-小笠原英司『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』に関する批判的分析:「新しさのなかの旧さ」, 裴
富 吉
by BAE Boo-Gil
Ⅰ は じ め に-経営哲学理論の試み- ① 小笠原英司『経営哲学研究序説』の意図 ② 筆者の問題意識 ③ 明治大学〈経営経済学〉の伝統 ④ 山本安次郎経営学説への傾倒 ⑤ 経営哲学理論の体系 ⑥ 歴史を無視した構想 Ⅱ 山本経営学説なる迷宮 ① 山本経営学の衣鉢 ② 本格的経営学への道 ③ 経営生活論 ④ 文献史的検討 ⑤ ゴットル経済科学論の戦時〔戦争〕的性格 Ⅲ 戦争と学問の立場 ① 経営存在論の哲学的含意 ② 経営生活論の理論的意図 ③ 経営存在論の戦時的性格 ④ 「本然の経営」論 ⑤ 戦争に奉仕した事業経営「論」:「公社」論 Ⅳ 学問の姿勢 ① ゴットルと山本学説の共通的性格:戦時性 ② ゴットル理論の過度抽象性 ③ 吉田和夫『ゴットル-生活としての経済-』2004年12月 Ⅴ 戦争と学問の歴史 ① 池内学説の戦時的性格 ② 池内学説の「国防経済理論」 ③ 「マルクスの立場」の変貌 ④ 国家社会主義と経営経済学 ⑤ 作田荘一の国家主義 Ⅵ 戦時体制と経営学者 ① 過去の戦時体制と経営学者 ② 過去‐現在の体制と経営学者 1) 満州国経済政策の一斑 2) 満州国建国大学と山本安次郎 3) 戦中と戦後 4) 論稿「満洲に於ける特殊会社の再組織問題」 5) 学会発表「公社問題と経営学」 6) 論争の紹介 ③ 現在の有事体制と経営学者 1) 公害問題と研究者の姿勢 2) 有事体制と経営学者 Ⅶ 結 論 ① 経営哲学と経営生活 ② 国家科学と経済科学と経営哲学
Ⅰ は じ め に-経営哲学理論の試み-
① 小笠原英司『経営哲学研究序説』の意図 2004年11月初旬,明治大学経営学部の小笠原英司が『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』(文眞堂)を公刊した。本書は,最近すっかりその影を薄くした「経営学の本質論や方法論」の展開を,経営哲学理論をもって追究しようとした著作である。 『経営哲学研究序説』はまた,小笠原が単著として初めてまとめた専門的研究書である。小笠原は,日本の経営学者の立場に立ちながら本書の主張を介して,「経営学的経営哲学」を構想したのである。 同書のカバーにさらに巻かれている〈帯〉には,こういう宣伝文句が謳われていた。
むろん,同書中にも詳述される内容だが,このように「経営学を生活学として再構成する」という小笠原の理論志向が,どのような問題意識に立脚して議論されているのか,とくに関心を向けるべき論点となる。 小笠原は,経営学を,「経営科学:社会科学としての経営学」と「経営哲学:社会哲学としての経営学」という二重構造からなる学と規定したうえで,「経営学の基盤構造としての経営哲学の体系化」を図ろうとする。 彼はまた,経営学を理論的に構想するに当たり,「社会科学」だけでなく「人間・社会哲学」の志向性も基底に据えて考えるならば,「哲学は本質究明の,科学は現象説明の学として,両々相俟って真理探究に迫る人知の学法に他なら」ない,と規定する1)。
② 筆者の問題意識 筆者は,この小笠原『経営哲学研究序説』を,過去においてこの国の経営学史が犯してきた「戦争の時代の危険な道」にあともどりした著作ではないか,と危惧する。筆者が本稿を執筆する契機は,同書に対するそうした「危うい印象」を論理的に明確に表現し,その問題点を摘出・分析・批判するところにある。 昨今における日本の政治経済‐社会文化は,時代の展望において非常に陰鬱であり,このさき希望をもちにくい状況におかれている。しかも,日本国は「普通の国」になりたいとばかり「有事法制」を,2003年6月に成立させている。有事とは戦争事態を意味するが,この国は憲法第9条との矛盾を棚に上げたまま,いまやアメリカ帝国と蔑称される超大国に下属・服従する軍事体制を法的に整備した。 その意味で有事法制は,日本国を防衛するための立法ではなく,アメリカ合衆国の世界的規模における政治‐経済的な支配権を補完する中身をもっている。この国で有事法制が施行されるまでの軍事関係方面に関する専門的な議論は,ここではできない。問題の焦点は,有事法制が現実に発動されるようなとき,「社会科学としての経営学」におよぼす不可避の影響を,いまから考慮しておかねばならないことにあった。 有事法制の立法においてその裏方で推進力となっていたのは,自民党を中心とする防衛族議員やアメリカ合衆国関係筋だけではない。日本の財界も,世界中に進出している自国系企業が,海外において有事〔戦争や内紛〕の事態やテロの標的になったばあいを想定し,これへの対処を日本の自衛隊3軍に期する意向を明確に有している。 明治以来の日本,とりわけ戦時体制期と称される1937〔昭和12〕年7月から1945〔昭和20〕年8月まで,この国の「経営学の理論的な展開」と「実際界への関与」を回顧すれば,社会科学としての経営学のありかたに関して,よほど慎重に考察をおこなう余地がある。すでに故人になった人物が多いとはいえ,戦前‐戦中を生きてきた日本の経営学者にとって,そうした学史的な事実・事情は,身につまされるものだったはずである。 ところが21世紀のいま,ナチス・ドイツ全体主義「第三帝国への翼賛学説」だった「ゴットル経済科学論」に,あらためて魅惑されたかのような容貌をもった経営学「哲学論」が,再び,日本の経営学の次世代学者によって登壇した。筆者はこの学界現象を目の当たりにして,率直にいって驚愕した。 しかしながら,本書『経営哲学研究序説』の著者は,以上のような指摘をされても,恐らく,いったいなにをいわれているのか見当すらつかないものと予想する。実は,当該の問題はそれほどまで深刻なのである。
③ 明治大学〈経営経済学〉の伝統 結論をいえば筆者は,「社会科学としての経営学」を「本質究明の学」たりえないものだとする,小笠原の考えかたに反対である。つまり,「社会哲学としての経営学」との「相互における前提‐結果と依存‐補完の関係を予定」するといいながらも,「社会科学としての経営学」を「現象を究明するための学」である,とだけ定義づける立場に対しては,異議がある。 日本における著名なマルクス主義経営学者佐々木吉郎は,明治大学の商学部‐経営学部において形成されてきた「経営経済学の伝統」の開祖であるが,佐々木『経営経済学総論』(昭和13年初版)は,「資本主義社会に於ける経営経済(現象)の本質を究明することは,資本主義経営経済学の課題である」と定義していた2)。 すなわち佐々木は,「科学としての経営経済学」が現象の「本質を究明する」学である点を定義していたわけである。 小笠原は明治大学経営学部の出身であり,これまで主にそこで教鞭をとってきた経営学者である〔1947年生まれ〕。同学部には,佐々木吉郎が戦前に創生した「マルクス主義経営学の路線」を継承する教員が多く在籍しており,いまもなおその伝統を引きついできている。この事実は,明大「経営経済学の伝統」をもって蓄積されてきた〈学問路線:イデオロギーの思想的特質〉を鮮明に彩るものともいえる。 小笠原は大学学部‐大学院時代に,藤芳誠一を指導教授に選んできた。藤芳誠一は,代表作『近代経営と経営者《新訂版》』(経林書房,昭和38年)および『経営管理論』(泉文堂,昭和43年)などで判断するかぎり,佐々木吉郎「マルクス経営経済学」の学問路線を継承していない。ちなみに,藤芳誠一の指導教授は佐々木吉郎であった。そのせいもあってか,佐々木吉郎→藤芳誠一→「小笠原英司」の系譜に「マルクス主義の残影」は,まったくみられない。
④ 山本安次郎経営学説への傾倒 小笠原の経営学研究遍歴において「雄偉な先学」に位置したのは,山本安次郎,三戸 公,村田晴夫,飯野春樹,加藤勝康などであるという。わけても,山本安次郎に対して小笠原は,今回刊行した著作をその「墓前に捧げたい」といって,学恩上深い敬意を払っている3)。 小笠原自身は,「科学哲学」と「社会哲学」を適確に識別できているらしいが,けっしてそうとはいえない。彼は,「社会哲学」優勢の視点に立ち「科学哲学」まで論じようとする節があり,そのために,前面に出されて盛んに強調される「社会哲学」が,「科学哲学」を圧倒し,軽んじるような相互関係をきたしている。 いずれにせよ,「経営学が経営哲学と経営科学の二重構造からなること,そして特に前者が未発達の状態にあることを早くから指摘したのは,わが国経営学本質論の泰斗山本安次郎であった」4)と,山本学説を最大限もちあげるのが小笠原の立場である。 ただし小笠原は,「他の社会諸学における法哲学,経済哲学,政治哲学,教育哲学などの展開に比し,著しく出遅れの感がある」のが,「経営と社会の健全な発展に寄与する学術的責務」を有した「経営哲学研究」である,とも述べる5)。 筆者は思う。そうであるならば小笠原が,その「法哲学,経済哲学,政治哲学,教育哲学などの展開」を,『経営哲学研究序説』において具体的に,どのように認識しているのかしりたかった。しかし,これは無理な要求である。彼は,そうした学問領域〔法学・経済学・政治学・教育学など〕における哲学「論」を,実質なにも検討していない。ただ一言,上述のように断わるのみであり,それら学域の「哲学」論をいかに学習したり咀嚼したりしてきたのか,これに関する議論は少しも関説されていない。 結局,「経営をいかなるものと哲学するかの前に,経営の何をいかに哲学するかという問題が立ちはだかっている」6)というのであるが,「哲学のなにをいかに学問してきたのか」という前提じたいが不詳なのである。
⑤ 経営哲学理論の体系 小笠原は,経営哲学論をこう定義する。 『経営哲学研究序説』は,経営学方法論の問題領域である「経営学の哲学」をあつかう a)「経営学理」と,そして,経営存在論と経営実践論の「経営の哲学」をそれぞれあつかう,b)「経営存在」と c)「経営実践」との3部から構成される。そのさい,「経営の哲学」の内容は,山本安次郎の所説に依拠して,企業論‐経営論‐事業論から構成される7)。 小笠原はさらに,「組織と管理の本質論・存在論」を「経営生活論」として展開する。これは,C・I・バーナード理論に依拠する。 結局,「企業目的=資本増殖」と「経営目的=経営体存続」という2大目的論の通念・通説を批判し,これまで企業と経営の手段として位置づけられてきた事業を,「事業目的=社会貢献という形で利潤目的と存続目的の上位に逆転させることの意味を論じている」8)。 以上の論旨にしたがい小笠原は,「事業戦略を物的富裕の視角から計画する企業経営と組織経営の論理に代えて,事業使命を人間生活の全体化と『社会的厚生』の倫理のなかで再構成する事業経営の本然の論理を展開する」。くわえて,「現代経営とりわけ日本経営の原理的課題を明らかにしている」9)。
⑥ 歴史を無視した構想 小笠原の「経営哲学理論」は,筆者の目から観察するとき,みのがせない重大問題を包蔵させるものである。「②筆者の問題意識」でごく簡単に示唆したつもりだが,経営学論を経営哲学論と経営生活論から構成しようとする試みは,過去においてまちがいなく一度,蹉跌を体験したものであった。 にもかかわらず,小笠原においては恐らく,その経営学哲学史における歴史的事実をしらないまま再び,あの悪夢の世界をよびもどすかのような学問的営為に励んでいる。もちろん,小笠原自身は,筆者のこのような指摘を,初耳どころか驚天動地の発言とうけとめるかもしれない。
Ⅱ 山本経営学説なる迷宮
① 山本経営学の衣鉢 小笠原は,『経営哲学研究序説』の随所で山本経営学を繰りかえして称賛し,理論的に追随する旨も告白している。同書の本文から関連する個所を,以下に列挙する。 a)「本書における経営哲学体系は,山本安次郎の経営哲学論を継承し」,「私見によれば,山本説における実践論は存在論の中に統一されている」。「本研究は不遜にも山本の衣鉢を継ぐ大望を抱いているが,到底その足元にも及ばぬことを自覚している」。 b)「『経営存在』という言葉を用いているのは内外を通じて山本のみであり,したがってこれは山本経営学の基礎概念であるが,われわれをこれを経営学の共有財産にすべきことを主張する」。 c)「山本が強調するように,経営(体)は『存在する』。たしかに『会社』は形式上法的制度のなかで作られ,同じく解散(清算)される。そのかぎりで会社は観念上の人為的構成体にすぎない。しかし他面では,会社は現に実在し,活動し,結果を出し,変化し,関係者と周囲に多大な影響を及ぼしている。つまり会社の誕生と消滅の瞬間をはさむプロセスにおいて会社は『生きている』のであって,会社は『存在している』と言わざるをえない」。 d)「事業が本来的に社会的性格のものであること,事業が経営存在のレーゾン・デートルであることを,その研究の最初から一貫して主張してきたのは山本安次郎であり,本書の事業論はその基本を山本から受け継ぐものである」。 e)「『経営』(Betrieb)についてはドイツ経営学史上の古典的概念論争があるが,ここではそれを措き,山本経営学説を援用する」10)。
② 本格的経営学への道 a)「山本は徹底的に『方法』の問題として『本格的経営学』への道を問い続け,バーナードとともにその道を開拓すべきことを主張した」。「山本も……,理論知や分析論理の一定の意義を肯定した上で,それを超える知識や論理が要求される実践的現実を理論化する道を『本格的経営学』に求めている」。 b)「山本の主張する経営学構想の基本的枠組みに合致する」「バーナード理論がいわゆるアメリカ経営学流の実用・実務論とは別格の実践的理論であ」って,「その管理過程論(『経営者の役割』第16・17章)が,山本の言う『行為的直観』,バーナードの『行動知』ないし……『直観』が経営実践において果たす中心的役割を強調しつつ展開されている」。 c)「経営という行為はまず何よりも経営課題に対する実践的行為(practical activities)であり,繰り返して山本経営学の体系にそって言えば,企業経営と事業経営の実践的統一である。経営がかかる意味での実践的行為であることこそ,経営体が単なる組織体にとどまらず,主体的に自己形成する実践主体たることの能動的契機となるのである」。 d)「山本の経営観からすれば,経営学はそれを捉えうる学理的論理を『主体性の論理』として確立する必要がある」11)。
③ 経営生活論 「山本安次郎は『経営の原型は人間生活そのものにあり,(中略)経営における人間生活の根源性が忘れられてはならない』と述べているが,これはわれわれの経営観の根幹でもある。すなわち,上述のように,人間生活が『協働生活』として展開されているとすれば,経営および経営体は人間の『協働生活』の場であり,機会であり,様式であるというのが,本書における基本的視座である。 したがって,かかる経営を問題とする経営学は,人間の『生活』の観点に立脚する〈生活学〉にほかならないのであって,人間の『生活』ということを軽視した経営論,あるいはそれを立脚点としない経営論は,いかにその内容が科学的表装に飾られ,いかに実践合理的なものに見えようとも,われわれの立場からすれば反人間的な妄言にすぎない」12)。 以上の引照は,小笠原『経営哲学研究序説』の第Ⅰ部「経営学理」〔第1章~第3章〕,第Ⅱ部「経営存在」〔第4章~第7章〕からであり,第Ⅲ部「経営実践」〔第8章~第13章〕は除く。 さて,さきの項目「①山本経営学の衣鉢」で小笠原は,山本経営学の基礎概念:「経営存在」という用語を用いたのは,内外を通じて山本のみであると論断していた。だが,この指摘は,日本経営学史における理論展開にかぎってみても,正確なものではない。 ◎-1 たとえば池内信行は,戦時体制期における著作『経営経済学序説』(森山書店,昭和15年)において,「主客の矛盾における統一をよりどころとして,存在を求めると同時に理想を追ふことでなければならぬ。存在の客観的認識は存在論的認識に止揚されるのでなければならぬ」,と主張した。 戦争中に池内が提示した,いわゆる「現在的綜合の理論」(主体的把捉の方法=発展の論理)とは,戦時体制のまっただなかで,「経営経済学を正しく生かすために」,「生の発展に即して既成の成果が現代のそれのうちに止揚せられ,ふるき成果をとりいれつつ而もそれが現在の立場から再構成せられるところに,この学問の真の発展がうかがわれる」,と主張されていたものである13)。 池内は,戦後作『経営経済学史』(理想社,昭和24年)でさらに,「その存在論的究明」を強調していた。
池内は,戦後作『経営経済学総論』(森山書店,昭和28年)でも,「存在を存在としてかたらしめる存在論の立場からわれわれは,経営の問題に接近するのでなければならぬ」と,再説した15)。 池内の上掲3著〔1940年→1949年→1953年〕における経営経済学の「存在論的究明」に注目すれば,小笠原が「経営存在」という用語を使用するのは山本のみという判断は,日本の経営学者に関する話として正確でないことが理解できる。 山本も,池内の著作・業績については,注記などで多く言及していた。 a) 池内信行への批判 「私の経営学観には古く池内博士の批判がある」。「池内博士の経営経済学説には承服しえないのを遺憾とする」。 「経営学が経済学あるいは社会学の1部門にすぎず,その自律性が認められないならば,いまさら経営学の本質論や方法論は問題となるはずがない」16)。 b) 池内信行との対立・馬場敬治との関連 「池内氏とは哲学的立場を異にし,経済の理論を異にするところから,経営学の基本理論については対立することとなった」。 「池内博士は主体の論理に立ちつつ経営学は経済学でなければならないとされる。これに対して馬場博士は経営の現実の総関連を考えながら経営学は組織学の一たる『経営組織の組織理論』に外ならずとされる」。 山本自身は,「池内博士の経営経済学説と馬場敬治博士の組織学説との批判的研究を試み,……経済学と組織学との対立を通しての経営学への道を説いた」。 「経営は事業経営と企業経営との統一であって,経済や管理や組織と関連しない経営は存在しない。……主体的行為的な経営存在として統一的全体的に研究するのが対象の性質にふさわしい『本格的な経営学』の道である」。「それは馬場学説の直系と考えてもよいかも知れない」17)。 c) 存在論的立場 「池内信行『経営経済学序説』〔昭和15年〕,『経営経済学の基本問題』〔昭和17年〕,『経営経済学史』〔昭和24年〕,北川宗蔵『経営学批判』〔昭和21年〕など……〔の志向〕は存在論的立場からの問題といえる」。 「池内……博士は或る場合は存在論的であり,或る場合は認識論的,観念論的であった」18)。 d) 唯物論批判 「従来のすべての唯物論の重要な欠陥は,対象,現実,感性が,ただ客体または直観の形式のもとに捉えられて,感性的・人間的活動,実践として捉えられず,主体的に捉えられていないということである。……マルクス・エンゲルス,ドイチェ・イデオロギー(岩波文庫)……池内信行,経営経済学史,がこの問題における唯一の経営学的文献としてあげられねばならない」19)。 小笠原『経営哲学研究序説』は,日本の経営学史に登場する山本安次郎に「深く関連する論者:池内信行」について,とくべつ関心をもたないかのようにみえる。 前段に論及のうち,山本が,イ) 池内信行と北川宗蔵を同じ存在論的立場からの志向と位置づけたり,ロ) 池内信行が「存在論的,認識論的,観念論的でもあった」と論定したりするさい,イ) に関しては,完全なマルキストであった北川とともに池内を並べるのは誤導的であること,ロ) に関しては,山本自身も,「存在論的」と称しながらも,その実は「認識論的・観念論的でもあった」ことを指摘おきたい20)。 ◎-2 くわえて,「藻利経営学」の名称でつとに高名な藻利重隆は,『経営学の基礎』(森山書店,昭和31年)をもって,こう主張していた。
藻利重隆はまた,資本主義企業経営に関する利潤目的論を,「営利原則の長期化」の発展にともない「総資本附加価値率の極大化」に変質したと理解する議論を展開した22)。 それに対して,山本安次郎がまとめた経営学教科書である『経営学要論』(昭和39年初版)は,「現代の経営学は経営利潤の増加,いわゆる総資本附加価値率の成長を目的とする事業経営を基礎にして初めて本格的なものとなると考える。……この経営利潤従って経営成果において初めて『経営性』が具体的に考えられ,『経営の論理』が生かされると思う」,と結論していた23)。 「藻利経営学」の基調は,「存在論的な企業生活論」の展開であった。山本安次郎は,藻利の経営目的論に対しても親近性を有していた。したがって,小笠原「経営存在」論が藻利経営学に親近感をもったとしても,なにも不思議なことはない。 小笠原の主唱:基盤である「経営生活論」はすでに,池内信行「経営経済学の存在論的究明」や藻利重隆「経営学の存在論的価値判断」の志向性をその先達にもち,同工異曲の学問形態として展示されていた。いずれの立場においても,ゴットル経済科学「論」の影響が絶大であった。 筆者が本稿を執筆中に,吉田和夫『ゴットル-生活としての経済-』(同文舘,平成16年12月)が公刊された。吉田も,ゴットルの強い影響をうけた経営学者として,宮田喜代蔵や藻利重隆,そして池内信行を挙げている。 池内信行の弟子であった吉田はさらに,「池内先生の戦後の代表作(『経営経済学総論』森山書店,昭和28年)を支える経済本質観は依然,ゴットルであったし,昭和30年代の関西学院には,池内先生のほかに,宮田喜代蔵先生,小宮孝先生,金子弘先生というゴットル研究者がおられ,いわば『関西学院ゴットル学派』ともいうべきものが形成されていた」と回顧している24)。 ところが,「経営生活論」を高唱する小笠原は,池内や藻利の経営学論を事前に参照していない。これが不可解な事象というのでなければ,単純にいって,日本経営学史の事情に暗い論者による経営学本質論・方法論の思想的な展開というほかない。山本安次郎の理論構想1本にすがりさえすれば,自説の強固な理論構築が可能になるというのは,安直というか安易に過ぎるのである。 先述に引用のとおり,小笠原の主唱を構成する「経営生活論」は,「経営における人間生活の根源性」を強調し,「経営を問題とする経営学は,人間の『生活』の観点に立脚する〈生活学〉にほかならない」と断言した。それだけでなく,「それを立脚点としない経営論は,いかにその内容が科学的表装に飾られ,いかに実践合理的なものに見えようとも,われわれの立場からすれば反人間的な妄言にすぎない」と,たいそう自信に満ちた立論をなしていた。 しかし,筆者は,小笠原『経営哲学研究序説』のそうした確言を裏づけるだけの,理論的に地道な本質論・方法論の研究があったかどうか,基本的な疑問を抱かざるをえない。
④ 文献史的検討 池内信行や藻利重隆のように,経営〔経済〕学おいて「存在論的究明」や「存在論的価値判断」を採用・志向した経営学者は,戦前(戦中)から活躍しはじめていた。ここでは,ゴットリアーネル〔ゴットル信奉‐追随学者〕の氏名とその著作として,さらに以下のように列記しておく。
小笠原は,戦時中に訳出されたゴットルの著作に言及するが〔その翻訳書2作は,中野研二訳『経済の本質および根本概念』白揚社,昭和17年5月。金子 弘訳『民族・国家・経済・法律〔増補訂正版〕』白揚社,昭和17年7月(初版昭和14年8月)。前書は別に,岩波書店の翻訳書,福井孝治校閲,西川清治・藤原光治郎訳『経済の本質と根本概念』昭和17年12月もある〕,そのほかのゴットルの著作〔訳本〕や関連文献には触れずに,ただつぎのように断わっていた。
山本安次郎の経営学基礎論を哲学理論としてささえているのは,西田哲学〔西田幾多郎の哲学論〕であった。小笠原がよく観察していない西田哲学と山本学説との関連は,ひとまず脇においての話になる。 戦前より,ゴットル流「経済科学」論を展開してきた有名な日本の経営学者たちが,何人もいる。彼らは,「経営存在論」ないしは「経営生活」論に論及していた。小笠原『経営哲学研究序説』についていうならば,まだ〈未見〉の内外学者による関連業績が残されている。 小笠原に問いたい。筆者の所蔵する福井孝治『生としての経済』(理想社,初版は甲文堂書店,昭和11年5月)は,昭和19年8月「10刷」である。この時期まで専門書を公刊できる社会科学者の〈存在の立場〉を,どのようにみつめるべきか? また小笠原のいうように,「独自の経済学説を展開したフォン・ゴットルオットリリエンフェルト」の「『生活』という視点から経済や経営を捉える試み」がこれまで,日本の関係学する諸「学界では周知のこと」だったとはいえない。なぜなら,小笠原のその発言は,戦時体制期における斯学界の実情を知悉したものではなく,また,戦後60年の経過のなかでその「試み」がどうあったか,その実態の把握にもとづくものでもないからである。 とりわけ,ニックリッシュやゴットルに関していうなら,小笠原自身が学問的に到達した「水準‐範囲」内で,このドイツ学者2名の基礎概念を〈学界の普遍的認識:通説〉に処遇するには,あまりにも論究が不足している。すでに何人もの日本の経営学者が,ニックリッシュやゴットルの経済科学論に対して詳細な批判を与え,反論する論著を公表している。筆者が小笠原の著述に接したかぎりでは,その方面の理論業績を渉猟,精査した形跡はみつからない。 小笠原が言及していないゴットルの著作の日本語訳書として,つぎの2冊が残されている。
