【 文 献 紹 介 】
−石原慎太郎という人物をしるための図書−
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内海愛子・高橋哲哉・徐 京植編 『石原都知事「三国人」発言の何が問題なのか』 影 書房,2000年6月20日発行より。 |
〈緊急座談会〉「三国人」発言の何が問われているのか? | 内海愛子,高橋哲哉,徐 京植 |
◇ キーワードコラム | |
「三国人」と「神の国」,あるいは「名誉白人」石原慎太郎 | 鵜飼 哲 |
一度回されたネジ | 中西新太郎 |
「日本人」という鉄面皮 | 駒込 武 |
まさに「日本人」自身の問題である | 目取真俊 |
「大震災」以降(再録) | 目取真俊 |
「騒擾」はだれが起こすか | 金 石範 |
「井戸を汚す蛙」 | 劉 彩品 |
自分たち自身に怯える「対人恐怖症」 | 鄭 暎惠 |
方腹痛い! 天皇制つき「日本人だけの民主主義」 | 徐 翠珍 |
われら密入国者の子 | 愼 蒼健 |
歴史否定論者でもある日本国首都のむらおさ | 金子マーティン |
「精神の放火犯」 | 梶村太一郎 |
「やさしさ」の国日本の愚劣 | コリン・コバヤシ |
排外的外国人政策の系譜と石原発言 | 梓澤和幸 |
人種差別撤廃委員会に石原発言を報告するわ! | 前田 |
未登録外国人に与えた脅威 | 吉成勝男 |
「警察白書」が扇動する人種偏見を糾す | 渡辺英俊 |
石原発言と日本人の歴史的責任 | 山田昭次 |
日本民衆の恥辱−石原発言−(再録)− | 山田昭次 |
石原都知事「三国人」発言全文,その他発言より | −− |
「三国人」発言=海外メディアの反響 | 長沼節夫 |
石原都知事「三国人」発言への抗議声明 | −− |
《人種差別撤廃条約》(抜粋) | −− |
あ と が き | 高橋哲哉 |
参考文献ガイド(巻末) | −− |
本書『石原都知事「三国人」発言の何が問題なのか』は,石原発言に関連する諸資料も収録し,総合的な批判・検討をくわえた著作である。本書の内容からかいつまんで紹介する〔かいつまんででも,だいぶ長文である〕。 なお,「・」〔中黒点〕のついた文章は,同書からもっぱら引照した部分であり,その「・」のつかない文章は,筆者の論述部分である。 |
1) 石原発言は,国連「人種差別撤廃条約」に抵触するものである。 石原慎太郎の発言は「失言」の域をはるかに超えて,それじたいが犯罪である。しかし,その後も石原都知事は発言を撤回せず,責任をとろうとしていない。発言の直後から,都知事に対して,批判を上まわるほどの支持が寄せられている〔もっともこれは右翼筋からの集中的工作と観察されている〕。 石原発言問題は,いまあらためて日本人が内なる差別意識や排外主義に打ちかつことができるかどうかを鋭く問いかけている(はしがき)。 2) 内海・高橋・徐「〈緊急座談会〉「三国人」発言で何が問われているのか?」 ・石原支持のマスコミ……読売新聞,産経新聞 ・スーパーダイエーの中内前社長は「個人的な実感として,敗戦後「当時は第三国人に支配されて……」と発言し,在日韓国・朝鮮人たちから抗議をうけたことがある(26頁)。 ・東映のヤクザ映画の作品では「第三国人」がよく登場するが,それも石原裕次郎主演の映画だと指摘されたが,正確には小林 旭などの日活映画である(28頁)。小林 旭は,かくれた在日韓国・朝鮮人である。俳優やタレント,歌手に韓国・朝鮮人が大勢いることは,公然の秘密である。 ・敗戦後日本人のねじれた被害者意識と,1980年代以降の新しい状況とを,石原慎太郎のいわば「外国人嫌い〔白人とアジア人とを問わないそれ〕という糸でつないでみせ,旧世代の反感や差別意識と新世代の漠然とした不安感や恐怖感をむすびつけて,火をつけたという特徴がみいだせる(31頁)。 ・ナショナルインタレストを一方で追求しながら,住民を階層化し,外国人の地位を日本社会のなかで絶えず不利なものに押さえつけながら,いつでも権利を剥奪したり追い出したりすることのできる存在にとどめておく,石原発言のようなものをそのための威嚇の力と確保しながらやっていくという調整が計られている(33頁)。 石原は,今回の問題発言「不法滞在する三国人・外国人は凶悪な犯罪集団であり,緊急時に騒擾をおこす」という対象に定住外国人は該当しないと,あわてて断っていた〔=思し召しくださった〕。 いまの「ニュー・カマー」の問題は,やはりいまの「オールド・カマー」の問題である。この道はいつかきた道である。定住している外国人に無縁な問題ではない。 ・石原発言の奥に控えている問題は,日本社会の核のところにある,自己中心主義とか,もっというと侵略や植民地支配の本当の意味での反省をしないままで,「共生」とか「国際化」ということを推しすすめようとすることによって,不可避的にもたらされる矛盾である。それは端的にいえば〈帝国的な多民族秩序の再現である(37頁)。 ・戦後50年以上が過ぎた今日,東京裁判・BC級戦争裁判で問われたこともふくめて,過去の事実が十分に明らかにされていないままきてしまった。石原発言には,そうした「過去」が凝縮されているのである(69頁)。 3) 名誉白人石原慎太郎と「三国人」・「神の国」 ・石原慎太郎の「三国人」発言と森 喜朗「日本は天皇を中心とする神の国」という発言は,日本の地金ともいうべきものがいよいよ露呈してきたことを告げている。 ・石原はかつて,アパルトヘイトの時代に,日本・南アフリカ友好議員連盟(1984年設立)を率先して組織し,幹事長を務めていた。人種隔離政策を公然と支持していた石原が,いま,東京都知事として民族浄化思想を扇動している。ある意味で,これほどわかりやすい話はない。 ・要するに,欧米の「白人」と対等に伍することのできる「有色人種」は,日本人だけであり,日本人でなければならない。それと同時に,石原は南アフリカの「白人」に対するひそかな同一化の心理が働いているようにもみえる。 ・宗教迫害によってヨーロッパを負われ,ボーア戦争でイギリスに敗れ,「有色人種」に包囲されているという意識にとりつかれた南アフリカの「白人」たちは,独特の被害妄想のなかでその共同体感情を育んだ。そのような位置が,石原には,なぜか,世界のなかの日本の位置と重なってみえるらしい。 ・そして,南アフリカの「白人」が独特の選民思想によって自分たちを「神に選ばれた国民」とかんがえたように,石原もあきらかに「神国日本」的発想と無縁ではない(以上,73-75頁)。 −−石原の潜在意識にある選民思想は,本稿本論で筆者も触れた点である。「単一純粋民族」国家である日本・日本人の優秀性をかくべつ誇るのが,石原の立場〔思想!?〕であった。 ・石原の発言がつねに,欧米人への隠れた憧れと同一化を,否認のかたちのもとに非常に強く感じさせる。フランスのル・ペン,オーストリアのハイダーなど,私たちがしっている現代のポピュラリスト的人種差別主義者のなかで,石原は誰にいちばん似ているだろう。アメリカのレーガン元大統領ではないか。 ・「三国人」〔より正確にいうと「第三国人」〕とは,石原語では,日本人以外のアジア人のことである。南アフリカの「白人」にとっての「有色人種」である。今回の発言で彼が狙ったのは,主として中国人である。石原がとりわけ反中国的なのは,「日本人だけが白人と互角の有色人種」という思いこみにとって,中国がおおきな脅威と感じられているからである。 ・そうだとすると,石原のナショナリズムのなかで,侮蔑と恐怖がないまぜになった反中国,反朝鮮,反アジア主義と,対抗的同一化をいっそう深めつつある反米主義を,明確に区別しておくべきである(75-76頁)。 4) 「暴力の文化」を好む石原慎太郎 ・筆者は本論のなかで,暴力を是認し志向する石原という人物の危険性を指摘した。 ・今回,石原の言説=「三国人」差別発言は,外国人排斥という差別的な方向をとりつつ「暴力の文化」を醸成しようとする(83頁)観念の,具体的な現われである。「外国人」=「非国民」=「犯罪予備軍」という構図(91頁)を,帝国主義の時代にもどして類推すると,「臣民」化させられた「非国民」たち「外国人」に対する抑圧・監視の体制となんらかわりない。 5) 「日本人」自身の問題である。 ・「騒擾事件」を前提とした自衛隊の「治安出動」の対象は,けっして「日本人」と「外国人」を区別するものではなく,「騒擾」を引きおこしそうな「不穏分子」と判断されるものすべてにむけられている。自衛隊が「国民」を無条件で守ってくれる,と考えるのは,革命や「国内戦」の経験のほとんどない日本人に広くみられる甘い考えである。 ・軍隊がいかに自国民に銃をむけるものであるかは,沖縄戦においても十分証明されている。石原発言は,そういう意味で,一部の「外国人」にとってのみ危険なのではない。「日本人」対「外国人」という図式のなかで,今回の問題をとらせるのではなく,石原知事をはじめとした国家主義者たちが,勢いをえて一気に有事〔戦争〕体制の確立を追求しようとしているこの危険性を,「日本人」「外国人を問わず自分の問題として考えていくことこそ大切である(97頁)。 6) ファシストの常套手段である。 ・ヨーロッパのネオナチをみてもわかるように,外国人排斥を煽りながらナショナリズムを鼓吹するのは,ファシストの常套手段である。石原はメディアの活用をする戦略ではプロの知事である。仮想の「震災」をシミュレーションしながらの, −−外国人への潜在的な恐怖心の植えつけと排斥運動の扇動。 ・かつての時代を再現しようとするもくろみは,すでに多様なかたちで実行されている。 ・沖縄にとっても,他人ごとではない。皇居のまえで小便どころか,君が代を歌わなかっただけで芸能人が攻撃される時代は,すでに十分「大震災」以後であろう(101頁)。 7) 実は小心な男:石原慎太郎のアジア蔑視観。 ・「〔第〕三国人」発言,その批判などに対する対応過程でみられた石原慎太郎の強弁,強気は,小心の裏返しでなのある。その気の弱さは往々,人間の善性を発揮させるものなのに,彼のばあいはその発言のもとで,自分の心性をすこしも傷つけずにかばおうとする,ナルシシズム,卑しい強弁へと逆に作用した(104頁)。 ・石原の発言は,朝鮮半島をめぐる諸情勢の改善に水を差そうとし,中国や北朝鮮にむかってはやたら挑発的な態度であるが,周辺のアジア諸国は過去のそれではなく,まったく時代がちがう。酔っぱらった若者の戯れ言ならともかくとして,都知事としての公を充分に意識したうえでの,強大国日本を笠にきたきわめて傲慢な発言である(107頁)。 8) 差別のことば「三国人」「シナ」を平然とつかうこの人。 ・中国人は「シナ」ということばを聞くと,日本人になめられ,痛めつけられた数十年間の中国人の痛み,悲しみが凝縮されている。そんなことにお構いなく石原は,「俺の辞書にはシナがある,他人がどう思うが俺がつかいたかったらつかうんだ」といわんばかりに,「シナ」「シナ人」を連発した。 のちの中華人民共和国の政務院副首相となる郭 沫若が,1941年発行のある著作〔『支那人の見た日本人』青年書房,昭和14年〕のなかで,こう指摘していた。 「本来『支那(シナ)』というのはなんら悪い意味はなく,これはもと「秦」の字が変化したのだという人もある。しかし,これが日本人の口から出るばあいには,欧州人がユダヤ人をヂューとよぶのよりももっと下等になる」と書いていた。 つまり,「支那(シナ)人」というのは,「チャンコロ」というのと同じように中国人をおとしめる下等な差別語であり,屈辱感や憤怒を誘発させるものなのである(山中 恒・山中典子『書かれなかった戦争論』勁草書房発売・辺境社発行,2000年,8頁)。 ・「シナ」を固持する石原は,他人の痛みを感知できない人間,人の痛みを気づかうのは「女々し」く,我が道をいく「男らしさ」の表現と思っている。そのうえに,「あの戦い」へのこだわりと弱者に苛酷である人である(内海・ほか編『石原都知事「三国人」発言の何が問題なのか』〔にもどり〕111頁)。 9) 天皇・天皇制を信じている者の差別観。 ・「天皇への尊敬と畏怖は〔日本人にとって〕先天的」と信じている石原は,この身分制度を是とするわけであるから,差別することなど彼にとっては日常茶飯事である。差別を問題視する人たちを「ばかなことを聞く」と内心思っている。 ・「三国人」を問う記者に「三国人」観を語り,記者をつうじて,社会に散布した。その後における記者とのやりとりでは,敗戦直後の「三国人」をはげしく攻撃し,少年時の恨みは知事としての権威ある口をとおして晴らした。しかも成功したのである。70%の投書〔サクラもあるかもしれない:この点は後述する〕が,石原を支持し,60歳代の人〔石原と同世代〕の投書や発言のなかには口惜しかった,憎たらしかった記憶がつづられ,「そういう奴が軽蔑されるのは,自業自得というもの」と書いているのがあった。 ・そうした記憶が掘りおこされ,憎っくき「三国人」への憎悪を駆りたてることに石原は成功したのである(112-113頁)。 ・石原の差別発言実例〔→慎太郎は,非常に裕福な家庭の息子であり,一橋大学出身だったことを断っておく〕(115頁)。 「おまえ,ボーイだろ,どけよ!」 石原慎太郎の感性・知覚・精神・認識はまさに,差別主義者に典型的な症状である《異様な驕慢さ》を呈している。その骨身に染みこんだ〈差別する意識〉は,この世の中に多様な存在として現に生きているが,たまたま肉体的および精神的立場において弱者・少数者にすぎない人々たちに対しても,容赦も憚りもなく,また無神経かつ傲慢に,侮蔑=存在無視のことばを投げかけさせるのである。 しかも石原は,自分の言説が悪質だとか罪なことだとかなどと,全然思っていない。この態度が彼において〈最大の邪悪な魔性〉なのである。 だから彼は,相手がわから〈その非〉に関して指摘や批判をうけても,それにまともに反論をかえせない。もちろん,相互の間柄において対話の関係も構築できない。ただひたすら強弁を弄しながら,持論にまちがいがないこと:自信のほどだけを闇雲に弁明する。その弁解の姿勢に潜む無限的な傲慢さ! 要するに石原は,基本的な姿勢において反知性的であって,この点を追及されるとひらきなおるほかないから,そのさい逆上したかなような態度もみせる。 10) 石原発言を支持する人々の本当の背景〔日本社会の反応をどうみるか〕。 ・東西の冷戦構造が終結し,ソ連が崩壊して以降,日本の仮想敵国として朝鮮民主主義人民共和国が選ばれたようだ。「なにをしでかすかわからない北朝鮮」というイメージはくりかえし流布され,「不逞鮮人」という偏見もにわかに復活している。 ・今年〔2000年〕になってテレビでは,父親を暗殺する使命を帯びた「北朝鮮からやってきたスパイ」を連想させる主人公が登場するドラマも放映された。 ・「都営地下鉄の日比谷線脱線事故は,北朝鮮からやってきた人が線路に石をおいたからだ」という根拠のない噂が,事故直後よりまことしやかに流された。 ・永住外国人の地方選挙権を成立させる法案にはわざわざ,「朝鮮籍」排除の付則「案」がくわえられたりもした。 ・以上のように,石原と地位のみならず,日本社会で共犯して生みだされる偏見の蓄積が「三国人」という実体なきステレオタイプとなって再現されたのである。 ・そして,自分たちがつくりあげた虚像にみずから怯えたあげくに,治安維持を目的に陸上自衛隊に出動要請したのだという。「警察力にかぎりがある」とて,自衛隊の専守防衛軍隊を出動させて,共同幻想上のモンスターとどう戦うおつもりか。 ・「来日外国人」の検挙数増加はグローバリゼーションの副作用なのであって,短絡的に「外国人が凶悪」化したとみなすことはできない。もし,本当に外国人犯罪を抑えて治安維持をはかりたいなら,陸上自衛隊の出動を要請してもむだであり,グローバリゼーションの利便性を放棄して,鎖国する以外ない。 ・ともかく「外国人はなにをしでかすかわからない」という偏見は,なにかにつけて外国人を悪者に仕立てあげてきた。なんでも悪いのは外国人にしておく,というわけだ。関東大震災時〔の流言蜚語〕を想いだせば,よく理解できる(121頁)。 11) 「天皇制つき日本国憲法と排外思想たっぷりの外国人登録令」 つぎは,在日外国人として外国人登録法に定められている「指紋押捺」制度に対して,体をはって抵抗してきた人物の発言である。 ・その50数年後,石原東京都知事が吐いた「三国人」ということばは,そもそもそのような日米為政者たちの思惑のなかから生まれたものであった。戦勝国である旧「植民地」出身者に対して,敗者である日本のあらたな差別と管理を準備していくための,まさに仕組まれた表現であった(124-125頁)。 ・日本の戦後「外国人」排外主義の根元は戦前体制にある。 ・日本社会は戦後,新しい憲法を手にすると同時に,他民族への排外思想を払拭する第1歩を踏みださなければ「新しい憲法」も,もとより生かすことができなかったはずである。ところが,日本の民衆は自分たちの民主化に根元から深くかかわる日本の外国人政策の問題に気づかず,内なる「天皇制と民族排外思想」を内包しつづけたのである。 ・1947年5月2日を境に排除すべきは排除し,天皇制をのこしながらの「日本人だけの民主主義」を培おうとして戦後日本。まさに歪(いびつ)な出発だった。その後〔私たちは〕,日本の国益,大多数の「日本人」のために「よそ者」をつくりあげ,排除する政治をたびたびみることになる。 ・おおきな反対をみる動きもないままに,戦争への道−「周辺事態法」「国旗・国歌法」「盗聴〔通信傍受〕法」「国民総背番号法」−がつぎつぎと成立し,あまつさえ日本の侵略戦争によって流された厖大なアジアの人々の「血」の代償として生まれた,「日本国憲法の不戦の誓いである9条」まで放棄しようという昨今である。この社会は本当に石原東京都知事の,あの恐ろしい思想が生きえる社会なのか。 ・結局,「天皇制をのこしながらの民主主義」を繕いながら,真の民主主義をめざして積みかさねてきた良心の存在を信じて,日本の民衆に問いつづけなければならない(125-126頁)。 12) 「オールド・カマー」対「ニュー・カマー」という倒錯した原風景=被害者意識共同体としての日本 ・昨今の事態は,より錯綜している。なぜなら,被害者意識共同体としての日本が,「不良外国人の存在は,善良な日本人と日本にいる善良な外国人に対する脅威」(佐々淳行)という拡大した被害者意識をとりこむことで,「定住」外国人や「オールド・カマー」とよばれる外国人の一部を,その構成員として認知しはじめたからである。 ・石原発言は,私たち外国人を分断し,「被害者意識共同体としての日本」にくわわることを求めるひとつの装置なのである。 ・筆者も本論でとりあげ,その姿勢を批判した金 美齢は,「密入国,不法滞在の外国人」のために「まっとうに暮らしている外国人が迷惑する」と述べていた。だがこれは「典型的な被支配集団の〈成りあがり〉戦略の言説である」。 ・新たに編成された「被害者意識共同体としての日本」のマジョリティ集団に属することを望み,マジョリティの倒錯した被害者意識を内面化したとき,私たち〔在日外国人〕は「墓穴を掘る」こととなる。 ・金 美齢のごとき立場は「歴史を批判しうる理性をみずから手放す」ものである(131-134頁)。 石原慎太郎がこの金に対して好意的な態度をしめすのは,それ相応の事由があったわけである。石原にとって好都合な感性を披露している金は,在日外国人でありながら在日外国人に対して「墓掘り人」の役目をはたしている。 