直線上に配置


その後〔2000年8月以降〕

における石原発言など


 

 東京都の〈首長〉〔酋長!ではない〕,つまり東京都知事という「御山の大将」になれた石原慎太郎は,その後も『本来の資質』を存分に発揮しつつあり,問題言動にこと欠かない。いかにも人騒がせ,とてもやかましい人物という印象は否みがたい。


 さて本項は,たくましいデマカセ・デタラメを原動力とする石原の発想・見解・言説などを,極力,科学的・客観的かつ歴史的・実証的に批判し,慎太郎の性向に内在する誤謬・暴力性を暴露する。

 

                                        

その後〔2000年8月以降〕の
 

石原「発言」に関係する論点

1)「心の東京革命計画」−石原慎太郎東京都知事に「道徳教育」を説く資格があるのか
2)石原慎太郎東京都知事「靖国神社公式参拝」をめぐる没論理性
3)反対意見を認めない石原慎太郎の政治感覚:ファシスト性
4)石原慎太郎の得意技「軽率発言の源泉」:大相撲〈八百長〉発言〔1963年夏場所〕
5)第6回東京世界大都市サミット会議〔2000年9月下旬に北京で開催予定〕に欠席する石原慎太郎東京都知事 
6)アジア大都市ネットワーク21の提唱
7)三宅島噴火災害と石原都知事
8)災害訓練という名の兵隊ごっこ−自衛隊は慎太郎のオモチャか?
9)「東京防災大訓練を嗤う」,姜 尚中による石原批評
10) ハーメルンの笛吹き / 石原慎太郎都知事が戦車でやってきた。
11) 平気で嘘をつく男「石原慎太郎」:小説 1972年と 発言 2000年
★ 石原慎太郎に親しい人物,佐々淳行(さっさ・あつゆき)へのリンクページ
★ 石原慎太郎に対する入江 昭ハーバード大学教授の意見への「ジャンプ
★ 石原慎太郎が「都知事を8年やって日本を変える」といっていた『問題性』への「ジャンプ
★ ダボス会議〔世界賢人会議〕に出席した石原慎太郎の〈駄々っ子ぶり〉への「ジャンプ
★ 他党をハイエナ呼ばわりする石原慎太郎の〈品性〉への「ジャンブ
         

 

 1)「心の東京革命計画」−石原慎太郎都知事に「道徳教育」を説く資格があるのか?
 

 ・2000年8月12日の新聞報道は,石原都知事が表題のような「選挙時の公約」を実行するための〈行動計画〉をまとめた,としるしていた。

 ・スパルタ教育論に関するカッパブック〔光文社発行〕を,過去にものにしていた石原先生のことだから,都知事となったいま,東京都の児童・生徒・学生たちに「道徳教育」をほどこす意向を強く反映した「心の東京革命計画」を,ご披露してくれたというしだいなのである。

 ・しかしながら,このホームページですでにくわしく論じてきたことだが,石原慎太郎という小説家出身の都知事に,東京都(!)に住む子どもたちの道徳教育に言及する資格はない。

 ・なぜか? その答えは簡単に出てくる。

 ・石原慎太郎という人物は,内外の多くの人々にとって,正真正銘,人種‐民族の差別・排外主義者であるからである。

 a) 他民族・異人種を当然のように,差別し排斥する。

 b) 身体に障碍を有する者に「安楽死」をささやいたり,侮蔑する発言を平然とくりだす。

 c) 日本〔東京都?〕に住む人たちに,以上のような差別観を植えつける言動を,都知事という立場にありながら,故意に悪意的に放っている。

 d) 自分が個人的に気にいらない諸国に対して,あからさまに嫌悪・憎悪の感情をさらけだし,東京都と友好姉妹の関係をむすんでいる都市の所在する国々に対しても,そうした感情的敵意をむきだしにする態度である。これは実は,本当の彼が,大人げない人間であることの証左である。

 e) 要するに彼は,小児的で,悪質な煽動家である。

 ・石田 雄『記憶と忘却の政治学−同化政策・戦争責任・集合的記憶−』は,こう述べていた。石田の記述は,石原慎太郎の根本思想に対する批判となる。


 〔石原もコンプレックスを抱いている,アメリカへの日本における〕従属的ナショナリズムのひとつの共通傾向として,外国人労働者排撃や弱い隣国への抑圧移譲という排外主義的方向に利用されることが考えられる(263頁。〔 〕内補足は筆者)
 →これは,上述のa),d)である。


 ・〔石原の信条でもある〕力に頼る強国への道が,内においては国際競争力を強めるための効率によって人間を判断し,その効率を上げることに役立たない障害者,高齢者などは「生きるに値しない者」(ナチス当時に用いられた範疇)とされがちになる。外に対しては,弱い国は弱肉強食の原理にしたがうべきものとされる(〔あとがき〕311頁。同上)
 →これは,上述のb),e)である。


 ・そのような精神構造の持ち主である石原知事が,子どもたちに,「暑さ寒さに耐えさせよう」「なんでも与えずにガマンを教えよう」というのである。社会の基本ルールを子どもたちに教えこもうとする。そして,家庭・地域・社会でとりくむべき項目を,具体的に挙げている。

 ・「1日はおはようではじめ,お休みでおわらせよう」「人に迷惑をかけたときは,きちんとしかろう」「しつけは家庭の責任であることを親に伝えよう」「近所の大人から子どもに声をかけよう」「与えるばかりが愛情ではありません」「子どもは本来,暑さ寒さに強いもの,すぐに冷暖房に頼らせない」……などなど,いずれも誰が聞いてもモットモな項目ばかりである。

 ・もっとも,石原の「素人の立場」(これは石原自身の認識であった)からの,教育問題にむけての発言であるから,相当割り引いて聞いておくべきだろう。

 ・以上のような日本における教育問題の重要な一環が,石原さんの発声にしたがってただちに改善できるというならたいした世話はいらない,といわざるをえない。教育学者など,その道の専門家たちが苦慮し格闘している問題であり,関連する議論もたくさんおこなわれている。

 ・そこに,都知事とはいえ素人の作家出身の,しかも当該問題についてはエッセイ風の議論しかできていない石原が口をはさむのは,いかがなものか。筆者など,石原さんの口から出るものにかぎって,そういう文句を聞きたくない。

 ・だいたい石原の言動じたいが,「自分のとなえている道徳項目」に反するものが多いのに,その当人から「心の東京革命」計画といわれても,どうも得心がいかない。それに,なにも〈東京〉だけの問題でもあるまいに,この人はいったい,東京都の何様になったつもりなのか。代々の王様だったか,それとも,永久的政権を握ってきた独裁者か。

 ・ひとの家庭内の問題〔しつけ〕にまで口出しする権利というか,筋合いというか,そんなものが都知事さん地位・権限に〔選挙時の公約にかかげていたからといって〕あるのでしょうか? 当人も心配するとおり,まさに「余計なお節介」なのである。

 ・なによりも,石原の腹の底で意図されている「人間づくりの方針」には,なにかうさん臭い,はっきりいってキナ臭いものがある。

 ・国家単位にしても地方自治体にしても,政治家が教育問題とくに,家庭内におけるしつけの問題に,どのように関与するのかは難問である。〈石原家の教育問題〉を即座に東京都に拡大するのは,御免こうむりたい。ともかく「余計なお世話」です。さきほどいったとおり,彼にいわれたとなると,なおさらそうです。
 

 2) 石原慎太郎東京都知事「靖国神社公式参拝」をめぐる没論理性
 

 ・さらに,2000年8月12日の新聞報道は,石原都知事が15日,靖国神社に公式参拝する考えを明らかにしたと伝えている。

 ・なぜ参拝するかというと,「親戚や女房のおやじもあそこにいる。遺族の方や英霊がすこしでも喜んでくれるなら,いく」べきだ,との答えである〔→いかにも「ミーハー受け」する発言である。やさしく・わかりやすく答えている。しかし,本質な問題は回避している〕。

 ・また石原は,靖国神社への〈公式参拝〉とか〈私的な参拝〉とかについては,「そういうくだらない識別をいまはもうする時代じゃない」と語った〔→割りきった意見だが,歴史意識ゼロの認識である〕。

 ・「靖国神社参拝が,公式かそれとも私的かという〈国際政治史的論点〉」に関する,石原の決めつけ的発言=「くだらない識別」とは,例によって,彼一流の無知性的,没論理的な詭弁・強弁である。石原自身がそういってくれて,当該の問題が一気に片づくならば,世話はない。

 ・アジアの国々:人々がなぜ,靖国神社のことを「いまも」問題とするのか。現実にあるこのような問題など,屁の河童だとでもいいたいがごとく,石原慎太郎,「この俺がいくというのだから,いくんだ。なんの文句があるんだ!」という行動様式にみてとれる姿勢は,ほとんど幼児の駄々である。

 ・中国の北京にいったり,韓国のソウルに出むいたり,北朝鮮の平壌を訪問したりしたとき,公人だとか私人だとかいう「いまさらどうでもいい識別などしない」で,石原は,靖国神社に堂々と参拝するのだと相手国の政治家や国民・人々にいったら,それこそ,戦争がはじまりかねない騒動となるかもしれない。

 ・もっとも,石原都知事は「一知事の立場」であるのだけれども,実際に「いまどき戦争をやりたいかのようにも聞こえる」発言をしたり,行動もしたりしてきた人物だから,ばあいによってはそれも望むところかもしれない。

 ・相手国からの批判は『内政干渉』ではなく,日本の「なにか」に対する〈批判〉なのである。

 ・実際,日本国現首相の森 喜朗さんはすでに,今年,靖国神社に公式参拝しないと言明している。この森さん,本心では,堂々と胸を張って公式に靖国にお参りしたいのだが,周辺諸国の目を気にして遠慮している。

 ・なぜ,日本がわがアジア諸国に対して,日本の元首がそうした「遠慮」をするのだろうか?

 ・そもそも,靖国神社に祀られている兵士〔戦死者〕たちは,アジア侵略の尖兵をよくはたしたという事由をもって,そこに「英霊」として納められている。〈英霊〉ということばの意味は,なんであるか?

 ・アジア諸国と日本との歴史的にいりくんだ基本的な関係,国際政治史的な因果=因縁を棚上げしたまま,石原のような認識をするのは,まさに無知蒙昧と批難されるべき盲論である。

 ・日本でいう「英霊」〔それも主に,靖国神社に祀られている旧日本軍兵士のこと〕中国がわでは〈トンヤンキ:東洋鬼〉あるいは〈リーベンクイズ:日本鬼子〉と称され,「鬼」「悪魔」あつかいされてきている。両国間の理解において,それほどおおきな差:断絶がある。それでも,そんなこと考える必要もないというのが,石原の感性的な態度である。


 一般の多くの兵士は,みずからが侵略者であるとともに,同時にみずからを非人間化する軍隊秩序や天皇制システムの犠牲者であった。治安維持法をはじめとする弾圧体制,自由の剥奪等々の犠牲者にほかならない。原爆や空襲,多数の戦死,等々の苦難を日本人になめさせた日本の支配者の責任が追及されねばならない。戦争責任の追及とは,国民が,みずからを侵略者たらしめ,人間性を剥奪し,へとおとしめた日本の支配者の責任を追及することもふくんでいる。

 藤原 彰・森田俊男編『近現代史の真実は何か』大月書店,1996年,205頁。


 ・だが,両国間になお厳在する〈おおきな矛盾・対立の関係〉を相互の努力によって根本的に解消し,そのうえで,本物の国際的な友好関係を構築しようとするのであれば,《英霊》という相互関係は,避けてとおれない「現実的な論点」である。

 ・日本は第2次世界大戦終了後,戦争責任どころか戦後責任さえ十分はたしていないと,周辺諸国からみられている。「英霊」となってしまった者もそうでない者も,例外なく,庶民的次元でそうした責任問題に多少はかかわっている。

 ・石原は,自分の得意でない論点からはさっさと逃げる傾向がある。それでいて,つまり,逃げた論点にむかってさらに,無責任なことを勝手にいい放つ性癖がある。非常に残念なことだが,そういう姑息な常套手段をつかいたがる彼が,国際時代の「いま」に生きていける資質をもつ政治家とは思えない。

 ・「いま」だからこそ,議論できる・すべきなのに,これに自信のない彼は,「いま」の問題から一目散に逃亡する似非知識人,落第「知事」である。

 ・われわれの現在=いまは,過去に逃げることはできない,むしろ未来に生きるほかない。

 ・戦争〔戦闘や戦場〕で死んだ人々(兵士たち)を「英霊」と称して靖国神社に祀ることでもちあげ,死んで国に帰ってきても〔本当はこのところからは「いま」生きている人間に対していわれるのであるが〕元気よく再び戦争に出ていくのだよと強制するのが,「靖国の思想」である。

 ・明治以来,日本の戦争経歴は,アジア侵略の歴史として以外描くことができない。

 ・〈侵略〉という表現とは無縁の方途において,「英霊」なる概念は規定されている。

 ・最近,岩波書店から復刻された,児玉隆也著・桑原甲子雄〔写真〕『一銭五厘たちの横町』(岩波現代文庫,2000年4月)は,戦争にいって死んでも「英霊」となって国に帰れると励まされ,無条件の〈死〉を予定させられて戦場にむかわされた,日本庶民の正直な気持を報告している。3カ所引用する。


 延ちゃんは,……昭和16年には北支に渡った。えらいとこに来ちゃったなあ。日本の水が飲みたい,白米が食べたい。翌年,満期除隊で帰ってきた。24歳になっていた。
 父はもうこの世になく,母が,「ノブよかったネェー,よく帰って来てくれたネェー」と息子にすがって,泣いた(180頁)


 「天皇の赤子といったって,心から喜んで夫や息子を送り出した人なんていない……。誰だってホンネはいかせたくないと思っていたんです」(100頁)


 「天皇? あいつは戦犯だよ!」(26頁)


 ・昭和天皇は,東京裁判で戦争責任を問われることにならなかった。しかし,多くの「英霊」=犠牲者を出した東京市下谷区〔当時の地名〕の住人たちは,戦争や天皇の本性を以上のようにとらえていた。このとらえかたは,日本全国に住む庶民たちのホンネでもあった。

 ・一般庶民は,「英霊」〔幽霊〕なんかになるよりも,「生身」の人間として生きられるほうを文句なしに望んでいた。戦争で家族を「英霊」にされた人々に聞いてみればよい。いったい,どっちであったほうがよかったか,と。……愚問であろう。

 ・石原は,戦争の歴史に埋没され「英霊」となった人々のなかに縁戚者もいるから,靖国神社に公式参拝にいくといった。もし,自分の父親,自分自身,自分の息子などが,戦争の犠牲者となり「英霊」と担がれるとしたら,同じようにものをいえるだろうか。

 ・「生命あっての物種」というではないか。

 ・「死んで花実が咲くものか」ともいうではないか。

 ・だから,「英霊!」なんかには誰もなりたくなかったし,とくに兵士の家族たちは,肉親が「それ」には絶対なってほしくなかった。

 ・〈靖国の思想〉が国民に押しつけているものは,「死」を喜んでうけいれる兵士をつくることである。それでは,なんのために兵士は「死」するのか? 

