日本経営学会員の人的構成特性

−昭和2年1月〜昭和9年3月に関する一考察−

裴   富 吉


The Line-up Characteristics of Japan Society for
Business Administration in the Prewar World

BAE Boo-Gil

−中央学院大学社会システム研究所『紀要』第4巻第1号,2003年9月掲載−
 本HPには, 2003年12月23日公表〔ウェブ用に編集改筆〕



●裴 富吉 学術論文 公表ページ ●

=も く じ=

 T は じ め に−本稿の課題−

 U 昭和2年1月現在日本経営学会会員名簿に関する簡単な分析

 V 昭和9年3月現在日本経営学会会員名簿に関する簡単な分析

   1) 分 析

   2) 検 討

 W 関連する学界事情−日本社会政策学会の盛衰−

   1) 国家学会から日本社会政策学会へ

   2) 日本社会政策学会から日本経営学会へ

   3) 日本経営学会への歴史的含意

 

 

T は じ め に−本稿の課題−

 

 本稿は,戦前期における日本経営学会員の人的構成面が現わしていた特性を解明しようとする小論である。

 a)「問題の前提 −−従来,日本経営学界における通説・定説的な理解によると日本の経営学の歴史は,大正15〔1926〕年7月(この年は同時に昭和1年)に創立された日本経営学会の歴史とともに出立した,と解釈されていた。

 しかし,この解釈は,経営学会が結成され登場したという出来事に着目するだけであって,いいかえれば,経営学史的な諸問題全般に視野をひろげ,具体的には,大学史や工場管理学史の関連までかかわらせて,関係の諸機関・諸世界における人物分布や活動状況を配慮したものではない。

 b)「本稿の論点−−昭和ヒト桁年代における日本経営学会員の構成陣容や,その会員の属する業種・職種分野ごとの比率を,全体的にくわしく観察してみると,つぎのような事実が判明する。

 つまり,高等教育機関関係者〔教員〕のみならず,実業界をはじめ公務員〔軍人もふくむ〕,資格士〔専門職〕,能率技師,自営業者など,多くの人士・識者が同会への加入を認められていた。会員構成上におけるこの特性は,戦後における学会員の基本的な構成内容と比較すれば,顕著な異質点である。

 戦前期〔昭和ヒト桁年代〕において,日本経営学会員中「経営経済学」〔および「経営管理学」〕研究の流れを形成してきた関係人士は約6割を占め,これに対して,「工場管理学・経営工学」研究の流れを形成してきた関係人士〔実業界人,資格士・能率コンサルタントなど〕は,軍〔陸海軍〕関係者などもくわえて約4割に達していたことが確認できる。

 要するに,戦前期における日本経営学会構成員の分布は,おおよそ「学界人6割〈対〉実業界人4割」という比率であった。戦前期の学会がみせたこの人的構成面の特性は,戦後におけるそれと対比するさい,非常にきわだっている1)

 c)「学史研究上の意義 −−戦前期〔昭和ヒト桁年代〕における日本経営学会が,人的構成面でみせていたそうした特性は,日本経営学の歴史的源泉を考えるに当たって重要な示唆を与える。

 すなわち,日本経営学史は当初,学会員と実業界人との密接な連係のもとに学会活動をおこない,両域に属する人々の積極的な協力があってこそ発展してきた,ということである。この事実は,昨今における日本経営学会の構成員比率のありかたからは想像しにくいものである。

 だが,戦前期も戦後期と同じに実質,高等教育機関の研究者たちが学会活動の管制塔に立ち,理論上指導的地位を掌握していた。それゆえその後,とくに戦後における日本経営学会の歴史的展開とのつながりにおいては,いつのまにか,この「日本経営学会」2) が戦前期に有していたみのがせない一特性が忘れられてしまった。

 日本の経営学史はこれまで,「明治期の商業学→商事経営学・商工経営学→経営経済学:経営学」の流れをたどって理論発展をとげてきた,と理解されている。しかしこの理解は,明治期より存在している「工業経済学→工業政策学・工場管理学→工業経営学:経営工学」という流れを無視したものである3)

 前者の流れは,学界人の関心を主場にした学説理論上の系譜であり,後者の流れは,実業界の効用を意識した実践理論上の系譜である。戦後に創設された日本経営工学会〔昭和25(1950)年日本工業経営学会として発足,昭和49(1974)年に改称〕は,工学部系統の教員および工業界の人士が多く参加する学会である。

 したがって,日本における経営理論史全体の姿を的確に描くためには,その両者の流れを合わせて配慮したうえで,日本の経営学史像をつくりあげねばならない。

 d)「筆者の主張 −−日本経営学会の学会員構成上にまつわる以上のような特性を観察すれば,明治期からの理論的な淵源において,日本の経営学史の有していた歴史的な関連事情は,ないがしろにできないものである。この事情も配慮しつつ日本経営学の出発点を決めるべきだというのが,筆者の提唱である。本稿は,その点をさらに実証しようとするものである。 

 


 

U 昭和2年1月現在日本経営学会会員名簿
に関する簡単な分析

 

 日本経営学会編纂になる『経営学論集』第1輯〔昭和2年〕から第8輯〔昭和9年〕は,巻末に所属会員の名簿を作成し,一覧に供している。本稿はこれを利用してまず,戦前期において,日本経営学会を構成した人員分布上の特性をしらべることにした。

 筆者は,同上『経営学論集第1輯』(同文館,昭和2年3月)の巻末資料,「日本経営学会会員名簿(昭和2年1月25日現在)」に対して,

 @ 学界・高等教育機関関係者,
 A 実業界・会社関係者,
 B 公務員・軍人関係者,
 C 資格士〔専門職〕,
 D 個人・そのほか,

という項目を立てて分類をほどこしてみた。

 表1「日本経営学会員分野別比率(昭和2年1月)」は,その分類作業の結果を表わしたものである。

 なお,表1の分類上とくに断わっておきたい点は,a) 国有企業所属者は,B公務員・軍人関係者に分類し,b) 住所のみの記述しか与えられていない者のばあい,D個人・そのほかに分類したことである。人物によっては所属のわかる者もあるが,あえてそれ以上詮索しなかった。