小笠原は前述のとおり,『経営哲学研究序説』の巻末「参考文献」において,ゴットル著日本語訳の2著,および酒枝義旗の戦後作1冊しか枚挙していなかった。 思うに,自説の「議論にかみ合うものが多々ある」ゴットルの文献を十分に渉猟しないで,いったい十全な研究を展開できるのか? この点は,学究であるならば当然抱かざるをえない疑念である。もっとも,ゴットルの諸著作における記述内容は大同小異であるから,目くじらを立てて〈未見〉の点を指摘することはない,ともいえる。 留意したいのは,ゴットルの日本語訳の多くが,「増補訂正版」もふくめて,大東亜〔太平洋〕戦争開始の翌年,昭和17〔1942〕年に集中していることである。この時期的な符合に,なにかとくべつな意味あいはないのか? ゴットルの関連文献:日本語訳の発行時期を調べただけでも,当然気づいてもいい事実ではないのか? さらに,小笠原『経営哲学研究序説』巻末の「参考文献」には,酒枝義旗が日本語訳を手がけて公刊したオットウ・シュタイン『ゴットル経済学入門』(白揚社,昭和16年5月)は枚挙されているけれども,戦時体制期に酒枝自身が執筆・公刊した著作が1冊も掲出されていない。その代わりに,戦後もだいぶ経過した1977年版の酒枝義旗『生活の学としての経済学』(前野書店)がかかげられていただけである。 酒枝義旗『生活の学としての経済学』の旧版は戦後間もないころ,『経済の原理-生の学としての経済学-』(明善社, 昭和23年11月)として公表されており,この著作はさらに,「生の学」ということばを副題に下げてはいたものの,戦時体制期の酒枝流「構成体論的経済学」の〈実質的な重刷版〉とみなせるものであった。 結局,持論の理論展開にとって枢要な概念である「経営存在」という用語について,以上のような「理論の成果=学史的な事実」に触れないまま,小笠原のように発言するのは,迂闊というよりも,「先行研究の調査不十分」あるいは「関連業績の検討不足」というほかない。当該の研究にとって肝心・不可欠な諸文献が,十全・的確に参照されていない。 なお,前掲の吉田和夫『ゴットル-生活としての経済-』には,日本の学者によるゴットル関連の文献が網羅されている26)。
⑤ ゴットル経済科学論の戦時〔戦争〕的性格 ゴットルの諸著作をひもとけば即座に判明することだが,ゴットルの経済科学論はナチス・ドイツの戦時統制経済体制に理論的に密着し,それに実践的に奉仕すべき内容を披露していた。戦時体制期〔昭和12年7月以降〕の日本経済においてもゴットルの訳書が,それも太平洋〔大東亜〕戦争に入っていち早く,集中的に刊行されていた事実は,どのように観察されればよいのか。当時,戦争と学問の関係は,どのように進行していたのか27)。 そのような問題意識と無縁ないしは欠落させた「経営生活論」は,当該の領域における学問「発達の足跡」を全体的に観察しておらず,学史的な研究の基本的態度として問題含みである。
Ⅲ 戦争と学問の立場
つぎに,小笠原の「経営生活論」にすすみ議論したい。前述のように「藻利経営学」は「企業の生活」という用語を駆使し,「経営二重構造論」を展開していた。
① 経営存在論の哲学的含意 「経営体の歴史的発展に応じた最適原理の探求というよりは,むしろ経営体の経営存在的普遍原理の探究をめざすことの要請」に答えようとするのが,小笠原『経営哲学研究序説』である。いわく「存在論的了解をその方法態度すべきであろう」28)。 「存在論的了解」とはいうまでもなく,哲学論の用語である。哲学部門の専門的な解説に聞いておこう。 まず「存在論的」とは,人間は単に存在するのではなく,その存在を理解するかぎり存在論的,ただし厳密にはそれはまだ前存在論的で,その存在理解が解釈をつうじて明確な自覚にもたらされるとき存在論的になる,と説明される。 つぎに「了解」とは,精神科学の研究対象である歴史的・社会的現実は,人間の生がその歴史的過程において産出してきたものであり,生の体験の表現である。歴史的・社会的現実は,表現をつうじて内的体験を了解するという手続によってのみ把捉される。したがって,いっさいの精神科学的認識は元本的に体験・表現・了解の連関にもとづく,と説明される29)。 哲学における議論あるいは概念説明が「普遍的な説明」を志向するのは,当たりまえのことである。しかし,その哲学的な概念説明に先祖返りしたかのように遡及するだけの「説明の方法」では,社会科学の議論において必要かつ十分な議論ははたせない。 小笠原のばあい,「経営を問題とする経営学」の「基本的視座」は,「人間の『生活』の観点に立脚する〈生活学〉」に定座されていた。それゆえ,「経営体を生活主体として捉え」る「経営存在論は……積極的な経営体実在説……の立場」であり,「経営体はそれを構成している諸利害関係主体をこえて,それ自体が全体として独自の意思,価値システム,性格,能力,行動特性をもち,一個の経営体人格をもって『生きている』と見做しえ」るものとされた30)。 小笠原がこのように,経営体を擬人化しつつ生活体を重視する視点は,「経営体の『存続』という命題を個人の『生存』と同型の構造において捉える」思考に依拠したものである。そこで,「経営体の存続も同じく,経営体の『生活』を通じて実現される」のだから,「実践技術論的には」「それ以前の問題が主題となる。それは『生活とは何か』である」,という主張がなされる31)。 経営学ははたして,生活学に収斂,終着するとでもいいたいのか? 小笠原は次項で論及するように,ニックリッシュの「経済経営」概念にも,またゴットルの「経済生活」にも賛同せず,『経営体の「生活」』という表現に特定の概念を付与したのである。
② 経営生活論の理論的意図 したがって,「経済生活論という桎梏に縛られた限界を指摘せざるをえない」32) 小笠原の立場は,以下のように説明されている。
以上,「経済生活論」を批判する「経営生活論」の説明は,山本安次郎が『経営学の基礎理論』(ミネルヴァ書房,昭和42年)や『経営学研究方法論』(丸善,昭和50年)などで触れている,アレキシス・カレル『人間-この未知なるもの-』(〔原著1935年〕角川書店,昭和27年)も踏まえての言及となっている。 山本安次郎『経営学要論』(ミネルヴァ書房,昭和39年)は,「私は,いま,経営とは何かを考えるとき,カレルに倣って,『経営-この未知なるもの』といいたいのである」と断わっていた34)。この山本の発言〔衣鉢?〕に小笠原も倣い,「カレル(A. Carrel)の『人間-この未知なるもの』という哲学的命題」35)に言及するのであった。 経済学的思考を相対化する「生活論および経営生活論」は,いったいなになのか? 経営学という学問が経済学的思考を相対化しなければならない事由は,いったいどこにあるのか? 酒枝義旗『ゴットルの経済学』(弘文堂書房,昭和17年9月)は,「経営が構成される」という語句を提出し,「経営は決して所謂経済的概念ではない。それはまさに人間共同生活の煉瓦たるものである」と説明した36)。 クリスチャンだった酒枝義旗は,戦時体制期に社会科学をになってきた人間として,正真正銘のゴットリアーネルである立場を巧みに生かし,これを自分の学問を守る防護柵に活用しつつ生きぬいてきた。それゆえ,戦時体制が強力に推進した国家全体主義理念に抵触して自身が苦悶させられる場面を,上手に回避できた。小笠原はそうした酒枝の学問,それも主に戦後作を媒介に,ゴットルに共感する立場になっていた。 酒枝はくわえて,小笠原も用いる用語「本然」にも言及し,こう述べる。 「現代の標語である」「人間共同生活に於ける秩序の再建こそ」は,「現代の精神を其の本然に於て捉へること」である。 「経済は倫理たることによって,本然の経済の在り方とは別の何等かの在り方へ『変容』せねばならぬと云ふ,これこそ従来の構成体盲目的な思惟の当然行きつかざるを得ない結論である」。「経済倫理の問題は経済が変容することではなく,変容してゐた経済が,その本然に自覚的に立ち帰ることでなければならぬ」。 したがって,小笠原が追究する経営哲学論も,「経済生活に於ける永遠なるものの学としての本領を発揮することの出来る」もの,そして,「理論的研究は……如何にして永遠の経済,即ち経済の理念を実現し得るかを明らかにしなければならぬ」と主張するのであった。 酒枝はつづけて,こういった。 「存在論的価値判断は人間共同生活の中にあって,それの存続が如何にすれば,よりよく実現されるかを問ふものであり,その限りに於て内在的価値判断と言はるべきであらう」。「経済の理念の実現は,人間共同生活の存続の立場から批判的に問題とされる」。 「即ち経済的秩序はもともと補完的な秩序である。補完的であると言ふことはそれが本来何ものかに仕へる性格を有つことを示す。然らばそれは何に仕へるのであるか。言ふまでもなく本源的秩序たる協同的秩序と,補足的秩序たる権治的秩序である」。 「斯くて其の時々の経済組織は,人間共同生活の存続強化の観点からして,批判され,或は積極的提示が為されるのである。この二つの段階に於ける存在論的価値判断こそ理論的研究の……構成論の課題に外ならぬ。この構成論に於て理論的研究は事実研究の成果を実践的に取り入れることにより,謂はば理論と歴史と実践とが混然たる一体を為す。かくて経国済民の学としての経済学は初めて其のまさに在るべき形態をととのへ得るのである」37)。 ここで一言したい。「理論と歴史と実践とが混然たる一体を為す」ことはまさに,山本の経営学説も力説していたことである38)。
③ 経営存在論の戦時的性格 筆者〔裴〕はいままで,山本安次郎学説を徹底的に批判する立場においても日本経営学史研究をすすめ,山本との論争も体験してきた。そこで感得できた山本理論の根本性格は,「歴史を真正面より語りながらもその現実に完全に不感症:無頓着」といってもよいくらい,「歴史科学性を欠如させた経営存在論」であった。 経営学哲学論の基礎に西田哲学を据え,これにもとづく独自の構想をしめした山本理論は,「欧米〔それももっぱら米と独の〕経営学の綜合‐止揚によって,日本だけに固有の経営学説が創造できる」と豪語した。たとえば,その点を,山本安次郎『経営学研究方法論』(丸善,昭和50年)はこう記述していた。 a) ドラッカーの「新しい哲学」の要求を「西田哲学」において初めて満足せしめ得ると主張して来た。これを理解できるか否かは結局経営の現実を問題とするかどうか,従って経営や経営学における近代から現代への転換を問題とするかどうかにかかっている。 b) 思うにわが国の経営学は,ドイツ経営学を深く理解するとともにアメリカ経営学についても造詣深く互いに対照的な二つの流れを総合し,アウフヘーベンして,本当の経営学を形成し得る論理的可能性をもつ唯一のものだからである。……世界史的意義を考慮に入れながら,わが国の経営学の成立について考察を進めたい。 c) 統一理論は,学説研究の結果から当然に経営経済学と経営管理学との統一,ドイツ経営学とアメリカ経営学の統一を狙うものとならざるを得ないが,その統一理論の基礎を,単なる組織理論に求めるか,行動科学に求めるか,経営の構造理論に求めるか,マネジメント活動に求めるかによってさまざまに区別されるであろう。われわれは,わが国の経営学理論の世界史的使命について指摘した39)。 d) 統一理論は批判経営学研究においてはじめて問題となる……。しかも,それはドイツ経営学やアメリカ経営学には期待できない。それは,どちらにたいしても批判的でありうるわが国の経営学に課せられた世界史的使命といわねばならない。 現代経営の現実から必然的に規定せられる「経営の論理」「経営の学」の立場に立って,この世界史的使命を考えるとき,批判の方向も歴史的に決まるのである。すなわちドイツ経営学の批判とアメリカ経営学の批判によって,統一理論を形成することがこれである40)。 山本がいわんとするのは,日本の経営学理論に課せられた「本当の」「世界史的使命・意義」は,この地球上で日本だけの「唯一のものだ」ということであった。筆者は,こうした語法・修辞を誇大に過ぎる「豪語〔→妄想?〕」とうけとめてきた。さらに,前段引照の a)「近代から現代へ転換」,b) の「本当の経営学」の「世界史的使命」という提唱については,より重大な問題点もあるが,これは後段において論及する。 ところで,最近〔2000~2001年〕になり筆者以外にも,山本が構想したその「経営学の立場:経営行為的主体存在論」を,「事実上無理であるし,意味もない」と批判し,全面的に否定する日本の経営学者が登場した。現在〔2005年2月〕,経営学史学会の第4期(任期,2002年5月~2005年5月)理事長を務める佐々木恒男(青森公立大学学長)である41)。 もっとも,この佐々木による山本説否認は山本安次郎没後における発言であり,遅きに失した感があった。結局,その時期:2000~2001年における佐々木の発言は,その価値を半減させた。なぜ,山本の生存中にそのような意見を表明しなかったのか。それともその間は,そのような「山本学説」の否定的な批判・評価に到達していなかったのか。あるいは,権威的学者の存在を畏れて敬遠していたのか。なにゆえ,いま:「2000~2001年」になっての発言だったのか。 佐々木はともかく,山本説の解釈をめぐり,その熱烈な信奉者小笠原と全面的に対決するほかない立場を明示した。今後,両者間での学問的な議論が期待されてよいのだが,残念ながら現状ではそうした兆候はみられない。期待薄である。佐々木と小笠原とは,学会活動の面で非常に近しい間柄にある。小笠原英司は現在〔2005年2月〕,経営学史学会総務担当理事である。だからといって,回避するわけにはいかない学問的使命が,両者のあいだに発生したはずである。 つぎに,小笠原が「経営生活論」観点を支持する学問だという,ゴットルの認識:「経済の科学」論の戦時的性格を議論したい。 小笠原は「生活とは,……人間性(主体性)という人間存在の根源的要因を実現するような〈生の活動〉にほかならない。そして,このような人間生活こそ,われわれのいう『経営』の原型なのである」と主張していた。というのは,「経営は生活と同型であり,人間生活の基本原理-人間性と社会性-の実現をもって経営性の本質とみる」からだといっていた42)。 まえもって指摘しておきたいのは,「経営性」という概念が出ていたことである。この「経営性」という概念は山本も使用したものであるが43),すでに宮田喜代蔵『経営原理』(春陽堂,昭和6年)において,「経営の技術的合理性に照応する」44) 概念として用いられていたものである。 福井孝治『生としての経済』(理想社〔甲文堂書店〕,昭和11年)は,つぎのように関説している。
なお,経営成果性(Betriebswucht)ということばは,ゴットルが生活力(Lebenswucht)というものを使用している点を配慮すれば,「経営力」と訳すのが適切である。この経営力は,国民経済の構成体:「経済生活」体である企業経営が発揮すべき「技術的な任務」とされていた。 小笠原は「これまで,法,政治,経済,経営系の実践社会諸科学は『生活』という人間行動のもっとも基本的にして中心的な営為を軽視してきたのではなかったか」と問い,こう答える。
「生活」概念の普遍的性格を強調する小笠原だったが,戦時体制期に日本やドイツの実践社会諸科学を圧倒的に風靡した,国家全体主義的な「経済科学」に対する初歩的な学識を決定的に欠いている。筆者はここで,ゴットル=オットリリエンフェルトの経済生活論を展開する著作『民族・国家・経済・法律』〔原著初版1936年〕という題名に,小笠原の「法,政治,経済,経営系の実践社会諸科学は『生活』」という記述表現を,対置させてみたくなった。 前世紀の半ばまで吹きすさんだ戦争の時代の嵐が,いったいどこから巻きおこったものかについて,小笠原は鈍感なのである。そうであればこそ,山本安次郎理論も同列であったけれども,ナチス流国家全体主義ならびに旧日帝の国家全体主義に翼賛したゴットルの見地「経済生活論としての経済科学」〔池内信行や藻利重隆の理論源泉もそこにあった〕の真意がみきわめられない。にもかかわらず,今日の資本主義経済社会における経営学を,経営哲学論的に定在化させようと試み,「経営生活」という発想を仕立て,「自己完結‐完成」的な概念「論」を提示している。 だから,小笠原はこうも論断していた。
ゴットルの「存在論的価値判断」は,「没価値性」(Wertfreiheit)の見地とは対極に位置する主張であった。ゴットルの経済科学「論」とその世界観は,ナチス・ドイツの戦争統制経済体制に協力し,この地球上に多くの残虐・惨状をもたらした。ところが小笠原は,そうした学史的事実を棚上げできたつもりなのか逆に,そのように,基本的には「ゴットルを支持する」という誤導的な発言をしている。 第2次世界大戦という「戦争の時代」,とくに当時のドイツで盛行したゴットル流経済科学「論」による「存在論的価値判断」が,社会科学的かつ歴史科学的にみて,どのような提唱をおこなっていたか。ゴットルの著作に聞けばよい。彼の諸著作はそれに答える内容で充満している。その根幹・基底がみえないような読書法をする学究は,研究者としての資質が疑われる。 たとえば,ゴットル,金子 弘訳『民族・国家・経済・法律〔増補訂正版〕』〔原著1936年〕白揚社,昭和17年7月(初版昭和14年8月)は,「ヒトラー・ナチスの第三帝国」の国家全体主義的理念を,どのように解説していたか。なお念のため,「ゴットルはヒトラー政権のために理論を展開したのではない」というたぐいの反論は,事前に排除できることを断わっておく。 ◎-1「構成体論」 「公益は私益に先立つ!」 「企業は国民経済の築造に対しては一つの使役的な目的構成体に過ぎぬ」。 「企業そのものは国民経済の使役的な目的構成体に過ぎぬ事を,意識してゐるやうに義務付ける!」 「実にこの構成の技術的統一たる経営は,常に部分的構成体として社会構成体に組み入れられて実存する」。 「社会に於ける生活を終結せしめる部分的構成〔体〕は,必然的に欲求と充足の持続的調和の精神に於いて行はれるのである。かくしてそれは明瞭に一義的に経済体への構成として示される!」 「家政がその広からぬ領域に於て,又真に存在上正しく構成されてゐるか否かは極めて重大な事である。それはこの種の構成体が多数よって,経済的最高構成体たる国民経済の築造に対する広大なる基本層となるからである」。 「家政そのものが一つの構成体として構成される……ならば,欲求と充足の恒久的一致の精神に於いてゞある。即ち家族生活が繁栄し存立する為に必要とする一切のもの,及びそれが為にあれこれの欲求となる一切のものを,他面に於いて努力・利用・所有物の使用・消費であって,この欲求を充足する為に支配し得る一切のものと,出来る限り一致せしめねばならぬ」48)。 ◎-2「存在論的判断」 「生活上正しいものに関する判断である」。 「構成者が如何なる行き方で多くの経営を総括して,この生々とした結成に至らしめねばならぬかは明らかである。必ずや経営に於ける生起が相互に求め合ひ,従ってこれ等の経営が総て相互に運行せしめ合ふやうにしなければならぬ!」 「即ち諸経営の正しい混合と調合による円形をなす整序,然かもこの経営全体が,その環境ヘ正しく適合する事! これである」。 「生活への構成の観点より見れば在内構成体の生活 [重] 力を高める事が意義をもつのは,これによって同時に包括構成体の生活 [重] 力の促進が行れる限りに於いてゞある」。 「総ての存在上正しく社会構成体を構成する働きはその生活
[重] 力を目指し,出来ればこれを高めんとする」49)。 ◎-3「技術の方法と法律の規範」 「技術の『方法』は形式創造的な精神的構成体,法律の『規範』は生活創造的な精神的構成体と見られる」。 「技術は生活への構成の……準備として,直に『目的への道』を示すのではなく,構成者に目的への『正しい』道を,換言すれば比較的最少の費消をもってする道を提示す。かくして初めて技術は本来の意味を発揮して『目的への正しい道の術』となる!」 「技術の『方法』はたゞ事象の……技術的準備構成を保障するに過ぎぬが,『規範』は基礎的に構成する規準として関与する。何故ならばこれは同時に『超人的な』性質を有し,既に生活への構成の動きの中にあるからである」50)。 ◎-4「血統と民族」 「構成体として実存するものに就ては日常生活はたゞ『血族の生活』,『民族の生活』と云ふに過ぎないであらう。実際にはこれに反してこの場合『生活たる血族』(Sippe als Leben),『生活たる民族』(Volks als Leben)が夫々協同〔共同〕生活の生活実存態としてあるのである。……『血族協同体〔共同体〕』,又は『民族協同体〔共同体〕』と云はねばならぬ」51)。 最後の◎-4は“Blut und Boden”のことであり,ユダヤ民族など多くの人びとを差別‐殺戮するために昂揚された,偽りの人種的・優生学的な根拠であった。ゴットルのこのような経済科学の抱懐した政治経済的な思想・イデオロギーが,当時どのような出来事や事件を惹起してきたか,もう一度思いおこしておかねばならない。 大東亜戦争中に実業之日本社が刊行した日本国家科学大系第3巻『国家学及政治学1』(昭和17年9月)は,日本の国情に合わせた“Blut und Boden”を,こう解説していた。
④ 「本然の経営」論 小笠原『経営哲学研究序説』にもどろう。 小笠原の経営哲学は,こう主張する。第1に社会貢献をかかげ,その達成のために会社存続をはたし,事業成果への報酬として利潤をえることが経営倫理上の命題であるとともに,企業が継続事業体としての本然を実現するための経営合理の必然でもある,という常識を回復する必要がある。つまり,「本然を正しく仮設できない認識が,存在を歪曲して認識し,錯誤による認識が非本然的現象を発生させ,これを本然と再錯誤することによって,さらに本然から逸脱した現象が一般化して人々の思い込みを強化する」ことを強調する思惟方式を,小笠原はしめしている53)。 さきにも,「これまで,法,政治,経済,経営系の実践社会諸科学は『生活』という人間行動のもっとも基本的にして中心的な営為を軽視してきたのではなかったか」と問うた小笠原は,こう答える。
ゴットル『経済の本質と根本概念』は,こう説明していた。小笠原の見解と比較・対照すべき文章である。
ゴットル『経済と現実』は,こう断言していた。同上に比較・対照したい。
これらは,酒枝義旗のゴットル祖述によっていいなおすと,「人間共同生活の全一性の根本的な体験を出来る限り生々と表現せんとすること」であり,「専門科学的思惟の働きに先立つものであり,且つこれを基礎づけるものとしての意味を有つ。ゴットルはこれを存在論的省察と呼ぶ」ものである。そして,「人間共同生活に関する学問を総称して社会科学と呼ぶならば,社会科学の思惟は,みな予言的性格を負ふものでなければならぬ」57)。 だから,「株主中心主義が利潤至上主義の『錦の御旗』とする実態は,事業経営の本然を歪曲する」ものと批判する58) 小笠原はさらに,自説の核心「事業経営の正道」をこう記述する。
筆者はここまで,小笠原の「経営哲学論」的な経営学本質論・方法論の基礎:「経営の本然論」を聞いた結果,おおげさではなく,同学の者として暗然たる面持ちにならざるをえなかった。かつて,戦時日本に対面した経営学者も,「社会科学の思惟」としての「予言的性格を負ふ」て,「経営の本然」論を高くかかげていた。だが,われわれは「その惨めな末路」を思いしらされている。事後,早くも60年もの歳月が経過してきている。 戦時体制期に公表された日本学術振興会第38小委員会報告『公益性と営利性』(日本評論社,昭和16年9月)という書物は,当時において具体的に「強度の国防国家の体制を整へ,東亜新秩序を建設するに欠くべからざる前提の要件」,小笠原流にいえば抽象的になるのだが,戦争を遂行中の国家による,「事業への社会的要請に対して適切な事業経営によって応答すること」を議論していた。 小笠原のいうような「経営哲学論」,「抽象的な創造性・全体原理」の経営理念が,戦時体制期における「事業への社会的要請に対して」,「経営存在論と経営規範論として具体化」したとき,実際には,どのような事業経営「形態」として要求されたのかということである。この指摘は,けっして現実離れの空想ではなく,先学がたどってきた学史的な経過において,実際に現象した様相でもあった。そのような敷衍をおこなったとしても,なにもまずい点は生じない。 日本学術振興会『公益性と営利性』はまた,村本福松の口からこういわせていた。