 ・あの戦争の時代,「天皇〔陛下〕の御為」だと,それは教えられた。それでは,天皇は誰のため,なんのためにいるのか。「赤子」のためであったのか? 論理上どうしても不可避に生じるこの循環的な矛盾は,いったい,どこで・どのように収められるのか。こういうふうに,批判的に考えねばならない。

 ・「教育勅語」は,天皇の赤子は天皇のために喜んで死ねるものだと説き,その矛盾していた論理の循環を一方的に断ち切っていた。これは,如上の疑問に対する〈ひとつの解答〉であり,それも没論理の信仰,強引な断定であった。これ以外の解釈も解答も認められなかった時代,それが1945年8月までの日本であった。

 ・それから55年も経過した日本に,またぞろ〈英霊〉概念をもちだすのは,奇怪にも歪んだ精神構造の持ち主にのみとなえられる,時代錯誤の妄想である。

 ・最後に一言くわえておくべきは,敗戦時まで日本国内で食糧として供給されていた白米のなかは,朝鮮や台湾から収奪するように日本に移入された分が多量にあったことである。
 

 3) 反対意見を認めない石原慎太郎の政治感覚:ファシスト性
 

 ・さて8月15日の当日,靖国神社を「東京都知事」として公式参拝したと,胸をはって記者会見した石原慎太郎は,都庁に寄せられた情報→「都知事の公式参拝に,賛成80%:反対20%」という数字に言及し,都民(?)には「ひねくれた奴もいる」とコメントした。

 ・東京都庁に寄せられる〈都政に対する賛否意見〉についてはすでに,意図的な情報操作が推測されていること,いいかえれば,「賛成」の意見が右翼関係筋によって集中豪雨的に送信されていることを示唆してきた。

 ・だが,前段の「賛成80%」という反響を,とりあえず正直にそのまま「都民の真実の声」だとうけとめたにしても,「石原知事の靖国神社参拝に反対」した者=「反対20%」を「ひねくれた奴」などと断定する,この人の品のなさ:度量のなさは度外れである。とうてい,尋常な精神にもとづく発言とは思えない。

 ・民主主義社会においては,少数意見を反対の立場で開陳することは十分に尊重されるべき行為である。それはむしろ,民主制政治を健全に運営するための不可欠の基本的条件でもある。

 ・それがたまたま,自分=石原の立場・行為に反対する意見を抱く者たちがおり,この者たちが自分にとって「お気に召さない反対意見を表明した」からといって,この人たちを「ひねくれた奴」など形容するのは,まさにファシストたる現東京都知事の面目躍如である。

 ・石原のもののいいかたが,単に下品であればいいと思う。しかし,「修辞・表現の技法・含蓄」を保持する能力・容量に関していうならば,まさかその不足などみじんもありえないはずの元作家・小説家都知事が,配慮も工夫もなにもない〈感情むき出しの決めつけ〉である。その道では自称「一流」の物書きだというわりには,まったく抑制の効いていない態度である。

 ・石原都知事は,自分のやりかたに反対する意見を申しのべる人々を「ひねくれた奴もいる」と非難した。石原は自身の感覚にすなおにしたがい,都知事である自分の意見に反対する者は「ひねくれた奴」だと指弾した。

 ・以上の論法は,ナチスドイツが,ファシズム思想・政治に和しない人々の存在じたいを,まったく認めなかった思考方式と瓜二つである。語るに落ちるとは,このことである。こんな人物が都知事である。いわば彼は,現在に生きるファシスト亡者である。

 ・今回の記者会見で石原は,都知事としての靖国神社公式参拝は「個人の自由」だとか「私の権利」だとか口走っていた。もちろん,「個人の自由・権利」というものは,すくなくとも民主主義社会のなかでは重々,相互に尊重され守られねばならないものである。

 ・だが,ある人がファシストといわれねばならないゆえんは,「自分の自由や権利」だけは守っても,他人のそれは守らない・認めないというところにある。こんなことは,民主主義における基本的規則である。とはいえ人々はしばしば,そのルールを平然と踏みにじる。

 ・民主主義の原理にのっとって東京都知事に選ばれたからといって,この知事を選ばなかった人々の「意見や立場」に関する「自由や権利」がないがしろにされていいわけはない。ましてや,後者を「ひねくれた奴」だと指称〔軽侮〕するにいたっては,驕慢の精神が破廉恥的にきわまったというほかない。

 ・自分の意見が絶対に一番正しく,それ以外,あるいはこれに反対する「奴」は「ひねくれている」と断罪できる精神構造は,もしかすると,なにかの幻想に囚われているのかもしれない。

【以上,2000年8月13〜16日 脱稿】


 4)  石原慎太郎の得意技「軽率発言の源泉」:大相撲〈八百長〉発言〔1963年夏場所
 

 ・本項は,『太陽の季節』昭和32〔1957〕年の原作で文学「賞」をうけた石原慎太郎が,作家・小説家として自信をもつようになってからの話である。

 ・白系ロシア人の父親と日本人の母親から生まれ,日本相撲協会第48代横綱となった大鵬幸喜は,2000年8月にはいって『日本経済新聞』「私の履歴書」に自伝を書きはじめた。どういう因縁か,その第17回「八百長騒動」の記述に石原慎太郎の氏名が出てくる。これは,石原が名誉棄損で訴えられそうになった事件に言及している。

 ・昭和38〔1963〕年夏場所千秋楽,大鵬は当時,好敵手であった柏戸とともに14日まで全勝の星をあげ,激突した〔この2名はともに横綱になり〈柏鵬時代〉を築いていた〕。大方の予想は大鵬圧倒的に優勢であったけれども,大鵬に驕りと油断があったためか,あっけなく「寄り切り」の決まり手で,柏戸の全勝優勝とあいなった。

 ・大鵬は,その勝負について「腰高で攻めも雑だと反省させられた相撲だった」と,回想している。ところが,その一戦を石原慎太郎が「八百長」だと勝手に決めつけ,スポーツ紙のコラムに「いい加減にしろ」というタイトルで掲載し,大騒ぎとなったのである(前後して『日本経済新聞』2000年8月18日,大鵬幸喜「私の履歴書 17 八百長騒動」参照)

 ・あとでもう一度その勝負をビデオで確認した大鵬は,「そうか,こういう相撲なら誤解されてもしょうがないなと思った。まさに『驕りの相撲』であった」と反省していた。

 ・しかし,当時の相撲協会理事長〔先代の時津風理事長,元横綱双葉山〕によばれ,八百長相撲でないことをたしかめたあとは,相撲界の信用を回復したいと,早くもその記事が掲載された翌日に石原を名誉棄損で訴える手続にかかった。

 ・石原の指摘は「柏戸関の病後の復活に同情しての八百長だ」というものである。

 ・そして,事情を聞きにきた相撲協会の武蔵川理事に対して石原は,「実は,私は本場所の相撲は一度もみたことがない。あの日,たまたま旅先でテレビをみていて,そのときは,あれ,柏戸が勝っちゃったな,くらいしか感じなかった。すぐそのあとで新聞社から電話がかかってきて,あれは八百長じゃないですか,という。それで半信半疑になり,一文を書いてしまった。他意があってやったことではないので,どうか了解してほしい」と詫びたという。

 ・以上のような横綱大鵬による記述をみるかぎり,石原慎太郎という人物の得意技である「軽率発言」の源泉形態を,そこにも発見できるはずである。

 ・こういうことである。

=石原「八百長」発言の問題性=
石原「三国人」発言との比較


 a) 石原は,日本の伝統的競技「相撲」の専門家ではなく,ましてや体育学関係の専門家でもなく,あるいは素人あっても一家言もつというような人間でもない。

・在日外国人問題の過去の歴史をよくしらず,ほとんど勉強もしていない。


 b) だいたい,八百長と指摘した勝負を,きちんと観察も分析もしていない。

・在日外国人の現状さえ,ろくに理解していない。
 
 
c) 他人に簡単にそそのかされ煽られるかたちで,つまり人から聞いた話を軽々に採用したうえで,早とちり的に物事を判断し,決めつけている。このときは,スポーツ新聞記者がデマ:八百長(?)の発信源だが,これを単純に信じこまされていた。
・警察庁幹部からうけた説明,外国人犯罪統計に関する歪曲的・悪意的な解釈=誇張されたウソを鵜呑みにする粗忽さ,迂闊さ。


 d) 物書きであるのにかかわらず,八百長ではないかいう重大疑問を他者に聞かされても,これをよくしらべもせず,〈半信半疑〉の状態で一文をものして公表,これをきっかけに世間にひと騒動おこしていた。

・不法滞在「三国人・外国人」が騒擾を惹起させるのだという,まったく根拠のないデッチ上げ,いつもの扇動的言辞を,みずから発信するというサタン的行為。
 
 
e) そして,世の中をさんざん騒がせておきながら,その後「他意はなかった」と弁明し,「それで了解してほしい」と,お手軽に済まそうとしていた。

・批判をうけてもひらきなおり,すべて他人〔共同通信社記者の報道記事〕のせいにするゴマカシ,そして鼻につく驕慢で独りよがりの,狷介な態度。

 ・上掲の表中でとくに,『e)世の中をさんざん騒がせておきながら,その後「他意はなかった」と弁明し,「それで了解してほしい」と,お手軽に済まそうとしていた』というふうな,事後における石原の対処・姿勢は,「〔第〕三国人」差別発言を放ち,これが社会的問題〔外国人全般に対する名誉棄損!〕となったさいしめした詭弁・強弁と,まったく同じである。

 ・「三つ子の魂百まで」とはよくいったものである。石原は2000年で御歳68を迎える。長生きしそうな御仁である。世間では「××奴ほどよく眠る,長生きする」というではないか。

 ・もっとも,大鵬の記述によると,「柏戸さんと間もなく会い,ケガを克服して優勝したのに八百長相撲といわれて,いろいろつらかったろうね」と声をかけると,「うん」といってもうボロボロと泣いた」。それから大鵬と柏戸は親しくなれたが,これは,石原慎太郎氏のおかげだともいっていた。柏戸‐大鵬にとっては,とんだ〈怪我の功名〉が〔しかも石原からうけた精神的な傷害によるものだが〕あったわけである。

 ・筆者が最初に,本稿冒頭の「本論」を書くにいたったきっかけは,石原慎太郎「〔第〕三国人」差別発言であった。

 ・石原が意図的に発した差別的言動,この妄言:暴言が世間に波及していき,悪影響をおよぼすにいたった経過は,人種差別撤廃条約を,石原という人物にまともに当てはめれば,完全に処罰の対象になることを意味していた。だが,日本政府の批准上における一種のサボタージュもあって,石原のような暴言がまかりとおる社会のままなのである。

 ・さて,石原「〔第〕三国人」差別発言には賛成であり,都知事の考えかたを〈よし〉とする東京都民,広くは日本国民などは,ここでかくべつにしかと用心しておかねばならぬことがある。

 ・それは,石原慎太郎知事による〈以上のような差別的言説の行動パターン〉が,いつ・なんどき,あなた=日本人自身にもむけられる危険があるのだ,という点である。むしろ,そんなこと絶対ないだろうとする保証など実は,どこにもみいだせないのである。このことは,石原という人物の履歴が如実に物語っている「真実」であった。

 ・石原慎太郎という人物の精神基盤に浸潤している〈差別的な価値観〉は,誰彼の区別なく普遍的にバラまかれる性質のものである。単に,外国人むけのそれではない。石原の抱く日本国における「内なる差別」観はすでに,身体障碍者や公害の被害者あるいは性的認知障碍をもつ人々にもむけられていた。この事実において,もう一度あらためて,厳重なる注意を喚起しておきたい。

【以上,2000年8月19日 脱稿】


 5) 第6回世界大都市サミット会議〔2000年9月下旬に北京で開催予定〕に欠席する石原慎太郎東京都知事
 

 ・『日本経済新聞』2000年8月24日は,9月下旬,北京で開催される第6回世界大都市サミット会議に,石原慎太郎東京都知事が出席しないみとおしであることを報道した。その理由は,同時期に定例都議会の開催が予定されているためだという。

 ・しかし,同サミットは鈴木俊一元都知事が開催を提唱したもので,都知事の欠席は前例がない。そのため,東京都は副知事などの代理出席を検討しているが,人選に頭を悩ませている。

 ・世界大都市サミット会議は,大都市の首長があつまって都市政策について話しあう目的をもち,1985年に東京で1回めの会議をひらいて以来,3年後ごとに世界各地で会議を開催している。ベルリン,カイロ,モスクワ,ニューヨーク,パリなど計31都市が参加しており,今年のばあい,9月27日から30日まで開かれる今回の会議には,うち24都市が出席は予定している。

 ・都議会の日程と同サミットの日程が重なるのははじめてであり,東京都は,代理出席の人選に「議会とのかねあいもあり苦慮している」という。石原知事は昨年4月以来,中国政府を批判する発言をくりかえしており,欠席が決まれば,東京都と姉妹友好都市提携している北京との関係にさらに影響を与えるのでは,と懸念する声も出ている(以上『日本経済新聞』同上より)

 ・筆者は,台湾〔中華民国〕の関係であれば喜んで出席してきた石原慎太郎ではあっても,東京都知事として,中国や北朝鮮,韓国などを正式訪問できる度胸があるかどうか疑問だと指摘した。石原慎太郎なるこの人物,けっこう精神的に小心者であり,人間としての「器の度量」もたかがしれていることは,識者の指摘にもあったとおりである。

 ・東京都にとっては,非常に重要な〈外交〉業務といえる世界大都市サミット会議である。この会議はかつて,東京都みずからが提唱し,これまで開催されてきた。だから,東京都知事が欠席することはなかった。

