-戦前と戦後の相違点- 裴
富 吉 |
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も く じ
①「は し が き」 ②「昭和17年5月関東支部福島大会記」 ③「昭和17年10月日本経営学会第17回大会記 ④「ゴットル批判:印南 博吉」 ⑤「ゴットル批判:中山伊知郎」 ⑥「マル経学者への迫害」 ⑦「昭和17年10月日本経営学会第17回大会記 ⑧「本稿の論点」 Ⅱ-1) 戦争の時代における理論と実際 Ⅱ-2) 戦中‐戦後における「〈両〉世界」間関係の遊離‐断絶 Ⅱ-3) 戦後に簇生する実務界寄りの諸学会 Ⅱ-4) 日本経営士会
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①「は し が き」 筆者は,前稿「日本経営学会員の人的構成特性-昭和2年1月~昭和9年3月に関する一考察-」(中央学院大学社会システム研究所『紀要』第4巻第1号,2003年9月)によって,大正15〔1926〕年7月に創立された日本経営学会の人的構成特性を,とくにその戦前期について検討した。 本稿「日本経営学界の変遷-戦前と戦後の相違点-」は前稿の続編に相当するが,執筆に関する具体的な意図については,本節Ⅰの末尾⑧「本項の論点」で説明する。
②「昭和17年5月関東支部福島大会記」 昭和16〔1941〕年12月8日,大東亜〔太平洋〕戦争が起こされた。日本経営学会が創立以来毎年開催してきた全国大会はその煽りをうけて,昭和17〔1942〕年10月17~19日「関西学院大学で開催された第17回大会」以後,活動の休止を余儀なくされた。 その「日本経営学会第17回大会」より5カ月まえ,昭和17年5月29~30日の両日,日本経営学会は福島高等商業学校の創立20周年を記念し,同校を会場として日本経営学会関東支部大会を開催していた。深見義一「日本経営学会関東支部福島大会記」は,この臨時大会をつぎのように記録している1)。 日本経営学会は,其の名称は支部大会とは言へ,斯学の諸権威は全国より参集され,その蘊蓄を傾けて報告を行はれ,且つ互ひに之に関する討議を試みられた。また他方,福島放送局を通じてはラヂオ放送講演が為され,福島・郡山・若松3市に於いては大規模なる公開講演が行はれた。 非常時局下……大東亜戦争下,我が敷島の大和心を一段と象徴顕示する意味に於いて,……此の学会の盛事を相応はしからずとするは固より当らざるところであって,雄大なる構想の下に大東亜戦争を完遂する意味に於て,その理念に於て方法に於て技術に於いて,高度の広義の対長期戦の国防国家体制を確立するために,寧ろ固より之は相応はしかったと言はねばならぬところである。 この関東支部福島大会の研究報告「共通論題」は,「新産業合理化」の問題であった。 ・室谷賢治郎「国防経済と産業合理化」 ・大木 秀男「現段階に於ける合理化問題」 ・山城 章 「新産業合理化と新企業形態」 ・大泉 行雄「新産業合理化の基本構造」 ・高宮 晋 「企業集中に就いて」 深見はこの共通論題に関して,つぎのような〈整理〉をしていた。 いわゆる産業合理化は一般に,「独逸合理化の目標とした」,「企業の社会的・組織的統制による合理化」「経営際の合理化」「国民経済的調整といふ形をとる合理化」と,「亜米利加科学的管理法の目標とした」,「企業の内部的技術的改善による合理化」「経営内の合理化」「原価の切下げといふ形をとる合理化」という2面がある。 なかんずく,前者「国民経済的調整の面に於ける経営合理化の問題は,大東亜戦争下の現段階日本にありては,特に格段の重要性を示唆するものであり」,「即ち国単位の国防生産共同体の形を確立し,計画経済を精化し,指導者原理と自律的統制とを以て,斯の面の合理化を敢行する」ことに「発見されるのではないか」。
③「昭和17年10月日本経営学会第17回大会記〔その1,丹波康太郎〕」 さて,昭和17年10月,関西学院大学で開催された日本経営学会第17回大会において,共通論題「経営理論の問題」を研究報告した〔と思われる〕学者たちとその論題は,つぎのとおりであった2)。 これら研究報告はそのほとんどが,戦時体制下の企業経営問題を強く意識しており,各論題に表わされている以上に特別の含意もこめられていた,といえる。 ・松井辰之助「経営経済学の日本的自覚」 ・池内 信行「経済の本質と経営理論の問題」 ・佐々木吉郎「経営経済本質論」 ・北川 宗蔵「経営学的認識の特性」 ・亀井 辰雄「技術論の課題」 ・村本 福松「経営の倫理と論理」 〔青木庄左衛門「国家と経営に関する心理学的一提言」〕 〔碓氷 厚次「国家と経営」〕 この共通論題の研究報告をおこなった人びとが,具体的にどのような内容を語ったか若干紹介しておきたい3)。 なお,丹波康太郎によれば,上記発表者のうち青木庄左衛門と碓氷厚次は,自由論題の報告者であった。この両名は,以下の紹介ではとりあげない。また,山本安次郎『日本経営学五十年-回顧と展望-』(東洋経済新報社,昭和52年)は,山城 章「第17回日本経営学会と我国経営経済学界」『一橋論叢』(第10巻第6号,昭和17年12月)に依拠した記述のためか4),青木と碓氷の報告を「共通論題(統一論題)」とみなしているようである。 --発表者たちは,上記にかかげた論題にもとづき,こう論じたという。 a)「松井辰之助」は,「民族国家の生存理論より出発して,……国家の本質を究明し,……経営経済学のもつ性格を探究し,以て結論たる日本民族国家的自覚を導き出された」。 b)「池内信行」は,「純粋経済学の立場を解明・批判され,ついで生活経済学の立場を考察し,経済の派生形態たる企業の本質については生活理論を地盤とする展開が重要であると結ばれた」。 c)「北川宗蔵」は,「統制経済の現段階においては,経営学の支柱たる独占資本家の経営実践は,利潤追求のための企業の経営と国家の統制に適合するための企業の経営との結合といふ複雑な形態をとるが,独占資本に関する限り,後者はたゞ前者の転化形態にすぎず,両者は同質的なものとみられる所以を……述べられ……た」。 d)「佐々木吉郎」は,「ゴットル経済学の立場から,経営経済学本質論の成立を展開されると共に,同様な立場をとられる諸経営学者(池内・高宮両教授,ニックリッシュ教授)の見解は未だ必らずしもゴットル的なものではないと分析・批判され」た。 e)「亀井辰雄」は,「経営経済学醇化の任務と技術論の抬頭より説き起こして,経営経済学における技術論の進展を,自由経済時代および統制経済時代について……考察し,……新科学体系における技術論の地位ならびに国民経済学と経営経済学との関係に論究された」。 f)「村本福松」は,「倫理思想の企業の経営への導入とそれによって生ずる経営の論理について述べられた。……利己的動機をとり入れることによって資本主義的経営の発生を論ぜられたるのち,利他的動機の導入による新経営論理について詳細なる考察を披露された」。 昭和17年6月公刊の柴田 敬『新経済論理』(弘文堂書房)は,この年の日本経営学会において報告された論題にまつわる時代背景を,率直に説明してくれる著作である。したがって,同書に柴田のいいぶんを聞いておこう。敗戦後におけるその「顛末」は意識せず,ひとまず引用だけしておく。 a) 既に,新嘉坡は陥落した。武力にかけては我国に及ぶ国は世界にないやうになった。我国の偉大さは更に文化の方面においても示されねばならぬ。理論経済学徒は旧套を脱して,立ち上がらねばならぬ。この意味において,近来,日本的なる新しき理論経済学建設の要請が高いのは,まことに慶賀すべきことである。 経済学の根本的変革は,あたかも米英資本主義世界秩序の瓦解の如く,必至なのであ……る。 b) 米英資本主義的旧秩序に止めを刺すものは,朽廃し反動化せる変質資本主義でも,変質以前の資本主義でもないはずである。それは,……資本主義以上のものであるはずである。しかして,それこそは,世界史の日本時代の経済原理たるべきものであり,その原理にも基づく理論経済学こそは今日我国において展開せられ,来たるべき時代を照すべきものである。 c) 新しき時代ははげしく深刻なる闘争の過程を経て……どれほど物質的生産力を発揮しうるかといふことが最後の勝利の重要なる要件の一つとなる。 日本的なる共同体的全体主義の経済論理の方が資本主義の経済論理よりもより高き生産性を有する。 倫理なき論理は盲目であるが,論理なき倫理は無力である,といふことを我々は銘記しなければならぬのである。 d) それはあくまで,国家生活の一面として他のもろもろの国家生活面との緊密なる関連において,且つ,国家学的実践学的に展開されるものであらねばならぬ。新しき理論経済学の研究が国家哲学乃至歴史哲学と結びついて進められんとしてゐるのは,まことに故あることである5)。
④「ゴットル批判:印南 博吉」 いうまでもないことだが,佐々木吉郎(当時,明治大学商学部教授)は,日本マルクス主義経営経済学の創始者の1人に挙げられるべき人物である。しかし,佐々木吉郎は,『経営経済学総論』昭和13年4月初版,第1章「経営経済の本質」第2節「経営経済の一般的規定」のなかで,こう記述していた。 我が国にあっては,上に尊厳無比の天皇を戴いた,私有財産制度を基底とする社会組織が形成されて居る。我が国の社会組織,社会制度は世代によってちがってゐた。万邦無比の国体に於て変るところはなかった6)。 万世一系‐皇祖皇宗の血筋を最高の位置に冠したこのような記述:日本「神州」論のなかに,マルクス主義経営学者たる佐々木吉郎の容貌をみいだすのは,困難である。 「日本経営学会第17回大会」において佐々木は,「経営経済学本質論の成立を」「ゴットル経済学の立場から展開」することを主張しただけでなく,池内信行や高宮 晋,H・ニックリッシュの見解が「未だ必らずしもゴットル的なものではないと分析・批判」してもいた。 当時,佐々木吉郎の同僚であった印南博吉〔明治大学商学部助教授〕は,昭和17年6月に『経済学の革新-ゴットル経済学研究-』注1)を公刊し,「存在論的価値判断」にもとづくゴットル理論を,「形式的,抽象的な思惟を以てしては,真の洞察に到達することは到底期待し得られない」と喝破した7)。すなわち,戦時体制期を観念‐理論的に風靡していたゴットル流経済科学の問題点を,印南は真正面より批判した。 注1) 本書,印南博吉『経済学の革新-ゴットル経済学研究-』昭和17年初版は,第3版を昭和18年5月に発行する当たり主題と副題を入れかえるかたちで題名を変更し,『ゴットル経済学研究(改訂版)-経済学の革新-』と改題した。
ゴットル,Friedrich von Gottl-Ottlilienfeld, Wesen und Grundbegriffe der Wirtschaft, 1933 の日本語翻訳は,昭和17年中に2冊刊行されている。当時において,ゴットル経済科学の需要がいかほどであったかをうかがわせる出版事情である。 ◎ 中野研二訳『経済の本質および根本概念』白揚社,昭和17年5月。 ◎ 福井孝治校閲,西川清治・藤原光治郎訳『経済の本質と根本概念』岩波書店,昭和17年12月。 --マルクス主義の立場に立ち経営経済学を論究するのであれば,本来,ゴットル経済学の理論志向は絶対に許容できないものである。ところが,戦争中の佐々木は,ゴットル経済学の思惟によって経営経済学本質論を展開することを,他者に対して要求していた。 印南博吉は,戦後に公表する『政治経済学の基本問題』(白山書房,1948年7月)のなかで,戦争中,ゴットル経済学について批判的に言及したがためにうけた学問精神的な圧迫を想起して,こう反論した8)。 a)「全体主義的国家観」……問題の中心は,全体主義的経済理論に於ける民族乃至国家至上主義が,理論上果して正当であるかどうかと云う点に在る。 国の存続を最高の大事とし,祖国の生きんとする苦闘について批判を一切封ずる態度,それは正しく全体主義的な誤った要請ではあるまいか。 全体主義思想に由来する過誤は二度と発生させてはならない。それがためには此思想の誤を正しく認識することが必要である。それにも拘わらず此点の反省は内外を通じて未だ殆ど徹底せず,啻に我国の前途のみならず,人類の将来に対しても暗いかげを投じている。 b)「天皇‐天皇制」……天皇を神と崇める思想は,今や天皇自身に依って否定されている。国家を絶対視し,その安危に臨んでは国民の如何なる犠牲をも要求し得るとの見解は,マルクス主義的な階級国家説の立場からは勿論のこと,……到底承認し難いところである。 果して戦争に関する我国の態度の正当性を立証する有力な理論的裏づけが有ったであろうか。寧ろ反対に,すべては「問答無用」であり,「言挙げせぬ」ことこそ国民の執るべき態度とされたのであった。 c)「ゴットル経済学」……ゴットルの存在論的判断は,その抽象性,定式性のために,具体的確定的な結論を産み出し得ないのみならず,その定式自体が確定していないのである。 社会的存在が,ゴットル的思惟の抽象的理解方法のために,歴史的具体的に捉えられず,単なる図式,単なる形式的定式の樹立に止まっている所に大きな問題が横たわっている。 要は,「大東亜」戦争のとき,経営学者たちが諸手を上げて賛成したゴットル経済学:「存在論的価値判断」を,あえて,批判するがわに立った経済学者印南博吉は,それこそ「白い目」でみられ,非常に辛い思いをしたのである。 もっとも,印南博吉に対して,戦争中批判をくわえ非難を浴びせた経済‐経営学者たちは,戦後,印南からかえされた反批判・反論に対して,わけても,同僚だった佐々木吉郎のようなマル経学者もふくめて,誰1人として応えた形跡がない。
