● 冒頭での 断 わ り の文章 ●
 


 本稿官僚と政治と宗教-「満州国」官僚武藤富男の事例(1) (2) (3)-は,
 

   筆者〔裴 富吉〕が,2004年秋より約5年前,

  大阪産業大学論集(社会科学編)』第111・112・113号,1999年3月・6月・6月

に掲載した論稿を,このホーム・ページ用に加工し,公開することにしたものである。

 本稿の学術的な引照に関しては,通常のルールを順守され,できれば面倒でも,上記「出典」からとすることを要請しておきたい。



● 裴 富吉 学術論文 公表ページ ●

 

 ◎   なお,本稿〔など〕の活字化・公開によって,武藤富男が戦後において,学校法人明治学院学院長を勤めた経歴があったことから,明治学院の関係者のなかには,そうとう困惑を感じた人たちもいたものと推察する。

 明治学院はミッション系の学校法人として,戦争の時代における自学のかかわり:天皇制国家体制への屈伏を深く反省しただけでなく,昭和天皇の「死亡=代替わりの時期」には,「天皇絶対化反対学長声明」を公表したことで,反動勢力から脅迫をうけてもいた。

 ◎ だが,本稿がとりあげ批判的に考察したその武藤富男自身は,満洲国「高官」時代おいて記録したかつての言説を回顧してみると,日本国内だけの「過去‐現在」的な問題に収まりきらない,つまり,場所と時代とを超えた重大な論点が残ることが示唆されている。

 その意味では,明治学院関係者とくにキリスト教的な立場で,自学の歴史に真摯な気持で反省をおこなってきた関係者にとって,筆者が本稿で指摘した武藤富男の存在,いいかえれば「新なる戦責問題の厳存」は,予想だにしていなかった〈不意打ちの問題提起〉に感じたことと思う。

 ◎ 筆者が本稿よりさきに,このホームページで公開している,武藤富男に関する論稿

満州国」とキリスト者の信仰〔原題:高官論メモランダム〕-武藤富男『再軍備を憤る-追放者の告白-』昭和26年10月-」

は,戦時体制期に満洲国で武藤富男が活躍したその姿を,敗戦後に武藤自身が狡猾にもすり替え,もみ消そうとした言論〔書物〕を探しだし,これを徹底的に批評した。

 戦後は,学校法人として明治学院を急成長させるのに多大な貢献をなし,そのみごとな経営手腕も発揮した,同学院長の武藤富男だった。

 だが,戦争の時代,満洲国政府の高官の地位に就き,植民地的カイライ国家「満洲国」のお先棒担ぎをしてきた人物でもあったという事実に,いままで明治学院の関係者は気づいていなかった

 ◎ 前述のように,昭和天皇が死去した出来事を契機に明治学院の最高責任者たちは,国粋右翼:保守反動勢力から陰湿的で圧迫的な攻撃をうけた。

 しかしながら,そうした現代的な迫害行為をうけた明治学院は,過去〔戦後〕に理事長職をはたしてきた人物,しかも,同学院の発展のために顕著な寄与をなした武藤富男が,実は,このたび明治学院に迫害をくわえた勢力・組織・集団・人物たちと,

 時空を超えてはいるものの,

 そして

 攻守ところを替えてはいるものの,

 「同じ地平に立っていた」という歴史的な事実に接し,恐らく「いうべきことばもなかったもの」と思われる。

 ◎ その意味で筆者は,明治学院の関係者に対しては,ずいぶん罪なことをしたかもしれない。しかし,それもあくまで〈歴史的事実〉に関する究明であった。このことをあらためて断わっておき,以下の本論を読んでもらいたい。

  

    ### 2004年11月7日 公表開始 ###

 

 




官僚と政治と宗教-「満州国」官僚

   
武藤富男の事例(1) (2) (3)-




-も く じ-

   【本稿(1)】

      1.国家と倫理

      2.国家と宗教

       2-1 信仰と告白

       2-2 前提的議論

       2-3 民族と宗教

       2-4 満州高官としての発言

      3.国家と信仰

       3-1 宗教弾圧への加担

       3-2 国家権力に対する個人の信仰

       3-3 明治学院と武藤富男

       3-4 仏教者の国家神道批判

   【本稿(2)】

       3-5 キリスト者の戦時と戦後

       3-6 日本基督教団「戦責告白」

       3-7 キリスト教徒としての日本人

       3-8 満州国と日本カトリック教

              4.誠意と錯覚

       4-1 国家目的と個人の誠実

       4-2 独 善 観

      5.虚偽と傲慢

       5-1 妄言の系譜

       5-2 自覚と反省

   【本稿(3・完)】

      6.土着と挫折

       6-1 賀川豊彦論

       6-2 天皇制とキリスト教

       6-3 国家神道とクリスチャン武藤富男

       6-4 教会と国家

       6-5 にせものの信仰告白

       6-6 本物キリスト教徒であったのか                      


 


 

官僚と政治と宗教

-「満州国」官僚武藤富男の事例(1)-

 

裴  富 吉

  


 


 

1. 国家と倫理

 

 本稿は,旧「満州国」で国務院総務庁弘報処長などを勤めた,武藤富男のキリスト教精神問題を批判的に究明する。関連する問題の所在および構成は,こうである。

 日本帝国から満州国に派遣された高級官僚武藤富男は,クリスチャンであった。植民地満州国経営の最高責任者の1人となったこの武藤が残してきた行跡は,はたして,キリスト教を信仰する人間にふさわしいものであったか。国家の政治と宗教の精神とのはざまに生じたせめぎ合いのなかで,武藤富男という日本人キリスト者は,いかに存在してきたか。

   武藤富男は日本政府の要請で昭和18年5月に帰国し,敗戦後,ソ連・中国での抑留を体験しないで済むという〈幸運〉な道を歩んだ。武藤は,東京裁判にかかわっては「溥儀氏の証言破砕のため」,証人として召喚されるだけで済んだ人物である1)。そのせいか武藤は,自分にかかわるほかない戦争責任の問題を,そうとう鈍い感性で回顧している。

    敗戦となってみれば,大東亜戦争は失敗であり,誤りであったが故に,武藤が企て実践したことはことごとく失敗であり,誤りであった。否,もっと深くいえば,日本国民にとっての罪悪であったといえよう。

 戦争は人類最大の悪であることは否定しえないが,この悪なる戦争という枠内には,倫理がある。

 それは戦時国際公法を唱えたフゴー・グロチウスが私たちに教えるところである。

 それはまた国民の国家への忠誠という徳をも含む。少なくとも,国家に対する忠誠の念においては,満州国官吏として他の方々に変らずに,忠誠を励んだという信念を今なお私は持っている。

  では,弘報処長として満州国に忠誠を尽くすため,なさねばならぬ第1のことは何か…… 2)

 武藤富男の回顧録である『私と満州国』は,「自分がクリスチャンであること」にたびたびふれ,この宗教的な背景が「自己の行動に一定の影響を与えた」と述べていた。

 だがこの人にして,旧満州国にかかわってきた公的な自分の〔国務院司法部刑事科長,同総務庁法制処参事官・弘報処長などを歴任した〕生きざまを,「〈満州国⇔日本〉対〈在満日本人⇔在日日本人〉」というせまい脈絡・構図のなかでしか捕捉できていない。

 満州国は、中国の大衆・人民からみて,日本帝国のつくった〈罪悪業の地〉であった〔→そこはひろい意味において中国の土地であり,多くの中国諸民族がいた〕。

 さらに満州国は歴史的にみて,日本(人)の失敗・誤りを象徴する〈偽国そのもの〉であった〔→日本の帝国主義的野望は完全に破綻した〕。日本帝国は,中国に対して,戦争という人類最大の災厄をしかけたのである。

 満州国は日本帝国主義:軍部という悪役が黒幕として狂気乱舞し,満州国政府という名ではあっても,日本人次官たちばかりが存分に活躍する舞台であった。

 だが,当時の関係者にいわしめると,如上の出来事はたとえばつぎのように麗しく形容され,称揚されることとなる。

 〈当時の発言〉 この時局情勢にも拘らず,満州が微動だもしないのは,一は偉大な皇軍の威力と,一つはこの日系官吏の純真な熱血溢れる真剣な力が集まって,満州国の基礎が出来てゐるからである3)

 〈戦後の発言〉 満州建国を日本の大陸侵略の手段だという批判はわれわれの心情からは肯定できない。われわれが参加していた当時の心境には毛頭それはなかった。われわれの理想は,まず西欧式の考え方を改め,物資本位の機械文明や資本主義の行き過ぎを修正して受け入れることにし,階級闘争的な共産主義の破壊思想を排し東洋の精神文化を基調にして物心両全の新文化建設を国造りの基本理念にし,独裁的覇道を排し民本的王道が標榜され,そこでは居住民族同士が抗争対立のない協和共存を求めたものである。

 もし,この基本にそれたやり方や理想を無視した場合には,われわれは関東軍にも中央の指導者にも是正を求めた。単なる軍の手先であったという批評は当らない4)

 武藤は,自国=国家に対する自身の忠誠心〔これは倫理:徳だという〕発揚を,信念をこめて,貴重な想い出であったと回想している。宣教という宗教的使命のもとに,欧米キリスト教が,帝国主義的侵略行動に対する「水先案内人」の役割をはたしてきたことは否めない。

 明治以来,日本キリスト者は日本帝国の軍事的侵略にどのように対面してきたか。その限界をしる者にとって,敗戦後における武藤の言説はそれほど驚くものではない。それにしても,彼の言説からは「在満中国諸民族」という存在が,もののみごとにぬけおちている。

 キリスト教倫理精神もこのていどならば,すなわち異国の地に居住していながら,ともにその地に暮らしている諸異民族の存在・生活全般を視野のそとにおき平然としいてられるようならば,その人のいだいていた宗教の基本的精神は,だいぶあやしいものであると観察されるほかない。

   戦時中,武藤富男のようにキリスト者として日本帝国の世の中を生きてきた人士は,経営学者にもいる。たとえば,古川栄一がそうである5)。また,昭和17年3月に設立された,日本能率協会の初代理事長森川覚三もクリスチャンだったという6)

 森川覚三は,「合理化・能率化こそ企業活性化の根源であり,すなわち国民経済発展の正道であるとの初心は固く,益々情熱を燃やされて,常に国家的見地からわれわれを激励,教導された」人物だと評定されている7)

 しかしこのばあいでも,その「国家的見地」というものをさらに価値づけ方向づけていた,時代精神・制度的信条の特性 (ちがい) 特性〔簡単にいえば全体主義か民主主義かなど〕を無視することはできない。

 森川は,そのふたつの主義の時代を行きぬいてきた。彼がクリスチャンだというならば,異質のその時代ごとに,いかなる精神的姿勢をもって直面しつつ生きてきたか,問題となる。

 この論点は,宗教心が単に気分的な飾りもの (ファッション) でないかぎり,当然問われてしかるべきものである。

 財団法人日本能率協会創立30周年宣言は,こういっていた。日本能率協会は昭和17年,日本産業界の要請にもとづき,「日本的性格の能率運動」「理論より実行」「重点主義」の3項目を綱領とし,産業能率の増進を目的として設立され,全会員の指導のもとに産業の近代化につくしてきた,と8)

 そうだとしたら,あの戦争の時期においても,日本能率協会は「産業の近代化につくしてきた」ことになる。だが,これは「むりなこじつけ」である。戦争においては,敵方も味方もたがいに産業や生活を破壊しあっていた。

 能率の発揮といっても,戦争中はこの作戦上の効率〔=破壊能率!〕のためのものになっていた。クリスチャン森川覚三が,このような〈能率思想〉的課題に関して,キリスト教的精神を背景にしながらなにか発言をしたという確証はない。

   宗教上,人間の精神的なありかたの問題は,人間の胸中における内面的な問題ではあるけれども,その人間の日常行動に強く反映され,絶えず顕現しているはずのものである。

 とくに,戦争というような深刻 (とくべつ) 深刻な事態に時代がおかれていたとき,その宗教人のしめす反応・行為は,ときにそのいだく信心の真価を問い,核心に迫るものとなるはずである。

   たとえば,古海忠之〔旧満州国高官:ソ連と中国に抑留された人物〕と武藤富男とでは,自身の体験に関する認識に関して,おおきな差異がある。

 武藤は幸運にも流刑の身にならなかったから,古海の告白にあったような感性にまで到達できないのだとしたら,これは精神一般的かつ宗教倫理的に,たいへん貧しく悲しいことである。

 武藤も古海も東京帝大出の秀才であり,日本最高水準の選良であった。このことはいったいなにを意味していたか,よくよく再考する価値があろう。

   もっとも武藤は,「個人としていかに平和を愛するとも,国家の一員としては国家的利益が優先するという背理に陥らざるを得ない。この矛盾を解き明かし,人類の進むべき道の確固たる拠り所を探究しなければならぬ,という思い」9)にふれ,こういっていた。

 「この国の建設にたずさわった私には,幾多の奢りがあった。それは神の前に罪として告白せねばならぬところである」,と。このように正直に回想する彼だが,同時にこういっていた。「満州国の歴史的意義について,これを論ずべき資格は私にはない」,と10)

 武藤によるこの述懐は,満州国の国務院司法部刑事科長や総務庁弘報処長を歴任した人間の発言としてみるとき,まちがいなく責任回避の重大な発言ある。

 個人=クリスチャンで〈あること〉,そして満州国というカイライ国家の高級官僚で〈あったこと〉,この2つの〈あること〉と〈あったこと〉が自身の内部に同居していたと,みずから認めることから生じる「背理」や「矛盾」,さらには,国家〔「満州国」〕を行動上優先せざるをえなかった公人として,自分がいだくようになったとする人間的な「奢り」などは,敗戦後いったいどのように吟味しなおされたのか。

 こうした肝心な問題は,告白の対象外である。要するに彼は,都合の悪い問題〈うしろめたさ〉にはなるべくふれずじまいなのである。

 武藤は,満州国の歴史的意義を論じる資格が自分にはないというが,これは真意をはかりかねる。問題からの逃避である。彼ほど高官の職位にあった人物のその口から,あの国家の歴史的意義を自分は論じられないのですといわれて,「ハイそうですか」と二つ返事で納得する人がどこにいるであろうか。

 〈クリスチャンである人間〉〈満州国高官であった人間〉が同一であったかぎり,そのような疑念はなおさら強まる。

 「満州国」という国家中枢の地位を占めていた人間「武藤」は,そこに顕在あるいは伏在していた背理や矛盾を,確実に感じとることができていたはずである。

 そして武藤は,満州国の高官であった自分が奢りの感情をいだいていた事実をよく認識していながら,しかもその後においてそれを「神の前に罪として告白せねばならぬ」といいながら,その罪とはなにかすこしも告白していない。これでは明らかに,宗教的な意味での告白 (ざんげ) とはいえない。

 武藤富男の回想録に,明白にみてとれることがらがある。それは,若干の韜晦をともなった謙虚さのなかにひそむ〈自己隠蔽〉の姿勢である。

 一見したところそれは,たしかに誠実さの表白であるかのようでもあるが,反面で,問題の核心にはけっしてふれようとはしない徹底した逃げの姿勢である。

 キリスト教の倫理精神は,国民国家の枠をこえ,多種多様な民族のちがいをも包容し,神の国の実現を図るべく努力するよう説いているはずである。武藤のばあい,国家の理念のまえにあって,宗教の精神的な倫理はさほど効用がなかったことを記録している。

 岡部牧夫は,こういう。

 満州国の支配という全体状況〔植民地「国家の理念」〕の本質からいって,良心的な個人〔武藤富男の信心する「宗教の倫理」〕が存在することの意義にはおおきな限界があった。彼らが軍や政府と対立しても,それはあくまで植民地支配の方針上の差にすぎなかった。帝国主義の植民地支配の機構のなかでは,どんなに善意の個人も,客観的にみれば他民族への侵略や抑圧の歴史的責任を,いやおうなく分担しなければならない11)

 【注 記】

 1)満州国史編簒刊行会編『満州国史 総論』第一法規出版,昭和45年,847-848頁参照。

 2)武藤富男『私と満州国』文藝春秋,1988年,327頁。

 3)宮内 勇編『満州建国側面史』新経済社,昭和17年,〔駒井徳三「独立前史と建国創成期の思ひ出」〕28-29頁。

 4)社団法人国際善隣協会編『満州建国の夢と現実』同会,昭和50年,〔橋本一天〕262頁。

 5)古川栄一については,拙稿「戦時経営理論の考察-事例分析的解明-」,財団法人朝鮮奨学会『学術論文集』第15集,1985年11月を参照されたい。

 6)本能率協会編『森川覚三の世界-経営能率に賭けた その生涯-』日本能率協会,昭和61年,245頁。

 7)同書,198頁。

 8)同書,189頁参照。

 9)武藤『私と満州国』467-468頁。

 10)同書,469頁。

 11)岡部牧夫『満州国』三省堂,1978年,200頁。〔 〕内補足は筆者。

 


 

2.国家と宗教

 

 2-1 信仰と告白

   戦後,武藤はキリスト新聞を創刊し,ミッション系大学の学院長〔明治学院大学〕や理事長〔恵泉女学院・東京神学大学〕を務めている。そこで,日本キリスト教会史の戦争責任を論じた著作などにしばらく聞いてみたい。

 以下に紹介する日本基督教会史批判は,武藤の信じていたキリスト教《精神》に対する峻厳な栽断となる。金田隆一『昭和日本基督教会史-天皇制と十五年戦争のもとで-』(新教出版社,1996年) は,まずこういう。

 戦争中形骸化した教会を擁護することを第1義とし,教会の首でいますイエス・キリストに対する告白的信従,すなわち,福音の真理への絶対的服従を詭弁をもって否定するとき,それはまさに神に対する叛逆ともいえよう。戦後,日本の教会は,ドイツの教会闘争をただ観念的に紹介するのみで,みずからの教会の主体性を賭けた生きた告白的闘いはなしえず,戦後,朝鮮キリスト教会からの触発ときびしい批判なくして,われわれが犯した神と隣人に対する過ちに,みずから気づくことはなかったのである。

 信仰を侵略戦争遂行に従属させ,その戦争責任をキリスト者として主体的,告白的にになうことはせず,その責任をみごとに回避したのである。韓国をはじめとするアジア諸国に対する加害者意識をもちえなかった点において,最大の罪と過ちを犯したのである。それは第1に,神の絶対的主権とその支配を告白するキリスト者として,偶像である天皇に礼拝することを強制させられたことに対峙する信仰告白としての闘いをなしえず,ゆえにその第2の命題たるその天皇の命令する侵略戦争に対しても,結果的には積極的に支持協力したのである1)

 武藤は,平和を愛する個人であっても国家の一員としては,国家的利益を優先せざるをえなかった〈自分自身の背理や矛盾〉もふれ,これを〈神の前に罪として告白せねばならぬ〉と述べていた。

 だがこの発言は,「天皇制に屈服し,侵略戦争を支持協力した事実に対する反省と懺悔」を,実は凍結してのものであった。だから,武藤の「問題は信仰告白の内実にあ」り,「その福音の本質的真理の貫徹への意志を欠いた〈教会擁護〉を名目とする」点にあった2)

 武藤は,「満州国の歴史的意義について,これを論ずべき資格は私にはない」と謙遜していた。だがこの発言は,精神的内奥に属する信仰問題を歴史的政治問題にすりかえている。また,旧治安維持法の本質が,宗教的教義の内容にまで介入する希代の悪法であった事実に目をふさいだものである3)

 彼は,自身のいだく,いわば自分の負い目である〈歴史的な感情のひだ〉を,他者にみせたくなかったのである。

 金田隆一『昭和日本基督教会史』は,日本キリスト者のこうした自己欺瞞的な姿勢に対して,きわめてきびしい論断をくわえる。

 キリスト者は,国家権力との最終的対決において,その信仰の自由を守るためには殉教しかない。だから問題は,国家権力による巧妙な手段により信仰の自由が侵されていることに気のつかないキリスト者,そしてその基盤である教会じたいにあった。「絶対的神」の主権に服従すべき「相対的国家」に対しての信仰的理念はみられなかった。逆に,全体的・絶対的国家に従属したキリスト教が,いかにしてその存続を許されるのかという,教会固有の使命と申すべき福音的真理に対する,本質的パラドックスが生じていた4)

   武藤は,満州「国の建設にたずさわった私には,幾多の奢りがあった。「それは神の前に罪として告白せねばならぬところである」と述べながらも,実際は「神人の不可逆的関係をイエス・キリストにおいて明白に告白する信仰ではなかった(鈴木正三)」。

 それは,宗教信条を教会礼拝のみの告白とし,現実の社会や生活のなかにダイナミックに告白して生きるものではなかった。それはまた,「日本民族としての固有の精神構造が社会構造の基底的思想として存在しており,現に戦争責任・戦後責任を被害者意識により曖昧に糊塗してきた私たちキリスト者の信仰とその精神的内実」であった5)

 そもそも戦前〔戦時〕期において,日本キリスト教信者の享受できていた思想・信仰の自由とは,「天皇制を頂点とした国家神道の枠内においてのみ許容された制約下における」それであった。武藤が「神の前に罪として告白せねばならぬ」としたものは,「天皇の命ずる侵略戦争への支持,協力遂行へと,神と隣人に対する取り返しのつかぬ罪責の道を歩むという過ちを犯す要因となった」6)ものであり,当人も深くかかわってきた〈歴史的事実〉でもあったはずである。

 ところが武藤は,その肝心な核点をぼかすような〈もののいいかた〉しかしていない。それは「神の主権とその支配に基づく信仰告白を放棄し,内なる信仰と世俗的,政治的行為を見事に二分化した二元論的信仰であり,……明確に信仰の本質を喪失した日本的キリスト教」者の典型であった。せめてもの救いは,「神と隣人に対する戦争責任は最も大なるものがある」ことに),おそらく彼は気づいていたものと推測されることである。それでも彼は,この点に関する信仰告白をしない。したがって,キリスト者としての武藤は,根源的なる疑問を依然かかえている。

   個人の罪の追及意識はユダヤ教的・キリスト教的バイアスであるという見解が,日本のインテリの間では人気がある。責任を曖昧にするところが長所だと言わんばかりである。これがまた日本を孤立させる要因になっている。罪と人格を結びつけない。だから罪を告白することもしない。告白 することが恐ろしいのだ。それは責任者自身の回復をもさせなくする8)

 武藤富男は,星野直樹〔国務院財政部総務司長・財政部次長・国務院総務長官を歴任〕とともに,宗教的には敬虔なクリスチャンであった。もちろん表面ではそれを隠し,満州国の行政の場面で,そのことの影響のみえる施策があったということはない。

 武藤にしても,本人が書いていることではただ一件,建国神廟に天照大神を祭祀するときめたときに,満人のがわのために孔子も祭廟をつくって祭祀すべきだという意見が出たのに対して,「キリスト教唯一神観」の影響をうけていたので,それに反対したということが回想されているだけである。神のまえではみな平等であり,唯一の神を信じ,崇め奉れというキリスト教の精神と,皇帝陛下を戴いた満州傀儡国家の建国とその維持ということは矛盾するが,彼ら,満州国の高級官僚のキリスト者たちは,信仰は信仰,役職は役職と簡単に切りはなして行動していた 9)

 要するに,信仰が社会的現実と妥協したところでは,信仰のゆえにかえって社会的現実の矛盾がみのがされ,福音と罪の現実との衝突が回避され,信仰のゆえに戦うべきときに,信仰のゆえをもって現実に降伏しているのである。現実と妥協し,現実に降伏したところには戦いはなく,「平穏無事」が支配する。そしてこの「平穏無事」をキリスト者はしばしば信仰にある平和ととりちがえているのである10)

 【注 記】

 1)金田隆一『昭和日本基督教会史-天皇制と十五年戦争のもとで-』新教出版社、1996年,465頁,462頁。

 2)同書,437頁,428頁。

 3)同書,422頁。

 4)同書,382頁,351頁。

 5)同書,184頁,185頁,176頁。

 6)同書,85頁,82頁。

 7)同書,19頁,はじめにiv頁。

 8)アジアに対する日本の戦争責任を問う民衆法廷準備会編著『戦争責任-過去から未来へ-』緑風出版,1988年,138頁。

 9)川村 湊『満州崩壊』文藝春愁,1997年,87-88頁。

 10)隅谷三喜男『日本社会とキリスト教』東京大学出版会,1954年,150頁。

 


 

 2-2 前提的議論

 ここで筆者は,武藤富男の宗教観を批判的に考察するための前提となる議論を,若干与えておきたい。

 天皇制下の国家神道の本質。旧来の伊勢神宮,出雲大社のどをのぞけば,私たちのしっている神社のほとんどは明治以降の創建神社であり,その祭神というのはほとんどが“人”である。つまり,天皇,皇族,功臣,戦没者などの“人”が神として祀られている。これは,古来の伝統的な神概念とは異なるものであり,国家への忠誠心や天皇に対する崇拝の思想を国民にひろめる目的で創られた。

 明治政府は,祭祀と宗教を分離し,祭祀のみの宗教として国家神道を確立する政策をとり,かつては世襲だった神官を国家の官吏として位置づけていく。これによって,たてまえのうえでは「宗教」ではなくなった国家神道は,教派神道・仏教・キリスト教のうえに君臨し,現人神としての天皇とその神話への信仰を国民に強制する,特異な国家宗教となっていった1)

 1936年までには,国家権力の圧力に屈したかたちで,カトリック,プロテスタントとも「神道は宗教にあらず」とみとめ,神社参拝や宮城遥拝を公認するようになった。1940年,満州国の新京には,満州の靖国神社ともいえる天照大神を祀る建国神廟や建国忠霊廟がつくられ,皇民化政策を推進する拠点としての役割をになった2)

