裴 富吉 学術論文 公表ページ


社会科学者思想論:「大塚史学」の再検討

−中野敏男『大塚久雄と丸山眞男−動員,主体,戦争責任−』
2001年は,論争の書か?−

裴  富 吉

The Social Sciences and a Belief in Christianity :
Criticize the Economic Histoy of OTSUKA Hisao.
By BAE Boo-Gil


 
『大阪産業大学経営論集』第4巻第1号,2002年10月25日掲載。

  本HP公表(用に改・補筆), 2002年10月27日。


目   次

     T 中野敏男『大塚久雄と丸山眞男』刊行の意義
     U 既存研究との比較吟味
     V 核心にある問題はなにか
     W 関連する論点
     X 論点の整理と考察




 
T 中野敏男『大塚久雄と丸山眞男』刊行の意義

 本稿の筆者は,2001年12月に公刊された中野敏男『大塚久雄と丸山眞男−動員,主体,戦争責任−』を,新聞の書評欄でしった。その題名に筆者の関心をそそる副題がついていた。それはともかく,新聞に出た「書評」(『朝日新聞』2002年2月10日朝刊)は,本書を「論争の書であることはたしかだ」と評していた。評者は,大阪大学文学部教授川村邦光である。

 川村はさらに,
本書『大塚久雄と丸山眞男』を「思想史的な……著者の鋭利な分析には,教えられるところがきわめて多かった」と評して,問題はとくに,「この2人の戦後の思想が戦時=総力戦体制下に形成されて準備され,敗戦とともに放棄されるのではなく,むしろ引き継がれて,そのまま戦後の思想を中心的に担っていったのではないかということである」と指摘した。

 経営学を専攻する筆者は,経営思想史的な研究をすすめてきた
1) が,中野『大塚久雄と丸山眞男』のような日本の社会科学を代表する2名の学者を批判的にとりあげ,そのように解明した業績を目の当たりにして,非常な感慨をもった。というのは,戦時体制期に学問を営為した日本の経営学者も同様に,戦争の時代に形成された思想と理論を,そのまま戦後に継起させていったからである。

 大塚久雄や丸山眞男はいままで,戦争に協力した社会科学者とはみられていなかったが,その理解が正確ではないと中野が指摘した。しかしながら,筆者は川村のように,中野の本書を「鋭利な分析」をくわえたものとはうけとめていない。また,中野に対しては事前に,本稿で指摘した疑問に関して手紙を投函し,直接問い合わせてみたが
〔2002年2月下旬〕,その後返事はない。

 あの戦争の時代,社会科学にかぎらずあらゆる分野において日本の学問は,戦争に協力する態勢を余儀なくされた。政府の圧迫をはねのけ,軍部の弾圧をかいくぐり,自説をつらぬき,そして自分の思想を堅持した者は,ごくまれである。つまり川村は,「大塚史学」や「丸山政治学」も実はそうした多数派に属していた事実を,
中野『大塚久雄と丸山眞男』が「鋭利な分析」をもって提示した,という論評を与えた。

 問題は,「鋭利な分析」だ表現された点にある。本稿の筆者は,中野の本書を読んで,とくに「大塚史学」を〈批判的に分析する〉前半を読了したとき,
「あれ,これはどこかで読んだことがある批判・分析だ」との記憶がよみがえってきた。

 要するに,筆者が本稿で問題とする論点は,こう整理できる。

 @ 大塚史学は,戦時体制にどうかかわってきたか。
 A @の指摘は,今回の中野作がはじめて指摘した「論争点」か。
 B 大恷j学における核心の問題はなにか。


 なお,
中野『本書』の帯には,「戦後日本思想史の常識を塗りかえる」と謳われているが,ここでは論評外とする。筆者の力量にはおよばぬ論点である。



 
U 既存研究との比較吟味

 中野『大塚久雄と丸山眞男』2001年が批判した「大塚史学」の問題点は,今回はじめて論及されたものではない。筆者は,本書が大塚久雄「経済史学」に対する批判的な究明をおこない,新しい論点を開拓し,有意義な議論を展開したことを認める。だが,同書がとりあげた分析の対象は,先行の研究がすでに議論している。したがって,もしも既存業績を踏まえず,同書の内容を「鋭利な分析」と論評したとすれば,これは迂闊といえる。

 
評者川村邦光は,こう解説した。大塚久雄〔と丸山眞男〕のばあい,「その核心部にあるのは,自己中心的・個人主義的な近代的主体を克服して,全体=国家に奉仕する主体形成を呼びかける戦時動員の思想が,あたかも清算され,忘れ去られたように見えつつ,実は戦後復興を担う,近代的民主的な主体の確立を説く戦後啓蒙の思想へと鮮やかに転換しているという,その思想的史な連続性である」。

 要は,経済史学〔大恚v雄〕や政治学〔丸山眞男〕の領域〔研究〕では,今回公表された
中野の著作がはじめて,「戦時‐戦後」問題にかかわる「鋭利な分析」をおこなったと,川村は評定した。しかし,大塚史学の「鋭利な分析のための〈視点そのもの〉」は,ほかの研究者が20年も以前に提出していた。先行する研究を精査したのか。筆者が中野に尋ねたい疑問点である。

 以下,中野『大塚久雄と丸山眞男』
第1章「最高度自発性の生産力−大塚久雄におけるヴェーバー研究の意味−」の全節を,大胆に要約しつつその文意を紹介する。

 第1節「見失われた3つの疑問」

 
大塚久雄〈略歴〉。1927〔昭和2〕年東京帝国大学経済学部入学,1930〔昭和5〕年から西洋経済史担当の本位田祥男研究室で3年間助手生活,1934〔昭和9〕年法政大学講師,1935〔昭和10〕年同助教授(西洋経済史を担当),1939〔昭和14〕年本位田の後任として東大経済学部助教授。その間,1938〔昭和13〕年,大塚史学の原点となる論文「農村の織元と都市の織元」を発表,同年『欧州経済史序説』を出版。

 要するに,戦後啓蒙を代表する大塚久雄は,1930年代に学問の基礎を築いた。その「戦前」と「戦後」とは,どのような断絶と連続の構造をもつのか。1930年代からの大塚=ヴェーバーの軌跡には,重大な疑問点が現われる。中野は,「大塚のマックス・ヴェーバー論」の全体像に注目する。「みうしなわれた3つの疑問」がある。

 
第1の疑問大塚は1938年を境にして,それまで〔10年間も頑強に〕本位田祥男=ヴェーバーに抵抗しつづけたが,ヴェーバー派に急転換,転向する。いかなる理由からヴェーバー支持にまわったのか。大塚自身の証言と,文献資料から確認できる「事実」とが,基本的な点でずれている。

 
第2の疑問『大塚久雄著作集』第8巻所収の論文「マックス・ウェーバーにおける資本主義の『精神』」は,戦後の書き換えが驚くほどおおきい。戦時中に大塚がかかげた主題「経済倫理と生産力」は,戦後にその独自な展開が打ち切られ,「生産力」という用語は消去される。この論文のもともとの主題が,現在はみえなくなっている。戦時と戦後におけるこの論文の落差は,大塚その人の「戦中と戦後との間の落差である」。この論文に関する戦後の改訂は,「戦中の大塚その人」や,「戦中から戦後への大塚=ヴェーバーの変化あるいは連続そのもの」を隠した。

 
第3の疑問ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の改訳作業にかかわるものである。この翻訳〔強引な解釈的誤訳〕の問題には,大塚自身のヴェーバー解釈と意向が反映されている。


 第2節「神とマモン−自己中心的近代人への批判」

 まず,大塚の原点は,「無教会派キリスト教徒たちの思想的雰囲気のなかで思想形成した」ことにある。無教会派のキリスト教徒は,近代人の自覚的な批判者である。つぎに,当時マルクス主義の圧倒的な影響下にあった社会科学とのかかわりがある。大塚は,信仰と社会科学との深刻な葛藤をくりかえし語っていた。1930年前後,クリスチャンがマルクス主義の優勢な東大経済学部に学生として在籍するのは,困難なことであった。

 だが,大塚自身も証言するように,ふたつの真理〔神とマルクス〕は対立しているようにみえても,「神が真理であり給うならば,必ず一つになる」と教えた内村鑑三の助言の力があった。「マルクスを通して資本主義近代への批判を学ぶことが信仰の道と両立しうる」という教えは,内村が亡くなるわずか半年まえの,1929年夏にもたらされた。そして,大塚が信仰の道を捨てずにマルクスをも避けないで,社会科学の道を歩む決心を固めえたのは,学部卒業後の進路選択に当たって,本位田に助手として大学にのこるように勧められてからのことである。

 中野は,哲学者三木 清にもふれる。1930年代の思想家=三木の歩みは,マルクス主義からの「転向」もからみ,おおきな問題をはらんだ。大塚も,同時代の思想状況の真っ直中にいた。「神中心」の真のクリスチャンたることは,非宗教的で自己中心的な近代人と真に対立する。「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」を峻別するという理論命題は,大塚の学問の根底をささえていた。


