石原慎太郎に関連するあれこれ
−『作家都知事の差別社会学』に関する補説ー
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−も く じ−
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〔1〕−外国人都民会議の反発− |
〔2〕−差別を煽る著作− |
〔3〕−青嵐会の成れのはて− |
〔4〕−差別に加担する学者− |
〔5〕−幼児性の顕著な慎太郎さん− |
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黄 長ソプ著 『私は歴史の真実を見た』 | →『金 正日への宣戦布告』 |
中央日報社著 『韓半島半分の相続人 金 正日』 | →『虚構の独裁者 金 正日』 |
申 英姫著 『つつじの花が咲くとき』 | →『私は金 正日の「踊り子」だった』 |
ロ) 朝鮮半島〔韓半島〕における現在の動きに下手に水をかければ,日本は南北関係の改善を望んでいないといわれかねないムードも,韓国には漂うことに注意すべきである(『日本経済新聞』2000年8月19日「朝鮮半島緊張緩和−日本に吹く風(中)−」)。 杉山徹宗『軍事帝国中国の最終目的−そのとき,日本は,アメリカは−』(祥伝社,平成12年)は,明らかに,中国はもちろんのこと北朝鮮をいたずらに敵視し,反感を煽ることに熱心な著作である。 ハ)−a) 和田春樹は,「韓国は柔軟な発想で急速にかわりつつある」,〔朝鮮半島の情勢に〕「パラダイムの転換がおこった」とみるべきなのに,隣国との対立をもてあそぶ態度は,国の安全はアメリカに保障されていると安心しきった驕りからきている。 緊張があれば,緊張を下げるように努力し,武器を挙げる人があれば,降ろすように静かに説得することが必要である。隣国と話し合いによって関係は打開するほかに道がないとすれば,その国のプライドを尊重して対話するほかない,と主張している。 和田の分析は説得力がある。それにくらべ杉山の論旨は,その逆をいくものであり,なにやら明治以降の旧日本帝国精神もどきを彷彿させる。 ハ)−b) 日朝関係〔正式国交はまだ実現していないが〕のようすがすこしおかしくなっただけで,在日朝鮮人民族学校に通学する女子生徒たちが,その着ている民族衣装をめじるしに攻撃され,衣服を切り裂かれたり暴行をうけたりする〔とくにその対象が女子生徒である点に注意したい〕。 しかも,そうした物理的な危害をくわえるがわの日本人は,ほとんどが中年以上の男性である。これはまた,日本社会に普遍的に浸透している精神病理:〈弱い者いじめ〉の典型である。 ハ)−c) だいぶ昔の話になるが,京都市にある韓国系民族学校が,手狭になった校地を買いかえ校舎を建てるため,その代替地を京都中にさがしもとめたことがあった。そのとき,京都市民のみせた態度は,外国人(?)である〔在日〕韓国・朝鮮人に対する,徹頭徹尾の民族差別であった。 この事件を観察すると,観光用には愛想のいい外面を人にふりまく京都人ではあるが,外国人それも〔在日〕韓国・朝鮮人に対しては,その奥底深く溜めこんでいる日本人としての偏見・差別意識が明確に発露し,存分に発揮された。 ニ) 第2次大戦後成立した北朝鮮〔朝鮮民主主義人民共和国〕における最高指導者の地位は,金 日成→金 正日という親子2代が,世襲的に継承してきた。この国は,正式国名にかかげている「民主主義」だとか「人民共和」だとかという字義とはまったく無縁であり,いわば,21世紀を迎えるこの地球上になお,封建王朝的な全体主義的独裁政権を存在させている。 ホ) とはいえ,問題は政治外交上のことがらである。近隣に位置しているが,一党独裁・非近代的なファッショ的国家だからといって,その実在じたいを認めず〔いままでの日本政府の方針・実際はまさにそうであった〕,まともに国家間の交渉もせず放置しておくわけにはいくまい。まして日本は過去の戦争責任・戦後処理を,北朝鮮に対してはなにも済ませていない。 ヘ) 一方,北朝鮮の金 正日総書記は,日本との国交樹立問題に関して「自尊心を傷つけられてまで日本と修交することは絶対にない」と言明している。日本がわは,謝罪と補償をふくめて過去の清算の意思を明確に表明しなけらばならない(この段落は,小此木政夫慶応義塾大学教授の見解。『日本経済新聞』2000年8月19日より)。 F 杉山はまた,「中国では男性の性器を切除して宦官とよび,宮廷の大奥に仕える仕事を与えた」と記述しているが(杉山『軍事帝国中国の最終目的』〔にもどり〕71頁),ここには,つぎの不適切がある。 イ)「宦官は男性の性器を切除する」という不十分な表現について。→宦官は性器を切除するだけではなく,「精巣つまり睾丸〔金玉:性器〕も摘除する」のである。男性のばあい,性器といったらまず男根を意味する。より正確には,「去勢する」というべきである。