   1941年6月に成立した日本基督教団に関しては,政府の圧力に屈したという外側の要因とともに,各教派の合同にむけての内在的・自発的な動きがキリスト教内部にあった。その動きは,天皇の国家への無条件の服従を,すべてのキリスト者に強いることとなった。日本基督教団規則第7条「信従の生活規定」第1項は,「本教団に属する信徒は万世一系の天皇を奉戴する臣民として,皇運を扶翼し奉り,国体の精華を発揚せんことを努むべし」と,謳っていた3)

 1943年,日本基督教団は「大東亜共栄圏に在る基督教徒」に書翰を送ることを画策し,パウロの伝道書翰に擬した文章をキリスト者から募集した。当選作に手をくわえたものに冨田 満統理の序文をつけて,この「書翰」がアジア各地の教会に送られたのは、1944年も末のことであった。

 すでにサイパンは陥落し,日本の敗色は濃くなっていた。したがって,それらがアジアのキリスト教会におおきな効力をもったとは考えがたい。しかし,教団があげて「聖戦遂行」のために企画し,書き送ったこの書翰のなかに,日本のキリスト教会がおちいったおおきな過ちを如実にみることができる。

 抑々我が日本帝国は,万世一系の,天皇これを統治し給ひ,国民は皇室を宗家と仰ぎ(中略)この大君のために己自身は申すまでもなく親も子も,夫も妻も,家も郷も,悉くを捧げて忠誠の限りを致さんと日夜念願してゐるのである。(中略)全世界をまことに指導し救済しうるものは,世界に冠絶せる万邦無比なる我が日本の国体であると言ふ事実を,信仰によって判断しつつ我らに信頼せられんことを〔「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」より〕4)

 いうまでもなく,天皇制国家主義とキリスト教の超国家主義とは,本質的にあいいれないイデオロギーである。それなのに戦時中,キリスト教はみずから換骨奪胎し,天皇制国家主義に屈服し,国家神道のイデオロギーの支配下におかれる存在となったのである。

 こうして日本基督教団は,日本のキリスト教を国体の本義にもとづく尊厳無比なものと位置づけ,「大東亜のキリスト教」を標榜し,戦争遂行のための皇道倫理をアジアのキリスト者たちに強要した。「地の塩」「世の光」となるべきキリスト教は形骸化し,国策に隷従する道をひたすら歩むこととなった 5)

   意識的と無意識的とにかかわらず,武藤もまた引きこまれていった日本国家神道の教義の一典型を,つぎに引照しておく。

 霊魂不滅を信ずるならば,生前と同一のものが,死後に於ても同一状態から生活を初めると考ふべきである。だから結局生前の信仰の境地に従って死後の境地の高さが決まるといはれる。無限の微妙な段階の想像されるその世界に於て,仏教徒はその境地に又キリスト教徒はその境地に入ってゆくのであり,その境地から仏とかキリストとかと共に修行し乍ら最高なる推神の境地に上り大神に近く上ってゆくことゝなるといはれてゐる6)

 【注 記】

 1)前掲,アジア民衆法廷準備会編著『戦争責任』262頁,263頁。

 2)同書,282頁,264-265頁,267頁。

 3)同書,283頁。

 4)同書,285頁。

 5)同書,280頁,281頁,285頁。

 6)仁宮武夫『帝国完勝の体制』旺文社,昭和19年,256頁。

 


 

 2-3 民族と宗教

   さて武藤富男は,93歳の長寿をまっとうし,他界した。武藤を追悼したある新聞記事は,こう書いている。

 青年時代にキリスト教の洗礼をうけていた彼が,植民地「満州国」で神道をひろめる仕事をどう考えていたのか。「背教の罪を犯したわけだが,自分に二つの言い訳をしていた」と,戦後に告白している1)

 1)民族神を敬うことは民族を尊ぶことであり,宗教とはちがう,

 2)キリスト教は個人の信仰であり,天照大神は国家民族の問題である,と考えた。

 筆者は,武藤の「告白」だと指摘されたこの2点をしって,あらためて愕然とさせられた。

 ここで武藤の答えている2点とは,「民族」「国家」「信仰」などの問題に関して,旧日本帝国内に限定した,あくまで武藤〈個人の認識〉をしめしたものにすぎない。

 旧満州帝国や,当時そのほかの被植民地諸国の人々に関連する「民族」「国家」「信仰」なども合わせ,旧満州国〈公人〉の立場にあった者として,公式的にどう考えていたかまでを答えるべきなのに,それにはなにも答えてないのである。「背教の罪を犯した」,その具体的な中身が問題ではないのか。

 その記事は,武藤富男の人物評を,「聖書の教えに基づいた,地に足のついた平和主義者だった。その聖書理解も理屈中心ではなく,人生の中でつかんだ体験的なものだった。理想を持ちながらも日々の現実の中で考えたリアリストだから,揺れているように見えるかもしれません」と語った,日本基督教団出版局長代行の声をのせている。

 だが,「平和主義者」であった武藤が旧満州国〈高官の地位〉にあって,実際の言動でしめしていた平和主義とは,満州帝国とこの親分格の日本帝国との〈平和的な共存〉だけであった。

 武藤のクリスチャンとしていだいた理想は,『聖書』理解という理屈ではなく人生のなかでつかんだ体験的なものであり,その行動はリアリストゆえ動揺しているように映るのだという,同情心あふれるきわめてご都合的かつ恣意的な解釈は,キリスト教精神の基本的倫理に照らしてみるとき,はたしてほんとうに『聖書』の教えにかなったものか,基本的な疑問が生じる。

 クリスチャンの行動範囲は,『聖書』という教義・摂理に則して律せられ,実行されるべきものである。『聖書』の教え:原理・原則から逸脱したかのごとく,クリスチャンがリアリスト的に行動し,動揺したとみられるのは,その本来の教えに忠実でなかったか,あるいはその規範を無視し生活していたためではないか。

 第1に,「民族神を敬うことは民族と尊ぶことであり,宗教とはちがう」という告白じたいが詭弁である。

 なぜなら,武藤のこのリアリスト的な遁辞は,当時の日本帝国臣民にのみ通用しつかうことの許された,「逃げの宗教観的修辞 (いいわけ) 」であったからである。だが,日本帝国の植民地下にあった民族がわのキリスト教徒にとり,武藤のような告白の形式は,とうてい採用することの許されない便法であったし,また絶対になしえない告白の内容であった。

 こういうことである。かりに,植民地支配下におかれていた諸民族のほうが,たとえば「自民族を敬い」,自分の宗教である「キリスト教を尊ぶ」としたら,これはただちに旧日本帝国の圧迫・迫害をこうむるほかなかった。こちらがわの諸民族において,武藤の駆使しえたリアリスト的使いわけは,まったく許されない状況にあった。

 当時,被支配民族が自民族の基底面において,自身の出自および精神の尊厳を神〔ここではキリスト教〕に導かれながら守護しつくすには,ただひとつ殉教の道しかなかった。実際そのよう道を歩んだ宗教人も多くいた。このように〈生死を賭けるか否か〉を迫られない,ぬるま湯に漬かったようなクリスチャン〔?〕武藤の「背教の罪を犯した」という告白は,だから,告白などとはとうていいえない代物であった。

 簡潔にいえば,「日本民族の国家的宗教」と位置づけられた「神道」を,民族を尊ぶための神の表現であるとのみ把握し,その「神」と宗教を区別できるとした思弁 (いいわけ) は明らかに詭弁である。なぜなら,もともと一体であって分離できないものを,口先でいって区別できるといえばできるのだと,故意に強弁しているだけだからである。

 --ところで,植民地下朝鮮のキリスト教徒は「東方(宮城)遥拝」をさせられた。

 これは朝鮮の教会指導者において,「偶像崇拝」の大問題となった。宮城遥拝に反対する者はみな刑務所にいれられ,多くの者がそこで殉職した。そのときの牧師で生きのこった者はほとんどいない。

 だが宮城遥拝に応じた者は,それは国民儀式であって,けっして宗教的行動ではないと弁明した。宮城遥拝を拒否し,刑務所で苦しんだ信徒たちは,戦後解放されてから別の教団を組織して,今日にいたっている 2)

 上段の弁明:「宮城遥拝は国民儀式であって,宗教的行動ではない」は,武藤をかばう弁護論:「キリスト教は個人の信仰であり,天照大神は国家民族の問題である」と同類である。もっとも朝鮮人キリスト者のばあいは,さらに民族のちがいも重なってくるので,この問題は輻輳し,錯綜する。

 第2に,「キリスト教は個人の信仰であり,天照大神は国家民族の問題である」といういいのがれじたいが,キリスト教信仰の根本理念から逸脱する説法である。

 キリスト教は古来より,たびたび国家公認の他宗教と対立・衝突し,その抑圧・弾圧をうけるという苦難の歴史を体験してきた。キリスト教的宗教倫理観と日本国家的神道価値観を,個人の理屈の精神世界においてのみ平和に凄みわけさせることができ,相互間において発生するほかない矛盾・撞着の苦しみを事前にうまく回避できた日本的キリスト者のありかたは,本来よりキリスト者とよぶにはふさわしくない国家神道(天皇制)擁護論者の弁である。

 個人の信仰次元でキリスト教をとらえ,集団・組織・国家の次元で,天照大神に帰依する国家民族の宗教精神をとらえていた。だが,「キリスト教は個人の信仰であり,天照大神は国家民族の問題である」というこの規定は,完全に破綻していた。

 旧日帝時代,国家民族を構成する個々人の信仰対象として,天照大神は日本に所属する1人1人に押しつけられ,強いられていた。だから武藤のように,個人の信仰心と国家民族の宗教精神をわざと分別し相互に無関係のものとする〈便法的思考〉が,そもそもおかしい。

 国家的な次元でおこなわれる宗教的な政務・行為を,個人次元における信念・信条とは異なった位相のものであるとした観念〈作為的な分離思考〉は,実際の場面における両者の一心同体性をみればわかるように,ご都合主義であり,詭弁以外のなにものでもない。

 敗戦後つくられた日本国新憲法において,信教・思想・集会・言論などの自由が保障されているのは,戦前における国家宗教的な体験上のにがい失敗・過誤をふまえてのことであった。

 かつて,武藤富男の努めていた満州国高官という立場は,日本帝国および満州帝国の国家神道〈礼拝〉を当然の義務にしていた。そのためクリスチャンであった武藤は,個人という宗教の次元においてのみせまくキリスト教信条を守り,公的な場面における彼は日本国家神道にすこしもあらがうことなく,そのまま受容する立場を採っていた。

 旧満州国時代の武藤富男は,「国家と宗教の対立・葛藤・軋轢」という難題をはじめから回避していた。いうまでもなくその妥協・解決の方法は,武藤の「キリスト教精神」が日本国家の「神道精神」に服従し,服従するところに求められていた。

 満州国における武藤は,キリスト教精神の基本教義を守らず,日本国家公認の宗教精神になすがままにさせていた。

 戦後になって周囲の者たちが,満州国時代における武藤のこの様子を観察して,その後における生きざま全体を,「地に足のついた平和主義者であり,聖書理解は理屈中心ではなく人生のなかでつかんだ体験的なものであり,理想を持ちながらも日々の現実のなかで考えたリアリストだから,揺れているようにみえる」と解釈したのである。

 筆者からみて,この解釈はたいへん奇妙であり,また異常なまでに好意的である。

 いずれにしても武藤富男が,『聖書』の立場に立つといいながら,日本帝国および満州帝国という侵略的な政治機構と平和に共存できた秘訣は,『聖書』の教えに即して忠実に行動せず,またその教えを抑圧する〈国家〉と対決することを避けていたからである。

 ましてや武藤は,旧満州国政府の高官であった。この点に関していうなら,満州国時代における彼の精神世界においては,国家の立場が宗教の立場を最大限に圧倒していた。

 満州国政府高官武藤富男の観念的世界のなかで,この人物がクリスチャンであったという一点は,精神的意味においては最小化されてしまい,本来のキリスト教摂理を発揮する機会をまったくもっていなかった。「背教の罪」の重みは,いかほどであったのか。

 現在の天皇制に対してもいえることだが,これとキリスト教の基本精神ははたして両立しうるものか,民主主義の根本理念に対して,天皇制およびこの精神面の支柱である国家神道は撞着しないのかなど,この種の難題をまともにつめて問おうとしなかったのが,日本のクリスチャンの精神態度であった。

 いずれにせよ,旧日本帝国・旧満州帝国,およびこれを構成していた人物たちの歴史的な行跡を客観的に回顧し,これを個人的な責任領域においていかに評価するのかという問題意識が決定的に欠落している。

 ほかでもない,武藤富男という人物は満州国の高官となり,その植民地を支配・運営していく体制がわの1人になっていたわけだが,逆にその支配下におかれていた人々が,武藤のような人物のいだく宗教観をいかに観察していたか,これを意識的に自問できるような姿勢・感性が,武藤のがわにおいては不在なのである。

 【注 記】

 1)『朝日新聞』1998年2月10日,夕刊「『平和憲法守れ』の論説40年-『キリスト新聞』の武藤富男氏の軌跡-」。

 2)青山学院大学プロジェクト95編『青山学院と平和へのメッセージ-史的検証と未来展望-』発行者 雨宮 剛,1988年,567項。 

 


 

 2-4 満州高官としての発言

 武藤富男は,満州能率協会発行『満州の能率』第3巻第7号〔康徳8(昭和16:1941)年7月〕に,「宝庫満州の実相」という論稿を載せていた。当時,武藤は満州国総務庁弘報処長であった。そのなかでまず武藤は,「一徳一心の根本精神」について述べていた。

 満州国は漢民族の国である。我々日本人はよそから来てゐるものにすぎない,といふ考へが生れて来る。これが2,3年前の考へ方であるが,今は非常にはっきりしてゐる。即ち,満州国は諸民族が協和をして作った国である。日本人がその中心になって治めていく国である。だから日本人は日本国の臣民であると共に満州国の人民である。両方の性質を持ってゐる。両方の国籍を持ってゐることになる。日本国臣民として満州国人になられるのである。

 満州国皇帝陛下に御仕へすることが 日本天皇陛下に御仕することになるのである。

 康徳2年に 皇帝陛下が日本を御訪問になって御帰りになり,囘鑾訓民詔書を煥発あらせられた。

 この中に

 朕,日本天皇陛下ト精神一体ノ如シ爾衆庶等更ニ當ニ仰イテ此ノ意ヲ休シ友邦ト一徳一心以テ両国永久ノ基礎ヲ奠定シ東方道徳ノ真義ヲ発揚スヘシ。

 と仰せられた。即ち,日本天皇陛下の御精神を満州国皇帝陛下が亨けられて国民を治められる。「日本天皇陛下ト精神一体ノ如シ」と仰せられた,その御精神は,即ち,神武建国の精神である。

  さらに遡れば天照大神の御精神である。今の皇帝陛下は清朝の宣統帝でありました。

 その清朝が滅びて,宣統帝は一旦位を退かれた。その宣統帝が満州国の皇帝になられた。故に清朝が再び満州国を治めて行くのだといふ人もあるが,それは大きな考へちがひである。御精神は 日本天皇陛下の御精神である。天照大神の御精神である。そこで昨年6月,皇帝陛下は日本を御訪問になり,天照皇太神宮ならびに橿原神宮に参られ,お帰りになるや,7月17日,国本奠定詔書をお出しになった。

 満州国の国の大本は惟神の道である。それをはっきりとお示し遊ばされたのである。故に健国神廟のお祭りには,皇帝陛下自ら御参拝になる。またわれわれは日本帝国の臣民であると同時に満州国人民である。皇帝陛下に忠義を尽すことは 日本天皇陛下に忠義を尽すことになる。建国神廟を拝むことは天照大神を拝むことになる。

 そこに何らの矛盾撞着もない。これが満州建国の根本精神である。未だそれが徹底してゐない。満州は建国当時から王道といひ,王道楽土などともいってゐるが,しかし,国本奠定詔書には,「国本を惟神の道に奠める」と仰せられてゐる。惟神の満州である。王道の満州ではない。国の大本は惟神の道である1)

 武藤は,満州国皇帝の立場をこう説明し,つづいて「民族協和の問題」をさらにこう説明していた。

 満州の国是は民族協和にある。この根本精神は一徳一心,天照大神の御精神,惟神の道から出発してゐる。即ち,八紘一宇の大精神が民族協和の精神になって居る。神武天皇が御東征になって大和の国にお入りになり,そこに国を建てられた。当時この辺には外の民族がゐた。また,国をお建てになってからも南の方から色々な民族が来たが,これが2600年経って一つになってしまった。

 日本民族といふものは始めから一つのものと思ふのは間違ひである。色々なものが集って今日に至った。その証拠には顔を見れば判る。非常に特徴がある。これを一つの国民にして戦争があれば「天皇陛下万歳」といって死ぬやうに協和せしめた。これが日本の大いなる精神である。これを再び満州で再顕しやうと云ふのである。これはさう簡単には出来ない。

 併し政治を上手にやれば案外早く出来るかも知れない。その運動が協和運動である。これは満州の諸民族が本当に仲良くして行くことが出来るか出来ないかといふことで決まる問題である。どうしたら仲良く出来るか,それが我々に与へられた任務である2)

 満州国に対する以上の理解は,いうまでもなく,キリスト教本来の宗教的精神に全面的に背いていた。

 武藤は「日本天皇陛下の精神は天照大神の精神である」と定義し,この根本精神に即して満州国の「国本ヲ惟神ノ道ニ奠メル」といっていた。

 満州国の理念に関するこうした認識は,『聖書』およびイエス・キリストの教えに絶対忠実であらねばならないキリスト教徒の基本理念に,まっこうから対立し背理するものであった。

 武藤は,満州を構成する諸民族にむかって,〈「天皇陛下万歳」といって死ねること〉を要求していた。満州国民に対して,そのような要求をつきつけた発言の客観的な意味は,キリスト教徒である武藤に対しても同時に,「キリスト教信仰を廃棄せよ」といっていたことと同意である。もっともこの解釈は,満州国高官時代の武藤にむけて放たれる批判としては,無意味である。なぜならば当時の武藤は,とうていクリスチャンとはいえない公私の言動を,実質においておこなっていたからである。

 戦時中,つぎのような観念が絶対当然の日本的思想として高唱されていたが,武藤もこれにひたすら忠実にしたがうだけのクリスチャンであった。

 我が日本は天照大神の御国であり 天皇の御国であり神国である。「日本は神国なり」は我が国民道徳の源泉となって居るのである。

    故に日本人は縦令仏教を信じようとキリスト教を信じようと儒教を奉じようと神道信者たる事を否む事は出来ぬ。日本人である限り其の生活活動の根柢を此の道に,識ると識らざるの別なく置いてゐるのである。精神的にも物質的にも此の道により生れ,生き,そして一生を終るのであり,人間が空気を呼吸して生きて居ると同様日本人は,此の道に則って生きねばならぬ3)

 結局,武藤富男も「天皇崇拝を黙認し,戦争目的遂行の一翼を担ってしまった」4)

 武藤は,「戦前の天皇不可侵の迷信と,天皇のための政府という観念から抜け出ていない……このような国の体質を今まで温存して来たのである。国は神話に包まれ,その神話のヴェールを剥がす眼識が我々にないのだ」5)

 満州国軍の日本人関係者が公表した大部の著作,満州国軍刊行委員会編『満州国軍』(蘭星会,昭和45年)は「建国神廟から惟神之道を押しつけたことは日本の満州に対する最大の失策であったというべきである」と,自己批判していた。

 なぜなら,「各民族にはそれぞれ信仰する宗教と伝統がある。それは長年月を経て育ったものであり一挙に改廃できるものではない。信仰は武力の強制によって剥奪できるものではなく,伝統は水の浸潤するように下知不測の間にしか改変されないことは世界の歴史が示すところである」からである6)

 各隊に元神殿を創建し,日本人にも難解でよく分からない惟神之道を異民族に押えつけ祓の行事して寒中水垢離をとらせるまでになったのである。彼らに惟神之道の理解を求めることや天照大神の信仰を求めることは,日本人の支配を強化し思想分野を征服するものとしか受けとりようがなく,心奥に不満と反抗を蓄積したことは否定すべくもなく,表面上日本軍の武力圧倒の前に従順を装ったにすぎなかった。日本の敗戦とともにその潜在力が爆発し,各地で先ず第1に元神殿が破壊されたと伝えられたのである7)

 この反省は,武藤富男のように確たる特定の宗教的信仰を,恐らくもたないであろう人々の口から出てきたものである。武藤は,キリスト教を自分の宗教生活上の摂理にしていたはずの人物であった。けれども彼は,ほかならぬ満州国を構成する国民全体,つまり満州在住の日本人だけでなく,そのほかの「5民族」に対しても〈天照大神の精神:惟神之道〉に帰依することを強要していた。

 事実としてクリスチャンであった武藤富男は,満州国高官時代に放っていたきわめて異常な「反」キリスト者的発言を,敗戦後に彼自身における問題として十分意識化し,抜本的に反省をくわえていた〔→告白していた!〕ようにはみえない。

 満州国時代における武藤の言動は,キリスト教徒として観察すると,まったく〈似非クリスチャン〉のようであったというほかない。

 誤解のないように断わっておくが,筆者は,旧満州国時代の武藤が〈隠れキリシタン〉のようであったといっているのではない。

 戦時中,武藤という人物:満州国高官は,天照大神の精神〔「国本ヲ惟神ノ道ニ奠メル」「天皇教」〕と平和共存するために,自分の信じる宗教:キリスト教精神の基本教理,基本的にはモーセの第1戒「偶像崇拝」〔背教問題〕を,しばし棚上げしていたことになる。

 くわえて武藤は,つぎのような奇妙な発言をしていた。

 満州・満州国は,日本民族による第2のアメリカ発見である。日本民族が中心となり,各民族とともに治めていこうとする。日本民族は,みずからに与えられた職務を確く守っていくとともに,各民族に対して指導者たる民族の誇りをもつことが必要である。しかしながら独りいばって乱暴狼藉をはたらくとか,あるいはほかの民族のまえで変な格好をして指導者の面目,威厳を傷つけることのないようにしていかねばならない,と8)

   今日的な観点でいうと,「第2のアメリカ発見」なる表現をつかって満州の地を形容するのは,二重の意味での錯誤をはらんでいる。

 そのひとつは,中国という土地および中国諸民族との関連における錯誤である。

 もうひとつは,昨今指摘されているように,コロンブスの〈アメリカ発見〉という歴史的・地理的認識の問題である。なによりも,満州を「第2のアメリカ」と称した理解そのものが尋常ではない。というのは,そこには侵略者・支配者がわの有する地政的感覚しか感じとることができないからである。

 また満州国時代の日本人は,他民族に対して「独りいばって乱暴狼藉をはたらき,ほかの民族のまえで変な格好をして指導者〔日本人〕の面目,威厳を傷つけていた」わけであるが,満州国の重要人物であった武藤が,このような事実を戦後どのように自省していたか。いずれにせよ,どうもよくわかりにくいことがらである。

 【注 記】

 1)武藤富男「宝庫満州の実相」,満州能率協会『満州の能率』第3巻第7号,康徳8(昭和16:1941)年7月,16-17頁。

 2)同稿,17頁。

 3)町田辰次郎『皇国勤労観と産業報国運動』昭和刊行会,昭和19年,4頁。

 4)青山学院大学プロジェクト95編『青山学院と平和へのメッセージ』670頁。

 5)前掲,アジア民衆法廷準備会編著『戦争責任』137頁。

 6)満州国軍刊行委員会編『満州国軍』蘭星会,昭和45年,614頁。

 7)同書,611-612頁。

 8)武藤「宝庫満州の実相」17頁。

 


 

3.国家と信仰

 

 3-1 宗教弾圧への加担

 日本と東アジア諸国の関係において好対照の事例は,戦前における一方での,神社参拝の強制に抵抗して殉教の死を遂げた朱 基徹牧師以下50余名の朝鮮人牧師と,他方での,神社参拝を支持強制した日本基督教会大会議長冨田 満に代表される神と隣人を欺いた日本やキリスト者の,あまりにも深い非信仰的・非良心的罪責の問題とである1)

 冨田 満は,合同した日本基督教団の統理に選出されたが,1942年年頭にはみずから伊勢神宮に参拝し,教団の発足を報告,その発展を祈願している。

 冨田は,すでに1937年,朝鮮の平壌において平安南道のキリスト教信者120名以上をあつめ,神社参拝を決議させていた。この日本基督教団による,平壌神社強制参拝を拒否した多数のキリスト者たちは投獄された。その数は2千人あまりであり,そのうち50人以上の牧師が獄死したのである。

 またこの問題をめぐって,10校のミッション・スクールが廃校となり,2百の教会が閉鎖された。戦時中のこのような日本基督教団の非宗教的な行為は,「戦後も日朝両キリスト者の間にうめがたい深淵を作ってしまった」2)

 押しよせるファシズムの波のなかで日本のキリスト教会は,積極的に天皇制国家にすりよる姿勢をしめした。1941年6月成立した日本基督教団は30余教派を合同する結果生まれた。だがなかでも,とくに信仰熱心なホーリネス系教会の所属する,「旧6部9部」という暗号めいた名称を付せられた部門に属する教会と牧師は,合同から間もなく,治安維持法によって権力から弾圧された。

 それは, 1942年6月26日,教団が合同してからちょうど1年たった時であった。この検挙で116名の牧師が逮捕され取りしらべをうけ,「キリストと天皇とどちらが偉いか」といういいがかりで審かれた。その結果,81名が起訴されて19名が実刑判決をうけ,そのうち3名が獄死,4名が保釈後間もなく死亡するという事件である。