1941年に日本の経営学者が発言したまさしく「ゴットル的な内容」と,21世紀に小笠原が「発言した内容」とは時代環境を完全に異ならせたものだが,なぜか,「相似形的に酷似」している。 村本福松は,ゴットル経済科学の思考方式に則しながら,戦時国家「全体主義的なる思考」に立ち,「国民経済の発展に仕へる手段的装置」である「企業経営に対する要諦であるところの公益性の発揮」を論じていた。 小笠原は,「事業への社会的要請に対して適切な事業経営によって応答する」,「経営の全体の全体性にふさわしい原理」を論じたうえで,さらに,「事業による社会構成への寄与(公益),これが経営目的のアルファでありオメガであ」ると結論していた。 戦時体制期,帝国日本の公益=「事業による社会構成への寄与」は,歴史的・具体的に回顧してみるに,はたしていかなるものと認識されていたか。 その事実を,前掲『公益性と営利性』はつづけて,平井泰太郎の口からこういわせていた。
平井は戦争の時代,「公益優先の原理」すなわち「国家の国防経済確立」「高度国防国家の運行」にしたがうべき,「企業本然の姿」すなわち「国家の為の職能的分担」「生産力増進の為の国家機関」を強く提唱した。このような戦時期日本における経営学者の提唱は,前出の酒枝義旗『ゴットルの経済学』も記述・要求していた,つぎのような,「国家理念」に応える「経営理念」を意味するものだった。
酒枝は,国家から企業へ,さらに「家と家制度」の生活根幹〈性〉まで議論をすすめるかたちで,「人:国民の問題」をとりあげていた。後方における記述は,美濃口時次郎『人的資源論』(時潮社, 昭和14年12月,八元社,昭和16年3月,→改訂増補昭和18年9月)を名ざしした批判である。 しかし,戦時体制期こそ実は,〈人間主体〉がもっとも正直に,人的「資源」らしくとりあつかわれた時代であった。当時は,最戦線で敵軍に立ちむかい戦う将兵が,もっとも重要な「人的資源」であった。くわえて,銃後の軍需産業で働く労働者も,「人的」資源(産業戦士!)の見地よりとりあつかわれる対象であった。
戦時体制期はその意味で,人格的主体:人間を端的に人的資源とみなす時代であった。にもかかわらず,その人的資源的な発想の基盤だとみなした「近代唯物主義」を,観念面では非難・否定しようとしたのが,酒枝義旗流〈御用学問〉であった。 小笠原「経営哲学論」,つまり山本「経営」学説に魅惑され,ゴットル経済科学「論」に共鳴して主張された「経営学の基本的観点」は,上述の村本福松や平井泰太郎,そして山本安次郎などが,国家のための「戦争協力の経営理論」を高唱したあげくのはてに破綻した,という歴史的な事実に目を向けていない。 経営学は社会科学として,理論性はむろんのこと,歴史性,経験性,実証性を尊重すべき学問であるが,「経営科学:社会科学としての経営学」よりも,「経営哲学:社会哲学としての経営学」に目移りした小笠原は,そうした経営学が科学として基本的に要請される諸要件を,軽視することになる視点を造りあげていた。
⑤ 戦争に奉仕した事業経営「論」:「公社」論 山本『経営学研究方法論』(昭和50年)も,〔多分小笠原よりもさきにだが〕「経営学にとり『経営』はアルファであり,オメガである」といい63),「経営」の概念をこう説明していた。
そうだとすると,戦時体制期〔1937~1945年〕においてすでに山本が会得したという「事業経営」概念は,当時の時代背景のなかでどのように展開されていたのか。 山本安次郎『公社企業と現代経営学』(建国大学研究院,康徳8〔昭和16〕年9月)は,旧日本帝国のもとにおける社会科学としての経営学の任務を,こう高唱していた。
山本『公社企業と現代経営学』は,本文に入ると,こうとなえていた。
山本さらにいわく,「生の現実」,「大東亜の建設,世界新秩序の建設といふ世界史的課題」,「真に国民経済本然の姿」等々67)。 小笠原は,戦時体制期に山本が公表した著作『公社企業と現代経営学』の真意を理解できていない。山本学説において理論的に占める「公社」概念の歴史的源泉をしらずに,このことばを表相的に言及するのでは68),まさしく「論語読みの論語しらず」になる。論語をもち出して孔子に怒られるならば,単に一知半解の,生半可な山本学説の解釈だといっておけばよい。 山本はまた,「私のかゝる問題を一気に解決に導いたものは作田先生の『公社問題』であ」るともいっていた。そうでもあるなら,作田荘一の著作も多少はひもとき参照しておくことも,研究者としては最低限必要な作業ではないかと思う。だが,小笠原『経営哲学研究序説』はただ一箇所で,山本の記述を引用するなかで間接的に,作田の『経済の道』に触れるにとどまっていた。 作田荘一『経済の道』(弘文堂書房,昭和16年4月30日〔同年5月10日にはもう3刷を重ねていた著作〕)は,「公社の創設」という章を収めていた。ついでに紹介すると,同書の最後章は「皇国経済の道」である。作田荘一には,『皇国の進路』(弘文堂書房, 昭和19年4月)という著書もあった。 作田荘一が「公社」概念を提唱したのは,旧日本帝国の属国カイライ国家「満洲国」経営〔統治‐支配〕のためだった。作田は,満州建国大学で副総長を務めていた。同大学の副総長の地位は,中国人(当時は「満人」といわれた)の総長を差しおき,実質的な最高責任者を意味した。 作田荘一『満洲建国の原理及び本質』(建国大学研究院現代学教本第2篇,満洲冨山房,康徳11〔昭和19〕年4月)は,こう主張していた。
「惟神の道」! 第2次世界大戦:太平洋戦争の結着などもはや完全についていた時期,このように神がかり的な強がりをいっていたのが,「当時の日本」を代表する社会科学者作田荘一であった。文中で「現代国家たる労働国家群」とは,いわゆる「持たざる国」の日本自身を,そして「近世国家たる資源国家群」とは,いわゆる「持てる国」の英米など日本の対戦国を,それぞれ指していた。 しかも,欧米=「近世」,日本=「現代」というぐあいに時代区分し,彼我を特徴づけたところなどは,それこそ時代錯誤の牽強付会である。あえていうまでもなく,当時干戈を交えていた日本と欧米諸国の「経済力‐精神力」は,事実においてそのまったく「逆の力関係」にあったからである。 山本『公社企業と現代経営学』(1941:昭和16:康徳8年)も,「現代」という語を経営学のまえに付して盛んに使っていた。第2次世界大戦で「現代」性を欠き,前近代的ともいうべき「近世」的魔術で国民を鼓舞しつつ,「日本神州論」「大和魂」などの精神力一辺倒で戦いぬこうとしたのは,いったいどこの国だったのか。 大東亜〔太平洋〕戦争の時代,日本の総理大臣を務めた東條英機は,英米との戦争にまで進展したその戦いに「勝てるのか」と問われ,「日本には大和魂があるから敗れない」と答えたという。この答えは,戦いに挑む兵士が「戦意(モラール)が高いとか低いとか」いった問題と次元を異にしたものである。戦時体制期の経営学者たちも実は,東條と同じような知的水準でものをいっていた。 作田の「経済の道」「公社」という概念に倣い,「経営の道」の政策的な実現を「公社」に求め,これにおいて「企業本然」を原理的に表現しようとしたのが,山本『公社企業と現代経営学』(康徳8:昭和16年9月)であった。 山本『経営学研究方法論』(昭和50年)は,注記のなかでこう語っていた。 著者は第2次大戦中の戦争経済を背景に,満州国において株式会社-特殊会社を研究し,その公社企業への転化の不可避性を論じ,公社企業の原理的構造の解明に努力した。戦前の満州国は特殊会社の国であった70)。 満州建国大学で山本の同僚だった村井藤十郎は,『公社法論』(建国大学研究院,康徳7〔昭和15〕年8月)なる著作を,さきに公表していた。村井は,「現代国家が経営国家となること,並びに現代国家経済が資本主義的弊害の徹底的なる除去にすゝみつゝあることは,最早や世界史的必然とも称す」71) べき時代状況を,こう説明していた。
ちなみに,前出の平井泰太郎は戦時体制期に,村井藤十郎の「現代国家が経営国家となること」という概念に相当する提唱を,「経営国家学」の構想にしめしたことも,ここでは付記しておく価値がある73)。 ともかく,当時の「現代史的動向」のなかで「歴史的当為」だった国:「満州国」は,いまや幻の国となった。当然,山本の提唱した公社企業「概念」も砂上の楼閣となり,絵空事に終わった。この事実は,山本の表現を借りれば,「経営学を世界的視野から典型的に考え,これを凝集的に見」た74) ものの,その結末であった。あるいは,「わが国の経営学界の世界史的使命と考えざるを得ない」と過信されたあげく,「著者〔山本にとって〕不動の見地が確立できたと思う」「方法論的研究の総決算的体系化を試みたもの」75) の顛末でもあった。 すなわち,ゴットルのいうように,「国民経済の枠内にある無数の構成体はすべて国民経済と結びついて栄枯盛衰をともにする」76) かたちで,「世界史的使命」であり「不動の見地」だと盲信された「戦時期:山本学説」の満州国経済‐経営「公社論」も,滅亡したのである。 くわえて,「戦後期における山本」は,「私見によれば,むしろ社会主義経済こそ経営学の沃野であり,その将来性を期待せしめるものというべきであろう」77) と予測した。だが,いまでは,この結論も指摘する必要がないほど明白に謬見であった。 さらに,山本のつぎの主張は,小笠原にもぜひとも答えてもらいたい論点である。
筆者は,こうした山本の記述に接し,深甚なる疑問を抱くほかなかった。山本の理論構想は,世界各国に現象する経営現実をなにもかも,自説を実証するための材料と解釈する,まるで手品であった。学問の世界にそんなにも便利な理論装置があるなら,筆者もぜひとも入手したい。だが,筆者は「学問に王道なし」という格言を尊重・支持する。 とりわけ,山本『経営管理論』(有斐閣,昭和29年初版)は,きわめて不可解な論及を披露している。 山本は同書「序」で,「各種の経営管理研究の基礎理論として経営管理論の試みであ」り,「いわば経営の管理論的考察の原理的解明である」「本書は経営学的に純粋な経営管理論への試みである」と断わったあと,つぎのようにも自説を説明した。
筆者は,すでに分析・批判した中身なのでもう繰りかえしたくないのだが,再び言及しておく。 山本のそのような「戦後における主張」は,「戦時体制期の終焉」とともにに自説が破綻した「理論的な欠点」に目をふさぎ,すなわち,自身にとっては「都合の悪い歴史的展開」を無視したまま,持論の「高度に抽象的な妥当性」のみを再論・高唱するという「反学術的・没理論的・無自覚的な態度」を充満させるものであった。 山本は,自著『公社企業と現代経営学』昭和16〔康徳8年〕9月を,戦後にも誇れる著作だといいはっていた。これは大問題である。この著作の中身は,戦時的性格,いいかえれば旧日本帝国の東アジア諸国侵略を正当視し,大いに昂揚する観点‐立場で,経営学の研究をおこなっていた。山本の同書は,好戦的性格をもっていたといいなおしてもよい。この基本的な「要素」「側面」「資質」は,戦後になってどのようにして,同書から分離・脱色することができたのか。同書はまた,敗戦後に民主化された日本政治経済にも通用する中身を有するとまで揚言したが,この点は摩訶不思議というか,異様な自著の解釈である。 それでもなお,山本『経営管理論』「序」は,「恐らく何人もこの行為的主体存在論の立場に帰着せざるを得ない」,「生の根源から存在論的に究明しなければならない」などと自信をこめて再言していた80)。ここまで山本が過信的に自説を強調するのを聞いた筆者は,もはや耳を塞ぎたくなるほどであった。 既述のとおり,佐々木恒男は2000~2001年に,山本の「経営学の立場:経営行為的主体存在論」を,「事実上無理であるし,意味もない」と全面的に排除した。筆者は同じことを,四半世紀まえより指摘・批判してきた81)。 日本の経営学者には,社会主義経営学を専攻する者もいた。その1人である大島國雄は,ソ連邦の崩壊が近づいたころに公刊した著作『社会主義経営学』(1989年8月)のなかで,こういっていた。参考までにいえば,ドイツでベルリンの壁がなくなったのは1989年11月9日であり,ソ連邦が正式に消滅したのは1991年12月21日であった。 まさに経営学は,資本主義経営学と社会主義経営学とをとわず,理論的考察と実践的政策を追求する実践的理論科学であるという,われわれの永年にわたる主張が,そのままゴルバチョフにも流れているといいうるのである82)。 この大島の発言をどう解釈するかはさておき,山本の経営学説:「経営行為的主体存在論」のほうは,過去に2度,過誤を犯した。ひとつは,「満州国企業経営の崩壊・消滅,公社の出現」を,理論的に予測することも政策的に実現することもできなかったことである。ふたつは,「社会主義経営学の未来」をみあやまったことである。 どんなに優秀・卓抜な経営学者であっても神ではなく,ただの人である。過誤を犯さないという保証ない。これは当然のことである。しかし問題は,その過誤を過誤としてすなおに認知・反省・克服できたかどうかである。 小笠原は,『経営哲学研究序説』第Ⅲ部「経営実践」第12章「経営戦略と事業-事業使命論の原理-」第3節「事業経営と〈社会〉主義経営」の冒頭で,「現代経営は『企業経営』から『事業経営』へと新たに転回すべきである。かつて山本安次郎が『企業経営から事業経営へ』と述べ,さらに『会社から公社へ』と主張したのも,以下に〔小笠原が〕述べる内容とほぼ軌を一にするベクトル上にあったと理解できる」と記述していた。 しかしながら,山本学説の歴史的源泉をしらずに信奉する,それでいて,その衣鉢を継ぐと告白した小笠原『経営哲学研究序説』の基本構想は,徹底的に解剖され,批判されねばならない。山本の旧「満州国における公社」概念は,その議論のための契機を提供している。
Ⅳ 学 問 の 姿 勢
① ゴットルと山本学説の共通的性格:戦時性 小笠原は『経営哲学研究序説』を上梓するに当たり,山本安次郎の「経営行為的主体存在論」に依拠しつつ,ゴットルの主張などを「経営生活論」に読みかえ,「経営哲学理論」を構想したのである。 本稿の検討は,意外と単純な結論に到達した。 小笠原の見解を批判し解体するためにはまず,山本安次郎の経営学説を衣鉢にして継ぐと宣言したその立場を検討し,つぎに,ゴットルの経済生活論を経営生活論に読みかえたその「経営哲学理論」を分析すればよいことになる。 以下に,ゴットル経済科学「論」の要点を復習しておきたい。
--小笠原『経営哲学研究序説』は,戦時期〔戦争の時代〕にもてはやされたゴットル経済科学論に強く共鳴しつつ,戦後期において「カイライ満州国の経営生活の実相」とは縁遠くなった山本学説に依拠する「生活学としての経営学」論であった。同書は,その意欲的な立論構想にもかかわらず,社会科学的な問題設定に関してボタンのかけちがいがあった。なによりも,ゴットルや山本の学問思想に固有の「かつての戦責問題」に無知・無縁なのであった。 山本学説を過大に評価した小笠原は,つまるところ,その「亜流」学者すらなれず,ただその「縮小再生産」を営為する1人の経営学者となった。 山本安次郎に師事したり,彼の理論的構想を継承しようとしたりした次世代の経営学者が,小笠原以外にもいなかったわけではない。しかし,筆者のみるかぎり,山本学説が次代に残した〔と山本自身が説く〕課題を超克し,一歩前進させ,一定の研究成果をあげえた後進はいない。この評価は実は,山本学説の本質に帰因するものであった。筆者のこのような指摘が誤りだと反論できる関係者がいるなら,ぜひとも批判をかえし,議論してほしい。
② ゴットル理論の過度抽象性 中村常次郎『ドイツ経営経済学』(東京大学出版会,1983年)は,第3編「経営経済学の規範化の進展」第3章「規範的・全体主義的経営経済学-ハインリッヒ・ニックリッシュの変貌-」で,ゴットル経済科学論にも妥当する鋭利な批判を提示している。 a)「超歴史的な理論性格」 ニックリッシュは,「経営経済学の対象を欲望充足経済と規定し,企業を独立の派生的経営としてこれを経営を包摂せしめた」。そのために「資本主義的企業の本質は,一切の歴史的・具体的規定を脱落して抽象的・超歴史的な欲望充足経済として規定された」。 「彼が最も一般的・抽象的な問題を分析しながら,それに具体化の手続を付加することなく,直ちに最も特殊的・具体的な諸現象の解明にその論議をそのまま適用しようとする態度を示し,当時の民主主義的・共同体的な企業の外貌を本質的要素として一方的に高揚せしめ,他の諸条件および諸要素を度外視してこれを永久的な本質であるかのごとくに強調した」87)。 中村がここで「当時」といったころのドイツは,ナチスが政権をにぎる寸前の時期であった。中村はつづいて,こうも論及する。 b)「認識対象の普遍的永久性」 ニックリッシュの,「認識対象の拡大化を通じての抽象化ないし普遍化に」「よって経営経済学そのものの歴史性の希薄化がもたらされた」。「その抽象性と普遍性との故に」「経営はまさしく一つの永久的範疇として問題とされており」,「企業はいうにおよばず家計経済その他のおよそ一切の経済単位の中に認められるごときものとなる」。 「全体‐肢体関係を中心とする」「経営の肢体的編成または肢体的組織の構造がそのものとして社会有機体説に連な」り,「普遍主義=全体主義の理論構成たり得る性格を有していた」。「そのような問題からのみする限り,むしろ問題は理念的意味を濃厚に帯びることになり,かくては普遍的抽象化の問題を超経験的にして規範的な性格をもつ理論の形成に直接的に結びつけることなる」。 「新たなる理論的意図は」,「経営経済の全体主義的構想を企てようとするにあったかごとくである」88)。 中村はその間に,池内信行『経営経済学序説』(森山書店,昭和15年)の第2篇『経営経済学の認識対象』〔全3分冊の第2分冊として昭和14年に刊行〕を批判する註記を挿入し,「ニックリッシュ経営経済学の構想がナチス企業観と多くの点に相通じる」といった池内自身の記述も引用していた。そしてさらに,こうも批判した。 c)「正しい経営‐経済論」 ニックリッシュの「経営経済学の課題」は,「根本的な価値規準の設定による正しい経営のあり方,さらに進んでは正しい経済のあり方」という点においてその「規範的な性格」をみいだせる。そこでは,「規範科学的態度と有機体説的方法とからして,正しく,かつ調和的な経済社会が当為的価値として構想され,これと資本主義経済社会の存在価値とが一致することによって,現実在の正当性が挙証さるべきことが要請されていた」89)。 d)「時局適合性と規範性」 ニックリッシュは結局,当時「社会民主主義の衰退とともに漸く抬頭しつつあった全体主義的思潮に通じる価値規準の設定により,正しい経営のあり方,さらに進んでは正しい経済のあり方を教示しようとしていた」。しかし「その基礎づけはあくまでも超歴史的な人間の本性に根差す良心の法則から与えられるものとなし,またその関係の究明をもって経営経済学の課題をなすものとしていた」。 「かくして,彼の経営経済学は,その抽象性のために,一見,理論科学としての外貌をもってはいたが,その実質においてはかえって極めて高度の時局適合性と規範性とをもつものとなっていた」90)。 池内信行の弟子である吉田和夫は,『経営学大綱』(同文舘,昭和60年)をもって,経営学という学問の性格を,こう規定していた。
この発言は,日本の経営学界でいままで蓄積されてきた関連の業績を,十全に顧慮したものではない92)。吉田は,「斯学界の全貌」を歴史的に十分観察しえたうえで,その見解を提示したのではない。その意味でいえば,「今後の検討課題がある」という表現は不適切であった。 吉田はともかく,統一的な基礎理論にもとづく「体系思考」(Systemgedanke)があるかないかによって,「純粋科学としての企業経済学」と「応用科学としての企業経済学」とを厳密に区別したいと述べた。そのうえで,ニックリッシュ経営経済理論のばあい,主観的な認識構成説の立場に立ちながらも,国民経済学と私経済学,あるいは私経済学と私経済政策との論理的区別がまったく不明確だったと述べ,その問題点を批判した93)。 吉田はさらに,『グーテンベルク経営経済学の研究』(法律文化社,1962年)で,「転換期の理論」であったニックリッシュの理論は,「従来の生活外観的な理論と異なって,とにかく主体的な,形成的な面を生かしたという点において高く評価されねばならないが,しかしそれが結局,全体主義に身をゆだねざるをえなかったという点においては,するどく非難されねばならない」と,その政治経済思想に関する問題性を批判した94)。 前段においても中村常次郎が,ニックリッシュの理論が「全体主義の理論構成たり得る性格を有していたこと」を批判していたが,吉田のニックリッシュに対する批判も同旨だったわけである。ニックリッシュへの批判は,ゴットルへの批判でもある。池内自身も,「ニックリッシュの欲求充当説は,……ゴットルの思考と相通じるものをもっている」,「この意味からいってナチス的というよりはむしろファシズムのものだ」,と解説していた95)。
③ 吉田和夫『ゴットル-生活としての経済-』2004年12月 ところで,21世紀の現段階になって吉田は,『ゴットル-生活としての経済-』(同文舘,2004年12月)を刊行した。彼は,「実は,この家庭と国家という社会的構成体に真に経済なるものが見出されると主張するところに,ゴットルの核心がある」96) といってのけ,以前の論調とは根本的に矛盾するほかない見解を披露した。 吉田は先述のように,ゴットルの理論がナチス国家社会主義思想に対して役だったと述べていながら同時に,「総じてゴットルの理論はこの時代の経済理論やナチスの経済政策にことさらに影響を与えたものではなかったといわれている」とも断わっており97),前後する論及において不可解,一貫しない記述をおこなっている。 要するに,2004年の吉田『ゴットル』は,こう主張した。 a)「21世紀の経済思想」 「ゴットルの思考は,21世紀に生きる思想として意義をもつのではなかろうか」。「21世紀をむかえて,ほんとうに平和な,落ち着いた,各人の個性を発揮できる社会の到来が望まれている今日,いまや共同体性の深化を問うゴットルの経済観が改めて見直されてよいのではなかろうか」。 「いまや新たな世紀を迎え,とくに人間と環境の危機を背景に改めて経済と技術の問題が問われんとしている今日,われわれの進むべき方向についてこのゴットルから何かを学び取ることができるのではなかろうか」98)。 b)「時代が要求する学問」 ゴットルの「よさ」は,「いまや持続可能な社会〔sustainable society〕が真剣に問われている今日」,「いまや世の中は,欲求充足にまつわる行為のみが経済であるという見方で覆われている。人間問題や環境問題が台頭し,われわれの将来への不安が募る一方である。この際,ゴットルではないが,根本的に経済なるものの本質に目を向け,改めて経済の原点から出発することが必要である。経済とは秩序であるという言葉の意義は余りにも深い」99)。 c)「新たな認識」 「われわれの経済学はいままでその学問的建設をめぐってマルクスに学び,ウェーバーに学んできた。そのマルクスからは主として資本の論理を,そしてウェーバーからは主として組織の論理を学んできた。いまやわれわれはゴットルから生活の論理を学ぶ必要がある。幸いわれわれの先駆者たちはたとえ,ファシズム期にあったとしても,ゴットルに学び,ゴットルに求めるというゴットルへの研究の道を開かれてきた。いまやこの道を新たな認識でもって進める必要がある」。 「最も根源的な人間共同生活の構成という人間の問題になぜ思いをいたさざるをえなかったかというゴットルの基本的な問題意識をいまや改めて今日的な問題として理解する必要がある。ここに新たなゴットルへの取り組みがある」100)。 d)「永遠の経済:生活の論理」 「企業中心の経済から生活中心の経済への転換である」。「基本的には,われわれの生活の営みにおいて常に行なわれてきた『欲求と充足との持続的調和』という経済的配慮を改めて認識することを意味する。この経済的配慮それ自体は永遠なるもの,いいかえれば『永遠の経済』なるものであって,それを貫く論理が『生活の論理』なのである」101)。 e)「存在論的価値判断」 それでは,「ゴットルは,真の経済なるもの,すなわち,欲求と充足との持続的調和の精神の下,人間共同生活を構成するという構成そのもの」を,どのように構成するというのか。「この正しさをめぐる存在の在り方についての判断が,構成体の生活力を促進し,構成体の持続と存立をますます高めることになる。まさしく,存在そのものが当為を求めるのである」。 そして,「この存在論的価値判断が可能となるためには,まず経済を,人間共同生活の『経済への構成』として把握しなければならないということ,さらには『理解』という認識方法によって,生の現実への特殊な通路を形成しなければならないということ,この2つの前提が必要となる」。 「とはいえ,実際,個々にわたって存在論的価値判断を下すことはきわめて難しい。しかし,だからといって直ちに,学問的認識としてこの判断を否定することは行き過ぎであろう。構成体の生活力を促進するという存在の在り方についての判断は存在論的には十分認められるところであろう」102)。 結局,吉田の「ゴットル経済科学論」も,「存在論的価値判断」という難関に逢着した。この哲学・形而上的な価値判断問題の困難さは,戦時体制期において経営経済学の「存在論的究明」をあらためて構想した「師の池内信行」が,ファシズム期における侵略戦争に率先協力する「経営経済理論」を垂範し,破綻させていたことからも,明白なことである。 吉田『ゴットル』は,池内の『経営経済学の基本問題』(理想社,昭和17年9月)は本文でとりあげ参考文献にも挙げているが,『経営経済学序説』(森山書店,昭和15年7月)には触れていない。『経営経済学序説』は,戦時国家全体主義に職域奉公する基調理論を,池内が声高に提唱する著作であった。 前出,吉田和夫『経営学大綱』(昭和60年)の巻末「経営学文献考」の「戦前のわが国経営学」にも,戦時体制期における池内の文献,『経営経済学序説』および『経営経済学の基本問題』は出ておらず,その代わりだろうか,『経営経済学論考』(東洋出版社,昭和10年)をかかげていた。 吉田はまた,「池内先生の戦後の代表作」『経営経済学総論』(森山書店,昭和28年)の「経済本質観は」「依然ゴットルであった」と説明するが,この著作は実は,池内の理論的を特質をそれほど反映していない。同書はむしろ,経営学「概論」風の性格が強い。それよりも,戦時中の著作『経営経済学序説』(昭和15年)および『経営経済学の基本問題』(昭和17年)こそ,ゴットル的な〔くわえてハイデガー的ともいっていいが〕特質を,深く湛えていたのである。 つまり吉田は,恩師である池内信行の『経営経済学序説』(昭和15年)のような,「戦時体制:戦争の時代の雰囲気を強烈に臭わした著作はその所在を表記したくなかった」と推測される。 筆者はそのうえで,こうたくましく推測する。 池内研究室に所属していた時期の吉田は,マルクスやウェーバーの研究に傾いて,ゴットルに目を向けなかったにもかかわらず,池内はそれを自由にしてくれたというが103),そのことには,なにか特別な事情があったのではないか。戦時体制期→敗戦へと日本の時代が推移するなかで池内が感得した《なにもの》かが,そこに介在していたのではないか。