女性の性器というばあい,どの部分をさすかを考えれば参考になる。卵巣はそのつぎに思いうかぶ器官であろう。上記の表現は,医学的というよりも常識的説明にすぎて不適切である。 ロ)「中国にも〈大奥〉」という〈ハーレム〉があったということか? 中国史と日本史の用語をまぜこぜにして論じてほしくない。 −−杉山徹宗〔すぎやま・かつみ〕は現在,明海大学不動産学部教授,法学博士で,専門は国際関係論・比較防衛額・外交史である。この先生に文章表現法を教授する気になれないが,それにしても,学究として最低限の作法すら守らない叙述を平気でする。これにはびっくりである。今回の著作は,専門的な学術書ではないのかもしれないが,それにしても雑な記述がめだつのである。 ハ)「1999年現在で,日本には36万人の不法滞在外国人が住んでいるが,このうち罪を犯して逮捕されるのは3万人ほどいる」(同書,226頁)という記述も,はっきりいって非常に誤導的である。 法務省当局の推計によれば現在,いちばん多い時で30万人近くの不法滞在外国人がいたが,最近はそれより減少している。したがって,36万人という数字の根拠〔その差6万人以上〕がみあたらない〔おまけにつけたしたか,お手盛り分である〕。 ・杉山の話に出てくる,罪を犯して逮捕された不法滞在外国人3万人〔この数字はなにを算定基準にいうものかそもそも不詳である〕には,不法滞在という行政犯(特別法犯)〔出入国管理及び難民認定法違反容疑〕で検挙・逮捕される者が多くふくまれている。だが,その分が刑法犯の犯罪人といっしょにされ,統計数値にも計上されていることを承知しているように書いていない。 ・あえていうならば,まだ検挙・逮捕されていないけれども,不法滞在という罪を犯している状態の外国人は,その全員が「犯罪統計」に計算されねばならならない。いいかえれば,30〔36?〕万人の罪を犯している外国人が日本国内にはいるといわねば辻褄があわない。日本社会のなかに潜んでいる不法滞在外国人は,発見され逮捕されなくても入管法に照らすと,行政犯として違法状態である。 しかし,警察庁の警察官も法務省の入国管理官も,日常的な生活の場面では,外国人のとりしまりをいちいちおこなっているわけではない。とくに,日本社会全般における犯罪摘発さえろくできない警察に多くを期待することはできない。 ニ) 不法滞在者とくに,中国人の「日本国内での犯罪発生件数は鰻のぼりに上昇している」(杉山,前掲書,226頁)という記述は,輪をかけての誤導的な理解,意図的におおげさな歪曲をくわえた捏造的表現である。 この点に関する批判は,本論「W 石原発言をめぐる紙上討論会」および補論「(7)石原発言の意味するもの」V「検証 石原発言−警察庁の来日外国人犯罪分析批判−」で関説した。 ホ) つぎの記述は,日本の帝国主義をまったく反省などせず,これからもできれば同じようにやれ,というにひとしいものである。 「日本は開国して30年ほどで,武士道精神をもって日本の存在を世界にしらしめ,同時に,白人優越の世界システムをくずして,有色人種や被圧迫民族に驚愕と希望を与えたのである。21世紀の日本にとって,いまこそ明治人の心意気と風格をとりもどすことが,もっとも重要な教育の課題である」(同書,280頁)。 −−21世紀は21世紀なりに新しい〈日本精神〉を構築すればよいのであって,明治人の真似をするにせよその全部を真似するということなら,アジア諸国はいっさいごめんこうむるというにちがいない。日本人・日本民族にしか通用しない唯我独尊・夜郎自大を産んだ明治精神を讃歌するのは,ほどほどにしたほうがよい。 明治以来の日本は,欧米諸国のあとを追うかたちで,後進・2流の帝国主義を実行した。その結末がいかほど評価するに値するというのか。その決定的な失敗が,なにゆえ賛美する対象となるのか。昭和20年敗戦は,明治維新〔精神〕の帰結,因果であり,顛末ではないのか。 @ 戦後の日本人の歴史認識を問う著作,湯浅赳男『日本近代史の総括−日本人とユダヤ人,民族の地勢学と精神分析−』(新評論,2000年)は,石原慎太郎あるいは杉山徹宗のような人物を意識してよいだろう,つぎのような見解を提示している。 −−日本人とユダヤ人は意識の表面ではともかく,心理の深層では2方面から差別されており,国際社会においてはタテマエはともかく,内心ではとげとげしい関係のなかにある。日本人は今後,細心かつ果断に,将来を知的に読みきらなければプライドをもった民族として生存することはおぼつかない。 日本人は,周辺の民族がそれぞれ自国の利害から宣伝する主張に対して無原則に迎合している。しかし,この迎合の心理の深層にはすさまじい反発が渦巻いており,しかもそれが意識されないため,鍛えられて成熟することがない。つまり,いつまでも幼児的なナルシズム,その一面であるセンティメンタルな〔独りよがり〕「愛」を温存している。 