 表1 日本経営学会員分野別比率(昭和2月1日)

所 属 分 野

 会 員 数 と 比 率

  @ 学界:高等教育機関関係

   204 名

  59.65 %

  A 実業界:会社関係

   108

  31.58

  B 公務員・軍人関係

     13

    3.80

  C 資 格 士〔専門職〕

     10

    2.92

  D 個 人・そのほか

     7

    2.05

合     計

   342名

  100%


 この表1「日本経営学会員分野別比率(昭和2年1月)」に注釈をくわえておきたい〔機関の名称のみで(数値)のないものは各1名,以下同様〕

 @「学界:高等教育機関」関係者は,

    東京帝国大学(19),京都帝国大学(2),東北帝国大学,
    
    
九州帝国大学(2),東京商科大学(25),小樽高商(4),
    
    
福島高商(4),横浜高商(5),名古屋高商(11),
    
    
高岡高商(7),彦根高商(5),大阪高商(11),
    
    
神戸高商(16),和歌山高商(4),高松高商,山口高商(2),
    
    
長崎高商(2),大分高商(4),桐生高等工業学校,
    
    
東京高等蚕糸学校(3),上田蚕糸専門学校,神戸高等商船学校,
    
    
東京外国語学校,大倉高商(3),関東学院,慶応義塾大学(14),
    
    
日本大学(10),拓殖大学,中央大学,明治大学(9),
    
    
明治学院(3),法政大学(2),早稲田大学(12),
    
    
立教大学,関西学院(9),松山高商,

など合計204名である。

 この陣容は,国立〔官立〕大学を中心に,伝統ある私立大学も〔今日的にみて〕くわわった構成である。この「学界:高等教育機関」関係者の分布は,当時の高等教育機関における関係分野研究者の布陣状況を反映した数字である。

 10名以上の学会員を擁した高等教育機関は,東京帝国大学,東京商科大学,名古屋高商,大阪高商,神戸高商,慶応義塾大学,早稲田大学,日本大学である。

 A「実業界:会社」関係者は,

    三菱合資会社(2),住友合資会社(2),古河合名会社(2),
    
    
三菱商事(2),野村銀行,三菱銀行(2),三井銀行(2),
    
    
安田銀行,三井信託(2),住友信託,日本信託銀行,
    
    
横浜正金銀行(3),名古屋銀行,三十四銀行,常磐貯蓄銀行,
    
    
台湾銀行,帝国海上火災保険(2),安田保善社,
    
    
藤本ビルブローカー銀行,三菱製紙,王子製紙,鐘ケ淵紡績,
    
    
片倉製糸,中山太陽堂,栗本鉄工所,大阪鉄工所,川崎造船所,
    
    
三菱造船所,住友製鋼所,日本石油(2),三井鉱山,
    
    
古河鉱業(4),野田醤油(7),大日本麦酒(2),
    
    
日清製粉,明治製糖,明 治 屋,浅野セメント,日本陶管,
    
    
大正電気,東邦電力(9),大同電力,山下汽船,京王電車,
    
    
安藤組,帝国ホテル,名古屋綿糸布取引所,東京朝日新聞(4),
    
    
報知新聞社,ダイヤモンド社,田中出版,秀英舎(2),
    
     
財界研究,日本経済連盟,東京商業会議所(2),
    
     
大阪府立産業能率研究所(5),

など合計108名である。

 いずれも,当時における有力企業所属者であるが,めだつのは野田醤油7名,東邦電力9名,大阪府立産業能率研究所5名,古河鉱業・東京朝日新聞各4名,などである。

 この「実業界:会社」関係者は,当時において経営問題〔能率増進・経営合理化〕に格別の関心をもっていた各会社企業が,その名をつらねていたものとみられる。とくに,大阪府立産業能率研究所の5名は注目に値する。この5名は,個人的な分類上としては,C資格士〔専門職〕に仕分けしてもよいものであるが,あえてAの実業界:会社に所属させてみた。

 B「公務員・軍人」関係者は,文部省,外務省,鉄道省監督局,日本銀行,東京税務監督局,東京地方専売局,海軍大学校,海軍経理学校(3),海軍主計(大佐1,少佐2)など,合計13名である。現在の高等教育機関でいえば,陸海軍関係者は主に,防衛大学校・防衛医科大学校・海上保安大学校などに属する教官に相当するものである。

 C「資格士〔専門職〕は,能率顧問技師,弁護士,会計士(8) 4) などであり,合計10名である。この「資格士〔専門職〕」に分類された「能率顧問技師」荒木東一郎,〔および表1にまだ出ていないが,翌昭和3年には入会する上野陽一の2名〕は,Aの実業界の経営問題指導において活躍した開拓者的存在である。

 D「個人・そのほかは,合計7名である。

  −以上の表1について,関連する説明をしよう。

 @「学界:高等教育機関」関係者が6割近くである。A「実業界:会社」関係者は3割強であり,これにB「公務員・軍人」関係者C「資格士〔専門職〕」D「個人・そのほか」を足すと,4割をわずかに超える。D「個人・そのほか」のなかには教員・研究者もふくまれているようであるが,全体として「教員・研究者6割」対「実業界人〔など〕4割」の比率で,日本経営学会員が人的に構成されていたことになる。

 くりかえしていうが,戦前におけるその比率は,今日ある日本経営学会の会員構成内容と比較すると,きわだった特性をしめしていた。つまり当時は,研究者だけでなく,実業界などの人士も多数,日本経営学会に加入していたのである。

 ちなみに,日本経営学会編纂『経営学論集』第2輯から第8輯〔昭和3年〜9年〕までの巻末資料「日本経営学会会員名簿」各年分(昭和2年1月現在〜昭和9年3月末日現在)を利用し,その間,日本経営学会に新規加入してきた人士を仕分けしてみたところ,

