裴 富吉 学術論文 公表ページ

労 務 管 理 論 の 系 譜


−戦前期日本における展開−



裴  富 吉



BAE Boo-Gil 


 A  Theoretical  Origin  on  the  Japanese  Theories of

Labor  and  Personnel  Management  in  Prewar  Time.


      
             =も く じ=

 T は じ め に−問題意識−

 U 理論と現実の関係

 V 主要関連文献の紹介

 W 戦前期労務管理論の概要と特性

   1) 蒲生 俊文『労働管理』昭和3年−工場安全・産業福利の労務管理論−

   2) 桐原 葆見『労務管理』昭和12年−労働科学の労務管理論−

   3) 淡路圓治郎『人事管理』昭和13年−産業心理学の労務管理論−

 X 戦前期労務管理論の系譜と背景

   1)「科学的・合理的工場管理法」の事例

   2)「科学的管理法をめぐる批判と論争」

   3) 戦前期労務管理論の特質とその検討

 Y 学問の理想と戦争の影響−若干の示唆−

   1) 大正デモクラシーの影響

   2) 戦争と国家の影響

   3) 戦後への示唆


 『大阪産業大学経営論集』第4巻第2号,2003年3月31日掲載。
 本HP 2003年4月10日公表(用に再構成的な改筆)。  

 

 T  は じ め に−問 題 意 識−

 
 経営学には,労務管理論・経営労務論・人的資源管理論(ヒューマン リソース マネジメント)と称される部門領域がある。日本において,この領域ではどのような時代背景のもとに理論が発生し,どのような系譜を形成・展開してきたか,真正面より解明されていない。

 そこで本稿は,戦前期日本における労務管理論の生成経路をさぐり,それがその後,経営学史上いかなる理論特性を形成するにいたったかを考察する。 


 U 理論と現実の関係

 
 日本経済が「もはや戦後ではない」といわれたころ,三菱電機で勤労部長などを勤めた中川俊一郎は,労務管理の啓蒙的な指南書のなかで,つぎのように論じた1)

 理論が現実を導き,現実がさらに理論を成育せしめる。だが,日本では両者の有機的な関連は遮断されがちで,労務管理はその傾向がいちじるしい。それは根本的には日本に,いうところの理論がはなはだしくかたよった生い立ちをなし,しかもすこぶる狭苦しい軌道の上に乗せられていることに基因する。

 欧米の著名な人を発見し,それの一言半句を紹介しそれに心酔するか,すくなくともそれを唯一の足場として,かろうじてみずからの姿勢をたもってきた,日本の学者・理論家の学説・理論は,つねに一方的に公式化され,固定的であった。それは,日本の現実や実際を無視しての見事な抽象理論であって,日本の社会的な歴史的な諸条件からは遊離したところで終始する,真理性や合理性の展開であった。

 理論面におけるそうした非現実性やその高踏性に照応して,労務管理の現実面・実際界においては,まことに個々雑駁な混乱や非合理な盲目的な素朴さが横溢してきた。理論や科学性がすでに縁なき他人として恣に天高く独往するままに,現実の労務管理は,その原始的な肉体を地上の一隅で指標なき彷徨にその自主性をみいだすほかないしだいであった。

 中川俊一郎の批難は,最近の日本関係学界における理論と実際の両域を観察すると,顕著に克服されている。本稿の主題は戦前にある。ともかく戦後,日本労務学会や労務理論学会の設立・活動をとおして,理論と実際の対面が真剣に検討されてきている。とはいえ,中川の指摘にあった,日本の学問に共有の特徴である理論的な〈高踏性と非現実性〉は,労務管理論に鮮明な刻印をのこしている。この事実を意識しながら,日本における労務管理論の系譜,その生成と発展をさぐらねばならない。 


 V 主要関連文献の紹介

 
 戦後における労務管理論研究の第1人者森 五郎は,日本における労務管理の実際的展開に関する,つぎのような時代区分をおこない,主要な関連文献も挙げている2)

 1)「前史的なもの」〔大正中期ころまで

 ・宇野利右衛門の十数冊にわたる労務の部分的著作のうち,明治末期から大正中期のもの(→それらの文献は,間 宏監修・解説「日本労務管理史資料集」第2期全10冊,宇野利右衛門著作選,五山堂,1989年の復刻版に収められている)

 ・神田 孝一『実践工場管理』杉本光文館,大正1年の一部。

 ・鈴木恒三郎『労働問題と温情主義』用力社,大正4年。

 ・神田 孝一『日本工場法と労働保護』同文館,大正8年。

 ・田中 寛一『能率研究人間工学』右文館,大正10年。

 2)「形成・整備期のもの」〔大正後期・昭和初期〜昭和15年

 ・宇野利右衛門の著作のうち,大正後期から昭和初期のもの(→上記,間 監修・解説,前掲復刻版,1989年に収録)

 ・蒲生 俊文『労働管理』巖松堂書店,昭和3年。

 ・高橋 直服『人事管理の実際と理論』交通経済社出版部,昭和8年。

 ・古林 喜楽『経営労務論』東洋出版社,昭和11年。 

 ・桐原 葆見『労務管理』千倉書房,昭和12年。

 ・淡路圓治郎『人事管理』千倉書房,昭和13年。

 ・高田琴三郎『人事管理十二講』巖松堂書店,昭和14年。

 ・上野陽一編『能率ハンドブック(下巻ノ2「人事篇」)』同文館,昭和16年。

 3)「戦時期のもの」〔昭和16年〜20年

 ・廣崎眞八郎『日本の労務管理』東洋書館,昭和16年。

 ・藤林 敬三『労働者政策と労働科学』有斐閣,昭和16年。

 ・桐原 葆見『戦時労務管理』東洋書館,昭和17年。

 ・江渡 三郎『労務管理実務』東洋書館,昭和18年。

 4)「戦後のもの」〔昭和20年以後(昭和50年まで)

 ・藻利 重隆『経営労務管理』東洋書館,昭和24年。

 ・森  五郎『経営労務管理論』泉文堂,昭和25年。

 ・醍醐 作三『労務管理論序説』泉文堂,昭和29年。

 ・今井 俊一『経営労務論』ミネルヴァ書房,昭和30年。

 ・淡路圓治郎『労務原論上・下巻』ダイヤモンド社,昭和33年。

 ・長谷川 廣『労務管理論』青木書店,昭和35年。

 ・森 五郎編『労務管理論』有斐閣,昭和41年。

 ・木元進一郎『労務管理』森山書店,昭和47年。

 ・海道  進・島 弘編『現代労務管理概論』有斐閣,昭和48年。

 

 筆者は,本稿の検討論題からみるとき,1)「前史的なもの」〔明治末期〜大正中期まで〕における関連文献を前提にしながら,2)「形成・整備期のもの」〔大正後期〜昭和初期‐昭和15年まで〕における関連文献に注目する。

 森 五郎は,戦前‐戦時作 1)  2)  3) の代表的なものは,桐原葆見『労務管理』昭和12年,淡路圓治郎『人事管理』昭和13年,上野陽一編『能率ハンドブック「人事篇」』昭和16年だと指摘する。

 また,4)戦後作「労務管理の本質論」の代表的な論者として,藻利重隆,森 五郎,醍醐作三,淡路圓治郎,木元進一郎,海道  進と島 弘編などを枚挙する。

 さらに,こうつづける。

 1) および 2)〔戦前〕3)〔戦時〕における労務管理論の多くは,
 
 a) 当時の労働組合運動がいまだ微力または皆無であったこと,
 
 b) 社会政策学者や経済学者,経営学者がこの領域の研究にほとんどはいっていなかったこと,
 
 c) 労働者心理学ないし社会心理学が未発達だったこと
 
などを反映して,主に,科学的管理法・労働科学・産業心理学などの研究者によってものにされていた。

 したがって,労務管理の本質や体系の理解も,1920〜30年代の欧米文献とくらべて,「狭義の人事管理」に偏した傾向がみられる。このことはたとえば,上野陽一編『能率ハンドブック』「人事篇」昭和16年や淡路圓治郎『人事管理』昭和13年の見解に明白である。

 要するに,戦前日本の労務管理論は,労務管理の本質を労働力管理におき〔この点はアメリカ文献の影響が強い〕,労働組合がきわめて微力であったから労働組合関係にはまったくふれず,経営‐従業員関係に若干の考慮をはらうていどであった。

 そして,その労働力管理も,アメリカのものとくらべると職務分析をまったく無視し,いまだ近代的労働力管理論ではなかった。また,給与管理も日本の実態とは遊離し,本給決定の合理化にはふれず,主としてアメリカのインセンティヴ賃金の諸制度を述べるにすぎなかった。

 したがって,上野と淡路の2著は,部分的にはかなり優れていたが,当時の日本の経営実践と十分にむすびつかず,体系的にではなく部分的にとりいれられた。戦前の労務管理のいちじるしい後進性や特殊性のゆえに,労務管理論も十分な展開をとげることができなかった3)

