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2001年8月

石原慎太郎君を観察する

−歴史教科書・靖国神社参拝問題など−


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● 歴史は物語か

●「新しい歴史教科書をつくる会」賛同者

● 海外からの批判

●「国民国家」:人為的虚構

●「新しい歴史教科書」のアナクロニズム

● 石原慎太郎の虚言癖

●「歴史教科書」採択に介入した石原都知事

●「内政干渉」か「忠告:批判」か

● 狼少年「石原慎太郎」

● 谷沢永一の乱入:「つくる会」批判

●「新しい歴史教科書」批判論

● 国内問題 国際問題


 ● 歴史は物語か素人学者〈西尾幹二〉の歴史記述− ●

 @ 2001年8月にはいるころ石原慎太郎君の提供した話題
は,「新しい歴史教科書をつくる会」主導の扶桑社版中学歴
公民教科書を,東京都養護学校用に選ばせたことであ
る。

 石原慎太郎は以前から,新しい歴史教科書をつくる会の立
場を積極的に支援する関係にあった。

 その会の指導者の1人である西尾幹二は,ドイツ文学の専
よう 攻者であるが,過去マスコミによく登場したこともあり,
幅広く発言をしてきた。しかし,その言論活動は,素人的な
振るまい:限界を覆いかくすことができなかった。

 外国人労働者問題がかまびすしく議論されはじめた1980年
人の 紹介代後半,西尾幹二は『戦略的「鎖国」論』(講談社,
1988年)などを公表し,日本は「なぜ堂々と自分の過去のみ
を信じて歩みつづけようとしないのか」(同書,206頁)と,自
身のいらだちを周囲に表明した。

  まさか,江戸時代をまねて〈鎖国〉せよというわけでもあ
るまいが,この人〔国立電気通信大学教授〕は,時代錯誤の
発想をくりだし,21世紀を迎えて全地球的規模で国際的な交
流をせまられている世界の〈新しい環境〉のなかで,日本一
国後生大事=モンロー主義を披露してきた。

 A 当時(1990年前後)筆者は,在日外国人問題に関して
単なる印象論的解説を展開する西尾幹二に対して,ディレッ
タント的で非学術的な発言は,同業者としてみぐるしいから
やぜひめてほしい旨のハガキを,2度ほど差しあげたことが
ある。

 もちろん返事はなにもいただけなかったが,以後に公表す
る西尾の論著は,筆者の指摘した関連論点に限定していえば,
「自身の無知:無学をさらけだす」いい加減な文章を書かな
くなった。

 最近,世の中を騒がせている扶桑社版中学歴史・公民教科
書の問題は,西尾幹二のそうした「素人」的感覚が存分に発
揮された点に原因するものである。

 B 西尾幹二はみずから編者となった『国民の歴史』(産
経新聞社発行,扶桑社発売,平成11年10月)をさきに発行し,
しい歴史教科書の下書き〔パイロット版〕を用意,披露し
いた。

 もとより,「国民」なる概念はせいぜい,ここ数百年にし
か通用しないものであるが,これを一気に日本の歴史〔二千
六百(六十一?)〕全体に延長・適用するという無茶を
平然とおこなっている。
 
 歴史学,広くは社会科学の初歩的知識にうとい面をさらし
ただけでなく,学究の著作物において最低限尊重されねばな
らない学術的手順については,そんなことどうでもよく,ど
こ吹く風といった執筆の態度でもある。

 西尾先生,叙述の対象と叙述の方法との混同がはなはだし
い。あるいは,叙述の対象にどのような叙述の方法を当てる
かという肝心な論点に関して,まったく問題意識がない。学
者にとってそういう欠落が致命的な意味をもつことにも自覚
がない。なんというか,これが不幸のはじまりであり,歴史
の著述において素人的な無作法を無意識的〔意識的か〕に生
む基因でもあった。
 
 
C 『国民の歴史』の「あとがき」で西尾幹二は,「私は
素人だからすべてわからないという立場で書いている」と断
わっていた。

 一見,謙虚であるかに聞こえるこの発言は,「玄人でもす
べてわからないという立場」にある点を対照させることで,
その欺瞞性を明確にできる。

 玄人〔歴史学の専門家〕でも素人〔ドイツ文学の専攻者:
西尾幹二〕でも極力,歴史の「すべてをわかろう」とする学
問的な努力を傾注しなければならないことは,あまりにも当
然である。

 すなわち,誰でも「すべてはわからない」という〈断わり〉
をいいわけに立てて,素人〔西尾自身〕のする歴史記述のい
い加減さ:デタラメを弁明するのは,自分の恣意を棚上げし
たご都合主義の姿勢である。

 こういう〈理屈〉のことはふつう「理屈にならない理屈」
という。
   

 D  歴史は学問・科学ではなく〈物語〉だ」というのが,
西尾先生独自の持論である。つまり,history は his-story
 [& her-story] ではなく,my-story だというわけである。
ストリーの書きかたも,西尾および〈つくる会〉our-story
流の筆法にしたがうとなると,それこそいいたい放題・書き
放題の,勝手な叙述が奨励されるのである。

 過去における日本の対アジア侵略を認める歴史記述は,自
虐史観であってよろしくない,加虐史観になってもよい,こ
れでいこう,というのである。

  「歴史は科学にあらず」と乱暴に決めつける「つくる会」
の歴史教科書は,たとえば,古代日本史に関して,神話と歴
史を意図的に混同させ,非学問的な表現・叙述もいとわない
(以下しばらく,小森陽一・坂本義和・安丸良夫編『歴史教科書何
が問題か−徹底検証Q&A』岩波書店,2001年,121頁以下参照)

 E 天皇〔=朝廷〕主体の建国神話があたかも,事実であ
かのように説明され,「自国中心史観」に都合のよいように
天皇の役割が再定義される。

 天皇の「権力にまさる権威」を強調するためなら,神話を
も「史実」であるかのように記述し,学問的な作法の正確さ
とは異質な作為をもって,歴史を描いている。その点では,
学者としての誠実さとは逆の,著者たちの姿勢が透けてみえ
る。

 とくにめだつ特徴は,明治以後の「天皇親政」の正統性を
徹底して強調する「皇国史観」を棚上げしたまま,これとは
決定的に異なった筆致をふるっていることである。

 それは,陸軍と海軍の統帥権をもつ,大元帥天皇の,侵略
戦争とそれにもとづく植民地支配の「責任」を押しかくし,
かつ免罪しようとする意図において明らかである。

 したがって,この歴史教科書は,天皇と朝廷に関してはっ
きりと「善悪」をめぐる判断をしめし,近代以前の記述全体
を潤色する。

 そうして,昭和天皇の戦争責任を終始一貫,免責し,免罪
させようとするのである。しかし,その裏では「教育勅語」
を全文紹介し,それが天皇の名で出された「近代日本の人格
の骨格」と位置づけ,もっぱら天皇の役割を,精神的文化的
領域にかこいこもうとしている。

 F 西尾幹二ら「つくる会」の人たちは,天皇制に対置さ
れる〈民主主義の根本理念〉の意味を皆目,認識していない。
象徴であろうがなかろうが「人は人の上に人をつくらず」と
いう政治観念は,民主制を信じられる者であれば,ごく初歩
の約束ごとである

 ●「国民国家」:人為的虚構の概念

 @ さて,前出の国民国家という概念を,以下にすこし言
及しておきたい。これが,西尾のなつかしむ〈過去〉の意味
である。
 
  「国民/民族」の概念は,国民国家の立法的・行政的措置
がつくりあげた人為的な虚構である。
 
 なにゆえ,虚構である「国民/民族」が必要となったか。
それは,〈戦争の世紀〉20世紀が「お国」のためすすんで死
んでくれる,忠誠な「国民」を要求したからである。

 国民国家=近代国家とはそもそも,生存権をふくむ諸権利
の擁護を求めて諸個人が相互の〈社会契約〉によってつくっ
たはずなのに,その諸権利が,死をもいとわぬ国家への忠誠
〔ロイヤリティ〕の対価として与えられるものであるかのよ
うに,転倒したかたちで表象されたのである。
 【筆者注記:靖国神社の本質を考えるヒントが以上に説明されて
       いる。】

 国民国家は,諸権利をもつ「市民権」をもっぱら,「国籍
(ナショナリティ)にむすびつけた。たとえ,その国に定住
しても国籍をもたない「外国人」には市民権を認めないこと
が多い。そこでは,国民国家への忠誠の問題が組みこまれて
いる。

 市民革命の高唱したのは,国籍や民族的相違を越えて万人
が所有すべき権利,自然権としての「人権」であった。だが,
国民国家は「国民」以外には人権を認めず,法による庇護の
外部におく。

 そうした国民国家の作為をもっともよくしめしているのが,
この日本である。

 A 現行憲法は,草案の段階で市民革命の根源的な政治精
神を骨抜きにし,市民権を「日本国籍保有者」にしか認めな
い,きわめて排他的な日本国憲法として成立したのである。

 「国民/民族」共同的な構成体においておおきな役割をは
たすのは,「家族」に対するさまざな立法的・行政的措置を
つうじての国民国家の介入である。制度としての「戸籍」に
よって親族関係の系譜が編みだされること〔国家→家族〕は,
けっしてその逆〔家族→国家〕の順序においてではないこと
に注意したい。

 また,共通言語によって識別される「国民/民族」なるも
のがはじめて生みだされたのは,国民国家の成立によってで
あった。しかし,言語共同体としての「国民/民族」そのも
のが,国民国家の人為による制度的構成体にすぎない。

 共通コードを有する国民言語が人為的に編みだされ,それ
学校教育をつうじて普及することではじめて,言語的に異
質であったはずの住民相互の国民としての言語的統合が可能
となる。

 しかし近年,「市民権」と「国籍」の関連は,急速にかわ
りつつある。「国民=住民」という図式がすでに崩れかけて
いる今日,たとえその実現には多くの困難が待ちうけている
としても,市民権の脱‐国民化は焦眉の課題である。国民国
家の脱構築はすでにはじまっている。

 そこでは,日本社会が「他者」との関係をどう考えるのか,
国内外のさまざまな問題との連関も踏まえ,問われるべきこ
とが多い
加茂直樹『社会哲学を学ぶ人のために』世界思想社,
2001年5月,289-291頁,293-294頁,295頁,319頁を参照

 

 ●「新しい歴史教科書」採択に
      直接介入した石原慎太郎都知事 ●

 @ 東京都養護学校に扶桑社版中学歴史・公民教科書を採
用させた石原慎太郎に話をもどそう。

 東京都教育委員会が一部の都立養護学校で,上記の教科書
を採用する方針を固めたことで,教育現場の波紋が広がった。
なぜ東京で,なぜ養護学校なのか。「公立校の初採択」をめ
ぐって論議を呼んでいる。

 都立養護学校中学部にかよう生徒約 930人のうち,大部分
の約 910人は検定教科書を使用していない。その代わり,絵
本などを教科書として使っている。

 石原慎太郎都知事は,「つくる会」教科書について具体的
な発言はしていない。ただし,2001年4月,区市町村の教育
委員を集め,「採択はみなさんの責任でおこなってほしい」
と呼びかけた。

 その発言は,採択に一部の教諭らの影響力がおよぶのを避
ける狙いがあった。

 従来,東京都は教師の希望を学校ごとにまとめ,その学校
の希望〔いわゆる学校希望票〕を地区内で集計し,それにも
とづいて教科書を採択してきた。石原都知事は,この採択か
ら教師の影響力を排除し,教育委員会の意見だけで教科書が
選定できるように指揮したのである(この段落は,小森・坂本
・安丸編『歴史教科書何が問題か』128頁参照)

 東京都の教育委員には知事の“知己”が多い。丸紅会長の
鳥海 巌氏は一橋大学人脈,永世棋聖の米長邦雄氏も委員の
任命に当たり,知事が声をかけた。横山洋吉氏を教育長に抜
擢したのも知事である(『毎日新聞』2001年8月1日朝刊)

 教科書採択制度改悪に動いた「新しい教科書をつくる会」
が具体的にねらった方向は,こういうものである。  

 a) 現場教師が参加する調査委員会による〈絞りこみ〉を廃止する。

 b) 各学校の希望集約〔学校票〕を廃止する。

 c) 歴史教科書は学習指導要領の「我が国の歴史に対する愛情を深め,国民としての自覚を育てる」にもとづいて選定する。
 森・坂本・安丸編『歴史教科書何が問題か』128-130頁参照。

 いまのところ,東京都教育委員会の意向にもかかわらず,
同委員会が教科書の採択を直接決定できる養護学校をのぞき,
「つくる会」の教科書を採択する〔東京都内〕区市町村教育
委員会はない。

 A 前段のように東京都の各区市町村において,中学校の
教科書用に「つくる会」歴史・公民教科書が採用されるみこ
なみはない。

 ところが,以前より「つくる会」の同上教科書を東京都で
採用させたいともくろんでいた石原慎太郎は,せめてどこか
でその狙い:欲望を実現させたかった。

 各区市町村の教育委員会にある採択権が,都立の障害児学
校についてだけは,東京都教育委員会にある。そこで石原都
知事は,区市町村では実現のむずかしくなった「つくる会」
教科書の採択を,都直属の教育委員会をとおして,都養護学
校で実現させたのである。

 筆者はすでに,石原慎太郎という人間は,弱者の味方では
なくむしろ,その主敵である事実を説明してきた。石原は,
障害者に対する偏見の気持をかくそうとはしない。

 今回における石原の行為は,社会的に不利な生活を送らざ
るをえない人々:障害児をだしにするというか,踏台にする
ような,なりふりかまわぬ〈持論貫徹〉の方法を採ったもの
である。

 「つくる会」歴史・公民教科書は,日本社会に存在する弱
者,たとえば,女性を蔑視し,少数民族や在日外国人を無視
し,そして,障害者を差別する内容だと指弾されている。

 その点は,

   《自分の過去のみを信じて歩みつづけよう

と教説する西尾幹二の基本的観点を反映している。過去の日
本〔の政治・社会・文化・伝統・歴史〕が障害者たちを,い
かに蔑視し,差別を合理化してきたかを想起すればよい。

 最近ようやく国内で解決をみたハンセン氏病「患者」に対
する,日本政府によるいままでの施策・処遇は,患者とされ
た人々を「抑圧する歴史」=暗い「過去」そのものであった。

 したがって,養護学校の中学校用教科書として,障害者を
差別する論調をひそませる「つくる会・教科書」を採用させ
た,石原の裏舞台における暗躍的な影響力の発揮は,二重の
意味で弱者の立場にいる人々をないがしろにし,あまつさえ
敵視するものと断定できる。

 B  『障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会』という
組織は,つぎのような声明文を公表している。長いが全文を
紹介する(なお〔 〕内補足は筆者のものである)  

   
 緊急アピール 歴史を歪曲し,
 人権教育にそぐわない教科書の採択に
 反対します

 みなさん,東京都教育委員会は,都立の盲,ろう,養護学校(肢体不自由,知的障害,病弱)で来春から使用する教科書に,「新しい歴史教科書をつくる会」(以下「つくる会」)の編集した扶桑社の中学校歴史教科書と中学校公民教科書(以下「つくる会」教科書)を採択しようとしています。