 第3節「戦時動員と生産倫理」

 さて,1938年の段階になってなぜ,大塚は急にそれまでの見解をあらためヴェーバーを支持したのか。このことが,大塚の学問全体の変化とどのようにかかわったのか。

 1)「世界商業戦における覇権」
 1938年は,大塚の経済史学にとって画期である。同年に出版された『株式会社発生史論』と『欧州経済史序説』における問題関心の落差は,興味を引く。前著は,大塚が助手の時代〔1930〜1932年〕に指導教授本位田からテーマを与えられ,1933〜1937年に公表した諸論文を1書にまとめたものであり,1930年代前半の研究活動の集約である。次著は,大塚が1935年に法政大学助教授時代に担当した経済史と商業史の講義ノートを書物にまとめたものであり,1930年代後半に成熟してきた問題関心を反映する。

 『株式会社発生史論』は株式会社をとりあげ,自己中心的な近代人〔私人〕を「揚棄」する可能性をえた。所有と経営の分離を前提とする株式会社は,私人の営利欲からその経営を離脱させる可能性を秘めている。このテーマによって大塚は,自身の葛藤を克服し,経済史の専門研究者として生きていけるみとおしがついた。

 ところが大塚は,この「現代の株式会社に関する研究」を途中で断念する。それに替わって,「欧州経済史」という問題領域が出てくる。『欧州経済史序説』は,スペインとオランダとイギリスを比較し,世界商業戦で最後に覇権をにぎったイギリスの国力に分析をくわえた。これが,大塚史学の出発点である


 日中戦争が本格化した1938年である。大塚史学の出発点の問題構成は,いかにも生々しい。「世界商業戦」がただちに軍事:戦争を意味しないが,世界覇権への関心から大塚史学ははじまっている。明らかに大塚は,時代状況に投企した。問題は,大塚がその状況にどのようなスタンスで臨み,本来のモチーフとどこまで内在的な関係があったかである。

 2)「〈国民的生産力〉概念」
  大塚は,イギリスの世界的膨張の要因を「国民的生産力」概念にみいだし,これを「営利」概念に対比したのである。イギリスの覇権をささえる資本主義の力は,「営利」ではなく,「国民的生産力」という観点から評価される。つまり,近代資本主義の「営利」という評価軸に替えて,「国民的生産力」という評価軸を提起した。

 論文「経済と宗教」は,「富中心 vs 神中心」と「合理的 vs 伝統主義的」というふたつの軸が,生活態度と倫理という観点から設定されていた。これに対して,「営利」と「国民的生産力」という軸,いいかえると,「営利的 vs 非営利的」という軸と「国民的生産力にプラス(発展)vs 国民的生産力にマイナス(停滞)」という軸は,経済活動の性格という観点から設定されていた。たしかに両者の観点は異なるが,対象とする行為の内容は,まったくパラレルにとらえられる。

 「戦中主著」の大塚史学にしめされた問題の構図と,大塚=ヴェーバーの出発点との重なりは明瞭であり,その重大な思想的意味も明らかである。日中戦争が本格化した1930年代後半,世界商業戦における覇権の帰趨という問題関心にみちびかれて,大塚=ヴェーバーは出発する。「国民的生産力」という根本概念は,その覇権の帰趨に決着をつける構成要因となった。そこでは,大塚にとって最重要の決断,「社会認識の方法論」および「倫理的・思想的な立場選択」がなされた。

 大塚は,「生産力」概念の構成を,その担い手の思想や文化,そして倫理的生活態度に着目しつつ根本的に組み替えた。それは,それまでの社会科学において支配的だったマルクス主義の唯物史観,「土台‐上部構造」論からの根本的な離脱を意味した。こうして,大塚の「生産力」概念には,「文化諸形態とくに思想形態」,とりわけ宗教とその経済倫理がふくまれることになった。

 まずは,信仰の立場から「富中心」の対極に「神中心」がおかれた。つぎに,「自己中心」の対極に「国(=全体)中心」がおかれた。このとき,生産力は「国民的生産力」であることによって積極的な価値を獲得した。その結果,資本主義の精神は,一途な信仰の立場からは「富中心」への堕落と評価されたが,無自覚的とはいえ「国民的生産力」に寄与している点を考慮すれば,「国中心」の立場から一定の積極的な評価が与えられる。大塚は,「国」という「全体」に奉仕するかぎりで,「営利」にみちびかれた資本主義の精神も評価できる,と考えた。

 資本主義精神の評価替えは,ヴェーバー的命題へのプロテスタントの立場からの抵抗感を解消し,ヴェーバーに向かう障害を一気にとりのぞいた。すなわち大塚は,「自己中心の近代人への批判」というモチーフを「国(=全体)中心」への貢献という立場に「昇華」させて,大塚=ヴェーバーを始動できた。とりわけ,「倫理的・思想的な立場選択」は,「
2つのJイエス日本)を愛する」といった師内村鑑三の思想的立場を,大塚なりに自覚化したかたちといえる。

 ともかく1930年代後半,総力戦へと向かう時代状況のなかで,自身の要請と明確な判断によって,そのような大塚=ヴェーバーが始動された。もっとも,このような大塚=ヴェーバーの出発は孤立しておらず,大塚自身をとりまく同時代人たちが織りなす文脈にむすびついていた。


 3)「総 力 戦」
 大塚=ヴェーバーの議論は,本位田祥男の所論を介して同時代に接続している。大塚=ヴェーバーの出発には,この時代のもっとも緊迫した政治的・思想的舞台が立ち現われてくる。本位田祥男は,東大経済学部で西洋経済史を担当,理論的にはマルクス主義と経済的自由主義を批判し,消費組合や生産協同組合の理論化にたずさわった。東大経済学部におけるその後の内紛の結果,「国策右派」として東大からの退職を余儀なくされた〔「平賀粛学」1939年1月〕。

 本位田は退職後,中央物価統制協力会議事務局長や大政翼賛会経済政策部長を歴任し,岸 信介系の革新官僚たちとの太くつながり,総力戦体制のもと戦時統制経済の政策立案と遂行におおきな役割をはたす。本位田には,経済の側面から総力戦体制を理論化する一連の著作,『統制経済の理論』1938年,『新体制下の経済』1940年,『大東亜経済建設』1942年などがあり,実務と理論の両面から戦時体制に深く参与した。

 本位田の著作,『統制経済の理論』,『新体制下の経済』は,その体制をになう人々の精神の問題:「経済倫理の問題」に議論を収斂させている。「全国民経済」(国民的生産力!)の力が近代の戦争の帰趨を決するという基本認識のもとに,「国家社会の為に経済を営む」(国中心!)という指導原理を提起した。これはまさに,大塚=ヴェーバーの出発点の問題意識に重なる。本位田も大塚も,当時の政治的標語:「国民精神総動員」という問題意識を共有していた。

 要するに,大塚=ヴェーバーが本位田を介しふれた同時代の文脈は,日中戦争の本格化→総力戦のための国民総動員体制という時代の流れである。その動きのなかで1939年4月,大塚は本位田の後任として東大に着任し,大塚=ヴェーバーを始動させる。だが,戦後の大塚はその点を語るのを意識的に避けてきた。助手時代の大塚は,本位田演習で師範代の働きをした。処女作のテーマ設定と出版は,本位田が世話をした。1937年から本位田の研究室で「比較土地制度史研究会」がひらかれ,大塚も参加していた。両者は密着はしないが,通常の師弟関係は維持してきた。

 戦時期,国策研究機関「昭和研究会」に所属した三木 清は,「東亜新秩序の建設」という戦時思想を形成する。1939年1月のパンフレット「新日本の思想原理」は,この昭和研究会と企画院の革新官僚を連携させ,近衛新体制の構想に重要な推進力となった。さらに,同会の笠信太郎『日本経済の再編成』1939年12月が大ベストセラーになり,企画院の経済新体制構想に理論的基礎を与えた。この著作は,「新経済倫理の確立」を主題とした。このように,「生産倫理」を説く大塚=ヴェーバーの存在は,けっして孤立していない。


 4)「最高度自発性の生産倫理」
 大塚論文「マックス・ウェーバーにおける資本主義の『精神』」(1943〜1946年)は,戦後に論文の中心論点が書き換えられる。戦時中の「『生産力』的な性格と構造」は消滅した。つまり,「全体(国家)」の生産力拡充への貢献倫理が,市場における「中産者」たちの市民倫理にとりかえられた。「戦後『精神』」論文は,「戦中『精神』」論文の中核,「生産力」概念と「国中心」の思想を隠蔽した。これは,単なる技術的・部分的な書き換えではない。

 大塚には,戦時期に執筆した時事的な小論がある。


 
「経済倫理の実践的構造」『統制経済』1942年7月。
  「経済倫理と生産力」『経済往来』1943年12月。
  「生産力と経済倫理」『統制経済』1944年1月。
  「経済倫理の問題的視点」『帝国大学新聞』1944年5月。
  「最高度“自発性”の発揚」『大学新聞』1944年7月。
  「諷刺小説と経済」『大学新聞』1944年9月。


 これら小論において「国中心」の思想は,さらに先鋭化する。資本家的な営利心:市場を媒介としないで,「直接」に「全体(国家)」に奉仕するべく労働意欲を昂揚させる生産倫理こそが,「西欧的近代を超克」する道である,ともいった。総力戦を戦う日本の新しい経済倫理は,全体=国家からの生産力拡充の要請に生産責任で応ずる,最高度に「自発的」なものでなければならない。戦中の大塚は,「新しい経済倫理」の確立を,西欧の資本主義近代を「超克」する「わが国」の「世界史的役割・使命」として説いた。

