だが,現地に派遣されている海上自衛隊の艦艇でも本当に苦しいのは,補給艦である。海上自衛隊が現地に派遣できる補給艦は3隻しかなく,そのうち2隻が交替で出動している。「なぜ,イージス艦だけがそんなにマスコミに注目されるのか」(『朝日新聞』2002年12月16日朝刊)。 2) ところで,ドイツは1991年の湾岸戦争で55億ドルを負担したが〔既述のとおり日本は130億ドルも支出した〕,今回においてはアメリカのイラク攻撃予定に苦言を呈し,この軍事的にはいっさい協力しない態度を明確にしている。第2次大戦で敗戦した国同士といえドイツは,イラク攻撃予定に関して,日本と完全に異なった態度をアメリカに明示している。 日本の国民‐市民‐住民のなかからは,「アメリカがイラクを先制攻撃するのはまちがっている」。「日本は両国のあいだで仲介の労を惜しまず,あらゆる戦争行為をやめさせるようにせよ」という声も挙がっている。しかし,日本政府はイージス艦をインド洋に出航させた。これでは仲介どころか,イラク攻撃をはじまるまえから日本が後押ししているようなものではないか(『朝日新聞』2002年12月17日朝刊「声」)。 --小泉首相,くわえて現防衛庁長官の石破 茂は,イージス艦派遣をもって,湾岸戦争のときに軍費の大金を負担したにもかかわらず日本がほとんど評価されなかった〈うしろめたい過去?〉を,払拭したい方針であるかのようにも映る。けれども,今回においてイラク攻撃を予定をするアメリカの軍事的な狙いに対しては,ドイツの毅然とした国家的姿勢を参考にすればわかるように,日本の対応は「周回遅れのランナー」のようなものであって,わざわざ愚かしい国家的判断を犯したというほかない。 3) 「最初にイラク攻撃ありき」がアメリカの論調である。アメリカ政府のイラク攻撃の理由は,公式にはイラクが大量破壊兵器を所有していることだけである。だから,フセインがいかに凶暴で非人道的か,その人物に大量破壊兵器をもたせるのがいかに危険かが強調される。 だが,イラクがクルド民族に対して毒ガスをつかったイラン‐イラク戦争たけなわのころ,アメリカは「イスラム革命のイラン」を懲らしめるために,イラクに経済援助をしていたではないか。イラク政権の非人道性は,当時はどうでもよかったのか。 ジョージ・オーウェルの『1984年』では,主人公の住むオセアニアがイースタシアと戦争状態になると,すぐさま,それまでイースタシアと同盟国であった歴史は“変造”される。党のスローガンは「過去を支配する者は未来まで支配する」というものであった。 9・11で数千人のアメリカ市民などが死んだ。いまその数十倍,数百倍の民間人が死ぬかもしれない戦争がはじまろうとしている。ヨーロッパでも日本でも,こんどの戦争には大多数が反対している(『朝日新聞』2002年12月21日朝刊,芝生瑞和〔国際ジャーナリスト〕「メディア,米の視点にまどわされるな」)。 --イージス艦の派遣は,そうした「アメリカという21世紀帝国」に無条件で手を貸す国家的無謀の行為であり,平和憲法を戴いた日本国としては「天に唾する」軍事行動である。 4) 「戦争をおこそうとするのは人の心です。戦争をおこさせないとするのも人の心です。戦争をおこさせない心の輪を拡げて,むすんでいきましょう」というのは,日本敗戦の年,8月5日に米軍機の機銃掃射によって父親を殺された高木敏子である〔『ガラスのうさぎ』1977年初版の著者〕(『朝日新聞』2002年12月21日朝刊,高木敏子「開戦月,「ガラスのうさぎ」25年の思い」)。 --さきに「戦争をはじめるのは年寄りだが,戦争で未来を奪われるのは若い人である」という文句が出ていた。小泉首相,石破防衛庁長官はもちろん「年寄り」である。イージス艦「きりしま」が12月16日午前9時まえに海上自衛隊横須賀基地を出港したとき,とくに夫‐父たちに別れを告げる妻や子どものなかには「泣いている」者たちもいた。 なぜ,彼ら‐彼女らは泣いたのか? 長期間の別離がただ悲しいだけではないだろう。あらためて問うまでもないことである。 イラク攻撃をする予定のアメリカ軍〔海軍〕の「後方支援」だからといって,つまり「兵站」を支援する軍艦を派遣するだけだといっても,戦争事態が発生する海域に軍艦を送ったのである。軍隊に勤務する人間は,戦争状態の戦闘地域に派遣されたばあい,けっして「死」の概念と無縁ではありえず直面するのである。ましてや,彼らの家族‐肉親の立場にとっては,いくら職業柄当然というべき危険海域への派遣であるとはいっても,「戦死」そのものを歓迎する者などいるわけがない。 --もう一度いおう。戦争‐戦場で死ぬのは「若い人」であり,戦争をはじめその戦場をつくりだすのは「年寄り」である。 --もう一度いおう。ドイツはなぜ,今回のイラク攻撃に協力も参加もしないと決定したのか。この事実は,日本政府の姿勢とよく比較検討すべき価値がある。