 いま全国各地で,来春から使用する教科書の採択が行われています。7月31日現在,「つくる会」教科書の採択を決めたところは〔公立学校では〕一つもありません。にもかかわらず東京都教育委員会が,「つくる会」教科書を採択しようとすることは,「つくる会」賛同人にも名を連ねる石原都知事の思惑を通そうとするもののように思われます。

 石原知事は,就任早々に,重症心身障害者に対し「この人たちに人格はあるのかね」という発言を行いました。また,障害者手当や医療費などの福祉予算を削減し,障害児教育の条件整備を行わないなど,障害児教育の条件整備を求める私たちのねがいに背を向ける都政をすすめています。

 みなさん,戦争は,多くの障害者をつくりだします。また,戦前,障害者は「非国民」,「ごくつぶし」といわれ,人権侵害が平然と行われていました。「つくる会」教科書は検定には合格しましたが,歴史的事実を歪曲するとともに大日本帝国憲法や教育勅語を礼賛しています。その時代が正しかったといわんばかりの教科書で,人権の大切さを伝えることができないのは明らかです。戦前の反省の上に立ってつくられたのが,日本国憲法です。「つくる会」教科書は,憲法の基本的理念を十分にふまえない,大変問題のある内容になっています。

 障害のある子どもたちの教育,病気療養中の子どもたちの教育は,戦後の日本国憲法のもとで制度化され保障されるようになったのです。そして,福祉や医療など,社会保障制度も戦後の民主主義の発展とともに,制度として確立してきました。私たちは,さらに21世紀をすべての人々の人権がゆたかに保障される時代にしたいとねがっています。

 そのためには,子どもたちが学ぶ教科書は,憲法・教育基本法の理念にもとづき平和と人権の大切さを伝え,どの子どもたちもこの国のかけがえのない主権者として育てるものでなければならないと思います。

  「つくる会」教科書は,子どもたちにふさわしくありません。まして都立の盲,ろう,養護学校に,なぜ全国ではじめて採択する必要があるのか。私たちは,激しい憤りを覚えるものです。

 みなさん,報道によれば,東京都教育委員会は8月7日に臨時教育委員会を開催し,都立盲,ろう,養護学校で使用する教科書採択の「最終決定」を「非公開」で行おうとしており極めて問題です。教科書の採択にあたっては,憲法・教育基本法の理念を尊重し,教職員・父母・都民の意見を最大限反映させることが重要です。そのためには,まず教科書の採択にかかわる教育委員会の審議を公開し,傍聴を認めるべきです。

 私たちは,都立盲,ろう,養護学校に,歴史を歪曲し,日本国憲法の理念を否定する「つくる会」教科書を採択することに反対です。

 いまから27年前,東京都教育委員会は,国に先駆けて,障害のある子どもたちの希望者全員就学を実施しました。これは,まさに憲法第26条の「教育の機会均等」の理念にもとづくものでした。そして,都立の盲,ろう,養護学校では,子どもたち(青年たち)が,いま毎日瞳を輝かせて学校生活を送っています。東京都教育委員会は,そのときの理念に立ち返って,教科書採択の再検討を行うよう強く求めます。
 

  2001年8月1日

  緊急アピール呼びかけ人 障都連会長 若宮 康宏
 

 C 石原慎太郎が,関係者のこうした意見をどのようにう
けとめているかまだわかりえない点だが,著作を読んだり発
言を聞いたりするかぎり,上記の問題性をまともに認識して
いるとは思えない。

 都教委が今回,養護学校用の中学校教科書に「つくる会」
を採択した手続は,石原流の独裁的秘密主義である。だから,
以下のような批判が提起されている。

 「都教委はぜひ,開かれた採択をすすめるとともに,都民
の意見に耳を傾けてほしい」(東京学芸大学教授黒沢惟昭,
生涯教育論専攻)

 「それぞれの障害に応じた教育を推進してきた都教委がみ
ずから,その流れに終止符を打とうとしている」(『朝日新聞』
2001年8月3日朝刊「声」欄)

  「障害の子を育てていくなかで,戦争中,国の役に立たな
い人は国賊といわれ,障害者やその家族のいろいろな苦しみ
があった」(同上)

 ● 谷沢永一の乱入:「つくる会」批判

 @  自分の過去のみを信じて歩みつづけよう》といった,
しい歴史教科書を「つくる会」の人たちの氏名を挙げてお
く。

 西尾 幹二  八木  哲  高橋 史朗  坂本多加雄
 
 田久保忠衛  藤岡 信勝  小林よしのり  谷原 茂生

 高森 明勅  中村  守  広田 好信

 だが,こうしたメンバーが製作した歴史教科書に対しては,
おおざっぱにみても彼らと同じ陣営に位置しているはずの
沢永一が,強烈な批判〔全面的に罵倒し,完璧に暗愚あつか
いしたそれ〕をはなっている。

 谷沢は「つくる会」の新しい歴史教科書に『絶版勧告』を
突きつけたのである。  


《絶 版 勧 告》

  『中学校社会科歴史的分野』教科書は,無知,無学,誤記,誤認,虚偽,捏造,歪曲,粗放,出任せ,虚勢,出鱈目,あてずっぽう,傲慢,思い上がり,による内容空疎な叙述を,恥知らずで知ったかぶりのハッタリで色あげした愚書であるから,絶版に処せられるよう勧告する。

 【 前記,各 氏名 御一同様 】
 

 谷沢永一『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』ビジネス社,2001年6月,3頁

 谷沢永一は,「国家による歴史教育の必要を提唱する人は,
なにか胆(ハラ)に一物ある人ではないかと疑われる」と断
わったうえで,さらにこう主張する。

 「過去の追体験がどんなに優れた精神によって行なわれ,
にもかかわらずそれがいかに限界をもっていたかを教えるこ
とであろう。……対象となる時代や歴史事実の選定は教師に
まかせ,国家はただ,それについて意見の異なる複数の論考
を教材に選ぶことを義務づけておけばよい」(谷沢,前掲書,
288頁),ときわめて妥当な歴史〈教育〉観を提起する。

 −−石原のハラに一物あることは,いまさら指摘するまで
もない。だが,谷沢の提起する見解に対抗できる論理=理屈
が,石原がわには備わっていない。しょせん,そのていどの
知識しかもちあわせていない男だから……。

 いずれにせよ,東京都の各区は「新しい歴史教科書をつく
る会」の主導した中学歴史・公民教科書の不採択を決めてい
る。

  「つくる会」の教科書採択率〔全国〕10%達成を期してい
た発行元の扶桑社は,そのもくろみを達成しにくい状況であ
る。このようすでは,公私立校を合わせてもわずか数%ほど
の採択率に終りそうである。

 その後,2001年8月15日現在で判明した「つくる会」中学
校用歴史教科書の採択状況は,私立で2校,そして東京都お
よび愛媛県の養護学校・ろう学校など計6校である。なお,
高知県,宮崎県の2県における採択状況は,まだ不詳である
(同日,NHKの調査〔報道〕による)

 A 8月16日の『朝日新聞』朝刊は,つぎのように報じた。  


【「つくる会」編1%未満 中学教科書の採択終了】
−本社調査−


 2002年度から小中学校でつかわれる教科書の採択で,「新しい歴史教科書をつくる会」主導で編集された扶桑社版歴史・公民教科書はいずれも,全国の市区町村立と国立の中学校ではつかわれないことが15日,朝日新聞社の全国調査でわかった。

 「つくる会」は当初「採択率10%」の目標をかかげていたが,国公立では東京都と愛媛県の養護学校の一部と,同県のろう学校だけとなった。新規参入した扶桑社版に国内外から批判があいつぎ,異例の注目を集めた教科書採択は同日,終了した。 

 市区町村立小中学校の教科書採択は,計542地区に分かれておこなわれた。朝日新聞社の調査では,43都道府県では全採択地区で扶桑社版は採択されなかった。

 香川,愛媛,佐賀,鹿児島県は県教育委員会が結果をいまのところ公表していないが,関係者の話を総合すると,いずれも扶桑社版の採択はなかった。全国の国立大学付属中学校でも不採択だった。

 都道府県立で扶桑社版を歴史・公民ともに採択したのは,東京都立の2養護学校と病院内に設置されている1分教室,愛媛県立の2養護学校と2ろう学校は歴史のみの採択となった。

 市区町村立学校とは別に,都教委と同県教委が採択した。

 私立校ではすくなくとも,歴史・公民ともに採択したのが6校,公民のみが2校あることが明らかになった。私立をふくめても,扶桑社版のシェアは1%を下まわる情勢で,きわめて低い採択率となる。 

 2002年度版歴史教科書では,現行版を発行する7社のなかで,従軍慰安婦など旧日本軍の加害事実に関する記述を抑制する社がめだった。こうした傾向をうけ,各社のシェアも各地で変動した。 

 加害の記述を補充した日本書籍はこれまで採択の多かった東京都などで大幅減となった。一方,現行版シェアが約4割で首位の東京書籍は,さらに採択が増えたとみられる。最下位の帝国書院は神奈川県や大阪府の採択地区などで新たに採択された。 

 −−−−−−−−−−−−−−

 採択結果について「つくる会」,扶桑社とも,16日に見解をしめすとしている。 

 ◆ 扶桑社版歴史・公民教科書の採択が明らかになった私立中学校は,以下のとおりである。 

 ・歴史,公民とも採択
   常総学院(茨城県)
   国学院大栃木(栃木県) 
   広池学園麗沢瑞浪(岐阜県) 
   津田学園(三重県) 
   皇学館(同上) 
   甲子園学院(兵庫県) 

 ・公民のみ採択 
   清  風(大阪府)
   生光学園(徳島県) 
 

 引照に当たっては,原文を厳守しつつ,主に「レイアウト」の変更,「漢字をカナにひらく」点で,筆者流に手をくわえてある

 ある総合月刊雑誌は,以上のような教科書採択結果が出る
ことを察知した「つくる会」代表格の西尾幹二が悲嘆にくれ
ている,と解説していた。

 それでも「つくる会」の教科書は〈怪我の功名〉的な成果
をえている。それは「加害の記述を補充した日本書籍〔の歴
史教科書〕はこれまで採択の多かった東京都などで大幅減と
なった」ことなどに出ている。

 今回の採択では,東京都でいままでで21区でつかわれてい
日本書籍版が2区だけになった。「つくる会」は,旧日本
軍の加害に関する記述部分の多い日本書籍・大阪書籍・教育
出版を名指しして,「ワースト・スリー」としてきた。

 もっとも,「ワースト!……」などと決めつけられたほう
の立場にいわせてみるならば,「つくる会」版こそ〈最悪〉
そののものの歴史教科書だと指弾される。

 また,「扶桑社版歴史・公民教科書の採択が明らかになっ
た私立中学校」をみると,学校法人の特徴に関して明らかに,
ひとつの傾向が読みとれる。

 B ともかく,全国の中学校において「つくる会」の教科
書を使用させようと大作戦を展開し,早くから
はでに〈策動〉
してきた西尾幹二らのもくろみは大きくはずれ,10%どころ
か,結果的には 0.1%にも満たない採択率となった。

 9月10日ころ,全国の中学校における採択状況に関するつ
ぎのような結果が明らかとなった。  

   
【教育ニュース速報】

 「つくる会」教科書使用予定は11校521人。

 文部科学省は11日,教育委員会や私立校などの採択結果をうけて,来年度の中学歴史教科書の使用予定数を発表した。

 注目を集めた「新しい歴史教科書をつくる会」が編集を主導した扶桑社版を使うのは,公立5校の23人(冊),私立6校の498人(冊)で,計11校521人(冊)のみこみだ。8社中で同社のシェアは0.39%にとどまった。

 対象は,全国の中学校や養護学校など国公私立約1万2千校。現在の小学校6年生の数から各都道府県教委が使用みこみ数を出して,文科省が全体数をまとめた。各校とも来春から4年間使用する。

 公立では,東京都立の養護学校2校と養護学校分教室1カ所,愛媛県立の養護学校2校と,ろう学校2校が採択を決めていた。各校とも,個々の障害の程度を考え,障害児用の別の教材を使うべきだと判断した子どもは対象からはずした。

 この結果,都立青鳥養護学校梅ケ丘分教室と愛媛県立松山ろう学校は,現段階で扶桑社版教科書を使う予定の生徒はゼロ。使用するのは都立2校の計18人(冊),愛媛県立3校の計5人(冊)にとどまるみこみだ。国立では採択されていない。

 「つくる会」はシェア10%をめざし採択運動を展開したが,教科書内容に国内外の強い批判を招いたことなどで各教委に敬遠され,目標にはるかに及ばなかった。

 一方,各社のシェアは,「つくる会」支部などの請願活動をうけ,各地で教師による事前の教科書の絞りこみが廃止されるなど採択制度がみなおされたことで,大きく変動した。
 
 トップの東京書籍が約67万6千冊で半数を超え,帝国書院が6倍近くに部数を伸ばす一方で,「つくる会」幹部から「自虐度が高い」などと批判された日本書籍や教育出版,大阪書籍が大きく減らした。
 

 『朝日新聞』2001年9月12日朝刊。

 使用部数〔率〕トップの東京書籍の中学校用歴史教科書は,
全体数の過半を占める結果となった。日本の文部科学省「教
科書検定制度」の問題性とからめて考えるに,これを,準国
定教科書が登場したと解釈することもできる。

 皮肉をこめていうならば,「自虐的でも可虐的でも」なん
でもない教科書がいちばん多く使用されることになった,と
いうことか?