 ・世界大都市サミット会議への出席は,世界に冠たる大都市東京を代表する知事のだいじな仕事である。都議会の開催期間中であろうがなかろうが,儀礼的にちょっと顔を出すだけでも,1日〔数時間〕でもよいから出席するのが,最低限の筋ではないか。そして,各国主要都市・代表たちとの友好関係を3年ぶりに暖める,よい機会とすべきではないか。各国大都市の首長たちにこのさい,日本国東京都の代表=顔としての誠意をみせたほうが得策ではないか。

 ・前段に「3年ぶり」という表現を出したが,3年まえ東京都知事は青島幸男であった。その後任が石原慎太郎都知事である。しかし,都知事を誰がやっていようとも,その「3年ぶり」に開催される世界大都市サミット会議に参加して,国際姉妹都市間における友好関係をさらに深めるため本来の職務を執行することは,大いに奨励されるべきであって,絶対的な理由もなく欠席するのは好ましくない。

 ・東京都の知事であるのだが,この人ときおり,一国の元首であるのかと錯覚を与える発言が多い。それならば,「日本=東京の代表者」としてもっと外交感覚を研ぎすまし,政治家としての行動を国内外にむけてより慎重におこなうべきではないか。

 ・石原慎太郎が東京都知事として言動するとき,世界中の目がいやおうなしに注がれている事実に留意すべきである。

 ・以上の意見は,どの国が好きでだとか嫌いだとかいった〈石原慎太郎自身の個人的な〉問題とは,ひとまず無関係にいわれるべきものである。もっとも,そういう「国際会議」がお気に召さないのであれば,東京都の首長である石原慎太郎の考えで,世界大都市サミット会議そのものを解消させるようにもっていけばよいのでは……。あるいは,東京都はもうこれから参加しないとかいえば,どうか……。

 ・ともかく今回,都知事にとっての公務事項といえる世界大都市サミット会議の参加を,都議会日程中という事由をつけて欠席できそうなのは,石原慎太郎にとっては〈もっけの幸い〉かもしれない。もしそうでなければ,つまり,都議会日程など都合悪いことがない状態で,同サミット出欠の判断を迫られたとしたら,例によって「オレは中国が嫌いだから北京にいかない」などとまた,物議をかもしだす幼児的な内弁慶の!発言をしかねないからである。
 
 ・地方自治体を代表する政治家とはいえ,東京都という世界の大都市の立場から元鈴木俊一都知事が,世界大都市サミットという「国際会議」を創意し,実現させたのであろう。したがって今回も,万難を排してでも出席するというのが,東京の「都知事の〔誰であっても〕責務」である。このように考えるのがまともであり,まっとうな感覚での対処だと思うが,どうであろうか。

【以上,2000年8月24日 脱稿】


 6) アジア大都市ネットワークの提唱21
 

 ・第6回世界大都市サミット会議〔2000年9月下旬に北京で開催予定〕に石原東京都知事が欠席するとの新聞記事が出てしばらくすると,こんどは「アジア大都市ネットワーク21」の提唱を,石原がおこなったとの記事が出た(以下『朝日新聞』2000年8月29日朝刊参照)

 ・この「アジア大都市ネットワーク21」の会合は,石原都知事自身が打ちだした都市外交の目玉であって,イデオロギーや宗教などの問題を超え,観念でなく,ものづくりなどをつうじてアジアの大都市が連携し,国を動かすとともに,欧米に対抗するネットワークをつくることが目的だといわれている。

 ・アジア大都市ネットワーク21は,具体的にいうと,アジア地域大都市による都市問題や経済,文化面などの協力態勢づくりを提唱する東京都など4都市〔クアラルンプール市,デリー市,ソウル市〕の首長による会合であり,8月28日,マレーシア・クアラルンプール市ではじめて開催される。

 ・石原はさらに,新たに北京市,ジャカルタ市,バンコク市,シンガポール市,マニラ市,ヤンゴン市,ハノイ市などの首長,そして「台湾の台北市」と「中国の香港市」の両都市首長にも参加を呼びかけている。

 ・台北市との交流ではすでに市民同士の交流があり,国と国との関係をかえていくためでもあり,台北市と香港市は「一国2体制の象徴的な存在だからいれた」ものだと,石原は説明している。

 ・以上,石原都知事による「アジア大都市ネットワーク21」会合の創設は,石原慎太郎という人物が,どのような〈観念〉で行動しようとしているか端的に示唆している。石原は,東京都の首長の立場から「国を動かし」「国と国との関係をかえていく」と説明していたが,なんのために〈国次元にかかわる問題〉に関して,都知事が直接そう行動しようとするのかはっきりした説明がない。

 ・要は,石原自身の基本的情念でもある「天の邪鬼」精神・「パフォーマンス好き」丸出しの,そうした国際的会合の提唱なのである。本心は多分,鈴木俊一元知事のつくった世界大都市サミット会議など無視したうえで,「オレなり」の政治理念をつらぬくための国際都市会議を,大向こうを唸らすつもりで提唱したものと推察される。

 ・以上の経過を観察すると,世界大都市サミット会議のほうを,できれば反故にしてしまい解消させる意向が石原にはある。そして,あらためて自分が提唱したアジア大都市ネットワーク21を,今後定着させたい意向でもある。

 ・さて,北京市に参加を求め,同時に台北市にも参加を求めている〈石原パフォーマンス流の発言〉は,ずいぶんとみえすいた,率直にいってそうとうにたわけた〈いいぶん〉である。中華人民共和国は,2つの中国を絶対に認めない政治原則を堅持している。もし,台北市が参加するとしたら,中国首都の北京市首長がその会合に参加などするわけがないではないか〔この点はその後の進捗があったので,近いうちに再論したい〕

 ・12億もの人口をもつ国の首都〔大都市〕の代表者がこない会合は,アジアにおける国際会議として〈画竜点睛を欠く〉ものになる。

 ・どうせそうしたことは百も承知のうえで,新しい会合には,北京市とともに台北市にも「参加を求める」とぶち上げているところはまさに,この人に特有の「クセの悪い作為」的な言動である。さらに,香港市にも合わせて参加を求めているというにいたっては,悪乗りの脱線行為,中国に対する政治的な挑発行為,それもあいわらずの幼児的稚戯(駄々)である。

 ・石原は都知事の分際でなにゆえ,国際的次元の政治外交を荒立たせるようなお節介をしようとするのか。もっともこの人,そういうことをもうやりたくてうずうずしているから始末に悪い。あいかわらず一生懸命〈悪ガキ〉ぶりを発揮したいのである。今年で68歳にもなる人なのに……。

 ・みんなで会合をひらきましょうと誘いをかけたほうが,如上のような底意地悪い意図を相手国都市にちらつかせているようでは,今後におけるその会合の成否はかなりあやしい。石原慎太郎の人物評価も,ますます低下するばかりではないか。「三国人」発言以来,アジア諸国がこの人を見る目はきびしくなっている。

 ・この人が地方自治体の首長としておこなおうとするアジア国際外交の問題点は,a)個人的な好悪の感情むき出しであること,b)アメリカ〔欧米〕への対抗意識過剰で冷静な姿勢に欠けること,c)自身が一国の元首だと勘違いしていること,などにまとめられる。これら問題点は,世界的次元で政治外交をなそうとするさいに決定的にマイナス要因である。

 ・「アジア大都市ネットワーク21」会合の目的は,上記のように,「イデオロギーや宗教などの問題を超え,観念でなく,ものづくりなどをつうじてアジアの大都市が連携し,国を動かすとともに,欧米に対抗するネットワークをつくること」だとされているが,一定の「イデオロギーや宗教,観念,欧米コンプレックス持ち主」である石原慎太郎のためであるならば,ぜひとも必要な会合であるかもしれない。けれども,ほかのアジア諸国の首長にとって,それほど切実でも有意義でもないと思われる。

 ・もっとも,自分の「それ」=イデオロギーや観念をかえるつもりなど,これぽっちもない人物が,「それ」をかえるための会議を開催するよう提唱し,実際に開催されるのであれば,その成果のほどはタカがしれている,というものである。自分自身をかえる気持まったくないのに,そのような会合をひらくというところが,そもそもおかしい。この人はきっと,他人の「それ」だけはかえるようにせまるのであろう……。面妖なことである。

 ・「アジア大都市ネットワーク21」会合に参加した韓国のソウル市は,朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の平壌にも参加をよびかけてはとの意見を出したが,今後の検討課題となった。石原の心づもりでは,北朝鮮の同ネットワークへの参加など考えてもみたくない「課題」と思われる。

 ・さて,「アジア大都市ネットワーク21」会合に出席した石原慎太郎都知事は,現地のプールで遊泳〔ひと泳ぎ〕したと報道されている。時あたかも,伊豆諸島〔=東京都〕で火山性群発地震および噴火などの被害がつづいている状況であり,ここ2〜3日〔8月28〜30日〕は,島民が本格的に東京に避難する事態にもなって,三宅島など各島は災害対策に追われている。その騒ぎの最中に東京都知事である石原は,自分の提唱,開催した国際会議に出席している。

 ・「現在の都政」と国際会合はどっちがより大事なのか。もしも,国際会議中に伊豆諸島の災害事態に急激な変化がおきたりしたとき,都知事はどのように対処するつもりか。『国家危機管理』問題については一家言あるはずのお方であろうから,すでにその解答は用意済みと拝察する。

 ・環境長官を務めていた時期,熊本県に出むいていた石原が,陳情にきた水俣病被害者たちの相手をせずゴルフにいった話は有名である。ゴルフ場のコースに出てやるゴルフは,夜やるものではない。

 ・環境庁長官時代の石原慎太郎に関連して,環境破壊庁〔長官〕と揶揄したことばがのこっている。

 ・鼻持ちならないエリート意識,そのわりには高貴な〔つもりの〕者にともなうべき責務感に欠ける言動,お坊ちゃん育ち気分のワガママに任せて頻発させる差別的発言など,この石原慎太郎という人物に都政を委ねた都民の判断にまちがいはなかったのか,もう一度よく考えてみる必要がある。

 ・もっとも,1999年4月都知事選挙で石原がえた得票率〔東京都民有権者全体数に対する率〕は,前知事青島幸男18.4%)のときより低く,17.5%だった。候補者乱立の間隙をぬって運よく当選できた現知事なのである。本多勝一は,石原当選は「石原指揮の小ずるくて卑劣な策戦によるものである」と,一刀両断である(本多勝一『石原慎太郎の人生−貧困なる精神N集−』朝日新聞社,110頁)

【以上,2000年8月29〜30日 脱稿】


 7) 三宅島噴火災害と石原都知事
 

 ・さて,東京都知事石原慎太郎が,みずから提唱し開催した「アジア大都市ネットワーク21」会合に出席しているあいだ,伊豆諸島群発地震の原因〈マグマ活動・火山噴火〉の被害をうけている三宅島〔三宅村〕に関しては,つぎのような経過があった(以下『朝日新聞』2000年9月1日朝刊「天声人語」欄参照)

 ・8月25日の朝日新聞「天声人語」欄は,三宅島の人たちが,雄山の噴火活動活発化にともなう危険,とくに噴石の落下から身を守るためのヘルメットが至急ほしいと切望している,と書いた。そのヘルメット:3千8百個は,8月31日朝の定期便で三宅島に届けられ,村役場の職員が早速避難所をまわって島民に配布をはじめた。

 ・そのヘルメット3千8百個は,イトーヨーカ堂グループが寄付したものである。同社によれば,「天声人語」欄を読んだ鈴木敬文社長が決断したのだという。同グループの全国各地スーパーにそれだけのヘルメットの在庫はなかったが,八方手をつくし,結局,茨城県内のメーカーに注文し,メーカーは3晩徹夜して用意し,30日夜東京・竹芝桟橋を出る船になんとか間に合ったのだという。

 ・東京都は25日,三宅「村の皆様へ」と題したビラを島内全戸にくばり,〈噴石への当面の対策として,村民全員にヘルメットを支給します〉と書いた。しかし,都災害対策本部の話では,約束はしたものの,ヘルメットをどうやって調達するか具体案はなかったのだという。だから,同じ日のイトーヨーカ堂グループの申し出は,渡りに船だった。

 ・ただし,噴石が大規模に降り,人びとが不安を募らせた18日の「大噴火」から,このときすでに1週間も経っていた。ヘルメットの到着は,さらに1週間後になった。都立秋川高校に集団疎開した小中高学校生をふくめ,疲れはてた2千数百人が島をはなれたあとだった。

 ・この例にかぎらないが,都の対策はとかく後手にまわっているのでないか。島の人びとの実感と行政のうけとめかたとは,かなりのズレがあるようである。

 ・さあ,いよいよ明日〔9月2日〕,石原慎太郎都知事は三宅島などを視察する予定である。これも「大噴火」以来はじめてである。

 ・以上の話,ヘルメット3千8百個調達の指揮をし実現させたのは,大手スーパーグループの統帥であって,当局の最高責任者である都知事石原慎太郎ではなかった。しかもその間,この知事は持ち場をはなれて国際会議に出席していた。

 ・東京都民数千人の生命が危険にさらされている時であり,島民が自分たちの生命を守るためのヘルメットがほしいといっていた声をあとにして,石原都知事は国際会議へとしゃれこんで出かけていったのである。ふつうの政治家的な感覚というか,したがうべき行動原理で判断するとしたら,今回開催の国際会議には,他国都市からの出席者にはまことに申しわけないが,災害「緊急事態のためキャンセルする」のが当然である。

 ・石原慎太郎知事がこのたび,都行政の最高管理者としてしめした行動パターンは,この人の本質をうかがわせるに十分である。要は,オレ個人のやりたいことを優先し,そのほかはあとまわしとするやりかたが顕著である。こういうトンチンカンな,公務における優先順位のみわけのつかない,また「公−私」混同ならぬ「公−公」混同的な姿勢は,けっして政治家向きとはいえないこの人の資質をあらわにしている。

 ・石原慎太郎は国会議員を25年間勤めてきたが,任職中の実質的成果がいかほどであったかを想起すれば,東京都知事としての成果も期待薄ではないか。せめてのところ,反都民的な行動をしてほしくないものと願うばかりである〔こちらの成果はあがりつつあるが〕。この知事さん,一期だけで願い下げである。

 ・一言でいってこの都知事は,個人的な好みで行動する傾向が強く,公人としての立場に〈私的な好悪の基準〉を無原則にもちこんでいる。知事として当然の,いいかえれば,都民に選ばれた代表としてなすべきことがなんであるのか,よく認識できていない。つまりこの人は,都民の必要と全然異なった個人的な嗜好にもとづく行動基準を行政公務にもちこんでいる。もはや,この知事に対しては,リコールを要求すべき時期かもしれない。