 「奴隷の言葉」もふくむ「ぎりぎりの選択」であろうその言説は,状況に抗するよりはむしろ,総力戦のなかに活路を求めて,新しいエートス形成(「全体(国家)性」の自覚!)と「経済計画」の可能性を探ろうとした。それは,1930年代からの思想的歩みの到達点であり,大塚の内的な志向にむすびついていた。


 第4節「戦後生産力としての人間類型」

 1)「視界の内閉」
 大塚は敗戦後,1年以内に3つの論考をメディアに発表した。

 
「近代的人間類型の創出−政治的主体の民衆的基盤の問題−」『大学新聞』1946年4月。
  「生産力における東洋と西洋−西欧封建農民の特質−」『中央公論』1946年4月。
  「資本の封建性と近代性−後進社会究明の前提条件−」『帝国大学新聞』1946年7月。


 戦後啓蒙家として出発する大塚の,言説の基本的な枠組が現われている。日本の敗戦が,問題設定の軸の変更を余儀なくさせた。敗戦直後に大塚が真っ先に関心を抱いたのは,「東洋と西洋」と「封建性と近代性」という2軸で枠づけられた「西洋近代の理念」である。

 戦争中の問題設定は,日本を覇権争奪戦(帝国主義戦争!)の当事者として,「敵」の国力のゆえんを探ること,そして,戦争に勝利して覇権を獲得するために「先例に学ぶ」ことであった。かりに,戦争に反対する立場に立つばあいでも,覇権争奪そのものを拒否せず,目の高さをスペイン・オランダに対するイギリスと同じところにおき(帝国主義の見地に立って!),彼我の国力を比較し確認するための戦略的な判断であった(無謀な戦争にはもちろん反対だったのだ)。覇権争奪戦への参加者という自覚が,「わが国」の「世界史的使命」などともいわせたのである。

 ところが,日本が戦争に負けた結果,その立場は意地できなくなった。大塚も早く,敗戦を納得できる了解の枠組をつくりあげ,敗戦後にも活路をみいだしうるように過去の言説を回収しておかねばならない。そこで大塚は,「日本」の絶対的な遅れという物語を産出する。そもそも戦中の議論は,世界商業戦における覇権の帰趨やスペイン・オランダとイギリスの対比が問題ではなく,目標:「西洋近代の姿」をイギリスを典型として描写することが目的だった,と解釈替えがなされる。つまり,封建的で遅れた「東洋」日本と,近代的ですすんだ「西洋」イギリスとの対比が問題だったと,解釈替えをおこなうのである。

 はじめから問題は日本批判だった,という自己解釈である。敗戦後いち早く提出されたのが,「東洋と西洋」「封建性と近代性」という軸だった。このとき大塚は,西洋近代の理念をもって「わが国アンシャン・レジーム」に対峙する「近代主義者」になった。だが,この転換は,ある重大な犠牲をともなってのみ成立しえたものである。

 以上は,二重の意味で決定的な視野狭窄をともなわざるをえない。

 まず,戦争への反省を日本の「遅れ」に求め,「帝国主義的な覇権争奪戦」,「帝国主義を発動した資本主義と近代国民国家」の問題性を,全体として反省の対象にしていない〔できない〕。つぎに,「日本」を「東洋」と「封建性」の代表として考え,日本が侵略し植民地化したアジア諸地域と「日本」の問題を,さらには,アジア諸地域そのものを反省の視野からとりおとした。「イギリスとわが国」がただちに「西洋と東洋」と同一視される心象地理〔サイード〕が表象され,現実のアジアがみえない〔みなくてもよい〕ものとなった。

 この二重の視野狭窄によって,反省の視界は「日本」へと内閉する。近代の帝国主義という同時代性に立って覇権の帰趨をみつめていた目は,かくて一挙に狭隘な「国民主義」へと収縮する。

 戦中,大塚の著作において,スペインやオランダとの対比で語られたイギリス歴史の具体性が,戦後になると「西ヨーロッパ」に一般的なものに類型化され,西洋近代の範型にまで抽象化されている。しかも,それは「西ヨーロッパにおける明るい,裕かな近代社会建設」と手放しで理想化され語られるにいたった。

 社会の経済的構造の「継起的な発展諸段階」を大塚が語り,「近代化」を明示的に強調しだすのも,戦後のことである。西洋近代は,発展段階の彼方にある「理想」,「わが国アンシャン・レジーム」の遅れた姿を浮きだたせる背景装置であって,いわば外部を抹消する機能をもつ抽象化された「外部」となる。

 他方,アジアが語られ,隠される。戦後,大塚の著作には「アジア的」という表現が多出する。だが,その「アジア」は,現実のアジアのどこも指していない。大塚の観念にとどまる。旧植民地,朝鮮や台湾,南洋諸島,東南アジアへの視野がひらかれていない。大塚のアジア像は意図的に選択され,現実のアジアそのものを遮蔽する観念「アジア」が構成される。視界は「日本」へと内閉するが,これは隠される。戦中から戦後へと移行するさい大塚は,その議論の枠組をおおきく変更した。

 2)「戦後生産力への動員」
 大塚の思想は,戦中版「生産への挺身→全体(国家)への貢献」倫理が,戦後版「市場:中産者」の市民倫理にかえられるが,これによって隠される〈一定の構造〉を備えていた。大塚流の「生産力」思想は,戦後に「人間類型」=「新しいエートス」の「主体」として生き延びる。戦後でも「自由主義に先立つもの」は,利己心を抑制した「全体への顧慮」だった。

 戦中の「生産力」思想を引きつぐ概念が,「人間類型」である。それは,戦後復興への貢献倫理とこれをになう主体の創出を意味した。戦中の「戦時動員」思想は,戦後の〈戦後動員〉思想である。大塚の戦中と戦後とは,その全体(=国家)中心の動員思想において連続する。大塚=ヴェーバーの倫理的な言説は,一貫している。戦後は,「近代化の遅れた日本」という内閉した視界のなかで,動員の思想が語られたのである。

 啓蒙的な言説として大塚史学は,日本の戦後復興に目標をしめして人々を動員するために近代の精神を語り,近代的人間類型の禁欲的性格を説く。この大塚を「近代主義」とか「西洋中心主義」と批判するのは,一面的である。戦中と戦後をつらぬく動員思想の背後には,自己中心的近代人への批判→思想的モチーフの一貫性が存在する。だから,大塚自身の主観においては,「近代主義」という批判はお門ちがいであり,「全体に奉仕する主体」という思想に反省点はないと信じられていた。

 結 節「近代批判−主体化問題」

 大塚がヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の改訳作業でみせた「結論」は,彼におけるなにかを,みうしなわせた。この点が,大塚における『プロ倫』の理解,近代資本主義理解の思想的な水準を明らかにする。ヴェーバーの近代批判は,社会秩序の物象化と「職業人」理想に向けられた。だが,大塚の近代批判は,貪欲の蝕みによって「堕落」した近代人を批判し,プロテスタンティズムの「職業人」理想に立ち帰らせようとする。大塚は,ヴェーバーから学んだが実は,ヴェーバーが批判した当のものに理想をみいだし,称揚したのである。

 戦中,大塚の思想が総力戦体制をになう能動的な国民:「主体化=臣民化」に帰着したのは,なぜか。それは,「動員の思想」にはまりこんでその物象化と人間の主体化の相関をみないまま,「自己中心」を批判し,総力戦体制の担い手:「主体」の最高度自発性を求めたからである。同じような〈無批判〉は,戦後の大塚にもつづく。「近代的人間類型」とは,システムの生産力の担い手を名ざししており,戦後日本というシステムの機能上の連関を表現していた。

 大塚久雄という人物は基本的に,晩年までそうした思想的立場,「つねに禁欲とか全体性の自覚とかが説教風に説かれる」「ひとつの規律権力」をあらためなかった。それは,大塚の〈信仰〉だったからである。



 
V 核心にある問題はなにか

 さて,
中野敏男『大塚久雄と丸山眞男』2001年,そして本書を評した川村邦光に対しては,田川建三「翼賛の思想から帝国主義の思想へ−大塚久雄の「国民経済」論に見られる国家主義について−」(『批評精神』創刊号,1981年3月)の内容を紹介し,比較する。

 @「自著の改訂作業」
 田川はまず,大塚『近代欧州経済史序説(序説)』初版(1944年2月)の序文をとりあげ,「特に,著作集(1969年)においてわざわざ「初版序」を再録するのは,都合がよかろうと悪かろうと歴史的過去の記録を厳密に保存するのが目的のはずだから,こっそり消去するのは間違っている」と指摘する
2)

 −−これは,中野が「戦後の書き換え」として問題にしていた。

 A「国家主義者:大塚久雄」
 田川はさらに,こう指摘する。「今回戦前戦後にかけての大塚の主な著作を通読してみて,この人は実に単純素朴な国家主義者だ,と思わざるをえなかった。……しかし,進歩的な近代主義者の本質が極端な国家主義でありうるということは,それ自体として何ら矛盾することではない,という点は別としても,大塚の学問的いとなみを生涯にわたって支えている問題関心が,日本国家の経済的利益をいかにして増大させるか,ということでしかないことは,読めば読むほどはっきりする。それはあまりに素朴に,かつくどくどしく強調されすぎている」
3)

