【断 わ り】 @ 本稿は『大阪産業大学経営論集』第3巻第3号2002年6月20日を,ホームページ用に編集しなおした論稿である。 A なお本稿は,同上に掲載された論稿とは完全に同一の内容ではない。本ホームページ用への収録に当たって,相当の加筆がなされている。 B 本稿の引照にあたっては,無断引用などルール無視を固くお断わりいたし,学術上の基本手順にしたがうことを願います。
「経営倫理学」は,経営学の研究対象に人文科学的な学問である倫理学を適用し研究する学問である。経営学と倫理学とが交叉する学問領域は,どのような特徴をもった諸課題のゆきかう場となるのか。 倫理学とは,「人間のよい生きかたを問い,それを吟味する学である」。したがって,経営倫理学は敷衍していえば,「企業のよい生きかたを問い,それを吟味する学である」。しかも倫理学には,規範倫理学,メタ倫理学,記述倫理学という3つの倫理学がある1)。 戦前のドイツ経営経済学がしめしたとおり経営理論は主に,規範的‐理論的‐技術的という3つの志向・特性をもつ。ここで,表1を参照したい。
経営倫理学の研究対象は,戦争の時代における日本企業の問題だけではない。日本の経営学者たちは,研究者の立場からの政策論的提言,いいかえれば経営倫理学的な発言を,過去〔=戦時体制期〕に具体的におこなっていた。経営学者は戦争の時代,日本企業のありかたをめぐって,いかなる理論を構築し,政策を提言してきたのか。 ヨハネス・ヒルシュマイヤー=由井常彦『日本の経営発展−近代化と企業経営−』(東洋経済新報社,昭和52年)は,「戦時統制期」〔1937〜45年:昭和12〜20年〕を除外して記述し,「異常・奇異な歴史の体系」を編んだ書物である。本書は,第21回日経経済図書文化賞をうけており,日本の関連学界の意識水準・形態がいかようにあるのか,その一端を推察できる。 侵略戦争・植民地支配責任,国民の戦争責任という視点そのものが目新しい日本では,その戦争責任研究の成果をふまえて,日本の近代史の道のり総体を見直したり,その視点で身近な戦後史を振りかえる作業はまだ不十分であり,その結果,50年たっても未だに日本の近代史像が鮮明に見えてこないという現状にある2)。 恐らく,日本経営学界に関する戦責問題の分析・研究は,筆者『日本経営思想史−戦時体制期の経営学−』(マルジュ社,1983年)がはじめてである。本書は日本経営学界〔学会〕告発の書とうけとられやすいが,それ以上に,戦争という非常・異様だった時代,状況が極限に到達したとき,経営学者たちがのこした理論的‐実際的な発言を批判的に考究したのである。 増地庸治郎編『戦時経営学』昭和20年2月に論稿を寄せた,斯学界でその後高名を馳せる経営学者は,こう述べていた。 要するに経営学は従来の如き抽象的考察を反省して経営の即事的具体的研究を企図しなければならない。……全体的個体性の理論に,従って民族的乃至国家的経営の理論に想到することによってのみはじめてこれを解明し得るものなることを信ずる3)。 ところが,敗戦の半年まえに披露されたこの「経営の理論」=「全体的個体性の理論」,「従って民族的乃至国家的経営の理論」は,ドイツ・ナチズム流の民族優越主義的・国家全体主義的理念:「血と土」(Blut und Boden)に依拠した,経営共同体論:「トムス経営生物学」を受け売りしたものである。戦後の「藻利経営学」=「経営二重構造論」は,戦中の「民族的・国家的経営の理論」を化粧なおししたものである。 海道 進は,日本経営学会理事長を勤めたとき,こう戦争問題に言及した。 経営学は,60年の歴史の間に侵略戦争と搾取への協力,偏狭な国家主義と狂暴なファシズムへの協力,経営共同体のドイツナチズムへの傾斜など,恥ずべき道程を辿りました。経営学は,再びこの誤った歴史を繰り返すべきではありません。先人の愚行の径,前者の轍を踏むべきではありません4)。 本稿があらためて解明する経営学者山本安次郎は,ある意味では,自己に正直な学究である。筆者は,山本安次郎経営学説の戦争責任問題を追究し,時代背景にまで深く立ちいって理論の根源に切りこむ検討をくわえてきた。今回は,昭和15年4月から昭和20年8月まで,満州帝国建国大学で企業経営論担当の助教授‐教授を務めた《経営学者山本安次郎の社会科学的意味》を,経営倫理学の問題意識に引きよせて歴史的に再問するものである。 経営倫理学は,「企業経営および経営学者のよい生きかた〔つまりそれらの歴史(時代環境と人間行動)〕を問い,それを吟味する学」といえる。戦争の時代,経営学者たちは,国家によって「よいありかた=生きかた」だと公認,強制された学問路線に忠実にしたがった。戦時体制の国家的価値観のもと唯一,認許・指示された精神理念に沿う方向で,研究成果を挙げてきた。 だが,それは敗戦後,弊履のごとく捨て去られ,かえりみられることがなかった。あるいは,換骨奪胎のうえ再評価されたり,ばあいによってはそのまま再利用されたりした。「経営学という学問に従事する社会科学者」がそういう存在だったとすれば,経営倫理学にとってかっこうの研究対象である。
U 旧満州国における建国大学 この大学の目的は,道義世界建設の先覚的指導者を作り,以て興亜の大業を翼賛せんとするに在る。依って単に学問のみならず,勤労を尚び,身を以てその理想を実践することを教へて居る5)。 つまり,満州国は,a) 植民地支配体制内に不可避だった矛盾対立を揚棄・超克し,b)
建国の理想である「王道楽土」を実現するための「五族協和」的な人材育成を,c)
植民地侵略精神によって建学された建国大学のなかに求めた。建国大学は,日本帝国主義の侵略的性格に加担する性格を,歴史必然的に負っていた。 太平洋〔大東亜〕戦争の結果,建国大学創設当初に高揚された目標は挫折した。日本の敗戦は,建国大学を瞬時に壊滅させた。1945年8月まで建国大学において企業経営論の講義をおこなった山本安次郎は,満州国に実在した数少ない経営学者の1人である。 山本は,京大大学院時代の指導教授小島昌太郎の意志に反して,満州国の建国大学に移動した。山本を建国大学に誘ったのは,建国大学副総長となった元京大教授作田荘一である。建国大学の総長は満州国総理大臣張 景恵であり,その総長の仕事を実質的に遂行していたのが,作田荘一である。 経営学者山本安次郎が満州国の建国大学に赴任するのは,昭和15〔1940〕年4月のことである。この年は第2次世界大戦勃発の翌年であり,いずれ日米開戦も不可避とみられる情勢下にあった。 時代は〈昭和軍事鎖国〉ともいうべき閉塞的状況にすすみ,建国大学に職場をうつした山本は「公社問題と経営学」を設題,研究に邁進する。そして,同僚たちと西田幾多郎「哲学論文集」を熟読,「主体の論理」に開眼し,経営学の学理的な自信をえたと,山本は回顧している。
1) 建国大学の淵源 東北部に従来存在した教育の営みを徹底的に禁圧し,その教育システムや施設・設備を完全に破壊したのちに,自分たちの必要〔すなわち支配・管理・掠奪の需要〕に応じて新たに教育政策を策定し,小学校や中学校を開設して強制的に奴隷教育を推しすすめ,占領地域で「日本精神」を普及し,そこの住民を忠実で順良な勤労者に養成しようとした。それと同時に,支配階級に仕える管理者を養成するため,必要最小限の高等教育機構として「満州帝国建国大学」〔通称「建国大学」〕を設置した。 日本国内では,既存の大学にはすでにファシズムの嵐が吹き荒れていたものの,京大の滝川事件などがしめしているように,なお大学の自治の伝統を誇る部分もあり,軍部の意のままにはならなかった。したがって,既存の法規の網の目をくぐって,関東軍の天下となっている偽満州国で,軍人主導の大学を設置することになった。石原莞爾は構想を立てた。建国の実践者を広く募集し,各「民族」の学生を同じ寮に宿泊させ,各「民族」の「理解」を促し,たがいの「感情」を培おうとしたのである。 1937年3月より大学創立準備委員会を開設し,大学設置の具体事務を開始した。そのさい,大学の創立が現役の軍人によるだけでは「大義名分に反」し,大学の合法性と正統性が問題になる。そのため,東京帝国大学の退官教授筧
克彦,同現任教授の平泉 澄,京都帝国大学教授の作田荘一,広島文理大学西晋一郎ら,神道や皇国史観の熱狂的な鼓吹者〔天皇制ファシズムのイデオローグたち2)〕を創立準備委員として依頼し,体面をつくろった。基本理念・方針・政策はほとんど軍部で決められ,それを具体化していくのが,関東軍参謀を中心としたその準備委員会であった。 2) 建国大学の建学理念と学校システム 「建国大学創設要綱」1937年6月から,表2に引用する。建国大学の創設要綱にしめされた中心は,石原莞爾がくりかえしいっていた,「亜細亜解放」「亜細亜の復興」「大東亜共栄」の思想である。自由主義・民主主義を基本とする欧米文化を排除して,マルキシズムや共産主義の世界規模の波及を阻止し,日本人による支配をもって欧米植民地主義者のアジア支配にとってかわり,アジアひいては世界各地に,彼らの理想「八紘一宇」の大日本帝国の実現を夢みたのである。