 日本の教科書は「国定ではない」から,国定で製作する国
々の教科書によりも公正(?)な内容であるといわれている。
だが,もっとたくさん,何十種類もの教科書を用意し,現場
の教師が自由に採択・使用できるようにしなければ,その主
張に説得力を感じることはむずかしい。

 結局,現在の教科書採択制度は,〈国定〉にかぎりなく近
い〈準国定〉にみえる。日本には検定制度があるとはいって
も,その実質はほとんど国定教科書である。

 以上の問題は,後段でさらにくわしく論及される。


 C 「つくる会」中学校用歴史教科書の採択率は,以上の
ように当初の目標率10%に到達しないどころか,ほとんど拒
否されたかのような結果であった。同会の代表者格の西尾幹
は,この結果をめぐって8月16日,つぎのような声明を発
表した(『朝日新聞』2001年8月17日朝刊参照)

 「正常な判断に基づく理性的な採択の表れとは考えるこ
とができない」。

 「(各教委,自治体が)外国の脅迫,一部マスコミの偏
向キャンペーン,組織的な電話ファクス攻勢におびえ,トラ
ブルにまきこまれたくないという動機で,扶桑社版を差別的
に扱った」。

 「文部科学省に再審議を求める」。

 このように他者を非難する「つくる会」の声明はまさに,
「顧みて他をいう」の典型である。「つくる会」自身が中学
校用〈新しい歴史・公民教科書〉を,2002年度から全国で採
択させようと,いったいどのくらい運動をし,各関係方面に
工作して圧力をかけてきたか想起してみればよい。

 その事実をたとえば,中国のマスコミは,こう報じていた。 

 
 1990年代半ばより,日本の政界は急激に変動し,社民党など革新政党が連合政権に参加し,革新的色彩が薄れ,日本の政界は保守化の傾向にある。政治右傾化の傾向はますます強まっている。

 1999年小渕政権が「国旗国歌法」を強行採決してから,日本の教育界に右傾化の思想が再び台頭した。極右の漫画家『台湾論』の作者小林よしのりらがつくる「新しい歴史教科書をつくる会」の活動は積極的だった。

 彼らは日本各地に48の支部をつくり,会員1万人あまり集め,各地の遊説し,企業95社と16の財団から巨額の募金を集めた。

 毎年の活動経費は4億2千万円に達し,ここ3年間で100万冊の,歴史を否認する本〔『国民の歴史』平成11(1999)年〕を出版し,100回以上中国侵略を否認する集会,報告会,講演会をおこない,「自虐史観」を排除し,「民族自尊」を発揚する運動を展開した。この運動は政界・学術界・世論の右翼勢力のおおきな賛同をえた。

 まさにこの背景のもとに,真実の歴史と正確な歴史観の欠如した教科書が生まれたのである。この教科書は「南京大虐殺」「従軍慰安婦」「731細菌部隊の罪行」などを記述しない。

 日本文部科学省は,しかしこの歴史的事実を歪曲した中学歴史教科書を合格させたのである。これは明らかに「近隣条項」の精神に違反している。

 日本の若い世代に正確な歴史認識を教えないばかりが,子どものうちから「侵略は道理だ」という観念を注ぎこもうとしているのである。

 『光明日報』2001年4月19日,馬 俊威(現代国際関係研究所研究員)「歴史を正視しないのは危険な道」
 

 小森陽一・坂本義和・安丸良夫編『歴史教科書何が問題か−徹底検証Q&A』岩波書店,2001年,234頁より。

 西尾幹二らが8月16日に発表した前記の声明は,「つくる
会」が「新しい歴史教科書」を採択させようと積極的に活動
し,関係機関に働きかけてきた実績を,実は自己否定する発
言である。以下,a),b),c)の順に論述する。
 
 
a)「正常な判断に基づく理性的な採択」をえるために彼ら
がやったことのなかには,西尾幹二編『国民の歴史』1999年
を無料にしてまで,あちこちにばらまいたことがある。いま
まで,教科書を製作し販売する会社・組織で,このようなエ
ゲツナイ販売促進策を見境なくやったところはない。

 

 

   
 ★ 途中ではあるが,以下にかかげる氏名(会社名・役職)は,「新しい歴史教科書をつくる会」結成時における,会社関係の〈賛同者〉一覧である。これによって,西尾幹二編『国民の歴史』の無料配布を可能にした資金の提供元を,おおよそ推測することができる。1人で1万部を買い上げた人もいた。

 ★ 西尾幹二編『新しい歴史教科書を「つくる会」の主張』(徳間書店,2001年6月)は,「つくる会」には会員数が1万人いて,年会費6000円を支払っており,これと印税収入とでまかなわれている,としるしている(同書,18頁)

 ★ なお,「新しい歴史教科書をつくる会」の結成に当たってその中心メンバー:「呼びかけ人」に名をつらねた者は当初9人であったが,のちに11人がくわわって,計20名となった。そのなかに,企業人2名,賀来龍三郎(キャノン代表取締役),山本卓眞(富士通会長)の氏名がある。
 
 ★ 日本の企業はいうまでもなく,世界を股にかけて営業活動している。「新しい歴史教科書」の趣旨に賛同の意志を表明することは,企業経営上きわどい国際問題を生起させる。はたして,賀来龍三郎や山本卓眞は,企業人として,そのことについて敏感な神経をもちあわせているのか。
 
 ★ 企業の社会貢献がよくいわれるが,これは国内問題ではない。ここでは,経営者としてのグローバルな感覚・知性のみならず,人間としての根本的な思想・哲学も問われていることを,指摘しておく。いまや,既述に出てきた「ことば:鎖国」をうんぬんできるような空間あるいは場所は,企業人にとってまったく与えられていない。

  村田 雪雄(野村証券常任顧問)
 朝倉 龍夫(日本合成ゴム取締役会長)
 石井公一郎(元ブリヂストンサイクル社長)
 石坂 泰彦(松屋会長)
 上野 公夫(中外製薬会長)
 淡河 義正(大成建設相談役)
 大島 陽一(東銀リサーチインターナショナル社長)
 岡本 和也(東京三菱銀行専務取締役)
 亀井 正夫(住友電気工業相談役)
 川島 廣守(セントラル野球連盟会長)
 川村 茂邦(大日本インキ化学工業顧問)
 古賀   正(東邦レーヨン取締役社長)
 櫻井   修(住友信託銀行取締役相談役)
 鈴木三郎助(味の素取締役名誉会長)
 武山 泰雄(武山事務所代表)
 田島 栄三(丸善石油化学相談役)
 種子島 経(BMW東京社長)
 田中   敬(横浜銀行相談役)
 玉置 正和(千代田化工建設代表取締役会長)
 中村   功(東日本ハウス会長)
 松谷健一郎(中国電力相談役)
 森村太華生(森村商事会長)
 山野 博司(紀之国屋食品会長)
 山崎 誠三(山種総合研究所取締役会長)
 山本 卓眞(富士通会長)〔注記→よびかけ人と重複〕

   ◎ 以上,第1次集約分より企業関係者のみ。

 『週刊金曜日』提供資料。 
    → http://www.jca.apc.org/~pebble/ianfu/jugunv3.html 参照

 石原慎太郎ものちに,この会の賛同者となる。企業人以外の賛同者にうち,佐藤勝己(現代コリア研究所所長),豊田有恒(歴史学者)はかつて,親朝鮮・韓国派の識者〔大好き人間〕だったが,その後,心境の大変化を経て,嫌韓国・朝鮮派〔毛嫌いする人物〕となった。対〈韓国・朝鮮〉観におけるこの人たちの態度の変化〔好き→嫌い〕は,極端にぶれてきた。そこに,なんらかの特質を読みとることも可能である。
 

 また,べつに用意された「新しい歴史教科書」市販本はす
でに,70万冊も売れているという。そうだとするとこちらの
本は,社会の各層で幅広く読まれているのではないか。

 ある意味では,扶桑社の中学校用「新しい歴史教科書」は,
「反面教師的な歴史教科書」との位置づけをえるべき,好個
の〈副読本〉だといえよう。

 b)「各教委,自治体」に対する「つくる会」の意図的な働
きかけは,ごく一部でしかなかったが,成果をあげた。つま
り,右翼反動的な知事の統治下にある自治体〔東京都・愛媛
県〕の教育委員会は,「新しい歴史教科書」などを採択した
のである。

 c)「扶桑社版を差別的に扱った「文部科学省に再審議を
求める」などとのたまうにいたっては,笑止千万の屁理屈で
ある。

 そもそも文部科学省との連繋プレーでできたともいえそう
な扶桑社の歴史教科書である。仲間うちでのケンカにも映る
掛け合い漫才(!?)もほどほどに……。

 「つくる会」の人たちの本心では,文部科学省「教科書検
定」において,扶桑社版の教科書だけは〈逆〉差別的にあつ
かってほしかったはずである。この願望は限定的であれ,一
部分は実現したといえる。

 同時にまた,文部科学省で教科書を検定する審査官の学術
的な力量,そして教科書検定制度の本質も,もののみごとに
白日のもとにさらされたのである。

 −−「つくる会」の事務局長高森明勅はいわく,「われわ
れは必らずリベンジします〔次回採択がある4年後にはおお
きな勝利をえる」。

 教科書問題は,根幹より再検討する時期を迎えている。焦
点は,文部科学省が検定制度によって準「国定教科書」を認
定する制度をやめ,べつの方途を探すことである。このこと
はむずかしいことではなく,このページでも言及しているよ
うに,先進諸国にいくらでも見本がある。

 日本はしばしば,自国のことを「先進諸国〔西側?〕の一
員である」と胸を張ってとなえるが,文部科学省はまだ,発
展途上にある日本の省庁であるかにみえてならない。

 ●「新しい歴史教科書をつくる会」賛同者

 「つくる会」が結成されその趣旨に賛同して自分の氏名を
つらねた,とくに知識人もしくは文化人という範疇に属する
人たちの,〈その後〉に触れた図書がある。

 大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション』(角川書
店,2000年)は,「つくる会」賛同人たちの「教科書批判と
いうこの国の歴史像の根本的な修正をせまる運動に参加した
にしては,あまりに屈託がないか,あるいは奇妙な被害者意
識につらぬかれているという共通項をさらけ出す結果に終わ
っている」と述べて,その人物たちを具体的に指摘する(同
書,411頁)

 藤本義一〔作家〕は,賛同したことなど忘れていたと語
る。

 多湖 輝〔元大学教授,超ベストセラー本あり〕は,気
楽に賛同した結果,まるで責任を問うといわんばかりの取材
をうけて,賛同人を降りる可能性さえ口にする。

 林真理子阿川佐知子〔作家〕の両呼びかけ人にいたっ
ては,この問題とのかかわりを絶つのに必死である。

 大塚英志がつづけていうに,「今回のような政治的な運動
に賛同することは,そこから生じる政治性に相応の責任をも
つことを意味するはずだ。まして,メディアのなかでものを
書く特権を与えられ,みずからの発言が相応の影響力をもつ
立場にある以上,〈責任〉が求められるのは当然である。だ
が,賛同者たちは〈責任〉を被害者意識にも似た〈構え〉に
すりかえている」(同書,411-412頁)

 ここで,さきに参照したインターネット資料〔前掲枠内記
述〕をもう一度のぞいてみると,「新しい歴史教科書をつく
る会」の賛同者を募る「呼びかけ人(9人)」のなかにやは
り,阿川佐和子と林真理子の氏名がある。

 阿川佐和子(エッセイスト)  小林よしのり(漫画家)
 
 坂本多加雄(学習院大学教授) 高橋史朗(明星大学教授)

 西尾幹二(電気通信大学教授) 林 真理子(作家)

 深田祐介(作家)  藤岡信勝(東京大学教授)

 山本夏彦(エッセイスト)
    (http://www.jca.apc.org/~pebble/ianfu/jugunv3.html 参照

 最近の「つくる会」の動向を観察するかぎり,阿川や林な
ど作家陣は実質,この会との関係がうすくなっているものと
思われる。
 
 大塚にさらにいわせよう。「歴史教科書の運動は,かつて
賛同人の多くが嫌悪したはずの〈戦後民主主義〉的なふるま
いや〈市民運動〉に醜悪なまでに酷似しているではないか。
そういった〈責任〉を欠いた運動から,いったいなにが現わ
れるというのだろう」(大塚,前掲書,413頁)

 ●「新しい歴史教科書」のアナクロニズム

 @ 「つくる会」の新しい歴史・公民教科書は,旧い日本
帝国主義の亡霊を復活させようとする,よからぬ意図を抱い
ていた。それゆえ,韓国や中国などからは猛烈な非難を呼び
おこし,外交問題にまで発展したのである。

 実際,この夏に予定されていた韓日間の多くの交流事業が
中止のやむなき事態となり,せっかくの日韓友好関係に水が
注され,最近順調にすすんでいた両国の良好な関係に面白か
らぬ雰囲気がかもし出されてもいる。

 「つくる会」の歴史教科書は,明治以降における日本の対
アジア観を継承し,近隣諸国を見下した姿勢をとっている。
つまり,日本は優秀でリッパな,とてもすばらしい国だった
〕し,おまえらのようなダメな国々とはそうとう異質の,
別格の国〔神の国?〕だという優越意識がアリアリとみえる。

 しかも,時代が21世紀にうつるに当たって,1989年に破綻
しはじめたバブル経済の再生・手直し対策において日本政府
は,失敗をくりかえした〔「失われた10年」〕。そのためな
おさら,日本社会には閉塞感が深くただよい,なんとも表現
しがたい不満・不安が高じている状況にある。
 
 だから,いまこそ「日本民族の誇り」をもたせるための歴
史・公民教育用の教科書が必要だと,西尾幹二先生ご一統は
おっしゃるのである。しかしながら,21世紀に立ちいった今
日,「日本に住む人々〔子どもたち〕」に適した「歴史・公
民教科書」は,いったいどのような視点・価値観に立てばよ
いのか,そういう問題意識が西尾さんたちにはない。

 国際的次元において通用する日本‐日本人‐日本民族の感
覚,意識,理性,歴史観,世界観を育てるのではなく,他者
を一段下におきおとしめることで,日本・日本人・日本民族
の特徴,いいかえればその優秀性を強調しようとする歪んだ
精神基盤がもっとも深刻である。西尾の頭脳のなかには,い
わば「病膏肓に入る」とでも形容すべき感性が盤踞している。  


 ★ 途中で一言いわせてもらうと,日本人の定義,日本民族たる必要条件を簡潔に説明できる人が,いまの日本にはたして何人いるか,といっておきたい。

  つまり,この日本という土地に住む多種多様な人々を無視しないで,上記の点を,定義,説明せよといわれたら,ちょっとやそっとで解説できるものではない。
 

 「つくる会」の歴史観を支持する思想的立場に立つ人々は,
教科書問題をめぐるアジア各国の日本に対する批判を「内政
干渉」だとうけとめ,いきり立っている。

 だが,すでに触れたようにこの国際化した地球世界は,い
やおうなしに政治問題のみならず,経済・法律・社会・文化
すべての領域において深いつながりを有し,相互になかよく
交流をしていかなければならない時代である。

 内政干渉か,それとも外交上の意見交換か・有益な忠告か,
などを識別することには,いくたもの困難な要素がからみあ
ってくるほかなく,それこそ,まことに複雑な様相をともな
ないつつ国際政治が展開される時代である。

 A 企業経営は,国境をはるかに超えて複雑に合併したり
提携したりしている。そこでは内政干渉どころの話ではない。
国際〔?〕協調にむける懸命な努力や意識的調整が各国間で
なされなければ,グローバルな政治経済の指揮・運営はとう
てい成立しえず,世界次元における各国経済社会の繁栄・発
展は望むべくもない。

 たとえば,ルノー社から派遣されたゴーン社長のもと,今
年になって赤字経営を脱却できた日産自動車は,自己資本に
占める外国(人)系出資の持株比率が50%を越えた。そのた
め,日本の政党に政治献金することが許されなくなった。

 ちなみに,フランス国籍の自動車会社ルノーは,ニッサン
を救済合併したわけだが,その資本全体のうち40%をフラン
ス政府が所有している。

 はたしてニッサンは,日本の会社か,それともフランスの
会社か? そのどちらに分類されればよいのか? もちろん,
ニッサンは以前より,国際的な企業経営を展開してきている
会社である。

 現在,欧米主要諸国は日本経済に対して早く適切な経済対
策をとるよう日本政府に要請〔要求?〕している。なぜ,そ
うした国際間のやりとりや駆け引きがなされているのか,も
う一度考えなおさないといけない。

 経済問題をとおしてアメリカやフランスが日本にものをい
っても内政干渉にならないが,過去の侵略を正当化する歴史
教科書問題をとりあげて,アジア諸国が日本を批判したら内
政干渉になるというようなうけとめかたは,欧米コンプレッ
クスをないまぜにし,また冷静さを欠いたアジア近隣諸国に
対する過剰反応的な態度である。