 そこで筆者は,「戦前期における労務管理論の理論的な高踏性と非現実性」と「戦前の労務管理のいちじるしい後進性と特殊性」とのわかちがたい関連性を念頭におき,戦前における労務管理論の特性をみきわめ,その学史的な意義づけを試みることにしたい。


  W 戦前期労務管理論の概要と特性

 
 1) 蒲生俊文『労働管理』昭和3年−工場安全・産業福利の労務管理論−

 本書はおおきく,第1部「労働方策と管理の仕組」,第2部「労働管理の常務」からなる。蒲生『労働管理』昭和3年は,本文全395頁のうち,第2部「労働管理部の職能」第2部の第2節「安全及衛生」と第4節「一般福利施設」にそれぞれ,76頁と77頁を割いている。筆者が本項の副題を「工場安全・産業福利の労務管理論」と名づけたゆえんである。

   「緒 論」  労資協和の精神は,いまにはじまったことでなく人類本来の精神である。労資協和の根底に立って労働管理がおこなわれなければ,真実の管理はできない。使用人に対する奉仕は,実は生産行為の一部である。資本の人道化である。

 労資協和において,権利義務の関係を単に駆使の関係から脱離して協力の関係に変更したい。すなわち,その第1の義諦は,統一団体主義の精神とこの具象的表現組織であって,その根底の上に労働管理の細目の実行にはいるべきである。換言すれば,統一団体主義の真精神の発輝応用これのみである。

 いま,雇主をAとし使用人をBとし,その事業団体をCとするならば,AとBは,Cなる事業団体に帰一統合され融合するところに,真実,繁栄の生命が湧出しなければならない。

 〈学と術〉   労働管理は労働管理学であり,同時にまた労働管理術である。労働管理学は,労働管理に関する精密な知識の系統的配列の総体である。

 「学」は原理の抽象的処理にあるから,これを実際的に応用すべき原理の実際化を「術」として考察する。術とは,労働管理の原理を具体事実に即して,これを実際化すべきすべての運用をいう。術の活躍は,一般的範疇を脱してすこぶる自在な応用を必要とし,死物たる原理に生命を注入し,活物たらしむべき労働管理者の人格的発現と機略とを必要とする。

 第1部「労働方策と管理の仕組」  協和を確保するためにもっとも重要なものは人格である。@「雇主の誠実な魂より発生するところの公正な行為に対する男女の正常な反動は公正な行為である」。A「工場内の人素を公正にとりあつかうことは博愛主義,人道主義等のみならず,実に善良な事業である」。

 労働方策は,形式的に表示したり,会社の室内にしまっておいたり,または総支配人の心中に秘めておかれたりするものではない。それは,管理者と従業員とのあいだの種々の接触において,生々した響きのある好意をもって認められた関係でなければならない4)

 第2部「労働管理の常務」  労働管理部は,労働管理の細目にわたってその計画執行に当たるところの組織である。

 蒲生は,労働管理の目標を円満かつ完全な労働力ということにおいている。しかるに,工場従業者が災害および疾病のために多大の犠牲をはらいつつあり,これは捨てておけないと述べる。すなわち,a)労働移動率の増加,b)元気沮喪による労働力の弛緩,c)能率の減退,d)生産低下,e)材料損傷増加などが,工場の作業費に直接影響しているからである。

 したがって,「災害予防は,もはや善良な道徳・善良な倫理にとどまらないで,善良なビジネスである」。なによりも,「第1に安全,第2に品質,第3に数量」である。そしてまた,「福利施設とは労働状態の改善を目的とする傭主の任意的施設である」けれども,福利施設は人道上〔肉体および精神〕と経済上の必要から生じるものである。

 蒲生がさきに統一団体主義と名づけたものは,個人生活と団体生活との調和であり,いわゆる所有衝動と創造衝動の調和であった。だから,工場は営利的の事業なるがゆえに利をもって立つであろうが,労働管理人は仁に居り,利にあそぶ人でなければならない。労働管理人は,ひろく人心をその傘下にあつめてもって,道徳的結合をつくりうることを大切とする者である。蒲生は結局,「我工業界の為に円満且つ完全なる労働力の出現を期待し,依て以て円満且つ完全なる産業の進展開発を招致することを祈る」5)

 蒲生『労働管理』昭和3年は,労働=労務管理という名辞を付した当該研究書として,一番早い時期に登場したものである。蒲生俊文(明治16‐昭和41〔1883‐1966〕年)は,東京帝国大学卒業後,東京電気に就職し,同社内で安全運動をはじめるかたわら,内田嘉吉らとともに「安全第一運動」をおこしている。その後大正13年に同社を辞し,中央にあってもっぱら,日本の安全運動の中心的存在となって活躍した6)

 大正中期以降,盛んになった日本の労働組合運動とはいえ,体制がわからの抑圧はきわめてきびしく,労働者の基本的権利も保障されない状況にあった。当時における工場管理の実態〔労働環境の悪条件・作業安全の欠如〕を知悉していた蒲生は,そうした諸困難を踏まえて労資協和を確保し,また工場能率の向上・労働者生活の安定を実現すること,いいかえれば,労資協和=統一団体主義の真精神の発輝応用を願い,これを最大の課題としていた。

 筆者は,蒲生俊文『労働管理』昭和3年が,大正年間における日本企業の工場管理問題と密接な対応関係をもちつつ,書きあげられていた点に注目する。同書は,日本における工場安全の問題やその運動をとりあげた本格的な論著の嚆矢である。

 

 2) 桐原葆見『労務管理』昭和12年−労働科学の労務管理論−

 桐原葆見『労務管理』昭和12年は,その叙述の大部分を労働力の管理問題をついやした,主に心理学的=労働科学的な接近方法によった展開内容である。よって本項の副題を,労働科学の労務管理論と名づけた。桐原は,人間に関する心理学的知見と理解にもとづき,労務管理の諸問題をとりあつかっている7)

 第1章「概説」  労務管理とは,産業的労働における人間と仕事とおよび人間と人間との関係を適正にする実践である。それによって,労務者の心身の健康の保持と幸福の増進とを庶幾し,その結果は,国民生産力の保持増強と産業の悠久なる繁栄とによって,社会の福祉を増進しようとする。

 真の労務管理は,労務に従事する人間の精神と身体とその生活とに関するよき理解と,その労働の生起,過程および後果の心理的社会的事相に関する深い洞察と,ならびに無私なる実行への燃ゆる熱意とによって,はじめてよくなしとげられる。それは,労働をする人間の心を把握することをもって要諦とする。それは事務ではない,実に生活行動である。

 労務管理の指導精神は,実にあらゆる作業能力の至適最善〔最大にあらず〕の利用を意図し,その方策を講ずる。それは,原則として「質的」に考えられねばならない。労働の生産性は,あらゆる生産因子の最善あるいは至適な〔最大にあらず〕使用によってはじめて,最大となるべきものである8)

  〈戦時体制の影響〉  桐原『労務管理』昭和12年10月は,日中戦争の開始直後に公刊された。そのためか本書は,非常時下の産業,ことに軍需工業における課題としての「労務管理」も意識的に論じる。

   従業者は自家事業の私有物ではない。これが健康を最大限に維持し,その労働力を長養することは,事業経営者に課せられた,国家民族に対する道徳的義務である。この義務が自覚せられてよく実行せられる時,その国家民族は興り,この義務が顧みられざるとき国家民族は亡ぶであらう。国民の労働力が早期に不当に涸渇せしめられることは,全く恐ろしいことである。

  〈安全運動への言及〉 最近数年間の本邦産業界における災害の増高は,ほかに大なる原因があるのだが,もし安全運動がなかったならば,恐らく事態はもっと悪くなっているにちがいない。

  〈福利施設〉 産業の有する社会的任務の自覚と,今日の社会の実際的情勢とからみて,福利施設は自家経営内に限界されえない。産業の社会化は,経営の倫理化である9)

 結局,労務管理は実に教育の事業である。労務管理にたずさわる人は,実に産業人の指導者であるだけでなく,産業によって社会を教育する実行者である。それはまた,労働の悦びと生活の安定とを確認する人であり,企業の道徳を樹立する者である。かくして産業を生かし,人間を生かし,もって人生に価値を創造し,またせしめる者である。それは真正なる意味の宗教の実践である。独善自修の小乗ではない,自利利他成満するところの大乗の行である。

 機械時代といわれる現代である。機械の重圧と技術の優勢とに対して人間の尊貴を再興して,正しくこれを定位せしめるところに,現代の特殊相に関連して,方法上考究を要する数々の問題がある。その根底は結局,人の問題である。もし今日の産業によって,次代にのこされるものが,ただ搾取のあとの痩骨と,歪められた人格と,災害・中毒・疾病・不安とのみであったならば,なにをもってわれわれは祖先と子孫とに陳謝できようか10)

