(みすず書房,2004年)をとおして 君が代・日の丸 を 考える
なお,以下本文の記述で,
【 以下,本文に入る 】 ● は じ め に
● 民族概念の虚構性 2004年度より関西学院大学教授に就任する精神科医野田正彰は,2004年1月に『共感する力』というB6版本文 307頁の著作を公表した。 本ページは,本書『共感する力』の全体を参照するのではなく,「日本の近代は自然科学をくっつけた工学のみをとりいれ,人文科学による批判を排除した。法律や経済学も社会を管理する技術に貶められた。 中江兆民のような知識人の生存は許されず,そのためにみずからを映す鏡をもたず,侵略戦争に,バブル経済にいたった。私は,郷里の青年が1周遅れのテクノロジー・コンプレックスに跳らされないことを望む」(同書,4頁), と野田が批判する近現代日本社会の深刻な問題のうちとくに,「自文化中心主義」,つまり「日本民族の文化や伝統を誇る文化政策が急激にすすんでいる」(50頁)現状を批判する野田の論議を参照しつつ,筆者の検討を展開しようとするものである。 野田は,こう述べる。 ■「自惚れてはいけないという道徳があるのに,個人ではなく集団,とりわけ民族といったあいまいな集合の概念に主語がうつると,自惚れがなぜもっとも望ましい徳目にかわるのか」。 ■「自国の文化がすぐれていると思いこみ,先入観から過去の文化を解釈し,飾りたてる。このような自文化中心主義におちいれば,他の文化への関心は必らず低下し,既知の文化についても序列をつけてみるようになる」。 ■「英米の文化を学んでコンプレックスを抱き,日本文化の独自性に気づき,日本文化への誇りからアジアの諸文化を遅れたものとみなす。このような屈折のプロセスは福沢諭吉以来,多くの学識経験者がたどってきたところである」。 ■「日本の文化を学ぶことによって〈民族のアイデンティティ」が確立されるといった,心理学的説明もされる。だが,アイデンティティ(自我同一性)とは個人の自我の統合機能についての概念であり,民族に自我同一性なるものはない。それは個人の心理の単なる比喩でしかない。民族は歴史的に造られてきたのにもかかわらず,もともとひとつのまとまりをもっているかのように,まえもってコトバの偽計がしくまれている」(51-52頁)。 --野田正彰は,民族概念の特徴=集団的な象徴性,すなわちその「先験的な虚構性」「歴史的な無根拠」を指摘している。 国家次元のイデオロギーとして,人為的,意識的に構想される「民族概念」は本来,個人の心理的機制‐意識観念の次元において,自然には成立しにくいものである。 「民族概念」は,個人の身辺に存在はするが,〈ふたしかな雰囲気〉でしかないものを,集団的次元まで一気に昇華させるときはじめて,観念的に構想しうる契機をつかむことになる。 個人の〈自我同一性:アイデンティティ〉を,無理やり民族的精神のほうに引きこみ,固着化させ,特定の意味づけを与えようとする意図は,当然のこと,非常な困難に遭遇する。それゆえ,これを克服するためには,強引なこじつけや詭弁が用意される。 「全体主義的な色調を濃厚に有する」民族精神というイデオロギーは,個人の人格や人間の個性よりも,国家の意向や集団の嗜好を優先することに急であって,その逆の事態を念頭においたり許したりすることはほとんどない。後者がありうるとしても,それはあくまで全体・集団のためでしかない。 民族精神というイデオロギーがもっともらしく創成されるに当たっては,こういう現象が発生する。つまり,その創成を早期に達成するためには, a) たくましい夢想や想像が演出され, b) もっともらしい擬制や作り話が用意され, c) 問答無用の作為や虚偽が普及させられ, d) みえすいた我田引水や牽強付会が提示される。 なかんずく,民族精神というイデオロギーは,その歴史的な淵源:「出発点の発生原因」に関する創り話から,現在の環境における「結果の状況」に関して展開される内容までその全過程をつらぬいてあたかも,全面的に真実であることを要求する。そして,それは「もっとも好ましくも理想的なる民族の姿」を表現するものでなければならない。 それゆえ,そうした無理・無体・無謀を,なんとしてでも人びとに納得させ受容させるためには,日常的に強制・押しつけ・無理強いがおこなわれるだけでなく,ときには同時に,暴力‐脅迫的な言説‐行為もなされることにもなる。 以上のような記述内容は,ナチス・ドイツがユダヤ人‐民族を排斥し滅亡させようと大量虐殺する過程において,如実に発現させてきた諸現象であった。 敗戦までの日本の社会においても,「人間でしかない天皇」を〈生き神さま〉あつかいするために,擬似神学的な工夫をくわえて,古代的信仰を「近代的に再編成」した。 「万世一系の天皇家」だといわれるが,「万世一系でない人間」がどこにいるというのか? 実に馬鹿げた観念が天皇一族の優越性のひとつの根拠にされてきたのである。 いいかえれば,この国はかつて,そういった虚制的想像力(fictional imagination)の発揮を臣民たちに強制した。その結末は戦争の敗北であり,国家の衰亡であり,国民の被害であり,国土の荒廃であった。だが,いままた懲りない面々が現われ,再び同じような罪悪を犯しつつある。 小泉純一郎,石破 茂という名の,一国の総理大臣,防衛庁長官……。 民族精神というイデオロギーとしばしば結合しがちな国家全体主義は,人びとの積極性や創意,主体性,自立性を尊重するのではなく,あるいは民主主義や人権,平和を配慮するのではなく,むしろそれらを基本的に否定し,徹底的に排除し,好んで抹殺するのである。 人間の個性だとか性格だとかという要素に着目するのであれば,個人の人格だとか人間性だとかいう実在は理解しやすくなる。しかし,国家だとか民族だとか集団だとかという要素に目をうつすと,人間や人格性は,個別的な個性・性格を尊重されないまま埋もれてしまうのが,オチである。 最近における日本の経済‐社会‐政治‐文化全般の状態は,悪化・低迷・混乱・不調の様相を呈してきている。経済のデノミ的不況は明らかである。犯罪の増加・凶悪化は社会不安を昂進させている。自民党と公明党との野合政治体制は,ファシズム時代の到来がそれほど遠くないかもしれないことを予感させる。 靖国神社に参拝する小泉純一郎を黙認する公明党は創価学会の下部組織みたいな政党であるのに,ずいぶん不可解な対応である。本来ならば大声で「政教分離」の原則を盾に異議を申したてるだけでなく,猛烈に反対しなければならないのに,その原則が真義を理解したくない点では両党に共通理解があるかのようである。 ともかく,このごろの,なんとなく全体的に面白くないこの国の状態をみはからったかのように,また「経済‐社会‐政治」にかかわる〈停滞‐混迷‐停頓〉を,せめて精神面においてだけは克服していきたい,それも,日本の伝統のなかにこそその再生の契機をつかみたい,そういった切なる願望を前面に出しながらの,旧来の「国民‐国家的な枠組意識」に代わることのできる「イデオロギー的な発条」が要求されているかのようでもある。
● 歴史の認識/戦争再考
●-1 歴史への無知と無反省 野田はこういう。2001年9月11日事件ののち,アメリカのブッシュ大統領はテロリストたちへの報復を叫び,大国とアフガニスタンをとりかこむ国々に,アメリカ軍による報復に加担するか否か,選択をせまった。アメリカ軍による報復を支持しない国はテロリズムを容認しているとみなす,アメリカの敵,つまり世界の敵とみなす,という極端な二者択一をせまった。 日本の小泉内閣はブッシュの興奮に共振し,嬉々としてその二者択一に飛びついている。もちろん,アメリカの報復への過剰な加担のうらには,超大国アメリカの追随国として国家運営をしていくことが都合よいという国益判断がある。従来の外交思想の惰性のうえに,さらに一歩踏みこんだものにすぎない。 しかし,本当の選択は,この二者択一を21世紀の意味ある選択と認めるか否かに,ある。この二者択一を批判し,べつの選択をとりうるかどうか,にある(70頁)。 野田はさらに,戦争中における「日本ファシズム下の仏教」に言及する。 禅宗だけでなく,ほかのほとんどの宗教教団が戦時教学をつくっている。植民地としての北海道への布教に熱心だった浄土真宗は,大陸侵略とともに上海・朝鮮・中国北部へ布教所を広げ,「勅命に絶対随順したてまつれ」と皇道真宗を説いた。 ほとんどの教団は自主的に侵略を煽っておきながら,「軍部の圧力のもとで戦争に加担した」ていどの反省で済ましている。社会・宗教者・教育者が仏教と戦争責任についてしらべ,伝えてこなかったことの反省が求められている(82-83頁)。 過去における戦争責任の問題は,なにも宗教界だけのものではない。首相になった小泉純一郎が靖国神社にわざわざ参拝にいった行為は,あの侵略戦争に反省する内実などこれぽっちもない,と告白したことを意味する。 ほかのページでも説明したように,小泉は日本遺族会などの支持をうけて自民党総裁にえらばれ,日本国の総理大臣になることができた。それゆえ,靖国神社へ「英霊に頭を垂れるために」参拝にいくというよりも,支援団体の意向に「操を立てる」ためにいっている,といえる。 小泉が自分を支持くれた団体の意向に逆らったら,次回の自民党総裁選挙での当選はおぼつかなくなる。