 そして,201教会と63伝道所が強制的に解散させられ,牧師はすべて教職の資格を剥奪され,のこされた家族がその日から生活に窮するというありさまであった。「“昭和”天皇史」のなかで、この事件は日本のキリスト教がこうむった最大の犠牲である。この事件は、日本基督「教団全体としては天皇制国家に忠誠を誓う姿勢を明らかにした」証しといえる3)

  「最大の偶像である天皇を“尊厳無比なる国体”として奉戴,唯一神の上に国体を置くことが真のキリスト教であるといった論理」という詭弁は,「権力から信仰を守るため,やむをえず取られた措置」ではなかった。

 強制されたのではなく,内発的なものであり,それゆえに積極的な実行によって多くの人心をとらえたのである。この論理:詭弁のまやかしに気づき,果敢に逆らった人々は国内でも苛酷な弾圧をうけたが,アジアの人々にもたらした苦しみは比較できないほどおおきい4)

 当時,日本基督教会大会議長最高責任者冨田 満は,「神社は宗教に非ず,国家の祭祀なり」との詭弁を弄し,神社参拝を強制するほどに信仰的節操を喪失してしまった5)。この詭弁は,武藤のいいかた:「民族神を敬うことは民族を尊ぶことであり,宗教とはちがう」と同工異曲である。

 1937~1942年にかけて生じた「朝鮮教会併合問題」がある。

 日本基督教会は,朝鮮基督協会に対して「合同または協調」を交渉の名目として,強制的に日基に加入させた〔この朝鮮基督協会は今日の在日大韓基督教会総会の前身である〕。

 在日本朝鮮基督教会〔当時の名称〕は,朝鮮語を使用すること,ならびに朝鮮基督教会として独自に中会を組織することを認めるよう強く要望したが,日本基督教会はそれをうけいれる意志はなく,まったく機械的・統制的な合同を,朝鮮基督教会に強要した。しかもそのさい,日本基督教会当局にみられたものは,弱者に対する上からの保護を強制することをもってよしとする強者の論理であった。

 それは明らかに1939年,朝鮮総督府によって公布強制実施された創氏改名,つづいての朝鮮語の学校教育での禁止による事実上の朝鮮語の使用禁止にもとづく,日本国内における朝鮮基督教会に対する徹底的順守の指示内容にほかならなかった。

 それはまさしく,朝鮮民族に対する「皇民化」「内鮮一体による融和」政策を名目とした,差別と強制支配にもとづくキリスト教植民地支配の国内版であった。そこには,主にある兄弟姉妹としての血のかよった愛の交わりとは本質的にかけはなれた,脱亜入欧にもとづく天皇制を頂点とする東亜の盟主としての民族的優越感と差別意識が,根源的信仰思想として具有されていた6)

 【注 記】

 1)金田『昭和日本基督教会史』222頁。

 2)前掲,アジア民衆法廷準備会編著『戦争責任』283-284頁,286頁。

 3)高橋寿臣・天野恵一編著『撃ちくずせ天皇制』あずさ書店,1989年,232-233頁,236頁。

 4)前掲,アジア民衆法廷準備会編著『戦争責任』289頁。

 5)金田『昭和日本基督教会史』237頁。

 6)同書,239頁,240頁,246頁。

 


 

 3-2 国家権力に対する個人の信仰

   朝鮮基督教会の併合にさいして日本基督教会は,すべて長老主義に立脚した改革的信仰告白を有する,日基とまったく同一教派の教師であるにもかかわらず,「教役者の再試験」を朝鮮基督教会の牧師に課した。

 1942年2月16日におこなわれた「加入教師試問」会において,その試問をうけるがわの1人となった呉 允台 (オ ユンテ) 牧師〔当時の日本姓名は呉山允台〕は,試問委員たちにこう反問した。

 私は,韓国長老教会から牧師になったのに,なんのためにまた試験しますかと聞いたんです。そうすると,いや,私たちの方はそれを認めないから,こちらの試験をしなければならないと。それで私は,その権利は誰からもらいましたか,その権利は,イエス様からもらいましたか,悪魔からもらいましたか。

 だが日本基督教団は,キリストの真理より発する質問じたいを拒否し,それを信仰告白に対する理解にとぼしいという詭弁をもって,呉 允台牧師を処分した1)

 呉 允台が「悪魔」と指摘した人物が誰を示唆していたかは,いうまでもなく明々白々であろう。筆者は,日本の官憲に水攻めの拷問をうけたことがあるよと,戦時中の体験談をニコニコ笑いながらはなしてくれた呉 允台の表情を,いまも鮮明に思い出す。

 武藤富男の信仰告白「背教の罪」がなされた精神次元は,このような呉 允台の体験した出来事とは別世界にあった。だが別世界とはいっても,呉 允台の受難がくりひろげられていた場を,武藤も時間的・空間的に共有していた。これは歴史的な事実であった。

 だから,「国家権力により宗教の国家的統一支配に教団として組みこまれ,天皇の命ずる侵略戦争に加担していった日基自体の有する体質からする,軍国主義・超国家主義を容認する立場からの批判的言動に対する反日的信仰思想に対しての一種の処分2)をするがわに,満州国高官としての武藤もまちがいなく同席していた。

 ここで,図「15年戦争下の権力組織略図」(家永三郎『戦争責任』岩波書店,1985年,本文冒頭「図解」)を参照しておきたい(ただし,このページ上では省略した)。とくに,国家宗教「神道」に関係する官庁組織部署の多いことのみ,文章で注記・留意しておく

 旧日本政府のこのような権力組織構造の中心部に籍をおいていたクリスチャン官吏が,日常生活のなかで自己の護るべきキリスト教的信条を貫徹することじたい,非常な困難を感じるだろうことは理解できる。

 しかしだからといって,特定の宗教をいただく人間が,その信仰心の本旨「使徒信条」に背くほかない,旧日帝官僚としての日常生活を過ごしてきたとしたら,これは,宗教を抑圧していた国家暴力の指図に忠実であった〈一クリスチャンの自家撞着〉の痕跡を,歴史にのこしてきたことになる。

 ところで,旧日本帝国軍人であっても,「士官への途絶たるる時か天皇を神と言はじと決めて立ちたり」と自分の行為を歌に詠んだ者の,こういう実話がある。

 「畔上さんは幹部候補生に,なぜ志願しなかったんですか」。

 「志願はしました。だけど落とされました」。

 理由は……。口頭試問で試験官から,「おまえの神は,天皇陛下か,それともキリストか?」と質問された。彼はクリスチャンであった。試験官はそのことを視野にいれての質問だった。彼はためらうことなく答えた。

 「自分の神はイエス・キリストであります」。

 「それでもおまえは日本人か」。試験管にどなられ,彼は幹部候補生の資格を棒にふった3)

 その旧日本陸軍二等兵渡部良三は,八路軍だとされた中国人捕虜の刺殺を,キリスト教信仰精神によって拒否した。このため渡部は,以後いっさいの資格を剥奪され,ときに人間あつかいさえうけられず,敗戦し復員時にもなお「大日本帝国陸軍二等兵」(最下級)であった。

 渡部はいまなお,その段階であったことを“光栄”に思うといっている。渡部に対する爾後のリンチと差別は,ゲートルリンチ,対向ビンタ,水責め,匍匐,捧げ銃,殴打(帯革,軍靴,銃把)等々,人知で考えられるであろうほとんどの私刑を,死をのぞいて経験することとなった 4)

   つぎの発言の主は,戦争中の朝鮮で神社参拝に反対して5年間投獄され,そして釈放されたキリスト教伝道師趙 壽玉 (チョ スオク) である。「日本にいる天皇というものは,神ではありません。人間です。人間を神としてあがめるということは,私の〔キリスト教〕信仰では,神の前での大きな罪です」5)

 こうした話を参考に考えよう。武藤富男は,クリスチャンであって守らねばならなかった自信の宗教的な (イエスキリストの) 宗教的な立場よりも,旧天皇制国家体制下の一臣民であった公的立場を最重要とみなしていたことが,ますます明らかになってくる。

 戦時中の日帝下を生きぬいてきた人間同士としてみるさい,自己の信じる宗教精神に忠実にしたがっていたのは,満州国高官の武藤ではなく,一兵卒のままに止めおかれた「畔上さん」や「渡部良三」であり,そして朝鮮人女性伝道師の「趙 壽玉」であった。

 あの戦争の時代,「畔上さん」は幸いにも,クリスチャンであることを理由に致命的にまで危害をくわえられることはなかった。だが,日本人兵士の渡部や朝鮮人伝道師の趙はひどい迫害をうけた。

 ともあれ,彼らは,〈地上の現人神〉を信仰の対象にえらぶというまちがった道をすすまず,〈天上の神〉から指示されたキリスト教的な信条に忠誠を誓っていた。そのゆえ,日本軍人の畔上は軍人としての昇進〔名誉〕を棒にふり,渡部は二等兵にとめおかれ,残酷な私刑をうけた。趙は「口では言い表わせない」迫害をこうむった6)

 それにくらべ,満州国総務庁弘報処長〔帰国後は日本政府情報局第1部長〕武藤富男のばあい,自分の公的高位をうしないたくないがためだったのか,キリスト教徒として守りとおすべき〈信仰心〉の不在を白日のもとに晒したのである。

 すなわち,「教会と国家というものを二元論的に二つの領域に分離して考える」というまちがったキリスト教は7),民族神と同一視され,歴史的状況への批判的視座を喪失し,天皇制国家のイデオロギーとなり,戦争の正当化をおこなったのである8)

 【注 記】

 1)金田『昭和日本基督教会史』247頁,248頁。傍点は筆者。

 2)同書,247-248頁。

 3)加藤好悦『戦争と我が青春』新風舎,1997年,202-203頁。

 4) 青山学院大学プロジェクト95編『青山学院と平和へのメッセージ』473頁。

 5) 戦争犠牲者を心に刻む会編『アジアの声第5集 証言・清算されていない朝鮮支配』東方出版,1991年,69頁。

 6) 趙 壽玉については,戦争犠牲者を心に刻む会編,同書,63-70頁参照。

 7) 武田武長「世のために存在する教会-戦争責任から環境責任まで-」新教出版社,1995年,54頁。

 8) 金 文吉『近代日本キリスト教と朝鮮-海老名弾正の思想と行動-』明石書店,1998年,118頁。

 


 

 3-3 明治学院と武藤富男

    戦後,武藤富男が学院長を勤めたことのある明治学院の関係者は,『未来への記憶-こくはく敗戦50年・明治学院の自己検証-』(明治学院敗戦50周年事業委員会編,ヨルダン社,1995年)という著作を公表している。以下,長めの引用となる。

 「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」より。一般的に私学は,国家権力に対し弱い立場にありました。それにもかかわらず明治学院は建学の精神である「キリスト教に基づく教育」を守ってきた輝かしい歴史をもってきましたが,かの侵略戦争に協力するという罪を犯してしまったことは,主イエス・キリストの御前に言い逃れることができない事実であります。

 もとより,私ども後世の,その時代の厳しさを直接体験していない者が,戦時下の指導者たちに「石を投げる」資格はむろんないでしょうし,彼等や組織の全体を裁くことが出来るのは,唯,主なる神のみであることは言うまでもありません。

 しかし,戦争の惨禍を被侵略者・被抑圧者・殉教者の側からの,いよいよ増大する証言をとおしてより広くより深く知らされてきた私どもは,当時よりももっと全体的・客観的に事柄を見ることができる立場におかれています。ですから,当時の指導者たちが犯していた過ちについて,むしろ私たちが主の前に告白し,人々に謝罪せざるを得ないのです。それは彼等を鞭打つためではなく,私ども自身が同種の過ちをこれから繰り返さないためなのです。

 1931年の「満州事変」,1937年の「日華事変」のあと,政府は1939年の「宗教団体法」に基づき,41年6月,宗教界を統合し国策に協力せしめるべく「日本基督(キリスト)基督教団」を結成させていました。この教団「統理」冨田 満牧師は自らも伊勢神宮を参拝したり,朝鮮のキリスト者を平壌神宮に参拝させたりしました(1938年)が,このことが朝鮮の多数のキリスト者を殉教に追いやり,戦後も日朝両キリスト者の間に埋めがたい深淵を作ってしまったことは否定すべくもありません。朝鮮・台湾ではこの神社参拝問題のために多くのミッションスクールは存廃の岐路し立たされたのです。この冨田氏は,戦中から引続き,戦後も,数年間にわたり明治学院の理事長でした。

 また,1939年,明治学院学院長に就任した矢野貫城氏は,宮城遥拝,靖国神社参拝,御真影(ごしんえい)御真影の奉戴等々に大変積極的に取り組みました。同氏も主への罪の告白を公には果さぬまま,戦後しばらく学院長としてとどまりました。

 これらのことに関し,明治学院は今日まで主の前にその罪を公に告白し,侵略された国々の人々に謝罪をしたことがなかったのです。「飛べ日本基督教団号」という掛け声のもとで集められた戦闘機献金,また当時の機関紙『教団時報』で「殉国即殉教」が主張され天皇の国家へのキリスト者の無条件の服従が日本基督教団の名によって勧められたとき,冨田氏らもその最高級の責任者だったのにです。

 当時の全体主義的風潮の厳しさ,またその重圧のもとで「主の器」としての教会組織を守らんとした指導者としての苦心,といった点を考慮したとしても ,それらが冒頭に述べた悲惨をもたらした日本の国家的犯罪に組み込まれていた事実は否定すべくもありません。こうした状況のもとで,侵略戦争に加担させられ,学徒兵として出陣していった多くの当時の学生たちのことを思うと,教師として,学校長として深い悲しみを覚えざるを得ないのです。

 また,朝鮮・台湾などからの学生たちをも含みつつ多くの若者を戦地に送った当時の教師たちの苦悩の深さに思いを馳せる次第です。これらのことについて,少なくとも,「敗戦」という主の審判が下ったところで学院指導者たちの反省の告白と謝罪がなされるべきだったのではないでしょうか。

 しかしながら,戦後においても反省と謝罪が公になされなかったばかりか,こうした侵略戦争で亡くなった日本の戦死者を「英霊」(ひいでた霊魂)としてまつろうとする「英霊」思想は明治学院からも消え去りはしませんでした。

 明治学院の理事者,明治学院の「建学の精神」を保持する主体としての理事会の中の1人である田上穣治氏が,公権力の「英霊」参拝を積極的に推奨してきたのです。それは,戦時下に冨田氏らが犯していた誤りと全く同種の罪―-死者を神としてあがめる「偶像崇拝」という,『聖書』に自己啓示されている私どもの主なる神が最も忌み嫌うその罪-―が,明治学院との関係において戦後も引継がれてきていた証左の1つなのです。

 私どもは先ず自らに最も身近な明治学院の戦争責任・戦後責任を深く自覚し,主キリストの前にそれを告白し,人々の前にそれを公にし,戦禍におかれた国々の人々に向かって謝罪することにより,毅然としてこの時代に対処し,「この曲がれる邪悪なる時代にありて神の瑕なき子と」なり,「生命の言を保ちて,世の光のごとく此の時代に輝」(ピリピ2章15節)き続ける力を備えられたいと祈らずにはいられません1)

 ずいぶん長い引照になったが,以上のような〈キリスト教者らしい信仰告白〉をせず,これをあいまいにごまかしとおし,戦後の世界にうまく自分を適応させていった武藤富男の,「背教の罪を犯した」過去に関する「告白」はもともと偽者であったか,あるいは「信仰告白」以外・以前の〈なにものか〉であった。

 戦後,明治学院はこの武藤富男も学院長に迎えていた。だが,明治学院敗戦50周年事業委員会編『未来への記憶-こくはく敗戦50年・明治学院の自己検証-』のなかに,武藤富男学院長という人物に関する記述・言及はみられない。

 武藤に決定的に欠けていたことはなにか。こういうことではないのか。

   すなわち自分たちの暗黒の部分とでもいうか,罪の部分,それを過去にさかのぼって見出し,そして,それを告白するという姿勢,これ自体が実は私どもの学院が土台としているイエス・キリストを信じる者にふさわしいあり方ではないかと思っているのです。自分の内面のもっとも深い罪,自分の中に悪があるということを自覚し,神と人との前にそれを告白するということ,これはキリスト信仰の原点です2)

 武藤富男は,過去の自分に生起していた内面の問題,暗黒・罪の部分に十分気づいていながら,指導者なクリスチャンとして,それを公に告白することを回避していた。つまり自身はキリスト者であり,この信仰告白にそって言動しなければならないことを明白に意識していたにもかかわらず,その原点であるキリスト信仰の核心をぼかしながら,戦中,そして戦後を生きぬいてきた。このような人物を,明治学院はミッション教学体制の最高責任者に迎え,据えていた。

 あの当時は,仕方がなかったとか,自分たちの国だけではないとか,教会や学校をつぶさないためにがんばってきたというふうに言うわけです。しかし,実際は,朝鮮半島では教会がつぶされ,学校がつぶされ,それから神社参拝を拒否した人が殺されているわけです。そして,敗戦後,韓国の牧師たちが「自分たちは神社参拝した」ということで責任を感じて,2か月ぐらい山にこもって悔い改めたわけですね。それからすると,われわれの学校の指導者なども含めて当時の日本の人たちは悔い改めがなく時流に乗ってコロッと変わっている3)

 キリスト信仰における心の守りかたに関して,彼我のあいだでは基本的な相違がある。

 それは,「自分の命を賭けて信仰を守るか否か」にあった。キリスト者でありながら世俗の権威と手を組み,同教の信徒を死に追いやる行為をしていたクリスチャンは,その風上にもおけない。

 信仰を守る者として,まず神の国に忠誠を誓うのではなく,地上にある人の国の掟に囚われていたのである。クリスチャンとして定められた精神 (たましい) にしたがって肉体 (げんせ) を生かすのではなく,肉体の保持のために《たましい》を地上にあるカイライ国に売りわたしていたのである。

 そのカイライ国の皇帝は溥儀であり,この溥儀をあやつっていた高位者は日本帝国の天皇であった。

 日本天皇の祭る宗教神は,キリスト教信仰の神とは全面的,絶対的に背馳するほかないものであった。その神々のあいだに妥協などありえない。妥協はそのどちらか一方の没滅を意味した。

 武藤富男は,キリスト教的な信仰告白として,満州国高官時代における自身の非クリスチャン的な言動の軌跡を徹底的に剔抉しえなかった。このことは,ある意味では当然であった。そうすることになれば武藤は,日本敗戦以降における自分を,無にひとしいものになったと宣言しなければならなかっただろう。

 ある宗教を信仰するさい,その信仰を実直に守りとおすこと,自分の信仰心に忠実であること,その信仰する精神において自身はもちろん他者もあざむかず誠実であること,これらはいずれも至難のわざである。だがこれらは,生命を賭けて真実の信仰を守り生きていくためには必須の条件である。とはいえ,それらを神に対する信仰において堅守することは,それこそ「ラクダが針の穴をとおる」よりもむずかしいのである。

 武藤は聖人ではなかったが,満州国の要人であった。一国の公人としての「行動」に,私人としての「信仰」が無関係でありうるわけがない。

 いまはなき人であっても,なお武藤に求められるべきは,敗戦後における,「背教の罪を犯した」うんぬんにかかわる信仰告白の不徹底性に対する内省であろう。これは,無理難題ではない。その気になりさえすれば,武藤は生存中に,満州国時代の〈真の〉信仰告白をなしえていたはずである。彼がそれをなしえずに自分の人生を終えたのは,やはり人間として,なにか弱さをかかえていたからではないのか。

 つまり,「日本人としてではなく,クリスチャンとして」不徹底な姿をのこした自分のみきわめたくなかったからか,あるいは,「クリスチャンとしてではなく,日本人として」自身の〈本当の〉姿をかえりみたくなかったからか。武藤は,自家撞着する自分の行跡を整理しきれなかった。このため,クリスチャンとしては許されえない他民族差別観を,「国家」的「信仰」に依拠しながらのこしたのである。

 【注 記】

 1)明治学院敗戦50周年事業委員会編『未来への記憶-こくはく敗戦50年・明治学院の自己検証-』ヨルダン社,1995年,9-11頁,12頁。

 2)同書,14-15頁。

 3)同書,37頁。

 


 

 3-4 仏教者の国家神道批判

   市川白弦『日本ファシズム下の宗教』(エヌエス出版会,1975年)は,武藤富男にとって耳が痛い発言を放っている。戦時期の宗教に対する,本書の「批判」を聞いておきたい。以下の諸項目はすべて,武藤の考えにも当てはまるものである。

   a) 戦争犯罪と戦争責任は,われわれの平常心においてはじまるのであって,非常心にはじまるのではない。自分の足を牛の皮でつつんでいれば,それで十分というわけのものではない。鳩の素直さと蛇のさかしさを,とイエスは説いている。

   b) 天皇神道は「宗教的ではない」とする理由があいまいである。ここに老獪な欺瞞がみてとれる。国家護持法施行という結論がさきにあって,これの理論づけをあとから考えるというところに,発想の錯乱と図々しさがある。

   c) 日本の仏教〔キリスト教〕が,朝鮮・台湾における皇民化運動に協力したように,国内においても国家神道の精神的植民地づくりに協力した責任を明らかにし,この罪責を負う課題がわれわれに負わされている。

   d) 要するに,肉体的生命への愛着が,真理への愛よりもおおきかったのである。もしも正理――とくに社会倫理の領域での――を主張し,それにしたがって行動することを恐れない態度に私が欠けることを,戦争が明らかにした。歴史の現実に対する具体的批判が困難になるにつれて,自分の期待と希望を現実のなかへ読みこむことによって,現実を合理化し,思考と行動の怠慢と無力へのやましさを,漸次忘れるとともに,歴史的現実にかかわる発言が,したがって発想が,やましさへの自己説得もしくは自己弁護をふくむことになった。すべてが灰色であり,あやふやであり,その日ぐらしであった。

    e) 日本の帝国主義を,理論的には否定しながらも,この責任の自覚が実感として稀薄であった。過去について責任をもたないで,どうして未来に対して責任をもつことができよう1)

    以上5項目の批判は,こういうことを意味する。

 戦時中「自分の足を牛の皮でつつむ」ことのできていた,旧満州帝国高官の〈キリスト教徒〉武藤富男は,植民地における皇民化運動に公務上協力していたという「自分の罪責」を,あいまいなままにごまかしとおしてきた。というのも,武藤の精神においては,〈宗教的〉真理への愛よりも「肉体的」生命への愛着がおおきかったためである。そのさい彼は,旧日本帝国の護国的な国家神道の真意義をあいまい化させ,それは〈宗教ではない〉といいわけしていた。

 それゆえか,戦後における武藤は,過去の「歴史の現実」に対する「具体的批判」を徹底できていなかった。この困難は,彼自身における思考と行動の怠慢と無力に原因していた。クリスチャン武藤の告白は,すべてが灰色,あやふや,その日ぐらしであり,自己説得と自己弁護に終始していた。その意味で,彼の告白は告白になっていなかった。

 武藤富男を指弾することになる市川白弦の発言を,さらに聞いておこう。

 われわれの罪責は,戦前‐戦中‐戦後をつうじてつらなっている。われわれの戦争責任を,とくに戦争責任としてとりあげることは,適切ではない。歴史的世界の悪を傍観して自己の清潔を守る宗教者の「徳」を,ディートリッヒ・ボンヘッファーは宗教者の「敬虔なる怠慢」とよんでいる。われわれの戦争責任の反省が,天皇制に対する批判と,われわれの内なる天皇制的エートスに対する自己批判を欠くならば,それは不徹底というほかない2)

 1933年,ヒトラー政権が成立したとき,多くのドイツ人は歓びの声をあげて,これにしたがった。しかし,ドイツの誤りをしり,苦悩のなかに決然と立ちあがった人々もいた。その少数者のなかに,キリスト者たちの「告白教会」運動があった。彼らは,ナチス政権の登場を許すにいたったみずからの内面を告白し,信仰の原点に立ちもどって,神をも政権に従属させようとするナチスに異議申したてをおこなった。その光は,はじめはちいさいものだった。

 もちろん,犠牲も強いられた。マルチン・ニーメラーはじめ多くの指導者が捕らえられ,ディートリッヒ・ボンヘッファーはゲシュタボによって死刑に処せられた。だが,告白教会運動は持続し,戦後には,彼ら自身をふくむドイツ人の戦争責任を追及する運動としてひろがり,西ドイツの歴史認識を正し,ささえるおおきな支柱となった3)

 かつて日本帝国主義は,「神をも政権に従属させる」というよりも,「政権をも神〔これを正確に表現すると「神」ならぬ「現人神」〕に従属させる」という過ちを冒した。キリスト教徒である武藤富男にもわかることばをつかい,ここまでの批判的議論をさらにくりかえそう。

 【注 記】

 1)市川白弦『日本ファシズム下の宗教』エヌエス出版会,1975年,
   a)  31頁,
   b)  66頁,
     c)  67-68頁,〔 〕内補足は筆者,
     d)  121-122頁,
     e)  123頁,23頁。

 2)  市川白弦『仏教者の戦争責任』春秋社,1970年,3頁,4頁,5頁。

 3)  安江良介『同時代を見る眼』岩波書店,1998年,168頁。

 


 

官僚と政治と宗教

-「満州国」官僚武藤富男の事例(2)-

 


 

3.国家と信仰〔の続き〕

 

   3-5 キリスト者の戦時と戦後

  「キリスト教徒はあれでよかったのか」

 敗戦後日本にやってきたアメリカ人宣教師は,日本人のキリスト教指導者に対して寛大な態度をしめした。戦争中,米英撃滅の祈りをささげ,国策に全面的に協力した牧師たちをきびしく追及せず,むしろ日本国民のキリスト教化のために立ちあがるように激励した。

 そればかりではない,戦争犯罪追及の声が高くあがって,各界の指導者・責任者がつぎつぎと公職を逐われたとき,宗教界だけは平穏無事であった。

 そのような空気のなかで,キリスト教徒のそうとうな部分がいい気になってしまって,神の前にこうべをたれた戦争体験をかみしめ,自分のあやまちを人びとのまえに告白することを忘れてしまった1)

   考えてみれば,たわいない。昨日までは口にしただけでも「非国民」と指弾された「自由」と「民主主義」が,占領軍という新しい権力によって提示されるまま国是となり,神国イデオロギーが崩壊した後の空白を埋める格好のよりどころとなる。

 目の当たりに見る「鬼畜」は陽気なヤンキーで「解放軍」と呼ばれ,豊かな物質文明と民主主義の体現者となる。「文化国家」などという内容空疎なスローガンがしたり顔で叫ばれたのは,「武」に対するに「文」をもってするという知識人流の思い付きだったろうか。要するに,もう軍国主義はやめました,というだけのことである。

 こうして,日本国も日本国民も,あっさり“アメリカ教徒”に転向してしまったのである。

 いわゆるアメリカニゼーションは,日常生活の分野でも急速に進んだ。日常些細な禁止事項にまで「進駐軍の命により」と但し書きが付くかとみれば,生活・風習を語る会話にも「アメリカでは」と注釈が入る。

 あるいは当然のことながら,まずブームとなったのは英語学習熟だった。たとえば敗戦のその年9月15日に出版された『日米会話手帳』(科学教材社)は増刷に増刷を重ね,なんと1ヵ月ほどで360万部を売った。出版社の社長が8月15日に出張先の千葉県で天皇の詔勅放送を聞き,その場で思い付いたというキワモノ出版である。

 翌年にはNHKで平川唯一の「英語会話」の放送が始まった。……「カム・カム・エブリボディ……」と歌うテーマ音楽は,日常生活の中に溶け込んでいたといっていいだろう。戦中は「適性語」として語ることも読むことも禁じられていた,あの英語が,である。いずれも街頭でアメリカ兵相手の,いわば即席の日米親善用に役立った。

 「古い上衣よさようなら」という歌の文句どおり,占領軍という権力に迎合し,自ら積極的に求めたわけでもない「民主主義」というお仕着せに衣替えしただけ,民主主義の理念そのものは,どうやら田中絹代の「ハロー」なみにファッション化したといえそうである2)

 --敗戦直後,昭和20年11月,武藤富男は日米会話学院を創立し,初代院長をつとめる。

 昭和21年4月,キリスト新聞を創刊し,専務兼主筆となっている。

 また昭和22年秋,日本キリスト教団補教師試験に合格していた。

 占領軍統治下,経済・政治民主化の道を指南されていた日本社会にあって,武藤のこのような生きかたはもっとも適応的であり,かつ賢明なものであった

 武藤は,満州国政府の高官であったにもかかわらず,東京裁判には証人として召喚されるにとどまった。戦後において武藤のおこなっていた「告白とはいえない告白」にはあいまいさが充満していたが,その由来は,上記のごとき彼の巧みな処世術とむすびつけて分析されるべきものである。

 天皇の軍隊で将校の地位にある〔武藤は満州国高官だった〕ということ自体,幾つもの点でキリスト教信仰と矛盾する。そういう過去を引きずる人間が,戦後の教会の牧師をしていて善いのか?