13) 「都知事の三国人発言は外国人差別の扇動罪に相当する」 ・「国際都市」東京の知事として都民が選んだ人物は,大都会の長(おさ)としてはあまりに不適切な,チロリン村を統治する力量すらあるとは思えない。偏狭な思想に凝りかたまった御仁である。 ・その当人の弄した「おことば」は,日本国でこそさほど問題にならなかったものの,大半の西側民主主義国家であれば,更迭にむすびつくか,もしくは罰金刑が禁固刑〔扇動罪〕の対象になる発言である。まかりまちがえば外国人住民の暴動にさえつながりかねない。「大震災が起きた」からではなく,都知事の外国人差別扇動発言によって,である(135頁)。 ・差別扇動主義者で歴史否定論者である人物に,日本国首都の知事としての存在を許すことは,東京都の,ひいては日本国の〈プライド〉に「泥を塗る」にひとしい行為である。東京都の有権者はどう考えるのか? 14) 石原慎太郎東京都知事は「精神の放火犯」 ・石原知事は,東京都の友好姉妹都市である北京を訪問する政治的蛮勇をもちあわせていない。同じく姉妹都市のベルリンの訪問も,やめたほうが賢明である。彼は,ドイツではりっぱな刑事犯容疑者あつかいをされるからである。またそれは,ドイツだけにかぎらない。多くの国と地域で彼は歓迎されない。 ・ドイツ刑法第130条〔民衆扇動罪〕の第1項には,「公の平穏を害するに適した方法で,1. 住民の一部に対して憎悪を挑発し,あるいは暴力的もしくは恣意的措置を要請した者は,または,2. 住民の一部を中傷し,悪意で侮蔑し,もしくは誹謗することにより,彼らの人間の尊厳を侵害した者は,3ヶ月以上5年以下の自由刑(禁固刑)に処する」とある。 ・石原知事の「〔第〕三国人」暴言は,誰がどのように考えても,いくら詭弁を弄そうが,この罪に抵触しないと主張することなど,とても無理である。 ・彼は,住民の一部である在住外国人に対して,「三国人が騒擾を起こす」と憎悪を挑発し,自衛隊「3軍は治安出動せよ」と恣意的措置を要請し,それにより多数の在日外国人の尊厳を侵害し,民衆の恐怖感と差別意識を扇動したことは明らかである。 ・つまり彼は,ドイツであれば,その言動により公人としての政治生命をうしなうのはもちろん,同時に告発され,民衆扇動罪の典型的判例として懲役刑を科せられることは,まずまちがいない。彼のような人物の居場所は,この国では,知事室ではなく刑務所の一房である。 ・関東大震災時,流言蜚語に煽られて,何千人もの無実の「不逞鮮人」を虐殺したのは誰であったのか。民衆と警察と軍隊だ。当時のこれらの犯罪者の「憎悪」を「三国人」という差別死語をつかって石原は自衛隊にむかって煽り,それを現在に甦らせることをした。このように世論に毒を流す危険な人物をよんで,ドイツでは「精神の放火犯(der geistige Brandstifter)」という。 ・ドイツナチスの時代,アドルフ・ヒトラー政権下でそうした〈精神の放火犯〉の役割をよくはたしたのが,ヨーセフ・ゲッペルス帝国宣伝啓蒙相であった。 ・実際に虐殺された歴史的体験のある在日外国人が,石原の発言が,地震災害を口実に,外国人に対する同様の「演習」を自衛隊に扇動する行為だとうけとるのは,当然すぎるほど当然のことである。ゲッペルスのユダヤ人に対する憎しみと蔑みの心理と,石原の外国人に対する憎しみと蔑みの心理は共通している。 ・一部の外国人の犯罪をかっこうの口実として,国民の憎しみと恐怖感を外国人全体にむけて煽り,自衛隊「3軍の治安出動は抑止力になる」と主張する石原の言動と発想は,ゲッペルスが実際にユダヤ人に対しておこなった言動と発想〔1938年11月9日「帝国ポグロムの夜」〕と,みごとなまでに相似形である。かくして2000年の東京には「東京のゲッペルス」が登場した(142-145頁)。 ◇ ナチスドイツ,アドルフ・ヒトラー政権……ヨーセフ・ゲッペルス帝国宣伝啓蒙相は, ◇ 1999年4月,東京都知事に当選した……小説家出身の石原慎太郎である。 15) 人種差別撤廃条約−ドイツと日本の対照的な姿。 ・石原「発言の支持,あるいは沈黙の容認」こそ,いまや最大の問題点である。いまの東京が,破滅の予兆のおこる前夜でないと誰がいえようか。扇動されたテロによって無実の弱者が再び生命を奪われかねない。その前夜にまで日本はきてしまっている。ナショナリズムに「憎しみの火」がつけば,それを消すことは困難である。憎しみは自他を焼きつくすまで鎮火しない。いったんその事態になれば,主犯として歴史に罰せられるのは,彼を選んだ主権者であって,石原ではない。 ・いまや私たちにできることは,「精神の放火犯が放つ憎しみの火」に対抗し,「良心と知性による向かい火を放つ」準備をすることである。 ・ゲッペルスの扇動を黙認して,歴史に罰せられた西ドイツは,1965年「あらゆる形態の人種差別撤廃国際条約」が国連で採択されると,いち早く無条件に批准し,それを履行する国内法をととのえた。その罰則とみなされるのが民衆扇動罪である。 ・日本はその条約を,世界中でもっとも遅れ,1996年になってやっと批准した。だが肝心の国内法精義状況を留保し骨抜きにしている。だから,石原の暴言もいいのがれで済まされてしまい,つぎの暴言のチャンスまで知事室でおとなしく待つことができるのだ。石原は人権赤字大国日本を象徴する政治家然として居座っている。その姿は,日本の不名誉の象徴である。 ・ドイツのように,いまだネオナチが暴れまわる国情ではない日本であるから,すくなくとも関連国内法としては,公職にあるものが差別を扇動したばあいには,ただちに地位をうしなわせしめる「苦い漢方薬」ほどの罰則は,最低限必要である。これは,国際社会で名誉ある地位を占めようとする民主主義国家の常備薬である。「石原病」を患う日本に欠けているのは,そのような良薬の不備の認識と,それを調合しようとする努力である(146-147頁)。 ・さて,日本政府は,人種差別撤廃条約第4条 a) および b)「人種的優越または憎悪にもとづく思想の流布や人種差別の扇動などを処罰すること」を締約国に求めている。だが,日本は,これらのうち,憲法と両立する範囲において一定の行為を処罰することが可能であり,その限度において,同条の求める義務を履行していると答えている。 ・また,日本政府はこういって同条に留保をつけ,完全な履行を忌避している。−−同条の定める概念は,さまざまな場面におけるさまざまな態様の行為をふくむ,非常に広いものがふくまれる可能性があり,それらすべてにつき,現行法制を越える刑罰法規をもっていることは,……表現の自由その他憲法の規定する保障と抵触するおそれがある,と。 ・とはいっても,日本政府報告書の記述には理解できない点がある。日本政府は,日本国憲法の表現の自由と,人種差別撤廃条約の人種差別扇動規制とを単純に対立させて,表現の自由に反するから同条約第4条を留保している。もし,そうだとすると,同条の適用を留保していない多くの国には,表現の自由はないのだろうか。西欧諸国のほとんどは同条を留保していない。留保しているのは,スイスくらいのものである(169-170頁)。 ・人種差別思想宣伝,とくに一定の実力行使をともなう人種差別表現行為を法規制の対象とすることは,憲法違反ではないし,不可能なことでもない。政策的にそれが望ましいか否かはべつに論じる必要があるが,日本政府の説明に合理的理由が不足していることはたしかである(171頁)。 16) 「ペルゾーナ・ノン・グラータ」−ハイダー(オーストリア)と石原慎太郎(日本)− persona non grata(ペルゾーナ・ノン・グラータ)という外交用語は,警察官僚の佐々淳行もつかっていた専門的な表現であった。「ある国にとって好ましくない人物」がその意味である。 最近の国際情勢に即してその代表的人物を挙げてみると,ペルゾーナ・ノン・グラータは,つぎの2名である。 ◇ 東の石原都知事〔日本国東京都の首長:現役〕は,東條英機の孫の世代 ◇ 西のイョルクハイダー首相〔非難をうけすでに辞任した〕は,アドルフ・ヒトラーの孫の世代 ・オーストリアのイョルク・ハイダー前首相は,旧ナチスドイツの「親衛隊員は行儀がよかった」などと,ナチスびいきだった父親ゆずりの発言をした。在住外国人を敵視するこのハイダー発言は,周辺諸国の反発・批判をいっせいに喚起した。その結果,彼は,首相の座だけでなく,オーストリア自由党首の地位も明けわたすことになった。それでもなお,人権擁護を共通の価値観とする欧州同盟〔EU〕14カ国は,現オーストリア政府は同盟内では容認しがたく,制裁措置をくわえるという姿勢である。オーストリアは欧州同盟のなかで「好ましくない国」としてあつかわれ,途方に暮れている。すべてハイダーの自由党との連立政権のためである(147-148頁)。 日本の石原は現役のまま居座って〔居直って〕いるのにくらべ,オーストリアの首相だったハイダーは,周辺諸国からの非難・批判をうけて辞任した。これは,内政干渉の結果ではなく,国際的良識から巻きおこった批難に耐えられなくなった本人が,みずから判断した結果である。 ・冷戦終結後のナショナリズムの台頭は,けっして日本とオーストリアだけの現象ではない。世界的な傾向である。しかし,いまだかつての同盟国としての戦争責任の自覚が大いに不足している点では,両国は共通している。それが,彼ら「精神の放火犯」を再び甦らせている土壌である。 ・日本もオーストリアにも必要なことは,世界中で persona grata(ペルゾーナ・グラータ,好ましい人物)であるような政治家を選ぶことである。これは,民主主義社会の主権者の最低限の義務ではないか。石原のような恥しらずの政治家を追放することは,日本の名誉を最低限維持するために必要である(148頁)。 17) 東京都民の民主主義的感覚。 ・したがって,民主主義の風上にもおけないような人物が東京都知事という公職に選出されて,平然と受けとめられている事実そのものあ,わたしたち〔都民:日本人〕が守るべき最低限の民主主義的規範さえ逸脱している。今回の石原発言は,そうした逸脱状況を,またもや凌駕した。 ・そうした逸脱行為を放置しておくと,どこへむかうのか。それは明らかにファシズムである。これほど単純明快は事態をまえにしても,わたしたちは昨日と同じように生きのびるというのだろうか。 ・たしかに石原都知事は,以前までの政治家や官僚出身,大学教員出身,あるいは同じ作家の青島幸男のような前任の知事たちにくらべたら, 「自分の思っていることをハッキリいう政治家はカッコいい」, 「本心を表明しない政治家よりはずっとましだ」, 「表層的な行政改革を実践してあたかも〈行動力のある知事〉だ」と大衆うけする。 ・フランス,ドイツなどヨーロッパにおいては,石原発言は明らかに犯罪行為であり,処罰の対象になる言動である。そして,オーストリアのような例外をのぞけば,政治生命が危うくなる。なぜ,ここが日本だからといって,そのような発言が許されうるのか。 ・15) でも触れたように,日本には奇妙なことに,人種差別や人道に対する犯罪を罰する法律が存在しない。そのうえ「人権」という民主主義の出発点となる概念が実はよく理解されていない。人権のなんたるかも,学校で学ぶことはすくない。だから,日本の大半の政治家が人権感覚が低いといわれても,なにを指摘されているかもわからないありさまである(151-152頁)。 18) オーストリアと日本の戦争責任問題に関する共通性。 ・オーストリアの歴史的特異性を考慮するとしても,この国も戦後,加害者意識より被害者意識によるトラウマのほうが圧倒的に強く,大戦中の罪科を咀嚼する検証作業が欠如していた。そして戦後,比較的,経済の繁栄と安定に恵まれ,他の欧州諸国にくらべると,移民労働者がはるかにすくない。 ・実際,オーストリアの総選挙で,ハイダーの自由党に票を投じなかった人たちは60%いる。投じたのは,30%に満たない。しかし,このような状況でも,政局のつくられかたによって,保守と極右翼の連立内閣は〈民主的に〉成立する。日本の「自自公」〔のちに「自公保」〕もまさにそうではなかったか(152頁)。 とくに,創価学会名誉会長であり,実質的なその独裁者である池田大作を「生き仏」として仰ぐ政党「公明党」の罪科はみのがせない。1999年に開催された国会で通過した議案,周辺事態法・通信傍受法〔盗聴法〕・国旗国家法・改正住民基本台帳法などはすべて,公明党の立場では本来,絶対に反対する〔してきた!〕諸法であったのに,執権党となるや180度豹変しそれに賛成したのである。 公明党のみせた姿勢の急変は,変節とか,あるいはおだやかにいっても,方針の変更とかいうものとは無縁の,まさに特定の人物のいいなりになる政党であったことを,あらためて実証した。 ・1999年におきた政変を黙過する大多数の選挙民がこの国にいる。ヒトラーも民主的に選出されたのである。議会制民主主義という制度が,絶対正義を保証するわけでないし,社会の普遍的正当性を証明するわけでもない。そこに民主主義の落とし穴がある。 ・オーストリアのイョルク・ハイダー前首相,そして彼の政党「自由党」などが謳いあげた文句を日本のものと対置し,つぎに紹介しよう(152-153頁)。 ◎ オーストリア自由党の標語:「自分の思っていることをハッキリいう政治家はカッコいい」という石原評価は,「オオカミの皮をまとった羊より,羊の皮をまとったオオカミのほうがずっといい!」という,自由党の標語に相当する。 ◎ イョルク・ハイダーの発言:まず自国の3百万の死者への追悼……云々と述べた加藤典洋「戦後責任論」は,「祖先を尊敬しない民族は衰退せざるをえないだろう」という,オーストリア前首相ハイダーの発言に相当する。 ・ただしその後,オーストリアでは「ハイダーのオーストリアは私のオーストリアではない」と,連日,25〜30万人におよび反政府デモがウィーンでくりひろげられた。またさらに,不可視の存在だったハイダーに票を投じなかったオーストリア国民〔市民〕たちの姿が,しだいにみえるようになる動向をしめしている。東京都民〔日本国民・市民〕たちも,いま,そうした姿勢を明確に提示することが求められている。 ・戦後55年経た私たちの未熟な民主主義をなお選択し改善していくのか,それともファシズムへの回帰を選択するのかが,いまここで真剣に問われている(154-155頁)。 ・日本のメディアは,ハイダーを「極右」と報じた。ハイダーが極右なら,それでは石原はなんなのか。日本のメディアは,なぜ石原を「極右」とよばないのか(168頁)。日本国内と海外の論調にみられるおおきな落差・断層が気になる。 19) 「〔第〕三国人」ということばの本質と現象。 ・敗戦日本のリーダーたちは,在日朝鮮人は多数民族の大海のなかに消滅してもやむをえないとの将来設計があった。「〔第〕三国人」ということばは単なる差別語ではない。それは,植民地支配の帰結として来日した人々を日本社会から排除し,抑圧しようとした当事者によってつかわれた政治的用語であった。すでに死語となっていたことばが再使用されたとき,それは,当為の政府当局者たちの用法を想起させた。だから,在日〔外国籍など〕の人々をして不快憤激と,そればかりでなく恐怖さえも惹きおこしたのである。 ・石原発言をめぐり,日本という国家の外国人政策,その背景にある思想を反映したふたつの特徴に注目したい。こうして石原発言は,@在日朝鮮人政策という歴史と,A外国人労働者問題という現在に触れたのである(158-159頁)。 @ 石原発言は,在日朝鮮人の差別と抑圧の歴史をいっさいかえりみていない。 A 石原発言は,外国人労働者への歪んだみかたをしている。 ・石原発言は,外国人労働者への反発や違和感を扇動して大衆の支持を獲得する,ヨーロッパのネオナチのリーダーの発言によく似ている。石原の発言は,ヨーロッパの極右政党が扇動するレトリックにあまりに似ている(159頁,161頁)。 外国人労働者問題に積極的発言をおこなっている駒井 洋は,第2次大戦後の日本社会に登場した「〔第〕三国人」ということばの国際政治的背景事情を,こう説明している。 −−戦争放棄を誓う平和な日本国民というイメージをもつ日本国憲法の理念の裏面には,アメリカいがの外部世界とのほぼ全面的な遮断があった。ここでは,よそ者としての在日韓国・朝鮮人は,できれば退去させたい異分子として国家権力による厳重な監視下におかれた(駒井 洋編著『日本的社会知の死と再生−集団主義神話の解体−』ミネルヴァ書房,2000年,335頁)。 20) 石原都知事発言への日本社会の反応をどうみるか。 ・石原の暴言に対する反応は,つぎのとおりであった。主なものを紹介しよう。 ・経済同友会小林陽太郎代表幹事は,経済界として「非常に残念な発言だ」と批判した。また,民主党代表鳩山由紀夫代表,社民党都連代表の田 英夫参院議員,河野洋平外務大臣などの批判的コメントも出された。 ・問題は都民の反応である。都庁政策報道室「都民の声」部相談提案課の4月10日から18日までの統計によると,寄せられた市民の意見のうち, −石原発言支持は,5,205件(68.8%), であった(内海・ほか編『石原都知事「三国人」発言の何が問題なのか』〔にもどり〕161頁)。 ・もっとも,石原発言支持は,右翼が指令を出して集団的に意見を流したもので,「普通の市民」が石原発言を支持したわけではない,という情報もある(164頁)。 今回の石原発言に対する都民の「賛否」反応で,不思議な現象とみるべきものがある。はじめは,都庁に批判の声が多くとどき,そのあとをうけて,賛同の声がそれをうわまわるかたちでとどいたことである。批判の声をあげる人々が,ただちに都庁にとどいたのであれば,なにゆえ,賛同の声も同時にただちに発せられとどかなかったのか,という疑念が湧いてくる。 要は,石原発言に対する批判がわきあがる動向をみて危機感を感じとった国粋・右翼の人々が,それに反撃する要領で,東京都に「石原支持」の意見を集中的に送ったとみるべきである。 ◎ 若干の付論的な解説。 石原発言を支持する極右勢力は,たとえば,西尾幹二編新しい歴史教科書をつくり会『国民の歴史』(産経新聞ニュースサービス発行,芙桑社発売,平成11年10月初版)は,ベストセラー的な売れゆきを誇っている著作である〔ただし,その記述はハイダー首相の発言に似ており,故意に買いかぶっておおげさにいうと,アドルフ・ヒトラー『マイン・カンプフ (我が闘争)』に似てもおり,多くのでたらめな内容を羅列した本である〕が,実のところ〈つくられたベストセラー〉である。 そもそも「国民の〈歴史〉」などなかった時代にまでさかのぼって,なにもかも「〈国民〉の歴史」にくみこむという歴史学の初歩を大胆に無視したつもりの,非歴史科学的な無謀な「トンデモナイ」本が,この『国民の歴史』である。 西尾幹二先生はドイツ文学・哲学の専攻者であって,これまで,外国人労働者排斥論を盛んにブチあげてきた人物である。また,公表してきた著作の名称をみただけで,この先生,たいへんな現代の〈鎖国論者〉である事実がわかる。この点こそ,国際化時代に生きるわれわれに,西尾さんが示唆したい重要論点らしいのである。 筆者は実は,だいぶ以前のことと記憶しているが,在日外国人問題に関して雑な,つまり学究としては客観的・実証的な根拠に欠ける著作中のいい加減な記述が気になって,西尾先生に直接通信を出して,そのような記述はやめてほうがいいのではと,わざわざご注進におよんだことがある。この先生,大学教員でありながら学者として守るべき作法をしばしば忘れ,しかも自分の専門外の論点にまで口出しをするという悪い性癖をもっている。 ・『戦略的「鎖国」論』講談社,1988年。 