つまるところ,靖国にいくのも「自分の利害」のためなのであり,「英霊に頭を垂れる」行為は単なるポーズと断定してよい。そうでなくとも,彼自身,旧日帝的な軍国精神を備えた政治家である。 イラク戦争に直面してより明確になったことがある。それは,ブッシュの「犬(ジョンではなくジュン)」になり下がっていた純一郎の卑屈な態度は,彼に固有の如上のごとき政治精神の本性を表面化させたということである。 〔→ちなみにイギリス,スペインにも似たような首相〈犬〉がいた。前者ブレアー首相はブッシュのプードル犬と揶揄され,後者アスナール首相の率いるスペイン国民党政権は,国民の8~9割が反対していたイラク派兵や,2004年3月11日発生したテロ事件などの影響などで,3月14日の総選挙で敗北し,退陣を余儀なくされた〕。 とはいえ,日本政府がイラクへ自衛隊を出兵させたことは,小泉が靖国神社に参拝にいった行為とも密接に関連する。派遣先のイラクで不幸にも自衛隊員が死亡〔戦死〕したばあい,靖国神社〔あるいは地元の近い護国神社〕に〈魂〉を祀ってあげるという予告を,彼は演技しているのである。 イラクに派兵されている自衛隊員が生命を落としたばあい,遺された家族が1億円をもらえるということはすでにはっきりしていたが,その後,現地派兵(危険)手当として自衛隊員は1日当たり2万4千円を支給されることが判明した。いままでは3万円といわれていた。 日本の国家財政はいまピンチ状態であるけれども,日本政府は2004年1月下旬,イラク南部へ派遣される陸上自衛隊本体の手当など17億2千万を,2003年度予算の予備費から支出することを決めている。 景気低迷,失業,ホームレス,犯罪増加,若者の意気阻喪,高齢化社会の深化,年金制度の破綻,国家財政の逼迫など,どこ吹く風といった風情である。 かつてのアジア侵略‐戦争のために生命を落とした将兵の〈英霊〉を合祀する靖国神社は,アジア諸国からみれば旧日本帝国の犯罪的な悪行性‐罪業性を国家宗教的に象徴する施設である。それなのに,九段にいくのは当たりまえといわんばかりの態度をしめしつつ参拝する小泉首相の姿は,過去の亡霊が彼の肩に乗っかっているかのようにもみえる〔背後霊!〕。 過去の戦争についてその反省など全然していない小泉純一郎ら,多くの日本人・日本民族の認識において,根本的に欠けているものがある。野田は,こういう。 金 日成=金 正日体制を維持するために,200万,300万の餓死者を容認する北朝鮮当局。それは,国体維持のために沖縄戦などを続行した天皇制とまったく同じだ(119頁)。 野田の,こういう意見:「現在の北朝鮮⇔ついこのあいだまでの日本帝国」という関係づけを聞かされて,奇異に感じる日本人がいるにちがいない。おそらく,そういう印象をもつ人びとが多数派だと思う。 しかし,天皇の戦争責任や天皇制の政治史的な問題点に対して徹底的反省や根本的再検討を怠ってきたこの国「日本」はいままで,「過去の亡霊:懲りない面々」を,それこそ生かせたまま,大勢(!)野放しにしてきた。まちがいなく,ヒロヒト天皇は彼らを代表する最高責任者であった。 敗戦後ただちに,自分の赤子だとよんでいた大和民族だけでも3百万人以上もの犠牲者を出した〈大元帥:総帥〉たるヒロヒト天皇自身が「責任をとって退位しなかった」,あるいは,日本男児らしく「腹を掻っ切って」自死でもするかたちで責任をまっとうしなかったせいで,今日におけるような「体たらくで無責任な日本社会」が「モラル・ハザード(道徳崩壊現象)」におちいってしまったのだ,と嘆く日本の知識人もいないわけではない。 ヒロヒトさんが責任をとらなかったのだから,その手下だったわれわれだって,というのであった。 彼は,自分1人の欲望や名誉,そしてその延命のために大東亜戦争をつづけた。その結果,自国関係だけでも3百万人以上もの犠牲者を出しただけでなく,アジア全体で2千万人もの犠牲者を出した。しかも彼は,そのいっさいの責任を頬被りさえしてきた。日本人関係にかぎっても,大東亜〔太平洋〕戦争を1年早く切りあげておけば,その犠牲者は3分の1で済んだ。 だが,大東亜戦争の時期,昭和天皇は軍服を着て靖国神社に足しげくかよい,臣民にはけっして下げない「生き神」さまのその「頭」を,英霊たちに向かってだけはなんども下げた。 靖国神社におけるヒロヒト氏のそうした国教:祭祀主宰者としての政治的行為は,いったい,なんのためであったか。アジア侵略戦争,くわえて英米と余儀なくなった戦争に臣民をすすんで動員させ,「自分の皇国」を勝利させたいがためであった。 ふだんはまちがっても,「汝ら臣民に対しては頭を下げることなど絶対にない昭和天皇:朕」であった。だが,靖国にいった朕は,死んで英霊になった「汝らに対しては朕が頭を垂れる」。だから,生きているときから「そのかぎりない栄誉と賛美と厚遇」を覚え,喜べ,黙って朕によく服従せよ(!)と,昭和天皇は要求したのである。 かつては国有‐国営,それも軍部の管轄下にあった靖国神社であったが,いまでは1宗教法人にかわった。しかし,靖国神社の宗教的精神の核心体は,なお戦前体制のままである。小泉純一郎がわざわざそこに参拝する意味は,そうした歴史的含蓄にみいだせる。 戦前体制を否定も清算もしないで靖国神社を宗教的に再利用するこの国の首相は,過去の戦責問題など「クソくらえ」の態度まるだしのものといってよい。 しかし,今回,ブッシュのいいなり,アメリカ軍の尻馬に乗るかたちでイラクに出兵した日本の自衛隊(軍隊)は,その派兵目的があいまいである。派遣された自衛隊1人1人の口からも聞くことのできる任務も,民間組織(NPO)でもできるというか,むしろこちらにより適した援助的な業務ばかりである。 かつての敵国:「鬼畜米英」に無条件で協力する応援部隊をイラクに派遣した日本の自衛隊であったが,その目的‐任務‐効果において判然とも釈然ともしない点を残している。もちろん,日本の政治経済的な利害もからんでの派兵といえるが,もっぱらアメリカの世界戦略の片棒担ぎのために兵を送りこんだことにかわりない。 太平洋戦争でアメリカに完敗した日本は,いまではすっかり,アメリカ合衆国:ブッシュ junior の忠実な子分‐弟子‐舎弟になり下がったのである。戦後ずっと,そういう対米関係でありつづけることを,日本は甘受してきた。この国は,東京裁判史観をもって簡単に首根っこを抑えつけられてきた。 アメリカは,なんにでも唯唯諾々の日本がとても気に入っている。沖縄をはじめ日本全国に散在する米軍基地の有用性は,アメリカに対して,まことに多大かつ重要かつ不可欠の,軍事的貢献をはたしている。アメリカにとって世界一,聞き分けのいい国が日本である。アメリカ〔軍〕基地に関して日本国が提供している関係経費は,有形と無形とを問わず¥に換算できそうな分だけでも,毎年度5千億円以上とみてよい。 アメリカはイラクに戦争をしかけ,フセイン大統領を捕獲したあと,このイラクをてこに中東地域全体を,敗戦後の日本みたく占領しつつ民主化させ,自分好みの支配領域に再生させようともくろんでいる。だが,そんなにうまく「柳の下にいつもドジョウがいる」わけがない。 日本国とイラク国の〈敗戦〉模様は,Time‐Place‐Occasion がすべて異なる。病気でいえば,盲腸炎と脳腫瘍くらいのちがいがあるともいえる。日本国民とイラク国民を同等視したら,とんでもない錯誤である。 その後におけるイラク情勢の経過は,毎日のマスコミ報道にもみられるとおりであって,平均して毎日1人以上の米兵が生命を奪われている。 それよりも,アメリカのイラク侵略戦争がイラク国民:老若男女たちに与えた人的な被害は1桁以上多い。アメリカ軍の戦争行動‐戦闘行為によってもたらされたイラク国土‐インフラの破壊,その日常生活におよぼす悪影響は,量りしれないものがある。 ●-2 歴史の無視,記憶の欠損 野田はさらに,日本人が最近において,戦争の記憶「断片綴り合わせ作話」をおこなう動きを,こう批判する。 金沢市の石川護国神社で,1億円をかけて「大東亜聖戦大碑」が建てられた。12メートルの巨大な石碑には, 大東亜 おほみいくさは 万世の 歴史を照らす かがみなりけり の歌と寄付者の名前が刻みこまれている。 「おほみいくさ」とは天皇の戦争の意味であろうが,日本国民やアジアの人々が殺された戦争でなかったのか。どのような歴史を照らすというのか。 このような動きは感情的反撥からくるものであって,歴史をしろうとしてはいない。戦争時を生きてきた日本人,彼らから断片的な戦争中の出来事を聞かされてきた戦後世代ともに,歪んだ知識しかもっていないのではないか(133頁)。 私たちは,記憶の欠損のまま生き,断片を綴りあわせて作話している。体系的にしる努力なしに,アジアの人々との対話は生まれない(135頁)。 野田は,ベトナム戦争に派兵させられた韓国軍人と日本の戦略戦争否認派の人々の主張の奇妙な相似に言及する。 元ベトナム派遣韓国軍司令官蔡 命新(チエ ミョンシン)は,ベトナム戦争で韓国兵がおこなった虐殺行為を記事にしたハンギョレ新聞社に対して,「国のために戦い,3万人以上,枯れ葉剤による後遺症に苦しむ退役者がいる。孫の世代に〈良民を殺した〉と疑われるのは耐えられない。2度と新聞にベトナム人虐殺の記事を載せるな」と,凄んでいた(141頁)。 