 @「学界:高等教育機関」関係者が約5割,

 A「実業界:会社」関係者が約3割5分,

 B「公務員・軍人」関係者C「資格士〔専門職〕・自営業」関係者D「個人・そのほか」合わせて,残りの約1割5分であった。

 つまり,戦前期〔昭和ヒト桁年代〕,日本経営学会には実業界などからの加入者も多く,研究者(主に高等教育機関教員)以外の人士の加入が,同会新規会員のだいたい半数におよんでいた事実が判明する。

 戦後,最近の日本経営学会名簿をみると,実業界関係からの入会者はごく少数である。たとえば,2000年7月26日現在における「日本経営学会会員名簿」全2060名中,末尾に出ている実業界関係人士一覧のなかには元大学教員などもふくまれており,これを除外すると,恐らく70名程度〔3%台〕にしかならない。それも,研究所や会計事務所などに所属する人士が多い。

 日本経営学会員数の変化は,本稿に関連する時期を任意にひろって作表すれば,表2「日本経営学会員数の推移」のようである5)

表2 日本経営学会員数の推移

年   月

会 員 数

   1927〔昭和2〕年 1月

       342 名

   1928〔  2〕年11月

       467

   1928〔  3〕年11月

       552

   1930〔  5〕年 3月

       620

   1931〔  6〕年 3月

       652

   1932〔  7〕年 3月

       651

   1933〔  8〕年 3月

       688

   1934〔  9〕年 3月

       677

   1942〔  17〕年10月

       796

   1975〔  50〕年10月

     1,618

   1988〔  63〕年 6月

     1,853

   1998〔平成10〕年 7月

     2,027

   2000〔  12〕年 7月

     2,060

   2002〔  14〕年 7月

     2,084



 

V 昭和9年3月現在日本経営学会会員名簿
に関する簡単な分析

 1) 分  析

 前節でふれたように,昭和2年後半から9年前半に日本経営学会の新入会員となった人士たちは,実業界などからの新規加入者が依然多数あり,同会の構成員においては実際界の識者が継続して相当の割合を占めていた。

 この事実は,戦前期〔昭和ヒト桁年代〕における日本経営学会構成員全体の,ある特長を表わしている。つまり,この事実をみるかぎり当時の日本経営学会は,実業界とのつながりを密接に有していた,といえるのである。

 そこで,表3「日本経営学会員分野別比率(昭和9年3月)」を作成してみた。それまでの人的な構成内容の比率と,ほとんど変化ない分布状況がうかがえる。

表3 日本経営学会員分野別比率(昭和9年3月)

所 属 分 野

 会 員 数 と 比 率

  @ 学界:高等教育機関関係

   393 名

  58.05 %

  A 実業界:会社関係

   213

  31.46

  B 公務員・軍人関係

     20

    2.95

  C 資 格 士〔専門職〕

     23

    3.40

  D 個 人・そのほか

     28

    4.14

合     計

   677名

  100%


 ところで,学会〔および学界〕実業界とをとりむすぶ「環」の役割をはたしていた人士は,C「資格士〔専門職〕」に分類されていた能率技師,今風にいえば経営コンサルタントであった。もちろん,@「学界:高等教育機関関係」の人士のなかでも,彼らと同様な役割を発揮していた者もいる。

 とくに,工学部系の教員および商工業界の指導者は,その役割をよくはたしていた。とはいえ,実業界がわの人士もふくめた主に能率技師たちが,戦前期における企業経営あるいは工場管理問題の改善,いいかえれば能率増進・経営合理化の推進に直接関与し,理論的かつ実際的に実践指導をおこなっていた点に注目する必要がある。

 その意味では,大阪府立産業能率研究所の能率技師5名が,日本経営学会設立当初より参加していたことをみのがすわけにはいかない。

 昭和3年3月,当時「日本商工業の中心地である」大阪商工会議所は,「商工業の科学的経営管理に関する講習会」を主催し,その速記録を著作にして『商工業の科学的経営管理』(大阪商工会議所,昭和3年9月)を公刊した。この講習会の講師および演題は,つぎような布陣であった。

 ・伊藤忠兵衛〔伊藤忠商事株式会社々長〕

「文字と能率」

 ・荒木東一郎〔荒木能率事務所長〕

「日本の工場に共通なる欠陥」

 ・石原 正治〔元旅順工科大学教授〕

「商工業経営管理者に要望す」

 ・村本 福松〔大阪高等商業学校教授〕

「生産と販売との適合に付て」

 ・吉木 一朗〔大阪高等工業学校教授〕

「能率問題に関する二三の所感」

 ・金子利八郎〔古河合名会社会計課〕

「原価計算に於ける本部経費配分組織」

 ・宇野 信二〔日本能率技師協会専務理事〕

「経営管理方針の決め方」

 ・平井泰太郎〔神戸高等商業学校教授〕

「事業経営に関する調査研究の方法に就て」

 ・中山 太一〔中山太陽堂店主大阪商工会議所議員〕

「商工の能率的経営の実際」 

 
 −−以上9名の内訳は,石原正治〔元教員〕をふくむ高等教育機関の教員4名会社幹部とその高級スタッフ3名,そして能率技師2名である。この陣容は,当時,日本経営学会に加入していた人士の分野ごとにおける比率分布にほぼ対応し,端的にいえばそれを正直に反映していた。

 日本経営学会も学会である関係上,年次大会で発表する人士は,高等教育機関の教員がその大部分を占めていた。そこで,日本経営学会編纂『経営学論集』第1〜9輯,昭和2〜10年を参照して研究発表報告者の人数をしらべ,表4「日本経営学会年次大会発表報告者内訳」にまとめてみた。この『経営学論集』においては,統一論題・自由論題という語句はつかわれていないが,わかりやすくするため,最近の表現をつかった。

 いずれにせよかように,多くの実業界所属の人士が学会に加入し,いわば経営問題に関する学界を,学者たちとともにかたちづくっていた状況があった。筆者は,現在の観点よりこうした事実をどうみるか,もっと関心をもたれてよい点と考えられる。