石原慎太郎とまったく同類の国粋的極右のこの人物,西尾幹二という大学教員の編者がまとめた『国民の歴史』は,初版35万部も発行された。版元の産経新聞社は「一日1万部,売れている」,「翌年1月末で72万部突破」などと宣伝している。 ところが,売れゆき良好というキャンペーンの陰で,全国各地において『国民の歴史』がバラまかれている。小中高の学校や校長・教師,教育委員,地方議員や市民などに,「子供の教育(未来)を考える父母の会」などの名称をつかって,無料で送りつけ,また「つくる会」会員が大量に学校にもってきて同僚教師や学生に配っている。 東京のある団地では,全戸の郵便受けに投げこまれ,広島では駅頭で配布している。また,自民党の講演会では,300円の小冊子の〈おまけ〉として配られている。東京都中野区では,教育長が校長会の席で,同区立の小中学校長に配布している。 1999年6月までに集めた予約27万部〔1人で数百〜5万冊〕と書店でまとめ買いした本を,「つくる会」の支部が会員たちが無差別に配っているのである。 そうしてバラまかれた冊数は,全国的には,数万冊から10万冊を超え,その費用は1億円がそれ以上になると推計される。このようにして,人為的なベストセラーづくり,話題づくりをして,「国民がこんなに支持している」という世論づくりをおこなっている。 「つくる会」は,各地の議会や教育委員会への採択問題での請願にさいし,「つくる会」の名前をつかわず,「○○市〔区〕の教育を考える市〔区〕民の会」などの名称をつかっているが,『国民の歴史』のバラまきに当たっても,同様なことをおこなっている。まさに,謀略の臭いのする「国民運動」である(以上は,「教科書に真実と自由を」連絡会編『徹底批判「国民の歴史」』大月書店,2000年,302-303頁より)。 21) 石原発言のトリック。 ・「三国人」−「危険な外国人労働者」−「自衛隊の治安出動」−「軍隊による災害訓練」というキー・ワードを並べた発言。これこそは,日本の民衆が呪縛されてはならない言説である。しかし,すくなからぬ人々のこころがわしづかみにされている(ここから,内海・ほか編『石原都知事「三国人」発言の何が問題なのか』〔にもどり〕162頁)。 石原の,乱暴だが庶民うけする「以上のような論理の〈無関連〉的な連鎖=単なる併置」は,実は,「論理上,合成の誤謬」を犯したトンデモナイ理屈づけであった。この点はすでに本論で言及した。 しかし,その論理のカラクリをみすかすことができず,また現実の様相を全体的・客観的にみる必要性がなく,またさらにその眼力ももたないちまたの庶民たちは,上記のごとき「得体のしれない」「異邦人」は「三国人」とでもよぶべき「外国人」=「害国人」なのだから……,石原のことばにしたがい「自衛隊」「軍隊」を出動させて鎮圧するのは当然……,という没論理・非現実的な規定観念を,わけもなく造出してしまう立場にある。 ナチスドイツの時代においてそうであったことなのだが,当時,ドイツ国民のこらず全員が,ヒトラーの残酷な思想に賛同していたのではない。けれども,大部分の人々がユダヤ人排斥・抹殺を当然とする〈あの世紀の狂人〉の精神を,自然にうけいれていったのである。 1995年1月17日早朝,神戸・淡路大震災がおきた。そのさい,石原がおきるはずだといった騒擾は,おきるどころかその気配すらほとんどなかった。この災害をきっかけにむしろ,それまではふだんのつきあいのなかった,古くから在日する韓国・朝鮮人やそのほか新来の外国人の住民たちと日本人住民とのあいだに,友情・友好の輪が新たに生まれていたことを銘記すべきである。 石原の感覚でいうと,神戸・淡路大震災という災害発生時に「おきてほしいこと」はおきず,「おきてはほしくないこと」が実際,目のまえに展開したのである。この現代の日本に生きている人々は,はたして,石原の扇動〔口車〕に簡単に載せられるほど,単純な精神の持ち主ばかりなのだろうか。 22) 未登録外国人に与えた脅威−石原発言の暴力性− ・2000年1月現在,日本には25万1千人もの「不法滞在外国人」〔以下,未登録外国人とよぶ〕がいる。彼らは凶悪犯罪予備軍でもなく,また災害時に騒擾をおこす動機などひとかけらももっていない。災害時に未登録外国人が騒擾をおこすという発言は,なにを根拠にしているのか。むしろ,これまでの歴史をみるかぎり災害時に迫害をうけるのは,少数民族であったり,正規の滞在資格をもたない未登録外国人であった(177頁)。 ・マスコミなどはいまなお,警察庁のいい加減な情報操作を真にうけて,「不法滞在外国人」〔未登録外国人〕の犯罪が増加していると報道している。新聞には「アジア系外国人が強盗」なとといった記事が連日のように掲載されている。石原都知事の発言の背景には,マスコミの報道姿勢にも責任がある(176頁)。 ・東京都知事である石原慎太郎は,首都東京の長として日本人,外国籍住民をあらゆる災害や危険から守るという自覚と責任感をもってほしい(178頁)。 石原都知事は実際,大都市東京を預かる行政管理機関の最高責任者として,なにに備え,なにをなすべきかわかっていない。それどころか,自民党議員時代に自分が実現できず,これまでなにか,もやもやしたかたちで体内にくすぶっていた,時代遅れの「反共思想」「反アジア精神」「暴力志向」「万物差別排外主義」など,《ファッショ的価値観:時代錯誤の鎖国体制》の体現をもくろんでいる。 東京都民による民主主義の選挙で選ばれた知事のなすべきことは,いったいなにか。そういう基本的な職務など棚に上げて,外国人への偏見をもち差別を実行せよと煽るばかりの言動である。なぜかこの人は,他者〔もちろんこれは外国人のことだが,弱者的立場にいる日本人たちも多くふくむ〕をいじめるそのような言説を好むのである。 23) 『警察白書』が扇動する人種偏見−「初めに偏見ありき」−。 ・本論で引照におよんだ渡辺英俊は,警察庁の発表した犯罪統計は「外国人の犯罪」というとくべつのとりあげかたをしており,外国人をはじめから猜疑の目でみる偏見があることを指摘している。 ・マスコミによる「外国人の犯罪」に関する報道姿勢は,警察庁の作為的な統計読み替え操作にだまされている。 ・特別法犯検挙数のうちその80%は,「出入国管理及び難民認定法」や「外国人登録法」で外国人のだけ適用される法違反である。そうであるにもかかわらず,それを刑法犯,それも殺人や強盗といっしょにして外国人の犯罪件数「何万件」という書きかたをし,偏見を扇動している(180-181頁)。 ・渡辺英俊の作成した諸統計を,つぎに参照しよう。 |
刑 法 犯 | 特 別 法 犯 | |||||||