 −−これは,中野が「全体(=国家)中心の動員思想において連続する」ものだと指摘した問題である。

 B「学問ではなく説教」
 田川の記述はきびしい。「大塚久雄の大量の著作は,少数の例外を除いて,とても学問などと呼びうる質のものではなく,おのれの価値観をむきになって説教しているだけなのだから,学者的洞察を期待するのがそもそも無理なのだ。しかし少くとも,敗戦という事態によって,他律的にではあれこのような構図の間違いを自覚したのだとすれば,せめて,自分の発言を自分で批判し,否定的に切開して,そこから新たに思想的営為をはじめるべきであった。

 ところが大塚が戦後はなばなしくひっさげて登場した「国民経済」論なるものは,実はこのファシズム経済政策賛美をそのまま拡張したものにすぎなかった」。「戦前の日本ファシズムと戦後民主主義の間が表面上はいかに大きな差異があるように見えても,基本的には同一の構造の持続であった」
4)

 −−中野も縷説してきた論点は,大塚史学に対するこうした「批判」に集約できる。もちろん,大塚史学をヴェーバー論的に批判的に分析したのが,中野の論究である。だが,大塚の学問に関する「核心論点の枚挙と批判」は,田川の作業をもってすでにつくされている。

 C「同工異曲(同曲)」
 「大塚の思想・学術表現において,この道徳的説教ばかりは一貫して変わりはない。というよりも,1930年代から70年代の終りまで,半世紀近くもの間そればかりを書き続けた。同工異曲とさえ言えない,同工同曲を半世紀近く続けたものだ。あの厖大な著作集(全十巻)を眺めると,よくもまあ,同じ素材を同じ発想で,しばしば文章さえほとんど同じに,何冊も表題だけ違う書物を発行することができたものだ,とあきれざるをえない」
5)

 −−田川のこの指摘は,戦時と戦後をとおして「説教」風だった大塚の学問を痛罵したものである。戦中より「信仰と社会科学との深刻な葛藤をくりかえし語っていた」大塚の著作は,そのように批判される材料を提供してきた。

 D「イギリス国民経済論」
 田川はいう。「『近代欧州経済史序説・上巻』ではさまざまな事象に目をくばりつつも,それを統一する構造としての「イギリス国民経済の歴史的構造」に着目されていたのに,戦後になると大塚の頭の中で話が逆転し,「イギリスの国民経済の歴史的構造」こそがすべてを生みだした原因なのだ,という風に単純化されてしまう。学問的な努力から抽象的な説教が生れるからくりはそこにある。……その理論的設定だけをぬき出してきて(それが「抽象」ということ),そこから一切を説明するとなると,それはもう歴史の理解ではなく,歴史を利用した説教にすぎなくなる」
6)

 −−以上は,大塚において,戦前はスペインやオランダとの対比で語られたイギリス歴史の具体性が,戦後になると「西ヨーロッパ」に一般的に類型化され,西洋近代の範型にまで抽象化されて,しかもそれは,「西ヨーロッパにおける明るい,裕かな近代社会建設」と手放しで理想化されたと,中野が指摘した問題である。

 E「学問といえるか」
 田川にもっと聞こう。「18,9世紀までのイギリス近代資本主義の全体をもそれ〔「局地的市場圏:自立的農村工業の発達」論〕で説明しきろうとするのは,もはや心情的議論でしかない。ましてや,そこから話をいきなり現代の日本に持ってきて,日本の「国民経済」のあり方に対して説教をたれる,ということになると,歴史的状況をまったく無視した飛躍もはなはだしい」
7)

 −−中野もいっていた。大塚における西洋近代は,発展段階の彼方にある「理想」,「わが国アンシャン・レジーム」の遅れた姿を浮きだたせる背景装置だった,と。田川→中野の関連性をみてとるべき事由は,これにつきる。両者間には,時代を前後する因果のふくみが特別ないと仮定しても,歴史的にはそう順序〔優先〕づけられてよいのである。

 田川は極論する。「そもそも今時,大塚久雄の「国民経済」論など学問的にはとっくに問題になりえなくなった程度の水準の代物だから,これに対する学問的批判を展開する価値などないのだが,……5項目について批判を記しておこう」
8)

 ◎ 大塚が,イギリス近代資本主義の発展原因をイギリス国内の自生的原因にのみ求めたのは,無謀である。

 ◎ 大塚は,イギリス人研究者の研究書の提供する,いわば請売りの資料の頼りきっている。それでも大塚は,あまりにしばしば,あたかも自分の手で資料を発掘したかのごとくに自己宣伝した。自分の「史学」は「実証的研究の示す動かしがたい史実」にのっとっているので,大塚に対してイデオロギー的批判なんぞをやりたい者は,そのまえにまず史実を確認してみろ,などと傲岸にいいつのっていた。

 ◎ 大塚流「国民経済」論は,イギリス国外の世界的な関連を無視しただけでなく,国内の問題をも無視した。単位を国民全体=国家にとったため,国家内〔スコットランド,アイルランドと〕の相違が眼につかなくなった。

 ◎ 15世紀イギリスの農村,18世紀末独立直後のアメリカの工業町,さらにダニエル・デフォーが空想的に描く「経済計画」までも全部,等しなみに,歴史的条件を無視して「局地的市場圏」を論証する素材としてならべた。これは,歴史的にあまりに無茶であった。

 ◎ 小生産者から産業資本家に転化する過程には,ほぼ必らずといっていいくらいに,世界的な規模での広義‐狭義の植民地支配が関与した。だから,自営小生産者がこつこつと勤勉に自営小生産をつづけて,大資本家にのしあがった,などとはいえない。


 田川はこうもいう。

「大塚の「国民経済」論は学問にはほど遠く,まるで子供だましとしか言いようのない立論なのだ。大塚とてそういうことに気がついていないわけではない」。「大塚久雄は意識的もしくは無意識的に,「無視しない」と宣言しつつも,経済史上根幹をなす重要な事実の多くを無視してしまう。そうしない限り,「国民経済」論は成り立たないからなのだ」。「イギリス経済についてさえ,「世界的な規模」はまったく無視して「国民経済」の枠内でのみ考えることができる,というのだから,その虚偽のモデルを現在の日本にあてはめてみても,日本経済の現状を正しく認識できないのは無理もない」
9)

 F「翼賛の思想・理論」
 「「日本国民の勤労な労働」だけが日本経済の発達の原因であるかの如くに思いこませる世論操作にそっくりそのまま訴えかける仕組みになっているのが「国民経済」論なのだ。……従ってそれは,外にむかっては経済的な帝国主義侵略の問題から一切目をそむけ,内にむかってはすべての人間を「国民」の名のもとに等しなみに扱って,国内的な差別,搾取からも一切目をそむける。その「国民」とは「国家」でしかない。これはまさに翼賛の思想そのものなのだ」
10)

 −−この田川の指摘は,中野においては,大塚のアジア像は意図的に選択され,現実のアジアそのものを遮蔽する観念「アジア」が構成されて,その視界は「日本」へと内閉し隠されると表現した指摘に,相応するものである。大塚のキリスト教の師内村鑑三は,「私は
two J's イエス(Jesus)日本(Japan)を愛する」といった。

 G「結 論」
 田川は,大塚史学の根本的性格を,こう総括してみせる。

 「問題は,どうしてこの程度の子供だましが,立派な学問として戦後日本の知識人の間で通用してしまったか,ということである。その理由は簡単であると思われる。相変らず多数の日本人が,ものを考える基本単位として「国民全体=国家」という単位を無自覚に前提しており,その枠の外に出ることも,その枠を内からつき破ることもしないからである。その無自覚な国家主義の上に,大塚久雄はうまく乗って踊ってみせた,というにすぎない。この無自覚的な国家主義という点において,残念ながら戦前戦中戦後の日本はおよそ変っていない。現在の日本の思想的危機は相変らずそこにあると思われる」
10)

 −−戦後の日本経済に繁栄をもたらした「国家主義」〔国家社会主義?〕的な資本主義路線と,大塚の〈信仰〉とが幸せな結婚をしてから,この国の社会科学「論」は〔田川建三にしたがえば〕,「子供だまし」みたいな「大塚史学のみごとな踊り」に魅了されてきた。戦前‐戦中は,国家の指示・要請に忠実だった大塚史学が,戦後は一転し,国民と国家にとって魅力的な学問形態に蝉変できたのである。



 
W 関 連 す る 論 点

 筆者はつぎに,中野敏男も田川建三もふれなかった論点をいくつか指摘したい。そのまえに,前節では言及できなかった関連問題も提起しよう。

 大谷瑞郎『経済史学批判』
(亜紀書房,1969年)は,大塚史学の問題点を,「先進資本主義諸国万才!」の「イデオロギー的意義は,およそ見当がつく」,「とうてい学問的効力を発揮しうるわけない」と,喝破した11)。本稿はくわしく参照しないが大谷の同書は,大塚「経済史学」の批判的考察にとって必読文献である。