 第2章「作業研究」  桐原は時間研究を,こう批判する。テイラーのごとく,抜群の者をもってして定めた標準は,結局,大多数の従業者にははなはだしい労働の強化をもたらす。さりとて平均的な普通者をえらんだのでは,改善の目的を達しえない。そこで実際的には,能力・健康ともに平均の上位にある者で,平均者も訓練よろしきをえれば到達しうるていどのものを,標準職工として選択すべきである。桐原はとくに,猶予〔余裕〕時間の添加率の決定において,時間研究が生産増加を目標としてなされるときの留意を指摘する11)

 第3章「雇傭及び選択」,第4章「養成及び訓練」 …… 省略。

 第5章「生産力の保持高揚」 本章では,労働時間短縮の効果に関説がある12)

 第6章「保健と安全」 安全の確保のためには,大衆の安全慣習を涵養することが第1である13)

 第7章「文化施設」 …… 省略。

 桐原『労務管理』昭和12年は,日本が中国との本格的な戦争に突入した数カ月後に公表された。本書は,当時の事情を端的に反映する論調をしめしていた。

 「現下はまことに労務管理の一大転回をなすべき時機に際会してゐる。労務管理論がいつまでも常識的な実用主義やセンチメンタリズムに低徊してゐることは許されない」とか,「理論のない実行は盲目である。実践を離れた理論は空疎である」とかいう発言は,戦時体制が本格化,激化していく状況を目前にして吐かれたものである14)

 桐原葆見の『戦時労務管理』(東洋書館,昭和17年)は,自身の提示したその「労務管理の一大転回」を,正直に説明している。

 桐原葆見(明治25‐昭和43〔1892‐1968〕年)は,大正10(1921)年7月1日発足の倉敷労働科学研究所〔のちの労働科学研究所〕の研究員となる。桐原は,労働の負担を医学と心理学との方法によって,生物学的にとらえようという野心的な研究の可能性を,労働の現場において試したのである。労働科学の立場であった15)

 F.W.テイラーの科学的管理法に対する桐原の批判的分析は,当時〔大正年間〕,同じ立場からする欧米の学者の批判と共通するものであった。また,桐原葆見の著作はすべて「論」という文字をつけていない。その意味では桐原葆見「労務管理」が,労働科学的視点といかに折りあってきたか注目しなければならない。

 

 3) 淡路圓治郎『人事管理』昭和13年−産業心理学の労務管理論−

 淡路圓治郎『人事管理』昭和13年は,東京帝国大学における講義草案を骨子とした著作である。

 淡路は,人間についての個々の理論科学の存在価値はともかく,産業における人事管理は,その個々の理論科学のよくなしうるところではない。それゆえ,むしろそれらを綜合して,しかも明白な応用的意図のもとに再組織された独自の技術学をまって,ようやく達成されるべきものである。だから本書は,産業経営者ならびに工場人事係,労務係諸君への具体的指針たるべく,努めて実用化したつもりだという16)

 序論「産業動作学に就て」    産業じたいにとって,営利はいわば外来目的であり,労作がむしろ内在目的である。産業動作学は,産業の目的に順応し,人的諸因子の動作学的ならびに倫理的要請に即応し,生産的労働に対して技術的規範を提供するものである。つまり産業動作学は,産業の現状を改善向上させる使命を有し,しかも,それみずから学術的体系をなすべきである。それは生産技術の管理に役立つ応用科学であり,一種の労作組織学である。

 換言するに産業動作学とは,生産を目的とする公私の企業をして,その使命を達成させるために,これに関与する人的諸因子ならびにそれらの営む生産動作に対して,とられるべき合則的処理の方法を研究する応用科学である。この応用科学とは,目的付与的ではなく,実に目的順応的である。その意味では,それ自身「技術的」である。応用科学は,目的を実現すべき手段・方法の確定を旨とすべく,その学術的体系はおのずから工作方法論(Methodologie)の系統づけとなる。徹頭徹尾,技術に終始するのである17)

 産業動作学は,技術的理性の要求にしたがい,つぎの3方面について合則的処理の技術理論を研究する。人事管理,作業管理,経営管理18)

 産業動作学の方法。その技術評価の規準は,協応性の原理もしくは適合の原理である。協応それは,目的と人との融合調和である。「人の企業への協応〔A〕」のみならず,「企業の人に対する協応〔B〕」をも包含すべきである。企業と人とが相互に歩みより,その調和すなわち適合情態(optimale Zustande)を成立させるのである。

 いいかえれば, 産業そのものの使命と, これに関与する人的諸因子の要請との協応を,両側面から計画し, 両種の条件を満足させうる事態を実現することである。そうした相互作用的な協応性のていど, すなわち「適合の原理」が, おのおのの場合における技術品評の尺度となる。

 さらにいえば, 「人の企業への協応〔A〕」=「能率増進」の観念は, すこぶる偏頗といわねばならない。「最大の能率(maximal efficiency)」は,時間すなわち永続性の要因で考えるならば,「企業の人に対する協応〔B〕」=「適合標準(optimal standards)」にしたがうことによってのみ,捷ちえられるものである。産業は資本家のためでも労働者のためでもなく, むしろ社会のために存在すべきものである。

 また, 産業は国家的社会的意義を没却しがたく,その要求に対応すべきである。産業に関与する者は, 資本家と労務者とを問わず, 生産活動をつうじて国家社会に貢献すべきである。それゆえ,社会的協応性が技術品評の標準として樹立されねばならない。

 最近の社会情勢は,国家としての立場から産業の保全,生産力の充実のために,産業従業員を国民の集団とみなし,その管理問題に統制をくわえんとする傾向を招致した。産業動作学も,まさに共同経済の福祉増進の技術学たるべき方向に,一歩をすすめんとしている19)

 本論「人事管理」     その定義:「産業に於ける人事管理の要諦は, ……産業本来の目的と之に関与する人的諸因子との間に, 協応情態 Adjustment を成立せしめるに在り, 之が方法としては,(1)産業の要求に適合せる従業員を得て, (2)之をその性情に適応して働かしめるの外なく, 之を概括すれば, 結局, 従業員の教育と保全の2大問題に帰着する。而して, この際,方法選択の規準としては, 適合 Optimum の原理に従ふべきは, 再言を要しない」。

 産業は, 国家のために社会的生産をめざして活動すべき組織であり, 収益性と同時に公益性をも兼ねそなえるべきものである。それゆえ, 産業教育の意義は, 国家の生産力を充実向上させるために, 各種産業の要求に適合した人物を養成することにほかならない。そうして, 産業の人的因子を標準化するのである。

 淡路『人事管理』昭和13年は, 当時人事管理の必要がさけばれ,人事管理なる語もようやく耳なれてきたが, 人事管理そのものに関する研究には,まだみるべきものがなく, 学問としても,その発展はもっぱら今後にまつべきように思われる,とむすんでいる20)

 淡路円治郎(明治28‐昭和54〔1895〜1979〕年)は, 東京帝国大学出身,産業心理学の研究分野から人事管理〔労務管理〕の研究をすすめてきた。戦後彼は,『労務総論』(河出書房,昭和24年),『労務原論』(ダイヤモンド社,昭和33年)を,労務管理論に関する原理的書物として公表する。

 戦前にもどると,彼は個人的全集である「淡路圓治郎:応用心理学研究」全8巻(教育研究会,昭和2年以降)を企画していた。もっとも本全集は,一部の公刊のみに終わっている。この全集の企画内容を,つぎに展示しておく(発行年のない巻 * は,公刊されていない)。

  =淡路圓治郎「応用心理学研究」全8巻(教育研究会、昭和2年以降)=

   第1巻『応用心理学概論』*     第2巻『材能研究』(昭和4年)

   第3巻『職業心理学』(昭和2年) 第4巻『作業心理学』*

   第5巻『経済心理学』*      第6巻『広告心理学』*

   第7巻『軍事心理学』*      第8巻『教育心理学』*

 

 応用心理学に関する大全的な出版企画は,淡路自身の研究蓄積を前提に構想されていた。なかでも,第7巻『軍事心理学』という企画題名は,当時日本のおかれていた状況を端的に象徴するものである。

 大正年間,淡路が自分の氏名も出しふれているように,心理学から直接派生した研究として,一群の動作学的研究(motion study)があった。

 松本亦太郎『精神的動作』大正3年,田中寛一『能率研究人間工学』大正10年,楢崎淺太郎『精神力学的研究』大正11年,そのほか,寺澤嚴男・桐原葆見・淡路圓治郎などの研究が現われている。

 大正11年には,倉敷労働科学研究所が設置され,航空研究所心理部,体育研究所心理部やそのほか官民の関係諸機関も,その種の研究に着手している21)

 心理学研究会編『心理研究』第100号記念号(大正9年4月)は,特集「能率研究人間工学」を組んでいた。その執筆陣は,松本亦太郎・淡路圓治郎・入澤宗壽・下澤瑞世・福谷益三・上野陽一・久保良英・佐久間ふき子・鈴木久藏・城戸幡太郎・田中寛一・寺澤嚴男であった。