 ●「内政干渉」か,それとも「忠告:批判」か

 @ 「つくる会」会長を務めている西尾幹二は,「新しい
歴史教科書」の採択率が僅少であった結果をみて,ある記者
会見の場でこういった。在日韓国〔朝鮮〕人に対する発言で
ある。

 「在日韓国人団体の直接的反対運動など,内政干渉の域を
はるかに超える過剰な行動があいついだ」と(『統一日報』20
01年8月23日)

 これは非常に感情的で,そして〈的はずれの批判〉である。
この日本に長く定住してきた「在日」外国人の子どもたちが,
いったいどのくらい,この国の小中学校,そして高校・大学
に通っているか,西尾幹二先生,まさかしらないわけではあ
るまい。

 日本国内に「永住してきた」外国人たちは,日本の学校に
子どもをやるほかない歴史的な由来をもつ。そもそも,日本
生まれの2世以下の子どもたちは,日本に「永住してきた」
などという表現を当てることじたい,本当はまちがえている。

 在日外国人のいま2世・3世に当たる両親たちが,自分の
子ども〔3・4世〕たちが通っている学校で使用する教科書,
わけても今回「つくる会」のそれに,「とくに敏感な反応を
しめし」,採択を反対するため行動をしたことは,けっして
不思議なことでも無法なこともない。

 日本の両親と同じように彼らも,日本の学校に子どもを預
ける保護者である。そのように応答し行動することは,あま
りに当然な反応である。したがって,そのことじたいをけし
からぬと非難する精神・立場がはじめからズレている。

 もちろん,今回における在日韓国人の行動は,所属団体や
韓国政府の意向を反映した,「つくる会」歴史教科書の採択
反対行動でもあることは,事実である。

 しかし,「つくる会」の歴史教科書は,近隣諸国をみくだ
し,過去の歴史的事実を「歪曲している」と認識され,さら
には,その教科書は在日する人々を蔑視する視点すら内有し
ている。

 したがって,在日外国人たちが,その問題点を指摘し批判
することが「内政干渉〔の「域をはるかにこえた(?)」そ
れ〕だ」と,妙にいきり立って反発するのは,国家だとか国
籍だとか国民だとかいう,20世紀までに特有だった仕切線を
絶対化した観念にもとづく者の,完全に筋ちがいの反論であ
る。

 「内政干渉の域」というさい,その「域」とは,誰がどの
ように基準を判断したものか。「つくる会」には,独自のも
のがあるようだが,すなおに聞く範囲内では,ただちに了解
できるものがあるようには感じられない。

 西尾幹二たちの,在日外国人ならびに日本人自身に関する
そうした把握方法=「日本人にあらずんば,なんでもかんで
も外国人」という単純な二分法は,日本政府当局(法務省や
警察庁)も旧来抱いていたが,いまではいくらなんでも表立
っては,簡単に口に出しにくくなった。

 A 筆者が20代だったころ,在日外国人は政治的となる発
言や行動そのものを表明したり示威したりするが,犯罪的な
行為であるかのように,関係方面から威圧されたことを想起
する。

 日本政府当局筋はなぜ,韓国〔朝鮮〕人たちがこの日本社
会におおぜい生きていくほかないのか〔もちろんよくはしっ
ている事情だが〕,その歴史や実態をできるかぎり認知しよ
うとしないかたちで処遇してきた。そして,この人々はあた
かも日本社会で「永久に仮寓する一群である」かのようにみ
なすという,きわめて悪質な虚構化操作を維持してきた。

 自分の子どもを日本の学校にいかせている在日外国人たち
が,学校で使われている教科書について,なにか意見をいっ
たり批判的な行動をおこなうことが,どうして「内政干渉の
域をはるかに超える過剰な行動」になるのか解せない。

 「在日」韓国・朝鮮人に対して,内政干渉という範疇を物
差しに当てることが,まずおカドちがいである。在日が国内
の問題に関して,すこしでもものをいえば,西尾のいうとお
り,なんでも「はるかに域を超える」「過剰な行動」になる
のか。 

 日本社会のなかでも,かくべつ旧い由来を有するこの民族
集団が,在日韓国・朝鮮人である。参政権のない彼らが行動
をおこし,すこしものをいっただけで,これをもって「内政
干渉の域をはるかに超える過剰な行動」だと過敏にうけとめ,
非難する。

 在日外国人が日本社会に定着した民族集団である現実に目
を向けないで,ともかく外国人は外国人だといって,こっち
かあっちかの区分〔差別?!〕しかできない「つくる会」の
頑迷・固陋な精神構造が,問題である。

 「つくる会」自作教科書の採択にむけた運動は,内政問題
に関するものとはいえ,かなり「過剰な行動」と他者にうけ
とめられている。こちらの事実には頬かぶりして,ほかの集
団・組織が一定の目標を据えて運動することには,口をとが
らせて文句を付ける。

 西尾幹二の考えかたは,国家だとか国籍だとかの枠組を絶
対化した時代遅れである。〈いまの・この時代〉に生きる人
間としては,まったく周囲〔世界と日本との全体〕の状況が
みえていない。いうなればそれは,「国境の概念」のなかに
自身の時代精神を閉塞させた,もしくは幽閉されたことに気
づかない〈愚者〉の発想である。

 B 国籍問題に関して生地主義を採る先進諸国は,外国籍
人の2世・3世子孫に対しては,自動的にその国の国籍取得
を認める。また,それだけでなく,1世のばあいでも5年な
10年定住し,まっとうに生計を立てて暮らしてきた外国籍人
いしには,その居住経歴・生活実績を評価して国籍を付与す
る。

 現在,日本には,在日韓国〔朝鮮〕人だけでなく,これに
類する外国〔国籍〕人たちが多種多様に存在している。かつ
ては,在日外国人といえば韓国籍・朝鮮籍,これに中国・台
湾籍の人々を指していた。だがいまや,日本に住む韓国・朝
鮮籍外国人の比率は,外国人〔登録者数〕全体の半分以下に
なっている。

 日本政府の「帰化政策」の多少の変化もあって,最近の帰
化人数は,毎年1万人をこえてもいる。

 日本には現在,日系〔日本〕人であって日本国籍をもつが,
日本語ができず日本文化・伝統も全然しらない人々も大勢い
る。彼らは,実質的にすこしも日本人〔?!〕らしくなく,
日本の風俗・習慣にもうとい日本〔国籍〕人である。

 もと日本にいた日本人でも,こういう範疇の人々も増加し
ている。  


 通常,「日本人」ということばは,「国籍所有者としての日本人」と「民族としての日本人」との境界をあいまいにしたまま使用されるばあいがほとんどであろう。

 たとえば,私の息子は,日本でいわれる「ハーフ(ダブル)」なのだが,「国籍所有者としての日本人」にはふくまれても,「民族としての日本人」の範疇にはふくまれないのではないだろうか。

 この多重な意味をもつ「日本人」ということばのはざまに,日本ナショナリズムを解く鍵がありそうだ,と考えられる。
 

 『朝日新聞』2001年8月22日夕刊,森巣 博「時のかたち−無境界家族」より

 もしも,こうした範疇に属す人々が,「つくる会」の教科
書を自分たちにふさわしくないものと批判し,採択反対運動
に立ちあがったとしたら〔この想定は現実的なものである〕,
はたして「内政干渉」「の域をはるかに超える過剰な行動」
なのかどうか,西尾先生の解釈はいかに? 

 もう一度聞く。「内政干渉の域をはるかに超える過剰な行
動」とは,どのようなものなのか,「つくる会」の立場でぜ
ひともその定義をしめしてほしい。

 日本〔国籍〕人の言動ならば内政干渉でなく,外国〔籍〕
人の反対意志表明や,反対のための行動は内政干渉であると,
単純明快に腑分けできる論法は,大学の先生が披露する理屈
にしてはあまりに浅薄なものである。

 くわえて,西尾幹二さんら「つくる会」は,国内にもたい
そう気に入らない「敵」〔その例は日本書籍のような教科書
販売会社〕をもっており,こちらに対しても現実的な攻撃目
標とみなし,実際に撃破すべく行動してきた。

 だが,こちらの「的」にむけては「内政干渉」という決ま
り文句はつかえない。そのかわり,「ひとつのイデオロギー
に囚われるもの〔→自虐的な歴史教科書をつくる会社〕」と
声高に批難してきた。

 C しかし実は,「新しい歴史教科書をつくる会」という
組織そののものが,「イデオロギーに囚われた従来のいっさ
いの単調な歴史に反対するものである」というところの「イ
デオロギーにとらわれる」会といえる(西尾幹二編『新しい歴史
教科書「つくる会」の主張』徳間書店,2001年6月,6頁)

 すなわち,「つくる会」の人々は,自分たちのイデオロギ
ーをもって,「イデオロギーに囚われた従来のいっさいの単
調な歴史に反対するものである」。だから彼らは,けっして
イデオロギーとは無縁の立場・思想にあるのではなく,むし
ろ,ひとつの確固たるイデオロギーそのものをすすんで提示
したのである。

 その意味でいえば,「つくる会」の新しい歴史教科書・新
しい公民教科書も実は,「ひとつのイデオロギーに囚われた
従来のいっさいの単調な歴史」教科書に〈対抗する〉ために
つくられた,より強い調子で「ひとつのイデオロギーに囚わ
れる」教科書である。「つくる会」の教科書に対して指摘さ
れた問題点は,いうまでもなく,その「イデオロギー」性に
あった。

 おのれのみ絶対に正しく,他者はすべて邪・悪・不正とす
る西尾幹二ら「つくる会」成員たちの感性=「イデオロギー」
は,尋常ではない。これではまるで,中世の魔女狩りまがい
の言動か,あるいは「神々の戦い」宣告にひとしい。21世紀
にすすんだこの時代に,調子はずれ,時代錯誤の「異様な精
神を乱舞させる」つもりか。

 他国籍人や異民族との共生・共存を認めたくない〔毛嫌い
する〕主観的な感覚・性向に固執する西尾先生らの考えでは,
「つくる会」の「新しい歴史教科書」や「新しい公民教科書」
に記述される〈規範・倫理的イデオロギー〉をまともに理解
できない者は,たとえ日本〔国籍〕人であっても,異端視さ
れ排斥されるにちがいない。

 日本人とはなにか。ヤマト民族はどういうものか。日本の
独自の文化とはなにをもって定義できるのか。

 この国には,日本人と実質においてほとんどちがいのない
生活をしながら,いっしょに暮らす外国〔籍〕人が多くいる。
しかし,ただ「外国〔籍〕人」だからといって,この人たち
が自分の住む地域・行政に対して,なにかものをいうことを
拒絶し,生理的に反発して許そうとしない。この態度はまさ
しく,つくる会」のメンバーに特有の,排外主義的な国家概
念→固定観念的な病理を〈物語る歴史〉の反映である。

 沖縄の人々は,ひめゆり部隊の少女たちまでが戦闘員とな
って勇敢に戦ったと「新しい歴史教科書」に記述する「つく
る会」のデタラメを,批判しないでいられるだろうか。

 在日韓国・朝鮮人の存在を蔑視する歴史観を堅持し,日本
社会に潜む偏見・差別の実態を当然視するような思想・記述
は,許されるものではない。

 「国民国家」時代の枠組のなかで,他国の教科書について
とやかくいうことは,内政干渉になる。しかし,国際時代に
おいて,それぞれの民族や国家は,種々の問題を単にその国
家‐民族だけの問題ではなく,ナショナリズムを超えて,普
遍的な価値観にもとづいて考える必要がある。

 教科書問題は,次世代への教育の問題として重要な課題で
ある。それが本当に歪曲されたものであれば,アジアへの脅
迫とむすびつくということから,教科書問題が単に日本だけ
の問題ではないという認識は正しい(崔 吉城『「親日」と
「反日」の文化人類学』明石書店,2002年,235頁)

 石原慎太郎は小泉純一郎と親しい関係にあるが,2001年7
月参議院選挙で大フィーバーした小泉旋風のせいで,それま
けっこう高かった大衆的人気が,最近はもうひとつパッとし
ない。

 まちがいなく石原は,教科書問題でミソを付けた感がある。
早くも,石原都政の末期的症状が現われてきたか? 

 ●「新しい歴史教科書」批判論

 小森陽一・坂本義和・安丸良夫編『歴史教科書何が問題か
−徹底検証Q&A』(岩波書店,2001年6月)は,「新しい
歴史教科書をつくる会」の中学用歴史教科書が,なぜ,中国
や韓国からはげしい批判をうけているか分析する。

 −−同書「はじめに」の要点を,最初に紹介しよう。

 a) 教科書は,学界の研究成果をとりいれた手堅い学識と
ゆきとどいた教育的配慮とにもとづいて書かれるべきもので
ある。ところが,この教科書は,文部科学省による検定意見
を全部呑んで,みずから「屈辱的」といいながらも検定合格
という目的達成をとげた。これでは,執筆者たちの学問的な
見識と誠実さが疑われる。

 b) 文部科学省は,この教科書の歴史観について日本政府
のみかたと同じではない,と弁明した。だが,文部科学省の
検定意見は,学習要領というかたちで定められ,教科書の最
低限の基準をしめしているとするが,この判断基準そのもの
に問題がある。

 c) 扶桑社発行の「中学用歴史教科書」の第1の特徴は,
〈事実の誤りや記述の不的確さ〉,〈歴史の記述や解釈の歪
曲〉もさることながら,「日本の国家エリート」の視点に立
つ歴史叙述である点にある。

 だから,歴史のなかでの被支配者や差別されたり侵略され
たり人々の視点と行動は,きわめてちいさな比重しか認めて
いない。

 d)  「歴史は物語だ」というわけだが,絶対に正しい唯一
の歴史など存在しない。とはいえ,すべての物語が同じ平面
にならぶわけではない。
 
 西尾幹二の強調する「物語」とは,支配‐被支配という権
力関係に組みこまれており,国家の支配エリートの物語に焦
点を据えている。

 そのことは,1945年の敗戦やそれにつづく民主化と非軍事
化を,まだ癒えない傷跡とよぶようなみかたにつながる。こ
れは執筆者が,それ以前の旧体制の国家エリートの視点に立
っていることをしめす。

 e) 西尾たちが民主主義を否定するのでないならば,なぜ
日本は自力で民主主義を確立できなかったのか,なぜ「外か
らの革命なし」に日本は民主化できなかったのか,はたして
旧支配エリートが民主主義を〈自主的〉に選んだだろうか,
旧日本軍や軍部の解体なしに民主化ができただろうか,など
と率直に自問しなければならない。

 f) いま私たちに必要なのは,国家やその支配エリートの
視点にしばられない,民衆の歴史や社会史にまで深く掘り下
げた教科書ではないか。

 −−石原慎太郎という人物の立場・思想・感覚は,以上に
批判されている「国家のエリート」層に分類できるものであ
る。筆者はそれゆえ,今回の教科書問題に関説している。既
述のように石原都知事は,東京都の中学校のごく一部にだが,
この教科書を採用させるために策動したのである。


 小森・坂本・安丸編『歴史教科書何が問題か』は巻頭に,
加藤周一「自国への誇りとは何か」を載せていた。加藤は2
点を論じる。

 1)「自国のついての誇り」の問題 ……自国に誇りをもて
るような歴史の語りかたは,よいことや成功したことだけを
語るだけでなく,悪いことをしたり失敗したりしたことも直
視し,認め,反省することでもある。