これは,植民地支配によって韓国の近代化をすすめ,インフラをととのえたと主張する,日本の保守派と同じ論理である。他国へ侵攻しておきながら,「国のために戦った者の名誉をおとしめるのか」と怒るのも同じである。そこでは,虐殺されたベトナム人の人々とその遺族の苦しみはまったく忘れられている。 国家がおこなった犯罪について,日本も韓国も,そしてアメリカや中国も,責任が問いなおされている時代がようやく近づいているようである(142-143頁)。 --野田は「満州事変」(昭和6:1931年)にも言及する。 満州事変が70年まえの遠い昔のことのようには思えない。というのは,たとえば尖閣諸島で日本の漁民が殺されたというようなフレームアップがおこなわれれば,批判的に事態をとらえられる日本人がどれだけいるだろうか。 隣国との友好は大切であるが,それ以上に近現代史を正確に学び,つねに批判的に考えうる思考力を身につけなければ,過去の過ちはなんの意味ももたなくなる(148頁)。 以上の議論は,侵略だとか戦争だとか国際紛争だとかいう問題のもたらす不幸・悲惨・残虐をいかに認識すべきか,あるいはいかに事前に防止・克服すべきかなどに関連するものである。 2001年9月11日に起きた同時多発テロ事件の被害をうけたアメリカ合衆国がみせたヒステリー症状を想起したい。 その犯人たちを送りこんだのは,ビン・ラディンを首領とするイスラム教徒の集団:アルカイダたちとみなされた。そのため,彼らをかくまっている国と目されたアフガニスタンは事件後,アメリカ軍の徹底的な軍事攻撃をうけ,アルカイダ集団は追いだされた。 2003年3月,アメリカがこんどは,大量殺戮兵器を隠しもっている国と勝手に決めつけた〈サダム・フセインのイラク〉に対して戦争をしかけた。これによってアフガニスタンは,世界世論のなかで注目度が下がり,その影が薄くなってしまった。
ベトナムとの戦争をアメリカが本格的にはじめるに当たっても,トンキン湾でアメリカの駆逐艦が北ベトナム海軍艦艇の攻撃をうけたと事件をデッチあげるところから手をつけた。いまではその事実は,まちがいのない「歴史の一コマ」として世界史に記録されている。 この地球上において世界最強の軍事国家『アメリカ』は,その国家的意志:規模をもって数多くのテロ行為を実行してきた国である。すなわち,自国の利害のためであれば,他国で紛争,戦争,内乱,革命,攪乱,騒擾などを勃発させるための軍事行動をおこしたりフレームアップをしたりすることなど,お茶の子さいさい,お安い御用である。 ソ連崩壊後のロシアは,往時において保持していた軍事力をまったくうしなった。それこそ,みる影もないほどアメリカへの対抗力をもっていない。 アメリカはいまや,世界政治のなかでたった1人の保安官役を演じている。その役割はみかたによっては,ヤクザの大親分をきどったかのようにも映る。アフガニスタンやイラクに対する戦争行為・他国破壊は,大相撲の横綱が幕下の力士を思う存分になぶっているような様子にしかみえない。 日本国首相の小泉純一郎は,その保安官ブッシュの助手を務めるのに,汲々としているどころか嬉々としてさえいるような態度である。いわば,アメリカの世界的な国家戦略に盲目なまま,アメリカ追随路線を突っぱしるかのような国が日本である。 そこで,この日本国に暮らす住民〔国民・市民たち〕を今後,有事体制下においた政治的な状態を維持しながら,いかに問答無用的にアメリカ軍事戦略構想の下請機関としての役目を日本がはたすかが目下の課題である。 有事のさいは,純一郎がブッシュジュニアーに喜んで協力したのと同じように,日本の自衛隊〔軍隊〕もアメリカ軍にすすんで協力し,軍事行動することを準備しておかねばならない。 そのさい,日本国民の戦争意識=有事体制への日常的な順応性をしつけておかねばならない。野田の議論はこの問題にすすむ。
● 教育をめぐって:戦争体制に備えよ!
●-1 国歌・国旗の強要・強制 最近,日本の学校では「君が代」を国歌として入学式や卒業式で生徒・先生に歌わせるよう強制しており,その圧力は相当強くなっている。 教員が国歌を歌わねばならないとする,歌の強制の法律はない。だが,国歌斉唱を実施しなかったとして,校長を処分し,協力しなかったとして教員を処分している。こんな教育状況から,どうして「生きる力」が湧いてくるのか。先生を処分で黙らせておいて,生徒に「生きる力」をつけさせるといっても,無理である。 生きていくのにもっとも大切なのは意欲と判断力である。判断するために,想像し,会話を交わす能力が豊かでなければならない。情報や知識がいかに多くとも,判断を誤れば,一瞬のうちに人生は歪む。 情報や知識を判断力を高めるために組みたてなければ意味がない。そして,なにしたという意欲と動機がなければ,判断しようとする意思さえうしなう。こんなこともわからないで「ゆとり教育」という論争がおこなわれている(182-183頁)。
自国の国歌や国旗に対する敬意を養成するにさいして,外国のそれらに対する敬意をもちだすという理屈は,腑に落ちないものがある。なぜ,自国:日本の国歌・国旗に対する敬意〔尊敬・誠実〕を直接に問題にしないのか。 日本国新憲法を全体的に象徴する人間がいる。それは天皇である。一国をまるごと象徴する存在に特定の「人間=天皇」が座している。 日本では戦前も戦後も,国歌は「君が代」を唱う。かつて「君」とは天皇のことだった。いまでは,そうではないと,屁理屈のような,まったくつかみどころのない解釈がなされているが,その境目がはっきり仕切れるわけではない。 日本国を象徴するのが天皇であるなら,同時に天皇が「君」であるなら,「君が代」が天皇賛歌・礼賛の歌であること否定できるものはいない。かつて,そうであったとおりである。 地球上のどの国にもその国を象徴する旗印があり,自国を励まし称えて唱う国歌がある。 ■ ドイツは,ナチス帝政時代の国旗だったハーケンクロイツを捨て,現在の三色旗を使用している。 ■ イタリアの国旗は1861年に制定された。ただ,メキシコと同じ色柄だったので,中央の白の部分にサボイア家の紋章(エンブレム:emblem,→象徴:symbol,記章・標章とも訳される)を入れてあった。だが,第2次大戦に敗れ王制も廃止された結果,サボイア家の紋章を除去した現在の三色旗に変更してある。 ■ 明治以降,日本の国旗日の丸は長いあいだ,アジア侵略戦争のシンボルでもあった。この国は,戦前も戦後も同じ旗。
しかし,敗戦をきっかけに昭和天皇がイタリアの王家みたく追放されず,この国の〈象徴〉に居すわったのは,アメリカを中心とする連合軍総司令部の日本統治‐支配戦略のおかげであった。 その結果=現状は,天皇家という皇族〔王族〕の当主が日本「国」を人間として象徴する,などという〈封建遺制〉どころか〈古代神政〉まるだしの国家形態となっており,民主主義のありかたに照らして考えれば,まことに恥ずかしいかぎりである。 問題の核心は,民主主義の「主権:主催者」は誰なのかである。なにゆえ,民主主義国「日本」において,天皇家の家長が特別待遇をうけ,この国の象徴(symbol)に位置づけられなければならないのか。「主権在民の象徴〈物〉」に「生身の人間」を据えるなどいう「明らかに絶対的な矛盾」を,神学:信仰的に口にすることは許されない。 第2次大戦において,枢軸国のなかでも一番早く敗退したイタリアは,不幸中の幸いであったがドイツや日本と比べて,戦争の被害は相対的にすくなくて済んだ。敗戦後,イタリアは王制〔:王家サボイア家〕を完全に廃絶させ追放し,民主主義国家体制確立のための障害を除去してその基盤を整備した。 サボイア家は,17世紀のイタリア・トリノで栄え,1861年イタリア統一後の王国を支配した。だが,1946年ムソリーニのファシズム台頭を許したとして国民投票で,王制廃止が決定された。 戦後のイタリア共和国に誕生した憲法は,王制復活を阻止するためサボイア家の男子入国を禁止した。最後の国王ウンベルト2世は追放されており,1983年に死去した。スイスに在住の息子ビットリオ・エマヌエレ(64歳)は,帰国を望んでいるという。