 同誌同号に淡路が投稿した論文の題名は,「睡眠時間の日時的乗算能率に及ぼす影響」であった。

 淡路の産業心理学的な人事管理論は,もともと大正年間の研究にはじまる。


  X 戦前期労務管理論の系譜と背景

 
 経営学発祥の地であったアメリカは,テイラー・システム〔科学的管理法〕とフォード・システム〔大量組立ライン方式〕を誕生させた。これにつづいて20世紀第4四半期,経済大国:企業王国になった日本は,トヨタ生産方式という画期的生産方式を誕生させた。いずれも,その時代ごとの生産方式を代表する最先端をいく管理形態である。

 トヨタ生産方式は,ものをつくるための合理的な方法である。そこで合理的ということは,会社全体としての利益〔経常利益〕を生み出すという究極的目的に対して,効果的な方法だという意味である。究極目的を達成するためには,コスト低減を目標にしている。そして,この基本的目標を達成するためには,つぎの3つの副次目標が達成されなければならない22)

 @ 量と種類の両面にわたる,日次ならびに月次の需要変動に適応しうるような数量管理。

   A 各工程が後工程に良品だけを供給しうるような品質保証。

   B コスト低減目標を達成するために人的資源を利用するかぎりは,同時に人間性の尊重が高められねばならない。

   もっとも,トヨタ生産方式〔かんばん方式・JIT〕の深刻な問題性は,鎌田 慧『自動車絶望工場』(現代史出版会,1973年)に実態報告されている。それは,トヨタ中心にすべてを犠牲にさせて集中管理する方法の完成した姿である。「コスト削減」至上主義ともいえる23)

 なぜここで,もっとも現代的な生産管理方式に触れたかというと,大正時代における日本企業が現場の管理問題としてもっとも切実にしていたのも実は,この生産管理=工場管理の諸問題であったからである。

  大正年間,日本の製造企業は,工場管理の現実的課題として,上記@ABの志向をもっていた。明らかに,@「量種時間〔日程:納期〕管理」A「品質管理」は「生産管理」の問題であり,この「〈生産管理〉のための人事・労務管理」の問題として,B「人的資源管理・人間性尊重」も生じることが告知されている。@‐A‐B間の相互関係にとくべつ注意したい。それは,@A「生産」=主,B「労務」=従の関係にあることである。

 経営学はひとまず,第2次産業‐工業企業‐製造業を,代表的典型的にその研究対象にする学問である。そうだとすれば,大正時代から昭和〔戦後〕時代を通貫した重要な課題は,生産管理の場をめぐる労務管理の理解〔生産管理は同時に労務管理である!〕であった。

 筆者は,大正年間,日本経営学の研究〔理論と実際〕課題となって登場した工場管理学の実相は,「工場単位の経営管理学」という次元・場にあったと認識する。日本企業の工場管理学は,その時々の生産条件・環境要因を異にしながらも,時代をこえて共通する,「生産管理(量種時間管理・品質管理・原価管理)」と「このための人事・労務管理(人的資源管理・人間性尊重)」とを研究課題に有していた。

 前出の,@「量種時間〔日程:納期〕管理」,A「品質管理」,B「@とAのための人的資源管理:人間性尊重=人事・労務管理」という各課題間の根本的関係は,大正時代をふまえて昭和の時代にはいってから本格的に展開するものである。それは,日本経営学としての人事・労務管理問題の理念的昂揚,およびその理論的な体系内容の具体的様相のなかに鮮明に反映されている。

 日本経営学は,大正年間からテイラー・システム〔科学的管理法〕に多くのものを学びつつ,自国の特殊性を配慮した独自の工場管理学〔理論と実際〕の形成を完遂してきた。このことは,世界に冠たる工場生産システムを,今日構築できたことにもむすびつく。

 明治の後期から大正年間においてすでに,今日におけるトヨタの工場管理体制に比することのできる,先進的・革新的な工場管理制度を実施してきた日本企業がある。いつの時代でもそうであるが,先駆的・画期的な業績を成就するのは,ごく一部のすすんだ会社である。それでは,昔のそうした日本の会社を何社か紹介しよう。

 

 1)「科学的・合理的工場管理法」の事例

 @「鐘淵紡績」

 明治30年代後半,紡績業においては,労働移動の根本原因であった原生的労働関係からの離脱による,新しい労務管理の方向が求められていた。これは,質的に優秀な熟練工を確保し,彼らを罰則や監視といった外的強制によらずして,自発的に勤続の長期化と出勤率の向上とをおこなわせることであった。

 とくに,明治35〜40年に形成された鐘淵紡績の経営家族主義的管理体制は,武藤山治個人の抱いていた経営理念に負うところがおおきい。さらに鐘紡の労務管理実践は,その後その内容を充実し,大正期において,能率の論理・科学性の浸透をみつつ,経営家族主義の典型的な管理様式を現出するにいたる24)

 ここでは,鐘紡の労務管理諸制度をくわしく紹介しないが,その主な管理方式は,a)温情的操業法,b)科学的操業法〔明治45・大正1年〕,c)精神的操業法〔大正4年〕,d)家族的管理法〔大正10年〕などである25)。それらは,「能率の論理・科学性の浸透をみ」ていく過程にそって構築,編成された管理方式の発展である。つまり,あくまで生産管理問題の解決:高揚をめざすための,労務管理制度面での整備であった。

 野口 祐は,大正年間の日本における科学的管理法の形成・確立に関して,製鉄部門・石炭部門・機械部門〔電気機械器具と工作機械〕・紡績業・その他雑工業,などをとりあげ分析している。日本の再生産機構のなかで,消費財部門のうち紡績業の占める地位は,量的にも質的にもいちじるしく高いものがあった。この紡績業において,もっとも典型的な管理法式は,科学的管理法の全面的かつ体系的な導入であった26)

 A「大蔵省専売局煙草工場」

 明治後期から大正初期,専売局煙草工場東京第一製造所の作業・製造課長を勤めた神田孝一は,テイラーの科学的管理法をよく理解していなかった点もあるようだが27),神田の『実践工場管理』(杉本光文館,大正1年)は,いかに独自に工場管理の科学化・合理化に努力したかを著わしている。

 神田は,工場管理担当者として自分なりの科学的管理「実践理論」を創造しながら,官営工場において,労働能率の増進と資本効率の向上とを同時に達成することに成功したのである。彼はとくに,職工の保健衛生・労働保護が労働能率の増進につながることを強調していた。神田孝一には,『日本工場法と労働保護』(同文館,大正8年),『労働能率研究』(東條書店,大正11年)という注目すべき2著作がある。

 神田は結局,生産管理問題の解決・高揚のためには,労働者の工場生活に対する全般的保護,いいかえれば労務管理的配慮がかくべつに必要であることを強く主張していた。

 B「古河鉱業足尾銅山日光電気精銅所」

 大正初期〔大正1年11月〜4年2月〕,足尾銅山日光電気精銅所において3代目所長を勤めた鈴木恒三郎は,夜業を廃止し,労働時間を短縮して労働効率を増進させ,独特の賃銀制度(ハルシー節約賃銀分配制度:Halsey premium plan に酷似したもの)を案出して,労力と報酬とを数理的に一致させた。この結果,同精銅所は面目を一新し,着々改善の実あがり,鈴木の在任中,職工数は半減,職工の賃銀は2倍,総経費は3割減となった28)

 鈴木は,首切り所長といわれたほど,悪質者や過剰人員を整理して経費を節約すると同時に,人心を刷新し,ついで病院・徒弟学校を創設し,工場の危害予防装置などを設け,日光電気精銅所は,世間から模範工場といわれるにいたった29)

 鈴木の生産管理および労務管理の革新,いいかえれば徹底的な科学化・合理化の実行は,精錬工場という業種において,現代性をさきどりする管理方式を樹立させた。しかも彼のやりかたは,温情主義:主従の情誼といわれる経営理念・管理方針のもとで,労資双方に繁栄をもたらす経済合理主義の成果→能率増進・利益増大を達成したのである。

 ここでも,生産管理の刷新のために労務管理体制の刷新が,即時的・相互作用的におこなわれた事実が読みとれる。もっとも,鈴木のおこなった生産管理および労務管理の革新は,人的資源利用におけるムダを除去し,効率的な管理体制を樹立する方途をめざしていたわけであるが,同時に,当時における工場管理の実態が,いかにデタラメであった〔管理がわに十分な主導権がなかった〕かも,教えてくれる事例である。

 以上3つの事例をとおして,明治後期から大正時代に実践された,日本企業における工場管理方式の先進的・革新的な科学化・合理化の成功事例を観察してみた。原価低減・利益増大に関する具体的な方策理念は,時代ごとにちがってはいるものの,その底辺で共通する志向性は同じである。また各企業には,工場管理=生産管理と労務管理を指導する卓越した指揮者がいた点に注意したい。

