石原慎太郎に関連するあれこれ

−『作家都知事の差別社会学』に関する補説
 

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 〔1〕−外国人都民会議の反発−
 〔2〕−差別を煽る著作−
 〔3〕−青嵐会の成れのはて−
 〔4〕−差別に加担する学者−
 〔5〕−幼児性の顕著な慎太郎さん−
    
差別のことばはわかりやすいもの−石原発言の本質的意味−


 


 補 説】その他の話題〔1〕−外国人都民会議の反発−

 @ 東京都は,外国籍住民の声を行政面に反映させるための機関である「外国人都民会議」を設置している。石原慎太郎都知事の「〔第〕三国人」発言の余波をうけて中断していた第5回外国人都民会議全体会議が,2000年7月26日都庁第2本庁舎でひらかれた。2月に第4回の同会議がひらかれて以来,5カ月ぶりの開催となった。

 石原都知事は5月24日,外国人都民会議委員との懇談の場に出席,みずからの発言について釈明している。しかし,委員からの不信感は解消したとはいえず,今回の意見交換でも不快感を表明する声があいついだ。この間,2人の委員から抗議の辞意表明があり,メンバーは23人となった。

 各委員からは,「大部分の外国人は石原発言に抗議している。それは事実である」,「報道をまちがいだとしてみずからの被害者意識ばかり強調する」などといった声が,あいついで出された。

 A みずから放った差別発言の重大性を棚に上げ,「自分がマスコミ報道の被害者だ」と強調する石原の詭弁はさておき,「〔第〕三国人」発言を外国人住民の大部分が不快に感じていた事実を,この都知事がどのようにうけとめているのか。

 マスコミの報道姿勢に責任を押しつけるかたちで,自身の差別発言にふくまれる暴力的・排外的な精神構造をかくそうとする姑息な態度が,いちばん問題である。

 この人の発言にはいつも問題が多い。意図的かあるいは軽率かの識別のむずかしい,あるいはまた,その両者のまじったものかもしれないけれども,石原の心底のなかにまちがいなく存在する,自分以外の者すべてに対してむけられる〈軽侮〉や〈驕慢〉の心性が許しがたい。

 B 東京都庁には当初,石原の発言は問題だとする抗議の声がただちに寄せられたが,その後,彼を支持する声が多くなり,こちらが7割くらいになった。だが,後者の意見は,東京都に設置されている特定のファックス機器に送られたものであった。すなわち,石原の差別発言をよしとする支持の声は,一定の集団が意図して集中的に発信したものと推察される

 C 外国人都民会議を構成する外国籍都民の平均的な感じかたでいえば,石原の発言に共感する人間などいない。石原の説明,つまり定住する外国人とくに,韓国・朝鮮籍の人々が「不法入国・滞在の三国人,外国人」に該当しないとする詭弁は,とうていうけいれられない。石原の恣意的なこの説明は,在日外国人にとって意味のない区別を,自分の差別発言を弁解するため,にわかに仕立てしたものである。

 D いいたい放題をさせる石原の外国人差別意識が,この人物の精神構造の基本である。差別する意識を根幹にもつ人間に差別するな,といってもむりなことである。むしろ,このような作家出身都知事の精神構造の根っこには,外国人に対する偏狭で傲慢な差別意識だけでなく,人間全般に対する差別意識が最初にあったことを再確認しなければならない。
 

 【補 説】その他の話題〔2〕−差別を煽る著作−

  @ 瀬戸弘幸『外国人犯罪』(セントラル出版,2000年)は明らかに,日本に在住する外国人を犯罪者あつかいした煽情的な書物である。奥付に出ている執筆関係者たちの顔写真は,率直にいって品のよくない面々ばかりにみえるのは,なぜか。
 
 本書の記述内容は,紹介するに値しないほど低劣である。カバーにかかれた煽情的な文句のみ引照しておく。

 「−新たなる社会不安と脅威の全貌に迫る−不法滞在者凶悪犯罪の接点を抉る!」
 「治安大国・日本を揺るがし始めた不良外国人の実態を追う衝撃のドキュメント」

 A 外国人犯罪さえなければ日本は,とても平和で安全な国だといわんばかりであるが,問題をそんな単純に把握ができるほどにしかこの国の犯罪史をしらない素人が,石原慎太郎の扇動に悪のりし,外国人犯罪を針小棒大に抉るのだと,大みえを切っている。