1世紀もまえに,どこかの国の哲学者がいったことだが,「実在即現象」論というようなエセ哲学の〈形式論理〉でしか説明できないのが,日本の天皇制である。 ★ 日本でこの国を象徴する〈旗印〉は「日の丸」である。 →戦前と同じものである。 ★ 日本という国を歌で表わすのに「君が代」を当てている。 →戦前と同じものである。メロディーも歌詞も同じである。 ★ 一国を象徴する「もの」は,ほかにもいくらでもあるはずなのに,あえて,かつて「生き神様」であった「人間」の天皇を,敗戦後,この国の象徴に決めた。 →その人の政治的な意味づけは相当かわったのだが,ともかく,戦前と同じ人間がその役まわりを演じつづけている。連続性のなかに不可解な断絶性が伏在する。 思うに,ある特定の人間が「民主主義国の人びとの集合全体」を象徴するなどという話は,あってはならないものである。 天皇家の人びとには名字(苗字)がない。美智子さんや,雅子さんも皇室に嫁入りする以前は,正田,小和田という姓をもっていたが,日本国の象徴たる天皇〔あるいはその予定者〕の配偶者となるや,なぜか個人名(personal name)のみの呼称になった。 日本国民の象徴とされる天皇は,象徴であるがゆえに,日本の人びとの頂点に位置している。天皇家一族が人民:people にあおぎみられる存在であるなら,日本国民・市民と対等の視線でみられる舞台に立っていないことを意味する。 天皇は憲法上,けっして日本国の元首ではない。だが,形式的にはあたかも,外交関係あるいは内政関係において元首であるかのように,いくつもの公務をはたしている。 天皇が「元首でもない」のに,元首であるかのように政治的に演じさせる「まやかしの〈新〉憲法」は,民主主義社会になじまないものでありつづけてきた。 ◆-a) 日本国歌である「君が代」を歌えと強制することは,天皇のための歌であったその素性が完全に払拭されないかぎり,天皇を賛美するために歌えということと区別できない。 民主主義的制度に反する天皇一族のための歌を唱和せよと強制すること,天皇を支持したくない人びとに対してまでそうすることは,天皇と天皇制を無条件で支持せよと強制することを意味する。 ◆-b) 日本という国を表現=象徴する旗である「日の丸」に敬意を払えと強要することは,日本国の象徴そのものである天皇を崇敬せよとせまることと同じである。 日本の旗は,サッカーや野球の試合のときに振られる小旗のときにおける「日の丸」だけを意味しない。過去における日本の侵略‐戦争の旗「印」でもあったから,この日の丸は「血にまみれた」時代を長く過ごしてきた。 戦前‐戦中期,日本の外国への侵略や戦争,紛争において日本軍のイメージを象徴する旗,それが「日の丸」であった。 日本の将兵が戦地に出征するとき,日の丸に寄せ書きを集める風景は,いまだ可視的なものである。なんのために日の丸に寄せ書きをしたのか。手柄を立てよ(!)という意味であった。戦地はアジア諸国や太平洋地域の各地であったから,日本の将兵の手柄はあくで敵国・敵地での話であった。 敵国・敵地で旧日本軍の「日の丸」は,どのような旗としてみられていたか。その旗は,植民地の人びとの目にどのような印として映っていたか。このような歴史意識を欠いた「日の丸」擁護論は,アジア諸国の人びとに反撥・嫌悪を感じさせる以外のなにものでもない。 ◆-c) 天皇が日本国の象徴として位置するかぎり,「民主主義の原理:主権在民」は永久に成立しない。その状態は,民主主義の原理に抵触するなどという生やさしい法秩序破壊現象ではなく,日本における民主主義の空洞化現象を拡大するだけである。 --野田正彰は,民族概念の特徴=集団的な象徴性,すなわちその「先験的な虚構性」「歴史的な無根拠」を指摘していた。それゆえ,虚構性や無根拠にもとづく〈なにもの〉は,無理やりの強制や脅迫めいた強要によってしか,同意も承認もえられえない。
●-2 愛国心は強制するものか? 野田は,最近の教育現場で教師と生徒・学生に強要されている愛国心の発揚,つまり「国歌の斉唱」と「国旗への敬意」を批判する。 1938〔昭和13年〕3月,大阪憲兵隊は管下のキリスト教会に質問状を発して,天皇とキリスト教の関係,教育勅語とキリスト教主義の関係を問いただし,弾圧の糸口とした。いわゆる「天皇とキリストといずれが偉いか」という問いによって,追いつめた。 1941〔昭和14年〕には,プロテスタント各派を日本基督教団に統合させ,翌年1月,教団幹部を伊勢神宮に参拝させた。 すでに,1920年代より朝鮮では公立学校生徒の神社参拝が強制されていた。さらに,キリスト教系私立学校の神社参拝の有無がしらべられ,参拝に反対した教師の免職,生徒の退学が強要されていった。 「神宮は宗教ではなく,神社参拝は国民思想の中枢であり,これに反対する児童はとうていそのままおくことはできない」との見解であった。学校のつぎに,一般の教徒への「踏絵」政策がつづいていく。 1938年2月,朝鮮総督府による「キリスト教に対する指導対策」は,「教会堂にはできるかぎり国旗掲揚塔を建設せしむること。建設せざるばあいといえども,祝祭日または廉あるばあいは国旗を掲揚せしむること。 学校生徒の神社参拝は国民教育上絶対的に必要なるも,一般耶蘇教徒の神社参拝に対しては地方の実情を参酌し,まず教徒の神社に対する観念を是正理解せしめ,強制にわたることなく実効をあげるよう指導すること。 西暦年号は歴史的事実を証明するばあいのほか,なるべく使用せざるよう習慣づくること」。 朝鮮で現実には,参拝拒否者は拘束され,朱 基徹牧師(平壌)のように拷問され殺された者は,50余名といわれている(183-184頁)。 --伊勢神宮,靖国神社など日本の官制(国定)の神社〔神宮・大社〕は,天皇家の皇宗皇祖を祀る宗教施設である。 「神道:神社は宗教:施設にあらず」という国家的な詭弁を弄したうえで,「異教徒」たちにそこへの参拝を強いた旧日帝の「宗教的行為」は,のちに国家神道と称される,明治以降における日本の官許的な神道の信仰的本質,いいかえれば「政教一体」の国教=神道の政治的な偽悪性を端的に物語っていた。 旧日帝時代,植民地支配下におかれた朝鮮人や台湾・中国人は,君が代を歌わされ,日の丸に敬礼させられてきた。敗戦直後,日本の植民地あるいは日本軍の統治下に建てられていた神社は,たちまち破壊され,全面的に否定された。 日本が東アジア諸国の植民地‐支配地域に建立した神社は,敗戦を契機に,一瞬にして消滅した。しかし,君が代と日の丸はいまも,日本国内では国歌であり国旗でありつづけている。 野田の議論にもどろう。 最近の10年にわたる公立小・中学校,高等学校の卒業式・入学式における「日の丸・君が代」の強制をみていると,かつてのキリスト者への神社参拝の強制となんとよく似ていることか。 詭弁も,強要の段階的進行も,そのことば遣いもよく似ている。 文部科学省による「中学校学習指導要領」の「社会」には,「国家間の相互の主権の尊重と協力との関連で,国旗および国歌の意義ならびにそれらを相互に尊重することが,国際的な儀礼であることを理解させ,それらを尊重するように配慮すること」と書かれている。 それが卒業式・入学式での国旗正面掲示,国歌斉唱を強制する理屈である。なぜ,2つの式での強制が国家間の相互の主権の尊重になるのか,まったく論理が弛緩している。 それらは,神宮は宗教ではない,神社参拝は国民思想の中枢と強弁する,に似る。 日の丸の三脚掲揚のつぎは,式場正面掲示,生徒は背を向けてはいけないので,全員正面に向かっての式をおこなうこと,君が代はテープからピアノ伴奏,さらに「起立して心をこめて歌う」という教育委員会から校長へ,校長から教員への職務命令〔北九州市など〕まで,強要の強化も類似する。 「指導する」という奇妙な文部科学省隠語は,昔もいまも同じである。朝鮮総督府の文書でも同じである。 たとえば,広島県教育委員会の教員処分理由には,「国歌斉唱時に起立するよう校長から指導されたにもかかわらず,その指導にしたがわず国歌斉唱時に着席した。このことは,教育にたずさわる公務員として自覚が欠如した行為」と書く。 「指導」とは教えみちびくことでなく,処分をもってせまること,「暴力をもって焼きを入れる」という教育隠語らしい(184-185頁)。 --まず,君が代も日の丸も旧日帝時代と「同じ歌・旗である」という「過去から現在への共通性」があり,つぎに,その歌を一生懸命歌え,その旗を敬意をもってみあげよと,権力をもって脅しながら命令するところは,その相手が植民地の人びとから日本国内の日本人そのものにかわったとはいえ,まったく「同じ強制のしかた」である。 日本国憲法に明記されている「思想・信条・良心の自由」は空文にひとしい。 かつて,旧日帝が植民地を支配したとき,その地の人びとにも力づくで歌わせた国歌が「君が代」であり,これみよがしに掲げられた旗が「日の丸」であった。 そのとき,日本の支配に屈伏したかのようにしたがっていた当地の人びとは,その歌・その旗をどのように聞き,みあげていたか,日本・日本人がしらなかったわけではない。 植民地の人びとが喜んで君が代を唱和し君が代を掲揚していたのでないことは,日本臣民たちも感じていたはずである。 その点では,朝鮮人や中国人はむろんのこと日本人のがわでも,なにも植民地に住んだ体験がなくとも,君が代や日の丸にまつわる嫌な思い出,つまり「生き神様に忠誠を誓う君が代」や「血まみれだった日章旗」の歴史的瘢痕:戦争犯罪の痕跡を,けっして忘れていないし,忘れられないのである。 伊勢神宮,熱田神社など日本の官制の神社〔神宮・大社〕は,天皇家の皇宗皇祖を祀る宗教施設である。生き神様〔当時昭和天皇〕は,そこに鎮座まします諸々の神々の現在的な代表物であった。 「君が代」の大日本帝国は,代々の「天皇」が総攬する神国とみなされていた。日章旗はその君の「帝国の旗印」であった。 昔と同じ「君が代」をいま,学校教育〔公立だが〕で教師が歌い,生徒も歌うように指導しなければ,処分して罰すると脅している。また,昔と同じ「日の丸(日章旗)」に敬意をもって接しなければ,やはり同じに懲らしめるぞ,とせまっている。 この国はいつから,そんなにもひどい〔全体主義の〕国にあともどりしたのか。民主主義を基本とする国なのに,歌や旗のことに関して〈好き嫌いの選択の余地はない〉と強迫されるというのは,異常事態である。 