石原莞爾は,昭和17年刊行の著作のなかで,「この建国大学は政治大学であります」といっていた3)。 竹山増太郎「塾教育を中核とせる建国大学指導者教育」(昭和17年1月)は,建国大学における教育体系上の特徴は,軍事教練科目が日本のどこの高等専門学校においても例をみないほど多いことにある,と指摘していた。それはまた,「現役将校として第1線に役立ちうる如き成果を挙ぐること」を目標としていただけでなく,勤労的実習にも重点をおき,諸作業訓練をおこなっていた。すなわち,「俗に建国大学は,文科大学と士官学校と農学校とを合わせた如きものだと云はれてゐる」4)。 『満洲建国読本』(昭和15年2月)は,建国大学をこう解説した。 この大学の目的は,道義世界建設の先覚的指導者を作り,以て興亜の大業を翼賛せんとするに在る。依って単に学問のみならず,勤労を尚び,身を以てその理想を実践することを教へて居る5)。 3) 建国大学の教員とその組織 建国大学創設初期,赴任したのはほとんど日本人の教員であった。1941〔昭和16〕年当時,教員構成は,日本人が71名〔教授25名,助教授38名,講師8名〕と全体の90%を占め,その他の民族の出身者は9名しかいなかった。さらにめだつのは,軍人が教員になっていることや,軍事関連科目が多いことである。剣道や合気道,柔道など専任の武道担当者のほか,現役の軍人も4名いて,戦術や戦略論などの軍事科目と,全校生の軍事教練を担当していた。軍事教練を担当する偽満州国の軍人もいた。 −教員の選考は主に東京事務所が担当したが,最終的には軍部の許可を経て決定された。最初の人選は,ほとんどが作田ら4名の御用学者の推薦によるものであった。この4人の政治思想傾向から,どういった人物が推薦されたか,容易に想像できる。建国大学で教鞭をとった日本人教員の,赴任にいたる経緯や動機は,その出身や政治的・経済的・文化的背景によって,つぎのようにさまざまであった6)。 ・いわゆる王道楽土の建設の理想に燃えて赴任した者。 ・立身出世を夢みて,軍部とぐるになってきた者。 ・「新天地」を求めて,大陸に「雄飛」しようとする若者もすくなくなかった。 ・開学後には,国内で左翼運動に参加して挫折し,追及を逃れて避難してきた学者。 建国大学でも,学生運動の対策・進歩的思想への接近防止を仕事とする「師導」が17名もいた。また建国大学は全寮制で,その兵舎のような寮のことを「塾」とよんだ。塾訓育も大学教育の一部であった。日本人の塾頭がいて,学生の言論や行動は四六時中監視されていた。教員80名の専門分野の構成表3も,とくべつである。
1941年当時,建国大学の在学生は表4のとおりである。建国大学では,学生を完全に軍隊方式で管理していた。1人ずつ小銃も配られていた。少数の日本人の研究は,それがカイライ国家「満州国」に寄生していたカイライ制の大学で,虚構の大学であるとは認めながらも,「大学の国際化を先駆的に実施したといえる〈側面をもっていた〉」とか,「多民族の共存について真剣に思考し,実践にも務めていた」とかいって,せめてもの功績を挙げている。しかしそれは,共塾という表面的な現象しかみずにえられた結論であろう。
5) 建国大学の本質 1997年現在,まだ健在であった建国大学の中国人卒業生60数名は,勉学・勤労奉仕・塾生活など多方面に触れて,いわゆる「民族協和」という理念については,それを「看板」「詐欺」「虚偽」と表現している。つまり彼らは,建国大学在学中,民族平等や協和といったものを,すこしも感じなかったということである。 日本人学生1期生は,卒業後,時期を前後して全員現地で入隊し,会計担当の1名をのぞいて,みな鉄砲をかついで中国での侵略戦争に加担した。逆に,開学から解散までの8年間,520名いた中国人学生の6%を占める32名が逮捕され,8%に当たる41名が中退していった。この数字をみても,建国大学のめざす「民族協和」がどのようなものであったか,理解するにかたくない。 野村 章『「満洲・満洲国」教育史研究序説』(エムティ出版,1995年)は,建国大学という学園の教育環境を,こう描写している。 学生は日本人をふくむ各民族を入学させたが,現地民族でこの大学に入学できた人々は俊秀といってよく,それだけに思想上の問題が絶えなかった。一歩学園の外にでれば,民族非協和,民族差別の実態が渦巻いており,日満一徳一心や民族協和について学生間の論争は激しかった。のち40年代には思想問題や地下活動容疑で関東軍憲兵隊に逮捕されたり,学生が脱走するというような事件が頻発して,実権を握っていた副学長作田荘一が辞職に追いこまれるという状況になってしまう。この建国大学弾圧事件では,1941年以来3回の手入れで33名が逮捕され,「反満抗日」などの罪で重刑をうけ,獄死したものもあった7)。 ある中国人卒業生は,こういう。建国大学は思想的麻薬を伝播する伝道士〔先覚者〕を養成した。細菌は人間を死にいたらせるが,思想的麻薬は人間を侵略者の利用できる奴隷,口がきけて順良かつ繁殖できる奴隷にする。殺人は侵略者の手段であり,人を奴隷としてつかうのは彼らの目的である。そういう意味からいえば,建国大学の害毒は731部隊に勝るとも劣らぬものである。 王 智新は,以上に引照した著作とはべつの編著で,こう結論する。 植民地教育のもつ近代性という問題の中では,日本本国では到底実施不可能であった軍部主導の大学設置と管理体制(たとえば,建国大学),参加者の本意に反した監視・監督下の「異民族交流」,官民一致の教科書作り体制などがとくによく取り上げられる。しかし,植民地でのこうした実践が成功した暁には,それらが本国日本へと逆流入するという危険性を孕んでいたことを忘れてはならない。 植民地教育の役割とは,まさに植民地において抑圧,搾取される大衆の魂を奪い,その心理革命を行う最後の武器まで武装解除することにあった8)。 すなわち,満州国の幹部候補者養成という使命をもった建国大学が,逆に「反満抗日」の意識と行動を学生たちに醸しだしたということは,歴史の皮肉であると同時に,他民族支配という不条理の基盤の上に立つ建国大学の理想という現実の限界を,もっとも象徴的に物語るものであった9)。 −−ここで,建国大学関係の論稿を,いくつか挙げておく(年代順)。 【戦中文献】 ・竹山増太郎「塾教育を中核とせる建国大学指導者教育」『興亜教育』昭和17年1月。 ・駒井徳三・ほか10名「(座談会)満洲建国の教育を語る」『日本教育』昭和17年4月。 【戦後文献】 ・伊藤 肇「はるかなる建国大学」『諸君』昭和45年2月。 ・楓 元夫「世にも不思議な『満洲建国大学』」『諸君』昭和58年10月。 ・志々田文明「〈満州〉建国大学の一考察」,早稲田大学『社会科学討究』第32巻第3号1987年4月。 ・斉藤利彦「『満洲国』建国大学の創設と展開−『総力戦』下における高等教育の『革新』−」,学習院大学東洋文化研究所『調査研究報告』第30号,1990年3月。 ・岡崎精郎「〔資料〕民族の苦悶−創設期の建国大学をめぐって−解説 (1・2・3)」,追手門学院大学『東洋文化学科年報』第4・5・6号,1989年11月・1990年11月,1991年11月 ・志々田文明「建国大学の教育と石原莞爾」,早稲田大学『人間科学研究』第6巻第1号1993年3月。 ・山根幸夫「『満州』建国大学再考」『駿台史学』第89号1993年10月。 ・志々田文明「『民族協和』と建国大学の教育」,早稲田大学『社会科学討究』第39巻第2号1993年12月。 ・山根幸夫「『満洲』建国大学に関する書誌」,東洋文庫近代中国研究委員会『近代中国研究彙報』第18号,平成8年3月。
建国大学内でも当然,出身民族ごとに差別する食糧配給制度があったが,運用上の工夫をもってその差別をなくした唯一の例外であった。とはいえ,1938〔昭和13〕年に創設された満州帝国建国大学は実質,日本・日本人関係者とそれ以外の国家・民族とのあいだに,越えようにも越えられないほどおおきく,深い溝=障碍物をつくった。 建国大学の教員のなかに,満州国に不可避の根本的な矛盾・問題に直接触れた者がいないわけではない。建国大学教授天澤不二郎は,「労務管理刷新の基礎前提」を論じた(→『満洲の能率』第6巻第7号,康徳11〔昭和19〕年7月)。 だが,旧日帝が中国各地に刻みこんだ「万人坑」遺跡は,建国大学教授による「満州国戦時労務管理体制刷新」論を,〈砂上の楼閣〉的論及とみなすほかない歴史的証拠を提示する。 戦争末期の日本は,中国支配地域で「ウサギ狩り」〔あるいは「労工狩り」〕という名の奴隷狩りをおこなって中国人を強制的に駆りあつめ,現地で,あるいは日本本土に送り奴隷的使役に当てて虫けら同然にこきつかい,あげくのはては無数の命を奪った。日本国内秋田県でおきた「花岡事件」が有名である。 1) 山本安次郎「満州国企業経営論」−公社企業論− 満州国の企業経営に課せられた,〈戦時体制期の緊急要請〉に答える経営学「論」が必要であった。この学的営為に従事した建国大学教員が,経営学者山本安次郎である。山本は,建国大学における後期課程専門学科「経済学科」で,「企業経営論」の講義を担当した。