表4 日本経営学会年次大会発表報告者内訳

年 次 大 会「論題」

発 表 者 内 訳〔教員;実業人など〕

 第1回「会計士(計理士)制度研究」
  −大正15年11月−

・統一論題 〔教員3名〕
・自由論題 〔教員6名;実業人1名〕

 第2回「株式会社制度」
  −昭和2年10月−

・統一論題 〔教員4名〕
・自由論題は〔教員9名;実業人1名〕

 第3回「商業教育制度」
  −昭和3年10月−

・統一論題 〔教員4名〕
・自由論題(2題)〔教員8名;貴族院議員1名〕

 第4回「経営学自体の諸問題
        官営及び公営事業」
  −昭和4年10月−

・統一論題(2題)〔教員15名;実業人‐公務員‐市長(東京高等商業学校教授関  一)各1名で3名〕

 第5回「中小商工業問題」
  −昭和5年10月−

・統一論題 〔教員4名〕
・自由論題 〔教員3名;実業人(言論関係)1名〕

 第6回「産業合理化と失業」
  −昭和6年10月−

・統一論題 〔教員2名;貴族院議員1名〕
・自由論題 〔教員5名〕

 第7回「商品市場組織」
  −昭和7年10月−

・統一論題 〔教員8名;実業人1名〕
・自由論題 〔教員4名〕

 第8回「経営とインフレーション」
  −昭和8年10月−

・統一論題(3題)〔教員10名〕
・自由論題 〔教員2名;実業人1名(東京商工会議所理事,東京帝国大学経済学部教授渡辺鉄蔵)〕

 第9回「貿易統制研究
        経営学最近の問題」
  −昭和9年10月−

・統一論題(2題)〔教員16名;実業人3名(財閥持株会社所属の経済学博士と協働組合研究所勤務の2名をふくむ)〕
・自由論題  〔教員3名〕

 

 2) 検  討

 筆者の,これまでの日本経営学史に関する検討によれば,戦前期,日本の経営問題に直面していた人士たちは,工場管理学の場・次元・範囲において能率 (efficiency)問題を中心に据え,産業経営の改善・向上に努力する方途で産業史を形成してきた。

 とくに能率問題専門家たちの努力は,製造現場における作業合理化・生産性高揚を主目標においていたせいか,理論構築にはそれほど関心がむけられなかった。それはあくまで,「工場経営法」の実践的理論,あるいはその応用科学的な志向・展開にとどまっていた。

 したがって,戦前期「工場経営法」は,日本経営学会の半数強を占めていた大学・高等教育機関構成員たちの主要な理論関心事,すなわち,ドイツ経営経済学を基軸とする〔アメリカ経営管理学も無視できないが〕理論志向・問題意識・学問路線などとは,明確に異なっていたのである。

 日本経営学史の理論面における生成・展開は,学界がわにおけるそれとしては,上田貞次郎・渡辺鉄蔵・増地庸治郎・平井泰太郎・村本福松・向井鹿松・池内信行などによるものがある。しかしながら,彼らのつくった基本的な理論は,舶来製品の仕立てなおしであって,日本の実業界に真正面からむきあい構築されたものではない。

 とはいっても,日本経営学会の実質的な主導権は彼らがにぎっていたから,経営学者たちによる抽象理論の主導性が,斯学界のその後に一大特性を刻印することになった。

 むろん,学会において主勢力を形成する構成員=学究がわにも,科学的管理法の理論的・実際的な研究・応用を推進していた人物は,多数いる。だがこちらでは,実業界の要求する路線に沿うものは多くなかった。

 それよりも,学会の構成員でありながら,産業界の根本的要請に応える実際的な理論の構築とその実践的応用を率先して試み,両域の仲をとりもつ役割をはたしたのが,会社の現場技術者・工場管理担当者能率問題専門家たちであったのである。この一群のもつ歴史現実的な意義を,軽視してはならない。

 以上の論旨を,図1「日本経営学界の人的構成」に表現してみた。

学 界 的 活 動


 
   
〔知の世界〕

 




   
〔業の世界〕

  











 a) 学界・高等教育機関関係者

 
…〔日本経営学会の構成〕…

 
b) 実業界・会社関係者,
  
能率技師・そのほか


   
d) 研 究 者 








 c) 経済・産業・会社の世界
実業界

図1 日本経営学界の人的構成


 この図1「日本経営学界の人的構成」は,戦前期における日本経営学界の全貌が,主に経営学者実業界の人士をもって構成されていた事実を表現する。なお,日本経営学会に加入していない経営学および工場管理学の「d) 研究者」一群もいたので,総体としてその人的な布陣関係は当然のこと,「日本経営学界>日本経営学会」の関係になる。

 図1において,上部に位置していた「a) 学界・高等教育機関」関係者は端的にいえば,日本経営学会の指導者層である。高等教育機関の場を中心とするこの研究者たちは,日本経営学会を理論的に指導する高度な頭脳と体系的な知識をもっていた。それゆえ,学界の中心部分を形成し,学会の核心的構成員としての資質・能力を発揮した。

 ただし,大学の教員を主な職業とする彼らは,その装備していた理論方法をもっぱら欧米先進諸国の経営学説に依拠し,日本の現実に必ずしも適合的ではない概念手法を保持していた。だが,学会活動を主導するためのそれとしては,十分満足なものでありえた。

 それに対して,下部に位置していた「b) 実業界・会社関係者,能率技師・そのほか」の人士たちは,さらにその下に配置してみた「c) 経済・産業・会社の世界〔実業界〕」に所属し,この場に直結した活動をしなければならない立場にあった。だからその人士たちは,実際界を代表する足場に立ちながら,経営学会にも参加していたのである。

 学界〔あるいは学会〕活動に彼らが参加する意義・有用性は,学会の知識・知見を自分の所属する会社・組織にもちかえり,実践的=実用主義的に活用する点にあった。この関連でいえば,彼らは必ずしも自身の理論体系を確実に保持したり,学会においてなにかを発表したりできる研究蓄積をもっていなかったのかもしれない。

 こうして,戦前期の日本経営学会は学界活動としてみるとき,実業界の人々との連携を密接にたもっておこなわれていたことがわかる。

 一般に日本経営学史は,研究者たちによる欧米経営理論の導入・受容・解釈を中心に発展してきたが,同時並行的に,学界活動をともにになってきた実業界がわによる実践科学的な理論営為,いいかえれば,工場管理商店経営鉱山経営など管理・運営の現場における諸問題を,当面する解決課題に据えねばならなかった人々の努力によっても発展させられてきたといえる。