そもそも,自国の歌や旗の問題を,「国家間の相互の主権の尊重と協力との関連で,国旗および国歌の意義ならびにそれらを相互に尊重することが,国際的な儀礼であることを理解させ,それらを尊重するように配慮すること」という事由を立てて強要することじたい,奇妙キテレツな理屈でしかない。 「他人の褌で相撲をとる」という文句があるが,まさしくそれであり,他意みえみえの,まわりクドイ理屈である。いうところの「国際的な儀礼」とはなにか。どの国でもすべてが,日本みたく歌と旗を強制しているという証拠でもあるのか。 兵役拒否さえ認め,その代わりに社会奉仕でその義務をはたさせる国々もあるというこの時代に,たかが歌や旗に関する好き嫌いさえ表現していけないというのである。そのように「思想‐良心‐信条の自由」を認めない国に民主主義があるといえようか。 「国際的な儀礼」が「君が代を歌い,日の丸に敬意を払う」ことによって身につくという根拠は,なにか? 日本に住む人間であるなら,国際的な舞台で他国の国歌や旗に接する機会よりも,国内の場所で「君が代を歌い,日の丸に敬意を払う」機会のほうがずっと多いのである。にもかかわらず,「国際的な儀礼」をもちだして,つまり「他人の褌」的な語法で,本命を達成させようとする「隠語」の駆使は,卑怯かつ陰険なやりかたである。 結局,問題の焦点には,象徴とはいちおういっているのだが,生身で存在している天皇を〈神の国〉における実在物のように祭りあげて,自分たちの政治的統治に都合よく利用しようとする「為政者の意向」が透視できる。 国の決めたことには黙ってしたがえ(!)。なにをおいても君が代を歌え,日の丸には敬意を払えというのである。だが,いったいなんのために? そうしないと,日本に生きて暮らす人びとにとって,あるいは民主主義のありかたにとって,いったいどのような不都合・不便が生じるのか? このことがまったく不明である。君が代‐日の丸の強制はその反対に民主主義の根本精神を破壊する行為だと批判されているのに,この肝心な点には触れるところがない。 再び,野田の議論にもどろう。 私は,国旗をかかげたり,国歌を歌うべきではないと述べているのではない。自分の思想・信条にもとづき「したくない」と思う人に強要し,あるいは良心に踏みこんではならない,と述べているのである。 ひとつの象徴的行為をおこなうかおこなわないかによって,社会を単一なものに造りかえていけば,やがてその社会は岩石のように硬化し,人間は窒息する(185-186頁)。 過去の声は,神社参拝を強制された戦前の日本と朝鮮のキリスト社の声。明治天皇による欽定憲法に信教の自由が定められているのに,「神社は宗教にあらず」といって参拝を強要されるのはなぜ,と呻いた。 その呻き声は現在の呻き声と重なりあい,この国は理念なき国か,と問うている。 --1930年代,キリスト教徒への良心の抑圧がどのようにおこなわれたか,思いおこしてみよう。 盧溝橋事件後,国民精神総動員運動のもとに学校・教会への神社参拝が強要されていた。すでに1920年代より,朝鮮では公立学校生徒の神社参拝が皇民化政策として強制されていた。 さらに1930年代になると,朝鮮のキリスト教系私立学校での神社参拝の有無がしらべられ,参拝に反対した教師の免職・生徒の退学が強要されていった。 たとえば,1938年6月29日の「京城日報」(日本語による植民地支配の新聞)には,警務局長による「キリスト教の自覚」について,数字を挙げての報告が載っている。
同年4月,文部省は全都道府県および指定都市の公立小・中・高等学校の卒業式での「日の丸・君が代」実施率調査結果を挙げ,それにもとづき「入学式および卒業席において,国旗の掲揚や国歌の斉唱をおこなわない学校があるので,その適切なとりあつかいについて徹底すること」と通達した。 「適切なとりあつかいについて徹底する」とは意味不明の文章だが,この通達によってまず転向されたのは,天皇への反撥の強い沖縄だったことも,戦前にまず朝鮮で強制されたのと似る。 また「国旗の掲揚88%,神社参拝53%」という数字の差は,数年まえの公立学校における「日の丸」と「君が代」の数字の差と似ている。いずれ100%に強制されていったことも同じである。 「神社は宗教でない」という詭弁も,「君が代」起立斉唱の強制は「思想および良心の自由に踏みこんでいない」という詭弁と同じである。とりわけ戦前から一貫して,文部省は「指導する」という日本語ならぬ日本語を偏愛している。 文部省は各県の教育委員会,教育長に「指導する」と通達し,教育長は各校長に「指導する」と通知する。だが「校長から指導されたにもかかわらず,その指導にしたがわず国歌斉唱時に着席した」(広島県教育委員会)として処分する。 「指導」とは教えみちびくことでなく,「いうことを聞かねば,酷い目に遭わせるぞ」という教育隠語らしい。文部省,教育委員会用語を非行少年や暴力団が盗用したのだろうか。 国旗・国歌の強制は当事者がしらずして,過去の神社参拝の強制の過程とまったく同じことをしめしている。過去を反省しない社会は同じことを繰りかえす。抑圧された者の呻きもまた繰りかえされる(186-188頁)。 --なぜ,日本国の当事者は,野田正彰に批判されるような〈時代錯誤〉=「民主主義の原則蹂躙」を平然と犯して恥じないのか。 文部科学省〔文部省〕は,天皇および天皇制の利用価値が1945年8月以前と顕著に異なるかたちではあっても,「この道はいつかきた道」という再現フィルム:幻影を,本気で上映したがっているようである。 もちろん,そうした教育現場に対する国歌‐国旗「問題」に対する権力筋の直接的な介入は,現に日本政治を統治・支配する為政者がわの利害において,ものごとを都合よく運ぶためになされている。 「指導」とは教えみちびくことでなく,「いうことを聞かねば,酷い目に遭わせるぞ」という強制的な教導のしかたは,民主主義の基本理念とは無縁である。 それでは,教育現場で児童‐生徒‐学生を指導する教員たちが萎縮してしまう。それこそ,反教育的な効果しか生めない。ジョージョ・オーウェルの『一九八四年』的な,人間精神が自由な飛翔への希望をうしなった世界を醸成するだけである。 「歌や旗のこと」でなにゆえ,そこまでこだわった強制・強要がなされねばならないのか。それは,個人や人格としての人間性よりも,国家や組織の集団的な至上価値=〈なにものか〉に対する馴致を謀っているとしかいいようがない。 野田の記述に,またもどろう。 公立小・中学校,高等学校の卒業式・入学式においては,ここ15年間,着々とすすんでいる「君が代‐日の丸」の強制の方向に変化はない。国旗は国歌のシンボルであり,国旗に敬礼し国歌を斉唱することは,国歌への感情的一体化を高める手段である。 それが合意でおこなわれるならまだしも,強制されるときは必らず,個人に対する国家の優位や民族の単一性が強弁され暴力がともなう。 そうして沖縄の人々,同和地域の人々,在日韓国・朝鮮人が国家主義によって押しつぶされている。同じく,アイヌの人々は単一民族の強弁に押しつぶされているだろう。そう私は思った。 国家と民族の名のものに,個人の思想を押しつぶし,1人の反応も許さず総動員していこうとするイデオロギーは,強い国家,ひとつの民族をつねに叫んでいる。 ただし,少数者も認めたうえでの,複数の民族のために総動員はないことを確信する人もいないわけではない(191頁)。 --野田正彰が日本の教育現場における「歌と旗」の問題をとおして批判するのは,かつての大日本帝国の無反省・無自覚,換言すれば,あの戦争の大失敗:不正義にわずかも懲りず感じてもいない面々が,この国にはまだ大勢いることである。 有事法制関連法が成立したのち,最近はアメリカ軍によって大混乱したイラクへ一番最後に,軍隊〔自衛隊〕を派兵した日本である。そのさい,自衛隊員に「君が代」を歌わず,「日の丸」に敬礼をしない者がいてはこまる。任務拒否など滅相もない。なにもいわず「命令されたら黙って任地に出征する」将兵が,現状の日本国にとっては最上・最適である。 自衛隊内で1人でも「君が代」を歌わず「日の丸」に敬礼をしない者がいたりして,軍隊内で「反戦や厭戦」の意思を表明されたりしたら,防衛庁長官はきっと大慌てするだろう。しかし,いまのところそういう〈不埒な〉自衛官はいない。 幸いなことに現在〔2004年3月25日〕まで,イラクに派兵された自衛隊に戦闘行動やテロ被害による死者はもちろん,そのほかの事故に遭っての死者も出ていない。しかし,今後イラク国内で,もしもテロ攻撃にでも遭遇して死者を出すことになったら,ひと騒ぎすることになるだろう。 日本の自衛隊がアメリカ軍の保安官助手みたいな存在であることは,既述した。旧日帝時代の日本軍隊の横暴を思えば,アメリカ軍が日本本土で勝手気ままに軍事行動作戦を展開している現況は,日本のアメリカに対する従属関係としても,重大な主権問題である。 それでも日本は,多分喜んでだろう,せっせとアメリカ軍のお手伝いをやらせていただいている。他国にはだいぶ遅れたが,ブッシュにいわれて純一郎が自衛隊員をイラクに派兵〔派遣といっているが〕したのは,その証左である。 もっとも,フランスやドイツはアメリカの要請,「テロに反対しない国はアメリカに敵対するとみなす」という乱暴な理屈による恫喝にもかかわらず,イラクに派兵していない。プーチン大統領のロシアはどうしているか,ご存じか?
