中西寅雄「経営経済学説」の吟味 -1938年度後期授業「講義ノート」-
裴 富 吉
-も く じ-
Ⅰ は じ め に -問題の焦点-
中西寅雄『経営経済学』(日本評論社,昭和6:1931年)は,経営学の研究に従事する者すべてが,一度はひもとくべき名著である。 中西寅雄は,日本経営学史のなかで「個別資本〔運動〕説」を提唱し,反体制的な視点を経営理論の立場において定立した,と誤解されてきた。しかもこの「誤解」は,反体制派の経営学者のみならず,体制派的な経営学者にもみられた。もちろん,中西寅雄に近しい一部の経営学者は,その誤解にとらわれていなかった。 とりわけ,「批判〔的〕経営学」の理論を構想し,反体制派の思想を標榜した経営学者は,中西寅雄「経営経済学説」を片思い的にうけとめ,自陣営内に定置させうる発想だと評定した。 しかし,中西はけっして,「マルクス主義」的なイデオロギーに立脚した学問を披露したのではない。中西「個別資本〔運動〕説」に対するこの種の「誤解」は,筆者が指摘・修正するまで疑われることもなく,〈通説〉的な認識でありつづけてきた。 日本経営学史の流れのなかでなぜ,中西はそのように誤解されてきたのか。この論点は,日本経営学における理論史に関して,重大な課題たりうるものである。 中西寅雄『経営経済学』1931年の理論面における本質的な特性,その時代的な制約性に関しては,特定の信条に依拠した教条的・図式的な解釈以外,まっとうにとりあげられることがなかった。イデオロギー過剰の議論におちいりがちだった批判経営学の研究者は,中西『経営経済学』をあたかも,聖典であるかのようにもちあげてきた。そのためかえって,その内実に関するまともな学説史的研究がないがしろにされた。戦前日本に誕生した同書の「総体的な評価」は,的確になされていなかった。 筆者は,いくつかの論著で中西学説を論究してきた1)。そこで強調したのは,a) 中西説が登場した「時代背景」,b) 中西が籍をおいていた「東京帝国大学経済学部の事情」という2点を,十分に考慮し関連づけた「理論的な検討」が必要なことであった。 中西「経営経済学説」に対する批判経営学者の評価は,『経営経済学』昭和6:1931年から『経営費用論』昭和11:1936年へと理論を展開させていった中西寅雄の変転を,「転向」よばわりし,闇雲に非難することにかぎられていた。すなわち,中西学説そのものに関する地道な「経営学説史」的研究の初歩的な手順を無視してきた。自分たちの政治信条的な立場や価値観・世界観に合致する「理論部分」については,《中西寅雄》を歓迎・称賛し,のちにそうではなくなった彼はひたすら非難・排斥する,という〈常道〉を発露するものであった。 今回,本稿が議論する対象は,「中西寅雄先生講義プリント経営経済学 (全)」昭和13年10月-14年2月東京帝国大学経済学部講義終迄,帝大プリント聯盟,昭和14年3月1日発行〔ガリ版刷〕である。 昭和14(1939)年1月28日,東大経済学部に「平賀粛学」事件が起きた。 昭和13(1938)年10月,東大経済学部の河合栄治郎は,『ファシズム批判』など4著書の発禁処分をうけ,昭和14年2月に起訴された。このとき同学部内では,河合擁護派とその追放をはかる土方成美ら〈革新派〉とが,激しい内紛を展開した。 当時の東京帝国大学総長平賀 譲海軍造船中将は,河合栄治郎教授などを,大学から追放する処分をおこなった。平賀総長は,喧嘩両成敗のかたちで収拾を図ろうとし,教授会にかけることなく,河合‐土方両教授の休職を文部省に上申した。だが,その思想処分は学部自治を内部から無視し,崩壊させるものだった。 昭和14年1月30日,両派の教授,4助教授がこれに抗議して辞表を提出した。平賀総長は評議会の支持のもと,大河内一男講師らの復職をえ,再建を軌道にのせた2)。 中西はこの事件を契機に連袂辞職した「教授」の1人である。中西は戦後,東大経済学部にもどらなかった。 ともかく,その「平賀粛学」事件の発生時まで中西は,「経営経済学」を講義してきた。その講義を聴講‐筆記した学生のノートをもとに製作・販売されたのが,「中西寅雄先生講義プリント経営経済学 (全)」である。 以後,「本講義録」をプリント「経営経済学」と略記する。 --中西『経営経済学』昭和6:1931年からプリント「経営経済学」昭和14:1939年のあいだにおいて,はたして,どのような変化や発展が中西学説のなかで醸成されていったのか。本稿が注目する論点である。 もっとも,プリント「経営経済学」は,中西の授業を聞いた学生が筆記したノートを材料に製作された「講義録」である。したがって,これをもって,特定時期における中西寅雄「経営経済学説」を,完全に反映させる中身とみなすわけにいかない。しかし,この「講義録」のプリント「経営経済学」を観察すれば,昭和2年度から昭和13年度まで東大経済学部で「経営経済学」を講じていた中西が,「経営経済学」の構想をどのように変質・進展させていったのか,おおよそ理解できる。 筆者が中西学説の歴史的な変貌に対いて関心をもつのは,「満州事変」〔昭和6:1931年9月18日〕の年に刊行された『経営経済学』(昭和6年9月25日初版)の主唱がその後,中西自身の手によってどのように改変されたか,という点である。 『経営経済学』は初版発行後,絶版にされた。この処置は,中西寅雄『経営費用論』(千倉書房,昭和11:1936年6月)が増刷を重ねてきたのにくらべ,非常に印象的な点である。ちなみに,筆者の所蔵する『経営費用論』は昭和16:1941年6月に25版を数えている。専門書としてはたいそうな売れゆきである。『経営費用論』は戦後に復刻版も刊行されている(「新刻」版,千倉書房,昭和48:1973年)。 それでも,『経営経済学』は,中西が当時〔昭和6年まで〕において,「経営経済学」の講義用に構想‐準備した体系・内容とみなされてよい。筆者のこうした把握に無理がなければ,昭和2年度から昭和13年度のあいだ,東大経済学部で中西の担当してきた講義:「経営経済学」の構想に生じた変転に着目する必要がある。 さきに断わっておくが,黒澤 清のように中西説の変転をとらえ,「個別資本運動の仮説の演繹と検証の過程において,それは学問的袋小路に導くものであることを,みずから発見された」3)というような一知半解の論断をするのは,大きなまちがいである。 前段で引用におよんだ論稿,黒澤 清「中西寅雄と日本の原価計算」(『中西寅雄経営経済学論文選集』千倉書房,昭和55年所収)は,「中西寅雄博士(年譜)」において,東大経済学部辞職の年次を昭和12:1937年と記述していた4)。中西の没後,その論文選集の編集‐公刊を世話するほど親しい間柄にあった研究者が,なぜそのように単純なミスを犯すのか不可解である。 黒澤は,中西寅雄の学問となり人となりをめぐるa)「時代背景」,b)「東京帝国大学経済学部の事情」などの論点とは無関係に,独断的な解釈をくわえたにすぎない。日本の会計学界においては「天皇的な存在」といわれた黒澤だったが,学問的・理論的かつ実証的・歴史的な裏づけを欠く,きわめて粗雑な判断を下した。 中西のプリント「経営経済学」は,昭和13年度後期の講義を学生が筆記した内容であり,東大経済学部における中西の最終講義を記録していた。時代の状況は,約半年あとの1939年9月1日,第2次大戦が開始するのであった。
Ⅱ 講義プリント「経営経済学」の概要と問題点
1) 講義プリント「経営経済学」の位置づけ 中西のプリント「経営経済学」1939年の体系と内容は,中西『経営経済学』1931年とは異なる点をふくんでいた。両著の主要な構成を参照しよう。
以上のようにプリント「経営経済学」1939年は,章節構成「見出し」の掲出方法に関して精粗があり,混乱もある。 しかし,肝心なのは,『経営経済学』1931年の第1章「経営経済学の本質」と,プリント「経営経済学」1939年の「第1編 経営経済学ノ本質(経営経済学トハ何カ)」とのあいだに生じた主張の相違である。 中西『経営経済学』1931年第1章「経営経済学の本質」の結論部を紹介しておく。 経営経済学は,個別的資本の価値増殖過程を研究する私経済学又は企業経済学である。……企業を対象とする理論的経営経済学(より厳密には私経済学)は社会経済学の1分科であり,相対的独自性を有つと同時に,社会経済学に包摂される限りに於て,絶対的独立性を拒否される5)。 これは,マルクス経済学の学問方式にしたがい,否定的・消極的ではあっても,「経営経済学」を措定したところの,中西の基本的見地を披露するものであった。 ところが,『経営経済学』1931年のしめした「経営経済学の本質」観は,プリント「経営経済学」1939年では大きくかわった。わけても,「価値増殖過程」という語句が出てこなくなる。この1点をみても,中西はその後,マルクス経済学〔およびマルクス主義思想〕に対して,截然たる態度を採るかのように変貌したことが理解できる。 当時はすでに,日本帝国に対する反体制派の思想・学問の存在が,まったく許されない状況に移行していた。明治憲法〔大日本帝国憲法〕下の日本は,「満州事変」1931年9月を経て1937年7月日中戦争に突入,1938年5月には「国家総動員法」を施行,その間,反体制派を根絶やしにしたといっていいほど,苛烈な弾圧をくわえてきた。 東京帝国大学経済学部は,「社会科学としての経済学や経営経済学」という学問・理論に従事する学者を擁する「日本最高峰の研究機関」であり,それゆえ,いつも国家のきびしい監視をうけてきた。くわしい議論は前掲の他著などにゆずるが〔注2) 文献参照〕,東大経済学部の創立当初から為政者がくわえてきた抑圧・弾圧は,その存立基盤を揺るがすような事蹟を数多く記録させた。 戦前日本の国家体制は,治安維持法〔大正14:1925年4月22日公布〕によって,「國體ヲ變革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコト」(同法第1条)につながる思想・信条や学問・理論を,徹底的に弾圧・圧殺する姿勢を堅持してきた。大正時代後半にはやったデモクラシーも,昭和ヒト桁代にはその芽を摘まれ,東大経済学部もその圧政の影響を真正面よりうけることになった。 ここで注意したいのは,中西寅雄の『経営経済学』昭和6:1931年は,「けっして根底からマルクス経済学の展開を意図したものではなく,むしろ広くドイツ経営経済学の問題意識をマルクス経済学でもって基礎づけんと意図したものであった点」6)である。 中西は,1931:昭和6年に『経営経済学』を公表した。だが,彼は直後に,本書に刻まれた「マルクスの経済学摂取の痕跡」を深く悔いるはめとなった。それゆえ彼は,いち早く本書に絶版の措置をほどこし,迫りくる時代の圧迫感から逃れようとした。 中西は,当時刻々と高まっていく国家全体主義の思潮のなかで,恐らく自分の立場を危うくしかねない〈時限爆弾〉であるかのように,自著『経営経済学』をうけとめていたと推測される。中西「経営経済学説」に対する考察は,そうした彼の気持を慮りながらおこなうべきものと,筆者は考える。 さて,プリント「経営経済学」の本文の検討にもどる。 まず,昭和13:1938年度後期授業において,中西が「経営経済学」の講義を展開するにさいし,聴講する学生に対してしめした参考図書は,つぎのものである。 プリント「経営経済学」は参考文献として,以下の6著を挙げている7)。 ・宮田喜代蔵『経営原理』春陽堂書店,昭和6年。 ・宮田喜代蔵『生活経済学研究』日本評論社,昭和13年。 ・酒井正三郎『経営技術学と経営経済学』森山書店,昭和12年。 ・古林 喜楽『経営労務論』東洋出版社,昭和11年。 ・国松 豊 『工場経営論』千倉書房,昭和6年。 ・桐原 葆見『労務管理』千倉書房,昭和12年。 これらのなかで,古林喜楽『経営労務論』(東洋出版社,昭和11:1936年)は,実は「奴隷のことば」で執筆されたマルクス主義的な労務管理論〔今風にいえば人的資源管理論〕であり,戦後にあらためて高い評価をえた著作である。しかし,中西のプリント「経営経済学」は,マルクス主義的な含意で古林喜楽の同書を参照したわけではない。あくまで,その講義録の内容に必要な材料を,マルクス主義の思想およびイデオロギーの部分を抜きに参照したにすぎない。かといって,古林の同書に秘められた真意を,中西が読みとれていなかったとは思えない。 中西『経営経済学』は前述のように,「広くドイツ経営経済学の問題意識をマルクス経済学でもって基礎づけんと意図した」ものだった(吉田和夫)。具体的にいえば同書は,マルクス『資本論』と,ドイツ経営経済学のなかでも,W・リーガー,H・ニックリッシュ,E・シュマーレンバッハなどの内容とを融合させ,構想・執筆した著作であった。 ところが,プリント「経営経済学」をひもとくかぎり,「ドイツ経営経済学の問題意識」をとりあげている点にかわりはないものの,マルクス『資本論』は言及も利用もされなくなった。その代わり,プリント「経営経済学」を基礎づける方法論には,「ドイツ生活経済学」が当てられた。 ともかく,中西のプリント「経営経済学」(昭和14:1939年)に説明された「経営経済学の本質」を聞くことにしたい。そのまえに,戦前,それも戦時体制期に日本経営学会が刊行した「年次大会の報告集」のうちから,当時の雰囲気をよく現わすものを紹介しておくことにする。 なお,この「経営学論集」の題名は,それぞれ前年秋に開催されていた日本経営学会全国大会「共通論題」とほぼ同じである。 『統制経済と企業経営』同文館,昭和12:1937年。 『戦時体制下に於ける企業経営』同文館, 昭和14:1939年。 『価格統制』同文館,昭和15:1940年。 『利潤統制』同文館, 昭和16:1941年。 『生産力拡充』同文館,昭和18:1943年。 これらのうち,『戦時体制下に於ける企業経営』を共通論題にかかげた日本経営学会は,昭和13年10月14~16日に開催された。このころまさしく中西は,東大経済学部において最後となる「経営経済学」の講義を開始する。