  戦後武藤は牧会者の資格をとり,占領下の日本社会をうまく生きていった〕……法廷が開かれたならば,執行猶予になるかもしれないが,無罪宣告は出来ない……〔武藤は昭和18年に日本にもどっていたので,満州国高官を務めていたにもかかわらず公職追放指定をうけただけで,運よく法廷には引き出されなかった〕

 そこまで曖昧さを排除する姿勢を示さなければ,キリスト教は良心の宗教としてこの国に存在する意味はない……。キリスト教はして良いこと・いけないことの規準を持っている。その規準を守らなかったことについて,戦後,自己審判を回避するならば,それ自体が戦争中の罪の再生産になる。……キリスト教は初期からこの原理……「人に従うよりは神に従うべきである」という原理である。それを曖昧にした責任は追及されねばならない3)

   敗戦後,日本のキリスト教会は,キリスト教そのものにふさわしい再出発からは,およそかけはなれた再出発をすることになってしまったといわれるが4),武藤富男のばあいも同様であった。

 ひとまず満州国時代の行跡をわきにおくとしても,敗戦後,武藤のキリスト教徒としての再出発は「再出発」とはいえなかった。というのは,いまわきにおくとした《満州国時代の宗教精神》を,そのまま活かした処世術にすぎなかったからである。

 武藤を支配した宗教精神は,戦時期は国家神道であり,敗戦後はアメリカを中心とした占領軍のもたらしていた「なにものか」であった。

 武藤に問われるべきことはなにか。

 戦前期,「ドイツの教会と同じように日本の教会も〔全体主義国家に〕抵抗したとは,いくらひいき目にみても言えないからである。15年戦争をくぐり抜けてきたキリスト教徒ひとりひとりは,……教会の姿,自分自身の姿を振り返ってみた時,多かれ少なかれうしろめたさはあったにちがいない」5)。したがって,たいがいにおいて,日本のクリスチャンの戦争罪責の認識は曖昧なところがある6)

 日本では,キリスト教会関係者のみならず,戦争犯罪者が過去の罪をいささかも反省せず,ほとんど追及もされなかったため,彼らが戦後も羽をのばし,権威者として君臨することになった。むしろ彼らは,戦争犯罪の追及に牙をむいて反撃するほどであった7)

 もっとも武藤のばあい,クリスチャンであるという最低限の矜持があって,「戦争犯罪の追及に牙をむいて反撃する」態度とは無縁だったようである。また彼のばあい,そのような態度をとる必要性もなかった。というのは,「日本の敗戦直後に乗り込んできたアメリカの占領軍……GHQ が,日本の戦争犯罪者を免責した」8)だけでなく,先述のごとく日本のキリスト者を特別あつかいしてくれたので,敗戦後の日本は武藤にとってまったく息苦しくなかったからである。

 「敗戦を境に大人たちの態度は一変するが,その意味も説明されなかった」9)

 ともかく,「古きずには触れたくない,触れてもらいたくないという心理は,かなり多くのキリスト教徒に共通したものであった」。それは「日本の教会の質,ひとりひとりの信徒の信仰の質」である。武藤富男の告白におけるあいまいさは,その心情を推しはかってみるに,理解できなくはない。なぜなら,「自分が加害者の1人であることを神と人の前に認め,戦争責任を語ることは,いつまでたっても気の重いことである」からである10)

   昭和にはいって,戦争の危機がようやく感じられはじめたとき,キリスト教界の指導者たちは,おびえてしまったのか,いうべきことをいわず,牧されている羊たちもどうしていいかわからず,ぼんやりしていた。

 戦後出版された牧師,神学者の自叙伝の戦時下のくだりは,なんとそらぞらしいことであろう。主イエス・キリストに対して申しわけないと思いながら,いうべきこともいわずに過ごしていた自分について正直に告白している人も,日本のどこかにいたにはちがいないが 11)

 【注 記】

 1)同志社大学人文科研究所キリスト教社会問題研究会編『戦時下のキリスト教運動1』新教出版社,1972年,和田洋一『キリスト教徒はあれでよかったのか-序説に代えて』1-2頁。

 2)石田健夫『敗戦国民の精神史』藤原書店,1998年,69-70頁,79頁。

 3)アジアに対する日本の戦争責任を問う民衆法廷準備会編著『戦争責任-過去から未来へ-』緑風出版,1998年,126頁。〔 〕内補足は筆者。

 4)前掲,同志社大学『戦時下のキリスト教運動1』,和田「論稿」2頁。

 5)同書同稿,4頁。〔 〕内補足は筆者。

 6)前掲,アジア民衆法廷準備会編著『戦争責任』133頁。

 7)広瀬 隆『腐蝕の連鎖-薬害と原発にひそむ人脈-』集英社,1996年,270-271頁。

 8)同書,272頁。

 9)中田雅子〔62歳〕「テーブルトーク-疎開体験を通して描く9歳の少女がみた戦争-」,『朝日新聞』1998年8月31日夕刊。

 10)前掲,同志社大学『戦時下のキリスト教運動1』,和田「論稿」5頁,3頁,6頁。

 11)同書,和田洋一「再版に際して」20頁,21頁。

 


 

 3-6 日本基督教団「戦責告白」

 日本基督教団総会議長鈴木正久の名において,「第2次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が発表されたのは,昭和42年であった。

 もっとも,日本基督教団のこの「戦責告白」〔1967年〕は,ほとんど鈴木正久が独力でおこなったことであった。それまでは「戦責告白」はおろか,教団の存在意義・信仰的位置づけに対してすらまっこうからとりくんだことは一度もなかった。

 戦前の教団の体質と戦後の反動のためか,やはりキリスト者といえども,日本人的体質から逃れることができなかったのだろう。結局,まちがいのもとは「一億総懺悔」にあったといえる1)

   ちなみに,日本の宗教教団が,かつての戦争協力について自己批判や責任告白したのは,1967年の日本基督教団が最初である。仏教教団では,それから20年ほど遅れて,浄土真 宗をふたつの教団〔東本願寺を本山とする真宗大谷派,西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派〕がおこない,1992年11月,曹洞宗がこれにつづいた。

   また,植民地政策に対する国家と仏教教団の共同歩調は,どうであったか。

 本願寺派の「軍人法主」の先代の大谷光瑞法主は,第2次近衛内閣の参議,大東亜建設審議会委員,小磯内閣の顧問を歴任した。連枝 (れんし) 〔法主を天皇にたとえると連枝は皇族ということになる〕で,宗務長も務めた大谷尊由 (そんゆう) は,第1次近衛内閣で拓務大臣という植民地経営の中枢の役職にあったし,北支那開発株式会社という国策会社の総裁であった。本願寺派と大谷派は,この会社と,かの満鉄〔南満州鉄道株式会社〕の大株主であったので,戦後,その負債が教団におおきく響いたほどである2)

   武藤富男『私と満州国』(文藝春秋)の刊行は,1988年〔昭和63〕年であった。この時期的な関係から判断しても,結局,日本基督「教団内に予想外に多い」上記の「告白の公表を快しとしない人びと」3)に,武藤も属していたのである。その意味で武藤は,日本のクリスチャンを,よくも悪くも平均的に代表する人物であった。

   同志社大学の和田洋一は,「戦時下,いうべきこともいわずに過ごしていた自分について正直に告白している人」=「キリスト教界の指導者」が「日本のどこかにいた」ら,「そのような人の日記・手紙・著作などの存在がわかれば,どうぞ教えていただきたい」と書いていたのであるが,武藤富男のようにその記録を著わす人物はいても,〔武藤富男『再軍備を憤る-追放者の告白-』文林堂,昭和26年参照〕和田洋一の希望をかなえてくれるような人物はなかなかいない。

 鈴木正久の告白「戦責告白」をめぐり,日本基督教団内で生じた戸惑いや反発は非常に強かったのである。

   だから和田洋一は,最後にこう断わっている。

 キリスト教は唯一神教であって,聖書の教える神以外の神をうやまうことを認めないのであるから,そのような宗教は国体〔天皇制〕を否定するほかない。いいかげんなクリスチャンというのは世の中にいくらでも存在しており,教会の礼拝に出席したり,伊勢神宮で最敬礼をしたり,天皇陛下に対してもうやうやしく頭を下げて平気な人たちは治安維持法がいくら改善されようとどうでもよかったが,まともなクリスチャンだと自分で思っている人はいったいどうだったのか。悪い時代がまたきたらどうするつもりなのか,と4)

 旧満州国時代の武藤富男は,同国高級官吏である自分の地位を守るために,クリスチャンである自分の信仰を国家に従属させることをいとわなかった。天上の唯一神イエス・キリストを,地上にいた天皇という生き神にかしずかせ,貶め,辱めていたのである。武藤のこの姿は,キリスト教徒の基本教理に背く「いいかげんな〔偽〕クリスチャン」像を彷彿させるといってよい。

 ところで,韓 晳曦『日本の朝鮮支配と宗教政策』(未來社,1988年)は,第3章「神社参拝の強要と抵抗」のなかで,Ⅴ「終戦直前のキリスト教徒抹殺計画」という恐ろしい話にふれている。筆者は,クリスチャン官吏であったという武藤富男の行跡を観察してきたが,上記の朝鮮人「キリスト教徒抹殺計画」に異議を申したてるような勇気が,武藤にあったとは,とても思えない。

 戦時中,武藤富男が服従していたのは,明治以降につくられた,つぎのような日本伝統の思念であった。これによって武藤は,キリスト教徒を護るべき唯一神を,日本における「八百万神」のひとつに格下げし,無意味に化したのである。彼は,キリスト教徒であるまえに,単なる「日本」教徒であったことになる。

 天照大神は皇祖であらせられ,同時に 天皇の御本質であらせらるゝ如く,八百万神は臣民の祖先であり,臣民の本質である。八百万神は 天照大神に帰一しつゝあくまで夫々の分眼に在って敢て 天照大神を犯す所がない。君を主とし民を従とし,君を本として民を末とした厳乎たる差別がありつゝ,お互ひに必要欠くべからざるものであり合ふことによって完全に幸福である。差別に即して無差別平等である。高者高平,低者低平が真の平等であって「西洋的」なる平等,均一的正義は日本に適用しては悪平等である5)

   「君を主とし民を従とし,君を本として民を末とした厳乎たる差別」は,日本帝国および満州帝国の基本精神であった。君が天皇であったばあい,民は日本臣民であった。また前者が日本民族であったばあい,後者は〈民族協和〉の対象となった「東亜の他民族」であった。そこにキリスト教精神のはいりこむ余地はなかった。

 【注 記】

 1)青山学院大学プロジェクト95編『青山学院と出陣学徒-戦後50年の反省と軌跡-』発行者:青山学院大学 雨宮 剛,1995年,68頁。

 2)菱木正晴『浄土真宗の戦争責任』岩波書店,1993年,3頁,56-57頁。

 3)前掲,同志社大学『戦時下のキリスト教運動1』,和田「論稿」6頁。

 4)同書,和田「再販に際して」22-23頁。

 5)大倉精神文化研究所大倉邦彦代表『祭政一致と臣民道』大倉精神文化研究所,昭和12年,102頁。

 


 

 3-7 キリスト教徒としての日本人

 日中戦争時から長いあいだ中国とかかわりをもった城野 宏は,日本のキリスト教徒をこう喝破していた。

 日本のキリスト教徒は,いざ選択を求められたばあい,はたしてキリスト教徒として行動するだろうか。やはり日本人という特性をもって動くだろう。日本の社会の法則を破ってしまえば,日本の社会のなかでは存在できなくなってしまうからである1)

 戦時中,武藤富男が恐れていたものも,具視的にはこういうものであった。

 特高警察は15年戦争の遂行にその「本領」を発揮し,アジア侵略に反対する思想を異端視する権力の尖兵となってこれを抑圧した。かれらは,民衆から言論・思想・宗教・信条の自由など一切の基本的人権を奪い,民衆の日常生活にまで干渉する権力の直接の執行機関であった。かれらは「国家と法」をさえ超え,これを自由にあやつって,最も陰険で卑劣な手法で民衆を弾圧し,莫大な機密費でスパイを組織し,さまざまな「事件」をデッチ上げ,これを見せしめとして「非国民」を徹底的に抑圧した2)

   満州国高官時代の武藤富男は,帝国主義的にでっち上げられ,つくり上げられた国家の権力中枢に位置していた。その立場上武藤は,徹頭徹尾「非国民」にはなれない人間であった。クリスチャンであった武藤富男は,旧満州国において,キリスト教徒である自分の持ち場を生かす機会をもてなかった。

 もっとも,満州国のなかで武藤が自身の宗教精進を忠実に発揮させるべく試みたとしたら,まちがいなく彼は「非国民」あつかいされ,その立場の保証はなされなかったであろう。満州国政府高官にとって,宗教的殉職の運命なぞ,想像すらできないものであった。

 その意味で武藤は,「戦前,神社は宗教でないという詭弁をもってキリスト教会の代表者に伊勢神 宮参拝を強い,各教会の聖職者に神社参拝を行わせた,良心への暴力」に屈服していただけでなく,「踏み絵の暴力を強いる人々」のがわに所属していたことにもなる3)

 「信仰ナルモノハ先見ナリ決断ナリ覚悟ナリ」)(柏木義円)

 武藤のばあいも,こういう事例にもれなかった。

 私たちのしっている日本のキリスト者は,自己の内奥の分裂を,情況の転退に合わせて,血の動めきのない信仰者になり下がることが多かった。武藤は,キリスト教徒たる「信仰の論理を喪失して,『国体の護持』に変節していった」。むしろ当初から彼は,「国体の護持」に「信仰の論理」を従属させ,屈伏していた5)

 敗戦後,武藤が進駐軍という名の占領軍:GHQ にただちに順応し,帰依していった姿は,1945年8月まで帝国日本に自己を馴致させていた姿の,素朴な裏がえしにすぎない。そこに,「信仰ナルモノハ先見ナリ決断ナリ覚悟ナリ」という覚醒はまったくうかがえない。

 結局,われわれは「帝国主義のいかに人心を毒することの深く,隣人愛と神の前の平等を説くキリスト者の精神をさえも腐敗せしめるかを知る」のであり,また「権力に密着するものと人民の中に生きるもの,この生活態度の差は,信仰の内容をも規定している」ことを学ぶのである 6)

 武藤は,歴史の事実に対して謙虚さをもっていない。人間は,偉大な可能性と美しい心をもちながらも,それらを否定するおおきな過ちをなすものである。だからこそ人間は,歴史の事実を謙虚にうけいれ,その重さに学ばねばならない。その事実に対していかなる態度をとるか,である。みずからの歴史をいかに清算するか,その態度があってはじめて事実に学び,これを克服することができる。戦後日本における武藤にはこの点が弱かった7)

 その意味で武藤富男にとって,戦争責任とは戦後責任なのである。あの戦争を考えることは,歴史と現代そのものの考察となる。あの戦争を“情理”の両面から,つまり「歴史が指ししめす非可逆的な定理」と,「生きる者の悲しさを映した情」の2面から考えなおすことは,まさに生者=武藤にとっての課題となる。

 武藤はまた,歴史から誤った部分を削除するという意図を抱き,歴史そのものへの敬意と信頼心を切除してしまった。そこでうしなったものをおおきいとみるかちいさいとみるかは,人それぞれの感性による。ただしちいさいとみれば,「また〈やる〉という可能性」を排除しない。それは,歴史そのものの“畢 (おわ) り”を意味する8)

 政治的責任は道義的責任に裏づけられていなければならない。道義的責任はさらに,カール・ヤスパースがいう形面上的責任に相当する,人間究極の行きかたにささえられていなければならない。道義的責任を没却した日本人の戦後姿勢は,まさに戦後史のうちに明証されている9)

 「侵略戦争を直視せず,どのような戦争犯罪を重ねたかを検証せず,否認と忘却によって処理しようとする身構えが,いかに私たちの文化を貧しくしてきたか」。

 「罪を自覚することの意味を伝えようとした者に,沈黙を強いる文化は温存されている」。「

 平和になったが,日本は変わっていなかった。恰好だけはよくなっていたが,昔とまったく同じだった」10)

 戦後,日本社会党委員長職を務めた石橋正嗣は,下級将校の立場で敗戦を迎え,復員するさい自分の生まれ故郷の台湾には帰れないため,父の故郷長崎県島原に足をむける。そのあと石橋は,こう考えるようになったという。

 私は以後ますます戦争について考えることが多くなった。国を守る,同胞を守るとは一体どういうことか。そのために軍隊に行き,厳しい訓練にも飢えにも耐えて,本土上陸に備えてきた。一度だって生きて帰れると思ったことはなかったが,そのことに悔いはなかった。だがそれは本当に役に立つことだったのか,同胞に喜ばれることだったのか,などと真剣に考えるようになった。

  その結論が戦争はもう真っ平だ。権力には二度とだまされないぞ。間違った指導には絶対に従わない。再び戦場に行けといわれれば,拒否して刑務所への道を選ぶ。そのような考えが私の人生の指針となり戦後の活動の原点となったのだ11)

 旧日本帝国高級官吏,武藤富男は満州国に出向しそこで活躍してきたが,敗戦前に日本に移動していたので,満州国に残留した関係者たちの体験〔「日本敗戦にかかわる苦杯を飲まされる」〕をしないで済んだ。

 それだからこそ筆者が武藤に聞きたかったのは,石橋正嗣が回顧していたような〈様式内容〉をもってする,自己に正直でありうる〈真実〉の『告白』であった。宗教人のいちばん得意とするはず(!)のこの「告白」という行為が,特定の宗教をまたない人士にお株を奪われるようでは,クリスチャンの面目丸つぶれではないか。

 この好対照は,政府高官となって空を飛ぶ鳥のごとく日本と満州のあいだを渡り歩いた人間と,敗戦時まで地をはいまわるような下積みの将兵生活を強いられた人間とのちがいだといって済まされない,なにものかをふくんでいる。

 最後に,満州国時代の武藤富男は,関東軍の機密費のおこぼれをちょうだいしていた事実を指摘しておく。

 「岸〔信介〕は甘粕〔正彦〕の特務工作の費用に1千万円を出し,武藤富男には毎月200円の小遣いを渡していた」 12)。

 当時,武藤の年俸は6千5百円であった 13)

 【注 記】

 1)古海忠之・城野 宏『獄中の人間学』竹井出版,昭和57年,121頁。

 2)明石博隆・松浦総三『昭和特高弾圧史1 知識人にたいする弾圧 上』太平出版社,1975年,「刊行のことば」9頁。

 3)野田正彰『戦争と罪責』岩波書店,1998年,355頁。

 4)伊谷隆一『非戦の思想-土着キリスト者・柏木義円-』紀伊國屋書店,1967年,7頁。

 5)同書,157頁,168頁参照。

 6)松尾尊兊『民本主義と帝国主義』みすず書房,1998年,292頁,293頁より。

 7)安江良介『同時代を見る眼』岩波書店,1998年,233頁参照。

 8)河原 宏『日本人の「戦争」-古典と死生の間で-』築地書館,1995年,まえがきⅶ-ⅶ頁,62頁参照。

 9)同書,111頁,116頁。

 10)野田『戦争と罪責』11頁,278頁,276頁。

 11)石橋正嗣「私の履歴書⑦終戦」『日本経済新聞』1998年9月7日。

 12)上田誠吉『司法官の戦争責任-満州体験と戦後司法-』花伝社,1997年,101頁。〔 〕内補足は筆者。

 13)武藤富男『人間像修復』時事通信社,昭和45年,140頁。

 


 

 3-8 満州国と日本カトリック教

   さてここで,日本カトリック教が「満州国」に対してしめしていた立場を,田口芳五郎『満州帝国とカトリック教』(カトリック中央出版部,昭和10年)という著作に聞いておこう。

   a)「リットン報告書は真に平和のための危険極まるドキュメントなりと云はざるを得ない」。

 「此の度の教皇庁の満州国宗教的承認は,道徳的,精神的観点からして,世界的な或意味を包蔵してゐるのではないかと思ふ」。

   b)  1932年「3月1日,満州国皇帝陛下が御登極遊ばされるに際しては,全満司教は,其の管下の信者に,忠義に対するカトリック教義を的確に徹底的に説明し,新皇帝陛下の御登極を衷心から慶祝し,3日間全カトリック教会に於いて公然と,皇帝陛下のために祈祷の祭典を挙げしめた」。

 「日本全国のカトリック教会は,常に,皇室及び皇国のための祈りを唱へ,又,国祭日には特に皇室と国家とのために,カトリック教の壮厳祭式であるミサ聖祭と聖体降福式とを行ふのである」。

  c)「満州国成立以来2年有余,其の建国の真の精進と事実とは全世界挙げて之を確認するところであります。前年大日本帝国は率先して之を正式に承認し,帝制実施以来サン・サルヴァドル国も今年に至って正式に之を承認致しました。

 之につゞいてローマ教皇庁は満州国が真実に1箇の独立国家を形成せるを見,特に満州布教区なるものを中国から分立せしめ,以て満州国内に独立布教区を設立し,之と同時にガッペ司教閣下を駐満州国臨時代理使節に任ぜられました。

 これはローマ教皇庁が満州国を独立国と承認したるを証明するものであります。又満州国の真の国際的地位を能く認識せられたるものと云はねばなりません」。

  d) 日本カトリック新聞〔昭和8年10月1日〕の論調。

 「我が国は殆ど全世界の反対を押し切って,満州国の儼然たる存在承認した。かうした承認は,自然法並に健全なる国際法に立脚してゐると堅く信じて疑はなかったからである」。

 「満州国承認1周年を迎へ,吾々日本カトリック者は,国民をしてのみならず,信者としても,大いに日満両国の共存共栄を図り,隣国の誼の実を徹底的にあげるやう心懸けねばならぬ」。

 「満州国には約15万のカトリック教徒がゐる。カトリック教宣教師としては,満州国人のみならず,仏,白,加,米,瑞に生れた人々がゐて,国民の宗教心の啓発に当ってゐる。在満カトリック教宣教師も,新興満州国の成立に対しては,衷心から歓迎と感謝との意を表白してゐる。

 彼等が今日の如く,平和の裡に布教に精進し得るもの亦,満州国の恩恵であると,確信して憚らざるのみか,大いに満州国の光輝ある建設事業に,彼等は宗教家としての分野に於いて積極的に益々貢献せんと意気込んでゐる」。

