■2004年1月1日小泉純一郎首相 靖国神社参拝■


靖国神社に参拝した小泉首相=AP





†† 殺されたくない,死にたくないというのは,
誰しも同じだが,そのためには
「殺さない」「殺させられない」位置にいる,
つまり,兵隊にならないのが一番だということは,
必らずしも誰でもかわるということではない。


†† わかりそうなこのことを,
わかりにくくさせているのは,
「殺させられて,殺し,殺される」ことを,
国のために死ぬ」とかだとか
さまざまに粉飾され美化されているからだ。
だから,戦争屋にとっては,

そういう美化装置は
なくてはならないのだ。


(菱木政晴『非戦と仏教』白澤社,2005年1月,258頁



小泉純一郎首相の靖国神社参拝について


「あっちにいったり,こっちにいったり,
アトランダムにやっている」
(中曽根康弘元首相,2004年1月7日)

「毎年,参拝の日をかえる。今年はいきなり
元旦に参拝し,初詣だと苦しい弁解」
(『朝日新聞』2004年1月8日朝刊「社説」)

「なにか小賢しい,その場かぎりのつぎはぎ的なやりかた,
腰の座らないやりかたが,参拝問題をかえって
説得力を欠いたものにしている」
(『朝日新聞』2004年1月7日朝刊「声」)




【 批判的視座:その1

本当は8月15日に靖国参拝にいきたいのだが,
中国や韓国の
批判・非難を意識しながらも,
かつ自分の支援団体:
「軍恩連盟」の顔も
立てるため,今年はさらに前倒しし,
1月1日にいったのである。


自分の利害(!)のために靖国に参拝した
ということなのである。


「熟慮に熟慮を重ね……」といった意味は
そのように解釈できる。


たとえば,
軍恩連盟と同じ類である下記の団体は,
歴代の首相に対してこう要求していた。


   
なによりも二百四十万余柱の英霊に懇篤なる真心を捧げ,国民としての誇りと自覚をとりもどすことが,我が国の平和と繁栄を守りぬいていくための喫緊の課題であることを認識し,中断されて久しい靖国神社への首相の参拝を再開することである,

 いまだ,日本人を呪縛しつづける東京裁判史観の克服をめざしてさらなる国民運動を展開していくことをここにあらためて誓う。

 右(上),声明する,

 平成十年八月十五日 第十二回戦没者追悼中央国民集会
                         
英霊にこたえる会
                                 日本会議


  http://www.vega.or.jp/~toshio/yasukuni.htm

 
   
つぎの表をみよう。「赤の字」の団体名に注目したい。

2001年参院選・自民党比例区候補の得票
  候 補 者 主な支持組織 (職業)

得 票

舛添  要一

 なし(国際政治学者)

 1588262

高祖  憲治

 郵政OBの大樹

   478985

大仁田  厚

 なし(プロレスラー)

  460421

小野   清子

 軍恩連盟(元体操選手)

  295613

岩井   国臣

 全国建設産業団体連合会

  278521

橋本   聖子

 なし(元スケート選手)

  265545

尾辻   秀久

 日本遺族政治連盟

  264888

武見   敬三

 日本医師連盟

  227042

桜井   新

 神道政治連盟など

  218597

10

段本   幸男

 全国土地改良政治連盟

  207867

11

魚住   汎英

 全国商工政治連盟

  197542

12

清水 嘉与子

 日本看護連盟

  174517

13

福島 啓史郎

 全国農政協

  166070

14

近藤   剛

 経団連,日経連

  160425

15

森元   恒雄

 地方自治,消防関係団体

  156656

16

藤井   基之

 日本薬剤師連盟

  156380

17

山東   昭子

 なし(タレント)

  147568

18

小泉   顕雄

 なし(元町議)

  142747

19

有村   治子

 なし(元日本マクドナルド社員

  114260

20

中原   爽

 日本歯科医師連盟

  104581

21

中島   啓雄

 旧国鉄OBのときわ会

   95109

  『朝日新聞』2003年9月2日朝刊。

 
 
 【解  説】

   ● 2001年の参議院選挙にさいして,自民党比例区候補者のうち
 
 「軍恩連盟」の支持をうけ
            第4位で当選した(元体操選手)小野清子
 
 日本遺族政治連盟」の支持をうけ
            第7位で当選した尾辻秀久
 
 神道政治連盟など」の支持をうけ
            第9位で当選した桜井 新
 
などと同じに,小泉純一郎は2001年の自民党総裁選挙で,国会議員以外の「これら団体などから自民党員の支持票」を集めて当選できた。

 ◎
小野清子の主な関連役職(2004年1月12日現在,該当ホームページ参照)

     ・参議院議員として国務大臣「国家公安委員会委員長」,
 
     ・自民党員として恩給制度調査会副会長
 
     ・議員連盟の1員として軍恩議員協議会事務局長
 
     ・そのほか,みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会委員,
                    遺家族議員協議会国防議員連盟委員。

 尾辻秀久の主な関連役職(同上)
 
     ・議員連盟の1員の役職として
              遺家族議員協議会事務局長,
              
日本遺族会副会長,
              鹿児島県遺族会会長。

 
● 上記3団体の支持をうけた3候補の得票数を合計すると,約78万票になる。上の表には,自民党を支持する有力な団体が軒並み出ているが,なかでも,この3団体関係の支持をまとめて集票できたら,一番多い支持票数となるわけである。

  小泉は,戦争で死んだ英霊のために参拝するのではなく,自民党総裁選で自分を支持してくれたそ3団体を強く意識して,つまり,その自民党員のために靖国にいくにすぎない
 
  2003年の総裁選でも小泉は再選されたから,2004年は早速元旦に靖国参拝を済まし義理をはたした,と解釈できる。

 
   
 2004年11月23日『朝日新聞』朝刊に掲載された時事風刺漫画を,つぎに紹介しておく。小泉純一郎の右がわに立っている人物は,中華人民共和国国家主席 胡 錦涛である。 
 

 



【 批判的視座:その2

今年元旦の
初詣日本の歴史や伝統を尊重して
靖国にいったというのであるが,
それならば,なぜ,さきに
伊勢神宮熱田神宮にいかなかったのか。

(首相は
1月5日に伊勢神宮に参拝した)

伊勢神宮熱田神宮日本の建国神話そのものに
関する
歴史や伝統を象徴する神社である。

靖国神社は明治期に軍国主義督励のためつくられた。

日本の
歴史や伝統を尊重して靖国にいった
という説明は
詭弁である

いまさらながら
「とってつけた」ような屁理屈
繰りだすのは,聞き苦しい。




【 批判的視座:その3

伊勢神宮熱田神宮が遠くてたいへんだというなら,
日本国を代表する首相の立場のことである,
特別にヘリコプターでも仕立てて
参拝にいけばよい。

朝一番に飛んでいけば,正午までには
官邸のヘリポートにもどれる。


1月5日伊勢神宮に参拝した首相の交通機関は新幹線

2003年1月4日 民主党の党首 菅  直人は,
幹事長の岡田克也といっしょに
伊勢神宮参拝している。

今年はどうするだろうか。




【 批判的視座:その4

今年の初詣でも小泉は
日本の平和と繁栄」を祈願するために
「戦没者:英霊」を参拝しに靖国にいったと説明した。

だが,
東アジア諸国:人々の立場よりみれば,
これほど
隣国バカにしたいいかたはほかにない。

その
「英霊」被害者たちが誰であったか,
小泉にしらないとはいわせない。

そもそも,1945年まで
日本の植民地‐支配統治地域に
数百もの神道式神社を創設させ,
その地の人々に
神社参拝を強要してきたのは,
どこの誰か?


それは,当時の
日本の首相であり,
そして,
日本の天皇であった。

したがって,
東アジア諸国とその人々は,
日本の小泉首相が
「初詣」などと名目をつけてまた
靖国神社
(戦争神社)に参拝したことをしり,それこそ,
身の毛がよだつ思いに駆られるのである。

ところで,1945年8月以降において
日本の植民地‐支配統治地域に存在した神社は,
その後どうなったか,
日本の人々はご存じか?

それらの
神社は数週間もしないうちに
焼き払われたり破壊されたりした。

どうしてそうなったか,そのわけは
わざわざ触れなくともわかるだろう。




【 批判的視座:その5

ついでにいっておくが,
伊勢神宮熱田神宮
日本の神社である。

伊勢神宮には,天照皇大神の神体として
八咫鏡 (やたのかがみ) と八坂瓊勾玉 (やさかにのまがたま)
神器として鎮座しているとされる。

また,
熱田神宮には,草薙剣 (くさなぎのつるぎ) があり,
以上あわせて
「三種の神器 (じんぎ) と呼ばれる。

その
三種の神器は,日本の天皇家が神話的に
万世一系であることを物的に裏づける,
偶像的に保証してくれる道具
なのである。

1945年,戦争が本土決戦にいたるかどうかというとき,
当時の天皇がもっとも心配したのは,
その
三種の神器戦禍によって
うしなわれたり,焼失したり
するのではないか,

ということだった。

当時,裕仁天皇は,
日本帝国
臣民たちの多くの生命より
自分が天皇家の継承者でありつづけることのほうが,
よほどたいせつだった。




【 批判的視座:その6

1945年4〜6月の戦いで
焦土とされた沖縄は
にとっては,本土を守るための
「捨て石」の地にすぎなかった。

琉球人の本土人に対する怨念をしらないのは,
本土人だけである。

また,それ以上に
日本人がしらないのが,
1945年8月まで
「日本帝国主義」
アジア諸国に対しておこなった
「侵略戦争の時代」
の出来事
である。

たとえば,中国東北部に日本帝国が建国した
旧「満洲國」に建立させた数多くの神社
その後をしる日本人はすくない。

要するに,
日本のそうした神社
日本帝国主義の精神を宗教的に体現させ,
侵略戦争を推進するための具視的な施設であった。

東アジア諸国からみて,
靖国神社
そうした
日本の神社の総元締め
みたいな存在である。

日本の首相が
「初詣」と称して
またそこへ参拝にいった。

東アジア諸国
猛反発し批判するのは当然
である。

けっして内政干渉などではない。




以 下 の 主 な 内 容

  ●〔新聞記事〕 小泉首相:靖国神社を参拝,元日に繰りあげ

 

  

  ● 筆者のコメント:1

  ●〔新聞記事〕 靖国神社参拝:外務次官が抗議の申し入れ,中国

 

  

  ● 筆者のコメント:2

  ● 靖国神社の都道府県分社:護国神社

 

  

  ● 山中 恒『すっきりわかる靖国神社』2003年8月

  ●〔新聞記事〕 靖国神社参拝:参拝中止を強く要求,韓国外交通商省が批判

 

  

  ● 筆者のコメント:3

  「結  論

 

  

   1978年の「A級戦犯合祀」以降,昭和天皇が靖国にいけなくなった本当の理由

    小泉純一郎首相の年頭記者会見での靖国神社参拝に関する発言の要旨

 

  小泉純一郎首相の年頭記者会見に関する雑考

 


 ● 小泉首相:靖国神社を参拝,元日に繰りあげ

 小泉純一郎首相は2004年1月1日,東京・九段北の靖国神社に参拝した。

 小泉首相は就任以来毎年1回の参拝をつづけており,1月参拝は2年連続だが,2003年の1月14日からさらに前倒しした。今年はイラクへの自衛隊派遣を控えるなどの事情から,元日に参拝を繰りあげたとみられる。

 小泉首相は1月1日午前,皇居で新年祝賀の儀に出席したのち,同11時29分に靖国神社に到着,羽織・袴姿で本殿で参拝した。

 「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳。

 参拝形式について靖国神社は「これまでと同じ」(広報課)としており,神道形式の「二礼二拍手一礼」でなく,従来と同様に一礼するかたちだったとみられる。玉ぐし料の代わりに私費で献花料を納めた。

 小泉首相は参拝後,記者団に元日参拝について「初詣という言葉があるでしょ。日本の伝統じゃないですかね」と述べた。

 また,中国などの反応については「その国の歴史や伝統,習慣を尊重することに対してはとやかくいわないと思いますよ」と参拝に理解をえられるとの考えをしめしたが,中国や韓国は「第2次世界大戦のA級戦犯が合祀されている」と過去の参拝を批判しており,今回も反発が予想され,今後の外交日程に影響する可能性もある。

 首相はまた,今年の靖国神社参拝はこの1回かぎりとの考えをしめした。

 小泉首相の靖国参拝はもともと「8・15参拝」をめぐり注目されたが,2001年に8月13日に参拝してからは年々繰りあげた。

 2002年4月21日,2003年1月14日と年々早まっていた。首相の1月参拝は1984年,1985年の中曽根康弘首相(当時)の例もある。

[毎日新聞1月1日] ( 2004-01-01-14:21 )

http://www.mainichi.co.jp/news/flash/seiji/20040101k0000e010016001c.html

 

筆者のコメント:1 

 ただの1市民ならばともかく,日本国総理大臣が1月1日に戦争神社である靖国神社に参拝する行為を初詣と称するのは,とんでもない「異常な神経」のいいぐさである。

 小泉は,自民党総裁で自分が選ばれたとき支持してくれた軍恩連盟 (軍人恩給連盟) には,絶対逆らえない事情がある。これが,今回いまさらのように問題の靖国神社にいき,参拝した理由である。

 総理総裁になってから毎年まちがいなく1回,軍恩連盟に対する忠義立てをしなければならない小泉純一郎もたいへんである。その覚悟をもってすれば,とっくの昔より,東アジア諸国からの批判など折りこみ済みだったことになる。

 小泉にとって幸いなのは,軍恩連盟に淵源する制約のことが,マスコミ報道でほとんど指摘されないことである。したがって,靖国神社に初詣などと呑気なことをいってその本心を隠し,自身にまとわりつく逃げられない事情をごまかしてきた。

 小泉純一郎の靖国神社参拝問題については,本ホームページ:各頁が詳細に批判してきたところである。

 参拝の形式を神道形式の「二礼二拍手一礼」でなく,従来と同様に一礼するかたち」と報道しても(→第3者には確認できないことだが),小泉にとっての「参拝という行為そのものの必要性」にかかわる本質に触れない内容では,隔靴掻痒の報道だという感を否めない。

 小泉は,自身の靖国参拝を「その国の歴史や伝統,習慣を尊重することに対してはとやかくいわないと思いますよ」と,独自に解釈しているが,こういう答えは問題の核心をはぐらかした詭弁である。

 靖国神社=戦争神社「歴史や伝統,習慣を尊重すること」小泉にとっての自由であって,外国からとやかくいわれる筋合いがないものだというならば,大東亜戦争敗戦まで日本は,中国や韓国を侵略したことも植民地にしたこともないというにひとしい暴論を,堂々と開陳したことになる。

 また当然のこと,これまで日本政府が公式に認めてきた「過去の戦争」に関する見解:「侵略行為があった点」も全面的に否定することになる。

 


 

● 靖国神社参拝:外務次官が抗議の申し入れ,中国

 中国の王 毅外務次官は2004年1月1日,同国外務省に原田親仁駐中国臨時代理大使(公使)をよび,小泉純一郎首相の靖国神社参拝に対し「強い憤りを表明し,強く非難する」と抗議の申し入れをしたと,北京の日本大使館が明らかにした。