 本書は「このまま放置することはまちがいなく,日本という国家の治安の崩壊,やがては国家の瓦解にすすんでいくであろう」と心配している。この意見のうち真にうけていいのは,「日本という国家の崩壊・瓦解」現象がたしかに部分的には進行している現実である。
 
 しかし,日本における国家の治安の崩壊は,警察組織じたいの腐敗・堕落によるところが大であるし,また,国家の瓦解現象は主に,この国の政治体制の腐朽およびその指導者たちの体たらくに原因している。本書の執筆者にそうした関連論点をとりあげる力量はない。本書の執筆者が日本の国家体制うんぬんを論じる資格はない。

 B 本書の叙述にみられる最大の特徴は,3流週刊誌的に煽情性を基調とする無責任な筆致である。
 

 【補 説】その他の話題〔3〕−青嵐会の成れのはて−

 @ かつて青嵐会において石原慎太郎の盟友であった,前衆議院議員中尾栄一(建設大臣歴任,70歳)が,2000年6月25日におこなわれた衆議院選挙に落選した直後,受託収賄容疑で逮捕された。
 本稿本文中でもふれた文献,石原慎太郎・玉置和郎・中尾栄一・中川一朗・中山正暉・藤尾正行・三塚 博・森 喜朗・渡辺美智雄『青嵐会』−血判と憂国の論理−』(浪曼,昭和48年)のなかで,中尾はこういっていた。

 −−青嵐会は,現代に2・26のような不幸な事態が発生しないためにも「いうべきことは勇気をもっていう」説得の原理にもとづいた,真の意味の近代民主主義政党政治を政府与党内に確立していこうとして立ちあがった,きわめて進歩的な動きである。この動きは,金権政治にとっても脅威であり,近代民主主義政党政治そのものの敵である一党独裁社会主義政党にとっても,死活的な脅威である。ともかく,わが「青嵐会」が崩壊するときが,もしくるとすれば,それは自民党が崩壊するときでもあり,真の日本がなくなる日だと断言していい(同書,39頁)
 
  おおみえを切っていた中尾のこの〈断言〉であるが,その後,青嵐会が解散・消滅しても,自民党はいまだ日本で第1の政治勢力を誇り,同党内の金権政治もあいかわらず根絶できていない。みずからも金権にまみれてしまった真の〔?〕政治家中尾栄一は,前段の文章を書いていたとき44歳,銅臭の異状性に無感覚になってしまい,司直の手をわずらわすことになったとき70歳。

 蛇足的にふれておく。旧ソ連は崩壊したが,中尾栄一の政治家活動とはまったく無縁の世界での出来事であった。

 A 青嵐会はその成員のなかからはじめて,現総理大臣森 喜朗を輩出した。この日本国代表の無教養ぶりは,筆者のこのホームページ〔リンクされている他頁〕で関説しているので,ここではくわしくふれないが,前総理大臣の小渕恵三に比較しても,目をおおいたくなるほどに小物宰相だという印象を避けえない。

 2000年7月開催された九州・沖縄サミットで開催国の議長を務めた森は,このサミット開催前に「沖縄万博」などと口走ったり,「静脈型産業」のまえの字を「せいみゃく」と読んだりして,周囲の失笑を買っていた。

 また,青嵐会の諸先生方は,第2次世界戦争にかかわって,アジア諸国に対する日本の戦争責任をいっさい認めず,日本政府の公式見解すらあからさまに否定して,なんども〔何人もの〕閣僚が罷免されるという事件を頻発させていた。

  −−現在,この経済大国日本国の首相は森 喜朗,世界に冠たる大都市東京都の主張は石原慎太郎。2人とも青嵐会元メンバーであった。

 かたや,自民党という政党をよくも悪くも典型的に代表する,なんの面白みも魅力もないきわめて凡庸な人物。かたや,自民党内で四半世紀も国会議員を務めたがまったくうだつが上がらず,その後,ようやく都知事に当選できた人物。都知事就任を契機にこの人物は,才気走るかのようにも一見映るけれども,本質的には狂信的な言動に無意識的に駆られる性向をもっている。こうした人材の配置・布陣は,あまりにも両極端で危険なとりあわせである。