「日の丸」掲揚や「君が代」斉唱の強制の20年間は,神社参拝強制の10年間と類似している。学校を特別化し,教師は公務員であるから校長の職務命令にしたがわねばならないという,転倒した理由によって,近代が苦悩のなかからとり出した良心の自由を教師から奪っている。 良心の自由をうしなった教師が,児童生徒に「良心をしっかりもて」とはいえなくなる。良心には時代が許す良心と,時代が許さない良心があると,教師が自分自身に弁明するとき,若い世代は人として守らなければならない絶対的倫理を求めることをやめる。 強制は,「日の丸」が好きか嫌いか,「君が代」が好きか嫌いか,の問題ではない。私たちが集団や国家を超えた良心をもちうるか否か,の問題である。それがなければ,感情も知性も育たない,戦争もテロも考えることができなくなる,個々人の良心の問題である(196頁)。 --野田正彰は,いみじくもいった。いまの日本の教育現場は,「感情も知性も育たない,戦争もテロも考えることができなくなる,個々人」を生みだそうとしている,と。 というのも,日本政府の代表者である小泉純一郎〔たち〕は,自分たちのいいなりになるそうした「従順な若者」がたくさん育つことを,期待している。つまり,「良心の問題」や「思想・信条の自由の問題」など深く考えず,為政者のいうとおり服従する,あるいは誰かの命令どおりに行動する青少年が学校で育てられることを望んでいる。 しかし,旧態依然かつ固陋頑迷な精神構造の持ち主でしかない「当世の為政者」たちは,「君が代」斉唱および「日の丸」敬礼を押しつけながら,若者たちに強要しているつもりの〈国家への尊敬心〉が,実は,彼ら自身が強調するはずの「国際的な儀礼」をろくに育成できるものではないことにすら気づいていない。 野田正彰『共感する力』はさらに,精神科医の立場から教育現場で苦悩する教師たちの姿を描き,精神的な分析をくわえているが,ここではその論点はくわしく紹介できない。1箇所のみ引照しておく。
筆者は,精神科医の野田が「国歌‐国旗」問題を幅広い観点より批判する点を手がかりに,このページを記述してきた。 --いきなりここで,こういうことをいっておく。 かつての『大東亜〔大アジア〕共栄圏』思想を,日本のためではなく,東アジア全体,そしてアジアの全域を共栄させうるよう,いい意味で,換骨奪胎させることができないか。そういうことを考えてみる価値もある。むろん,旧日帝がかつて狙っていたごとき大アジア共同体構想では,けっしてない。 アジアのすべての国々が腕を組むことのできる政治‐経済圏域の登場を一番嫌うのは,あのアメリカ合衆国である。とはいっても,欧州連合(EU)のような「統合アジア(AU:Asian Union)」が形成できるみこみは,いまのところ全然おぼつかない状況である。 だが,日本の政治家たちは,そのような方途の実現に向けて必要な構想に思いをいたすことすらできていない。日本政治が国際外交面ではたせる役割に意欲的にとりくもうと高い志を抱く政治家は,この国にはいない。票にもならない国際政治外交など,目もくれないというわけである。 もっとも,純一郎君のように中国や韓国などが極度に嫌がる「靖国参拝」を毎年実行するような現状では,アジア地域に政治‐経済的な一大圏域を形成することは,とうてい無理である。アジアにおける経済大国「日本」の政治小国ぶりが顕著なのである。経済は1流(?)だが,政治は2流(!)というわけである。 アメリカの世界戦略においてその忠実な下僕の役割をはたすこと以外しらない日本は,ひたすら盲従的に米軍への軍事的なお手伝いをさせていただくばかりである。この国:日本のそうした体たらくは,全国各地にアメリカ軍の都合のいいように基地を提供し,つかわせている「お人好し」な態度によく表現されている。 ただし日本も「核をもちたいし,空母を保有したいし,監視衛星も打ち上げたい」ことにかわりない。 実際, a)「核」についてはすでに,福田康夫官房長官や安倍晋三自民党幹事長がその意欲のあるところを披露したこともある。日本が本気で実戦用に核兵器をつくろうとしたら,数ヶ月で準備するだろう。 b)「空母」については,その装備を艤装できる軍艦を,日本の海上自衛隊は保有している。設計図はどこかで秘密裏に用意しているはずである。 c)「監視衛星」は最近(2003年11月29日),H2Aロケットによる打ち上げに失敗した。けれども,日本政府の関連する方針‐意思は既定である。偵察‐軍事用衛星による戦略技術的な監視体制の実現がめざされていることは,関係筋に尋ねるまでもなく明らかである。 --アメリカ軍はもともと,日本を守るために日本の基地を占有しているのではない。アメリカは,自国の世界戦略や経済的利害のために,いいかえれば,直接には軍事的な展開上,日本にある多くの基地を非常に便利な足場として活用しているのである。 神奈川県の横田基地は,U. S. A. のカリフォルニア州の玄関・入口とか書いてあるそうである。アメリカ軍や政府の関係者は,駐日大使館からヘリで横田基地に直行し,ここでアメリカ行きの航空機に乗りかえて本国へゆききしている。 それにくらべ,東京〔関東地方など〕に住む日本人〔など〕が海外にいくときは,電車や自動車で成田まで時間をかけていき,それから海外行きの飛行機に搭乗することになる。成田は,不便な空港だという評判である。 この国は,いったい,誰の国か? くわえて,横田基地を基点として南北にはアメリカ軍専用の広い空域がある(これは,アメリカ軍が日本で占有する空域の一例である)。そのため,羽田空港に離着陸する日本の民間航空機がどのような航路をたどって飛んでいるかについては,羽田空港を利用したことのある人であれば,当然気づいていい点である。 なぜ,そのようにアメリカ軍は日本に軍事基地をたくさんおくことができ,そのうえで自国の基地であるかのように,勝手気ままにというか,思う存分に利用できているのか。 日本国政府は,「日の丸・君が代」〔なんかの問題〕よりさきに,対米関係において解決すべき重大課題を多々有するのである。それは,アメリカへの属国体制から日本を脱皮させるという,もっとも根源的な課題である。 かつて,「脱亜入欧」という標語が叫ばれたことがあるが,いまや「脱米‐入亜」が必要かもしれない。 アジア大共栄圏の構想は,そうした日本の「〈アメリカ〉乳離れ」が実現しえないかぎり,恐らく永久に不可能である。そのうち,いろいろ問題ぶくみとはいえ,必らず中国が昔のように大国化するだろう。 いずれまちがいなく現出するだろうそうしたアジア史的‐世界史的な大勢‐動向に対して,日本はいかに賢明に対応すべきか。アメリカ依存を半世紀以上もつづけてきた国としては,たいそう困難な仕事になるかもしれない。だが,うかうかしているヒマなどない。 日本国はいまのところ,アメリカの顔色ばかりうかがいながらも,国内では若者に「君が代・日の丸」を強制する教育にうつつを抜かしている。そんなことにいつまでもこだわっているようでは,この国はもう永久に梲(うだつ,うだち)を上げることができなくなるのではないか。
● 国歌・国旗の強制・強要を批判する意見
●-1 後藤 徹(弁護士) ① 日の丸掲揚・君が代斉唱〔演奏〕の強制の問題は,ある意味で,教師にとって《現代の踏絵》となっている。 日の丸掲揚・君が代斉唱〔演奏〕は,子どもたちの成長・発達を阻害すると考える教師が,それを強制することを黙認することは,耐えられない苦痛をともなう。 教師の心を傷つけることの繰りかえしは,教師の心を蝕む。それは,教師の自主的・創造的活動へのとりくみを妨げる。 卒・入学式における日の丸掲揚・君が代斉唱の強制は,子どもたちの思想形成の自由,父母や教師の思想の自由を侵害するのみならず,学校教育そのものの破壊につながる重大な問題である。 いまこそ,課題にふさわしい国民運動の展開が期待される(大田 尭・尾山 宏・永原慶二編『家永三郎の残したもの 引き継ぐもの』日本評論社,2003年,162頁)。 ② もしも道徳の内容について複数意見があるとき,その正当性について多数決で〔たとえば与党の政府の方針で〕決めていくならば,それは少数者排除をこそ正義とした道徳となってしまう。まさに道徳としてなりたたない。 それでもその道徳を全国一律に強制するならば,それはまさに,少数者を排除して服従を強いる全体主義教育となってしまうだろう。『心のノート』を問うことは,国家がつくろうとする「良心」と,私たちが守ろうとする「良心の自由」との闘いへといたる。 さらには,いま目前でなされようとしている教育基本法「改正」において,「国を愛する心」が法律に書きこまれるならば,それはまさに「愛国心の法制化」にほかならない。 国家が「有事法制」「イラク特措法」を成立させて戦後初の戦死者をすら求めようとしているいま,その死を讃え,うけいれ,国家への服従を美徳とする「愛国心」教育に子どもたちの心を差しだすのか否か,私たち大人の責任がとわれている(166頁)。 ③ 従来から文部省(以前の)は国際政治‐外交関係の記述に対して,国連中心史観〔国連隠れ蓑論〕の立場から文句をつけてきた。だが,国連決議にまで違反しておこなったブッシュの先制攻撃=イラク戦争〔および小泉内閣の追従姿勢〕に批判的意見を書いたならば,調査官〔文部科学省〕はどう対応するであろうか。 教科書執筆者は,検定制度の恣意性をあばく機敏性をもたねばならない(170頁)。