 そのことは,自己を批判する能力を意味し,自分の失敗を
認める勇気であって,これはこれで,誇りの根拠にりっぱに
なりうる。この意図は,けっして中学生に理解できないこと
ではない。

 西尾らの教科書は,「世界に類をみない」という誇張した
表現を乱用する。人間というものは自信のないときに,つい
誇張したくなるもので,本当に自信があるばあいには,評価
については読者に任せる,という態度を採れるはずである。

 歴史のいいところばかり集めてみせるというのは,逆に説
得力をうしなわせる。教育の目的は,子どもを引っかけたり
だますことではない。子どもだって,世の中にそんなことは
ないわけだから,その嘘をみやぶる。

 静かに,客観的に,悪いところもふくめて教える。それが
説得力を増すし,本当の意味での誇りを与えるのではないの
か。

 なぜ,歴史教科書がこれほど問題になっているのか。それ
は,歴史というものが,現在と密接にかかわるからである。
ただ過去の問題で,それが現在となんの関係がないというこ
とならば,歴史教科書について,近隣諸国もまた日本人自身
も,これほど問題にしたりしない。

 鋭い歴史意識,誇りにすべき歴史意識は,自己批判以外に
ない。自己批判が冷静で,客観的で,勇気に満ちていれば,
その個人,その社会の精神的,知的能力の高さの証拠である。
それ以外にないといっていいほどの証拠である。したがって,
自己批判の力こそが,誇りの根拠となる。

 自分のしたことについて,悪いことと認めなかったり,い
つも弁解したりごまかそうとしているのは,個人であれ社会
であれ,けっして尊敬されないし,誇りももてない。この教
科書の執筆者は,誇りをもつための方向を明らかにまちがえ
ている。

 2)「日本政府と教科書の関係」について ……欧米の多く
国では,中央政府は教科書製作に関与せず,地方政府がその
責任を負っている。日本のように中央政府が検定制度によっ
て関与し,教科書を公認する制度を立てているならば,当然,
その責任は中央政府が負わねばならない。

 日本政府がこの教科書でよろしい,将来の日本人を育てる
のにふさわしいと公認したのであり,そこに描かれた歴史意
識と日本政府の歴史意識は密接不可分と考えていい。ことに
日本の侵略の歴史に犠牲者・被害者として直接関係のあった
中国や韓国などが,それに反応するのは当たりまえである。

 教科書は内政問題というけれども,そのなかに書かれてい
ることは,内政だけではない。日本の歴史はすくなくとも,
東北アジアのなかで動いてきたし,東北アジア史の一部であ
る。内政と外政はからんで展開してきた。

 日本では北朝鮮の脅威とか中国の脅威とかいうが,立場を
かえてみれば,この地域においては,日本の脅威〔あるいは
アメリカと組んだ日米の脅威〕のほうがはるかに大きい。し
かもかつては,日本は軍事力でことをおこしている。警戒さ
れないほうがおかしい。

 日本がわの抽象的な「国益」,いいかえれば倫理的な要素
を除外して日本の国際的な利益という観点だけみても,この
教科書の導入は百害あって一利なし,日本の外交・国益にと
ってなんのプラスにもならない。

 日本政府は検定は終了したから,もう修正できないなどと
いっているが,それはやる気と勇気の問題である。かつて,
〔韓国の現大統領〕金 大中氏が日本から拉致された事件を,
日本政府は無理をして〈政治結着〉を図ったではないか。教
科書問題ではなぜそれができないのか?

 そもそも歴史教科書を政府が検定し,公認するという制度
は,歴史の解釈や理解のしかたについて,権力が介入し統制
することである。歴史意識はその社会の現在と将来のありか
たに深くかかわる以上,それは権力が社会の精神力,知的自
由をコントロールすることである。これは民主主義に反する
行為である。

 それぞれの個人が,権力から自由にその社会のありかたや
方向性について考えていけることこそ,思想の自由であり,
民主主義の原理である。また,その自由を保障するために,
言論の自由があり,メディアの役割があり,情報公開がある
のである。

 以上のうち2)「日本政府と教科書の関係」について,筆者
の注釈をくわえ論じたい。

 @ 「新しい歴史教科書をつくる会」メンバーは,日本の
文部科学省の検定制度による教科書づくりに関して,そのや
りかたを批判する「中国や韓国の〈教科書〉」がいまだ国定
であることを指摘,批判する。そして,日本の教科書のほう
が優れているといいはる。さらには,今回の教科書問題に対
する相手国の反応=批判を内政干渉だと,声を荒らげて反論
する。

 しかし,検定教科書がいいとか国定教科書が悪いとかいう
議論にこだわることじたい,非常におかしいのである。つい
このあいだまでの日本も,国定教科書一本の国であった。し
かも,神がかり的な教科書=「日本は神の国」という観念を
教説するものであった。

 2001年7月まで中国瀋陽市で日本語を教えていた50代の女
性教師は,こう指摘する。

 この春,「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が検定
をとおってから,中国の学生たちがどんなに日本に対して戸
惑いと憂いを感じたか,痛いほどわかった。日本ではこの教
科書に対する態度を内政干渉だという声がある。

 しかし,中国に住んでいると,日本の戦争の歴史が,けっ
して「他国のこと」ではなく,自分の祖父や祖母が殺された
「自分の国の歴史」であることが分かる。

 「つくる会」の教科書がほとんど採択されなかったことが,
中国の学生たちにもう一度,日本に希望をもたせるものにな
ってほしい(『朝日新聞』2001年8月21日朝刊「声」欄より)

 「つくる会」歴史教科書がむろん言及しない,たとえば,
中国に遺棄した旧日本軍の化学兵器は,なお中国の人々に被
害を与えつづけており,その処理義務の負っているのは日本
政府である。日中両国がこれから協力してその処理に当たる。

 A 旧満州〔中国東北部〕の関東軍と支那派遣軍が遺棄し
た化学弾は,日本がわ推定でも70万発とされ,化学兵器禁止
条約の発効で原則10年以内の処理が日本政府の義務となった。
日中両国は,1999年7月にそれら遺棄化学兵器に関する基本
的枠組の覚書を交わし,中国政府は中国での処理に合意した
(この段落は『朝日新聞』2001年8月24日朝刊参照)

 とくに731部隊の歴史は,中国に歴史にとって惨禍の記
録となる。この部隊は,戦争用の化学‐生物細菌兵器を中国
内で製造し,日本軍に供給した。日本軍は実際,中国との戦
争で化学・細菌兵器を使用した。この731部隊が中国に与
えた残酷な加害の歴史は,いまなお消すことのできない記録
である。

 なお,日本国内にも同様な兵器を製造するための工場施設
があったことも付記しておく。そこで製造にたずさわった労
働者も,労働災害的に深刻な被害をうけている。

 「つくる会」は,国内外に記録されているそうした〈自虐
的〉な史実は,子どもたちに教えないほうがよいと主張する
「イデオロギー」である。

 日本は1941〜1947年,国民学校と称した時代であった。だ
が,1945年8月以降,そのとき使用していた教科書中のまず
いとされた箇所を墨で塗りつぶしてつかうようになった。こ
の出来事は,敗戦後「民主化」を指令〔強制〕された日本が
あわてて採らざるをえなかった〈教育現場での彌縫策〉であ
る。

 だが,「つくる会」の西尾幹二らは,そのとき黒く塗られ
た墨をいまとなって,きれいにぬぐいさろうと試みている。

 B 文部科学省の検定制度があるから,日本の教科書には
問題がないという,近隣諸国からの批判にかえした応答は,
「人を小馬鹿」にしたものである。なぜなら,日本の当局は
検定制度をもっていわば,より洗練され精錬された高純度の
国定教科書〉を製作している,といってよいからである。

 教科書をめぐった国定か検定かという論点は,「目くそが
鼻クソを笑う」ような状況を生む。たいへんこまるのは,目
くそが自分の「このクソ」のことを,もしかすると,マスカ
ラとみまちがえているか,あるいは,リッパな〈付けマツゲ〉
でも付けているかに勘ちがいしている点である。

 任期途中で死去した小渕恵三元総理大臣は,文部〔科学〕
省の検定を4年ごとにうけなおして再発行しなければならな
い教科書を製作する主要出版社に対して,有名な「ブッチホ
ン」をつかい,圧力をかけていた。

 1998年度に採択され2001年度まで使用されている歴史教科
書は,それ以前のものに比較して,南京大虐殺や「従軍慰安
婦」など,日本にとって好ましくない記述に一定の頁数を割
いて記述している。これを極力削除するよう働きかけたので
ある。

 そうした策動は,小渕氏だけがやったことではない。自民
党でも保守‐右派〔反動派〕に属する国会議員たちは,そう
した動きに積極的に賛同,応援している。

 C 前文部大臣の町村信孝は,以前より話題となり世間を
騒がせてきた「新しい歴史教科書をつくる会」が製作中の歴
史教科書に対する,中国・韓国からの批判をうけて,こう答
えた。

 日本には検定制度というものがあって,これが客観的・公
平なものにする努力を国家としておこなっている,大臣がそ
の結論に対して口出しすることはできない,と。

 だが,この町村信孝の説明はそれこそ「お為ごかし」の好
例である。世襲議員である町村信孝は,父親〔町村金五元国
会議員〕の代から保守・国粋路線であって,本心では,「新
しい歴史教科書をつくる会」のメンバーとまったく同じ思想
・信条の持ち主である。だから,大臣の立場からの発言とは
いっても,もともと,中国や韓国に対してみえすいた〔人を
食ったような〕口先だけの返答をしているにすぎない。

  2001年夏,にわかに騒がしくなった「検定教科書」問題に
関して文部科学省は,「教科書が外交問題を引きおこす問題
の根幹に検定制度がある」事実から目をそらして,抗議の意
志を再度表明する韓国や中国の関係者にむかってあらためて,
こういう遁辞を投げかえした。

 「文部科学省としては,検定を通過した以上,修正要求に
応じることはできない」と返答したり,「日本政府の歴史認
識と教科書のそれとはべつである」と釈明した。しかし,教
科書の合否を決めるのは,最終的に文部科学大臣である。

 したがって,今回の「つくる会」の教科書にかぎらず,文
部科学省が検定の合否基準を,どこに,どのように引いてい
るのか,なにも明らかにされていない。一言でいって,そこ
には大臣を頂点とした教科書検定制度に伏在する〈自由裁量〉
の不透明さがある。

 前文部大臣町村信孝,および現文部科学省大臣遠山敦子は,
前段のごとき二枚舌の応答をくりかえしてきた。この態度は,
人を食った欺瞞的発言そのものであって,うけとめようによ
っては,ペテン師的な狡猾の精神さえ現わしている。

 町村信孝は,自分の出身地であり選挙区である地元の北海
道で,「つくる会」教科書が採択されるよう陰で働きかけて
いるという噂をささやかれるような思想・信条の持ち主であ
る。北海道では,「町村信孝前文部科学省大臣の子飼いの道
議が教育委員会に圧力をかけている」との噂が飛んだ。しか
し,これにはあくまで,流言蜚語のたぐいだとする断わりも
付記されていた(この段落のみ,『中央公論』2001年9月,〔立野水
砂人稿〕84頁参照)

 とはいえ,教科書問題に関して町村が公の立場より指揮し
てきた中身を観察したばあい,裏舞台でも彼がそうした動き
をしたのではないかと推測することは,けっしてうがちすぎ
たみかたでも邪推でもない。

 D 文部科学省の教科書検定制度は,日本政府の根本的意
図をかくす〈隠れ蓑〉〔「イチジク葉っぱ」?〕である。
検定制度というものはだいたい,誰が,どのように,どのよ
うな基準で判断するのか。これがそもそも,国家的恣意=執
権党=自民党中心の,それも,
国家主義を志向する右派寄り
〔偏向?〕の教科書
を用意させた基盤である。

 教科書検定を担当する教科書調査官はいうまでもなく,体
制を支持するがわの研究者・専門家が担当する。家永三郎教
科書裁判の経過をみるまでもなく,国:文部省がいかなる立
場・思想・志向・意図をもって教科書を検定し,発行させて
きたか,あまりに自明のことがらである。

 「つくる会」のイデオロギーや志向は,「軍隊において士
卒が婦女を暴行する現象が生ずるのは世界共通のことである
から,日本国についてのみそのことを言及」すべきではない,
「自国の行為につき否定的な価値評価をふくむ話は教育上好
ましくない」というものである。

 つまり,従軍慰安婦問題に言及する他社製作の教科書を批
判する者たちがよく用いるそうした論理は,日本の文部科学
省の位置する政治的な文脈と合致するものである(以上,2段
落は,大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション』角川書店,平
成13年,462頁)

 以上のように,国家の統制する教科書検定制度の問題性は,
さきにくわしく参照した小森・坂本・安丸編『歴史教科書何
が問題か』が適確に解剖する点である。

 同書から,本段落に関連する箇所を引照する。  


 1997年度用では,7社すべての歴史教科書に「慰安婦」が記述されていた。ところが,今回検定合格した7社の教科書では,「従軍慰安婦」「南京大虐殺」「三光作戦」「731部隊」「沖縄戦」「植民地支配の実態や加害の事実」など明らかに,現行の教科書から後退している。

 しかもそれは,文部科学省の教科書検定によって削除されたのではなく,教科書会社が検定申請する段階で,自主規制をして削除したり,内容をうすめたりしたものである。

 しかし,「申請本」ができあがるまでの経過をしらべてみると,申請の直前までは現行本よりくわしく書かれていたものが,申請本では削除されているものもあった。

 この削除・改悪は,政府・文部科学省が強い圧力をかけ,教科書会社に自主規制させた結果である。

 自由主義史観研究会や一部のマスコミ,政党〔自民党・新進党(当時)の国会議員〕は,文部〔科学〕省に従軍慰安婦などの記述の削除を要求し,連動的に,右翼団体は街宣車をつらねて教科書会社に押しかけたりもした。

 そうした攻撃が執拗にくりかえされただけでなく,国会でもとりあげられた。この質問〔永野茂門議員:1994年に侵略戦争否定,南京大虐殺でっち上げ発言で法務大臣を辞任した人物〕に答えるかたちで,町村信孝文部大臣(当時)は,

 歴史教科書は「全体のバランスが欠けている点がある」,「とくに明治以降の日本の歴史」を「否定的な要素をあまりにも書きつらねている」。「そのへんを今後の教科書の検定,あるいはもうひとつまえの段階から各編集者に,もうすこしいいバランスがたもてないだろうか。そして,採択の段階でもうすこし改善すべき余地がないだろうか,そんなことをいま,教科書検定に関する審議会で審議してもらっている」,

などと答弁した。
 

 小森陽一・坂本義和・安丸良夫編『歴史教科書何が問題か−徹底検証Q&A』岩波書店,2001年,115-116頁参照

 上枠の内容で町村信孝が要求した「〈いいバランス〉の歴
史教科書」とは,彼らなりに精神・観念中に抱いている価値
観・世界観=「アジア侵略戦争の事実」否定論を意味する。

 ここではただひとつだけ,こういう事実を挙げておく。

 最近,教育機関などによる国際交流もとみに盛んである。
しかし,日本文部〔科学〕省「検定教科書」をとおして日本
‐アジア‐世界の歴史を学んだ日本の子どもたちは,せっか
くのそうした交歓友好の場において,戦争や侵略の問題を議
論する段になるや必らずといっていいほど,他国すべての子
どもたちから「袋叩き」の目に遭うのである。いいかえれば,
日本の子どもは,諸外国の子どもたちにいともたやすく,完
全に「論破」されるばかりでなく,その無知を徹底的に指弾
されてもいる。

 そうした辛い体験を経て〔洗礼をうけてから〕ようやく日
本の子どもたちは,他国の子どもたちと同じ目線に立つこと
ができるようになる。

 小森・坂本・安丸編『歴史教科書何が問題か』から再び,
引用する。  

 
 「つくる会」の教科書や,その教科書を執筆した人々の本を読むと,どうみても子どもを侮り,子どもなんて教科書を変えてしまいさえすれば,こちらの思うように変わるものだという,子どもの力を軽視し,子どもそのものを馬鹿にした考えが現われている。
 
 小森・坂本・安丸編『歴史教科書何が問題か』143頁。

 E 教育問題を担当し司る官庁としてみたばあい文部科学
省は,この地球上ではまさしく〈反動分子〉の役目を,遺憾
なく発揮している。

 「つくる会」の面々井の中の蛙! 