なお,建国大学の修業年限は,前期課程3年‐後期課程3年の計6年であった。 筆者の山本安次郎に対する論及は,30年もの長きにおよぶため,非常に多い。参考までに挙げれば,関連する最新の業績は,『歴史のなかの経営学』(白桃書房,2000年)第2章「公社企業論:満州事業経営論」である。したがって,本稿の論及は簡潔にしたい。 まず,山本安次郎『公社企業と現代経営学』昭和16年9月に聞こう。 a)「太平洋の波益々高からんとするを思ふとき,謂はゆる高度国防国家の確立,経済力の最大能力を発揮すること焦眉の急を要する」。「大東亜の建設,世界新秩序の建設といふ世界史的課題は絶大なる国力,いな国家総力特に経済力を基礎としてのみ遂行せられる」2)。 b)「国家が経済の基体であると同時に主体である」。「経済形態の問題は飽くまで国家主体の形成作用に於て考へられる」。「正に現代的企業そのものに外ならない」「公社こそ」,「真に国民経済本然の姿といふべきであり」,「東亜の危機,日本の危機を自覚し……,計画経済的再生産者の自覚的担当者といふことが出来る」3)。 c) 要するに,「国家の立場,国家的存在の論理の立場,謂はゆる『行為的主体存在論の立場』即ち『行為の立場』に於て」,「企業の現代的形態としての『公社』の問題は吾々の経営学にとって正に一の試金石たる」「現代的課題が存在する」。「世界史の性格をもつ」,「実践的課題性に於て主体的に理解せられる」,「現代経営学は公社経営論以外ではあり得ない」。「立場,方法,対象は行為に於て統一をなす」4)。 つぎに,満洲帝国政府編『満洲建国十年史』昭和44年,山本安次郎稿第3部「経済」第8章「企業」にも若干,聞こう。 「学者と実際家との統一戦線の結成こそ正に最も根本的な問題である。学に志すものゝ任務も極めて重大である」。「その成果如何は単に満州国にとってだけではなく,正に大東亜共栄圏の確立に重大な影響をもつ。真に世界史的重大使命と言はねばならない」5)。 2) 山本安次郎「経営学基礎理論」−経営管理論− 『経営管理論』昭和29年10月は,山本学説の本体は結局,「行為的主体存在論の立場に帰着せざるを得ない」と述べた。本書は,前述1) の「世界史的な重大使命・性格⇔満州国公社企業論⇔行為的主体存在論」という山本学説の中身を一部分切り落とし,理論上の三位一体性を解消させる内容展開をしめしていた6)。 建国大学時代の山本安次郎は,現代経営学の任務を,国家の「立場,方法,対象は行為に於て統一をなす」ことと規定した。山本は,満州国産業体制のなかで「公社企業論」を経営政策論的に垂示した。 しかもそれは,のちにみずから非難したごとく,「その経営は高く政治目的を掲げ徒らに大言壮語し」7),国家の「主体性を高調するも客観的把握は軽視せられ経営理論は殆ど全く無視せられ」8)たのものであった。敗戦後,「かくて業績の余り香しからざるを見た」9)のが,「山本学説=経営学の国家的行為的主体存在論→公社企業論」である。 だが,満州‐満州国の歴史的事実=研究対象に根づいたからこそ理論展開できた,「高度国防国家体制的な〈経営の立場〉」,具体的にいえば「世界史的重大使命=大東亜建設のための〈経営学の基礎理論〉」を,戦後の山本は簡単に失念したかのようである。 注意したいのは,満州国時代に「高く政治目的を掲げ徒らに大言壮語し,……経営理論は殆ど無視」していた「〈国家〉行為的主体存在論」の立場が,戦後もなお,山本学説の理論的半身であることをやめなかったことである。 たとえば,『経営学本質論』(森山書店,昭和36年)は,注記中に「私は経営政策学は国家を主体とする経営政策を問題とするものとして成立つと考えている」と明述していた10)。この『経営学本質論』は,「経営学が実践理論として仮言的判断を含み得るとする場合,経営政策学は成立し得るか,という問題がある」11)といったのち,さきの〈国家主体の経営政策学〉を提起したのである。 戦争中,山本が政策論的にあつかった「戦時理論性」ならびに「国家科学性」は,戦後の著作に再び登場する。それもひそやかに出現するのをみて,筆者は非常に驚いた。しかもその論及部分は,だいたい〈注記〉中に復活する。山本の頭脳のなかを探索してみると,いうところの「戦時理論性」と「国家科学性」とは,事後においても別物ではなかった。 『経営学研究方法論』昭和50年は,こう叙述する。以下に引照する回顧談は,注記に書かれた主張がやはり多いことに注目したい。 「経営学を世界的視野から典型的に考え,これを凝集的に見れば」,「わが国の経営学理論の世界史的使命」に即して,「著者〔山本〕がこの点〔経営学〕について明確に態度を確立できたのは,昭和15年から16年にかけてのことである。拙著,『公社企業と現代経営学』,建国大学研究院,昭和16年,参照」12)。 「著者は第2次大戦中の戦争経済を背景に,満州国において株式会社−特殊会社を研究し,その公社企業への転化の不可避性を論じ,公社企業の原理的構造の解明に努力した」。「著者がこの見解に到達したのは,昭和15年以降西田哲学の本格的な研究を契機とするもので,それ以後の著作論文はすべてこの立場に貫かれている」13)。 以上を踏まえ筆者は,つぎの表5,表6を作成してみた。
山本学説は,現実的な〈内在‐連続〉面では「理論的持続性」が決定的に破断しているにもかかわらず,理念的な〈超越‐非連続〉面,いいかえれば「コトバの世界」でのみ,「真の哲学本質論」を一貫させてきた。 3) 山本安次郎「満州特殊会社論」−企業形態論− a) 満州国の国策的な特殊会社は,満州国民経済の「建設経済」的性格を基盤とし,その課題をみずからの課題として自覚的に担当する,固有の企業制度として形成され発展してきたものであり,今日〔当時:戦時〕では満州国民経済の中枢をなし,これとはなれがたい関係にあるという事実から出発する15)。 b) a) の記述は,「国家の立場」をもった山本「公社企業論」が,いかなる方途をめざしすかを明白にしていた。つまり戦時期に,特殊会社「を株式会社,営利会社への逆転によって問題の解決を図らんとすることが如何に時代錯誤であるかは説明を要しない。現実に於ける危機はそれによって打開さるべく余りに大きい。事実,営利主義による能率増進の時代は既に過ぎ去った」16)と明言したのである。 当時,「公社の……合理主義的性格の形成こそ公社経営論の根本問題といはねばならない」のは,従来の営利「会社が自由経済の支柱といひ得るならば,公社は国民経済,その現代的形態としての計画経済の支柱といひ得る」からである。また,「真の意味に於ける公益は国益で」あり,「経済性は公社に於て初めて真に具体的な経済性たり得る」からであった。 つまり,「国益主義的共同主義的経済性」,「計画的適正利潤」,「利潤の費用化」は,「公社企業論」なる企業形態論においてこそ,適切に展開されるものであった17)。 戦後もなおそうした「戦中概念」にこだわりつづけた山本ではあったが,さすがに経済性概念への言及は,基本的に禁欲されている。その後,山本『経営学要論』(ミネルヴァ書房,昭和39年初版)は,「経営学は『経営の学』すなわち『経営利潤の学』といってもよい。経営利潤従って経営成果において初めて『経営性』が具体的に考えられ,『経営の論理』が生かされると思う」18)と,記述することになった。 ここで,前掲の表5と表6を総合する,表7を作成してみた。
山本はこういう。「従来,社会科学,文化科学,精神科学等と呼ばれる学問は殆んど全く実験から無縁なるかの如く考へられて来た。しかし立場を転検して見れば,無縁どころか実験そのものに外ならないことを理解し得ると思はれる。特に満州国に於てはその感が深い」19)。 満州国民経済体制下でおこなわれた〈社会科学的な実験〉は,その後どうなったのか。山本は,その経過についてすすんで自己評価をおこない,結果報告も出すべきだったが,満州国産業経済における「経営は高く政治目的を掲げ徒らに大言壮語し」たと,お茶を濁すかのように回顧するだけだった。 山本学説がかりに,ドラッカー経営哲学を超え,バーナード組織理論も包含できるほど卓越した構想をしめしうる,りっぱな体系をそなえていたとするならば〔つまり,理論知や分析論理の一定の意義を肯定し,それを超える知識や論理があるならば!〕,満州国企業経営論の「実践的現実を理論化した道」=公社企業論の〈社会科学的な実験〉を,本質論的に回顧する作業などお手のものだったといえる。 「山本経営学」の核心を構成する理論部分は,建国大学:満州国民経済のまっただなかに位置し,旧日帝の価値観を絶対的に正当とみなす見解として創説された。この事情を無視する山本学説の理解は,隅の首石を欠く建築物のごときである。 −戦前・戦時の植民地・占領地体制はこれを城郭に譬え,日本〔内地〕からの距離を階層序列をもって説明できる20)。 a)「朝鮮・台湾」など ……植民地として日本経済に深く組みこまれた地域。 b)「満 州」 ……準植民地〔傀儡国家〕としてブロック経済の柱となって相対的独自性をもった〔もとうとした〕地域。 c)「中国関内」 ……占領地として傀儡政権を樹立し,満州につづく位置にあった地域。 