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日本経営と人本主義企業論
−資本制会社思想論−

裴  富 吉

                             

“The Reality of Business Management in Japan versus the Wandering  Ideology of a Scholar :
ITAMI HIROYUKI's Academic Study on a Japanese Firm.” by  BAE Boo-Gil
                                                                                                                   


  『大阪産業大学経営論集』第3巻第1号,2001年10月20日掲載。
 本HP 2001年10月21日公表(用に改・補筆)。

 

 − も  く  じ −

 T は じ め に −人本主義企業論の問題性−
 U 人本主義のイデオロギー的虚偽性
 V 人本主義論の批判的検討
 W 伊丹敬之「新著」2000年2著の吟味 
    1)『経営の未来を見誤るな』2000年2月
     −伊丹説〈人本主義〉の自己擁護は可能か−
   2)『日本型コーポレートガバナンス』2000年12月
     −人本主義概念のとらえかた−
 X ま と め −経営思想としての虚実−


以上の本論につづき,

随時補説・追論している記述

ウェッブ版における「補 論」】

逐 次 増 殖 中

 
 
T はじめに −人本主義企業論の問題性−

 一橋大学商学部は,日本における経営学発祥の高等教育機関である。明治42〔1909〕年9月,その前身に当たる東京高等商業学校で,日本最初の経営学講義「商工経営」を上田貞次郎が開講する。上田貞次郎のもとで育った増地庸治郎,平井泰太郎はその後,一橋大学と神戸大学を隆盛させる経営学者である。

 一橋大学商学部〔当時東京商科大学〕はさらに,増地庸治郎に師事した経営学者たちを輩出する。上田貞次郎から数えて3代めに当たる俊英の代表格が,一橋経営学の三羽ガラスとよばれた山城 章・古川栄一・藻利重隆である。その次世代にもさらに,有為の経営学者が多く登場する。

 本稿がとりあげるその1人,経営学者伊丹敬之〔1945年3月生まれ〕は,筆者と近い年代であるが,斯学界において理論的な研究成果のみならず,実業界にむけた実践的な理論指針も披露してきた。

 伊丹敬之の話題作は,『人本主義企業−変わる経営 変わらぬ原理−』 (筑摩書房,1987年12月)である。本書は,日本の産業社会がバブル経済期の頂点に達して一挙に崩壊をはじめる数年まえに刊行された。

 本書の要点を手ぎわよく説明する文章を,まず紹介する。「従業員が資本を提供する株主よりも基本的に重要な意思決定を行う権利を有し,かつその企業の経済的な成果の分配を優先的に受ける権利を持つ状態を従業員主権ととらえ,従業員主権を保証する企業を人本主義企業と規定している」 1)

 そして,戦後構築された日本的経営のよさである人間尊重を再確認し,環境変化のもとでも不易なもの・変えてはいけないものを認める,という経営観に立っている 2)

 『人本主義企業』は公表直後,つぎのような論評をうけた。日本産業経済が高度に発展してきたがゆえに登壇した,当時の「日本的経営崩壊論に対する批判」であり,「激動する環境のなかで経営の具体的な制度は,変えるべき部分は当然出てくるが,原理は貫いた方がよいとして,戦後40年の企業経営の科学的精髄を理論化したのが人本主義なのである」 3)

 ところが,バブル経済が破綻しはじめたころ,人本主義企業論は日本の会社の実態をしらぬ学者の寝言である,と酷評された 4)

 最近では,人本主義は戦後における日本の会社本位主義を従業員本位と錯覚した考えかたである,と批判された 5)

 人本主義は結局,「1970年体制の終焉」,つまり「日本経済を破局に陥れた1970年体制(社会を固定化した安定のための装置)を即刻廃棄せよ!!」 6)と批難される対象となった。

 伊丹が最近公刊した新著,とくに『経営の未来を見誤るな−デジタル人本主義への道−』 (日本経済新聞社,2000年2月) 『日本型コーポレートガバナンス−従業員主権企業の論理と改革−』 (日本経済新聞社,2000年12月)は,「不易なもの・変えてはいけないもの」であるべき人本主義「論」をさらに検討し,その妥当性を追証しようとしている。

 伊丹「人本主義」は一時期,日本の経営者の期待・希望・想念に訴える〈経営思想〉を提唱できた。一橋大学商学部の教員伊丹敬之が研究をすすめていくさい,実業界との交流が理論の構想に多大な思想的影響を与えたものと思われる。その意味では,学者が実業界の実践的課題にどのようにかかわるべきか,〈経営思想上のきわどい問題性〉が示唆されている。

 本稿は,伊丹敬之「人本主義企業」論の根底に控えている〈経営学としての社会科学的イデオロギー性〉を,経営思想の問題とうけとめて討究しようとするものである。なお,本稿は,関連する筆者の学問構想「経営思想史」に立ちいらない 7)
 

【引用注記】

1) 森川英正『はじめての経営学』有斐閣,1998年,161頁。

2) 藤井光男・丸山惠也編著『現代日本経営史』ミネルヴァ書房,1991年,371頁。

3) 相良竜介「伊丹敬之『人本主義企業』,日本的経営全体像に迫る」『日本経済新聞』1988年1月24日,書評より。

4) 『朝日新聞』1990年10月7日朝刊「オン&オフ」欄,佐高 信「『当たり前』にも届かぬ会社」。

5) 奥村 宏『株式会社はどこへ行く』岩波書店,2000年,28頁。奥村は,一貫して伊丹説に批判をくわえてきた人物の1人である。

6) 原田 泰『1970年体制の終焉』東洋経済新報社,1998年,〈帯〉の宣伝文句より。

7) ひとまず,裴 富吉『経営学の生成〔増補版〕』白桃書房,1996年の参照を乞いたい。
 


 
U 人本主義のイデオロギー的虚偽性

 小山明宏(学習院大学経済学部,経営財務論専攻)は,雑誌『企業診断』2000年7月〔第47巻第7号〕の特集した「この経営学説は今でも有効か?」に, 「『人本主義』は敗れたか−因習的な『日本的経営論』の終焉−」を寄稿し,伊丹説に対して根本的な批判をくわえた 〔同稿は,「『人本主義』の終焉」『学習院大学経済論集』第37巻第3・4号,2001年1月に改筆掲載〕

 小山は,こう結論する。

 大いに貢献してくれるはずだった「人本主義」は,もはや従来のままでは使いものにならない。人本主義は敗れた。このコトバを使いつづけるのであれば,定義のしなおしが必要である。そうなると,もはや「人本主義」ではなくなる。それでも「デジタル人本主義」なる用語をつかいたいのであれば,それは「新・人本主義」とでも命名することになるのではないか。

 伊丹はさきに,新・人本主義=「デジタル人本主義で日本が再浮上できる可能性は高い」と主張していたが 1)小山はこのように,伊丹説「人本主義」に退場を申しわたしたにひとしい論評をくわえたのである。

 筆者はこう思う。

 修辞〈デジタル+人本主義〉の意図する方途が,情報化産業社会の進捗にともなって予見できるようすはみられない。「人本主義〔再生の可能性〕」のためのカンフル剤として,IT時代の〈デジタル〉ということばが活用できると考えるのは,筋ちがいである。だが,伊丹はともかく,「この国の経営のかたちの大本は,やはり人本主義である。それを守るべきである」と固執していた 2)

 さて,なにがなんでも世界中で一番=“the No.1 ”でないと気の済まないのが,アメリカ合衆国・アメリカ人の気質である。1970年代日本企業の「人本主義」(?!)によって劣勢を余儀なくされたアメリカが,1980年代にみせた臥薪嘗胆・捲土重来ぶりは,並たいていのもではなかった。

 アメリカ事情にくわしい徳山二郎は,こう回顧する。

 1980年代に日本に追い抜かれたと思ったアメリカは,MIT(マサチューセッツ工科大学)やヒューレット・パッカードのヤング社長のつくった委員会で,日本はどこか優れていたのかを研究し尽くし,アメリカ産業の再興を図った 3)

 1970年代後半,オイルショックと円高ショックを乗りきってから「世界に冠たる日本企業」という表現は,あたかも信仰のように普及した。「いいものを安くつくってどこが悪いのか」という実業人や批評家の意見が支配的であった 4)

 当時,「いいものを安くつくって〔売りまくって〕どこが悪いのか」と開きなおった会社の好例が,日産自動車である。

 しかし,1990年代日産自動車の経営危機は深刻化してゆき,回復のみこみも非常に困難となった。1999年,日産自動車と合併したフランスのルノー社は,日産自動車の経営苦境を克服し復活させるためにカルロス・ゴーンを新社長送りこみ,完全に欧米型の合理化・リストラを断行しはじめた。

 ニッサンの当面めざす目標は,再び「いいもの〔自動車〕を安くつくって」利益を確保し,業績を上げ,会社をよりよく存続させることである。それは,人本主義の復興などではなく,また従業員主権とも無関係であって,資本主義的営利原則の徹底である。

 日産自動車のホームページをのぞいてみると,つぎのように訴えている。

  ・1999年3月27日,日産自動車とフランスのルノーは,日産自動車の財務体質強化を図り,両社が互いに利益ある成長を達成するため,グローバル・パートナーシップに関する合意に調印した。

 ・1999年10月18日,全世界で継続的に利益を出し,成長し続けるための包括的な再建計画「日産リバイバル・プラン」を発表。事業の発展及び市場でのプレゼンスを高めて行くことを目指している 5)

 日産産自動車は1999年5月24日,見開き全面2頁をつかった広告を『日本経済新聞』に出した。この広告は,日産自動車株式会社COO〔最高執行責任者〕就任予定のカルロス・ゴーンと,同社長〔CEO最高経営責任者〕塙 義一の顔写真とをおおきく左右に配置し,主につぎのことばを謳っていた。

 “We Join Forces.  NISSAN   私たち日産はチカラを結集します”

 “21世紀のクルマを,日産から楽しくします。”

 1999年10月18日発表された,「日産リバイバル・プラン」にしめされた抜本的な再建策を具体的に, 表1「日産自動車の改革案」に紹介する。

 日産自動車はカルロス・ゴーン新社長のもと,会社の再建を具体的にどのように試みてきたか。昨今における日本経営の生産合理化・人員リストラなどの方法・実態は,1970年代「日本企業の経営」流のそれとは,いちじるしく様相を異ならせている。人本主義企業「論」が万能薬であるかのように思いこむ時代は,とっくの昔に過ぎさったのである。

 ちなみに,日産自動車の2001年春闘は,労働組合の要求する一時金〔ボーナス〕に対して,業績回復を反映する5.2ヵ月分の満額回答,しかも1週間前倒しであった 6)

 それもそのはずである。2001年3月期の決算で日産は,連結最終損益が4期ぶりに3311億円の黒字を計上した。事業会社としては最大の6844億円の赤字を出した前の期から,損益が1年で1兆円を肥える改善をしめし,過去最高益〔1160億円〕も上まわった 7)

 日産自動車にかぎらず,1990年代に倒産した,とくに金融業などの日本の会社を買収した欧米企業がその業績を再生・回復させるやりかたは,伊丹が奨励する「日本企業の経営」=伊丹風「おんりーいえすたでぃ 90年代」8) のものではなく,欧米の経営学教科書にはごくふつうに書かれているものである。
 


 
表1 日産自動車の改革案
 【生き残りを託す苛酷なリストラ策】
  ◎ 必達目標 

          2001年3月期 黒字化(連結税引き前ベース) 
            2003年3月期 売上高営業利益率 4.5%以上 (連結ベース)
 

 
  ・工場閉鎖 
   
       組 立   東京 村山工場 日産車体・京都工場 
               愛知機械工業・港工場(名古屋)  ※能力30%減
         部 品   九州エンジン工場(福岡) 
             久里浜工業(部品・横須賀)
 
 
  ・人員削減 
 
       1999年 14.8万人 → 2002年 12.7万人 
            「グループ」    ▲2.1万人(全体の15%)
 
 
  ・原価削減
 
       2002年度までで1兆円 
              〔うち購買(部品など)だけで6000億円〕 
            「取引先削減」部品メーカー 1450社 → 600社以下 
                   素材サービス 6900社 →3400社以下
 
 
  ・有利子負債削減
 
         1兆4000億円(販売金融除く)→ 7000億円 
             「資産売却」保有株 1394社中 4社 
                     〔日産車体など〕以外をすべて売却
 