⑤「ゴットル批判:中山伊知郎」 当時,数理経済学の立場を採っていた中山伊知郎は,「ゴットルの学説は果して本来の経済学の平面に降り来ることが出来るか」と問い,ゴットル経済学をこう批判していた。 ゴットル経済学の性質は,……究極において経済学への反省であり,反省と拡充とにおける刺戟である。しかしこの刺戟の中に直ちに問題解決の一切の手段が与へられてゐるとすることは到底許され難い。殊に単に外から与へられたにすぎぬやうな全体の意志や政治理念が吾々の問題解決に何らの実質的貢献をなし得ないことは敢て云ふまでもないのである9)。 中山はまた決然と,「経済の課題を経済学以外の手に委ねる」ゴットル経済学およびその亜流に対して,「経済の論理に対する不当なる軽視がふくまれてゐる」,「構成体の論理を以てそのまゝ現代経済の課題を解き得るものとするならば吾々は断固としてこれに反対せねばならぬ」とも,批判した。 もっとも中山は,「狂信的で一時的なマルクスの流行を除いて」の議論であることを断わり10),国家全体主義の時代における,社会科学者としての自身の安全を図っていた。 大東亜戦争がはじまった年の日本において「マルクスが流行していた」かどうかは,いうまでもない点である。 こうした中山の〈戦時〉的な議論に対しては,前出の柴田 敬が早速,こう噛みついていた。 つまり,中山「教授が経済の戦争経済化に由来する経済論理の変化を認めて居られない」のは,中山「教授の踏襲せられる従来の経済学は,対立物の止揚的統一の論理を求めるものではなく,対立物の妥協的調和の論理を求めるものである」からである。 また,中山「教授は,戦争の刺戟の下に生れ出でんとする新しき思想の生みの悩みを告ぐる今日の経済思想界を,思想過剰と規定し,……経済に対する戦争の新生命付与力を認められず,従って,新しき経済論理の究明に重点をおかれない」。 結局,中山「教授が戦争経済を問題にせられるだけで,現代のそれを特に問題としようとはされなかった」11)。 柴田が中山にも問題にしてほしかった「現代のそれ=新しき思想」とは,つぎのような一文に表現されていた。これは昭和18年元旦,実業家中山太一の発言であった。
ここに引用した中山太一のあいさつ文は,「現在の目を以てすれば,余りにも奇妙な言葉としかいいようがないが,当時はこんなことが語られていたという意味で敢て掲載した」13),と断わるかたちで,ある雑誌に紹介されていたものである。 アジア‐太平洋戦争の時期,柴田 敬と中山伊知郎のいったいどちらが,理論的にも現実的にも,当時の「現代のそれを特に問題としようと」していたのかは,贅言を要しない点である。
⑥「マル経学者への迫害」 昭和18年1月公刊の上林貞治郎『企業及政策の理論』は,「構成体論的企業論分析-ゴットル企業論の究明-」という論稿を収めていたが,こういう結論を提示した。 かくして事態はその現実的客観的本質において分析把握もられることなく,逆に事態が思惟の上に観念的に主観的構成せられ,且つそれ故に矛盾なき調和的な姿においてのみ思惟せられる。ゴットルの企業理論はまさにかかる観念的調和的思惟の上に築き上げられたるものである14)。 戦争の時代において,佐々木吉郎が学問的に支持するゴットル経済学「論」を批判したこの上林貞治郎は,昭和18〔1943〕年5月5日「治安維持法」違反の疑いで検挙され,昭和20〔1945〕年10月6日まで2年5カ月,牢獄につながれる運命となった。 さらに,「日本経営学会第17回大会」昭和17年10月で,「経営学的認識の特性」という発表報告をしたマルクス主義経済学者北川宗蔵(当時和歌山高等商業学校教授)も,昭和19〔1944〕年3月9日,「治安維持法」の疑いをかけられ検挙され,昭和20年の10月9日に釈放されるまで1年7カ月牢獄にとじこめられ,死の危機にも瀕したのであった。 「獄に入る時18貫(約68キロ)あった父の体重は,出てきた時には9貫(約34キロ)になっていました」15)。 上林と北川はともに大阪刑務所に収監されていたが,昭和20年7月10日午前1時前後からの堺大空襲に遭ったさい,北川の独房のまえにも焼夷弾が落ち,発火して,大騒ぎになったこともあった16)。 さらに,「日本経営学会第17回大会」昭和17年10月でやはり発表報告「経営の倫理と論理」をおこなった大阪商科大学商学部教授村本福松は,上林や北川とは対照的な経路をたどったのち,敗戦後「教職員適格審査(大学教員適格審査)」によって昭和22〔1947〕年3月19日,大阪商大を辞職した。 関連するくわしい事情は,『大阪市立大学百年史 全学編 上巻』(大阪市立大学,1987年)の解説などにゆずるが,戦争に率先協力した経営学者村本福松の理論の構想や展開はたとえば,『経営経済の道理-翼賛経営体制の確立-』(文雅堂,昭和17年7月)という戦時作の題名にも正直に表現されている。 古林喜楽「日本経営学会第16回大会記」(『国民経済雑誌』第71巻第6号,昭和16年12月)は,明治大学で昭和16年10月31日金曜日午前10時から開始された共通論題の研究報告に先立ち,「先づ大会委員長太田黒敏男博士司会のもとに宮城遥拝,黙祷の国民儀礼を行った」という記録を残している17)。
⑦「昭和17年10月日本経営学会第17回大会記〔その2,山城 章〕」 ここでもう一度,《戦争の時代》における日本経営学」の性格を,山城 章「第17回日本経営学会と我国経営経済学界」『一橋論叢』第10巻第6号,昭和17年12月に描かれていた姿をとおして,確認しておくことにしたい。 山城 章は,大東亜〔太平洋〕戦争に入った時期に開催された日本経営学会第17回大会を,「今こそ経営学時代の到来を明瞭ならしめた」,「この学の使命は彌が上にも重い」。「この学は自らの途を明瞭に自認し,力強くその歩みについた」と解説した。 第17回大会の各研究報告者の論題内容は,すでに紹介したので,ここでは,山城によって理解されたその大会の意義づけ:解釈面のみを聞いておく。 a)「経営経済学の性格」……我国の現段階に於ける戦争経済秩序下にあって,この学は正にその眞意義を発揮すべきものである。……この学は何等かの意味で著しき転期にあり,或は既に新しき歩みに発足してゐる。すくなくとも昨年来旧来の経営学総しめくゝりの時期であり,日本的経営経済学の出発点をなしつゝあると思はれる。 b)「海外文献の途絶」……かくの如き総決算をとげつゝある斯学は,他方に外国書の完全なる輸入途絶から,旧来の如き忠実なる紹介的研究の方途を絶たれ,過古の集積の上に,日本経営学者自らになる斯学の「研究」と「発展」が課題付けられざるを得なくなってゐる。即ち日本の経営経済学の建設が課せられてゐるのである。 c)「日本経営経済学の建設」……かかる至上の課題の内に沈潜せざるを得ぬ経営学者は,頼るべき外国書もなく,自らの歩みにより,過古の研究集積に足をふまへて,日本の経営学者による日本の経営学の建設に出発せねばならなかったのである。この様な日本的なものは,現下の日本が悩みつゝある日常的体験に内潜して,生々たる理論として確立されるではあるまいか。この行き方は何時に変らず,この学の特性であった様に思へる。 d)「日本的経営経済学の期待」……外国的経営学から遮断せられ,日本的課題の重荷を目前につきつけられたる時,過去の集積が与へられてあらば,これを足場に,所謂日本的経営経済学の生れる期待はもち得るであらう。否生み出さねばならぬ境地に追ひ込まれてゐるのである。日本経営学界の前途は極めて多難であるが,しかし輝かしさに満ちてゐる。 e)「転機における日本経営経済学」……要するに,我国の経営経済学はこの戦争を転機として,いよいよその本来の性格を明かにし,大きな使命をになって再確認せられねばならなくなった。正に経営経済学時代が到来した。しかし外国経営経済学とは絶縁されてゐる。こゝに於いてこの学の総決算,総しめ括りが企てられ,この基礎の上に,所謂日本的経営経済学は建設されざるを得ぬ立場に追ひ込まれ,すでに一歩を踏出しつゝある様に思へる18)。 本稿で筆者は, イ) 戦時体制期が日本の経営〔経済〕学に対して与えた「転機」とは,なんであったのか, ロ) 当時国家全体主義だった政治社会的な経済環境において,社会科学者である経営学者は,どのように「戦争の問題」と対峙したのか, ハ) 当時「外国経営経済学とは絶縁されてゐる。こゝに於いてこの学の総決算,総しめ括りが企てられ」たにもかかわらず,敗戦後再び,「旧来の如き忠実なる紹介的研究の方途」に舞いもどり,戦争中の「所謂日本的経営経済学は建設され」なかった結果をどのように総括すべきか,などに関してくわしく議論するつもりはない注2)。 ただ,こういう点の引用だけにとどめる。 時流に応じて看板の塗換えに急しくしている中に,自分の本音と看板との食違いすら弁別できなくなって,自分自身の本音そのものが何処にあるのか,自分自身にすら自覚できなくなっているような人々が多い19)。 本稿はむしろ,「学問と現実とのかかわりかた」という論点にめぐって,過去および現在における日本の経営学会〔広義では日本の経営学界〕は,どのような人的構成の特性をもって対面していたかに関心がある。「戦争の時代」における社会科学者の姿勢も,そうした関心に関連づけられ議論されねばならない,と考えている。 注2)戦時体制期における日本経営学史の展開模様についての詳論は,裴 富吉『日本経営思想史-戦時体制期の経営学-』マルジュ社,1983年,裴 富吉『経営思想史序説-戦時経営学研究-』マルジュ社,1985年などを参照。 注2:ウェブ版補記)戦時体制期において日本の経営学者は,中国‐英米などとの戦いに「勝つこと」を最優先させる「経営学の立場」を昂揚していた。つまり,当時の日本帝国内で喧伝された大東亜共栄圏という「理想郷の実現が『目的』であり,〔営利〕事業は『手段』と言」っていた。 上久保敏『日本の経済学を築いた五十人-ノン・マルクス経済学者の足跡-』日本評論社,2003年は,戦時期日本の政治経済学について,こう解説している。 「戦時期わが国では純粋経済学へのアンチテーゼとして『政治経済学』が一つの潮流をなした。この政治経済学は,理論のみならず歴史的叙述や政策,国家の経済への関わりあるいは政治の役割を重視しながら,新たな経済学の体系樹立を志向するものであった。政治経済学以外に日本経済学,生活経済学,皇道(国)経済学,国防経済学などの名前で呼ばれたが,時局に迎合したわけのわからない経済学との一方的批判もあって,今日なお十分に研究されていない」20)。 戦時期における日本の経済学界の学問的事情と同様に,日本の経営学界のそれも観察されねばならないだろう。いうなれば,戦時経営学史は,「今日なお十分に研究されていない」からである。「日本では経済学史が盛んな割に,自国の経済学史への関心が薄い」(早坂 忠)21)ことは,「日本の経営学史」に対してもいえる。 日本経営学史を主要な研究の対象にとりくんできたこの国の経営学者は,いままで何人おり,現在は何人いるのか。筆者のしるかぎりいまだ,その数は片手の指で間に合うのである。それは,欧米経営学史の研究に従事する経営学者に対して,比べようもないほど少数・劣勢なのである。日本における経営学研究者の大多数が,戦時体制期の経営理論史にうといどころか,ほとんど学縁のないような実状は,げにむべなるかなである。
⑧「本稿の論点」 筆者の前稿「日本経営学会員の人的構成特性」が考察した「昭和2年1月現在と昭和9年3月現在における日本経営学会会員名簿に関する分析」は,戦前期の日本経営学会を構成する会員数が「高等教育機関6割:実業界関係者4割」という比率関係にあった点を指摘したうえで,理論界と実際界との交流の場ともなっていた同学会の意味をさぐってみた。 「戦争の時代:太平洋(大東亜)戦争」は,日本経営学会の年次大会:全国的な活動を中断させ,日本の経営学界につらなる理論界と実際界のそれぞれにおいて,そしてその両界の交流関係においても「特殊で異常な時代精神」を醸成させた。とりわけ,経営学者たちの「並々ならぬ戦争協力」の姿は当時,異様とも思えるほど「理論的使命の高揚感」を表現するものであった。 松本雅男「日本経営学会第16回大会記」(『一橋論叢』第8巻第6号,昭和16年12月)は,「学会と実際界との連繋を一層密接ならしむるために商工会議所の専門委員会に一層広範囲に専門学者を参加せしむることが一部の会員によって強く主張せられたことを付記しておこう」と記録している22)。 前述のように本稿は,いまでは「アジア‐太平洋戦争」とか「15年戦争」とか表現される「戦争の時代」の経営学史‐経営思想史的な問題については,くわしく言及しない。ただ,戦前期における日本経営学会の人的構成特性だった「高等教育機関6割:実業界関係者4割」が,その戦争を契機に事後,おおきく変質させられた点に注目するのである。 つまり,戦前期まで「高等教育機関6割:実業界関係者4割」だった日本経営学会の人的構成特性が,敗戦後の流れにおいてはなにゆえ,ほぼ「高等教育機関10割:実業界関係者0割(正確には数%)」とみるべき比率関係に様がわりしていったのかという点に着目し,検討するのである。 筆者が前稿「日本経営学会員の人的構成特性」を公表し,その抜刷を知己の経営学者に進呈したところ,「敗戦後どうしてそのような変化が日本経営学会において生じたのか」という歴史的な変化がひとつの論点となり,議論されるべき価値があることを示唆された(桃山学院大学片岡信之の指摘,2003年12月27日私信)。 戦前期の「日本経営学会規則」は,「四. 会員」で,「1本会ハ商学,経営学ヲ研究シ又ハ之ニ興味ヲ有スル学者並ニ実務家ヲ以テ組織ス」と規定していた。これに対し,戦後期の「日本経営学会規則」は,「第4条」に,「本会は経営学,商学を研究する者をもって組織する」と規定し,明確な変更をみせていた。 「日本経営学会規則」のそうした変更点は,本稿における議論の前提である。 最近,日本経営学会員の構成は〔2004年7月20日現在で同会員数は 2170名〕,ごく少数〔数%〕を除き,大多数を高等教育機関の研究者:教員が占めている。このことは,前稿でも触れた事実である。これまで,その事実そのもの,あるいはその由来などを,問題意識をもって考える機会が与えられていなかった。本稿はこの論点を議論する。