 「カトリック教宣教師に関する限り,領土的野心とか,其の所属国家の帝国主義の急先鋒をつとめるが如きふとゞきな心は断じてないのである。彼等が確信したるところによれば,彼等は彼等が生れた故国が1日も早く満州国の事実を確認して,正式に新興国家を承認せんことを冀求してゐると。彼等は正義と愛との二大法則に立脚して,満州国民が個人として,社会人として,国民としての義務を充分つくし,以て国家の繁栄及び永遠の福楽の獲得にこれつとめる事を教へて已まないのである」。

 e)「両師〔カトリック教宣教師にして有名な音楽家チマッティ及びマルジャリア〕の此の満州の音楽行脚は,満州国社会事業後援の為のみならず,これとともに身命を賭して日満両帝国の生命線を確守した日本皇軍の精兵を慰問並にこれらに感謝するにあった」。

 「カトリック教の日夜実践する所は,キリストの教へ且行へる所を踏襲して居るのであって,キリストの生涯を貫いて実行せる所こそ,其の後今日に至るまでの,而して将来に於けるカトリック教の道なのである。キリストの事蹟は則ちカトリック教の事蹟の総則にして総論と謂ひ得よう」1)

 過去におけるドイツ・ナチスとローマ法王庁〔教皇庁〕の外交的関係を指摘するまでもなく,如上のごとき,カトリック教の現世権力追随的・現実利益志向的な宗教観は,今日的にみるさい批判の対象以外のなにものでもない。

 日本カトリック教は戦前期において,「領土的野心とか,其の所属国家の帝国主義の急先鋒をつとめるが如きふとゞきな心は断じてない」といいつつ,満州国の「光輝ある建設事業に宗教家として積極的に貢献する」と意気ごんでいた宗教法人組織であった。

    ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は,1998年4月19日から1ヵ月にわたり,大陸別の代表司教会議(シノドス)のひとつである「アジア特別シノドス」をひらいた。

 そこで,日本の横浜教区の浜尾文郎司教は,「戦争を起こした過去を直視し,許しを願うことは,日本人の義務」と発言した。この日本代表の演説に「ローマを批判するとは」と顔をしかめる司教もいたが,休憩時間に「よくぞいってくれた」と握手を求めてくるアジア人司教は多かったと,新聞報道は伝えていた2)

 浜尾司教のその発言にかえされた一部の司教たちの反応,「ローマを批判するとは〔まずい!〕」という一句は,カトリック教キリスト精神が,過去いくたもの戦争現象とどのように対面してきたか,その本旨をよく表現している。

 敗戦後,日本の昭和天皇は〔神であることを放棄したはずの〕「人間宣言」をした。だが,神であることをやめていれば,天皇と名のるのもおかしい

 そもそも,「天皇(日本語では「すめらみこと」)」とは「即天皇帝」の略であり,「即天」とは「天=神そのものである」という「皇帝」にかかる形容詞である。それは,ヨーロッパでいう「ホーリー・エンペラー」と同じであって,自身が神なので,ローマ法王を認めない「神聖皇帝」のことになる3)

   戦時期,満州国および日本帝国のカトリック教会は,自宗派の代表者であるローマ法王の上位に「即天皇帝」たる日本天皇を位置づけ,そしてこの「神」およびその支配する「国々」の繁栄のために祈りを捧げていた。

 【注 記】

 1)田口芳五郎『満州帝国とカトリック教』カトリック中央出版部,昭和10年,
   a)  49頁,119頁,
   b)  136-137頁,136頁,
   c)  8-9頁,
   d)  50頁,53頁,51頁,52頁,
   e)  159-160頁,169頁。

 2) 『朝日新聞』1998年6月23日夕刊。

 3)佐藤文明『「日の丸」「君が代」「元号」考』緑風出版,1997年,83頁。

 


 

4.誠意と錯覚

 

 4-1 国家目的と個人の誠実

 ともかく,日本知識人の習性としてよくみられるのは,自己自身において誠実に生きていければ,その結果がいかになろうともすこしも責められるべきすじあいはないとする感覚である。

 それゆえ,国家組織に忠誠を励み,自分に課せられた職務を遂行するに当たり,自身にあって主観的に誠実でありさえすれば,国家と個人がかかわってきた〈よりおおきな客観的世界における出来事との関連〉に目をむけないで済むという,貧弱で狭量な感性が問題である。

 1)たとえば,満州中央銀行幹部であった武田英克は,自分自身をも褒めあげるかたちで,つぎのような発言をしている。

 中銀開業当時の幹部の目標がいかに高いものであったか,そして指導される若手の部下が,これだけの激務に誰1人として不平不満を申し出ず,いかに最後までがんばり抜いたかということで,理想国家建設の夢を実現させるために,上下一体となって邁進していた当時の中銀職員の意欲を物語る……。

 中国人の県知事,商工会議所会頭,支店長などが毎日のように顔を出し,苦情やら希望やらを述べていった。私は彼らの意見をよく聞き,日本人側の守備隊長や憲兵隊長,あるいは日本領事,参事官(副知事),地元の日本人会長などと緊密な連絡をとり,日本・中国・朝鮮人の融和と,経済 政策や金融政策における彼らの希望を実現させてやろうと努力した1)

 2)またたとえば,旧満州国司法部次長まで勤めあげた前野 茂は,満州司法制度の確立にかけた自分たちの真剣さを,こう高唱していた。

 欧米列強の中で,どの国が自己の侵略植民地の上にこんな素晴らしい理想を掲げた国を作ろうとしたものがあったであろうか。しかも,建国に身を挺した日本人は,在満者と招聘者の別なく,真剣になって国是の追求,思想の実現に努力したのである。あまりの短命で国が亡んだのと,単一民族国家の国民として育った日本人の性急さや単純清癖さ,誇り高さ等のため,そして太平洋戦争の影響を受けて,この壮大な理想は完全には実現されないで終わったけれど,日本人の真剣さは十分買うに値すると思うのである。

 司法の本格的建設が始まったのは1934年だから,滅亡までの12年間に……旧政権のそれとは比べものにならぬほど立派で完備した司法制度の建設ができ,円滑に運用されたのだ。これは1人2人の指導者の力ではない。司法部関係者一致団結,真剣になって良い制度,裁判の独立と法官身分の確立された人権保証下の司法制度を制定しようとの熱意に燃えて努力したからこそできたのである。われら司法同人の間には,一片の侵略的意志は無かった。あるのはただ国民のため,外部権力や財力・金力に左右されない正しい司法制度を確立し,もって国民の幸福をもたらそうとの一念であった2)

 旧満州国の司法制度確立に鋭意献身してきたというこの見解は,日露戦争に日本が敗けていれば,満州は完全にロシア帝国の領土となってしまい,今日の沿海州同様の姿になっていたのだから,日本の満州支配は幸いな出来事であったし,くわえて満州帝国における日本人たちの努力は,大いに称賛されるべきだというのである。

 法曹界に生きる人間に対して,戦時中の治安維持法に「人権保証」の基本精神があったかどうかをたずねるのは失礼に当たるので,ここではあえて問わない。

 だが参考までに指摘すると,前野は1993年11月18日に「指紋法の公布」があった事実を指摘していた。また彼は,いわゆる匪団に関して,「討伐戦場での『臨陣格殺』『裁量措置』は別として,討伐戦で捕獲された者その他犯罪捜査によって発覚したこの種事件は,すべて高等検察庁に送致され,高等法院治安庭の法庭に現れることになった」といっていた3)

 「満州国」の司法同人たちによる異口同音,「一片の侵略的意志は無かった」とする発言は,あの「満州国」という存在じたいを,そしてこの国が大枠において有していた根源的意味を問わずに済むという,純粋で呑気な法曹人の歴史的無感性を正直に表白している。

 「日本人の真剣さ」は,そもそもなんのために発揮されねばならなかったのか。今日,中国人たちはなにゆえ,戦時「満州国」を「」と蔑称し,その歴史的存在すら否定しようとするのか。

 満州国の壮大な理想は太平洋戦争のせいで完遂されずに終わったが,満州という地でしめされた日本人たちの真剣さには十分価値があるというそうした口調は,「太平洋戦争:大東亜戦争」がまるで,天から降ったか地から涌いたかの災厄であったといいたげである。

 事実を直視すべきである。

 日本はこの戦争にいたる道筋において,その先頭を走っていた集団のうちの1国であった。

 また,カイライ国「満州国」の「建国」にまでいたる一連の歴史地政的出来事が,正真正銘,太平洋戦争の勃発〔日本のABCD 包囲網に対する宣戦布告〕の主原因になっていた。

 それにもかかわらず,「満州国」の内部は天下太平の政情にあったのであって,太平洋戦争というとんでもない迷惑〔他国(?)間の戦争〕が飛びこんできたため,満州国の「理想」実現への努力が中座させられたのだというがごとき認識は,完全に倒錯した妄論・暴論である。

 旧「満州国」を,この種の迷論をもって説明しようとする論者が絶えない。たとえば,楳本捨三『満州』(満州会,1975年)は,こう強弁している。

 世界中の誰もが,「満州国」の存在を否定し去ることはできない。

 1932年3月1日から1945年8月19日まで,世界史の上においてこの国は厳存し,ソビエトを始めとして多くの国々がこれを承認したのである。

 一つの理想国家として生々発展の途上,潰えたのである。歴史にもしもは許されない。しかし,もしも,支那事変がなく太平洋戦争が起らなかったなら,今,この理想国がどんなかたちで地球上に存在したであろうか。多くの国々から羨望と憧憬の眼で注視されているのではないかと思うのは筆者独りではないと信ずる4)

 「満州国」は歴史上たしかに実在した。しかしながら満州国をソ連が承認したのは,将来への利害得失を政治外交的に,自国の立場より深慮遠謀したうえでのことであった。

 ソ連は満州国という存在を,楳本のいうように単純に認めたのではない。日露戦争の結末から1945年8月8日ソ連〈対日宣戦布告〉までにおける複雑怪奇な世界史的経過を客観的にみさだめ,関連する論点に対しては慎重な解釈をくわえねばならない。

 このような「歴史的な諸事情」があるのに,あたかも「鬼の首」でもとったかのごとく「ソ連は満州国を承認した」という事実のみをとりあげ,これを金科玉条とするのは軽率であるばかりでなく,自身の無識さをさらけだすものでもある。

   既述の点ではあるが,くわえてローマ法王庁が満州国を承認したのは,カトリック教徒組織の代表機関である宗教団体が,みずからの使命をよりよく遂行し達成するためにそう決断したのであって,日本帝国のためを思って下したそれではない。

 国家制度あるいは宗教団体の,そのような外交戦略あるいは宣教方針のなかに秘められた企図,さらに政治外交上の駆け引きあるいは宗教精神・行事などの裏にひそむ底意などを配慮にいれない発言は,素人的な政治談義と断ぜられるほかない。

 とりわけ,「支那事変」や太平洋戦争が勃発しなければ中国東北部に理想国家が実現されたのであり,この国は他国の羨望と憧憬の的になったはずだという歴史認識は,唯我独尊・我田引水的な夢想の最たるものである。

 先述のごとく,満州国というカイライ国家じたいが「支那事変」を惹起させた基因であった。またいえば,このような国家が存在したからこそ,日中戦争は太平洋〔大東亜〕戦争にまで拡大されてゆき,とどのつまりは日本に敗戦をもたらしたのである。

 それなのに,まるで文句などつけようのない「理想国」であったかのように旧「満州国」を描き,その理想の実現をじゃましたのが,支那事変と太平洋戦争であったとこじつける。本末転倒の議論,逆立ちした解釈である

 以上は,あの時代の他国侵略者に典型であった,一方的・独善的な親切の押し売り,好意のつもりの独白である。旧「満州刻」関係者には同様の発言が多い。

 今頃になって,当時の満州における日本人の行動についていろいろ批判をする人がいる。しかしながら,われわれは,すくなくともその時点において,みずから正しいと信ずる道に生き,使命の遂行に若い情熱を燃やし,文字どおり生命をかけて働いたのである5)

 この種の満州国「観」においてもっとも問題なのは,こういうことである。

 日本人の主観的確信によれば,「われわれ〔日本人〕は満州で〈正しい道〉を生き,〈使命の遂行〉のために生命をかけ働いた」ことになる。

 だが,彼ら〔中国人〕の立場においてこれを逆にみつめると,「彼ら〔中国人〕の存在 (せいめい) をないがしろにし,侵略していた他国において〈まちがった道〉を歩んでいた」のが,日本人であった。

 日本人が,その時点〔当時〕において正しいと信じていた「使命」は,如上の例では「教育専門学校」にかかわる問題であったが,この使命は,それじたいとしてもつ意義以上に満州国教育体制全体の観点においてとらえなおし,さらに満州国と日本帝国相互の視野にまでひろげ,その意義を吟味すべきものである。

 満州教育専門学校はなんのために,誰のために,どのような目標を立て,どのような教育をほどこし,どのような成果を生んでいたのか。

   また,いわれているところの「批判」とは a)日本人自身から提起されるものと,b)中国人のほうから指弾をうけるものとの2種類あろう。

 旧満州〔国〕関係者は,その地に侵出してゆきそこに生活してきた自分たちの信念・行為に対する,いっさいの批判をうけつけようとしない。

 満州国というカイライ国家を構成する制度に関係し,活動してきた人士にむけられた「批判」に対しては,当時その地において情熱をかたむけ一生懸命働いてきた自分たちの熱誠を理解しない発言であるときめつけ,排斥することだけに急であった。

 旧満州国関係者によるこの類の心情的な反発心は,相手からの批判をはなから拒絶するだけでなく,それを積極的・創造的に包容・超越しようとする契機すら,全面的に排除するものである。

 過去において満州に在住し生活してきた自己の立場を,なにゆえそれほどまでに堅く防御しなければならないのか。満州関係の在住者はおおむね,自分たちを〈批判する他者〉に対しては不思議なくらいかたくなであり,かつ対話拒否の姿勢をとる。なにかうしろめたいことでもあるのか。いずれにせよ,それでは彼我において,未来にむかい対話しようとする素地はとうていつくれないだろう。

 それにしても「日本人の真剣さ」,「国民に幸福をもたらそうとした一念」〔日本人は満州国人に対しても「そうしようとした(?)」という意味か〕は,なにゆえ空ぶりに終わってしまったのか。

 ともかく,自分たちの〈その気持の真剣なところだけは買ってくれ〉といういい草は,まことに勝手な,相手には全然通用しない感情〔誠意!?〕である。日本人は,満州国にすばらしい理想:国是をかかげ,これにむかって懸命に努力したという。けれども,それはいったい誰のためであったか。いまとなっては説明するまでもないことがらである。

 被植民国にした他国,およびその土地に住む人々〔他民族〕のためだけを思い,その「植民地を支配」していたといえる帝国なぞ,有史以来この地球上にあったためしがない。

 満州とよばれた地域は日本の支配するところとなったが,かりにロシアが支配するものとなっていたとしても,その帝国のちがいはあれ,中国人たちにとっては侵略され,支配をうける立場におかれらことにかわりはない。

 もしも日露戦争に日本が勝てず,満州の支配者になれなかったとすれば,そのかわりにロシアがその支配者に居すわっただけのことである。侵略され支配されるがわにとって,そのちがいにたいした差異はない。

 なるほど,満州国の時期に東北の政治機構や産業構造が近代化したことは事実である。しかしその近代化は,東北社会自身の歴史の必然性にもとづくものではなく,日本の総力戦態勢の確立のためであり,むしろ東北社会の自発的発展の道をとざすものであった。東北の資源や生産物は大量に日本にうばわれ,増産の強行で産業設備は老朽化し,民衆の労働力はぎりぎりまで搾取された。しかも日本の敗戦後,東北に進駐したソ連軍はきわめて多くの設備を後送し,つづく国共内戦も荒廃に拍車をかけた。満州国ののこした「近代的な経済基盤」は,新中国にとってはしばしばマイナスの基盤でしかなかった6)

 【注 記】

 1)武田英克『満州脱出-満州中央銀行幹部の体験-』中央公論者,昭和60年,164頁,174頁。

 2)前野 茂『満州国司法建設回想記』日本教育研究センター,1985年,序。

 3)同書,2頁,85頁。傍点は筆者。

 4)楳本捨三『満州』満州会,1975年,451-452頁。

 5)『満州忘じがたし』満州教育専門学校同窓会・稜南会,昭和47年,〔まえがき〕11頁。

 6)岡部牧夫『満州国』三省堂,1978年199頁。

 


 

 4-2 独善観

 武藤富男は『人間像修復』(昭和45年)の1節「満州国の回顧」において,こういっていた1)

   1)健国当初の日系官吏には,王道の実践者たる使命感をもつ者が多かった。満州の地に楽土すなわちユートピアを建設しようとする契機は,当時の満州における前代的社会状態,および当時の日本における政治の腐敗と資本主義の暴威にあった。軍人たちは,満州において国家社会主義を実現しようとした。

   2)日系官吏は,関東軍の内面指導をうけつつ,建国組の官吏〔満鉄職員および在満日本人官吏〕,満系官吏〔清朝の遺臣・張 作霖政権の残党およびその官吏群・新国家の採用した官吏〕と協力して仕事をすすめていった。土着資本を動員しえなかった満州国政府は,日本の財閥の資本を関東軍というチャンネルをつうじて導入し,法律による特殊会社の形態を採り,政府の監督をうける企業体につくりあげた。とにかく,近代産業は10年のあいだに驚嘆すべき成果を挙げた。

   3)教育・保険衛生・治安・司法制度は整備され,康徳3〔昭和11〕年ころになると,在満日本人の生活も原住民の生活も上向きとなり,王道楽土の夢を実現しうる可能性がみえてきた。ところが,昭和12年7月7日におこった支那事変は,この夢を打ちくだいてしまった。満州国は,日本陸軍の兵站部・兵器庫・軍事基地と化し,日系官吏はユートピア建設の夢を中断し,戦争遂行のために挺身しなければならなかった。このときすでに,満州国の没落と滅亡は予見されたのであった。

 武藤は,日本国家・日本人は,自分たちのユートピアを実現させるために,他国・異民族の土地に出ていって懸命に努力し,一定の成果をあげたが,日中戦争のせいで当初の理想は挫折させられたと述べる。

 けれども彼は,旧日本帝国の基本的な〈侵略〉性に気づいていない。日本国内の根本的な矛盾は自分たちの手で除去したうえで,さらに国家体制を改革すればよいものを,こちらではダメだから,よその地にいってそちらで自分たちのいだく理想を実現しようとしたといい,しかもこれが即「原住民のためにもなった」と押し売りし,そのうえ,その理想が最終的な実現を妨げられたのは軍部・戦争のせいだった,といいわけするのである。

 そういう武藤は,満州国は日本のつくったカイライ政権ではなく,日本陸軍が建てた政権であると主張する。この理屈は,しごく幼稚な詭弁の域を出ていない。彼は,満州国は関東軍が統帥権によりつくった国であり,その独立は日本陸軍の日本政府よりの独立をも意味していた,と述べていた。「満州国そのものが日本陸軍の機密費だよ」〔満州国最後の総務長官武部六蔵の弁〕2)

 そうであるならば,満州国は日本政府のではなく,日本陸軍のカイライ政権であったことになる。

 昭和10年代における日本は,軍部が日本という国全体を牛耳っており,日本の軍部がそのまま政府であった。そえゆえ,「満州国は日本のつくったカイライ政権ではなく,日本陸軍が建てた政権である」という表現は,日本帝国=陸軍のカイライ国家が満州国であったことを正直に認めたことになる。政治学教科書の初歩に聞くまでもない稚拙な理屈を振りまわす,武藤の感覚的な思弁がそもそも問題である。

 当時,軍部が実権をもっていた日本帝国は,東アジア全域を軍事的な統治下におくために中国東北に侵出していったのであり,満州国の関係者が回顧的にいうような,王道楽土・民族協和の〈理想国〉をつくるためにそこを軍事占領したのではない。

 「明治維新」以来の,日本帝国のアジア諸国侵略史をありのままにみれば,日本のために満州国をつくったということは理解できても,中国やそのほかの民族のために満州国をつくろうとしたという発意は,日本人以外にはとうてい理解できないものであろう。

 とくに,戦争を絶えず念頭におく軍国政権のおこした日中戦争〔支那事変〕のせいで,満州国の理想が実現不可能になってしまったのだという認識は,失敗の原因を他人に転嫁しようとする,とてつもなく甘いみかたである。

 軍事国家体制の建ててくれた「満州国」〔日本陸軍のカイライ国家〕はその歴史展開をみてもわかるように,対外的にはいつも戦争体制を構え,対内的には反満抗日勢力の討伐にあけくれていた侵略国家であった。

 だいたい,つねに戦争することを国是にする国家体制が〈戦争をおこした〉からといって,これを非難したところではじまらない。当時の軍部→日本陸軍→関東軍にとって,それらはすべて予定予定の行動であったといっていいほど,当然のことがらであった。

 「満州事変」は,軍人たちによる計画的な謀略行動として惹きおこされ,そして中国東北に軍部主導による「満州国」が〈建国〉され,さらに「支那事変」も同様の路線に乗せられて策謀され実行されていた。

 日中戦争は,日本自身が満州国という足場に立脚しつつおこした戦争である。この事実は,いまさら議論の余地がない歴史的な事実である。それなのに,まるで他人のもちこんだ災厄のように「日中戦争の発生」を観察し,またこれによって満州国の理想がつぶされたととらえる感覚が,そもそも支離滅裂である。

 武藤富男の目に映る満州国の姿は,結局こうであった。

 漢民族社会にその政策を浸透させ得ず,資金は旧社会を地下水のように流れ,その吸い上げは困難で,戦時体制の進むにつれ,労力の徴発,糧穀の集貨のために,日経官吏は旧社会の厚い壁にぶつかり,苦しまねばならなかった。/近代産業に適用された国家社会主義的政策は,既存社会にも持ち込まれようとしたが,そのたびごとに旧勢力の反発にぶつかった3)

   さらに武藤はこういう。

 満州建国は日本帝国主義の侵略であったろうか。それは一面の真実である。満鉄およびその付属地は,日本の生命線であり,利権であった。しかし,日本人は満州国を利権とみず,そのなかにはいって構成分子となった。これが民族協和である〔それはさらにはなはだしい侵略であったという意見もあろう〕しかも,民族協和であるていど実現された。これは漢民族の包容性によるところが大であった。

 この民族協和は,建国のはじめから滅亡にいたるまでの満州国の指導理念であったが,それは道徳論あるいは民族政策の範疇に属するものであり,それ自身哲学または思想体系をなしえなかった。王道も皇道も八紘一宇も,つくらんとする社会について明確な構造をしめさなかった。かくて哲学の貧困に悩みつつ,青年官吏たちは軍国主義の重圧の下に,満州国の後半期を苦闘した。

 彼らはまた,同胞日本民族の素質の低さに悩まなければならなかった。異民族を指導するには日本民族は全体として,すぐれた知的資質と道徳律の高さをそなえていなければならなかった。

 しかし,在満日本人は民族的高慢はもっていたが,その多くは他民族の範となるべき資質に欠けるところがあった。満州国は滅びた。しかしユートピアを築こうとして,若人たちが情熱をかたむけてなしとげた諸建設はのこった。それがいま,中国の人々の役に立っていることを思えば心残りはない。日本民族がここからえた収穫は,当時の若人たちが,理想への努力をとおして鍛練をうけ,貴重な体験をえたことと,日本の歴史にひとつの偉大なロマンスをくわえたことである4)

 満州国に関する武藤の〈思い入れ〉的感想は,徹頭徹尾「一面の真実」観である。

 それは,中国人に対する日本人の勝手な一面〈観〉であり,中国民族に対する日本民族の空想的な一面的の思いこみであり,カイライ国家に対する日本国家の独善的価値観の強制的な押しつけであった。

 満州国を建国〈された〉中国人がわの,感想・感覚・認識・理解・批判・反発・抵抗・拒絶などを,この相手の立場に立ち,武藤自身がそれを推しはかろうとする感性・理性・知性は皆無である。このことは,武藤という日本人のみならず,日本民族全般において特徴的な一点である。

 日本の若人が情熱をかたむけて満州国に賭けていたという〈ユートピア! ロマンス!〉とは,いったいなんであったのか。

 当時,中国人の若人が必死になって抵抗し,拒否しなければならなかった日本人たちの満州国〈ユートピア〉や〈ロマンス〉は,中国人にとっては非人間的処遇〔不安・不満・不幸,偏見・差別,抑圧・弾圧,搾取・追放,危険・災難・死など〕を意味し,中国民族にとっては国家的な暴圧支配体制そのものをもたらしていた。

 満州国の「理想」を追求するのに必須な知的資質・指導力を欠き,人間的な素質の低かった日本人,民族的高慢はもつが他民族への範に欠けていた日本民族,アジア侵略思想のほかに確たる思想哲学の体系もなく,八紘一宇というような日本中心の独善的理念・道徳律しかもたない軍部:日本陸軍:関東軍。

 そこになんのユートピアやロマンスがあったというのか。いまの中国人たちにも役にたっているという鉄道や建物・工場さえのこせれば,日本民族がその地でえた収穫,貴重な体験は生きているのだという,単純素朴な,一方的・独善的な思いこみばかりが前面に出ている。侵略されたがわの中国人たちの心や精神,社会制度にきざみこまれたおおきな傷痕は,武藤富男の目には映っていない。

 【注 記】

 1)武藤富男『人間像修復』時事通信社,昭和45年,130-138頁。

 2)同書,134頁。武藤自身が関東軍機密費のお流れをちょうだいしていた事実は既述した。

 3)同書,135頁。/は原文改行個所。

 4)同書,137-138頁。

 


 

5.虚偽と傲慢

 

 5-1 妄言の系譜

 結局,官にしろ民にしろいずれもその専門的知識をひけらかし,「自分はそれによって満州生活を 生きぬいてきたんだし,それになんの悪いところもない」というようないなおりを,現代においてしている1)