 昭和20年代前半に,大塚史学に対するきびしい批判が提起されていた。たとえば,豊田四郎『社会経済史学の根本問題−史的唯物論と『大塚』史学−』
(研進社,昭和23年8月)がある。豊田四郎も冒頭に執筆している大学新聞連盟編『大塚史学批判』(大学新聞連盟出版部,昭和23年11月)もある。この豊田四郎の大塚史学批判は田川が指摘したように,大塚が「大塚に対してイデオロギー的批判なんぞをやりたい者は,そのまえにまず史実を確認してみろ,などと傲岸にいいつのった」,その相手:範疇に分類,始末されるものとなる。

 また,大塚経済史学が依拠した史実の解釈〔自説を展開するよりどころ:枠組〕については,経済史家である矢口孝次郎『資本主義成立期の研究』
(有斐閣,昭和27年)や,白杉庄一郎『近世西洋経済史研究序説』(有斐閣,昭和25年)が,無視しえない批判を与えている(後述)。

 小笠原 真『ヴェーバー/ゾムバルト/大塚久雄』
(昭和堂,1988年)は,大塚久雄「経済史学」をとらえて,「日本の経済史学界の発展に果たした役割は大きい。それだけに丹念に資料調査と研究の積み重ねの上に,史実によって理論の修正すべきところがあれば修正していくことが必要であろう」12) と,微温的な論及に結論を収めていた。だが,戦時期はさておき,その学的な権威のうちに秘匿されてはきたけれども,敗戦後に展開された大塚久雄「経済史学」には,いまや白日のもとに晒された問題性がある。したがって,筆者はその問題性の由来を説明しておかねばならない。

 @「東京大学経済学部の内部事情」
 大塚久雄は1939年4月,本位田祥男の後任となって経済史の講座を継承する。同年1月「平賀粛学」のあと,東大経済学部は学術的には惨憺たる水準まで落ちこんでいた。大正時代の後期より日本の社会科学界を風靡したマルクス主義的な学問傾向は,東大経済学部にも波瀾を生起させる不可避の要因であった。しかし,1933年を境にその色合いを除去していく時代状況を迎えた。

 日本の高等教育機関頂点に位置する東京帝国大学,しかも社会科学の最先端・旗手たる役目を負わされた経済学部〔経済学科と商業学科の2学科〕であったから,とりわけ国家のきびしい監視・締付のなかで学問を営為しなければならなかった。東大経済学部創立〔1919:大正8年〕後,当局からくわえられた学問・思想に対する圧迫や弾圧は,戦前の国家ファシズム体制のもとで,学術・理論とくに社会科学を自由に展開することのむずかしさを痛感させた。まして大塚は,無教会派のキリスト教を信仰する精神・立場にあった。

 A「経済学部の同僚たち」
 難波田春夫が有名である。戦時中,大著『国家と経済 全5巻』
(日本評論社,昭和13年2月・7月,昭和14年,昭和16年,昭和18年)を公刊した。大日本産業報国会「産報理論叢書」第1輯『日本的勤労観』(昭和17年4月)もある。難波田は,「わが国に於ける経済の存在根柢をなすところの国家は,実に「皇国」と呼ばれるところの万邦無比の国家に他ならない」と13),皇国的経済学の立場を高唱した。

 同僚の経営学者
高宮 晋は,当初大塚が研究課題にした「現代の株式会社に関する研究−近代個別資本の歴史的研究−」を,戦時体制下において論究し,『企業集中論』(有斐閣,昭和17年)にとりまとめた。高宮はそして,「企業の正しい目的は国家への奉仕であり,特に生産力増強による国防経済力の維持強化の達成にあり,かゝる国家奉仕としての生産性である」と主張していた14)

 戦前‐戦後をとおして正真正銘のマルクス経済学者だと信じて疑われない大内兵衛でさえ,共著『決戦下の社会諸科学』1944〔昭和19〕年4月のなかでは,こういった。

 吾々のもつ理論の武器が欧米のそれにまさりてヨリ生産的であることが証されたときにはじめてその目的を達する。さういふ意味で,吾々は一方において一日も早く日本の経済学−生産の学,
生産力論,生産方法論を樹立せねで〔ば?〕ならぬが,それにはまた彼等の経済学をもその欠点と共にその長所についても学ばねばならぬ15)

 この『決戦下の社会諸科学』の共著者森戸辰男は,こう回顧する。戦争中において「おそらく翻訳以外では,われわれが書き得た論文は,これが最後だった」
16)

 難波田や高宮,大内らの主張を聞けば,大塚も彼らと同じ隊列に付いていたことは明白である。難波田や高宮のように露骨に,国家主義〔皇国主義!〕をとなえた大塚史学ではなかったが,その内容の本質〔底面〕は,中野敏男〔や田川建三〕が指摘したとおりであって,「国家主義」的「生産力」論の立場は,大塚においても明確に維持されていた。「『資本主義発達史の基礎視点』は生産関係,階級関係ではなく,『生産力の発達の問題』であ」った
17)

 「生産力概念をマックス・ウェーバー流に神秘化して,資本主義を神聖なもの,清いものに描いたのがいわゆる大塚史学である」
18)。ただし,1945年8月までの東大経済学部内においては,大塚だけが日本の資本主義における生産力概念を「神聖なもの,清いものに描いた」のではなかった。もっとも,大塚のばあい,敗戦後もその核心:実質がかわらなかった。もちろん,かわった中身もあるが表層の主張だけであって,戦中と戦後の根本は不動であった。

 だからこそ,
中野敏男『大塚久雄と丸山眞男−動員,主体,戦争責任−』という著作が,大塚史学を批判するため再登場した。いまさらの感がないでもない。それでも,この著作が公刊されたことは歓迎すべき事態である。しかし,権威的な学説=大塚史学に対する「根本的な批判」が,「既存の〈決定打〉」として存在する。にもかかわらず,それは普及,浸透せず,いままで理解も認識もされていなかった。そうして,蓄積されてきた関連業績が十全に顧慮されないで,中野の著作が公表される段となった。

 中野の著作は,注記部分を参照する範囲内では,豊田四郎や矢口孝次郎,白杉庄一郎を引照していないし,大谷瑞郎や田川建三も参照されていない。

 B「学問における権威」
 日本の学界にかぎらないと思うが,この国ではとりわけ,学問の世界に「触らぬ神に祟りなし」という雰囲気がただよっている。権威的な学者,超一流大学のえらい先生のお説に逆らったりしてはいけない,学界の秩序をみだしてはならないという,不文律の戒律が存在する〔のかもしれない〕。

 筆者の所属する学界〔学会〕でも,基本は同じである。まだ若いころの筆者が真正面から批判をくわえた権威筋の経営学者たち〔およびその弟子たち〕の怒りは,尋常ではなかった。なかには,筆者が進呈した抜刷「批判論文」に対してわざわざ,「黙殺する」旨の返事をくれた高名な学者もいた。「黙殺しなければ」その権威〔理論的妥当性〕を保持できない,とでもいうのだろうか。批判・論争を門前払いする学問の威厳とはなんなのだろうかと,筆者は素朴な疑問を抱いたものである。



 
X 論点の整理と考察

 なかんずく
中野『大塚久雄と丸山眞男』公刊の意義は,大塚史学の基本的な難題をあらためて分析,批判した点に求められる。同書は,学説史の研究としてなお課題をのこす著作ではあるが,大塚の学問に潜む問題点を明らかにしたといえる。とはいっても,評者川村邦光のように「論争の書」と位置づけるのはおおげさであって,より正確には「議論を新しく重ねた書」である。

 1)「戦時の学問」
 筆者は大学院時代,戦前期に東大経済学部の本位田祥男研究室で大塚久雄とともに過ごした
中村常次郎を,指導教授とした。中村は,戦前から昭和20年代後半まで,福島高等商業学校〔福島大学経済学部〕教授を勤めた。当時地方にいた中村は,大塚のような立場には追いこまれず,東大経済学部の動向をはなれた場所からながめながら「個別資本〔運動〕説」を構想していた。

 中村は敗戦直後,「講義ノート(教科書)」ではあったが,自説を『経営経済学序説1』
(〔福島市〕文化堂,昭和21年10月)に活字化した。本書は,1945年8月以前であればまちがいなく,「治安維持法」に抵触した著述である。中村はマルキストではなかったが,マルクス〔主義〕的な学問が圧倒的な時代に研究を開始し,それに強く影響をうけた学問:経営学説をのこした19)

 2)「戦時の信仰」
 大塚は,1934年立教大学経済学部でおこなった企業集中論の「講義草稿−企業集中論」をのこしている。この草稿は,1938年に刊行された『株式会社発生史論』の背景を理解する助けとなる。しかし,戦時体制が本格化するなかで大塚は,「現代の株式会社に関する研究−近代個別資本の歴史的研究−」,すなわち「株式会社形態の発生史」と「株式会社企業の歴史」「を貫ぬく一般理論の構築をも試みていた」
20) が,これを打ち止めにした。この事実については,中野『大塚久雄と丸山眞男』がその背景や理由を適切に説明している。