 注記)『週間ダイヤモンド』1999年12月25日。
 出所)丸山夏彦『株式持合解消で強くなる企業と弱くなる企業』研修社,平成12年,26頁より。

 
【引用注記】

1) 伊丹敬之『経営の未来を見誤るな』日本経済新聞社,2000年,353頁。

2) 同書,〔まえがき〕2頁。

3) 徳山二郎『「人間悪」に甘い日本』麗澤大学出版会,平成12年,117頁。

4) 鈴木秀一『経営文明と組織理論』学文社,1993年,235頁。

5) http://global.nissan.co.jp/Japan/History/history/index.html より,2001年2月4日検索。

6) 『朝日新聞』2001年3月8日朝刊。

7) 『日本経済新聞』2001年5月18日。

8) 伊丹『経営の未来を見誤るな』〔まえがき〕2頁。
 


 
 
V 人本主義論の批判的検討

 日経ビジネス編『続・良い会社』 (日本経済新聞社,1990年9月)は,こういっていた。

 いまや押しも押されもしない経済大国となった日本の企業は,世界企業への歩みをはじめている。戦後日本企業の躍進をささえた日本的経営は,人間をたいせつにする「人本主義経営」だという評価がある。しかし,人間の能力を目一杯企業活動に動員するしくみ,「人本主義」は必ずしも人間を大切にすることに直結しない 1)

 本書『続・良い会社』は,当時の状況をこう把握した。

 円高不況下ですでに構造転換をせまられた日本企業の実態は,なりふりかまわぬ合理化,管理の締めつけをしている。労働組合も対抗力を弱め,経営者は「企業はそこに働く人のもの」という人本主義に甘え,ミドルを犠牲にがむしゃらな効率を追求していた。その結果,従業員のモラール・忠誠心は低下し,「新しい企業目的」が問われている,と 2)

 伊丹敬之は,「人本主義」を資本主義と対比する。資本主義は「カネを根元にして経済活動の編成を考えるもの」だが,人本主義は「ヒトを根元にして経済活動の編成を考えるもの」と定義する。

 しかし,このようなカネとヒトとの対比は,正確な表現ではない。その対比は,株主主権かそれとも従業員主権かという,ヒトとヒトとの対比であったはずである。そうだとすると,日本企業を資本主義とはちがった人本主義ではなく,資本主義のひとつの類型とみなすほかない 3)

 実は,「カネを根元にして経済活動の編成を考えるもの」=「従業員の総体的把握」をひとまず脇においたまま,「ヒトを根元にして経済活動の編成を考えるもの」=「従業員を〔雇用者(経営者)と被用者(従業員)とに〕二極化した概念」をかかげ,これを「従業員主権」の〈場〉に誘い出して,人本主義理念のもとに一本化,整列させる概念操作は,その出発点で無理があったのである。

 カネの問題に関連させるやりかたであっても,ヒトの雇用者〔経営者〕の立場と被用者〔従業員〕の立場とは,決定的に異質である。人本主義の考えかたは,両者の立場を区別しないで「従業員主権」の範疇に放りこみ,一緒くたにしている。

 日本経営史を専攻する森川英正 の著作,『トップ・マネジメントの経営史』 (有斐閣,1996年) 『はじめての経営学』(有斐閣,1998年) は,人本主義=従業員主権「論」を支持していた。

 しかし同時に,現代日本企業が,この従業員主権=人本主義企業のモデルにもっとも近づいているように説く点には同調できない,といっていた。

 さらに,日本企業における従業員の付加価値配分比率は,バブル崩壊=リストラ流行以前の時期においても,欧米企業に比してけっして高いものではなかったとも指摘し,異論をとなえた 4)

 伊丹敬之は,それでもなお,こういっていた。

 多国籍化した日本企業の「人事の国際化」は,人本主義の国際的展開となる。結局,多民族企業,グローバル・シェアリングは,人事に帰着する。まさしく,人本主義である 5)

 そのさい,「この島国に2000年以上も単一民族で過ごしてきた日本人」 6)という俗論を援用していた。

 また,「人本主義は国境を越えられる〔機能的普遍性の〕」「人本主義だからこそ,企業は国境を越えられる〔国際化のジレンマの解決に貢献する〕」「と言える可能性が十分ある」 7)というぐあいに,循環論法的,あるいは希望観測的に論述している。

 そうしたファジー性の豊かな立論の根っこには,日本のほうが良くて,フランス〔アメリカ〕は悪い,なぜならば日本経済はうまくいっているからという,非常に単純な三段論法みたいな前提がある 8)

 はたして,つぎのような批判は,伊丹の耳にとどいていたのだろうか。

 日本の全就業者の約8割を占める勤労者のうち多くが,自分の生命に関わることがらについてさえ企業の意のままにおかれているとするならば,「日本的」経営は,「人間中心(尊重)の経営」からはほど遠く,「運命共同体」にもなっていないといわざるをえないだろう。そして,「日本的」経営・「日本型」企業社会が,近代社会と法の支配の脆弱さの上に成り立つとき,企業内福祉中心の「日本型」福祉社会も「日本型」「ユニーク」「ジャバン・モデル」として無条件には肯定しえないことになる 9)

 たとえば,日本型人事考課・査定制度は,業績評価だけでなく,専門知識・企画力・判断力などの潜在能力評価や責任感・協調性・規律などの態度評価を重視した長期にわたる全人格的な評価制度であり,この査定制度によって労働者は企業に半強制的に拘束される。

 そのため労働者は個人的自由を奪われ,長時間企業の意思のもとに拘束される。日本企業の従業員はその意味で,私生活や家族生活を犠牲にしてまで労働生活を最優先しなければならない 10)

 日本の会社の真相は,過長時間労働による過労死,過労自殺,サービス残業〔あるいは自宅でのIT残業〕,単身赴任,先進国中で最悪の男女間における賃銀・労働条件の差別,セクハラ問題などが,働く労働者・サラリーマンを疎外し,被害を与える諸現象としてある。会社・仕事のためであれば基本的人権を蹂躙することすら,当然視され放置されている。

 人間生活の活力を阻害するそうした深刻な現象の多発にもかかわらず,伊丹敬之の観念において構成された〈経営に関する認識〉は,日本の会社では「人間中心〔尊重〕の経営」がおこなわれ,「運命共同体」的な経営主義にしたがって運営がなされ,そこには人本主義の本質がみてとれるというのである。

 若杉敬明・矢内裕幸編著『グッドガバナンス・グッドカンパニー』 (中央経済社,平成12年)は,こう喝破している。

 日本には,第2次大戦後の高度経済成長の成功体験と日本的経営賛美なる1980年代の誉め殺しにすっかり有頂天になり,妙な自信をもち変革を拒否している人々が多数いる 11)

 同類の批判は,ナミキ トシモリ『株主重視の会社経営』 (中央経済社,平成10年)も与えている。

 「会社は株主のものであり,会社経営は株主価値を高めることを目的とする」というのが国際基準であり,資本主義の原理であって,証券市場では,その基準で株式が評価されている。

 「株主は投資者にすぎず,会社の目的は,取締役と従業員の利益を図ることにある」と考えている学者や経営者がすくなくないが,国際的には,そう思われていない 12)
 
 藤井光男・丸山惠也編著『現代日本経営史−日本的経営と企業社会−』 (ミネルヴァ書房,1991年)は,伊丹人本主義を,より具体的にこう批判する。

 まず,日本の企業が株主主権ではなく従業員主権のごとくみえるのは,実は,日本の経営者権力の特質にこそ要因がある。その要因は,敗戦後の財閥解体以降,日本の企業集団が形成された事情のなかに求められる 13)つまり,日本の資本主義体制をささえるところの経済的基礎である,「法人支配の事実が軽視された」見解が,人本主義企業論である 14)

 つぎに,日本の企業は,「系列化された下請企業と親企業のあいだの取引関係」において共同利益の最大化をめざすという「組織的市場」論の見解は,親企業の決定的支配と下請企業のそれへの従属関係をみないものである 15)

 さらに,アメリカ企業は一元的シェアリングを,日本企業はシェアリングの分散化を特徴とするというが,それどころかむしろ,日本企業の内実はきわめて排他的,閉鎖的であると同時に,差別的,分断的な特質を構造的にもつ存在である。

 正規従業員と非正規従業員〔臨時工・社外工・下請工・パート・アルバイト・派遣労働者など〕,男女労働者間における差別的な階層構造が支配的に存在している。さらに,,正規労働者であっても職場内で協力的か否かによって,容赦ない差別的処遇がほどこされる 16)

 伊丹はそうした企業社会の冷厳な事実を,横目にでもいい,すこしはみているのかといらぬ心配もしたくなるが,ともかくいまは,エリート学者の地位ふさわしい理想論=人本主義〔最近はデジタル人本主義〕を謳いあげるのに懸命なのである。
 

【引用注記】

1) 日経ビジネス編『続・良い会社』日本経済新聞社,1990年,〔まえがき〕1頁,20-21頁。

2) 同書,25-26頁。

3) 高田太久吉,ベス・ミンツ,マイケル・シュワーツ編著『現代企業の支配とネットワーク』中央大学出版部,1996年,5-6頁。

4) 森川英正『はじめての経営学』有斐閣,1998年,161頁。

5) 伊丹敬之『人本主義企業』筑摩書房,1987年,134頁,135頁参照。

6) 同書,134頁。

7) 同書,115頁,116頁参照。

8) 野村正實『熟練と分業』御茶の水書房,1993年,167頁注5参照。〔 〕内補足は筆者。

9) 本間照光『団体定期保険と企業社会』日本経済評論社,1997年,21頁。「近代社会と法の支配の脆弱さ」に乗っている「日本企業の経営」の実態と問題点については,たとえば,森岡孝二編著『現代日本の企業と社会−人権ルールの確立をめざして−』法律文化社,1994年を参照。

10) 廣瀬幹好「『日本的経営論』の一論調」,関西大学『商学論集』第35巻第6号,1991年2月,60頁。

11) 若杉敬明・矢内裕幸編著『グッドガバナンス・グッドカンパニー』中央経済社,平成12年,プロローグ3頁。

12) ナミキ トリモリ『株主重視の会社経営』中央経済社,平成10年,39頁。

13) 藤井光男・丸山惠也編著『現代日本経営史』ミネルヴァ書房,1991年,372頁。

14) 中村瑞穂教授還暦記念論文集編集委員会編『現代経営学の基本問題』文眞堂,1993年,121頁参照。

15) 藤井・丸山『現代日本経営史』374頁。

16) 同書,375頁。
 


 
 
W 伊丹敬之「新著」2000年2著の吟味     


  W−1)『経営の未来を見誤るな』2000年2月 −伊丹説〈人本主義〉の自己擁護は可能か−


 本書『経営の未来を見誤るな』 をとおして伊丹は,過去10年間エッセーや講演で語ってきたことに一本の筋をとおす作業をおこなうことを断わっている 1)

 しかし,「人本主義の日本が資本主義の逆襲を受けている」 2)というのは,いかにもおおげさである。これは,「伊丹説が他者から批判を受けている」と読みなおせる。

 こうもいう。「資本市場がとがめているのは,日本型経営ではなく,日本の経営のゆるみなのだ」と 3)これをいいかえると,「伊丹の人本主義企業論がとがめられているのではなく,日本の経営のゆるみ=業績の悪化・不振が問題だ」となる。

 要するに,自説のとなえる人本主義の正しさは万古不易・流行不変であり,なんら損傷をうけていないというのである。だから伊丹は,国際標準〔グローバル・スタンダード〕という名のアメリカン・スタンダードの経営に対して違和感をいだく。

 「われわれがより直接的に学ぶべきはむしろ,アメリカ型経営ではなく,日本の70年代の,あの苦しかった頃の日本企業の経営ではないのか」と,追憶し郷愁する 4)

 だが,現実のこういう話もある。

 1998年1月の時点で,三菱重工業会長相川賢太郎は,

  「ハーバード・ビジネス・スクールの発想は日本では困る」,

  「利益より雇用を重視する」,

  「ROE(株式資本利益率)など眼中にない」,

  「儲けすぎをコントロールする」,

  「海外に出るとか企業買収とか利益をあげる方法はあるが,重工はそんなことで名声を上げる必要もない。授業員を食わせるだけの仕事を取れば十分だ」,

といっていた。

 しかし,1999年度9月中間決算において,同社は戦後はじめての経常赤字に転落し,従業員の大幅削減を決め,株価の下落からROE重視の経営に転換することを表明した 5)