 高等教育機関に所属する研究者たちは,大正の末期から昭和の時代にはいり,主にドイツ経営経済学,そしてアメリカ経営管理学を合わせて,日本企業の問題を考えるための理論的概念に鍛えあげてきた。

 だが,その理論整備は「理論のための理論」形成という性格が強かった。もちろんそれは,日本企業の現実分析に一部利用はしたが,「理論」を日本の現実に即して修正し,さらに鍛練していくという意識が弱かった。したがって究極的には,訓詁解釈学としての日本の学問特質を回避しきれない特質をもったのである。

 それに比較して,「実業界・会社関係者,能率技師・そのほか」の人士は,理論そのものの研鑽や向上に直接の関心がなく,自分の属する工場商店鉱山など事業体における,工場経営管理の能率向上策や,現実に直面している課題の解決案をえるための学会参加であった。

 だから彼らは,理論武装の部面では学者たちに太刀打ちできるわけがなく,その意味での〈学界〉活動に関していえば,〈学会〉のなかでは指導権をにぎれるわけもなかった。しかし,だからといって,実業界関係の人士たちが日本企業の歴史的発展に理論的な貢献をなしえなかったとみなすのは,正確な認識とはいえない。

 図1でいえば,「a) 学界・高等教育機関」関係者による理論営為は,「c) 経済・産業・会社の世界〔実業界〕」との接点を直接,十分もちえなかった。もっとも,彼らの従事する仕事の性格上,その接触を絶対的な条件あるいは要請とすることはない。これにくらべ,「b) 実業界・会社関係者,能率技師・そのほか」の人士の,実践現場における理論的な指導は,もっぱら実際界の役に立つ〔企業の目的にかなう〕内容が追求された。彼らは,そうせざるをえない立場・利害におかれていた。

 また「a) 学界・高等教育機関」関係者「c) 経済・産業・会社の世界〔実業界〕」との関係でいえば,日本の経営学〔学者たち〕は正直にいって,現実遊離の学問を展開してきた。

 けれども,その「a) 学界・高等教育機関」関係者は,「b) 実業界・会社関係者,能率技師・そのほか」「c) 経済・産業・会社の世界〔実業界〕」との関係でいえば,敗戦後に日本産業を復興させ,その後経済大国への道のりを用意するための〈理論と実践〉を関係づける,いいかえれば,その橋渡しをする場を構築する役割をはたしてもきた。少数だが,そういう役割をになった「a)」関係の研究者・学者がいた事実を指摘しておかねばならない。

 とはいえ,現実遊離の抽象的な理論世界でもっぱら学問を展開してきた学会の中核的な構成員〔高等教育機関の研究者〕と,実業界:経営生産管理の現場において,発生する実際問題と格闘するさい必要となる理論的知恵を学ぶため,学会に参加していた会社関係者たちとのあいだにのぞける,問題関心のおおきな相違に注目しなければならない。

 日本の経営学界はその意味で,日本経営学会の活動を中心的にになってきた研究者〔これ以外に学会に加入していない研究者もいた〕と,これにくわえて実業界からこの学会に参加していた会社関係者などとをもって,戦前期に出立したのである。

 しかも,日本経営学会が創立される以前より,経営学界的な理論活動は早くから発生,存在してきたのであるから,まず,学界活動のなかから〈日本の経営理論〉が登場してきた時期そのものに注目する余地がある。

 日本経営「学会」の歴史はまさに,この学会の諸活動の軌跡は現わしているものの,日本経営「学界」全体にまでかかわる多様な活動を踏まえているとはいえない。日本経営学会に加入していない人士にも,経営理論的な仕事に従事している研究者(図1における「d) 研究者」は大勢いたし,実業界の人士にも,実際のためを意図しつつ理論的志向をもって研究していた技師はいたのである。

 日本の経営学は,戦後における日本経営学会の活動状況およびその構成員の人的な特性によって,会員の大部分を占める大学関係研究者のみが,あたかも学界の歴史を推進してきたかのように認識されている。しかしながら,戦前期における日本経営学会の活動内容は,実業界に所属する人士によってもささえられてきたのである。この事実を忘れたら,今日につらなる日本経営〈学界〉の全容を論じることはできない。

 


W 関連する学界事情
 
−日本社会政策学会の盛衰−

 

 1) 国家学会から日本社会政策学会へ

 明治前期〔明治20(1887)年〕に創設された国家学会は,ドイツの学問方法に主として依拠しつつも,結果的には独自の実践的関心にもとづいた「国制知」の構築を唱導していた。

 つまり,国家学会の歴史的役割は,ドイツ学の発展というよりもむしろ,立憲制の前提となり,その支柱となる新しい「治国平天下の学」ならびに「士大夫」の供給源たることにあった。そのため,国家学会がほどなくして直面したアポリアは,なによりも国家学なるものがけっして自明ではなかったことである。

 そして,国家学会は,対象とする社会の複雑な構造と態様が学問的に統合できない点を反映させて,この学問はさまざまな学会・研究会を分化していくことになる。

 明治26〔1893〕年10月に法理研究会,明治29〔1896〕年4月に日本社会政策学会,明治30〔1897〕年3月に国際法学会などが創設されている。国家学会『国家学会雑誌』上には,農政学会や経済統計研究会の例会記事が定期的に掲載されており,それらと国家学会とのつながりをうかがわせる。

 これら組織の国家学会からの分化は,ふたつの対照的な動勢に沿って進展したことが指摘できる。ひとつは研究ということの重視という方向であり,いまひとつは政策ブレイン機能の特化という方向である。

 なかでも,後者の系列につらなっていたのが,国際法学会や日本社会政策学会である。その創設は,社会問題や外交問題が高度化し,その解決のためにより専門的な知の結集が必要視されるにいたったことの帰結にほかならない。学問と政策との相互交流を前提としている点で,それらは国家学会の衣鉢を継ぐものであったといえる。