d)「南 方」 ……占領地として基本的に軍政が実施され,「大東亜共栄圏」の周辺部に資源の「補給圏」として位置づけられた地域。 朝鮮・台湾等の植民地は,日本に深く包摂されていたために独自の開発計画をもちえなかった。満州では,体系的開発計画が策定・実施された。中国関内・南方でも一定の開発計画が試みられたが,満州ほどの体系性はみられなかった。 ・1937年〜39年9月 ……「満州産業開発五箇年計画」(1937〜1941〔昭和12〜16〕年)は,日中戦争の勃発によって修正五箇年計画へと発展する。 ・1939年10月〜41年 ……第2次世界大戦勃発は日本の戦時経済に打撃を与え,南方進出への衝動を高めた。1940〔昭和15〕年10月「日満支経済建設要綱」は,日本を工業センター,満州・中国関内を原料資源・食糧供給地とする役割分担をあらためて確認した。 ・1942年〜45年 ……太平洋〔大東亜〕戦争への突入は,対米貿易の最終的途絶,南方占領地の獲得であった。しかし,アメリカを筆頭とした第3国への依存を「大東亜共栄圏」で代位できず,戦略物資の不足は当初から予想された。 −−経営学者山本安次郎はしごく当然に,満州国という価値前提=「〈傀儡国家〉の立場」に立った。山本はこう考えた。「大東亜共栄圏」の建設のために自説の「本格的経営学」を推進させることは,戦時日本にとって不可避の重要な任務である。そして,満州国における偉大な社会科学的な実験に対して,経営学の立場すなわち経営「行為的主体存在論」が歴史的にかかわれたことは有意義なことだった,と。 経営学を担当する教員として山本安次郎が建国大学に赴任したのは,1940〔昭和15〕年4月である。山本は当時,満州国の「国家の立場」と「経済の方向」を所与の学問前提ととらえたうえで,西田哲学の思考方法を基礎論に応用しつつ,戦時体制期における日本帝国臣民〈統合の論理〉に和する〈経営行為的主体存在論〉を理論構築した。経営学者のこのような学問展開は,満州国でなされた偉大な「社会科学的な実験」の一翼を形成するものと観念されていた。 しかし,なぜ,偉大だともちあげられた満州国の社会科学的な実験が幻と化し,政治経済的には雲散霧消したのか。野口悠紀雄『1940年体制』(東洋経済新報社,1995年)は,副題を〈さらば『戦時経済』〉と称していた。1940年体制に関する問題意識は,山本自身においては希薄である。「〈満州国〉1940年体制」にむかって,「さらば!」ということばを送れるほど意識的な吟味ができなかったのが,山本である。
我々は大東亜地域の資源を成るべく速かに開発利用して戦力増強に資することが正に刻下の急務あり銃後国民に課せられた使命であると思ふ1)。 −−この発言に瓜二つの経営理論を,満州帝国建国大学山本安次郎も提唱した。 ・池田「大東亜地域の資源を……開発利用」とは,山本「大東亜の建設」。 ・池田「戦力増強」とは,山本「高度国防国家の確立」。 ・池田「銃後国民に課せられた使命」とは,山本ではより普遍化され「世界史的使命・課題」。 建国大学の実質的最高責任者であり,山本の恩師の1人であった作田荘一は,つぎの見解を提示した。日本は,「資本主義,社会主義,国家社会主義,国家主義と発展して行くのではないかと思ふ」。「私は国家主義こそ今後最も勢力の大なるものとなって行くべきものであると考へる」2)。 なかんずく,満州国に在住,建国大学に奉職した経営学者山本安次郎は,恩師作田荘一の日本国家主義思想を忠実に継承する経営理論の構築をめざした。作田荘一の日本国民歴史観は,「1945年の敗戦」によって「それ以降」に無効となった。しかし,山本の学問は戦争中,作田のつぎのような見解を,無条件でうけいれていた。 イ) 「我が国体は天皇を御中身と仰ぎ,臣民が分身として日本国と言ふ全一体を成せるものである。この国体は肇国の時から厳然として定まり,永遠に変ることはない。……我が国体が実中心を定立し居るに比べ,他の国々は虚中心の国体となってゐる」。「世界無比の皇国を守護し天壤無窮の皇運を扶翼し奉ることは,国民的本分の二大眼目である」3)。 ロ) 「日本の全体国家は,天皇を実中心と仰ぐ所の分身人の一体的組織である。分身人は国家の為に働くのではなく,全体国家の分身として働く。日本国民科学の研究もまた,この分身人の行ふ研究である」4)。 ハ) 「近代科学には日本精神は邪魔物であります。しかし現代科学は日本精神に依って始めて促進されて行くのであります」。「国運とは何ぞや,即ち創造開化の大業を経営することである。『むすび』の道を進むことである。創造開化の過程が永遠に,無限に進んで行く,これが日本の国運即ち皇運の天壤無窮なる所以でありませう」5)。 ニ) 「国体を明徴ならしめ得る」「国体に即する経済生活」「は国の中心にまします天皇の大御心を体時して国民が皆分身としての本分を国の経済に尽すことである。……大命の下に国民の本分を結成せる国の経済を営む……である」6)。 さて,作田荘一の諸著作は,「世界無比の皇国を守護し天壤無窮の皇運を扶翼し奉る」「日本精神に依って始めて促進されて行く」「現代科学」であるせいか,学術書に不可欠の規則・作法である「引用個所の明示・参照文献の枚挙」を,ほとんど省略した叙述形式を採っていた。その作田に倣ったつもりなのだろうか,山本安次郎『公社企業と現代経営学』建国大学研究院,昭和16〔康徳8〕年も,「本稿の問題の如き性質のものに於ては,一々脚註するまでもなく,凡て熟知されて居り,今更断る必要がないと思はれる」と断わっていた7)。 当時,東アジア広域を植民地あるいは軍事的支配のもとにおき,大国意識を横溢させた日帝カイライ国家の官立大学教員は,あたかも学問に従事する研究者の守るべき基本的約束さえ,反故にできたかのような口吻である。かりに,学問の作法・手順そのものがアジア侵略思想となにか関係があったのだとすれば,これは驚くべき増長・驕慢といわねばならない。 満州国時代における山本学説,すなわち,「経営学的な実践模範型であり,偉大な社会科学的実験のための理論上の行為」として定立された公社企業論の概念・提唱は,いまとなっていかに評価されるべきか。作田荘一の学風を正直に継承した戦時→戦後における山本の主張は,いまなお,「既に破綻した旧式の『国民国家』観を立脚点として,その『自尊』と『優越』を追いかけつづけ」たものである8)。 したがって筆者は,山本が戦後作でも「経営政策学は国家を主体とする経営政策を問題とするものとして成立つと考えている」点(『経営学本質論』昭和36年初版)を,けっしてみのがすことができず,これまで執拗に批判しつづけてきた。 満州帝国建国大学時代における山本の研究対象は,つぎのものであった。 東亜に於て日本の負担せる歴史的使命,日本の世界政策の達成目的と日本経済力の後進性との間のギャップを克服せんが為には飽く迄強力に日本の重工業の飛躍的発展を図ることが必要だったのである。それには日本経済を自由経済の儘に放置しては目的を達成し得ない。官民の強烈な熱意と協同に依って計画目標の為に必要なる諸般の対策を綜合的計画的に講じて行かねばならなかったのである9)。 要するに国家の意志を自分の会社の意志として其の担当して居る国家の志す方面に向けて発展せしめて行くといふ任務を有し,其の担当事業は満州の国民経済の中枢的地位にある10)。 満州国において山本が構築した「国家を主体とする経営政策学」は,「精神を国境内に貧しく自閉させて他者との関係を断ち切り,一国民国家の過去の戦争を正当化しようとする試みが,必然的に行き着いた地点」で生まれたものだった11)。
満州帝国建国大学の経営学者山本は,そうした満州国において企業経営を能率的に運営し,産業経済を円滑に指導するための実践規範的な経営政策理論を構築した。それは具体的に,「公社企業」論となって結実,提唱された。 山本「公社企業論」の本質は,作田荘一の著作にくわえられたある論評を借りれば,よりよく理解できる。 経済学が其の過去の「陰惨科学」の名と衣とを捨てゝ,「光明科学」の実と体とを現し得たりとする。意志に眼醒めたる人間の生活は,無限の展望を持つ。今こゝに理想主義経済学の黎明の鐘を聴き得るのではあるまいか3)。 ところが山本は,戦時体制期の経営問題に理論的‐政策的,理念的‐現実的に直結し,「理想主義経済学の黎明の鐘」を鳴り響かせた公社企業論〔光明科学(!)〕が,戦後日本の産業経済における企業体制論:事業経営論に舞いもどって,またもや,陰惨科学(!)として有効だと考えていた。 このように,「公社企業論」の抽象的妥当性〔「光明科学」性〕はたしかに,日本の企業経営:〈陰惨科学としての現実の歴史〉から超越しきった思惟である。一見それは,非常に卓越した理論的内実を有するかのように映る。だから,そのこけおどし的な魅惑にとらえられる,次世代の経営学者もすくなからず出てきた。 戦後,ほんのわずかな部分〔それも戦争期に産出した研究成果を誇るばあいが多い〕をのぞき山本は,以上のような事実=「過去の歴史への深い関与」に触れてこなかった。考えれば考えるほど,不思議〔あるいは当然?〕な,社会科学者の言説である。 