 次官は,靖国神社を「中国とアジア人民の鮮血で両手を血まみれにしたA級戦犯が祭られている」と指摘し,首相の靖国参拝を「背信行為」としたうえで,「中国の人民はけっしてうけいれることができない」と強調した。

 胡 錦涛指導部が対日関係重視の姿勢をしめす一方,中国国内では2003年,黒竜江省チチハル市で起きた旧日本軍遺棄化学兵器による毒ガス流出事故などをきっかけに対日感情が一段と悪化した。

 小泉首相のたび重なる靖国参拝がこうした流れに拍車を掛けるのは必至で,日中間の首脳相互訪問の再開も,さらに遠のくのは確実である。

 王 毅次官は,「侵略の歴史を反省するとしている約束は破られ,中日関係の政治的基礎がさらに傷つけられた」と小泉首相を批判した。今後は「中国とアジアの人民の正義の声」に真剣に耳を傾け,実際の行動で日中関係の改善にとりくむよう首相に求めた。(北京共同)

[毎日新聞1月1日] ( 2004-01-01-20:57 )

http://www.mainichi.co.jp/news/flash/seiji/20040102k0000m010023000c.html

 

筆者のコメント2 

 小泉が靖国に初詣にいっただけだといいわけしても,かつて出征する日本軍兵士たちは,靖国神社〔あるいは地元の各護国神社〕に参拝してから各戦地へいき,中国では,「三光」と称される悪行(殺しつくし・焼きつくし・奪いつくす暴虐)を彼らが犯してきたことは,歴史上の事実である。

 1945年8月まで中国やアジアなどの戦地や植民支配地にいた日本軍が,どのくらい暴虐のかぎりをつくしてきたか,ここではくわしく触れられない。いずれにせよ,実際に「中国とアジア人民の鮮血で直接両手を血まみれにした」にしたのは,A級戦犯ではなく,庶民出身の彼ら:一般の兵士たちであった。

 したがって,朝日新聞社のコラムニスト早野 透がいうみたく,「中国,韓国だって1銭5厘の赤紙で徴兵された兵士を悼むのを怒るはずがない。A級戦犯へのわだかまりが晴れないからなのである」とか(『朝日新聞』2004年1月6日朝刊「ポリティカ にっぽん」)「中国や韓国が首相の靖国参拝を非難するのは,A級戦犯が祀られているからだ」とかいうふうに解説するのは(『朝日新聞』2004年1月4日朝刊「社説」),完全にまちがっている。

 それは,核心の問題点をはずしたピンぼけ〉の説明である。

 どの国の,であっても,死んだ〔殺された〕兵士たちを悼むことに誰も反対しない。

 しかし,早野も指摘するように,「日本の若き兵士が死んだ,殺されたというからには,相手がわも死んだり殺されたりしているのが戦争である。〈兵隊と良民の区別はつかぬ。おかしな者はみな殺せ〉(前掲「ポリティカ にっぽん」)と命じられ,相手国の民間人:市民‐農民に対しても直接,銃を向けて撃ったり剣を突いたりして殺してきたのが一般の兵士である。

 それゆえ,戦前の靖国神社が軍国主義を象徴する国の施設だったことを踏まえて,「戦後,靖国神社は宗教法人として再出発したが,A級戦犯まで合祀したのは勇み足だった」というのは(『朝日新聞』2004年1月8日朝刊「声」,一般兵士の犯罪行為(命じられて犯した「国際法違反の虐殺行為」)を無条件に免罪するものである。

 相手がわ=「殺されるがわ」の視点を欠いたら,問題の核心がみえるはずもない。

 いま,ベトナムに留学している日本の若者が「日本人であることは,戦前の植民地支配とアジア侵略の十字架を背負って生きることのように感じる」といったことは(『朝日新聞』2004年1月7日朝刊「声」,あの戦争の責任をA級戦犯にだけ転嫁させる誤りに気づいた者のことばだけに,非常な重みがある。

 A級戦犯とは,日帝アジア侵略史を象徴する代表的な諸人物を指すのであって,A級戦犯が靖国神社に合祀されているか否かと問うのは,ことばのアヤみたいな,つまり本質をはずしたやりとりといえる。 

 ◎ 日本の一般庶民が,新年の多幸・開運などを願いに近くの神社にお参り:初詣にいくことと

 ◎ かつて中国の戦地において,一般人民を銃剣で突き殺したり,焼き殺したり,あるいは,女性たちを強姦のうえ殺したりした無数の旧日本軍兵士たちを『英霊』として祀っている靖国神社に〔各地の靖国神社もふくめ〕,日本の首相が初詣にいくこととでは,

その有する意味が全然ちがうのである。

 アジア諸国とその人々は,初詣と称して靖国神社へ参拝にいった「日本の首相の宗教的行為」を許さないのである。

 靖国神社は非常に多くの『英霊』を合祀している。それは明治以来,旧日本帝国がアジア諸国を侵略する戦争をしていく過程で犠牲になった兵士たちを,国家がいちいち神さまあつかいするかたちで慰霊しながら合祀してきたそれである。

 それだけではない。肝心なのは,1945年までの侵略戦争において,日本臣民とくに,青年男子たちを兵隊に駆り立てるだけでなく,彼らが喜んで出征していくように「精神的に強制するための宗教装置」が靖国神社だったことである。戦争神社たるゆえんである。

 靖国神社の,いわば都道府県分社が護国神社であるが,これについて若干関説しておきたい。

  
栃木県護国神社

 当社は,明治5年に市内の高台に奉斎された宇都宮招魂社が昭和15年4月29日に改称され現在地に還座されたものです。

 戸田忠恕公はじめ明治戊辰の役より現在まで,国家公共に尽くされた郷土の英霊 55,361柱をお祀りしています。

 荘厳な社殿に会館を併設,また広々とした境内には多くの樹木が茂り,特に春には満開の桜が参拝の方々に喜ばれております。平成8年7月25日には,天皇・皇后両陛下をお迎えする栄誉にも恵まれました。 
 

栃木県護国神社−百三十年のあゆみ

明治5年
 

宇都宮招魂社の創建

宇都宮旧藩主戸田忠友,旧藩士,有志の人々が,従三位戸田忠恕公(宇都宮城主)及び戊辰の役に殉じた藩士96名の97柱を祀る

明治34年
 

官祭宇都宮招魂社
 
内務省通牒(官祭,私祭と分ける)

昭和14年
 
    

栃木県護国神社と改称
 
内務省令第12号(3月15日公布4月1日施行)33社指定。

昭和15年
 

現在地に遷座
 
    (宇都宮市一の沢町)
          (4月29日)

昭和22年

彰徳神社と改称 

昭和27年
 

県戦没者合同慰霊祭臨時大祭斎行
 
          (4月28日)

昭和28年
 

栃木県護国神社と改復称
 
      
(4月2日施行)

昭和35年
 

合祀概了奉告臨時大祭斎行
 
          (11月27日)
天皇陛下より幣帛料御下賜

昭和36年
 

拝殿翼廊銅版葺に改修 

昭和40年
 

終戦20周年臨時大祭斎行
 
         (10月19日)
天皇陛下より幣帛料御下賜

昭和50年
 

終戦30周年臨時大祭斎行
 
         (8月15日)
天皇陛下より幣帛料御下賜

昭和60年
 

終戦40周年臨時大祭斎行
 
         (8月15日)
天皇陛下より幣帛料御下賜

平成7年
 

終戦50周年臨時大祭斎行
 
         (8月15日)
天皇陛下より幣帛料御下賜

平成8年
 

    (7月25日)
天皇皇后両陛下御親拝

平成12年
 

御遷座六十周年を期して栃木県護国神社奉賛会を設立
 
千葉・群馬・栃木県護国神社,東部ニューギニアにおいて合同慰霊祭実施(8月)

平成13年
 

関東地区護国神社会
 
東部ニューギニアにおいて合同慰霊祭実施(8月)

平成14年

千葉・群馬・栃木県護国神社
 
西部ニューギニアにおいて合同慰霊祭実施 (6月)

祭神数 55,361柱(平成13年現在)


 http://www.gokoku.gr.jp/guide.html
 

愛知縣護國神社:略年譜

 明治元年12月

 尾張藩下屋敷脇の練武場にて,戊辰の役戦死者「招魂祭」執行

   2年4月

   徳川慶勝直筆の「哀些忠勇戦死碑」並に「旌忠社」御社殿の竣工

     5月

 御英霊二十五柱奉斎の「旌忠社」鎮座祭斎行

   8年1月

 御祭神,東京招魂社へ合祀

     10月

 官達により社名を「招魂社」と改称

   34年6月

 内務省通牒により社名に官祭の2字を加え「官祭招魂社」と改称

 大正7年4月

 大正4年御即位大礼の名古屋離宮内,賢所奉安殿,下賜により,城北練兵場に愛知県からの供進金 6450円を以て,御社殿に改築し,本殿遷座祭斎行

 昭和10年4月

 現社地に御社殿竣工(工費金17万円),本殿遷座祭斎行

   14年4月

   内務省令第12号により社名を「愛知縣護國神社」と改称

   20年3月

   空爆により御社殿炎上

   22年12月

 社名を「愛知神社」と改称

   30年4月

 社名を「愛知縣護國神社」と復称

   33年10月

 御社殿戦災復興竣工(工費金7300万円)

     11月

 本殿還座祭斎行(天皇陛下,幣饌料御奉納)

 昭和35年10月

   合祀概了奉告祭斎行天皇陛下,幣帛料御奉納)

   37年10月

 天皇皇后両陛下御参拝天皇陛下,幣帛料御奉納)

   40年10月

   天皇陛下,幣帛料御奉納,終戦二十周年臨時奉幣祭斎行

   44年6月

   「愛知縣護國神社奉賛会」設立

     10月

   御鎮座百年大祭斎行

   50年10月

   天皇陛下,幣帛料御奉納,終戦三十周年臨時奉幣祭斎行

   54年6月

   天皇陛下,幣饌料御奉納,臨時奉幣祭斎行(県下行幸啓)

   57年10月

   社務所竣工(工費金3億5千万円)

   60年10月

   天皇陛下,幣帛料御奉納,終戦四十周年臨時奉幣祭 並に御遷座五十周年祭斎行

 平成元年10月

   御鎮座百二十年大祭斎行

   3年10月

   天皇皇后両陛下,幣饌料御奉納(県下行幸啓)

   4年10月

   全社殿お屋根替(工費金1億5千万円)本殿還座祭斎行

   6年10月

   天皇皇后両陛下,幣饌料御奉納,臨時奉幣学斎所(県下行幸啓)

   7年10月

   天皇陛下,幣饌料御奉納,終戦五十周年臨時奉幣祭

   10年4月

 御社殿(神門・舞殿・廻廊)増築工事竣工奉祝大祭斎行(工費金2億7千万円)

   11年10月

   御鎮座百三十年大祭斎行


 http://www.aichi-gokoku.or.jp/gaiyo/main06.html
 

幣帛料と幣饌料

 幣帛(へいはく)とは祭祀において神々に対する報賽や祈願などのために奉られるものである。

 「幣」「帛」が共に布にちなむ意味を持つことから,古くより絹や麻,木綿(ゆふ)などの布帛を柳筥(やないばこ)に納めてお供えをした。この布帛の代わりに金幣(貨幣)をもってお供えするのが幣帛料である。

 これに対して幣饌料とは,「幣帛料」と神饌に当てるための「神饌料」を両方あわせた金幣のことをいう。

 明治の神社制度では,旧官国幣社には例祭などのおり,幣帛現品もしくは幣帛料と神饌料がそれぞれ奉られた。官幣社は例祭に皇室より幣饌料の御奉納があり,国幣社の例祭には国庫より共進された

 また,府県社及び郷社は府県より,村社に対しては市または町村より,それぞれ幣饌料が共進されるように定められていた。

 戦後は,神社本庁より包括下神社の例祭などの祭祀に「本庁幣」として金幣が共進されてる。天皇陛下からは,とくに皇室と歴史的にも由緒が深い神社に,御内意により例祭などに勅使(掌典)が差し遣わされ,幣帛が奉奠される。この神社を勅祭社といい,埼玉の氷川神社や京都の石清水八幡宮,奈良の春日大社など全国に十六の神社がある。

 勅祭社以外でも,終戦五十周年臨時大祭に際して各地の護国神社に幣帛料の御奉納があったように,特別な思し召しにより,掌典をつうじて幣帛(幣帛料)の共進がなされることもある。

 また,各地への行幸啓にさいして,その地方の旧官国弊社や護国神社に対して,幣饌料を御奉納されることがある。

 しかし,御所や御用邸などたびたび行幸啓がある京都府や栃木県では,他都道府県と不平等にならないよう,行幸啓毎に幣饌料が伝達されることはない。

 「最近の奈良県への行幸啓では,5月29日,橿原神宮御親拝にあたって同神宮に幣帛料・神饌料,県内旧官国弊社と奈良県護国神社には幣饌料をお供えになる旨仰せ出され,拝受した大神神社,大和神社,石上神社,春日大社,廣瀬神社,龍田大社,丹生川上神社上社,丹生川上神社,丹生川上神社下社,吉野神宮,談山神社,奈良県護国神社では,それぞれ奉告祭が斎行されました」。


神社新報 『神道いろは』より転載
 
平成十四年七月八日
 
第二六五五号


 http://www.phoenix-c.or.jp/~jinjya/faq/107.html 参照。
 


 靖国神社の,いわば地方分社ともいえる各地の護国神社のうち,栃木県護国神社愛知縣護國神社のホームページをのぞいてみた。

 そこにみてとれる「昭和天皇(裕仁)‐平成天皇(明仁)と護国神社との深い関係」は,明々白々である。

 とりわけ問題なのは,国費〔国税・税)を遣い,日本各地の護国神社に対して「幣帛料」「幣饌料」を「下賜」「御奉納」しつづけている《日本の天皇》の姿がみられることである。

 −−田中伸尚『靖国の戦後史』(岩波書店,2002年)は,現行の日本国憲法施行以来,昭和天皇が一宗教法人となった靖国神社に6回参拝をしてきた事実に言及する。

 1969年10月,靖国神社創立百年にさいして参拝して以後,6年間昭和天皇は靖国にいっていない。それまでの参拝はいずれも「私的」とされてきた

 それは,憲法が規定する天皇の国事行為には当然,靖国参拝はふくまれず,また憲法を拡大解釈して広げられてきた象徴天皇の「公的行為」に神社参拝をふくめるのは,政教分離原則の見地から不可能だったからである。

 1975年9〜10月に訪米した昭和天皇の靖国参拝を宮内庁が公式に公表したのは,その参拝のわずか2日まえの11月19日だった。新聞で明日「参拝」と報じられた。

 それは,反対運動が広がることを予測した政府がわの判断と思われる。しかし,日本遺族会などへの内示は,公表より早く「1週間まえ」だった。

 同年11月21日,強い異論を押しきるようにして裕仁天皇は靖国神社を参拝した。この天皇の参拝も,それが注目されたときから「公的」にならざるをえないのである。

 しかし,戦後7回めの靖国参拝が天皇の最後の靖国神社参拝になるとは,昭和天皇自身も,そして政府も予想していなかったと思われる。恐らく,靖国神社さえも予想していなかったと思われる。

 1978年10月17日,靖国神社の例大祭前日,「靖国神社にA級戦犯合祀/東條元首相ら14人,ひそかに殉難者として」という見出しである新聞が報じたのは,1979年4月19日であった(田中,前掲書,147-154頁参照)