 なお国家学会は,明治39〔1906〕年10月にその終焉の時を迎える6)

 第2次大戦前の日本社会政策学会は,明治30年代から大正期にかけて,日本最大の経済学者の団体で,社会政策学者はもちろん,経済学説や理論および政策そして歴史の研究に従事する多くの学者を網羅していた7)

 日本社会政策学会は,官学アカデミズムの向こうを張って成立し,社会問題を研究する学会として当時の有力な社会科学者を集め,しだいにその名声を博すようになった。一時は,社会政策学会での報告が若手研究者のあいだで「学界の登竜門」と目された8)

 日本の経済学の歴史,すくなくとも明治30年代から第1次大戦期にいたるあいだのそれは,とりもなおさず,社会政策学会の歴史であった9)

 日本社会政策学会はまず,学問的な研究を目的と団体というよりはむしろ,政治的イデオロギー色彩を濃厚にもつ団体として出発した。この傾向は,1920年代,学会の終末にいたるまで色濃くその性格を規定していた。

 同学会はつぎに,独占段階における社会政策の中心的な課題ともいうべき社会保障制度の成立のために,なんら理論的貢献をなしえなかった。企業内福利施設の展開のなかで,これと社会政策,社会保険との関係について充分理論的に深めるにいたらず,わずかに工場法の制定に満足するにとどまった。

 最後に,最重要な主体的条件として,学問的伝統の脆弱性が考えられる10)

 

 2) 日本社会政策学会から日本経営学会へ

 @ この日本社会政策学会の基本的性格は,一方で自由放任を排し,他方で社会主義を批判することによって,「現在の私有的経済組織を維持し,其範囲内に於て階級の軋轢を防ぎ社会の調和を期する」という改良主義的立場を明確にしていた。これが,第1次大戦後,社会政策学会の若手研究者のなかに社会主義的思想への同調者が増加したとき,学会をしてその機能を停止せざるをえなくさせた原因であった11)

 つまり,社会政策学会が,その成立の時期から一貫して社会主義と社会政策との区別,いやむしろ社会主義排撃をその学問方法論上の使命であるかのような態度を持したことが,やがてその衰退のおおきな要因となった。その意味では,社会主義と社会政策の区別をもっとも急進的に主張しつづけた金井 延の責任は重大である12)

 社会政策学会は当初,労働問題に対する姿勢の点で,だいたい3派に分けられる。

 ・中央派=金井   延

 ・右 派=添田 寿一

 ・左 派=桑田 熊蔵,片野房太郎,片山 潜,佐久間貞一

 そして,社会政策学会の第2世代が,河上 肇,福田徳三,高野岩三郎,堀江帰一らであり,やがてマルクス主義に影響されたかなり広汎な左派勢力が主流となり,右派および中央派勢力はむしろ少数派になった。そのため内部対立が激化し,その衰滅の危機の到来が速められた。この学会の矛盾と悲劇性は,労働運動問題に対する姿勢に露呈した13)

 すなわち,第1次大戦後の社会政策学会は,現実の労働問題がその重点を明らかに労働組合問題にうつしつつあったにもかかわらず,現実の認識から遊離した態度をしめしており,外部からみれば不満に耐えないものであった。この学会の内部に思想的・学問的対立があったことが,学会を休止するにいたらしめた重要な原因である。

 そして,その対立の直接の契機は,労働組合問題に関する討論をめぐってであった。社会政策学会はその内部から分裂し,休眠状態にはいったのである。当時すでに,日本の労働問題研究は,従来の学会が研究の対象としてきたものとはべつの分野に直面しはじめたのである。たとえばそれは,労働科学,労務管理論,各種の労働調査および労働統計などの出現であった14)

 日本社会政策学会の大会論題は,大正6〔1917〕年の第11回大会から大正10〔1921〕年の第15回大会にかけて,それぞれ「小工業問題」「婦人労働問題」「労働組合」「中間階級問題」「賃銀制度並に純益分配制度」をかかげていた。

 A 大正8〔1919〕年ごろから社会政策学会は,内務省の外郭団体「協調会」の設立をひとつのきっかけに,内部対立を深刻化する。

 協調会は,労働問題‐労働政策を調査・研究し,採用すべき政策について建議し,さらには争議の調停にも当たる機関であった。基金を政府と財界に仰ぎ,かつ労働組合の参加をえないものであったので,これに協力するか否かは学会員にとってひとつの試金石となった。限界はあるが一歩前進と判断して理事や評議員になった学会員は,桑田熊蔵をはじめ多数におよんだ。他方,高野岩三郎・福田徳三・堀江帰一や多くの若手学会員らは,これを欺瞞として参加を拒否した。

 もうひとつのきっかけは,社会主義を支持する学会員がしだいに多くなり,その発言が強まったことである。社会改良主義の政策理念を明示し,政策の先導を意図した戦前期社会政策学会は,これら内部対立から推進力をうしない,大正13〔1924〕年の大会を最後にその歴史的な使命を終える15)

 大正期末年,とくに関東大震災(大正12〔1923〕年)を契機として,社会政策学会は不活発な活動状態におちいった。そのなかで,福田徳三,河上 肇の両巨匠の影響もあり,経済学は,古典派経済学研究,資本論を中心とするマルクス主義経済学研究および限界効用学派や,マーシャルおよびピグーに代表される厚生経済学の研究というように,さまざまな分野にひろがっていった16)

 こうして大正13〔1924〕年12月以降,社会政策学会は「休眠状態」となった。この学会は,工場法への対応をめぐる内部対立の結果,大正13〔1924〕年から昭和25〔1950〕年にいたる約四半世紀のあいだ,学会としての活動は停止している17)

 B さて,戦前期において,日本最大の工業都市であった大阪で出版業を商っていた日東社は,『労働指導法』(日東社,昭和3年)という書物を公刊している。本書の序は,こういっていた。