 ただし,大正年間における管理方式の科学化・合理化は,全般的にみれば,アメリカ科学的管理法の圧倒的な影響をうけておこなわれていた。さらに,敗戦後の,日本企業における経営管理方式の近代化も,アメリカ経営管理学の全面的な後援をうけていた。

 なお,大正年間の当該問題についてくわしくは,以下の文献を参照したい。

 @ 斎藤毅憲『上野陽一−人と業績』産業能率大学,昭和58年。

 A 斎藤毅憲『上野陽一と経営学のパイオニア』産業能率大学,昭和61年。

 B 野田信夫『日本近代経営史』産業能率大学出版部,昭和63年,]T「科学的管理から経営工学(IE)へ」。

 C 原 輝史編『科学的管理法の導入と展開』昭和堂,1990年,佐々木聡・野中いずみ稿[「日本における科学的管理法の導入と展開」。

 D 高橋 衞『「科学的管理法」と日本企業』御茶の水書房,1994年。

 E 佐々木聡『科学的管理法の日本的展開』有斐閣,1998年。

 F 中川誠士「科学的管理と『日本的経営』,1910〜1945年」,九州大学『経済学研究』第56巻第5・6号,平成4年1月。

 さらに,GJ.−C.スペンダー&H.J.キーネ編集,三戸 公・小林康助監訳『科学的管理−F.W.テイラーの世界への贈りもの−』文眞堂,2000年,付録「科学的管理に関する和文研究文献」も参照。

 

 2)「科学的管理法をめぐる批判と論争

 本稿のとりあげた論者,桐原葆見の『労務管理』昭和12年は,テイラーの科学的管理法は労働者に加重・過酷な労働の達成水準を押しつけるものである,と批判していた。心理学畑出身の研究者である桐原は,労働科学的見地よりそのような批判を出していた。関連して大正期には,経営学的な論争がおきている〔後段に紹介する〕。

 大正年間,企業経営者の管理意識をかえた国外的な要因として,
 
 @第1次世界大戦後の労働運動の昂揚を無視できなかった,
 
 A国際労働機構〔ILO,大正8(1919)年10‐11月第1回国際労働会議;資本家代表には武藤山治が選出されている〕においての,日本産業の低労働条件に対する批判に応えねばならなかった,
 
というような事情がある。

 さらに,当時の企業経営者の管理意識に重大な影響力を与え,彼らを動かすことになった国内的な要因に注目しておきたい。
 
 B横山源之助『日本の下層社会』明治32(1889)年,農商務省商工局『職工事情』明治36(1903)年,石原 修「衛生学上ヨリ見タル女工之現況(附録・女工と結核)」大正2(1913)年などは
 
当時日本の工場労働の惨状を訴え,これを改善するうえにおいて多大な影響を与えた。

 また,紆余曲折の審議経過のすえ「工場法」が明治44(1911)年に公布され,大正5(1916)年に施行されている。

 この工場法は,女子・年少労働者の保護と災害扶助制度を目的としていた。神田孝一『日本工場法と労働保護』大正8(1919)年は,前出の石原 修も紹介しながら,工場設備および女工寄宿舎の非衛生的状態の刷新の緊要性を強調した。

 1920年代にはいって,鐘淵紡績は福利厚生施策の充実改善をすすめ,東洋紡績や倉敷紡績も,医療施設の整備のみでなく,労務管理のありかた全般をみなおしはじめる。こうして,日本産業界における労務管理体制改善のモデルが,ひろく提示されることとなった。

 大正8年,倉敷紡績社長大原孫三郎の手によって,大阪に大原社会問題研究所が創設される。本研究所は,暉峻義等を招いてその責任者にすえた。

 その後,大正10(1921)年の倉敷労働科学研究所の設置を控えて,石川知福・八木高次・桐原葆見などの生理学と心理学専攻の研究者があつめられ,大正9〔1920〕年夏から早速,深夜業の女子の体位におよぼす影響についての労働科学的な研究がはじめられた。その研究成果は,雑誌『労働科学研究』に公表されている。

 労働科学者たちの批判の対象になったテイラーの科学的管理は,それじたい無価値のものだとはされていない。むしろそれは,人々の目を労働と労働者の生活の現実にむけさせる,ひとつの動因になったのである〔桐原葆見の指摘〕。

 労働科学者たちの方法論の模索は,生理学・衛生学・心理学の成果をとりいれながらその基礎を固めてきた。そしてその成果はやがて,労務管理全般の合理化に生かされるようになる30)

 さて,大正期になされた「科学的管理法」に関する論争を,つぎに紹介する31)

 a) の社会政策の立場や労働組合のがわは,科学的管理法が労働者の団結を分断するものだと批判した。a) の中津海知方や,d) の若林米吉や神田孝一らの科学的管理法批判は,より本質を突いていた。

 c) の村本福松と野田信夫は,科学的管理法の導入が産業の管理水準向上のために有効であるとして,積極的評価をおこなった。

 そして,b) の労働科学者がわは,科学的管理法が真に科学的であるためには,労働医学・生理学・心理学などによる補正が不可欠だとした32)

 a) 「社会政策の立場から科学的管理法の導入を不可とする見解」


 
@ 森戸 辰男,大正5年11月・12月。
            

 
A 堀江 帰一,大正9年8月。
            

 
B 中津海知方,大正11年2月。
            

 
C 北沢新次郎,大正11年3月。
 

 b) 「科学的管理法における方法じたいが科学的でないという批判」

   暉峻 義等,
            
       
     @大正9年5月。 
            

              
A大正13年6月。
            

 c) 「科学的管理法の導入を可とする見解」                     


 
@ 村本 福松,大正10年10月。
            

 
A 野田 信夫,大正13年2月。
            

 d) 「科学的管理法の日本的修正の見解」


 
@ 若林 米吉,大正11年4月。
          

 
A 神田 孝一〔著作〕,大正11年11月。
            

 

 以上のうち,d) の神田孝一や若林米吉の考えかた〔→科学的管理法への本質的な批判〕は,c) の村本福松や野田信夫のような,科学的管理法の積極的導入論者の主張〔→適者生存:弱肉強食の進化論的思考〕に対峙しながら,日本の社会的・文化的土壌風土に適合した,管理方式の修正を要求した33)。そうしたd) の「科学的管理法の日本的修正の見解」は,b) の労働科学者たちの見解〔→科学的管理法を科学化するには労働諸科学による補正が不可欠〕に,基本的につながっていた。

 ちなみに,労働科学とはなにか。暉峻義等監修『労働科学辞典』(河出書房,昭和24年)に,その定義を聞こう。

   労働科学は人間の労働力を問題とするが,それは経済学のように,経済という範囲の中での労働の価値を問題とするのではない。また多くの社会科学的な研究のように,資本主義経済における商品としての労働力を直接に問題とするのではなく,労働する機構としての人間と,その価値を問題とするのである。

   要するに,労働科学の目的は人間の生活と労働とを,最良の,至適の要素的構成にあらしめようとするに外ならない。即ち第1には,生活の諸要件の理性的構成についての諸原則を明かにすること,第2には,労働を規制する身体的諸要件の最良の構成についての原則の発見,第3には,労働の組織の構成要素としての,個々の労働力の個性の最良の発揮によって,組織全体の機能の一層の発揚を可能ならしめる方法の検討,第4には,労働力の個性を培育し,組織の構成員としての機能の完成のための教育の方法を研究し,第5には生産手段即ち原料だの工具だの機械だのという,人間が労働する際に,必ず労働力に作用する,物的要件に関しても,それが労働力と密接な関連をもつといふ意味において,これを問題として研究を進める。そしてこれらの研究から得られた諸原則を実際に適用し,普及するにある34)

 なかんずく,大正年間における「科学的管理法」の導入に対する批判と論争は,労働科学の視点を主調に展開されてきたといえる。まさに大正年間のそうした学問展開をうけて,昭和の時代〔戦前〕における労務管理論の形成がはじまったのである。

 本稿のとりあげた蒲生俊文・桐原葆見・淡路圓治郎らは,労働諸科学の学問方法を基礎に労務管理〈理論〉を形成する方向をとっていた。

 

 3) 戦前期労務管理論の特質とその検討

 大正時代における日本の労働者階級は,同時代のデモクラシー思潮にもかかわらず,まことに困難な状況におかれていた。労働者を,産業における召使としてではなく,なによりも重要なパートナーとして待遇することを経営者たちに訴えてやまなかった最初の人物は,鈴木文治である。鈴木は,日本に伝統的な専制的な労資関係にかえて,民主的な労資関係を力強く提唱した知識人であった35)

 その鈴木は,自叙伝のなかで当時の労働状況を,こう表現している。

 @ 大正8年以後数年にわたる日本の労働運動は,まさに激動期といってよい。大正9年3月に端を発した急激な財界の不況は,日を追ってますますはなはだしく,各種事業会社の整理・合同・縮小・操短等は,期せずして労働条件の低下となり,馘首・減給となって現われた。すでに「階級意識」の禁断の実を喰った労働者が,もとより黙って引きさがろう道理はない。