 伊丹はなにやら,ずいぶん過敏になっている。「アメリカ型の経営の原理に日本企業の経営を変え,その上で経営の具体的制度や慣行の変更に至る,というところまでする必要」は,「私は,ないと思う」 6)とまで断言している。

 しかし,「日本の企業が……よさの本質あるいは原理を考え」たうえで,「たまったアカの処理に本気で立ち向かう必要がある」といいながら,「本当は,外国産でも国産でもどちらでもいい,自分の頭で考えるべきである」という記述に当たったりすると 7)読むほうとしては頭が混乱してくる。「本当はどっちがいいのか」と,あらためて聞きなおさねばならない。

 たとえば,2001年2月下旬現在まで,日本の生命保険会社のうち9社が外資系会社の傘下に収められている 8)これには,大手と準大手の生保会社もふくまれている。

 1999年11月  日産生命→1997年4月破綻し,生命保険協会が引きうけたのち,フランスのアルテミスへ売却。

 2000年1月 平和生命 →アメリカのエトナが株式を取得し,子会社化。

 2000年3月 東邦生命 →1999年6月破綻し,GEエジソン生命に契約を移転。日本団体生命 →フランスのアクサが持株会社を設立し,その子会社となる。ニコス生命 →クレディ・スイスグループが株式を取得し,子会社化。

 2001年2月 オリコ生命 →イギリスのプルデンシャルが株式を取得し,子会社化。

 2001年4月 第百生命 →2000年5月破綻し,カナダのマニュライフ・センチュリー生命に契約を移転。協栄生命 →2000年10月破綻し,アメリカのプルデンシャル傘下で事業再開。千代田生命 →2000年10月破綻し,アメリカのAIGの傘下で事業再開。

   1990年代後半,山一証券北海道拓殖銀行 日本長期信用銀行日本債権信用銀行 といった,一流証券会社・大手銀行などが倒産したことは記憶に新しい。

 ここでは,自動車製造業,「マツダ」と「三菱自動車工業」の会社再建策に触れておこう。

 アメリカのフォード社がマツダの経営権をにぎってから,約5年が経過した。だが,フォード流再建策の成果がなかなかみえず,いきづまり感が漂うなかで2001年2月19日,工場以外で働く社員約1万人を対象にした希望退職の受付がはじまった。

 ところが,この希望退職の受付は当初,3月5日までの予定だったが,初日に1800人の枠に達したことで打ち切られた。マツダは,今回の人員削減などで「来年3月期連結決算の収支均衡」をめざすという。

 だが,2月26日マツダが発表した早期退職優遇の適用者は,2213人となった。とくに,30歳代の若手・中堅社員が525人を占め,当初予定の上限350人を50%上まわった 9)

 筆頭株主ダイムラー・クライスラー社傘下にはいり,最近ヒット自動車の不在だった三菱自動車工業の2001年3月期連結業績は,約30年にわたるリコール問題隠しが発覚したことも重なって,4期連続の経常赤字のみこみとなった。

 そこで同社は急遽,「日産リバイバルプラン」を真似た再建計画「ターンアラウンド計画」を立てた。 表2「三菱自動車ターンアラウンド計画」を参照したい 10)

 マツダや三菱自動車の現状に人本主義があるかついては,問うまでもない点である。

 


 
表2 三菱自動車ターンアラウンド計画
 ・期       間
 ・グループ人員
・2001年度〜2003年度
・約 9500人(14%)削減
 ・国内生産能力
 ・国内生産拠点

・現在の129万1000台に対し20%以上を削減
・乗用車4工場のうち大江工場の閉鎖を検討

 ・購買コスト 15%削減
 ・車       台 ・12を6に半減
 ・国内販売拠点
 ・国内販売会社
・統廃合を検討
 ・有利子負債 ・1兆3000億円を1兆円に削減(連結ベース,販売金融をふくむ)
   出所)『日本経済新聞』2001年2月27日。
 
 

 @ 単一民族国家観の陥穽

   伊丹は,「アメリカ型原理は,アメリカという多民族人工国家の社会の中ではかなりの合理性が高い。しかし,欧州や日本のような単一民族自然発生型の歴史の長い社会の中では,必ずしも合理性は高くない」と述べていた 11)

 また,「真の人本主義企業」にとって「必要とされている」のは,「『仲間』を日本人に限定することなく,人本主義を適用すること」,「それをきちんと行っていくこと」であるとする。この話の前提は,「日本という国が単一民族,均質な文化や社会をもった国であったこと」と,その「真の人本主義企業」とのあいだには本質的な深い関連性がある,と語られたところに用意されている 12)

 人本主義思想は,1970年代に「日本企業の経営」が強かったときの単一民族国家性〔虚説〕を大いに評価する。とはいえ,1990年代にすっかり弱くなってしまった「人本主義企業=日本企業の経営」を,今後〔21世紀〕もう一度強くして,「〈真の〉人本主義企業」に改変しなければならない。伊丹はそこで,「『仲間』を日本人に限定することなく,外国人にも広く人本主義を適用すること」を提言したのである 13)

 この提言は無理難題である。日本特殊的な単一民族観に立脚していたが,実は普遍的通有性をもった人本主義だから,これを改正して世界に通用すべき「〈真の〉人本主義」に精錬しなければならない,と伊丹はいった。だが,真の人本主義が適用できる国は,いったい〔日本(?)をのぞいて〕どこにみいだせるのか。いまのところ,暗中模索の状態である。

 日本社会が単一民族の歴史を長くたもってきたと考える俗論は,話にもならない無識見である 14)また,ヨーロッパの主要な国家のなかで,いったいどの国の歴史において,単一〔純粋〕民族国家がある〔あった?〕というのか。

 それよりも,現在の日本社会で急激にすすみつつある多文化的共存・異民族共栄の現実的な進行に無用な,そのうえ暴論ともいうべき〈企業文化論〉的な理解(?)は,黙過できない。

 一橋大学商学部の教授が「エッセーや講演で語ってきたこと」は 15)歴史・文化科学的な学識を欠乏させた貧血症の,このていどの中身だったのか?

 たしかに,伊丹も説明するように最近の日本の企業は,19「70年代後半の日本企業と比べても,別人のようである」。したがって,「企業というものを長期的に維持していくためには,従業員が必要なだけでなく資本投入も必要である以上,長期的な資本効率の悪化は許されない。/従業員主権はいい。しかし,そのオーバーランは長期的に維持不可能である」 16)

 だが,「従業員主権はいい」とはいっても,日本を代表する一流会社が実際にたくさん倒産し,大会社でのリストラもはげしくおこなわれてきており,だいぶ以前より「風前の灯」同然のそれであった。いまや日本経営の現状は,〈従業員主権のオーバーラン〉などおこりえないほどきびしい。

 なにゆえ,それほどまで人本主義〈従業員主権〉にこだわるのか,よくよくつかみどころのない主張である。くわえて,いまごろなにゆえ,このような「時代遅れの国際感覚」,「勉強不足の歴史文化論・社会科学観」に立つ経営学的思想論を講じる学者がいるのか,不思議でしかたない。
 

 A 経済学的補足説明

  『経営の未来を見誤るな』2000年 は,『人本主義企業』1987年 にむけてくりだされた諸批判を意識しており,経済学的に処理された統計資料や図表を多く提示している。

 この図表一覧をみて,筆者は感じたことがある。

 「日本企業の経営」を分析し考察する経営学専攻の学者が,経済学的に処理,加工された巨視的次元の数字ばかり引照し,経営学あるいは会計学での微視的次元の数値・資料を利用していない。経営学者の創説を論証し補強するために使用する「統計・資料」として,はたして適切なものか疑念が生じる 17)

 そこで,こういうことがいえよう。

 『人本主義企業』1987年は,演繹法的な認識段階にあり,素朴な発想にもとづく書物である。『経営の未来を見誤るな』2000年は,前著を考証するための帰納法的な認識段階であり,証拠固めをする書物である。

 問題は,両著のあいだに事実上の理論発展,現実認識の高度化がみいだせるかどうかである。

 毛 沢東は,こういった。「道にきいて,途(みち)に説く」ような生かじりの知識をもつと,すぐに自分こそ「天下第一」とうぬぼれる。これは,その身のほどしらずをよくしめすにすぎない 18)

 「道」は,『人本主義企業』1987年。

 「途」は,『経営の未来を見誤るな』2000年。

 「生かじりの知識」はたとえば,単一〔純粋〕民族国家観。

 実際,「天下第一」と当人が思いこむくらい,通説としての「人本主義」は世の中に広く流通している。日本産業界では,日本的経営〔の一定要因〕を「人本主義」企業といいかえる用法も普及している。伊丹「効果」はおおきい,ということである。

 伊丹の言説でとくに興味深いのは,自説に対する他者の批判には直接答えず,自身の設営した知的世界でのみそれを一方的に再料理し,けっして,相互の対話や批判の交流をとおして持論を高めようとはしないことである。つまり伊丹は,学界人の共有すべき舞台に絶対登場しない。いわば,伊丹私営劇場で上演される人本主義は,そのひいき筋だけを相手にしてきた。
 

【引用注記】

1) 伊丹『経営の未来を見誤るな』〔まえがき〕2頁。

2) 同書,41頁。

3) 同書,55頁。

4) 同書,55頁。

5) 丸山夏彦『株式持合解消で強くなる企業と弱くなる企業』研修社,平成12年,177-179頁。

6) 伊丹『経営の未来を見誤るな』63頁。

7) 同書,66頁,67頁。

8)  『日本経済新聞』2001年2月24日。

9)  『朝日新聞』2001年2月20日朝刊。『日本経済新聞』2001年2月27日。

10)『日本経済新聞』2001年2月27日。なお,2000年3月27日ダイムラー・クライスラー社は,約2250億円をかけて第3者割当の増資引受により三菱自動車の株34%を取得し(筆頭株主となり),業務提携を開始している。

11) 伊丹『経営の未来を見誤るな』85頁。

12) 同書,291頁参照。

13) 同書,291頁。

14) 日本は単一純粋民族国家だという誤謬については,小熊英二『単一民族神話の起源』新曜社,1995年を参照。

15) 伊丹『経営の未来を見誤るな』〔まえがき〕2頁。

16) 同書,109頁,119-120頁。/は原文改行。

17) 伊丹敬之『日本的経営論を超えて−企業経営力の日米比較−』東洋経済新報社,昭和57年は,この段落の指摘からは除外されるものである。本書は,人本主義を提唱する以前の著作である。

18) 毛 沢東,松村一人・竹内 実訳『実践論・矛盾論』岩波書店,昭和32年。15頁。

 



 W−2) 『日本型コーポレートガバナンス』2000年12月−人本主義概念のとらえかた−


 本書『日本型コーポレートガバナンス』 は,副題に「従業員主権企業の論理と改革」と付し,斯学界で1990年代後半にわかに着目された研究課題,コーポレート・ガバナンスを主題にとりいれている。本書のまえがきで,伊丹は面白い表白をする。

 私の意見はこの間,基本的に変わらなかった。私は13年前〔『人本主義企業』1987年〕と同じように,従業員主権が十分に経済合理性の高い原理だと思っている。しかし日本企業の現実が,それから一部離れ,あるいはその行き過ぎと甘えに悩んでいるのだと思っている。私は頑固者なのかも知れない。時代遅れの男なのかも知れない。しかし学者として,原理的に考えて正しいと思えることはきちんと主張したい,と思っているだけである 1)

 1970年代半ば,日本的経営論で一躍脚光を浴びた岩田龍子は,伊丹のこの意気ごみを軽く一蹴する見解を披露していた。「日本的経営」論に対する岩田の指摘は,人本主義企業「論」の急所,すなわち人本主義の経営イデオロギー的な本質面を突いたものである。

 経営の基本構造そのものが,あるいは志向性そのものが,直接成功をもたらしたわけではない。日本の経営者たちは,「日本的経営」によって成功したのではなく,「日本的経営」を成功させたのである 2)

 1990年代の状況を,岩田龍子の論説に倣っていいかえると,「日本の経営者たちは日本的経営を失敗させている」のである。そこでさらに, 清水龍瑩『実証研究30年日本型経営者と日本型経営』 (千倉書房,1998年)に,関連する論点を聞いてみたい。