 産業合理化の問題は現下の工業経営上極めて緊要の事にして然かも就中その労働に関するものは時代の趨勢と現代の産業組織下に於て殊にその然る所以を痛感せざるを得ない。

 当社茲に慮るところあり今回労働訓練に関し其最も切実に考へらるゝところの労争概念,組長教育,労務管理の3項に就き斯界有数の研究家諸氏に嘱して全編15章の名篇を収め之れを『労働指導法』と題して発行することゝした。学理と実際との両面よりして労働指導の要諦を闡明し工場経営上に一大新機軸を提示せるところ蓋し本書を措いて他に之れを求め得なからうと信ずる18)

 ここに,協調会調査課編『1927年各国労働界の情勢』(協調会,昭和3年)という当時の解説書があるが,本書は,その末尾部分において,協調会がそれまでに公刊していた以下のような関連書物を宣伝広告している。

 『各国労働組合運動史』 『独逸労働組合運動史』

   『工業保健及能率』 『ナショナルギルド』

   『労働運動の機能』 『各国労働法制』

 『各国最低賃金関係法規集』 『労働者の個性調査』

   『米国失業会議報告』 『英国賃金協定局の活動』 

   『米国工場被傭者福利増進事業』 『社会思想史』

   『消費組合論』 『産業合理化と社会政策』

   『1925年各国労働界の情勢』 『1925年英国炭坑争議の意議』

   『1926年英国炭坑争議の経過』 『各国労働争議統計』

   『英米独仏の雇主組合』 『英国産業平和維持策』

   『各国労働組合無産政党統計』 『各国労働賃金統計』

 第1次大戦中にロシア革命によって,この地球上にはじめて登場した社会主義国ソ連邦の意味が,歴史的に重大である。

 日本社会政策学会は,社会主義を排撃しつつ資本制経済秩序の修正の軌道を歩むとすれば,それは必然的に社会改良主義にならざるをえない。福田徳三はまさに社会政策学会の本流として,内なる社会主義の代表者河上 肇に対決しなければならなかった。

 しかし,福田は,昭和5〔1930〕年に死去しており,河上が共産党員として地下活動にはいるのをみなかったこともあり,学問的交流はしだいに疎遠となっていた。大正末期から昭和初頭にかけての経済学研究は,この2人の巨匠から出たといっても過言ではない19)

 C 経済学界における理論史的状況がそのようであったにしても,視野をさらに広げて経営学界におけるそれを観察すれば,日本社会政策学会の活動が衰退しだしたときすでに,この学会を実質的に継承・発展させる活動をおこなっていたのが,経営学関係の学界領域であった。

 大正15年7月創立された日本経営学会は,日本社会政策学会の活動休眠状態を新しい革袋にいれなおし再生させる,新たな学会の登壇を意味した。日本経営学会が誕生するにいたった背景には,大正時代の半ばころより盛んになっていた,経営学の関連諸領域における研究の進捗があったのである。

 したがって,日本社会政策学会の盛衰に並行するかたちで,日本経営学会の創立を事前に予定させるような学問的・理論的な研究環境,つまり経営学の研究進展にかかわる学界的な環境が形成されつつあったことが理解できる。

 

 3) 日本経営学会への歴史的含意

 経営学界のばあい,経済学史における福田徳三および河上 肇の学的立場に相当し,歴史的に継承していく人物は,誰か。前者,福田徳三に相当する人物は,明治42〔1909〕年9月から東京高等商業学校で,日本初の経営学講義となる「商工経営」を開始した上田貞次郎である。上田貞次郎は,自由主義的な傾向を濃厚にもっていた〔本人は「新自由主義」を標榜〕

 本稿ですでに氏名の出た,渡辺鉄蔵(東京帝国大学経済学部)をはじめ,増地庸治郎(東京商科大学),平井泰太郎(神戸高等商業学校,のちの神戸商業大学),村本福松(大阪高等商業学校,のちの大阪商科大学),向井鹿松(慶応義塾大学),池内信行(関西学院高等商業学部,のちの関西学院大学商経学部),さらに馬場敬治(東京帝国大学経済学部)などは,大正10年代に活動をはじめる〔そのうち渡辺鉄蔵は大正初期から〕。ただし彼らは,上田貞次郎の商工経営論:経営〔経済〕学を,理論的系譜上必ずしも直接的に継承していない。

 日本経営学会が発足した大正末年〔1926年〕に前後して,日本の経営学界に登壇し活躍しだす前段の経営学者たちにくわえねばならないもう1人の重要な人物が,中西寅雄である。中西寅雄は,日本経済学史ではおおよそ,河上 肇に相当する。昭和の時代より「日本経営学会」は,この中西も陣容にくわえて本格的に出立する。その後に生成,発展していく日本経営学史上の2大理論学派が,ここに出そろったのである。

 その間,日本社会政策学会が休止するにいたった事情は,日本における社会科学分野全域史との関連もよく観察し,その歴史的事情背景を配慮にいれて評価されるべきものと思われる。

 第1次大戦後,全世界的な傾向として強まった民主主義運動のまえに,社会政策学会はその輝きも色あせ,有力なメンバーは,日本労働総同盟,大原社会問題研究所および協調会20)などの諸団体に活動の場をみいだし,社会政策学会は単に年1度,学界をはじめ官界や実業界名士による講演会であるかのような観を呈した。このとき,社会政策学会の形骸化がはじまったのである21)

 結局,国家による権力的圧迫というよりは自然消滅という不自然なかたちで,社会政策学会はその終焉を迎えた。当時における社会政策学会のメンバーたちは,社会科学としての経済学とイデオロギーとしての社会主義との関係を,充分に認識できなかった22)

 そうした,日本社会政策学会の残骸のなかから新しく生成したひとつの学会,それが日本経営学会だったのである。飯田 鼎は,日本における経済学研究は,第1次世界大戦開始期までを啓蒙期とすれば,本格的な研究の発展は大戦後,1920〔大正9〕年ころにはじまると指摘する23)

 筆者は,日本経営学会の発足・創設よりも早い時期〔大正中期〕に,「日本の経営学界」の出立をみいだしている。この点は,日本における経済学研究の本格的な研究の発展に呼応し継続的関連をもって,日本の経営学の本格的な研究も開始されていた事実を提示する。