戦前期,高等工業学校や工学部系統の高等教育機関で工場管理学を講義するだけでなく,実業界における工場実践に対しても,理論的な指導する経営学者がいなかったわけではない。ただし,商学部や経済学部方面の関係学者はすくなかったので,こちらにはひとまず重点をおかない論及とする。 高等工業学校‐工学部系統の教育機関で工場管理学〔や工場経営法,科学的管理法〕などを教授した人士は,教員であるばあい(桐淵勘蔵,西田博太郎など),実業界との交流をもっていた。また,経営コンサルタント(上野陽一や荒木東一郎,井上好一など「能率技師」)や,工場管理実務指導者(神田孝一,伍堂卓雄など)は逆に,高等教育機関に講師として出向き,工場管理学などを講義するばあいも多数あった。 実業界〔工業界:産業界〕がわの関係者,いいかえれば,会社の経営管理者や技術担当者〔工場・鉱山・銀行・商店などの〕が高等教育機関に出講し,学生に実用的な講義をおこない,「管理能力のある人材」養成に力を注いできた歴史があった注3)。 今風にいうならそれは,工場管理の科学的な運営技術に関して,経営工学(生産工学)的な知識・技能の育成に努めてきた歴史のことである。 注3)ここの記述についてくわしい事情,とくに,高等教育機関における経営学関係科目の開講状況は,裴 富吉「工学部における経営学教育の展開-戦前期高等教育機関における工場管理学側面史-」『大阪産業大学論集〈社会科学編〉』第101号,1996年3月,裴 富吉「戦前期高等教育機関における経営学教育科目-商学部・経済学部における実態分析-」『大阪産業大学論集〈社会科学編〉』第103号,1996年9月を参照。
以上のような高等工業学校や工学部系統の教員・人士も,大正15年7月に創立された日本経営学会に入会していた。だが,全員が入会していたわけではない。ところが,戦後新制大学への移行にともない,工学部や理工学部へと名称をかえる高等教育機関などで工場管理学を教えていた教員たちは,戦争中にその学会活動を中断した日本経営学会に復帰することに積極的ではなかった経過がうかがえる。 そうした事実は,戦時期において高等教育機関〔高等工業学校や工学部など〕において,「工場管理学など」の教鞭をとっていた専任教員,および非常勤講師の役目をになっていた実務界の人士が,日本経営学会が戦後に活動を再開しはじめるに当たり,すすんで参加しなかったことを意味する。 戦争中,軍需生産のために必死におこなわれた「能率研究・能率指導」にたずさわってきた人びとは,戦後再出発した日本経営学会による理論重視の学界的活動とは「べつの世界=圏域」で,すなわち,実業界(工業界・商業界)の方面で独立したかたちをとって,会社経営‐製造業務の現場に密着した実践指導的な諸活動をおこなっていくことになった。彼らは結局,戦後に設立された実業界寄りの,ほかの諸学会に参加していくのであった。 ここで,戦争中「能率研究・能率指導」に従事してきた関係人士〔能率技師:経営コンサルタント〕の諸活動については,それを代表する組織や人物に関連した文献を挙げておくことが有意義である。 まず,昭和17年3月に設立された日本能率協会に関しては,以下の文献がある。 ・日本能率協会編『10年間の足跡-創立10周年記念刊行-』日本能率協会,昭和27年。 ・日本能率協会編『経営と共に-日本能率協会コンサルティング技術40年』日本能率協会,昭和57年。 ・日本能率協会篇『森川覺三の世界』企画編集委員会編『森川覺三の世界-経営能率に賭けた その生涯』日本能率協会,昭和61年。 つぎに,上野陽一関係の文献として,つぎのものが挙げられる。 ・上野陽一『能率概論』同文館,昭和13年。 ・上野陽一編『能率ハンドブック 全4分冊』同文館,昭和14~16年。 ・上野陽一『能率学原論(改訂版)』技報堂,昭和30年。 ・産業能率短期大学編『上野陽一伝』産業能率短期大学出版部,昭和42年。 ・斎藤毅憲『上野陽一-人と業績』産業能率大学,昭和58年。 ・斎藤毅憲『上野陽一と経営学のパイオニア』産業能率大学,昭和61年。 さらに,荒木東一郎関係の文献として,つぎのものが挙げられる。 ・荒木東一郎『能率一代記-経営顧問五十年-』日本経営能率研究所,昭和46年。 ・荒木東一郎『実践経営学-続能率一代記-』同文舘,昭和47年。 ・猪飼聖紀『合理の熱気球-反骨の経営コンサルタント荒木東一郎の生涯-』四海書房,1991年。 以上に挙げた人物は,民間関係の出身者ばかりであるが,戦前期におけるほかの重要かつ有名な人物として,「民の上野陽一」と並んで「軍の伍堂卓雄・官の山下興家」がいた。 --筆者は,戦前期は「高等教育機関6割:実業界関係者4割」だった日本経営学会の人的構成特性が,敗戦後にほぼ「高等教育機関10割:実業界関係者0割」の比率関係に変質していった事由を,主に以下の3点に求めて本稿の考察をおこなうことにする。 1) 戦争の時代までにあった〈理論の世界〉と〈実際の世界〉の交流関係。 2) 戦中‐戦後における〈両世界〉間関係の遊離‐断絶〔前項Ⅰ⑧「本稿の論点」末尾に指摘の「日本経営学会規則」における変更点〕。 3) 戦後に創立された実務界寄りの諸学会。
Ⅱ-1) 戦争の時代における理論と実際 15年戦争期において軍需物資の生産‐供給に大童となった「持たざる国」日本の工業界は,生産工程において懸案だった能率増進や生産性向上の仕事に従事する「能率指導者(能率技師)」を総動員した。太平洋戦争:大東亜戦争はいうまでもなく,国家経済の生産力を挙げての総力戦であった。 当時は,製造現場で効率的製造のために働く能率技師たちだけでなく,工場や会社の円滑な生産管理・執務運営を目標とし,研究の対象にとりあげる経営学者たちも,学問体制の総動員に協力することになった。とりわけ,近経的経営学者と目されるべき研究者の,戦時経営理論的な研究成果は,注目に値する提唱をおこなっていた。 ◎「山城 章」……『新企業形態の理論』(経済図書,昭和19年2月)は,資本的営利を中心とする資本‐経営‐労務の一体を考える「企業体制」ではなく,資本が手段化され,経営自主体を確立するという「正しき意味」における,資本と経営と労務の一体化が成立することを主張した23)。 戦後に展開されはじめたかのように誤解されている山城理論:「経営自主体」論は,その発想源泉を本当は戦時中にもつものであった。 だが,経営学界ではその基本的事実に気づかないまま,山城の学説に好意的な解釈をくわえてきた。企業をかこむ利害者諸集団を均衡的に配慮したものとうけとられた「経営自主体〈論〉」は,最近における企業統治論につながる論点を示唆していたかようにもうけとれる。 山城の発想が最初になされた歴史環境的な経済社会の特徴をその背景として顧慮しない理解は,ボタンのかけまちがいをしたものというほかない。 筆者の批判は,戦時中に「正しき意味」における「企業体制」を「資本が手段化された〈経営自主体〉」にみいだすべきだと確言した山城理論は,その後においてまちがいなく,現実遊離をきたした事実に向けられている。 山城学説が提唱されてからすでに60年も経ったいまでも,〔もちろん〕先進資本主義諸国の資本制会社:企業経営にかぎっての話だが,「〈資本が手段化〉された〈経営自主体〉」など,どこにも存在していない。 ところが,戦時的な淵源を有したそういう山城「経営自主体」論が,日本有数の実践的経営学「論」と処遇されてきた。日本の経営学界におけるそのたぐいの迂闊さは,権威筋学者の理論主張であればこれを鵜呑みするところから生じていた。 ◎「平井泰太郎」……『国防経済講話』(千倉書房,昭和16年5月),『統制経済と経営経済』(日本評論社,昭和17年5月)という戦時作をもつ平井泰太郎は,神戸商大新聞部編『経済及経済学の再出発』(日本評論社,昭和19年1月)に「経営国家学」という戦時〔臨戦〕体制的な論稿を寄せ,こう主張した。 今や,経営経済学も亦国家経済に奉仕し,其意義の下に於て主体の論理に基く規範学として再編せざるべからざるの要請に迫らるゝに至って居るのである。要言すれば,国家経済学としての経営経済学が問題とせられつゝあるのである24)。 もとはいえば平井は,「一般的個別経済学」としての経営学を提唱していた。だが,「戦争の時代」に立ちいたっては職域奉公を考え,「経営学の対象」である「〈個別主体〉の論理」も「〈国家〉主体の論理」に従属させねばならない,と主張した。 平井の経営学:「個別経済学」は,その研究対象を資本主義企業経営に限定しない観点を用意していた。そのため,資本主義の発展・高度化にともなってこそ登場した経営学という学問の位置づけを,体制無関連的要因において肥大化させ,体制関連的要因を稀釈化する方途をとった結果,戦争の時代における全体主義国家の意向に迎合する方向を打ちだし,嚥下されていった。 すなわち,こう述べるにいたった。 我国経営学は,従って一般的に……経営国家学化すると共に,又,我国独自の経済機構の闡明を基調とする素材の獲得,整理吟味よりの必然的過程を包含する意味に於ての新しき,調査研究及び,国情,時代及び指導の三つの坐標を新たにしたる基盤の上にたつ正しき経営学成立を促進することとなって来つゝあり,又,来るであらうと期待せらるゝことである25)。 平井もまた,戦時体制期において「正しき経営学」を明示した。しかし,この方途は完全に的をはずすしたものであった。当時も,日本経済が資本主義をやめていなかったかぎり,実は,経営国家学としての「正しき経営学」ほうが資本主義の〈必然的過程〉をとらえそこない,真剣にだがごく単純に,夢想的な主張を披露したにすぎない。 ◎「増地庸治郎(藻利重隆)」……『経営要論』(巖松堂書店,昭和4年初版)をもって,経営経済学の認識基準は「経済性を目標とする生産単位」であるとまちがえて規定した増地庸治郎は,昭和20年2月に編著『戦時経営学』を公刊する。敗戦の年この時期に図書を刊行できたのは,僥倖といってよい境遇なのである。 増地は,戦争協力をする多くの経営学書を編集・刊行し,経営学関係全集も企画・編集した。さらに,それらを挙げておく。 『統制経済下に於ける経営学』巖松堂書店,昭和16年2月。 『生産力拡充と経営合理化』日本評論社,昭和18年1月。 『企業形態の研究』日本評論社,昭和19年6月。 『軍需会社』山海堂,昭和19年10月。→下掲「工業経営論集」第1輯。 『戦時経営学』巖松堂書店,昭和20年2月。 『生産管理の理論』日本評論社,昭和20年5月。 「工業経営学叢書」「工業経営論集」「工業経営論叢」山海堂,昭和19年に企画されていた図書で,敗戦まで刊行できたものはすくない。「工業経営論叢」に関して,筆者がその刊行を確認できたものは,〔Ⅰ〕増地庸治郎『工場資材管理』昭和19年6月,〔Ⅱ〕古川栄一『軍需品工場の会計監督制度』昭和19年9月,〔Ⅲ〕大木秀男『技術的進歩の理論』昭和19年9月だけである。 以上の著作のうち増地編『戦時経営学』昭和20年2月は,藻利重隆の論稿「経営共同体理論」(初出「経営の具体的把握に関する一考察」『一橋論叢』第13巻第1号,昭和19年1月)を,最後部に収録(転載)していた。 この論稿は,ナチス流の「経営生物学(Betriebsbiologie)」を主張しており,戦後に「藻利経営学」の呼び名で有名となる「経営二重構造論」の発想基盤を用意したものである。 藻利は,経営理論の〈戦時的なありかた〉を,こう主張していた。 「経営を生活構成体として,従って経営共同体として把握する」。 「経営共同体の問題即ち経営の共同体理論は」,「全体的個体性の理論に,従って民族的乃至国家的経営の理論に想到することによってのみはじめてこれを解明し得るものとなることを信ずるものである」26)。 戦時中に,藻利重隆のようなゴットリアネールの経営学者が「経営共同体論」の用語をもって論じたのは,こういうことであった。ゴットル『経済と現実』1939年から引照しつつ説明しよう。 つまり,あの戦争の時代において「『経営協同体』は,産業上共同に勤労する者の圏が窮極にして最高の協同体,すなはち国民協同体の,いはば『細胞』にまで自己を高めるといふ世界観上深い意味において要請されるのである」。したがって,「『構成体中心の思惟』にとってはこの要請も生活上適切に正しいものとしてあらはれる」。 いいかえれば,「国民協同体の生活力を増進するものは端的に生活上正しいものとして妥当することが出来る。構成体論的思惟が生活の現実から得る認識はここにその頂点に達する」27)。 戦時中の藻利学説は,たしかにそういう「経営共同体」論の見解であった。だが,戦後になると「〈国民協同体→構成体〉論的な思惟」にしたがうところの経営共同体「論」は,直接触れられなくなり,資本主義企業経営の目的観そのものを「総資本付加価値率の極大化」論に表現しなおすところの「経営共同体論」に変化した。しかし,これにしても,資本主義体制下の営利会社の実態をあいかわらず,いわゆるゴットル流の「存在論的価値判断(das ontologische Werturteil)」によって構成主義的に装飾・歪曲していた点では,なにもかわりがないものであった。 