 ひとたび洪水がおこれば,ちいさい井戸は濁流のなかに没
するほかないだろう。

 「新しい歴史教科書をつくる会」を支持するあるメンバー
は,口角泡を飛ばすかのようにアジア諸国の「国定教科書」
を非難する。

 たとえば,勝岡寛次『韓国・中国「歴史教科書」を徹底批
判する−歪曲された対日関係史−』(小学館,2001年8月)

〔←へ
リンクしますは,「両国の内政干渉に対し逆修正要求
する!」という文句を載せた帯を巻いて,公刊されている。

 だが,他国・他者をやりこめて自国・自分の思想・立場が
高められるなら,なにも世話はいらない。相互に建設的な批
判を交わしながら意見を交換し,とことん議論をする気持・
用意がすこしでもあるなら,内政干渉ということばなど,は
じめから浮かんでくるはずもない。

 この指摘の意味はさらに,以下につづく記述が説明する。

 ● 海外からの批判

 2001年度用の教科書を改訂する問題にさいして,アジア諸
国より生じた反応=批判を「内政干渉」だと声を荒らげて反
発する人々に対しては,つぎの議論を聞いてもらいたい。

 欧米コンプレックスの精神構造をもちやすい日本・日本人
のばあい,以下のような欧米〔英米〕の「マスコミ」関係か
ら寄せられた意見を,どのようにうけとめるのか。

 イギリス“フィナンシャル・タイムズ紙は,8月9日付の
社説で,こう主張した(『朝日新聞』2001年8月10日朝刊より)

  日本が国際社会で重要な役割をはたせるかは,第2次大戦
中の侵略行為を反省していることを,近隣諸国に納得しても
らえるかにかかっている。

 靖国神社参拝の意欲をしめしている小泉首相に冷静な対応
を求めたい。

 靖国神社の参拝については,同紙は「右翼勢力を喜ばせる
ためとしかうけとれない」と指摘し,こういう4点の提言を
する。

   1.  靖国神社を重視する理由をはっきり説明し,戦争責任
について謝罪する。

 2.  日本の侵略行為をふくむ歴史を学校できちんと教える。

 3.  従軍慰安婦への賠償を早急にすすめる。

 4. 平和憲法を改正すべきかどうかの論議を急ぎ,アジア
への不安を払拭する。
 
 大英帝国主義の末裔たちに,そのような提言をされる筋合
などない〔僣越だ!〕とする反論は,十分根拠のある〈ひと
つの理屈〉をふくんでいる。しかしそれにしても,外国から
日本に差しむけられた意見表明〔批判や非難〕に対して「内
政干渉」と猛反発する人々にとってみれば,聞きたくもない
意見ばかり陳述されている。

 フィナンシャル・タイムズ紙に「この意見をされた日本・
日本人」は,きっと,つぎのように反応するにちがいないと
思う。

 1.「靖国神社への参拝」を,没論理的,絶対無条件でいく
べきものと観念する関係者にとって,上記の批判をうけるこ
と→「戦争責任を謝罪する」ことは,滅相もない行為であり,
筋ちがいの要求と映る。

 2.「日本の侵略行為をふくむ歴史を学校できちんと教える」
点については,このことを,もっとも強く反対している一集
団が「新しい歴史教科書をつくる会」およびこれに賛同する
人々である。したがって,この一群・集団に対しては,「馬
の耳に念仏」(「馬耳東風」)の教説である。

 3.「従軍慰安婦への賠償を早急にすすめる」という意見に
いたっては,彼女らのその経歴は〈商行為〉であったから賠
償の必要はないと,残酷なことをいいはっている,「戦争と
売春の社会学」に無学=無知な人々が,のっけから否定する
点である。

 4.「平和憲法を改正すべきかどうかの論議」は,日帝時代
の旧憲法のほうが好ましいと考える法感覚の持ち主たちにと
ってみれば,論議の方向がまさに逆なのである。それでは,
はじめから噛み合わないこと必至である。まして,「アジア
への不安」なんて「クソ食らえ」,とでもいいかねない面々
であるから……。

 −−さて,アメリカの多くの新聞各紙も,新しい歴史教科
書や小泉純一郎首相の靖国神社参拝をめぐる日本の「歴史問
題」をとりあげている。しかも,いつもは保守系かリベラル
系かで論調の異なるアメリカ各紙が,この問題では「過去を
反省しない日本」というみかたで一致している(『朝日新聞』
2001年8月5日朝刊より)  

 
 ◎ シカゴ・トリビューン紙 ……長期にわたる不況と対決する意欲をみせる小泉首相が,近隣諸国からの苦情や粗暴な過去の実在について,まるで音痴なのは困ったことだ。

 ◎ ワシントン・ポスト紙 ……「あれだけ悲惨な戦争から教訓をえない国はない」という戦中世代の存在は,日本が平和的でありつづけることを確信させる。いま,これ以上に歴史からなにを学ぶかが,日本にとって大切だ。

 ◎ サンフランシスコ・クロニクル紙 ……歴史の暗黒部分と対決したくないという日本の姿勢は,自国の国民を傷つけることに終わるだろう。ナショナリズムや国家の栄光のロマンによる誤った約束について学ぼうとしないのは,最終的には,若い世代なのである。

 広島・長崎への原爆投下を正当化し,日本全国各地への無
差別殺戮空襲をさんざんやった当事国のマスコミに,そんな
えらそうに意見を述べる資格はないとの反論が出て当然であ
る。アメリカがアジア諸国で犯した「歴史の粗暴・悲惨・暗
黒」は当然,アメリカにむかって批判すべき問題点である。

 もうすこし,アメリカ各紙の意見を聞いておこう。

 上記の論調が一致するのはなぜか。教科書や靖国参拝で日
本の姿勢に理解をしめすことは,朝鮮併合から満州国建設,
日中戦争を経て第2次大戦にいたる日本の歴史を正当化しよ
うとする日本の「修正主義」を認めることにつながる。そう
なれば「おおきな犠牲を払って,軍国主義の日本と戦ったア
メリカの歴史も修正するのか」ということになりかねない。
そのような理由が背景にある。

 ナサニエル・セイヤー,ジョンズ・ホプキンス大学教授は,
こういう。
 
 小泉首相はアーリントン墓地を参拝したが,アメリカの大
統領が靖国を参拝することはありえない。A級戦犯も合祀さ
れる靖国にいけば,国内からも強い批判をうける。

 日本はアメリカの同盟国としての地位を強めているが,そ
れで日本がアメリカから過去の「免罪符」を手にいれたこと
にはならない。それに,韓国はアメリカにとって同盟国であ
る。

 日米韓の戦略的な三角形の一辺が長くなれば,「三角形の
密接な関係全体が弱くなる」。

 −−日本国内には,中国や韓国からの抗議に反発もある。
しかし,日本の「修正主義」に対する警戒心はアメリカにも
強い。過去を反省することで,日本が軍事大国にならないと
いう未来への担保を求めるのは,中国や韓国にかぎらない。

 そうした問題を日中や日韓の文脈だけでみると,ついつい
感情的になり,対応策をみうしないがちである。そうではな
く,むしろ日本は世界から孤立している,ぐらいの認識から
出発したほうが,いい智恵が出てくるだろう。

 以上,諸論調は結論的に,日本が過去の過ちを再び,たど
るのではないかと懸念している。中国や韓国の警告は,日本
の「過去の行跡」に照らして,いいかえれば侵略され甚大な
被害をうけた国々として,教科書や靖国参拝の問題を批判し
ている。これを「内政干渉」と即座に反発するのであれば,
本ページの冒頭でも〔冗談で〕触れたように日本は,本当に
〈鎖国〉でもしなければ生きていけない国になりそうである。

 しかし,いまさら封建時代の政治環境にはもどれないし,
実際問題,食糧自給率の現状を考慮すると,日本は飢餓死さ
え現象させかねない実情である。カロリー換算でみると,日
本の食糧自給率は40%である。もっとも,この数字はダイエ
ット教室流行りの日本社会における話であるから,若干,割
り引いて解釈する余地もあろうが……。

 ダグラス・パール〔アジア太平洋政策センター理事長アメ
リカ国家安全保障会議元アジア部長〕は,こう論じる(『朝
日新聞』2001年8月4日朝刊より)

 日本外交に欠けているものはなにか。犠牲者を思いおこす
という国内の要求に応えながらも,海外での戦略的利益も守
るということだろう。

 この10年,中国の力は増し,逆に日本はアジアやアメリカ
では落ち目だとみられている。この時期に,日本が歴史問題
を浮上させるのは賢明ではない。

 教科書問題に日本がどう対応するかは,長い目でみたばあ
い,アジアでの戦略的利益の点から日本がうまく立ちふる舞
える力があるかを判断する材料になる。

 ダグラス・ハード〔イギリス元外務大臣〕は,こう主張す
(『朝日新聞』2001年8月11日朝刊より)

 日本は世界第2の経済大国である。日本がになうべき外交
上の役割は重要であるし,これからもっと重要になるはずで
ある。しかし,いまなお多くの人々によって記憶されている
過去の出来事が,その足かせになっている。

 第2次大戦中に日本軍の行為によってうけた傷に苦しみつ
づけ,怒りがおさまらないイギリス人をしっている。もっと
多くのそうした人々が,中国・朝鮮半島・東南アジアにいる。
 
 ヨーロッパの人々にも,ドイツの蛮行について,似たよう
な記憶がある。しかし,ちがいがある。第3帝国の体制は完
全に打倒され,新しい民主主義のドイツは,過去のドイツと
はすべての面で異なる国である。

 日本もまた現代的な民主主義国家になった。だが,体制に
はある種の継続性があった。だから,現在が過去から完全に
断絶していないのである。

 必要なのは,野蛮な行動が深い悲しみをもたらし,怒りを
買ったのだということを堂々と認めること,そして,それを
つうじて,勇敢さについての敬意を,残虐行為の記憶から切
りはなすことではないか。

 それをするためには,学校ほど大切な場所はない未来の
世代が自分たちの国の歴史を学び,世界のなかで自分たちの
国がどのような位置を占めているかをしるのは,学校におい
てだからである。

 小泉純一郎首相が表明している靖国神社参拝という決断も,
そういった考慮を要する問題から逃れることはできない。参
拝は,小泉首相が日本の友好国,ことにアジアとヨーロッパ
の国々とこれからつきあっていくうえで不利な条件になるだ
ろう。

 −−先述でも指摘されたことがらは,歴史認識に関する勇
敢さ,いいかえれば勇気,堂々と率直に過去の過誤を認める
それであった。21世紀の世界,そしてアジアのなかで日本は,
いったいどのような位置に立って生きていくつもりか。

 ● 石原慎太郎の虚言癖

 ここで,石原慎太郎〔東京都知事〕の話にもどる。

 新しい歴史教科書や靖国神社参拝の問題についていうと,
石原が,前段まで議論された問題の中身にみごと当てはまる
人物であったことは,いうまでもない。

 靖国神社参拝に関しては,小泉首相に向かって「いけ!」
と応援するのがこの男であるし,「つくる会」の歴史教科書
の採用においては,黒幕〔実は都知事の立場からする正式の
行動だが〕となって,裏(それとも表か?)から糸を引いて
いたのも,この男である。
 
 既述のように,東京都は2001年度より養護学校で,扶桑社
の歴史教科書を採用することを決めたが,石原都知事は,こ
ういった(以下『朝日新聞』2001年8月7日夕刊参照)

 「良い教科書なんだ。〔教育〕委員会の判断でどこの学校
だって採択したらいいんで,僕はべつにあれをしろこれをし
ろといっているわけじゃありません」。

 「採択の手続をちゃんと踏んでるんだから」。

 この発言を聞いて,ずいぶんまたトボケタことをいうと感
じるのは,筆者だけではないだろう。

 前述に指摘したように,東京都教育委員会のメンバー6名
のうち,石原が都知事就任後に任命した委員が3名いる。同
委員長横山洋吉は,石原知事配下の人物である。この3名は
当然,扶桑社版「歴史教科書」を推している。

 石原知事はしかも,2001年4月,都庁で開かれた教育施策
連絡会で,「学校の先生を追認するだけでは困る。人に任せ
ず採択を」と,区市町村の教育委員らに訴えていた。

 石原は「つくる会」の賛同者に名をつらねる。「教科書を
選ぶのは先生じゃない。教育委員だ」という発言をくりかえ
してきた。

 東京都教育委員会の横山委員長も,2001年2月,区市町村
教育委員会に通知を出し,「都教委はみずからの採択事務を
実施するので,区市町村も改善されるよう」に求めていた。

 −−どうしたら,この経緯を「僕〔石原都知事〕はべつに
あれをしろこれをしろといっているわけじゃありません」
というふうに〈いいわけ〉できるのか,とても不思議である。
これでは,「僕は都知事の仕事をやっておりません」といっ
ているのと同じである。この人はそもそも「」の
基本テクニックを備えていない御仁であった。


 東京都杉並区では,2000年12月にいれかわった2名の教
育委員は,石原知事の意向にそう考えの持ち主〔男性2名〕
であった。その後,もう1名の教育委員のいれかえでは,杉
並区民のはげしい批判もあってだいぶ揉めたあげく,石原路
線とはべつの考えの女性が選ばれた。

 上記,男性2名の教育委員は当然,扶桑社「つくる会」の
歴史教科書を強く推薦したが,女性委員ともう1名の男性委
員は扶桑社版には明確に反対した結果,委員長のとりまとめ
によって帝国書院版に決定をみた。従来は,日本書籍版の採
択がつづいていた〔以上の経過は,NHK総合テレビ2001年
8月25日午後9時から「NHKスペシャル」で詳細に解説報
道された〕