 くりかえすが,石原慎太郎は当然,こう非難されるべきである。

 ●「アジテーター(扇動家)」
 
 ●「ウルトラ・ナショナリスト(極右国粋主義者)」
 
 ●「ファシスト(全体主義独裁者)」
 
 ●「レイシスト(人種差別排外主義者)」
 
 そして,
 
 ●「ポピュラリスト(大衆迎合・扇動主義者)」。
 
 
 それでは森 喜朗のほうはといえば,石原慎太郎と基底において通底する国家主義者〔それもかなり稚拙で無教養な〕「思想」を抱く人である。「日本は神の国」などといっていちばん得をするのは,国民・市民・大衆ではなく為政者たちである。このことは,明治以来の歴史が如実に証明してきた。一般庶民がどのくらいひどい目にあわされてきたか,生き証人がまだいくらでもいる。

 B 神とはいったい誰のことか。まさか,この神に仕える仕事を担当するのが日本の首相の役割だなどとはいわせない。そんな仕事のために日本の人々が,間接的に総理大臣を選んだのではない。民主主義のイロハをわきまえないこのような人物に,一国の代表を任せるほかないというのは,まことにふがいない国民的行為ではないか。

 日本の首相を「公選制」にしたらどうだという話も出ているが,そうなったらば,「ミーハー」的人気では自信のある石原慎太郎が,東京都知事の地位を投げ捨ててでも立候補するかもしれない。いずれにしても,この国全体にとっては夢も希望もない展望しかえられないので,この話はここまで……。

 日本を代表するこの2人の人物でもって,21世紀にむけるこの国の舵取りが本当に大丈夫かと大いに心配なのは,筆者だけではあるまい。もっとも,森首相の寿命はしごく短命との確実な予想があるが,さてどうなることやら……。
 
 C 朝日新聞テーマ談話室編『天皇そして昭和』(朝日新聞社,1989年)は,日本国民のこういう意見を紹介していた。

 1) もう21世紀を迎えるひらかれた国際社会にいま封建時代の異物「天皇」と「昭和」から断絶しないと,日本は洋服を着た未開人と笑われてしまう(同書,398頁)

 2) 私たちは,科学にもとづいて生きるか,神話によって生きるかの,どちらかを選ばねばならない。国の中心に神話をすえれば,民主主義はお題目にとどまり,言論の自由は神にさえぎられること,〔竹下 登〕首相のことばが証明している(同書,401頁)

 −−2)における首相名〔竹下 登〕は当然,森 喜朗に代替してよいものである。天皇制と日本社会との間柄に関していうと,「言論の自由は神にさえぎられること」が,この国では実際になんども生起してきた。

 日本国憲法の冒頭条文は,天皇・天皇制の問題定義にはじまっている。民主主義国の憲法としては異例というか異常な構成である。日本の改憲論者のなかには,この異例性・異常性を戦前体制にもどすことによって除去すべきだという,「封建遺制」的な思考方式を恥じらいもなく披露する者がいる。しかも彼らは真剣である。これはもはや,尋常かどうかを議論する以前の意識問題であり,噴飯物である。
 
 「上から与えられた民主主義」のどこが「下々において」問題なのか,あらためて考えなおす時期である。
 

 【補 説】その他の話題〔4〕−差別に加担する学者−

 @ 石原慎太郎は,中国〔中華人民共和国〕は分裂すればいいなどと,北京と姉妹都市関係をむすんでいる東京都の首長にあるまじき発言を,平然とおこなっていた。

 「中国の仮想敵国 bPは日本」だと主張する,杉山徹宗『軍事帝国中国の最終目的−そのとき,日本は,アメリカは−』(祥伝社,平成12年)は,石原慎太郎と同じに中国の分裂・崩壊を願うかのような論調で書かれた著作である。この本は,2015年あたりを限度にして中国は,存続するか崩壊するかの瀬戸際に立たされるだろうと分析している(同書,232頁)

 政治的・軍事的な分析内容に関するくわしい杉山の議論は,同書を読んでもらいしってほしいが,石原や杉山のように他国を皮膚感覚的に毛嫌いする人士は,ものを書くさい非常に感性に偏重した記述をする。