今日の課題はこの〈箱入り息子〉の魂に現実を突きつけて幻想をひっぺがし,アイデンティティを確立させることである(同書,26頁,27頁)。 A 湯浅赳男は,日本人もしくは日本民族の「アイデンティティ:魂」の未成熟を指摘し,身勝手な〈箱入り息子〉:石原慎太郎に典型的にみてとれる「幼児的なナルシズム」「独りよがりの愛」の「幻想」を打ちくだき,国際社会の現実においてまともに通用する「細心で果断な知的プライド」を構築せよ,と提言している(同上)。 このような提言がいわれた背景にあるものは,日本人・日本民族=日本国家が,第2次世界大戦後に生まれた東西冷戦構造にかこつけて,前項〔4〕で触れた日本の「戦争責任・戦後処理」問題に真正面より対峙することを避けてきたことである。 そのゆえ,「エコノミックアニマル」との卑称をはねかえせるほどの経済大国を築いた日本であったけれども,残念なことに,それにふさわしい政治的度量を国際的に発揮したり誇示したりできなかった。 B 湯浅はさらにこういう。日本は敗戦までまるごと他民族に征服,支配されたり,他民族を征服,支配したりする経験がなかっただけに,ウブといえばウブ,バカといえばバカな民族であって,その後50年経ってもまだまともに総括もできず,おりにふれてつけいれられている(同書,93頁)。 湯浅が「まるごと」という表現をつかう対象に関しては若干疑念も生じるが,指摘にある日本という国の〈ウブ〉〈バカ〉さ加減にいきなり腹を立て,外国人差別の言説に転化・短絡していく石原の行動に,未成熟で身勝手な,幼児的で独りよがりの,幻想的な被害妄想を読みとることができる。 けれども,在日する諸種の外国人たちにとって石原の言説はけっして幻想ではなく,現実の恐怖・脅迫であり,排外的な差別の感情をむきだしにした直接的な抑圧・暴力である。 C 湯浅のつぎの記述(もとは,ジョージ・オーウェルの見解)を,今回「石原発言」に敷衍しておこう。〔 〕内は筆者の挿入である。 −−ユダヤ人〔不法滞在の三国人・外国人〕を非難する人たちは自分が気に入らないいくつかの経験(たとえば,ユダヤ人のマナーの悪さ〔犯罪率の高さ・凶悪犯の多さ[→無根拠であった]〕)を挙げるけれども,この非難の深層には本人が気がつかない偏見〔とくに中国人・朝鮮人などアジア人への偏見〕が隠れている。 【以上,2000年7月以降,逐次,補論と補説】 ・石原慎太郎の,ひたすら外国人差別を煽ることを意図したような侮蔑的発言は,つぎのような論説を参考にして中和させ,平和にする必要がある。 ・21世紀の日本はどこへいくのか。生まれ育った国の伝統や文化に愛着を抱くのは,当然の感情である。そうしつつも,異なる背景をもつ人々を理解し,積極的に溶けあっていく姿勢が,これからはより必要である。「日本人」であることを,過剰に意識するのではなく,柔軟にとらえる感性がなによりも求められているのではないか。 ・歴史は民族の応援団ではない。他者への想像を欠いた認識は,国境へいきついたとたんに力をうしない,そのさきへは広がることのない独善にほかならない。「もともと戦争と人間とは密接にむすばれすぎている。闘争,組織……至上の目的のために他のいっさいを無視する決断。戦争をかたちづくるこれらの行動原理は,いずれも人間の本性をとりこにする魅力に満ちている」(吉田 満)。 ・だから偏狭なナショナリズムは,往々にして戦争を仲立ちにして語られる。その語り口は情熱的で勇猛で,華々しい。即物的であり,理解するのに想像力を必要としない。これに対し,普遍的,人道的な語られかたは,たいてい退屈でじれったい。理性は大声のまえに弱々しく映ることもすくなくない。ナショナリズムが,ときに多くの人心ををからめとっていくおおきな理由である。 ・とりわけ,社会に疲れや迷い,いらだちがあるとき,人はその落とし穴にはまりやすい。過去や周囲に目をふさいで,「日本人」という身内だけで溜飲を下げあうような価値観は,前向きのものを生みださない。内輪の居心地のいい気分は,ともすれば排外に傾きやすい。それこそ,国と国民の品位をおとしめる道である(『朝日新聞』2001年1月4日朝刊「社説」)。 −−以上のような,冷静かつ沈着な人々の態度‐理性‐感覚をいちばん嫌うのが石原慎太郎である。煽動家の素質に多少,恵まれている彼ではあるが,自身の言説の意味=企みを,時間をかけて考えてもらったり分析をくわえられたりすることを嫌がる。 21世紀のいま,どのくらいの数の日本人が海外で暮らしているかを配慮するとき,もはや過去のように戦争を第1に念頭した国際感覚では,とうてい付きあっていけない時代である。石原の発言にちらほらする好戦的な姿勢は,日本人・日本民族さえこまらせる本性をひそませている。 −−〈石 原〉→ 排外・独善・偏狭・勇猛・内輪・扇動・攻撃・好戦 −−〈反あるいは非なる石原〉→ 理解・冷静・想像・普遍・人道・平和・寛容・品位 【以上,2001年1月7日,補説】 |