すなわち,「藻利経営学」が戦後に提示した経営共同体論的な「企業目的観」は,資本制会社経営の現実問題そのものを抽象化するに当たり,戦時中においては「〈国民協同体→構成体〉論的な思惟」:「全体主義的理念の価値判断」を優先させていた「民族的乃至国家的立場」そのものを,戦後日本の民主主義社会への適応・延命を図って変装させたものなのである。 戦時中と同じく「経営共同体」論的ではあったのだが,戦後にうつってからは,資本主義的経営に関して「企業目的観=総資本付加価値率の極大化」論が主張された。そのために,「藻利経営学」の本源的な発想であったはずの,戦時的な「経営の共同体理論」「全体主義的=民族的・国家的立場」が隠蔽され,その根幹に控えていた歴史的源泉,かつての国民協同体的な経営共同体「観」が透視しにくくなった。 とはいえ,藻利学説の原型である「ナチス流経営生物学」が「経営二重構造論」へ,そしてその「国家全体主義的な企業目的観」が「総資本付加価値率の極大化」論へ変身していった軌跡を追跡することは,それほど困難な作業なのではない。藻利の業績を,学史的に追究し,検討すればただちに判明する事実である。 さて,戦時体制期の日本において,以上のごとき特異な主張を展開した著名な経営学者たちは,日本経営学史上どのような位置を占める人びとであったか。 a) 一橋商学における経営学研究の伝統は上田貞次郎にはじまり,増地庸治郎を経て,「東の一橋」の山城 章・藻利重隆・古川栄一や,「西の神戸」の平井泰太郎などにうけつがれていった。 b) 戦争の時代,いいかえれば昭和10年代に入り日本の経営学界においては,高等教育機関において教鞭をとっていた研究者が,前段のように「現実遊離」の国家全体主義的で規範的な主張に突っぱしっていった。 c) それでは,敗戦の年まで日本産業経営における生産力拡充や生産増強は,実際にいかほど達成できていたか。 たとえば,非常時:準戦時体制期にマルクシスト古林喜楽が「奴隷のことば」をもって書いたという『経営労務論』(東洋出版社,昭和11年12月)「初版」本の〈装訂の出来具合〉と,本格的な戦時体制期になっていた昭和15年11月に重版された,同書「第4刷」の〈それ〉とを比較してみればよい。 その間において現われた落差,すなわち,「使用された紙」の品質悪化や「装訂の伎倆」の水準低下は,一目瞭然である。これは,明らかに戦争の悪影響によって生じた「端的な現象」である。 古林『経営労務論』はとくに,昭和11年初版の装訂だった上製菊判〔天地の規格23㎝〕が,昭和15年第4版ではA5判〔同22㎝〕と小さくなっていた。本書は,東洋出版社の経営学全集の第8巻として公刊されていた。筆者の所蔵本でわかるかぎりこの全集は,昭和14年3月まで製作した各巻を,上製菊判の規格:大きさで製本‐販売していた。 同じような例を,さらに挙げよう。 池内信行『経営経済学の基本問題』(理想社,昭和17年9月初版)は,昭和18年4月に第2版を重ねた。本書の再版までの間隔は7カ月である。太平洋〔大東亜〕戦争の悪影響が深刻化した全体的な状況は,この時期において,より加速した同書〈上製装訂の出来具体〉の質的低下をとおしても感知できる。 美濃口時次郎『人的資源論』(八元社,昭和16年3月初版)は菊判上製だったが,昭和18年9月に再版した改訂増補版は,かなり見劣りのする並製A5判に変更,発行していた。 なお,以上3例については「函付き」か否かの点も関心があるが,すべてをそろえて確認できない点なので,説明の対象外とした。 ともかく,昭和12〔1937〕年7月開始した日中両国の本格的な戦争事態は,日本経済に対する悪影響を深化させていったわけだが,図書の装訂をとおしてもその事実の一端は実感させられたのである。 ところが,戦争中に経営学者たちが挙げた学問業績とはべつに,すでに昭和13〔1938〕年4月1日に公布,5月5日に施行されていた「国家総動員法」のもとで,軍需物資の能率的な生産体制の構築,あるいは製造効率の向上に向け,必死になって協力・邁進していた能率技師の一群がいたのである。 しかしながら,なかでも「日本能率学の父」とまで称される上野陽一は,彼本来の資質であるリベラルな精神とは肌合いが時代的に合わなくなった「満州事変」(昭和6〔1931〕年9月)以降,日本の能率界でそれまで誇っていたその地位と権威を軍部関係者にゆずるほかなくなった。 大正時代後期より日本の能率増進活動において,理論と実際の両面より八面六臂の活躍をしてきた上野陽一であった。 けれども,昭和8〔1933〕年6月におこなわれた日本能率聯合会の選挙において上野陽一は,理事長の職を波多野貞夫(日本学術振興会常務理事,海軍中将)に渡し,顧問に退いたのである。上野は昭和10年代になると,「能率哲学」とか「能率道」とも称すべき世界のほうに能率研究・指導の舵をとることになった。 上野陽一『能率概論』(同文館,昭和13年)は,「能率人としての人生観」を論じた著書である28)。つまり,「能率論ヲ 人間生活論ニ マデ ヒロゲヨート シタ」のである29)。 昭和16年8月9日,上野は能率道場を開く。この道場は,昭和17年4月17日に開校された「日本能率学校」に継承されていく30)。この学校はさらに戦後,昭和25年設立の産業能率短期大学を経て,昭和54年設立の産業能率大学〔現産能大学〕へ発展していく。 ここで,表1「日本能率聯合会役員構成(昭和8年6月)」を参照したい。この日本能率聯合会の構成員をかいまみれば,当時における日本の産業〔能率〕界で活躍していた人的構成の特性に接することができる。 海軍中将波多野貞夫は,昭和15年9月に刊行した『戦時下ニ於ケル工場経営管理 第1編総論』(千倉書房)を製作・刊行するに当たり,「大部分ハ自分ト日本能率聯合会ソノ他ノ同人ノ労作ニナルモノデ,中ニハ無断デ載セルモノデアルカモ知レナイ。之ニ対シテハ寛容ヲ願ヒタイ」と,無体なことを公言していた31)。 理論の世界において経営学者が全体主義的国家思想に引きこまれ,現実遊離の学説をとなえるのと並行して,軍人〔波多野は工学博士〕がこのように,学術上守るべき基本的な約束を蹂躙する行為を犯すようになっていたのである。 前掲の表1「日本能率聯合会役員構成(昭和8年6月)」は, a) 能率研究・指導家の上野陽一はじめ,能率技師の荒木東一郎や伊藤熊太郎,金子利八郎, b) さらに,満州国で最大の国策企業「満鉄」の大内次男など,公私と国内外を問わず会社法人関係で,能率問題に関心をもってとりくんでいた多くの企業経営者たち, c) そして,官僚たち〔国・地方〕, など多数が参画していた事実を教えている。 日本能率聯合会は昭和2年11月に発足していたが,会社次元‐財界組織‐官界領域の多方面から多くの人材が参集するかたちで組織されていた。くわえてここで,日本能率聯合会発足当初の人的構成をしるために,表2「日本能率聯合会役員(昭和3年9月)」も参照しておく。この時点で上野陽一が占めていた立場‐地位「常務理事」に,あらためて留意しておきたい。
Ⅱ-2) 戦中‐戦後における「〈両〉世界」間関係の遊離‐断絶 昭和17〔1942〕年3月,太平洋〔大東亜〕戦争の勃発をうけて,当時日本における2大能率団体であった日本能率聯合会と日本工業協会は,商工大臣岸 信介の斡旋により統合され,日本能率協会の発足となった。当時は,戦争目的完遂のうえで能率的,効率的ではないという国家的認識のもとに,産業組織方面のみならず,すべての組織・機関が統廃合‐集中・合併を強制された時代であった。 とりわけ,20世紀の戦争は国家間の近代的な総力戦である。あらゆる物資が戦争用に振りむけられ費消される方途を覚悟し,そのために社会経済的な再生産構造を全面的に運行させねばならなかった。したがって,そうした戦争の要求に整合的でない,いいかえれば,生産能率的観点から効果的でないと判断された組織・施設は,国家の命によって大幅な整理‐統合を迫られたのである。 日本能率聯合会と日本工業協会の組織統合によって登場した日本能率協会は,日本産業経済全体に対して,戦争遂行:軍需品生産を効果的に促進させるため能率指導をおこなう「国策的な統一機関」であった。 もっぱら戦争を意識して仕事をすることになった能率指導家・技師は,各種の能率指導を生産方法‐管理技術的に試み,それなりの成果も上げたばあいもある。しかし,能率指導者・技師たちの懸命な努力にもかかわらず,工場や鉱山における製造‐採掘の作業能率や生産増強は,全体経済的にみて好転していかなかった。というのも,そうした努力が報われるような産業経済的な諸条件は,戦時体制の進行・深化とともに確実にうしなわれていったからである。それが,当時日本における戦争経済下の実態・実情であった。 戦時体制期において能率を増進させ,生産を合理化し,生産性を向上させて戦争に必要な物資をより多く産出させようとしても,なかなか思うようにはいかなかった。というのも,人的資源はどんどん兵隊にとられ〔労働者数の絶対的不足,熟練技能の稀釈化〕,生産技術面も不利な立場に追いこまれ〔海外からの最新の技術摂取・機械導入の途絶,設備・機械の劣化・損耗〕,しかも,物的資源は原材料も部品・完成品も,優先的・重点的に軍需‐兵站用に配分されるばかりであった〔出血的な経済縮小再生産過程〕。 とりわけ,戦時期において日本機械工業の水準は,工作機械の輸入中絶をもって原因とする不利・劣位を余儀なくされていた。この点は,太平洋戦争に入る前年:昭和15年には決定的な状況となっていた。 a)「国家総力:軍事力」……兵器生産の要素は資材,設備,労働力,生産技術,基本工業能力,資本(兵器予算)などに左右される。日本では満州事変後の軍・官の政策によってその能力は向上し,中日戦争開始前に最高点に達した。もし日本が侵略戦争を開始しなかったと仮定すれば,一時的には,国力を上まわる軍事力を維持しえたことになる。だが,中国に対する侵略戦争は,日本の軍事的基礎能力と戦力の急激な低下を導いた32)。 b)「日本工業の脆弱性」……基礎部門である鉄鋼業や工作機械工業などが多くの点で弱点をもっていたことは,日本全体の総合工業力を弱めることとなった。軍事工業に最大の重点がおかれたにもかかわらず,-いや,むしろ,それだからこそ-日本の軍事工業は結局その弱点をさらけだし,太平洋戦争には軍事工業はもろくも崩壊した。戦争とともに栄えた日本の工業は,ほかならぬ戦争のためにくずれさったのである33)。 c)「工作機械工業の脆弱性」……「我国工作機械工業の製造する工作機械の大部分が,所謂汎用工作機械であり,特殊工作機械製造は極めて貧弱である。しかもこゝで特殊工作機械と言ふのは周知の如く高速旋盤,精密ネヂ切旋盤,治具ボール盤,歯切機械等であるが,是等の特殊工作機械が今日の機械工作上,最も重要である所から注意しなければならぬ。而して,この種特殊工作機械に就ては,輸入統制為替不利の現状に於てなほ大部分を国外より供給を仰がねばならない状態にある」34)。 「外国工作機械……はマザーマシンになると同時に新機種生産のためのモデルマシンにもなる。工作機械工業を強化するためにはまず外国機械を輸入しなければならないという皮肉な事態だった。この業界だけでなくあらゆる業界が欧米の工作機械の輸入に熱中した。当時は輸入機械をどれだけ保有しているかが技術水準の評価のメドとされた。しかし第2次大戦で欧州の機械が入手難となり,続いて昭和15年にアメリカは工作機械の対日輸出を禁止したので輸入の道はすべて閉ざされた。 それまでの輸入機械の主流は汎用機であり,用途は広いが特殊工程では高性能を期待できない。その上歯切り盤,研削盤,クランク軸加工機など航空機生産に不可欠の特殊機械は絶対数が不足していた」35)。 「満州事変以来,国産工作機械の貧困による軍事ならびに一般機械生産の基礎が脆弱であることが認められ,そしていちはやく1938年,工作機械製造事業法の制定,および国立機械試験所の設置がおこなわれて,振興にのりだした」36)。 「1938年の工作機械製造事業法によって,たしかに工作機械メーカーの数は飛躍的に増し,一般機種の技術もたかまりはしたが,高級機種にあっては,太平洋戦争直前まで,だいたいにおいて外国の模倣以上の段階を出ることはできなかったのである」37)。 d)「航空機工業の実力」……「航空機工業が精密な高度の総合工業であるにも拘らず,早くから急速に成長した原因は,低賃金による過重労働と,生産量が少なくても確実な利益の保証であった。同時にこの性格は戦争の継続によって急速に強化されたわけである」。 「日本の航空工業の生涯こそ,軍事的膨脹と戦争の危険の一大支柱となり,その破壊性の規模を拡大深化させ,そして国民生活の崩壊を必然的にした重要因子の一つであった」38)。 「近代戦争にとってもっとも重要な航空機生産の状況……によれば,機体生産における陸海軍合計の生産達成率は,昭和12年の77.0%が,15年の65.9%へと低下している。発動機生産においても,陸海軍合計の生産達成率は,昭和12年の101.9%が15年には77.5%へと低落している。……政府のありとあらゆる優先的とりあつかいをうけて,しかもこのような生産達成率の低下現象がおこっているのである。/民間軍需会社をつうじて,このように未消化生産がつよまっていくところに,軍事生産の致命的な弱点が象徴的にしめされている」39)。 e)「戦時労働の実態悪化」……「造兵廠の作業熟練度は向上せず,これに生産計画の混乱が加わった。