ひとつはっきりしているのは,ドイツはアメリカの子分でも舎弟でもないことである。この点でもドイツは,日本に対して明確なちがいをしめしえている。 2003年2月当たりにアメリカが敢行〔蛮行〕しようとするイラク攻撃については,そもそも,その根源に控える「世界政治経済的な利害関係」を観察しておく必要がある。それをうまく表現する「図解と戯画」が新聞に掲載された。以下に紹介する。アメリカに追従する日本の立場も示唆されている。理解するカギは石油である。 コラムニストのT・フリードマンは,アメリカ軍による「イラク攻撃が石油と関係ないというのはお笑いだ。……石油をもちださなければ,ブッシュ政権のやりかたをうまく説明できない」と,アメリカの新聞に書いている(『朝日新聞』2003年1月8日朝刊「天声人語」)。 5) だから,アメリカの国会議員は堂々と,こういっている。「われわれ〔=アメリカ〕はイラクの石油ビジネスをコントロールする。事業にくわわりたければ,最初から参加しなければならない(ルーガーアメリカ上院外交委員長)」(『日本経済新聞』2003年2月3日「政治家-かくも長き不在 2,傍観,そして不戦敗」)。
5) 『朝日新聞』2002年12月21日朝刊は,つぎのような記事を報じていた。
--なにせ,インド洋は暑い気候の海域:地帯である。ただし,冷房がよく効く快適な軍艦である「イージス艦の乗員」〔もっとも艦内で任務を遂行するばあい〕にかぎっては,こういう事態:規律違反はおきないものと思いたい。 現在,インド洋に派遣されている海上自衛隊の「護衛艦や補給艦の乗員〔隊員〕たち」は,アメリカ軍のイラク攻撃がはじまらないかぎり,軍事的行動としては緊張感を維持しにくい環境下で,同盟国アメリカの艦艇に対する「補給という任務」に従事している。それゆえ,どうしても「単調な軍事行動」になりがちである。 ということで,インド洋に派遣され活動中である海上自衛艦の乗員諸君においては,味気ない単調な艦上生活が数カ月もつづいてきたのである。なんといっても,あのくそ暑い海上生活のなかでときおり,アメリカの軍艦に補給するだけの「単調な毎日の任務」である。仕事が終わったあと「みんなで一杯傾けてアルコールをたしなみ,暑気払いをするくらい,いいじゃないか」という気分にもなる。とてもよく「理解はできる感じ」ではある。 ちなみに,インド洋派遣の軍艦に乗り組んでいる乗員:自衛隊員の現地「危機手当」は1日当たり1400円と聞いている。自分のポケットマネーで飲んでいるのだろうか,それとも,官費給付のアルコール飲料なのであろうか,たしかめねばなるまい。もっとも,前者でも規律違反であることにちがいはなく,後者ならば,日本の国民‐市民‐住民の血税をなんと心得るのだ,ぶったるんでいると叱っておかねばならない。 6) 『毎日新聞』2003年6月19日は,つぎのような記事を伝えていた。
⑤-b) 日本のやるべきこと 1) 日本の海上自衛隊,→日本の防衛庁,→日本政府,その代表者小泉純一郎総理大臣は,アメリカという「釈迦(?)の手のひらを飛び舞う孫悟空」にも似た姿をさらしている。しかし,小泉純一郎を孫悟空に譬えるのは,すこしカッコよすぎるかのように思える。 日本の軍隊=自衛隊は,アメリカのいいなり,その手下であるかのごときに動きまわっている。インド洋上の海上自衛隊「補給艦隊」5隻は,アメリカの軍艦に燃料を補給することを主任務とする。このたび派遣されたイージス艦「きりしま」は,そのうち1隻の護衛艦と交代するために派遣された「護衛艦」なのである。
日本政府関係者の理屈によれば,インド洋にイージス艦が派遣されても,その任務である「補給艦」護衛は,ほかの護衛艦〔は全部で3隻〕となんらかわらず同じだというのである。それでも,海上自衛隊の補給艦がかりに攻撃されるような事態が生じたら,2001年9月に成立した〔本当はアメリカ軍支援法である〕「テロ対策特別措置法」にのっとり,イージス艦の優秀な諸装備がただちに火を噴き反撃するぞ,ということらしいのである。 だが,イージス艦はその次元程度での性能発揮を期待されるにとどまる軍艦とはいえない。軍人‐軍隊‐軍艦のことである。できるならその備えている性能‐武装を最大限発揮したいと思うのが,当然の気持である。そういう期待をもたないといったらウソになる。しかももちろん,完全な勝ちいくさで,戦死者も出さない,という気持……。
はたして,今回イラク攻撃を予定する「世界最強のアメリカ軍」に対して「後方支援」〔「兵站担当」,わかりやすくいえば〈褌担ぎ〉〕に当たる「海上自衛隊のイージス艦」が武力攻撃をうけるような事態は,おこりうるのだろうか? イラク軍にそれほど実力があるかどうか,である。たとえなにかあっても,すべてアメリカさんにお任せ,ということになるのではないか? 安全だ,安心せよ……,海上自衛隊とその隊員諸君! そして,ご家族のみなさん。 以下の記事は,2003年7月3日になって報道されたものである。