2) 講義プリント「経営経済学」 ① 生 産 経 済 中西のプリント「経営経済学」はまず,「国民経済学ノ本質ヨリ」「経営経済学トハ何ゾヤ,ニツイテ」「述ベ来タラネバナラナイ」という。そして,経営経済学の研究対象である「部分経営」は,「統制経済ニ於テモ私有性ハ存スル。タヾ,ソレガ最大ノ利潤追及トイフ原則ニ依ラズ,国家ノ費用補償経済トナリ,コヽニ於テモソレハ社会主義的管理経済トハ異ナル」と規定している8)。 この見解は,『経営経済学』昭和6:1931年において,経営経済学を「個別的資本の価値増殖過程を研究する私経済学又は企業経済学である」と規定したものと,明確に異なっている。 それでも中西は,「生産経済ノ本質ハ,直接的ニハ最大ノ利潤獲得ヲ目的トスル。故ニ,費用ト収益トノ比較考慮デアル」,と記述した。これにつづけて,「資本家的経済トハ収益(Ertrag)-費用(Aufwand)=利益(Gewinn)」,と説明する9)。 しかし,「統制経済下ノ生産経済ニ於テハ,資本家的経済トハ異ナリ,営利原則ニ代ハルニ費用補償ノ原則ヲ以テスル」。 「営利原則ニ依ル経済規制ト異ナリ,利益ノ有無,及ビ,収益カラ費用ガ補償サレルカ否カトイフコトハ個人ノ責任ニマカセラレル」10)。 「費用補償ノ原則ノ下ニ於ケル生産経済ニ於テハ,補償ガ国民経済者ニ依リテナサレル。通常ノ経営者ノ剰余ノ獲得モナケレバ,又費用ガ補償サレヌコトモナイ」。 「個々ノ生産経済タル立場ヨリ見ルナラバ,イヅレノ場合ニ於テモ,商品ノ販売ニ依ル収益カラ費用ヲ差引イテ剰余ヲ得ルトイフコトヽナル」11)。 その「異ナルトコロハ,費用補償ノ原則ニヨリ,収益ガ国民経済者ニ依リ制限サレテヰルコトデアル」。 「収益-費用=剰余」。 「コレガ費用補償ヲ原則トスル社会,即チ,統制経済下ニ於ケルモノデアル」。 「生産経済ノ本質ハ単独経済ノ立場ヨリスレバ収益ト費用ノ剰余ヲ最大ナラシムルコト,収益ト費用トノ比較考慮デアル」。 「生産経済ガ特ニ,営利原則ヲ目的トシテヰル場合(資本家的社会
下)ヲ企業トイフ」。
「経営学者ガ企業ナル言葉ヲ用ヒル場合ニハ上ノ (A) (B) ヲ含メテ広義ニ企業ト呼ブ人モアルガ,私ハ (A) ノミ(狭義ニ)ヲ企業ト呼ブ」12)。 以上の議論は,統制経済下において変質した「企業の性格」を論じたものである。とはいえ,その論旨の展開においては不明解な点が残る。 統制経済下でも,私有性を有する「部分経営:生産経済」は,「資本家的経済,収益-費用=利益」ではなく,「費用補償ヲ原則,収益-費用=剰余」という目的追求をするともの,と規定されていた。 生産経済は営利原則「収益-費用=利益」を追求するものだが,統制経済のもとにある国民経済的見地では,生産経済は「収益-費用=剰余」になる,といいかえられている。だが,このふたつの概念に実質,いかほどの差異があったのか。説得力を欠く。 それでも中西は,「営利原則下ニ在ル」生産経済「企業」のみ企業そのものとよぶ,とも断わっていた。「収益-費用=利益」は「収益-費用=剰余」にかわったけれども,前者を追求する企業を重視する姿勢に変化はない,といいたかったらしい。 要は,「最大ノ利潤追及トイフ原則ニ依ラズ,国家ノ費用補償経済トナ」った企業の性格づけは,戦争「統制経済」,いいかえれば,戦時体制に突きすすんだ「日本経済の軍需生産体制の要求」に即応する方向性を表現したものであった。 日本経営学会は関説のように,全国大会の「共通論題」をつぎのように決め,開催していた。 昭和13:1938年10月,第13回大会「戦時体制下に於ける企業経営」 昭和14:1939年10月,第14回大会「価格統制」 昭和15:1940年10月,第15回大会「利潤統制」 昭和16:1941年11月,第16回大会「生産力拡充に関する諸問題」 時代は完全に戦時体制に移行した。学問も戦争のために「職域奉公」することを求められた。当時それにしたがわない社会科学者に対しては,その研究:存在じたいを抹殺しかねない空気が漂っていた。 中西は,『経営経済学』昭和6:1931年の第1章「経営経済学の本質」で理論的に惜しみなく表現した「マルクス経済学の方法」を消去することにした。しかし,そうした自説の転変は,中西が経営経済学の中身として元来学問的に認識してきたものに齟齬をきたした。 本稿の筆者は,昭和13年度後期の東大経済学部授業「経営経済学」において中西は,一定の意図をこめて,先述のような「概念規定の変更『利益→剰余』」を披露したとみる。 中西『経営費用論』昭和11:1936年は,「序」のなかでこう述べていた。
中西はさらに,「経営経済学は個別資本の運動をその研究対象とする。個別資本の運動とは,個々の資本が剰余価値を生産し実現し獲得する過程であり,その意識的担ひ手たる個々の企業家の意識には,原資本価値とその増殖分との関係,換言すれば,費用,収益,利益の関係として現れる。従って,費用問題は,経営経済学に於ける基本的にして且中核的な問題である」と述べ,結局,「経営経済学は利益追求に方向づけられた生産経済,換言すれば企業をその研究対象とする学である」と規定していた14)。 中西『経営経済学』昭和6:1931年の本文中には,もともとこういう記述があった。 「個別資本の循環と回転及び此の運動が資本家の目に反映する所の姿たる費用と収益との関係に就て考察した」15)(第4章「個別資本の循環とその回転」より)。 だが,プリント「経営経済学」における中西の講述は,戦時「統制経済の進展に対するその重要性」に対応させる方向を採った。いいかえるならば,「経営経済学一般の基本的問題である費用問題」に関する一定の見地を,決定的に変更させるような記述をおこなった。つまり,「個別資本の運動」「個々の資本が剰余価値を生産し実現し獲得する過程」に関する議論を,だいぶ後景に追いやるような処置をほどこした。 時間的にはその間,わずか3年ほどしか推移していない。だが,プリント「経営経済学」は,大幅に変質させた中西の「基本的な概念規定」をかいまみせた。
② 消 費 経 済 中西はつぎに,「消費経済ノ本質トハ何ゾヤ」と問う。 「生産経済(広義ノ企業,〔前述〕(A) (B) ヲ含ム)ハ,経済全体ノ立場カラ見レバ一ツノ手段ニ過ギナイ」。 「消費経済ハソレ自体究極的目的ヲ持チ得ル本源的構成体デアルトイフ考ガ存スル」。 「斯ク考ヘレバ,消費経済ハ究極目的デアリ,生産経済ハ,コレニ対スル手段的ナル構成体デアル」。 「経済ノ目的ハ欲望満足ニアル,トイフ事ヲ前提トシテヰル」。 「私ノ立場ハ,国民経済ノ本質ハ,生産ト消費トノ持続的調節(整)デアル。コノ立場ヨリスレバ,消費経済モ生産経済モ個々ノ部分経済ニ過ギズ,消費経済ガ生産経済ヨリモ重イトイフコトハ出来ナイ。即チ,ソノ両方デ国民経済ヲ構成サレテヰルノデアル」。 「経済ノ本質ハ生産ト消費トノ持続的調節ニアル」16)。 以上の議論は,中西「経営経済学説」は当初,「マルクス経済学の方法」を応用し,「個別資本〔運動〕説」を展開したが,その基本的な立場を変更したことを意味する。 プリント「経営経済学」は,当時「生活経済学」を論究していた宮田喜代蔵『経営原理』昭和6:1931年や酒井正三郎『経営技術学と経営経済学』昭和12:1937年などを,参考文献に挙げていた。 ここでは,中西が提示したその「生活経済学」の立場,つまり「経済全体ノ立場カラ見」た「国民経済ノ本質」が,「経済ノ目的ハ欲望満足ニアル」こと,「経済ノ本質ハ生産ト消費トノ持続的調節ニアル」ことを,すこし説明しておく。 宮田や酒井は,いわゆるゴットリアーネルである。ゴットリアーネルとは,Friedrich von Gottl-=Ottlilienfeld の理論的信奉者たちを指すが,この“ゴットル”の「生活経済学」は戦時体制中,日本の社会科学を風靡する学風となっていた。 もっとも,そのゴットル理論は「戦争の時代」における「日本の資本主義」を歪曲し,理論から逸脱し,倒錯の学説を展示していた。この難点はその後内省されるべきだったが,日本の提唱者たちは〔広くみるとその付和雷同者もふくめて〕,その作業を回避した。中西もその責めの一部を負わねばならならない1人であった。 中西は戦時体制期〔昭和12年7月〕以降,従前の自説を,扮装‐変質させていった。 ゴットル『経済の本質と根本概念』〔原著1933年〕は,昭和17:1942年の5月と12月,2種類の日本語訳が公刊されている17)。さらに,「ゴットル自身によって書かれたゴットル経済学入門書といふことの出来る」著作,ゴットル『経済と現実』〔原著1939年〕も,1942年8月に訳出されている18)。 そこで,後者『経済と現実』におけるゴットルの見解に聞き,中西説の転変を理解する手がかりにしたい。 a) 戦時体制中の日本経済において,「生成の途上にある経済科学は構成体論的思考態度のものである」19)。 →中西はだから,「消費経済ハ究極目的デアリ,生産経済ハ,コレニ対スル手段的ナル構成体デアル」と規定していた。 b) 「経済は欲求と充足との持続的調和の精神における人間共同生活の構成である」20)。 →中西はこの点を,「経済ノ本質ハ生産ト消費トノ持続的調節ニアル」と記述していた。 c) 前項 b) にも関連するものだが,ゴットルのこういう記述もある。 「技術的進歩の操縦においても窮極の決定権が営利経済に認められることはもはや許されないのであって,それはむしろ国民経済そのものの要請に,窮極においては国民の生活上の必要に,属すべきものである」21)。 →中西においてはこの点を,つぎのように論及していた。 「国民経済ノ本質ハ,生産ト消費トノ持続的調節(整)デアル」から,統制経済下の「部分経営:生産経済」は,「資本家的経済,収益-費用=利益」ではなく,「費用補償ノ原則,収益-費用=剰余」という目的観に立つ。 しかもこの主張は,戦時体制を構える全体経済:国民経済のためにこそ,前提にしなければならないものとされていた。この経済体制観をささえた政治体制観は,国家全体主義の思想だった。 d) ゴットルは,「国民経済によって包括されてゐる構成体の生活力の増進は,それによって国民経済そのものの生活力が同時に高められる限りにおいてのみ,意味を有する」22)と主張した。 →中西「経営経済学」は,こういう経済認識を摂取する立場を明示した。 戦時体制期,全面戦争での勝利をめざす日本経済の課題は,軍需産業の生産力拡充あるいは生産増強という任務に当面した。いわば,「消費経済ハソレ自体究極的目的ヲ持チ得ル本源的構成体デアル」という概念規定は,軍用物資の生産‐配分を最優先させるための根拠・理由を提供した。 e) 「『有機的関連』,すなはち全体は部分を支持し,部分はまたそれぞれ全体を支持するといふ関連,が存する。すなはち国民経済の枠内にある無数の構成体はすべて国民経済と結びついて栄枯盛衰をともにする」23)。 →中西はこの点を,「消費経済モ生産経済モ個々ノ部分経済ニ過ギズ,……ソノ両方デ国民経済ハ構成サレテヰルノデアル」,あるいは「生産経済(広義ノ企業)ハ,経済全体ノ立場カラ見レバ一ツノ手段ニ過ギナイ」と表現した。 しかし,こうした見解は,中西『経営経済学』昭和6:1931年において論述した中身とは,明らかに異なる含意をもたせることになった。 つまり,中西が以前論究していた見解は,こういうものであった。 イ) 「吾々は利潤の意義,利潤率,資本回転の利潤率に及ぼす影響等の問題をマルクスに従って説明した」。 ロ) 「諸問題は,何れも個別資本の起動々機たり,終局目的たる剰余価値を資本家の直接的な意識に反映せしめた所の姿たる利潤を枢軸として旋回する。この利潤に対する充用総資本の比率は利潤率,又は企業の収益率である。この収益率の増大こそは個別資本の直接的なアルファでありオメガである。収益率の問題を個別資本の最後の問題として考察する所以が茲にある」。 ハ) 「経営は一般に経済の基礎であり,経済を条件づける。が,反対に経済によってまた反作用を受け,その特殊な歴史的な性質をも具有するに至る」24)。 1945年8月,日本帝国は戦争に敗けた。したがって,日本社会における「無数の構成体はすべて国民経済と結びついて栄枯盛衰をともに」した。敗戦を機に,中西『経営経済学』の主張は逆説的に実証された。問題はそのつぎにある。「戦時期における持論」の実質的な崩壊は,中西において,どのようにうけとめられたのか? 戦時日本における経済体制は,その戦いの結果を,前述 e) の「栄枯盛衰」の経過にしたがうかたちで終えたわけである。それでは,敗戦という出来事を経て,中西のプリント「経営経済学」の提唱も「栄枯盛衰をともに」したかというと,そうではなかった。この論点はのちに,さらに詳述する。