 大塚史学が,「資本主義社会は資本家的見地に逆立ちさせられて」,「個別的資本家の見地を固執している」とか,「狭隘な」「個別的資本家の観点に止まるもの」であり,「現象的な視界からぬけでることができない」とか批判されるのは
21),大塚におけるそうした研究の出発点:「企業集中論」と深い関係がある。

 大塚はなぜ,経営学的な学問研究にはすすまず,経済史学=「国家主義」的「生産力」論へと進路をとったのか。このことは,戦時体制期に
中村常次郎と同じ構想:「個別資本〔運動〕説」を提示した経営学者馬場克三〔九州帝国大学法文学部(当時)・経済学部〕が,戦争中は理論面での潜伏・韜晦・隠遁を余儀なくされた事情をもって理解できる。

 大塚はその後,東京帝国大学経済学部の教員として生息を官許されうる範囲内で,学問と信仰を折り合わせ,自説のとるべき針路を定めたのである。

 3)「戦時から戦後へ」
 戦争中は大塚も「わが国の世界史的使命」をとなえたが,経営学者のなかには,声を大にしてそれを叫んでいた人物もいる。当時,満州帝国建国大学の教員だった
山本安次郎は,その代表格である。大塚は,自身の信仰と国家の要請とを,経済史学という理論的な磁場で,反撥させず上手に同居・融合できた。それらは,全体=国家に貢献・奉仕する主体形成という一点において結節し,戦時と戦後とを通貫できる価値判断基準を形成させたのである。

 敗戦の憂き目をみてもなお戦後に生き延びることができた,いいかえれば,敗北感を感じることのなかった「大塚史学の秘訣」は,自身の堅い信仰心を支柱にしていた。「戦時=総力戦体制下に形成・準備された思想が,敗戦とともに放棄されるのではなく,むしろ引き継がれてそのまま戦後の思想を中心的に担っていった」大塚の学問は,内村鑑三の無教会派「信仰」に立って,維持されてきた。そうして,「戦後復興をになう近代的民主的な主体の確立への連続性・断続性」も維持できた。

 4)「学問と信仰」
 大塚史学は,社会科学論というよりも,キリスト教的史学「論」というのがふさわしい。だとすれば,さらなる重大な問題が登場する。キリスト教的基盤に立脚して学問を展開した「社会科学者の〈戦争責任〉」とは,いったいどういうものになるのか。ここで,日本キリスト教会関係の戦争責任問題に論及するいとまはないが
22),無教会派の立場にあって,「社会の科学者」であるよりも「信仰の伝道師」であるかのごとくおのれの価値観をむきだしにし,学問の名のもとに「説教」を重ねてきた大塚久雄とは,いかなる「社会〈科学者〉」だったのか。

 「大塚史学形成の思想的背景の問題」は,「マルクス=ヴェーバー的大塚史学の経済史学的諸方法世界が信仰的世界からうけついだ問題意識と深く内的関連に立っている」。「そこにはロゴスを断絶する絶対者への信仰が逆にロゴス的世界の真の成立を保証する,という逆説的事態がある」。「大塚史学の学問の背後にある精神的源泉と構造と特性−を幾分でも知ることは,彼の学的世界を理解する上に不可欠だと思われる」
23)

 正統派マルキストは,大塚史学を,「マルクス経済学から「古典派経済学への逆戻り」の道」,「「マルクスの経済学」に対するリリパット的把握」と批判する
24)。この批判は,「社会科学」をいかに「信仰〔あるいはマルクス経済学!〕するか」に関して生じたものである。

 日本の社会科学者をかこむ学問的風土には,大塚経済史学の発想に秘められた形而上学的な神学性=「信仰」問題,いいかえると,「
社会科学(マルクス経済学)信仰のあいだ」をさまよってきた理論的な精神を,感知し捕捉する土壌がなかった。ただ1人,キリスト教史を専攻する田川建三のみが,より的確に総括的な批判を与えていた。

 5)「問 題 点」
 つまり,大塚久雄の「国民経済」論に対しては,

 
a) 歴史的状況をまったく無視した飛躍もあって,学問とはいえない程度の水準の代物,

 b) 「その国民経済」論は学問にはほど遠く,まるで子供だましとしかいいようのない立論,

 c) 戦時翼賛の思想そのものであって,「国民全体=国家」という単位を無自覚に前提する主張,

 d) 学者的洞察を期待するのがそもそも無理,

 e) 「アジア無視・日本へと内閉する論」,

 f) 単純な発展段階「理想」論


などと,完膚なきまでに批判がくわえられていた。

 
中野敏男『大塚久雄と丸山眞男』
,大恷j学における戦時と戦後を問いなおし,その思想問題の深部を切開し,戦後社会の広がりを総力戦体制と植民地主義の未清算,その連続という観点で考えた25)。ところが,大塚久雄に対するそうした批判的な考察は,前述のように早くより的確に与えられていた。本稿の筆者が中野同書に問うのは,これまで蓄積された研究成果を尊重しているか,という点なのである。

 6)「正常型という理解」
 さて,戦後にかぎっての話となるが大塚はたしかに,「西ヨーロッパ,とくにイギリスにおける史実をもって近代産業発達のいわば正常型の途を代表させ……わが近代産業発達の特殊性とわが国産業構造の型を明らかにしうる」
26) 学問を推進させた。そのためにたとえば,大塚『国民経済−その歴史的考察−』(弘文堂,昭和40年,講談社〔文庫〕,1994年)は,第3部「国民経済−歴史的視野での考察」において,「自立的国民経済の正常的な産業構造」を,くりかえし強調していた。

 はたして,「正常型」産業構造を決定的に代表するのは,いったいどの国の資本主義型なのか。そのみきわめは必らずしも簡単ではなく,時代の移行に応じて変化する。ある時代にいちばん繁栄した国を「正常型」とみなすなら,20世紀に「正常な途」を表示したと目された資本主義国がある。ビジネスの国:アメリカ,そして一時期の日本。大塚の経済史研究は,17〜18世紀のイギリス資本主義史に目をつけた立論であった
27)。しかし,帝国主義史や国際貿易の観点を軽視する「〈自立的〉国民経済」論であった。

 ちなみに,1820年のイギリスは世界工業生産のおよそ50%,19世紀末アメリカのそれは31%〔イギリスは18%〕を占めた。ただし日本は,1970〜80年代アメリカにせまり圧したが,追いぬいたわけではない。
「イギリス〈正常型〉史観」に立ち,「他国資本主義の〈特殊性〉要因」に固執した学問志向は,日本資本主義史の全期間における経済・産業・企業経営の変遷,あるいはとくに,20世紀において各国の資本主義でくりひろげられた競争角逐・栄枯盛衰・盛者必衰とは,ほとんど無縁のものであった。

 結局,大塚「史学」を否定的に切開し,そこから新たに思想的営為をはじめるべき価値があるのか,という疑念さえ抱かれる。「大塚久雄」研究は,日本の社会科学にとって不可避の検討課題たりうるのか。むしろ,偉大視されすぎた大塚の学問を凝視し,その位置づけを再解釈すべき余地があるのではないか。

 7)「範疇と史実(系譜)」
 矢口孝次郎『資本主義成立期の研究』
(有斐閣,昭和27年)は,大塚史学に対して「敢て異論を立てようとする意図からではない」が,「或る程度においてポレミックな色彩を伴わざるを得なかった」著作である,いった28)。矢口はそのように,控えめにだが的確に,大塚の基本主張に対する重要な批判を提示した。

 矢口は,社会科学論的にみて,「範疇と系譜とを混同して現実の理解に立ち向うことを注意しなければならない」点を警告する。いいかえると,「範疇……を,史実の理解に適用する場合,如何にすればそれによって史実がより明確に理解されるかという方法的観点,すなわち,範疇の適用という観点を逸脱してはならない。範疇は史実を整序するための尺度であって史実そのものではない筈である」
29)

 なお,これと同じ批判点はさきに,豊田四郎が放っていた。豊田は方法概念的に,「資本家制生産の『発達史』は,資本家的経営様式=マニュファクチュア=『工場制度』の『系譜』に倭小化される」,つまり「『系譜』が『発達史』とすりかえられてしまう」
30) と,大塚史学を批判していた。

 内田芳明は,前述のように大塚史学について,「ロゴスを断絶する絶対者への信仰が逆にロゴス的世界の真の成立を保証する,という逆説的事態がある」ことを指摘した。だが,「絶対者への信仰」によって「ロゴス的世界の真の成立」をとりむすぶ議論は,経済史学の研究対象に内在する「ロゴスを断絶する」ものではなかったのか。

 ここでは,こういう対応がみてとれる。

  ・
矢口の〈史実〉には,内田のいう〈大塚:ロゴス的世界〉

  ・
矢口の〈範疇〉には,内田のいう〈大塚:絶対者への信仰〉

 矢口は,資本制生産様式の発展に関する理論的把握ともいうべき範疇の定立の問題と,史実にもとづく理解からの接近の問題があり,このふたつの方法の上に立ってはじめて,歴史的範疇の適用も可能となるといっていた
31)