 筆者は,人本主義を,日本資本主義体制内にある企業経営の〈特性〉を抽出したもの,あるいはその〈個性・要素〉を表現したものと理解する。人本主義は,日本資本主義における企業経営の特徴を表わす〈ひとつの標識〉である。この国の企業経営をその特徴的な一側面をもって認識するものが,人本主義である。

 清水龍瑩は,「環境の情報化・グルーバル化」する資本主義企業経営体制の特徴を,こう説明する 3)図1をみよう。
                                                    

図1 資本主義企業経営体制の特徴

    出所)清水龍瑩『実証研究30年日本型経営者と日本型経営』千倉書房,1998年,172-173頁,図7-1。



 まず,「日本型経営」の〈人本主義=協調主義・信頼取引主義〉対「アングロサクソン型経営」の〈資本主義=個人主義・市場競争原理〉という対照関係を挙げる。そして,この両型経営はまたがる相互関係において,それぞれの〈社長の哲学:企業倫理‐経営理念‐企業文化〉などの個性・特徴が検討課題となる。

 清水龍瑩は,日本の企業行動・日本型経営における経営者の能力・製品の質など定性要因を一貫して調査し,多くの仮説をみいだす研究をつづけてきたが,最近,日本経済新聞に寄稿した論説のなかで,こう記述している。

 インタビューによる仮説の構築→アンケートによる仮説の検定→仮説棄却の場合は次回インタビューによる仮説修正−−を繰り返し,仮説を理論にまで高めてきた。そして現在までに日本企業の企業行動についての多くの理論を構築してきた。

 ところが,繰り返し検定を行い,安定していた経営学の理論が最近,急に不安定になってきた。情報技術(IT)の進展,グローバル化による環境の変化が激しく,定性要因の「概念」やその相互作用の「過程」が不明・不安定になってきたからである 4)

 伊丹説=人本主義企業「論」に完全に欠落するのは,清水での「仮説→検定〔修正のくりかえし〕→理論」というものに相当する,〈学問上の基本手続〉である。
 

  @「コア従業員」論

 日本企業の従業員主権とは,「従業員の主権が主(メイン)で株主の主権は副(サブ)」という位置づけである。ただしこのことは,従業員すべてがひとしく実質的な「主権者」ではなく,長期的に企業に関与するコア・メンバー〔コア従業員〕の存在を意味する。

 自分がその集団に所属するという意識が,「企業に勤める」ことの中核にある。日本企業の従業員主権という現実に即し,これを論理的に支持する機構論を展開する必要をとなえたのである 5)

 この説明を聞いた経営学者がすぐ想起するものが,新・日本的経営システム等研究プロジェクト編著『新時代の「日本的経営」−挑戦すべき方向とその具体策−』 (日本経営者団体連盟,1995年)である。

 人本主義企業「論」の考えかたは,日経連の「基本理念」,すなわち「変えてはいけないもの」である,「人間中心(尊重)の経営」「長期的視野に立った経営」論と同じである。

 日経連のとなえる「基本理念」は,「日本的経営」の“本質”とみなされる。なぜなら,「基本理念は普遍的性格をもつ」とされたからである。伊丹も,人本主義理念は普遍的性格を有しうるものだと確信していた 6)

 日経連『新時代の「日本的経営」』は,企業‐従業員の雇用‐勤続に対する関係を,つぎの図2のように〈2次元構成〉をもって表現した 7)
    

図2 企業‐従業員の雇用・勤続に対する関係

  
              
 出所)新・日本的経営システム等研究プロジェクト編著『新時代の「日本的経営」−挑戦すべき方向とその具体策−』日本経営者団体連盟,1995年,32頁,図表7。


 縦軸に「従業員側の考えかた:長期勤続‐短期勤続

 横軸に「企業側の考えかた:定着‐移動 」をおき,

 −−この組みあわせのなかで,

  a)「長期蓄積能力活用型グループ」〔 長期勤続×定着

  b)「高度専門能力活用型グループ」〔の中間〕

  c)「雇用柔軟型グループ」    〔短期勤続×移動

という分類をほどこしたのである。

 この中身に関する日経連の見解,「こうしたグループは固定したものではない」という点 8)は,伊丹の見解,「そのグループの内と外との線引きはそれほど明瞭ではない」,「総合判断」することだという点に符合する 9)

 日経連『新時代の「日本的経営」』1995年の考えかたは,日本の経営者に浸透,支持されており,実践性を発揮している。オリックス代表取締役会長兼グループCEO宮内義彦は,「鉛筆型の人事戦略」をとなえている。

 つまり,コア社員を鉛筆の芯のように細くする一方で,その周りを取り囲む木の部分は成功報酬型の社員,さらにその周りにパートタイマーやアウトソーシング(外部への業務委託)で編成します。そして必要に応じて,芯を囲む木の厚さを調整できるようにしておくわけです。

 現在のオリックスでは,コア社員の部分を補足する一方で,パートタイマーやアウトソーシングの拡大を進めています。一部の特定専門分野では年俸制の社員も増やしています。そうすることで調整が可能な部分を厚くしておけば,コア社員の長期雇用を維持することが可能になると考えております。

 知識社会の到来によって,雇用の長期化は重要度を増しつつあります。長期雇用が前提にコア社員を中心とした情報の共有や新たな価値の創造が期待できるからです。コア社員の周縁に成功報酬型に専門知識をもった社員や,さらにその外辺にパートタイマーを配置することによって,より高度な知の創造が可能になるでしょう。コスト面で見ても,コア社員を少数精鋭化する一方で,周縁社員や外辺社員を厚くしておけば人件費の変動費化につながります 10)

 さて,伊丹はさらに,全従業員をコア従業員とノンコアに分けるさい,図3のような関係を措定する。
                                                                  

図3 コア従業員とノンコア
   出所)伊丹敬之『日本型コーポレートガバナンス』日本経済新聞社,2000年,102頁。


 この図3は,こういう数式的な関係である。

  a) 全従業員= b) コア従業員 < c) ノンコア
 
 ここで,b) と c) の線引きを総合判断する材料は,「貢献の本質性・コミットメント・リスク負担」の3点である 11)

 これは,「日本企業のコーポレートガバナンスの将来は,従業員主権の大枠を守ることが基本線になって差し支えない,と私〔伊丹〕には思える」ところを,表わしたものである 12)

 伊丹は正直に,こう述べる。

 この引用は,賃銀差別・低賃金に苦しむパート労働者〔など〕が聞いたら多分,激昂する内容である。

 従業員のコア線引きの問題〔は〕……大きな問題である。現在の日本では,パートの労働組合が生まれようとし,その背景には従業員の間に正社員とパートという二重構造があることが問題であるという指摘がある。二重構造を解消する方向で改革を考えるべき,そのためにはパートの労働組合もつくるべき,という議論がかなりあるのである。

 私のいう「コア」の線引きは,まさに逆方向で,むしろそうした二重構造を明確にしようとすることにならざるを得ない 13)

 富士銀行に長年勤務するサラリーマンの著作,小磯彰夫『日本的経営の崩壊』 (三一書房,1996年)は,こう回顧する。

 私が銀行員になっての36年間は,戦後日本資本主義形成とともに働き,問い続けた人生である。末端での私の体験の多くは,日経連の言う「人間中心(尊重)の経営」では決してなかった。逆に人間性軽視の経営であり,全体主義的な人事管理だった 14)

 経営社会学的な視点より伊丹説をとりあげた論者は,人本主義企業「論」をこう批判する。企業という肥大化した部分社会を自己に都合のよいように解釈する人本主義は,能力のある人を対象にしていて,病人・不健康な人は排除するのである。企業組織は強者の論理に転じやすく,生活者の論理との緊張関係が問われるのである 15)

 本稿の執筆中に,伊丹『日本型コーポレートガバナンス』 に対する三和総合研究所特別顧問原田和明の書評が,日本経済新聞に出た。原田は,書評のなかで伊丹を「さん付け」でよんで,こう批評した。

 1990年代に本流となったグローバリゼーションの下で人本主義経営が可能かどうか,私は懸念を感じる。トヨタのように卓越した経営力をもつ,ごく少数の企業を除けば,人本主義で国際競争に勝ち抜くことは難しい。望ましい方向は市場原理にのっとった企業価値最大化の経営だと思う。

 それは必ずしも株主重視のみではなく,ステークホルダー(利害関係者)全体を潤すからだ。市場に支持されない人本主義では企業は従業員重視主義の維持も不可能となるのではないか。

 伊丹さんは,歴史の潮流を静観すれば,市場原理主義を唱えていると近い将来,時代の取り残されると言われる。果たしていずれが正しいか。それは10年単位の歴史の流れが結論を示すことであろう 16)

 日本の労働市場は,長期雇用の中核労働者〔→「従業員主権」〕と非正規雇用者〔→「広く従業員」や,その他の「民衆」〕とに分かれているが,とくに,非正規雇用者が増大している。労働市場のこういう情勢変化は,日本経営の最大特性だとみなされてきた「人本主義」性の解体を進展させる,“逆説的な”状況を現わすものである 17)

 1990年代は,日本資本主義の崩壊が語られた。伊丹『人本主義企業』1987年の刊行後,早10数年が経過した。

 人本主義思想は,いまなお,必要とされているのか? 

 今後さらに10年もの時間をついやし,人本主義企業論の真贋をきわめていく価値があるのか?
 

 A 出資者としてのコア従業員

 伊丹は,日本企業の年功的賃金体系と退職金制度のもとでは,コア従業員が「みえざる出資」をおこなっているとみなし,「実質的資本拠出」という概念を提示する 18)

 しかし,コア従業員であっても終身雇用を保証されず,さらには年功序列制賃金体系も崩壊する実勢のなかで,根拠薄弱なそうした概念をしめす意図は,理解に苦しむものである。

 最近における不況下で日本企業は,業績を悪化させていない会社でも,法定退職金引当金の原資不足が指摘されている。年功制賃金のもとで若年期に割りを食ってきたコア従業員が,賃金原資を十分とりもどせていない年齢で,いきなり会社をリストラされたり出向にまわされたりする。

 「実質的資本拠出」がもつ本当の意味は,日本経営の現実に生きるコア従業員にとって,「実質的賃金被搾取(分)」とでも表現したほうがふさわしい。

 伊丹は資本についても,総資本→成長資本→「コア資本」という概念化をしめすが,コア資本は大株主筋の資本相当分を意味すると解釈してよいから 19),これも格段目新しい概念形成ではない。目新しいのは,ただコトバだけである。
 

 B「理念型」論

 伊丹は,人本主義企業はあくまでひとつの理念型であり,資本主義企業はもうひとつの理念型である。ともに実際には存在しないが,現実の企業がその間に観測定点のようなふたつの理念型である,と述べている 20)

 しかし,筆者はこの理念型の理解に異議がある。

 伊丹の準備したふたつの理念型は,日米の企業を比較し対照するための理論道具たりえない。理念型同士を併置,比較するのであれば,マックス・ウェーバー社会科学論に一知半解の逸脱営為である。

 というのは,日米の資本主義企業を個別に分析するため用意された範型的な手段が,そのふたつの理念型であるからである。そもそも,そのふたつの理念型が同次元でありうるかさえ,問題である。

 理念型なる学的範疇は,「歴史的個体のもつ独自の文化的意義を,研究者個人の価値判断的次元をはなれて,客観的,科学的に究明するための方法として構成された」ものである 21)

 ところが,伊丹人本主義はまず,理念型の名のもとに経営政策論上の規範概念:自説を語るという倒錯をおこしており,つぎに,この理念型を素材につかって国際経営比較を試みようとする,現実無視の筋書きを創作していた。

 一言で片づければ,マックス・ウェーバー理念型論にうとい,粗雑な社会科学論である。

 くわえて,つぎのような伊丹の意見を聞くにいたっては,ここまで筆者が議論してきた諸批判の意味を考えこまざるをえない。伊丹の意図は,こう再説されている。

 人本主義〔は〕……市場経済と資本主義の大枠の中で,あるいは多少ずれたかたちで,ヒトというものを重視してできあがった企業システム,……古典的な資本主義企業の進化した 一つの新種と見ることもできる。しかし,典型的な資本主義的企業とあえて対照を鮮明にするために,人本主義ということばを使う意義はあると私は思う 22)

 筆者は疑問を抱く。アメリカ型経営から多少ずれた企業制度が「日本型経営」=〈一つの新種〉であると理解される程度ならば,なにゆえ,社会科学的概念「理念型」をくり出してまで別個に〔アメリカ理念型と日本理念型とを〕概念化したのか。

 はたして,「理念型」範疇を当てれば,米日資本主義企業経営間において識別すべき〈ちがい〉がみいだしうるのか。結局,〈新〉と〈理念〔〉という2語を,学術用法的に区別できていない。

 伊丹敬之『場のマネジメント−経営の新パラダイム−』 (NTT出版,1999年)は,禅問答(?)のようなつぎの記述をしている。

 日本の企業経営をたんに集団主義などというレベルでとらえない,より普遍性の高い枠組みでの理解ができたほうがいい。そして,その枠組みの中での理解から,日本の経営が世界の中である種の特徴をもっていることをきちんと理解し,しかしそれが「特殊」でも「異質」でもなく,ただ「ちがう」だけであることを素朴に納得する必要がある 23)

 〈日本の経営〉は,〈欧米の経営〉と「ちがう」だけであり,「特殊」でも「異質」でもないという議論が,どだい話にならない。そもそも,なにをいいたいのかがわかりにくい。それならば,〈欧米の経営〉は,〈日本の経営〉とは単に「ちがう」だけでであって,「特殊」でも「異質」でもないことになる。

 「特殊」でも「異質」でもない〈日本の経営〉を,とくべつにとりあげて論じ,よそとなにかが「ちがう」と指摘する意味が,いったいどこにあったのか?
 