山本安次郎経営学説の提唱した満州国企業形態論:「公社企業論」は,日本と中国などとの戦争状況を底辺におき,そのカイライ国を頂点から原動させ変革することをねらった経営政策理論の展開であり,同時にまた,臨戦体制を督戦するための経営思想の垂範でもあった。満州国企業経営論に淵源する「過去の遺産である国家理念,戦争体制との一体性=〈ヘソの緒〉」を切り捨てることができず,これを敗戦後まで引きずってきた「経営行為的主体存在論」の本性とはなにか。ここに,筆者の批判する問題の焦点があった。 明治憲法上の規定にも由来するが,米国政府〔とくにD.マッカーサー〕は,天皇を政治的に利用し,意図的に温存した。その結果,「天皇の免責」が「日本人全体の免責」をもたらすというアカウンタビリティと道義的責任の回避を生み出している。 1990年前後,バブル経済の形成と崩壊のさいに,きちんとした責任をとった政治家も官僚も経営者もいなかったのは,その結果である。重要なのは,欧米・アジア諸国の人々にとって,さきの「戦争の記憶」がいまだに消え去っていない,過去の清算が済んでいない,いいかえれば,まだ“戦後”が完全に終わっていないことである4)。 指紋なんてみんなで“不”の会編『抗日こそ誇り−訪中報告書−』(中国東北地区における指紋実態調査団,1988年)は,万人坑において端的に表現される満州・満州国の代表的産業:「炭鉱事業経営」を,つぎのように批判する5)。 「日帝は,老頭溝炭鉱から最大限の利潤の搾取,及び侵略戦争の物資の掠奪を行うために“人肉採炭”という原始的方法を採用しました」。 「150tに1人の遺骨ということになります」。 「体験させられた側はむしろ虐殺され,体験させた側は黙して語らず」。 日本の敗戦前,中国「工人犠牲者」は,1年に3千人から4千人にもおよぶと推定されている6)。 前田 一『特殊労務者の労務管理』(山海堂出版部,昭和18年11月)は,中国人「苦力」および朝「鮮人」労働者に関する歴史的記録性:価値を評価され,復刻版が発行された7)。本書は,日本が占領植民地や支配地区に刻みこんだ蛮行に関して,「体験させた側」が「黙して語らぬ」実像を復元するための媒体を提供する。 満州国当時における労働経済の悲惨な実態は,戦中すでに隅谷三喜男「満洲労働問題序説」1942年が指摘し,戦後には,窪田 宏「満州支配と労働問題」1979年などが活写している8)。しかし,山本「経営学説の満州国的な理論展開」には,その影すらうかがうことができない。 2002年5月での話である。元関東軍2等兵だった池田幸一(「カマキリの会」事務局,大阪府豊中市在住)は,敗戦後,ソ連によってシベリアに抑留された3年間を,「心身ともに極限の体験をした。抑留中の苦しい思いは心中に鬱積し,しばしば夢にみてうなされるほどだった」と告げ,捕虜になった自分たちへの補償〔自国民自国補償方式〕を強く求めている9)。 満州帝国建国大学教授山本安次郎は,ソ連参戦を契機に根こそぎ動員の対象となり,敗戦後シベリアに抑留され,死線をさまよう強制労働などを体験した。しかし山本は,個人の感傷的次元でその歴史的な体験を回顧するにとどまり,なぜ,自身がそのような目に会ったかを,社会科学者の感覚的理性をもってうけとめていない。もしかすると,事後に経てきた華麗な経歴が山本の気持を癒し,和らげることができたのかもしれない。 −−ここで,山本よりすこし年長の社会学者,新明正道に触れる。 新明正道は敗戦後,GHQが占領政策の一環として指令した教職追放と公職追放によって,東北大学の教壇を去ることを余儀なくされた。そのときの心境を詠ったのが,つぎの一句である。 “首一つ コロリと落ちて 今朝の秋” 新明は,戦後の1946年正月のラジオ放送で,大日本言論報国界などの国家主義団体の役職者はすべて公職から追放されると聞いた。そこで彼は,東北帝国大学の高橋里実法文学部長に辞表を提出したが,慰留された。しかし,法文学部の大学教員資格審査委員会は新明を「教員不適格者」と判定し,大学総長を経由して文部省に報告された。 その後,東北大学総長となった高橋里実は文部省に新明の「再詮議」を要請したが,実現しなかった。新明は戦時下の思想的な戦争責任を毅然と引きうける決意をもって,教職追放をうけいれ〔約5年間〕,その心境を軽快かつ諧謔に俳句に託して,前句のように表現した10)。 新明正道の社会学説についてここでは詳説できないが,彼自身は壮大な社会学研究において,内外の諸学説や諸理論を偶像化することもなく,徹底的に批判し,自己の学説や理論を構築しようとした。新明の墓碑銘は,「偉大な真理は批判されることを欲し/偶像化されることを望まない」と銘記している。 日本を代表する理論社会学者として,「行為関連」の立場に立って「綜合社会学」を体系化するとともに,社会学史家として社会学の諸学説を検討し,社会学通史を体系的に著述し,さらに知識社会学,政治社会学,民族社会学,都市社会学などの特殊社会学にも偉大な業績をのこした11)。 新明がとくに,社会学の本質概念として「行為関連」をえらんだ理由は,その歴史的社会概念の意味が「社会の構成主体として」の意味内容を包摂するところから,「文化をとりこみ歴史性をも獲得できる」とみなした点にある12)。 新明が,ナチズムの根柢をなすアーリア主義は科学的根拠をもたず,アジアや日本に対する認識は偏見的なものであると批判した点は13),正しかった。しかし,彼自身のちに反省することになる主張も,くり出していた。こういっていた。 我々は東亜新秩序建設の標識を掲げてをり,その道義的な理想性は我々の誇りとしてよいところである。……道義的な戦争の目的が国民の心胸に徹底したならば,自ら戦時生活の倫理には強靱な枢軸が与へられることに成るであらう。これを思ふと,迂遠のやうであっても戦時の目的を明確にし,この理想を国民に吹き込むことが戦時生活の倫理のためにも,重大な意味を有って来るのである。聖戦的な意識が国民のなかに強く生かされ,高貴な倫理的な雰囲気が醸成されたならば,国民は自ら戦時生活の倫理化への第1歩を成就したことに成るのである14)。 新明のばあい,社会学者としてナチズムに対する批判があるが,また日本帝国主義の正当化もあって,正負双方からの評価をうける余地がある。新明は戦争中,「我々が正当に戦時生活の倫理を問題とし得るのは,戦争それ自身の理義がきはめて明確である場合に限られてゐる」15)と主張したが,戦後この論点〔の錯誤〕を再吟味しようとする学的理性はもちあわせていた。もっとも新明は,「自己内省の問題」として,戦時体制期における転向と敗戦後の転向を率直に告白せず,それらは未決の問題〔「ミイラ取りがミイラになった」〕としてなおのこされている16)。 山本のばあい戦争中,大東亜共栄圏思想を経営学的にひたすら正当化していた。しかし,自説に固有だった戦時翼賛経営体制的な理論性格を敗戦後みなおすどころか,小声だったが〈国家の立場〉を再度もちだしたあげく,それを確言する始末であった。 それだけではない。いちばん問題なのは,自説そのものを偶像化してしまった山本理論の思いこみ・過信・自己陶酔である。山本は終生,持論の絶対化に執着したあげく,成仏したといえる。山本は,他者からの批判を絶対的に排斥できる経営「行為的主体存在論」を,神学的境地において提唱さえした。そのためか最終段階においては,形骸化現象のいちじるしい本質論的・方法論的な原理論体系以外,顕著な業績はのこせなかった17)。 日本の経営学界のなかではフランス経営学を研究する学者がすくないが,山本安次郎はその貴重な1名であった。同じくフランス経営学の研究を展開した佐々木恒男は,山本亡きあと,こう喝破した。 かつては,ドイツ経営経済学とアメリカ経営学の統合による真の経営学の確立ということが主張されていた。だが,残念ながら,それは今日に至っても実現されていない。……それは事実上無理であるし,意味もない18)。 同世代の研究者同士ではなかったけれども,山本安次郎と佐々木恒男は,相互に意見を交換できる学界活動の時期を長くともにしてきた間柄である。山本学説,とりわけその本質論・方法論の根本的な思考枠組に対する佐々木の排撃的な裁断は,両者の対話・論争の機会を逸してきたという点に鑑みて,いまや遅きに失した感をまぬがれえない。 2002年度で創立10周年を迎えた経営学史学会は,佐々木恒男を有力成員とするが,同じような成員に小笠原英司がいる。こんどは,この両者間にかかわる問題点を発生させるものとして,小笠原が興味ある見解を披露しているので,つぎに紹介しよう。 われわれ〔小笠原〕の経営哲学……は第1に,山本経営学説に依拠している19)。 山本安次郎の言を借りて私見を付言すれば,……「本格的経営学」の理論枠組みを基盤とする限り,経営学が認識する「経営」は国内経営であれ国際経営であれその基本は変わるところはない20)。 しかも,あとの見解は,2002年5月経営学史学会創立10周年記念大会の『予稿集』に収録された小笠原「基調報告」のなかでいわれたものである。小笠原はさらに,同『予稿集』の冒頭に配置された「統一論題解題」の文責者でもあった。 佐々木はさきに,山本による理想的な理論目標だった「本格的経営学」説=「真の経営学」の確立を,過去形に追いやる評価‐位置づけ=「かつては」をもって,全面的に否定した。ともかく,山本と佐々木は〔そして筆者もそうだが〕「かつては」,一定期間にいっしょに学界活動をしてきた,そういう仲間同士である。しかし佐々木は,その時期においては山本学説を否定的に評価する論説を公表したり,対決的に論争を挑む発言をしたりしてこなかった。 小笠原英司は,山本学説の熱烈な信奉者なのである。小笠原は,山本『経営学研究方法論』昭和50年を,「わが国経営学理研究のバイブルとも言える」と激賞した21)。こうなると,山本学説を全面否定する佐々木と,それを心底より崇敬する小笠原とのあいだには,みのがすわけにいかない「見解の完全な相違」が生じたのである。 ところが,山本学説の理解や解釈に関して,両者のあいだで議論がかわされたり論争がおきたりしたことを,筆者はまだ聞いていない。 同じ学会内においてこれほど意見の異なる経営学者同士が,学問的次元において平和に共生する姿を,他の世界に住む人々がしったらどう感じるだろうか。