 ここで,ソ連・中国での抑留体験をした古海忠之と,その体験のなかった武藤富男を比較対照してみよう。

 古海忠之は,満州国:日本から〈中国および中国諸民族〉が,かいまみえていた。

 武藤富男は,満州国:日本内の〈日本および日本民族〉しか,視野にはいっていなかった。

 かつて日本が,西欧諸国の後塵を拝するようにして中国・朝鮮などに進出し,しだいに戦争の泥沼にはまりこんでいったことについて,日本人の現代政治家のなかには「必ずしもまちがっていたとはいえない」と開きなおる人が絶えない。歴史認識をめぐる勇み足発言で,大臣のポストを棒にふる事例もめずらしくない2)

   戦後,長く政権の座にいた自民党内部から閣僚にはいったとたん,「日本軍隊による侵略が侵略でない」とする歴史認識がたびたび発言され,そのつど閣僚を降りるというおかしな現象がつづいてきたのである。そのような発言と降閣はこの国ではめずらしくないが,考えてみると,実に珍事であり滑稽きわまりない姿である。

 もっとも本人にしてみれば,その発言が本音なのである。だから,自民党が二重構造をもっているとしかいえない。これは政党のありかたとしてあってはならないことである。本音で政党をつくり,本音の政治をおこなうべきである。そうすれば,そこで国民の審判をあび,国際社会の審判をうけることになる。そのような過程を経ながら国際社会につうじる普遍的価値にだんだん近づくというものだ3)

 つまり,戦後頻発してきた日本政府関係者による「妄言」は,実は単なる妄言ではなく,表に公表こそしていなかったが,日本外務省の公式の認識を反映し,それと基本的に一致したものである。

 日韓条約の調印者椎名悦三郎外相〔当時〕が,日本が明治以来,台湾を経営し,朝鮮を合邦し,満州に五族和の夢を託したことが,日本帝国主義というのなら,それは栄光の帝国主義であるといったのも,外務省文書〔外務省極秘文書:「平和問題に関する基本的な立場」1950年5月31日〕にしめされている,戦後の日本の支配層の認識を現わしたものであった。

 植民地支配者としての加害責任を棚上げするだけでなく,「貢献者」として描いて正当化する主張は,ポツダム宣言,世界の進歩の流れに対する本質的な異論の提起であり,文字どおり「いなおり」の議論である。

 第1次大戦後,戦争の違法化がすすみ,民族自決権尊重が世界政治の流れとなり,その進歩の流れにそって国連憲章が生まれた時期に,その歴史の進歩の流れにそったポツダム宣言を受諾しながら内容に「異」をとなえる文書を外務省がまとめていたことは,戦後日本の出発に当たっての日本の支配層の認識がどんなに時代遅れのものであるかをしめすものである4)

 なお,最近なされた自民党所属官僚の「妄言」騒ぎは,以下のとおりである。

 まず,1993年12月,細川内閣の中西啓介防衛庁長官が「憲法みなおし発言」で辞任。

 つぎに,1994年5月,発足したばかりの羽田内閣の永野茂門法相が,「南京大虐殺はでっちあげだ」という発言をおこなって批難され,これを撤回ののち辞任。

 さらに,1994年8月,やはり発足まもない村山内閣の桜井 新環境庁長官が,「大東亜戦争に侵略の意図はなかった」と発言して,同じく東アジア諸国に批難され,前言を撤回し,辞任している5)

 その後さらに,1998年7月成立した自民党小渕恵三内閣の農水大臣に抜擢された中川昭一議員は,同月31日未明,就任後初の記者会見で,第2次大戦中の従軍慰安婦問題を歴史的事実として教科書に載せることに,疑問を呈する発言をした。

 つまり,朝鮮人従軍慰安婦について「日本軍の関与や強制性」は「ないともあるともはっきりしたことがいえない」と述べた。中川大臣は,同日正午ごろあらためて緊急の記者会見をひらき,「河野見解」〔後段参照〕にしたがう趣旨の修正発言をしてただちにそれを撤回したが,早速,韓国言論界に「日本の農水相妄言」と報じられた。

 中川昭一議員〔当年45歳〕は,自民党内タカ派の議員集団「青嵐会」を結成した,故中川一郎の長男である。

 日本政府の従軍慰安婦問題に関する態度は,1993年8月宮沢喜一内閣時,河野洋平官房長官による「慰安婦問題で謝罪と反省の意を表す」談話がある。

 1997年2月,自民党若手議員百人あまりを集めて,「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が結成され,その代表に就いたのが,今回の発言主である中川昭一であった。同会は,河野官房長官〔当時〕の対談に対して,その再検討を申しいれるという方針をきめていた6)

 今回の「妄言」のばあい,中川昭一議員は前段の発言後いちはやくこれを撤回したけれども,執権政党に所属する相当数の議員たちが,その発言内容とまったく同じ歴史認識の持ち主なのである。

 それゆえ今後,このような「妄言」問題が再び発生しないという保証はない。同様な発言は,いずれまたぞろ突沸するだろう。懲りない面々であることにかわりないからである。

 戦後生まれ世代の中川昭一が,戦時体制期までの日本政治史をどのように学んできたか,検討の対象となりえよう〔本段付近の言及については,高崎宗司『「妄言」の原形-日本人の朝鮮観-』(木犀社,1990年)を参考文献に挙げておきたい〕。

 たとえば,戦争責任についての日本とドイツ〔旧西ドイツ〕のちがいは,きわめて具体的である。

 日本政府は過去の戦争を侵略戦争と認めない,その本質をおおいかくし,侵略戦争を正当化し,戦犯を「愛国者」とたたえ,靖国神社にまつった。ここに日本政府の立場が端的に現われている。しかも,それをアメリカが敗戦後の対日占領政策上において支持する。こういう戦後政治をつづけてきた。ドイツでは政府がナチの侵略性・犯罪性を認め,これを今日まで徹底的に追及している。ここに日本とドイツの根本的ちがいがある7)

 2千万人のアジア諸国民が犠牲になった,この明白な侵略戦争を日本政府は,侵略戦争は認めない。それが正当な行為であったという。アジア解放の戦争であったとさえいうわけであるから,アジア諸国の怒りは尽きない。

 その強まるアジア諸国民の怒りと批判を,日本政府が認めないという状況に直面して,「政府が認めないなら国民次元では認めようではないか」という善意の議論が生まれ,そこから日本的な国民の戦争責任論が生まれた。しかしこれは主観的には善意によるものであったとしても,日本の戦争責任問題の答えにはならない。

 日本の戦争責任問題は,日本の天皇をはじめとする,戦争を計画し,準備し,すすめた勢力の責任を明確にし,政府が国家として戦争責任を明らかにしていかなくては解決できない問題である。これはこの問題の基本課題である。なぜならそもそも戦争とはなにか,戦争責任とはなにか,戦争犯罪とはなにかといえば,これは全部国家にかかわることであり,国家がきちんとしなければ,民間次元では解決できない性質のものであるからである8)

 【注 記】

 1)松沢哲成『日本ファシズムの対外侵略』三一書房,1983年,263頁。

 2)平野新介『ドレフェス家の一世紀』朝日新聞社,1997年,〔プロローグ〕5頁。

 3)川元祥一『開港慰安婦と被差別部落』三一書房,1997年,6-7頁。

 4)吉岡吉典『日清戦争から盧溝橋事件』新日本出版社,1998年,297頁,290頁,281頁。

 5)加藤典洋『敗戦後論』講談社,1997年,281頁。

 6)『朝日新聞』1998年7月31日夕刊「記事」,同誌8月1日朝刊「社説」「記事」など参照。

 7)吉岡,前掲書,260頁。

 8)同書,261-262頁。

 


 

 5-2 自覚と反省

 さて,満州国認識にみてとれる旧日本国関係者の歴史意識は,今日的になお批判的な議論を要する論点である。この論点は,満州国に進出,活躍してきた日系官吏たちの自負にもとづく反論,つまり,自分たちが「単なる〔関東〕軍の手先であったという批評は当らない」といったような主観的な視圏を,はるかにこえて出ていく課題をもっている。

 旧満州国の高級官吏だった人々に対しては,こういっておくべきだろう。あなたがたが「単なる〔関東〕軍の手先であったという批判は当らない」,それどころかあなたがたは,「軍の高級な手先であった」のである。

 旧満州国の回顧的な認識に関していえば,武藤富男よりは古海忠之のほうがずっとマシであったのだが,この古海にして,自身の感性のなかにひそむ矛盾した「二重構造」をすこしも自覚できていないのである。

 国家と個人,体制と自分,政治と官僚というような構造的関係において,どのような機能をにない,どのような貢献をはたしてきたのか,一個の人間としての存在的次元から国家・体制・政治〔戦争・侵略・民族差別など〕をつきつめて問うための理性と知性はもちろんのこと,そのために必要な最低限の感性すら,武藤や古海〔たち〕はもっていなかった。

 戦争は,個人の善意や思惑を越えて,国家が暴力的に遂行したとはいえ,それを償いつつ溝を埋めていく作業を,個人のレベルで積み上げていかなくては,“信頼”と“友好”を築くことはできない…… 1)

 武藤や古海〔たち〕が,以上に論じてきたていどの歴史的感性しかもてない事由は,つぎのような点に求められるかもしれない。

 日本は,日露戦争,大正デモクラシーの時期をへて,昭和の軍国主義・ファシズムの時代に植民地侵略の泥沼にはいって失敗し,敗戦を迎えた。だがその後,朝鮮戦争時の火事場泥棒的「特需」をきっかけに高度経済成長に転じ,現在,一見したところは「成功」をおさめたわけである。

 しかし,アジア諸国民に対し内在的他者理解の視点をもたず,「ナショナル・ナルシシズム」の押しつけをともなった経済侵略やエコロジカルな破壊*) をおこないながら,自己批判を欠いているという点では,依然として過去の地点にとどまっているのである2)

 *) 植民地になった中国東北地域と朝鮮,これに対する日本とのあいだにおける以下のような事実は,その地に生息する人間たちの生態の根柢に対して,匕首をつきつけながらなされた行為であった。

 つまり,満州の大豆粕は,日本の農村において肥料としてひろく用いられ,雑穀は,日本の低米価政策を維持すべくおこなわれた朝鮮米の飢餓輸出を補完し,朝鮮国内の食糧事情を緩和するために重要なものであった。

 満州国成立以降,満州の農産物は,日本帝国主義が重工業開発をすすめるうえで欠くことのできない外貨獲得源であった。そして太平洋戦争下,日本本国の米穀生産高が急減すると,満州の大豆・雑穀は日本国民の貴重な食糧となった。

 また,米,小麦・綿花は軍需用農産物であり,在満日本軍=関東軍の自活用農産物として重要なものであった。すなわち,満州の農産物は,日本帝国主義の植民地支配の維持はいうにおよばず,国内の政情安定のためにもきわめて重要な位置づけを与えられていたのである3)

 

 つまり,異民族をありのままにうけとめることのできない排外思想は,真剣な反省のないままに,支配者であった日本人一般の思想の根柢に染みこみ,今日にいたっているのである4)

 だから,旧満州国関係者は性懲りもなく,つぎのような発言をくりかえすのである。

 世間では,真実を知らないままに,満州建国を帝国主義侵略であるときめつける人があるが,当時の日本やアジアが置かれた社会的,経済的,国防的に逼迫した情勢や民族闘争の坩堝となっていた満州の実情を直視する必要がある。そこに国策上,外交上,反省すべき事項が少なくはないが,そのなかで,満州建国とともに日本民族をはじめ各民族の青年達が善意とヒューマニズムを貫くことに,真剣にアプローチしたことは貴重なことといわなければならない5)

 食べ物の恨みは恐ろしいという。

 満州帝国主義と日本帝国主義は共謀して,前述のような植民地食糧収奪行為をおこなってきた。これでもって,食料政策において旧満州国は,満州や朝鮮の人々のためによくやってきた面もあったなどといえようか。

 さきに,「満州国の理想は,物心両全の新文化建設を国造りの基本理念にし,独裁的覇道を排し民本的王道が標榜され,居住民族同士が抗争対立のない協和共存を求める」とあった。

 けれども,満州と朝鮮から食糧を徹底的に略奪するような支配国だった「日本‐満州」帝国の〈理想〉とういものは,この〈ことば〉本来の字義にまったく反しており,もともと似て非なるものであった。この食糧の問題は,満州国の問題すべてに敷衍できるものである。

 「満州国」に対するそのような回想のありかたは,その関係者によくある紋切り型である。

 だがはたして彼らに,〈満州国にかかわる真実〉を語る資格が本当にあるのか。いいかえれば,その真実とはいったいなにを基準にしてきめられているものなのか,依然おおきな疑問がある。

 中国の人民およびその政府は,旧満州国を〈偽満州国〉などと称し,その存在じたいを認めていない。この中国がわの認識に対して,以上のような発言を対置しても対話の成立する余地はない。のように背反する両見解である。

 だがここで,基本的な事実だけは提示しておかねばならない。こういうことである。

 過去において,日本が勝手に軍事的に中国に攻めこんだのであり,その反対に中国が武力をもって日本に出てきたのではない,というところに肝心な点がある。この点だけは誰も否定できない絶対的な真実である。

 だから,日本人が懐古趣味的につぶやく「あゝ満州」という想い出は,中国人にとって悲嘆の「嗚呼(あ、)嗚呼満州」という怨念になった。

 また,日本人が旧満州にかけたとする美しい「夢」は,中国人にとって苦汁に満ち満ちた「悪夢」であった。日中間に横たわっている〈現実〉感の断絶は,みごとなまでにおおきく深く,その意味で歴史観に関していえば,きわめて対極的なのである。

 日本人の目には,旧「満州国」の深い谷底でうごめき,さまよいまわる怨霊の姿は映らないのである。

 旧満州国関係者は,「当時の日本やアジアがおかれた諸情勢」を直視する必要にふれているけれども,これは,旧日本帝国の観点を絶対的な基準にした,当時「満州の実情」に対する理解の要求であって,他者〔中国や韓国・朝鮮などアジア諸国〕からの「当時」に対するきびしい批判を正面よりうけとめたものではない。

 彼らの発言形式はいつも,われわれのやってきたまじめな努力だけは評価されるべきであり,これに対しては誰も難詰・非難することができないくらいに真摯であったというものである。

 彼らは,「反省すべき事項はすくなくはない」といいながら,ともかく「善意とヒューマニズム」に「真剣にアプローチしたこと」を評価せよ,というのである。しかし,彼らの意見はいつもその時点で終わり,そのあとがつづかない。

 歴史的出来事の判断や評価は,当事者が主観的に企図し,これにしたがって行為したつもりの軌跡を,彼ら自身において手前味噌的に観察することよりも,むしろそこに客観的にのこされた事実を中心に,なおかつこれを客体として突きはなしながら,いかに分析・評価するかに重点がおかれるべきものである。

 意図された最初の方途が,結果的にはなにゆえそれと異なった進路をとり,大幅にずれた結果を生むのか。このような問題意識は,他国〔「満州国」〕に善意で「進出」していったつもりの民族が,その国にいる諸民族からみると単なる「侵略」者としかうけとられない事実から目をそむけないためにも,必要なものとなる。

 最後に,日中戦争〔「支那事変」:盧溝橋事件〕が開始された直後から,この事態に素早く協力していた満鉄職員の行動に関連して,最近,ある人物に対して提起された疑問にふれておく。

 当時,天津を中心に華化に派遣された満鉄職員は,早くも事件勃発3日後の1937年7月10日,満州の戦略的鉄道線であった北寧鉄道の接収準備にとりかかっている。このへんの事情に関して,小林英夫は,つぎのような指摘をしている。

 盧溝橋事件が勃発したときの満鉄天津事務所長は,『満鉄に生きて』を書いた伊藤武雄であった6)

 1937年3月から伊藤は天津事務所長の職位にあった。満鉄の内部史料のなかではじめて,天津事務所長が積極的に,盧溝橋事件拡大に動いていることが判明した。満鉄から事件への社員派遣の要請は,天津事務所長の名で打電されていた。

 ただし,関係電報の打電者が伊藤事務所長であったと断定することはできない。だが,その可能性を否定することはできない。伊藤は,自著のなかで事変にはほとんど関係しなかったかのように書いているが,かりにその打電者がであれば,事実はおおちがいであったことになる7)

 このような事実の隠蔽,真実把握を妨げるような旧満鉄関係者の発言は,人間の存在およびその意識のもちかたにかかわって,まちがいなく不信感と深い幻滅をおこさせるものである。

 ここでは,旧満州国関係者に多くみられ,その典型的な人間の類型であった,「満州において誠実に生きてきた」と胸を張って公言できる人々の無邪気さは,さておく。

 だが伊藤はさすがに,日中戦争の積極的拡大に満鉄幹部として手を貸した行為を,そのまま自著のなかに記録するわけにはいかなかったのであろう。単純素朴にみて,筆者は伊藤の気持も理解できないわけではない。だが,このような人物がおり,また「事実・真実に覆いをしたような」関係者の証言があるかぎり,自分たちの誠実さ・懸命さを訴える満州国関係者の発言は,その主観的意図からして慎重に吟味されねばならない。

 【注 記】

 1)都築 亨編『小国民の錬成と学徒義勇隊-戦時下の教育改革とその崩壊-』社会評論社,1997年  210頁。

 2)飯田泰三『批判精神の航跡-近代日本精神の一稜線-』筑摩書房,1997年,264-265頁。

 3)浅田喬二・小林英夫編『日本帝国主義の満州支配-15年戦争期を中心に-』時潮社,昭和61年,425頁。

 4)石井寛治『日本の産業革命-日清・日露戦争から考える-』朝日新聞社,1997年,242頁。

 5)国際善隣協会編『満州建国の夢と現実』同会,昭和50年,513頁。

6)伊藤武雄『満鉄に生きて』勁草書房,昭和39年,新版1983年。

7)遼寧省擋案館編『満鉄と盧溝橋事件第1・2・3巻』柏書房,1997年,第1巻

 〔小林英夫「解説 満鉄と盧溝橋事件」〕30-32頁参照。

 


 

官僚と政治と宗教

-「満州国」官僚武藤富男の事例(3)-

 


 

6. 土着と挫折

 

 6-1 賀川豊彦論

 佐治孝典『土着と挫折-近代日本キリスト教史の-断面-』(新教出版社,1991年)は,Ⅰ賀川豊彦論,Ⅱ天皇制とキリスト教,Ⅲ信仰と事業という編成からなる著作である。本書は,本稿のとりあげてきた武藤富男のキリスト教信仰を,完膚なきまでに批判する論旨を展開している。これを材料にしばらく論述する。

 佐治孝典はまず,Ⅰ賀川豊彦論において,1940年以後完全に戦争目的と政策の支持に転向した賀川を批判する。そのさい,『賀川豊彦全集』を編集し,解説した武藤富男の発言にふれている。

 武藤は,戦争の時代に賀川が時流迎合者になっていた事実を認めつつ,「そこに人間の弱さが潜んでいることを知る。この点において賀川も赤弱き人の子であった」と,弁護する1)

 これは,さもありなんともいうべき論表である。つまり武藤は,他人事とはとうてい思えない賀川の行跡を評するに当たって,大いに親近感をいだきながら上述のように書いたのである。

 当時の政府・軍部は,泥沼化していた中国戦線において,中国人をなんとか宥和し,宣撫し,協力させるために,国際的に高名なキリスト者であった賀川豊彦を利用しようと考え,当時の首相の要請によって,賀川は大東亜省の使節として中国に派遣された。

 中国滞在後,賀川は大東亜戦争の正当性を謳いあげる一文「中国復興と日本」を公表した。

 賀川によれば,日本は「大東亜戦争」開始以後,日中戦争の性格を一変させて,アジア諸民族の解放者,救済者として立ち現われることになる。日本と中国が相提携すれば,つまり中国が日本の行為を全面的に理解し,協力してくれれば,日本を盟主とする大東亜の共栄圏は実現し,世界の新秩序が到来するのだという,まことに手前勝手な日本のアジア支配の論理を賀川は称揚していた。

 この段階になると,賀川の戦争協力は,単なる擬態や韜晦ではなかった。ほとんど賀川の本音であったように思える2)

 『賀川豊彦全集』の編集・解説を,武藤富男が担当していたという事実をしるとき,本稿をここまで叙述してきた筆者は,賀川および武藤2人の顔を思い浮かべて,なんともやりきれない気持になる。

 しかし,みかたによっては,『賀川豊彦全集』の編集・解説という仕事に,まさに適任者がえられたといえなくもない。これは完全なる皮肉であり,かつ皮肉でない。このような〈ものいい〉をすることになって,筆者はなおさら錯綜した気持になる。

 賀川豊彦の戦争責任論を論じるには,敗戦直後,東久邇首相や賀川らが提唱した「一億総懺悔」の問題をさけてとおれない3)

 賀川らキリスト者も総懺悔運動に協賛することによって,その歩み出しからおおきな誤ちを犯してしまった。

 1945年9月ころ,賀川はアメリカの記者から,戦争犯罪者と目される人物の名を訊ねられたとき,「戦争犯罪者の最大の者は私です」と応えて,「はからずも双方で呵々大笑した」という。

 賀川には,あの15年戦争を手がけてきた戦争責任者と戦争協力者の意味する重大さが,すこしもわかっていなかったのではないか。そして,みずからの戦争責任の自覚は,このような悪い冗談をいって「呵々大笑する」ていどのものではなかっただろうか4)

 佐治孝典はさらに賀川に,つぎのように問うている。

 アジア侵略と敗戦必至の愚かな戦争を阻止するために,とことん反戦抵抗の姿勢をとることが真に「わが骨肉のため」だったのか,あるいは黙って国策のおもむくところにしたがって戦争に協力することが「わが骨肉のため」だったのか,というふたつにひとつの選択があったはずである。

 しかし,賀川は後者の道をとり,それが民衆の弱点をみずからの弱点とし,民衆の責任をみずからの責任として背負っていくことになると考えた。孤独な預言者の道ではなく,奈落に落ちていく民衆のなかにとどまったというのであるが,はたして賀川はそれほど民衆に密着し,民衆と共感していたのだろうか。ましてや,日本によって荒廃に帰せんとしているアジア諸国の民衆の存在は,彼の眼中にあったのだろうか。

 賀川のなかでは,戦争反対と戦争協力が,まるで背中合わせのようになっていて,大勢〔国家の方策と国民の動向〕のおもむくところにしたがって,適宜表裏している。しかもその行動は,つねに「わが骨肉のためならんには」で正当化されるのである。

 賀川は,国家の本質について,とことん考えたことがあったのだろうか。

 賀川にとって天皇制国家とは,たとえ多くの過ちを犯すものであり,非合理で狂暴なものであっても,本来随従しなけれがならぬもの,黙して運命をともにしなければならぬものと観念していたのであろう。

 余人ならいざしらず,社会・経済・宗教・歴史の万般にわたって該博な認識をもつ賀川が,肝心の日本の国家観,戦争観となると,まるで直感的,情緒的にしか考えることができなかったのはなぜなのだろうか5)

 第1次大戦後,三菱・川崎両造船所における労働争議の指導者となっていた賀川ではあるが,第2次大戦という「戦争の本質,性格を冷静に理性的に把握した上での戦争観」6)を,彼はもっていなかった。

 戦争が終わってもなお賀川は,この戦争の本質的認識を欠いていた。

 そして,当時の日本キリスト教界も,ほぼ賀川と同じ認識しかもちあわせていなかった。賀川の戦争協力が批判されることは,「宗教報国・伝道報国」の誠をつくし,「日本的基督教」の確立をめざした日本基督教団自身の戦中の態度が批判されることでもあった。戦中-戦後をつうじて賀川は,その点で教団と一体であった7)

 さきに筆者は,『賀川豊彦全集』の編集解説者には武藤富男が適任であったと指摘してみたが,両者に共通し,たがいに適合しあう関係が,そこにおいてまさによく理解できる。

 だが武藤にあっては,賀川に対していわれたような疑念,つまり「戦争の的確な歴史的,社会的,経済的実態の認識を欠いたところの,感情的で直観的な,或いは信条主義的な平和思想ではなかったか」8)というような指摘は,まったく不適切であり,かつ不要である。

 なぜなら武藤においては,満州国高官である立場が,彼の仕事と生活全般をつらぬいて先行する条件であった。だから,彼自身においては「戦争の的確な歴史的,社会的,経済的実態の認識を欠いたところ」はなかったものと推察される。

 ただ武藤のばあい,〈キリスト者である個人の立場〉〈満州国における公務員の立場〉に優先させえなかった。前者後者にしたがうような〈順位・序列の関係〉におかれていた。

 満州国に居住していたときの武藤にとって,自分の全生活のなかにおけるキリスト教精神の位置づけは,その〈一部分を占める価値体系〉にすぎなかった。その意味で当時,武藤の宗教精神においては「宗教が戦争に」飼い馴らされており,かつまた「キリスト教が神道に」圧倒されている状態にあった。

 賀川と同様に武藤にとっても,「日本の国家は,具体的に言えば天皇制国家は,たとえ誤りを犯すものであっても,先験的に肯定さるべきもの,批判を越えた存在であった」9)

  天皇や天皇制に対して無自覚である者は,日本やアジアにおける差別構造や差別意識にも無自覚であると言わざるを得ない。そして,賀川の天皇観を批判することなくしては,賀川の差別意識の 根源を検証することにはならないのである。賀川にとって見えなかったものは,天皇であり,国家であり,アジアの民衆であった。そしてそれは同時に,日本の大方のキリスト者が見えなかったものであった10)