 ところが,大塚史学における「正常型〈史観〉」は,「絶対者への信仰」をバネに「〈ロゴス的世界〉の〈真の成立〉」を意味していた。それは,範疇が史実に先行するだけでなく,理論に規範を指示し,系譜を記述させる役目も発揮したものである。つまり,「史実(系譜)」問題と相たずさえて認識されるべき「範疇」問題が,大塚史学においては「信仰」問題の介在によって,信条的に干渉され,論理的に肥大化した。

 はたして,「逆説的事態」と装飾するほどにすばらしい理論的な内実が,大塚史学においては構築されていたのか。「史実(系譜)を整序するための尺度である範疇」があたかも,「史実(系譜)そのもの」であるかのように1人歩きできたのは,大塚の精神内に設営された「信仰」心が後押しをしていたからである。

 8)「角山 栄の批判
〔その1:批判の順序〕
 角山 栄は,矢口孝次郎・白杉庄一郎などにつづいて大塚史学を批判してきたといい,最近あらためてこう述べた。

 @ イギリス資本主義の発展において,善玉の「農村マニュファクチャー〔産業資本〕」と悪玉の「都市特権工業〔商業資本〕」の対立は,はたして歴史的に存在したのか。矢口は,農村工業の経営形態は,マニュファクチャーではなく,問屋制家内工業だと指摘した。イギリス資本主義の発展のなかでは,「ジェントリー資本」こそ重視されるべきだとする見解が,大塚史学を批判するさいの要点となる
32)

 A 角山はまた,こうもいった。「コミンテルン史観をウェーバーで割って薄めた(大塚)「史学」」は,「世界的に見れば何ほどもなかった」。「井の中の蛙大海を知らず」,「国際社会の比較経済の学問水準からも大きく遅れている」。「初めに結論ありき」,「データは理論に合わせて取捨選択していくだけ」で,「外国貿易を捨象する」ものだった
33)

 B 角山はさらに,「「大塚史学」の特徴というか魅力は,マルクス主義な立場で描かれていた点にあり」,「事実上マルクス主義に立脚しながら,マルクスの名前は一言も出さない」点を批判する
34)

 以上,角山による大塚批判は,本稿の既述内容に照らしてみてもおおよそ適切である。

 しかし,大塚『近代欧州経済史序説(上巻)』1944年の下巻が,「その後の私たちの批判のためついに刊行されませんでした」
35) といういいぶんについては,これを事後的に追認する術がない。白杉庄一郎『近世西洋経済史研究序説』(有斐閣)は1950年,矢口孝次郎『資本主義成立期の研究』(有斐閣)は1952年,角山 栄『資本主義の成立過程』(ミネルヴァ書房)は1956年の公刊である。時期的な前後関係から判断するに,払拭できない疑念が依然のこる。しかし,この疑念はまさに,中野『大塚久雄と丸山眞男』が解明する対象であった。

 なお,白杉の前掲書による大塚史学批判の視点は,こういうものであった。

 日本における西洋経済史学の一潮流は,近世西洋資本主義成立史に関するマックス・ウェーバー的解釈につらなり,戦後における民主主義革命の風雲に乗じて,一時,斯学の主流となった。だが,その科学的成果は,単なるブルジョア民主主義の小市民的な・後向きの歴史学であった。要するに,ローザ・ルクセンブルクは資本主義の世界性を再認し,国外市場の不可欠性を強調するあまり,資本主義の国民的側面をみおとしたが,往年の日本における講座派は,彼女のそうした誤謬をうらがえしにしてくりかえした
36)

 9)「角山 栄の批判
〔その2:批判の矛盾〕
 大塚史学はたしかに,マルクス主義の学問方法にかかわってきた。だが,大塚久雄という人物自身は,マルクス主義の思想的な立場を信奉したわけではない。角山はとくに,大塚「経済史学の根本思想」に関連する「左翼陣営〈批判〉」にこだわっており,〔今回の論稿が掲載された
雑誌『諸君!』2002年5月臨時増刊号「歴史諸君!」の性質(への迎合?)もあろうが〕その一面観:偏狭性は回避できない。

 気になるのは,筆者が本稿をおこすきっかけとなった
中野敏男『大塚久雄と丸山眞男−動員,主体,戦争責任−』2001年12月に関して,角山の言及がないことである。このたびの角山稿「「大塚史学」との闘い」『諸君!』〔2002年5月臨時増刊号「歴史諸君!」〕の執筆に関しては,中野同書の公表がなんらかの刺激を与えたものと観察〔臆測?〕しておく。

 最初に「大塚史学との闘い」を挑んだのは,敗戦後1948年からはじまった大塚史学「批判」の担い手たちであった。豊田四郎『社会経済史学の根本問題』
(昭和23年)や,大学新聞連盟編『大塚史学批判』(昭和23年)の執筆者たちである。さらに,大塚久雄・高橋幸八郎・松田智雄編著『西洋経済史講座 全5巻』(岩波書店,1960・1962年)に対抗して企画・発刊された,角山 栄総編集『講座西洋経済史 全5巻』(同文舘,1979・1980年)なども念頭におき,角山はその「「大塚史学」との〈闘い〉」を想起したつもりなのか。

 2002年の時点になって角山が,わざわざ「「大塚史学」との闘い」という論題を設定する意図は,大衆通俗的総合雑誌への寄稿とはいえ,なお理解に苦しむ点がある。この雑誌『諸君!』前掲号に公表した角山の論稿は,中川八洋‐渡部昇一‐八木秀次稿,西部 邁‐松本健一稿の2編と合わせて,「戦後歴史学は何故不毛の荒野と化したか」という共通タイトルを冠せられていた。

 もっとも,角山 栄の大塚久雄に対する態度は1960〔昭和35〕年までは,「基本的には大塚教授の説に同調するものである」
37)。しかし,1960〔〜1965〕年「の時点で「大塚史学」の役割は終焉していた」38) のであれば,いまあえてとりあげ,しかも,大塚史学との「闘い」が〔いままで〕なされてきたと回想し,強調する事由は,どこにあるのか。

 1960年に角山は,「わが国における西洋経済史研究は,大塚久雄教授の画期的な名著『近代欧州経済史序説 上』の出現によって,それ以後飛躍的に発展した……。……大塚教授の独創的な理論と鋭い問題意識の影響をうけなかったものは1人もない……。いや,大塚教授の著書をよんで興味をそそられなかったものは,経済史を学ぶ資格がなかったとさえいいうる」。「大塚教授の到達された学問的水準を一そう高度化し,
やがてそれをのりこえてゆくことも可能となる39) と,手放しで称賛した。ところが,1979年に角山は,「大塚史学の根本的な問題」を,「理論はアプリオリにかつ固定的に与えられており,……修正可能な理論として提出されていない」と批難した40)

 それにしても,大衆向けの啓蒙雑誌にいきなり学界の専門的な背景事情をからめた記述は,不親切である。「戦後歴史学は何故不毛の荒野と化したか」という現象=学界事情に関していえば,けっして角山も部外者ではありえない。大塚久雄とその支持者たちだけが,一方的にその原因だったとは思えない。ともかく角山は,1979年,2002年と,大塚史学をこっぴどく批判した。

 だが,第3者:本稿の筆者は不可解に感じる。角山は,どうしてもっと早く〔つまり1960年以前に〕,そういう形式‐中身による「大塚史学〈批判〉」を提示しなかった〔できなかった〕のか。なぜ,その〈あと〉,そして〈いま〉になってなのか。しかも,自身の発言には,前後して生じた基本的な矛盾,「称賛」と「批難」との不可解な同居がある。

 10)「学問以前・以外の信仰問題」
 学問で神学的信仰心を客体化し議論することは,いくらでも可能である。だが,神学的信仰論を基礎におき,学問〔「歴史と理論」あるいは「史実(系譜)と範疇」〕を,他者に対して客観的,納得的に立論できるかについては疑問がのこる。同じような疑問は,キリスト教史観を逆立ちさせた唯物史観に立脚するマルクス主義経済学にも当てはまる。

 信仰「問題」も当然,学問の対象である。だが,それに関しては学問以前・以外の宗教的感情・精神も不可避に介在し,勝手に干渉,機能する。それゆえ,それに対応できる人文科学的な神学論で議論しなければならない。大塚史学の命題においてはたしかに,「歴史的なものと論理的なものとは混同される」
41)。そうした混同を生起させた基本要因は,若き日の大塚が対峙した「戦時体制下の〈信仰〉問題」に発している。いうなれば,当時の〈市民的〉思想は,経済学のそとで反経済的な姿勢で成立するほかなく,また,妥協を排するかわりに名誉ある孤立をも覚悟しなければならなかった42)

 −−ゴードン・W・オルポートは,信仰問題をこう説明した。

 「知識」と「幻想」の両極端のあいだに「信仰」がある。「信仰とよぶものは,努力の過程から目的の表象を離しえない」。絶対的確信のテストを欠くことは,その彼独自の確証が必らずしも他人をも確信させるにいたらない結果となる。しかし,その確証は彼にとり深い確信となる
43)

 すなわち,主観的宗教は,「統一」すなわち「思想・感情および行為の完全な統一」への希求と同一である
(シュプランガー)

 
a) 宗教的意図と哲学的意図とは区別されねばならない。

 b) 宗教的意図〔宗教的意図の総量〕は,全体的調和に対する欲望を表わしている。それは,不完全を完全にし,全価値をふくみ,非価値を除去し,流転のなかに永遠的なものをみいだすために個人が絶えず努めることである。

 c) この観点からすれば宗教的価値の本質は,一なるものの神秘的目標のなかにのみ,みいだされうるのである
44)