2) いま,この日本にとっては,はるか遠洋であるインド洋‐アラビア海‐ペルシャ湾まで海上自衛隊の艦艇を派遣し,作戦展開させることよりも,さらに緊要な政治的課題が身近に控えているはずである。 北朝鮮との外交関係問題に目を向けると,日本の小泉首相が北朝鮮を日帰りで訪問した2002年9月17日「日朝平壌宣言」が発表されている。つぎに,その冒頭の文言を引用する。
この「朝日平壌宣言」をもたらした両国首脳会談の成果として,過去,北朝鮮に拉致され〔生存し〕ていた日本人被害者の一部(?)がようやく日本に帰国できたのである。 北朝鮮に拉致された日本人が2002年10月15日日本に帰国してから,率直にいって,彼らに関してはスターあつかいの日々がつづいており,すでに2カ月以上も時が経過してきた。 しかし,北朝鮮にまだ残っていると思われる〔死んだと報告されているが〕日本人拉致被害者の問題,および今回帰国できた日本人の〔まだ北朝鮮にとどまっている〕家族の帰還問題などは,なお未解決である。 注意すべき事実は,日朝の折衝担当者間において「当初の合意」であったはずの〈とりきめ〉,つまり,日本に「一時帰国した日本人」の北朝鮮「再帰国」が,その後,帰国後に拉致被害者家族たちの強い意向を反映させた日本政府関係者の支持によって,反故にされたことである。 日本政府関係者の発言を追跡していけば,その「合意〔一時帰国〕じたいの存在」についてはコトバを濁しており,明らかにごまかしている様子が読みとれる。 次掲の新聞記事は,北朝鮮に拉致された日本人が2002年10月15日,日本に帰国,到着したときの報道である。明らかに「一時帰国」の見出しがつけられていた。
だが,「その合意〔一時帰国〕」に対する「日本がわの態度変更」のために〔北朝鮮がわにいわせると「約束違反」〕,その後,日朝間の外交交渉においてまったく進捗がみられなくなり,事態は膠着したままである。 「a) 最長2週間滞在予定」という〈日程〉と「b) 今後の日程は本人と家族の意向で決まる」という〈予定〉とのあいだで,日朝当事者双方の解釈に幅:差が生まれたのである。 北朝鮮がわのいうとおり,a) の「一時帰国」の滞在予定期間は過ぎたのだから,たしかに「約束違反」である。しかし,日本がわが,b) の「本人と家族の意向を尊重し」その滞在予定期間を延長したことには,十分に一理ある。 しかし,滞在「予定:2週間」をのちに否定,消滅させ反故にした点では,やはり「約束違反」となる。b) の「本人と家族の意向」には,北朝鮮にまだ残されている配偶者や血縁の家族たちが「日本に帰国〔あるいは移動〕できなくなる可能性」など,当初より念頭になかったのだろうか。もしも最終的に「そういう結末」になったら,これは「本人と家族」たちの責任になる。必ずしも「悪者」=北朝鮮だけのせいにはできない。 3) イラクに対する攻撃をアメリカ軍がいずれおこなうかもしれないなかで,2002年も師走〈最終の週〉を迎えた。日本がわにいわせれば,北朝鮮による日本人拉致問題「解決」が完全になされていない膠着した段階にあって,こんどは北朝鮮が新たな動きをした。 --10月16日,アメリカに問いつめられた北朝鮮が核開発を認めた。これに対してその後,日米韓3カ国は,米朝枠組合意にもとづく重油供給を中断することにした。これに反撥した北朝鮮は,凍結していた寧辺(ヨンビョン)核施設の稼働と建設を再開するとして,国際原子力機関(IAEA)に監視カメラと施設の封印の撤去をもとめた(以下しばらくは,『朝日新聞』2002年12月19日朝刊,文 正仁〔韓国延世大学政治外交学科教授〕「朝鮮半島危機,日本は今こそ仲介役に」参照)。 北朝鮮が一方的な行動に走れば,アメリカ・ブッシュ政権も軍事的措置をふくむ行動に出る可能性もある。1994年の危機よりも深刻な事態になるかもしれない。深刻なエネルギー・食糧不足に悩んでいる北朝鮮は,韓国の反米ムードやイラク情勢から,アメリカも当面は軍事行動に踏みきれないとみて〈瀬戸際外交〉をつづける公算がおおきい。 2002年9月17日の小泉首相の訪朝時に発表された日朝平壌宣言は,「双方は,朝鮮半島の核問題の包括的な解決のため,関連するすべての国際的合意を遵守することを確認した」と明記しており,日本に外交の機会を与えている。北朝鮮が小泉首相を迎えて拉致問題などで一定の譲歩をしたのは,経済利益だけが狙いではなかった。 つまり,小泉日本首相をとおして,アメリカに核‐ミサイル問題で妥協の意思があるとのシグナルを送る意図が働いていたのである。だからこそ,日本はみずから積極的に働きかけて危機打開を図るべきである。それでは日本になにができるのだろうか。 日本が外交的指導力を発揮するのは容易ではない。