③ 技 術 の 本 質 中西はつづけて,「技術ノ本質トハ何ゾヤ」と問う。まず「技術」,つぎに「経済の原則」について,論述する。 「技術トハ或ル目的達成ノタメノ手段,方法デアル」。 「合理的技術トハ,一定ノ人間目的ヲ達成スルタメニ費消サレタル最少ノ手段タル行為デアル(最少費用の原理)」。 「経済ノ原則デアル『最大ノ効果ヲ獲得スルニ最少ノ費用ヲ以テス』ニ存スル」。 「コノ原理ハ,『一定量ノ効果ヲ得ルニ最少ノ費消ヲ以テセヨ』,『一定量ノ費消シ以テ最大ノ効果ヲ得ヨ』トイフコトヲ意味スル」25)。 E-効果 E/A=m ヲ最大ナラシム。 A-費消 A/E=n ヲ最少ナラシム。 「即チ,Wirtschaft[s]prinzipナルモノハ,一定ノ目的ヲ達成スルニ最少ノ費用ヲ以テス,トノ最少費消ノ原則デアル。コレハ経済ノ原則ニアラズシテ技術ノ原則ニ外ナラナイ」。 「斯クノ如ク,経済ハ生産ト費用トノ調整(Ordnung)デモナケレバ,最少費用ノ原則即チ,節約デモナイ。即チ,収益費用ノ比較考慮トイフ Wollen デアル。節約トハ,技術ノ原理デアル」。 「節約トハ,一定ノ目的ニ対スル相対的節約ヲ意味シ,出来ルダケ節約スルトイフコトデハナイ」26)。 以上,「技術」「技術ノ原則」「経済ノ原則」に関する議論は,これを「経済そのもの」に対比したとき生じる相違を,強調する説明であった。 経済の生産の原則をいうならこれは「本来」,「収益費用ノ比較考慮トイフ Wollen デアル」から,技術の原則では説明しきれない「経済者の意欲 “Wollen” 」を前提するものであった。 こうした説明は,明らかにエルマンスキーの合理化理論〔原著1928年〕を意識したものである。前掲の「E-効果」「A-費消」に関する数式の表現は,J・エルマンスキーの著作にしたがっていた。 エルマンスキーは,資本主義的合理化は「真の完全な合理化」ではなく,またそうした合理化でもありえない。「真の完全な合理化」のために闘うことは,社会主義的変革のために闘うことを意味する,と主張していた27)。 エルマンスキーはまた,「最適度の原理は,最良・最合理的な組合せを選び取る可能性が成立するやうな,あらゆる事情の下における比較とあらゆる関係因子の斟酌とだけを許すのである」,と述べている28)。 エルマンスキーの触れた「あらゆる事情の下における比較とあらゆる関係因子の斟酌」とは,戦時日本の経済事情に対しても妥当する「思考の形式と内容」を呈示していた。 すなわち,エルマンスキーは「社会主義的変革のために闘うこと」を主張した。これに対して戦時日本の統制経済は,「経済の生産」を「最良・最合理的な組合せ」で実現させること,いいかえるならば,戦争遂行のため=「国家全体主義的変革のために戦うこと」を意欲(Wollen)した。 全力を挙げて戦争に挑まねばならなかった旧日本帝国は,軍事力の最大発揮につながるような「経済の生産」原則の発揮を意欲することを,国民経済に強いた。いうまでもなくそれは,「戦争の時代」の「国家の意思」であった。 中西のプリント「経営経済学」昭和14:1939年が抱懐した学問理念は,国家的次元におけるものであり,戦争「勝利」に寄与しうる「意欲(Wollen)」に直結するものだった。
④ 技 術 と 経 済 「技術ハ目的自体ヲ目的トセズ,コノ目的ヲ如何ニシテ最少ノ費消ニヨッテスルカト云フ手段方法デアル」。 「技術ノ目的ハ,Das Was ニ非ズシテ,Das Wie ニアル。Das Was ハ政治トカ経済ニ依ッテ与ヘラレル。技術ニ於テハ与ヘラレル目的ハ個々的ナモノデアリ,個別的具体的目的デアル。而テ,包括的人間目的ハ技術ニ対シテ与へラレルモノデハナイ」。 「経営経済学ヲ技術論トシテタテントスルハ誤マリデアル」。 「最大ノ利潤ノ獲得トイフ目的ハ技術ノ目的トナリ得ナイ。コレヲ達スル如キ技術ハ未ダ存在シナイ。技術ノ中立性ハカヽル意味ニ於テ言ハレルモノデアル」29)。 「経済ハ一定人間目的ノ内容ヲ与ヘルモノデアッテ,技術ハコレヲ達成スルノデアル」。 「技術ハ経済目的ノ方法ヲ規定スル。又,目的ノ実現可能性ノ説明ヲ与ヘル」。 「技術ハ技術(経済?)ノ基礎デアルガ,ソレ自体トシテ存セズ,経済ニヨリ内容ヅケラレテ初メテ,経済技術,経済行為トナッテ現ハレルノデアル」。 「経済ト技術ノ関係」は,つぎのとおりにまとめられている。 「第一ニ,経済ハ技術ニ対シ問題ヲ提出スル〔ことによってこれを基礎づける〕」。 「第二ニ,技術ハ〔経済に対して〕生産ノ可能性ニツイテ説明ヲ与ヘル」。 「第三ニ,経済ハ技術ニ対シ,ソノ内容〔指針〕ヲ規定スル」。 「第四ニ,技術ハ経済ニヨリ提出サレタ問題ヲ〔事実上〕解決シ,経済〔の目的〕ヲ実現ス」る30)。 中西『経営経済学』昭和6:1931年は,理論的経営経済学の立場:「相対的独自性」を認めたけれども,経営経済学としての理論的立場:「絶対的独立性」は否定した。そうして,「利潤追求の学」(Profitlehre)あるいは技術論=工芸学としての経営学は認定した。この立論は,社会科学として独立した経営学「論」を全面的に否認した。それゆえ,「経営経済学ヲ技術論トシテタテントスルハ誤マリデアル」という一句にこめられた中西の本意は,慎重に判断される余地がある。 ところが,中西『経営経済学』が第1章「経営経済学の本質」で方法論的に否定したようにみえる理論的経営経済学の展開内容,すなわち「個別資本運動の研究内容」は,第2章「個別資本の生産過程」,第3章「個別資本の流通過程」,第4章「個別資本の循環とその回転」,第5章「財産及資本の本質と其構成」,第6章「株式会社」というふうに,章を追うごとに実質的に論及されていた。 だから,中西「経営経済学説」の発展的な継承を意図した馬場克三は,『経営経済学』(税務経理協会,昭和41:1966年)をもって,「中西経営経済学の最終章に据えられていた株式会社をむしろ冒頭の章にもってくるという構想」31)を,経営学の理論体系として具体的に表現した。 中西『経営経済学』昭和6年と馬場『経営経済学』(昭和41年)の主要構成を,表1「中西『経営経済学』と馬場『経営経済学』」に対照してみた。
馬場『経営経済学』昭和41:1966年は,いうまでもなく,経営学を概論・基礎論的に体系化した著書である。表1は,中西『経営経済学』第2章「個別資本の生産過程」についてはその細目も紹介した。この中西『経営経済学』第2章に相当するのが馬場『経営経済学』の第2章から第9章までである。
⑤ 経営経済学と経営技術学 中西は,準戦時体制期(「満州事変」昭和6:1931年9月)から戦時体制期(日中戦争昭和12:1937年7月)に時代がすすむと,『経営経済学』昭和6:1931年9月の立場を完全に放棄するかのような学的姿勢をしめすにいたった。 中西自身はすでに,「経営経済学ヲ技術論トシテタテントスルハ誤マリデアル」と論定していた。だが,当時何人もの論者が,「経営経済学」と組みあわせたかたちで「経営技術学」を立論しはじめていた。 プリント「経営経済学」昭和14:1939年が参考文献に挙げていた著作のうち,酒井正三郎『経営技術学と経営経済学』(森山書店,昭和12:1937年)は,経営技術学:「技術論としての経営経済学」を構想するに当たり,相対的に経営経済学の位置づけも求めた。つまり,「理論としての経営経済学」を定座させようと試みた。 戦時体制期においてそもそも,「経営技術学」という発想が登場した背景には,社会科学としての経営学,それもマルクス経済学的な理論志向性が徹底的に妨害・封鎖されるという事情があった。中西『経営経済学』昭和6:1931年は,「マルクス経済学の方法」を利用した経営学的な理論書であった。しかし,時代の進行は,マルクス『資本論』〔など〕を蛇蝎視した。 『日本労働年鑑 別巻/戦時特集版-太平洋戦争下の労働者状態・労働運動-』(労働旬報社,昭和46年)は,第5編「言論統制と文化運動」第1章「言論・出版・学問研究にたいする弾圧」第2節「出版・雑誌統制」の「検閲・削除・発禁」で,こう言及している。
関連する事情に触れておく。東京帝国大学経済学部内では,昭和2:1927年末月ころより,『資本論』を正規の教科書に使ってはならぬという判例ができた。中西は,外国語経済学のテキストに『資本論』を使うか否かに関する票決にさいして,河合栄治郎とともに〈賛成〉票を入れた33)。 酒井正三郎だけでなく,鍋嶋 達が「経済技術学」を提唱し(昭和11:1936年)34),大木秀男が「企業技術学」を提示した(昭和15:1940年)35)。 酒井,鍋嶋,大木の経営技術学的な理論展開は,中西が否定したつもりの経営学研究の方途:「理論としての経営経済学」を,非マルクス経済学的に打開しようとしていた。それは,社会科学にきびしい抑圧がくわえられた時代のなかで,「経営技術学」を構築しようとする努力であった。 酒井正三郎『経営技術学と経営経済学』(森山書店,昭和12:1937年)は,「経営経済学は経営の形而上学」であり,「経営技術学」は「経営の形而下学」「固有の経営学」である,と規定した。つまり,酒井は,「技術的・実践的なる知識を」「歴史的・実践的なもの」に「変へて以て」,「固有の経営技術学を」「理論科学として確立しようといふ試み」をした36)。 酒井はまた,「経営にありて経済は技術を支配し,技術は経営を通じて経済に奉仕する」。「経営こそは,技術と経済とがその支配と制約との関係において交渉し合ふところの固有の地盤である」とも37),経営技術学の理論的連関を説明した。 さて,酒井のそうした「経営技術学」に関する構想は,中西のプリント「経営経済学」の言及する「経済ト技術ノ関係」に通底していた。 中西は先述のとおり,その関係をこう説明していた。 ◎「経済ハ技術ニ対シ問題ヲ提出スル」,「ソノ内容〔指針〕ヲ規定スル」。 ◎「技術ハ経済ニヨリ提出サレタ問題ヲ〔事実上〕解決シ,経済〔の目的〕ヲ実現ス」る。「技術ハ〔経済に対して〕生産ノ可能性ニツイテ説明ヲ与ヘル」。 酒井『経営技術学と経営経済学』は,「経営経済学と並存する経営技術学」をみちびくための根拠として,中西も論及したこの「経済ト技術ノ関係」に関する説明を当てていた。 中西のプリント「経営経済学」はそのように,「経済ト技術ノ関係」を記述していた。これは多分,ゴットリアーネルの1人,宮田喜代蔵講述『経営と経済との基本関係』(財団法人金融研究会,昭和13:1938年3月)の「第4 経営と企業との基本的関係」〔など〕を38),中西が直接引照したものである。 なかんずく,ゴットル的思惟:生活経済学にしたがい「経済ト技術ノ関係」の議論をもちだし,「経営経済学と経営技術学」を理論的に両立させようとした酒井正三郎や宮田喜代蔵は,中西寅雄が以前,「誤マリデアル」と排除した「経営経済学ヲ技術論トシテタテントスル」方途を,あえてしめしたといえる。 にもかかわらず中西は,プリント「経営経済学」のなかでは事実,「経済ト技術ノ関係」を講述していた。 酒井正三郎『経済的経営の基礎構造』(敞文館,昭和18:1943年)は,こう主張した。以下,あくまで戦時中における論及であり,「現代」とはもちろん,昭和18:1943年の時点のことである。 「現代における企業経営の根本問題」は,「企業者が,いかに企業に対して態度をとるべきか」ということであり,そして,「企業が国民経済の在内構成体として正しくその環境に適応せんがためには,その構成体としてとる形態がいかに革新せらるべきか」ということである。こうした「企業経営の根本問題」を解決するために経営学者は,ゴットル的な「存在論的価値判断」にもとづき,「規範的経営経済学の実質がいかなるものであるか」について議論する39)。 中西は,「利潤追求の学」(Profitlehre)もしくは「技術論=工芸学としての経営学」以外は否定していたはずである。しかしながら,プリント「経営経済学」はその立場に反する記述を与えていた。すなわち,ゴットル論者の著作を引照するかたちで,「技術論としての経営経済学」の立論を認知する講述をおこなっていた。