凶悪犯 | 窃盗他 | 計 | 入管法違反 | 外登法違反 | 薬物関係 | その他 | 計 | |
検挙件数 | 267 | 24,868 | 25,135 | 7,057 | 331 | 1,039 | 836 | 9,263 |
検挙人員 | 347 | 5,616 | 5,963 | 5,915 | 139 | 754 | 665 | 7,473 |
1993年 | 1994年 | 1995年 | 1996年 | 1997年 | 1998年 | |
日 本 全 体 | 0.29% | 0.29% | 0.28% | 0.28% | 0.29% | 0.30% |
来日外国人 | 0.21% | 0.19% | 0.19% | 0.15% | 0.13% | 0.13% |
1993年 | 1994年 | 1995年 | 1996年 | 1997年 | 1998年 | 1999年 | |
件 数 | 4,791 | 4,527 | 5,092 | 4,801 | 5,444 | 4,756 | 4,144 |
人 員 | 3,778 | 3,328 | 2,730 | 2,261 | 1,897 | 1,462 | 1,784 |
1996年 | 1997年 | 1998年 | 1999年 | ||
東 京 都 全 体 | 検挙件数 | 748 | 724 | 922 | 936 |
検挙人員 | 752 | 826 | 853 | 978 | |
「不法滞在外国人」 | 検挙件数 | 30 | 40 | 56 | 54 |
検挙人員 | 52 | 48 | 60 | 79 |
・以上,表1・2・3・4が証明するのは,つぎの諸事実である。 @「来日外国人の犯罪比率」が〈高い・多い〉という警察庁の宣伝はウソである。 A「東京都の刑法犯検挙件数・検挙人員」はそれを人口構成比でみると,むしろ「外国人のほうが低いし,絶対数そのものもすくない」。 ・こうした程度の外国人犯罪率を事由に挙げて,災害時には外国人たちが騒擾をおこすにちがいないから「自衛隊の治安出動」をうんぬんするというのは,おのれの偏見の影におびえた騒ぎかたである。そして,この発言を支持するかのように声を挙げていた,マスコミの見出しの大きさに煽られた偏見なしには考えられないことである(181-184頁)。 ・警察白書は,客観的な根拠もないのに悪意的な数字の操作をおこなって,日本全体の傾向のなかに埋もれてしまうような現象の一部を故意に拡大して,「来日外国人」が犯罪傾向をもっているかのように印象づけ,治安問題だと騒いている。これは偏見の宣伝である。とくに「不法」の外国人というよびかたで,ふつうの市民生活を営んでいる人々を,「蛇頭」や暴力組織とむすびつけえ書くことにより,在留資格のない外国人がすべて犯罪集団であるかのように印象づける記述をくりかえしている。 ・「外国人」という特定の人種集団を指して,そのような猜疑・敵意を植えつける宣伝をすることは,「外国人憎悪(ゼノフォビア,xenophobia)」というタイプの人種差別・アパルトヘイトを扇動することである。それは,人種差別撤廃条約が「犯罪」であると宣言を求めている〈人種差別の扇動〉にほかならない。 ・上述のような行為を公的機関=警察庁〔警視庁〕が長年にわたってくりかえすことは,同条約の条項で日本も留保なしに批准している部分に違反する。このことは,法的な在留資格をもたず日本に「超過滞在」する外国人の犯す形式的違反よりも,はるかに「重大かつ悪質」な法違反である。 ・石原都知事の差別発言は,警察のおこなっている人種差別と同根同罪である(185頁)。 24) 石原発言と日本・日本人の歴史的責任−関東大震災時の記録− ・今日,日本では警察庁と都知事が先頭に立って人種差別を扇動し,これにマスコミが拍車をかけるような報道をおこなっている。 ・1923〔大正12〕年9月1日関東大震災がおきた。国家がわが流布させた流言蜚語のため6千6百余人もの朝鮮人が虐殺された。ところが,官憲はデマ流布の国家責任を棚上げして,9月下旬ころから朝鮮人を殺傷した自警団員を検挙した。新聞はこれに追従して,自警団員が日本人を殺傷したり,掠奪したことを盛んに報道した。こうして,国家責任にむけられるべき眼がたくみに自警団にむけられた。 ・10月20日,政府は警察のデマ流布や軍隊の朝鮮人虐殺の報道を除外して,自警団の朝鮮人虐殺の新聞記事のみを解禁した。と同時にこの日,司法省は朝鮮人の犯罪をデッチあげて発表し,一部の「不逞鮮人」がいたために朝鮮人虐殺がおこったのだと述べた。こうして政府は,朝鮮人虐殺の究極的責任を自己から朝鮮人自身に転嫁させた(188頁)。 ・関東地方の各県各地に関東大震災時に虐殺された朝鮮人追悼碑が建てられている。しかし,それらの墓碑には,朝鮮人を虐殺した主体が誰であるかを明記したものが,ほとんどといっていくらいない。 ・前段が意味するのは,民衆が自己の罪を隠すことで国家のよりおおきい罪を隠し,官民一体の体制を克服しきれなかったことである。さらにその意味では,日本の民衆が,辛くとも自己の心の痛みと責任を曖昧でなく,はっきり表明したそのときに,国家責任が根底から明白にされ,石原発言をささえる社会的土壌が消滅するのである(191頁)。 筆者がいま,この文献紹介〔この部分〕を書いている日にちは,2000年8月9日である〔この日がなんの日であるかは指摘するまでもない〕。もうすぐまた,9月1日がくる。ところが最近,関東大震災で虐殺された朝鮮人追悼碑のうち埼玉県本庄市にあるものが,そのささやかな,まるで無縁仏を現わすようなちいさい墓石〔地面にただ無骨な石を突き立てたようなその一群〕の相当数が,心ない人の仕業によって引き倒されるという事件がおきた。この事件は,そのような墓石の存在さえ許そうとしない狭量な人の愚行である。 25) 石原発言は日本民衆の恥辱である。 ・関東大震災の朝鮮人虐殺に関して,日本人が辛くとも,国家の朝鮮人虐殺に加担した民衆責任を告白すると同時に,日本国家に謝罪をさせていたならば,石原知事といえどあのような発言はできなかっただろう。その意味でも石原発言は,日本民衆の恥辱とこころえるべきではないか(196頁)。 ※ 以上,内海愛子・高橋哲哉・徐 京植編『石原都知事「三国人」発言の何が問題なのか』の内容を,筆者の注釈もいれながら詳細に紹介してきた。本書の末尾には,今回の石原「暴言」に関する資料がたくさん収録されており,たいへん参考になる。 【以上,2000年8月9日 脱稿】 |