なによりも拉致問題と日本国内の国民感情がおおきくのしかかっている。だが,拉致問題はそれだけを正面からぶつけても,前進がなかなかみこめない問題である。むしろ,水面下で静かに対話すべきである。 外交で国民感情は非常に重要である。ただ,平和と安全保障という一国の大局的な利益が,国民感情の虜(とりこ)になってはならない。核問題における水面下の静かな外交とは,両立しうる。それは,日本の国益と,拉致被害者の人道的要請とを同時に満たす最善の策である。 アメリカはどう出るだろうか。しかしながら,いまこそ日本が,小泉首相の平壌訪問でしめした外交的指導力と想像力を,もう一度発揮してほしい。核危機の回避をめざす仲介外交は,日本外交の新しい地平を開くだけでなく,今後の北東アジアの平和と安定にも好影響を与えるだろう。 4) 韓国の専門政治学者による以上の「日‐朝‐米」関係に対する提唱に,筆者は賛同しうるものを感じる。ここに重ねて,日本のある主婦(53歳)の主張も紹介する。 「北朝鮮のことばかり報じるよりも,日本のおかしいところもきちんと報じることが大切です。次世代,子,孫たちのために,いま,国の立てなおしを考えるのが私たち世代の役目でしょう」と述べる(『朝日新聞』2002年12月21日朝刊「声」)。 上述のなかで〈北朝鮮のことばかり〉とは,北朝鮮という国じたいに関する「ことがら」だけでなく,「北朝鮮に拉致された日本人被害者たちの日本帰国後におけるスターあつかい」のことも指しているのかもしれない。 とはいっても,一国の政治は「内政と外交からなりたつ」ものであるから,国内問題だけに目を向けていればよいというものではない。ましてや日本は,高度に国際化した世界経済のなかで,各国との交易関係を深くかつ密接におこなうことで立国できている。いまさら,江戸時代の体制‐水準にもどれるわけもない。 しかも,いままでの日本は,経済大国にふさわしい国際政治上の指導力‐交渉力を発揮せず,またその意欲も欠いていた。それゆえ日本は,過去の歴史に鑑みても,アメリカの顔色をいつまでもうかがうような消極的な外交に終始するのではなく,このさい,アジア全域の平和的発展のためにも積極的な政治的立場を構築する「絶好の機会」として,前向きにとらえなおすべきではないか。 5) 日本はいままさしく,東アジア地域において「明治」以来つくりあげてしまった〈負の成果〉を大転換するのにかっこうな「時代の環境と条件」を与えられたのである。これを活かさない手はない。 それとも,いままでと同様に内向きのまま自信をもたず,あるいはアメリカの鼻息ばかりうかがい主体的な関与を避けて,この時期をやりすごすのか。日本はそろそろ,経済的隆盛を経て政治的手腕を備えもったまともな大国=「普通の国」に脱皮する時期ではないか。 そうしたほうが,アメリカの顔色をみながら「イージス艦をインド洋に派遣する」ことより,ずっと高く,日本という国が近隣諸国に評価されること請け合いである。 --そうしたなかで,北朝鮮から帰国した日本人拉致被害者を,再び北朝鮮には絶対かえさないという日本政府関係者がしめした方針の変更‐堅持は,日朝正常化交渉に対する「悪影響の発生」を度外視した点で「狭量の感」を否めない。客観的にいって,その意図いかんはべつとしてまちがいなく,今後における交渉の進展を阻害するものとなった。 北朝鮮の態度も非常に悪い。前述に引用した「日朝平壌宣言」中の文句:「朝鮮半島の核問題の包括的な解決のため,関連するすべての国際的合意を遵守することを確認した」点に,舌の根も乾かないうちに早々と背いている。北朝鮮は「核開発問題」では日本を相手にせずと,いつもの調子でいいきり,交渉のテーブルにアメリカを直接引きだすことに執着している。 それでも,セールスマン(セールスパーソンというべきか)は「断わられた時からセールスははじまる」という名文句を想起すべきである。誰がみても,過去日本の帝国主義侵略‐外交路線とはさまがわりしたとみられるような,日本国の創造的な外交路線を構築してほしいところである。 もちろん,日本とは太平洋をめぐりはさんで存在する超大帝国のアメリカは,けっしていい顔をせず,必らず妨害をしてくるだろう。アメリカは,今回「日朝平壌宣言」後にすぐ口出ししてきているから,そうした点も事前に計算に入れ,予想しておく覚悟が必要である。ともかく,そんなことぐらいでくじけるようでは,国際政治の修羅場で活動することはできない。 ごく「普通の国」になりたいのであればまず,日本国の将来像を具体的に描くための足場づくりに渾身の努力を傾注してほしいと思う。
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戦争に加担したい日本政府当局
2003年1月1日元旦早々の新聞報道は,日本政府によるアメリカ「後方支援」〔間接支援〕という名目によるイラク攻撃参加に関して,つぎの報道を伝えている。