⑥ 経 営 経 済 本項⑥は,前項⑤を踏まえ参照しておく。 「経営経済,略シテ経営ト呼ブ」。 「普通ノ経営経済ト云フノハ生産経済ノミデコレノミガ学問ノ対照トナッテヰル」。 「消費経済ヲモ含メタ,ソノ概念ヲ個別経済ト名ヅケルナラ,生産経済ト消費経済トニ分カレ生産経済ガ狭義ノ経営経済デアル」。 「経済ハ意欲,技術ハ手段,方法デアル」。 「経営経済ナル概念ハ,経済的概念ニシテ,経済ヨリ分離シタ技術的概念デハナイ」40)。 「経営経済学ハ技術ノ学問デナク,経済ノ学問デアル」。 「労働組織ニ於テモ然リ。労働科学研究所ニ於テ研究セル労働ハ技術デアル」。 「経営経済ノ単位ナルモノハ,技術ヲ費用ト収益ノ比較考慮ナル点デ統括スル意思(=即経済ノ単位)。コレヲ単位ヅケルモノハ所有又ハ,支配ナリ」。 「企業者ヲ基礎ヅケルモノハ諸々ノ生産要素ヲ支配スルトイフコトデアル。支配ノ単位即チ,所有単位ガ経営体ヲ基礎ヅケル」。 「経済ハ,費用,収益ノ比較考慮ノ観点カラ何ヲドレダケ生産スルカ,トイフ包括的目的ヲ定スル。最後ニ個々ノ技術ニソレガ達成シ得ル具体的目的ヲ与ヘル」。 「技術ハ経済カラ与へラレタ意味ニヨリ包括サレ,経営経済ナル組織体ニ統合サレル」。 「経営ハ技術ノ組織体デアル。従ッテ両者ノ単位ハ一致シナイ」41)。 「個々ノ技術ハ全体ノ経済ヨリ派生シタ部分目的ニヨリ統括サレルコトニヨリ部分経営ガ組織サレ,之ガ個々ノ技術ニマデ解消サレテヰル」42)。 「経済ハ資本ノ問題デ,価値ノ問題デアル。之ニ反シ,個々ノ活動ハ経済ノ活動ニアラズシテ技術ノ活動デアルト云フ考ヘ,工場ヲ企業ノ観点カラ見レバ,価値ノ存在デ,技術的ニ見レバ生産ノ活動デ,両者ハ別個ノ存在デアルト見ル考ヘカラ如上ノ誤リガ出ル」43)。
⑦ 経 営 経 済 学 ⑦-a) ゴットル生活経済学との妥協 「之〔経営経済学〕ハ,経営経済ノ目的タル剰余ノ獲得ナル観点ニテラシテ,諸活動ノ結合ノ意味ヲ理解スル」。 「組織体ガ,ソノ目的ニ対シ,如何ナル程度ニマデ組織化サレテヰルカ,ト云フ組織体ノ生活力(構成 質度),組織ノヨサヲ知ルニアル」。 「コノ目的『最大ノ剰余』ニ対シ,個々ノ現象ノ目的適合性ヲ判断シ,コノ意味デ,コノ判断ハ客観性ヲ有シ,経験的ナルモノデアル。コノ意味デ経験的ナルモノデアル」。 「経営経済学ハ,理論的カラ経験的科学デアル」。 つづいて中西は,戦前期のドイツ経営経済学に関して有名な,F・シェーンプルークの3学派の分類方法,「技術論的傾向‐理論的傾向‐規範論的傾向」に言及する44)。 ここにおいて中西は,「組織体ノ生活力」という表現を出している。この生活力ということばは,ゴットル流の概念規定をそのまま受容するものであった。「経営経済ノ目的」観には,既述のとおり「利潤‐利益」ではなく「剰余」を当てていた。 ゴットル,福井孝治校閲,西川清治・藤原光治郎訳『経済の本質と根本概念』(岩波書店,昭和17年12月)は,こう語っていた。 すべての在内構成体の生活力は,民族経済がその正しい構成によって生活力を増進する限りにおいてのみ意味をもつ45)。 中西は,以前言及さえしなかったゴットル流の概念,「生活力」(Lebenswucht)をもちだした。この事実は,自身が強く否定してきた「技術論としての経営経済学」を認容したことを意味するだけでなく,戦争協力をする「社会科学としての経営経済学」の立場をも受認したことを裏づけた。 戦時体制期における日本の社会科学,経済学・経営経済学〔経営学〕の領域においては,ゴットル経済学が流行した。それは,a) 戦時統制経済のもとで総力戦に備える日本の資本主義体制を再構成し,b) この資本主義体制を再解釈するに当たり,日本企業に戦争協力させる理論を創成するためのものであった。 戦時日本経済における「民族経済」は,「正しい構成によってその生活力を増進」させるために,「日本企業に戦争協力させる」態勢の確立を強要した。この時代的要請に即して中西は,ゴットル生活経済学との妥協を図り,「技術論としての経営経済学」に対する解釈を改変させた。 中西『経営経済学』昭和6:1931年は,「技術論としての経営経済学」を,「金儲けの術」より「共同経済の福祉増進の学」〔「共同経済的生産力」〕に転換させるに当たり,その目標としての「超歴史的な普遍性を有するもの」を措定しなければならない46),と議論していた。 この主張を逆にみよう。生活経済学の「正しい社会構成体論」に譲歩・追従・平伏した中西「理論的経営経済学」は本当のところ,「超歴史的な普遍性を有する」「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」を,「歴史的な限定性しか有しない」「戦争経済の生産増進の学」に席をゆずったことになる。
⑦-b) ゴットル生活経済学との齟齬および混濁 中西はさらに,こうも記述する。これは,「経営費用論」を前提にした説明である。 「経営技術論ハ部分経営ノ合理性ノ判断ニソノ本質ガアル」。 「技術的判断ノ場合ハ手段ノ合理性(費用ノ節減ト云フ観点)ノミ,経済カラ見レバ,部分的ナ経営ニ於ケル収益性ノ考察デ」ある。 「ソレハ組織ノ目的適合性ノ判断トハ異ル」。 「経営経済学ノ判断ハ費用ト収益ノ比較考察ト云フ目的ニ対シテ,如何ニコノ組織ガ統合サレテヰルカヲ目的トセルモノデアル」。 「最適操業度……ヲ実現スルコトガ経営技術論ノ課題ナリ(部分経営ノ課題,如何ナル生産量ガ最モ費用ヲ節減スルカ,経営合理性)」。 「経営ノ究極目的ハ,最大ノ利潤獲得ニアリ,単ニ費用ノ側ノミカラ判断スベキデナイ」47)。 以上,経営費用論に関する議論は,「単位当たりの生産原価」を最小にする「最適操業度」と,「収益に対する費用との差額×生産量の全体」を最大にする「最有利操業度」との相違を考慮し,企業全体では経済的な収益性,部分経営では技術的な合理性をそれぞれめざす点を強調している。 そのうえで中西は,こうも述べる。 「収益性ナル言葉ヲ以テ示シ,ソノ特殊的形態ヲ利潤性ナル言葉ヲ以テ示ス。利潤性ハ一ツノ経営経済ガ統合サレル究極目的ナリ」。 「経営合理性ハヨリ包括的ナル目的ナル収益性ニヨリ与ヘラレルモノデ,ソレニヨリ制約サレル」。 「部分経済ノ合理化ハ収益性ヲ増進スルニ必要ナル限リニ於テ実現サル」48)。 さらにつづく議論は,重要である。 「技術論ハ存在シ得ル」。 「経営合理性ノ判断ハ規範科学デハナイ」。 「経営経済ナル諸活動ハ,自己規制ニ於ケル国民経済ノ場合ト異ナル。国民経済ガ,無意識ナル立場ヲトル場合ニハ経済統括者ニ依リ,目的意識的ニ統括サレテヰナイカラ,市場価格ハ無意識的ニ生ズ」。 「故ニソノ構成体タル企業ノ諸活動ハ目的意識的ナ活動ニヨリ統合サレル組織ナル故ニ,コヽニ存スル価値価格ハ最大ノ剰余獲得ト云フ目的ニヨッテ目的意識的ニ附加サレル価値価格デアル」。 「コレハ経営経済学ノ内部ニ於テ論ズル評価論(価値論)ト国民経済ニ於ケル価値トハ根本的ニ異ル」。 「単独経済ニ於テハ費用収益ナル目的ニヨリ,附加サレル財貨ノ価値デアル」。 「国民経済ニ於テ,財貨ノ価格ガ如何ニシテ定マルカト云フ問題トハ異ル」。 「購入販売トイフ点ガ,国民経済的価格ヲ基礎トシテ評価スルハ勿論ナレド,ソノ中デ,如何ナル価格ヲ撰ブカト云フコトハ経営経済ガ達セントスル目的ニヨリ決定サレ,市場価格ソノモノデハナク,経営者ニヨリ目的意識的ニ構成サレル」49)。 中西は,「理論的経営経済学〔私経済学・企業経済学〕」と別立てのかたちで,「利潤追求の学」(Profitlehre),「技術論=工芸学としての経営学」を肯定していた。だから,「経営経済ガ達セントスル目的ニヨリ決定サレ」る,あるいは「経営者ニヨリ目的意識的ニ構成サレル」「技術論ハ存在シ得ル」し,「経営合理性ノ判断ハ規範科学デハナイ」と説明した。 中西のそうした説明は,同じようにゴットル「生活経済学」を祖述していても,ゴットル的な「存在論的価値判断」にもとづき,「規範的経営経済学の実質がいかなるものであるか」について議論した,酒井正三郎や宮田喜代蔵のようなゴットリアーネルの志向性とはちがっており,「経営合理性ノ判断ハ規範科学デハナイ」と判断していた。 ゴットリアーネルと中西とでは,いわれていた「経営合理性」を判断する次元が異なっていた。前者は,全体‐国民経済における企業経営・諸活動のそれ,後者は,企業‐経営経済における部分経営・諸機能のそれであった。 したがって,「経営合理性ノ判断」を「規範科学デハナイ」と論定した中西の立場と,それを「規範的経営経済学の実質」にとりこもうとするゴットリアーネルの立場とは,議論が噛みあっていない。 ところが中西は,「技術論としての経営経済学」を認めない立場である「理論的経営経済学」〔しかも経営経済学の絶対的独立性を認めないもの〕に,ゴットル流「生活経済学」を不自然に導入・結合した。そのために,前述まで分析したような理論的な不整合を自説内にきたしていた。 つぎの記述は,混淆的なものであり,不可解である。 「費用収益ノ比較考慮ト云フコトハ最大ノ利潤獲得ナル形態ヲ取ッテアラワル。統制経済ノ強度ニ発達シタ所ニ於テ,費用補償ノ原則ニ於テハ,単独経済ハ,収益-費用=剰余デハアルガ,収益ハ制限サレル故,剰余ハ通常ノ場合,費用ヲ通常以上ニ節減シタ場合ハ,剰余ハ多クナル」。 「剰余ガ企業ノ創意ニモトヅク限リ,ソレハ刺戟トナリ得ル」。 「単独経済ノ立場カラ見レバ,何レモ収益ト費用ノ関係デアル」50)。 戦時体制期における産業経営史の事情・背景は,いまでは十分闡明されている。戦時統制経済体制が構えられていたときでも,資本主義はその基本的な底面においては,平時経済の構造と同じぐあいに機能していた。 それゆえ,戦争の時代であっても,「費用補償ノ原則」と「最大ノ利潤獲得」との差異をとりたてて強調するのは,戦時経済的な経理・会計理念としての存在意義はさておき,あきらかに誤導的である。というのは,「費用補償ノ原則」が「最大ノ利潤獲得」を超越できないことは,資本主義の〈通常・平時〉においてのみならず,その〈異常・戦時〉においても妥当するからである。 ましてやゴットリアーネルは,「生活経済学」志向の「規範的経営経済学」を構想し,それも,戦争経済への役だちを全面的に意識する理論の営為にたずさわった。ところが,その「生活経済学」に依拠した「経営の理論」の根底に控えていたはずの戦時思想は,なんら内省されることなしに,敗戦後の理論展開においても転用・流用された。 酒井正三郎はその代表者であり,池内信行51)や藻利重隆52)も同じ系譜・仲間に属していた。 むろん,ゴットリアーネルの「日本の経営学者」の理論体質に染みこんでいた戦時的性格は,一見したところ,漂白させられてはいた。しかし,彼らは,自説の戦時的性格を深く反省することはおろか,それをまともに回顧することすら皆無・無縁であった。 同学の士は,その学問的な蹉跌を,しかと記憶にとどめたい。 中西は戦時中,心ならずも〔と推察されるが〕プリント「経営経済学」の講述において,ゴットリアーネルのほうへ擦りよった内容を呈示した。その結果,プリント「経営経済学」は,理論面で混濁した諸主張を収納することになった。このことは,大学の講義録におけるものとはいえ,問題となる論点である。
⑧ 国民経済と単独経済 ⑧-a) ゴットル生活経済学の見地 中西はすすんで,ゴットル生活経済学「観」を展開する。 「経済ノ本質ハ欲望ト充足ノ調整(経済ノ本質)デアルガ,コノ経済ノ本質ハヨリ本質的ナル全体経済ニ於テヨリ本質的ニ現ハレ部分経済ニ於テヨリ現象的ニ現ハレル」。 「単独経済ハ一ツノ目的構成体ニシテソノ究極目的ハ費用・収益比較考慮或ハ最大ノ利潤獲得デアル」。 「シカシ之ハ何レモ全体経済ノ立場ヨリ見レバ単ナル手段ニ他ナラヌ」。 「コレヲ通ジテ社会ニ於ケル生産ト消費ナル目的ニ奉仕ス」。 「企業家政ハ一ツノ目的構成体ニ外ナラズ,国民経済ハ本源的構成体デアル」。 「企業ハソレ自体カラ見レバ最大ノ利益獲得ガ究極目的デコノ目的ニヨリ統合サレルガ,更ニヨリ本質的ナ問題,生産ト消費ノ持続的調整トイフ点カラ見レバ手段ニ他ナラズ」。 「企業ノ目的ハ上述ノ経済ノ究極目的ニ役立ツ限リニ於テ,ソノ合理性ヲ主張シ得ル」。 「国民経済ハ企業ノ場合ニ於テハ費用収益(ナル形ヲトツテ現ハレル)」。 「部分経済全体ノ諸活動ガ国民経済ノ究極目的ニ対シテ統合サレル。ソノ組織ノ国民経済ニ対スル適合性考究ガ国民経済ノ課題」である。 「経営経済ハ部分経済ナル故ニ部分的・現象的ニシカ現ハレテヰナイ」。 「国民経済ニ於テハ究極目的ガ直接的ニアラハレテヰル」53)。 こうした中西の記述は,戦時統制経済体制におけるものである点を,十分に意識しながら聞いておきたい。 すでに,日本個別資本論史に関する研究蓄積が究明してきた論点がある54)。 それは,「国民経済は本質,経営経済は現象」という対位的な把握の方法が錯誤だったことである。もとより「国民経済に究極目的を有する全体経済だから〈本質〉,経営経済は部分経済だから〈現象〉」という腑分け的な説明が,根拠のない二分法なのである。 すなわち,国民経済にも経営経済にもそれぞれ「本質と現象とがある」。だから,「全体経済の問題が本質,経営経済の問題が現象」という裁断は,単なる観念上の区別であり,経済‐経営の「両問題」対象に対する認識として現実的ではない。 問題の対象として認識されるに当たり,なにゆえ方法的に,「全体〔経済〕と部分〔経営:企業経済〕の区分」がそれぞれ,「本質の要因」と「現象の要因」とに対応して分離されねばならないのか。その根拠はなにか。 なによりも,経営〔経済〕学が研究の対象とする問題:「経営〔経済〕」の性格・特徴をとらえるさい,「〈本質〉の側面がなく〈現象〉の側面だけがある」と把握することは,途方もなく先験的な措定である。 逆も同じである。「〔全体・国民〕経済」の問題には,「本質の要因」だけがあり「現象の要因」がないと把握するのは,おかしな考えかたである。 