 ・ところで,石原慎太郎都知事は,イトーヨーカ堂鈴木敬文社長に,ヘルメット寄付の件についてもう「お礼をいったのかな?」

【以上,2000年9月1日 脱稿】


 
 ・国際会議〔8月28〜31日,マレーシア・クアラルンプール〕から帰国した石原都知事は,2000年9月1日,三宅島災害に関して「自主避難」から「全島避難」へと大きく方針を転換した。知事いわく,これは「ずーと前から想定していた」ことである,と。その決定的な理由は,火山噴火予知連絡会が出した見解:「強い火砕流の恐れ」にあると説明した(以下『朝日新聞』2000年9月2日朝刊参照)

 ・もっとも,石原が「ずーと前から想定していた」こと,つまり,これまで頭のなかをいつもいっぱいにしていたことは,むしろ,「1年もまえから決めたこと」である『2000年9月3日に東京都が予定の〈大がかりな防災訓練〉』であった。

 ・「三宅島が災害でたいへんなときに,そのような災害訓練をするのは理解できない」との批判が,当然出ていた。これに対して石原は,「ずーとまえから想定していた」のが,三宅島住民の「全島避難」であると答えた。だが,またそれよりももっと「ずーとまえから想定していた」のが「9月3日に東京都が予定の〈大がかりな防災訓練〉」であったから,本当のところ,石原の脳細胞中に充満している関連事項は,その〈防災訓練〉のことばかりだったのである。

 ・東京都庁防災センター本部は〔本部長はもちろん東京都知事〕いままで,火山噴火予知連絡会の見解を「ずーと」様子見してきた。すなわち,三宅島災害という実際の災害よりも,1年まえから決めていたとする〈大がかりな防災訓練〉−−東京直下で大地震を想定し,陸海空の各自衛隊約7千人を動員するそれ−−に,もっぱら気をとられていた石原都知事の意向〔楽しみ?〕のほうを重くあつかってきたのである。

 ・正直いって心底で石原都知事は,三宅島の火山災害を,ずいぶんまずい時期におきてしまった自然災害だと思っているはずである。

 ・要するに,石原の感覚にしたがうと「主は災害訓練,従は自然災害」。災害訓練って,いったい,なんのためにやるものなのか? したがって,よく考えてみればわかるように,それこそ本末転倒である。9月1日関連にこだわるのもいいが,たとえば,〈東京都〉三宅島〔三宅村〕の火山災害を理由に東京都の災害訓練を何ヶ月か延長したとすると,なにか決定的な不都合でもおきるのかと問いたい。

 ・現に目のまえで自然災害がおきて,それも2ヶ月以上もつづいており〔9月3日現在で〕,生命の危険にさらされていた何千人もの島民が避難する事態にまでいたった。それなのに,1年まえに決めた災害訓練だからこれをやめるわけにいかないとする都知事の姿勢は,この人物に特有であるワガママあるいは独りよがりの精神的気分を,より明確に具現している。

 ・石原慎太郎応援団の1人,佐々淳行〔元内閣安全保障室長(警察庁に長く勤務)〕は,「都知事の決断時期はよかった」と褒めあげていた。危機管理の専門家である佐々淳行が,三宅島火山災害のこれまで全期間をとおして観察するばあい,石原知事の行動,とくにその間,国際会議に海外出席していた事実〔海外出張帰国翌日9月1日に島民避難の指示〕をどう評価するのか聞いてみたい。そもそも,今回の災害の状況に関していえば,現場第1の方針に徹底し行動すべきであることは,警察関係でも地方自治体の行政最高責任者でもかわりないのでは?

 ・このたびにおける伊豆諸島の火山活動は,不幸にも死者の被害を出している〔7月1日神津島1名〕。自然災害を相手のことであるから,もしも,石原が海外出張中にまた死者が出るような災害の激化などおきていたら,都知事の進退問題にもなりかねなかった。

 ・以上のような意味で,またいろいろな意味でも危険な人物,いいかえれば,ミニ×ミニ版ヒトラー石原慎太郎の真骨頂は,今回の行動軌跡に端的に表現されている。→公人にもかかわらず,自分の勝手・気分・都合を最優先する人物。

 ・なかんずく,石原の潜在意識においては,東京都の〈大がかりな防災訓練〉にくらべれば三宅島の火山噴火など,それはそれは「ずーと」ちいさい問題なのである。
 
 ・夕刊〔『朝日新聞』2000年9月2日〕をみたら,第1面にこういう記事である。『あす都防災訓練−防衛庁内にも賛否−「三宅島避難の真まただ中」−自衛隊員空前の7100人参加−知事主導−指揮権・連携は?』

 ・前段まで筆者の主張を考えるために,この夕刊の記事を適当に引用しよう。見出し冒頭にかかげられた文章は,全文を参照する。

  ・見出し冒頭の文章

 ◆伊豆諸島・三宅島の噴火災害が深刻さを増すなか,東京都は3日,総合防災訓練「ビックレスキュー東京2000」を実施する。石原慎太郎知事が意欲を燃やした都独自の訓練で,空前の約7千7百人の自衛隊員を動員,政府も巻きこんだ大がかりなものだ。都心での大規模災害に備えた「大事な訓練」との位置づけだが,自衛隊を「陸海軍」とよび,「三国人」発言で物議を醸した石原知事主導の訓練に,防衛庁さえ賛否の声が交錯している。

・都議会で都知事発言

 ◆「大都市東京を舞台に都政史上,最大規模の訓練を実施いたします」

・どういう訓練内容か  ◆実現しなかったが,知事は自衛隊のパラシュート降下訓練をしたい,といった。   【疑問】なんのためにパラシュート部隊が災害訓練に必要となるのか? パラシュート部隊の軍事的機能はなにか?
 ◆ヘリコプターによる編隊飛行は,大部分が立川基地から飛び立って,知事が視察中の銀座海上の上空を飛び,もどるだけ。 【疑問】なんのために編隊飛行をさせるのか?
 ◆浮橋をかけて江戸川をわたる訓練は,参加者約1400人のうち自衛隊員以外は27人。 【疑問】住民のための災害訓練でなく,自衛隊員訓練のための軍事演習か?
 ◆政府はこの訓練で防衛庁の中央指揮所で関係閣僚会議をひらき,森 喜朗首相が指揮を執る。有事のさいは事実上の作戦本部となるこの部屋で,首相が指揮をとるのははじめて。 【疑問】ほとんど軍事作戦の感覚である。都の防災訓練なのに,日本国の首相まで登場する。もと青嵐会のメンバーであった石原と森である。まさか一緒にはしゃいでいるのではあるまいや。
 ◆自衛隊がどのような指揮系統で活動し,東京都とどう連携するのかが明らかでない。 【疑問】訓練の理念目的・手段方法などが曖昧模糊としており,なにか締まりもなく,関係機関の調整不足がみえみえである。
 ◆東京都と自衛隊の関係 【疑問】治安出動を想定したい都知事 v.s.多少は悪のり気味の自衛隊。
・どういう発想か  ◆今回の災害訓練のアイデア源は中曾根康弘元首相,それを石原が小渕恵三前首相にもちかけて同意をとりつけた。 【疑問】石原は銀座に戦車を走らせたいと考えていた。これはほとんど治安出動的発想である。災害訓練に「戦車がどう活かせるのか」未知数だから。
・自衛隊内部の反応  ★賛 成:この機会に自衛隊の必要性と実力を国民に理解してもらいたい。
 ★反 対:本来は国防が主である。どうも世間は災害派遣に目が奪われすぎている。
 ★疑 問:自衛隊が知事と一体と思われるのは困る。
 ★隊員の声:本当は,石原知事は自衛隊を指揮してみたいじゃないか。


 ・この表からたやすく推測できる石原慎太郎都知事の考えは,「不法滞在する三国人・外国人が騒擾をおこす」事態に備えるため,東京都なりの治安対策用訓練が災害出動の名目をもって必要というものである。〈戦争ごっこ〉に近い訓練をする内容であり,しかも,自衛隊装備をなるべく動員させて,まるで軍事的な示威ばかりをしたいかに映る。

 ・石原慎太郎はきっと,ある自衛隊員の反応〔「石原知事は自衛隊を指揮してみたい!」〕にしめされているように,「こういう〈軍事訓練〉をやってみたかったのだよ」と思っているにちがいない。都民のみなさん,あれもこれもすべて,われわれの血税ですぞ。災害対策用の訓練・演習にするなら,都民各方面からの参加も求め,また警察・消防や民間諸団体との打ち合わせ,要望も十分聞いてからやったほうが,よほど実効的ではないか。

 ・石原都知事は,アメリカ合衆国の各州が州兵を擁し,しかもその動員権限を知事がもっていることがうらやましいらしいのである。

【以上,2000年9月2日 脱稿】


 ・海外出張〔8月28〜31日,マレーシア・クアラルンプール「アジア大都市ネットワーク21」〕を終えて帰国した石原都知事は,国際会議のあいまを惜しんでホテルのプールで泳いだことを指摘され,「休憩中にプールにはいってなにが問題なんだ。東京には災害対策のために副知事も局長もいる」,「泳いでいても三宅島住民のことは考えている」と応えた。
 
 ・都知事が海外出張して不在でも,「災害対策のために副知事も局長も東京にいる態勢でことが済む」のなら,石原だろうがまた誰が知事だろうが,東京都の首長というものは不要である。最高責任者としての立場・地位がどういうものであり,そのはたすべき役割・任務はなんであるのか,その重責をもっとまっとうに認識して言動すべきである。

 ・つぎの文章は,三宅島から東京都あきる野市のある中学生の新聞投書である。


 石原慎太郎 様。 

 あなたは三宅島の噴火の最中,海外へいっていらしたそうですが,都知事の一番たいせつな仕事は都民の生命を守ること,都民が安心して生活できるようにすることでないでしょうか。海外へいって,お昼休みにプールで泳いでいたそうですが,三宅島の人たちにはお昼休みはないと思います。つねに恐怖と闘って,心も体も疲れきっているのではないでしょうか。

 私は,三宅島の小中高校生が避難してきた秋川高校の隣の中学校にかよっています。貸し出す机やイスをきれいにふいたり,秋川高校に運んだりしました。そこで親とはなれて暮らす子どもたちは,とても心細いと思います。東京都のトップなら,しっかりと陣頭指揮をとってほしいのです。

 今後,都心で大災害がおきたとき,あなたはどうするのでしょうか。私は不安に思っています。三宅島の人たちが,早く家族一緒に暮らせるようにしてください(『朝日新聞』2000年9月2日朝刊「声」)


 ・都知事としてあるべき姿勢を,一中学生に指摘,善導される石原慎太郎は,まことに情けない人である。つまり単純に考えると,石原という人物の精神構造〔=知的水準?〕は,中学生にもおよばない!

  ・こういう譬えが適切かもしれない。東京都消防庁の最高責任者が東京都内でおおきな火災がおき,まだ鎮火できないでいる最中に,予定していた海外出張があるからといって,現場の指揮を副官たちにまかせて出かけた。出張先では,日程の合間をみてプールで水に親しんだ。この行動を東京の住民から指摘されて,消防庁では大火災「現場の陣頭指揮は副官たちがとっているから大丈夫」,最高責任者が「プールで泳いでいても火事のことは考えている」からそれで間に合うなどと応えたら,ひんしゅくを買うだけでなく,進退問題にまで発展すること必至である。

 ・淡路‐神戸大震災のさい,当時首相だった村山富市社会党党首は,被災地を訪ねるのが遅れ,また政府の対応のまずさもあって,被災者たちからは不評を買った。一国の首相ですら,こうであるなら,都の島々で死者も出るようなおおきな地震が頻発し,火山活動で避難を余儀なくされる事態が発生しているのだから,東京都知事の海外出張はキャンセルして当然である。
 
 ・石原都知事は9月2日に三宅島・神津島・新島を訪問した。この予定について当人は,伊豆諸島へ「いってもどうなるものじゃないけれども,知事がいけばすこしは安心というか,得心してもらえると思う」と述べ,海外出張へ出かけた事由〔積極的!〕とは,かなりへだたりのある態度〔消極的!〕をしめしていた。それでも,同日三宅島を訪問し,火山噴火の被害状況を視察した石原知事は,記者会見の場ではそうとうショックをうけた様子をみせ,「ワナワナ」しながら答えている姿をテレビ・ニュースの画面をとおしてみせた。

 ・つまり,三宅島に直接視察に「いってどうにかなった」のは,都知事本人であった。いつもは人を軽侮したり,勝手にひらきなおったり,感情的につっぱったりすることの多いこの人であるけれども,そのわりには今回ずいぶん神妙な態度をみせ,同島の災害状況にいまさらながら驚いている表情だった。たしかこの人は,いま地震・火山災害がおきている地域を預かる最高責任者の東京都知事だったんですよね……。拙速もいいところ。

 ・まわりは,まずなによりも〈東京都知事〉そのものの仕事をしている人間=「石原慎太郎」をみているのであって,〈石原慎太郎という個人〉に都知事の仕事をしてもらっている面からみているのではない。世界有数の大都市東京の知事の職位にある人間である。いつも公的業務と私的行為の生活空間を完全に分離し,覚悟して行動せよなどと強制はできない。しかしこのところは,東京都「伊豆諸島」に地震・火山災害が頻発し,島民たちは不安にさいなまれ,生活がなりたたない状態がつづいているのである。島民たちは都民である。こういうときくらい臨時に,自分特有の観念構造を一時保留して,行動のしかたをかえたほうがよいのではないか。

 ・それにしても,今回における石原慎太郎東京都知事の行動パターンを,緊急事態時おける危機管理をひきうける地方自治体最高責任者=政治家のそれとして,真正面より明確に批判するマスコミ・言論機関が〔まだ〕ないことは不思議である。朝日新聞は,前出「声」欄に寄せられた中学生の意見を借り,都知事を婉曲に批判していたが,論説委員の1人くらいその点を容赦なく論難する者がいてもよいのではないか。

 ・東京都民もおとなしく,ものわかりのいい人たちばかりのようである。伊豆諸島の住民にとっては非常事態なのだから,しばらくのあいだ石原都知事は,勤務時間帯は都庁で毎日必らず執務し,そのほかの時間は公邸で,なにがあっても常時に対応できるような勤務・生活の態勢にあるべきだ,そうやって,緊急事態の新たな発生に備えて直ちに対応できる態勢をととのえておくべきだと,注文を出すことくらい当然ではないのか。それとも,東京都〔関東平野を中心とする〕の住民は,今回における伊豆諸島の地震・噴火災害は他人事なのか?