Ⅳ 戦争と学問の歴史
① 池内学説の戦時的性格 池内『経営経済学史』(昭和24年)は,第3篇「経営経済学と民族共同体」において,つぎのような議論をおこなっていた。
以上,戦時体制期における,生活経済学とナチス国家社会主義との付着・癒合関係を,敗戦後になって池内が「批判した」論及である。しかし,池内は戦争の時代を,みずからの「存在論的究明の戦時的な展開」とは切りはなし,想起しているにすぎない。要は,他人事のような口ぶりなのである。 なぜなら,「国家社会主義がやぶれ」た戦時体制期を振りかえるに当たっては,池内の理論の変遷においてもまちがいなく,「矛盾があ」ったことを認識しなければならなかったからである。さらに,当時「自由主義と社会主義と」は「本質的にことなるふたつの経済の秩序」であるのに,「国家の権力によってむすびつける」「ナチスの経済観と一脈相通じる」学問は,池内も戦時中に展開していたものである。この点においても池内は,戦争の時代,自己の立場の矛盾を深めていったといえる。
以上,池内の発言も結局,他人事の論評であった。戦中から戦後に「ねづよくおのづからのみちを生きぬいてゆく」池内理論は,「その根底からみなおされねばならなくなったことを」,少しも学ぶところがなかった。 戦後作の池内『経営経済学史』(昭和24年)はさらに,戦前‐戦中‐戦後をとおして「わたしは,ナチスの経験とは別に,経営経済学の存在論的究明をすでにひさしきにわたって問うてきた」106) といった。とはいえ,戦時作の池内『経営経済学序説』(昭和15年)がつぎのように,「ナチス即ゴットル」的立場に徹していたことは,けっして忘れることができない「過去の経緯」である。
つまり,ゴットルの経済科学論がナチスの経験にむすびついたのと同じように,池内の経営経済学も戦時日本「統制経済」の深化を体験するなかで,「国民科学」としての「国民共同体の形成」にむすびついていた。戦時体制期において「最高の経済構成体」となった「日本の統制経済体制」は,日中戦争〔そしてのちにはじまる大東亜戦争〕で,敵国の中国〔や英米〕などに勝利するための「国家社会主義的な全体主義の価値観」を大前提におくものだった。 藤岡 啓『大東亜経済建設の構想』(アルス,昭和17年)なる著作は,こう主張していた。,
そこで,池内「経営経済学」の「存在論的究明」=「存在論的価値判断」は,大東亜共栄圏の確保‐成立のためだったあの侵略戦争に対して,全面的に協力する経営経済理論の構築‐展開をおこなっていた。それゆえ当時,「経済の本質を『国の心』にそひ,行為の秩序に求める思惟が,今日,特に強く要求されることは,転換期経済社会を背景として,まことに自然である」とまで,池内は語るようになっていた109)。
② 池内学説の「国防経済理論」 『経営経済学序説』が公刊された昭和15年〔7月〕の翌年〔昭和16年3月〕に池内が公表した論稿2編がある。そのうち「国防経済の理論」という論稿は,こういう論述を遺していた。
もう1編の論稿「経済倫理の問題」は,こういう論述を与えていた。
このように池内は,過去においてこの国の経営学史が展開・蓄積してきた,国家全体主義「翼賛の理論:〈負の遺産〉」づくりに対して,深い関与をおこなってきた。自説のそのような業績が記録‐保存されているにもかかわらず,彼は「臭いものにふたをする」ことができたつもりなのか,なにごともなかったかのように敗戦後の理論活動に移行していった。ただ,そのようなものとしてだけの学問の営為がありうるならば,これはきわめてたやすい業である。 池内自身,昭和8:1933年の論稿中で,こういっていたではないか。
戦前から戦中への池内理論の進展はこの発言どおりに推移したのだが,その事実を自身の手によって,事後的に再確認・再評価する学問作業は,まったく反故にされてきた。戦中=戦時体制期の日本は敗北をもって終焉したが,戦後作の池内『経営経済学史増訂版』(昭和32年)は,こう復唱していた。
筆者は,池内に問う。戦時体制期そのもの,あるいはそのなかに存在した経済体制‐企業経営という「客体」と,そして,これに対峙していた社会科学者:経営学者の池内信行という「主体」とは,相互の「動的」な「生活探求」「の発展の過程」を,いかに,「矛盾的統一」において「発展史的」に認識していたのか。というのも,池内は,研究対象の「存在基盤=客体」面の根源的な変貌にもめげず,「自説=主体」面の「存在論的究明」の見地だけは,終始一貫,抽象的・不変的・一般的に妥当しつづけ,かつ適当・妥当・正当だとばかり主張・強弁する発想を突出させてきたからである。 池内流の経営経済学本質論:「存在論的究明」は,その活躍する舞台を戦争の時代から平和の時代に移動したさい,戦争中とは百八十度逆さまとなった国家価値観にかかわる「自説の問題点」を放置し,吟味しなかった。 池内は戦後,「学問をただ学問としてみおわるのではなく,実践の発展にてらしてそのすがたをみなおし,たてなおすのでなければならぬ」と断わってはいた。しかし,「それが理論としてなりたつためには,それに固有の理論的操作によってきたえられた体系をもたねばならぬ」114) といいながらも,その肝心な《方法論の更新手続》に関する説明は,忌避してきた。 だからこそ,戦前→戦中→戦後の過程で,いちじるしく変質してきた時代精神やその価値観を無視し,「存在論的究明」の根本意義をみなすことも立てなおすこともせず,ひたすら高調するだけで済ませたのである。 日本の経営学界史のなかで池内と対面,議論したことのある中村常次郎は,池内『経営経済学史』(昭和24年)を,こう批評した。
中村常次郎がこのように指摘した池内学説の難点は,理論的な構成の方法というよりも歴史的な経緯に由来しており,その意味で非常に深刻な「課題」を継起的にかかえこんでいたことになる。 そこで,戦時体制期における池内信行の論稿,「『転換期』の経営経済学」(日本経営学会編,経営学論集第13輯『戦時体制下に於ける企業経営』同文館,昭和14年6月所収)の主張と,敗戦後に公表した,池内信行『政治と経済』(二條書店,1947年9月)の記述を,比較対照してみた。
「戦中転換期」と「戦後転換期」のあいだで,このように異様に食いちがう同一人物の著述に接して,不審を抱かないほうがおかしい。 戦時体制期においては,「『東亜共同体』の基礎をかためる」ための「最高規範」を指示した「国家観=全体の立場」にしたがうといい,その「全体との生ける連関」から「人間の共同生活,国民共同体に奉仕する」ための「経営経済学」を,「正しく構成する」ことに応えていたのが,池内信行の立場だった。そのさい,「経営経済学説の存在・存在論的究明こそこの学問の基礎をかためる根本の態度でなければならない」とも118),池内は考えていた。 ただし,池内学説の根幹である「存在論的究明」は,敗戦後において目まぐるしく激変した価値観・世界観に邂逅しても,学問観・方法論として備えていた基本的な視座に変化はきたさなかった。敗戦後の「さし迫った現実の要請」,「国民の生活をその本来の姿にたちかへし,人間の社会的生活を安定せしめるといふ問題」を迎えてからも,戦時中に主張されていたその抽象的方法論になんら変質はなく,その不変的な性格を堅持しえた。 すなわち,敗戦の憂き目をみた日本「国家再建のために経済の秩序をいかにたてなおすかといふ」,「ふるき社会の秩序を一応否定して」,「歪められた経済秩序を民主主義の原理にもとづいて是正し」ていくことがむしろ問題だと,池内はいいなおすことができた。 いわく,戦後の「現代が転換期の社会である」! なお,池内「『転換期』の経営経済学」は,昭和14〔1939〕年6月の公表であった。ということであれば,8年後の昭和22〔1947〕年に再び,日本社会に「転換期」が到来したことになる。8年の間隔で2度も転換期がきたわけである。 経営経済学者の池内は,自身が言及した2度の転換期に対して,どのようにかかわってきたのか。1939年にとなえた転換期「戦争の時代」は,5年ほどで敗戦を区切りに,外圧的・他力的・受動的に終了させられたが,1947年の転換期「日本にとって平和の時代」は,ともかく半世紀以上も持続する画期を形成してきた。 池内は,その2度の転換期において,それぞれどのように自己の学問:「存在論的究明」を対峙させ,営為してきたのか。池内の学問は,歴史の進展に応じて自説をどのように進歩あるいは変質させてきたのか。彼は,持論の真価を歴史発展的に点検・評価しなおし,あらためて客観的に自己分析をくわえてみる,という問題意識がなかった。 結局,池内『経営経済学史』(昭和24年)に対する論評で中村常次郎が指摘したように,「その時々に直接取上げた問題に触れて改めて繰返し再確認してゐる」だけの見地が,「存在論的究明」であった。中村のその指摘が当をえているならば,「存在論的」というにはふさわしくない視点が,池内経営経済学の「存在論的究明」であったといえる。 中村は,池内「『転換期』の経営経済学」(昭和14年6月)より1年半近くまえに公刊された,日本経営学会編,経営学論集第12輯第2号『最近に於ける経営学上の諸問題 第1部-経営学自体に関する諸問題-』(同文館,昭和13年11月)に「『技術論』としての経営経済学」を投稿していた。この論文はその題名とはちがい,「理論科学」である経営経済学の研究方法を論究するものであった119)。 中村は,その1938〔昭和13〕年の時点ですでに,「存在論的価値判断にして生産的な認識を可能ならしめることは,全く不可能である」120) と,論じた経営学者であった。たとえ,「存在論的究明」の企図が生産的だったか否かを不問にできたとしても,「一般的・不変的・超時間的な概念であったものが経験的・具体的な概念と混淆若しくは混用されるといふ,ゴットル的思惟の特性が齎されることに成る」121) という陥穽に,池内の「経営経済学の立場」がはまりこんでいたことはたしかであった。 池内『経営経済学史』(昭和24年)における「経営経済学史の課題〔や方法〕」に対して,中村常次郎が「課題の提起としての意味は持ち得るが,結局それだけに止まり,課題の解決と言ふには尚議論の多くの余地を残してゐる」と指摘したのは,戦前‐戦時期をみとおしての批評でもあった。 いうなれば,a)「一般的・不変的・超時間的な概念」と b)「経験的・具体的な概念」との意識的,無意識的を問わない混淆・混用は,後者 b) の「実際」領域に関与する学問を営為した結果出来させた,前者 a) の「抽象」議論の理論的な蹉跌を,どのようにでも拡散・解消・無化する役目も,事後において期待できた。 池内自身による課題へのとりくみは,〔池内自身修辞を借りていえば122)〕「学問の発展法則からみて……理論の発展は,つねに弁証法的である」とは,いえなかった。また,「相手のいい分を理解せずして,また理解しようともせず,自己を一方的に主張する独善におちいるようなことがあってはならない」という,みずからの警告にも反していた。すなわち,「経営学をその発生の基盤にひきもどし,しかも,動的発展的にでなおすこころみは,あらたなる出発の大前提でなければならぬ」という点も,なおざりにされてきた。 戦時期の日本において提唱された「東亜共同体の確立」,国家全体主義の政治経済的価値観:「最高規範」は,「経営経済学を正しく構成する」こと,いいかえれば『全体との生ける連関』において「規範学として構想せられ」,「正当に基礎づける」「経営経済学的考察と経営哲学的考察」を,池内信行に対して要求した。そして,実際にそれによく応える理論を池内も構想し,その研究成果を豊富に公表してきた。 だが,戦後期にうつって池内学説の理論的な展開は,時代の変化に合わせて再び,自説を単純に衣替えするだけの対応に終始した。その変化の節目において対策として必要だったはずの,理論を「発生の基盤にひきもどし」て「動的発展的に」新しくみなおす作業は,放置された。 前節Ⅳの③で,吉田和夫が「21世紀の世界的課題」だといった「持続可能な社会」論や「人間問題や環境問題の台頭」に対して,「経済とは欲求と充足の持続的調和という精神において人間共同生活の構成である」という,ゴットル流「経済本質論:経済構成体論」の〈とりとめのない有効性〉を差しむけるまえに,20世紀のうちにきちんと片づけておかねばならなかった「理論的な課題:〈負の遺産〉」が,池内信行「経営経済学説」にはあったはずである。 それはまず,第三帝国のもとでその「国家社会主義への翼賛学説」となった「ゴットル経済科学論」を,政治思想史的に総括し,経営理論史的に清算しておくことである。それはまた,そのドイツの学問路線に瓜二つのかたちで追従し,かつ国防経済理論的に「日本帝国主義的・皇国史観的な」「国家全体主義の経営〔経済〕学」を展開した論説に対して,その歴史の底流までみすえた批判をくわえることである。 ドイツの物真似とはいえ,戦時体制期の社会科学界において猖獗をきわめた「ゴットル経済学への熱狂的で半強制的な傾倒」は,当時の日本帝国主義の国家全体主義思想論と結合するかたちで現象していた。結局,日本の経営学界の状況において,いまもなお,当該の重大な問題点が検討されずに遺されている。
③ 「マルクスの立場」の変貌 吉田和夫は若いときから,経営経済学という学問の建設をめぐり,ゴットルに学ぶまえにマルクスに学び,ウェーバーに学んできたといった。1982年に公表した著作のなかで彼は,こう主張していた。
1982年において吉田はこのように,「認識の論理と変革の論理を統一化する」ことが「個別資本学説の今後の方向」である,と発言した。だが,2004年になると,「いまや共同体性の深化を問うゴットルの経済観が改めて見直されてよい」とも発言した。 吉田『ゴットル』(2004年)は,「個別資本学説の」「いかにして認識の論理と変革の論理を統一化するかという」「今後の方向」(1982年)を,どこかに放置したかのような叙述をおこなったと,筆者は観察するほかなかった。 吉田『経営学大綱』(1985年)は,こういっていた。 「批判的経営学の本来の任務」,「資本主義経済において……本質的な究明は,やはり,批判的経営学をまたねばならないであろう」124)。この主張は,「ゴットル賛美の書である」今回の著作『ゴットル』(2004年)との関係を考えるに当たり,どのように折りあわせ理解したらよいのか。つまり,吉田と批判的経営学の「接点」いかん,である。 すなわち,1980年代前半に吉田はたしか,「あくまでも反対者科学としての批判の立場に立って,企業および経営の問題を展開する」125) マルクス流の科学的な「変革の論理」を,支持していたかのようにみえていた。ところが,2004年の吉田は,ゴットル経済科学論「経済構成体論」を選好する方向に転換したと判断される〈発言〉をした。 マルクスの思想‐理論の立場が,ゴットルの経済科学「論」と絶対的に対立せざるをえないことは,戦時体制期の日本において,理論的にも実際的にも明らかだった学史的事実である。戦時中はゴットル経済学が流行となり,大いに幅を利かせた。それに対してマルクス主義者‐マルクス経済学者は,「マルクス」ということばさえうっかり口に出せない学問弾圧が吹き荒れる状況のなかで,〈隠れキリシタン〉ならぬ〈隠れマルキスト〉のように潜伏を余儀なくされた。 マルクスとゴットルとのあいだに存在した「学問の戦乱的な理論荒廃のなかで潜在させられた対立状況」は,戦後に時がうつってから一挙に忘失されるような「軽い問題」ではなかったはずである。 吉田がなぜ,ゴットル的思惟の採用を薦めることになったのか,おおよその説明はある。しかし,吉田の学問遍歴をたどるに,どうしても払拭できない以上のような,その前後関係にまつわる疑念が湧いてくる。 なぜ,マルクスではなくなったのかその釈明がない。それとも,もともとマルクスではなかったのか。 マルクスの「資本の論理」があり,ウェーバーの「組織の論理」があったが,これらに対して,ゴットルの「生活の論理」は,どのような関連づけをもって説明されるのか。この疑問に答える中身がみあたらない。「マルクス=正,ウェーバー=反,ゴットル=合」とでもいうべき弁証法的な把握だと理解するのでは,あまりにも好意的な解釈になってしまう。 要は,吉田自身の理論的立場の歴史的変転=断続性を,他者にも理解できるような体裁で論理的に説明し,その前後関係を,学問遍歴的に意味づけした記述が探しだせない。 三戸 公『科学的管理の未来-マルクス,ウェーバーを超えて-』(未来社,2000年)は,B6版225頁の分量の著作だが,大塚久雄,テイラー,レーニン,ウェーバー,マルクス,ドラッカーなどをとりあげ思索した好著である。 三戸はだいぶ以前に,マルクス一辺倒だった自説の立場を変質させていった事情を,『自由と必然-わが経営学の探究-』(文眞堂,昭和54年)に書いていた。それ相応に誠意と度量がうかがえる研究者の姿勢であった。 三戸は『科学的管理の未来』「あとがき」で,こう語っていた。吉田『ゴットル』も実際,このような内実に言及していた。
ちなみに,三戸 公は1921年生れ,吉田和夫は1925年生れであり,三戸『科学的管理の未来』は2000年公表,吉田『ゴットル』は2004年公表だから,両名が同い年のとき両著がそれぞれ刊行されたことになる。 なかんずく,ゴットルを選りわけて再びとりださねば,人間の共同生活にとっての「真の経済」が語れない,というわけでもあるまい。筆者はむろん,ゴットル経済科学「論」の価値をいっさい認めない,と断定するような態度はとらない。 しかしながら,未来を新しく展望するために陸続と登壇している,諸学者の学説・理論・思想に目を向けない吉田『ゴットル』の視点は,単純素朴なゴットル賛美に映る追従路線であり,研究者の研究姿勢として最低限要求される進取の気を欠いている。そう解釈される余地を残している。 吉田和夫は,『日本経済新聞』1997年12月4日朝刊のコラム「交遊抄」に,「生活の思想」という短文を投稿していた。話題は恩師,池内信行に関することであった。
まぜかえすことになるかもしれないが,吉田が「21世紀の世界的課題」だといった「持続可能な社会」論や「人間問題や環境問題の台頭」に対して,マルクスやウェーバーは,なにも発言していなかったか。それとも,彼らの学問は,なにも役に立たなくなったとでもいうのか。 わざわざ先祖返りするかたちをとり,垢まみれで,その罪=思想的・理論的な誤謬・欠陥の重大だったゴットルに還帰する必要があったのか。新しい課題に挑戦しようとする新進学者の諸理論も目白押しであるのに,である。 たとえば,そんなに古い時期の著作ではなく, ◎ カール・ポラニーの『人間の経済-市場社会の虚構性-』(岩波書店,1980年。原著,The Livelihood of Man,1977),『経済と文明』(サイマル出版会,1975年,筑摩書房,2004年。原著,Dahomey and the Slave Trade : An Analysis of an Archaic Economy,1966)や, ◎ エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハー『人間復興の経済』(佑学社,1976年。原著,Small is Beautiful : A Study of Economics as if People Mattered,1973)〔→別訳,『スモール イズ ビューティフル-人間中心の経済学-』講談社,1986年〕 などは,ゴットル経済科学とどのように関連づけられるのか一考の価値もある。 カール・ポラニー『人間の経済』(日本語訳は2分冊)は,こう紹介されていた128)。
シューマッハー『人間復興の経済』の新訳『スモール イズ ビューティフル-人間中心の経済学-』は,こう紹介されていた129)。
ゴットリアーネルは,ゴットルの主張が「真の経済」に触れているという。だが,なにが「人間の経済」における「〈真の〉もの」なのか。これに対して,ゴットルという学者が,政治‐法律‐経済‐社会問題の全域に完璧に答えられるような,飛びぬけてすばらしい「経済生活の理論と思想」を提供できていると,かつては口をきわめていわれたこともあった。しかし,それもいまでは「噴飯ものの評価」となった。ゴットルを神聖視し,その著作に聖典のように接するのは,学問の姿勢として要注意である。 カール・ポラニー『大転換-市場社会の形成と崩壊-』(東洋経済新報社,1975年。原著,The Great Transformation,1957)は,社会に埋めこまれた経済をもあつかいうる「新しい経済学の視点」を,こう規定していた。これは,ゴットルとまったく同類・同質の説明である。
筆者の参照したこのポラニー『大転換』の日本語訳は,1975年に公刊されてから2000年まで,毎年ほぼ1回増刷されてきた。 くわえて紹介するとこのポラニー『大転換』は,特定の問題点をかかえてはいるものの,「市場経済と社会を考察することで,現代にこれほどの洞察を与えている著述もまた少ないのではないか」,「まさしく現代のわれわれに必要とされるひとつの根源的な視角として,評価されなければならない」と激賞されていた131)。 戦時体制期の末期,マルクス主義経済学者のゆえをもって入獄を余儀なくされた上林貞治郎は,『企業及政策の理論』(伊藤書店,昭和18年1月)の前篇「構成体論的企業論分析-ゴットル企業論の究明-」で,若干だが,ゴットル学説に批判を放っていた。この上林の批判がポラニーにも妥当するか否かはさておき,ひとまず聞いておこう。 上林は,ゴットルの企業理論を,「現実的存在そのものを分析するよりもむしろ理性的思惟形象を形づくり,さらには理性的思惟形象そのものを直ちに現実的存在そのもの或は少くもその本質的内容たるかのごとく見做すところのかかる観念的思惟は,具体的問題の取扱ひにおいて自らを露はにしてゐる」,と批判した132)。 それでも吉田『ゴットル』は,ゴットル経済科学論の秀抜性を強調・教導する論旨を呈示していた。同書は,ゴットルのなにを訴えたかったのか。ゴットル経済学の抽象的・不変的・一般的な論理構成とその主唱に関する称賛にかぎっていうなら,戦時体制期の日本おいてすでに,「掃いて捨てる」ほど多くの著述がなされてきた。敗戦後60年も経ったいま,吉田『ゴットル』は屋上屋を重ねるものにすぎない。 しかも,戦時中の上林によるゴットル批判だけでなく,戦後には本格的なゴットル批判論に接することができるようにもなった。印南博吉『政治経済学の基本問題』(白山書房,1948年7月)は,戦時体制期にゴットル学説に批判的に論及したために,国家全体主義下の学問抑圧をうけた体験を踏まえ,戦争中にゴットル称賛の思想や立場を支持していた学究を,きびしく批判しなおしていた。 ところが,印南博吉のゴットル批判をしってかしらずか,吉田和夫はゴットル再評価を一方的に語りだした。この姿勢は,学者商売の職業倫理にもとるものである。吉田のゴットル学説への接しかたは,抽象的・不変的・一般的な要素・側面だけからするものであり,具体的・歴史的・特殊的な要素・側面に現実的にむすびつくことによって生起させた「その学説の重大な結果=問題性」には目をやらない,わかりやすくいえば,歴史学的な理論展開に関する批判・評価を抜きにした〈場当たり式〉の解釈である。 学問の研究に従事する人間があたかも,流行にしたがうかのように,新学説・新理論・新思想を追跡していればよい,というものではない。かといって,学問伝統的に定評あるとされた特定の学説だけを,後生大事に研究の対象にしていればよい,というものでもない。 吉田は以前〔1978年12月〕,山本安次郎学説にも論及していた。