 政治的支配者:首長は,統治する地域において,おのれの
抱く価値観を実現するために影響力を発揮できる。石原都知
事はその種の権力を執行した。石原都知事は,ごく一部では
あるが〈つくる会〉の歴史教科書を都立の教育機関に採用さ
せるうえで,知事の威光を存分に発揮させたのである。

 「一流」と自称する小説家なのであれば,前段のような子
どもだましの,いや,小説風にフィクション化した根拠を欠
く虚言をすべきではない。またもや,石原流口先三寸の出ま
かせを聞かされた筆者は,この人の精神の根っこにいつも居
すわっている,特有の〈悪い性癖〉を再発見する。

 民主主義の原則によって選出された都知事が,「子どもに
近く,実際に教科書をつかう教師を中心に,父母らの意見も
聴いて選ぶのが本来の方法ではないか。各学校に採択をゆだ
る方向をこそめざすべきである」(『朝日新聞』2001年8月18日
朝刊「社説」)というまっとうな意見に耳を貸さず,自分の意
向にそった教科書を選定させるよう教育委員会のメンバーを
いれかえ,しかも,自分はそのような行為はしていないなど
と口先での嘘を平気でつく。

 教科書問題は採択で終わりではない。広い支持がえられる
透明性の高い制度にしていく必要がある(『朝日新聞』同上)

 公の場で議論すれば,民意から外れた結論が出ることはす
くない。教師による採択教科書の絞り込みが各地で廃止され
た根拠も,過程の不明さにあった。かといって,少数の教育
委員で決めるなら,より公開の審議が求められるはずである
(『朝日新聞』2001年8月16日朝刊)

 われわれは,石原慎太郎都知事が民主主義の破壊者になる
必然的な事由をもつ人間であることを,ここまで重ねて警告
してきた。


 2001年8月17日の会見のなかで石原慎太郎都知事はまた,
こういう乱暴な見解を披露した。

 「共産党が独裁してる国のいいぶんをそのまま聞く必要は
ない」(『毎日新聞』2001年8月18日朝刊)

 ここで「国」とはいうまでもないが,中華人民共和国を指
している。政治外交上の機微にかかわることがらであるから,
そのような修辞=「他国のいいぶんをそのまま聞く必要はな
い」という点は,石原がそうムキになって主張しなくとも,
いわず語らず実践されている。外交関係において使用される
符牒の解釈には,慎重な態度と冷静かつ理性ある対応が必要
である。

 中国(中華人民共和国)を毛嫌いする石原慎太郎は,「チ
ュウ……」と聞いただけで,
上記のような外交的感覚を欠い
た場当たり的で,
感情むきだしの言辞を,吐き捨てるように
くりだす
東京都知事としての人品骨柄を疑わせる発言にこ
とかかない慎太郎君,いい加減にしなさい。

 慎しみの足りない人である。自分の名前にこの〈〉の字
を付けているが,まさしく名前負け。

 石原慎太郎流の口つきをまねて,こうもいえるのでは?

 「石原慎太郎が独裁的に引きまわしている都のいいぶんを
そのまま聞く必要はない」。

 外交的センスなし,ストライクになる保証のない直球(た
だしそれも暴投か死球)しか投げられない東京都のエース・
ピッチャー:石原慎太郎〔背番号は年齢と同じ68(69か)と
しておく〕は,とっくに引退すべき選手。


 最近〔2001年8月中旬の話〕,石原慎太郎の都知事として
の態度は,それでなくても悪かったのに,輪をかけてもっと
悪くなっている。唯我独尊の傍若無人ぶり,鼻持ちならぬ口
の聞きかたは,とうに度を越している。人を小馬鹿どころか
大馬鹿にしたような彼独特の雰囲気は,体全体から溢れ出て
いる。

 −−毎日新聞2001年8月12日の「東京朝刊」に記事として
掲載された,石原問答にすこし言及したい。
a),b),c),d),
e),の引用部分が石原のいいぶんであり,「−−以下」は筆
者の論評である。

 a)「どんな国家にも,社会にも,その国家社会なり民族の
個性を表象する垂直な倫理,垂直な価値観というものがある
んですよ。それ以前に,人間には国家をさえも超えた,垂直
な情念てものがある。それは死者に対する敬意ですよ。日本
人は物欲にかられて非常にフェティッシュ(拝物主義的)に
なっちゃったんで,そういう人知を超えた合理性で割り切れ
ないものに対する敬意を欠いてしまったよね」。

 −−この発言は「垂直な価値観」「死者に対する敬意」で
日本国民,東京都民を押さえつけることを当然視するもので
ある。一言でいって,没論理的・非民主的な宗教観念を市民
社会にもちこもうとする,石原流の勝手で強引な,宗教観の
押し売りである。

 b)「靖国も垂直な情念の表示であってね,たとえば北方四
島が一方的に侵略された時に,情報を伝えながら最後まで交
換台で頑張って,結局ロシア兵に乱暴されて殺された人(女
性)たちも祀(まつ)ってあるわけ。そういう,国が国とし
て今日まで永らえて,かくあることに対して,生命を賭(と)
して寄与した同胞に対して敬意は当然払うべきものであり,
そのシンボルとして靖国がある」。

 −−この発言は,被害者意識一辺倒の気持を抱く人々によ
くみられる,非常に「貧しい発想」である。日本とその軍隊
が,アジア諸国でもっとひどい悪行・残虐をたくさんしてき
たが,こちらの逆の立場からみると,その「悪のシンボルが
靖国」でもあることに気づかないのか,この人は……。

 「死者に対する敬意」は,日本・日本人〔そして「であっ
た」者たち〕にしか払われないものである。それが靖国神社
の教え,守るべき信仰である。帝国日本によって戦争被害者
となったアジア諸国の「死者に対する敬意」は,考慮のそと
であって関心もない。これが,石原のいう「垂直な価値観」
の意味である。

 石原さん,垂直ということばには,上下という概念が前提
になることをご存じか? あなたのいう垂直には,上の方向
性しかない。いいかえれば,下が上を見上げる関係しかない。
もちろんここで,下とは国民・市民〔かつての臣民と表現す
べきか〕であり,上とは国家・天皇〔かつての生き神さまと
いうべきか〕である。

 人の死についてはそのすべてを,ともに同じに弔い,慰め,
悼むという宗教一般のもつ任務にさからい,国家や天皇のた
めに役だって死んだ者たちだけを,断わりもせず勝手に祀る
という似非宗教的な精神行為は,宗教機関のありかたとして
は「風上にもおけない」ものである。これが,靖国神社とい
う国家神道の正体である。

 c)「梅原猛さん(哲学者)までが,靖国はアニミズム(精
霊崇拝)の古神道とは違うから参拝するなと言っています」
という記者の質問に対して石原は,「梅原は梅原で勝手なこ
とを言ってるんで,私はそう思ってないだけの話で,(靖国
は)アニミズムの集合体ですよ。小泉純ちゃんは非常に難し
いことを言ってるんだね。A級戦犯といえども刑死した後は
単純な死者だ」。

 −−梅原 猛の見解・学識が絶対に正しいなどと筆者は思
わないが,梅原の何十分の1に相当する関連の専門知識・常
識もない石原が,一流の学者・研究者をそのように馬鹿あつ
かいした発言をするじたい,きわめて僣越なのである。A級
戦犯を靖国に祀るのはいいことだとするみかたは,東京裁判
を認めない石原のごとき考えの人々に特有のものである。

 しかし,そうした考えが「戦前の思考へのあともどり」に
しか映らないところが,なにか,とてもわびしいのである。
敗戦後,「あの戦争」ならびに「戦前の日本の責任」をA級
戦犯に転化することができたのは,日本・日本人にとっても
っけの幸いであった。

 日本キリスト教会の有能な指導者の1人は,東條英機が絞
首刑に処されたことを,イエス・キリストの十字架磔に譬え
た。石原の発言は,そのクリスチャン指導者が工夫した解釈
さえ,反故にできるものである

 だから,石原みたく「あの戦争裁判(東京裁判)のレジテ
マシー(正統性)というもの(に対する疑問)がある」など
とは考えなかった日本人のほうが実は,当時〔敗戦直後期〕
では,ごくふつうの考えかたであった。

 中国・中国人はいつも,日本・日本人にこういってくれる。
「悪いは指導者たちであって,人民であるみなさんに罪はな
い」と。しかし,この修辞法は,日本軍兵士たち1人1人を
「リーベンクイズ」「トンヤンキー」などと称してまさに,
日本軍兵士たちを「鬼」=悪魔のように恐れ嫌った中国の人
々の記憶のなかにいまもなおのこる悪い対日感情を,ひとま
ず無理して抑制させた,いわば友好関係構築用の親切な便法
=「嘘も方便」であることを忘れてはならない。

 中国がわのそうした配慮〔実は深謀遠慮なのだが〕を無視
したあげく,「A級戦犯といえども刑死した後は単純な死者
だ」と平然といってのける石原の浅慮は,あの戦争は旧日帝
の「自存自衛」のための「聖戦」であって,アジア諸国に対
てなにも悪いこと〔侵略〕はしていないとひらきなおるもの
である。

 d) A級「戦犯が合祀されてるから,神社が決定的に冒涜
(ぼうとく)されたとかいうのは,僭越(せんえつ)な話だ
と思うよ」。

 −−石原君にいいたい。自分がそう思うことがあくまで勝
手だといいはるならば,相手のほうでもいろいろ勝手に〈反
対〉に思ってよいということも,合わせて思慮にいれること
も必要ではないか。

 欧米をはじめ諸国では,靖国神社を,

    “war (military)shrine”戦争神社

といっている。

 石原のこの d) の発言は,戦争精神を 煽っている。しかも
石原は,この精神が「日本人の精神性,文化のコアにあるD
NAに触れてくる問題なんでね。彼がそういう行動(参拝)
で表現しようと思っているのを,誰が阻 害できるんですか」
と,いなおっている。

 靖国神社がなぜ,戦争神社とよばれるのか。靖国神社の本
質を考察した文献を,以下に3冊紹介する。いずれも岩波新
書であり,現在入手できる。最近の話題,「靖国」騒動をう
けてこのたび,久しぶりに重版された新書もふくんでいる。
発行年は初版である。  

 村上 重良『国家神道』岩波書店,1970年。
 村上 重良『慰霊と招魂−靖国の思想−』岩波書店,1974年。
 大江志乃夫『靖国神社』岩波書店,1984年。

 村上重良は宗教学を,大江志乃夫は日本近現代史をそれぞ
れ専攻する学者である。

 −−石原慎太郎の発言のほうにもどろう。

 e)「これで日韓なり,日支,いや日中の関係が一時停止し
たって,われわれは何を失うんですか。中国との貿易は(日
本側が)入超なんだから。実質的に困るのは相手なんだから。
外交は結局カードゲームであって,われわれは失うカードは
ないんですよ。日本人は〈中国は大国〉ってことでヘンなマ
イナスの幻想みたいなものを持ってるけれども,おびえまく
る必要はまったくない」。

 −−ここで,慶応義塾大学国分良成先生(東アジア国際関
係専攻)の意見を,聞こう。すでに,本ホームページのほか
の頁でも引用した内容であるが,再度参照におよびたい。原
文の該当部分を圧縮して表現する。
 
 20世紀の日本は,東アジア近隣諸国と十分に健全な関係を
構築できなかった。21世紀はこの轍を再現してはならない。
ところが,日本政府は国内の政治ゲームに埋没し,絶好の機
会をみずからの愚策によって喪失しつつある。

 東アジアとの関係改善なくして国内の構造改革もない。自
身を東アジアと世界のなかで相対化する意識と行動がないか
ぎり,日本は自滅する(『朝日新聞』2001年8月21日夕刊,国分良
成「世界の中で自己相対化を−靖国参拝で悪化 日韓・日中関係−」)

 石原がなおつづけていうには,中国や韓国からの強い批判
をうけた小泉純一郎の8月15日靖国神社参拝問題の行動結果
〔8月13日に参拝〕のことを,「思いつき発言で状況に翻弄
(ほんろう)される頼りない首相になってしまい,構造改革
に深刻な影響を与えかねないとみますが」と質問する記者に
対しては,小泉純一郎が「加藤紘一になるよ……,加藤より
もっとみじめなことになると思うな」と,得意げに答えてい
る。

 この発言の伏線らしくつづく発言は,「私が総理大臣だっ
たら……」というものである。この生臭い発言は,石原自身
の本心である。

 小泉純一郎も加藤紘一みたくなれ。そしたら,こんどは自
分:石原慎太郎が「総理大臣」! 滅相でもない。

 ● 狼少年「石原慎太郎」

 −−石原慎太郎という人は,狼少年みたいな発言もする。
国分良成先生の専門的な忠告を,さらに聞いておく余地があ
る。  

 
 東アジアでは日韓・日中関係だけが悪化の一途である。韓国との自由貿易協定は宙に浮き,経済交流に多くの障害が出ている。

 一方,不況に喘ぐ日本の民間企業は,リストラを断行しつつも生き延びるために,WTO加盟をみこしてコストの廉価な中国市場に雪崩を打つように参入している。

 昨年の中国との貿易量は輸出‐輸入ともに米国に次いで世界第2位,昨年の対中直接投資一昨年50%増,今年上半期にいたっては昨年同時期の約倍増である。

 こうした現実にもかかわらず,民間企業を後押しするどころか,その土台を突きくずしているのが日本政府である。
 

 『朝日新聞』2001年8月21日夕刊,国分良成「世界の中で自己相対化を−靖国参拝で悪化 日韓・日中関係−」より。

 こういう東アジアの政治経済的情勢をまともに理解できも
しない石原が,「中国との貿易は(日本側が)入超なんだか
ら。実質的に困るのは相手なんだ」などと,一知半解〔しっ
ったかぶり〕の解説をくわえている。

 2001年の夏になって,石原慎太郎の無知・無学を証明する
日中間の経済関係問題が実際におきている。

 日本政府は同年4月,中国産のネギ・生シイタケ・イグサ
(畳表)に対して,セーフガード(緊急輸入制限措置)を暫
定発動した。中国政府は,これに対抗して,日本製の自動車
・携帯・自動車電話・空調機に特別関税を上乗せすることを
決めた。

 『日本経済新聞』2001年8月23日に,「中国報復関税2カ
月,商談ストップ焦る日本企業−商社や自動車対策立てられ
ず−」という,北京から送信された記事が載っている。この
記事に出ていた日本の製造業〔該当部門〕を挙げておく。  


・トヨタ自動車〔中国販売事業を統括する部門〕は,「最悪の事態を想定せざるをえない」と述べている。

 →代わりにドイツ車や韓国車が急速に販売台数を伸ばしている。


・中国にエアコンの輸出実績をもつ東芝キャリアと日立空調システムは現在,輸出を停止しており,「再開のみとおしは立っていない」(東芝キャリア)
 
 →今後,報復関税が解除されても不利な立場に追いこまれそうだ,とのみかたもある。

・三洋電機や京セラは7月以降,中国に輸出していたPHS(簡易型携帯電話)の出荷停止がつづいている。

 一方で,「現地生産用部品」に対する報復措置はなく,部
品の注文は伸びている。中国合弁会社で現地生産をしている
ホンダ(本田技研工業)は,2003年からミニバン「オデッセ
イ」も生産する予定である。ダイキン工業は,中国輸出むけ
の大型業務用エアコンの生産を,現地化に切り替える。各社
は,成長市場の中国での現地生産をいっそう加速している。  