 ・当たりまえの感覚からいって,緊急時だというのに海外へ出張し,現地でプールで泳ぐのもまたよしといって憚らないような知事は,もともと選挙でえらぶできではなかった。筆者がここでいっていることは,知事が海外に出張していけないとか,そのさいプールで泳ぐのがいけないとかいっているのではない。世間の基本的な,最低限の常識すらない人物が東京都の知事をやっている,その〈薄ら寒さ〉を指摘しているのである。

 ・石原都知事は今年中に68歳になる人である。とてつもない重役をになっている人は,自分の健康にもとくに十分配慮しなければならない。プールにつかるのもいいが,自分の肉体に自信があるにしても旅先のことでもある,留意しすぎてなにも悪いことはない。


 →いつも辛口の筆者にしては,ここで,思いやりに富んだ忠告を,石原慎太郎にしてあげることになった。


 →もっとも〔本人の弁によれば〕副知事もいるし,局長もいるからそれほど心配することはなく,大丈夫か!


 →えっ,それじゃあ,都知事の存在意義はどこにあるのでしょうか?

【以上,2000年9月3日 脱稿】



 8) 災害訓練という名の兵隊ごっこ−自衛隊は慎太郎のオモチャか?
 

 ・2000年9月3日,都心直下の大地震を想定した東京都の総合防災訓練「ビックレスキュー東京2000」が,銀座の目抜き通りなど都内10会場でおこなわれた。被災者の救出・援護や情報連絡,物資輸送など大がかりな訓練をくりひろげた。石原知事は,ほかの都市でも同様の訓練の必要性を強調し,森 喜朗首相も「全国に広げたい」と応じた。一方で,都心の大量の自衛隊車両や航空機が出現した訓練には「軍事演習のようだ」と批判の声が上がった(以下『朝日新聞』2000年9月4日朝刊参照)

 ・なお念のため以前,森 喜朗〔現首相〕がつぎのような出任せを口にしたことを,ここで想起しておきたい。「横浜あたりで,韓国人〔新来(newcomer)1世〕の労働者2千人位が,銃をとって暴乱をおこす危険がある」といったそれである。

 ・最近日本にきた韓国人労働者〔とはいっても,韓国の各界・各層からは老若男女がたくさんきており,年齢層も幅広い〕のうち,とくに男性は兵役についてきたから銃のとりあつかいに慣れており,日本で集団的に組織化して暴動をおこす可能性がある,と森はいったのである。森は,自分の抱いている〈特種な恐怖感〉にもとづいて,上記のような「幻想にとらわれた妄言」を語ったのである。

 ・筆者は,その奇妙キテレツなる発想,それこそ噴飯ものの「森の発言」に吹き出すほかなかった。だが,いまごろになってもなお,過去:植民地時代に朝鮮や日本が日本人がやってきた記憶もあって,韓国・朝鮮人から「復讐されるのではないか!」と恐怖心を抱いているらしいのである。一般庶民にはもうそんな感覚はのこっていないと思うが,石原慎太郎と同様に森 喜朗は,1945年8月までの歴史的事実にかかわって,自分1人では拭いきれないほど重い〈トラウマ〉にとりつかれているかのようである。

 ・この森 喜朗が首相石原慎太郎が東京都知事ともに元青嵐界メンバーであることはさきに指摘した。このお二人さん,戦争ごっこをやりたくてうずうずしているかにも映る。日米安保条約下,この国の軍事事情は,アメリカさんに完全に首根っこを抑えられている,日本の首相および東京都知事にできることといえば,たかがしれている。ということで,このたび(9月3日),多額の税金〔国税および地方税〕を支出してとりおこなわれた《東京都の総合防災訓練「ビックレスキュー東京2000」》は,彼らにできるところの,せめてもの疑似軍事的なパフォーマンスであった。

 ・しかし,今回の大々的な演習は「防災訓練」であって「軍事演習」ではない。災害発生時における人命救助を第1の目的とする防災用の訓練である。ところが,都知事の当日あいさつがふるっている。不時の「外国からの侵犯にも,自分で国を守る気概を」といっている。このあいさつは,「災害発生時には外国から侵犯者がこの国に侵出してくる,あるいは不法に滞在している外国人たちが徒党を組んで騒擾をおこすから,これに備える態勢をふだんより内外に誇示しておかねばならない」とする,理解に苦しむ空想的な〈決めつけ〉である。

 ・地震発生危険地帯や火山活動の活発な地域をかかえる国々では,毎年その被害が絶えない。日本国内では,2000年3月北海道有珠山の火山性地震,1996年6月長崎県雲仙岳の噴火,1995年1月阪神淡路大地震,1993年7月北海道奥尻島の北海道南西沖地震などが記憶に生々しい。昨年〔1999年〕は,台湾やトルコで大地震がおきて甚大な被害を出した。

 ・石原の〈研ぎすました〉感覚では,もし東京都を中心とする関東・東海地域で関東大震災級の大地震が発生したばあい,とくに「来日(新来)外国人による騒擾」が巻きおこる可能性が高く,とりわけ治安維持に重大な問題が発生するとの「鋭い」状況判断である。

 ・しかし最近,世界各地でおきた大地震発生時において,その地域を統治する国家・地方地自体の治安や安寧を危殆においこむような騒乱や暴動がおきたという例はない。もちろん,地震発生にともなう混乱に乗じて各種犯罪が発生する余地がないわけではない。

 ・ところが石原は,東京都あたりで大地震が発生したら,まちがいなく「不法滞在する外国人」たちが中心になって〈騒擾〉をおこすと,きわめて粗雑な断定を下した。だから,地震災害発生時にそなえる演習訓練だけでなく,同時に,発生の予想される騒擾を鎮圧するための治安維持行動が必要だというのである。「災害救助訓練は治安維持軍の演習だ」というわけである。

 ・石原の考えは,現実の地震発生にまつわる諸問題に対する『妄想=幻覚』以外のなのものでもない。それはせいぜい,いままでぜひ自分がぜひやってみたかった,軍事演習「ごっこ」を実施したにすぎない。

 ・国家の安全保障・防衛問題は,都知事が直接関与すべき政治的課題ではない。自衛隊を統括し指揮権をもっている国家元首,森 喜朗の任務である。森 喜朗首相が,石原の企画した防災演習に今回のごときかたちで参与したところに,なんらかの怪しさ・不明朗さが漂っている。

 ・石原慎太郎東京都知事は,銀座に戦車はくりだせなかったが装甲車を走らせたり,対戦車攻撃ヘリコプターを飛ばさせたり,ホーバークラフトや輸送艦も自衛隊にくりだしてもらったりで,陸海空〔軍〕の自衛隊員7千1百名を動員できて,ともかくご満悦の体である。

 ・あげくのはてに石原のいうことがふるっている。今回の災害訓練に反発する勢力に対して「都民の冷笑を買っていた。みていて愉快だった」と話し,「でも助けますよ。同胞だから」とつけくわえた。→ここでもまた石原は,少数意見の立場を認めないとする非民主的な観念をさらけ出している。本ページ3)で,反対や少数の意見を表明する人を「ひねくれた奴もいる」と誹謗する発言をしていたことは言及した。いずれにしても,都民全員が石原の方針に賛成・支持だと勝手に決めている。そのように結論できる証拠はあるのか〔→この論点はあとでさらに関説する〕。
 
 ・ここで問わねばならない。東京都に大勢居住する在日「外国人」は「同胞」か「否」か,と。石原のことばどおりにうけとれば,災害発生時においては,同胞=日本人以外は助けてやらないというふうも聞こえる。この人,いったいなにを考えているのか。そもそもの問題であった「〔第〕三国人」発言にもどるほかないだろう。

 ・「〔第〕三国人」発言を問題にされたとき石原は,辞書の意味を拾い出し,ひからびた字義の意味をふりかざして現実的=歴史的含蓄のあることば「三国人」の真意をないがしろにする,非科学的・反文学的つまり偽小説家的な態度をあらわにしていた。だがこんどは,自分がその逆をやられる番である。

 ・辞書の意味をみると「同胞:どうほう,はらから」とは,祖国を同じにする同一の民族や人民のことである。前段の「同胞だから災害訓練に反対の奴〔日本人〕もそのときは助けてやる」という恩着せがましい論法は,実は二重の差別意識を内蔵する。そのひとつは,いうまでもなく外国人・外国籍人に対する直接の露骨な排外意識であり,もうひとつは,自説に反対意見を表明する自国人・日本国籍人に対するイヤガラセ的,イジメ的なそれである。いまや日本も,国境の壁が非常に低くなった国際化の地球世界を生きていかざるをえない時代である。それにももかかわらず,このせまい国でともに住んでいる多種多様な外国人たちの存在を頭から犯罪人視し,異民族・異人種質排除の偏狭な姿勢を自閉的しめすこの人物の,度しがたい人格破滅的な病状が哀れである。

 ・災害発生のさい現実的に期待できることだが,まちがいなく,各国からの救助部隊が日本にきて活動くれることを思えば,被害をもろにうけることになる地方自治体の首長が,同じ地域に生活する外国人を救助の対象に〔まさか!?〕いれないことを示唆した発言をしている。これは,冗談でもいうべきことではない。まさしくいま,外国人差別を地でいっているのが,この都知事である。

 ・自衛隊は軍隊である。国や人々の財産や生命を外敵から守るために存在する。本来,軍隊は災害救助むきには訓練されていない。消防庁の専門部署がもっとも適役である。ボランタリー組織の実績をみると,それこそばかにできない力量がある。警察庁はその方面の対策の専門家を擁しているのか。消防と警察の役割は雲泥の差がある。自衛隊がそれむきではないことは,神戸淡路地震のとき証明済みである。世界の各地で実際に災害がおきたとき,どのような性格の部隊がいちばん活躍したかは周知のことがらである。

 ・今回の災害訓練で本当に石原のやりたかったことは,誰かにむかっていうことかもうひとつ明快でない点もあるが,周囲に声高に威嚇,示威するかのように吠え立てている,自衛隊を利用した治安維持活動である。結局この人,災害救助とはべつのところをみすえているから,本末転倒もいいところである。

 ・つまるところ石原慎太郎は,自分の頭のなかでいままで考えてきた災害訓練を,軍事演習の形態で実施したつもりなのである。もっともそれでは,実際に災害がおきたとき,今回の訓練がどのくらい役にたつのか心配である。この人は,治安維持のためであれば人命救助のほうはほっとけ,などといいかねない感覚と発想である。災害訓練としてみて本当に必要な対策・活動はなにか,もっとよく考えておくべきではないか。

 ・今回,東京都の総合防災訓練「ビックレスキュー東京2000」は,石原慎太郎が自衛隊をオモチャにしたあげく,被災者救済を口実とした〈軍事演習のまねごと:お遊び〉だった。

 ・さて,この訓練を都民などはどう観察していたか。次表に一覧しておく。

【以上,2000年9月4日 脱稿】

=自衛隊大量参加訓練へのひとこと=
 ★ 筆者注記:黒字は反対青字はなお疑問あり,緑字は賛成,赤字は大いに賛成
 主 婦:山本久美子(32) ・自衛隊などふだんみられないのできてみた。全部お膳立てしてあり,実際にどれくらい役立つのでしょうか。
 災害ボランティア:上赤欣丕(59) ・地元の積み重ねと建設省や自衛隊の力が噛み合ってよかった。ただ実際には救助の多くが住民がになうだろう。
 とび職:中村 孝吉(55) ・金がかかるだろうけど,そごうや金融機関など,へんなところに税金をつかうよりいいよね。安心感にもつながる。
 高校1年生:篠田 明奈(15) ・自衛隊の大量動員ってすごいのかと思ったけど,トロトロ動いていた。でも,実際のときには役立つとは思う。
 車いすの会メンバー柴田 肇子(59) ・就寝中の地震だと足の不自由な私はベッドから動けず,自衛隊の活動に期待している。この機会はありがたい。
 団体職員:森外 米蔵(48) ・いまはもっと三宅島の災害対策をやったほうがいい。自衛隊のための訓練のようで,石原知事の意図がわからない。
 無 職:石川 久子(72) ・いざというとき足がすくんじゃ困るし,こんな訓練は必要。石原さんは頼りがいがあって,格好よかった。
 弁護士:田中 隆(49) ・消防や警察が中心になるべきなのに,自衛隊をまえに押しだしすぎ。治安維持の訓練かと疑念をもってしまう。
 教 諭:楠見 宏義(61) ・「三国人」はじめ,石原知事の一連の発言が気になる。この訓練をつうじて自衛隊はなにをするののか。
 町内会副会長:島 辰寿(72) ・自衛隊は心強いと実感。ただし若い人の参加がすくなく,実際の地震で年寄りばかりでなにができるか不安。
 
    ・さきに筆者は,東京都総合防災訓練「ビックレスキュー東京2000」における,石原知事の行動意識を真正面より批判する論説委員の1人くらい,朝日新聞にはいないのかと難詰した。今日〔9月5日〕の同紙朝刊は,実際にその訓練を取材した新聞記者たちが論評を書いている。それを紹介しよう(以下『朝日新聞』2000年9月5日朝刊)

 ・今回の防災訓練のなかで違和感があったのは,石原慎太郎都知事のはしゃぎぶりだった。気分が高揚したからだろうか,訓練の公表であえて「3軍」とよび自衛隊の隊員らをまえに,〔すでに関説した内容であるが〕「想定されているかもしれない外国からの侵犯に対しても,まず自らの力で自分を守るという気概をもたなければ,誰も本気で手を貸してくれない」,と強調した。

 ・防災訓練に場違いなだけでなく,都知事という立場も忘れたかのような発言に,防衛庁でも「石原さんは自衛隊の長じゃないだろう」といった声が聞こえた。それにくらべ訓練にとりくんだ人たちは,知事よりずっと冷静に映った。石原知事にとってその〈落差〉の修正も問題点である。

 ・筆者にいわせれば,このたび,自衛隊の大々的な参加もえて遂行できた東京都総合防災訓練「ビックレスキュー東京2000」は,石原慎太郎にとって非常にうれしく,興奮すべき成果である。この点は,石原の執筆した書物をひもといてみて,解釈しても得心のいくことである。国会議員時代はやりたくてもやれなかった〈こと〉を,都知事になってようやくなしとげらることができたゆえ,本人はものすごく高揚して当たりまえなのである。

 ・石原は,東京都知事に当選したのちすぐに,今回の防災害訓練計画を披露していた。石原は,災害訓練を〔本人の主観では疑似的には〕軍事演習として実施できたことでもあり,知事としての本懐をとげた気分と推察される。大いに彼がはしゃいだ理由がわかる。