 A 労働は商品にあらず,労働者は人間である。資本家のために提供する労務は,けっして賃銀のために駆使される奴隷としての奉仕ではない。自由独立の人間としての労働者が,その生活の便宜のために「労働」をえらぶのであって,「労働」それ自身が労働者の生活目的ではない。大切なのは,根本的のもの,すなわち彼ら自身に関係のある産業の諸問題を論議し,統理する権利と義務とを分かつことを要求する。囚われた抑えられた一定の範囲内において,機械的に動くのではなく,自分の頭で考え,自分の手足を動かしたいのだ。

 B 東京の貧民窟をくまなく歩いてみた結果,国家の経済力上,また国民思想上からいっても中堅層の人々が,いったん不幸のために従来の地位をささえきれず,このドン底に落ちこむと,容易に浮かぶ瀬がない。日本在来の労働者は,まったく一種の棄てられたる民であり,生ける器械であり,賃銀奴隷であった。

 C 定職をもち技術をもって働いても,しかも食うことのできない人々,下層社会と恥しめられる人々,権利を蹂躪されてかえりみられない人々,そうした人々のために働くことが自分の領域だ,使命だ。もし自分が死に臨んで,自分の生まれたときよりも死ぬときのほうが,すこしでも労働者の地位が高まり,生活の保証のできたことをみて死ぬことができたなら,いかに満足であろう。いかに生きがいのある生涯であろう。

 D 実際に労働問題にぶつかってみると,反抗心がムラムラと燃えあがる。資本家という者は,労働者をどこまでも奴隷あつかいにしたがるものである。資本家だけならまだしも,その番犬どもまで同様なのである。労働争議の進展にあたって一番こまるのは,警察の横槍である。ことに当時は,治安警察法第17条の光っていたときである。

 E 労働問題を権利の問題とせず,主従間の温情というごとき道徳関係・観念によって処理しようとするのは,時代錯誤もはなはだしいといわねばならない36)

 鈴木の発言は,@は当時をかこむ経済社会的背景の説明,Aは労働〔者〕問題に関する経済学的・社会科学的把握,Bは社会情勢の苦境,Cは労働運動にかける自身の使命感の独白,Dは体制がわの過酷な抑圧姿勢,Eは温情主義の時代錯誤性に対する批判,と整理できる。

 明治‐大正期においてたとえば,鐘淵紡績,東洋紡績,倉敷紡績などが工場管理の科学的=合理的な実践としてしめした温情主義的労務管理体制は,大正後期〔第1次世界大戦後〕に昂揚する労働運動に対面して,その矛盾を明らかに露呈しはじめるのである。

 鐘紡は,昭和恐慌の直後,武藤山治の退陣を契機に「大家族主義」にほころびが生じ,争議が発生する37)。日光電気精銅所は,鈴木恒三郎の去った〔大正4年3月〕あと,彼の卓越した管理方式はそのままうまく持続されたわけではない。専売局の神田孝一は,「労働保護が労働能率の増進と資本効率の向上に貢献する」という持論を産業社会に浸透させるために,社外に出てその理論‐実践活動に一生懸命邁進する。

 すなわち,明治末期‐大正年間における科学的管理法の受容・導入は,一部の先進的・革新的な企業工場において着々と応用,実行され,成果を挙げていた。

 だが,この生産管理の科学的管理化・合理化の達成にともなうべきだと主張された,労務管理の「科学化・合理化」〔=民主化・人間化(人的資源・人間性尊重)〕は,必らずしも順調に進展しなかった。

 むしろ,戦前日本の政治体制からくる制約があって,低調かつ不十分だったのである。この点は,労働科学者たちが懸念して批判したとおりであったが,時代の制約を社会科学的な視点をもって汲みとれない批判でもあった。

 そういった実状の端的な反映は,たとえば,上野陽一編『能率ハンドブック』下巻ノ2「人事篇」(同文館,昭和16年)にみられる。本ハンドブックは,戦前期における日本経営学〔能率学〕の集大成といえる大辞書である。しかしながら,本書が,この「人事篇」のなかに「労働関係」という項目を設けるのは,戦後の新版における「人事管理編」の編成をまたねばならなかった。

 戦前の日本にあっては,労働組合は,一方で資本のがわからは資本主義秩序の攪乱者として排除されるべき集団とみなされていた。他方で,かなりの部分の労働組合活動家からは,労働組合は体制変革をめざす運動の一翼をになうもので,資本との妥協を認めるような方法には依拠できないと考えられていた。このような労資関係の認識のもとでは,共済活動などの職業別組合的の機能をもっては労働運動の前進が困難となり,また,それに代わる団体交渉も広く定着しにくかった38)

 つまり,労働組合の存在:労働者の権利をまともに認知せず,もっぱらこれを抑圧する態勢を採っていた政府がわの基本政策はもとより,資本家がわの前近代的な封建性価値観念を根本にすえた経営家族主義的な管理理念・体制のまえでは,科学的管理法の徹底した普及〔科学化・合理化を民主化・人間化にまで高度化させる事態〕は,当初からきびしく局限されていた。

 政治理念的には労働者の団結を認めない19世紀的な帝国主義国,経営理念的には労働者を「召使」あつかいする資本主義制会社,経済理念的には弱肉強食を当然視する社会風潮,これらが融合していた当時の日本経済社会に向ける産業社会の人事・労務管理〈論〉は,いかなる方途をとればよかったのであろうか。そのひとつの解答が,昭和初期にはいってから公刊されはじめた,蒲生俊文や桐原葆見,淡路圓治郎などによる人事・労務管理関係の著作である。


  Y 学問の理想と戦争の影響−若干の示唆−

 
 1) 大正デモクラシーの影響

 『労働管理』の著者蒲生俊文は,戦前期にイギリスの規範論的経営学,Oliver  Sheldon,  The  Philosophy  of  Management,Pitman, 1923年を訳出している(『産業管理の哲学』人格社,昭和5年)

 O.シェルドンは,専門的経営者として名をなした人物であり,鈴木恒三郎におおきな感化をおよぼした,キャドバリー〔Edward  L.  Cadbury ; イギリスのチョコレート会社経営者〕と同国人である。鈴木恒三郎の人格的管理法:人格尊重主義は,宇野利右衛門によって高く評価されている39)

 労働者の基本的権利など認知されえなかった時代情勢のもと,労働の安全と労働者の人間性を尊重する管理体制を,工場経営担当者の立場でどれほど実行できたかといえば,それはもっぱら,個人次元での良心・良識・誠意・温情などにたよらざるをえなかった。

 安全と福利の理論‐実践活動に渾身の努力をかたむけていた蒲生俊文〔『労働管理』昭和3年〕,心理学出身の専門性を活かした労働科学の立場から,科学的管理法の根幹に批判的考察をくわえていた桐原葆見〔『労務管理』昭和12年〕と淡路圓治郎〔『人事管理』昭和13年〕。この3人の見地には微妙な差がある。それはとくに,蒲生と桐原・淡路とのあいだに介在する。それは,時代のちがいが〔昭和3年と昭和12・13年〕生んだ差である。

 「蒲生俊文」昭和3年 ……労働管理は,人類本来の精神である労資協和の精神による。権利・義務の関係を脱離し,協力の関係に変更する。つまり統一団体主義である。労働管理は,労働管理者の人格的発現と機略とを必要とする。博愛主義・人道主義=善良なビジネス。安全第1,品質第2,数量第3。円満完全なる産業の進展開発。

 「桐原葆見」昭和12年 ……労務管理の指導精神は,作業能力の〔最大ではない〕質的な至適最善利用にある。労務管理は教育の事業であり,真正な意味の宗教の実践である。小乗ではない,大乗の行である。これは,事業経営者の国家民族に対する道徳的義務である。現下の労務管理は一大転回の時機にある。実践をはなれた理論は空疎である。

 「淡路圓治郎」昭和13年 ……産業動作学は,営利を外来の,労作を内在の目的とする。それは,産業目的に順応し,生産的労働に技術的規範を提供する応用科学である。その技術評価の規準は,最大の能率でなく,協応性・適合の原理である。産業は,生産活動をつうじて国家社会に貢献すべきである。国家の立場。人事管理は,従業員の教育と保全の2大問題に帰着する。これは,適応の原理にしたがう。収益性に公益性も兼ねそなえるべきである。産業教育の意義は,国家の生産力を充実向上させるために,各産業の要求に適合した人物を養成することにある。

 蒲生は,日本企業が大正期に経営理念的に要求してきた,家族主義的観念にのっとた労働管理「理論」と「実践」をとなえる。しかも,労働者の安全と福利を願ってそれを提唱している。桐原と淡路は,戦時体制を前提とする国家体制への奉仕〔労働力保持・昂揚→国家生産力の充実・向上〕を強調する。