中西は,経済学には「本質問題も現象問題もある」が,経営学には「現象問題しかない」といいたかったが,前段のようにうけとめた問題点は,「個別資本〔運動〕説」を理論的に継承・発展させようと試みた論者によって,一時期定着した。 経済学=本質論,経営学=現象論という立論には,学問の立場を構築する方法に関して,重大な欠陥がある。 経営学がたとえば,「企業の経営者」の問題に関する〈現象〉をとりあげ研究するのは,そこにひそむ「本質」を分析したり抽象したりするためである。だから,経営学はその〈現象〉面にとどめた研究をするだけであり,〈本質〉面まで探る研究しない,というような「研究の手順」はありえない。 「経営学の研究」は「社会科学の方法」を採る。経営学も,「本質」と「現象」を併せてとりあげるのが当然であり,そうでないほうが不自然である。 しかし,以上のように批判した「経営〔経済〕学の認識方法」は,戦前から戦後にかけてしばらくのあいだ,実際に日本経営学史の理論展開のなかで克服されず残存してきた。しかも,この「本質‐現象」分割の問題性は,中西「経営経済学説」の内部に淵源した。 それゆえ,つぎにつづく中西の記述も,そうした批判的な見地によって読まねばならない。 「部分経済ガ全体ニ奉仕シナイ時ハコノ目的ガ是正サレネバナラヌ。国民経済ノ目的ニヨリ是正サルベシ。コヽニ統制経済ガアル」。 「経済学ナル観点ヨリスレバ経営経済学ハ経済ノ目的ヲ認識サスニ足ラヌ。部分ニ過ギヌ」。 「シカシコノ国民経済(学)ノ本質ヲ理解スルニハ部分トシテノ企業ノ本質ヲ理解シ,ソレカラヨリ高イ段階カラ眺メタ時ニ於テ初メテ正シク把握出来ル」。 「コノ意味デ単独経済ノ認識ハ国民経済ノ認識ニ不可欠的段階デアル」。 「経営経済学ガ独立科学ト主張スルハ企業ノ目的ニカヽハラズシテ部分経済ヲ考察スルトイフ意味ニ於テヾアル。企業ヲ全体的立場ヨリ見レバ企業ハ国民科学的意義ヲ見ルコトニナル」55)。 ここの記述は「企業ノ本質」に論及がある。しかしその理解は,中西が経営経済学の絶対的独立性を認めない次元において,「理論的経営経済学(私経済学・企業経済学)」という学問領域に閉じこめての「本質」うんぬん,である。つまり,経営経済学の相対的独自性を認める舞台に生じた学問形態,「利潤追求の学」(Profitlehre)あるいは「技術論=工芸学」に関連させての,それではない。 本項⑧-a)における中西の講述に関しては,つぎの疑問点を指摘おく。 さきのⅡ-2)-②「消費経済」の項で中西は,「消費経済ハソレ自体究極的目的ヲ持チ得ル本源的構成体デアルトイフ考ガ存スル」と説明していたが,本項では「企業家政ハ一ツノ目的構成体ニ外ナラズ,国民経済ハ本源的構成体デアル」と説明していた。 ニックリッシュ経営学説は,家政が本源的経営であり企業は派生的経営であると規定していた。中西のばあいそこに,国民経済が本源的構成体であるとの規定が入りこむことによって,家政も企業と同様に「派生的構成体」に分類され,独特な解釈をしめした。
⑧-b) 国民科学の立場 もっと重要な問題がある。前項⑧-a)のなかには,「企業ハ国民科学的意義ヲ見ルコトニナル」という一句が出ていた。この「国民科学的」という用語のもつ時代的な含意が問題となる。 作田荘一『国民科学の成立』(弘文堂書房,昭和10:1935年)という著作がある。この前年に公表され,本書に収録された同名の論稿,作田荘一「国民科学の成立」(国民精神文化研究所『国民精神文化研究』第1年第4冊,昭和9〔1934〕年3月)に聞こう。
作田荘一は当時,学究として文部省教学局の「思想善導」に率先協力した日本国家主義〔皇国主義〕の社会科学者である。より具体的にいえば,戦時体制期「教学の刷新振興,並に時局の正しき認識に資する為」59)に尽力した人物であった。 作田『国民科学の成立』昭和10:1935年は,「国家意志の動向に視線を置いて実践を指導する所に,日本国民科学としての国民経済学の特色が存する」と主張した60)。 中西のプリント「経営経済学」は,ゴットル流「生活経済学」への言及を介して必然的に,作田流「国民科学」に共鳴した。戦時体制期に提唱されたこの国民科学は,戦争をする日本の国家体制:全体主義に従順な国民の意志を,実践的・政策的・規範的に造成させるための「特殊日本的な学問形態」であった。 たとえば,西島彌太郎『戦時企業体制論』(巖松堂書店,昭和19:1944年9月)は,当時「企業の歴史的性格」をこう表現した。 企業が,戦時・国防経済の要請に奉仕すること,それは,国家主義・全体主義の世界観に於いては,当然の理論である。……而して,企業の組織は,企業の永続性乃至発展性が確保されねば,戦時・国防経済の要請に,永続的乃至発展的に応じ得ないのである61)。 作田流「国民科学」のような学問形態を誘出させた,戦時特殊的な意味における「国家意志」は,「神話的・非合理的歴史観」に立脚するものであった。つまり,その「国民経済‐生活科学」は,「明治維新をへて,国家がその崇敬を国民に強制し始めた」,「神話的な世界を歴史的事実とみなす論理構造自体」を自明としていた。しかも,「天皇が祭祀をつかさどり,天地を経綸していた祭政一致の世に復古させ」ようとした,「幻想的な古代社会観」にもとづく「政治思想としてはきわめて粗雑なもの」を,正当化する精神を認容していた62)。
⑧-c) 池内信行:経営経済学 池内信行『経営経済学序説』(森山書店,昭和15・1940年)は,昭和12・14・15年にそれぞれ分冊で公表された『経営経済学と社会理念』『経営経済学の認識対象』『経営経済学と国民経済学』を合本に仕立て,販売された著作である。本書は,中西「経営経済学説」の理論変質を探るうえで,格好の材料を提供している。 池内『経営経済学序説』は,作田荘一の「構想の立場」に論及していた。 「国心に即して国の生活を研究する国学の立場」から「国民経済の統一的経営であり,国の統治に即する国民経済の経営」すなはち「統営経済」の研究をもって国民経済学,正しくは日本経済学の課題ときめられる作田荘一博士の構想をはじめとして……,いづれもひとしく経済の問題をわが国体に即して究明し,解決する構想である。 この意味における企業,即ち生活構成体乃至目的構成体としての企業の経営こそ正しき意味での経済構成体であり,最高の構成体としての国民経済と相並んで一つの経済構成体たり得るわけであり,国民経済の研究(国民経済学)と相並んで相対的に経営経済の研究(経営経済学)が成り立つのもこのためである63)。 実はこの池内の論及は,「国民経済の研究(国民経済学)と相並んで相対的に経営経済の研究(経営経済学)が成り立つ」という点をもって,中西『経営経済学』昭和6・1931年の立場を支持することを意味した。戦時体制期に顕著な変化を発現させた中西「経営経済学説」ではあったものの,その基本的な立脚点においては,戦後まで継起していく〈一貫した内実〉が示唆されている。 池内『経営経済学序説』昭和15:1940年は,戦争の時代のさなかにこそ,「生活経済学の立場」から企業の経営を考究する「経済学」でなければならない,というのが自説の到達した結論である64),と喝破した。 そして,ナチス流の口つきそのままに,「国土(Boden)」と「血統(Blut)」にもとづく民族共同体を母胎として,経営経済学はいかにみなおされるかが「将来に残された問題である」65),とも断定した。 池内の同書は,以下のように論及していた。
以上のうち ニ) の見解で池内は,「日本産業道」としての〈むすびの道〉を唱導した。 大倉邦彦は,「産霊」の働きを,「生成化育と云ふ順序で」説明する。 「即ち物は先づ神によって生まれて,形が成立つ」。 「人間は努力によってそれを手助けして集めたり,互ひに作用を起させたりして,もとの材料とは変った物として出かして行く」。 「更にその出来た物を,人間の実用に役立つやうに面倒を見て色々手を加へる」。 「この生成化育の働きを他の言葉で云へば,集合,共同,同化,化育の業を,神と人との合作によって成就して行くことである」71)。 大倉邦彦という「人」による〈むすびの道〉に関する説明は,「神」がかっている。まともな記述になっていない。むろん,他者を納得させる論理的な解説ではない。 戦時体制期が終焉するまでの旧大日本帝国においては,「諸々神に対する位置としては最下位に座した」特定の人物が,「臣民:人を代表する位置としては最上位を占める」という祭式の関係のなかで,その「生成化育」を国家宗教的に意味づける役割をになっていた。 また,ホ) の見解で池内は,戦時体制期における〈正しき時代精神・政治理念〉を反映する,「国民的」経営経済学の実践的意義とその特殊な科学性を高唱した。 作田荘一は,その〈正しき時代精神・政治理念〉をこう説明していた。 日本の全体国家は,天皇を実中心と仰ぐ所の分身人の一体的組織である。分身人は国家の為に働くのではなく,全体国家の分身として働く。日本国民科学の研究もまた,この分身人の行ふ研究である72)。 本項に引用した池内信行の主張は,中西「経営経済学説」の吟味にとって参考になる中身を提示していた。
⑧-d) ニックリッシュ経営経済学など さて,中西のプリント「経営経済学」の論及にもどる。 「従来ノ考ヘニヨレバ一ツノ国民経済学ニ対シテ経営経済学ガ独立ノ科学ナルハ恰モ政治学・社会学・経済学ガ独立ノ科学ニ於ケルガ如キ立場カラ見テヰル人ガ多イ」。 「ニックリッシュノ経営学ハ単独経済ヲ対象トシテ,ソノ特質ハ欲望ト充足トノ調整ニアリ,而シテコノ調整ハ価値ノ問題デ技術的問題デハナイ。所デコノ経営経済ハ Arbeitsgemeinschaft (労働協同体)デアル」。 「コノ Arbeitsgemeinschaft ハ社会関係一般デナク,経済ノタメノ Gemeinschaft デアル。何ガ経済的タラシムルノカ,ソレハ欲望充足ノ持続的調整デ価値ノ活動デアル」73)。 「部分経営,部分経済,国民経済ニ対シテ,次ノ学問ガ成立スル」。 1.「技術論 部分経営」 ……「諸技術ハ単独経済ソレ自体ニトツテハ究極目的ナル費用収益ナル規定ニヨリ統合サル」。 2.「単独経済学(経営経済学) 部分経済」 ……「国民経済ノ究極目的カラ見レバ国民経済ヨリ見タ目的適合性ガ考察サレル」。 3.「国民経済学 国民経済」 ……「人類生活ノ究極目的ニ照シ合セテソノ目的ニヨリ統括サルベシ」。 4.「社会生活学」74)。 中西は以上の議論をしたあと, a) 部分目的の適合性を判断する「経済技術論(技術論的経済学)」, b) 包括的・究極的目的への適合性を判断する「理論的経済学」, c) 具体的・実践的特殊目的に対する手段‐目的の適合性の判断ではなく,この特殊目的を価値からみちびきだしてくるところに〔価値判断と〕目的じたいをみちびきだし,実践目的への価値判断が中心となる「規範論的経済学」に論及する75)。 「問題ハ究極的判断カラ如何ニシテ具体的判断ノ導キ出スコト……デアル」。 「ソレハ Max Weber, Sombart 等ニヨレバコレハ主観的・個人的判断ナル故ニ客観的判断トシテ存シ得ナイト云フ。経済ノ究極的目的,更ニ人類一般ノ生活ナル観点カラ基礎ヅケラレルナラバ,ソレハ勿論規範的科学トシテ成立ス。コレハ望マシキコトデアリ,又若シ経済ノ目的トシテ措定サレテヰルモノガ人類ノ共同生活一般ノ価値カラ導キ出サレタモノナルコトガ論証サレ,普遍妥当性ヲ帯ブルナラバ望マシキコトデアル」。 「規範科学ニ於テ普遍的価値カラ如何ニシテ具体的価値ガ措定サレルカト云フコトハ将来ノ研究ニ俟ツ」76)。 中西「プリント『経営経済学』」からの引照は,以上で終えることにしたい。 要するに中西は,「国民経済学ニ対シテ経営経済学」においては,「政治学・社会学・経済学ガ独立ノ科学ニ於ケルガ如キ立場」を認めない考えであった。 中西は,戦時体制期「国民科学」の意義に言及しただけでなく,規範科学的な立場に立ちながら,企業経営の問題次元に対して具体的価値を提言してもいた。ところが,最後の段階で詰めの議論になるや,その「具体的価値ガ」「如何ニシテ」「措定サレルカ」は「将来ノ研究ニ俟ツ」と,逃げを打っていた。 戦時体制期,日本の学問すべてが強要されたある種の「規範的科学」性は,「人類ノ共同生活一般ノ価値」から導出された「経済ノ究極的目的」などではなく,さらに,世界哲学的な意味での「普遍妥当性」からも逸脱していた。
Ⅲ 中西寅雄学説の再考