 
日本首相の「公式参拝」 
(戦前は正式参拝)の問題

 
 1)「憲法違反」 靖国神社は法律上「宗教法人」である。その靖国神社に天皇や国務大臣が公式参拝することは,憲法20条が禁止する「国及びその機関」の「宗教的活動」に当たる。

 
 2)「戦争責任の回避」 靖国神社は,1978年の秋季例大祭の前日10月17日,A級戦犯である東條英機以下の14名を合祀した。A級戦犯は,戦争を開始し,指導し,多大の被害を与えた政治的・軍事的責任者である。そのような祭神を祀る靖国神社に公式参拝することは「戦争責任・戦争犯罪」を免罪することである。


 
3)「加害者側面の無視」 靖国神社に祀られている祭神は,日本の侵略戦争に加担させられたうえ戦死した人々が大部分である。この人々も,アジア‐太平洋地域の人々にとっては加害者である。そうした人々を,天皇や首相が神として崇め,参拝することは,憲法上も,アジア‐太平洋地域の人々の心情からも許されないものである。

  歴史教育者協議会編『 QA もっと知りたい靖国神社』大月書店,2002年,79頁。



 
筆 者 の 解 説
 

 現在の明仁天皇はひとまずおいた話だが,東條英機らA級戦犯が靖国神社に合祀されたのち,裕仁天皇は靖国参拝にいけなくなった。

 なぜか? −−この点はすでにほかのページで詳論したが,もう一度説明しなおすことにする。

 ●−@ 太平洋〔大東亜〕戦争をはじめた首相,東條英機ら14名のA級戦犯は,その戦争などに関する責任を問われ,勝者の連合軍が開廷した東京裁判で絞首刑の判決をうけた。

 ところが,昭和天皇が本来全面的に負うべきだった「もっとも基本的で重大な〈戦争責任〉」は,いっさい免罪されたのである。つまり,東條英機らの14名のA級戦犯が,それを全部肩代わりすかたちで死刑台に送られたことになる。

 東京裁判〔極東国際軍事裁判〕はその開廷を控えて,昭和天皇を「救命(延命:占領軍が利用)する方向」を既定の方針にしていた〔→「はじめに結論ありき」〕

 ところが,東條英機の法廷証言は当初において「その方向」に反するものがあり,検事および裁判官がわは慌てた。だが,あらためて東條に「その方向」を了解‐納得させたうえで,事後の「法廷の指揮」がおこなわれていった。

 したがって,その意味でも茶番劇だったこの軍事裁判は,裕仁天皇のとるべき戦争責任までも東條英機に覆いかぶせるかたちで,公判が維持‐展開された。

 ●−A さて,1978年の秋季例大祭の前日10月17日,その東條英機ら14名のA級戦犯「英霊」として靖国神社に合祀された。

 それ以後,戦争当時「大元帥だった裕仁」であれ「その息子の明仁」であれ,実際に「天皇」が靖国神社に参拝にいくことになれば,自分(ヒロヒト天皇)の罪を代わりに背負って縛り首になった東條英機ら14名のA級戦犯,しかも,いまや靖国の「英霊」になった「彼ら」に向かって天皇が頭を垂れる関係になるわけである。

 しかし,昭和天皇がたとえば,「戦犯として処理された東條ら」に対して拝礼するというかたちでの「妙な関係」は,皇族宗主の立場として絶対にあってはならないものである。

 1978年10月17日以降,もしも昭和天皇が靖国を参拝したとすれば,そういう変な東條ら戦犯に対する天皇の関係」が生まれることにならざるをえなかった。

 問題は,敗戦後の経緯のなかで運よく戦争責任追及を逃れることのできた天皇が靖国を参拝することになると,自身の戦争犯罪的責任を認める宗教的行為となってしまうことである。

 結局,そうした事態=関係性の発生は,天皇家一族にとってただならぬ状況を意味する

 というのも,その関係性においては「君臣の主従」関係に逆転現象が生じることとなり,「英霊」に対する皇族がわの〈国家神道的な態度〉として,けっしてあってはならないものだからである。

 いいかえれば,天皇の参拝をうける存在である「英霊」は,あくまで天皇のためにこそ存在する「英霊」でなければならない。これが靖国神社に鎮座する「英霊」の本義であり,本当の国家宗教的な目的といえる。

 それゆえ,A級戦犯である「英霊」のために天皇が靖国に参拝にいくのは,本末転倒なのである。国家や天皇が「英霊」を利用する関係は許されるが,逆に英霊が国家や天皇になにかをさせるという関係はありえないのである。

 なぜなら,天皇は「神の国:神州」の最高祭祀者であり,いつでも「英霊」を司るという優越的な立場に君臨しなければ意味がないのである。天皇は,戦争神社を祭祀している。英霊英霊を祀れるわけもなく,英霊が天皇:皇祖皇宗を〔→天照大神までさかのぼって〕祀れるわけもない。

 そもそも,靖国神社は天照大神を祀る場所ではない。戦争で死んだ兵士たち祭神に集めて祀る,そしてつぎの起こりうる戦争=有事に備えるという,きわめて「異様で醜怪な宗教精神をもった神社」である。

 靖国は死神たちである「英霊」たちを祭神に祀り,戦争をさらに督励するための神社である。それゆえ,天皇が靖国にいく意義は,戦争の時代において一番高まった。このことは歴史的にも事実であった。戦時体制期,昭和天皇は軍服を着て靖国にいった。

 ところが,あの戦争〔大東亜(太平洋戦争)〕に敗けた結果,勝者となった敵の裁きをうけた「A級戦犯」が,戦争神社に合祀されることになった。

 その後一宗教法人になった靖国神社のことであるゆえ,そのありかたに対して昭和天皇はもう口出しできない。かといって,そこへ昭和天皇が参拝にいくことの意味は,まったくもって屈辱的なものである。

 こうして,敗戦のために戦犯(犯罪人)とみなされ死刑になったかつての臣下たちを,靖国に合祀された「英霊」として天皇が参拝することは,皇道的に想定された宗教行為の本道にもとるものなのである。

 ●−B 1978年10月17日以降,裕仁天皇が靖国を参拝することになれば,極東国際「軍事」裁判A級戦犯:戦争犯罪人として裁かれた,かつて自分〔大元帥〕の統帥下にあった臣下たちに対して頭を垂れるという,たいへんおかしな〈神道的宗教行為〉をおこなうことになる。

 裕仁天皇によるそうした宗教的な行為は,自分自身の皇位のみならず,皇祖皇宗の伝統〔→天照大神〕にまで遡及させるかたちでも,大元帥としての「戦争行為の犯罪性」を認めることになりかねない

 はっきりいえば,皇族一家の最高地位にいる人間〔かつては生き神様:ヒロヒト〕にとって,そのような関係性の発生は,屈辱的であるどころか,実に絶対にあってはならないものである。

 それだけではない。連合軍:勝者の裁きによって「戦犯とされた者たち」が靖国神社に〈英霊〉として合祀されていることは,靖国本来の「国家宗教的な宗旨」である「戦争督戦という狙い」に照らしてみても,かつて生き神様だったヒロヒトにとっては,とうてい許容しがたい状態なのである。

 いうまでもなく,「A級戦犯たち」は敗戦した大日本帝国の責任を負わされ,戦争犯罪人として裁かれたのである。しかも,天皇〔ヒロヒト〕自身の罪:戦争犯罪を代わりに背負い,地獄に送りこまれていった人々である。

 つまり,ヒロヒト天皇は靖国参拝にいきたくても,いけない立場になってしまった。自分の罪を背負ってくれた〈英霊〉に頭を下げるなんてことは,とてもじゃないができない。そういうことをしたならば,マッカーサー元帥のおかげでなんとか「A級戦犯たち:彼ら」に押しつけて,逃れることのできた「自分の戦争犯罪責任」を認めることになるからである。

 なんといっても,戦争に負けて裁かれた「彼ら」〈英霊〉として靖国神社に合祀されるのでは,この神社が本来有してきた「戦争督戦という狙い」が台無しになる。

 もっとも,「A級戦犯たち」を合祀した靖国神社がわは,東京裁判〔極東国際軍事裁判〕の思想‐立場を全面的に否定する考えである。ここには,靖国神社およびその関係者と天皇一家とのあいだにある「埋め難い溝」が瞥見できる。

 ●−C すなわち,1978年10月17日以降「天皇」と「靖国」との関係性のなかに「東條英機ら14名のA級戦犯」〈英霊〉という,あってはならない異質物が挟みこまれたのである。敗戦後,うまいぐあいに戦争責任を逃れることができたヒロヒト天皇の立場ではあったが,その後においては,如上のごときディレンマにおちいったのである。

 仮りに,天皇自身がその「東條英機ら14名のA級戦犯」「英霊」たちに対して頭を下げ,「二礼二拍手一礼」などの祭礼儀式をおこなうことは,もともと最上位・最優位の場所から英霊たちに接する資格をもつはずの天皇位がケガサレ,毀損されることになる。

 天皇の立場から,大日本帝国「臣民」たちを軍人に仕立て,喜んで戦場に送るため創設された装置=靖国は,A級戦犯に指定されて絞首刑になった将軍や政府高官までも「英霊」として合祀する場所になったのである。しかし,彼らは,靖国に合祀されるような「位」の人間たちではなかったはずなのである。

 旧日帝時代の指導者たち」=「A級戦犯」は,天皇の身代わり=生贄になってから四半世紀を経て靖国に合祀された。〈英霊〉となった彼らなのであるけれども,天皇一家にとっては目障りこのうえない〈過去の亡霊〉たちでしかない。

 「東條英機ら14名のA級戦犯」のうち7名の死刑執行は,昭和23年12月23日にとりおこなわれた。この日がなんの日であったか。昭和天皇の長男,平成天皇の誕生日である

 当時,その死刑執行の日取りは,マッカーサーを総司令官とする連合軍国が決めたのである。この「当てつけ的な意味」を一番身にこたえてうけとめたのが,昭和天皇当人とのちに平成天皇となるその息子であることは,指摘するまでもない。

 −−1978年10月17日以降,裕仁天皇はもちろん,平成天皇も靖国に参拝にいかなくなった歴史的な理由は,以上のように論理的な説明を与えることができるのである。

   ●−D「図解による補足説明」 以上の説明はまどろっこしく,くどくどしい感じがあった。つぎに参考となる図解をかかげ追補しておく。

 a)「皇祖皇宗と忠孝一致」に関する図解(ほかのページですでに出したことのあるもの)。


 
佐藤文明『戸籍って何だ [差別をつくりだすもの]』緑風出版,2002年,109頁。

 

 b)「日本的な支配共同体の構造」


 
● 天 皇 ●
  
 ¦
=支配勢力(朝廷・将軍・幕府など)
 

 
■ 常 民‐大 衆 ■
 


 
赤坂憲雄・吉本隆明『天皇制の基層』講談社,2003年,71ページ。

 

 c)「靖国神社の位置づけ」


● 伊勢神宮・熱田神宮 ●
 

皇 祖(天 照)皇 宗(神 武)
 

恵 与 の 神 話

同  祖  論  )

  ↑

〔万世一系の〕

天   皇

現人神大家長〔:仁

氏 神…〔氏〕…戸主


氏の家長〔:慈

↓↑            ↓↑
靖国神社戦争へ臣民を動員する宗教施設】

↓↑
家  族「
(教育勅語) 臣  民「
一致

 【解 説】 この c) の図解をみれば,靖国神社の位置が,すこしはわかりやすくなると思う。

 靖国神社はもともと,軍部の管轄下〔→つまりその大元帥であった天皇の麾下(きか)〕におかれ,とくに明治以来,アジア侵略路線を突進してきた日本帝国主義の軍隊・軍人に対して,戦場で「よく死ぬ覚悟:敢闘精神」を涵養させるための宗教施設となった。

 日本の全国各地にたくさんある「土着の伝統のある各種神社」が,大衆(常民)‐庶民の多幸金運無病息災の祈願をうけてくれる社(やしろ)であるのに比して,靖国神社が創設された意図は,日本臣民が侵略戦争の先兵になってよく死ぬ」ことを督励するそれであったのである。

 したがって,靖国神社の基本性格を「きわめて異様で醜怪な宗教精神をもった神社」である点にみいだすことは,あまりにも当然な理解である。

 靖国神社は,明治の時代に入ってから突如,「〈戦争神社〉としての性格」をこめられ創られた凶暴な神社なのである。

 日本は第2次大戦で敗戦した。「敗戦という出来事」は,靖国神社の当初の意図,基本的な使命に完璧に反する現象であった。靖国の宗教的なもくろみは,ここにおいて完全に否定された。

 その敗戦の結果,大東亜〔太平洋〕戦争を指導してきた日本の軍人や政治家がまとめて「戦犯あつかい」され,勝者:連合軍の裁きによって絞首刑にされた者もいる。

 ところが,靖国神社戦後に宗教法人となっており,天皇の麾下からはなれていったのだが,その靖国神社じしん勝者:連合軍の裁きを認めないとする思想‐立場」に立って,1978年10月17日,東條英機らA級戦犯とされた人々14名を合祀したのである。

 しかしながら,マッカーサーの恩慮をうけ,危ういところで「敗者としての裁き」をうけずに済んだ昭和天皇は,靖国神社本来の役目に背く〔つまり自分の代わりに死んでくれた〕「A級戦犯の合祀」が許せなかったのである。

 敗戦後とくに,昭和20年代前半の一時期,ヒロヒト氏は,自身の首がつながるかどうか非常に心配だった日々を過ごしてきた。それこそ,夜も眠れないような日がつづいたのである。だから,当時は思いだしたくもない時期だった。

 それだけではない。彼がもっともお気に召さなかったことは,自分が事後,靖国神社へいくことになったばあい,かつては「臣下であった〔しかも絞首刑になった〕彼ら」に対して,頭を下げねばならない「関係性」が生まれたことにあった。

 敗戦後もしばらくは,靖国に参拝してきたヒロヒト天皇ではあったけれども,彼は1978年10月17日以後は死ぬまで,そこへいくことがなかった。

 c) の図解「靖国神社の位置づけ」からもわかるように,もしも昭和天皇が最高位の戦犯となり処刑されたとしたばあい,まさかこの人を靖国神社に合祀するわけにはいかない「りっぱな理由がある」ことになる。

 つまり,彼だけがその「別格の座を占めていた事実=関係性」は,靖国神社を上から司るその祭祀者に位置づけられていた点にみてとれる。

 昭和天皇は元来,国家神道の総本山ともいうべき靖国神社との「関係性」のなかでただ1人,宗教擬似的に〈頂点=最高的優位〉を保持していた。

 ところが,靖国神社に「A級戦犯が合祀」されて以降,昭和天皇の保持していた「宗教擬似的な〈頂点=最高的優位〉」は,基本的に否定され破壊されたことを意味する。

 なぜなら,それでは靖国において,「天皇と臣下の〈君臣関係〉が逆転したごとき位置関係」が生じるだけでなく,戦争と戦勝を願うこの神社のなかにまったく異質である「敗者:戦犯処刑者」が合祀され,おまけに彼らに天皇が頭を垂れるという許しがたい事態=「関係性」も生じるからである。

 そこに,昭和天皇が敗戦後もつづけてきた靖国参拝を中断せざるをえなかった《唯一・最大の理由》があったのである。現状では,天皇の靖国参拝は,明治以降仕立てられた天皇制の根源を,みずから否定する行為となるほかない。