 11) 「基本的な共通性」
 大塚久雄は,明言した。「科学の営みの根底には信仰というものがなければならない」
45)。マルクスは「宗教はアヘンだ」と切り捨てたが,このマルクスの樹立した主義を信奉する者たちも実は,マルクスを教祖に祭りあげ,彼の立論を真理普遍の教理とみなし,絶対的に教条化した。

 ◎〈大塚史学〉 「信仰が究極において個人の魂の奥底の問題である」という,大塚史学の「広い意味での宗教意識」「思想」は,「たえず
誠実に真理を追求していくならば,必ず神に到達するはずである」と信じてきた。「だから,科学と宗教の問題は,私にとってむしろ「自由」な研究態度の源泉になっている」46)

 ◎〈マルクス史学〉 「民主革命の現実の進展がわれわれに要求せずにはいない」「『大塚史学』批判をひとつの契機として,
史的唯物論の正しい把握の方向」をもって,「社会経済史学の科学的方法を探求しようとする」のが「自由なマルクス主義の研究」であった47)

 大塚史学と史的唯物論とは,対極的であると同時に相似形的であるからこそ,近親憎悪を惹起させる対手なのである。大塚史学は,マルクス主義から経済史学を研究する者にとって,絶好の論敵,不倶戴天の仇敵だった。
大塚は信仰で学問し,マルキストは学問を信仰するのであった。

 まず,史的唯物論者は,こう断言する。

 
◎ 「『大塚史学』の見解は正しいか? 否,それは正しくない」48)

 だが,大塚久雄は,こう反論する。

 
「マルクス主義は否認しさるわけではないが……そこには科学の及びえない固有な領域が厳存することを,どうしても認めねばならない」49)

 つまり,大塚のばあい,聖書と科学的合理精神と愛国心の3者は,信仰という求心力に引きつけられ密接不可分にむすびついていた。信仰心のあるかぎり,愛国心をもつことは,日本の歴史と文化を創造した神を愛することだった。しかし,信仰の力が弱まれば3者はバラバラにはなれかねない性質をもっており,ややもすると「思わず『帝国万歳』を三唱」することになる。

 大塚も人間であるかぎり,3者がぴったりと重なりあうことはありえない。だからこそ,苦悩が生じ,そこから聖書を媒介に表象と行動との往復運動が不断にくりかえされ,独自の思想が形成されたといえる
50)

 筆者は考える。学問の世界は,「誰が
正しいか‐正しくないか」を聖断できる絶対神を祭るべき,いかなる隙間ももたない。また,「科学の及びえない固有な領域が厳存すること」は,いまだ信じることができない。

        *       *       *                     *       *



 【補 記】


 東京大学経済学部図書館では,『欧州経済史序説』1938年,『近代欧州経済史序説(上巻)』1944年の両著ともに所蔵なく,後著の戦後〔昭和20年代の〕改訂版は所蔵があった。なお,東大の社会情報研究所と農学生命科学図書館には,『欧州経済史序説』1938年が所蔵されていた。要は,大塚久雄の本拠学部に「戦中自著」が所蔵されていない。

 中野『大塚久雄と丸山眞男』第1章「最高度自発性の生産力」の初出は,『思想』第882号,1997年12月である。





 
【注 記】


1) 
たとえば,裴 富吉『日本経営思想史−戦時体制期の経営学−』マルジュ社,1983年参照。

2) 田川建三「翼賛の思想から帝国主義の思想へ−大塚久雄の「国民経済」論に見られる国家主義について−」『批評精神』創刊号,1981年3月,58頁。

3) 同稿,58頁。

4) 同稿,60頁。

5) 同稿,61頁。

6) 同稿,65頁。

7) 同稿,66頁。

8) 
稿,67頁以下参照。

9) 
同稿,69頁,70頁,71頁。

10) 同稿,71頁。

11) 大谷瑞郎『経済史学批判』亜紀書房,1969年,95頁,96頁。

12) 小笠原 真『ヴェーバー/ゾムバルト/大塚久雄』昭和堂,1988年,240頁。

13) 難波田春夫『日本的勤労観』大日本産業報国会,昭和17年,49頁。

14) 高宮 晋「企業の動向」,東京大学『経済学論集』第12巻第10号,昭和17年10月,56頁。下線は筆者。

15) 高野岩三郎・権田保之助・大内兵衛・森戸辰男『決戦下の社会諸科学』栗田書店,昭和19年,〔大内兵衛「古典の探究と重商主義についての新解釈」〕158頁。〔 〕内補足および下線は筆者。

16) 森戸辰男『思想の遍歴 下−社会科学者の使命と運命』春秋社,昭和50年,239頁。

17) 豊田四郎『社会経済史学の根本問題−史的唯物論と『大塚』史学−』研進社,昭和23年,216頁。

18) 大学新聞連盟編『大塚史学批判』大学新聞連盟出版部,昭和23年,83頁。

19) 裴 富吉『経営理論史−日本個別資本論史研究−』中央経済社,昭和59年参照。

20)『大塚久雄著作集 第10巻−信仰と社会科学のあいだ 小文 補遺−』岩波書店,1970年,〔後記〕543頁。

21) 豊田『社会経済史学の根本問題』144頁,105頁,154頁,143頁,19頁など参照。

22) 筆者が日本基督教会関係者に関する批判的論究をおこなった論稿は,「「満州国」高官論メモランダム(上)(下)―武藤富男『再軍備を憤る―追放者の告白―』昭和26年10月−」『大阪産業大学経営論集』第1巻第1・3号,1999年10月・2000年6月。

23) 高橋幸八郎編『日本近代化の研究 下』東京大学出版会,1972年,〔内田芳明「日本プロテスタンティズムと大塚史学の形成」〕527頁,537頁,538頁,545頁。

24) 降旗節雄『科学とイデオロギー−マルクスとウェーバーをめぐって−』青木書店,1968年,172頁,187頁。

25) 中野敏男『大塚久雄と丸山眞男−動員,主体,戦争責任−』青土社,2001年,337頁,335頁。

26) 大塚久雄編『近代の産業』毎日新聞社,昭和27年,〔あとがき〕177頁。

27) 大塚久雄『国民経済−その歴史的考察−』講談社,1994年,165頁参照。

28) 矢口孝次郎『資本主義成立期の研究』有斐閣,昭和27年,序4頁。

29) 同書,93頁,95頁。

30) 豊田『社会経済史学の根本問題』20頁,144頁。

31) 矢口『資本主義成立期の研究』205頁。

32) 角山 栄「「大塚史学」との闘い」『諸君!』平成14年5月臨時増刊号「歴史諸君!」40頁〔38頁〕,41頁。

33) 同稿,34頁〔論題「副題」の見出し文〕,42頁,44頁,45頁。( )内補足は筆者。

34) 同稿,37頁,38頁。

35) 同稿,36頁。

36) 白杉庄一郎『近世西洋経済史研究序説』有斐閣,昭和25年,序1頁,431-432頁。

37) 角山 栄『資本主義の成立過程』ミネルヴァ書房,昭和31年,まえがき2頁。

38) 角山「「大塚史学」との闘い」39頁。

39) 角山 栄『イギリス毛織物工業史論』ミネルヴァ書房,昭和35年,序文1頁・1-2頁。下線は筆者。

40) 角山 栄総編集,角山 栄・川北 稔責任編『講座西洋経済史T 工業化の始動』同文舘,昭和54年,26頁。下線は筆者。角山らの批判に対する大塚の反論については,大塚久雄・高橋幸八郎・松田智雄編著『西洋経済史講座T 封建制の経済的基礎』岩波書店,昭和35年,6-7頁参照。

41) 豊田『社会経済史学の根本問題』9頁。

42) 堀 孝彦『日本における近代倫理の屈折』未來社,2002年,164頁,100頁。

43) ゴードン・W・オルポート,原谷達夫訳『個人と宗教』岩波書店,1953年,156-157頁参照,149頁,160頁。

44) 同書,150-151頁。下線は筆者。

45)『大塚久雄著作集 第10巻−信仰と社会科学のあいだ 小文・補遺−』77頁。

46) 同書,149頁,92-93頁,116頁。下線は筆者。

47) 豊田『社会経済史学の根本問題』はしがき1-2頁参照。下線は筆者。

48) 同書,56頁。

49)『大塚久雄著作集 第10巻』135頁。

50) 川端伸典「内村鑑三の回心をめぐって−『二つのJ』の意味したもの−」,日本哲学史フォーラム編『日本の哲学 第2号 特集 構想力/想像力』昭和堂,2001年12月,108頁。



 ◎ 2002年4月30日脱稿。

 『大阪産業大学経営論集』第4巻第1号,2002年10月25日掲載。

 本HP公表(用に改・補筆), 2002年10月27日。


 お 願 い:本稿の引照は基本的には,上記『経営論集』の参照を乞いたい。本ホームページからの引用などをおこなうばあいは,その旨「学術的なルール」に準拠した方法を採ることを願います。