1) 学 問 と 経 歴 戦争の時代を迎えて中西「経営経済学説」が理論的に動揺したのは,大正デモクラシー時代に盛行したマルクス〈主義〉経済学「思潮」の余韻を響かす自説に,時局対応上,少なからぬ不安を抱いたからである。 中西『経営経済学』昭和6:1931年は,経営経済学の研究方向をこう規定していた。 私はマルクス主義経済学に従って,それは資本家的生産諸関係を研究対象とする科学であると解する77)。 「マルクス主義経済学に従って」と中西が宣言したとき,「それは資本家的生産諸関係を研究対象とする科学である」という意味合いであった。その後,中西「経営経済学説」の解釈に関して特定の偏倚が生じたのは,前述に対する解釈の振れが大きかったためである。 だが,中西が「マルクス主義経済学に従っ」たのは,理論的経営経済学の「研究対象」を「資本家的生産諸関係」に求めることによって,その「科学」性を獲得しようとしたがゆえであり,それ以上のものではなかった。つまり,マルクス主義「経済学の立場」に依拠して「経営経済学」の理論構築を試みた中西だからといって,「マルクス主義」の立場じたいに立ったりその思想・イデオロギーを採ったりする「社会科学の方法」を意味したわけではなかった。 さて,東京帝国大学経済学部においては創設以来,マルクス主義‐自由主義‐国家主義という3種の思想・イデオロギーが渦巻き,部内の対立・軋轢が絶えなかった。しかも,時代の進行にともない,各主義の思想・イデオロギーの担い手だった教員たちは順次弾圧をうけ,学外に排除されていった78)。 昭和14(1939)年1月28日の「平賀粛学」は,渦中の人物河合栄治郎教授の追放に象徴される結末をもって,東大経済学部のたどった紆余曲折を集約‐終結させた事件といえる。ここでは既述のように,連袂辞職を余儀なくされた中西寅雄の立場・心情を想像しておきたい。 中西は辞職後,陸軍省経理局から戦時日本における原価計算制度の普及・指導に関する事務を嘱託され,これに応じ,尽力した。さらに,企画院の事務を嘱託されて財務諸表準則統一協議会委員に赴任したり,中央物価統制協力会議常務理事を引きうけたりもしていた。 敗戦後は,経済安定本部企業会計制度対策調査委員を委嘱されたり,公認会計士管理委員会委員に任命されたりしながら,東京都商工指導所長も長く務めた。 東大をはなれた中西だったが,その後もともかく,八面六臂の活躍をしてきた79)。 昭和27(1952)年4月日米講和条約が発効する。中西に教職として復帰する職場を提供したのは,大阪大学法経学部〔当時〕であった。この大学学部は,マルクス経済学を完全に排斥し,近代経済学中心の研究‐教育体制をととのえていた80)。その意味で中西がこの大学に復帰したことは,意味深長である。
2) 理 論 と 思 想 本稿が中西寅雄「経営経済学説」に注視した論点はまず,『経営経済学』昭和6:1931年における見解が,以後どのように変化したかについてである。従来,この論点については斯学界において関心がもたれてきた。しかし,その学説史的な解釈として突出していたのは,「批判的経営学」陣営から放たれた一方的な論難,「中西説は転向した」というものであった。 とはいえ,中西が描いていった学問的な行路を「転向」と非難することは,見当ちがいの決めつけであった。そのことは,『経営経済学』第1章「経営経済学の本質」の提示した核心の論点が,中西自身においてその後,どのようにとりあつかわれていったかを観察すれば,理解できる。 中西『経営経済学』のその第1章は,理論的経営経済学ではない「利潤追求を目標とする学」や「工芸学」を排除した。しかし同時に,「技術論としての経営経済学が……文字通りに『共同経済的福祉を目標』とする学となり得る」ことも指示していた。 「金儲けの術」や「工芸学」が「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」に転換するためには,その目標において超歴史的なもの,したがってまた,普遍性を有するものを措定しなければならなかった。だから,その「目標は使用価値生産の労働過程をそれ自体として研究する場合に於て措定せられ得る」と,中西は説明した81)。 実際,晩年における中西自身の回想に照らして判断するに,周囲が勝手に誤解して中西にくわえた「理論を転向させた」〔マル経から近経に!〕」という断罪まがいの論難は,まったく的外れだったことがわかる。 『中西寅雄経営経済学論文選集』(千倉書房,昭和55:1980年)は,中西寅雄の論稿「経営学の回顧と発展」(『PR』第9巻第3号,昭和33:1958年3月)を収録している。本稿は,昭和32:1957年11月8~10日東京大学経済学部で開催された日本経営学会第30回大会で,中西が講演した要旨を活字に起こしたものである。 中西「経営学の回顧と発展」は,「経営経済学の本質」における本旨を,再度語っている。 a) 理論科学(reine Wissenschaft)としての経営学は結局,国民経済学〔厳密には純粋経済学〕に包摂されるべきであり,独立の科学としては成立しえない。経営学は,理論科学に対立する意味における応用科学(angewandte Wissenschaft)と解し,経済技術論として基礎づけるのがこの学の発展にとって意義があることである82)。 b) 中西はまた,「マルクス経済学を基礎とし,経営学の対象を個別資本の運動と規定する」「かつてのわたくしが提唱し」,「馬場克三教授によって発展せしめられた」「個別資本運動説」83)を,つぎのように回顧する。
以上2点を回顧した中西は,「問題の独立性のみが科学の独立性を形成するから,国民経済学と経営経済学の問題は同一である」,「経営学と国民経済学を分離する特別の問題は存しない」,「理論的科学としては理論経済学あるのみ」などといい85),『経営経済学』昭和6:1931年に発する自説を再確認した。 しかしながら,個別資本〔運動〕学説のみならず,一般的に「経営学と称される学問」が研究対象にとりあげる「資本主義企業経営の本質把握」に関して,中西はみのがせない過誤を犯していた。 中西は,「経営学は経済性なる選択原理によって内容づけられた技術に関する学である」と述べ,「経営の実践目的たる経済性実現のために経済理論を適用する応用科学たることを」主張していた86)。だが,この把握の方法は,「個別資本運動」を真正面よりとりあげた経営経済学者の言辞としてみるとき,不可解な論点を残した。 というのは,「資本主義経済体制のなかで利潤追求をする企業経営:個別資本の運動」を,経営学の研究対象にとりあげるに当たり,「収益性を行動基準に活動する資本制会社」のことであるにもかかわらず,これをわざわざちがえて,べつの「〈経済性という選択原理〉で認識しようとする」のであれば,そこに疑義が生じて当然だからである。 経営学は通常,資本主義企業経営における経営者の「基本的な行動原理」が「利潤‐利益の追求」であるとみる。それゆえ,その理論認識上の選択原理は「営利原則」以外にないとみる。このあまりにも当然な認識のしかたがなぜか,中西「経営経済学説」では,「経済性」の原理に置換されている。 中西は事後も,「価値増殖過程と使用価値生産過程とのこの対立物の統一において把握」する「個別資本の運動」という理解は,「まったく正しい見解であり」,「『価値の流れ』と『組織』の問題が統一的に把握できる」視点になることを,確認していた。この指摘は多分,「理論的経営経済学〔私経済学・企業経済学〕の視点」のことを意味したものと思われる。だが,中西はこの視点をさらに,「価値増殖過程と使用価値生産過程とのこの対立物」というせまい枠組においてだけ理解し,これを「統一において把握」する「個別資本の運動」全体の動態面は,無視した。 それゆえ,「理論的経営経済学」と「技術論としての経営経済学」とを分断・固定化したあげく,「理論的経営経済学」を国民〔全体〕経済学の相対的一部分に位置づけるとともに,現在においてふつう「経営学」とよばれる学問の存在する余地を,完全に簒奪した。 つまるところ,「技術論としての経営経済学」の残された方途は,「超歴史的な普遍性を有するもの」をその認識目標に措定することで,「金儲けの術」「工芸学」たる性格を,「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」へ変換・転化させることになった。 中西「経営経済学説」における基本的な疑問は,「理論的」に経営経済学を考察しながらも,狭義の「技術論としての経営経済学」しか認知しえなかった点においてこそ,生じてくる。
3) 戦 争 と 学 問 戦時体制期に移行した日本帝国は,軍事的に経済統制を強化しようと,国家総動員的な戦争政策を実施していく。 中西が『経営経済学』昭和6:1931年や『経営費用論』昭和11・1936年で駆使していたマルクス主義経済学的な語法や概念は,プリント「経営経済学」ではほとんど抹消される。その代わり,ゴットル流「生活経済学」の学問理念が登場し,混入される。くわえて,作田荘一流「国家意思の動向・視線・実践を指導する」「国民科学としての国民経済学」に賛同する姿勢を,中西はしめす。 たとえばそれは,「国民経済ノ本質ハ,生産ト消費トノ持続的調節(整)デアル」と定義したり,あるいは,統制経済下の「部分経営:生産経済」の目的観を,「資本家的経済,収益-費用=利益」に代えて「費用補償ノ原則,収益-費用=剰余」をもって規定したりするところに表出されていた。 中西は戦後も,「個別資本の運動」という経営経済学の理解を,「まったく正しい見解であ」ると確言していた。それならば,戦時体制期における企業経営の実相に反するかたちで提示した,資本制営利会社に関する「費用補償ノ原則,収益-費用=剰余」といった会計的な目的観や,「生産ト消費トノ持続的調節(整)デアル」といった共同経済的・厚生経済的な本質観は,戦後,真っ先に反省する材料にされねばならなかった。 ところが中西は,自身にまつわる以上のような「戦後的な論点」に関しては,「個別資本学説の基礎であるマルクス学説の正否は,あまりに大きな問題であり,ここでは問題としない」といいわけし,斯学界で再吟味されることを回避した。 中西は,戦後に日本の経営学が展開していく「個別資本運動説」の議論に関与することがなかった。それに代わり,「技術論としての経営経済学」の方途を,「金儲けの術」「工芸学」より「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」へと転換させる努力をおこなった。ただし,戦時体制期にかぎっては既述のように,国家「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」が「戦争経済の生産増進の学」に席をゆずっていた。 再度指摘するが,中西はそのさい,「超歴史的な普遍性を有する」「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」を,「戦争目的の完遂」を合理化する方向に唱和させた結果,ゴットル生活経済学や作田荘一の「国民の科学」的経済学へ急接近した。 結局,中西においては,
以上のように,中西の論説は戦時‐戦後をとおして,『経営経済学』第1章「経営経済学の本質」をめぐり矛盾する論説を残存させた。中西は,自身が摂取した「マルクス学説の正否」を「問題としない」かぎり,自説を「回顧し発展」させえなかった。だが,中西はその肝心な論点を棚上げした。
4) 学 問 と 体 制 中西「経営経済学」の本質論‐方法論がかかえていた諸課題は,日本における経営理論の歴史的発展のなかで,そうとう程度克服されてきた。このことは,本稿の注54)に枚挙した業績に蓄積されている(後述に関説)。 『中西寅雄経営経済学論文選集』昭和55:1980年に収録された中西寅雄の論稿「経営学の回顧と発展」は,昭和32・33〔1957・1958〕年に講演・公表されたものであった。昭和32:1957年11月8~10日東京大学経済学部開催の日本経営学会第30回大会でその講演をした中西は,関連する戦時体制期の諸事情を知悉していたものと推測される。 中西の立場を発展させようと試図した馬場克三の論稿,「経営学に於ける個別資本運動説の吟味」(『会計』第43巻第6号,昭和13:1938年12月)は,『個別資本と経営技術』(有斐閣,昭和32:1957年4月)に転載・収録されていた。 しかし,中西はすでに「個別資本学説」からはなれていた。本稿が吟味する対象,中西寅雄のプリント「経営経済学」(昭和13年10月-14年2月講義,昭和14年3月1日)は,その事実を如実に物語る史料である。 戦後に中西は,「マルクス学説の正否」は「問題としない」と断わりつつも,マルクス経済学の方法から完全に離脱したことを,みずから再確認した。だが,それでも,「価値増殖過程と使用価値生産過程とのこの対立物の統一において把握」する「個別資本の運動」という理解は,「まったく正しい見解である」と主張し,経営学の二大基本問題である「『価値の流れ』と『組織』の問題」を統一的に把握することにも賛同していた。 だが,「『価値の流れ』と『組織』の問題」を,経営学的な概念枠組として統一的に把握することを認知したのであれば,「経営学の学問的な独立性」を「理論的経営経済学」の観点より否定した中西自身の立場は,根本的に揺らぐほかなくなる。だが,この論点に対してそれ以上詰めた議論が,中西にはない。 しかし,中西寅雄・鍋嶋 達編著『現代における経営の理念と特質』(日本生産性本部出版部,1965年)で,中西はこう述べていた。