● イラク攻撃:日本政府が米支援新法を検討-燃料補給,物資輸送中心-』● 12月20日召集予定の通常国会への早期の法案提出を念頭においているが,予算審議などを抱えるなかでイラク新法を優先させ,後方支援にまで踏みきることには政府・与党内に慎重論があり,今後の調整が焦点になる。 内閣官房は「日米同盟が強固であることをしめす必要がある」との判断から新法制定の検討作業開始に踏みきった。外務省筋は「年明けから最大の課題になる」としている。 日本政府は,国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)による査察でイラクの国連安保理決議違反が明確になれば,米国などの武力攻撃は,湾岸戦争時の武力行使を容認した安保理決議 678(1990年)や,大量破壊兵器撤去を求めた同決議 687(1991年)を根拠に正当化されると判断した。国連決議の枠組を踏まえた日本の後方支援もできる,とみている。 イラク攻撃には,アフガンの対テロ戦支援を目的とした現行のテロ対策支援法は適用できないため,日本政府は,同法にもとづいてイージス護衛艦をインド洋に派遣するなど「間接支援」を強化してきた。新法に燃料補給や物資輸送など後方支援を盛りこめば,インド洋の海上自衛隊の補給艦が,イラク攻撃に絡んで海上封鎖のため臨検活動をする米軍艦艇に燃料補給することなどが可能となる。 ただ,米国のイラク攻撃開始を2003年1月下旬から2月ごろと想定したばあい,法制化を間に合わせるためには通常国会開会後,早期の審議開始が必要となる。今年度補正予算案や来年度予算案の審議の行方もからむため,日本政府・与党内ではイラク新法の国会提出に慎重な意見も出ている。 日本政府はこのほか,攻撃終了後のイラクで展開する多国籍部隊や米軍に対する後方支援や,周辺国の難民への支援活動などを盛りこんだ復興新法の検討をすすめている。 ◇【解 説】「追加支援」に疑問の声 (鬼木浩文)◇ 日本政府内に米国のイラク攻撃を支援する新法構想が浮上してきたのは,「米国と強固な同盟関係」にある日本の立場をアピールする狙いがある。 イラク問題をめぐっては2002年8月,竹内行夫外務事務次官が来日したアーミテージ米国務副長官に「『国際社会対イラク』の形にしてほしい」と注文を付けていた。米国はその後,ロシアなどを説き伏せ,イラクの大量破壊兵器査察に関する国連安保理決議の採択にもちこんだ。小泉純一郎首相サイドとしては,国際社会によるイラク包囲網が築かれた以上,イラク攻撃に対する支援策が必要と判断したようだ。 また,イラクに日米が結束して強硬な姿勢をとりつづけることは,核施設再稼働などの動きを強める北朝鮮への「強いけん制材料になる」(防衛庁幹部)とのみかたもある。 ただ,米国のイラク攻撃に新たな国連決議は必要なく,過去の国連決議で正当化されるとの日本政府のみかたには異論もある。また,日本はテロ対策支援法による間接支援を強化しており,新たな支援策の必要性についても疑問の声が上がりそうだ。 さらに,新法制定をめざしても,イラク攻撃に間に合うかどうか疑問視するみかたもある。日本政府・外務省は,攻撃に踏みきったばあい,空爆は2,3週間,これにつづく陸上展開を想定すれば1,2カ月はつづくとみているが,攻撃開始が2003年1月下旬から2月ごろとなれば,1月20日召集予定の通常国会冒頭から新法の審議に入る必要がある。しかし,日本政府・与党内には「景気対策で予算案審議を優先せざるをえない」との声が強い。 [毎日新聞1月1日] ( 2003-01-01-03:01
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筆者のくわしいコメントは後日に譲ることにするが,要は,アメリカに対して「お気に召すまま」ともいうべき「非常に聞き分けのいい日本政府・与党〔もちろん公明党もふくむ〕の姿勢」である。日本は貴国〔アメリカ〕に指示されるまま,その意のままに「喜んでイラク攻撃を助力します・協力します」というわけである。
声明は「テロと戦う国際的連合は,独裁者の横暴と弾圧への抵抗に大きな成果を収めている。われわれはその一員だ。新たな脅威に対し,本土の安全を強化する」などと訴えた。 [毎日新聞1月1日] ( 2003-01-01-10:06 ) http://www.mainichi.co.jp/news/flash/kokusai/20030101k0000e030012000c.html