Z 経営学者の戦争責任 本稿は冒頭で,経営倫理学は「企業のよい生きかたを問い,それを吟味する学である」と定義してみた。 満州国民経済=軍事立国体制にむけて山本安次郎が用意した経営学説は,国策会社:特殊会社などのめざすべき「目標:〈企業のよい生きかた〉」を提示する,なおかつ「それを導入するための規範学」としての《公社企業論》であった。だがそれは,戦後における日本産業経済に再登場できず,理論上ほぼ完全に撤収された。なぜか? 答えは簡単である。その公社企業論は,a) 学問理念において「国家の立場」に立ち,b)
理論構想において西田幾多郎の哲学論:「行為的主体存在論」を活用していた。けれども,当時,a)「国家の立場」を絶対的な前提とした公社企業論は,満州国の「企業の悪い生きかた」を理論づける基盤を,政策論的に構築していたからである。 それでも,山本経営学説の基礎論のうちb)「行為的主体存在論」だけは,そのまま戦後にも継続,堅持された。だが,このb)
哲学論が本質論的に,a)「国家の立場」〔「全体主義的国家民族主義」〕と結着していた歴史的な事実はみのがせない。現に,戦後しばらく経って山本は,その「国家の立場」の必要性を再び,小声だがささやいていた〔それも主に注記中での記述だった〕。この論説は黙過できない。 −−新明正道にもう一度,いわせよう。 意味と行為との統一は始源的な事実である。 「国家の立場」に立つ「行為的主体存在論」は,戦時体制〔第2次世界大戦という非常事態=異常環境〕のなかでこそ,明治開国以来の日本の哲学的伝統を活用する〈経営学用の哲学的思考〉として構想された。1945年8月の敗戦という冷厳な結末を突きつけられた山本学説は,そのよって立つ国家思想を喪失し,理論体系をささえる現実的な基盤を瓦解させられた。 2) 経営学者も加担したあの戦争 ピーター・F・ドラッカーは,「全体主義に神は存在しない。しかし,全体主義は自らの矛盾を解くために,悪魔,超人,魔術師を必要とする。ここにおいて,邪を正,偽を真,幻を現実,空虚を実体にかえるために,『指導者』が必要となる」,と喝破した3)。ドラッカーは,全体主義を経済人の終焉のあとに現われたひとつの強力的な変革への試みとはみるが,これによって真の非経済的秩序が創造されるものでない,と宣告した4)。 それゆえ,ここで山本に問われるべき問題点は,「各人〔=山本学説〕における行為関連の記憶と習慣である」5)。 若槻泰雄『日本の戦争責任−最後の戦争世代から−』1995年は,山本安次郎のように戦時中の学問を展開した人間に対して,そうとうきびしい口つきで,こう批判する 徹底的に糾明するのは,しかるべき教養をもちながら,ただの人間を“神”だといいはり,日本は尊厳なる国体を持つ“万邦無比”のありがたい国であり,この戦争は“聖戦”であって必ず勝つと主張し,日本人は天皇のために生き,天皇のため死ぬのが使命であると,青年を死に追いやった人びとである6)。 太平洋戦争中,1944年10月24日からのレイテ沖海戦で撃沈された戦艦「武蔵」の兵員となったが,九死に一生をえ,敗戦後の日本に生還してきた渡辺 清は,それまでの日本帝国をこう糾弾する。 おれは天皇に騙されていたのだ。 絶対者として信じていた天皇に裏切られたのだ。 天皇を責めることは,同時に天皇をかく信じていた自分をも責めることでなければならない。……2度と裏切られないためにも,天皇の責任はむろんのこと,天皇をそのように信じていた自分の自分にたいする私的な責任も同時にきびしく追及しなければならない。 こんどの戦争ではたくさんの人たちが苦しみ,たくさんの人たちの血が流れ,たくさんの人たちが犠牲になって果てたが,真理を追求して人類に奉仕するはずの学問が,あの戦争をついに防ぐことができなかったとすれば,この世の学問も,芸術も,文化も,いっさいは嘘であり,無意味である7)。 さらに,『近代日本の精神構造』1961年の著者神島二郎は,旧天皇制の日本国家をこう指弾していた。 私は突如として電撃にうたれたように直覚した−天皇は死ぬ! と。おおくの国民の血を流してこの敗戦である。天皇は自決するにちがいない。そうしたら,私はどうしよう。私は生きてはいられないと思った。私はこれをふかく心にひめて,これからはじっと天皇をみまもってくらすことになった。しかし,地方巡幸があっただけで,戦犯の処刑がすんでもなにごともおこらぬ」。 〔敗戦の翌年〕5月3日の新憲法施行にも,なにごともおこなかった。これまで待った私は,はじめて長夜の眠りからさめたように,天皇の無責任性をはっきりと見た。もはや民族の良心はそこにはない。しかし,この無倫理性は,たんに天皇個人の帰せられるべき問題ではなく,天皇制体制そのものの無倫理性であることを,私は,内心のいたみをもって認識していった8)。 そして,西川長夫『戦争の世紀』2002年は,自身の学問の源泉をこう説明する。「私の国民国家批判は,私の戦争体験と戦後体験のすべて,つまりこれまでの私の全生涯とその全生涯を左右したものに対する反省と憤りから発しており,いわば痛恨の言説で」ある9)。 −−「大東亜」戦争は,日本人の多くにとってなお「正義の戦争」かもしれない。当時の日本は,「大東亜共栄圏の建設」が「世界平和の確立に寄与する」という大義名分をかかげ,「自衛の確立のために南方に進出する」といったが,実に勝手な理屈だったとしか思えない10)。 満州建国は,勝手に他人の国から広大な土地を分轄して,これを「聖業」といっているのだから世話はない。この聖業はやがて大東亜戦争となり,泥沼化して日本は敗北した。満州建国こそ帝国主義であり,その地で日本官僚群が試みたものこそ,資本主義の枠であったではないか11)。 ある論者は,西田哲学の論理を「非統合の総合」と解釈し,「自己の論理」と「他者の論理」,自国の文明と他国の文明をともに生かす思想的な特徴を有しており,したがって,文明史的には,自国中心主義におちいることはありえず,他方,外来文明に完全同化することもありえない。オリジナルな西田哲学の秘密は,この論理構造に索められるのではあるまいか,と仮定する12)。 この西田哲学解釈は好意的なものである。だが,この解釈にしたがうにしても,山本安次郎流の西田哲学論:「経営行為的主体存在論」=国家の立場に立った戦時経営理論は,基本設計上その出立点からして決定的なミスを犯し,「実に勝手な理屈」をこねまわしていたことになる。 戦場で斃れていった人びとに対しては−使い古された,そして幾分キザな表現ではあるが,−“生き残ったものの義務”を,次の時代の人びとに対しては“世代の義務”を,そしてまた,日本の侵略戦争の犠牲になったアジアの人たちに対しては,“私のなしうる贖罪”を……1)。 山本安次郎に問われねばならないのは,あの戦争の時代を生きた経営学者の倫理問題である。いいかえれば,戦後における「経営学者のよい生きかたを問い,それを吟味する学」より発せられる疑問である。つぎの3点に整理しておく。 a) 戦争の時代に学問した「経営学者」の倫理的義務に関する問題。 b) 次世代の経営学者に影響を与えた「経営学者」の倫理的義務に関する問題。 c) 結局,満州帝国建国大学教員時代,経営学研究をとおして「悪い生きかた」をしてしまった山本安次郎の,その後においてなしうる贖罪〔=「よい生きかた」に関する倫理的な問題〕は,なんであったのか? それは,自覚されたのか? なぜ,自覚できなかったのか? 経営学者山本安次郎はあの戦争の時代,「死者に対して負債がある」「我々」の1人であった。しかも,「国家や軍の指導者」と同じ立場に立ったゆえ,「政治的・道徳的な責任がある」「民族や国民」の1人でもあった。山本は,社会科学者であって恐らく,岸 信介や椎名悦三郎,笹川良一などと政治的立脚点を同じにする者ではないだろう。 だが,無意識的・結末的ではあっても,彼らに似た足跡をのこした。戦後日本の政界で,岸や笹川が有力な人士であったように,経営学界での山本は,非常におおきな存在であった。 