この山本学説解釈は中途半端である。山本の主張に関する諸学者の理解は,掘りさげ不足のものが多いが,吉田もその例にもれない。山本理論の発生源,「本格的な経営学樹立」とその「積極的な努力」が開始されたのは,「戦後から」ではなく戦時体制期に求められることは,筆者がいままでくだくだしくも論及してきたものである。
④ 国家社会主義と経営経済学 吉田『ゴットル』も触れていたが,戦時期国家社会主義の思潮が日本の経営〔経済〕学におよぼした影響には,計りしれないものがあった。池内信行や山本安次郎は,その大波のうねりに呑みこまれた経営学者であった。 大橋昭一『ドイツ経営共同体論史-ドイツ規範的経営学研究序説-』(中央経済社,昭和41年)は,ナチスとドイツ資本主義企業経営との関連問題を,つぎのように論及していた。
筆者が既述中で議論してきた池内信行や山本安次郎の戦時期経営理論も,まったく同じであり,ナチスを当時の日帝に置換すれば,基本的な様相は酷似していたといえる。 先述のとおり,戦争の時代における経営学論として,平井泰太郎の構想した「経営国家学」(神戸商大新聞部編『経済及経済学の再出発』日本評論社, 昭和19年1月所収)のような「戦時体制的な経営構想」論もあったが,実際にこうした「戦争経営学」的な経営思想論は,大東亜戦争の開始以前より提示されていた。 平井泰太郎『国防経済講話』(千倉書房,昭和16年5月)は,こう論述していた135)。
詳論するまでもないが,第2次世界大戦での敗戦によって, a) 戦争遂行を至上命題とした日本の「国家の名誉」と「民族文化」は,いったん地に落ちたが,その後,旧政治体制時をはるかに上まわる水準まで回復できた。 b)「自由主義の問題」もしかりであり,戦争に負けてこそはじめて,旧日帝の臣民は〈自由と民主主義〉を享受できる時代を迎えることになった。 c)「戦争体制と国民経済」は,戦争というものが国民経済,国民生活を徹底的に破壊しつくすものである点を教えた。 d)「経営国家学」の発想は,ナチスあるいは日帝が統制経済体制のもとで,経営〔経済〕学者に要求‐強制した企業概念に対して,すすんで迎合する理論を構成するものであった。 村本福松『経営学概論』(千倉書房,昭和13年11月)は,「序」のなかで,こう表白していた。
村本「同書の本文」は,戦時体制期の企業経営は,自由経済時代とは異なり,それじたい独立の存在を有するものでなく,国民経済の発展に仕えるかぎりにおいて企業経営としての存在があり,そうした観察のもとにおいてのみ企業経済たりうる,と主張した137) 村本福松『経営経済の道理-翼賛経営体制の確立-』(文雅堂書店,昭和17年7月)になると,題名どおり「翼賛経営学」の書が完成する。
村本が戦争の時代に提唱した内容は,結果として,歴史の事実をもってそのすべてが否定された。彼はその結末を目の当たりにしても,学究としての思想的・理論的な責任を,みずからすすんでとることをせず,戦争中に投獄されたが敗戦後に釈放された大学の元同僚たちのきびしい責任追及をうけて,ようやく応えたにすぎない。 要するに,戦時体制期における村本福松の経営学は,「国民経済の発展に仕える」「企業経営としての存在」を育成・発展させるどころか,それを崩壊・破滅させる立論を盛んに披露していた。「戦争という緊急‐非常の事態」は,当時これに対峙した社会科学者の姿勢:真価を,根源より問いつめる状況をつくった。 吉田和夫『ゴットル』は,難波田春夫139)の「政治経済学の社会科学的展開」を評価するに当たり,戦時期に難波田の公表した有名な著作,『国家と経済 全5巻』(日本評論社,昭和13~18年)に言及しないで,戦後期の難波田春夫の「近代の超克」論だけをとりあげる。だが,それでは,難波田の学問全体を的確に把持することは無理である。戦争の時代における難波田の著作活動は,経営学者の平井泰太郎や村本福松,山本安次郎のそれを凌駕する質量で,かつ歴史学的にも壮大な展望を広げながら,熱烈に「翼賛経営‐経済体制」を謳いあげていた。 平井泰太郎に再度,登場してもらおう。 平井泰太郎『統制経済と経営経済』(日本評論社,昭和17年5月)は,「前論」の一で,「経営学は,今にして初めて其の正しき地盤に到達しつゝあるものと言ひ得よう」と,喝破していた。その顚末は60年もまえに出ていたのだが,平井がこうした主張を後悔したり反省したりした様子はなく,頬被りを決めこんでいた。
⑤ 作田荘一の国家主義 山本安次郎の師である作田荘一は,準戦時体制期に『国民科学の成立』(弘文堂書店,昭和10年8月)を公刊し,本文の末尾でこういった。 「国家は思想善導を行ふ……国家が思想闘争をなせる社会に面して国家自らの思想を主張してゐる」のは,「個人科学や階級科学の容喙を許さず,必ず実在せる国民意志の立場に在って研究する国民科学の研究主義を厳しく守らねばならぬ」からである。 作田は,文部省の指揮する「国民に対する思想善導」教育事業の先頭に立ち,その旗振り役をよく務めてきた(昭和13:1938年に京都帝国大学経済学部を定年退職後は,昭和17年まで満州建国大学副総長)。その以前の時期,同省が「学徒の思想善導」係として重用したのは,筋金入りの自由主義者河合栄治郎であった(東京帝国大学経済学部教授,昭和14:1939年1月31日「平賀粛学」によって休職処分)。だが,時代はすでにこの河合を用済みにするほど,日本の教育社会に対するファシズム的統制を強めていた。 作田は昭和9:1934年,「資本主義,社会主義,国家社会主義,国家主義と発展して行くのではないか」と時代を展望し,「国家主義に依る経済統制を述べ」た著作『日本国家主義と経済統制』(青年教育普及会,昭和9年6月)を公表した。本書で作田は,「国家主義こそ今後最も勢力の大なるものとなって行くべきものであると考へる」のは,「それは深く我が国の歴史を省み,我々国民生活上の実際の体験を意識することに依って下し得べき結論であると信ずる」からだ,と論じた140)。 だが,戦時体制期に移行した日本帝国は,国家主義の道をとりながら侵略戦争をすすめた結果,国民生活を壊滅させるだけでなく,その国家主義も否定されることにもなった。したがって,作田のような見解は,歴史的にも論理的にも破綻した。 ゴットルに見解にしたがえば,「経済の多くのものがまさに生活必然的だから」,戦争体制という非常‐緊急の事態に協力すべき企業経営の「経済生活は強制経済なしに決して済まされまい」,と結論づけられた141)。つまり,この「強制経済」=「経済生活」に必然的にしたがうべき「企業経営」に関する「存在論的判断の内実は,……いはゆる正しい構成的結合関係のそれであ」る,と主張されていた142)。 だから,酒井正三郎『経済的経営の基礎構造』(昭和18年10月)は,戦時体制下「における企業経営の根本問題とは何であるか?」と問い,こう答えていた。
宮田喜代蔵『生活経済学研究』(日本評論社,昭和13年10月)は,戦時体制期を迎えて企業経営が国家のために「正しい経済生活=正しい生活的結合関係」を要求されたのは,「全体的目的論的考察の登場が,転換期における経済学の新しい進展に対して……重要な意味をもってゐる」からだ,と主張した。すなわち,それは,「経営経済学と国民経済学とが接近しつゝある事実」であり,「国民経済における全体的目的の考察をめぐって生じた両つの学問の接近である」,と説明した144)。 宮田喜代蔵は,昭和19年1月に公刊された共著のなかではさらに,生活経済学の立場を具体的に説明をおこない,戦時「企業体制の正しい生活的判断」をつぎのように記述した。
酒井正三郎や宮田喜代蔵のようなゴットリアーネルは,戦争の時代における経営経済学あるいは生活経済学の規範的課題:「正しい経済生活」を,全体的目的=国家的目的に求め,かつそれに指示されてもいた。そして,それが歴史的事情のなかで必然の方向性だと認めていた。それでは,その「正しい経済生活」という規範目的を,「正しい経済構成」に関する判断基準として要求した「時代の事由」は,どのようなものであったのか。 河瀬龍雄『満洲建設の標幟』(三省堂,昭和10年3月)は,明治以来の日本帝国の足跡を振りかえり,こう強弁していた。 日本の朝鮮を併合したるも,日本が満州に特殊権益を保持したるも,総ては「東洋平和」を基礎にして,欧米帝国主義の狂暴なる侵略や,奪取,圧迫から,善隣の民衆を保護したるに止まるので,何等日本精神にもとる訳ではないのである146)。 この発言は,当時としてはけっして奇異でも異様でもなく,日本帝国の臣民たる知識人にとって〈公式見解〉であった。昭和10年3月といえば,満州国が建国されてちょうど3年が経過した時期であり,中国への侵略戦争をはじめるまであと2年4カ月の時期でもあった。 戦時体制期まで時代が進行する以前だったけれども,日本帝国にとって,いったいどのようなものが「正しい経済生活」だったのか。その「規範:基準:当為」は,全体的な国家目的に求められていた。当時において「社会科学としての経営学」は,そのような最高の地位におかれた「当為の目的」:「国家の要求」を,否応なしに受容させられていた。 作田荘一は既述のように,昭和13〔1938〕年5月に開学した満州建国大学の実質的な最高責任者である副総長を務めた人物であり,著作『日本国家主義と経済統制』(昭和9年6月)では,当時における「国家主義に依る経済統制を述べ」るに当たり,「資本主義,社会主義,国家社会主義,国家主義と発展して行く」段階を教示していた。 日本本土の「経済生活」の段階は,ひとまず「資本主義」の段階にあったと理解しておく。これに対して,前出の河瀬『満洲建設の標幟』は,「満州国事業の如何なる部分幾干,民間事業に委せらるゝが明瞭でない点等,疑義は多いが,少なくとも社会主義的なる統制主義の下に,満州開発の基幹の置かれている居る事を看取し得る。即ちこの基幹を忠実に実行さるゝ事が,日満経済合一の一大モットーでなくてはならない」147),と説明していた。 いいかえれば,当時における満州国政治経済は,経済生活の基幹に「社会主義→国家社会主義→国家主義」の政策的進路を据えようとしていた。河瀬は「満州国は,総て新らしき試みであり,世界に類のない王道国家を作りあげようと云ふのである」148)といっていたから,そういう理解がなされてよい。 そもそもは,作田荘一がその政策的方向性,つまり資本主義を抜け出て,「社会主義→国家社会主義→国家主義」に向かう経路を提示していた。 だから,山本安次郎『公社企業と現代経営学』(建国大学研究院,康徳8〔昭和16〕年9月)も,「現代的転換を意味する」「国家の立場,国家的存在の論理の立場」=「行為的主体存在論の立場」「行為の立場」「に於てのみ」「吾々の現代的課題が存在する」と規定した。あるいはまた,「それが作田先生の主張せられる『国民科学』乃至『現代的学問』の確立に外ならない」,「この意味に於て」「真に根柢的に具体的に把握せられる」「企業の現代的形態としての『公社』の問題は吾々の経営学にとって正に一の試金石たるを思はしめる」と論断した。 しかしながら,以上の試み:「満州国という偉大な実験場」は,はかない一場の夢に終わった。ところが,山本安次郎は戦後になっても各著作のなかで,「公社」企業という経営概念の有効性を復唱・高調することをやめなかった。 一番早い時期のものとしては,山本『経営学本質論』(昭和36年初版)がこう述べた。
比較のために,酒枝義旗『ゴットルの経済学』(昭和17年9月)に再び聞き,戦争中のこういう見解も添えておく。
山本は,戦時体制期においてのみ,「国家を主体とする」「経営政策学」が「成立つと考えてい」ただけではなく,敗戦後15年以上経った時点においても,満州国時代の持論を現在形で妥当とする意見を吐いていた。それも註記のなかでのものであった。その意見は,作田「公社概念」を,歴史縦断的に,無条件に正当視するものでもあった。 筆者は,山本学説「公社概念」とは全面的に対決する姿勢で,その経営学本質論・方法論に関する哲学‐思想史的な問題点を中心に,度重ねて議論・批判してきた。 しかし,山本は,社会科学としての経営学が踏まえるべき〈歴史科学性・経験科学性・実証科学性〉をないがしろにしながら,敗戦後の斯学界に向けてなおも,満州国時代の「公社」概念の経営政策的妥当性を強調しつづけた151)。 21世紀初頭の日本経済の段階で,「公社」という経営概念に,どれほどの存在価値が認めうるのか。すでに決着済みの論点である。
酒枝『ゴットルの経済学』からさらに,つぎの文節を引用し,山本の「国家主義的経営政策学」の源泉・由来を訪ねておく。
もっとも,21世紀の日本資本主義経済体制のどこに,むきだしの「国家を主体とする」「経営政策学」を求めればよいのか,まったくおぼつかない点である。この点はただちに,誰しも認めるほかない現状認識である。山本学説は,西田哲学流「経営行為的主体存在論」に囚われた理論構想を相対化できず,ゴットル流価値判断:「存在論的判断」の過誤からも脱却できなかった。 ゴットルもいったように,「国民経済によって包括されてゐる構成体の生活力の増進は,それによって国民経済そのものの生活力が同時に高められる限りにおいてのみ,意味を有する」153)ものであった。敗戦時において,日本国民経済の生活状態は,どのようなものになっていたか。 山本経営学説は戦時中においてこそ,そのような「構成体=国民経済の生活力の増進」をめざすために,「国家を主体とする」「経営政策学」を構想した。そして,常時臨戦体制国家だった旧「満州国」においてだからこそ,その経営政策論上の達成目標とされた「公社企業」概念に対して,理論展開上大きな期待をかけていたのである。 作田荘一は,「公社」企業の概念を,こう説明した。
作田はまた,満州国のありかたに関して,「国家は社会に委譲せる経営を統制し,更に重要なる事業を国家に回収し且つ自ら発企しつゝある。かくて国家は統治国家たると同時に経営国家となる」と主張すると同時に,「日満不可分関係への誤解は今回の大東亜戦によって氷解されるはづである。大東亜戦は米英の勢力を排して大東亜共栄圏を建設する歴史上未曾有の大規模なる経世戦である」,と予測した155)。 だが,戦時体制期の日本経済ならびに満州経済に向けたそうした主張は,歴史的・実証的な裏づけを与えられなかった。にもかかわらず山本は,昔と同様にその後もなお,「公社企業」概念の国家政策論的な有効性を主張しつづけてきた。
Ⅵ 戦時体制と経営学者
① 過去の戦時体制と経営学者 a)「村本福松」は,日本が準戦時体制から戦時体制に移行する以前,昭和9〔1934〕年4月に公刊した『経営学原論』(千倉書房)においてすでに,ゴットル的見地を摂取し,こう論述した。
村本は経営学者としてこのように,「あることである」ということの「倫理的な善=宗教的であること」について語るさい,池内信行「経営経済学」の提示した「規範科学としての経営学」に向けて共感を表わしていた157)。こうもいっていた。
そこで村本は,「営利なる目的として存在するところのものを,あるがまゝに究明しようとする」に当たり,「その目的としての営利の真の姿を把握し,これの実現の手段の適合性の考察を意味する」としていた。そのさい,「あるところのものに就き語るのであって,あるべきものに就て説くのではない」,「そのあるところのものを語ることが,経営学に於て不可欠ものである」とも断わっていた159)。 以上村本の議論は,いささかならず衒学的な傾向があり,非常にわかりづらい。だが,「経営学の対象の存在論的考察から,経営学なるものが,所謂,人間(企業経営者)の生活地盤の実践的要求に促されて生成した歴史的所産であ」るという主旨は160),その後における村本学説変転への伏線を敷くものとなった。この論点は,本節の「④国家社会主義と経営経済学」ですでに言及したものである。 村本福松は,戦時体制期がすすみ大東亜戦争に突入した段階にいたるや,日本がこの戦争に勝利するための書物,『経営経済の道理-翼賛経営体制の確立-』(文雅堂書店,昭和17〔1942〕年7月)を公刊した。本書は,村本という経営学者が戦争協力路線を最終的にしあげた「国家翼賛の経営学」である。村本が以前より,ゴットル経済科学の思考を採用していたがゆえに,「戦争体制に積極翼賛する立場」に向かい円滑に移行しえ,また当然に,戦争協力の価値観も迅速に表明しえたのである。 村本は結局,そもそも「あるところのもの」を語るといいながら,実際においては,「あるべきもの」を強調する戦争協力の経営学をつくりあげていた。昭和10年代後半:大東亜戦争期における村本の論旨は,国家が「あるべきもの」と垂範した目標を「あるところのもの」に読み替えた節がある。というよりも,そのちがいにほとんど意味をみいだせなくなってしまい,両概念を混濁させた。そのため,〈戦争の規範〉と〈学問の目標〉を合体した「自説の迷妄」さえ,気にならなくなっていた。 戦時体制期における村本の主張は,戦争に高度に協力する「自説の立場」を必然視し,これに少しも疑問を抱かなかった。村本だけでなかった。経営学者のばあい前述のように,平井泰太郎も同じような経路をたどった。山本安次郎は,満州国事業経営の国家的使命・世界史的課題を説くかたちで,戦争遂行に協力する経営学の立場を昂揚した。山本については詳論してきたので,以下では,平井の主張を議論し,批判することにしたい。 b)「平井泰太郎」は,昭和7〔1932〕年4月に『経営学の常識』(千倉書房),同年8月に『経営学入門』(千倉書房)を公刊していた。後著『経営学入門』は,戦前期に発想・展開された平井学説を説明している。 イ)「定 義」 「経営学或は経営経済学……の成立する所以」は,「経営若くは経営経済の機構を通じて人間経済生活を明かにせんとする事」にみいだせる。「経済生活を観察するのに,組織としての経営を通じて之を考察すると言ふ事は,便宜にも適ひ,必要にも適ふと言ふ事に考へられ」,その「機構を通じて人間経済生活を明かにせんとする事こそ,経営学又は経営経済学と呼ばるるもの」である161)。 ロ)「対象と方法」 「経営学の対象は」,「私経済的側面」「商業経営」「企業経済」「等」の「単なる歴史的発展の過程を示すもの」ではなく,「一般的なる個別経済であると考へる」。「経済単位一般を言ふ」とき意味するのは,「経済の単位,若しくは経済活動の単位が経営せらるゝことの総体として眺めらるゝ限りに於て」の「『経営』又は『経営経済』と呼ばるべきもの」である。 「かくして個別経済の研究に即して,全経済生活を明〔か〕にする事こそ経営学的考察を生む所以であると思ふ」。そして,「夫々の経営経済が存立する所の条件,秩序,技術,而して之を指導する経済主義によって,各個の経営経済が互に相異って来る所以は,特に経営学に於ては其の個別性,若くは特殊性として注意せられるのである」。 結局,経営学は「『部分』を全体として観察するのである。即ち『全一体としての個別』が問題となる」。「斯くして,経営学的考察による全経済生活の再検討が,矛盾なく一貫せる研究を為し挙ぐるに至った」162)。 ハ)「認識の規準」 「経営学は個別経済を対象とする。但し個別経済を対象とする学問は経営学のみではない」。「経営学の対象とする経営経済は,等しく経済的合理主義の観点より眺めらる」。「経営学に於て問題となるのは,単純なる主観性に非ず,単純なる客観性に非ず,所謂,『客観化せられたる主観性』である。学者の所謂『特殊主観性』」である163)。 ニ)「企業と家政」 「経営経済を把握するに当って,所謂家政経済を除外すべからざるは明かである」。なぜならば,「企業と家政とは極限に於て一致する。之をしも経営経済と言ふのである」からである。したがって,「営利経済を営利経済として観察をし,企業を企業としてのみ分離して見んとするのは目的に適はないのみでなく,経済的考慮自体を無意味にするものである。今日の経営学の研究に於て,企業経済を研究せんが為めに家政経済を度外視せず,相結んで考慮せんとする」ことになる164)。 --以上に引用した平井学説は,「株式会社制度の如きものを取って,最も『純粋なる』経営経済と考へ,或は,『代表的』『典型的』なるものと論ずるのは,之亦思索の方向を誤って居るものである」,とも断言していた165)。 平井のとなえた経営学は「一般的個別経済学」であり166),営利的企業の経営問題を捕捉しようとする立場を弛緩させるものだった。だから,「人の経済生活を眺めて見ると,其の経済が営まるゝ為には,凡ゆる側面に於て人と人との用意ある意識的結合が行はれて個々の経営が構成せられ,之を基調として経済活動が行はれて居る」167)という観点に立っていた。 既述のように,戦時体制期の日本統制経済に直面した平井は,太平洋〔大東亜〕戦争に入る1941年の9月に,こう主張していた。 ▲「国家の国防経済確立の為に」,「飽くなき利潤追求の芟除」「を目標とし」て,「企業本然の職分を発揚せしめん」とする「公益優先の適正価格を設定する」。 ▲「高度国防国家の運行を阻害せざらんとする所に,企業機構再編成の意図が存する」。「戦時非利得の論理と,犠牲公平の理論に基づき,企業者利潤の抑制とその公正化を企図する」。 ▲「凡べての業界人は」,「公益優先の原理」「誠実信頼の原理に基き」,「国家の為の職能的分担の因子となり」,「企業は本然の姿に帰り,生産力増進の為の国家機関となる」。 戦前から戦中にかけて平井学説は,少しも突飛な論理の展開をみせていない。「一般個別経済学としての経営学」を提唱したその理論的な立場は必然的に,時代の変遷に対応するなかで,「戦争への積極的な協力」という結論に到達した。当初よりゴットル流の「経済生活論」に支持された平井理論は,自説の構想における「企業の本然の姿」の端的な具現化を,「戦時企業体制論」のなかにみいだしたといえる。 「一般的個別経済学」だった平井の経営学はもともと,戦争の時代に遭遇してこれに学問的に適応できる特性を備えていただけでなく,合理化する性格ももっていた。 昭和19〔1944〕年1月,平井泰太郎がその構想を披露した「経営国家学」(神戸商大新聞部編『経済及経済学の再出発』日本評論社所収)は,戦争事態を大前提にした「有事体制的な経営組織」間関係論であり,戦時体制に応えるための「一般的個別経済学」による「経営的国家」の概念の垂範であった。実際のところ,こうした「戦争経営学」的な企業体制‐経営編成論は,敗戦にまみれて惨めな理論的破綻を経験した。 平井『経営学の常識』昭和7年は,「経営学は各種業務の経営に関する包括的な知識と深い見識とを与へ,正当にして,完全なる判断を為さしむる為めの学問であるとも云はれる所以」に触れ,「多くの経営に通ずる理法を明かにし,夫々の経営を廻る条件を探り,その経営方策を教へ,産業社会の合目的にして,合理的なる推移の為めの指針を与ふる事は切実なる要求であらう。これこそ経営学に課せられたる任務の主なものであらうと思はれる」,といっていた168)。 平井はまた,「南満州鉄道株式会社の本体は何処に在るのか」と議論したとき,作田荘一『自然経済と意思経済-経済学の根本問題-』(弘文堂書房,昭和4年)にも言及した。平井は,「経営学は経済目的達成の為めの組織体を中心とする考察を行ふ」と述べる同時に,会社企業における「公私経済無差別化の傾向は,素朴なる対象論以上の実在となって居る」とも述べていた169)。この論及は,作田の満州国「公社」企業論に連なる議論であった。 ちなみに,昭和7:1932年は,平井が『経営学の常識』(4月)と『経営学入門』(8月)を公表し,この年の3月1日には「満州国が建国」されていた。 日本の産業経済はその後,戦争の時代に突きすすんでいった。「戦時体制」に時代がうつった。この段階にいたり,「一般個別経済学」の経営学は,戦時「産業社会の合目的にして,合理的なる推移の為めの指針を与ふる」任務に従事することになった,と平井は説明した。 平井が「経営の合理化と相並んで,経営の社会化が注目せられ,その彼岸に経営の倫理化が唱導せられ,社会理想への進展が,云ふと云はざるとに拘らず,潜在して意識せられて居る」170) ととらえた時代は,過ぎさった。そのとき,此方において舞台前面に出現したのは,戦時体制期を迎えた経営学も強く意識すべき「戦争の目的」であった。そして,それを真正面より受容した平井の経営学は,当時の「社会理想への進展」,すなわち「国家目標:戦勝」に対しては「経営の倫理化」をもって具体的に応えた。 ゴットルは,「国民経済は今日の経済生活にとってはその全部分を,即ち要素的構成体並びに自己によって包括せられてゐるその他の構成体を担ふ,全体とみることができる」といっていた。いわば,戦時体制期における日本帝国は政治的支配者として,「国民経済者」という地位を意識し,強く関与した。換言すれば,国家が「総ての要素的構成体を自己の内構成体として構成的に包括する」「より高次の経済構成体」であることを再認し,「包括構成体に関する全構成作業」を「出発する〔させる〕といふやうな地位」を占めたのである171)。 結局,平井が構想した「経営学の理論的と政策論的な構想」=「一般的個別経済学」は,大東亜共栄圏における「日本帝国の覇権を正当化する」ための足場をえて,戦時企業体制的な「組織経済への転向」172) =「経営国家学」に飛躍したのである。