 −−いずれにせよ,戦前期において日本経営学会に占める会員の構成内容は,既述のように実業界の人士を数多くふくんでいた。そこにみられる勢力関係は,日本経営学会が日本社会政策学会,さらにさかのぼっては,国家学会の学的伝統にまでおよびうる事実を物語っていた。

 経営学という学問・理論の研究対象は,末期的症状におちいっていた当時の社会政策学会が対応しきれなかった問題論点である,「労働科学」や「労務管理論」,「労働・賃銀問題」を,個別資本・企業経営の次元でまさに,真正面からとりあげるものであった。

 しかし,太平洋戦争期に中断を余儀なくされた学会活動を戦後に再出発させる日本経営学会は,おおきく様がわりすることになる。

 以上,本稿の考察は,日本経営学会編纂『経営学論集』「日本経営学会会員名簿」にみてとることのできた〈学史〉的な含意である。

 


 【 注 記 】

 1) 専修大学経営学部編『戦後日本の企業経営と経営学』森山書店,1994年,〔儀我壮一郎,第1章「日本における経営学の発展過程」〕135頁。

 2) 本稿の言及する対象はあくまで「日本経営学会」である。

 3) なお,日本工業経営学会〔1950(昭和25)年創立,1974(昭和49)年日本経営工学会に改称〕に関連させて,つぎの点を関説しておく。1942〔昭和17〕年3月,日本工業協会と日本能率連合会とが合併して,日本能率協会が設立されている。こちらの潮流に関する必読文献としてまず,以下の4冊を挙げておく。

  @ 杉原四郎編『日本経済雑誌の源流』有斐閣,1990年。

  A 原 輝史編『科学的管理法の導入と展開−その歴史的国際比較−』昭和堂,1990年。

  B 高橋 衞『「科学的管理法」と日本企業−導入過程の軌跡−』御茶の水書房,1994年。

  C 佐々木聡『科学的管理法の日本的展開』有斐閣,1998年。

  日本能率協会関係の文献として,つぎの3冊もさらに挙げておく。

  @ 日本能率協会編『10年間の足跡−創立10周年記念刊行−』日本能率協会,昭和27年。

  A 日本能率協会編『経営と共に−日本能率協会コンサルティング技術40年−』日本能率協会,昭和57年。

  B 日本能率協会『森川覺三の世界』企画編集委員会編『森川覺三の世界−経営能率に賭けた その生涯−』日本能率協会,昭和61年。

 本稿の主題に関連する文献の多くが,五山堂書店より復刻出版されている。日本における経営学史研究の現実的な対象が,どこに存在していたかをしるのに有意義な復刻企画である。

  @ 間 宏監修・解説『日本労務管理史資料集』第1期全9巻・第2期全10巻・第3期全10巻,1987・1989・1993年。

    A  奥田健二・佐々木聡編『日本科学的管理史資料集』全60巻,第1集「雑誌篇全48巻」,第2集「図書篇全12巻・別函(第2巻図表)1」,1995〜1998年。

 4) 戦前において会計士とは,1927〔昭和2〕年に成立・施行された「計理士法」に定められた資格とはべつに,この名称で計理士の業務をおこなうこともできた職業を表わしている。以後,この名称「会計士」は「計理士」と記載されるようになる(日本公認会計士協会京滋会中野淑夫監修『日本の公認会計士』中央経済社,平成 9年,2-3頁)

 なお,日本会計学界における学会〔日本会計学会および日本会計研究学会〕成立の状況は,日本会計研究学会50年史編集委員会編代表染谷恭次郎『日本会計研究学会50年史』日本会計研究学会,昭和62年を参照されたい。

 5)   山本安次郎『日本経営学五十年−回顧と展望−』東洋経済新報社,昭和52年,112頁も参照。

 6) 瀧井一博『ドイツ国家学と明治国制−シュタイン国家学の軌跡−』ミネルヴァ書房,1999年,288-290頁,291頁。

 7) 飯田 鼎 著作集第4巻『日本経済学史研究−日本の近代化と西欧経済学−』御茶の水書房,2000年,はしがきB頁。

 8) 武川正吾『社会政策のなかの現代−福祉国家と福祉社会−』東京大学出版会,1999年,271頁。

 9) 社会政策学会史料集成編纂委員会監修社会政策学会史料集成別巻1『社会政策学会史料』御茶の水書房,1978年,隅谷三喜男「総説」2頁。

 10)   飯田『日本経済学史研究』155-156頁。

 11)   社会政策学会史料集成編纂委員会監修,隅谷「総説」6頁。 

 12)   飯田『日本経済学史研究』165頁。

 13)   飯田 鼎 著作集第3巻『高度資本主義と社会政策−日本とイギリス−』御茶の水書房,1998年,13頁,19頁。

 14)   社会政策学会史料集成編纂委員会監修,前掲書,322頁,328頁,329頁,330頁。

 15)   池田 信『社会政策論の転換−本質‐必然主義から戦略‐関係主義へ−』ミネルヴァ書房,2001年,55頁。

 16)   飯田『日本経済学史研究』はしがきD頁。

 17)   社会政策学会史料集成編纂委員会監修,前掲書,あとがき349頁。武川『社会政策のなかの現代』271頁。

 18)   日東社編『労働指導法』日東社,昭和3年,序。

 19)   経済学史学会編『日本の経済学−日本人の経済的思惟の軌跡−』東洋経済新報社,昭和59年,73頁。

 20)   大原社会問題研究所は1919(大正8)年2月創設,協調会は1919年12月創設である。くわしくは,矢次一夫編『財団法人協調会史−財団法人協調会三十年の歩み−』「財団法人協調会」偕和会,昭和40年,法政大学大原社会問題研究所編『大原社会問題研究所五十年史』法政大学出版局,1971年,さらには,高橋彦博『戦間期日本の社会研究センター−大原社研と協調会−』柏書房,2001年を参照。

 21)   飯田『日本経済学史研究』155-156頁。

 22)   飯田『高度資本主義と社会政策』4頁。

 23)   飯田『日本経済学史研究』387頁。

 


 1997.7.23 〜 2001.10.23  執 筆 】