これに対し熟練基幹工員数を限定して召集猶予制度を採用し,工員の平均作業時間を1日10時間50分(12時間労働)に拘束したが,全機械設備の62%の昼夜運転が最高であり,工員欠勤率を平均10%以下に切下げることが不可能であった。これは衣食住の困難と,衛生環境の極悪化に伴う長期病欠が多く,戦争末期に至っては空襲被害による欠勤が加わった」40)。 これが,「神風に依頼する代りに機械力戦で威嚇せんとする欧米人の常套の手段を封ずるだけの準備がなければならぬ」41)「神州:日本」の実体=実力であり,また,「西太平洋は既に我が基礎海面であって,米国艦隊のこの海面強行突破は不可能であらう」42),と信じることのできた旧大日本帝国の実相・観念であった。 まさしく,総合的な国家力=経済力=生産力の戦いであった第2次世界大戦は,枢軸国がわの敗戦をもって終結した。大日本帝国は植民地はもちろん,固有の領土とされた地域などもうしない,4つの島からなる国,いいかえれば,石橋湛山の主張した「小国主義」を実践しつつ生きていかねばならない敗戦国:日本となった。 敗戦の年から朝鮮戦争勃発の年まで,日本の状況を素描する43)。 昭和20〔1945〕年……日本は焼土と化した。敗戦時の鉱工業生産は,戦前水準(1934~36年平均)の10%となり,農業生産60%,実質賃金水準30%,1人当たり実質消費水準は60%であった。巨額の戦時国債発行による過大な貨幣購買力が生産とのバランスをうしない,食糧危機による食品価格の暴騰とあいまって,悪性インフレが猛威をふるった。この年の日本人の平均寿命,男23.9歳,女性37.5歳。 昭和21〔1946〕年……主食の遅配があいつぎ,闇の食糧で飢えをしのいでいた。 昭和22〔1947〕年……傾斜生産方式の流れにつづいた経済政策の基本線は,鉄鋼を中心とする金属産業の生産維持・拡大を図るためのものであった。 昭和23〔1948〕年……主食の配給は2合7勺(387g)となり,カロリー摂取量は多少改善されるが,食べるための生活という基本線はかわらない。この年のエンゲル計数63.8%。物価は依然はげしく上昇。 昭和24〔1949〕年……インフレ克服により日本経済を一挙に安定にみちびこうとするドッジラインは,その目的は達した。だが反面,消費の抑制と産業資金供給の縮小により,いわゆる安定恐慌と失業による社会不安をもたらした。 大企業は人員整理・賃金カット・下請加工費カット,さらに,銀行融資などにより復活・成長への道を歩みはじめるが,製造業とくに中小企業の半数近くが休‐廃業状態となる。大企業の合理化と中小企業の倒産は失業人口を増加させた。 デフレの進行をやわらげるため,1949年半ばからディスインフレ政策とよばれる金融緩和策がおこなわれるが,融資は大企業に集中,大企業中心の経済復興・経済成長の軌道ができてくる。 昭和25〔1950〕年……朝鮮戦争が勃発する。世界各国は軍需の拡張に走りだし,輸出が伸長。また日本が戦場に近いことにより,緊急物資調達のための特需が大量に発注される。生産水準は上昇し,産業界は好況に転ずる。動乱は経済運営の考えかたを一変させた。女性の平均寿命が61.4歳を超え,男性58歳。 このように,1950〔昭和25〕年6月25日に突如起きた朝鮮戦争は,日本経済にとって千載一遇,起死回生となるカンフル剤と栄養剤を打ちこんでくれた。日本はこの隣国の戦争をきっかけに,戦前‐戦中期において産業・経営が蓄えてきた「能率の思想と技術」を,大いに生かせる機会をえた。 戦時体制期においては急造的な対応・対策の面もあったけれども,能率技師の育成に力が注がれ,また実践の場で彼らは経験も積んできたから,戦後日本の産業経営においてその知識・技量が経済復興のために役立つ機会を与えられたのである。 敗戦後の日本能率協会は,GHQ占領統治下にあった期間,会長に戴いていた旧海軍造兵中将の伍堂卓雄をはずさざるをえなかった。だが,日本国独立〔講和条約発効〕後は早速,相当高齢の伍堂を会長に復帰させている。その間,理事長を勤めていた森川覚三が実質,最高責任者の任務をこなしてきた注4)。 日本能率協会編『経営と共に-日本能率協会コンサルティング技術40年』(日本能率協会,昭和57年)は,当時の状況をこう記述している。 昭和20年8月に終戦,ほとんど同時期の9月に,GHQ(連合国軍総司令部)から,能率団体に対する日本政府の補助金打ち切りを命ぜられた。戦前の日本工業協会時代10年と,戦時下の日本能率協会3年半と通じた,商工省や軍需省の外郭団体としての任務や性格が,この命令で180度の転換を迫られることとなった。 森川理事長は協会事業を大幅に整理し,日本標準規格事業や熱管理事業を分離独立させた。伍堂会長は戦犯として巣鴨に収容され,森川理事長にもパージの噂が飛びかわされあほどである44)。 注4)森川覚三については,裴 富吉「日本能率協会と森川覚三-能率概念の体制無関連的な意味-」『大阪産業大学経営論集』第4巻第3号,2003年6月参照。
しかし,第2次大戦後終了とともに形成されてきた東西対立の冷戦構造は,日本能率協会にそれ以上「不幸」はもたらさなかった。日本能率協会の会長に復帰したころ伍堂は,日本能率協会編『10年間の足跡』(日本能率協会,昭和27年)に寄せた「自立経済と日本能率協会の使命」と題した一文で,「戦時期:戦争の時代」と寸分かわらぬ能率観を披露した。要は,能率の仕える「戦争経済」が「自立経済」にかわっただけの論調であった。 生産能率増進の諸方途を検討立案し,とくに労務管理の合理化については,わが国民性の長所である家族制度を尊重して,資 経 労の収得を公正ならしめ,労務者の資本家 経営者に対する嫉視を除去し,三者一体となってわが国経済の自立に邁進せしむるよう,かれ等のよき相談相手となることが,向後日本の能率協会の行くべき道であると信ずるのである45)。 大東亜〔太平洋〕戦争の時期とまったくかわらない発言内容である。この内容は,「能率増進の諸方策そのもの」を検討・立案するという目標にかぎっていえば,なにも変化がないものといえる。「わが国経済の自立」が「わが国経済の戦勝」にとってかわったにすぎないのである。 問題は,その能率増進という目標,いいかえれば,生産性向上を「資本‐経営‐労働」が三者一体になって追求し,日本経済の自立‐隆盛のために働くところに日本能率協会の任務をみいだす,という点である。戦時期においては,戦争目的のために能率増進の技術的な高揚が期待されていたが,戦後においても再び,「それじたい」としてなんら差異のない「体制無関連的な目標:生産能率増進」がかかげられていた。 伍堂卓雄の頭脳中で終始一貫していた信念がある。それは,こういうものであった。 この上司官僚の諸氏の態度の根底は,国家の膨脹と国力の発展とを第1義的として,労働者の利害もこの至高の目的の前には無視せざるを得ないと考へる国家主義の立場であった46)。 1970年代の日本は“ジャパン アズ №1”といわれるまでに経済成長を遂げた。換言するなら,敗戦後混迷していた日本産業だったが,1950年6月に勃発した朝鮮戦争の特需ブームによって息を吹きかえした。 そして,1955〔昭和30〕年ころを転機にして本格的な経済発展の途に向かうことができた。その結果,日本は世界のなかで経済大国の地位をえることができた。なんといっても,その礎を築くのに大きく貢献した要因は,作業の能率増進や工程の生産性向上をとおして,品質改善‐原価低減‐納期短縮を実現させた製造業関係者の努力である。 日本の会社・工場でも好業績を上げえたものは,そうした現場における作業‐生産の能率増進・合理化を地道に積み上げ,企業全体を順次改善し,その体質を高度化していく方式によってこそ,達成できたのである。日本企業=日本的経営を発展させたと評価された「三種の神器」,経営制度〔終身雇用制・年功序列制・企業内組合〕はむしろ,その現場の努力をうけとめるための容器になったといえる。 ここにおいて止目したいのは,そうした「日本式経営の好業績」達成のために力を注いできた,会社内外関係者:人材面における「戦前‐戦中から戦後における連続性」である。しかも,その歴史的な連続性を確認するに当たってのより重要な要因は,人材的側面にあったことである。 筆者の前稿「日本経営学会員の人的構成特性」は,そのような人的側面での連続性が敗戦直後にとぎれた点を指摘するかたちで,むすんでいた。したがって,本稿「日本経営学界の変遷-戦前と戦後の相違点-」は,なにゆえ,そうした断絶が生じたのかを解明する目的をもっている。 そこで,本稿「日本経営学界の変遷-戦前と戦後の相違点-」は,日本の会社・工場において,能率増進‐生産合理化を指導してきた人材側面の連続性に焦点を合わせ,考察をくわえるのである。 そのまえに,前稿で触れていなかった日本経営学会の第10回年次大会以降における発表報告者の内訳を,表3「日本経営学会年次大会発表報告者内訳(昭和10~30年)」に一覧しておきたい。 この表3も,前稿で言及したこと,つまり,「日本経営学会も学会である関係上,年次大会で発表する人士は,高等教育機関の教員がその大部分を占めていた」ことは,戦前‐戦後において,なんらかわりない。問題はなかんずく,経営学会員の人的構成において戦後,高等教育機関関係者=教員が圧倒的な比率を占めるようになったことの意味である。
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表3 日本経営学会年次大会発表報告者内訳(昭和10~30年) |
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◎経営学論集『題
名』(同文館) |
発 表 者 内 訳 〔教 員;実業人など〕 |
第10回「カルテル問題」
◎『カルテル及経営学の重要問題』 |
〔実業人3名,淺野セメント会社調査課 小島経済研究所長 住友合資会社経済学博士#)〕 ・自由論題〔教員 8名〕 ・公開講演〔教員 3名〕 〔実業人2名,東京商工会議所理事経済学博士 王子製紙株式会社
社長貴族院議員〕 |
第11回「統制経済と企業経営」
◎『統制経済と企業経営』
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〔実業人3名,日本産業株式会社 日本棉花株式会社 具体名不詳1名〕
・自由論題〔教員 11名〕 〔実業人1名,金子会計事務所〕 ・公開講演〔教員,6名〕 |
第12回「最近に於ける企業・経営組織の諸問題」 ◎『最近に於ける企業・経営組織の諸問題』 ◎『最近に於ける経営学上の諸問題- ◎『最近に於ける経営学上の諸問題- |
・統一論題〔実業人3名,経済学博士#) 企画庁調査官 商工省事務官〕 ・公開講演〔教員 2名〕 〔実業人1名,商工大臣〕 「最近に於ける経営学上の諸問題 -第1部 経営学自体に関する諸問題-」 ・統一論題〔教員 9名〕 「最近に於ける経営学上の諸問題 -第2部 会計学上の諸問題-」 ・統一論題〔教員 8名〕 |
第13回「戦時体制下に於ける企業経営」 ◎『戦時体制下に於ける企業経営』 |
・自由論題〔教員 9名〕 ・公開講演〔教員 2名〕 〔実業人1名,鐘淵紡績会社取締役〕 |
第14回「価格統制」 ◎『価格統制』 |
・自由論題〔教員 12名〕 ・公開講演〔教員 1名〕 〔実業人1名,産業組合中央会副会頭〕 |
第15回「利潤統制」 ◎『利潤統制』 |
〔実業人1名,住友合資会社#)〕 ・自由論題〔教員 13名〕 ・公開講演〔教員 2名〕 〔実業人1名,栗本鉄工所社長〕 |
第16回「生産力拡充に関する諸問題」 ◎『生産力拡充』 |
・自由論題〔教員 9名〕 ・公開講演〔教員 1名〕 〔実業人1名,庶民金庫理事長〕 |
第17回「経営理論の問題」 ◎ 発行せず。 |
・自由論題〔教員 14名〕 ・公開講演会〔教員 2名〕 〔実業人1名,経済学博士#)〕 |
★ その間,第18回「大会」に相当する経営学会全国大会は開催されてない。 ★ 戦後は,次記の第19回「大会」よりはじまる。 |
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◎『日本経済の再建と経営経済学の課題』 |
・統一論題〔教員 12名〕 |
◎『経営学の再吟味・経済変動と経営』 |
〔実業人2名,日新化学#) 東洋紡績〕 |
◎『経営合理化の諸問題』 |
・統一論題〔教員 8名〕 |
「日本経済の安定と経営の諸問題」 ◎『日本経済の安定と経営の諸問題』 |
〔実業人1名,経済安定本部*1)〕 ・自由論題〔教員 5名〕 〔実業人2名,運輸調査局(の2名*2)〕 |
◎『経営学の基本問題と労務管理の諸問題』 |
〔実業人1名,新扶桑金属*1)〕 ・自由論題〔教員 11名〕 〔実業人3名,運輸調査局 東洋紡研究所 計理検査協会〕 |
◎『株式会社と企業経営の諸問題』 |
・自由論題〔教員 16名〕 〔実業人3名,早川電気*3) 新扶桑金属*8) 東洋紡績〕 ・公開学術講演〔実業人3名,日本生命社長 経済学博士 参議院議員*4)〕 |
「統制撤廃と中小企業・税制改革と企業経営」
◎
発行せず。 |
・自由論題〔設題は不詳〕 |
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◎『経営管理の合理化』 |
〔実業人3名,経営管理研究委員会 日本国有鉄道*5) 新扶桑金属*1)〕 ・自由論題〔教員 8名〕 〔実業人1名,新扶桑金属*8)〕 ・公開講演会〔教員 1名〕 〔実業人3名,内1名は「人物*1)」〕 |
◎『近代経営と経営財務』 |
〔実業人2名,日本国有鉄道*6) 芝浦製作所〕 ・自由論題〔教員 18名〕 ・公開講演〔教員 4名〕 |