 C「歴史的要因」論

   最新の伊丹による説明にしたがうと,「人本主義企業」論は,一定の歴史的淵源にさかのぼれるものとされる。それは, 経済同友会企業民主化研究会編『企業民主化試案−修正資本主義の構想−』 (大塚萬丈中心の執筆著作,同友社,昭和22年11月) である。

 伊丹はこの「企業民主化試案」試案に触れ,さらに,戦時国家総動員体制下に実施された戦争遂行経済政策にまつわる関連問題にも触れる。
 
 伊丹はつづけて,「民主的な企業システムとくに従業員主権の成立のための制度的基盤の整備を,戦時中の日本政府が下準備をし,進駐軍が本格的展開をした,とでもいえそうな歴史的経緯だったのである」とも述べる 24)

 伊丹はまた,自説の歴史的淵源を,江戸時代にまでさかのぼらせて根拠づけようと試みている 25)

 つぎの記述は,人本主義に関するものというよりは,日本経営における〈いわずもがな〉しかも〈当たりまえの事実〉を,いかにももってまわった書きかたをしている。

 コア従業員以外の従業員(ノンコアとよぼう。たとえば,パートやアルバイト)をないがしろにしがちな傾向が生まれる。働く人々の間に二重構造が生まれる危険があり,その二重構造が マイナス効果を持つ可能性がある26)

 現に〔戦前から!〕実在してきた日本経営の問題をとらえて,二重構造が「生まれる危険があ」るとか,それは「マイナス効果を持つ可能性がある」とか,それこそ,学者先生の能天気(のんき)な発言だと指弾をうけかねない記述である。

 さらに,「会社法制度のもとで従業員主権という本音」 27)との発言は,21世紀を迎えた今日の段階にいたっては,その共感を他者に求めることすら困難なものではないか。

 著作というものは,読者に対して著者の〈ホンネ〉をどのように語って説明するか,そして納得・共有してもらうかに焦点があるはずなのに,独り言〔繰り言?〕のような表白では,迫力に欠ける。
 

 D「企業改革」論

 伊丹は,日本企業にとってきわめて大切な課題だという,コーポレートガバナンスの改革3点を列挙する 28)

 a)  従業員主権を守り,かつそれを宣言する。

 b)  株式会社制度を守る。

   c)  経営者のチェック機構をきちんとつくる。

 また,「企業市民権」の性格に触れる。カネの提供者〔株主〕にしろヒトの提供者〔従業員〕にしろ,コアメンバーとはその企業の「市民権」をもてる存在である。市民権をもてない人々は,いわばお客様である。国の市民権を誰がもてるかという問題と本質は同じである,と述べている 29)

 筆者は,尋常ならざる伊丹の論旨の運び,いいかえれば,「国家における市民権の問題」と「企業市民権」とを同列に論じる大胆さ=無謀さに一驚する。

 国家がある人を内部の人間と認めて国籍を付与するか否かという問題を敷衍させ,会社に勤務する人々を分類整理して企業市民権を有しうるか否かを判別したすえ,そこから排除されるべき〈その他の多くのお客様〉,→外国籍人・異邦人,→ノンコア従業員や民衆を想定する。

 いくら〈譬えでする〉ものとはいえ,昨今における各国の「市民権」問題の実態〔もちろん日本もふくめた〕を棚上げしたような,伊丹流「企業市民権」論には驚愕させられる。

 現代における各国企業経営は,企業形態が多国籍化し,経営管理の組織運営を国際的次元で執行していかねばならない。企業の地球化による海外進出とその経営活動は,地図のうえに引かれている国境の意味を,大胆にみなおすべき段階にあることを示唆している。

 そもそも,国家主権〔政治と民族など〕の問題をもって,企業統治〔経済と雇用関係〕の問題に類推させることが望ましいか否か,熟考の余地がある。「企業市民権」に関するその発言は,19〜20世紀的な国民国家 (nation-state)観念に素朴にとらわれている。

 経営学はだいぶ以前より,企業の環境や地域社会を強く意識する「良き企業市民 (good corporate citizenship) 」を話題にしてきたが,その由来を真剣にうけとめねばならない。

 経営学がすでに論じている〈企業市民〉は,広い地域社会のなかの「社会の一員」問題であるのに比して,伊丹人本主義の提起した企業〈市民権〉は,会社組織内で内向する狭隘な「〈わが社〉員」特権論である。いまどきなにゆえ,このような閉鎖的な会社従業員論を提唱するのか,その意図じたいが度しがたい。

 したがって,大塚萬丈「企業民主化試案」に魅せられた伊丹敬之ではあったけれども,企業体制の一部選良社員にしか適用されない,民主主義的〔?〕な企業統治〈試案〉を提示したにとどまる (『日本型コーポレートガバナンス』第8・9章参照)

 それは,コア従業員を念頭におくだけで,企業内の成員であってもノンコアは除外し,企業外に存在する民衆〔→社会全体〕など全面的に無視した提案である。

 だから伊丹は,コア従業員とそうではない人々とのあいだに決定的な線引きをしたうえで,「新しい企業制度の構想」を提示した。ところが,「企業と社会」に関するそのような線引きの方法に対しては,時代のきびしい批判の目がそそがれている。

 たとえば,企業にとって消費者・市民団体・報道機関・国際機関などが,企業外部に位置する民衆や組織だからといって,ないがしろにできるような時代ではない。さらに,企業の一般社会に対する社会責任・社会貢献〔フィランソロピーやメセナ(文化支援)〕や,企業倫理の問題には言及するまでもないだろう。
 

【引用注記】

1)   伊丹敬之『日本型コーポレートガバナンス−従業員主権企業の論理と改革−』日本経済新聞社,2000年,まえがきA頁。〔 〕内補足は筆者。

2) 岩田龍子「経営システムの型と機能−文化的要因の位置づけ再検討−」,日本経営学会編,経営学論集第60集『日本的経営の再検討』千倉書房,平成2〔1990〕年,89頁。

3) 清水龍瑩『実証研究30年日本型経営者と日本型経営』千倉書房,1998年,172-173頁を参照。

4) 『日本経済新聞』2001年2月6日「やさしい経済学−経営学の破壊と創造−」。

5) 伊丹『日本型コーポレートガバナンス』59頁,60頁,52頁。72頁も参照。

6)   社会政策学会編,社会政策学会誌第4号『社会構造の変動と労働問題』ミネルヴァ書房,2000年,〔牧野富夫「『日本的経営』崩壊と労働運動」〕87頁参照。

7) 新・日本的経営システム等研究プロジェクト編著『新時代の「日本的経営」−挑戦すべき方向とその具体策−』日本経営者団体連盟,1995年,32頁。

8) 同書,33頁。

9) 伊丹『日本型コーポレートガバナンス』60頁,102頁。

10) 宮内義彦『経営論』東洋経済新報社,2001年,171-172頁。

11) 同書,102頁。

12) 同書,146頁。〔 〕内補足は筆者。

13) 同書,316-317頁。〔 〕内補足は筆者。

14) 小磯彰夫『日本的経営の崩壊』三一書房,1996年,208頁。

15) 数家鉄治『日本的システムとジェンダー』白桃書房,1999年,27頁,28頁。

16)『日本経済新聞』2001年2月18日。

17) 前掲,社会政策学会編『社会構造の変動と労働問題』〔野村正實「規制緩和と日本型資本主義」〕11頁,〔山田信行「グローバリゼーションと日本的システム」〕29頁参照。

18) 伊丹『日本型コーポレートガバナンス』111頁。

19) 同書,119頁,125頁参照。

20) 同書,58頁。

21) 山本鎭雄・田野崎昭夫編著『新明社会学の研究−論考と資料−』時潮社,平成8年,155頁参照。

22) 伊丹『日本型コーポレートガバナンス』69頁。〔 〕内補足は筆者。

23) 伊丹敬之『場のマネジメント−経営の新パラダイム−』NTT出版,1999年,129頁。

24) 伊丹『日本型コーポレートガバナンス』152頁,158頁,161頁。

25) 同書,181頁,173頁。

26) 同書,189頁。

27) 同書,190頁。

28) 同書,222-224頁。

29) 同書,315頁。
 

              
 
 
X ま  と  め −経営思想としての虚実−

 伊丹の人本主義企業「論」は,日本的経営論の「昔の夢をもう一度」と熱望する。

 「人本主義」企業論は,経済同友会の大塚萬丈が敗戦直後に構想した「企業民主化試案」におおきな刺激をうけ,現在では破産状態にある自説:人本主義「思想」を再生・復活させようと試みた。

 伊丹は,新企業制度案の骨子を公表したのは1993年のことだが,そのときは,大塚萬丈の「企業民主化試案」の詳細はしらなかったと語っている。

 後藤俊夫『忘れ去られた経営の原点−GHQが教えた「経営の質」[CCS経営者講座]−』 (生産性出版,1999年)は, 経済同友会企業民主化研究会編『企業民主化試案−修正資本主義の構想−』昭和22年11月 に触れていた。伊丹の「人本主義〈再説〉」は,このたぐいの指摘に示唆をうけて構想されたものではないかと,筆者は推測してみたりもする。

 筆者は,1987年9月日本経営学会第61回大会の自由論題で, 「『所有と経営の分離』問題再考−1940年代経営学史上の一課題−」という研究発表をした 1)それは,戦時期と敗戦後にそれぞれ公表された,「経済新体制確立要綱」1940年12月と「企業民主化試案」1947年11月とを比較検討している。

 もっと早い時期,日本経営史上のそうした論点を指摘した文献として,藻利重隆『株式会社と経営者』 (同文館,昭和23年7月)などもある。また, 戦後日本経営研究会編著『戦後日本の企業経営』 (文眞堂,1991年)第3章「戦後日本資本主義と経営思想」は,経済同友企業民主化研究会編会『企業民主化試案−修正資本主義の構想−』昭和22年11月に論及している 2)

 いずれにせよ,伊丹の人本主義「論」は,再構築の方途を「〈デジタル〉人本主義」にみいだした。だが,それに値する中身を用意できていたかは,おぼつかない点である。しかし,コーポレート・ガバナンス問題にむすびつけて論じれば,死に体同然だった人本主義が蘇生でき,そしてまた,大塚萬丈「企業民主化試案」をテコ〔ヒント〕に手をくわえれば,人本主義がうまく再構成できると考えた,と推測される。

 経済同友会「企業民主化試案」1947年にいたく感動したらしい伊丹は,その結論部分を直接紹介する 3)つづけて,その要点を「伊丹試案」と比較する 4)だが伊丹は,現代の経営学にとって重要である,つぎのような問題の所在に気づいていない。

 大塚〔萬丈〕によれば,それ〔企業民主化試案〕は,「優良且能う限り低廉な商品」を「能う限り多量に生産」することに他ならない。高度成長が終りを告げ,地球規模の環境問題の存在が顕在化した今日,こうした考えかたが根底から問い直されねばならないことは明白である。新たな〈公益性〉の獲得と従業員の〈公平感覚〉の尊重という重大な社会的要請によく応えていくためには,企業システムはどのように設計されねばならないのだろうか。戦後50年を経て,〈企業民主化〉論が投げかけた難問はなお未解決のままに残されているのである 5)