 杉山は,戦前日本は植民地にも,〔日本の5番めの国立〕京城帝国大学,〔6番めの国立大学〕台北帝国大学を建設して,現地の人々にも入学を許可していた(同書,50頁)。杉山は「帝国」という字をいれていない)と述べ,中国のイギリス租界においてその入り口に「中国人と犬は入るべからず」と掲示してあったこととくらべ,日本帝国の植民地政策は,比較的程度がよかったものだというのである。

 杉山は,日帝時代,日本人は中国人を対等の人間としてあつかい,犬や豚などとはみてもおらず,あつかってもいなかった(同書,81-82頁)と確信している。だがこれは,事実無根のでっち上げというほかない言説である。

 筆者は最近,満州・満州国時代の経営能率・生産性向上問題を経営学の視点から思想史的に研究してきたが,杉山のいうような「日本人と中国人」を対等視する価値観など,いっさい存在しなかった。虚説をぶちあげるのも,ほどほどにすべきである。

 A 杉山は,日本の国立大学であった京城〔帝国〕大学や台湾〔帝国〕大学が,主に,誰のために創設された高等教育機関であるかという肝心要な原点を忘れて,「現地の人々にも入学を許可していた」と誇っているようだが,こういう帝国主義者的で高慢なものいいがまさに問題である。

 「現地の人々」を中心に入学させた帝国大学だったならば,わざわざ「現地の人々にも入学を許可した」などという表現をつかうこともない。

 また,中国のイギリス租界にあったとされる掲示:「中国人と犬は入るべからず」は,最近の研究によれば,その現物が実際にあった事実を確認のうえでいわれたものではないと批判されている。

 B 杉山はさらに,イ)北朝鮮が日本にテポドンミサイルを撃ちこんだ,ロ)日本の若者も多数拉致された,ハ)日本領海に北朝鮮の不審船らしき工作船が侵入した,と断言している(同書,275頁)

 杉山に警告しなければならないのは,ロ)ハ)は北朝鮮の犯行だと決めつけているが,日本の政府なり警察当局がそうだと認めた事実だから,つまり自国でそう判断されたからといって,該当すると想定された相手国がけっして同じ次元で応えるわけではない問題に軽率な断定をくわえることは,慎重でなければならない。しかも,ことは外交問題である。

 とくに,イ)「北朝鮮が日本にテポドンミサイルを撃ちこんだ」というのは,世界軍事戦略のもとに日本をいいように引きまわそうとするアメリカの策略にいいなりになった,あるいは軍事知識の不足・無知に起因するいい加減な放言である。

 C 北朝鮮のミサイルとされた「テポドン」は,「日本の領土の庭先にブースターや弾道が落ち,日本列島の頭上を通過したように発表したが,実際にはそうではなかった。……また,領空侵犯をしたかのようにも報じたが,飛行物体は大気圏外を飛んでいた。大気圏は領空には当たらない。……こうした誇張が意図的になされた可能性がある」(北川広和『北朝鮮バッシング』緑風出版,2000年,48頁)

 以上のごとき日本政府の発表は,アメリカ政府関係機関が提供した情報をもとになされ,しかも意図的に歪曲して報道機関に情報を流している。

 北朝鮮の「テポドン」がけしからぬというなら,〔杉山が指摘している〕中国のミサイル攻撃体制のほうが抜群に強力であるから,こちらをまずさきに,徹底的に批判しつくし〔この点は杉山著書がかなり触れている〕,さらに,アメリカなど先進諸国のそれも十二分に批判しなければならない。世界的レベルで判断するなら,北朝鮮のミサイル関係の軍備は,2流あるいは3流以下の実力である。

 北朝鮮もいうように,ほかのたくさんの国々が所有している武器〔ミサイル〕を,なぜ北朝鮮だけはもっていけないのかと反論されて,まともに答えられる国はない。核兵器の保有問題もしかりである。この段落は,北朝鮮の立場を支持する・しないとは関係なくいわれるべきものである。

 D 杉山は「北朝鮮人」ということばをつかい,北朝鮮ということばに対応するかのように,この「北朝鮮人」という概念を創造している。朝鮮民主主義人民共和国は,自国民のことを北朝鮮人とよばないし,大韓民国もそういう用法とは無縁である。日本での多分,「本邦初」の表現であろう。