-昭和28年10~11月- ◎『労使関係の基本問題』 |
〔実業人1名,運輸調査局*7)〕 ・自由論題〔教員 15名〕 〔実業人2名,東洋鋼鈑株式会社 住友金属*8)〕 |
◎『経営学の再検討』 |
〔教員 10名〕 〔実業人3名,関東特殊製鋼*1) 日本国有鉄道*6) 大阪証券取引所〕 ・自由論題〔教員 16名〕 〔実業人2名,日本国有鉄道*5) 経営管理研究会〕 |
◎『経営学の新展開』 |
〔実業人1名,関東特殊製鋼*1)〕 ・自由論題〔教員 13名 〕 ・討 論 会〔3題,司会は教員3名〕 |
① 「実業人」には,高等教育機関「教員」以外の人士すべてをふくめた。 ② 「公開講演(会)」は「開会や挨拶の辞・司会など人士」はほとんど除外し,人数に入れていない。 ③ 「統一論題」という指称は,戦後につかわれ出したものであり,戦前‐戦中は「共通論題」と称していた。本表ではあえて,戦後の用法に変更・統一した。 また,各「経営学論集」でみるかぎり,戦後当初における第19~21回大会は,統一論題と自由論題に関して区別を設けていない。この第19~21回大会での研究発表報告は,その題名から判断するにもっぱら,統一論題にしたがったものとみられる。 さらに,年報「経営学論集」の書名と各大会「統一論題」とは,必らずしも同じではない。 ④ 第17回大会の共通論題(統一論題)「経営理論の問題」は,山本安次郎『経営学五十年-回顧と展望-』東洋経済新報社,昭和52年,59頁にしたがい記入した。 ただし,丹波康太郎「日本経営学会第17回大会記」『国民経済雑誌』第73巻第5号,昭和17年11月によれば,同大会は「共通論題として特定の題目は掲げられなかった」と記録されている(同稿,109頁)。 ⑤ そのほかの注記。 a) 下線を付した一連の住友合資会社経済学博士#) は,同一人物の目崎憲司である。戦後第20回大会に登場する人物「日新化学#) 」も目崎憲司である。この目崎は第25回大会以降においては,大阪大学の教員として登場する。 b) 戦後,研究報告に複数回登場する実業人として菅平重平*1) がいる。 c) 小樽大会(昭和24年7月)の運輸調査局2名のうち1名*2) は,のちに神戸大学教員となる占部都美である。 d) 第23回大会における早川電気*3) は,戦前より能率技師で有名な井上好一である。同大会における参議院議員*4) は,元東京商科〔産業〕大学教授高瀬荘太郎である。高瀬は同時に長く,日本経営学会理事長を務めた。 e) 第24回大会における日本国有鉄道,および,第27回大会における日本国有道2名のうち「自由論題」の1名*5) は,のちに青山学院大学教員となる石田武雄である。 f) 第25回大会における日本国有鉄道,および,第27回大会における日本国有鉄道2名のうち「統一論題」の1名*6) は,のちに学習院大学教員となる河野豊弘である。 g) 第26回大会における運輸調査局*7) は,のちに青山学院大学教員となる大島国雄である。 h) 第23回大会,第24回大会における新扶桑金属*8),第26回大会における住友金属人物*8) は,同一人物の樗木航三郎である。 ⑥ 下掲の,日本経営学会編『経営学の回顧と展望』「日本経営学会五十年の歩み」では,「経営学論集」に収録されていない「統一論題報告」が記述されていたり,逆に,そのほかの報告などが「統一論題報告」に編集されていたりするばあいもある。 出所) 日本経営学会編,第10~16輯・第17~27集『経営学論集』同文館,昭和11~18年・23~31年,および,日本経営学会編,経営学論集第47集『日本経営学会五十周年念特集 経営学の回顧と展望』千倉書房,昭和52年,「日本経営学会五十年の歩み」参照。
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Ⅱ-3) 戦後に簇生する実務界寄りの諸学会 上野陽一『能率と青年』(潮文閣,昭和18年4月)は,昭和17年4月開設の日本能率学校で開講された学科目一覧を列挙している。 上野一郎『産業能率大学のあゆみ-主観的三十年史-』(産業能率大学,昭和55年)は,その「日本能率学校講師名簿(講義順)」をかかげている。 斎藤毅憲『上野陽一-人と業績』(産業能率大学,昭和58年)は,「能率専門学校を想定して構想したカリキュラム案(昭和16年7月時点)」,「日本能率学校のカリキュラム(1週間の時間数)」を紹介する。 以上をもとに,表4「能率専門学校のカリキュラム案(昭和16年7月時点)」,表5「日本能率学校のカリキュラム(1週間の時間数)」を紹介し,さらに,表6「日本能率学校:開講学科目と講師名簿(昭和17年10月)」を作成した。
日本能率学校における「能率学という名称のもとに編成された教育科目」,いいかえれば,戦争中の日本において「経営学として提示された体系内容」は,上野陽一編『能率ハンドブック』(同文館,昭和14~16年)の体系‐内容からも明らかなように,工場管理学・能率増進法を中核とする「経営実践学的なもの」であった。 敗戦後しばらくのあいだ,日本の会社・工場は,経済の再建,産業の復興,経営・生産の復活をめざすにさいして,前記の上野陽一編『能率ハンドブック』を重宝した。本書は,昭和24年5月技報堂から戦時版のままオフセット版で復刻され,さらに昭和29年12月,同じく技報堂から『新版能率ハンドブック』として公刊されている。 上野陽一編『能率ハンドブック』昭和14~16年は,日本初の経営学大辞典である。 戦後において,古川栄一編集代表『経営ハンドブック』(同文館,昭和25年),平井泰太郎編『経営学辞典』(ダイヤモンド社,昭和27年),高宮 晋編『体系経営学辞典』(ダイヤモンド社,昭和37年。昭和45年新版),藻利重隆編『経営学辞典』(東洋経済新報社,昭和42年),占部都美編『経営学辞典』(中央経済社,昭和55年)などの大辞典が製作されてきたが,その嚆矢に位置するのが上野陽一編『能率ハンドブック』であった。 問題はまず,a) 戦争の終わってから活動を再開していく日本経営学会が,上野陽一「日本能率学校:昭和17年4月開校」の「経営〔能率増進〕実践学」に提示された教育体系科目を,その後,経営学という学問体系のなかでどのように位置づけていったかである。 問題はさらに,b) 上野陽一「流」の「生産能率学」,いわば「工場管理学」〔今風には経営工学〕の系譜が,日本経営学会という理論界においてその後,どのように配置づけられていったかである。 日本経営工学会編『経営工学とは何か』(開発社,1977年)は,本稿の論点に関連する事情を,こう説明していた。 第2次世界大戦中は,すべてを簡素化して統制したために,それまで民間団体として活動していた日本能率連合会と商工省統制局(臨時産業合理局の後身)の外郭団体である日本工業〔協〕会を昭和17(1942)年〔3月〕に合併して日本能率協会を設立し,これに国費を支出して能率増進の本部とした。 かくて終戦を迎えたが,占領軍は直ちに日本能率協会に対する補助金を打ち切ると同時に,統制を解いて民間団体の能率運動を自由にした。 そして,日本経営工学会編『経営工学とは何か』は,敗戦後に再生・新設される「経営工学関係の諸学会・諸団体の創立・設立」の模様を,年次順に摘記していた47)。 昭和20(1945)年 日本規格協会設立(12月) 昭和21(1946)年 日本科学技術連盟(日科技連)創立(5月) 昭和22(1947)年 日本労務研究会設立(3月) 昭和23(1948)年 中部産業連盟(中産連)設立(4月) 昭和24(1949)年 全日本能率連盟(全能連)創立(5月) 昭和24(1949)年 日本事務能率協会設立(6月)〔1971年 日本経営協会と改称〕 昭和24(1949)年 通産省産業合理化審議会設置 昭和25(1950)年 日本工業経営学会創立〔1974年 日本経営工学会と改称〕 昭和26(1951)年 日本技術士会設立(5月) 昭和26(1951)年 日本経営士会創立(9月) 昭和28(1953)年 全日本産業安全連合会設立 昭和29(1954)年 中小企業診断協会設立(10月) 昭和30(1955)年 日本生産性本部設立(3月) 昭和30(1955)年 日本経営管理士会創立(7月)〔1965年 日本経営管理協会と改称〕 昭和30(1955)年 日本産業訓練協会設立(10月) 昭和32(1957)年 日本OR学会創立(5月) 昭和32(1957)年 日本MTM協会設立 昭和33(1958)年 日本販売管理協会創立(6月) 昭和34(1959)年 日本インダストリアル・エンジニアリング協会創立(3月) 昭和35(1960)年 情報処理学会創立(4月) 昭和36(1961)年 国際経営管理協会創立(6月) 昭和37(1962)年 日本データプロセッシング協会創立(4月) 昭和38(1963)年 日本包装技術協会設立(3月) 昭和39(1964)年 産業合理化審議会は産業構造審議会と改称さる(4月) 昭和40(1965)年 日本VE協会創立(4月) 昭和43(1968)年 日本経営情報開発協会設立(9月) 昭和45(1970)年 日本品質管理学会創立(11月)
日本能率協会編『経営と共に-日本能率協会コンサルティング技術40年』(日本能率協会,昭和57年)は,敗戦直後に日本能率協会の状況を,こう記述している。 日本能率協会は伝統的に,生産技術主導タイプの事業体質をもっていた。したがって戦後において,将来,事業発展の中核となる技術者とは,コンサルタント事業における調査班長〔戦時中の工場診断班は戦後,工場調査班と改称された〕,普及事業におけるプロジェクト・マネージャー,出版事業におけるチーフ・エディターであり,この3者の専門的な生産技術水準のいかんが協会事業の発展を左右するとの方針のもとに,その内部育成と人員増加に内部運営上の重点がおかれることになった。 戦後,昭和20年代における日本能率協会のコンサルタント集団は主に,産業界の復興に対応する「工場調査ならびに生産技術講習会」をもって推移した48)。 日本経営診断学会編『現代経営診断事典』(同友館注5),1994年)は,12章「経営コンサルタントとコンサルティング」で,1節「戦前・戦中の能率運動」,2節「戦後の経営コンサルティング活動」を設けて,関連する論及をおこなっている。 既述のように戦争中,日本経営学会を構成する成員のうち主に「理論界」をになってきた経営学者たちは,抽象空理的な戦時ファシズム国家的企業経営論の迷路にはまった。 そして,一方の「能率界にも戦争の残酷な波浪が容赦なく押し寄せ,大正期から着実に成長の道をたどってきた同界の行手を阻み,関係者を虚無的状況へ追い込んでいくわけである」。「しかしながら,そうした辛苦に耐え抜いた多くの能率人は,戦後,いち早く能率界の再生に取り組み,荒廃したわが国の経済復興,そして経済成長に,その蓄積能力をもって大きな役割を果たすことになる」49)。 敗戦後,日本の経営学者たちは,戦中期に披露した数々の戦時体制的な企業経営理論を棚上げしたかのような態度をとり,戦後においてもあらためて,理論の新造‐改正に転進・転向していくことになった。しかし,そうした経営学者たちが理論界に刻んできた研究成果は,あくまで表面上のことだが,戦争の時代までとの断絶・断層を表現していた。 要するに,敗戦後における能率界〔産業界:実業界〕の実情は,戦争の悲惨を体験したことは同じであっても,理論界のそれとはだいぶ異なるものがあったといえる。 昭和17年3月,戦時体制下の軍需工場の能率増進・生産増強〔生産性向上〕を推進するために,両団体を統合して日本能率協会が設立されたが,とくに技術者の教育養成や工場指導(工場診断)の業務が強化された。これらの諸団体の業績によって,日本の工場管理は生産管理(IE)を主体にして相当に高い水準に達しており,目ざましい成果を収めた事例もあった。 こうして,戦後にアメリカから新しい経営管理の理論や技法を受け入れる素地ができていたために,日本の産業を戦後の荒廃状態から迅速に回復させ,さらに躍進させる推進役としての役割をはたした50)。 注5)1954〔昭和29〕年12月に創刊されてから,中小企業診断協会→同文(館)舘→同友館が発行してきた中小企業診断協会『企業診断』という雑誌がある。
⊙「㈳