② 過去‐現在の体制と経営学者 1) 満州国経済政策の一斑 筆者は,本稿「Ⅰはじめに-経営哲学理論の試み-」の「②筆者の問題意識」において,有事法制を最近施行したこの国の政治的事情に言及している。 経営学という学問は,1931〔昭和6〕年9月「満州事変」,1937〔昭和12〕年7月日中戦争,1941〔昭和16〕年12月「大東亜戦争」という「アジア‐太平洋戦争:15年戦争」の時代に,どのように対峙してきたのか。そしてその間,どのような変貌をみせてきたのか。 21世紀に入って,日本の政治事情が1930年代の時代状況に似てきた,という指摘がなされている。歴史へのそのような回顧を踏まえ,昨今における日本の経営学に関して危険な予兆を感じても,けっして過敏な展望にはならない。 本稿が主にとりあげ,議論する小笠原『経営哲学研究序説』は,以上に指摘したような,最近の時代における危機的状況を寸毫も意識しない著作である。 そこでまず,小笠原英司が尊敬してやまない経営学者山本安次郎が,「公社企業」概念を戦時体制期の満州国において提唱した歴史的背景を,その「満州国の成立」と「満鉄(南満州鉄道株式会社)の調査部」との関連事情に触れながら,説明することにしたい。 小林英夫・福井紳一『満鉄調査部事件の真相』(小学館,2004年)を,しばらく参照する。 「満州事変」以後,短期間で中国東北を占領した関東軍が着手した課題は,この地に彼らのいいなりになるカイライ国家を建設することであった。そうした国家の建設のためには,それを企画する専門集団が必要となる。手近でこの課題に応えられる集団となれば,満鉄調査部をおいてほかになかった。1932〔昭和7〕年2月,満鉄調査部から分離し,関東軍の政策立案機関として新たにつくられたのが,経済調査会(経調)であった。 関東軍の要請をうけて成立したこの経済調査会は,満鉄の一機関でありながら,事実上は満鉄とは独立し,経済面において,関東軍の調査・立案をになう役割をもった。満鉄経済調査会は関東軍の「経済参謀本部」だ,といわれるようになった所以である。 経済調査会は,その根本目標として,つぎの4点の方針をかかげていた。
とくに,第4の方針は「満州経済統制策」として具体化されていった。 経済調査会が最初に手がけた国策案「満州経済統制策」は,同会第1部会の責任者宮崎正義が主導した。この案は,1932年6月開催の関東軍と経済調査会合同の委員会でその趣旨説明がなされ,満鉄の重役会議も社議として承認した。 同年8月関東軍は「満州経済統制策」を要約した「満州経済統制根本方策案」を正式の軍決定案とし,関東軍の企画指導はすべて,この案にもとづいて実施されることとなった。 そして,この「満州経済統制根本方策案」は,1933〔昭和8〕年3月満州国建国1周年の記念日に,「満州国経済建設綱要」へ引きつがれた。 「満州国経済建設綱要」は,満州国は産業を国家の統制のもとにおくという方針をしめした。しかし,それは,産業全体を国家統制するものではなく,重要産業は国家統制下におくものの,それに準じるものは法律や株主派遣で支配し,それ以外は自由競争に任せるというものであり,全体的に官僚統制の強い資本主義をつくっていこうとするものであった。 宮崎正義は,経済調査会の指導者として,満州国建国直後の経済統制政策立案に重要な役割を演じた。宮崎の発想は,のちに満州国産業政策の主流となり,戦後の「日本株式会社」論の原型にもなった。 やがて,満州国における経済政策立案の主流は,同国官僚の手に委ねられるようになり,満鉄経済調査会はしだいに傍流へと追いやられていった。1933年,宮崎が東京で日満財政経済調査会を組織し,日満挙げての統制経済を具体化すると,総合的な経済政策立案の中心はそちらのほうへ移動していった。 同年以降はまた,関東軍参謀部と満州国政府との関係が緊密になり,関東軍と経済調査会の関係にも変化が生じてきた。関東軍は従来,満州国政府の立案した政策案を,経済調査会の検討・答申を基礎に,いわゆる「内面指導」をおこなっていた。このやりかたが,経済調査会と満州国政府機関とのあいだの軋轢・確執を増幅させていった。 そこで関東軍参謀部は,経済調査会が機構として満鉄に帰属することを了解し,政策立案の主体からはずすことにした。1934〔昭和9〕年10月満鉄理事会の決定後,翌1935〔昭和10〕年2月から経済調査会は,名実ともに満鉄の組織の一部となり,ソ連調査や華北資源調査などの関東軍や天津軍からの依頼による調査なども,業務の一部としておこなうことになった173)。
2) 満州国建国大学と山本安次郎 さて,満州建国大学が「満洲国」の首都新京に開学するのは,昭和13〔1938〕年5月であった。すでに日中戦争の時期である。この国立〔官立〕大学は,日本が属国のなかに国策的に創設し,満州国の政治経済や産業経営の諸問題を,理論‐政策的に研究する高等教育機関であった。建国大学の教員たちは,カイライ満州国という存在を所与の枠組に据えられ,日本帝国の国家的価値観を大前提に踏まえる研究を総合政策的に推進することになった。 そうした建国大学創立の経緯でみれば,山本安次郎が『公社企業と現代経営学』(建国大学研究院,昭和16年9月)に披露した立論は,「満洲国」〔のちに「満洲帝国」〕の方針,およびこの国を創った日本帝国の「戦争遂行という全体主義的な政策」に,忠実にしたがうものであった。 山本安次郎『経営学本質論』(昭和36年初版)は,敗戦後もなお,「経営学が実践理論として仮言的判断を含み」,「理論,歴史,政策は認識の3方向」に関する「国家を主体とする経営政策を問題とする」「経営政策学は成立し得る」174)と,戦時体制期に発祥した自説の立場の〈正しさ〉を重ねて強調していた。 この発言の含意は,注意深く解釈されねばならない。 戦争の時代,満州国の歴史全般に関して山本理論は,「世界史的使命・課題」を誇大に高唱し,アジア侵略を正当化する思想を支持した。ところが,山本は,戦時体制期の主唱だった「公社理論が歴史に裏切られ」,戦争の「歴史がその経営政策を否定した事実」を直視できる感性をもちあわせなかった。彼は持論の虚偽意識を認識できないまま,学者生命をまっとうした。 ここでは,山本『公社企業と現代経営学』昭和16年9月の記述内容を復習しておく。 イ)「歴史の認識」 満州国における「歴史的現実に於ける危機を国家的根源的危機と自覚し,かゝる危機を媒介に,近代的企業の公社企業への現代的転換を根拠づけ,同時に近代経営学の現代的転換を試みんとする」。 ロ)「理論の立場」 当時における「吾々の現代的課題……作田〔荘一〕先生の主張せられる『国民科学』乃至『現代的学問』の確立」は,「国家の立場,国家的存在の論理の立場,謂はゆる『行為的主体存在論の立場』即ち『行為の立場』に於てのみ真に根柢的に具体的に把握せられる」。「経営学が真に経営学であるためには,それは歴史的現実に於ける……経営行為の原理の学でなければならない」。 ハ)「政策の目標」 「かゝる問題を一気に解決に導いたものは作田先生の『公社問題』であ」る。「『公社』の問題は吾々の経営学にとって正に一の試金石たるを思はしめるものがある」。 山本に再度,問う。当時の満州国において「かゝる立場に於てのみ現代的転換を意味」したことは,1945年8月まで実現されたのか? 以上の3点 イ) ロ) ハ) はみな「試金石」を当てられ,すでにその素性:結末:限界:問題がたしかめられてはいなかったのか? 1945年8月8日ソ連が日本に宣戦布告する。満州国は国内に根こそぎ動員をかけ,建国大学教授だった山本安次郎もそれに応召した。そのため彼は,敗戦後シベリアに抑留され,悲惨な収容所生活を強制された。
1947年6月10日日本に帰還した山本は,のちの1949年5月,彦根経済専門学校〔現滋賀大学経済学部〕教授として学究生活に復帰する。 満州国産業経済の発展に寄与するため,建国大学の経営学担当教授として研究に従事・活躍してきた山本は,敗戦後に,戦時中を以上のように回想していた。しかしながら,「皆が戦争犠牲者」だといったさい〈皆〉とは,誰のことを指していたのか。 満州国の建国理念には「王道楽土・五族協和」という標語があった。満州国内の実情では,「日本人が1等,朝鮮人が2等,中国人〔満人〕が3等」とそれぞれ階層づけられ,あらゆる場面で民族の差別が当然視されていた。山本はその「日本人1等」階層のなかでも,国立大学の教官として,最高の社会的地位に属した人物である。 「戦争の犠牲者」になれば,満州国で営為した学問の理論的内容は,戦後にその真価を問われなくてもよいのか。ところが,山本学説にとってこの問題指摘は,とうてい理解できないものだった。というのは,満州国の建国大学時代の研究業績が,敗戦後における日本の経営学界にも十分連続し妥当するかのように,山本はつねに力説してきたからである。 自説として展開してきた理論:「公社」概念と,これをもって対象にとりあげ議論した現実:満州国産業経済とは,完全に分離可能,別物だったかのようである。しかし,戦時体制の深化で「暗い谷間」にあった日本帝国とその属国の満州国においてだからこそ,「公社」企業論を,「国家科学」「国家の立場」に立つ「自説:経営行為的主体存在論」として政策的に提言した。これが,経営学者山本安次郎の立論であった。
この文章は,戦時中の研究状況の悪化を描いた記述,すなわち「準戦体制から次第に戦時体制に移行し,経済統制が強化され,激化する戦争の影響もあって,自由な研究や発表もとかく妨げられ,外国文献も途絶えて研究は停滞しがちとなり,さらには中止のやむなきに至り,極く少数の人びとのみが自己の道を守り,沈潜することが出来た」177)という段落につづけて,書かれていたものである。 戦争の時代,「研究は停滞しがち」だったが,「自己の道を守り沈潜することが出来」,「開眼の喜びにひたるこの出来た」学者もいたという。まちがいなくそれは,山本自身のことであった。いわば,山本『公社企業と現代経営学』(昭和16年9月)は,「本当の経営学の哲学的基礎に逢着し,開眼の喜びにひたることが出来た」著作であった。ところが,この著作において山本が主張した核心は,敗戦後,その根拠を徹底的に破壊されつくしたにもかかわらず,この業績をいつの時代にも通用する成果として誇示してきた。
3) 戦 中 と 戦 後 山本の戦後作,『経営管理論』(有斐閣,昭和29年)は,昭和17年建国大学のテキスト謄写版『現代経営管理論』を原本とし,学位論文となった著作である178)。 注意したいのは,その『経営管理論』〔「序」〕は,「問題を行為的主体存在論的に考えることの必要は今日いよいよ増大している……,本書の如きもその存在理由を主張し得る」と述べ179),戦時体制期に満州国で高唱していた自説の立場を,戦後においても復唱したことである。 同書の本文は,「古くから問題としている公社は,……国立公社に限定せず,寧ろ,会社企業を越えて考えられ,いわゆる公私混合企業に対して公私統一企業として規定せられるものも含むが,問題の中心は私立の公社である」と註記をくわえ,そこに,作田荘一『経済の道』も再度,参照文献に挙げていた180)。
山本学説の企業体制発展史「観」は,単純素朴で単線的なそれであった。「戦前戦時中は経済的国防力の中心として,戦後に於ては破壊せる国民経済の復興,やがては自立経済の確立を担当するものとしてその経営力の最高ならんことが要求せられる」182)という記述にみてとれるように,時代の変化を突きぬけて,ただ一直線にすすむだけの史観であった。 山本がまた,敗戦後における「経営の民主化は近代経営の構造的変革という正に歴史的意義をもつものといわねばならない。この意味にて,それは経営の歴史的社会的合理化といわねばならない」183)と発言した内容は,戦時体制期と敗戦後の政治的価値観の基本的な相違を棚上げしてのものであった。 「戦時は経済的国防力」であり「戦後は経営力」であるというような,体制無関連的な視点に立った生産力「論」的な視座は,社会科学に最低限必要とされる歴史的感性すら欠いた,根拠の薄弱な議論の見本である。山本は,敗戦を機に自身に降りかかった不幸・不運を,相対化も客体化もできない経営学者である。だから,戦時体制期とそれ以後に関連する論点については,なにをいわれても理解できなかった。 だが,山本は,自身の人生行路において岐路をもたらした,つぎのような自分史的な出来事に触れていなかったわけではない。 ◎-1「小樽軍教事件」 大正14〔1925〕年10月,小樽高等商業学校在学中の山本は,同校の「朝鮮人暴動」想定問題に端を発した軍事教練実施に対する反対運動に参加し,停学処分をうけた。小樽高商から挙がったその抗議の声は,全国に広がった。しかし,治安維持法下の弾圧はきびしく,山本は事後,学校当局によって会社就職の道を堅くとざされ,大学へ進学,研究者の道へすすむこととなった184)。 山本はまた,戦中→戦後に関して,「戦争経済から平和経済への転換,これにつれて思想,教育,文化,一切の価値の転換が問題となる。一つの革命といい得よう。だから,転換は復興であり,また発展である」185)と解説していた。 戦前→戦中,戦中→戦後に生じたそのような「時代の転換・発展」に言及するに当たって山本は,自身もその形成に関与した時代の要因だけでなく,自説が前提とした国家観も徹底的に破壊された事情を,真正面よりとらえることができず,別世界の出来事であるかのように放置してきた。それでいて,持論の価値=独自性だけは,なにも支障なく,激変した時代を生きぬいてきたつもりなのである。 山本がよく使う修辞・文章の表現方法に,こういうものがあった。「戦前史と戦後史とは連続の非連続であるよりは非連続の連続である。両者間には非連続の面,断絶の面が強いことは否定できないが,連続の面も忘れてはならない」186)。 人を「煙に巻いた」ような,こういう西田哲学的用法を駆使した衒学的な記述は,山本自身を除外してのものであった。筆者が長年にわたり,山本理論に対する経営思想史的分析をくわえ,その「〈連続の非連続〉即〈非連続の連続〉」の論理の「カラクリ=まやかし」を問題にし,批判した点を,彼は皆目理解できなかった。というより,指摘された問題点を理解しようとする姿勢すらなく,ひたすら反発するばかりだった。 山本はまず,自身の運命を左右した歴史的事件の「小樽軍教事件」に触れ,さらには,日本敗戦を契機とする「思想,教育,文化,一切の価値の転換」にも触れていた。そうであれば,山本の自説そのものをめぐっても,なんらか,戦中から戦後での「思想,教育,文化,一切の価値の転換」があったはずである。 ところが,社会科学者の立場にすれば非常に重大な意味をもつそのような思想史的な学問の諸事が,山本の悟性においては,自己の問題として客観的に意識化されることがなかった。歴史の展開に即してみればたしかに,山本学説の理論変質が記録されていたはずなのだが,これを平気で無視できた。 しかし,それとは対照的に興味深いのは,ほかの日本の経営学者に生起した「理論変更」をみのがさず,山本が指摘していたことである。他者の理論に生起した変質に対しては,手きびしい評言を残していた。 ◎-2「中西寅雄・個別資本学説の評価問題」 たとえば,中西寅雄「個別資本〔運動〕説」に与えた評言がそのよい例である。山本は通説的な解釈にしたがいながら,中西が『経営経済学』(昭和6年)の「マルクス〔主義〕経済学的な」学説を放棄したかのように理解したうえで,中西の「学者的良心と勇気に対して敬意を表したいと思う」と187),見当ちがいの態度をしめした。 山本は,「経営経済学の自律性の否定説(中西理論)から肯定説へ……の転換ないし転換の可能性を」指摘し,「個別資本説の開祖ともいうべき中西寅雄博士の否定説から肯定説への転換の宣言を忘れてはならない」と,これまた勘ちがいの認識を重ねたうえで,中西の立場に対する一方的で好意的な解説をくわえていた188)。 だが,以上のような中西「経営経済学」説の理解は,二重の錯誤を犯すものだった。ひとつは,中西にはもとより「転向」に相当するような理論の変転がなかったこと,もうひとつは,前段のような的外れの「評言」そのものを与えたことである。だが山本は,自身が背負わねばならなかった,つまり当人が十分気づいておくべき「歴史的な事実」に関しては,まったく無頓着であった。 ◎-3「規範学説の理解問題」 さらに山本は,西田哲学に開眼し,「経営行為的主体存在論」の立場を会得したという時期より以前,論稿「規範的経営学説の批判(1)(2・完)」(立命館大学『法と経済』第6巻第1号・2号,昭和11年7月・8月)を公表していた。これが実は,戦争の時代になってからの「自説の立場」を,まっこうより否定,批判する内容であった。 以下に引用する記述はすべて,事後に変質していき,登場する山本学説,「本格的な経営学」「公社企業」という立論を,根本的に批判しつくすものであった。
この規範経営学説に対する批判は,昭和15〔1940〕年を境に「戦時体制の経営学」へと変化していった「山本学説の運命」の,その後を予見していた。 つまり,「経営学に対する規範価値の措定は結局失敗に終ってゐる」。「更に事実上価値判断が行はれることから直ちに経営学が客観的価値判断をなさねばならないといふ主張に飛躍するの誤謬を犯してゐる。客観的価値判断の可能を論証せんとするが試みが,如何なる形で現はれやうと科学の領域に止る限り不可能であり,事実,規範的経営学説も一の独断に陥ってゐるのである」190)といったのは,山本だった。 昭和11〔1936〕年の時点で山本はまだ,独自の学説的地平を開拓・確保できていなかった。しかし,昭和15〔1940〕年西田哲学に開眼し,経営学の新境地を獲得できたと確信するとともに,前述のような「規範経営学派に対する根源的な批判」の立場は放棄した。そして,「戦争の時代が要請する方途」に迎合するかたちで,経営学の立場を規範科学化させていった。 山本は,「経営学も亦価値判断をなさねばならず,またなし得ると主張する点」「は結局失敗に終ってゐる」。なによりも「規範的経営学説」は,「客観的価値判断の可能を論証せんとするが試みが」「不可能であ」るのに,そ「の誤謬を犯し」「独断に陥ってゐる」と,きびしく批判した。 だが,山本は以後〔次段以下でより具体的に分析・批判することだが〕,国家全体主義が戦時体制期において求めていた「資本主義の矛盾の反映としての『正しき経済』への信仰の表明」を,経営学者としておこなうこととなった。「経営学をして科学ではなく,形而上学への道」に誘導する役割をはたしたのである。 1936年の「規範学説」批判の立場から,1940年〔以降の〕「規範学説」密着の立場へと移動した山本の理論だったのだが,筆者がその山本の立場を「規範学説」そのものに位置づけた観点をとらえて,「短絡的思考むしろ乱暴さに驚かされた」191)と,なぜか,さかさまに反発することになった。 しかし,1940年〔以降の〕の山本は,1936年の「規範学説」批判に明示した自身の立場を忘れさったかのようにも感じられた。譬えていうなら,1940年〔以降の〕山本自身は,1936年の「規範学説」批判による「その返り血を浴びる」べき必然的事由があった。戦時期に発想した自説を,全面的に否認するほかなかったその1936年の「論稿」の見解は,否定も撤回もされないままであった。 ところが,山本は1940〔昭和15〕年以降の自説の立場は,「広義の経営学を,時の構造(過去,現在,未来)からする認識帰趨に従って,歴史,理論,政策に分けるのである。経営政策即規範論の現実的必要と存立の可能を説くが,狭義の経営学は実践理論科学説をとる。単純に規範学派とされては困るのである」192)と断わって,西田哲学論を摂取した自身の「経営学方法論」が,いかに秀抜な観点に立つかを強調していた。 ここでまさしく,山本学説の規範的性格が問題となる。山本の経営学の立論は,1940~1945年の〈日本の歴史〉とどのように対峙していたか,そのなかでどのような〈経営の理論〉を提唱していたか,またどのような〈企業の政策〉的な概念を提案していたかなどを,筆者は斯学界の一員として山本に問うたのである。 山本は「いまや『古典』ともいうべき西田哲学については或る程度歴史的普遍性を認めてよいと思う」193)ともいったが,その「或る程度」とは,いったいどの範囲までを指すのか,全然自明ではない。もちろん,山本学説内での心理的な認識・感性的な理解では自明なことであるかもしれない。 しかし,社会科学者に「開眼」を要求する山本の学問のことであったゆえ,他者には計りしれない「或る程度」だと解釈することも可能である。とはいえ,それはあくまで「可能性の問題」であり,他者においては,どのようにしてであっても,理解しかねる要素を残すほかない表現であった。 山本は,筆者に対して,「西田哲学は」「われわれにとって唯一の経営哲学なのである」から「勝手な『解釈』をされても困る」ともいった194)。 筆者は,こういう種類の意見を聞いておかしいと思わずにはいられなかった。「西田哲学の解釈」は,日本の経営学分野のばあい「山本安次郎流のそれ」でしか許されない,あるいは,なんどもいうが「山本安次郎とともに開眼」しないと「会得」できないような性格の「哲学」〔専売特許?〕問題だとすれば,これはおよそ,「学問の世界」の出来事としては「眉唾もの」と処理されてよいのである。 山本は,戦時体制期に生起した研究環境条件の悪化・困難に対面するなかで,西田哲学「論」と作田「公社」論とにもとづく「公社企業」概念を構想し,戦争推進に積極協力する経営理論を昂揚させることができた。したがって,山本『経営管理論』「序」(昭和29年)が他人事のように回想した「戦争の時代における問題」指摘は,逆転させられてまさしく,山本『公社企業と現代経営学』(昭和16年)の内容を,つまり,過去の山本の学問のことを,ありのままに「記述したもの」ではなかったのかと反問されねばならない。 以下は,先述に引用の文章につながる個所からの記述となる。
この記述は,過去のものとなった「満州国企業経営体制の現実」を批判するかたちで,山本が残した文章である。だが,筆者が読んで感じたのは,山本『公社企業と現代経営学』(昭和16年9月)の立論も,この山本自身の批判を逆流させて甘受すべきものだったことである。 というのも,同書は結局,満州国政治経済の発展・成功にとって,必要不可欠な経営政策的とされた「理想的な経営概念」=「公社企業」論を高調する,すなわち「高く政治目的を掲げ徒に大言壮語し,主体性を高調するも客観的把握は軽視」する著作だったからである。 わけても,山本『公社企業と現代経営学』が強調したのは,満州国統制経済の改革に不可欠の目標像とされた「公社企業」論である。当時満州国が企業体制の中心においていた「特殊会社」を再組織するために,その公社企業「像」を政策規範的に用意したのである。 それゆえ,自説が「規範学説」の立場とまったく無縁であるかのように反論した山本の説明は,事実に反するだけでなく,虚偽といってもよいものであった。
4) 論稿「満洲に於ける特殊会社の再組織問題」 昭和16〔1941〕年5月25日,京都帝国大学経済学会大会において,山本が発表報告した論題を活字化した論稿「満洲に於ける特殊会社の再組織問題」は,こう提唱していた。