 いままで存在しなかった,しかもなじみもない新しいことばを,なにか憎悪の感情をこめた語法で,日本人がわが提起した。この事象は,東京都知事石原慎太郎が「〔第〕三国人」なる差別語を復活させた悪行に,勝るとも劣らない知的作為である。

  E 韓国・朝鮮問題の専門家で歴史家の和田春樹は,最近の南北朝鮮をめぐる急速な政治情勢の変化に関連して,日本・日本人・日本国がわの旧態依然たる姿勢を異常だと批判している。

 とくに,1990年代に3百冊ほどの本が北朝鮮について出ているが,そのほとんどは題名だけみると,敵対と反感を煽るものである。出版物に映る「日本の北朝鮮の論じかた」はきわめて異常であり,まるで戦争前夜のようである(以下も『朝日新聞』2000年8月18日夕刊参照)

 イ) そのことは,日本の代表的な出版社から出ている韓国語の原著書につけられた〈日本語訳の誤導的な命名法〉に,端的に現われている。これをみても日本・日本人がわで,朝鮮半島〔韓半島〕の情勢を主観的・恣意的に歪曲し,理解していることが感得できる。
 

=韓国で出版された原作の題名=
=日本語に訳された題名=
 黄 長ソプ著 『私は歴史の真実を見た』  →『金 正日への宣戦布告』
 中央日報社著 『韓半島半分の相続人 金 正日』  →『虚構の独裁者 金 正日』
 申 英姫著 『つつじの花が咲くとき』  →『私は金  正日の「踊り子」だった』

 ロ) 朝鮮半島〔韓半島〕における現在の動きに下手に水をかければ,日本は南北関係の改善を望んでいないといわれかねないムードも,韓国には漂うことに注意すべきである(『日本経済新聞』2000年8月19日「朝鮮半島緊張緩和−日本に吹く風(中)−」)

 杉山徹宗『軍事帝国中国の最終目的−そのとき,日本は,アメリカは−』(祥伝社,平成12年)は,明らかに,中国はもちろんのこと北朝鮮をいたずらに敵視し,反感を煽ることに熱心な著作である。

 ハ)−a) 和田春樹は,「韓国は柔軟な発想で急速にかわりつつある」,〔朝鮮半島の情勢に〕「パラダイムの転換がおこった」とみるべきなのに,隣国との対立をもてあそぶ態度は,国の安全はアメリカに保障されていると安心しきった驕りからきている。

 緊張があれば,緊張を下げるように努力し,武器を挙げる人があれば,降ろすように静かに説得することが必要である。隣国と話し合いによって関係は打開するほかに道がないとすれば,その国のプライドを尊重して対話するほかない,と主張している。

 和田の分析は説得力がある。それにくらべ杉山の論旨は,その逆をいくものであり,なにやら明治以降の旧日本帝国精神もどきを彷彿させる。

 ハ)−b)  日朝関係〔正式国交はまだ実現していないが〕のようすがすこしおかしくなっただけで,在日朝鮮人民族学校に通学する女子生徒たちが,その着ている民族衣装をめじるしに攻撃され,衣服を切り裂かれたり暴行をうけたりする〔とくにその対象が女子生徒である点に注意したい〕。

 しかも,そうした物理的な危害をくわえるがわの日本人は,ほとんどが中年以上の男性である。これはまた,日本社会に普遍的に浸透している精神病理:〈弱い者いじめ〉の典型である。

 ハ)−c) だいぶ昔の話になるが,京都市にある韓国系民族学校が,手狭になった校地を買いかえ校舎を建てるため,その代替地を京都中にさがしもとめたことがあった。そのとき,京都市民のみせた態度は,外国人(?)である〔在日〕韓国・朝鮮人に対する,徹頭徹尾の民族差別であった。
 
 事態が進行していくなかあげくのはてが,京都で毎年8月16日〔新暦,旧暦では7月16日〕におこなわれている〈古都のゆく夏を惜しむ「五山送り火」=「大文字」焼の行事〉を,第3者にはいったいどういう関係があるのかよくわからないが,ともかくとりやめるとさえ恫喝した。
 
 民族学校がわは,ようやく購入できた土地を何度にもわたって,他所に買えかえることを強いられた。しかも,その途中で京都市民は,在日韓国人当事者にさらに追い打ちをかけるような残忍性をしめした。