日本能率協会の民営化」 日本能率協会はまた,戦時中の業務統合により実施してきた関連業務のうち,コンサルテーションに直接関係のない業務を分離することになり,昭和20年に㈶ 日本規格協会を,昭和22年に (社) 日本労務研究会をそれぞれ独立させた。 ・日本規格協会……工業規格の作成・普及のほかに,新制度としての設定された工業製品のJISマークの付与に関連して,標準化や品質管理の実施状況の審査を担当した。この制度が工場〔とくに中小企業〕の品質管理を促進させた効果はおおきい。 ・日本労務研究会……企業の労務管理の研究・普及事業の一環としてのモラール・サーベイの基準資料〔NRK式従業員態度調査票〕を作成したが,これは労務管理診断の重要な手段として利用されている。 ⊙「日科技連の設立」 ⊙「中小企業診断制度の発足」 それにともなって都道府県の診断担当者(診断員)の養成教育がおこなわれ,その実施機関は東京都商工指導所,産業能率短期大学,中小企業指導センター(中小企業事業団付属)へと移行した。やがて,民間コンサルタントの受講者の増加に応じて資格試験がおこなわれるようになった。 ⊙「全能連の設立」 ⊙「日本事務能率協会(日本経営協会)の設立」 ⊙「産業能率短期大学の設立」 ⊙「日本経営士協会の設立」 ⊙「中部産業合理化研究所の設立」 ⊙「中小企業診断協会の設立」 ⊙「日本生産性本部の設立」 昭和33年に一般向けのコンサルタント養成講座を開講し,昭和38年にはこの講座修了生を主体に診断事業を開始し,現在では経営コンサルタント事業部としてコンサルティング・ファームが構成されている。 --なお,日本能率協会のばあい,戦後にコンサルティング事業部として出発した部門が過大に成長したので,昭和55年に ㈱日本能率協会コンサルティング(JMAC)として分離されている51)。 以上,主に昭和20年代における日本能率運動関係諸団体の動向をかいまみてみた。本稿の関心は,こうした動向のなかにみてとれる人材面および組織‐制度面の連続性あるいは断続性である。 現在の「産能大学」の前身である「産業能率短期大学」が,当時から高等教育機関として唯一「能率学」的な教育を看板にかかげただけでなく,産業能率研究所を設けて能率に関する調査研究やコンサルテーションを実施したのは,「日本能率学の父」といわれる上野陽一が設立した同大学だけのことがある。 最近において日本では,管理者養成のためのMBA課程を設置した大学院や,技術系のMBAであるMOTを設置した大学院,会計専門職の養成を目的とする経営‐商経系統の修士課程を開設した大学院も数多く登場している。20世紀第4四半期→21世紀に入り,そうした大学院が出現するにいたった。 ともかく,a) 工場管理の現場における生産能率の向上や,b) 販売‐営業活動の現場における効率の改善・昂進,c) 事務管理諸業務の能率向上などの問題からしだいに,会社全体の管理‐運営次元にまで浸透してきた能率増進運動:経営コンサルティング活動は,戦前より戦後へと時代がすすむにつれて,日本経営学会の枠組内には収まりきらない発展・成長をとげてきたのである。 したがって,戦争の時代を区切りにして,前段 a),b),c)にかかわってきた,あるいはかかわるようになった関係者たちは,必ずしも日本経営学会との直接的・間接的な理論背景的な連携をもたず,それぞれが独自に固有の事業や活動にたずさわってきたことになる。 日本経営学会の関係者では,戦争中に「正しき経営学」をまちがって「経営国家学」に昇華させてしまった平井泰太郎は,戦後,昭和27年1月に「経営士の誕生」という論稿を公表している52)。 平井は,日本経営士会発起人となった準備委員の氏名を挙げている53)。 上野陽一(全日本能率連盟会長〔当時,以下同じ〕),荒木東一郎(日本経営能率研究所長),森川覚三(日本能率協会理事長),平井泰太郎(神戸大学教授),中西寅雄(東京都商工指導所長),上田武人(東京計器製造所),岡田 徹(商店経営社),大内次男(大阪府立産業能率研究所長),などである。 また,日本経営士会は,「わが国で最も長い歴史を持つマネジメント・コンサルタント集団」である同会を築いた人たちとして,まず, 上野 陽一(1883-1957) 小野 寛徳(1903-1978) 大内 次男(1896-1974) 倉本 長治(1903-1982) 郷司 浩平(1900-1989) 清水 晶 (1915-1974) 高宮 晋 (1908-1986) 平井泰太郎(1896-1970) 森川 覚三(1896-1974) などを挙げたのち,歴代会長の 加茂 正雄(初 代,1876-1959) 荒木東一郎(第2代,1895-1977) 上田 武人(第3代,1901-1976) 西野嘉一郎(第4代,1904-2003) も挙げている54)。 上記人物のなかには,明治大学の清水 晶,一橋大学の高宮 晋,神戸大学の平井泰太郎など学究の氏名も列記されているが,日本経営学会に所属していた彼ら:学究は,実務界に対する理論的な指導者であった。筆者の判断できるかぎり,関連の実践界に対する直接的な指導力をもっとも理論的に発揮したのは清水 晶であり,つづいて高宮 晋,平井泰太郎の順となる。 清水 晶は,『経営能率の原理-テイラー・システムに依る-』(同文館,昭和24年)という,昭和30年まで20版を重ねた著作を改訂し,『経営能率の原理-テイラー理論への回帰-』(同文舘,昭和45年)を上梓していた。後著は,前著に経営管理の概念・職能,その諸形態,現代の経営管理論に関する3章を加筆するだけでなく,「経営診断の課題と方法」という“アペンディックス(Appendix)”も付加する改訂版であった。 ここでは,経営診断(management consulting)の問題について,清水の見解をすこし聞こう。表7「理論経営学‐経営政策学‐経営診断学の関連」を参照したい。
a)「理論経営学」と「経営診断学」 まず,現代の経営経済における近代経営に関する諸原則(principles)を体系化した「理論経営学」がある。つぎに,その諸原則の適用に関する理論の体系が「経営診断学」の重要な一分野となる。これは,診断企業が予見される未来に対して,いかに対処してゆくべきかということを,考察し,助言するための能力を形成するものである。 b)「経営政策学」と「意思決定」 理論経営学において体系化された諸種の経営原則を,経営経済における経営活動の実践の上に「適用」することに関する諸問題を,その研究の対象とする「経営政策学」(business policy)が形成される。この経営政策学は,ある経営経済の経営者による「意思決定」(decision-making)を中心的な課題とするものである。 すなわち,理論経営学において体系化された諸種の経営原則を,その経営経済が与えられた環境あるいは条件とのむすびつきにおいて,その経営経済の「経営目的」をもっとも合目的にかつ合理的に実現しうるごとくに,「経営者」の立場において「適用」することを問題とするものである。 c)「経営診断」と「経営診断学」 いろいろの場面において,またいろいろのかたちにおいて,経営者以外の者による経営原則の適用のための「助言」(advicing)が必要とされることが,非常に多くなってきたのである。そしてこれこそが,いわゆる「経営診断」にほかならないのであり,またそれを研究の対象とするものが,「経営診断学」にほかならないのである55)。 ここでは,平井泰太郎と清水 晶の共編著『経営診断:マネジメント・コンサルテーション-』(青林書院,経営学全集,昭和35年),『経営診断』(青林書院新社,新経営学全集,昭和37年)もあることを断わっておく。 平井泰太郎は,昭和27年1月の論稿で,「経営学の中に,経営士学としての経営学が誕生すべき要請が存在することをもまた知らなければならぬと思う」56)と述べていた。この発言は,半世紀以上も時が経ったいまでも,その妥当性を発揮しうるものである。 ただし,大東亜〔太平洋〕戦争中における「平井の完全にまちがっていた〈経営国家学〉の構想」が,「経営経済個別の計画にあらず,経営国家体制に基く一連の一元化が行はるゝ」ことである,と論断していた。このこともいま一度,指摘しておかねばならない。 というのは,その戦争に関して平井は,「祖国亡びて生活のあり得よう筈はない。勝利か全滅か。撃ちてし止まむ。勝利なければ一身一家の保全も亦無し。此の境地に立ってゐるのが現段階の境地である」,あるいは,「一億一力。結集する所大東亜全ての民族も立つに至った。十億一心。やがて米英撃滅の彼岸を越えて洋々たる旭光は久遠に八紘を照らすに至るであらう」と,狂信していたからである57)。 しかし,昭和20年代も半ば,平井はそのような戦時「経営国家学」の思想‐理論を,すっかり忘却の彼方に追いやり,それとは別個に,「能率学‐経営者学」としての「経営士学」を提唱するにいたった。この「経営士学」に関する主張にかぎっていえば,21世紀においても実現されつつある現象を,平井はとらえていたことになる。 とはいえ,戦争の時代にこそ真剣に,戦後に要請されてくる「経営士学」につながった能率研究・指導がおこなわれていた事実を,想起する必要がある。もっとも,平井が戦時期にぶちあげていた〈八紘一宇〉のイデオロギーは,その後どこかへ消えていったのか? なにが残り,なにが消え去ったのか,ということである。 さて,日本における企業教育訓練の展開を概観した記述を,つぎの枠内に紹介しておく。
企業教育訓練のこうした歴史は,工場生産労働のみならず,販売営業活動,事務執務態勢の能率増進・生産性向上を達成するための人材づくり,および,その指導を具体的におこなうための基盤づくりの様相をも描いている。それゆえ,能率増進・生産性向上と企業教育訓練の指導‐活動とは,表裏一体の間柄にある。「経営士学」は,その表裏の全体にかかわる諸活動・諸努力を,実践理論的に養成・誘導するための学といえる。
Ⅱ-4) 日本経営士会 並木高矣・斎藤毅憲・中嶋誉富・松本幹雄『モノづくりを一流にした男たち-日本的経営管理の歩みをたどる-』(日刊工業新聞社,1993年)は,「日本の経営管理が科学的管理法の導入からはじまり,昭和初期における生産能率向上の成果,さらに戦後の画期的な発展により,生産能率から経営管理へと適用分野の拡大した経過をとりあげ」た著作である59)。 同書は,本稿の論究に関連を有する内容に満ちている。章構成を紹介しておく。 第1章「日本における経営管理の成立」 第2章「日本の経営管理を推進した先覚者たち」 第3章「戦後における管理技術の発展-海外技術の導入と自主技術の萌芽-」 第4章「経営コンサルタント業界の動向」 斎藤毅憲執筆の第2章「日本の経営管理を推進した先覚者たち」は,上野陽一,伍堂卓雄,山下興家,荒木東一郎,森川覚三,堀米建一,小野常雄,上田武人,新郷重夫,大野耐一などをとりあげ,論及している。 ここでは,並木高矣執筆の第4章「経営コンサルタント業界の動向」のなかで,「自営経営コンサルタントとその組織合い」にとりあげられた「(社)日本経営士会と経営士制度」に留意しておきたい。日本経営士会については先述のように,同会のホームページが参考になる。
以上の論及をとおして,本稿が汲みとるべき含意はなにか。 日本経営学会の人的構成特性はなにゆえ,戦前期に「高等教育機関6割:実業界関係者4割」だったものが,敗戦後にほぼ「高等教育機関10割:実業界関係者0割」とみなしてよい比率関係に変質したのか。 筆者は,前稿「日本経営学会員の人的構成特性-昭和2年1月~昭和9年3月に関する一考察-」(2003年9月)の執筆・公表をとおして与えられ〔示唆され〕た問題点,つまり,上記のごとき「戦前から戦後への比率関係の基本的な変質」をさらに追究するに当たり, ◎ 太平洋戦争時まであった〈理論の世界〉と〈実際の世界〉の交流‐協働関係, ◎ 戦中‐戦後に生じた〈両世界〉間関係の遊離‐断絶, ◎ 戦後に創立された実務界寄りの諸学会の簇生, という3つの論点を立てて,議論をすすめてきた。 要するに,「日本経営学会の創設」〔大正15(昭和1)年7月)に関して,前稿「日本経営学会員の人的構成特性」が読みとった含意は,こういうものであった。前稿からその要旨を,とりあえず紹介しておく。 ①「国家学会の盛衰」 明治前期,明治20〔1887〕年に創設された国家学会は,独自の実践的関心にもとづく「国制知」の構築を唱導するが,「国家学なるものが自明ではない」というアポリアに直面した。 そして,国家学会は,対象とする社会の複雑な構造と態様とを学問的に統合できず,明治26〔1893〕年10月法理研究会,明治29〔1896〕年4月日本社会政策学会,明治30〔1897〕年3月国際法学会など,さまざまな学会・研究会を分化させていった。国家学会は,明治39〔1906〕年10月にその終焉の時を迎えた。 国家学会からのそれら組織の分化は,「研究重視」と「政策ブレイン機能ヘの特化」という対照的な2方向に進展していった。後者の系列には,国際法学会や日本社会政策学会が位置した。社会問題や外交問題が高度化し,その解決のためにより専門的な知の結集が必要とされていた。学問と政策との相互交流を前提としている点で,それらは国家学会の衣鉢を継いでいた。 イ)「日本社会政策学会の盛衰(その1)」 日本社会政策学会は,明治30年代から大正期にかけて日本最大の経済学者〔たち〕の団体であった。官学アカデミズムの向こうを張り,社会問題を研究する学会としてその名声を博した。一時は,社会政策学会での報告が若手研究者のあいだで「学界の登竜門」と目された。 しかし,日本社会政策学会は,独占段階における「社会政策の中心的な課題:社会保障制度」成立のために,理論的貢献ができなかった。企業内福利施設の展開のなかで,社会政策・社会保険との関係を理論的に深められず,工場法の制定だけに満足した。 この同会の基本的性格は,「社会の調和を期する」という改良主義的立場を明確にした。だが,第1次大戦後,社会政策学会の若手研究者のなかに社会主義的思想への同調者が増加したとき,その機能停止をきたす原因となった。この学会の内部における思想的・学問的対立が,学会を休止させる重要な原因であった。 日本社会政策学会の矛盾と悲劇性は,労働運動問題に対する姿勢に露呈した。第1次大戦後,現実の労働問題はその重点を労働組合問題にうつし,日本の労働問題研究は,労働科学・労務管理論・各種の労働調査および労働統計などにも直面していた。だが,同会は現実の認識から遊離した態度をしめし,外部からみれば不満に耐えないものであった。 ロ)「日本社会政策学会の盛衰(その2)」 大正8〔1919〕年ごろから社会政策学会は,内務省の外郭団体「協調会」の設立をきっかけに,内部対立を深刻化する。第1次大戦中のロシア革命は,社会主義国ソ連邦を登場させていた。社会主義を支持する学会員がしだいに多くなり,その発言が強まってきた。 