 日本企業は中国とどう向きあうべきか,1970年代末にケ小平氏が「改革・解放」政策をはじめて以来,くりかえし問われてきた命題に,日本の産業界が再び直面している。

 中国への生産拠点の移転が加速し,日本国内が空洞化する不安が一段と高まっているからである。中国市場で現地メーカーや欧米企業の攻勢をうけて,日本勢がきびしい局面にある。

 そのうえ,日本の産業界は,対中戦略そのものの空洞化という,より深刻な問題を抱えている。戦略の再構築が欠かせない。
 

 『日本経済新聞』2001年8月25日,「中国への生産拠点シフト−「共存共栄」で空洞化回避,残す部門選び競争力を維持−」

 1) 日本政府が発動させたセーフガードに関する日本がわの反応は,こうであった。

 ・ネギと生シイタケは発動に賛成する意見が大半だが,畳表(イグサ)は,畳販売業者や中国産の輸入業者を中心に反対意見が多数あった。
 

 『朝日新聞』2001年9月5日朝刊。

 2) ホンダは,2002年度半ばに,日本で中国製の低価格スクーターを発売する予定である。エンジン排気量50tのスクーターで,10万円を切る価格を設定,国産品より3〜4割安くする。

 ・自動車メーカーが中国から製品を輸入するのは,初めてである。
 

 『日本経済新聞』2001年9月6日。

 3) 日本経済新聞香港支局の鈴置史は,「中国産業抑制論の危うさ」という記事を送ってきている。

 ・日本の電機産業のいくつかは,1990年代半ばから採算がとれなくなっていた。しかし,赤字工場を切り捨てるのをためらい,結果として研究開発に投入する資金を減らした。いま,日本が直面する突然の,恐ろしい速さですすむ空洞化の根には,この怠慢がある。
 

 『日本経済新聞』2001年9月4日「地球回覧」欄。

 4) 冷戦の終焉を機におきた国際的な供給‐分業構造は,がらりとかわった。しかし,日本は乗り遅れ,1990年代以降,内向きの対応に終始し,産業の競争力をいちじるしくうしなった。
 『日本経済新聞』2001年9月7日「変調貿易黒字大国〈20〉」。

 5) 朝日新聞コラムニスト船橋洋一は,「サンフランシスコ講和半世紀:過去の克服こそ原点」で,こう述べる。

 ・どこも脅威としない日米中の安定と平和の枠組をかたちづくることである。日本はそれを基軸にアジア太平洋諸国との信頼と和解を広く,深く,すすめていくことだ。
 

 『朝日新聞』2001年9月8日朝刊。

 日本の産業界は,いやおうなしに中国市場への進出をおこ
なってきたが同時に,日本国内の産業空洞化を惹起させてい
る。この深刻な難題をどのように克服するかが問われている。

 −−現状の世界経済では,相手がこまることは,こちらも
こまることになる。こんな簡単な国際事情がわからぬ知事に,
東アジアの深刻な情勢に関する発言を,それも素人的にする
資格はない。日本も「失うカード」を多くかかえており,実
際に「そのマイナスにこまりはてている」人や業者が大勢い
ることに無関心なあまり,とんでもない妄論を吐いている。

 2001年12月下旬になって,セーフガード〔緊急輸入制限措
置をめぐる日中間の貿易摩擦は,官民の協議組織によって農
産物貿易を管理するという「妥協」に終わった。  


 中国がとった対応は,日本製品だけを対象にしているという点で,明らかにWTOルール違反だ。WTOに正式加盟した以上,これからはルールにのっとった対応をとるべきである。

 日本政府も,農業関係議員の声高な要求に右往左往した。性急に暫定措置を発動したが,そこには本格発動まで中国は報復措置をとらないだろう,という甘い読みがあった。結果的には日本のうけた被害のほうがおおきかった。
 

 『朝日新聞』2001年12月22日朝刊「社説」。

 暫定的であれ,安易にセーフガードを発動をすれば,手痛い目に遭うことを今回の3品目で思いしらされた。輸入制限に走るより,国内農業の生産‐流通面の改革を急ぐことだ。
 
 『日本経済新聞』2001年12月22日「社説」。 

 2001年8月に「日中の関係が一時停止したって,われわれ
は何を失うんですか」などと,しったかぶりの強がりを披露
していたのは,誰だったか。都知事の石原慎太郎である。

 石原慎太郎は,都政に専念したほうが,ボロを出さないで
済むのではないか。その旨,ぜひ忠告したい。
 
 大東京の首長としては外交的配慮に欠く不躾な発言:「靖
国神社参拝」を連発して,しかも本人は得意になっていた。
それにくわえて,国際経済関係の基礎知識ももちあわせてい
ない。  


 6) 坂本義和〔東京大学名誉教授〕は,「対日講和条約50年の意味」を論じて,こう主張する。

 ・今日の日本は,米国との2国間協力の比重を下げ,東アジア諸国との多角的協力を強めるという課題に直面していながら,新しいアジアをつくる先見的な構想力が,いかにも乏しい。

 ・また,まさに地域協力が必要なときに,韓国・中国,その他の国の被害者の対日不信をかき立てるような行動をとっている。このことは,50年まえの講和そのものがもっていた問題が,いまもつづいていることをしめしている。
 

 『朝日新聞』2001年9月6日夕刊「文化」欄。

 石原慎太郎をとりまいている一橋出身のブレーンたちよ!
もっときちんと石原君にレクチャーしなさい。たまには筆記
試験なども課して,その成果を確認したりもしたらよい。

 この男の姿は,漫画のなかに登場する人物に譬えなければ,
故意に日本の危機を深めることになるほかない有害無益の言
動を頻発させる,きわめて危険な人物だといわねばならない。

 この地球,いや日本でいま一番愚かな男,それが石原慎太
郎ではないか。

 念を押すため,その後〔2001年10月25日〕の新聞報道を紹
介しておく。この記事の「解説」部分から引用する。  


 中国産農産物に対するセーフガードについて,話しあい解決をめざす方針が確認された背景には,すでに中国からの報復による産業界の被害がおおきくなっていることがある。

 正式発動すれば,さらにおおきな報復が待ちかまえ,日中関係にも亀裂がはいるとみられる。
 

 『朝日新聞』2001年10月25日夕刊。

 なにを根拠にして判断したのかわからぬが石原慎太郎は,
「中国との貿易は(日本側が)入超なんだから。実質的に困
るのは相手なんだ」といってのけた。

 現実にグローバル化している国際経済関係は,日中関係だ
けを観察しても,石原の生半可な知識で分析できるほど単純
ではない。単純なのは,石原慎太郎の脳味噌のほうである。

 ● 国内問題 国際問題

 アメリカの雑誌『ニューズウィーク』2001年8月20日発売
の号は,アジア諸国の教科書について「日本以外も歴史無視」
と批判する記事を載せた(共同通信,2001年8月20日)
 
 
中国やタイなどアジア諸国の歴史教科書を点検する記事を掲
載,日本と同様に各国とも自国に都合に悪い過去の事実を無視
したり書きかえたりしている,と報じた。

 同誌によると,中国の教科書は1950〜60年代の大躍進,文
化大革命での死者が3千〜4千万人に上ぼったことに触れてい
ない。

 インドネシアではスハルト元大統領が政権に就いた直後に約
50万人が虐殺されたことが無視され,タイの教科書には1970
年代におきた2度の軍事クーデターで学生指導者が虐殺された
との記述がほとんど存在しない,という。

 
 −−事実は事実である。いずれも国定教科書を発行する国
家である。もっとも,指摘されている問題は,国内版であっ
て国際関係の次元ではない。これらに留意したうえで,以下
の議論にはいる。

 韓国は,ベトナム戦争に荷担し,経済力を付けるための跳
躍台にできた。全斗煥大統領時代の光州事件〔1980年5月〕
で虐殺した人数を,一桁すくなく公表した。

 前段を書きこんだ翌日〔2001年8月24日〕の新聞記事に,
つぎのような報道がされた。  


 韓国の金大中大統領は8月23日,訪韓中のベトナムのチャン・ドク・ルオン大統領と大統領府で会談,ベトナム戦争に韓国軍を派兵したことについて,「不幸な戦争にくわわり,本意ではなかったがベトナム国民に苦痛を与えたことを申しわけなく思う」と謝罪した。

 過去の歴史認識をめぐり日韓関係がぎくしゃくするなか,あえてベトナム戦争に触れることで自身の「過去」に対する姿勢を強調したとみられる。金大統領は1998年にベトナムを訪問したさい,「両国に不幸な時期があった」と語ったが,韓国政府はこのとき「正式な謝罪ではない」と主張していた。

 両首脳はこの日,両国が包括的パートナーシップを構築することなどを盛りこんだ共同声明も発表した。
 

 『朝日新聞』2001年8月24日朝刊。

 中国は,ベトナムを懲罰するのだといって,1979年2月戦
争をしかけたが,逆にベトナムにずいぶん手ひどく,してや
られたことは,筆者の世代の記憶にまだのこっている。

 −−ここで参考となる出来事を付記する。

 ★ 1978年6月,ベトナムがカンボジアに侵攻。
 ★ 1979年1月,中国がアメリカとの国交回復。
         アメリカは台湾と国交断交。

 かといって,アメリカをはじめ,数世紀まえから帝国主義
をやってきた大先輩たちが,「自国に都合に悪い過去の事実
を無視したり書きかえたりし」たことがないといったら,大
嘘になる。

 1)「アメリカ」 コロンブスがアメリカ〈新〉大陸を発見
したという〈大嘘〉が幕開け。まず,アメリカ先住民族を大
虐殺,抹殺するかに近いような残虐をくわえてきた。さらに,
黒人を酷使して国富を築きあげつつ,虫けらであるかのよう
にいとも簡単に黒人を殺しつづけてきた。これはよくしられ
たアメリカの裏面史である。

 あるいは,アメリカ帝国主義がスペインの植民地からうば
ったフィリピンは,その後どうとりあつかってきたか。そし
て,南太平洋諸島〔諸国〕では,そこに住む人々をそっちの
けで,原水爆の実験場につかってきた。

 日本の帝国主義侵略史は,アメリカの関係でみると,おた
がいやりすぎないという駆引的契約〔紳士協定?〕をむすん
で,アジア‐太平洋地域を蹂躙してきた。満州国建国はさす
がにやりすぎと解釈した〔怒った〕欧米先進帝国主義諸国が,
その実情をさぐるためによこしたのが,例のリットン調査団
である。やりかたがまずかった〔だけなのだ!〕,というの
が「同じ穴の狢」同士での話。

 捕鯨問題にいたっては,かつては捕り〔殺し〕放題で,ク
ジラの体油〔鯨油〕だけを利用するだけ,あとは投げ捨てる
という大無駄をやってきた国が,いまではクジラがかわいそ
うだからといって,科学的議論を交わしつつ,はたしてどの
くらい頭数まで捕鯨が許されるかどうかの話にすすむまえに,
のっけから感情的な反対論をかかげるばかりである。

 2) イギリスに関していうと,いまはさすがに昔の面影は
ないものの,この帝国主義の大先輩というか第1人者だった
調子のよさだけは,老大国の資格がある。インドを嚆矢に各
国の植民地から,どのくらい膏血を絞りあげてきたか,まさ
かもう記憶にはないなどとはいわせない。「大英帝国」の華
は,数多くの植民地の人々の肉体と生命を踏みつけにしてこ
そ,咲かせえたものである。

 1982年5月,突然おきたアルゼンチン軍による英領フォー
クランド諸島の占領。これに対してみせたイギリスの意地は,
往時の大英帝国的なプライドをかいまみせた。同年6月アル
ゼンチン軍は,イギリスに降伏した。

 イギリスは,アルゼンチンのそばに位置する自領を(フォ
ークランド諸島は南緯51〜52度・西経58〜61度付近に位置),
当時「鉄の女」宰相といわれたサッチャー首相の指揮下,と
りもどすことができた。

 3) 第2次世界大戦にはじめは負け,そして勝ったフラン
スは,アフリカにもっていた植民地を戦後手放すのに手間ど
り,自国を道徳的・精神的にも疲弊させるほかなかった。こ
の点は,ベトナム戦争がアメリカに与えた精神的敗北感を想
起させる。

 遠くアジアでフランスが所領にしてきたベトナム〔いわゆ
る仏領インドシナ(カンボジア,ラオスもそれ)〕には,19
45年8月15日以降再び舞いもどってきて,帝国主義的支配を
継続しようとしたが,ベトナム人民軍の独立戦争に敗退〔19
54年5月7日ディエンビエンフーの仏軍要塞が占拠される〕,
のちには,その代理国アメリカのしかけたベトナム戦争に発
展する。

 4) 植民地帝国主義の先駆者スペイン,オランダ,そして,
遅れてやってきたドイツと日本の帝国主義。侵略をうけ,搾
取・虐待された歴史を有するがわの,アジア‐アフリカ諸国
や中南米諸国にとっては,いずれもなにをかいわんやの帝国
主義国である。

 スペインは,インディオ民族を絶滅せんばかりに殺しつづ
けてきた。オランダは自国の植民地体験を棚に上げて,大東
亜戦争中,占領・支配された日本軍からうけた屈辱のみ強調
する。
 
 
5) アメリカさんいわく,いやそれでもわれわれは,教科
書の製作方法では,あなたがたアジア諸国よりは,より公正
・客観的にやっており,その選択の方法も教育機関が自由に,
幅広い範囲でやっていますよ,と。

 しかし,そのようなことがいったい,いつごろから実行さ
れたかをしれば,つまり,すこしおおざっぱにみれば,そっ
ちもこっちも,それほど差がなかった,といえなくもない。
もちろん,こういったからといって,なんでも相対化し,問
題を朦朧化させるつもりはないので,念のため断わっておく。

 6) 要するに,アメリカが教科書の製作・選択の方針・方
法において,アジア諸国よりもすすんでいる事実は認める。
だが,ついこのあいだまで,先・原住民を悪者あつかいし,
彼らの存在すら認めないかのように,つぎつぎと撃ち殺す映
画を一生懸命つくり,上映していた〔そういえば筆者なども
当時は,日本に輸入され上映された〈西部劇映画〉を当りま
えのように鑑賞した(アメリカ人と同じ気分でその映画をみ
ていた筆者も反省する)〕のは,どの国のことであったか。

 7) ロシアは,ソ連邦時代,つまり共産主義体制時代,第
2次大戦時に強いられた犠牲者数を上まわる粛清の犠牲者を
出してきた。その数を正確に押えることは不可能である。

 石原慎太郎先生がかつて,日本軍による南京大虐殺につい
て申していたように〔全面否定したがのちに修正を余儀なく
された〕,その証拠が十分に出てこないようであれば,数千
万人の体制犠牲者が出たという話は,スターリンさんといっ
しょになって,全面的に否定してもよいことになる。

 いずれにせよ,大戦争でもなかったのに,千万人単位で人
間の生命を抹殺するという,末恐ろしいことをおこなったの
が社会主義国家体制の真実であった。人口比からみてとくに,
ソ連邦の過酷さがめだつ。



 【2001年9月9日 記】            アイコン