 この事件を観察すると,観光用には愛想のいい外面を人にふりまく京都人ではあるが,外国人それも〔在日〕韓国・朝鮮人に対しては,その奥底深く溜めこんでいる日本人としての偏見・差別意識が明確に発露し,存分に発揮された。

 ニ) 第2次大戦後成立した北朝鮮〔朝鮮民主主義人民共和国〕における最高指導者の地位は,金 日成→金 正日という親子2代が,世襲的に継承してきた。この国は,正式国名にかかげている「民主主義」だとか「人民共和」だとかという字義とはまったく無縁であり,いわば,21世紀を迎えるこの地球上になお,封建王朝的な全体主義的独裁政権を存在させている。

 ホ) とはいえ,問題は政治外交上のことがらである。近隣に位置しているが,一党独裁・非近代的なファッショ的国家だからといって,その実在じたいを認めず〔いままでの日本政府の方針・実際はまさにそうであった〕,まともに国家間の交渉もせず放置しておくわけにはいくまい。まして日本は過去の戦争責任・戦後処理を,北朝鮮に対してはなにも済ませていない。

 ヘ) 一方,北朝鮮の金 正日総書記は,日本との国交樹立問題に関して「自尊心を傷つけられてまで日本と修交することは絶対にない」と言明している。日本がわは,謝罪と補償をふくめて過去の清算の意思を明確に表明しなけらばならない(この段落は,小此木政夫慶応義塾大学教授の見解。『日本経済新聞』2000年8月19日より)

 F 杉山はまた,「中国では男性の性器を切除して宦官とよび,宮廷の大奥に仕える仕事を与えた」と記述しているが(杉山『軍事帝国中国の最終目的』〔にもどり〕71頁),ここには,つぎの不適切がある。

 イ)「宦官は男性の性器を切除する」という不十分な表現について。→宦官は性器を切除するだけではなく,「精巣つまり睾丸〔金玉:性器〕も摘除する」のである。男性のばあい,性器といったらまず男根を意味する。より正確には,「去勢する」というべきである。女性の性器というばあい,どの部分をさすかを考えれば参考になる。卵巣はそのつぎに思いうかぶ器官であろう。上記の表現は,医学的というよりも常識的説明にすぎて不適切である。

 ロ)「中国にも〈大奥〉」という〈ハーレム〉があったということか? 中国史と日本史の用語をまぜこぜにして論じてほしくない。

 −−杉山徹宗〔すぎやま・かつみ〕は現在,明海大学不動産学部教授,法学博士で,専門は国際関係論・比較防衛額・外交史である。この先生に文章表現法を教授する気になれないが,それにしても,学究として最低限の作法すら守らない叙述を平気でする。これにはびっくりである。今回の著作は,専門的な学術書ではないのかもしれないが,それにしても雑な記述がめだつのである。

 ハ)「1999年現在で,日本には36万人の不法滞在外国人が住んでいるが,このうち罪を犯して逮捕されるのは3万人ほどいる」(同書,226頁)という記述も,はっきりいって非常に誤導的である。

 法務省当局の推計によれば現在,いちばん多い時で30万人近くの不法滞在外国人がいたが,最近はそれより減少している。したがって,36万人という数字の根拠〔その差6万人以上〕がみあたらない〔おまけにつけたしたか,お手盛り分である〕。

 ・杉山の話に出てくる,罪を犯して逮捕された不法滞在外国人3万人〔この数字はなにを算定基準にいうものかそもそも不詳である〕には,不法滞在という行政犯(特別法犯)〔出入国管理及び難民認定法違反容疑〕で検挙・逮捕される者が多くふくまれている。だが,その分が刑法犯の犯罪人といっしょにされ,統計数値にも計上されていることを承知しているように書いていない。

 ・あえていうならば,まだ検挙・逮捕されていないけれども,不法滞在という罪を犯している状態の外国人は,その全員が「犯罪統計」に計算されねばならならない。いいかえれば,30〔36?〕万人の罪を犯している外国人が日本国内にはいるといわねば辻褄があわない。日本社会のなかに潜んでいる不法滞在外国人は,発見され逮捕されなくても入管法に照らすと,行政犯として違法状態である。

 しかし,警察庁の警察官も法務省の入国管理官も,日常的な生活の場面では,外国人のとりしまりをいちいちおこなっているわけではない。とくに,日本社会全般における犯罪摘発さえろくできない警察に多くを期待することはできない。