 だが武藤富男は,満州国高官という〈特定の立場〉にあって,自分なりのたしかな感性や知性,理性などをたずさえながら,「天皇や天皇制」に「接していた」はずである。それゆえ武藤が,日本帝国や天皇・天皇制に関する,あらゆる意味あいにおいて「無自覚」であったとは思えない。

 また,天皇や国家,アジアの民衆という存在が,彼の目にまったくみえていなかったわけでもない。武藤は「臨陣格殺」の現場を一度だけみたことがある,と書いている 11)

 この事実においてキリスト者武藤富男は,賀川豊彦ほどに有名人ではなかったにせよ,あの戦争にかかわって,賀川よりも深い,意識的な罪を背負っていたといえる。

 【注 記】

 1)佐治孝典『土着と挫折-近代キリスト教史の-断面-』新教出版社,1991年,75頁参照。→『賀川豊彦全集 第20巻』キリスト新聞社,1963年,〔武藤富男「解説」〕460頁。

 2)佐治,前掲書,80-81頁。「中国復興と日本」は『賀川豊彦全集 第13巻』1964年所収。

 3)同書,83頁参照。

 4)同書,84-85頁。

 5)同書,86-87頁,88頁。

 6)同書,89頁。

 7)同書,90頁。

 8)同書,97頁。

 9)同書,123頁。

 10)同書,147頁。

 11)武藤富男『私と満州国』文藝春愁,1988年,164頁。

 


 

 6-2 天皇制とキリスト教

   戦後日本のキリスト教の体質,つまり今日あるようなキリスト教を決定づけたものは,GHQ〔連合軍総司令部〕による占領政策および宗教政策と,これに対する日本のキリスト教の対応とのあいだに展開されたダイナミックスのなかからであった。

 GHQ による占領政策としての宗教政策は,

 a) 国家神道の徹底的壊滅・排除,

 b) 信教の自由の確立,

 c) キリスト教の優遇

という3つの柱からなっていた。

 だが,GHQのこの基本的な宗教政策の考えかたはタテマエであって,非公式であるが,キリスト教優位のホンネは,あらゆる宗教施策のなかに如実に現れており,ほかの宗教からみて不公平な面が多くみられたことも否定できない1)

 1946年1月1日,昭和天皇はいわゆる神格否定宣言をみずから出した。連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーは,これに対して間髪をいれず声明を出して,天皇の人間宣言を積極的に支持した。このことは当時,国の内外でその責任の是非を問われていた天皇および天皇制が,いわば衣替えして存続されるという暗黙の了解を,GHQが与えたことを意味した。

 国家神道の排除と信教の自由の保障がもたらしたものは,まず第1に天皇と国家から分離された全国神社の宗教法人化であった。第2は,新興宗教の台頭・復活・簇生であった。第3は,諸教派の既成宗団・教団からの離脱であった。それまでの強大な国家権力の統制と管理のタガを外された宗教界は,依然として占領軍の統制下にあるとはいえ,はじめて同等の条件で,同じ出発点に立って,自由に宣教活動ができるようになった2)

 GHQ は,きびしく宗教的中立の立場をとろうとする慎重妥当な占領政策案をしめすが,C I E(民間情報教育局)内に設けられた宗教課が現実におこなったキリスト教優遇策は,たとえば宣教師たちの日本入国を最優先させたり,彼らに占領軍関係者に準ずるあらゆる特権と便宜を与えたりすることのうちにも,歴然と表われていた。このような措置は,GHQ 内の暗黙の了解事項であった。

 マッカーサーのキリスト教的使命観は,日本のキリスト教的教化が,とりもなおさず日本民主化のバロメーターであるという「十文字的な聖戦意識」をもって,「日本の民主化と再教育をすすめよう」としていた。キリスト教的倫理や生活信条を,仏教や神道に押しつけ,その受容を条件に両教の存続を認めようという権力者意識むき出しの態度であった。

 このような彼のあからさまなキリスト教優遇の言動は,いわば「占領軍の宗教」を上から,権力をもって推しつけるにひとしかった。公的には信教の自由を全面的に保障しておきながら,実質的には,それをみずからの手で侵害しかねなかった3)

 本稿が武藤富男に関して論じてきた内容を,もう一度思いおこしてみよう。

 武藤は,旧日帝時代から正真正銘のクリスチャンであった。満州国高官を務めていた時期,武藤はいかなる宗教的な姿勢を構えて国家に勤務し,日常の生活をおくっていたか。

 武藤は,公的な場面においては国家神道の理念・立場を否も応もなく最優先させ,私的なキリスト者としての信条・生活はそれにほとんど無条件に順応させる〈宗教上の価値的な関係〉を構成し,遵守してきた。満州国滞在中,宗教的舞台において彼のしるしてきた生活態度は,キリスト教を信仰する者の道から基本的にはずれていたという点につきる。

 敗戦直後,武藤富男は日米会話学院を創立し,初代院長を勤める。昭和21年,キリスト新聞を創刊し,専務兼主筆となる。昭和22年,日本キリスト教団補教師試験に合格していた。

 武藤はこのように,選良である自身の教養を十二分に活かして英会話スクールを経営し,またキリスト教信者であるという経歴を活かして宗教 (キリスト) 宗教系新聞を主幹し,くわえては牧会者の資格もとっていた。

 満州国高官という履歴〔公職追放指定〕の持ち主であったにもかかわらず,武藤は,GHQ からお咎めをうけるどころか,当局のキリスト教優遇という暗黙の大方針に即応する,賢明な生活路線を構築していったのである。このように武藤は,敗戦後日本の社会をいかに生きぬいていけばよいか,その好例を見事に周囲に演じてみせてくれたのである。

 佐治孝典は,戦後日本のキリスト教の動向を,つぎの時期に分けて説明する。

 1)「混迷期」〔1945年8月~1946年〕 ……キリスト者みずからの戦いと抵抗をもってではなく,敗戦という思わざる事態の進展によって,突如与えられた信仰の自由であったから,それにアメリカ占領政策のキリスト教優位の好条件がくわわっていたから,いわば日陰から陽光まぶしい日向に急に放りだされ,なにから手をつけ,どの方向に歩みだせばよいのか,目をおおって立ちどまらざるをえないのが実情ではなかったか。

 信仰のゆえをもって屈伏を強いた国家権力に対する憤りと,屈伏を強いられて国家権力に迎合妥当したみずからの信仰を悔恨することは,ついぞみられなかった。キリスト者のがわは,戦後内閣と歩調を合わせ協力することで〔前述のように賀川豊彦は「一億総懺悔運動」をいっしょにとなえた〕,

   みずからの戦争責任は棚上げされたかのように思いこみ,これを伝道振起に利用しようと企てた。敗戦という画期的変動の時期に,これまでの日本人,ことにキリスト者が犯してきた15年戦争に対する罪責をただし,糾明して,そのことによってキリストの者みずから姿勢を正していくことが,なによりも先になさるべきことであった。しかし事実は,国家権力と結託して,一億総懺悔運動の先頭に立ち,音頭をとるところからキリスト教の戦後がはじまった。その責任は重い4)

 2)「ブーム期」〔1946年~1948年〕 ……1945年8月26日,賀川豊彦が東久邇内閣の参与となると,官界・財界から賀川は引っ張りだことなった。賀川によって象徴されるキリスト教ブームには,どこか政治的な匂いが強く,賀川をとおしてキリスト教を政治的に利用しようとする動きが絶えずみられた。

 また他面,キリスト教ブームの風潮のなかで,仏教や神道の指導者や信徒たちが,キリスト教のがわにすすんで身を寄せる現象が各地にみられた。占領下のキリスト教優遇の状況のなかで,新しい「お上の宗教」にあやかろうとする,多分に現世御利益的な集団転向であったといえる。

 つまるところ,アメリカ占領軍のキリスト教優位の政策に便乗するキリスト者と,権威に弱い事大主義的な大衆と,それに「将を射んと欲すれば馬」式のキリスト教利用の国家権力との3者が合作してつくりあげた,うたかたのブームであった。

 それは,キリスト者の信仰の主体的・内発的な行為とはかかわりのないところで,いわば客観情勢の好転という外発要因によってつくりだされたものであった。それはまた,文字どおりのブームであり,一過性のものであり,人々の霊魂のなかに深く沈潜して,人々を根底から回心させることはできなかった。キリスト教の退潮は必至であった5)

 3)「退潮期」〔1948年以降〕 ……敗戦後,宗教団体は,勅令第101号〔政治運動団体結社取締令,1946年〕第4条の解散の対象となる軍国主義,超国家主義団体とはみなされず,解散団体の構成員が,宗教団体の役職員または教会・寺院の主管者に就任することができることが公表された。

 こうして,権力による追放もなければ,民衆からの追放もほとんどおこなわれず,当の指導者たちがみずから責任を自覚するのでなければ,吹きすさぶ嵐の圏外にあって,無傷のままに依然として戦後の教団・教派・協会を指導することができた。

 戦後の宗教集団はこのように,戦争責任を問われることのない聖域とみなされたばかりでなく,政界・経済界・教育界などの分野で追放された戦時中の指導者たちが,追放のおよばない宗教界のなかで新しい活動分野をみいだす事例も多くみられた。

 戦後,占領軍によっても,日本政府によっても,また民衆によってすら戦争責任の追放を免れたものに2者があった。1者は天皇であり,いま1者は宗教者たちである。

 彼らは戦後長いあいだ終始その罪過を問われることなく,またみずからも問うことなく今日にいたってしまった。彼らは外からの公的な追及,批判のないことをもって,戦中の言動のすべてが公許,免責されたものとうけとり,みずからの手でその罪過を剔決し,痛悔する機会をうしなってしまった。

 戦後キリスト教が,退潮期をいち早く迎えなければならなかった最大の要因として,キリスト者の戦争責任の問題を挙げねばならない。この問題を,みずからの手で剔決することができず,ついに不分明のままにしてしまったことである6)

 戦後のキリスト教は,天皇制の問題を避けつづけてきた。いな,むしろ天皇制をなりゆきのままに是認し,その存続を願ってきた。「神か天皇か」の二者択一をキリスト者にせまり,天皇を踏絵にして国家への忠誠,宗教の国家への奉仕を強要したのは,ほかならぬ天皇制国家であった。

 天皇制の構造を批判できないキリスト教は,とりもなおさず,キリスト教の天皇制体質そのものを批判できないことであり,逆に,このキリスト教の体質をみぬくことのできないものには,天皇制の構造がみえないのである。

 日本のキリスト教の現在の状況を顧みるとき,敗戦処理はいっこうについておらず,戦後はいまだ終わっていないといわざるをえない。そして,戦後に決着がつかないままに,なすすべもなく時を過ごして,早くも日本の状況は再び戦前の様相を帯びてきた。昭和前期にキリスト教が犯したと同じ過誤,錯誤をくりかえす恐れが,いま現実のものとなりつつある7)

 以上,佐治孝典『土着と挫折』にしたがいつつ,戦後における日本キリスト教の動向を回顧するとき,旧満州国高級官吏であった「キリスト者:武藤富男」の生きざまに対する厳重な批判の展開を,そこに読みとることができる。

 武藤富男は,戦後に生じたキリスト教ブームの波にいち早く乗って,しかも,もともとクリスチャンであった自分を大いに生かす機会をえて,公職追放の指定にはとらわれず,戦後の舞台に躍り出るかたちで活躍をはじめた人物であった。

 満州帝国‐日本帝国における宗教体制〈国家神道〉に,個人の〈キリスト教信仰〉を従属させていた武藤であった。

 敗戦後は,戦争責任を問われることのない聖域とみなされた宗教集団,なかでも特別に優遇されたキリスト教団の牧会者の資格をとる。そのおかげで彼は,その時代を生きるための最適な路線を整備できた。

 武藤が旧日帝時代を生きぬいた人物だからといって,彼に,戦時期に生起した国家による宗教弾圧を批判したり,天皇の戦争責任問題および天皇制の存廃などに関する本格的な議論を期待することは,どだいむりなことであった。

 なぜならば,まずもって「国家と宗教の対決」問題は,武藤富男自身の精神世界のなかで,なにひとつ決着がつけられていなかったからである。

 「キリスト教という〈個人の信仰〉の形成する精神的な領域は,〈国家の祭祀〉する宗教活動そのものとは個別の精神世界の出来事である」,「国家神道の祭事行為は民族的な行事であって,宗教的なそれではない」などという,敗戦後はひとまず否定されることになった解釈を,武藤はその後もなお採っていたかのようにみえる。

 以下に引照の,宣教上の戦略だとみなされる武藤の思考方法は,古来〔古式〕にのっとり新しく形成されたといわれる明治以降の国家神道に,はたして有効な批判的姿勢たりうるか疑問はおおきいのである。

 「国家神道」や靖国神社国営化には厳しい姿勢を取りながら,古来の神社神道は評価した。キリスト教が日本社会の中で定着する戦略を考えていたのだ,との見方もある8)

 武藤富男は,満州国の時代を生きてきたキリスト者であった。だがこの国は,宗教的精神世界において日本 (やまと) 民族全体を代表すべきものは,ただひとつ国家公許の宗教神道であると決めていた。

 キリスト者である武藤は,けっして天皇制国家に反抗しないという「屈伏の《証し》」の提示を求められていた。というのも,「武藤自身のキリスト教精神倫理」は,国家神道という公的宗教に対して真正面より抵触する恐れがあったからである。

 結局「武藤自身のキリスト教精神倫理」は武藤個人の精神生活のなかに日本宗教的に封じこめられ,丸めこまれた。そうして,一キリスト教信者:武藤富男の精神次元において生じていたにちがいない「宗教と国家の衝突」という深刻な難題は,事前に回避あるいは隠匿することができた。

 本人の表現によると,それは「背教の罪を犯した」ことを意味した。その結果,彼はキリスト教の基本信条を骨抜きにされていた。要するに,敗戦後を生きていく武藤にあっては,次項に説明するような「国家による天皇の宗教性の活用」を,まったく批判できない精神状態を持続していくほかなかった。

 さきに,戦後の武藤は,「『国家神道』や靖国神社国営化には厳しい姿勢を取」ったと指摘されているが,新憲法のもとでクリスチャンがそのような姿勢を構えたことに,はたして特筆するほどの価値があるのだろうか。

 【注 記】

 1)佐治『土着と挫折』151-152頁,155頁。

 2)同書,156頁,157頁。

 3)同書,159-160頁,161頁,162-163頁。

 4)同書,164頁,168頁,169頁,170頁。

 5)同書,170頁,171頁,172頁,179-180頁。

 6)同書,184頁,185頁,183-184頁。

 7)同書,188頁,189頁,191-192頁。

 8)『朝日新聞』1998年2月10日夕刊,「『平和憲法守れ』の論説40年-『キリスト新聞』の武藤富男氏の軌跡-」。

 


 

 6-3 国家神道とクリスチャン武藤富男

 いまは地上にいない武藤富男ではあるけれども,彼に対しては,以下につづく論述を「よく聞いておきなさい」と忠告すべきだろう。なお以下は,旧日帝時代における天皇および天皇制の問題に対する批判であるともに,昭和天皇から平成天皇への代替わり行事であった〈大嘗祭〉の問題に対する批判でもある1)

 「問題点の1」 天皇が,神道における最高の祭司であると民衆に認知させることによって,皇室神道ひいては神社神道が,ほかの宗教とは異なった。日本固有の特異な伝統的民衆宗教であると認識させようとしている点。

 「問題点の2」 日本国憲法第1条の「日本国民統合の象徴」のなかに,国民を精神的・文化的に,あるいは宗教的・心情的に統合する機能を盛りこませようとする,つまり天皇の象徴性機能を補強するために,その宗教性を活用しようとしている点。

 「問題点の3」 神社神道の国民的宗教としての復権と,天皇の統合的象徴機能の補強をとおして,神聖天皇を中心にすえた民族的運命共同体の形成を,容易に抵抗なくうけいれることのできる没理性的,身体感覚的な民衆の意識づくりがなされている点。

 「問題点の4」 天皇の宗教性=神聖性を承認することは,人の上に人をつくることであり,それは同時に人の下に人をつくることを認めることである。このことは,今日に日本において高度に発達した資本主義社会にしっかりと根づいている社会階級的・民族的差別と抑圧の構造を,いっそう正当化するイデオロギーとして機能することになる点。

 今日の怜悧で狡猾な近代国家の権力者は,信仰の自由を直接侵害するようなことはしないし,またする必要も感じていない。むしろ彼らが,信仰の自由は大いに認めたうえで,そのような信仰の自由のうえにおおいかぶさるかたちで,あるいはつつみこんでゆくかたちで,心情的でアンビギヤスな,不透明で捉えどころのない天皇の宗教性なるものを,多重多層的な宗教意識をもつ民衆のなかにもちこもうとしている2)

 満州国の高官を勤めた武藤富男は,クリスチャンとして自分が生きてきたその時代の体験を,根源より再問しようとしない。

 旧日帝および満州帝国は,国家神道を宗教上の国是にすえ,異宗教を容赦なく弾圧していた国家体制であった。武藤は,宗教的にそのように構成された精神世界のなかで生存していかざるをえなかった。それにしても,彼ほどのインテリでありながら,事後,当時の状況に対面していた自己のキリスト教信仰を,意図して本格的に吟味しようとしていない。

 まして武藤は,以上のことがらを本質より自己批判することは論外であったかのようである。あげくは,国家の宗教であった神道を民族的行事だといいくるめ,キリスト教精神倫理に関するもっとも初歩的な禁忌要件「偶像崇拝」を平然と犯していた自分の立場を,終始一貫ぼかしつづけてきたのである。もしも,武藤の気持においてそのような姿勢が基本にあり,また,いつわりのない人生観の本心発露ならば,筆者はつづけて佐治『土着と挫折』から引照をしつつ,彼をさらに批判的に論じなければならない。

 日本のキリスト者は,戦前‐戦中をつうじて天皇〔制〕に対応するとき,これをふたつの神の問題としてとらえ,なによりも「キリスト教のゴッド」と「神道のカミ」の宗教的関係であることを明確に認識することを怠ってきた。

 すなわち,天皇が,神社神道の祭司王としてはたしている宗教的役割を明確にして,天皇を「異教神」としてとらえる視点をもたなかった。戦中この異教神が,国家神として現われ,これを頂点とする神社神道が国家権力と結合して国家神道となり,超国家主義的・軍国主義的イデオロギーの主流として,日本の思想界,教育界,精神・文化の面でいかに破滅的な猛威をふるい,いかに民衆の思想・信仰・心情を傷つけ頽廃させたかは,論じるまでもないことである。

 天皇の代替わり行事「大嘗祭」において,天皇がカミとなる神道祭祀が国家行事に準ずる天皇の公的行事としておこなわれ,まさに被造物である天皇が神格化され,国家公認の異宗教として現われようとするとき,そのような相貌をもった天皇〔制〕が,キリスト教の福音信仰とは本質的にあいいれないものであることを,このさいはっきりと認識しておく必要がある3)

 戦後,牧会者の資格もとった武藤富男のことである。上段のごとき,キリスト教的立場にもとづく日本天皇制批判は,いともたやすく理解できる内容であって,またなんら異存の余地などない正論であろう。

 それでもやはり武藤は,満州国時代,自身の宗教的立場に巻きおこっていた矛盾的様相を,あまり正視したくないのである。

 「国家神道=民族の行事」と「キリスト教信仰=個人の信教」とはべつものだ,というような虫のいい〈つかいわけ〉は,国家と宗教との遭遇において生じる対決的課題からの〈意図的な逃亡〉を意味していた。

 佐治はさらにいう。

 敗戦前の天皇制国家の支配原理の根幹には,国家神道という名の排他的・強権的なイデオロギーがあって,夜叉のごとく思想・信仰の自由を圧殺したのだが,今日の国家権力は,天皇の代替わりを機会にその支配原理の切り札として,天皇の宗教性をソフトにもちだそうとしている。

 しかし,かたちはソフトであっても,その宗教性機能は「経済大国」日本社会の内奥にからみあって巣くっている,社会階級的・民族的差別と抑圧の構造を下からささえ,正当化する以外のなにものでもない。「仕えられるためではなく,仕えるために」この世にきたイエスの福音は,民衆を差別し抑圧するがわのイデオロギーをささえるような天皇の宗教性とは,本質的にあいいれるものではないはずである4)

 なかんずく,満州国時代を生きたクリスチャン武藤富男は,彼の地において過ごしてきた自身の信仰生活の意味を,敗戦後どのように再確認していたか。

 ともかく,国家神道=天皇制国家の支配原理の根幹は,満州国にまでおよんで通貫されていた特質であった。

 旧日帝は,自民族のみならず他民族に対する「社会階級的・民族的差別と抑圧の構造」を,国家的規模をもって構築していたのであり,武藤富男は,その支配構造の形成・原理機能の発揮に関して,旧国家権力の中枢に位置しながら物理的機能を保持し,行使する人間の1人であった。しかも,満州国における公権力の行使は,武藤自身の宗教的信条が全面的に否認される事態を意味していた。彼はその関連性を知悉していた。

 満州国時代における〈信仰生活の破綻状況〉に対する反省の弁として,武藤の口から出てきた弁解は,「国家神道=民族の行事」と「キリスト教信仰=個人の信教」とはべつだとする,旧日帝認定のきわもの的な説明であった。けれどもそれは,あくまで自己を消極的に弁護すると同時に,その後に生きていくべき自身を納得させる個人的な欺瞞を意味するにすぎない。

 【注 記】

 1)佐治『土着と挫折』205-206頁参照。

 2)同書,208頁。

 3)同書,210頁,211頁。

 4)同書,211-212頁。

 


 

 6‐4 教会と国家

 カール・バルトは,こう問うている。

 教会と国家というものを二元論的にふたつの領域に分離して考えるのではなくて,キリストの主権を中心にした「ふたつの同心円」というかたちでとらえることによってこそ,われわれは,教会が国家に対してどういう奉仕をなすべきか,国家の困窮に仕えるということはどういうことか,国家の自己絶対化と自己放棄に対して教会こそが国家の真にあるべき姿を明確に告知しうること,が分かる。そこから,国家の課題と責任が明確になり,また逆に教会が,国家に対して負うべき課題と責任が明らかになる1)

 1967年日本基督教団は『第2次大戦下における日本基督教団の責任についての告白』を発表し,教団の戦争協力の罪を告白した。

 しかし「教団成立とそれにつづく戦時下に,教団の名において犯したあやまち」とは,単なる戦争協力の罪というていどのものではない。それは神とならべて「天皇」と「皇帝」をおいた罪,その実は「天皇」と「皇帝」を神の御座の上においた偶像礼拝の罪,つまり第1戒に背反した罪であった 2)

 武藤富男は,「神社は,宗教神道と厳密に区別せられて宗教にあらず」3)という陳腐な理屈を,その後の告白をするさいの釈明の内容にしていた。

 しかしヤコブは,同じ「信ずる」ということばのなかにひそかにはいりこむ「信仰の二元論的頽落現象=信仰告白の化石化」を,マルティン・ブーバー以上にするどくかつきびしく剔抉していた。唯一の神に信頼して歩むこと,すなわち,その唯一の神に対する服従の行為なのである。

 その唯一の神に対する信頼と服従の行為をぬきにした,神の唯一性の信仰は,ヤコブによれば「むなしい」もの,「死んだもの」なのである。ヤコブは,信仰告白の対象に対する服従の行為をぬきにした「死せる」信仰告白が存在することをしっていた4)

 筆者はすでに,武藤富男の〈信仰告白に似せた発言の性質〉を批判してきた。

 一言でいって武藤の信仰告白は,「〈信仰〉の〈告白〉」にはなっていなかった。

 それは,まさに「むなしい」「死せる」信仰告白であった。

 なにか奥歯にもののはさまったような口つき。

 本当のことを虚心坦懐に語っていないような歯切れの悪い回想。

 自己弁護に終始していた論理展開。

 実はそれは常人の「告白」にも値せず,もちろんキリスト教徒的な「〈信仰〉告白」にもならない。

  武藤富男は『私と満州国』の「あとがき」のなかで,「個人としていかに平和を愛するとも,国家の一員としては国家的利益が優先するという背理に陥らざるを得ない。この矛盾を解き明かし,人類の進むべき道の確固たる拠り所を探究しなければならぬ」5)と,いいわけしていた。

 キリスト教徒の信仰告白的立場に徹底することを予定するならば,そのようないいわけは通用しない

 個人の信仰のまえに立ちはだかるものは,なにもないはずである。

 武藤は「個人」と「国家」の〈背理〉を云々しつつ,クリスチャンとして国家に抗うことを全面的に放棄していた「背教の罪」を,自己弁護していた。

 キリスト教信仰を護るべき人間が,そのような詭弁をつかってよいのか。

 これこそ「唯一の神に対する信頼と服従の行為をぬきにした,神の唯一性の信仰」,信仰ならぬ似非信仰〈心〉を吐露した,典型的な日本的キリスト者の哀れな姿であった。

 武藤は,自分が特有にかかえこんだ「〈背理〉の〈矛盾〉」を,あたかも日本のキリスト者全員に普遍的な課題であるかのようにすりかえ,稀釈化しつつ語っていた。

 このような狡猾ないいのがれは許しがたい。これはまさに,武藤という個人に固有の「幾多の奢りがあった。それは神の前に罪として告白せねばならぬところであ」6)ったのに,それをまるで皆が共有すべき平均的な「罪」であるかのようにいいくるめ,心底より信仰告白することを避けていた。