① 旧日帝植民地下,台湾長老教中学はイギリス人が建てたキリスト教主義の学校であった。この学校を正式の中学校に認めてほしいと台湾総督府に要求したとき,こういう条件がしめされた。 「学校全体で神社参拝をしなさい。そうすれば中学校として認定する」。 校長エドワード・バントは,こう書いている。 〔正式の中学校としての〕認定の必要条件として神社参拝を強要するのは,単なる誤謬以上のものである。それは,巧妙で微妙で洗練されたやりかたではあるが,それにもかかわらず残酷な宗教的圧制である。 結局,神社参拝は実施された。参拝のあとには,学校で参拝にいかなかった生徒がいるかどうかをしらべ,その生徒に対してきびしく訓戒するなど,明らかに強制的な意味をもつものになっている(水野直樹編『生活の中の植民地主義』人文書院,2003年,115-116頁,121頁)。 ② 北白川能久という人物は,日本が台湾を領有したときに,近衛師団団長として台湾にわたり,台南で病死した皇族である。台湾人のいいつたえのなかには,抗日ゲリラが殺したのだ,というものもある。 北白川能久は台湾で「悪者どもをお鎮めになった」というのである。しかし,その悪者とは台湾人のことであり,すなわち,台湾人のなかで武装して,日本の占領に対して戦った人々のことを指している。 北白川能久という存在は,台湾の人々を日本に屈伏させた象徴でもあるわけである。台湾のほとんどの神社は,祭神としてこの能久を祀っていた。台湾で神社参拝をさせることは,日本への服従,屈伏を繰りかえし思いおこさせる意味があったわけである(118頁)。 --以上,日の丸・君が代の強制・強要の問題を,戦前‐戦後,国内‐国外にまたがった歴史的事実に即するかたちで,関連する見解をいくつか引照してみた。 戦前とまったく同じ「国の歌」を無理やり歌わせたり「国の旗」への敬礼を強迫したりする文部科学〔文部〕省の教育政策は,昔のまちがった思想をそのまま繰りかえそうとする意図を,露骨にさらけ出している。 それだけではない。アメリカの子分よろしく,喜んでイラクに日本の自衛隊を派兵した日本国首相の小泉純一郎や石破 茂防衛庁長官は,文部科学省にそうした教育態勢を敷かせながら,すすんで戦争のできる,あるいは,したくなるような人造り,兵器造り,国造りに励んでいる。 文部科学省はそのために,幼いときから全体主義・軍国主義になじむ日本の子どもを育てようともくろんでいるだけでなく,積極的・無条件に,そして,疑問などつゆも抱かない「好戦的な人的資源」の育成に必死になってとりくんでいるかのようにみえる。 日本の敗戦後,潰しておくべきだったのに残しておき「失敗した官庁」が文部省〔現文部科学省〕だといわれる。この指摘は,しごくもっともなものである。 イラクに派遣されている日本の自衛隊員が,不幸・不運にもテロ‐戦闘行為や事故,病気で死亡したら,多分その後,靖国神社〔あるいは地元の護国神社〕に〈英霊〉として彼らは合祀されるはずである。 だから毎年,純一郎は首相として靖国に参拝しにいく。自衛隊員の諸君,任務のため・国家のためならば「喜んで死にいきなさい」,より正確な表現ですれば「いつでも死ねる覚悟をしておけ!」というのである。 小泉を首相にするのに当たり,大いに力を発揮した軍恩連盟,日本遺族会など関連後援組織は,純一郎のおこなってきた毎年の参拝行為によって,その存在意義を再認することができているわけである。 いつだったか,そんなに日本の自衛隊を海外に派遣したいのならば,小泉純一郎や福田康夫よ,「自分の子どもをまず先頭に立てて送れ」といわれたこともあった。 たとえば,1957年生まれの石破 茂防衛庁長官には子ども2人(奈央子,佳永子)がいる。この自分の娘〔や息子〕がハタチになったらまっさきに自衛隊に入れ,いち早く「派兵する人員」に決めておきなさい。 また,石破 茂関係のホームページをみたら,この人,「納豆が嫌い,愛煙家」と説明があった。 日本国は「健康増進法」(2003年5月1日施行)を定めている。軍隊(自衛隊:陸海空の3軍)の営舎に住んでいる人びとは,いうまでもなく常時,肉体に対してきびしい鍛錬を積んでいる。 ところが,この国の「軍隊」組織の最高司令官みずから,「タバコ大好き人間」だといっている。また「納豆が嫌い」といっているが,茂君は恐らく,この食物がどのくらい身体にいいのかしらないのだろう。 ともかく,「健康増進法」第5章第2節「受動喫煙の防止」第25条は,こう規定している。 学校,体育館,病院,劇場,観覧場,集会場,展示場,百貨店,事務所,官公庁施設,飲食店その他の多数の者が利用する施設を管理する者は,これらを利用する者について,受動喫煙(室内又はこれに準ずる環境において,他人のたばこの煙を吸わされることをいう。)を防止するために必要な措置を講ずるように努めなければならない。 石破君! そういうことでは,「戦争‐戦闘」に勝てる軍隊・軍人を育成・養成すべき立場・責任にある者としてあなたは,不適格であり,失格である。 --筆者はほかのページで,母親たちの正直な感情を表わすこういう文句を引用をした。 ● 「お国のためにと,自分が産んだ子どもを殺す母親はいない」。 一国の為政者・最高責任者である総理大臣がまず最初にやるべき仕事は,なにか。 いまの日本においては,自国民を戦地や紛争の地域に送ってアメリカの子分・手先の役目をさせることよりも,国内には重大かつ深刻で緊急に解決を要する課題・任務が山積しているではないか。 彼らは多分,世界平和・秩序の維持・発展のためにこそ,アメリカの手伝いをするのだというかもしれない。 しかし,日本もしょせんは,サダム・フセインのイラクを一方的に席巻・圧倒した強国:アメリカ軍を補完し,そして事後,世界支配のための体制構築を狙うアメリカの「お先棒かつぎ」をするだけである。 要は,国民〔たち〕にろくな説明をしないで,憲法を全面的に破り,アメリカの下僕‐家来‐子分‐舎弟〔奴隷?〕であるかのような関係に甘んずるこの国の指導者たちは,昔風(旧日帝時代)の表現などを借りればまさしく「国賊」「匪賊」「売国奴」である。 なぜなら,本当は彼らは,日本国全体の利益‐利害よりも,アメリカとの関係で,自分たち‐自民党,そしてごくかぎられた体制がわの権益を,近視眼的に護ろうとしているにすぎないからである。
西原博史『学校が「愛国心」を教えるとき』 --まず,本書の目次を紹介しておく。 はじめに 心どろぼう 第1章〈思想・良心の自由〉からみえてくるもの a〈思想・良心の自由〉が意味するところ b 国家が個人の思想・良心を殺し始めるとき c〈良心形成の自由〉にとって学校とは? d 国旗,国歌が思想・良心の問題となるとき e 現実に進む強制 第2章 国旗・国歌法による「強制」 1 どこに問題があるのか a 象徴による統合 b 国旗・国歌が存在することと人権 c 国旗・国歌法のねらい d 「強制」されないことの意味 e 教師の立場 2 この事態を招いた背景 a 突然の嵐の謎 b 構造改革の遠心力 c 受け皿としての〈公共性渇望論〉 d 強制による公共性意識の形容矛盾 e パンドラの箱としての国旗・国歌法 第3章 国旗・国歌の強制を排除するために 1 儀式における「強制」排除の闘い a 暴力と抵抗のせめぎ合い b 〈国旗国歌法体制〉 c 北九州ココロ裁判 d 不実施校長の法令違反処分 e 悲観と楽観の狭間で 2 思考素材を提供する授業を求めて a 〈思想・良心の自由〉を引き受ける覚悟 b 授業のなかにおける〈良心の自由〉 c 授業における国旗・国歌の取り扱いによる処分 d 自分で考えるための教育に向けて 第4章 教育基本法「改正」論を考える 1 どこに問題があるのか a 教育基本法がある理由と変える理由 b 見直しの必要を唱える中教審 c 〈能力主義〉で変わるもの d 争点としての〈愛国主義教育体制〉 e 改革路線の矛盾からみえてくるもの 2 恐怖のシナリオ「日本人としての自覚」 a 気づかれなかった問題 b 「愛国心」の直接的な強制 c 強制される「日本人としての自覚」 d 作動メカニズムとしての〈能力主義〉 第5章 いま〈公教育〉を問い直す 1 ナショナリズム教育の罠 a 〈公教育〉=民主主義の課題か人権の課題か? b 〈公教育〉の「公民養成機能」 c 日本の戦後教育論における〈民主的統合機能〉 d 同一化する対象は何? e 個人の精神の自律 2 公立学校の役割を問い直す a 「能力」の相対性と〈公教育〉の機能 b 〈内発的な発達する力〉の理論とその限界 c 「21世紀を切り拓くたくましい日本人」たる能力? d 教育の機会均等と〈公教育〉の存在理由 3 21世紀の子どもたちのために a 必要なコミュニケーション b 新しい学校のあり方を目指して --以上,本文260頁。