この見解は,「『価値の流れ』と『組織』の問題」に相当するものの上に「共同経済的思考」を重ねていた。中西はここでも,「経営理念」論として総合的思考体系を特質づけるさい,「超歴史的な普遍性を有するもの」である「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」,具体的にいえば「共同経済的思考」をもちだしていた。 実は,このような志向性も『経営経済学』昭和6:1931年以来の,中西に独自な発想に由来するものであった。 「理論的経営経済学」はかつて,「経営学の二大基本問題」のひとつだと認識されている「〈価値の流れ〉」の問題要素を,全体経済学に召しあげられ,残る「〈組織〉」の問題要素は,利潤追求的な工芸学にしか結合しえないものに位置づけたのである。それゆえ,「技術論としての経営経済学」の方途は,「超歴史的な普遍性を有する」「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」においてしか,その出口をみいだせないと結論づけた。 その結果,「超歴史的」な「共同経済」性を媒介にした中西「技術論としての経営経済学」は,国家や体制の要求する価値観に,いつでもすなおに直結する学問形態を装う以外存在しえなくなった。 中西・鍋嶋編著『現代における経営の理念と特質』1965年は,その代表的な編著であった。 さらに,同じく中西寅雄・鍋嶋 達編著になる『経済の新動向と企業経営』(日本生産性本部,昭和48:1973年)は,共著者の1人にこう述べさせていた。 現代企業は,資本と労働と経営管理の三つの職能の三位一体的な協働関係によって形成される組織である。それゆえ,この組織の目的価値すなわち経営成果は,伝統的な利潤概念を包摂しながら,より包括的・高次元の経済性概念であることを要する88)。 現代の企業経営に関する基本的な目的観そのものとして,「経済性」概念を認識基準に設定するのは,完全なる誤りである。しかし中西のように,「超歴史的な普遍性を有する」「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」を欲する経営経済学「観」にとっては,その経済性「概念」こそが有意義であり,不可欠な地位を占めるものであった。 戦時体制期の日本経営学は,「経済性」概念の必要性を,軍需物資生産増強のために高唱していた。ここで留意したいのは,近現代のいかなる時期においても,またいかなる経済体制をとる国家支配に対しても,「経済性」概念が奉仕しえたことである。抽象的にみれば,戦後の「経済性」概念と戦中の「経済性」概念は同質のものだったが,その上位に陣どった最高の規範としての「企業目的の意図」と「国家目標の意向」とは,まったく相反する質性のものだった。 したがって,同じ「経済性」であってもこれがおかれる時代をちがえれば,まったく「異なる概念性=意味合い」を形成・付与される。「戦時体制に奉仕する経済性」と「平時生活に役立つ経済性」とのあいだには,みのがせない含意の食いちがいがある。 また,中西〔たち〕のばあい戦後における「経済性」概念は,これが「より包括的・高次元の経済性概念であることを要する」といわれていた。したがってここでは,戦前期よりすでに提唱されていた,ゴットリアーネル流「経営性」という概念に言及しておく。 宮田喜代蔵『経営原理』(春陽堂,昭和6:1931年)は,こう主張していた。
中西寅雄「経営学の回顧と発展」昭和33:1958年3月は,こう主張していた。
再三触れるが,戦後における中西の発言は,理論的経営経済学とは思考形式を異ならせる「技術論としての経営経済学」の方途を,「工芸学」「金儲けの術」より「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」へと転換させるためになされていた。 しかし,「社会経済性:共同経済の生産性」を配慮した「経営性」が「経済性」であり,この目的「性」を私企業の経営者はめざさねばならないという主張は,国民経済学と経営経済学との理論的な識別‐区分に関する方法論議を欠落させた,もしくはその誤謬にはまった「規範的議論」の一典型である。 中西のプリント「経営経済学」昭和14:1939年における議論は,「経営合理性ノ判断ハ規範科学デハナイ」,あるいは「規範科学ニ於テ普遍的価値カラ如何ニシテ具体的価値ガ措定サレルカト云フコトハ将来ノ研究ニ俟ツ」と留保を付けたにもかかわらず,戦争中の「国民生活」に関する「国民科学」の「実践科学の任務」:「政策及び規範の研究」は,拒まなかった。 そうした自家撞着的な言説は当然,自身の議論のなかに背理を生んだ。 しかも,今日における経営者の任務は,「私経済的利益の極大化目的」の代わりにむしろ,「共同社会の代行的な管理者」として「共同社会の生産性に寄与しなければならない」ものである,と主張した。もっとも,平和な時代における「経営者の任務」として,そのような「規範的私企業観」を提示したことは,現代資本主義体制の現実をみあやまったものと批判されれば,済むことかもしれない。 だが,中西のプリント「経営経済学」は,戦争の時代において「経営者の任務」とされたはずの「国民生活」の「政策及び規範」を,「国民科学」の「実践科学の任務」として引きうけた。「戦争の結果:それも敗戦」が明らかにしたことであり,そして結果的にだったことだが,「共同社会の代行的な管理者」として私企業の経営者が「共同社会の生産性に寄与」しえなかった結末は,いかに回顧されるべきだったのか?
5) 体 制 と 人 間 中西「経営経済学説」に対する「経営思想史」的な分析が必要であった点は,すでに触れた。それにしても中西は,「工芸学」「金儲けの術」を理論の定立面では否定していたのに,なにゆえ,「技術論としての経営経済学」を戦時体制期に向けて生きかえらせ,無条件に協力する立論に変質させたのか? 中西は結局,ゴットル経済科学的な「存在論的価値判断」にもとづく「規範的経営経済学」を導入した。ゴットルの立場は,「国民経済の在内構成体」である「企業が正しくその環境に適応」しつつ,その「構成体としてとる形態」を「いかに革新」するかというものであった。 中西『経営経済学』昭和6:1931年〔9月25日発行〕は,ゴットルのテイラー・システムやフォード・システムに関する議論も引照する著作であった。中西の同書はすでに,ゴットル的思惟を理解していた。もっとも,中西「経営経済学説」のなかに「ゴットル的立場:そのもの」を注入・添加するのは,戦時体制期〔昭和12:1937年〕に入ってからのことであった。 中西の主唱においては基本的に,戦時期も戦後期も異質な要素がなく,一貫している。だが,時代の資質・環境は百八十度変質した。基本面では変質しなかった中西説だったが,大きく変化する時代背景に対峙してきた。それでは,中西説の核心の問題はいったいなんであり,そしてそこにどんな変化があったのか? 戦中‐戦後における中西学説の主張は,つぎのようなゴットル経済観そのものを体現させていった。 人間共同生活の体験を内面的に省察すると,構成体の存立と持続が如何にして可能であるかという単一の巨大な問題が存在するのである。この問題が社会科学の最も根源的な問題である92)。 たしかに中西は,「社会科学の最も根源的な問題」に接近したけれども,「社会科学の本質的な問題」の究明からは,しだいにはなれていった。 戦争中明らかになったことだが,ゴットル流経済科学的思惟や作田流国民科学論に束縛されたか,あるいはそれに加担するかのような経営「経済学者」に中西は変身した。 結局,資本主義経済体制におけるもっとも根源的な特徴「営利性原則」の理解を,「共同社会の生産性(経済性)」のなかに埋没させ,あいまい化した。 もっとも,「人間の生きかた」として中西寅雄が歩んだ人生行路は,賢明な出処進退を演じてきたと総括できる。 昭和37:1962年〔慶応義塾大学教授のとき〕から他界する昭和50:1975年〔拓殖大学教授のとき〕まで中西は,日本生産性本部の「生産性研究所長・常務理事」を務めた。この職場で彼は,ゴットル流「経済政策」論を実質的に展開してきた。すなわち,「経済秩序と人々の共同生活の一般政策的誘導と特殊政策的誘導との相互関係を明白にする」93)任務を,理論面で推進する指導者であった。 その意味で戦後の中西は,体制擁護派の立場を明確に維持した。本稿で筆者が強調するのは,『経営経済学』昭和6:1931年は結局,戦前の日本資本主義体制批判のために執筆されたものではなかったことである。 『経営経済学』は,第2章「個別資本の生産過程」,第3章「個別資本の流通過程」,第4章「個別資本の循環とその回転」,第5章「財産及資本の本質と其構成」,第6章「株式会社」などすべて,個別資本の次元に関する生産‐流通問題の客観的な研究・分析であって,資本主義企業経営の問題を思想・イデオロギー的に批判しようとする著作ではなかった。 中西「経営経済学説」」のそのような学問的性格は,同書を虚心坦懐に読書すればたやすく理解できるはずである。ましてや,マルクス〔主義〕経済学に一定の知識がある研究者が,その点を理解できないわけがない。 いずれにせよ,以上のような中西における学問‐人生の特性・足跡などを観察し〔ないで!?〕,その「経営経済学説」の「思想」のなかに「転向」が生じたと決めつけたのは,生かじりの理解,勝手な思いこみ,虚像の捏造である。 「人間そのものとしての中西寅雄」の学究的な生きかたを表相的に批判するのではなく,経営経済学者としての「中西寅雄の理論展開」じたいに内在する問題性を具体的にとりあげ,これをめぐって実際的に議論することが肝心である。 大阪大学経済学部〔1952~1959年〕を退職した中西は,慶応義塾大学商学部〔1959~1969年〕,拓殖大学商学部〔1969~1975年〕に勤務したが,理論面においてはとりたてて『経営経済学』を画する進展をなしえなかった。むしろ,この著作の次元にとどまり,別方向へと持論を拡延させていった。 結局,戦後の中西は,「個別資本学説(個別資本運動説)」を理論的に発展させる意向をしめさなかったし,そういう関心もなかった。 一寸木俊昭は1977年に,『経営経済学』昭和6:1931年の問題点を,つぎのように指摘していた。
ともかく,個別資本運動説はその後も,馬場克三,中村常次郎,三戸 公,淺野 敞,松本 讓,片岡信之などによって,経営〔経済〕学の本質論的な立場や方法論的な概念が検討され,国民経済学とは別個に,独自の「理論の体系」も内容的に考察されてきた。 それら経営〔経済〕学者たちは, a) 「国民経済学と経営経済学の問題は同一であ」り,「問題の独立性のみが科学の独立性を形成する」と定義した中西学説の制約・停滞を克服した。 b) 「理論的科学としては理論経済学あるのみ」で,「経営学と国民経済学を分離する特別の問題は存しない」と規定した中西学説の誤謬・限界を除去した。 c) さらに,資本制営利会社の運営‐管理にたずさわる経営者職能においてこそ,中西学説が観察しなければならなかった,企業経営問題における主体と客体という両面の問題を,統合的に把握する見地も用意した。 d) 中西のプリント「経営経済学」昭和14:1939年は,『経営経済学』昭和6:1931年と『経営費用論』昭和11:1936年が言及した,「企業家の意識に反映せる姿容に於て研究する学」という文句を出していない。この点は,マルクス主義経済学の観点を経営経済学研究の出発点で利用した中西が,戦時体制期においてその痕跡を消去させるための操作だったと,解釈できなくもない。 中西「経営経済学説」は,その後における当人の意向や関心の移動にもかかわらず,前掲のような後進の経営〔経済〕学者たちが,その理論を着実に進展させてきた。中西『経営経済学』「序言」は,本書が「問題提起の契機ともなり得るならば,望外の喜びである」と記していた。事後,長い年月が費やされ,まさしくそのとおりになった。 ちなみに,中西が戦前学んだドイツ経営経済学は,戦後の理論動向において,つぎのような推移をたどった。 〔19〕60年に至ってもなおシュマーレンバッハの技術論としての経営経済学の理解は,大きな影響を及ぼし続けた。また経営経済学内外の研究者たちは,経営経済学が経営管理論のための一つの学科に属すという見解を主唱してきた。しかしながら今日においてはグーテンベルクのとる『科学としての経営経済学』の格言に強く異論を唱えるものはほとんど存在しない95)。 戦後の中西は,「個別資本運動説」に学問的な興味を抱かず,長く実業界の指導者的地位にかかわり,こちらで「実践理論的な寄与」をしてきた。同時に,教職の立場から学生に講義をおこなってきた。これらの意味もあらためて考えておく必要がある。 --以上あくまで,昭和13年度後期授業で中西が講述し,この内容を学生が筆記したノートをもとに発行されたガリ版刷「講義録」を媒介とする,中西「経営経済学説」の考察であった。 表2「中西『経営経済学説』の転回」は,ここまでの議論に表にとりまとめたものである。
Ⅳ 補 論:1934年度講義プリント「経営経済学」
1) 中西寅雄教授述『経営経済学(2部構成:全4巻)』昭和9年度講義 東京帝大経済学部における中西寅雄の講義「経営経済学」を,学生が筆記してガリ版で公表したプリントとしてはさらに,昭和9:1934年版がある。この講義プリント「経営経済学4分冊」の目次を,表記があり,また判読しうる範囲内で,表3「1934年度講義プリント『経営経済学』目次」に紹介する。