 むろん,昭和20年代前半は,マッカーサーが占領軍総司令官,いいかえれば,かつての「天皇」みたいな存在となって日本を統治しており,ヒロヒト天皇はその掌中に収められたも同然だったといえる。

 昭和天皇はだから,その時期を二度と思いだしたくないものとして「記憶していた」はずである。ところが,靖国神社への「A級戦犯合祀」はまさしく,昭和天皇にとってはとても嫌なその「記憶」を彷彿させたのである。

 −−以上は,1978年10月17日以降において,昭和天皇が靖国神社に対して抱いただろう「その心理構造」を分析してみた記述でもある。

 みかたをかえていうならば,靖国神社への「A級戦犯の合祀」は,旧日帝の侵略戦争によってひどい被害をうけたアジア諸国においては,むろん非難されるべき出来事だったのであるが,昭和天皇および天皇一族にとっては,それ以上に「手痛い打撃をうけた事件」だったのである。


 
作家島田雅彦は,「乙女は娼婦に,英雄は闇屋に」するのが「戦争」だと語っていた。

 戦争にはいくつかの法則がある。敗戦と占領を経験した日本人もそれをしっている。

 a) 戦争に負けると,原始時代にもどり,人々は野山に帰る。

 b) 戦争に負けると,囚人は英雄に,英雄は闇屋になる。

 c) 戦争に負けると,瓦礫は遊廓に,乙女は娼婦になる。

 d) 戦争に負けると,聖人も君子も堕落する。

 e) 戦争に負けると,いままでのことがつうじなくなる。

 f) 戦争に負けると,子どもたちがグレる。

 −−いつの日か敗者は笑い,勝者が泣く。人は生き,人は堕落し,人は誤る。そして,悟ったころにはひとつの時代は終わっている。

 

  『朝日新聞』2004年1月10日朝刊。

 靖国神社に合祀された「A級戦犯」が除去されることになれば,平成天皇がそこへ参拝にいく可能性が生まれないともかぎらない。ただしその点は,日本における民主主義の度合:成熟度とも大いに関連することがらである。

 

 −−前述からもわかるように,昭和:裕仁天皇は敗戦後も,靖国神社〔ここへの参拝は,上枠内に記述された理由によって途中で中断するが〕をはじめ,全国各地の護国神社をこまめに参拝してきており,この習慣は息子の平成:明仁天皇に代替わりしても,なにもかわるところなく継続されている。

 ここで再び,小泉純一郎が自民党の強力な支持団体のひとつである日本遺族会に対して,そしてとくに,軍恩連盟 〔軍恩連盟全国連合会〕 への厚い配慮をするために毎年,靖国神社に参拝にいかねばならない事由にもどり,記述をすすめよう。

 つぎにとりだす話題は,軍恩連盟自民党との親密な関係の一例を紹介したものである。これは,参議院選で落選した自民党のある前議員が,次回選挙での当選を期して書いたものである。

 
軍恩全連記念大会で当選必勝の決議が行われる!!

 終戦後,一時途絶えていた軍人恩給制度が昭和28年(1953年)復活し,その運動の中心となった軍恩全連(軍恩連盟全国連合会)の創立から今年は50周年の記念の年。2003年10月8日(日),東京の九段会館で全国各地から1,000名を超える会員の皆様が出席され,盛大に大会が行われました。

 海老原義彦会長の挨拶,山崎 拓自民党副総裁,安倍晋三幹事長,麻生太郎総務大臣をはじめ,中村正三郎自民党恩給制度調査会長,虎島和夫軍恩議員協議会理事長などから激励の挨拶がありました。

 また,先般の内閣改造で入閣した,軍恩全連特別顧問の小野清子国家公安委員長が満場の拍手で登壇され,会場から就任を祝う発言がでるなど会員の喜びが実感されるシーンがありました。

 多数の衆・参両院議員がお祝いに駆けつけ,大会を一層盛り上げました。功労者への感謝状,表彰状の贈呈の後,大会決議案が上程され,“恩給改善,定額受給者の最低補償額の確保”などとともに,来夏の参議院選挙で軍恩全連推薦候補者である“鈴木まさたかの必勝を期す”ということが決議されました。

 全国の代表者による大会決議で,誠に力強く心から感謝申し上げます。

 2003年10月8日

 参議院議員 鈴木まさたか

 

  http://www.suzuki-masataka.net/katsudo/20031008.shtml

 この鈴木まさたかなる自民党関係者はきっと,靖国神社や地元の護国神社には「足を向けて寝られない」ような生活態度でなければならないだろう。

 それよりもなによりも,なにかの節目にかこつけては,靖国神社はじめ各地の護国神社への参拝をたび重ねてきた「2代にわたる天皇」が存在してきている。

 「私的」といおうが「公的」といおうが「公的」であらざるをえない彼らの靖国神社参拝は,いちおう平和憲法下にあるこの国:日本においてであってもなお,軍国主義精神を国民的次元で発揚するかのような宗教的行為:靖国(軍神)参拝を性懲りもなくつづけてきている。

 ここではっきり断わっておくべきは,彼らのそうした近代軍事国家宗教的行為としての靖国(軍神)参拝は,明治時代以前にはほとんどなかったことである。靖国神社・護国神社じたいは,明治以来の日本帝国主義による造成物である。

 靖国神社は,1879〔明治12〕年,旧招魂社を昇格させ,幕末以来「尊皇攘夷」のために戦って倒れた志士の功績を顕彰するために建てられた。

 制度的にはほかの諸神社が内務省の所管とされたのに対して,靖国神社は最初から軍部の所管とされたのが特徴的である。その祭神が戦争あるたびごとに戦没者を合祀するという,日本の神社信仰の伝統にはまったくみられない異質なものである。

 明治以後の国家神道は,天皇制と軍国主義をささえるものである(藤谷俊雄『国家神道と天皇問題』部落問題研究所,1989年,36頁)

  それゆえ,靖国神社・護国神社を称して「日本古来の伝統的宗教にもとづく宗教施設」だとするウソ,すなわち「誤導的な解釈」が幅を利かしてきたが,これは完全に否定されねばならない。

 −−明治24〔1891〕年,日本の神道の核心を,アジア一般におこなわれる「神道ハ祭天ノ古俗」と指摘した帝国大学文科大学教授久米邦武は,神道家たちのツブテの嵐のような非難・攻撃をうけ,事後,帝大の「非職」,そして「依願免官」とされた。いわゆる「久米事件」である。

 久米のアカデミズム追放は,皇室への不敬,「国体」毀損,安寧秩序を乱すという非難のもとにおこなわれた。それは「教育勅語」が出されて2年後,日清戦争開始の2年前,近代天皇制がその確立のための神道を体制イデオロギーとして色あげしつつあったときだったのである(田中 彰『明治維新と西洋文明』岩波書店,2003年,14頁,163頁)

 日本帝国主義を創生,発展させるうえで靖国神社・護国神社〔など〕を利用しなければならなかった為政者や「国家」神道の関係者は,つぎのような〈ごまかし〉を強弁しなければならなかったからである。

 つまり,「靖国神社・護国神社」は「古来からの伝統をうけついでいる」と。しかし,事実はまったく異なっていた。実は,明治以降,旧日帝による国家的宗教政策にのっとって人為的に登場させられたのが「国家神道:靖国・護国神社への信仰であった。

 しかも,帝国主義時代用に全面的に衣替えさせ,新しく出現させたのが「アジア侵略用の国教」=「靖国神社・護国神社」の宗教心だったことである。

 また付言するなら,平成天皇の配偶者はキリスト教の「幼児洗礼」をうけていた人物である。だが,皇室に嫁いでから強制的に神道徒に改宗させられた。この国の宗教事情においては,クリスチャンの首相さえ大平正芳内閣;1978年12月から1980年6月)靖国神社に参拝にいくのであるから,むべなるかなである。

 この国では「政教分離」の実質がない。

 文部科学省は「国を愛する子ども」を育てる教育基本方針を打ち出しているが,この方向性が人々の「思想や良心の自由」を蚕食することはまちがいない。またさらに,そのさきに待ちうけているものは,「象徴天皇」であっても国の代表的存在である人物〈天皇〉を敬えという時代錯誤の精神醸成である。 

 なぜ,そういう方向がいけないのか?

 民主主義の根本精神に照らせば,同じ人間なのに特定の人物を「特別に敬え」などというふうに教育し,ましてや強制する方向をとることは,民主主義の破壊行為にほかならないからである。

 いまや,日本における民主主義の状態が真正面より問われる事態が目前に近づいてきたのである。

 またぞろ「不敬罪」なんぞをもちだすつもりか?

 文部科学省が教育の場にとりいれようと意図している神話は,記・紀神話のなかでもとくに,天皇中心の思想の露骨な建国神話である(直木孝次郎『神話と歴史』吉川弘文館,昭和46年,137頁)

 −−天皇家に関して〈敬語〉を使って書かれている著作,高橋 紘『象徴天皇と皇室−あるべき天皇像とは−』(小学館,2000年)は,こう論述している。

 敗戦の年,1945年は11月19日と20日の両日,靖国神社で臨時招魂祭がおこなわれ,昭和天皇は20日に参拝した。

 昭和天皇は,1975年秋の「終戦30年」のふくめ戦後は計8回靖国に参拝したが,それ以降はとだえている。平成天皇の靖国参拝はない。

 敗戦後,靖国は政治に巻きこまれ,政教分離の観点から訴訟も出されている。国家のために生命を捧げた人々を慰霊するのが,なぜ悪いのか。

 靖国の社頭で再会しようと,海や空,あるいは海外で散った若い生命を惜しむ気持は,誰もが共通のものだが,靖国の「英霊」に対して国民全体で考えてみる必要があろう。

 天皇が参拝できないのは,靖国神社が政治問題化し近隣諸国から批判があるからである(高橋,前掲書,199-201頁参照)

 海外からの批判があるというが,それでは,日本国内からの靖国批判がないかといえば,そうではない。靖国神社の問題や矛盾に気づき悩んできた日本国民がおり,そして,靖国批判を口にし反対の立場をとる人々もいる。

 したがって,高橋 紘のように国外からの批判がなければ天皇制に問題がない,というような口吻で表わすのでは問題がありすぎる。高橋にも誤導的な見解・記述がある。日本人識者の限界がみえる。

 高橋 紘は,靖国神社には朝鮮出身者〔現在の韓国籍・「朝鮮」籍をもった人々のこと〕の〈英霊〉も1万1千柱が合祀されている(高橋,同書,200頁)というが,それをとりのぞけ・かえせといって,激怒している韓国人・朝鮮人もいる事実に触れないのは,靖国に関する一面的な解説である。

 日本人でも,靖国に自分の肉親・家族が〈英霊〉として合祀されることを好まずとりのぞいてくれと要望してきた,キリスト教徒・仏教徒の人々もいる。

 山中 恒『すっきりわかる靖国神社』(小学館,2003年)は,靖国神社〔護国神社など〕の本質を,こう解説する。

 −−大東亜戦争〔太平洋戦争〕は,開戦から1年で形勢が逆転し,しだいに敗戦色が濃くなる。八紘一宇の顕現が実現不可能だとわかると,「国体を護るため」に玉砕戦法をとらせるようになった。まさに身命を投げ打たせ玉砕させたので,戦死者が激増した。

 そこで靖国の神を,皇室および「国体」を護る天佑神助の神にした。戦前の日本は,国民のための国家ではなく,天皇の国家であった。天照大神が現世に天皇として現われて日本を統治する,これが日本の国体(国柄)とされた。その「国体」を護りつづけることを「国体護持」といった。

 総力戦態勢下では,すべての国民は,靖国の神と同じように天皇と国家のために戦わねばならなくなった。靖国精神をもって,戦争を勝ちぬけと国民を追いたて,戦争協力をさせた。

 靖国神社は単に戦没者を祀るだけでなく,国民の戦意を高揚し,戦争に協力させるための軍事施設としておおきな役割をはたしたのである。

 皇室および国家のために戦うこと,侵略戦争を美化する役割をはたした「靖国の神」は,敗戦後の民主主義国家「日本」では,不自然で矛盾した存在になってしまった。かといっていまさらべつの心霊と入れ替えることもできない。

 敗戦後GHQは,靖国神社と国家と軍部のむすびつきを断った。

 1946年,国防館を靖国会館と改称,国防館や遊就館の業務を停止させ,国防館や遊就館の展示品は靖国会館へうつした。遊就館は占領軍に接収され,富国生命保険相互会社の社屋に貸しだされた。

 1980年,富国生命が立ちのくと遊就館再開の機運が高まり,1988年7月遊就館が再開された。再開に当たり,戦後世代が靖国神社の祭神の遺品・遺書などをとおして,これら殉国の英霊が国を守るために,どのような働きをしたかを肌身で感じとり,学習できる場とすることが重要視された。

 結局,敗戦40年にして,靖国神社は戦前の姿をほぼ復活させたといえる。旧陸・海軍省に代わって一宗教法人が業務を担当している点がちがうだけであり,今日でも旧陸・海軍と国民をむすびつける軍事施設にかわりないと考えるべきである。

 したがって,今日の宗教法人靖国神社は,依然として大日本帝国の英霊を崇敬させるための軍事施設の雰囲気を感じさせる。そのための戦没者に追悼を捧げ,慰霊の祈りを捧げるための施設,平和のために祈りを捧げる場所としてふさわしくないと考える人はたくさんいる(山中,前掲書,112-113頁)

 −−以上,山中 恒『すっきりわかる靖国神社』の参照でも理解できるのは,こういうことである。

   ●−1 靖国神社は戦前の姿:戦争神社(war shrine)の本質をほぼ復活させたこと。

 ●−2 海外からの批判だけが靖国に対する批判としてあるのではないこと。

 ●−3 この靖国神社があるかぎり,またこの神社を軍神を祀る祭殿として否定しない皇室・国家政府がつづくかぎり,この国における民主主義は発育不全のまま半永久的に止めおかれるにちがいないだろうこと。

 ●−4 ましてや,この靖国神社に一国の首相が参拝にいくという行為は,日本の民主主義を真向より否認するものであること。

 靖国は,平和のために祈りを捧げる場所としてまったくふさわしくないのに,小泉は「平和を祈念するため」そこへいくという,とんでもないお門違いをしている。気でも狂ったのか,といいたくもなる。

 ●−5 それでもいまなお,この首相:小泉純一郎を戴く自民党を中心とする政権を退陣させえない「日本の国民」は,その意識水準の実体においては「戦前時点のもの」,すなわち「陛下の臣民」のそれでしかないこと。そこでは,民主主義と自由はなきものにひとしいこと。

 ●−6 日本国首相が靖国神社を「初詣」といって参拝するのだから,かつて日本帝国主義の侵略をうけ,多大な被害とこうむった東アジア諸国であっても,まあ「大目にみてくれる」だろうなどと思っては,絶対いけないこと。

 ●−7 日本国民は,小泉首相の4回めにもなった靖国参拝をもっと深刻かつ適確にとらえ,その行為を批判しておかなければならないこと。

 そのようにできないのであれば,今後において,敗戦後占領軍の支配下,自分たちに「押しつけられた」というところの「戦後民主主義の基盤」すら破壊されかねないこと。

 −−以上に書きつらねた諸事,よくよく覚悟しておくべきである。

 


 