--つぎに,本書より若干の引用をしておく。 ●「マインド・コントロール」 これまで日本の学校が,組織的に〈マインド・コントロール〉をおこなう場にならなかったのは,憲法で保障された〈思想・良心の自由〉という基本的人権があり,教育基本法という法律があったからである。 でもいま,この法律をかえてしまおうとしている人たちがいる。そして,〈思想・良心の自由〉を掘りくずしていく動きは,すでにみえないところで,どんどんすすんできている(はじめに 心どろぼうⅱ頁)。 ●「信仰行為としての君が代斉唱」 君が代を歌うことは,信仰告白行為としての意味をもつ。そうした信仰告白行為が自分のよって立つ思想・信条と相容れない者にとって,国歌斉唱の強制は,内心における思想・良心を直接に侵害し,人格的自律の基盤を破壊する。 したがって,そうした行為が強制されてはならない。具体的には,子ども・親は国歌斉唱を拒否する権利をもち,この拒否権を行使したことでなんらかの不利益を被ることがあってはならない(本文,34頁)。 ●「パンドラの箱は開けられた」 国旗・国歌法は,国会の多数決で,天皇制イデオロギーをかかげて国民に忠誠を要求する働きかけにお墨付きを与えた。長く封印されていたこの法制化の箱を開けたことで,個人を押しつぶすさまざまな災厄や,そこに起因する苦悩,悲歎が世に放たれた。 しかし,強制を拒否するたくましさに裏づけられた〈良心の自由〉論と,上からの服従要求を退けたところに存立する真の〈公共性〉の芽が,希望として残っている(56頁)。 ●「強制のなかの教師」 みずからの信条として天皇の治世の永遠を祈る歌を承服できない者,そして,多数に同調するように強い圧力がかかっている現状で子どもにそうした祈りの歌を押しつけることが許されないと考える者に,「指導力不足」「不適格者」の烙印が押される。 学校教育が,権力者の「正しい」と決めたことをうけ容れさせる過程になりつつあり,そのなかで,みずから考え,判断して,自分にとっての「正しい」ことをつかみとる能力を子どもに身につけさせようとする者が,排除される(65頁)。 ●「職務命令-抗命義務」 子どもを斉唱に参加させるしくみの一環として,その舞台をつくるために教師に向けられた職務命令がいちおう適法だという推定をうけるにしても,内容上,人権侵害におよぶ行為を対象とするばあいには,服従義務はない。逆に人権侵害の結果が発生すれば,受命公務員たる1人ひとりの教師が責任を問われることになる(74頁)。 ●「国民の教育権」 公教育に対する拒否権については,日本社会ではほとんど論じられていない。あたかも,子どもや親の〈思想・良心の自由〉など法的に無意味であり,子どもは誰かが「真理」と認定したものを無批判にとりくむべき存在であるかのようなあつかわれかたをしてきた。 しかし,憲法上保障された〈思想・良心の自由〉に意味があるとしたら,思想・良心の形成過程においても,自分の望まない影響力行使を退けることが,憲法19条にもとづいて可能なはずである(87頁)。 ●「自治をささえる市民と〈愛国心〉」 あるべき〈愛国心〉や望ましい共同体意識などのありかたについて,国家が上からモデルを設定し,それを学校をつうじて国民に押しつけていくようなやりかたは,〈公共〉の課題を自分たちでになっていこうとする自律的な働きを妨害することになる。 〈公共性〉意識を支援しようとするならば,上からの押しつけではなく,まさに下からの自治の動きが育っているところで適切な援助を与えることが,もっとも目的に適っている。 押しつけられたモデルとちがうものを否定してしまうならば,せっかく育った〈公共性〉意識の芽を摘むことになる(129頁)。
■-1 「私は思う。君が代や日の丸のもつ天皇制賛美や国家主義の側面が強調されがちだが,問題の本質は,教育現場という公的な場での強制にあるのではないか」(『朝日新聞』2004年3月22日朝刊「声」欄より)。 ■-2 「国家の斉唱はなく,歌ったのは校歌のみであった。卒業式で一番大切なのは,『送る気持』ではないのか」(同上)。 ■-3 「自然な気持で国歌を歌い,国旗を仰ぎみるならそれでよい。気嫌いする人は嫌いでもよい。外国の国旗国歌も,そこの国の人たちが自然にその気分になっているのは,尊重するべきである」。 「過去において,偏狭で強制的な「愛国心」がアジアの人たち,そして日本人自身にも多大な迷惑と損害を与えたことを反省し,同時に誇りをもってそれを償う気持で日の丸をみあげ,君が代を歌うことはできないものだろうか」。 「押しつけ派,反対派,どちらにもついていけない」(『朝日新聞』2004年3月26日朝刊「声」欄より)。
● 2004年春,卒業式‐入学式
2004年5月下旬の新聞報道を,紹介する。
しかしながら,とりわけ石原慎太郎のように単純で幼稚な,保守‐反動精神の持ち主が東京都の知事を務めている自治体の教育委員会は,「指導」を「強制」に直結できるという強引な方針をしめし,教諭たちに「処分」の脅しも用意しながら,卒業式・入学式の場で生徒たちに国歌をしっかり歌わせ,国旗への敬意を表出させるよう懸命に圧力をかけてきた。 文部科学省関係者のいいぶんもふるっている。同省の中堅幹部は「都教委からくわしく聞いていないが,単に起立しなかった生徒がいたからということではなく,そこにいたる教員の指導に疑問や不十分な点があったのではないか」と推測する,というのである(『朝日新聞』2004年5月26日朝刊)。 思想・信条・良心の自由などいっさい認めることのない文部科学省や東京都教育委員会のやりかたは当然,教員がわの反撥を招いている。2004年5月27日の新聞報道は,つぎのような記事を載せていた。
したがってある意味では,戦前‐戦中体制の時代のほうがその意図に関していえば,より明確なものを確保できていた。 つまり,帝国「日本」における〈特定の目的:八紘一宇〉がまず前提されていたわけであり,つぎにこの国を『天皇の〈神の国〉』と崇敬し賛美できる絶対的な精神を,臣民たちがもっていなければならなかった。 しかし現在では,いったいなんのために「君が代を歌い,日の丸を掲揚しなければならない」のか,依然たいしてなにも明らかになっていない。明らかなのは,支配者である自分たちの「指示‐命令に黙ってしたがう生徒」,そして「教員」を,為政者たちが熱心に求めていることである。 なんのためなのか? どうしてなのか? ひとつだけ明確に指摘できるのは,この国を支配している者たちに〈都合のいい人間造り〉がもくろまれている,ということである。いまでは,天皇の存在や天皇制の価値を,そのために直接引きだし,利用することのできない時代になっている。 だいぶ以前,1965年のことだったが,中央教育審議会という組織が『期待される人間像』という報告書(中間草案)を用意した。本草案は,中央教育審議会が高度経済成長期における「 国民の行きすぎる私的利益追求」という認識にもとづき,日本国民に対して「国家への忠誠を要求した」ものであった。 その草案に対してたとえば,当時東京大学経済学部教授だった大塚久雄は,「政府のがわからこのようなかたちで理想の人間像をしめすということは,倫理の本質に照らして,妥当であるとは思われない。『期待される人間像』はむしろ,日本人1人びとりの日々の 生活をとおして,そのなかから生れでてくるようなものでなければならない」と批判した。 http://www.lib.fukushima-u.ac.jp/ootsuka-koen/se-koen3.htm
今回報道されたような,国旗掲揚‐国歌斉唱に対して東京都教育委員会が強制的な指導をする姿勢には,前段で大塚久雄が批判した問題点がよく当てはまる。 文部科学省や東京都教育委員会が国歌‐国旗に対する教育政策的な指導のやりかたに関していえば,「日本人1人びとりの日々の 生活をとおして,そのなかから生れでてくるようなもの」を,皆目感じとれない。そのように思うのは,筆者だけではないだろう。 問題は,戦前‐戦中の体制下,あるいは『期待される人間像』1965年の公表のときよりも,為政者‐支配者がわの意図が表面に出ないまま,権力者がわの強権がいたずらに行使される形態で,いいかえれば,問答無用のやりかたをもって「教育現場での国旗掲揚‐国歌斉唱」が強制されていることである。 ある意味で以上の現象は,支配体制がわの「自信のなさ・確固たる価値観の不在」を示唆するものともいえる。 だからこそ,実は,強制させるという手段しか,彼らは使えないのである。むろんその先には,強制させなくとも,自分たちのいいなりになるような「期待される人間像」が描かれていることにかわりはない,といえる。 とはいっても,そう簡単にはそこまで一気に到達できない。そこに彼らの焦りもあり,彼らをして強制力による国歌の斉唱‐国旗掲揚への敬意表明を実現させようとする背景となっている,と分析できる。
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