山本が満州国民経済に対して垂範した「真に」「正しき道」は,「特殊会社再組織の方向」であり,「公私企業の統一たる公社企業」の方途にあった。それは,満州国民経済を構成する「計画経済的再生産の自覚的担当者」に課せられた,社会科学的な「実験そのもの」でもあった。 実は,戦時体制期における「満州国民経済」に対してそのような主張を繰りひろげた山本安次郎こそ,「高く政治目的を掲げ徒に大言壮語し,主体性を高調するも客観的把握は軽視せられ」た立場に立っていたのではなかったか。そういう自他を「すりかえたような論法」はふつう,「天に唾する」とか「省みて他をいう」とかに譬えられてよいのである。 当時,「営利主義による能率増進の時代は既に過ぎ去った」と,山本は断言した。戦後,このことをどのように再論したのか。山本安次郎『増補経営学要論』(ミネルヴァ書房,昭和41年)は,こう説明していた。
この説明が「営利主義による能率増進」を排除しえないことは,贅言の余地もないくらい明らかである。つまり,戦争の時代に山本は,経営目的論について完全にまちがえた説明をしていた。戦後になると彼は,過去の自分の見解を否定する説明をしていた。 もしかすると,戦時期の満州国民経済における企業目的論と,敗戦後の日本産業経済における経営目的論とではその基本的な観点をかえてもよかった,とでも弁解するつもりだったのか。しかし,筆者によるこのような疑問の提示は,山本自身においては問題外というか,想定外であるかのように理解されていた。
5) 学会発表「公社問題と経営学」 つぎに,昭和15〔1940〕年10月20~22日神戸商業大学で開催された日本経営学会第15回大会で,自由論題「公社問題と経営学」を報告した山本は,こう主張した。
戦時期における満州国計画経済をとらえて,国家的な「行為の立場」「主体の立場」による「経済の経営化」だと観察した山本の理解は,平井泰太郎の戦時「経営国家学」を彷彿させる。山本はともかく,この論稿「公社問題と経営学」の末尾で,「吾々の課題を遂行し得たかどうか,それは批判にまつ外ない」199) と断わっていた。 満州国における「社会科学的な実験」だと山本が規定した経営政策的な「公社企業」論は,日本帝国の敗戦に遭遇することで水泡に帰した。1945年8月を境に,その実験を歴史條件的に囲んでいた現実的前提は一瞬にして瓦解し,そのすべてが喪失させられた。
「満洲国」建国大学在籍時の山本安次郎という経営学者は,どのように,その満州国の社会科学的な実験に関与してきたのか。ところがいまでは,満州国時代における「公社企業」論:山本の主唱はあたかも,「他人事」のように語られるか,あるいは「傍観者の立場」で観察されるかのように様がわりした。 山本「公社問題と経営学」はその冒頭部分で,つぎのように断わっていた。
「満州国時代における自説」のことでありながら敗戦後,それを他人事のように回顧・批判した山本の視点こそまさに,「現実の課題からではなしに,一定の学説に立つ学的理念から単に方法論的に問題とせられた」ものであった。 往時の山本学説:公社企業「論」は,満州国における「社会科学的実験」への参加をとおしてえられた「現実の課題から」の満州特殊会社に対する「批判」の基盤であり,かつまた,満州国民経済に対する「改革」のための具体的な目標を意味した。 だからこそ山本は,満州国の国策的な特殊会社を改編するための「公社企業」論を提唱した。この経営政策的な議論はたしかに,一定の「現実的迫力」をもっていた。しかし,敗戦後,その実験ははかない夢,つかみそこなった幻となった。 ところが,敗戦という歴史の審判を下されたために,その満州国の社会科学的実験に深い関係をもった山本学説も,「独断的にして説教的臭味さへ帯び,現実的迫力をもち得なかった」という結末を突きつけられた。にもかかわらず,山本「公社企業」論ものっぴきならない関与をしてきたはずの,満州国「政治経済史的な事実展開」の側面だけは引きはなすことができたつもりで,この側面をまるで他人事のように,〈大言壮語〉〈客観的把握軽視〉の時代だったと「超越的観念的」に非難した。このやりかたは,歴史の事実を無視し,自身の関与を無化させようとするご都合主義,いうなれば「頭隠して尻隠さず」であった。 もう一点指摘する。山本は,満州国「計画経済の当来性は最初から自明のことに属する」と論断していた。だが,その顛末はどうなったのか。この点の詮議はしないけれども,山本にとって事後,日本国‐満州国の「敗戦は自明ではなかったのか」とだけ付言しておく。 『公社企業と現代経営学』(昭和16年)において山本自身が動員・駆使していた,如上のような〈大言壮語〉〈客観的把握軽視〉をさらに,以下に列記しておこう。 a)「世界史的使命」,b)「世界史の創造者」,c)「大東亜の建設」,d)「世界新秩序の建設」,e)「真に国民経済本然の姿」,f)「国家的根源的危機」など。そして,g)「現代経営学は」,「現代的企業形態の特質を最も鮮明に浮き上らす」「公社経営論である」。これらは,山本が「本格的経営学」と自称してきた h)「国民科学に属すべき」「国家の立場」においての,i)「行為の立場」「主体の立場」における経営学の立場であった。 戦後において山本は,如上の a) b) c) d) e) f),すなわち「戦争の時代」の標語にほとんど言及しなくなかった。それらは,時代の推移から転落した概念であり,より正確にいえば,もう「言及できなくなったもの」だからである。→戦後に消滅した部分。 g)「公社経営論」は主に著作の註記中でなおも,断片的・散発的に言及していた。 h)「国家の立場」は註記のなかでわずかだが言及した。→戦後に多少はつづいた部分。 i)「行為の立場」「主体の立場」だけは,戦前‐戦後をとおして一貫して,繰りかえし主張されてきた。→戦後にもそのままつづいた部分。 これらのうち,「a) b) c) d) e) f)」群の「歴史観の問題」は,戦時中だけ威勢よく主張されていた。「g) h)」群の「経営政策規範論の主唱」は,戦時期においては当然だったものであり,戦後になると遠慮がちになりながらも依然,確信をもって記述された。そして,「i)」の「経営行為的主体存在論」は,戦時と戦後を通貫する見解として記述されてきた。 以上,3群においてとりあげられる論点の「明らかな相違」を無視したまま,戦時期も戦後期も自説の変転〔進展?〕に関して差異がないといいはるのは,どうみても大きな無理がある。 前述にもあったように山本はご都合主義の用法で,「戦前〔戦時〕史と戦後史とは連続の非連続であるよりは非連続の連続である。両者間には非連続の面,断絶の面が強いことは否定できないが,連続の面も忘れてはならない」と断わっていた。まさにそのとおりである。 山本は,「戦前史と戦後史」において「非連続の面,断絶の面が強い」自説に不可避で固有な難点を,その「連続の面も忘れてはならない」と自己弁護するやりかたで,ごまかしとおしてきた。筆者は,「連続の面」を「忘れない」でくれ(!)とばかり強調した山本理論の「歴史的な断続性」を,その「否定できない」はずの「非連続・断絶の面」に注目することで,総合的に批判してきた。山本は,筆者のその批判に対して答えるものがなかった。
6) 論 争 の 紹 介 筆者は,前段までのような把握を介して,山本学説の基本的な問題性を考察してきた。これに対して山本が筆者に返した応答では,当初自説に関心をしめした筆者の存在を歓迎したようすだった。しかし,しだいに批判的立場を明確にする筆者を,自説をまったく「理解〔開眼!〕できない反対者」という範疇に閉じこめることで,山本は排除しようとした。
そういった山本だが,論稿「経営学と西田哲学」(『彦根論叢』第164・165号,人文科学特集第30号合併,昭和48年11月,陵水五十年記念論文集)では,こう主張していた。
西田哲学への強い共感と信頼を抱いた山本は,「経営を経営的世界において行為的主体的に考察するとき,……経営の現実に即して……経営の論理に従い『行為的直観』的に考察すれば,必然的に経営の経営的考察が可能となり,本格的な経営学への大道が展開されることとなる」。「ドイツ経営学とアメリカ経営学との統一を可能にし,本格的な経営学の確立を約束する道はここにしかないのである。1人でも多くの人がこの道に開眼されることを期待したい」とまで,自説の卓越性・秀抜性を誇ることになった203)。 山本はさらに,「真理は自らの道を開くからである」ゆえ,「われわれは西田哲学を経営哲学として無理強いする積りはない」が,「ドラッカーの要求する『新しい哲学』を『西田哲学』に認めることが出来るのである。また認めなければならない」と結論した。結局,「西田哲学を経営哲学として読みとらねばならない」204),といってのけたのである。 ここまで自信の横溢する山本流「経営‐経営学のための西田哲学」論を聞かされ,どうしたら,「西田哲学的性格をあまり強調しすぎたきらいがあったかも知れない」と応えた山本の弁解が,納得できるというのか。不思議なまでに不可解な対応である。 山本経営学説はその基本的思考を西田哲学に強く依存してきた。筆者はだから,西田哲学の摂取のしかたまでふくめる方法で,山本の主張に批判的考察をくわえてきた。ところが,山本は筆者に対する反発を強めるあまりか,うっかりつぎのような「根拠のない反論」を放ったこともある。
先述に紹介した山本稿「経営学と西田哲学」の記述からもわかるように,「西田哲学,西田哲学といい」つのり,自分とまったく同じように西田哲学を読み,開眼せよと他者に迫っていたのは,実は山本安次郎自身であった。山本は,自分の西田哲学理解のみが正しい経営学的な咀嚼と考えており,それ以外の「開眼」をけっして認めない。 山本流の西田哲学理解をのぞけば,ほかはみな「勝手に解釈したり,見当違いの引用」「批評」になる,と断定されていた。山本はみずからの主張と異なり,各自が西田哲学を「直接読めば味わいも異なるであろう」ことを認めない。げに恐ろしいまでの自己過信である。 山本は「裴が『西田全集を読まない』」ともいったが,どのような証拠があって確認できたのか,それはもうびっくり仰天するような独断であった。当時筆者の研究生活を四六時中監視していたわけでもあるまいに,冗談にもならない話であった。 筆者は,すでに挙げた山本関係の諸論著もふくめて,山本学説に関して膨大な論考を公表してきた。山本の「拙著,拙論」は,「慌てないで,もっとじっくり落ちついて,謙虚に読んで理解して」いくように,その後もつづけて努力してきたつもりである。 しかし,山本学説の理解者にはならず,その反対者でしかなかった〔が,それでも最大の理解者であった(と思いたいのだが)〕筆者の批判を,山本はいっさい理解できなかった。筆者が,戦争の時代にかかわって山本の学問が生んでいた「戦争責任の自覚や加害者意識の問題らしい」対象を指摘した点を,山本は「いくら忌憚なき批評とはいえ,何をいうのか理解に苦しむ」206)といって,猛反発するにとどまっていた。 筆者との論争を経ても,単に「問題らしい」対象としてしか山本安次郎が理解できなかった論点は,以下の論及をもっていくぶんか説明してみたい。 山本が教員だった満州国の建国大学で学んでいた,とくに中国人や朝鮮人の学生は,この大学とその教員たちを冷徹に観察していた。そして実際に,ひそかに反発し,表面化しないように抵抗運動もした。そうした抵抗が発覚し,囚われの身になって,命を落とした建国大学の中国人学生もいた。 昭和17〔1942〕年3月2日,建国大学の中国人学生たちに対する逮捕・取調がはじまった。この事件は,昭和16〔1941〕年12月30日,満州国主要都市の進歩的知識青年・学生,さらに青年公務員らが極秘裏に組織した反満抗日運動に対して,日本がわがはじめた弾圧の一環であった。 その運動は,けっして過激なものではなく,むしろ読書会の啓蒙的な活動であった。これをでっちあげたのは関東軍であり,日本当局であった。昭和17年6月6日,その事件に対する責任をとった作田荘一副総長の辞職が発表された207)。 「日本人の獄吏は,中国人の被疑者を人間と思っていなかった」208)ともいわれるが,満州国における日本人のそうした態度は,その人口の大多数を構成する中国人全体に対するものでもあった。満州国を構成する各民族間に生じていたそのような葛藤・対立は,建国大学内において上記の事件を発生させた。 この大学の教員だった山本安次郎は,前段に言及した中国人学生の逮捕・取調にはじまる事件を,当然しっていたはずである。山本はその事件になにも感じなかったのか。自分の地位とこれを囲む環境に安住するだけだったのか。 湯治万蔵編『建國大學年表』(建国大学同窓会 建大史編纂委員会 代表坂東勇太郎,昭和56年)は,日本人が編纂した文献である。建国大学において,日本人以外のアジア諸民族の学生たちは,どのような教育をほどこされていたのか。また,その学生たちは,この官立大学からどのように巣立っていったのか。 そのような論点はついては,関連の文献を挙げておきたい。
以上5著はいずれも,山本安次郎没後に公刊された著作である。筆者が山本と論争した時期は,1970年代後半からであった。それから早くも四半世紀もの時が経過した。 1995年以後刊行の,満州国「植民地教育」問題をあつかった「5著による分析視点」は,経営学者山本安次郎による満州国産業経営論に対して筆者が突きつけた「批判的視点」の必要性を,満州国官立大学で山本が教鞭をとっていた関係面からも,まちがいなく支持するものである。 建国大学の中国人・朝鮮人学生は,教員の1人としての山本安次郎を,どのようにみていたか。そのことに山本は少しも考えがおよばなかった。山本が教えを授けるようとしていた相手:中国人や朝鮮人学生は,そのほとんどが山本という日本人教員の国家的背景,その思想的な支柱を否定していた。 経営学者山本安次郎は,そうした教室内の間柄ではあったけれども,満州国の「国家の立場」に立ち,経営学を彼らに向かって講じていた。彼我においては,思考の方式および思想の保持に関して重大な齟齬が厳存していた。山本は教鞭をとりながらこの種の問題:障壁に気づくことがなかったのか。結局,多分そうだったと推測するほかない。
山本安次郎のような「日本人学者」:「日本民族」の立場は,中国人や朝鮮人がわの批判的視点=「日本帝国主義による満州‐満州国支配統治に対する反対・抵抗」が理解できなかった。このことはある意味で当然である。「満洲国」に生来固有だった国家的な性格:「帝国主義的侵略性」を,山本は,認知も理解もまったくできていなかった。いかにも理性的に不感症であり,歴史的な視野もせまかった。もとより,経営学の研究に従事する「人間としての感性」が疑われてよかったのである。 なかんずく筆者は,斯学界の権威的大学者山本安次郎が,「自説を批判した」若手研究者〔「当時の筆者」のこと〕に対して非常に狭量な態度しかとれず,返してきた反論の内容もその学術性に欠損を示唆するような筆致であったことに接し,非常に落胆した。 わけても,筆者のごとき「批判者」に対する山本の応対で興味があったのは,自説への賛同者・支持者を「理解者」,自説の批判者・反対者を「無理解者」と,単純にむすびつけ,二分する点であった。 筆者のしるかぎり,斯学界内には「山本経営学」の賛同者・追随者が一定数,存在する。しかしそれでいて,山本学説の基本的理論を歴史的淵源までさかのぼり,その本質的性格を〈理解〉したうえで,賛同・追随してきた後進の経営学者がいたかというと,残念なことにいない。 筆者は山本理論をまっこうから批判した。そのさい理論面だけでなく,思想・哲学面からも,歴史的観点〔「戦争の時代と関連する問題」〕を忘れずに批判してきた。山本経営学に魅惑された賛同者・追随者は,その抽象理論面にかぎって習作・理解するにとどまり,思想史・哲学史の底面より,とりわけ西田哲学や戦争と関連する問題を歴史的な観点においてとりあげ,山本の主張を分析・再考することはなかった。 結局,理解の水準やその質量を計慮していうならば,自分にとって「不十分な理解しかない賛同者」が理解者とされ,それに対して,「ある程度理解のある批判者」が非理解者とされるというぐあいに,珍妙かつ恣意的な腑分けを,山本はほどこした。もっとも,こういう分別は,第3者の審判に任せたほうがよいかもしれないものである。
論争に誤解はつきものかもしれない。ともかく,西田哲学によってこそ「本格的な経営学に開眼した」と豪語できた経営学者が,山本安次郎である。山本はその「開眼」に絶大な確信を抱き,他者にも「その感覚」を共有すべきことを勧奨した。 社会科学の学問世界のなかにそのような宗教用語を,譬えだとしても直接もちこんでいいものか,疑問のひとつももたれて当然である。というのも,山本学説のばあい,単なる修辞方法に終わる問題ではなかったからである。 思うに誰でもそうなのだが,自説に賛同し唱和する後進の研究者はとてもかわいいが,逆に,反対し批判し挑戦してくる若手の挑戦者は,すごく憎たらしいのである。このことは,学者とて人間であるから,ごくふつうの感情である。 しかし,問題は,学問の世界,理論の闘争,本質の追究,歴史の解明,事実の理解などに関するものである。山本安次郎は1994年,90歳になるまで生涯現役だった経営学者である。だが,いかんせん加齢にしたがい,研究者としての柔軟性を確実に減損させていった。 要は,山本安次郎流「本格的な経営学」:「経営行為的主体存在論」は,西田哲学に一方的に依拠するだけであり,個別科学の立場から逆方向に「哲学する」経営学者として,哲学の世界における思索の領域に向けて,実質的に貢献する場面をもてなかった。 山本はさらに,社会科学者として実際に対面してきたはずの「戦争と平和」の問題を,哲学的にはもちろん,経営学者の立場からも意識的に議論することができなかった。 戦時体制期において,日本経営学会が開催した全国大会の「共通論題」,それもたとえば,第11回「統制経済と企業経営」昭和11年10月,第13回「戦時体制下に於ける企業経営」昭和13年10月,第14回「価格統制」昭和14年10月,第15回「利潤統制」昭和15年10月,第16回「生産力拡充に関する諸問題」昭和16年10~11月などを想起すればわかるように,戦争事態に対して抜きさしならぬ関係をもちつつ,経営学という学問も営為されていたことは,歴史上明白な事実である。 既述のとおり山本も,日本経営学会第15回全国大会のかかげた共通論題「利潤統制」では「公社問題と経営学」を発表報告した。この研究は,満州国統制経済体制をとりかこむ戦争状況にどっぷり漬かった経営学の立場より,国家全体主義的な公社企業「理論の構想と展開」を披露していた。 山本は,戦争体制期の満州帝国〔および日本帝国〕という「国家の立場:危機」に対処すべき「経営政策論:公社企業概念」を,しきりに強調していた。だから筆者は,山本『公社企業と現代経営学』(昭和16年9月)などの文献のなかに論述されたその政策論的な提唱をとらえて批判した。この問題点は,筆者が山本と論争をとおして,より明確に指摘することになった。 山本自身の表現を借りて,もう一度,その問題点を指摘しておく。
だが,山本は筆者の問題指摘を全然理解できなかった。また,理解するための触覚さえもちあわせていなかった。筆者の度重ねてのきびしい批判・指摘をうけたのちでも,山本は曖昧にしか理解しかできず,ただ「戦争責任の自覚や加害者意識の問題らしい」と,それも猛反発しながら答えたにすぎない。 基本的にいって,山本が戦時期にとなえていた「世界史的使命」と,そして,戦後にもとなえた同じことば:「世界史的使命」との思想史的・時代史的な意味は,決定的に異質であったはずである。この程度の問題を歴史学的に弁別できず,くわえて,そのための哲学史的な議論にさえ無縁だった経営学者〔?〕が,戦争の時代と平和な時代の断絶を簡単に無視して,そのことば:「世界史的使命」だけは「非連続の連続」的に継承できていた,というわけである。 山本はなにゆえ,戦時体制期への自身の深い関与をおきざりにしたような,というよりも逆に,当時の戦争翼賛的経営理論を誇るかのような「戦後における理論展開」を継続してきたのか。その姿は,社会科学者として具備すべき最低限の職業倫理的な感性をもちあわせていなかったこと,すなわち,研究者として必要不可欠な初歩的な意識水準にも到達していなかった者の,比類なき具現であった。
「科学の科学である哲学」と「社会科学の1部門である経営学」だからといって,そのあいだに主従の関係があるのではない。分担・分業の関係はあるが,学問的な関係としては対等であり,ただそれぞれの思考の方法や志向性,対象の規定や守備範囲が異なるだけであって,基本的に序列を付けるべき間柄にはない。それゆえ,「哲学と経営学」の関係では,相互に発展を啓発するような立場が要求される。
③ 現在の有事体制と経営学者 1) 公害問題と研究者の姿勢 公害問題に関連して環境問題の研究者が2004年12月,30年以上もさかのぼる,こういう話を報告している。
この例は,産業界と大学との関連で生じた学問抑圧の問題ではなく,市立大学大学院の教授会がみずから大学院生の研究成果に圧力をくわえ,「人:研究者を殺す」ことになった事件である。これが産業界と学界との関連になると,もっとすさまじい学問への抑圧が惹起する。 水俣病公害事件に関連しては,こういう出来事もあった。西村 肇・岡本達明『水俣病の科学』(日本評論社,2001年)は,西村 肇(東京大学名誉教授)が,以下のような「遅すぎた事後報告」をしている。
叙述中に出ていた「皆さん」とは,日本資本主義支配体制の中核の一部,具体的にいえば,産業界〔特定の工業大会社群〕のことである。西村 肇が先輩教員の忠告に耳を貸さなければ,もしかしたら,「関西の小さな大学に移すことで〔の〕話」さえまとまらなかった可能性があったかもしれない。つまり,西村をほかの困難な状況に追いこむ事態が用意されたかもしれない。 小松 裕『田中正造-二一世紀への思想人-』(筑摩書房,1995年)は,日本の公害闘争史に登場した偉人である田中正造が,「人間が,人間であるために,人間としてこだわりつづけなければならない価値とは何かを明瞭に指し示している」と位置づけ,さらにこう述べていた。
産業企業がもたらす公害‐環境破壊によって,甚大な被害をうけてきた地域住民のために必死に闘争した田中正造が真正面より激突したのは,まさしく,国家そのもの:資本主義支配体制の全体であり,その頂点:中枢であった。 しかも,その公害を生んだ会社が,明治以降帝国主義路線を推進してきた日本が戦争をするうえで必須の重要物資「銅」を精錬する鉱山を経営していたことは,日本経済が資本主義化を急速に推進してきたがゆえに発生させた公害史を,端的に象徴する事実であった。 戦争の時代になるや,その目的達成のためには手段を選ばないかたちで,学問や思想に抑圧・弾圧をくわえる国家体制は,強制的指導による政権運営を実行することになった。いうまでもなくそれは,いくつもの産業界をたばねる財界〔経済団体〕組織をさらに包摂したものうえに屹立する,「政治的な権力集団:国家体制そのもの」が担当・執行するものであった。戦前‐戦中の日本の学問・思想に対しては日常的に,国家体制による絶大な規制,徹底的な弾圧がくわえられてきた。 前述のように自然科学の研究でも,経済社会を中枢で制御・支配する組織体制を具体的に批判し,糾弾する者が登場することになれば,彼の息の根を止めるほど圧力がくわえられることは,よく起きることである。ましてや,社会科学的研究に従事する人間に対する支配体制がわの警戒心は,「自由な研究」など頭から認めようとすらしない精神病理を正直に反映する。 最近は,会社の姿勢を法‐倫理的に方向づけるために,企業統治(コーポレートガバナンス)や法令順守(コンプライアンス),内部告発の奨励などが重要な関心事になっているが,一朝一夕にあらたまるような問題ではない。しかも,ここで論じている課題は,数百年の各国資本主義の歴史を回顧してみれば,またその経済体制的な本性を把握すればわかるように,はやり‐すたりのごとき論点でもない。 西村は宇井 純の氏名を挙げていたが,奥村 宏『会社はなぜ事件を繰り返すのか-検証・戦後会社史-』(NTT出版,2004年)も,公害問題にとりくんだ批判精神ある学者として宇井 純や原田正純の氏名を挙げ,「これはごく少数で,多くは御用学者か,あるいは無用学者である」と喝破した。奥村の意見を,少し聞いておく。
戦時体制期の日本帝国は,国家社会主義イデオロギー,具体的にいうなら「日本神州」論・皇国史観,「惟神」論・大和魂が,猛威を振るっていた。本稿でとりあげた経営学の研究分野でいえば,イ)「満洲国」建国大学教員だった山本が「公社企業」論を昂揚し,ロ) 神戸商業大学教授だった平井泰太郎が「経営国家学」を提唱し,ハ) 大阪商科大学教授だった村本福松が「翼賛経営」論を推進した。 この経営学者3名にかぎらないが,大東亜「戦争事態を合理化する理論」構想は,「国家主体の立場」による産業経済・企業経営の戦時的統制に率先協力するものであった。当時を生きた社会科学者の大多数は,帝国日本に対する尽忠報国の熱誠を発揮し,皇国臣民の基本姿勢たる「職域奉公」の実際的精神に徹していた。 上記3名以外にもさらに多くの経営学者が,戦時体制への熱心な協力者として,それぞれが個性ある学問成果を挙げてきた。戦争中はマルクス主義の立場・思想で経営学を展開してきた学者でさえ,「国家全体主義を支持するゴットル経済科学論」に賛成する立場を明確にしただけでなく,ほかの経営学者たちに対してもその摂取のしかたが足りない,と忠告・催促するほどであった。ごく少数だったが,入獄させられ生命の危機に瀕した経営学者もいなかったわけではないが,例外的な存在であった。