 少なくとも戦時下の日本基督教団がこの神学的公理としての第1戒に対する服従を放棄したことは,否定することの出来ない事実である。

 しかし,教団がこの第1戒の神を捨てて,この神の代り に天皇を唯一の神として拝し,天皇宗教に改宗したというような単純なことではなかったことも事実である。

 問題はやはり,聖書の神の唯一性を認知することはあっても,その唯一の神への服従の行為を放棄したことによって,その信仰が「死んだもの」となり,その信仰告白が「むなしい」ものとなったことである。それと同時にまた,唯一に神への服従の行為をぬきにした神信仰は,その 信仰が「死んだもの」であるゆえに,その信仰告白の「空虚さ」を,聖書の神と並べて偶像をすえることによって満たすことを余儀なくされたことである。

 教団の罪は「戦責告白」が言うように,あの戦争に「同調」し,それを「是認し,支持し,その勝利のために祈り努め」「見張りの使命をないがしろに」したことにとどまらなかった。そこでは「国民礼儀」の名のもとに,第1戒への明白な侵犯が行われ,アジア諸国への侵略を是認するために主イエスの名を用い,聖書の言葉を援用するという罪が犯されたのではなかったか7)

 ホーリネス教会の牧師だった父を,1945年1月に獄死させられた  宣道は,恐らく武藤富男にも当てはまるであろう〈信仰告白〉のありかたに関する,つぎの発言を与えていた。

 向けられた刃には断固として立ち向かえ。それは単なる精神主義をもってなしうるものではない。ものをいうのは〈信仰告白〉である。……大切なのは,かつて私自身がなにを受けたかということだ。自分が受けたこともないのに,受けたかの如く錯覚して伝えるから苦しくなる。

 信じてもいないのに,信じたかの如く思って語る。だから崩れと破滅がやってくるのだ。苦しまぎれに思いつき を語ってはならぬ。信仰告白とは,ただ受けたことだけを信ずる〈単純,明快,率直〉そのものであったはずだ8)

 武藤富男は,満州国国務院総務庁弘報処長として担当してきた職務「戦時弘報体制の実践」は,敗戦を境にすべて失敗であり,誤りであって,「否,もっと深くいえば,日本国民にとっての罪悪であったといえよう」と回顧する9)

 はたして,満州国高官であった武藤の犯した〈失敗・誤り・罪悪〉は,ただ「日本国民にとって」だけに妥当することであったのか。

 満州国体験にかかわっては,武藤富男の自己認識上欠けている重大な2点がある。

 そのひとつは,王道楽土・五族協和を国家建設の精神理念にかかげていた満州国であったのに,日本民族以外の諸民族に対して,満州国国務院総務庁弘報処長という要職を勤めたほどの人物武藤富男が,感じるところがなにもなかったのかという点である。五族協和の提唱が本物であったなら,自分が犯したという〈失敗・誤り・罪悪〉は,「日本国民にとって」だけに妥当するものではなかったはずである。

 もうひとつは,満州国〈国家神道の宗教体制〉のなかにおかれるキリスト教徒となった武藤富男は,その国家に対して根源より抵触するほかない〈キリスト者の立場〉に立たされることになったという点である。だが,満州国時代において武藤のひねり出した〈自他調整の方法〉は公私を問わず「まったく国体との癒着のもとに『聖戦』を弁明し,教団の成立を正当化し,日本的キリスト教をアジア開放のキリスト教的イデオロギーにしかねまじき」ものであった10)

 【注 記】

 1)武田武長『世のために存在する教会』新教出版社,1995年,54頁。

 2)同書,57頁。

 3)同書,31頁。

 4)同書,63頁,64頁。

 5)武藤『私と満州国』467-468頁。傍点は筆者。

 6)同書,469頁。

 7)武田,前掲書,65頁,243頁。

 8)辻 宣道『嵐の中の牧師たち-ホーリネス弾圧と私たち-』,新教出版社,1992年,42-43頁。

 9)武藤『私と満州国』327頁。

 10)森岡 巌・笠原芳光『キリスト教の戦争責任-日本の戦前・戦中・戦後-』教文館,1974年,92頁。

 


 

 6-5 にせものの信仰告白

 敗戦後,ほかの宗教陣営では追放がきびしくおこなわれたにもかかわらず,キリスト教界にはおこなわれなかった。それが,キリスト教をますます居直らせ,ますます無感覚にしてしまった。そういう意味で,アメリカの占領政策批判をふくめた反省がなされねばならない。

 日本のキリスト教は,ある意味で戦争の被害者だった。権力に痛めつけられ,もみくちゃにされて犠牲者も出た。こういう被害者意識が,戦争責任意識を中和するひとつのおおきい要素になっている。日本のキリスト者はこの被害者意識に甘えていた1)

 なによりも「天皇制を受けいれてしまった。それがキリスト教のリベラルで良心的な大部分じゃなかったか」2)という意味あいでは,武藤富男をそれほど責められないというような弁護の余地があるかもしれない。

 だが,「社会とか人間とかの危機,そういう意味における戦争とか,国家権力の介入とかには,非常に感度が鈍い」という面に関していえば,武藤富男のばあい,「満州国高官であったキリスト教徒」という立場に鑑みて,けっしてみのがしえない深刻かつ重大な論点を包している。

 武藤富男は,クリスチャンであるとかないとかいうまえに,日本帝国臣民としてあの侵略の戦争を支持していた。武藤は,満州国というカイライ国家の有力な構成員であった。

 武藤は,当時に生きてきた自分の姿に関して,キリスト教信仰,教義・倫理にもとづいておこなうべきであった〈信仰告白〉を,その後においても真摯に披露することを拒んだ。それゆえ,彼の発言には,いつも一種独特の歯ぎれの悪さがあった

 晩年になっても武藤富男は,「キリストの主権は道徳,宗教において天皇にも及ぶが,政治・社会次元ではその時代の権力の論理に従う。逆に国権はキリスト教会に対し道徳・宗教の次元では強制力を持たないが,政治的社会的次元では強制力を持つ,という理解」=詭弁にこだわっていた。だが,そこでは「キリストの主権を主張しつつも,その主権は政治・社会的次元には及ばないとするキリストの主権の歪曲化・矮小化・原理化が行われている」3)

 そもそも,キリスト:聖書の教えは,どのようにしめされていたのか。

 人間の側の思考原則として,さらには神から一方的に与えられた恵みの地平として,このキリストの主権を政治・社会面はいうに及ばず,すべての面においてあらわにさせていくことがキリスト者の努めとなる……。そこでこのキリストの主権の下に第1戒の神が正しく捕え直されるべきであった4)

 戦争の時代,天皇制国家に恭順の姿勢をしめしながら日本期督教団の統理を勤めていた冨田 満は,日本のクリスチャンは「信仰と政治と国家というものを混同して考へ」てはいけないと,キリスト教の基本教理にそむく発言をおこなっていた5)

 しかしながら,キリスト教徒はその「信仰」に基盤においてこそ,一体的なるものである「政治と国家」に対決しなければならない。すなわち,キリスト教において「信仰の二元論的頽落現象=信仰告白の化石化」は,完璧に峻拒される。

 だから,天皇を現人神とする信仰体系と,「われのほか何物をも神とすべからず」とする信仰体系とは,しょせんどこかで激突する結果となることは,火をみるより明らかである。

 それなのに,戦前期キリスト教は臣民化政策の一翼をにない,天皇を「侵スヘカラサル」存在と誤認し〔心あるものはタブーとして敬遠し〕,これと直接,具体的に対決することをしなかった。それは残念ながら,歴史にのこる事実である。

 本来の意味で,信仰告白が日本人には定着していなかった。「イエスは主なり」という告白が,「臣民の道」にまさって優位に立つことを骨の髄からわかっていなかった6)

 人間であった天皇を「偶像崇拝・礼拝」することは,まともなキリスト教徒であれば絶対に許されない行為である。「信仰の二元論的頽落現象=信仰告白の化石化」という逃げ口上を,敗戦後半世紀以上も経って,なお忘れえなかった武藤富男。

 そのキリスト教〈信仰〉とは,いったいなんであったのか。

 クリスチャンであった武藤は,天皇を生き神にすえていた自分の〈過去の観念〉を,なにゆえ,その根源まで立ちかえって徹底して告白できなかったのか。

 武藤富男に問われるべきことは,こういうふうに表現できる。

 同僚を売り,押しこめ,さかしらに教訓をたれた者たちが,侮改めもなしに生きのびた。その後塵を拝する者たちにより,いまも空疎なスローガンが語り継がれる。告白〈イエスはキリスト〉を軽視せよとはいわない。むしろ生命をかけよといいたい。これは教会のいのちである。天皇制に対応する基本的告白はこれ以外にない。

  どういう形で天皇制と折り合って来たのか。どういう形で「われのほかなにものをも神とすべからず」というあの告白を貫いたのか。このようなことを訊いてみたい7)

   村上重良『国家神道』(1970年)の結論部は,こう断じていた。

   国家神道は,わずか四半世紀前まで,80年にわたって日本を支配した宗教制度であり政治制度であった。この80年間に,日本近代社会で国家神道と対決し,あるいは受動的な抵抗を強いられたイデオロギーおよび宗教の存在は,日本の宗教と政治の将来を考えるうえで,きわめて重要な意義をもっている。

 国家神道は,終始,日本における民主主義の対極をなす存在であったから,国家神道の復活と民主主義の擁護は,いやおうなしに二者択一の関係にある。国家神道の本質と役割の究明は,まさしく現在の問題というべきであろう8)

 【注 記】

 1)森岡 巌・笠原芳光『キリスト教の戦争責任-日本の戦前・戦中・戦後-』97頁,97-98頁。

 2)同書,121頁。

 3)富坂キリスト教センター編『天皇制の神学的批判』新教出版社,1990年,180頁。

 4)同書,181頁。

 5)『嵐の中の牧師たち』197頁参照。

 6)同書,85頁,111-112頁。

 7)同書,96頁,127頁。

 8)村上重良『国家神道』岩波書店,1970年,227頁。

 


 

 6-6 本物のキリスト教徒であったのか

 旧満州国は,この国風に国家神道の宗教制度をととのえ,王道楽土・五族協和体制に着せる衣装につかっていたが,民主主義の精神や制度とはまったく縁のない国家形態をとっていた。

 満州国政府の要人であった武藤富男が,満州国時代における体験をまともに回顧し,すこしは客観的に自己分析できていたのであれば,敗戦後における日本神道のありかたや民主主義の方向性に対する,宗教人としての有効・有益な貢献を,なにほどかはなしえたはずである。

 もしかすると,処世術に長けた武藤は,そんな迂遠な作業にわずらわされたくなかったのか。

 だが,クリスチャンであった自分を真に(まともに)真に認知してもらいたいのであれば,けっして避けてはとおれない課題がそこにはあったはずである。

 それは,満州国の高官を勤めたときの自画像を正確に描き,自分のしてきた似非クリスチャン的行動を正直に信仰告白することであった。戦後もキリスト教信徒でありつづけ,なにやらうしろめたき言動をかさねながら,上手に世俗を生きぬいてきた武藤のことゆえ,とうとう率直な信仰告白をしそこねたものと推察される。

 こうした意味関連で解釈していくと,戦後における武藤富男も,実は〈の〉クリスチャン像にはほど遠かったことになる。

 もし,武藤富男が本物のキリスト教徒であったと仮定したならば,「生命を懸けて天皇と対決して」1)みるべきか,一度は本気で考えたはずと推測してよい。

 だがはたして,どうであったか。そもそも,戦時下における日帝のキリスト教に対する迫害は,聖書信仰に対するものであった。聖書を文字どおりには信じないと公言する者や,再臨の予言をぼかす者には,この迫害がないゆえんである2)

 既述のように武藤は,キリスト者であった自身にかかわる〈告白の問題〉にふれていた。この〈告白の問題〉においては,キリスト教の「信仰告白に立つということが,当然天皇制と向き合うというところに行くわけで」あった。なんどでもいわせてもらうが,なぜなら,キリスト者の天皇制批判は,「汝,わが顔の前に,我のほか何物をも神とすべからず」にかかわる信仰の闘いであったからである3)

 しかし武藤は,天皇制との対面において,クリスチャンであった自身の「真価=信仰」が問われる重大な岐路に立たされたとき,いいかえれば戦前期,自分「の中で信仰の問題として天皇制の問題が出てくる」にさいしても4),そしてその後〔敗戦後〕においても,この問題にかかわっては直裁な〈信仰の告白〉をけっしてしようとはしなかった

 武藤は,クリスチャンとしての信仰告白をするようなポーズをみせながら,実は,信仰の告白というにはまったく値しないような,なにやら〈後悔の感情〉のようなものだけを小出しに披露してみせていた。

 結局,満州国時代に生きていた武藤は,「天皇制の権力支配に屈服を強いられ,戦争に協力を強いられ,教会〔自身〕の主体性をことごとく失っていった」のである。

 敗戦後,武藤の「それ〔信仰告白ならぬ信仰告白〕はあの時をたくみにすりぬけた生き残りが勝手に言うことで,無責任な発言です今〔その時:戦時中〕を闘わないで,いつ闘うというのでしょう」5)

 つまり武藤富男は,「問題の所在はわかっていたが,自分のこととして本気に受けとめていなかった」。

 武藤「の体質〔は〕,もっといえば日本のプロテスタント教会の本質に迫る問題として……自己保身,自己矛盾……の体質でした。しかしこれは戦争という異常事態が引きおこした突発的事象ではありません。明治以来ひきずってきた日本のキリスト教の本質ではなかったか」6)

 「国家神道の復活と民主主義の擁護は,いやおうなしに二者択一の関係にある」といわれていた。戦中の精神的自我を完全に内省・超克しなければ,戦後における〈キリスト教徒としての自分〉は肯定・認容されえない。この歴史的に厳然たる関連性を,武藤はよく認識すべきである。

 戦中の出来事を,なにやらあやふやにしか〈告白〉できないのであれば,戦後における〈自分〉を,〈キリスト教徒〉として生かせる資格はなかったはずである。

 あえていえば「以前」の歴史とは,……「の歴史」である。できれば隠蔽したい歴史,赤面と後悔の歴史,記憶から抹消したい歴史とさえいえる。だがそのような歪曲と操作を許さぬ「事実」が歴史なのだ。

 の歴史は無視,黙殺の対象ではない。忘却でもない。凝視である。そこに生起したこと,事実を受けとめた経過,事柄の収めかた,そのすべてが日本基督教団の側面を語る資料である7)

 既述のことであるが,武藤富男は,日本において伝統あるミッション系大学の明治学院大学学院長を勤め,また東京神学大学の理事長職にも就いていた。

 1990年4月,天皇代替わり行事「大嘗祭」を批判する声明文を,関西学院大学・国際基督教大学・明治学院大学・フェリス女学院大学の4学長が共同で公表した。

 しかし明治学院が,内なる十戒「第1戒」の破戒者武藤富男を学院長に据えていたという歴史のしがらみをみるとき,筆者は,はてしない絶望感を覚えるのである。

 --日本が本格的な戦時体制期にはいっていた昭和13年夏のこと,武藤富男は,恩師サムエル・ウェーンライト博士から「あなた,牧師になりませんか」と勧めをうけたとき,「私は,来たるべき戦争を既に予想していた。しばらく間を置き,私は『ノー』と答えた」8)

 このときすでに,戦争の時代にむかっていく武藤の「非 (ノン) クリスチャン的な言動〈全体の原型〉」が,黙示されていた。

 ある意味で,戦時中ではなく,戦後になってから武藤が牧会者の資格をとったのは,まことに賢明なる処世術の発揮であった。戦時期の「国体のワクの中でのみ信教の自由は許される」9)ような状況下においては,「イエスはキリスト〔である〕と,もっとも高い神学的水準で表白した者が,神ならざる神々に叩頭」10)するほかなかったからである。

  武藤富男はかつて,「不正と悪と傲慢の支配する国家と政治に対する神の審判を」11)うけることになる旧「満州国」に奉職してきた。

 武藤は,戦時中は牧会者にならず,満州国高級官吏である1平信徒の立場に自分をとどめ,その時代をうまくやり過ごした。

 そして敗戦後は,聖職者の資格をとることで,自分の処世の巧みさを多いに満喫できた。

 武藤が,戦時期という〈過去〉にのこしてきた〈キリスト教信者としての自分の姿〉を,すなおなかたちで,主の名のもとに『真に〈信仰告白〉できなかった』のは,みやすい道理である。

 クリスチャンが「誇るべきものは,主の十字架の勝利であって,私たちが負わされた十字架ではなかった」と語る,山崎鷲夫編『戦時下ホーリネスの受難』(1990年)は,百数十名の犠牲者を〔獄死者も〕出したホーリネス・バンドの受難を,こう総括している。

 私たちに残された最後の機会を生かして,再び苦難と試みの時代が来ることのないように,教会がこの歴史の中で,新たに信仰と希望と愛を一つにして立つため……,私たちは私たちの弱さと躓きを越えて,聖書の言葉,福音の力の確かさの証しを,背信の罪を赦して私たちを再起せしめ……ねばならない 12)

 武藤は,旧満州国という「不正と悪と傲慢の支配する国家と政治」の現実のなかにおいて,自分の信じていたという神に対する〈背信の罪〉を犯さざるをえなかった

 敗戦後になって,キリスト教徒としての自身が,徹底的になすべきであった「関連する信仰告白」についてはことばをにごして避けつづけたすえ,武藤はそのまま他界してしまった。

 ところで,満州国の高級官吏を武藤が勤めていたある時期〔1942年6月以降〕,満州在住のホーリネス教団系牧師たちも,奉天監獄に入獄せしめられていた13)

 この牧師たちは,宣教のために苦しみをこうむりながらも,「キリストのため命を投げ出すことは,人を殺すことでなく,人を生かし人に命を与えるためである」14)という,イエス・キリストの言を護ったのである。

 ホーリネスの牧師のなかには,キリスト信仰の放棄を要求されたが,「殺されてもやめません」と拒否したため,父親の目前で殺された者もいる15)。このように「命を賭け,信仰告白」し,第1戒を護りぬいた人物もいた。

 われらの信ずる主キリストの来臨によって平和となり国々諸民族森羅万象ことごとく,イエスさまは神なりと崇めまつる,神の国と,日本帝国天皇のもいずと聖戦とによって八紘一宇(世界を家とする)という国体の尊厳とは,両立しないのである16)

 旧満州国時代の武藤富男は,はたして,《神の国》それとも〈カイライの国〉のどちらに立っていたのか

 この問いは,「戦中の武藤」のみならず,「戦後における武藤」にまで敷衍し投げかけられてよい。

 キリスト教徒を標榜していたにもかかわらず,武藤が,主の名のもとに「真の〈信仰告白〉」をなしえなかった事由は,明らかである。

  1)問題は,私が犯罪の可能性があり,犯罪が事実上すでに開始されていることをしりながら,これに協力するというところからはじまる。

 国家の犯罪というものはあるにはあるが,それは必ず同時に特定の個々の人間の犯罪である。命令と服従との関係はそれが必要だということもあり,名誉だということもあるにはあるが,服従者として自分が犯罪を遂行することが分かっているばあいには,服従してはならない17)

   武藤富男は,満州国に日帝官吏として派遣され,このカイライ国家に奉職する立場に立つ人間となった。しかも武藤は,その国家の「命令」に「服従」する「関係」において,いわば〈犯罪の可能性〉を〈事実上すでに開始〉させていたのである。

 キリスト教徒である信仰的な立場に照らしてみるとき,「満州国」に在職中の〈武藤という人間〉は,はたして,キリスト教徒の護るべき行動規範に即して生きていたか。否である。

  2)信徒が,自己の信仰を捨てるとか変更するよう強要を受けるばあいがあるときに,信仰を捨て転向するふりをし,自己を欺瞞する行為は,神の前ではできない。

 信仰は絶対の境地をもっており,虚偽の生活をするよりむしろ良心にしたがって殉教することが当然である〔-在日大韓期督教会『憲法』第3条・第4条より-〕 18)

 満州国時代における武藤富男は,「信仰は絶対の境地をもって」すべきあところの基本をないがしろにしていた。当時の武藤は,当面「転向するふり」をし,表面的に「自己を欺瞞する」「虚偽の」信仰生活をしていた。このため,彼は「神の前」にすすみ出て,自分の過去を正直に懺悔しえなかった。戦中の姿勢は戦後のそれをも律することとなった。

  3)要は,「イエスは主である」という告白の不徹底のゆえに「国家権力に追随」してしまった19)

 --結局,武藤は,過去の歴史に自分の刻んできた深淵を振りかえり,真正面より挑む気持をもてなかった。

 武藤は,自身の信仰心における敗北を率直に認知 (こくはく) しなかった。彼はそのため,敗北 (こくはく) せずして敗北 (こくはく) し,自分の信仰心の再生・復活をなしとげることができなかった。

 4「敗北を認めるところから再生がはじまります」20)

 橋川文三は,こう述べる。

 日本の精神伝統において,イエスの死の意味に当たるものを,太平洋戦争とその敗北の事実に求められないか。

 イエスの死が単に歴史的事実過程であるのではなく,同時に,超越的原理過程を意味したと同じ意味で,太平洋戦争は,単に年表上の歴史過程ではなく,啓示の過程として把握されるのではないか。

 太平洋戦争の過程を,歴史過程としてではなく,超越的な原理過程としてとらえようという提言の意味はなにか。ここで原理過程とはまさに,歴史意識における普遍理念,もしくは絶対者の機能に関する意識に対応するものである。

 もし,太平洋戦争における無数の体験集合を戦争体験の基本要素とみるならば,そこからは戦争の全体的な意味はかえって明らかにならない。そのような個々の体験が,構造的に国体論的存在論の規定をうけている以上,国体論的歴史を超越した視野は開かれない。

 その意味でも,新たな原理の観点の樹立と戦争体験の超越化とがみあうことになるばあい,原理形成の根源的エネルギーとなるものは,原理存在の意識と,原理喪失の意識とのあいだに生じる緊張以外のものではない。

 いいかえれば,あたかも福沢諭吉が「一身にして二生を経る」がごとき原理的矛盾のなかから,その事態を「再びうべからざる僥倖」としてとらえなおすエネルギーをつかみとったのと同じように,普遍理念としての解体と無原理状況の矛盾のなかにおいてこそ,かえってわれわれは個々の体験をこえる「僥倖」を期待しうるのである。その方法は,1人のナザレ人の愛憎に満ちた生涯の終焉から,福音の原理を構成しえた方法とかわらない21)

 はたして武藤富男の精神構造内に,「国体論的存在論の規定」に対峙させられるべき「福音の〈原理存在の意識〉」は,あったのか。

 戦中,武藤は「一身にして二生を経る」ための絶好の機会を逸した。戦後にいたる彼はその逆であって,分割された「二身にして一生を経る」だけの自家撞着をきたしていた。その姿は,クリスチャンというにはほど遠く,名状しがたい矛盾的な様相 (ヤーヌス) 様相を呈していた。

   武藤富男ののこしてきた人間的な軌跡は,〈絶対者の機能〉や〈啓示の過程〉を感得させえなかった。またそれは,〈歴史意識における普遍理念〉を示唆したり,〈超越した視野〉への展望をいだかせたりするものではなかった。

 それゆえ筆者は,歴史的意識において超越的・普遍的・原理的な緊張を欠いてきた武藤に,深い失望感,はてしない絶望感を感じる

    「日本のキリスト教指導者〔賀川豊彦〕には失望した」22)(野田正彰)

 敗戦後,戦中にはなろうとしなかった牧会者の資格を,いち早く取得した武藤富男であった。

 ちなみに,牧会者とは神の代わりを務める人のことをさす。神の御旨にそわない罪深い行跡を棚上げした人物,またこの事実を正直に告白できない人物に「牧会者」の任務をはたさせることを,神はけっして喜ばないだろう。それどころか,きっと天上の世界において激怒しているにちがいない。

 神は,武藤を試練の場に送りこんでくれた。にもかかわらず武藤は,神によるその厳命に答えなかった。なぜか。どうしてか。この点に関する告白はないままである。

 イエス・キリストは,十字架にかけられた結果,その「死」をもって,真の「命」あることを証ししたといわれている。

 武藤富男は,戦時‐戦後にかけて,キリスト教徒であった自分の物質的な「生命」を上手に永らえ,これによってかえって,宗教精神的にいいかえれば超越的・普遍的・原理的に自身の精神的な「死」を証明したのである。

 【注 記】

 1)『嵐の中の牧師たち』133頁。

 2)山崎鷲夫「戦時下ホーリネスの受難」新教出版社,1990年,331頁。

 3)『嵐の中の牧師たち』137頁,200頁。

 4)同書,137頁。

 5)同書,198頁,188頁〔 〕内補足は筆者。

 6)同書,199頁,210-211頁。同上。

 7)同書,195頁。

 8)武藤『私と満州国』469頁。関連する事情についてくわしくは,

  武藤富男『恩師二人-ウェンライトと佐波 亘-』キリスト新聞社,昭和42年。

 9)『嵐の中の牧師たち』130頁。

 10)同書,96頁。〔 〕内補足は筆者。

 11)山崎編『戦時下ホーリネスの受難』,「『ホーリネス・バンドの軌跡』刊行の言葉」ⅳ頁。

 12)同書,同上所,ⅲ頁,ⅳ頁。傍点は筆者。

 13)同書,274頁参照。

 14)同書,277頁。

 15)同書,291頁。

 16)同書,140頁。

 17)カール・ヤスパース,橋本文夫訳『戦争の罪を問う』平凡社,1998年,〔「1962頁のあとがき」〕193頁,192頁。

 18)山崎編『戦時下ホーリネスの受難』631頁。

 19)同書,628頁。

 20)同書,552頁。

 21)橋川文三・ほか2名『戦争体験の意味』〈現代の発見〉第2巻,春秋社,1959年,27頁,33-34頁。

 22)野田正彰『戦争と罪責』岩波書店,1998年,81頁。〔 〕内補足は筆者。

 


   ※ 2004年11月7日 HP 公開