 ・朝日新聞本社コラムニスト早野 透は,東京都総合防災訓練「ビックレスキュー東京2000」を「ビックレスキュー市街戦」と題した〈ポリティカ にっぽん〉欄を書いている。通常の災害対策用に準備した訓練内容はさておき,自衛隊の87式偵察警戒車は,いったいなにを偵察警戒するのか。ひょっとすると大地震に乗じて暴動をおこすのを偵察警戒するのか,と邪推する。いや邪推ではないかもしれない。

 ・かつて石原は,雑誌のインタビューのなかで「それは同時に,北朝鮮とか中国に対するある意味での威圧になる。やるときは日本はすごいことをやるなっている。だから,せめて実戦に近い演習をしたい。相手は災害でも,ここでやるのは市街戦ですよ」(『Voice』1999年8月号)といっていた。とはいっても元冠ではあるまいに,朝鮮半島や中国の軍隊が上陸してくるとは,石原も考えているわけではないだろう。府中刑務所収容の2千人のうち4百人は外国人」などといってもいたから,やはり不法入国の外国人の騒擾を想定しているのだろうか。

 ・石原知事が防災訓練に自衛隊を参加させたのは,必らずしも悪いことではない。ただし,それを外国への示威や在日外国人の問題とからめて,やたら力んでいるようにみえるのは滑稽である。防災は助け合いであり,市街戦でもなければ民族防衛戦でもない。阪神大震災のときだって外国人の多いところだったけれども,助け合いこそあれ暴動などはなかった。

 ・以上,早野の論説はまともな議論をしているが,今回おこなわれた防災訓練「ビックレスキュー東京2000」では,東京都知事でしかない石原慎太郎が,防衛庁長官あるいは自衛隊「3軍」参謀幕僚長会議の議長の気分になったつもりで,すっかり舞い上がっている風景をみさせられたほうは,大いに白けるほかなかった。前述のように,防衛庁関係者から「石原は自衛隊の長じゃないはずだ」といった声が上がったのは,当然である。

 ・防災訓練で舞い上がり,はしゃぐだけなら,まだいい。石原慎太郎都知事のこのところ言動は,生来の傲慢さを丸出しにしたものがめだつ。この人,自分の意にそわない者を指して,公然と「バカ」といい放つほど度胸がある。東京都が斡旋した三宅村の助役人事を村議会が否決した件に触れ,石原は「怒った。もう怒った,おまえらバカって。三宅島っていうのは本当にまとまりがない島だ」とまで,いってのけた。今回の防災訓練のおり,批判する人たちについては「わけもわからぬ左翼のバカどもが反対をとなえていたが,区民都民から孤立したかたちで冷笑を買っていた」と馬鹿よばわりし,性こりもなく罵倒をくりかえしていた。

 ・中国の古典『史記』や『十八史略』に登場する「馬と鹿」の話を譬えに出すまでもなく,石原は都庁最高の長に座する者でありながら,他者に対する口調,とくに自分の考えに和しない人びとに対するものは,品位に欠けると形容するよりもむしろ,「上に立つ者としての」資格を疑わせるに十分である。「高貴なる者にともなう義務感」など,完璧に無縁の人物である。

 ・すでに触れたようにこの人は,民主主義の原理で保証されている少数〔派〕の意見表明をする人々を「バカよばわり」した。→「ひねくれた奴もいる!」 とおとしめ,侮辱した。ところが,石原のすすめた助役人事を三宅村議会が否決された結果,

   【 村議会の多数〔派〕×石原慎太郎の少数〔派〕】

の関係になった。したがってこんどは攻守所をかえて,「バカ」=「ひねくれた奴」とよばれなければならないのは〈石原〉のほうであった。もっとも,この人にかかると,多数派にむかっても馬鹿呼ばわりする。要するに,自分の考えに同調しない奴はみな「バカ」だと,この人は一蹴しようとする。民主主義の基本精神からはるか遠くにいってしまった,ひどく「ひねくれた」人である。

 ・つぎのような対照にして,わかりやく考えてみよう。

   東京都における石原「支持」は多数派である→石原を支持しない人々(少数)はバカである。

   
三宅村における石原「反対」は多数派である。→石原に反対する人々(多数)はバカである。


 ・石原の立場に対しては,「賛成する多数派」=東京都民(?)と「反対する多数派」=三宅村民(!)があった。したがって,三宅島村議会においては〈少数派になった石原〉であるので,自分流の屁理屈を逆に当てはめれば,慎太郎はひねくれた奴である。また,石原は三宅村議会では孤立したかたちで冷笑を買った。いずれにしても,石原に反対した〈三宅村の多数派〉を指してまさか,「わけもわからぬ〔少数派?であるはずの〕左翼(?)のバカどもが反対をとなえていた」などといえない。

 ・三宅村の人々にいわせれば,村議会に勝手な助役候補をむりに押しつけようとした原がむしろ,理不尽な行為をする「馬鹿」だったのである。

 ・石原=自分に賛成するのは必らずしも多数の人々ではないし,また,反対する人が必らずしも少数であるわけでもない。そのときどきの事情によって,大勢は異なっている。他人の考えを聞く耳をもたない。自分の妄信する考え以外は,絶対許容しようとしない。唯我独尊,夜郎自大,無茶苦茶,支離滅裂,幼児性の抜けきれない粗暴な言動,粗野な考え。これが,もうすぐ古稀を迎えようとする人物=石原に顕著な特性である。しかも彼は,その成長過程をまだたどっているかのようにみえるから,始末に悪い。



 ・東京都知事と三宅村議会との関係については,後日談がある。以下,2000年12月16日の新聞報道に関する記述である。

 ・「三宅村議会は,東京都知事にバカと怒られた助役人事否決の件で,12月15日正副議長が辞職した」。三宅村議会は今年9月,都が斡旋した元都職員を助役とする人事案を否決,これをしった石原慎太郎都知事が「おまえらバカか」などと発言した出来事である(以下『朝日新聞』2000年12月16日朝刊参照)

 ・このホームページなどはすでに,自分の考えかたや立場にそぐわない発言や意見を「テロ」呼ばわりし決めつける,石原慎太郎流の〈悪質なクセ=常套手段〉を指摘した。実は,テロ的な語法を他者にむけてつかってきたのは,いつでも石原のほうであった。

 ・東京都と三宅村議会との力関係で観察するに,三宅村と東京「都との関係が悪化したままでは,都がきちんと三宅村の面倒をみてくれないのではないか」,「議長が辞めれば関係が修復されるのではないか」と,三宅村がわはひどく心配するのである。

 ・都知事という〈強者の立場〉に立った石原慎太郎が,地方行政管理上の力関係でみれば〈弱者の立場〉にある三宅村を恫喝,圧迫している構図が浮かぶ。

 ・ちなみに,テロ‐イズム(テロリズム:terrorism)に関する適切な解説は,佐渡龍己『テロリズムとは何か』(文春文庫,2000年9月)の参照を乞いたい。石原慎太郎による「テロ」ということばの用法は,自他の識別を弁えておらず,多少のお世辞をこめていっても,文学的デタラメに満ちたものである。

 ・terror の語源はラテン語 terreo であって,「脅かす・恐れさせる・不安にする」の意味のほかに,「脅かして追い払う・脅してやめさせる」である(佐渡,同書,47頁)。だから今回,東京都知事石原が三宅村議会におこなった言動はまさに,テロ的行為である。

【この段落のみ,2000年12月21日 脱稿】



 ・後日談(続き)。−−三宅村議会はその後,石原都知事の推薦した助役人事を採決しなおして可決し,うけいれた。石原のテロ的言動がみごとに,功を奏したわけである。

 ・石原慎太郎なる人物は,自身の口から「NO」ということばをくりだすのは大得意だが,他者から自分にむけて一言でも「NO」が意思表示されると,たちまち逆上し,頭に血が上ぼる。要するに,非常に身勝手,わがままで,極端に恣意的な人間なのである。



 ・石原慎太郎著の「NO」シリーズをつぎに紹介しよう(出版社はすべて光文社である)

 
共 著 者 題    名       発行年
 盛田 昭夫  「NO」と言える日本−新日米関係の方策− 1989年
 渡部 昇一・小川 知久   それでも「NO」と言える日本−日米間の根本問題− 1990年
 江藤  淳   断固「NO」と言える日本−戦後日米関係の総括− 1991年
 マハティール  「NO」と言えるアジア−対欧米への方策− 1994年
 一橋総合研究所   宣戦布告「NO」と言える日本経済−アメリカの金融奴隷からの解放− 1998年
 


 ・石原は,自分の意見・見解・立場・思想に反対の意志をしめす人々を,自身に対する〈宣戦布告〉者だみなす。石原に対する異見の表意は絶対禁物!  石原のまえに存在する他者は,独自の考えをもってはならず,石原の奴隷にならねばならない。民主主義の感覚でいうなら,そうした感覚=態度は〈ならず者〉のそれである。

 ・そろそろ結論を出そう。東京都知事の地位にある石原慎太郎は,本当は臆病で小心者,独善家で独りよがり,他民族・異人種を排他的に差別する主義を本位とする,作家・小説家出身の政治家である。東京都民は,こんなひどい人物を首長に選んでしまった。大失敗,大失策である。1999年4月都知事選挙には,もっとましな候補者が何人も立候補していた。国のみならず地方自治体の政治レベルでも,選挙民は自己の政治レベルを正直に反映した結果を出すというから,これでもしかたないと我慢すべきか。ともかく,こんどの都知事選挙では,よりまっとうな人を選ぼうではないか。これ以上おかしな行動をしめしたら,いい加減,リコール運動をおこすべきではないか。

 ・石原慎太郎は,こういう人間の典型である。
 −−人類にとって残念なことだが,世の中には平和より征服と戦争を好む指導者がたくさんいる。戦争は醜悪だから誰でも嫌うだろうというのは,人間に対する皮相なみかたである。現実には戦争が醜悪だからこそ,それに陶酔感を感じてしまう人間もすくなくない(中山 治『無節操な日本人』筑摩書房,2000年,60-61頁)

【以上,2000年9月5日 脱稿】


 9)「東京防災大訓練を嗤う」,姜 尚中による石原批評
 

 ・姜 尚中〔東京大学社会情報研究所教授〕は,戦前,信濃毎日新聞主筆であった桐生悠々の社説「関東防空大演習を嗤う」(昭和8年8月11日社説)に言及し,石原の脚本になる今回の東京都〈総合防災訓練「ビックレスキュー東京2000」〉を批評する。姜は,自衛隊には「救助や消化の能力はそれほどない」という自衛隊幹部のホンネを紹介した朝日新聞の記事にふれ,こう批評している(以下『朝日新聞』2000年9月15朝刊参照)

 ・いったん災害が発生したとき,自衛隊が災害救援部隊として,いったいどこまでなにをやってくれるのか。被災者の救出や通信・交通の回復,食糧や飲料水,日常必需品の確保や避難場所の設定,行方不明者の捜索や二次災害の防止,治安の維持など,緊急の課題に自衛隊はどこまで応えられるのか。そのためにどんな装備やノウハウをもっているのか。以上の能力について客観で詳細な資料を検討し,自衛隊の出動がどこまで必要なのか,しっかりと詰めた内容の記事がすくなかった。

 ・東京都の防災訓練で明らかなのは,阪神大震災の教訓がほとんど生かされていないことである。国籍をはじめとするさまざまな差異を越えて,都市の住民が自分たちの生命を「お互い様」でささえていくような「共生的な防災と救援」の備えがあってこそ,自衛隊の出動も生かされるのである。後者があまりにもおおきくなって,前者の影がうすくなってしまったことは,今後,禍根をのこすのではないか。

 ・防災の原点にもどり,具体的な資料を突きあわせて,自衛隊になにができて,なにができないか,しっかりと検証すべきである。国威発揚的な「国防意識」のデモンストレーションに防災訓練が活用されたとすれば,都市住民はたまったものではない。

 ・筆者はこう思う。

 a) 自衛隊は軍隊である。その本来の任務は,登場した敵に対する破砕・殲滅活動である。

 b) 災害発生時に備えて,そうした任務を有する国家の暴力的装置:軍隊組織をうまく活用〔転用〕するためには,わけても特段の配慮・工夫・留意が要求される。

 c) 軍隊式にととのえられた人的組織力および物的装備を,災害救援・援助活動に振りかえて有効につかおうとするのであれば,用意周到に仕立てられた〈とくべつに適切な手順・手続〉が事前に用意されていなければならない。

 ・東京都は今回,災害訓練を名目にかかげ,銀座にまで自衛隊:軍隊をくりださせた〔パレードさせた〕。結局,都知事石原の子ども心=「〈彼の〉自慰的な国威発揚」を満足させるため自衛隊:軍隊が悪用されたのである。災害訓練用に自衛隊を出動させたといっても,それは無意味どころか「百害あって一利なし」であった。

 ・東京都知事にわれわれの血税〔国税・地方税〕の無駄使いをさせてはならない。こんなやりかたでは,災害時に動員し利用できるはずの日本の軍隊:自衛隊が,いったいなんのために存在しているのかさえ,わからなくなるではないか。さきに,自衛隊は石原のオモチャではないといったのは,そういう事由からであった。「ビックレスキュー東京2000」は,いい大人に,法外に高価〔で非常に危険〕なオモチャを,タダでもてあそばせる機会を提供したにすぎない。

 ・とはいっても自衛隊は,災害発生時に指をくわえてじっとしているわけにいかない。しかし事実,神戸・淡路大震災が発生したさい自衛隊は,軍隊としての特性を効率的に発揮できなかった。いいかえれば,組織的で迅速な救援活動を実行できなかった。自衛隊は,災害現場における救援活動でも,消防署やレスキュー部隊にかなわなかった。なぜかというとそもそも,双方組織の本来の目的においておおきなちがいがあったからである。

 ・国の防衛〔そして緊急時の治安維持〕を第1の任務とするのが自衛隊である。だから,災害の発生時にいきなり,軍隊としての指令態勢のもとにある人的組織および物的装備を出動させろといわれ,そして,ただちに災害用に働けといわれても無理が多いのである。最近では,台風による大雨で決壊した堤防を再構築するとか,町々に流れこんだ土砂を除去するとかいった作業は,自衛隊員の大量動員が必ずしも有効とはかぎらなくなっている。