 伊丹「人本主義」企業論=「コア従業員」論・「新企業制度」構想は,この指摘にある「従業員の〈公平感覚〉の尊重」,企業の「〈公益性〉の獲得」などを完全に欠落させている。

 伊丹説では,経営者もふくめたコア従業員のみ〔もちろんこれにコア株主もくわえて〕大事にできればよく,それ以外の企業利害関係諸集団は配慮されていない。とくに,社会的弱者に立場におかれている人々の問題,いいかえれば諸種のノンコアたち,ジェンダー〔とくに女性〕,身障者,少数民族,そして地球環境や,資源・エネルギーなどに関する問題意識は不在であり,それとの接点すらない。これが「人本主義」の本義である。

 既述のように,たとえコア従業員であってもその身分が保証されていない。「企業戦士」と讃えられてきた彼らはときに,「会社共同体への自己同化」 6)を仕上げた「社畜」と蔑称された。

 三井物産で「会社をとるか自分をとるかの攻防戦」を闘い,同僚の過労死にも遭遇したある商社マンは,「個人が人格的に会社に隷属してい」て「当たり前の権利を主張することができない」日本の会社員は,自分を剔抉し,訣別せよ,と訴えている 7)

 現在進行中の事態は,経営者側から提起された,「もはやサラリーマンとしての身分は保障されないのだ」という冷厳なる現実〔である〕。……「会社人間」サラリーマンたちが,会社という鎧を脱いで,1人の人間として,自らの生き方,自らの人格のありようを考え始めた時,日本の会社も,行政も,すべての社会のありようも,重大な変化を遂げるであろう 8)。 

 日本社会の多数派は,労働運動ばなれをおこして無思想・自然思想・天皇制へと埋没するコースをたどり,いわゆる「会社主義人間」「働きバチ」として,ひたすら体制順応・企業奉仕に邁進した。その結果,バブル経済のという一過性のご褒美にあずかったのち,あえなくもリストラによる〈キリギリス〉の命運におびえる境涯へと押し出されたのである 9)

 現在,日本で進行しているこのような動きは,アメリカでは,すでに1980年代にはじまっていた。……従業員の賃金格差が拡大し,一部のコアグループとそれ以外のグループに分かれ,数の上ではごく少数とそれ以外の多数というアンバランスな二極化に向かっている。

 このような雇用システムの変化は,均質で安定的な中流階層を基盤として成り立っていた日本社会を大きく変えていくことになるだろう 10)

 人本主義は要するに,新たにデジタルということばを頭に付け足してはいるが,今日,企業内部から外部環境にわたって生起している深刻な問題を,経営学という学問の域外に追いやった主張である。

 21世紀に生きのびようと衣替えした「伊丹の新説」(?!)であるが,結局,グローバル時代においては不適マークを貼られるほかない。伊丹流「日本型コーポレートガバナンス」論の命運は明らかであって,以後,退場を促されるべき《虚偽イデオロギーの経営思想》である。

 行政は権力をもち,企業は金力をもっている。だが個々の市民はなんの力もない弱い存在である。権力や金力にかかわらなくてもすむ学者が市民の側に立つのでなければ,だれが市民の利益を守るのだろうか 11)

 伊丹学説は,斯学界にこだまする「人本主義,退場せよ」との声を鎮めたいのであれば,最低限,他者からの批判に答え,論争もしたうえで再度,周囲の評価を仰ぐべきであろう。


  【 付  論 】

 「経営理論」としての人本主義。……吉田和男は,伊丹説をこう位置づけている。

 日本型経営制度の特徴を特殊性という立場ではなく,伝統的な経済学をすこし修正した,既知の諸定理を活用する普遍的論理から解明する立場であり,反証主義的な検証をおこなうための適切な枠組をもつ,と 12)

 しかし,2000年に「デジタル人本主義」を提唱するにいたった伊丹敬之の立場は,反証主義とは縁遠い地平に出奔していった。

 伊丹が人本主義を標榜する以前の著作,『日本的経営論を超えて−企業経営力の日米比較−』 (東洋経済新報社,昭和57〔1982〕年 は,興味ある発言をしていた。

 「日本的経営の見直し論や評価論をいう人々も,結局は日本的経営が高い成果をあげてきたと信じているからこそ,見直しをし,評価をしようとしているはずである」。

 「『日本的経営』……をやや美化しすぎて語ることの害は大きいのではないか」。

 「『日本的経営論』に酔ってしまうのは百害あって一利なしである」。

 「もっと大きな視野から,日本の企業経営の現実を説明し,あるべき姿を考える必要があるのではないか」 13)

 以上の発言:「はず」「ではないか」と現状を分析する論が,いつのまにか,「である」と判定を下す規範の説に脱皮した。現段階の伊丹説は,日本の企業経営のあるべき姿を追い求めている。

 だが,この国産業社会のなかにもはや「青い鳥」 は飛んでおらず,求めるべくもない。

 「従業員主権の根拠は,企業の成長と不可分の関係であった」 14)

 1970〔〜1980〕年代をもう一度と夢にた伊丹人本主義は,「過去の一時期を代表した〈ひとつの学説〉」である。

 表3「日本的経営論に対する評価の変遷」 は,日本的経営論にまつわる,時代ごとの代表的な思潮を整理したものである。

 −−伊丹説よ,「経営の未来を見誤る」こと,なかれ!
 


 
表3 日本的経営論に対する評価の変遷
時 期
評  価
内   容
論  者
日米関係経営史


 第1期
1950年代
 

 「封建遺制」論   G H Q  〈日本企業のアメリカ化〉


 第2期
1960年代
 

±
 「実質合理性」論    J. C. アベグレン  〈日本の高度成長と企業の飛躍〉


 第3期
1970年代

 「高度経済成長要因」論  OECD   〈日本型企業制度の成立・発展〉


 
第4期
1980年代

 ++
 「欧米のモデル論」  E. F. ボーゲル 
 E. O. ライシャワー
 〈アメリカ企業の日本化と日本企業のグローバル化〉


 第5期
1990年代

+〔<& >〕−
 「ポスト・フォーディズム」論  M I T,  B. コリア  =リストラクチャリングの明暗=
   出所) 河西宏祐『日本の労働社会学』早稲田大学出版部,2001年,62頁,表3-2,および塩見治人・堀 一郎編著『日米関係経営史』名古屋大学出版会,1998年,368-369頁を参照,合成。

 
【引用注記】

1) 裴 富吉「『所有と経営の分離』問題再考」,日本経営学会編,経営学論集58集『企業経営の国際化と日本企業』千倉書房,昭和63年。

2) 戦後日本経営研究会編著『戦後日本の企業経営』文眞堂,1991年,100-101頁。

3)   伊丹『日本型コーポレートガバナンス』319-324頁。

4) 同書,324-327頁。

5) 岡崎哲二・菅山真次・西沢 保・米倉誠一郎『戦後日本経済と経済同友会』岩波書店,1996年,70頁。〔 〕内補足は筆者。

6) 井上達夫『現代の貧困』岩波書店,2001年,157頁。

7) 伊澤次男『会社をとるか自分をとるか』はまの出版,1997年,37頁,143頁参照。

8) 設楽清嗣『会社ムラから生還せよ−大リストラ時代のサラリーマン自立道−』毎日新聞社,1999年,〔はじめに〕3頁。〔 〕内補足は筆者。

9) 新田 滋『超資本主義の現在』御茶の水書房,2001年,171頁。

10) 高山与志子『レイバー・デバイド−中流崩壊,労働市場の二極分化がもたらす格差−』日本経済新聞社,2001年,はじめにA-B頁。

11) 西山夘三・早川和男『学問に情けあり−学者の社会的責任を問う−』大月書店,1996年,101頁。

12) 吉田和男『解明日本型経営システム』東洋経済新報社,1996年,104頁。

13) 伊丹敬之『日本的経営論を超えて−企業経営力の日米比較−』 東洋経済新報社,昭和57年,10頁,217頁,218頁,はしがきD頁。傍点は筆者。

14) 佐久間信夫・出見世信之編著『現代経営と企業理論』学文社,2001年,107頁。
 



   ◎ 2001年5月25日脱稿。

  『大阪産業大学経営論集』第3巻第1号,2001年10月20日掲載。

 本HP 2001年10月21日公表(用に改・補筆)。


 お願い:本稿の引照は基本的には,上記『経営論集』の参照を乞いたい。本ホームページからの引用などをおこなうばあいは,その旨「学術的なルール」に準拠した方法を採ることを願います。
 


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ウェッブ版における「補 論」】

随時補説・追論したもの

 


ウェッブ版における「補 論」@】

 日本企業の多国籍化が本格化したのは,1970年代末以来の日米‐日欧経済摩擦の激化,さらに1985年のプラザ合意にもとづく円高が本格化し,輸出志向型を維持できなくなって以降のことである。以後,日本企業の洪水的ともいえる多国籍化がはじまったのである 1)

 伊丹「人本主義」経営思想は,その発想をしめした1980年代後半からすでに,理論的有効性をうしないはじめていた。その後につづく世界経済の動向・趨勢は,時代と遊離していく人本主義の考えかたをより鮮明にする。

 過去一時期に隆盛をきわめた日本的経営は,人本主義経営思想をつくる基盤を提供した。けれでも,人本主義は,その後に急変をみせる経済環境に対応するための「日本経営の理論的指針」を用意できたのではない。

 本稿は,そうした人本主義経営思想の問題性を実証的に分析し,かつ基本的な理論批判をくわえたものである。
 


ウェッブ版における「補 論」A】

 伊丹説「人本主義」企業観の提言した日本的経営論「デジタル人本主義化の方途」は, 新・日本的経営システム等研究プロジェクト編著『新時代の「日本的経営」−挑戦すべき方向とその具体策−』 (日本経営者団体連盟,1995年)と「同類の労務政策」をかかげていた。

 だが,日経連の公表した同上書は,「雇用関係のアメリカ化の進行といえる側面をもつ」 2)と理解されている。

 この理解はまちがいなく,伊丹人本主義の日本的経営「観」とまっこうから対立する。

 つまり,「デジタル人本主義化」を,日本企業の雇用関係において経営政策的に進展させよと,となえる伊丹の立場を否定している。
 


ウェッブ版における「補 論」B】

 後期資本主義ともいわれるこのグローバリゼーションの時代においては,知識体系は労働者よりも資本側・企業側に役立つようなかたちで発展している。ここで重要なのは,私的所有権や資本の蓄積といった資本主義に特有な概念が当たりまえとして,とらえらえていることである 3)

 伊丹敬之「人本主義企業」論が「強い者:資本,企業」に味方をする学問の展開
だったことは,あらためて指摘するまでもない。


ウェッブ版における「補 論」C】

 伊丹敬之/雄二郎『失われなかった一〇年』(NTT出版,2002年6月)が公刊されていたが,筆者はいままで〔2002年10月14日〕,本書に論評をくわえるいとまがなかった。というのも,購入した当初本書をパラパラとめくってみたが,どうも読書欲をそそられなかったからである。10月にはいってようやく,本書『失われなかった一〇年』を通読することができた。

 同業者のある知人〔もちろん経営学者〕は,筆者が謹呈した本稿「日本経営と人本主義企業論−資本制会社思想論−」を一読してくれたのち,「伊丹説への批判は最高だ!」という(私信メールのなかで),それはもうベタホメの感想を届けてくれた。その知人=経営学者は,最近公刊の
日本経営学会年報『経営学論集 第72集』
(千倉書房,2002年)に掲載された論稿中で,「人本主義の経営理論が理論的に妥当しえない〈過去の学説にすぎない〉こと」を分析,主張していた。

 過去,人本主義経営思想がいかにジャーナリスティックにもてはやされてきたとはいえ,最近における日本経営学界の大方の評価は,伊丹「人本主義企業」説に対して理論的な妥当性を認めていない。

 伊丹自身は,自著
『人本主義企業』1987年が「日経ビジネス文庫」版で,2002年3月に復刻された事実を挙げて,「多くのビジネスマンの興味がまだある」,「人本主義が90年代に失われなかったことの一つの小さな証拠としてあげるのは,あまりにも我田引水であろうか」と,反撃している 4)