● 靖国神社参拝:参拝中止を強く要求,韓国外交通商省が批判

 韓国の外交通商省は2004年1月1日,小泉純一郎首相の靖国神社参拝について「わが国民の感情を再び傷つけたことに憂慮と憤怒を禁じえない」と批判し,「これ以上参拝しないことを強く求める」とする報道官声明を発表した。

 通信社の聯合ニュースによると,韓国政府が小泉首相の参拝中止を直接的表現で要求したのは,はじめてである。

 韓国メディアも同ニュースが「奇襲参拝」と速報した。KBSテレビも「A級戦犯を美化する」と批判的に報じた。

 盧武鉉大統領が「未来志向の対日関係」を訴えているだけに強い対抗措置に出る可能性はすくないが,良好に進展する日韓関係に水を差すとの憂慮が出ている。

 声明は,靖国神社を「過去の植民地支配と侵略でわが国民に被害と苦痛を与えた戦争犯罪者の位はいがある」と指摘し,参拝は「理解できない」と強調した。

 「隣国との友好関係を発展させるなら,過去の歴史を直視し,隣国の立場と国民感情を尊重すべきだ」と訴えた。

 韓国では最近,自民党幹部による「創氏改名は朝鮮人が名字をくれといったのがはじまり」との発言や,石原慎太郎東京都知事の「日韓併合は朝鮮人の総意」との趣旨の発言など,植民地時代に関する日本がわの「妄言」続発への不満も根強い。

 知日派の韓国政府関係者は「自由貿易協定(FTA)交渉開始や羽田−金浦間の航空便就航など韓日関係が良好なだけに,小泉首相の靖国参拝や政治家の無配慮な発言への失望は深い」と批判した。

(ソウル共同)

[毎日新聞1月1日] ( 2004-01-01-22:31 )

http://www.mainichi.co.jp/news/flash/seiji/20040102k0000m010022001c.html

 

筆者のコメント:3 

   @ 小泉純一郎首相が靖国に祀られる「英霊」たちのために「初詣!」にいったのは,さきにも指摘したように,いまの「自分の首相の地位」を維持していくうえで絶対必要な順守事項,つまり,彼が首相になるに当たって強力な支持を与えてくれた「軍恩連盟〔→自民党員の票〕」への操(みさお)を証しし,守るためのものにすぎない。

 まず,その基本面をしかと理解しておくべきである。

 自民党総裁・内閣総理小泉純一郎に対する抵抗勢力の〈反攻〉も功を奏してきたがゆえに,最近はその抵抗も穏やかになっている。その点では逆に,純一郎が死に体同然になってきたという現実もある。

 その結果,小泉「支持」ないしは「無視」の気分,いいかえれば,抵抗勢力のがわには安堵の雰囲気も流れはじめ,こいつに,もうすこし首相をやらせてもいいかという空気も漂っている。

  A  日本首相の靖国参拝に対する中国や韓国の批判や非難は実は,小泉にとって「カエルの面にションベン」である。近隣諸国のそうした批判や非難が自分の地位:首相という立場を揺らがす直接の要因になることはまずない,という一定の考えを小泉は確信しているはずである。

 小泉が日本の首相になってはじめて靖国神社に参拝にいったとき吐いた文句:「熟慮に熟慮を重ねて……」の真意はなにか。

   小泉首相は,2001年の自民党総裁選で「8・15」の靖国参拝を公約して注目されたが,2001年は8月13日,2002年は4月21日,2003年は1月14日,そして2004年は1月1日に参拝した。

 小泉にとっては,自分を自民党総裁にしてくれた支持集団〔軍恩連盟など自民党総裁選用の〕のことが,いちばん大事なのであった。絶えず念頭におかねばならないその〔とこれをささえる組織〕にどう対処していくかを,ずいぶん苦しんで考えぬいたあげくそのように表現を残して,靖国に参拝したのである。

 したがって,小泉純一郎という日本の首相は,東アジア近隣諸国がどう文句をいって批判しようとも,そんなことは気にしていない。もともと,そういう考え:政治思想〔があればの話だが〕や行動信条の持ち主なのである。

 寺島実郎『脅威のアメリカ 希望のアメリカ−この国とどう向きあうか−』(岩波書店,2003年11月)は,こう主張していた。

 「過去の清算」問題については,空虚なことばだけの謝罪外交を脱し,未来への責任として地域社会の脅威とならない決意を鮮明にし,理解をえることである。日本自身が「力の論理」への誘惑を退け,「平和主義」の理念の確認と実践によって「歴史問題の清算」の柱とすべきである。

 ところが,小泉純一郎が毎年靖国に参拝してきた政治家としての行為は,なにを意味するのか。

 日本政府がこれまで,東アジア諸国に対して口先だけではいってきた「謝罪外交」における「過去の清算」「歴史問題の清算」は,弊履のごとくあつかわれたことが証明されたのである。それだけでない。日本政府筋のどこをみても「未来への責任〔の柱〕」など存在しない。

 B   ところが,日本政府の代表者である小泉純一郎首相がアメリカ政府に対して向ける顔のほうは,卑屈もきわまったものである。「アメリカ・ブッシュのポチ」といわれたこともある。

 アメリカにいわれたことに関しては「金にせよ,人にせよ,操にせよ」なんでも,それこそいいなりに出し,協力してきた。いや,いわれた以上にたっぷり,惜しまずサービスする精神もしめしてきた。そのわりに,東アジア諸国に対する態度は,あいかわらず横柄であり傲慢でもある。

 いつまでもそのような外交姿勢では,寺島の言及した前述の「過去の清算」「歴史問題の清算」の実現はとうてい無理である。敗戦後半世紀以上も経過した時点にいるにもかかわらず,日本はまだ,相手国(被侵略国)の古傷を引っかきまわすだけでなく,その傷口に塩を擦りこむがごとき愚かな言動をやっている。

 そんな低次元で愚かな対アジア近隣外交しかできないようでは,アメリカ一国帝国主義に対抗するかたちで,東アジアにおける政治同盟‐経済連携の体制を構築することは不可能である。

 C   再度転じていえば,アジア諸国に対する日本の政治姿勢と好対照なのが,アメリカに対するそれである。日本はアメリカにいいように振りまわされている。そのみっともなさ:主体性のなさは本当にひどく,本当に恥ずかしいかぎりである。

 イラク戦争開始にさいして,カナダ,フランス,ロシアなどがアメリカにしめした対応を,よく観察しておくべきである。その3国はいずれもイラクへの軍隊派兵をせず,アメリカとの関係悪化の覚悟のうえで,一定の距離をとって対応した。とくに,アメリカとは一番長い国境線をもって接し,非常に深い関係をもつ隣国:カナダの態度が参考になる。

 さきの寺島実郎は,こういっている。

 「手を汚さない平和はない。日本は同盟責任をこれまではたしてこなかった」といわれるが,しかし,冷静に考えれば,その指摘はとんでもない自虐趣味ともいえる事実誤認である。

 なぜなら,同盟責任の遂行ということであれば,日本はなにもしないどころか,半世紀以上もアメリカ軍に基地を提供し,冷戦後の10年間だけでも総額6兆円ものアメリカ軍駐留経費を負担している

   また,アメリカに協力することと国際協調とが必らずしも両義語ではないことは明らかである」(寺島実郎『脅威のアメリカ 希望のアメリカ−この国とどう向きあうか−』岩波書店,2003年11月,154頁)

 前駐レバノン特命全権大使天木直人は,2003年8月に外務省を実質的に解任された外交官であるが,その直後に『さらば外務省−私は小泉首相と売国官僚を許さない−(講談社,2003年10月)を上梓し,前段で寺島実郎が指摘した点を同じように主張している。

 1991年の湾岸戦争のさい130億ドルもの戦費を負担しながら,自衛隊の派遣をみおくり,多国籍軍に対する直接的支援をおこなえなかった日本政府は,敗北感に打ちひしがれた。以来,その二の舞だけは避けたいという意識が,トラウマのように外務官僚の頭に巣くっていた。

 だが,その130億ドルの膨大な財政支援は実は,アメリカにとってイラク攻撃を可能にするおおきな貢献であった。このことは,アメリカ自身が議会証言で認めている。

 ところが,日本の外務省は,その事実を国民に紹介しようとせず,「こんどこそ,目にみえる支援を迅速に決定しなければならない」と強調するばかりである。

 一方,防衛庁といえば,出番を広げて将来的には「防衛に格上げされたいとの思いを抱えてはいるが,危険地帯に自衛隊を派遣して死傷者の1人でも出ればたいへんなことになると,逡巡する気持も強かった(天木,前掲書,78頁)

 もうすこし,天木直人『さらば外務省』に聞いておこう。

 沖縄をはじめとした在日米軍基地は,安保条約があるかぎり永久に存続させなければならないのか。思いやり予算というかたちで,日本の国民にさえ与えられていない厚遇を,今後もアメリカ兵士に与えつづけていく必要があるのか。そういった基本的な疑問を,原点にかえって考えてみたいのである(同書,223頁)

 その後の国際情勢の変化とアメリカの世界戦略の変化により,憲法第9条の拡大解釈は歯止めなくすすみ,もはや憲法第9条は完全に形骸化してしまった。このような状態を放置しておくことは,法治国家としての日本をモラルハザードに追いこむばかりか,アメリカの軍事戦略に沿った日米同盟体制のはてしなき傾斜を,黙ってみすごすことになる(同書,227頁)

 D  2004年になりもうすぐ日本はイラクに自衛隊を派兵する。イラクに出兵した自衛隊員から事故死者〔戦死者と表現できない〕が出たら,この人びとを靖国に勝手に合祀するはずである。

 自衛隊員=軍人は,戦地‐紛争の地に派遣されれば,そこで生命を落とす可能性を覚悟しておかねばならない。この事態は,軍人の職務であるから当然起こりうることである。

 ◎ 兵士は消耗品である。

 戦地‐紛争の地に派遣された軍人については通常,一定の確率で死者が出ることは計算済みである。この計算をおこなっているのは,もちろん政府高官や軍部のお偉方である。

 命令だから〔辞職するのでないかぎり〕これに服従するほかないとはいえ,戦地や紛争の地に喜び勇んでいく自衛隊員=兵士は,そんなに多数はいないと思う。できれば,安全な任務だけにしてほしいはずである。しかし,日本の自衛隊はこのたびともかく,死という出来事と無関係でありえない「本格的な海外派兵の任務」に就くことになった。

 E 今回,イラクに派兵される自衛隊員は,不幸にも死んだら総額1億円の弔慰金が支給されると決まっている。

 10名死んだら〔殺されたら〕10億円,100名死んだら〔殺されたら〕100億円がその遺族たちに支払われることになる。もちろん,その原資は税金である。

 はたして,そうなったとき残された家族は,どういう気持でその金をうけとるのか。

 太平洋戦争まで国家に徴兵された日本帝国臣民〔朝鮮人や台湾人もふくむ〕についてだが,当時戦線などで生命を落とした軍人たちは,前段のようなきわめて高額な水準に相当する経済的補償はうけとれなかった。

 かつて,兵隊の生命は「1銭五厘」だった。まったくの死に損だった。庶民のホンネにおいては,戦死を望んだ者などいなかった。タテマエでは「天皇陛下のため死ぬ!」といわねばならなかった。

 旧日本軍では,兵隊1名の生命なんぞ,天皇の軍隊に調達された軍馬1頭はおろか,天皇家の紋章のついた小銃1丁よりもはるかに「軽い:安い」ものだった。

 『軍人勅諭』〔明治15年1月4日に頒布された勅諭〕は,天皇〔太平洋戦争当時はヒロヒト天皇に対する〕「義は山嶽よりも重く,死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」と,日本の兵士に諭していた。

 要するに,国家のためであるなら自分の生命に執着するな,国のためには喜んでおまえの生命を捧げよ,という強制的な諭しなのであった。

   F 太平洋戦争〔大東亜戦争〕関係で日本は,212万1千名もの戦死・戦病死=戦没・死没者を出した。

 今回のイラク派兵で自衛隊員に死亡者が出たら,国家がその死を弔慰するため出費する金額が1億円であった。そこで,時間を太平洋戦争の時代にもどし,現在価値で1億円に相当する当時の金額を算出してみると,だいたい40万くらいになろうか。

 太平洋戦争当時,政府が戦死者〔戦没者:死没者〕に対して,いちいち,そんなにも高額な経済的補償を与えたら,それでなくとも戦争のため国家財政は無理を重ねていた時期ゆえ,とてもじゃないがもたなかっただろう。

 日本は日中戦争開始以後,戦時体制期〔本格的に戦争をする時期〕に入ったが,各年度における日本の国家予算は,こうであった。

年  度

歳  入

歳  出

 昭和12(1937)年

    2,914

    2,709

 昭和13(1938)年

    3,594

    3,288

 昭和14(1939)年

    4,969

    4,493

 昭和15(1940)年

    6,444

    5,860

 昭和16(1941)年

    8,601

    8,133

 昭和17(1942)年

    9,191

    8,276

 昭和18(1943)年

   14,009

   12,551

 昭和19(1944)年

   21,040

   19,871

 昭和20(1945)年

   23,487

   21,496

 
  ※ 単位は百万円(以下は切り捨て)。  

  ※ 楫西光速・ほか共編『日本に於ける資本主義の発達 年表』東京大学出版会,1953年参照。  
 

 
 
太平洋戦争で戦没者212. 1万名全員に対する補償を日本政府がおこなってきたと仮定し,その必要経費を計算してみると,こういう金額になる。なお,ここに算出した金額は,筆者の推測できる範囲内で,当時の価値に換算したつもりのものである。

  40万円 × 212. 1万名 = 8,484億円

 上表のなかで一番多かった政府予算歳入額は,1945〔昭和20〕年の23,487百万円であった。この234億余円の予算に対する8,484億円という金額の桁ちがいのおおきさに注目したい。それほど無茶・無謀な全面戦争(総力戦)だったといえる。

 しかし,「死は鴻毛よりも軽しと」いう天皇陛下の思し召しは,戦後に連合軍の占領支配下を解かれてから「軍人恩給」を支給されるようになるまで,その真義を本当に発揮しつづけてきたのである。

  G  もちろん,日本政府はイラクに派兵した自衛隊員に死者が出ることを望むわけはないだろう。だが,現にすでに,イラクに派兵されている各国兵士たちのみならず,報道関係者・民間事業関係者にも多数の犠牲者:死者が出ている。 

 日本の自衛隊がイラクに派兵しても,死者を絶対に出さないで済むという保証はない。日本政府は恐らく,数名くらいの犠牲者が出ることは覚悟しているかもしれない。そのくらいに「ごく少数の犠牲者」の予想だから,弔慰金1億円という経済的補償が早めに決めることができたとも思われる。ただし,10名単位で死者が出たら,小泉政権は即座に崩壊するかもしれない。

 派兵する自衛隊員の人数が100名単位だからまだしも,話を一気に飛躍させ本格的な戦争事態に対処するための派兵規模になったばあい,太平洋戦争に関する先述の話題〔弔慰金の金額の問題〕ではないけれども,とてもじゃないが弔慰金1億円などという話にはなりえなかったはずである。