辻井 喬〔堤 清二〕は,戦争の時代を,以下のように回顧する。 あの時,少年だった私は「最終決戦内閣」という新聞の見出しから,戦争は終わるのかもしれないと期待したが,日本が敗けるとは,考えなかったのである。そこには明らかな思考の欠落があった。自分の頭で考えて結論を出すという能力を,小学生時代からの皇国教育が奪っていたのか,大東亜共栄圏というユートピア幻想が,それほど強かったのかと思うが,根底にあったのは「日本は神の国だから敗けるはずがない」という呪縛であったように思う2)。 不破哲三は,敗戦の1945〔昭和20〕年8月までれっきとした帝国臣民意識の所有者だった自身を,こう回顧する。 8月14日,「明日は敗戦の放送がある」という“情報”がどこからか私たちのところにも流れてきましたが,私は頭から問題にしませんでした。現実にどんな状況を目にしても,日本は敗けるはずがないと国民に思いこませるのが,「神国」思想でした。 ですから,日本の敗戦は,「神の国」思想で育てあげられた私たちには,本当の衝撃でした。 その私たちにとって,8月以後,日本の戦争が不正義の戦争,侵略戦争だったということを,まぎれもない歴史の事実をもって知らされたことは,それ以上の衝撃で,子どもながらに,価値観の百八十度の転換を経験した,歴史的な一時期でした3)。 辻井や不破が信じこまされた旧皇国精神は,こういうものであった。 君民和親の大道古より今日に亙って,渝ることなく皇国を貫き,大和民族はひた向きに理想に向ふ。此の皇恩宏被の感謝悦楽は到底我が国民以外の者の体験し能はぬ所である。神の栄光,君の恩澤は我等日本国民のみに与へられるゝことを感ぜらるゝではないか4)。 満州国の建国当初において高揚された国家理念は,「王道楽土」と「五族協和」であった。ところが,前段のごとき皇国精神にしたがえば,満州国における真実の理想は,日本国民「大和一族」がそのほかの「4民族」を隷属させ協和を強いる国家体制にあったのである。 戦時中の経営学者山本安次郎は,戦争に「敗けるはずがない」「神国日本」という迷信を否定する社会科学者ではなかった。そしてまた,「当時のナショナリズムの背後に個の自由を押しつぶすおそろしいファシズムの力がはたらいていることを見抜くことができなかった」5)。 戦後になって展開された山本学説の本性は,そのような点に注目し分析することによって,「的確な理解」と「明晰な批判」が可能となる。 満州国の建国大学に生きた経営学者山本安次郎の主観的な意図に対しては,「地獄への道は善意で敷きつめられている」〔ダンテ『神曲』〕という文句が,みごとにあてはまる。 すなわち,結果責任に対して,動機の純粋さを対置し,善意が悲惨な結末をもたらした意図と結果の乖離にたたずむどころか,石原莞爾もふくめて五族協和の理想を実践した当時の日本人にとって,「遅れた〔日本の〕東北農民」よりさらに「遅れた満州」を文明化するアジアの盟主日本という使命感こそ,自民族中心の植民地思想であったことに気づいてもいない。 しかし,満州移民の旗ふりと移民団長としての責任を終生負いつづけた富樫直太郎という人物は,「日本人がわがままやったですなあー」という所感を述べている6)。 盧溝橋事件,自国のみを正当,無謬とし絶対化する思いあがりと自己中心主義こそが,戦争拡大の重要な要因であり,あの悲惨な結末をもたらした根元である7)。 −−西田幾多郎の直弟子ではないけれども,西田哲学を読み吸収して自分の思想形成に生かした,西田に劣らず反骨精神の旺盛な面々がいる。生物学の今西錦司〔棲み分け理論〕,精神医学や臨床医学の木村 敏〔などの理論〕,仏教の鈴木大拙・秋月龍a,キリスト教の八木誠一などは,単なる信奉者ではない。むしろ,批判するところは徹底的に批判する。こういう人びとをとおして,西田の思想のおおきさが逆に証明される8)。 こういうことである。 西田哲学にでて来る実践とか行為とかいう概念は,……目的論的性格が全く抽象的にとりあげられたものにほかならない9)。 哲学的概念……は,その心境的あるいは体験的な性格を突破して,現実界の歴史的形成の原理となるということが必要である。そしてそのためには,それは現実の社会科学や自然科学の知識や成果と緊密に結びつく必要がある。西田哲学や田辺哲学に根本的に欠けていたのは,まさしくこのような具体性である。 日本に「国家の国家」たる位置をあたえること……は文化的理念の問題としては問題ないとしても,政治的現実の問題としては大いに問題が生ずる余地がある。あらゆるものを無限に包容して自己の内に位置づけようとする西田の絶対矛盾的自己同一の立場は,宗教的自覚の世界と政治的現実の世界,平たくいえば,理念の世界と現実の世界を混同する危険性を有している。西田自身は,一貫して政治や国家の基礎に文化を置いたが,理念的で観想的な文化は権謀術数を弄する現実の政治力学の前にたわいもなく呑みこまれてしまった10)。 しかし,経営学者の山本安次郎説〔とりわけ戦時期経営学論〕は,学的倫理の問題契機も踏まえて考えるに,西田の哲学‐思想に対して,なにか具体的なものをくわえることができたのか? この指摘は,山本理論に対する,もっとも根本的な疑念である。 以上の議論を敷衍しよう。かつて,山本「自身は,一貫して政治や国家の基礎に文化を置いた」経営学説である「経営行為的主体存在論」を,「理念的で観想的な文化」論=国家の立場に立った戦時経営理論として披露した。だが,この経営学者の学説理論は,「権謀術数を弄する現実の政治力学の前はにたわいもなく呑みこまれてしまった」。 務台理作は,西田哲学を論じたさい,「現代の哲学は……科学の哲学と思想の哲学の二つの領域に分かれる」と説明し,さらにこう論及した11)。 「科学の哲学」は,記号論理学・新論理実証主義・分析哲学などであり,主として基礎科学の根拠を追求し,当然,哲学自身も基礎科学のひとつになろうとする。それは自然と,論理学やその表現としての言語‐記号などの分析と評価に重きをおく。つまり,従来の哲学における用語のあいまい性を,できるだけ厳密に検討整理し,基礎概念を正確にして新しい論理哲学をつくりあげようとする。 「思想の哲学」は,実存主義の哲学・マルクス主義哲学・プラグマティズムなどであり,人間の思想を人間の生活・社会・歴史の条件とむすびつけて,思想の構造,その運動‐役割に重きをおく。だからこれは,マルクス主義のように社会の歴史的運動の法則とか,実存主義のように人間のぎりぎりの存在状況の意味,いわば現実にのたうちまわっている人間存在はなんであるかという問題−とくにイデオロギーとしての哲学問題に重きをおく。 そして務台は,「西田哲学に不足していたのは」,「歴史的問題を自分に受けとめ問題の中に含まれている革命的要素(最も広い意味での)をとらえ,その実現に向かっていく実践である」,「このような革命的実践こそ歴史とのつながりにおけるほんとうの実践の意味である」と,西田幾多郎の〈哲学的思想〉を批判した。西田哲学の思想はわけても,個性の問題と民族の問題,個人の自由とナショナリズムの問題を十分に解決することができなかった,とも批判した。 山本安次郎経営学説の理論的思想においては,そうした西田哲学の問題性が格段に歪曲化され矮小化されるかたちで,全面化したのである。つまり,「現代の哲学」に立脚しつつ経営理論「科学の哲学」を論じた山本学説は,戦争の時代から不可避に特定の掣肘をうけていた。いいかえればそれは,戦時経営「思想の哲学」を語るに当たって回避できない重大な問題,すなわち「人間存在」に関する「イデオロギーとしての哲学」=「国家:皇国の立場」を意識することがなかった。 務台はさらにいう。「歴史を動かすものは思想そのものでなく,思想を生み出してくる太く逞しい歴史の力である」12)と。歴史に翻弄された経営哲学‐思想の「具体」論である山本流「経営行為的主体存在論」の功罪は,あまりにも明らかである。 経営学者山本安次郎も,西田哲学流の言辞:「作られたものが作るものを作る」という文句を重用する。だが,「人間の底に帰りつつ,同時にその外に出るという事態が,『表現されたものが表現する』,また『作られて作る』と言われている」13)経路を,はたして,山本が学問展開の前提においてまっとうに意識しえていたのか疑問はおおきい。 西田哲学における明証性とは,いわば最初から与えられているものである。西田にとって「直接経験」さらに「自覚」とは,初めからそこにある事実である14)。 山本学説の〈自明性〉に関する疑念は,筆者が約30年まえに提示したものである。 ★ HP用原稿作成日:2002年6月4日・ほか