 ニ) 不法滞在者とくに,中国人の「日本国内での犯罪発生件数は鰻のぼりに上昇している」(杉山,前掲書,226頁)という記述は,輪をかけての誤導的な理解,意図的におおげさな歪曲をくわえた捏造的表現である。

 この点に関する批判は,本論「W 石原発言をめぐる紙上討論会」および補論「(7)石原発言の意味するもの」V「検証 石原発言−警察庁の来日外国人犯罪分析批判−」で関説した。

 ホ) つぎの記述は,日本の帝国主義をまったく反省などせず,これからもできれば同じようにやれ,というにひとしいものである。

 「日本は開国して30年ほどで,武士道精神をもって日本の存在を世界にしらしめ,同時に,白人優越の世界システムをくずして,有色人種や被圧迫民族に驚愕と希望を与えたのである。21世紀の日本にとって,いまこそ明治人の心意気と風格をとりもどすことが,もっとも重要な教育の課題である」同書,280頁)

 −−21世紀は21世紀なりに新しい〈日本精神〉を構築すればよいのであって,明治人の真似をするにせよその全部を真似するということなら,アジア諸国はいっさいごめんこうむるというにちがいない。日本人・日本民族にしか通用しない唯我独尊・夜郎自大を産んだ明治精神を讃歌するのは,ほどほどにしたほうがよい。

 明治以来の日本は,欧米諸国のあとを追うかたちで,後進・2流の帝国主義を実行した。その結末がいかほど評価するに値するというのか。その決定的な失敗が,なにゆえ賛美する対象となるのか。昭和20年敗戦は,明治維新〔精神〕の帰結,因果であり,顛末ではないのか。
 

 【補 説】その他の話題〔5〕−幼児性の顕著な慎太郎さん−

 @ 戦後の日本人の歴史認識を問う著作,湯浅赳男『日本近代史の総括−日本人とユダヤ人,民族の地勢学と精神分析−』(新評論,2000年)は,石原慎太郎あるいは杉山徹宗のような人物を意識してよいだろう,つぎのような見解を提示している。

 −−日本人とユダヤ人は意識の表面ではともかく,心理の深層では2方面から差別されており,国際社会においてはタテマエはともかく,内心ではとげとげしい関係のなかにある。日本人は今後,細心かつ果断に,将来を知的に読みきらなければプライドをもった民族として生存することはおぼつかない。

 日本人は,周辺の民族がそれぞれ自国の利害から宣伝する主張に対して無原則に迎合している。しかし,この迎合の心理の深層にはすさまじい反発が渦巻いており,しかもそれが意識されないため,鍛えられて成熟することがない。つまり,いつまでも幼児的なナルシズム,その一面であるセンティメンタルな〔独りよがり〕「愛」を温存している。

 今日の課題はこの〈箱入り息子〉の魂に現実を突きつけて幻想をひっぺがし,アイデンティティを確立させることである(同書,26頁,27頁)

 A 湯浅赳男は,日本人もしくは日本民族の「アイデンティティ:魂」の未成熟を指摘し,身勝手な〈箱入り息子〉:石原慎太郎に典型的にみてとれる「幼児的なナルシズム」「独りよがりの愛」の「幻想」を打ちくだき,国際社会の現実においてまともに通用する「細心で果断な知的プライド」を構築せよ,と提言している(同上)

 このような提言がいわれた背景にあるものは,日本人・日本民族=日本国家が,第2次世界大戦後に生まれた東西冷戦構造にかこつけて,前項〔4〕で触れた日本の「戦争責任・戦後処理」問題に真正面より対峙することを避けてきたことである。

 そのゆえ,「エコノミックアニマル」との卑称をはねかえせるほどの経済大国を築いた日本であったけれども,残念なことに,それにふさわしい政治的度量を国際的に発揮したり誇示したりできなかった。

 B 湯浅はさらにこういう。日本は敗戦までまるごと他民族に征服,支配されたり,他民族を征服,支配したりする経験がなかっただけに,ウブといえばウブ,バカといえばバカな民族であって,その後50年経ってもまだまともに総括もできず,おりにふれてつけいれられている(同書,93頁)