 蒲生〔昭和3年〕は,大正デモクラシー期のロマン思想をまだのこしていた。だが,桐原〔昭和12年〕と淡路〔昭和13年〕は,昭和恐慌〔産業合理化〕,満州侵略という国家経営の経路を,当然の価値前提とした〈労働科学〉的な視点である。それは,国家の立場=一国の生産力を充実向上させる点を第1義においていた。

 桐原葆見は「〔最大ではない〕質的な至適最善利用」の労務管理を,淡路円治郎は「最大の能率でなく,協応性・適合の原理」の人事管理をとなえた。すなわち,桐原と淡路の見解は,「国家が垂範した価値観」に〈労働科学的な価値判断〉を直結させていた。

 

 2) 戦争と国家の影響

  ただし蒲生俊文のばあいも,『新労働管理』〔産業衛生講座第1巻〕(保健衛生協会,昭和12年)をみると,桐原葆見・淡路圓治郎〔昭和12・13年〕の見解とかわるところがなくなる。ここでは,蒲生のこの著書を詳論するつもりはないので,関連個所からの,若干の引用だけにとどめる。

 蒲生俊文関説していわく,「新管理道」の3大眼目は,@人素の尊重,A工業究極目的の確立,B有機的生命活動団体の実現である。そして,こう主張する。

 「我邦に於いては,千古に亘り万世を貫く炳乎として動かざる皇道原理に立脚して,始めて快刀乱麻を断つことが出来る。是れ神ながらの大道である。其處に真実の団体の有機的生命が活躍すべき世界を発見する」。

 「工業の価値は我利的工業主が他の打撃に於いて一時的射利の満足を得る点に存せずして,如何に国家社会の福祉の増進に貢献しつゝありやの功績に於いて存すべきことは,単なる世界の識者の理想論に非ずして,苟も工業の有機的団体生命を如実に識得したる進歩的業者の等しく唱へて止まざるところである」。

 「国家に奉仕する處の産業報国の一念に燃え上がる国民意識に奮ひ立つことゝなる」40)

 要するに,「労働科学は,経済面=商品としての労働力ではなく,人間の生活と労働とを最良・至適の要素的構成を意図する」ものである。それゆえ先述のように,MAXIMUM〔最大〕よりも OPTIMUM〔最適〕を学問原理に採用する。したがって,この労働科学の見地は,戦争の時代に突きすすみつつあった日本国家にとっても,一見,きわめて適合的な学問上の〈価値観と本質論〉=志向性を有していた。

 簡単にいえば,「労働科学の学問観」と「戦争の時代の国家観」とはその志向性ゆえに,幸福な契りをむすびえるかのように映ったのである。

 以上の指摘は,労働科学研究所の仲間であった石川知福が,日中戦争‐大東亜戦争〔太平洋戦争〕の時代にのこした発言のなかにも,明確に現われている。

   今や吾邦は非常時局のもとにあり,銃後国家安定の積極的原動力は,一に国民の生産的能力の如何にかかるのである。時局の進展に伴ふ国民の生産負担の増高は勤労界の各層に於て,自らにして,蓄積性疲労,職業性疾患並に災害の頻発を憂へしむるものである。……労働衛生学が特に今次事変を契機として,国家生産能力充実の為に,はたまた,国民の健康防護の為に,経済価値以上の機能と責任とを背負ってゐる所以である41)

   今や我等一億 口を以て 筆を以て 身を以て 身心を挙げて総蹶起すべきの関頭に立ってゐる。……今次の大戦は我々に種々のことを甚だ切実に示唆するところあるを覚えるのである。その一つは国力或は戦力は 結局 物力と人力との綜合力ではあるが 人間の力がその根基たるべきことを 如実に教へて呉れたことである。従って我々人間を対象として研究するものにとっては 研究のし甲斐のあるといふことを痛感せしめてくれたことも この戦の激励的示唆の一である。……国民力増強のための薪の一枝としてでも奉仕出来得ればと念願する次第である42)

 だが,労働科学ははたして,国家目的=戦争遂行への役だちをめざしつつ,「経済価値以上の機能と責任とを背負って」,「人間を対象として研究する」学問たりえていたのか。あるいはまた労働科学は,戦争という非常事態への奉仕を,「本来の」学問原理に包蔵するものだったのか。答えはきっぱりいって,否である。

 なぜなら,戦争というものは究極的に,労働科学の原理を全面的に否定する結果を招来するほかなかったからである。戦時体制期,労働科学者たちはそうした厳然たる事実をしらないで,前段のような「学問の常道に反する言説」を高唱していたのか? 日本の労働科学を創設し発展させてきた学者たちが,そんなにもうかつ,無知〔現実無視!〕だったとは思いたくないが,実は,おおいがたい真相なのである。

 敗戦後,南 俊治・勝木新次・石川知福編『日本の労働科学』(南山堂,昭和25年。本書は暉峻義等の還暦を記念した著作である)は,こういう。

   満州事変から日華事変に入って国をあげて戦時体制となってからは,軍需産業の狂気の如き拡大増強に伴って,産業界では適性配置や職業指導などの個性尊重の考え方に立脚した事項には,凡そ拘って居られない状態となって,……現実の労働時間は,婦人の深夜業廃止以後昭和6年の満州事変,〔昭和〕12年の中日戦争を経て太平洋戦争に連なる過程において次第に延長され,残業が恒常化し,従って産業労働者の戦争による人員不足と長時間労働による疲労が慢性化した43)

 これでは,「最少の疲労を以て最高の能率を発揮する条件を探求するという労働科学本来の立場」44),あるいは,「労働科学とは,労働の生産性を高めるために,働く者の生活条件をどのようにととのえていくべきか,ということを探求する,実践的な総合科学」45) の意図は,とうてい望むべくもなかったはずである。

 戦時期,日本経済のかかげた標語は,戦局の深刻化・悪化に応じるかたちで,〈生産力拡充〉〔昂揚〕から〈生産増強〉〔そのもの〕へと変質していった。労働科学の問題意識に関連づけて表現すればそれは,生産労働における活動基準を,「最適原理」から「最大原理」へ変化させることを意味した。これは,労働科学にとって〈禁じ手〉である。

 戦争経済体制の本格化〔総力戦〕は必然的に,その禁じ手である「最大原理」を,生産労働に対してむりやり発揮させることを要請した。結局,戦時期において「最適原理」は2次的要因になるか,ときに想定外の要因となり追放された。なかんずく,労働科学の「最適原理」は〈戦争の侍女〉となっていた。この事実は否めない。もしかしたら,〈侍女の役目〉すらはたしえなかったのではないか,という疑問も湧いてくる。

 

 3) 戦後への示唆

 敗戦後,淡路圓治郎『労務総論』昭和24年は,こういっていた。

   本書は……民主化産業に於ける労務管理の本質と根本原理を理論的に解明し,問題の所在と解決の方針とを組織的に把握せしめんことを期してゐる。……具体的な方法技術に至っては,本書の埒外であって,これは専ら拙著「人事管理」に譲ってゐる46)

 戦後作の淡路『労務総論』昭和24年は,「本質と根本原理を理論的に解明し」た書である。これに比して,戦時作の淡路『人事管理』昭和13年は「方法技術の応用科学」の書である。このことは,本項における淡路の見解整理からも明白である。

 しかし,それでも淡路『労務総論』昭和24年が,「産業の興隆と社会の福祉とに資するを目的とする」47)著作であるならば,民主化産業における労務管理のための「実践‐応用科学」性をもつはずである。淡路『人事管理』昭和13年は,戦争のための「国家生産力の充実向上という目的」=直接的な実践科学性をかかげていた。

 さらに,淡路流の「応用科学である人事管理」は,戦争もたけなわのころ新しく用意した名称〈勤労科学〉をかかげ,戦争に対する奉仕的な立場をさらに一歩前進させていた48)

 @ 戦争の時代において産業の実態は,どのようにあったのか。

 A 戦争が上位を占め,それに産業が仕える地位にあった。

 B ということであれば,産業にさらに使えるべき立場にあった「労働科学および勤労科学本来の立場:応用科学性」は,戦争〔「国家生産力の充実向上という目的」=実践科学性〕に対して,優先されるはずもなかった。

 −−戦争は敗戦に終わった。その後における労働科学は,平和経済下「産業経営の目的」に対して,実践‐応用科学的な立場をどのように措定することになったのか。

 暉峻義等監修『労働科学辞典』(河出書房,昭和24年)に再び聞くと,「労働科学の目的は人間の生活と労働とを,最良の,至適の要素的構成にあらしめようとするに外ならない」と定義している。つまり,労働科学の流れを組む労務管理学が,実践‐応用科学性として対面すべき「問題の所在と解決の方針」と無縁のものになったのではない。

   だから,淡路に対してあらためて聞きたい点がある。戦時作『人事管理』昭和13年と戦後作『労務総論』昭和24年をつらぬくかたちで,つまり時代を超えて,自説中の「理論と応用」を統一する基本的な立場:「人事・労務管理の原理」は,いったいなんであり,どこにあるのか。