 しかし,学説的な価値を認定されたからといって,今後=未来をみとおす理論枠組であることまでが証明されたわけではない。この点は後述にもあるとおりである。伊丹は,自説「人本主義」学説の,21世紀における意義さえ確信しているかのようである。当人がそう独白しても,
「おんりーいえすたでぃ 90年代」的な価値さえろくに認知されなかった
過去の学説,つまり「失われた一〇年」における日本経営を適切に説明できなかったそれである。したがってそれは,21世紀にまで存命しうる「まともな理由」を用意できていない。

 その意味では,今回公表された
伊丹敬之/雄二郎『失われなかった一〇年』は,弁明の書であるよりは,繰り言あるいは身勝手ないいぶんに聞こえなくもない。本書全体を読んでみたが,筆者のように批判をくりだした論者に対してこそ,最低限必要な,説得力ある反論部分がない。なんといっても,「失われなかった人本主義という経営の原理」が 5),21世紀における日本産業経営の根幹をまっとうに理解するための枠組を提供できていない。

 だからか,伊丹は「人本主義の原理は失われなかった,と思える証拠にくわしく触れる余裕はこの本にはない」といいわけする。ともかく「私個人の考えは変らなかった。しかし,世の中の表層流はたしかに変わった」だけだというのである。そして,「共産主義を抜け出して市場経済へ移行するという歴史的実験を世界で初めて行おうとしているポーランドが,おそらくガチガチの資本主義になるのではなく,人本主義のような線に落ち着くのではないか,という知的興味があった」と言及し 6),観察〔→興味〕の目線を国外にそらすのである。

 かりに,ポーランド産業経営において人本主義企業原理(?)が妥当するとすれば,もしかしたら,日本産業経営においてもその思想のさらなる延命が可能だと期待したい気持じたい,理解できないわけではない。だが,あまりにも現実性=実証性を欠いた夢想的な記述は,学究の発言とは縁遠いものである。
伊丹敬之/雄二郎『失われなかった一〇年』は,カール・ポラニーを引照したりもするが,「付け焼き刃」:おざなりの感をぬぐいえない。

 もともと,本書
伊丹敬之/雄二郎『失われなかった一〇年』は,学術書ではない。そうした性格の著作に借りて,自説の核心にかかわった重大な発言をすることには,よほど慎重でなければならない。

 結局,伊丹いわく,「失われなかったもの」=「日本企業の経営原理としての人本主義」「が,21世紀の日本のあり方を考える際の,基礎与件となる」と 7)。それでは,あと10年,いや8年あとの2010年でもよいだろう。一歩ゆずってそのとき,伊丹説「人本主義企業」論の真価を再問しようではないか。そのときの「いいわけ」が楽しみである。


ウェッブ版における「補 論」D】

 最近〔2003年6月のことだが〕,伊丹のつかってきた「人本主義」という用語を,迂闊にも不当・不要に拡大解釈し,誤用・乱用するだけでなく,悪用さえするような新聞記事をみつけた。

 『日本経済新聞』2003年6月18日「企業興亡 第1部 勝ち組の秘密−ウォルマート 新・人本主義の挑戦」。

 『日本経済新聞』2003年6月28日「大機 小機−人本主義から資本主義へ」。

 上記の記事はいずれも,資本主義に関しては部分的,要素的,下位的な概念・範疇・用語にすぎない〈人本主義〉を,《資本主義》と同じ水準・次元に乗せ,並べて論じている。

 資本主義対社会主義という対位・比較の設定は当然であるが,資本主義対人本主義というそれは度の過ぎた買いかぶりであり,ひいきの引き倒しである。

 「資本主義対人本主義」の関係性が想定できるならば,「社会主義対人本主義」のそれも予定されてもよいだろう。

 しかし,筆者は,カール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスと ITAMI Hiroyuki を同格とみなすような「知的冒険」に挑戦する気持をもたない。



ウェッブ版における「補 論」E】

 佐久間賢編著『経営戦略』(中央経済社,平成15年11月)のなかに,ある会議でトヨタ自動車会長奥田 碩が伊丹敬之の「経営政策思想」を褒めている記述をみつけた。紹介する。

 「伊丹先生が『日本型コーポレート・ガバナンス』2000年という本を出され,そのなかで株主や従業員を企業に対するコミットメントの強さに応じて,core 株主,core 従業員とそれ以外に分けて考えるアイデアをしめされている。これは,日本の実情に照らして非常に適切な考えかたであり,日本のコーポレート・ガバナンス改革をすすめるに当たり大いに参考になる」8)

 伊丹敬之先生のおしめしになったところの経営理論(?)は,日本の大企業経営者がたいへんお気に召す「概念枠組」を提供できている。本文中で関説したので一言で済ましておくが,伊丹敬之一橋大学商学部教授の企業思想的な立場は,強いものの味方である。

 伊丹先生がけっして,弱い者たちの味方でないことだけは,まちがいないだろう。

 21世紀に入ってまったく振るわなくなった学問領域にマルクス主義的経営学がある。マルクス『資本論』の「剰余価値論」に重大な疑義があることは,マルクス経済学陣営でくわしく議論されてきた論点である。

 しかし,奥田会長の会社であるトヨタ自動車にかぎっては,マルクスの提示した剰余価値論がきわめてよく妥当する会社:製造業だと観察して,すこしもうがちすぎたみかたにならない。

 『資本論』の「剰余価値論」が描く「凄惨な工場労働:人間労力〔剰余価値〕搾取の現場」は,期間従業員としてトヨタ自動車で働く労働者:弱い者の労働実態のなかに,もののみごとに具現されている。

 それも,現代的に高度に洗練された生産方式となって実現している。トヨティズムは20世紀中にすでに,世界最高峰の利潤創出機構を準備した。

 物的面における設備投資は極力避け,従業員=労働者の工夫と努力〔いわば労働力の蕩尽と搾取〕とに強く依存する方途によって「剰余価値」を創り,利潤・利益を存分に獲得する製造の方式を構築したのである。

 伊丹先生のご本『日本型コーポレート・ガバナンス』は,副題に「従業員主権企業の論理と改革−」と付していた。だが。トヨタ自動車の工場において労働する期間労働者:従業員にあっては,従業員の「主権」など無縁である。

 むろん,奥田会長においては,「従業員」と「主権」とはピッタリ合い,一心同体である。


 以上の記述を終えたあと,なんとはなしに再度,検索エンジンのグーグル(http://www.google.co.jp/)で「人本主義」をさぐってみたところ,新しくつぎのような記事に出会った。


忘れられない成功体験

伊丹敬之『日本型コーポレートガバナンス』NTT出版,2000年。

 

 10年ほどまえ,アルバイトで経済企画庁の海外向けPRビデオの仕事をやったとき,お手本として“Peoplism”(人本主義)というビデオをみせてもらったことがある。

 「日本企業はこんなに人間を大事にしている」

 「欧米諸国も物欲第一の資本主義から人間中心の人本主義に変えるべきだ」

と語る主役が著者(伊丹敬之)だった。

 1980年代,「日本的経営」が世界にもてはやされたころ,著者はそのセールスマンとして華々しく活躍した。当時書かれた『人本主義企業』1987年という本は,日本企業への賛辞で埋めつくされていて,いま読むと気分が悪くなる。

 これだけ恥をかいても,いまだにその成功体験が忘れられないらしく,本書では「デジタル人本主義」なるものが提唱されている。デジタル時代になっても,「企業の根幹が人間であることは変わらない」から「従業員主権」を守るべきだという。

 こんな単純な話でいいなら,コーポレート・ガバナンスはいらない。

 資本主義は,資本ではなく人間をコントロールする装置なのだ。それは,資本家が労働者を資本を梃子にして支配する一方,競争に敗れた責任は負うというカたちで責任の所在を明確にする制度である。

 日本企業が「人間を大事にしている」なんて,サラリーマンの誰も思っていない。

 大事にするのは,会社に忠誠を尽くす「従業員」であって,人格としての個人ではないのである。

 経営者が雇用を重視するのは,労働組合を手なづける手腕がないと出世できない昇進システムのためであり,著者〔伊丹敬之〕のような企業の実態をしらない経営学者の美辞麗句が,それを飾るのに利用されただけである。その偽善に本人がだまされているのだから世話はない。

 景気のいいときは,「人間を大事にする」とか「みんな平等に」とか耳ざわりのいいことをいっていればよい。問題は,現在のようになにを捨て,なにを残すべきかを決断するときである。こういうとき「従業員主権」で雇用を100%守っていたら,会社はつぶれる。資本主義は,こうして愚かな経営者と経営学者を淘汰するのである。

 http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/Itami.html

 

 産業界では,愚かな経営者は淘汰される。だが,学界のなかでは,的外れの理屈をこねくりまわす愚かな経営学者淘汰されない。このところが,学界事情にまつわる摩訶不思議である。

 ぬるま湯的世界に対するきびしい批判がもっと必要である。

 

 

 連続シンポジウム「転機の教育」第1回「教育の何を変えるのか」

【基調講演】ロナルド・ドーア氏(2)

 

 彼は,一橋大学のある先生が,日本の資本主義は,資本主義ではなく,人をもととする人本主義で,終身雇用制・年功序列制などの日本的経営を肯定するという論を紹介しています。

 この弁護士の説は,人本主義ははたして働く人々にとって,それほどすばらしいシステムであるかどうか疑問をもっているという。

 近代的な労働契約は,あくまで労働を使用者に売るものであって,人格を売りわたすものではない。

 人本主義の恩恵に浴する人々は,生まれたときから定年にいたるまで日本的な会社人間,あるいは会社人間たるべき競争を強いられてきた。

 その結果,自由や個性,人間らしさや創造性,文化的な営み,家庭や地域社会でのふさわしい役割,落ち着いた生活などを放棄し,物質的な富に必死,心貧しいコンフォーミスティックな(体制順応的な)生活を強いられている

 そういうような思想をもった人が非常に多くなって,やっぱり画一的な教育に対する反抗が,そこからも現われたことを認めなければならない。

   http://www.asahi.com/sympo/kyoiku/0202.html

 

 伊丹流「人本主義」企業論は,core 従業員それ以外の従業員(?)との区別を当然視する経営思想:である。その人本の主義は,授業員のなかに区別‐選別‐差別が生じる点を,合理化する主張でもある。

 「人本主義」は,従業員といってもピンからキリまで存在することを,当たりまえの前提とし,固定化する考えかたを採る。

 はたして,強者の立場:論理を尊ぶ提唱であるそうした理論的な特性こそ,「人本主義」企業論の本旨である。

 

 

このさいだからいいたい放題

無意味な「経営幹部のゴーイング・コンサーン

インタビュアー 飯坂彰啓

 

 ●運 営 者 ……経営幹部についてのリスク・マネジメントはかなりしっかりしています。それでも覆いきれないくらい,最近の経営の破綻ぶりは無軌道であるということでしょう。そういう企業のゴーイング・コンサーンに果たして意味があるのだろうかと思います。

 ▲飯坂彰啓  −−経営幹部のゴーイング・コンサーンにしかなっていないんですけど (笑)。

 ●運 営 者 ……株主にとっては,なんの意味もありませんな。なんせ,ちょっとまえまでは役員には定年すらなかったんですから。人本主義というけれど,役員の人本主義がまず第一で,役員の人本主義がまっとうできるのであれば,従業員のほうもちょっとは考えてやろうかという……。

 ▲飯坂彰啓 −−ノーブリス・オブリージュというのが,まったくないんだねえ。

 ●運 営 者 ……「恥をしれ」といいたい。昔の偉人,たとえば高橋是清みたいな,すすんでわが身を犠牲にした人の爪の垢でも煎じて飲むべきです。でも,なにが恥ずかしいことなのかすらしらないんだもんなあ。どうしようもないですよ。

 http://www.ne.jp/asahi/shin/ya/desk/NJ2/13.htm

 

 「なにが恥ずかしいことなのかすらしらないんだ」とは,誰かにも妥当する文句である。

 「役員の人本主義がまず第一で」とは至言である。ピラミッドの〈下部‐周辺〉に降りていくにしたがい,人本主義思想の実質内容はどんどん希薄化する。

 本社員=従業員ですらそうなのであるから,それ以外の non-core 従業員(?)にとって,人本主義思想は論外の沙汰である。

 ある意味で人本主義は, non-core 従業員という存在に対しては,否定的な環境と敵対的な制度をもたらす経営思想である。

 筆者はさきに,だから,トヨタ自動車会長の田 碩においてこそ「従業員」と「主権」とはピッタリ合い,一心同体だと書いた。

 田 碩会長伊丹敬之の経営学説を褒め上げる事由は,ここに明らかである。

 


 