2) 解 説 ① まず,時系列的にも当たりまえの指摘,しごく平凡な解釈を提示する。 中西寅雄教授述『経営経済学(2部構成:全4巻)』昭和9年度講義は,『経営経済学』昭和6:1931年と『経営費用論』昭和11:1936年の中間点に位置づけられる著作である。通常はよほどのことがなければ,5年やそこらで急に学究の見解が変化するわけがない。上記期間〔1931~1936年〕に関する中西理論の解釈は,そうした一般論で十分間に合う。 実際,中西の『経営経済学』から『経営費用論』への進展においては,基本的観点になんら変質はなく,内容も連絡している。もちろん,戦前における歴史的背景との絡みあいで観察すれば,時代背景からうけた影響もうかがえる。既述のように,戦時体制期の軍国主義下,東京帝大経済学部にくわえられた学問‐思想に対する抑圧・弾圧は,中西の理論にも大きな影響を与えた。 ② 戦時体制期も太平洋(大東亜)戦争期に入ると,東京帝大経済学部に所属する経営学者・経済学者〔中西の同僚たち〕の理論的姿勢は,積極的な戦争協力に傾斜していく。 そのような時代の事情に照らしてみるとき,昭和13:1938年度のうち〔第4四半期,昭和14年1~3月〕に中西が東大経済学部を辞去したのは,ある意味において「不運とはいえ,時機をえた出来事」ともいえる。仮に,以後も中西が同学部に籍をおき,経営経済学研究を継続していたとしたら,同僚たち〔難波田春夫や高宮 晋など〕と軌を一にして,「自説:理論の完全な崩壊」となる変質を結果したかもしれない。 本稿で筆者はそうとう大胆に,そうした中西「経営経済学説」の推移・方向も予測・想定したうえで,「中西寅雄先生講義プリント経営経済学(全)」昭和13年10月-14年2月東京帝国大学経済学部講義終迄,帝大プリント聯盟,昭和14年3月1日発行〔ガリ版刷〕をとりあげた。そして,「戦争と学問」あるいは「国家ファシズム思想・体制に対する社会科学としての経営学」という問題設定を用意し,中西の理論を批判的に吟味した。 ③ 『経営経済学』昭和6:1931年はもともと,必ずしも「体制批判・現状否定の経営学」ではなかった。 批判的経営学陣営はその基本点を理解できないまま,『経営費用論』昭和11:1936年をもって,「マルクスに従って説明した」『経営経済学』が「体制擁護・現状支持の経営学」に豹変したかのようにうけとめ,事後,中西寅雄を強烈に批難した。 批判的経営学者は,当初,中西『経営経済学』が「体制擁護・現状支持の経営学」を「批判する学問」の立場にあったと誤認した。しかも,問題を「転向」うんぬんの「思想的な次元」まで,無理やりひきずりこんだ。この裁断は,中西「経営経済学説」の学史的な理解に関して「的確な根拠」を欠き,「ひとり相撲」の様相を呈した。 戦後,批判的経営学の陣営に属する学者たちが中西「経営経済学説」に解釈をくわえて,「中西がマル経から近経に転向した」とみなしたのは,深読みなどではなく,単なる勉強不足の見当ちがいであった。 中西「経営経済学説」に生起した理論上の重要な転回はむしろ,戦時体制期,ゴットル経済科学論やニックリッシュ経営経済学のほうに擦りよっていった事実にこそ,みいだせる。くわえて,戦後における中西説の足跡も,根本では戦争中の学問営為と同類・同質の性格を有していた。それは,「体制擁護・現状支持の経営学」という立場でのものであった。 ④ 筆者はこう推測する。 中西は,東大経済学部を連袂辞職するより早い時点において,「体制擁護・現状支持の経営学」の立場に立つことを明確に意識していた。 戦時体制期,同経済学部をはなれた中西は以後,軍需生産への役立ちを意図した「原価計算制度の普及・確立」に尽力した。 --雑誌『原価計算』創刊号,第1巻第1号,昭和16年12月に掲載された「創刊の辞」に聞いておく。
既述のとおり中西は戦後,昭和37:1962年から他界する昭和50:1975年までの足かけ14年,大学教授職と兼任するかたちで,日本生産性本部の「生産性研究所長・常務理事」を務め,日本経済の高度成長時代にそれなりの貢献をはたしてきた。 -2004年10月28日-
1) 裴 富吉『経営理論史-日本個別資本論史研究-』中央経済社,1984年。同『経営思想史序説-戦時経営学史研究-』マルジュ社,1985年。同『マネジメント思想史-日本企業の理論と実際-』日本図書センター,2004年。 2) http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1936-40/1939_01.html 参照。関連する最近の著作は,竹内 洋『大学という病-東大紛擾と教授群像-』中央公論新社,2001年。 3)『中西寅雄経営経済学論文選集』千倉書房,昭和55年,黒澤 清「中西寅雄と日本の原価計算」はしがきⅱ頁。 4) 同書,「中西寅雄博士年譜(概略)」。 5) 中西寅雄『経営経済学』日本評論社,昭和6年,57-58頁。 6) 吉田和夫『ドイツ経営経済学』森山書店,1982年,208頁。 7) 中西寅雄「プリント『経営経済学』」1頁,46頁。枚挙された書名には誤記もあるが,本稿ではその正しいものをかかげた。なお,原文は片カナ使用の文章である。 8) 中西「プリント『経営経済学』」1頁,2頁。 9) 同書,2-3頁。 10) 同書,3頁。 11) 同書,3-4頁。 12) 同書,4頁。 13) 中西寅雄『経営費用論』千倉書房,昭和11年,序1-2頁。 14) 同書,1頁,6頁。 15) 中西『経営経済学』347頁。 16) 中西「プリント『経営経済学』」5-6頁。〔 〕内補足は筆者。 17) Friedrich von Gottl=Ottlilienfeld,Wesen und Grundbegriffe der Wirtschaft, 1933. 日本語訳は,中野研二訳『経済の本質および根本概念』白揚社,昭和17年5月。福井孝治校閲,西川清治・藤原光治郎訳『経済の本質と根本概念』岩波書店,昭和17年12月。 18) フリードリッヒ・フォン・ゴットル=オットリーリエンフヱルト,佐瀬芳太郎訳『経済と現実』白揚社,昭和17年,〔訳者後記〕192頁。 19) 同書,184頁。 20) 同書,178頁,〔ほぼ同じ日本語訳〕23頁。 21) 同書,127頁。 22) 同書,47頁。 23) 同書,26頁。 24) 中西『経営経済学』317頁,436頁,89頁。 25) 中西「プリント『経営経済学』」7頁。 26) 同書,8頁。[s] は筆者の補足。Ordnung の下線部分は原文小文字ゆえ,大文字に修正した。 27) J・エルマンスキイ,東城只雄訳『合理化の理論と実際』春陽堂,昭和5年,序言9頁。 28) 同書,39頁。 29) 中西「プリント『経営経済学』」8-9頁。 30) 同書,10-11頁。「 」内で( )内修正補足は筆者,〔 〕内補足は,後掲注38)宮田喜代蔵の諸著書の参照・援用による。 31) 馬場克三『経営経済学』税務経理協会,昭和41年,序2頁。 32) 法政大学大原社会問題研究所編『日本労働年鑑 別巻/戦時特集版-太平洋戦争下の労働者状態・労働運動-』労働旬報社,昭和46年,388頁。〔 〕内補足は筆者。 33) 東京大学経済学部編『東京大学経済学部五十年史』東京大学出版会,昭和51年,673-675頁参照。 34) 鍋嶋 達「技術及び技術学-経営学の本質に関する一考察-」,東京大学『経済学論集』第6巻第12号,昭和11年12月。鍋嶋 達『経営と会計の基本問題』千倉書房,昭和61年。第1篇「経営論」1章「技術及び技術学」。 35) 大木秀男『企業技術学序説』巖松堂書店,昭和15年。 36) 酒井正三郎『経営技術学と経営経済学』森山書店,昭和12年,7頁,8頁。 37) 同書,6頁 38) 宮田喜代蔵講述『経営と経済との基本関係』財団法人金融研究会,昭和13年,112-114頁参照。さらには,宮田喜代蔵『経営原理』春陽堂,昭和6年,28-32頁参照。くわえて,宮田喜代蔵『生活経済学』日本評論社,昭和13年〔10月〕,101-104頁参照。 39) 酒井正三郎『経済的経営の基礎構造』敞文館,昭和18年,15-17頁参照。 40) 中西「プリント『経営経済学』」12頁。 41) 同書,13-15頁。 42) 同書,16頁。 43) 同書,17頁。 44) 同書,19-20頁。〔 〕内補足は筆者。 45) ゴットル,福井孝治校閲,西川清治・藤原光治郎訳『経済の本質と根本概念』岩波書店,昭和17年,155頁。この引用と同一の文章が既出である。→注20)参照。 46) 中西『経営経済学』56頁,および54-57頁参照。 47) 中西「プリント『経営経済学』」23-24頁。 48) 同書,25頁。 49) 同書,25-26頁。傍点は筆者。 50) 同書,30-31頁。 51) 池内信行『経営経済学序説』森山書店,昭和15年。同『経営経済学の基本問題』理想社,昭和17年。 52) 藻利重隆『経営学の基礎』森山書店,昭和31年。同書「新訂版」1973年。 53) 中西「プリント『経営経済学』」35-37頁。 54) 片岡信之『経営経済学の基礎理論-唯物史観と経営経済学-』千倉書房,昭和48年。淺野 敞『個別資本理論の研究』ミネルヴァ書房,1974年。裴 富吉『経営理論史-日本個別資本論史研究-』中央経済社,昭和59年。松本 讓『現代経営学の基礎』文眞堂,1997年。 55) 中西「プリント『経営経済学』」37頁。 56) 作田荘一「国民科学の成立」,国民精神文化研究所『国民精神文化研究』第1年第4冊,昭和9年3月,19頁,6頁,25頁,26頁。 57) 同稿,29頁,30頁。 58) 同稿,33頁,41-42頁,31頁。 59) 作田荘一『我が国民経済の特質』文部省教学局〔教学叢書特輯3〕,昭和13年3月。 60) 作田荘一『国民科学の成立』弘文堂書房,昭和10年,295頁。 61) 西島彌太郎『戦時企業体制論』巖松堂書店,昭和19年,3頁。 62) 小澤 浩『民衆宗教と国家神道』山川出版社,2004年,43頁,45頁,40頁,38頁など参照。 63) 池内『経営経済学序説』425-426頁,427-428頁。 64) 同書,431頁。 65) 同書,441頁。傍点は筆者。 66) 同書,363頁,302頁,140頁,304頁,301頁,302頁,151-152頁。〔 〕内補足は筆者。 67) 同書,151頁,212頁,212-213頁。 68) 同書,313頁。 69) 同書,353頁,397-398頁。 70) 同書,33頁。 71) 大倉邦彦『日本産業道』日本評論社,昭和14年,92頁。 72) 作田『国民科学の成立』288-289頁。 73) 中西「プリント『経営経済学』」38頁。 74) 同書,39-40頁。 75) 同書,40-41頁。 76) 同書,41-42頁。 77) 中西『経営経済学』3頁。 78) 東大経済学部における内紛の歴史についてはとくに,前掲,竹内 洋『大学という病-東大紛擾と教授群像-』中央公論新社,2001年参照。さらにくわしくは,裴 富吉『経営理論史』中央経済社,1984年。同『経営思想史序説』マルジュ社,1985年。同『マネジメント思想史』日本図書センター,2004年の該当個所を参照。 79) 還暦までの中西寅雄の経歴は,黒澤 清・柳川 昇編,中西寅雄先生還暦記念論文集『原価及び原価管理の理論』森山書店,昭和34年,「中西寅雄先生略歴」参照。 80) ここでは,大阪大学経済学部50年史編集委員会編『大阪大学経済学部50年史』大阪大学出版会,2003年参照。 81) 中西『経営経済学』56-57頁。 82)『中西寅雄経営経済学論文選集』千倉書房,昭和55年,〔「経営学の回顧と発展」〕162頁。 83) 同書,166頁。 84) 同書,167頁。 85) 同書,168頁。 86) 同書,171頁。 87) 中西寅雄・鍋嶋 達編著『現代における経営の理念と特質』日本生産性本部出版部,1965年,はしがきⅣ頁。 88) 中西寅雄・鍋嶋 達編著『経済の新動向と企業経営』日本生産性本部,昭和48:1973年,〔林 秀彦〕247頁。 89) 宮田喜代蔵『経営原理』春陽堂,昭和6年,69-70頁。 90)『中西寅雄経営経済学論文選集』〔「経営学の回顧と発展」〕175頁。 91) 同書,176頁。 92) 加藤明彦『社会科学方法論序説-M. ウェーバーとF. v. ゴットル-』風間書房,平成3年,129頁。 93) 小原久治『経済政策の方法・目的・手段論-一つの経済政策原理-』高文堂出版社,平成10年,22頁。 94) 一寸木俊昭「個別資本概念の具体化と経営学の課題」,日本経営学会編,経営学論集第47集 日本経営学会五十周年記念特集『経営学の回顧と展望』千倉書房,昭和52年,169-170頁。〔 〕内補足は筆者。 95) ホルスト・アルバッハ,栗山盛彦訳『テキスト 現代ドイツ経営学』千倉書房,2003年,58頁。〔 〕内補足は筆者。
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【補
記】 公表した論稿には,2個所の校正ミスが残っていた。その正しい表
現は簡単に類推可能なものであるが,ここではそれを訂正してある。