 「戦時期」……戦争主導の産業実践「人事・労務管理の原理性」に対して,労働科学および勤労科学の実践的な学問性は,実のある批判を現実に対してくわえることができていたのか。いいかえれば,「国家の立場」=「企業の立場」に対して「労働科学」がくわえていた〈批判の実効性の問題〉。

 「平時期」……企業主導の産業実践「人事・労務管理の原理性」に対して,労働科学および勤労科学の実践的な学問性は,どれほど実際的な指導力を発揮しえていたか。いいかえれば,「企業の立場」に向けた実践〔応用〕的な指導における「労働科学」の〈有効性の問題〉。

 「常 時」……〈戦争の時代〉と〈平時の時代〉とに共通する産業経営問題の全体に対して,労働科学および勤労科学の実践的な学問性は,どのように対峙してきたのか。企業経営内の人事・労務管理問題に対して,労働科学および勤労科学はその影響力を,どのくらい行使しえていたか。いいかえると,「国家・産業・企業の実践」すべてに対する「労働科学」の〈実質的な影響力の問題〉。

 現在は本来にもどっており,国家主体の立場そのものからはなれて,企業経営が事業運営上の指導権を実質に掌握している時代である。ともかく人事・労務管理論は,理論科学か実践‐応用科学か,あるいは両科学性の併存・混在か,そしてその両者の関連性〔のありかた〕などについて答えねばならない。

 かつて,戦時期における産業経済の企業実践でおこなわれてきた人事・労務管理の諸相が,労働科学および勤労科学の提示していた学問原理〔価値観:本来の原理的な立場=「実践‐応用科学性」〕と整合性をもっていなかったことは,明白である。

 古林喜楽『経営労務論』昭和11年は,戦前期に「奴隷のことば」をつかって書かれた「既存の経営学的労務研究の批判的研究である」49)。戦時期,「奴隷のことば」を使わない蒲生俊文,桐原葆見,淡路圓治郎などの労務管理諸〈論〉は,いつのまにか彼ら自身を「戦争の〈ことばの奴隷〉」に変転させてしまった。

 古林は,自分の思想に忠実であろうとしたためにあえて意識的に「奴隷のことば」を使った。蒲生,桐原,淡路は,自分の学問にただ盲目的に忠実であったために「ことばの奴隷」になった。そこに,どんな示唆を汲みとることができるだろうか?

 本稿は,戦争の時代を契機に生起せざるをえなかった,日本経営学の学問理論の悲しい性を吟味してみた。なお,戦時体制期における労働科学のありかた,および資本主義経済社会と労働科学の関連性問題に対する批判的論及については,さらに以下の著作を参照したい。

 ・石井金之助『近代工業の労働環境』三一書房,昭和24年。

 ・石井金之助『労働科学論』三笠書房,昭和27年。

 ・内海義夫『労働科学序説』法律文化社,1954年。

 ・裴 富吉『労働科学の歴史−暉峻義等の学問と思想−』白桃書房,1997年。

 また,戦時期における日本経営学全体の理論的な惨状については,裴 富吉『日本経営思想史−戦時体制期の経営学−』(マルジュ社,1983年)を参照されたい。

 


 【 注  記 】

1)  中川俊一郎『改訂労務管理の基礎知識』ダイヤモンド社,昭和30年改訂(昭和26年初版),〔第1「労務管理概論の基本問題」〕9頁,11頁。

2) 森 五郎『新訂労務管理概論』泉文堂,昭和51年,59‐60頁〔を補正〕。

3) 森『新訂労務管理概論』61‐62頁。

4) 蒲生俊文『労働管理』巖松堂書店,昭和3年,3頁,2頁,6頁,7頁,8頁,3-4頁,7頁,14頁,17頁,35-36頁。

5) 同書,150頁,214-215頁,217頁,218-219頁,259頁,307頁,310頁以下,291頁,393頁,395頁。

6) 中央労働災害防止協会編『安全衛生運動史』同会,昭和59年,37頁。

7) 桐原 葆見『労務管理』千倉書房,昭和12年,序1頁。

8) 同書,1頁,5頁,3頁,23頁。

9) 同書,28-29頁参照,34頁,38頁,39頁。

10) 同書,41-42頁,42頁,44-45頁。

11) 同書,64頁,68頁。

12) 同書,237 頁以下。

13) 同書,280頁。

14) 同書,序1頁,序3頁。

15) 裴 富吉『労働科学の理論と実際−産業心理学者 桐原葆見の学問と思想−』批評社,2000年は,桐原葆見を労働科学者の側面から検討した著作である。

16) 淡路圓治郎『人事管理』千倉書房,昭和13年,自序1頁。

17) 同書,3頁,7頁,8頁,4頁,1頁,2頁,3頁。

18) 同書,11-15頁。

19) 同書,15頁,16-17頁,15-16頁,17頁,11頁。

20) 同書,37頁,141頁,542 頁。

21) 同書,27-28頁。

22) 門田安弘『トヨタシステム−トヨタ式生産管理システム−』講談社,1989年,28-31頁参照。

23) 鎌田 慧『トヨタと日産−自動車王国の暗闇−』講談社,1992年,11頁。

24) 間 宏『日本労務管理史研究』ダイヤモンド社,昭和39年,317頁,310-311頁,317頁。

25) とりあえず,間,同書,317-318頁,鐘紡株式会社社史編纂室編『鐘紡百年史』同社,昭和63年,152-153頁の「鐘紡労務管理の変遷要図」などを参照。

26) 野口 祐『日本資本主義経営史 戦前篇』御茶の水書房,1960年,111頁以下,126頁,127頁。

27) 野田信夫『日本近代経営史』産業能率大学出版部,昭和63年,535-536頁。

28) 鈴木恒三郎『工場管理実学』ダイヤモンド社,大正5年,石山賢吉「はしがき」2-3頁など参照。

29)『精銅所五十年』日光電気精銅所,昭和29年,47頁。宇野利右衛門『模範工場日光電気精銅所』工業教育会出版,大正3年も参照。

30) 奥田健二『人と経営−日本経営管理史研究−』マネジメント社,昭和60年,108-112頁,112-113頁,114頁,115頁,117-118頁。

31) 同書,120 頁,表1参照。さらに『労働科学の生い立ち−労働科学研究所創立五十周年記念−』労働科学研究所,昭和46年,暉峻義等『産業と人間』理想社,昭和15年なども参照。

32) 奥田『人と経営』118-126頁参照。

33) 同書,130-132頁参照。

34) 暉峻義等監修『労働科学辞典』河出書房,昭和24年,163頁,164頁。

35) 吉田千代『評伝鈴木文治』日本経済評論社,1988年,はしがきにA頁。

36) 鈴木文治『労働運動二十年』一元社,昭和6年,241頁,264頁,35頁,36頁,64-65頁,45頁,183頁,92頁,197頁。

37) 鐘紡を批判した当時の著作としてたとえば,原 哲夫『鐘紡罪悪史』戦旗社,昭和5年5月,野中雅士『鐘紡の解剖』日本書院,昭和5年4月などがある。

38) 高橋 洸・ほか2名編著『日本労務管理史 第3巻 労使関係』中央経済社,1988年,38頁。

39) 鈴木恒三郎『労働問題と温情主義』用力社,大正4年,附録,32頁以下。

40) 蒲生俊文『新労働管理』保健衛生協会,昭和12年,22頁,473頁,283頁,80頁。

41) 石川知福『労働の衛生学』三省堂,昭和14年,序言1頁より。15頁にも同様な文章。

42) 石川知福『産業医学論集』科学新興社,昭和19年,序より。

43) 南 俊治・勝木新次・石川知福編『日本の労働科学』南山堂,昭和25年,73,22-23頁。〔 〕内補足は筆者。

44) 同書,171頁。

45) 西川好夫『労働科学の基本問題』御茶の水書房,1960年,20頁。

46) 淡路圓治郎『労務総論』河出書房,昭和24年,序より。

47) 同書,41頁。

48) 本稿は,「勤労科学」という淡路の主張について詳論しない。くわしくは,淡路圓治郎「産業心理学の動向−勤労科学の構想と課題−」,現代心理学全集第8巻『産業心理学T』河出書房,昭和19年3月,および裴 富吉「労務理論の転向問題」『大阪産業大学論集〈社会科学編〉』第102 号,1996年5月参照。

49)古林喜楽『経営労務論』東洋出版社,昭和11年,序1頁。


  お 願 い:本稿の引用に当たっては基本的に,冒頭出典『大阪産業大学経営論集』第4巻第2号,2003年3月の参照を乞いたい。本ホームページからの引照をおこなうばあいにおいても,「学術的なルール」に準拠した注記での明示を願います。



−1993.8.15−

−2000.8.15 改筆−

−2002.8.25 補筆−