 湯浅が「まるごと」という表現をつかう対象に関しては若干疑念も生じるが,指摘にある日本という国の〈ウブ〉〈バカ〉さ加減にいきなり腹を立て,外国人差別の言説に転化・短絡していく石原の行動に,未成熟で身勝手な,幼児的で独りよがりの,幻想的な被害妄想を読みとることができる。

 けれども,在日する諸種の外国人たちにとって石原の言説はけっして幻想ではなく,現実の恐怖・脅迫であり,排外的な差別の感情をむきだしにした直接的な抑圧・暴力である。

 C 湯浅のつぎの記述(もとは,ジョージ・オーウェルの見解)を,今回「石原発言」に敷衍しておこう。〔 〕内は筆者の挿入である。

 −−ユダヤ人〔不法滞在の三国人・外国人〕を非難する人たちは自分が気に入らないいくつかの経験(たとえば,ユダヤ人のマナーの悪さ〔犯罪率の高さ・凶悪犯の多さ[→無根拠であった]〕)を挙げるけれども,この非難の深層には本人が気がつかない偏見〔とくに中国人・朝鮮人などアジア人への偏見〕が隠れている。
 
 そういう人にいくら事実や統計をみせて〔警察庁統計の操作されたウソを教えて〕もムダだろう。そして,事実追いつめられると,結局,ユダヤ人〔中国人・朝鮮人などアジア人〕は嫌いだから,嫌いなのだというところまでに行く(同書,268頁)


以上,2000年7月以降,逐次,補論と補説


 差別のことばはわかりやすいもの−石原発言の本質的意味−

 ・石原慎太郎の,ひたすら外国人差別を煽ることを意図したような侮蔑的発言は,つぎのような論説を参考にして中和させ,平和にする必要がある。

 ・21世紀の日本はどこへいくのか。生まれ育った国の伝統や文化に愛着を抱くのは,当然の感情である。そうしつつも,異なる背景をもつ人々を理解し,積極的に溶けあっていく姿勢が,これからはより必要である。「日本人」であることを,過剰に意識するのではなく,柔軟にとらえる感性がなによりも求められているのではないか。

 ・歴史は民族の応援団ではない。他者への想像を欠いた認識は,国境へいきついたとたんに力をうしない,そのさきへは広がることのない独善にほかならない。「もともと戦争と人間とは密接にむすばれすぎている。闘争,組織……至上の目的のために他のいっさいを無視する決断。戦争をかたちづくるこれらの行動原理は,いずれも人間の本性をとりこにする魅力に満ちている」(吉田 満)。

 ・だから偏狭なナショナリズムは,往々にして戦争を仲立ちにして語られる。その語り口は情熱的で勇猛で,華々しい。即物的であり,理解するのに想像力を必要としない。これに対し,普遍的,人道的な語られかたは,たいてい退屈でじれったい。理性は大声のまえに弱々しく映ることもすくなくない。ナショナリズムが,ときに多くの人心ををからめとっていくおおきな理由である。

 ・とりわけ,社会に疲れや迷い,いらだちがあるとき,人はその落とし穴にはまりやすい。過去や周囲に目をふさいで,「日本人」という身内だけで溜飲を下げあうような価値観は,前向きのものを生みださない。内輪の居心地のいい気分は,ともすれば排外に傾きやすい。それこそ,国と国民の品位をおとしめる道である(『朝日新聞』2001年1月4日朝刊「社説」)

 −−以上のような,冷静かつ沈着な人々の態度‐理性‐感覚をいちばん嫌うのが石原慎太郎である。煽動家の素質に多少,恵まれている彼ではあるが,自身の言説の意味=企みを,時間をかけて考えてもらったり分析をくわえられたりすることを嫌がる。

 21世紀のいま,どのくらいの数の日本人が海外で暮らしているかを配慮するとき,もはや過去のように戦争を第1に念頭した国際感覚では,とうてい付きあっていけない時代である。石原の発言にちらほらする好戦的な姿勢は,日本人・日本民族さえこまらせる本性をひそませている。

 −−〈石 原〉→ 排外・独善・偏狭・勇猛・内輪・扇動・攻撃・好戦

 −−〈反あるいは非なる石原〉→ 理解・冷静・想像・普遍・人道・平和・寛容・品位


【以上,2001年1月7日,補説