 ・自衛隊は,国の命令で「やれ」といわれたことをやるだけである。住民のことについては権限外である。住民に命令する権限は自衛隊にはない。どこの国の軍隊も,目的は「いかにさきに相手の国の軍隊をやっつけるか」である。軍隊=自衛隊の任務は,消防署のレスキュー部隊とは逆の方向にある(宮台真司・ほか『リアル国家論』教育史料出版会,2000年,「梅野正信」稿を参照)

      

 ・今回の防災訓練では空挺部隊の出動はなかったが,本来,この装備の軍隊がどのような任務をもっているか考えておく余地がある。

【以上,2000年9月17日 脱稿】


 10)  ハーメルンの笛吹/石原慎太郎都知事が戦車でやってきた
 

 ・東京都総合防災訓練「ビックレスキュー東京2000」を企画,実行した石原慎太郎都知事を〈ハーメルンの笛吹〉に譬えたのは,辛 淑玉シン・スゴ〕である(『週刊金曜日』2000年9月8日号参照)

 ・自衛隊は,災害訓練に戦車をくりだしたいと要望する石原知事の計画には乗らなかった。しかし,いったいなんのために役立つのかいまひとつわかりにくい形態で,軍事用の船舶〔揚陸用艦艇,ホーバークラフト〕や車両〔装甲車〕,航空機〔戦闘機・戦闘用ヘリコプター〕,などが防災演習に登場した。 

 ・ハーメルンの笛吹とはドイツの伝説である。「笛吹き男」は,町中のネズミを退治してくれたらお礼をあげるといわれて,得意の笛でネズミたちをおびきよせ,みごとに一掃することに成功した。ところが約束のお礼がもらえないので,こんどは町中の子どもたちを笛で誘いだし,つれだしたという。 

 ・辛 淑玉は,石原慎太郎という男を「笛吹き男」になぞらえている。そこで,厳密にみてなおうまく対応しにくい面もあるが,こういう関係づけができる。 

 a) 大東京に巣くった〈ネズミ〉は「不法入国の凶悪犯罪を犯している外国人」

 b) 東京都の〈子どもたち〉に相当するのは「東京都に住む外国人全般」 

 c) 東京都民である日本人は文字どおり「そのほかの日本人全体」

 d) もしかしたら,b)の〈子どもたち〉に相当する集団は「そのほか日本人全体」かもしれない。 

 ・結局,石原の究極的な意図は,c)「そのほかの日本人全体」を〈笛で誘いだし「どこかへ」つれだそう〉とする点にあるといえる。 

 ・どこへ? あえてここで,その答えを挙げねばならないとするならば,石原の想定しているはずの「スパルタ国」である,とでもしておく。断わっておくが,この国に「新来の外国人」はいない。 

 ・辛 淑玉は,石原慎太郎という男〔の男っぷり〕を,つぎのように辛く採点している。テレビにもよく出てくるこの辛なる女性,どうほどの女っぷりのオネエサンかはしらないが,そのいいぶんを聞こう。いいっぷりのほうは,なかなかいいオネエサンである。

 淑玉流「男の採点基準」 石原慎太郎に対する採点
 @ 嫉妬心がない。 × ★石原知事は0点。マイナス点をつけたいくらい。彼にはユーモアがない代わりに嫉妬と傲慢と差別があり,中途半端な妥協はするくせに,潔い謝罪はしない。そして,女はみんなバカで,自分のような「男らしい」男だけがリッパだと思っている。
 A ユーモアがある。 ×
 B 発想が長期的で宇宙観がある。 ×
 C よく歩く。 ×
 D 中途半端に妥協しない。 ×
 E なにをしても食っていける。 ×
 F 男の考えなんてたかがしれていると思っている。 ×


 ・この「採点表」は,正鵠を射ている。一見マッチョ風に映る石原慎太郎という男だが,実は,小心者で嫉妬心が強く,ワガママで唯我独尊,鼻持ちならない狷介な神経しかなく,しかもかぼそい思想(?)の持ち主なのである。筆者はすでにこの問題点をくわしく説明してきた。 

 ・さて,この「採点表」で満点をとれる自信のある男:♂女:♀〕はいますか? 

 ・他人のことはさておき,以下に,筆者自分を〔辛めに!〕採点してみよう。

【以上,2000年9月18日 脱稿】


    淑玉流「男の採点基準」と筆者自身に対する採点
 
   @ 嫉妬心がない。→ :そういう年齢になってしまいました。
 
   A ユーモアがある。:幼少のことからあったつもりです。
 
   B 発想が長期的で宇宙観がある。:多少そうだったが,もう枯れてきた。
 
   C よく歩く。×:座業が中心,一日1万歩にははるかに不足。
 
   D 中途半端に妥協しない。:商売柄,妥協しないで生きていける。
 
   E なにをしても食っていける。×:もう大学教員以外の仕事に自信なし。
 
   F 男の考えなんてたかがしれていると思っている。:賛成。だが〈女の考え〉もたかが知れている。



 11)  平気で嘘をつく男「石原慎太郎」:小説 1972年 と 発言 2000年

 ・石原慎太郎が平気で嘘をつく男である点を指摘した,あるウェッブ・ページの書きこみを紹介しよう(http://village.infoweb.ne.jp/~fwjh7128/genron/ishihara/data/1972kimitsu.htm. 2000年9月21日閲覧) 

  a) 石原慎太郎『機密報告』学芸書林,1972年発行は,「在日朝鮮人」に関する記述を,こうおこなっていた。 
 
   
「川崎の南部付近,つまり沿岸の工場地帯の一つ手前の国道付近にある北系の第三国人部落で,来月10日のデモに三国人同盟が参加する計画がある。それはこのところ毎度のことだが,あそこにいる幹部連中の過激派の,朴 鐘権という男と仲間数人が,当日,別派の決死隊をつのっている,という情報が入った。」 

  b) 2000年4月12日「三国人」発言後の釈明会見での石原慎太郎の発言は,こうであった。
 
 
 「だからですねこの前段がきちっと報道されれば,私はその「三国人」ということばのなかで,ずっと日本にいる韓国人や朝鮮人を指したとうけとられるわけはないのに,だれかがだな,意識的にカットしたんだ。「一犬虚をほえて万犬虚にほえる」みたいになっちゃったから。このへんでみな冷静になって,ことばの問題というならことばっていうものを,自分たちのことばを大事にして,認識してもらいたい。ただ,私はこういう問題起こしてしまったのだから,これからは心して,誤解招きやすいのだったのなら,ずっと在日の韓国・朝鮮人の人たちの心中察するにあまりありますからね。」


 ・1972年公表の小説中で石原慎太郎が,「北系の第三国人部落」=「在日朝鮮人が多く住んでいる川崎市の南部付近」と執筆するさい想定したのは,恐らく,同市桜本地域〔現桜本地域=いまの桜本1丁目,桜本2丁目,池上町(以前の桜本3丁目)〕である。

 ・戦争中,日本鋼管〔現;NKK京浜製鉄所〕で働かせるために連れてこられた朝鮮人労働者を主に,この桜本地域に住みついた在日韓国・朝鮮人は,日本人住民の合意と協力をえながら,コリアン・タウンなる「共生的な街づくり」に励んでいる。

 ・30年近くもまえに石原は,在日する韓国・朝鮮人〔および中国・台湾人〕民族集団に関する〈特定の知識〉を,小説=フィクションの素材に利用した。この事実は,本人が忘れるほど加齢してしまったのでなければ,当然いまもよく記憶しているはずである。

 ・とくに「北系の第三国人部落」というくだりは,北朝鮮〔朝鮮民主主義人民共和国〕に対する反感を,みごとというか,すなおに表わした創作上の表現である。

 ・川崎市桜本町は,日本〔国籍〕人と在日外国人とが混在居住している地域である。しかし,人口の絶対数でみれば,日本人のほうがよりたくさん住む地域である。それを,小説中のこととはいえ,川崎市桜本町を「○○第三国人=朝鮮人部落」と形容するのは,「誤解〔を〕招きやすい」というよりも〈誤解〉させることを意図したものだ,とうけとられて当然である。

 ・石原の修辞を借りて,さらに反批判しておこう。  

 イ)『私はその「三国人」ということばのなかで,ずっと日本にいる韓国人や朝鮮人を指したとうけとられるわけはない』という釈明は,だから,『大嘘』なのである。

 石原は従来,在日外国人,それも韓国・朝鮮人や中国・台湾人などもっぱら,アジア系の外国人を関することばであった「〔第〕三国人」を,新来の外国人〔ニューカマー,これもほとんどはアジア系を指すが〕もくわえた中身に仕立てなおして再び,「〔第〕三国人」なることばをつかったのである。
 
 もっとも石原は,筆者が指摘するほどスマートに〔英語本来の意味!〕,前段の観念操作をおこなっているわけではなく,いつもようにきわめて雑であって,ただ衝動的にいってのけたにすぎないが……。

 なかんずく石原は,意図的に,差別語:「〔第〕三国人」を拡大再生産させる発言をした。

 ロ)「一犬虚をほえて万犬虚にほえる」という石原の文句に譬えると,自身が,その「一犬」の役目を意識的にはたしていたことになる。

 ハ) 今回の「三国人」差別発言,「こういう問題〔を〕起こしてしまったのだから,これからは心して,誤解〔を〕招きやすいのだったのなら……〔今後気をつける〕」という石原の弁解も,〈真っ赤な嘘〉である。確信犯のみえすいた虚言であるから……。
 
 要するに,いまも昔も石原は,〔決して誤解などではなく〕「心して」〔故意に〕,在日する韓国・朝鮮人,中国・台湾人向けに「〔第〕三国人」なることばをつかいつづけてきた。

 ニ) 2000年4月12日,「〔第〕三国人」発言問題を弁明するため記者会見をしたときの,うろたえながらもなお,強気に気色ばんで答える石原の姿を,筆者は記憶している。

 筆者のここまで分析・解説を踏まえてもらえれば,今回の差別発言事件でしめした石原の釈明の姿勢は,けっして本心からのものではなく,一貫して「嘘・偽り」であることが判明する。自身の本心を〔石原の表現でいえば〕「意識的にカット」してはいけない。

 ホ) それゆえ,「私は……ずっと在日の韓国・朝鮮人の人たちの心中〔を〕察する」などと,空虚な〈いいわけ〉を口にするのは,それこそ〔もう一度,石原の表現でいえば「毎度の」〕野暮=ウソというものではないか。

 ・在日する外国人は,石原の本心など簡単にみぬいていることをお忘れなく……。

【以上,2000年9月21日 脱稿】


 ■「それにしても口汚い発言の多い石原慎太郎」
 

 ・2000年9月28日の新聞報道は,国立市の市立国立第2小学校で6月,3年生の授業でアニメーションビデオが上映され,保護者から「(反自衛隊)の偏向教育ではないか」などとする指摘があった。東京都教育委員会が国立市教育委員会に対し,保護者の信頼をそこなわないよう口頭で指導していたことが27日,都議会一般質問で明らかになった。

 ・石原都知事は答弁で,「国立の出来事は教育を手だてにした子どもに対するテロ,国民に対するテロとしかいいようがない」などと語った(『朝日新聞』2000年9月28日朝刊)

 ・「テロ」ということばをつかって,自分に意にそぐわないものを非難するやりかたは,尋常ではない。具体的になにをとらえて,上述の出来事を「テロ」だと解釈するのか,どうもよくわかりにくい点がある。

 ・「テロリスト」もしくは「テロ」とは,「要人を暗殺する者」や,「政見の異なる相手,とくに政府の高官や反対党の首領を暗殺したりして,自己の主張をとおそうとする行為〔を是認する主張〕である」を意味する。

 ・「それはテロだ」などといって,おおげさな表現をつかいむきになって,異見を有する人々を攻撃する石原の口調は,いまさらそれほど驚くべきものではない。というのは実は,石原が他者を非難・排斥するばあい頻繁に駆使してきたやりかたが,自身のテロ〔テロリスト〕的言動=ことばによる暴力行為であったからである。

 ・他者→異見者にテロ的に対面することしかしらない石原慎太郎は,当然,異見者→他者との対話がまともにできない。この人物は,テロリスト的心情をとおしてほか,他者=異見者をみることができない。そういう異常心理的気質を不幸にももっている。

 ・アジテーターの定評のある〔誉れ高い!〕石原が,他者をとらえていたずらに〈テロ〉だと決めつけ非難するのを聞いて,この人のオハコがまたはじまったと感じるのは,筆者1人だけでないだろう。


 「東京の盛り場を歩くと,石原氏に喝采を送り,〈あいつらは日本から出ていけ〉」と外国人への憎悪をむきだしにする人たちがすくなからずいる」(『朝日新聞』2000年9月24日朝刊「社説」)


 ・国際化の大いにすすんだこの地球上で,そんなことをわめいていたらかえって,日本以外の国・土地で日本人は生きていく場所がなくなるのではないか。現在,海外で永住あるいは居住している日本国籍人が,どのくらい存在するのかを心えての発言か?