アメリカ・ブッシュ大統領は,もっぱらアメリカの国際政治上の戦略‐方針,そしてアメリカの経済的な意図‐欲望などから,イラク・フセイン大統領という「独裁者の横暴と弾圧への抵抗」を押さえこみ,あるいは「テロとの戦いに勝利する」のだと宣言した。「テロと戦う国際的連合」の「その一員が《アメリカ》なのだ」と説明する。 しかし,以上の説明は詭弁であり,逆立ちした理屈を立てている。9・11同時多発テロで世界貿易センタービル2棟が破壊されるまでのアメリカは,国連負担金を支払いを拒んでいた。だが,このテロ事件がおきるや即座に,その支払いに応じる態度に豹変した。まったく現金なものである。
ブッシュ大統領の国=「われわれ:U.S.A」は,自国内にテロが発生しその被害をうけるまでは,「国際的連合」の「その一員」である基本的義務をはたさず,平然と無視しつづけてきた。そのような自国の身勝手は棚上げしておきながら,こんどはあわてて国連負担金の支払いに応じ,滞納してきた負担金を清算しはじめた。 アメリカは,そういった泥縄式であってもいきなり,ふだんからいかにも「国連の一員」であったかのように強調し〔ウソ=詭弁〕,そのうえで,逆立ちした理屈でもって,「アメリカ」の「テロとの戦いに勝利する」ため「テロと戦う国際的連合」であらねばならないと,国連加盟国すべてに対して声高に要求したのである。 ご都合主義も甚だしいアメリカという「大国の帝国主義」的政治行動,またその「傲岸・横暴な態度の急転ぶり」をみせつけられて,他国のほとんどが鼻白む思いをさせられている。ただしそのなかでも,アメリカさんの「御無理(御無体‐御無法)ごもっとも」と卑屈な態度で応えてきたのは,いったいどこのどの国か,あえて指摘するまでもない。
最近のアメリカは,国連負担金の問題以外をみるに,先進国のリーダーとして率先賛同すべき国際条約の多くを拒否しており,一国〔アメリカ大帝国の〕エゴイズムを思う存分発揮してきている。 ただし,同時多発テロが発生したのち大急ぎで,2001年分までの国連負担金〔滞納金〕を支払うことになった点だけは,その例外的な政治的な行動であったといえる。もっとも,それはというのも,国連を利用して自国の好き勝手な行動に「他国をしたがわせるための〈便法〉」にすぎないのである。
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江畑謙介「情報革命がもたらしたアメリカの支配力」 小川和久と並んで日本屈指の軍事評論家江畑謙介は,上記の論稿を『中央公論』2003年2月号に寄せている。 江畑の論稿は,アメリカ軍の兵備水準に「他国が追いつくまで20年という通常戦力の優位の実態」という副題を付けていた。そして,このように述べている。 アメリカ軍の戦闘能力〔アメリカの軍事能力〕は,他の国の軍隊との単純な比較では実態を測りえない,質的にきわめて突出したものである。恐らく,世界のいかなる国が束になっても,たとえばアメリカをのぞくNATO加盟軍が一体になったとしても,アメリカ軍には太刀打ちできない。 湾岸戦争の時代にはまだ,アメリカ軍の戦闘能力を他の国の軍隊と「量」で比較できる余地が多くあった。だが,それから12年を経過した現在,もはや「量」は,ほとんど意味をなさないほど技術的な変化が生まれてしまった。 この軍事力の絶対的な優越性が,ともすればアメリカ一国主義(ユニタリズム)と批判される,アメリカの単独強硬姿勢の裏づけのひとつとなっている。 江畑は「量」はほとんど意味をなさないといいつつも,つぎのような比較をしめしている。 アメリカ軍と他国軍隊の能力格差は,アメリカを100とするなら,イギリスは50,フランス40,その他のNATO諸国は,10~30といったところである。日本のレベルは,25くらいである。 --すでに筆者の論及した点だが,アメリカは,日本とスペインにイージス艦〔それぞれ4隻と1隻〕を保有させてはいても,軍事戦略的な根本方針においては,自国以外が運用するイージス艦に関してそのもてる性能を最高度に発揮させない制限:予防措置を工夫している。 その事実は,日本の海上自衛隊においてイージス艦の戦闘能力が,実際にどの程度発揮できる「運用体制」にあるかをしれば,たやすく判明するものである。イージス装置一式を完全に機能させえないイージス艦はたしかに,羊頭狗肉の軍艦といわざるをえない。 アメリカ〔60隻〕に次いで日本がイージス艦を4隻も保有しているのは,それだけアメリカに従順な,いいかえれば御しやすい国だ〔った〕という「両国間の関係」を如実に反映している。 日本政府は最近になって,監視用としてつかえる人工衛星を,同時に4個打ち上げる計画を明らかにした。もっとも,日本政府はいまのところ,その監視用の人口衛星が当然,イージス艦との戦術的連係においてつかえるものである点に一言も触れていない。