2) 有事体制と経営学者 さて,小笠原英司は,「人間性(主体性)という人間存在の根源的要因を実現するような〈生の活動〉にほかならない」「人間生活こそ,われわれのいう『経営』の原型なのである」と主張した。というのは,「経営は生活と同型であり,人間生活の基本原理-人間性と社会性-の実現をもって経営性の本質とみる」からであった214)。 「経営性の本質:人間生活」の問題をこのように把握した小笠原は,その主観的な意向いかんにかかわらず,戦時体制期において先達たちのはまりこんだ迷路に,再び近づきつつあるかのように映る。筆者がここで言及する論点を,小笠原は恐らく,自説の議論の範囲を越境した「途方もない言説」とうけとめるにちがいない。 かつて筆者が,山本安次郎の「経営行為的主体存在論」に対して,戦責問題に関連する議論を対抗させたとき,山本がみせた反発の強さを思いおこせばよい。しかしながら,旧日本帝国主義の国家目的:東アジア諸国侵略‐支配に役立つ理論的な立場に立脚した「社会科学としての経営学」は,20世紀の歴史を矮矯に把持しただけでなく,当時の経済‐社会の真理や事実をありのままに描くことさえできていなかった。 1980年代後半,日本経営学会理事長を務めていた海道 進は,過去を振りかえり,こう警鐘を鳴らした。それまで「60年の歴史を回顧いたしますと,一つの歴史的教訓が与えられます。それは,若い世代の人々が,戦時中の多くの経営学者が犯した戦争協力への誤りを再び犯さないことであります」215)。しかも,当時の「経営学者の99%がこの誤った道を歩いたという苦い歴史的経験があります」216)。 2003年6月に成立した「有事法制」〔有事関連3法:「武力攻撃事態法」(包括法案),「自衛隊法」,「安全保障会議設置法」(個別法案)〕を,平和で自由たるべき日本を不自由で劣悪な国にし,日本国民を不幸な民にするから許せないという憲法学者小林直樹は,その理由を5項目挙げている。
ここに引用した内容のうちとくに ホ) は,小笠原「経営哲学理論」も基本よりその解決・解消に賛同する立論だと思う。この5項目を引照した著書はその「あとがき」で,憲法の基本的諸価値を根底から脅かす政治の進行とそれに対する不信・不安について,こう説明していた。小笠原の経営哲学も,こうした諸問題の防止・解決を意識する理論活動に努力しているとうけとって,けっして過大評価にならない。 それは,イ)「戦争をしない国」から「戦争をする国」へのなしくずし的で本格的な転換の動き,ロ) 社会国家〔福祉国家〕にもかかわらず社会的弱者のいじめの政治の進行,ハ) 文化国家の理念のもとにおける研究・教育などの冷遇,ニ) 自治体を破壊しかねない地方自治の軽視,ホ)「全国民の代表」「全体の奉仕者」であることを忘れた政治家と官僚による構造的汚職の進行などに対する不信と不安,などである。これらが要因となって,ヘ) 経済と財政の破綻状況も強化されている218)。 雑誌『論座』2005年2月号は,「溶解する日本1995-2005」という簡潔な年表をかかげ,「この10年の主な出来事」を列記している。この年表から本稿に関連の深い出来事のみ拾いあげておく。 ◎ 1999年5月 ガイドライン関連法成立 ◎ 1999年8月 国旗‐国歌法成立 ◎ 2000年5月 森 喜朗首相の「神の国」発言 ◎ 2001年4月 小泉純一郎内閣発足 ◎ 2001年9月 アメリカで同時多発テロ ◎ 2001年10月 米英軍がアフガニスタン空爆を開始 ◎ 2003年3月 イラク戦争開戦 ◎ 2003年6月 有事法制関連3法成立 ◎ 2003年12月 自衛隊イラク派遣の基本計画決定 戦争の時代の「少国民の研究」で有名な山中 恒は,戦争の時代の事実がまるで伝わらなくなっている現実に怯える」と書いた著作,『戦争のための愛国心』(勁草書房,2004年12月)で,21世紀初頭にある日本社会の現状をこう論じている。
明治政府は,天皇の神秘性を核心として西欧に似た近代国家‐擬似近代国家をつくりあげようとした。保護と忠誠の集団階層ピラミッドの頂点に神秘的な天皇が座ったことが,日本型擬似近代国家の最大の特徴である。 しかし,その擬似近代国家は思想上の深刻な矛盾を惹きおこさざるをえなかった。その矛盾のはけ口は,天皇の御稜威のもとに,「近代国家」の軍事力により,朝鮮と清国を侵略して国威を揚げ,天皇中心の国民の「団結」イデオロギーを煽りたてる方向に向けられた。天皇制は日本軍国主義と一体のものとなった221)。 小泉純一郎現首相の「靖国神社参拝違憲九州・山口訴訟団団長」の郡島恒昭は,国家が神道を利用し,神道が国家を利用することについて反対する。そして,「国家神道(天皇教)」の構造を,以下のように解説している222)。
この日本国家の与党は現在,特定の宗教団体の支持をうけた公明党と組んでいるのだが,最近の日本国首相小泉純一郎による靖国参拝問題もさることながら,天皇制「民主主義」という「根源的に矛盾をはらむ」戦後政治体制を超克できていない。それどころか,かつてとはまたちがった現代的な再編成をこの国にほどこすかたちで,「往時の体制への退歩」:「戦前回帰への夢想」を画策する国粋・保守勢力が台頭してきている。 ほんの一部分だがその潮流を,2005年1月に報道され出来事3件にかいまみることにしよう。
現代日本の国家体制は,戦前‐戦中の戦争遂行的な国家体制とは根本的に異なっている。しかしながら,最近におけるこの国の世間は,言論・発表や思想・信条の自由を圧殺するような怪しい雲行きである。 山口二郎(北海道大学法学部教授)は,「ビラ配布」事件などについて,「警察や検察がこうした政治的弾圧を行なうだけではなく,裁判所も立憲主義を守る役割を放棄している。……裁判所は検察に言われるままに逮捕状を出し,長期の勾留を認めた。また,……検察の拡大解釈を追認して,有罪判決を出した。これが,司法の役割の放棄以外のなんであろうか」と223),裁判所〔司法〕機能の溶解現象を指摘している。 だから,前出の山中 恒はさらにこうもいっていた。昨今,教育勅語のような方途を,学校教育の現場においてまず復活させようとする政治家や学者が登場している。保守派は,この事態が時代錯誤を突きぬけて奇怪でさえあることを考えてもおらず,そこに国体原理主義者たちの執念深さがみてとれる224)。 戦前の靖国神社は本質的に軍事施設であり,軍が管理する宗教施設であった。2002年4月21日,日本国総理大臣小泉純一郎は靖国神社を参拝した。この宗教行為は,明治維新以来の天皇のために戦死した者への〈追悼〉である。もはや戦後を引きずる時代ではない,戦争総決算のときであるという,日本国首相の時代認識が明瞭にしめされた。 「大東亜戦争」どころではない。明治維新以来の日本の天皇の命令によっておこなわれた戦争全体が「正しかった」と,小泉純一郎は行動でしめしたのである。この延長線上に想定される「戦争」にこそ,有事関連法制の意味がある225)。 つまり,近代民主主義の原理に照らしてみれば,アメリカ軍を中心とする連合国最高司令官総司令部(GHQ)が敗戦後の日本に残してくれた,まことに奇妙なる天皇制「民主主義」体制の,さらなる反動的・反民主的な再統合が,最近は企図され,実行されてきている。 昭和10年代の戦時日本は,中国との泥沼の戦争から足を抜けないまま,アメリカやイギリスとの全面戦争に突入した。ところが,この国はいまや,かつて鬼畜米英と憎悪したその敵国アメリカの「現代風の帝国主義」に付和雷同,追随する属国になった。この日米政治関係体制のもとでは,前述のような戦前回帰的な反動現象が現実に惹起している。 経営学者の海道 進は,過去の戦時体制期において,日本の経営学者のばあい99%が戦争に反対せず,協力してきたと指摘した。敗戦後における日本の経営学界の理論活動は,戦前‐戦中期に生起した「関係する事象」を,まっとうに回顧も評価もしてこなかった。「戦時体制期の経営学」を真正面よりとりあげ,分析をくわえ,経営思想史観点から批判してきたのは,いままでのところ,筆者だけだったようである226)。 過去に遺された膨大な分量の「戦時体制期の研究の軌跡:業績成果」に接することはたやすい。とはいえ,この方面の論題を実際に追究することになれば,同学の士からも反発や邪視をうけやすい。ときには,その研究に対して迫害や圧迫にひとしい非難・反撃がくわえられることもある。とはいえ,過去の手痛い教訓に学ばず,斯学界の周辺でも再び現実化している「今日的な学問危機の状況」に対処できるのか。 たとえば,教育学界の戦争責任を追究した長浜 功がその体験者である。長浜は日本の教育学界を,「真理と真実より周囲と恩師への気がねが優先されている土壌にわたしの入る余地はないようであった」と観察した227)。筆者のばあい幸いなことに,研究者としてそこまでひどい環境におかれたことはない。 前出の海道 進は,筆者に対して支持・応援のことばを送ってくれていた。しかし,みずからの尊厳と品位を欠くような態度で,筆者に接する経営学者がいなかったわけではなく,事実,ずいぶん嫌な思いをさせられた経験もしてきた。いまではそれもひとまず,過去の話となったが。 憲法再生フォーラム編『有事法制批判』(岩波書店,2003年)は,工業企業による公害問題〔水俣病など〕や薬害被害にも触れて,こう述べている。
大田昌克『盟約の闇-「核の傘」と日米同盟-』(日本評論社,2004年8月)は,最近の日本の政治情勢をこう語る。
現在日本で施行されている「有事法制」は,戦前の「国家総動員法」を下敷きにしてもいる。日本軍事史に聞くまでもなく,過去の日本軍国体制の知識・情報・技術が,現代的に再利用されている。だから,軍事問題を専攻する研究者は,つぎの警告を発している。纐纈 厚『有事体制論-派兵国家を超えて-』(インパクト出版会,2004年6月)に聞く。
纐纈 厚『有事法の罠にだまされるな ! ! 』(凱風社,2002年)は,有事法制の意味をさらにこう解説する。
結局,有事法制による一連の関連法整備は,世界1級の陸海軍の軍事装備を備え,日米合同演習を積みかさねてきた日本の自衛隊が,アメリカ軍の要請に応じて,アジア太平洋地域の周辺事態のもと日米共同作戦を展開する,真に戦える自衛隊に変貌していくことを狙っている232)。 以上,政治学者などの有事体制「批判」論に聞いた。筆者は,日本の経営学者が「戦時体制期の経営学」にあらためて学ぶ余地があると痛感する。
Ⅶ 結 論
① 経営哲学と経営生活 21世紀初頭,小笠原英司『経営哲学研究序説』は,こういう主旨を提示した。 a)「事業の使命」 「現代経営とりわけ日本経営の原理的課題を明らかにしてい」くために,「事業戦略を物的富裕の視角から計画する企業経営と組織経営の論理に代えて,事業使命を人間生活の全体化と『社会的厚生』の倫理のなかで再構成する事業経営の本然の論理を展開する」。 b)「経営の本然」 「経営の本然的原理は単純明快である」。「それは『事業への社会的要請に対して適切な事業経営によって応答すること』に尽きる」。それゆえ,「経営の公共性について語るとき,また問題とすべきは事業経営の問題である」。 c)「事業経営の正道」 「事業経営とは経営体じたいの『生活』を充実したものにする営為であれば,その使命ないし社会的アイデンティティは,国民生活の充実に対して支援的に寄与することにおいて見出される」233)。 20世紀中葉〔1940年代前半(昭和15年~16年)〕からの山本安次郎の見解は,こういうものであった。 a)「事業経営」 「経営が本来的に『事業経営』であることを忘れ,単に経営一般として問題とし,『事業』を忘れてしまうのが従来の経営学であった。われわれは経営学の対象たる経営がまず『事業経営』であることを高調せねばならない」。 b)「本格的な経営学」 「経営は事業経営と企業経営との統一であって,経済や管理や組織と関連しない経営は存在しない」。「主体的行為的な経営存在として統一的全体的に研究するのが対象の性質にふさわしい『本格的な経営学』の道である」。 c)「経営行為的主体存在論」 「経営は経営の身体としての経営組織,事業組織によって現実に商品を作り事業を営み,その作られたもの(商品)によって初めて経営となるのである。主体的とはこの意味で,行為的であり,生産的である」234)。 --小笠原も,『経営哲学研究序説』第Ⅲ「経営実践」第12章「経営戦略と事業-事業使命論の原理-」第3節「事業経営と〈社会〉主義経営」で,「現代経営は『企業経営』から『事業経営』へと新たに転回すべきである」といった主張は,「かつて山本安次郎が『企業経営から事業経営へ』と述べ,さらに『会社から公社へ』と主張した」その「内容とほぼ軌を一にするベクトル上にあったと理解できる」と,自説を位置づけた。 戦時体制期だからこそ,その発想源泉を獲得しえた山本の「経営行為的主体存在論」的な「事業経営=公社企業」論は,戦争の時代における国家全体の価値観や目的を大前提にし,その立場や論理を基本点に据える学問であった。そして,21世紀に入った現段階において,小笠原英司「事業経営の正道」論は,「国民生活=経営生活の充実」をめざす「事業経営」論を提唱している。 山本の衣鉢を継ぐといった小笠原の立論のことでもあり,彼らのあいだに生じた理論の継承関係における,歴史必然的な同質性をみのがすわけにいかない。小笠原の経営学論の試みは,経営哲学論と経営生活論から構成されるが,「経営生活」は「国民生活」を意味する。戦時期の山本説は,「国民生活」のありかたに「経営生活」が規制されていた。 平時期の小笠原説は,「経営生活」をもって「国民生活」も規定することになった。両者の思考回路は,表相的には逆向きにみえながらも,学問目標を共有している。両名の見解に特徴的な相違点をもたらしたものは,時代の差である。 ここではとくに,戦時体制期の昭和15〔1940〕年に発せられた「事業」に関するつぎの見解を,小笠原に向けて紹介しておく。
この「『全体主義の経済』に外ならぬ」と説明された〈事業の意義〉や〈金儲けの否定〉などは,形式論理面で突きつめて観察するに,小笠原『経営哲学研究序説』で議論・提唱された論点とかくべつ異なるところがない。しかもその間,64年もの星霜を重ねてきた。 「戦時体制下の公社企業論」を発想した山本の経営行為的主体存在論=事業経営論は,「全体主義の経済」体制を具体的に構成する経営論であった。山本学説のベクトルと方向をほぼ同じにする小笠原の「経営哲学理論」=事業「経営生活」論も,「全体主義の経済」的な思考に貢献する「立論」だと批判されたとしたら,これを完全に排除できるのか。いいかえれば,歴史的と論理的の双方の意味において,その種の批判に十分に反論することができるのか。このさい,今日の日本がおかれた政治経済的な諸情勢,社会文化的な諸環境,歴史伝統的な諸関連を,冷静に観察する必要がある。 高橋哲哉『教育と国家』(講談社,2004年10月)は,最近における日本の学校教育をこう批評する。
ここに書かれている内容は,有事体制論を論じた前出の政治学者も指摘した「昨今の日本政治経済の情勢」を,教育現場の問題点から分析・説明したものである。
筆者は経営学の研究者であるから,日本経団連が2005年1月18日正式に承認した報告書に関する,つぎの新聞記事が気になった(asahi. com. 2005年1月13日報道)。
「憲法改正で自衛隊の保持を明確にするように求めている」経済同友会の提言・報告書『平和と繁栄の21世紀を目指して-新時代にふさわしい積極的な外交と安全保障政策の展開を-』(2001年4月25日)237),および,日本・東京商工会議所の意見書『憲法改正についての意見=中間取りまとめ=』(2004年12月17日)238)は,その資料のありかを註記しておくだけとする。 時代を前後する話となるが,昭和13〔1938〕年6月に刊行されたある著作は,当時において「国際情勢の緊迫は,先づ軍備拡充が必要である。狭義国防が実際の問題として,必要なのである。現在の機構を最も賢明巧妙に利用することが,現在の最大の課題である」239)と主張した。 この論及を今日的な視点でうけとめてみれば,上掲「日本経団連の憲法改正概要」などに表現された財界の意図も理解しやすくなる。その背景には,日本の企業経営も大いに多国籍化し,その活動範囲が地球規模で活発化してきた国際政治‐経済的な事情が控えている。
政治学者で国際未来科学研究所を主宰する浜田和幸は,『イラク戦争日本の分け前-ビジネスとしての自衛隊派兵-』(光文社,2004年2月)を公表した。この著作の題名は意味深長である。浜田は,こういう。
前掲枠内「日本経団連の憲法改正概要」の意味あいも,これで多少は納得がいく。日本経団連(会長・奥田碩トヨタ自動車会長)は憲法改正問題を検討し,憲法9条を改正して,自衛権確保のための自衛隊保持,集団的自衛権を明確にすることを求めている。経済団体のいうことであるから,金儲けを念頭におかないわけがない。 「自衛権確保のための自衛隊保持,集団的自衛権を明確にすることを求める」というのは,浜田和幸の表現を借りていえば,「有事のビジネス」あるいは「ビジネスの有事」に対処するときは日本も,「正当な分けまえを主張する」ことができるよう,「日本の軍隊〔自衛隊〕を整備せよ」ということである。財界を代表する日本経団連が「自民,民主両党や国会での憲法改正論議にも影響を与える」ような報告書を提出したのである。
② 国家科学と経済科学と経営哲学 日中戦争開始間もないころ訳出,刊行されたヘルマン・グロックナー『ナチスの哲学と経済』(白揚社,昭和12年10月)は,経済政策に関してこう主張した。
ここに説明された「政治的目的だ」という「国民の経済的満足」とは,小笠原のいう「経営生活」の含意といかほど異同がありうるのか。抽象面で論理的に徹して考えるとき,どうしてもこの疑問が湧いてくる。 日本国家科学大系第8巻『経済学1』(実業之日本社,昭和17年12月)に収載された谷口吉彦「国家科学としての日本経済学」は,小笠原の畏敬する先達山本安次郎が戦時中に発言していたものと,基本的に同一の公式見解を記述していた。
小笠原「経営哲学理論」も,世界経営学に昇格できる資質を備えている。なぜなら,その立論の核心は「経営性の本質:人間生活」論だからである。これならば,時空を超えてどこまでも通用しそうな,経営学の「思想と立場」を形而上学的に誇示できる。 谷口吉彦「国家科学としての日本経済学」は同時に,「政策と技術との関係は,恰かも理論と政策との関係と同じく,一を前提として他を後続せしめる。即ち政策は技術を媒介として実践となり,技術は政策の指定に従って実践に適用される。かくして実践→歴史→理論→政策→技術→実践といふ一連の実践的学問の体系が成立する」,と主張していた243)。 山本安次郎「経営主体:公社企業」論は,「満洲国」を基盤とする「国家科学」,そしてその実践的学問の体系を経営学の立場でうけとめた。そして,その社会科学的な実験に失敗させられ,苦杯をなめた。しかし,そうした可能性のある特定の体験を,とくになにもせずに済んでいるのが,小笠原英司「経営哲学:経営生活」論である。両者のそうしたちがいの含意について,ここではこれ以上触れない。 「国家科学」の立場は,個人主義を完全に否定する「全体主義の社会哲学」を政治思想的な背景にしていた。社会を,人間諸個人の関係としてではなく,個人なる存在概念を許さない「人種」「国家」〔いいかえれば「血統と国土」(Blut und Boden)〕による構成物としてみた。資本主義と民主主義の両立が困難となった危機の時代に,その哲学により後者を否定しつつ,みずからの体制に準ずる資本主義をつくりあげようとしたのが,ファシズム運動の本質であった244)。 前段の記述は,カール・ポラニー『大転換-市場社会の形成と崩壊-』〔原著,1975年〕「訳者あとがき」における論及である。 同書の「序文」を書いた社会学者ロバート・M・マッキーバーは,「現代が必要としているのは,人間生活の基本的な諸価値を現代自身の条件と欲求として再確認することである」といった245)。 だが,こうした歴史通貫的な,ただ抽象化一点ばりの主張と,戦時日本の皇国主義的「国家科学」とが,時代状況のなかで必然的に邂逅するなかで登場したのが,本稿が批判的にとりあげた山本安次郎を筆頭とする,平井泰太郎,村本福松らの「戦争経営学」論であった。 小笠原英司は,「スモール イズ ビューティフル」主義を提唱したエルンスト・F・シューマッハーが『宴のあとの経済学』(ダイヤモンド社,昭和55年。原著,Good Work, 1979)がいっていたのと同じように,発想しているはずである。 小笠原のばあいそれは,「ひどく巨大化し,あまりに複雑になりすぎ,過度に資本集約的で,人間と自然にとって暴力的なものとなってしまった」,「資本主義や社会主義という体制を超えた現代産業社会の病弊」を解決するのに役だつような,「これまでの社会とちがうもう一つの社会を築くための」246)「経営哲学」論の必要性であった。 それゆえ,山本安次郎学説に密着しつつ「経営哲学理論」を構想する小笠原であっても,最近の日本における諸学問の動向,いいかえれば,「学問の有用性が強調されるあまり,大学は批判的知性の意義を顧みる余裕をうしなった」247)ことを憂う点では,筆者と考えを共有できる経営学者といえる。 しかし同時に,「歴史的な視点」および「体制関連面の問題意識」については,「自分の学問と社会との関係について,今一度考え直すことを迫られている」248)のが,小笠原の立場である。 シューマッハーの表現をさらに参照するならば,「ますます世界の(資源を)枯渇させ,物質的満足にこだわりすぎて自然を荒廃させる生活様式にしがみつこうとするのか,それとも曲げることのできない普遍の法則に適合し,人間のより高い抱負を促進することのできる生活様式の向上を目ざして,英知によって制御された科学と技術の創造的な力を発揮しようとするのか」249)という問いに,いったい,どのように答えるのかという設題そのものは,正当である。 ポラニー『人間の経済』(1977年)の原編者は,社会のなかで占めるべき経済の位置を,「生産的資源を獲得し処分する人間と,欲求充足のための物的手段とのあいだの関係の典型的類型」と定義した。また,同書の訳者の1人玉野井芳郎は,「市場社会の経済を,本来の人間の経済へと回復させること,人間生活にふさわしい人間の経済へと回復させること,これこそ」が,「ポラニーの批判的主張にほかならない」と解説した250)。 いずれも,聞くかぎりではもっともな見解ばかりである。しかし,これらの見解がゴットル経済科学と「瓜二つの道理」であるかぎり,一抹の不安感を抱かせる。現代日本経済社会における諸情勢は,かつてにおいてもたしかそうだったことなのだが,その「しごく正当とみえる目標認識」を,いとも簡単に歪曲・蹂躙しかねない時代の雰囲気を充満させている。 西村汎子編,戦争・暴力と女性1『戦の中の女たち』(吉川弘文館,2004年)は,「刊行にあたって」の冒頭で,最近における世界‐日本をかこむ政治情勢を,こう表現した。
この国の経営学はかつて,たしか,こういう体験をしてきた。
佐野眞一『小泉純一郎-血脈の王朝-』(文藝春秋,2004年11月)は,最近日本の政治を,こう論評する。
-なぜか,歴史は繰りかえされようとしている。 本稿は,Ⅵ「戦時体制と経営学者」の③「現在の有事体制と経営学者」1)「公害問題と研究者の姿勢」において,奥村 宏『会社はなぜ事件を繰り返すのか-検証・戦後会社史-』(NTT出版,2004年)の記述を借り,御用学者や無用学者ばかり盤踞する経済学界や経営学界,法学界の思想的・理論的な惨状を伝えた。 学究が,いとも簡単に時代の奔流に巻きこまれたり,その幻想に弄ばれたりすることは,過去にいくた記録されてきたものである。小笠原英司はもちろん,いまのところ,そのような範疇に入る経営学者ではない。しかし,今後もそれに絶対入らないでいるという保証はない。筆者のこのような危惧の念を〈意外なもの〉とうけとめてほしくない。それは,「歴史の教訓に学べ」といわれてきたことでもある。 社会科学者としての経営学者は,時代をみずから形成していく学問的な任務と無関係ではない。時代の流れに対してその理論的な営為が,どのように対応あるいは対決していくかによって,その真価もみきわめられる。
-2005年1月25日-【 ウェブ用編集および補述:同年3月30日。以後,随時加筆】
■ 2005年3月30日 ウェブ用に加工 ■ |