 ・歴史を回顧すればわかることだが,上述『囲み中』にあったような,外国人に対する日本人の排斥発言=〈差別と偏見〉は,他人事ではなかった。すなわち,過去に日本人も外国で「この国から出ていけ!」などといわれてきた。この事実をよもや忘れたわけではあるまい。

【以上,2000年10月1日 脱稿】

 ・以上の記述から1年以上経ったある日,定例記者会見の席で石原都知事は,こういう乱暴ないいかたをした。

 ・東京都の石原慎太郎知事は,2001年11月9日の定例会見で,ホテル税の導入を片山善博鳥取県知事が批判したことに対して,「事のなんたるかを理解しないで,恥をかくのはてめえのほうだ」と激しくののしった。

 ・東京都のホテル税について,片山知事は「東京にきてほしくないメッセージだ」と論評し,全国的な会議を東京で開かないよう全国知事会に働きかけると発言していた。

 石原知事は,片山知事が自治省出身であることに触れ,「地方自治体に勝手なことをされて不愉快なんでしょう。(上京拒否のメッセージというが)全然そんなことない」とまくし立て,怒りが収まらない様子だった(『毎日新聞』2001年11月9日〔2001-11-09-20:04〕
 http://www12.mainichi.co.jp/news/search-news/837865/90ce8cb490T91be98Y-0-1.html
 )

【以上,2001年11月11日 補筆】


  ■ ハーバード大学教授 入江 昭 の 石原慎太郎に対するコメント(『朝日新聞』2000年11月25日朝刊)
 

 ・「石原慎太郎の三国人発言がありました。僕のような長いアメリカ暮らしからすれば,外からみた日本ということが気になります。石原氏も森〔喜朗〕氏も,日本人にだけわかる,日本人だけ喜ばせる発言をして,それが世界にどのような反響を与えるかいっさい考慮していない。島国根性というか,困ったものだと思いました」。

 ・「自分と違うもの,ノーマルでないものを排斥する,三国人発言にはそういう神経を感じますね。自分たちは清潔でほかは不潔だとか,かつての神国にはそんな意識がありました。忘れてほしくないのは,いつも世界のなかの日本であり,世界のなかで生きる日本ということです」。

【以上,2000年12月3日 脱稿】


 ■ 石原慎太郎が「都知事を8年やって日本を変える」といっていた問題性
 

 ・「石原慎太郎都知事は8年で日本を変える」。最近,新聞に載ったある雑誌の広告記事に謳われていた宣伝文句が,これである。はたして,そんなだいそれたことがこの人に実現できるか,それが都知事の本来の任務か疑問がある。

 ・石原慎太郎は1989年,当時ソニー会長だった盛田昭夫との共著『「NO」と言える日本−新日米関係の方策(カード)−』(光文社)を公刊した。20世紀を終えようとするこの時期,同書の力強く断定した〈かつての未来予測〉が完全な誤りであったことは,よりいっそう明らかである。

 ・そこで,佐和隆光『市場主義の終焉−日本経済をどうするのか−』(岩波書店,2000年)は,石原慎太郎流の軽率な発言を,こう批判している。
 
 1986年9月,中曽根康弘首相(当時)が「アメリカ人にはプエルトリコ人,メキシコ人,黒人などがいるから,アメリカ人の知識水準は高くない。それに引き換え日本は単一民族だから」という,驚くべき発言をした……。日本の半導体をアメリカに禁輸すれば,アメリカ経済の息の根が止まるはずだから,日米構造協議において日本政府は,はっきり「ノー」というべきであると書いたのは,盛田昭夫ソニー会長(当時)と石原慎太郎衆議院議員(当時)だった。アメリカ経済の衰退と日本経済の隆盛のゆえに,パックス・アメリカーナの時代は80年代をもって終わりを告げ,来るべき90年代はパックス・ジャポニカの時代になるであろう。等々。

 ことほど左様に,いまにして思えば,ほとんど狂気の沙汰としか思えないほどの自信過剰な言説が,政治家,経営者,エコノミスト,知識人らによって,まことしやかに語られていたのである。のみならず,80年代末,日本の有識者と自他ともに認められる方々が,的を外れたどころが,現に起きたこととまったく逆さまのことを,もっともらしく予言していたのである。これはまさしく,ガルブレスのいうユーフォリア(陶酔的熱狂)以外の何物でもない。

 ユーフォリアは,たんに経済への根拠なき楽観主義を蔓延させたのみならず,日本型システムへの根拠なき過信をも蔓延させたのである(佐和『市場主義の終焉』137-138頁)  


 ・1990年代がパックス・ジャポニカになるどころか,1990年を頂点にバブル経済の破綻した,その後における日本経済・社会は,気息奄々のまま21世紀に突きすすむほかない状況である。

 ・1990年代の日本が「うしなわれた10年」となってしまったこと,また,1980年代後半の経済バブルの形成,その崩壊から長期の経済不況のなかで,政府が経済運営においておおきな誤りをおかしたこと(日立総合計画研究所・白井 均ほか『電子政府』東洋経済新報社,2000年,7頁)を,きちんと回顧も反省もしようとしない関係者の1人である石原慎太郎に,「8年で日本を変える」などという資格はない。

 ・最低限の節操もなく,論理のまともな展開もない。それは〈愚者の妄想!〉ではないか。

 ・もちろん,都知事を務める人物であるから「8年で東京を変える」というのは,しごく当然である。しかしこの人は,日本の首相東京都知事との任務のちがいが全然わかっていないようだ。

 ・ともかく石原の慎ちゃん,都知事だが,すっかり首相の気分! ……ヨウッ,大将! 日本一!

【以上,2000年12月15日 脱稿】


  ■ ダボス会議〔世界賢人会議〕に出席した石原慎太郎の〈駄々っ子ぶり(『朝日新聞』2001年1月27・28日朝刊参照)
 

  ・世界賢人会議,いわゆるダボス会議は,スイスのダボスで開かれる世界経済フォーラム主催の年次会議であり,世界中の「政−官−財」界のエリートが集まる知的交流の場である。

 ・今年は,政治家として日本の首相 森 喜朗,民主党の鳩山由紀夫 代表,東京都の石原慎太郎知事なども参加し,それぞれに「日本のリーダーシップ」ぶりを世界にしめそうと躍起であった。

 ・森 喜朗首相は,賢人というより「県人」会の代表という雰囲気を醸しだし,鳩山由紀夫民主党代表は,英語力の不足のため質疑応答において詰まり気味の答弁となり,「日本語でやればいいのに」との声も漏れた。石原慎太郎都知事は例によって,世界を向こうにまわし,あいかわらず必至に挑発したいかのような弁論であった。

 ・石原の発言を紹介する。「グローバルスタンダード(世界標準)はアメリカンスタンダード(米国標準)ではない。それをしって,世界によき影響力を与えてほしい」。経済問題では,米国が国際通貨基金(IMF)をつうじて緊縮財政をせまったことをとりあげ,「米国は成長しかかった東アジアの経済を破壊した」と指摘し,「日本の低金利は米国の圧力で維持されている」とも語り,米国を批判した。

 ・安全保障問題では,「共和党政権の誕生で,台湾を軸にした日米安保の対応がこれから具体的にかわってくると思う。日本が責任をもって応えられることも必要」と述べた。
 
 ・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本人拉致問題にも言及し,「日本は自分の国民を守るために,ミサイルを搭載した艦船を配備すべきだ」などと語った。

 ・世界の賢人が集合する会議で,北朝鮮の日本人拉致〔北朝鮮は正式には認めない〕問題をとりあげるならば,戦争中日本がアジア諸国に与えた侵略・被害のすべて〔日本政府が正式に認めているもの〕もあらためて,演説の論題にされることも覚悟しなければならない。戦後50年以上たってもなお,日本の戦責問題が全面解決をみていないことは,ここ5〜6年の,日本とアジア諸国との関係を観察すれば理解できることである。

 ・また,日本の海上自衛隊の艦船にすでに搭載されているミサイル〔など諸装備〕は,どのような性能・価格であるか知悉しての発言か。あるいは,日本の自衛隊全体の軍事予算や,陸海空自衛隊の戦備・配置状態を具体的に踏まえての発言か。日米安保条約のもと日本の自衛隊は,アメリカ軍のお手伝いをするわき役的な存在・性格に纏足されている。

 ・要するに日本は,軍隊〔自衛隊〕にもっと予算をそそぎこみ,軍備を強化し,軍事大国になるべきである。そして,北朝鮮ごとき小国に舐められない強い国にすべきだ,こういうところに石原の意図:意気ごみがある。

 ・戦後日本の再軍備過程が周辺諸国のきびしい目をいまでも気にしなければならないのは,ドイツなどと比較するに日本がいまなお,戦争責任をまとも反省していない部分があると,アジア各国・人々にみられているからである。経済大国である日本の自衛隊の装備は,予算的つまり,実質的‐質的にはきわめて高い水準にある。実戦的な戦闘力において,いったい,どのくらいの破壊力をもっているかはさておき,そういえるのである。

 ・そういう事実認識を前提に話をしよう。日本の自衛艦に強力な〔北朝鮮を標的に狙える〕ミサイルを載せろと,石原慎太郎のようにいいはるとしたら,さらにこういっておかねばならないのではないか。北朝鮮には核兵器を開発しようとしてきた経過もある。それならば,経済力・技術力から判断してその力量が十分にある日本も,核兵器を開発してこれを保有し,有事のために備えねばならない,と。石原の論法を敷衍すると当然,こうなるほかないだろう。

 ・石原の発言を解釈していくにしたがい,広島市民や長崎市民にとってはむろん,日本国民全体〔世界で唯一(?)の核被爆国〕にとっても実は,日本人自身の神経を逆なでするような発言を,彼が平然と放っていることが理解できる。

 ・石原の政治・外交感覚は力による対決の論理しかない。カール・フォン・クラウゼビッツ著『戦争論』の軍事戦略論は,そんな単純なことはいっていない。最近の韓国・朝鮮事情にくわしいある人物の評価では,北朝鮮総書記 金 正日のほうがよほど,クラウゼビッツの主張にかなった政治姿勢を保持するとみなされている。これでは,子どものケンカにならないどころか,ケンカそのものにもならないのではないか。

 ・ダボス会議における石原の言動にもどろう。同会議で持論をまくしたてた石原は,他のパネリストとはかみあわず,ブラジル中央銀行総裁フラガ氏はたとえば,「石原のお話には,混同と誤解があるのでは」と反論をくわえた。このようなしだいがあったので,石原自身も不満だったのか,会議のあとの記者団に,

  「おれは もう セレモニーのような この会議には こない!

と,のたまう始末とあいなった。それなら,そんな会議にははじめから出なければよかったのでは

 ・またまた,石原の〈例のくせ・悪癖〉がはじまったという光景である。だがこの男,自分の思いどおりならないことがあるとすぐ,♂ のヒステリー=オステリーを引きおこし,毎度決まって子どものように駄々をこねる。国会議員を25年間勤めあげたのでこれを褒めてくれるという表彰式の日に,自分の引退を表明する機会をわざわざ選んだのは,それほど長い期間国会議員をやってきたにもかかわらず,これといった目立つ成果を挙げえなかった自分の〈ふがいない〉に対する,大根役者のへそ曲がり的な演技であった。それとも,そうやってせめて一度,目立ちたかったのか。

 ・それもこれも結局,聞きわけの悪い駄々っ子の,全然かわいくもないわがまま・恣意である。

 ・石原はダボス会議で,ただひとつ,おもしろいことをいった。

  IT革命をやるといった森首相を皮肉っていわく,

    「もし私が森なら,首相を辞めますよ」

  筆者も倣っていいたい。

    「もし私が石原なら,東京都知事を辞めますよ」

【以上,2001年1月28日 脱稿】


 ■ 他ハイエナ呼ばわりする石原慎太郎の〈品性〉(『朝日新聞』2001年3月17日朝刊,『日本経済新聞』同日参照)
 

 ・2001年3月16日の都議会予算特別委員会総括質疑で,共産党の体質について問われた石原慎太郎都知事は,「他人の獲物を横からさらうハイエナという下劣な獣によく似ているという感じがします」と答えた。

 ・その発言は,「都政を動かし都民のくらし守り,ねがい実現」の見出しをかかげ,ディーゼル車規制や大銀行課税を自党の成果として挙げた〈共産党のチラシ〉を公明党の都議がとりあげて,「全部うそ。都民をだます誇大宣伝だ」といって石原都知事に質問し,「共産党の体質についてどう考えるか」と尋ねたときのものである。

 ・事実として,共産党のそのチラシが公明党都議の指摘どおり問題点があったとしても,石原慎太郎のような「他党を獣:動物〔ハイエナ〕呼ばわりする」発言は,尋常ではない。その直後,石原都知事と都議会共産党とのあいだで批判・非難のやりとりがあったが,石原はさらに共産党に対して,「人間対人間なら泥棒とかうそつきというが,あえて公党だから文学的な表現をつかった」と開きなおり,ヤジと怒号につつまれた議場にむけて彼は,「キャーキャー鳴かないほうがいいよ」と応戦したという。

 ・筆者は,石原慎太郎がいかほど共産党を嫌っているかしらないが,天下の公党を人間集団あつかいせず,しかも,そうした態度を議会で平然と表明し,獣:動物に譬えて相手を罵倒する姿勢は〔→他者をバカにしきった口つき:これを「文学的な表現」だとのたまう!?〕,この都知事が人間として完全に失格であることを断定させるほかない。

 ・他党=政治集団を「ハイエナ」に譬えるのが,どうして「文学的な表現」なのか。この人はもう,文学者を自称する資格がない。まるで,子どものケンカでのいいぐさ,それも,幼稚園児のレベルである。「オマエのカアサン,デ・ベ・ソ」のたぐいである。もはや,ただ,石原の愚劣・低級さだけが,超一級品として光って映える光景ではないか!

 ・現在〔2001年3月〕日本の首相は,マスコミ関係で「バカ」とか「間抜け」とかさんざんこき下ろされており,雑誌の見出しにもたくさん踊っているそうした見出し〔筆致・形容〕は,みかけるだけでも気恥ずかしくなるのだが,東京都知事もそれに勝るとも劣らず〈下劣〉な品性〔表現力〕の持ち主とおみうけする。

 ・日本国および東京都の大恥ともいうべき,傲慢・驕慢・横柄な石原慎太郎であるが,日本の首相にしたい人物としての人気をみるとこの男,第2位・3位あたりに付けているというのだから恐れいる。庶民大衆のみなさん,こんな男を日本の宰相にさせたら,われわれごとき平凡な人間は「なに呼ばわり」されるかわかりませんぞ!  共産党の都議会議員集団を獣:動物呼ばわりするなら,われわれのようにちいさい,かぼそい,ささやかな存在なんかはきっと,虫ケラのように呼ぶよ,このマッチョマン。

 ・かりに,石原慎太郎という人物が日本の最高指導者になったら,近隣諸国とはむろんのこと,遠くの各国とも軋轢や紛争,ばあいによっては戦争すらおきかねない。この人の発言を聞き言動をみていると,そういう事態を望んでいるかのように振る舞っており,それでなおかつ,得意満面である。

 ・東京都の前知事は,国会議員を勤めていたときある首相のことを「財界の妾」呼ばわりし物議を醸したが,現都知事の言説はそんな生やさしい中身ではない。この人間は必死になって,自分の狂信する,いいかえれば創造したい不幸と不吉の種を,周囲〔日本だけでなく世界中〕に振りまこうとしている。彼は,自身の年齢のこと,つまり老い先短いこともあって,その言動はよりいっそうゆがめられ,いこじになっており,いうなればサタン的にならざるをえない。

 ・さらに,以上に関連する報道を毎日新聞にもインターネットで検索してみたら(2001年3月16日記事),こちらには,共産党を批判する石原知事が,「デマゴーグは政治につきもの」とか「民主主義の健全な発展のため」とかいう発言もしていたことがわかった。民主主義の認識や観念においておおきな欠落をみせる,また典型的なデマゴーグ〔群集心理を利用して大衆を扇動する政治家〕のこの人の発言と聞いて,あらためてびっくりさせられた。

【以上,2001年3月18日 脱稿】