要は,せっかく保有する軍艦「イージス艦」4隻の性能を,日本なりにまともに活用するための〈本来の目的〉を兼ねた軍事用偵察「衛星打ち上げ計画」だ,ということなのである。 日本〔政府というか,防衛庁=軍部〕は,イージス艦ほぼ2隻分もの多額な予算をつかう「軍事偵察衛星」を打ち上げるのである。 問題はやはり,それを実際につかい切るために必要な「肝心の技術情報」を,日本〔の関係官庁〕がもたないことである。それでも,昨年10月以降,日本のマスコミ報道などをとおして異常に高まっている《北朝鮮憎しの感情》が,今回における「衛星打ち上げ」計画の早期実現を後押しした,ともいえる。 今後,日本政府の衛星打ち上げに関して,アメリカがなんと文句〔インネン〕を付けてくるかが大いにみものである。そのときはきっと,軍事超大国の傲慢さをまるだしにして,なにやかや〔日本はアメリカ並に余計なことをするな!〕と注文を出して〔イチャモンをつけて〕くるだろう。 日本社会はいま,ホームレス3万名以上,失業者350万名以上,生活保護対象者も増加するばかりで,政治経済的にはひどく深刻な窮状にある。2002年12月下旬に明らかとなった,日本政府の「2003年度予算政府案」によれば,全体の45%近くはまだ国債頼みの状態である。 「2003年度予算政府案」において,一般会計総額は81兆7891億円で3年ぶりに 0.7%増加するが,歳入全体に占める国債発行額の割合である国債依存度は,44.6%と過去最悪である。公共事業などの財源に充てる建設国債は5年連続減だが,税収不足などを補う赤字国債は2年連続で増発,はじめて30兆円の大台を突破する。 国と地方の長期債務残高は,2003度末で前年度末みこみ比 3.5%増の,約730兆円(郵政公社への移行分をふくむ)に達するみとおしで,財政悪化に拍車がかかっている。 2003年1月20日に召集〔予定〕の通常国会に提出される。 はたして,国家予算の2千5百億円も「軍事偵察衛星」実現に当てる〈緊急な意味〉があるのか? 北朝鮮がミサイル発射をするかどうかの見張りは,アメリカ軍にもっぱら任せておけばいいのではないか? というのも,それこそ,アメリカが自軍内だけでやりたがっている軍事作戦であり,あまり他国には手を出させたくないはずの任務・行動だ,と思えるからである。
● 小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉-戦後日本のナショナリズムと公共性-』(新曜社,2002年10月)に寄せて ●
小熊の本書は,最近における日本国の政治的行動のなかに読みとるべきその「歴史的に形成された〈本質的な性格〉」を,以下のように分析している(以下
1) と 2) を,同書,819-820頁に参照)。
1) 「敗戦後の対米関係」 一般に植民地支配においては,現地の王朝や地主層を宗主国に協力させ,王朝への忠誠を宗主国への忠誠に連結させる間接統治がおこなわれる。いわば,日本における戦後保守ナショナリズムは,結果的には,アメリカによる間接統治の手段として機能してきた。 もちろん,保守ナショナリストのあいだにも,対米従属状態への不満がないわけではない。しかし,彼らの多くは,日米安保体制への抗議を回避し,「アメリカ」人や「白人」への反感という代償行為に流れてしまっている。 2)
「その後の対アジア関係」 だが,戦後日本の保守ナショナリズムは,改憲や軍備増強を謳えば謳うほど,それが対米従属を深める結果になるというジレンマを負っていた。 すなわち,対米従属への不満から「改憲や自衛隊増強,あるいは歴史問題など」に代償行為を求めれば求めるほど,アジア諸国から反撥を買い,欧米の世論を刺激し,アメリカ政府への従属をいっそう深めるという悪循環が発生する。 その悪循環を打破するには,アメリカ政府への従属状態から逃れてもアジアで独自行動が可能であるように,アジア諸地域との信頼関係を醸成してゆくしかない。
--なんといっても,いままでは「拉致問題」の存在さえいっさい認めようとしなかった「北朝鮮のあの独裁指導者:〈総書記,国防委員長〉」が,自国関係者による国家的犯罪を日本に対してすなおに認め,代わりに謝罪したのである。 しかしながら,その後に続行するはずだった日本と北朝鮮両国間の国交正常化交渉は,日本がわの同胞民族的な精神・愛情にこだわった態度変節のせいで,いいかえれば,帰国2週間後に拉致被害者をいったん「日本から北朝鮮に帰す‐帰さない」という点に関する解釈の相違のため,その展望のみとおしすらつかめない状況になっている。 4)