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【 注 記 】 T 時代と学問−戦時体制に関与した経営学者の倫理学的問題− 1) 『岩波哲学・思想事典』岩波書店,1998年,1697頁,1698頁。 2) 安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識−日本近代史像をとらえ返す−』高文研,2000年,46頁。 3) 増地庸治郎編『戦時経営学』巖松堂書店,昭和20年2月,〔藻利重隆「経営の共同体理論」〕372頁。 4) 日本経営学会編『情報化の進展と企業経営〔経営学論集第57集〕』千倉書房,昭和62年,344-345頁。 5) 徳富正敬『満洲建国読本』日本電報通信社,昭和15年,128頁。 U 旧満州国における建国大学 −−注記なし。 V 王 智新「建国大学」論 1) 王 智新編著『日本の植民地教育・中国からの視点』社会評論社,2000年,181-191頁に収録,以下しばらく参照。 2) 野村 章『「満洲・満洲国」教育史研究序説』エムティ出版,1995年,76頁。 3) 斉藤利彦「『満洲国』建国大学の創設と展開−『総力戦』下における高等教育の『革新』−」,学習院大学東洋文化研究所『調査研究報告』第30号,1990年3月,115頁。 4) 竹山増太郎「塾教育を中核とせる建国大学指導者教育」『興亜教育』昭和17年1月,90-91頁。 5) 徳富正敏『満洲建国読本』日本電報通信社,昭和15年,128頁。 6) なお,建国大学に赴任した日本人学者一覧は,宮沢恵理子『建国大学と民族協和』風間書房,平成9年,巻末「資料」参照。 7) 野村『「満洲・満洲国」教育史研究序説』100頁。なお,逮捕者数は前述と1名異なっている。 8) 王 智新・君塚仁彦・大森直樹・藤澤健一編『批判植民地教育史認識』社会評論社,2000年,37-38頁,39頁。 9) 斉藤「『満洲国』建国大学の創設と展開」131頁。 W 建国大学における経営学者山本安次郎 1) 指紋なんてみんなで“不”の会編『抗日こそ誇り−訪中報告書−』中国東北地区における指紋実態調査団,1988年,65頁。 2) 山本安次郎『公社企業と現代経営学』建国大学研究院,康徳8〔昭和16〕年,69頁,61頁。 3) 同書,57頁,58頁,73頁,9-10頁。 4) 同書,はしがき1頁,35頁,50頁,12頁,40頁。 5) 満洲帝国政府編『満洲建国十年史』原書房,昭和44年,592頁,594頁。 6) 山本安次郎『経営管理論』有斐閣,昭和29年,序3-4頁参照。 7) 同書,序6頁。 8) 同書,同所。 9) 同書,同所。 10) 山本安次郎『経営学本質論』森山書店,昭和43年第3版,278頁。 11) 同書,同所。 12) 山本安次郎『経営学研究方法論』丸善,昭和50年,246頁,225頁,114頁注記6。〔 〕内補足は筆者。 13) 同書,158頁注記48,44頁注記23。 14) 同書,145頁,146ページ。 15) 山本安次郎「満洲に於ける特殊会社の再組織問題」,京都大学『東亜経済論叢』第1巻第3号,昭和16年9月,110頁。〔 〕内補足は筆者。 16) 同稿,123頁。傍点は筆者。 17) 山本『公社企業と現代経営学』147頁,148ページ,153頁,156頁。 18) 山本安次郎『経営学要論』ミネルヴァ書房,〔昭和39年初版〕昭和43年増補版,279頁,280頁。 19) 山本「満洲に於ける特殊会社の再組織問題」124頁。 20) 大石嘉一郎編『日本帝国主義史3 第2次大戦期』東京大学出版会,1994年,〔金子文夫稿〕第10章「植民地・占領地支配」参照。 X 経営学者の学的倫理問題 1) 池田少将講述『日本に於ける国防と経済』建国大学,康徳11〔昭和19〕年4月,29頁,47頁。 2) 作田荘一『日本国家主義と経済統制』青年教育普及会,昭和9年,114頁,138頁。 3) 作田荘一『我が国体と経済』〔文部省〕教学局,昭和15年,28頁,34頁。 4) 作田荘一『国民科学の成立』弘文堂書房,昭和10年,288-289頁。 5) 作田荘一『我が国民経済の特質』〔文部省〕教学局,昭和13年,60頁,67頁。 6) 作田『我が国体と経済』31頁。 7) 山本『公社企業と現代経営学』はしがき9頁。 8) 永原慶二『「自由主義史観」批判』岩波書店,2000年,59頁。 9) 戦時経済国策大系第1巻,椎名悦三郎著『戦時経済と物資調整』日本図書センター,2000年〔原著;産業経済学会,昭和16年〕171-172頁。 10) 満洲国警察協会編,経済警察講習録第1輯『満洲統制経済講話』同会,康徳7年,216頁。 11) 宮台真司・ほか11名『リアル国家論』教育史料出版会,2000年,279頁。 Y 社会科学者の戦後的倫理問題 1) 山之内靖『日本の社会科学とヴェーバー体験』筑摩書房,1999年,48頁。 2) 同書,49頁。 3) 大野彌曾次「作田先生著『自然経済と意志経済』」,『山口商学雑誌』第6号,昭和5年1月,173頁。 4) 中村政則「『裕仁と近代日本の形成』がもたらすもの−昭和天皇像ぬりかえ,米で驚き−」『朝日新聞』2000年11月8日夕刊。 5) 指紋なんてみんなで“不”の会編『抗日こそ誇り−訪中報告書−』16頁,17頁,105頁。 6) 藤原 彰・森田俊男編『近現代史の真実は何か』大月書店,1996年,96頁。 7) 不二出版,1993年5月。 8) 隅谷三喜男「満洲労働問題序説 上・下」『昭和製鋼所調査彙報』第25・26号,康徳9〔昭和17〕年1・4月。小島麗逸編『日本帝国主義と東アジア』アジア経済研究所,1979年,第6章 窪田 宏「満州支配と労働問題−鉱山,港湾荷役,土木建築労働における植民地的搾取について−」。 9) 『朝日新聞』2002年5月21日朝刊,「〈私の視点〉池田幸一−シベリア抑留 元捕虜は沈黙しない」。 10) 山本鎭雄『新明正道−綜合社会学の探究−』東信堂,2000年,30-31頁。 11) 同書,はじめにG頁。 12) 小笠原真『日本社会学史への誘い』世界思想社,2000年,255頁。 13) 新明正道『民族社会学の構想』三笠書房,昭和17年,51-58頁参照。 14) 同書,146頁。 15) 同書,142頁。 16) 山本鎭雄『時評家 新明正道』時潮社,平成10年,155頁,〔114頁〕。 17) 念のため,山本安次郎『日本経営学五十年−回顧と展望−』東洋経済新報社,昭和52年は,学史研究領野の重要な業績であることを断わっておく。 18) 佐々木恒男「経営学研究における方法論的反省の必要性」,経営学史学会編 経営学史学会年報第8輯『組織・管理研究の百年』文眞堂,2001年,10頁。 19) 小笠原英司「経営哲学の体系」,明治大学『経営論集』第42巻第1号1995年3月,49頁。 20) 経営学史学会創立10周年記念第10回大会『予稿集』明治大学,2002年5月,小笠原英司「現代経営の課題と経営学史研究の役割‐展望」5頁。 21) 小笠原「経営哲学の体系」50頁。 Z 経営学者の戦争責任 1) 斉藤利彦「『満洲国』建国大学の創設と展開−『総力戦』下における高等教育の『革新』−」,学習院大学東洋文化研究所『調査研究報告』第30号,1990年3月,129-130頁。 2) 新明正道『社会学の基礎問題』弘文堂書房,昭和14年,165頁,310頁。 3) ピーター・F・ドラッカー,上田惇生訳『「経済人」の終わり』ダイヤモンド社,1997年,224頁。 4) 新明『民族社会学の構想』276-277頁。 5) 新明『社会学の基礎問題』267頁。〔 〕内補足は筆者。 6) 若槻泰雄『日本の戦争責任 下』原書房,1995年,117頁。 7) 渡辺 清『砕かれた神−ある復員兵の手記−』朝日新聞社,1983年,34頁,178-179頁,185頁。 8) 神島二郎『近代日本の精神構造』岩波書店,昭和36年,〔あとがき〕364-365頁。「 」内補足は筆者。 9) 西川長夫『戦争の世紀を越えて』平凡社,2002年,146頁。 10) 田原総一朗『日本の戦争』小学館,2000年,443頁。 11) 中島 誠『アジア主義の光芒』現代書館,2001年,202頁。 11) 荒井正雄『西田哲学読解』晃洋書房,2001年,まえがきA頁。 [ 総 括−なにが問題か− 1) 若槻泰雄『日本の戦争責任 上』原書房,1995年,まえがき。 2) 辻井 喬『ユートピアの消滅』集英社,2000年,163頁。 3) 不破哲三『歴史教科書と日本の戦争』小学館,2002年,125-126頁。 4) 酒巻芳男『皇室制度講話』岩波書店,昭和9年,363頁。 5) 『務台理作著作集第5巻 西田哲学論』こぶし書房,2001年,301頁。 6) 歴史科学協議会編『歴史が動く時』青木書店,2001年,220-221頁参照。 7) 肥沼 茂『盧溝橋事件 嘘と真実』叢文社,2000年,291頁。 8) 大澤正人(文)・田島董美(イラスト)『西田幾多郎』現代書館,2001年,12頁。 9) いいだ もも編・解説,山田坂仁『認識論と技術論』こぶし書房,1996年,177頁。 10) 小坂国継『西田哲学と現代』ミネルヴァ書房,2001年,265頁,92頁。 11)『務台理作著作集第5巻 西田哲学論』313-314頁,331頁,301頁。 12) 同書,332頁。 13) 岡田勝明『フィヒテと西田哲学』世界思想社,2000年,198頁。 14) 石神 豊『西田幾多郎 自覚の哲学』北樹出版,2001年,227頁。 |