協調会は,労働問題‐労働政策を調査・研究し,採用すべき政策について建議し,さらには争議の調停にも当たる機関であった。その基金を政府と財界に仰ぎ,かつ労働組合の参加をえないものであり,これに協力するか否かは学会員にとっては試金石となった。 大正期末年,とくに関東大震災(大正12〔1923〕年9月)を契機として,社会政策学会は不活発な活動状態におちいった。そのなかで,福田徳三,河上 肇の両巨匠の影響もあり,経済学は,古典派経済学研究,資本論を中心とするマルクス主義経済学研究,および限界効用学派や,マーシャルおよびピグーに代表される厚生経済学の研究というように,さまざまな分野にひろがっていった。 こうして大正13〔1924〕年12月以降,社会政策学会は「休眠状態」となった。この学会は,工場法への対応をめぐる内部対立の結果,大正13〔1924〕年から昭和25〔1950〕年の約四半世紀のあいだ,学会としての活動を停止してきた。 ハ)「日本経営学会の興隆」 日本社会政策学会の活動が衰退しだす時期と前後し,この学会を実質的に継承・発展させる活動をおこなったのは,経営学界の研究領域であった。大正15年7月創立の日本経営学会は,日本社会政策学会の休止状態を実質的に再生‐継承する,新たな学会組織の登壇を意味した。 大正時代の半ばより盛んになる経営学的な諸研究の進捗は,日本経営学会を誕生させる背景であった。したがって,日本社会政策学会の盛衰に並行するかたちで,日本経営学会の創立を予定させる学界的な研究環境が形成されていた。 --さて,本稿の考察にとって重大な含意は,以上の「前稿」に復習した国家学会ならびに日本社会政策学会の軌跡:栄枯盛衰のなかに汲みとることができる。 つまり,日本経営学会は,創立直後から実業界の人士を多数参加させるかたちで研究活動をしてきたが,大東亜〔太平洋〕戦争の終結を契機に,つぎのような事態をきたしたことになる。 それは,「明治末期‐大正期における科学的管理法の導入・受容・適用」から,「昭和初期における生産能率向上の成果,さらに戦後の画期的な発展により,『a)生産能率』から『b)経営管理』へと適用分野の拡大した経過」(並木高矣)をたどった研究対象の分化・拡大,あるいは「c)理論研究分野」と「d)実践的応用分野」とへの分離・発展を反映,その内部増殖あるいは充実・細分,とも表現すべき一連の歴史的な出来事を展開させたことである。 以上の記述を,整理・再説しよう。本稿の核心は,◎-3である。 ◎-1「国家学会から日本社会政策学会へ(明治後半期→大正後半期)」 明治時代後半に,国家学会が「対象とする社会の複雑な構造と態様とを学問的に統合できない状況」をうけて,明治29〔1896〕年に日本社会政策学会〔など〕が登場した。 ◎-2「日本社会政策学会から日本経営学会へ(大正後半期→昭和戦前期)」 大正時代後半に,日本社会政策学会が惹起させた「理論的な不適応かつ現実的な不対応の結果」をうけて,昭和1〔大正15:1926〕年に日本経営学会が登場した。 ◎-3「日本経営学会から経営工学会などへ(昭和戦後期)」 敗戦後,それも早くは昭和20年代に簇生していく「実践経営学的あるいは経営工学的な志向性をもった諸学会・諸団体」は,日本経営学会において戦前‐戦中までともに学界的な活動をになってきた実務方面の関係者を離脱・分派させ,新たに収容し,活動する舞台を提供したといえる。 既出,日本経営工学会編『経営工学とは何か』(1977年)は,戦後に再生あるいは新設された「生産‐経営工学関係の諸学会・諸団体の創立ないし設立」を年次順に摘記していた。 それは,「a)生産能率」から「b)経営管理」へと適用分野が拡大していく経過,すなわち,生産能率・事務能率や労務研究・労働安全などの問題領域〔戦前的な部門管理課題〕がしだいに,経営管理・企業診断・品質管理・販売管理(マーケティング)・経営情報などの問題領域〔戦後的な全般管理課題〕まで進展・充実していく様子を,はっきりと描くものであった。 注目したいのは,日本経営学会が戦後,理論学会としての性格:〈学術的な路線〉を純化させ運営していくこと注6) とは対照的に(「本稿(上)」Ⅰの⑧「本稿の論点」末尾に指摘の「日本経営学会規則」における変更点を参照),「生産‐経営工学関係の諸学会・諸団体」が生産能率問題と経営管理〔診断〕問題に対する,実務的・実践科学的な指導路線をとっていった点である。 昭和20年代にかぎってもわかるように,昭和30年に出現する日本生産性本部まで,戦時体制期における活動の実績を土台に陸続と出現する生産能率〔技術〕・経営管理〔診断〕の相談‐指導機関は,日本の敗戦を時代的・外生的な契機にして,そして,朝鮮戦争による千載一遇の特需を起死回生の滋養に与えられるかたちで,一気に花開くかのように登場してきたのである。 本稿本来の研究目標は,戦前期において日本経営学会の人的構成特徴が「高等教育機関6割:実業界関係者4割」だったものが,なにゆえ,敗戦後においてほぼ「高等教育機関10割:実業界関係者0割(正確には数%)」という比率関係に推移したのか,というところに向けられていた。 最後にかかげる表8「日本経営学会と日本経営工学会など」は,本稿の結論を表現するために作表したものである。
注6)第2次大戦後60年〔近く〕が経過した今日,本稿に論じた日本経営学会は,「理論‐実践」の様相に関して,さらに興味ある変遷をたどってきている。その実際の姿容は,本稿の関心外である。ただ,つぎのような事実を指摘しておく。 たとえば,「〈理論的傾向〉対〈実践的傾向〉」に腑分けできるものとして, イ)「労務理論学会」対「日本労務学会」, ロ)「日本経営財務研究学会」対「日本財務管理学会」,「日本ファイナンス学会」 というふうに,近接‐類似した学会が複数併置され共存する様相がみられる。 また,ハ)日本経営工学会に対して,日本経営学会陣営のほうでは「工業経営研究学会」が創設されている。 くわえて,ニ)経営哲学学会・日本経営教育学会・日本経営倫理学会・経営学史学会など,実践方面の諸問題を意識しつつも,理論志向を保持しようとする諸学会も存在する。 そのほか,時代の潮流を反映して,ホ)国際ビジネス学会,アジア経営学会,日本ベンチャー学会など,大所帯となった日本経営学会〔学会員数は,2004年7月現在で2170名〕が細胞分裂的な増殖を現象させているかのような,諸学会の新設状況が観察できる。
本文中では言及されなかったが,下記の文献も補足しておきたい。 1) 日本能率協会編『まねじめんと60年-エフィシェンシーからマネジメントへ-』日本能率協会,昭和47年。 2) 大阪府立産業能率研究所年史編集委員会編『産業能率年表』大阪府立産業能率研究所,昭和35年。 3) 大阪府立産業能率研究所編『能研50年史』大阪府立産業能率研究所,昭和51年。
【注 記】 1) 深見義一「日本経営学会関東支部福島大会記」『一橋論叢』第10巻第2号,昭和17年8月参照。 2) 山本安次郎『日本経営学五十年-回顧と展望-』東洋経済新報社,昭和52年,59頁参照。 3) 丹波康太郎「日本経営学会第17回大会記」『国民経済雑誌』第73巻第5号,昭和17年11月,110-111頁。 4) 山本安次郎『日本経営学五十年』59頁脚注。 5) 柴田 敬『新経済論理』弘文堂書房,昭和17年,a) 236頁,229頁,b) はしがき3頁,c) はしがき2頁・4頁,238頁,d) 236頁。 6) 佐々木吉郎『経営経済学総論』中央書房,昭和16年5月修正5版,5頁。 7) 印南博吉『経済学の革新-ゴットル経済学研究-』科学主義工業社,昭和17年,208頁。 8) 印南博吉『政治経済学の基本問題』白山書房,1948年,a)5頁,176頁,10頁,b)3頁,4頁,c)174頁,172頁。 9) 中山伊知郎『戦争経済の理論』日本評論社,昭和16年,295頁。 10) 同書,294頁,281頁。 11) 柴田 敬『新経済学批判』山口書店,昭和18年,119頁,122頁,127-128頁,131頁。 12) 産業経理・別刊『日本原価計算協会の設立と歩み-昭和16年8月より昭和20年2月まで-』平成15年3月,〔中山太一「昭和18年元旦:原価計算係員養成所卒業生諸君へ」〕114頁。本文〔 〕内補足は筆者。 13) 同上,同所。 14) 上林貞治郎『企業及政策の理論』伊藤書店,昭和18年,48-49頁。 15) 北川宗蔵(北川宗蔵著作集第1巻)『経営学批判』千倉書房,昭和57年,松井紀子「父の思い出」『北川宗蔵著作集第1巻 付録』3頁,6頁。 16) 上林貞治郎『大阪商大事件の真相』日本機関紙出版センター,1986年,73-74頁。 17) 古林喜楽「日本経営学会第16回大会記」『国民経済雑誌』第71巻第6号,昭和16年12月,113頁。 18) 山城 章 第17回日本経営学会と我国経営経済学界」『一橋論叢』第10巻第6号,昭和17年12月,92頁,93頁,94頁,95頁。 19) 社会思想研究会編『河合栄治郎 伝記と追想』社会思想研究会出版部,昭和23年,〔鹽尻公明〕296頁。 20) 上久保敏『日本の経済学者を築いた五十人-ノン・マルクス経済学の足跡-』日本評論社,2003年,5頁。 21) 同書,はじめにⅰ頁。 22) 松本雅男「日本経営学会第16回大会記」『一橋論叢』第8巻第6号,昭和16年12月,103頁。 23) 山城 章『新企業形態の理論』経済図書,昭和19年,180頁,182頁。 24) 神戸商大新聞部編『経済及経済学の再出発』日本評論社,昭和19年,〔平井泰太郎「経営国家学」〕413頁。平井同稿は『平井泰太郎経営学論集』千倉書房,昭和47年に転載・収録されている。 25) 同書,同稿,418-419頁。 26) 増地庸治郎編『戦時経営学』巖松堂書店,昭和20年,〔藻利重隆「経営の共同体理論」〕372頁。 27) フリードリッヒ・フォン・ゴットル=オットリーリエンフェルト,佐瀬芳太郎訳『経済と現実-「理論」時代をながめる-』白揚社,昭和17年,30頁,188頁。 28) 産業能率短期大学編『上野陽一伝』産業能率短期大学出版部,昭和42年,170頁。 29) 上野陽一『能率概論』同文館,昭和13年,「本書デ クワダテタ 5ケ條ノ ココロミ -序文ニ カエテ-」1頁。 30) 産業能率短期大学編『上野陽一伝』185頁,188頁参照。 31) 波多野貞夫『戦時下ニ於ケル工場経営管理 第1編総論』千倉書房,昭和15年,序文3頁。 32) 林 克也『日本軍事技術史』青木書店,1957年,279頁。 33) 山中篤太郎編『日本の工業』毎日新聞社,昭和31年,30頁。 34) 豊崎 稔『日本経済と機械工業』科学主義工業社,昭和15年,179頁。 35) 有沢広巳監修,山口和雄編集 服部一馬・ほか3名『日本産業百年史 上』日本経済新聞社,昭和42年,367頁。 36) 広重 徹編『日本資本主義と科学技術』三一書房,1967年,122頁。 37) 星野芳郎『現代日本技術史概説』大日本図書株式会社,昭和31年,212頁。 38) 林『日本軍事技術史』263頁,272頁。 39) 小山弘健『日本軍事工業の史的分析』御茶の水書房,1972年,286-287頁。/は原文改行個所。 40) 林『日本軍事技術史』285頁。 41) 小川琢治『戦争地理学研究』古今書院,昭和14年,211頁。 42) 米倉二郎『東亜地政学序説』生活社,昭和16年,114頁。 43) 昭和史研究会編『昭和史事典[1923-1983]』講談社,昭和59年,350頁,368頁,384頁,398頁,414頁,428頁参照。 44) 日本能率協会編『経営と共に-日本能率協会コンサルティング技術40年』日本能率協会,昭和57年,50頁。 45) 日本能率協会編『10年間の足跡』日本能率協会,昭和27年,5頁。 46) 社会思想研究会編『河合栄治郎 伝記と追想』社会思想研究会出版部,昭和23年,〔木村健康〕15頁。 47) 日本経営工学会編『経営工学とは何か』開発社,1977年,110-111頁。〔 〕内補足は筆者。 48) 日本能率協会編『経営と共に-日本能率協会コンサルティング技術40年』日本能率協会,昭和57年,50-51頁。 49) 日本経営診断学会編『現代経営診断事典』同友館,1994年,743頁左段,743頁右段。 50) 同書,743頁右段‐744頁左段。 51) 同書,744頁左段‐745頁右段,746頁左段。 52) 平井泰太郎「経営士の誕生」『国民経済雑誌』第85巻第1号,昭和27年1月。なお,平井の本稿は,インターネット上でも参照できる。http://www.nihonkeieishikai.or.jp/honbu/index/nk-top/nk2/birth/birth1.html 53) 平井「経営士の誕生」7-8頁。 54) http://www.nihonkeieishikai.or.jp/honbu/index/nk-top/nk2/people/people.html 55) 清水 晶『経営能率の原理-テイラー理論への回帰-』同文舘,昭和45年,265-266頁,270頁,271頁。 56) 平井「経営士の誕生」16頁。 57) 平井泰太郎「戦力増強体制の確立」『共栄経済』第16巻第12号,昭和18年12月,9頁,7頁,9頁。 58) 斎藤 将『労働者の生涯教育訓練』法律文化社,1981年,27-29頁。〔 〕内補足は筆者。 59) 並木高矣・斎藤毅憲・中嶋誉富・松本幹雄『モノづくりを一流にした男たち-日本的経営管理の歩みをたどる-』日刊工業新聞社,1993年,まえがきⅰ頁。
-2004年3月8日- |
※ 2004年1月25日 ウェブ用に編集・加工