 実際の話,もっと安くしておかないと,まずいからである。そうすると現行の千万円か,せいぜい数千万円が妥当な金額か,などと下司の勘繰りみたいな想像もしてみたくなる。

 H 朝日新聞コラムニスト船橋洋一は,こう語っている。 


 イラクに派遣される自衛隊に,もしなにかあったとき,その死――「公務死」であって「戦死」ではない――に私たちはどう臨むか。

 自衛隊幹部の1人はこんな感想を漏らした。

 「名誉の問題より賞恤(しょうじゅつ)の積み増しからさきに話がすすんだ。情けなかった」。

 公務死に対する遺族への弔慰金を最高9千万円(現行千万円)に引き上げる政府方針を指している。

 「隊員になにかあったら,制服は防衛庁葬より部隊葬を望むかもしれませんね」。

 司(つかさ)司を超え,国として粛々と弔って欲しいとの気持がある。かなわないなら,防衛庁内局に仕切られるより部隊葬がいいとの気持もどこかにある。

 「国家のための死をどういうかたちにするのがいいのか。内閣葬にするのがいいのか,国民葬というのがいいのか」。

 あの知恵者の後藤田正晴元副総理にしても,ここは腕を組んでうなったままだ。

 「名誉ある死」にどのようなかたちと中身を与えるか。そうしたことも静かに考えるべきときにきている。

  (2003/12/25)

  http://www.asahi.com/column/funabashi/ja/TKY200312250106.html


 日本政府は,イラクに派兵された自衛隊員がもし不幸にも死亡したばあいに備えて事前に,経済的に総額1億円を弔慰金として支給することを決めた。しかし,それだけではなくさきにも触れたように,靖国神社に合祀することも予定している。この点は,いままで自衛隊の公務活動に関連して死亡した人たちが,どのようにあつかわれわてきたかをしればたやすく推察できる。

 一方においては,名誉の問題はさておき賞恤(しょうじゅつ)の金額をより多めに手当しておき,「自衛隊員=国民」の感情を配慮しようとする国の立場がある。他方においては,もしも生命を落としたさい,賞恤金の金額より名誉の問題を気にする自衛隊員もいる。

 もっとも,賞恤金の金額が従前〔現行〕のように低額(千万円)だとしたら,名誉の問題と比較しつつもそのどちらをさきの問題と考えるべきか,自衛隊員はよけい悩むことになるにちがいない。

 「国家のための死」であるから,それに対する社会‐政治的な意義づけは,経済‐金銭的な補償水準とのかねあいもあって,議論が沸騰する論点である。

 もっとも,既述のように,現行〔正確には従前〕千万円だった「公務死に対する遺族への弔慰金」が最高9千万円に引き上げられ,この金額に内閣総理府から千万円が上乗せされ,合計で1億円になった。関係する議論は,こうした経緯があったから,「死」に対する精神的意義づけのほうに円滑に移動できたともいえる。

 もしも,公務死に対する遺族への弔慰金」が最高千万円〔従前の現状〕のままだったら,それこそ,イラクに派兵された自衛隊員が戦死したりしたら「犬死に」だという文句・不満も出る。

 タレントおすぎが執筆するコラムは,こう批判している。


 もっと腹が立つのは,特別手当日額3万円,賞恤金など1億円

 これまでより5割増しにしなければ現地に赴く人間が納得しないだろうなんて人道的活動がどこにある

 これじゃ,自衛隊員のモチベーションは“ちょっくらイラクへいって1月ガマンすれば100万円貯金できちゃうぜ”って思われてもしかたない!

  『朝日新聞』2004年1月5日夕刊「おすぎのピリ辛!」。


 I 現実的に考えてみればよい。千万円と引き替えに自分の生命を納得して捧げる人間などめったにいない。1億円の単位になれば,すこし感じかたもかわってくる。一般に,生命保険の契約金額を参考にすればわかりやすい。

 しかし,話は生命保険の問題ではない。問題は,ほぼ戦場に似た状況に直面しなければならない兵士たちに関する〈生命の値段〉の話なのである。

 彼らの死に対して1億円が給付されても,国家の使命で派遣された兵士のことであるゆえ,それ以上にくわえてなにか,国家的な視座にもとづく精神的な補償も与えられなければならない。「無駄死に」でも「犬死に」でもないことを,国家が精神的に証明するためにもそうした面での待遇が必要である。

 旧日本軍関係の戦没者に関しては,東アジア諸国から政府閣僚などの靖国神社参拝に対する批判をうけて,かつて帝国主義の兵士になり戦没した人たちをめぐって,それでは「犬死に」あつかいと同じだという反発をみせてきた。

 もっとも,旧日本軍兵士が敵地=侵略の地でなにをやってきたかは棚上げしての,そのような反応である点が問題であった。靖国参拝の問題の焦点もそこにあった。靖国神社の宗教的性格は特別‐特殊である。war  shrine !

 戦後「軍人恩給」が支給されるようになったものの,旧日本軍の兵士たちの生命の値段はまさに「鴻毛の軽さ」だったから,せめてその後においてその経済的な補償だけはしておく,という意味合いがあった。もちろん,自民党など執権党の利害・政略のためにも実施されてきたものであるが……。

 仮りに,イラクに派兵されて死んだ自衛隊員の家族が1億円をもらい,靖国神社に彼の「英霊」が合祀されることに待遇をうければ,その死は納得してもらえるだろうという「計算」なのである。

 なかんずく,靖国に祀られた自衛隊員のは,宗教的な意味で本当に慰霊されたことになるのか? これが重大な論点である。

 J この国:日本は,アメリカの尻尾につかまるほかない政治的な関係におかれてきた。それゆえ,その一国帝国主義路線に振りまわされつつ,かつ盲従させられてもきた。

 日本が今後もアメリカ軍事帝国主義路線のいいなりに動き,両国の軍事同盟関係をいままで以上に深化させることになるのか,それとも,近隣諸国との新しい関係を自主的に切りひらくことができるのか,東アジア地域の各国は注視している


 今後の日本の外交が「対米追随路線」を継承するか,それともアジアに軸足をおいた多極間外交へと転換するのか。

 憲法問題を抜きにしても,すくなくとも「強いアメリカ」との相対関係において,軍事的に「弱い日本」でありつづけることは確実である。

 日本政府がアメリカのネオコンに対してモラル・サポートを与えつづけるのだとすれば,結果的に,必ずやヨーロッパ,アジア諸国との不和をきたし,日本はアメリカの1属国となりはてるだろう。


 佐和隆光『日本の「構造改革」−いま,どう変えるべきか−』岩波書店,2003年,195頁。

 日本はすでに「少子‐高齢化」社会に突入している。

 イラク派兵のつぎに予想しておくべき事態は,与党の自民党〔と公明党〕が民主党との連携で憲法を改正し,徴兵制を導入していくかもしれないことである。それによってこの日本もようやく,いわゆる「ふつうの国」になれるという認識がある。

 2003年秋に自由党を解散させ民主党入りした小沢一郎も,「ふつうの国:日本」を提唱してきた政治家であった。だが,イラク派兵を実行した小泉純一郎の政治感覚とは多少異なり,今回のようなイラクへの派兵のしかたには必ずしも賛成していない。

 それはともかく,戦争‐紛争の地へ派遣された自衛隊員に死者が出ることになったさい,彼らは国家の任務遂行において生命を落としたのだから,『国にとっては「名誉」だとか「栄誉」だとかいって称賛する必要性』が,どうしても生まれてくるのであった。

 その必要性をうけて,具体的に定置させ,意義づける国家宗教的機関の役目をはたすのが靖国神社である。 

 K 戦前‐戦時期に靖国神社がもっていた役割を復活させようとする反動は,いままでなんども出てきた。しかし,現状では靖国神社の役割は,中途半端なかたちでしか発揮させえていない。

 靖国神社はあくまで,1宗教法人にすぎない。前段の反動,すなわち靖国神社国営化法案は,現代社会における民主主義を破壊し,また「政教分離」の原則をなきものにしようとする動向であった。

 そうした反動勢力の1角を形成する有力団体のひとつが,小泉が首相に選ばれるさい強力に支援してくれた「軍恩連盟」であった。

 ここに,この国の首相が靖国を「参拝」するに当たっての根本問題が出てきたのである。小泉には靖国にいかねばならない,やむにやまれぬ事情が控えていたのである。

 つまり,小泉が毎年,日本国首相として靖国神社に参拝することは,東アジア諸国の批判‐非難などとるに足らないことなのである。ただし,近隣外交におよぼすマイナスの影響は甚大である。

 江戸時代は鎖国時代だといわれるが,徳川幕府は実質的に朝鮮とは正式に外交関係があった。

 21世紀の現代にあって,近隣諸国との有効親善に対してあえて,毒をふくむトゲを刺すような行為をやめられない,この日本という国の将来が心配である。

 その意味では,自民党が靖国神社に対して基本的に抱いている宗教的な価値観をしれば,公明党が与党に与している現状は摩訶不思議である。 

 小泉純一郎には,自分個人の首相任期を長持ちさせたいとする深慮遠謀以外に,なにかとくべつに政略的展望があるのか。こんな人間に,日本国内外に山積する諸課題に関する政治指導を任せていてよいのか。

 「結 論」…… 今回,イラク派兵と重なる時期を迎えて,小泉首相は「4回めの靖国神社参拝」を強行した。もはや,日本国憲法第9条は実質的に死んだも同然である。

 現状日本のそうした政治思想的環境のなかで,しかも,いまだ現憲法を改正しないまま「ふつうの国」になりたいとする「日本国の願望」とは,いったいどういうものなのか。執権党の自民党はそれを明らかにしえないでいるし,野党の民主党もなにを考えているのかまだハッキリしていない。

 この国:日本は,東アジア地域経済はもちろん世界経済全体のなかで,まだまだ「経済大国の位置」を維持しつづけるにちがいない。そうならばそうで,その身丈にふさわしい国際政治上の指導力も発揮できるよう努力しなければならない。

 そうであってほしいのだけれども,ここまで2年と8カ月を勤めてきたこの国の首相は,自分の地位保持に汲々としているだけである。とくに,そのために靖国神社に参拝することだけに熱心である。小泉純一郎がそんな演技‐役まわりを毎年つづけているようでは,この国に明るい未来を望むことは無理である。

 


 

 ● 小泉純一郎首相の年頭記者会見での
             
靖国神社参拝に関する発言の要旨

 

 【毎日新聞の報道】 あまり騒ぎ立てるようなことは望まなかった。お正月ということで,参拝するにはいい時期ではないかと思って参拝した。それぞれの国が歴史や伝統,慣習,文化をもっている。戦没者に対する考えかた,神社にお参りする意義など,日本には独自の文化がある,外国にはないかもしれない。これからも率直に理解を求める努力が必要だと思っている。日韓両国の交流はこれまでどおり拡大したい。

[毎日新聞1月5日] ( 2004-01-05-11:56 )

  http://www.mainichi.co.jp/news/flash/seiji/20040105k0000e010032000c.html

 

 【朝日新聞の報道】 元日の靖国神社参拝については「過去の戦没者に感謝を捧げるとともに二度と戦争を起こしてはいけないと参拝した。お正月で参拝にはいい時期と思った」と説明。中国,韓国の反発については「日本は戦没者に対する考えかた,神社にお参りする意義,独自の文化がある。こういうことに率直に理解を求める努力が必要だ。日中,日韓関係は大事なパートナー。今後の交流進展はいろんな分野で拡大を進めたい」と語った。

  http://www.asahi.com/politics/update/0105/002.html

 

 筆者のコメント:4

 すでに十分な批判を与えてきたつもりなので,ここでは若干を論及するだけにとどめておくことにする。

 ▼ 日本には「神社にお参りする意義,独自の文化がある。こういうことに率直に理解を求める努力が必要だ」といういいぶんは,自分の心情〔実は大事な事情を隠したそれなのだが〕を一方的に述べているにすぎない。ともかく「日本の独自の文化を認めろ」とだけ主張する。

 1945年まで日本帝国主義が「神社という日本独自の宗教施設」に象徴される軍国主義体制をもって,つまり,軍事力を背景に東アジア諸国に対しておよぼしてきた「他国文化に対する神社文化的な暴力:侵略行為」は,どこまでも「率直な批判」をうけ,議論されて当たりまえである。

 小泉の態度は,相互の対話を拒否するだけでなく,真正面より問題にとりくまずに逃げまわっている。

 「靖国神社という戦争神社」をまえにして,「過去の戦没者に感謝を捧げるとともに二度と戦争を起こしてはいけないと参拝した」というこの講釈は,滅相もないまやかしを破廉恥に語ったものである。

 靖国神社という戦争神社」は,日本の青年男子に対して戦争にいくことをはげまし,死んだら《英霊》にしてあげるから後顧の憂いなく戦場に出征せよ,と国家宗教的に納得を強制したのである。

 靖国神社を参拝する行為は,1945年以前の日本帝国主義そのものを正当化し合理化する行為である。小泉の狡猾さは,「逃げ口上」でしかない「噴飯ものの主張」をもっともらしく語るところに滲みでている。 

 この男は恐らく,中国や韓国の人びとと靖国問題をめぐり,対等に討論することはできない。ひたすら没論理的に「理解してくれ」というばかりで,それ以上の宗教‐文化哲学を,政治家として語るところがないからである。

 中国‐韓国がわの知識人・研究者はさておき,日本がわにはその領域の専門家がたくさんいるはずなのに,小泉の靖国参拝を根源的に説明し批判する論者がいないのは,まったく情けないことである。

 中国や韓国から政治的な批判が出るまえに,日本のがわからなぜ,きちんとした靖国参拝問題に対する本質を突いた的確な理論分析がおこなわれ,まっとうな批判が出てこないのか。

 天皇‐天皇制と靖国神社にかかわる議論‐批判には,禁忌でもあるのか?

 要は,小泉純一郎にとっては,靖国参拝が「あまり騒ぎ立てるようなこと」になってはまずいのである。ただし,靖国を参拝したことの意味(戦争神社への参拝という点)は,支持者(軍恩連盟や日本遺族会など)のみなさんはわかってくれていますねといいたいのである

 だから,突っこんだ「話」はさせないでくれ,というのが本音なのである。というのも,突っこんだ「話」となったら,自分を総裁‐総理にしてくれた自民党員など支持者の支持をうしないかねない材料が出てくる可能性もあるからである。

 だから,なんども繰りかえして,日本の「神社の意義,独自の文化」を強調すること以上は,なにもいうことができないのである。この神社文化の問題を掘り下げて議論することにこそ,まさしく核心があるのに,である。

 


 

 ● 小泉純一郎首相の年頭記者会見に関する雑考

 

 2004年1月3日の『朝日新聞』朝刊「天声人語」は,日本の伝統だといいながら靖国神社へ「初詣」〔=初参り〕した小泉首相の行動に対して,「一般の人々の初詣といっしょにはできない。イラクへの自衛隊派遣を決断した新年のメッセージだ」という解釈をくわえた。

 かつては,アジア各地など海外に百万人単位もの派兵をおこない,侵略戦争を大々的に推進してきた日本国(当時の大日本帝国)である。もしかすると,靖国参拝にいった小泉首相は,イラクに派遣される自衛隊員(日本軍人)のため〈弾除け:安全祈願〉でもしたのか?