「きわめて異常な日朝〔朝日〕両国の関係」 2003年は,日本の敗戦の年より数えて58年めを迎える。また,北朝鮮という国家が成立してからは55年が経過する年である。ここにいたっても日本はまだ,地理的に非常に近い位置関係にあるこの隣国〔正式名称:朝鮮民主主義人民共和国という国家〕と正式の政治‐外交関係をむすんでいない。 日本と北朝鮮のそうした国家間関係は,まったくいびつな状態にありつづけてきたといわねばならない。しかも,その歴史的な根本原因は,北朝鮮がかつて日本の植民地地域であったことにある。 だが,日本の世論はその歴史的な原点は忘れて〔忘れたい?!〕,ともかく今回の「日朝交渉」に当たっては,「拉致事件問題の解決」なくして交渉を一歩も進展させるな,北朝鮮にはすこしも妥協するな,できるだけきびしく当たれなどと声援してきた。 このたび,日本政府の北朝鮮に対してみせた外交交渉上の態度は,日本の世論の後押しをうけるかたちもあってか,珍しくも強硬な立場をしめしてきた。北朝鮮に対するこの日本の態度は,与党がわ陣営のトラウマでもある対米従属への不満と裏表の関係性,いわばその代償行為:カタルシスでもある点において観察する余地がある。 気をつけなければならないのは,そうした日本がわの声=北朝鮮交渉におけるかたくなな姿勢が嵩じれば嵩じるほど,過去に朝鮮半島において日本が積み残してきた負債の厳在を,記憶の彼方に追いやれるかのような錯覚におちいってしまうことである。 国力,それも経済力でみたら,世界中でまだまだ強大なる容量をもち,それに憲法第9条という世界には数少ない貴重な国家綱領を有するのが,この国「日本」である。 今後において,この国が地球全体の平和‐安寧のために貢献できる任務・仕事はなにか,ということに思いをいたさないで,いままでなりたくてもなれなかったという「〈普通の国〉になること」ばかりに気をとられるようでは,世界に評価され尊敬される国にはなれないだろう。 中国向けの「ODA(政府開発援助)」を減額するのであれば,ほかの発展途上国にその代わりをもっと振りむけるべきである。日本国籍人の組織するNGOやNPOも徐々に盛んになっている。こちらの活動領域にも日本人はいっそう力を入れ,日本政府も応援していきたいものである。 「隗より始めよ」という諺に倣っていうなら,「隣国より始めよ」といわねばならない〔もっとも,アジア諸国のなかで日本と国交のない最後で唯一の国が北朝鮮なのだが……〕。たしかに北朝鮮という国は,難物中の難物であり,「ならず者国家」ならぬ「分からず屋国家」である。 だが,この国:北朝鮮とのつきあいを上手にできる器量は,日本という国家にはないのか? 北朝鮮という「ひねくれ者国家」をうまくさばき,まともにつきあえる国家的技量‐国際外交的度量は,この日本という国にはないのか? もともと,どの国との外交交渉であれ,そんなに簡単にいくものなどなく,複雑で高度な政治折衝上の態度構築・交渉技術を要することは,あえて筆者が指摘するまでもない点である。その意味では北朝鮮も,そうした類の相手国のひとつにすぎないといえる。問題は,そう割り切ってこの国との交渉に当たれる人物・人材,政党・組織が日本にはいそうもないことである。 前述のように,もしも,これからも日本が「対米従属への不満と裏表の関係性,いわばその代償行為:カタルシス」の対象とする目線でしか,北朝鮮をとらえられないのであれば,この相手国と同じレベル,あるいはそれ以下(!)のレベルに止まるのがこの「国家:Japan」だったことを,自白するはめにならないか? --小熊英二の著作『〈民主〉と〈愛国〉-戦後日本のナショナリズムと公共性-』は,この地球上に実在する世界各国とどのように折り合い,仲良く生きていくかを,今後の日本・日本人が考えるために必要な,有益な議論をくわえている。
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● その後の報道によって若干を論じる欄〔2003年3月2日〕 ● |
① 内橋克人「廃墟の日常」 ……いま,「戦争をしらない軍国少年たち」が高らかに戦争節を奏でている(『朝日新聞』2003年2月25日夕刊)。 ② 木村伊量「〈共同益〉顧みぬ米追従」 ……地球規模で反戦ウェーブが沸きおこるさなかで,旗色の悪かった米英にとって,日本の支持表明はこのうえない援軍と映るにちがいない。 しかし,日米同盟への配慮ばかりがさきに立って,国際社会の〈共同益〉を顧みないようだと,ブッシュ政権には歓迎されても,長い目でみれば日本の利益にもなるまい。 戦争開始となれば間髪を入れず米国を支持する方針を早々と固めておきながら,日本政府は「仮定の質問には答えられない」とかわしつづけてきている。 外交は,国家の死活をかけた総力戦にほかならない。それなのに,日本の,そして小泉首相の羊のような沈黙はことさらもの悲しい。議論らしい議論もなく,官僚主導で米国支持が既成事実化していく。その異常を異常と思わないほど,この国の政治と外交の感覚は異常である。 米国に忠実でけなげな「いい子」ではなく,世界の新秩序づくりにしりごみしない責任国家の気概を胸に刻みたい(『朝日新聞』2003年2月23日朝刊,木村伊量は政治部長)。 |
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※ 2002年12月24日 脱稿。 補遺 12月28日,2003年1月2・8日・12日 以降 随時 補述 ※