 あの「15年戦争の時代における旧日本帝国軍隊」と,今回における「イラクへ派遣する日本の自衛隊」とでは,だいぶ事情や性質,規模がちがっている。したがって,わざわざ靖国参拝にいき自衛隊員のために安全祈願をする必要はない。

 もっとも,イラクに派遣した自衛隊員に死者が出たりしたら自分の地位が危うくなりかねない,だからそのための〈安全祈願〉をしたというのであれば,小泉首相の意図というか気持もすこしはわからぬわけではない。

 思うに,「公人たる首相」が「私的な資格:紋付袴の日本的な正装」であっても,靖国神社に〈自衛隊の安全祈願〉をしにいったとするならば,「政教不一致」というか「祭政不一致」の原則に抵触することになる。いつから神道が日本の国教になったのか? 戦前体制と基本的になにが異なるのか?

 靖国神社が戦争神社であることは,昔もいまもかわらない。

 その神社の本質は,兵隊〔自衛隊員〕に死者が出ることを〈当然の予定,必然の前提,必須の条件〉に踏まえたところ「異様‐異常な宗教施設」なのである。そんな場所であるにもかかわらず,日本の首相が「初詣:初参りの〈安全祈願〉」にいった。

 日本の首相が靖国神社へいって,イラクへ派兵する自衛隊員たちの〈安全祈願〉をしたぶんには,1945年8月まで,旧大日本帝国によって戦場に送りこまれ,死にたくもないのに殺されてきた246万6千余名もの〈英霊〉たちが怒り‐嘆くだけでなく,この時期「靖国」に参拝しにきた日本国の首相を,恨み‐呪うのがオチではないのか。

 もちろん,そこに本当に〈英霊〉がいるとしたならばの話だが,「もうこれ以上,死者を出すな!」と叫んでいるにちがいない。

 イラクに派兵された自衛隊員が死んだばあい〈英霊〉あつかいされ,靖国神社〔あるいは地元の護国神社〕に納められることになるのか。現在のところまでそういう待遇があった事実は,日本社会の表に出すかたちで広報されていないようである。だが,自衛隊の業務で死亡した隊員たちはいままで,実際においてそういうあつかいをうけてきている。

 2004年1月5日に出た新聞に書かれたつぎの記事が,筆者の目を惹いた。


 2003年9月,東京都市ケ谷にある陸上自衛隊駐屯地内に「メモリアルゾーン」(慰霊碑地区)が完成している。

 それは,防衛庁が金銭以外の面でも「死」と向きあう姿勢をみせたものである。

 殉職隊員名簿を納めた慰霊碑の周囲に,全長100メートルの参道を設け,追悼式典がおこなえるよう整備した。6億円を投じた。

 年配の隊員やOBのなかには「靖国神社への合祀を求める声もあった。が,「そんな時代じゃない」と反論する者もすくなくない。

 キリスト教などさまざまな宗教の信者への配慮も必要である。苦心の作だった。


  『朝日新聞』2004年1月7日夕刊「知られざる変容−自衛隊50年,死への備え−『敬意と名誉』望む隊員」。

 今回イラクに派遣された自衛隊員は,棺桶に入れられて1億円もらい日本に帰国するよりも,6か月間現地での任務を無事にこなし日本に帰れる,つまり,通常の給料にくわえるに「特別手当を〔日額3万円×日数だから〕540万円もらえた」ほうが,どのくらいいいか……。

 国家財政は「火の車」だというのに,国の名誉‐尊厳だとか軍人への敬意‐栄誉だとかよくいうよ! 「死」とは関係のないエライさんたちが……。イラク派兵のまえにやるべき内政問題が山積状態だというのに……。

 ●「生命あっての物種」だよね。

 ●「死んで花実は咲かぬ」というじゃないの。

 安全地帯にいる政府高官たちにはわからぬ気持である。

 防衛庁長官石破 茂は「自衛隊のイラク派遣によってイラクの人びとを幸せにする」といっている。これがイラクを人道的に援助する仕事なのだ,ともいっている。

 石破による以下の訓示を聞いて,その意味がすこしでも理解できる人がいたら,ぜひ教えてほしいものである。


 「けっして戦争にいくわけではない」。

 「高い潜在力をもったイラクの人々にわれわれの体験をつうじてえたことをともにわかちあい,1人でも多くの人々に幸せを与えることだ」。


  『朝日新聞』2004年1月5日朝刊。

 たわけたことをいうでない。イラクの人びとの多数は〔とくに比較的治安のよい地域ではなおさら〕,銃をかついだ兵隊歓迎しないといっている。人の道もわからぬ人間に「軍隊を派遣して人を幸せにする」などというべき資格はない。語るに落ちた話。

 −−自衛隊は軍隊である。本務は戦争にある。そこをなんと,「戦争にいくわけではない」とのたまうのだから,どうしても上述のように,禅問答にもならない摩訶不思議なご託宣が披露される。

 −−「高い能力(軍事力:戦闘力)をもつのは自衛隊であり」,アメリカの侵略・攻撃によって現在「ひどく低い生活環境を強いられているイラクの人々」をそのによって助けるのだ,というのなら話はわかりやすい。

 だが,「われわれ=自衛隊の体験をつうじてえたことをともにわかちあい」「1人でも多くの人々に幸せを与える」などといわれても,いったいなにをいいたいのか皆目理解できない。

 自衛隊が派遣されるイラクのサマワにはすでにオランダ軍が進駐している。進駐して以後このオランダ軍は「体験をつうじてともに」「1人でも多くの人々に幸せを与える」ことを成就できているのか? 否である。

 これまでの新聞報道で理解できるのは,イラクのサマワの住民たちは,「経済大国」日本の自衛隊がくることによって,失業率7割の現地に新しい「雇用の機会」が生まれるのではないか,などと勝手に期待している節もある。


 石破長官は,派遣先のサマワで失業問題が深刻化して住民の不満が募っていることについて,

 「自衛隊は自己完結の組織であり,浄水・給水,医療・教育施設の復旧でどれだけ(地元住民を)雇用できるかはいまの時点ではいえない」と,大規模な雇用創出は困難との認識を示唆した。

   そのうえで「(第1段階として)自衛隊がいき,のちに『草の根無償資金援助』や国際機関をつうじた援助をつかって雇用を創出させるのが大事だ」と語った。

[毎日新聞1月15日] ( 2004-01-15-10:18 ) 


  http://www.mainichi.co.jp/news/selection/20040115k0000e010018000c.html

 このまま事態が推移していくとすれば,自衛隊が現地にいっても,すでにいるオランダ軍とたいしてかわらない軍隊になるかもしれない。自衛隊も軍隊であるかぎり,民生に直接奉仕する役目をはたすことはできない。それは「軍本来の目的」からおおきくへだたる役目だからである。

 たとえば,イラク現地の住民が水の入手に苦労している。だから,浄水‐給水施設をもちこみ助けるのだと,日本の防衛庁は派遣する自衛隊の任務を説明している。

 だが,いままでの新聞報道をみるかぎり,軍事用であるその浄水‐給水用の設備がどの程度の性能をもち,具体的にどのくらいの給水能力があるのかまったくわかっていない。そもそも,その設備は,何台(何機)がもちこまれるのか。

 われわれ日本国の構成員:納税者には,そんな初歩的なことさえまだしらされていない。われわれが最近まで,テレビ報道をとおして頻繁にみさせられてきた「その設備の給水実演のもよう」は,報道関係に公開された〈1台〉の給水装置による「稼働状況シーン」の映像である。

 だいたい,イラクにもちこむ予定のその浄水‐給水用の設備は,軍事用につくられたものである。常識的に考えると,それはまず派遣される自衛隊用に給水し,余力があればイラク現地の人々に提供する関係になる。

 自衛隊員より現地の人々に対して,優先的に給水するつもりがまちがいなくあるのか? そういうふうにすることが可能か?

 また,浄水し給水するというが,いったいどこからどのようにその源水を確保するのか。このことに誰も言及しないし,報道にも出てこない事情である。


 小池政行「『復興人道支援』ができる状況ではない−赤十字国際委員会が撤退したとはどういうことか−」は,自衛隊のイラク派遣を,こう批判する(『世界』2004年1月号)

 ・アメリカ軍のイラク攻撃によって,イラクにおいて赤十字国際委員会が20年にわたり築きあげてきた信頼と感謝が打ち砕かれた。

 ・アメリカ軍が侵出してきてから,赤十字国際委員会の人道援助組織さえ自爆攻撃の対象になってしまった。赤十字の職員が殺害されるという事件が起きたことはある。しかし,組織として狙われた例はほとんどない。

 ・「日本の国益」「人道援助」「国際社会への貢献」そして「彼ら(殺害された日本人外交官のこと)の遺志を継いで」といった,誰にでもうけ入れられるが,議論を封じるようなことばを強調し,冷静な現状認識と議論を閉ざすべきではない。

 ・アメリカを中心とする占領統治の基礎は,現在の駐留米軍の軍事力である。

 ・だが,結果として,この「軍事力による統治」がイラクの治安維持に失敗し,むしろ治安を悪化させている。このことは,2003年12月13日のフセイン大統領の拘束後も基本的にかわってはいない。

 ・赤十字国際委員会国連の,イラクの治安に対する見解や,イラクの占領統治に対する評価を考慮することなく,自衛隊のイラク派遣を判断することは危険である。

 ・治安確保に有効でない米英軍による占領統治に,日本の自衛隊が軍隊としてくわわることになる。結果的に自衛隊は海外において,自衛および防衛のため武力行使をすることになる

 ・そしてそのことは,日本国憲法が明確に禁ずる「国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する」,に違反する行為である

 ・国際的な人道団体である赤十字国際委員会と,現在の国際社会において唯一最善の国際協力の枠組である国連が,明確にその治安と暫定占領当局のイラク統治のありかたを否定するなかで,2人の日本人外交官の犠牲を踏み台にして軍隊である自衛隊をイラクに送ることは,日本国憲法を踏みにじる犯罪にひとしい。

 −−1945年8月までの日本は,ここで戦争をやめたら「英霊」たちに申しわけが立たないといって,侵略戦争をやめなかった。

 今回,日本が自衛隊をイラクへ派遣するに当たり,その「英霊」に相当する理由づけに利用されたのが,イラクで殺害された2人の日本人外交官の生命である。


 

 以上のような問題点を,日本政府がしらないわけではない。2004年1月14日以降の新聞報道は,自衛隊のイラク派遣に関連する記事を載せていた。

■ イラク支援第1弾,治安に重点40億円,日本政府方針 ■

  日本政府は陸上自衛隊派遣にともない,イラク南東部を中心に実施する途上国援助(ODA)を活用した支援策の全容を固めた。

 2004年1月16日の閣議で正式決定する。

 イラク復興支援のために,日本政府が主に2004年分として拠出を決めた15億ドル(約1575億円)から支出する。

 第1弾として,国連人間居住計画(ハビタット)をつうじて,南部4都市の小・中学校,イラク全土の住宅の復旧・再建のために10億円程度を拠出する。

 また,治安対策として,約30億円でパトカー600台以上をイラク警察に供与し,うち20台は陸自が拠点とするサマワのあるムサンナ州に配備する――という計40億円規模である。

 −−日本政府はまず,現地の要望が強い小・中学校や住宅,コミュニティー施設など数千軒の再建をハビタットをつうじておこなう。日本政府はこの再建プロジェクトで,延べ数万人の雇用創出効果をみこんでおり,失業率70%とされる深刻な雇用状況の改善もねらう。早ければ2月半ばにも実施する。

 パトカーの提供は,イラク全土の治安改善を後押しするためで,2004年5月ごろの納入をめざす。

 引きつづき,日本政府の支援で1980年代に建設されたサマワの総合病院が老朽化し,医薬品も不足していることから,自衛隊による医療支援と並行して医療器材を交換する。そのための現地の委託調査に今月から着手する。

 また,救急車や給水車の提供もおこなう

 地元有力者や教育・医療の専門家らを日本に招待し,研修することも検討する。

 このほか,国連開発計画(UNDP)を通じた雇用促進も早期実施をめざしているが,具体的な実施方法や時期などについては現在,UNDPが検討中である。

 また,陸自が実際に活動をおこなうさいには,現地で寄せられたきめ細かい要望に応え,比較的少額の「草の根無償資金」を活用して病院や公共施設の修復などもおこなう方針である。

 イラクに派遣される陸自は給水・医療など人道復興支援をおこなうが,日本政府内には「軍隊とみなされる自衛隊の派遣だけではかえって,現地の反日感情をあおりかねない」(関係者)といった指摘もある。

 そこで日本政府は,15億ドルを活用した支援策を自衛隊派遣と併せイラク復興のための「車の両輪」として,雇用促進策や物的支援の検討を急いでいた。

  『朝日新聞』2004年1月14日朝刊。



イラク復興:日本政府,自衛隊派遣手当など予備費から充当 ■

 日本政府は2004年1月13日の閣議で,イラク復興特別措置法にもとづき,イラク南部などへ派遣される陸上自衛隊先遣隊と航空自衛隊本隊の隊員手当など8億9千万円を,2003年度予算の予備費から充てることを決めた。

 その内訳は通信費,糧食費,航空機整備費などで,陸自分が1億5千万円,空自分が7億4千万円。同法による派遣費用の予備費計上は2003年12月19日以来2度めで,総額は約251億円になる

  [毎日新聞1月13日] ( 2004-01-13-14:22 )

  http://www.mainichi.co.jp/news/flash/seiji/20040113k0000e010076000c.html



 以上2つの記事を関連させ,若干論じる。

 −−イラクへ派遣する自衛隊(員:軍人・兵士)のための派遣手当など,通信費,糧食費,航空機整備費をふくめた派遣費用の予備費計上は,総額約251億円である。

 それに対し,イラクのサマワの人たち向けの援助は,2004年分の政府開発援助予算枠である15億ドル(約1575億円)のなかから40億円を,住宅の復旧・再建およびパトカー提供のために支出するという。こうして,治安維持・医療援助・住宅‐公共施設向けなどの物的・人的な援助をおこない,イラクに対する人道的支援を展開するものと決まった。

 しかし,イラク各地に展開する米英軍をはじめ,各国の派遣軍に対するイラク人などの攻撃は,2004年に入っても依然つづいている。そうした攻撃がいつになったらが止むのか,まったくみとおしもつかない混乱した状況である。

 しかも,イラク各地で毎日のように頻発しているその攻撃は,国連(UN)赤十字NGO民間人(企業関係者)に対しても無差別になされており,その組織の大部分がイラクから引き揚げざるをえなくなった。

 イラクに侵攻したアメリカ軍とイギリス軍以外の各国軍隊・警察特殊部隊などは,2003年5月以後,治安維持・インフラ復旧・人道支援という目的でイラクに各部隊を駐留させ,現地の治安維持やインフラ再建,医療援助に手を貸している。にもかかわらず,各国の軍隊などに対して執拗に攻撃(テロ?  レジスタンス?)がくわえられており,その犠牲者の発生も止まないでいる。

 日本政府関係者たちはそれでも,自衛隊をイラクに本格的=軍事的に派遣することに執着している。なにが,彼らをそうさせるのか?



 2004年1月15日の『朝日新聞』朝刊に,1面全部をつかった,こういう「意見広告」が出た。

  私たちは戦争に協力しません

 −−その「意見広告」の紙面の大部分は,賛同者たち,つまりこの広告料金を負担した人びとの《氏名の,ちいさな活字》をもって埋められていた。

 そして,その真中には,岡本太郎のデザインになるという漢字が配置されている。

 そのさい,そのの字画の部分に重なって位置する賛同者たちの「そのちいさな氏名部分」だけは,ゴチック(太字の)字体にかえて印刷され,その字=浮き立たせて読みとらせる形式:工夫がなされている。

 この意見広告の見出し部分から引用する。

 戦争を知らぬ世代の政治家が派兵を語るウォー・ゲーム」。

 「派遣とは派兵ならずや敗退を転進と言ひしこの国の過去」。

 いずれも,現防衛庁長官である人物石破 茂〕の言説・思想や指揮ぶりに当てつけた文章である。

 −−なお,今回の意見広告が主張するのは,つぎの3点である(http://www.ikenkoukoku.jp)

 @ 私たちは,どのようなかたちであれ,日本政府が自衛隊をイラクとその周辺の中東諸国に派遣することに反対し,米英両国政府に対し両国軍がイラクからただちに全面撤退することを要求します。

 イラクはイラクの人びとの手に委ねるべきです。そしてイラクの復興は,イラクの人びとの主導のもとで,石油利権と無関係の国際的な支援をえてなされるべきです。

 A 私たちは,日本国憲法第9条を改悪することに反対し,日本政府が憲法の前文と9 条を実現するため,これまでの安全保障政策を全面的・根本的に修正することを要求します。

 日本は《良心的兵役拒否国家》,恒久的な非戦国家に生まれかわるべきです。そうすることが,朝鮮半島を含む東アジア全域に揺るがぬ平和を創造する基礎になり,全世界から戦火を除去することに貢献すると,私たちは確信します。

 B 私たちは,日本政府のいかなる戦争政策にも《協力しないこと》を内外に宣言し,全世界に永続する平和を確立するため,日々努力することを誓います。



 同じ2004年1月15日『朝日新聞』朝刊「社説」は,「2004年1月14日石破茂防衛庁長官が,世論喚起を図る狙いがあってのことか,武器輸出3原則の抜本的なみなおしに言及したことに対し」て,こう批判した。


 ■ 武器輸出―困った防衛庁長官だ ■

 石破防衛庁長官からなんとも物騒な見解が飛びだした。

 ミサイル防衛の共同研究をすすめている米国とだけではなく,欧州やロシアとも兵器の開発や生産をしたい。古い自衛艦を東南アジアに輸出したい。そのために武器輸出3原則をみなおすという。

 日本は世界に冠たる先端技術大国である。

 ミサイルから小銃まで,つくって売る気になれば武器輸出大国にだってなれる。そうしないのはなぜか。

 輸出が戦争や紛争を助長することをしっているからである。

 軍事力ではなく,可能なかぎり平和的な手段によって世界を安定させたいという国民的な合意の反映でもあるからである。

 武器輸出はなにをもたらすか。

 イラクのフセイン元大統領が「中東の怪物」になったのは,米欧諸国が競って兵器を売りこんだ結果でもある。小型武器のはんらんがテロを助け,またアフリカやアジアで無数の悲惨な事態を生んでいることも考えたい。

 こうしたことはしらんぷりで,3原則を守っていたのでは世界の武器技術からとりのこされると危機感ばかりをあおってみせる石破氏の見識を疑う。

 武器の輸出をみずから禁じた3原則ができてから37年になる。当初は共産圏や紛争国向けにかぎっていたが,その後世界全体に対象を広げた。いまは米国への武器技術供与を例外として認めているが,武器そのものの禁輸は揺らいではいない。

 ともするとみすごされがちなのは,日本にとってこの政策が外交上の大きな「武器」になっていることである。

 兵器を売って紛争に介入することはないし,米国のように国内の軍需産業に配慮をする必要もない。武器を売りながら,一方で軍備管理をとなえる矛盾も抱えないで済む。小型武器やミサイル技術移転の規制をはじめとする国際交渉で日本が強い影響力をもてているのはそのためである。

 いや,なにより,アジアの国々に無用の警戒心を与えず,信頼をえるための大きな財産となっている。武器を量産しないから,自衛隊の兵器は高い。だが,そんなコストを払ってでも守るべきものなのである。

 石破氏は3原則を「冷戦期の発想だ」と批判した。これも考えちがいである。地域紛争が地球を揺るがすいま,武器の輸出や流通の規制に世界の国々がますます悩んでいる現実をご存じないのだろうか。

 今回の発言の背後には,日本の技術をとりこんだミサイル防衛システムを第3国に輸出したいという米国がわの意図もあるのかもしれない。そうであっても,3原則全体を見なおそうというのは,木を見て森をみることをしない発想である。

 石破氏の表明に,福田官房長官は「武器輸出を野放図にするわけにはいかない」と批判的な反応をしめした。

 石破氏は軍事知識が豊かなことでしられる。しかし,だからといって,優れた防衛庁長官になれるわけではない。

 『朝日新聞』2004年1月15日朝刊「社説」。



 本当は世界で最大‐最悪のテロ国家であるアメリカなんぞの馬に乗っかり,イラクに派兵することがそんなに国際協調の発揮・同盟関係〔にあるアメリカ国〕の尊重,自国〔である日本〕の名誉になるというのか。

 全国中にこんなにも米軍基地だらけの国が,よそのどの国にあるというのか。これでもう,十分すぎるくらい十分にアメリカの軍事的な手助けをしてきているのが,日本という国ではないのか。

 ASEAN諸国の一員,インドネシアのあるジャーナリストは,「日本は,ささいなことで傷つかないともかぎらない。そんな危惧を抱いた」と批判している(『朝日新聞』2003年12月29日「朝日新聞アジアネットワーク」参照)

 この批判は,軍事面においてアメリカ一辺倒の協力をする日本に関したものではなく,経済面においてアジア全域に対して日本がはたせる貢献に関したものである。

 「脱亜(アメリカ:亜米利加の亜か?)入欧」の国:日本の本性は,いまだに変化をみせえないでいる。


 ■ 2004年4月8日イラクで日本人誘拐事件発生 ■

  ● イラクの日本人人質3名:救出へ懸命の訴え。家族にいらだち。

 2004年4月8日に発生したこの事件では,家族たちが「子供や兄弟を一刻も早く救い出してほしい」と,日本政府に要請している。

   イラクにおける日本人人質事件で,犯行グループが宣告した期限まで(3日経過したら殺すと脅している)1日となり,3名の家族らは4月10日も救出を懸命に訴えた。

 犯人がわの自衛隊の撤退要求を拒否する小泉純一郎首相との面会は実現せず,10日午後にカタールの衛星テレビ「アルジャジーラ」で解放をよびかける。無事を祈る動きが,日本国内だけでなく,支援をうけた現地でも広がっている。

 3名の家族は,10日午前11時40分から東京・永田町の北海道東京事務所で記者会見した。それぞれが,小泉首相への不満をあらわにし,救出が実現しないことへのいらだちを募らせた。

 ボランティア活動家,高遠菜穂子さん(34歳)の弟修一(33歳)さんは,「首相が会わない,今後もこの方針はかわらないということだった。イラクをここまで追いこんだ責任を1ミリでも政府にあるのかと問いかけたが,返事もない」と政府の対応に不満を表した。さらに「米国の特殊部隊が救助に入るとの話を聞いているが,火に油を注ぐだけだ」と訴えた。

 NGO代表の今井紀明さん(18歳)の父隆志さん(54歳)は,「首相発言は人の命より国を重視した信じられないもの。その一方で,国会がない土日にも家族に会えないなど,許せない」と話した。

  http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20040410k0000e040060000c.html

 

 ● アメリカ大統領のいいなり:いい子である小泉純一郎首相にとって,イラクで活躍している日本人ボランティアたちの生命の「2つや3つ」は,ブッシュ君隷下の軍隊で戦死者が650名を越えているのにくらべれば,なんということはないわけである。

   2004年4月8日,アメリカ政府のパウエル国務長官は,日本政府の川口順子外相との電話会談で,アメリカ政府の支援方針を伝えたことを確認するとともに,「日本は自衛隊のイラク駐留継続を公に明言した」と,テロの脅迫に屈しないとする小泉純一郎政権の姿勢を評価した。

 ● だが,国会委員会の席上で政治的なある論点に関して約束違反を詰問されたとき小泉は,「たいした問題じゃない……」といってのけたこともある。

 小泉は,イラクに自衛隊を出兵させた法律に関する国会審議においてはデタラメ発言に終始した。

 そのくせ,ブッシュのアメリカに対する忠義立てだけは,一貫させてきている。純一郎というこの男,いったいどこの国の首相なのか? 今後はジョン一郎と改名したらよろしい!

 ● アメリカ軍などに対するイラク人たち〔など〕の反占領闘争がイラク全土に拡大するきざしは,当初からあった。この危惧は,中東‐イラク問題の専門家たちが事前に警告してきたものであった。

 戦場に軍隊を送ればどうなるのか。武力行使という事態を引きよせることは明らかである。

 小泉はそのことをはぐらかしつづけ,ついには「どこが非戦闘地域で,どこが戦闘地域か,私に聞かれたってわかるわけがない」(2003年7月23日)と開きなおった。

 ● ある自衛隊員の話によると,この無責任答弁に対し隊員の間では怒りの声が渦巻いたという(『週刊文春』2003年12月11日号)

 小泉は「(自衛隊員も)殺される可能性がないとはいえない。相手を殺すばあいもないとはいえない」ともいっていた(2003年7月9日)。

 小泉にとって,ただの駒でしかない自衛隊員の命は軽いイラク民衆の命はもっと軽い日本人ボランティアの命は,さらにもっと軽いのか?

 ● 為政者と軍隊との関係,いいかえれば,「国家元首と将兵らとの上下‐従属関係」はいつも,そのようなものでありつづけてきたのである。

 軍人たちは命令された任務を遂行するに当たり,自己の命が消耗品あつかいされることを熟知‐覚悟しておかねばならない。

 ● なお,今回の事件で誘拐された被害者たちは,4月11日午前中には解放されることになりそうだと報道されている。


 −−前駐レバノン特命全権大使天木直人『さらば外務省−私は小泉首相と売国官僚を許さない−(講談社,2003年10月)から,再度引照しよう。

 日本では「改憲の動き=軍国主義の復活」という構図ができあがり,それがアジア諸国の反撥を招くということが繰りかえされてきた。この不毛な状況に終止符を打って,世界に向けて堂々とみずからの安全保障政策を語れる日がくるのだろうか。

 そのカギは,天皇陛下およびその名のもとに無謀な戦争をつづけた軍国主義の戦争責任の明確化と,日本国民に向かっての謝罪にある(同書,229頁)

 昭和天皇と平成天皇は,A級戦犯が合祀されてからの靖国神社にいけなくなった。それでも小泉純一郎は,自分の「地位大事」ばかり考え,毎年靖国参拝にいっている。これは,アジア諸国とのあいだにいらぬ政治外交上の摩擦をつくりだす行為にしかならない。

 天木直人は,ヒロヒト天皇の名によった「無謀な戦争」と「軍国主義の戦争責任を明確」にし,かつ「日本国民に向かっての謝罪」が,いまなお必要だといっていた。ただし天木は,そうした関連性のなかに厳在してきた「靖国神社=戦争神社」の意味に触れるところがない。

 この日本という国は,1945年8月時点までさかのぼってやりなおすくらいの気持をもたねばならない。そうだとすれば,平成天皇はともかくとして,日本の首相が靖国に参拝にいくなどという「憲法違反である一致の宗教的行為」は,即刻やめなければならない

 要は,日本の首相が参拝にいく「靖国神社=戦争神社」の存在じたいに不可避の重大問題があることに気づかねばならない。

 −−『朝日新聞』2004年1月8日朝刊「社説」は,「昭和天皇もいまの天皇陛下も,A級戦犯が合祀されて以来,靖国神社を訪れたことはない」と説明し,戦後史における天皇のその対応を,なにか評価でもするかのような言及をしている。

 だが,それは,過大な評価,買いかぶりである。

 敗戦後,一度中断が入ったものの,昭和天皇は日本全国各地を「巡幸」し,大東亜戦争で310万人もの犠牲者を出した日本民族=「臣民」たちが,おメデタイことに,自分をそれほど恨んでいない状況を察知し,A級戦犯に自身の大罪を転嫁させてくれたマッカーサー元帥の英断に深く感謝したのであった。

 昭和天皇が戦後も,靖国神社に参拝にいっていたことの意味は,つぎの2点にある。

 1) 国民〔かつての臣民〕たちに対する〔「現人神」から「象徴天皇」にかわってしまったものの〕「自分の権威的な地位」を,あらためて認めさせ,より堅固なものにしておくこと。

 2) 同時に,過去の戦争で犠牲になった人びとに対する弔意〔遺憾の意〕を表わしておいたほうが,その「自分の権威的な地位」を確固たらしめるうえで,より得策と考えていたこと。

 ところが,GHQの占領支配を解かれ日本が独立したのち,昭和天皇にとって「目の上のタンコブとして遺ったものがあった。そのひとつが「マッカーサー元帥への借り」であり,もうひとつがA級戦犯として絞首刑にされたかつての「忠臣たちが靖国神社に合祀された」ことであった。

 ヒロヒト天皇は,1975年秋にアメリカを訪問したが,すでに故人となっていたマッカーサーの墓地は訪れず,外務省の係官に花輪を送らせただけである。そして,1978年以降は,A級戦犯が合祀された靖国神社には参拝にいけなくなった。

 −−つまり,昭和天皇にとって非常に目障りだった《戦後的風景》,つぎのふたつのものであった。

 ★1 戦争犯罪人として裁判にかけられたかつて自分の忠臣だった『A級戦犯』7名は,絞首刑をもって処断されていたのだが,その後,靖国神社などの意向によって彼らそこへ合祀されたこと。

 ★2   自分の臣下だった者たちをA級戦犯に決め,裁判し,処刑した,逆にみれば,自分を助命してくれ,天皇の地位が継続されるようにとりはからってくれた『マッカーサー元帥』の記憶が強く残されたこと。

 昭和天皇は生きているあいだ,後者★2の記憶を抹消できるわけもなかったから,前者★1とのあいだにおいて「自意識に葛藤」が生じてしまい,事後,靖国に参拝にいけなくなった。

 こういうことである。

 前者★1:「A級戦犯が合祀された」靖国に参拝にいくことは,後者★2の事実:「マッカーサーにより助命され延命することができた自分とその地位」を如実に思いおこさせるだけでなく,なによりも,本来「自分が背負うべきだった戦争責任の根源に「頭を垂れる」という,ヒロヒトにはとうてい耐えがたい関係性も意味する。

 明治以降の諸天皇が靖国に参拝にいって拝礼する行為は,実は「臣民たちも皇祖皇宗に対してこのようにせよ! 皇国のために生命を捧げることを惜しむな!」という模範を勅令したものであり,けっして「臣民出身の英霊」を天皇自身が本気で崇敬するものではない。

 「天皇陛下のために死ね!」といわれてきたけれども,「天皇陛下が臣民のために生命を投げだす」なんぞということは,絶対にありえなかった話である。このことを考えれば,前段の説明は十分納得のいくものである。

 いずれにせよ,靖国神社への「A級戦犯合祀」を契機に生じたのは,そうした形式関係〔当代天皇が臣下=靖国の英霊を崇敬する形式〕のなかに,まちがいなく,しこまれていたはずの実質関係英霊といえどもやはり天皇の臣下でしかない実質〕が否定されるような事態である。

 1978年以降,天皇が靖国にいけなくなったゆえんである。

 


 
 ◎ 2004年1月3・5・6・10・11・15日,11月28日 記述

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