【引用注記】

1) 渡辺 治『日本の大国化とネオ・ナショナリズムの形成』桜井書店,2001年,156頁。

2) 角野信夫『基礎コース経営組織』新世社,2001年,117頁。

3) 清水耕介『市民派のための国際政治経済学』社会評論社,2002年,165頁。

4) 伊丹敬之/雄二郎『失われなかった一〇年』
NTT出版,2002年,205頁。

5) 同書,200頁。

6) 同書,203頁,55頁,201頁。

7) 同書,196頁。

8) 佐久間賢『経営戦略』中央経済社,平成15年,107頁。





          
  ● 参  考 ●

 有斐閣が筆者あてに送ってくる同社発行の月刊冊子『書斎の窓』第511号,2002年1・2月は,毎月発売予定である図書の広告を,いつものように,巻末に一括掲載している。

 同誌66頁に伊丹敬之先生の新著が宣伝されていた。その書名は,2002年1月中旬発売予定の,

 『創造的論文の書き方』

というものである。


 同書に関する 宣伝文句をまず,引用する。


 「論文の書き方とはつまるところ研究のしかた考えかたなのだ,という強烈にして当然のメッセージを,学生の悩みに答え,著者の経験を整理し,指導の現場からの手引きを開示してアドバイスする。ハウツーやマニュアルをはるかに超えて展開する,新・学問のすすめ」。


 つぎに,同書の《主な目次 》を紹介する。


 創造的な論文の書き方
 
 対話編 若き弟子たちの悩み
  第1章 研究するということ
  第2章 文章を書くということ
  第3章 考えるということ,勉強するということ

 概論編 研究の仕方,文章の書き方
  第1章 テーマを決める
  第2章 仮説と証拠を育てる
  第3章 文章に表現する
  第4章 止めを打つ
  第5章 小さな工夫,ふだんの心がけ

 付 録 論文の書き方について(伊丹メモ統合版)


 本書『創造的論文の書き方』 「重版出来」の新聞広告が,2002年2月14日『日本経済新聞』朝刊1面右下に出た。この広告宣伝における謳い文句を,冒頭部分のみ引用する。

 本物志向の人に贈る 新・学問のすすめ!

 さすがは,伊丹敬之先生の書かれたご本である。1カ月で初版を売り切ったのだろう。ご同慶のいたりである。



 有斐閣の月刊冊子『書斎の窓』第514号,2002年5月は,伊丹『創造的論文の書き方』 に対する加護野忠男〔神戸大学〕の書評を掲載している。こう論評する。

 「批判的な読者を説得しようとする過程での思索と知的遊弋には大きな価値がある。批判的な読者の目から,自分自身の思考過程とその産物を眺めなければならないからである。この知的遊弋を効果的に行わせるように指導する……」。

 なかなか,いいことが書かれている。しかし,伊丹先生は,他者=「批判的な読者の目から,自分自身の思考過程とその産物をながめ」ることのまったくない,そして,独自〔独善?〕の領域のなかに遊弋するばかりの経営学者である。

 だから,問題はむしろ,「論文の書きかた」を指南しようとするこの学者先生の〈思考過程〉じたいを,「批判的な目」で観察するところにある。


  ※ 2001年12月22日,2002年2月14日・5月31日補記


 毎月,日本経済新聞社より筆者にもとに送られてくる「日経の新刊書」というパンフレット2002年3月号が到着した。

 そのパンフレットは,2002年3月1日付けで,伊丹敬之先生の『人本主義企業』が日経ビジネス文庫に収録され復刻されることになったと,宣伝・広告している。

 1987年12月に発行された本書『人本主義企業』はすでに,1993年6月,筑摩書房から文庫本化され再刊されていたが,在庫切れになっていた。今回あらためて,日本経済新聞社から文庫本として再発売されることになった。

 本書は,日本経営学説史における〈古典的な著作〉 だといってもよい業績である。とはいえ,再び文庫本となって復刊された意義は,いったい,どこに求められればよいのだろうか。

 本文中で言及があった表現を借りるならば, 伊丹風「おんりーいえすたでぃ 90年代」ならぬ ,伊丹風「おんりーとぅもろー 21世紀」のツモリなのだろうか。

 いやはや,時期的にはもはやほとんど「アナクロニズム」というほかない刊行物ではないか,と感じる。

 昨年来,日本の国営放送といってよいテレビ局が「プロジェクトX」なる番組を編んで,日本人・日本民族が過去においてなしとげてきた諸偉業を電波にのせ,放映してきた。これは,みる者をして非常に感激させ,涙腺をゆるませたとても良い番組である。

 ただし,その番組「プロジェクトX」は,実際諸界の過去における話であって,伊丹敬之学説はその実質において,過去にのみ通用すべき『バブル的企業理論』の構想・展開である。

 『人本主義企業』は,その「歴史的な価値」を認められたがゆえに,今回の代表作「再復刊」も実現したのだ,とうけとめてみてはどうだろうか。これは,けっして皮肉でいうものではない


 ※ 2002年3月4日補


 追って,日本経済新聞2002年3月7日の図書広告欄に,今回の伊丹敬之『人本主義企業』文庫版復刻をしらせる宣伝が出ていた。

 本書の副題は「変わる経営・変わらぬ原理」とあったが,その宣伝文句には「資本の論理では人は動かない」「ヒトを経営の中心におく〈人本主義〉こそ,戦後日本の経済的成功の原理なのだ」と謳われている。

 しかしながら,資本制企業の経営管理にあっては,「資本の論理では人は動かない」ものとはいえずむしろ,「資本の論理に突き動かされざるをえない」「人が資本の論理を動かす」ものなのある。
 
 叙上のみかたは,経営学理論の初歩的に属するものである。

 資本の論理に動かされる「ヒトが経営の中心におく」ことは,なにもあらためて,〈人本主義〉にいわれるまでもなく,資本主義体制下ではごく当たりまえの,普遍的な事実である。

 はたして,戦後日本の経済的成功の原理を「〈人本主義〉要因」にだけ求めることは,正鵠を射た認識だろうか。それ以外にも,その成功を実現させた「政治経済史的な諸背景・諸原因」がなかったのか。

 伊丹先生のいうとおりであるならば,さらにその後における日本の「経済的失敗の変わらぬ原理」ももっぱら,その「〈人本主義〉要因」に求めることができるのではないか。

 戦後日本の企業すべてが〈人本主義〉的な要因のみをもって成功したのではない。このことと同じように,さらにその後における,日本の企業が失敗してきた基本的な原因が〈人本主義〉を採用しなかった点に求められるわけでもない。

 そのことは,1990年代に崩壊,倒産した日本の諸企業を観察すれば,即座に理解のいくものではないか。むろん,伊丹先生ご推奨の人本主義経営方式でやってきたから,つぶれてしまった日本の会社も多くあった,といえなくもないが。

 日本企業の「成功論」に関した〈単なる要因分析の一結論〉を絶対視し,これを,未来永劫に妥当する経営「政策」論として原理「論」にも変換できたと,伊丹先生は思いこもうとしたのである。

 そのように〈われを忘れた〉経営学者のたくましい拡大解釈は,誇大妄想が天上まで飛翔してしまったといえる。

 過去に発現した「一時の栄光」(成功神話)を忘れられない学者先生にとっては,それはそれは後生大事であるのが,持論の「命題:〈人本主義〉」であるかもしれない。

 だが,どこまでも「変わる現実」のなかで,絶対に「変わらぬ〔自説の〕原理」がありうるなどと信じこむ学者は,いい加減,お払い箱にしたい。

 現状の日本企業にとって「経営の未来を見誤った」人本主義企業論は,なんの薬効もない。それは,経営の現実に目をつむった経営学者の空論的な幻想である。


 ※ 2002年3月7日補記



 
 1980年代の日本が世界経済のなかで銀メダルを手にし,金のアメリカを狼狽させるほどの勢いをしめしたことがどれほど日本国民の自負心と自信を高めたか,想像できよう。屈折しているようにみえても,ナショナリズムは単純率直なものである。

 日本社会の安全性や日本型経営などが世界一であると,日本人は誇るようになった。成熟した国際認識のなかで自己を相対化する能力を欠くと,自信と自負は容易に独断と傲慢へと変容する。

 もう欧米に学ぶものはないとのことばも聞かれた1980年代であった
(『朝日新聞』2002年4月3日夕刊,五百旗頭真「〈文化欄〉ナショナリズム再考−近代日本史が語る排外主義の愚」)

 当時,アメリカバブルの崩壊を目の当たりにして,“日本の経営手法にまちがいはない”といった無責任な一部の議論が巻きおこりはじめていたのも,事実である。

 しかし,日本経済が“うしなわれた10年”を生んだ根本の原因は,日本企業が1980年代の成功体験を捨てきれず,経済がグローバル化するなかで,企業価値の向上を怠ってきたことにある。

 日本企業は,どのような視点で改善をすすめるべきか。

 短期的には株主価値を重視するアメリカ流の視点をとれいれつつ,長期点には顧客や従業員を重視し,えられた価値を社会に還元する日本的経営の良い部分を捨ててはならない,ということである
(昭和シェル石油社長兼COO,ジョン・S・ミルズ「日本的経営の良さを捨ててはならない」『WEDGE』第14巻第11号,2002年10月20日,5頁)

 筆者は考える。「日本的経営の良い部分」とははたして,なにか。21世紀にはいって日本企業の「良い部分」と称せるような特性は,どこに存続しており,あるいはまた,どのように発揮されているのか。


 
日本の会社でもっとも利益を上げている1社にトヨタ自動車がある。だが,この日本を代表し,世界に誇れるといってよい自動車製造会社が「長期点には顧客や従業員を重視し,えられた価値を社会に還元する日本的経営の良い部分」を,いったいどの方面においていかに発揮してきたのか。

 
トヨタ自動車は実際,日本に住む人びとがそのこと:自社の「良い部分」をきちんと認識できるように「対社会的な経営政策」を,存分に実行してきた会社であるのか。その原資は,十分すぎるほど溜めこんできている会社である。この不景気の日本経済のなかで,「トヨタ銀行」とはなお,この会社の別名でありつづけている。

 
日本財界の総本山「社団法人 日本経済団体連合会」の会長を務めているのは,トヨタ自動車会長の奥田 碩である。


 
1937(昭和12年)年8月28日創立のトヨタ自動車株式会社(TOYOTA  MOTOR  CORPORATION)は,2002年3月末現在,資本金 3, 970億円,従業員数 66, 820人(連結会社合計 246, 702人)という,日本で有数,かつ世界的規模の大会社である。


■トヨタ自動車 経営状況生産実績(連結ベース)(1億円未満切捨)

 

平成13(2001)年4月期

(平成12年4月〜平成13 年3月)

平成14(2002)年4月期

(平成13年4月〜平成14年3月)

 売 上 高 134,244 億円 151,062 億円
 経常利益 9,722 億円 11,135 億円
 当期純利益 4,712 億円 6,158 億円
 株主資本当期
 純利益率
6.8% 8.5%
 連結子会社数 445 社 564 社
 持 分 法
 適用会社数
51 社 50 社

 http://www.toyota.co.jp/company/outline/b/index.html




 ※ 2002年4月7日〔『朝日新聞』〕,2003年4月19日〔
『WEDGE』〕補記




■ 2003年日本経団連の新しい提唱 ■


   日本経団連〔日本経済団体連合会〕は,経営労働政策委員会編著『2003年版 経営労働政策委員会報告−多様な価値観が生むダイナミズムと創造をめざして−』日本経団連出版,平成14年12月を公表した。

   本報告の作成者である経営労働政策委員会は,実業界27名の委員と学識経験者7名のアドバイザーで構成されている。アドバイザーには4名の大学教員くわわっており,その1人が伊丹敬之である。

   伊丹は,一橋大学大学院商学研究科教授の立場から,「資本家‐経営者団体の立場あるいは価値観」に対して,その指導指針や行動哲学をアドバイスする仕事に関与してきている。

   本報告の冒頭には,トヨタ自動車会長・日本経団連の奥田   碩の「序文」が寄せられている。

   最近の日本をめぐる諸情勢は非常に暗く,先行きのみとおしも不透明である。しかし,本報告書の奥田「序文」は,将来への希望をこう述べていた。

   だれもが経済的な豊かさとこころの豊かさをともに追求しうる,活力と魅力のある国を築くために,経営者をはじめとする各界各層の「高い志」によるリーダーシップが必要であろう(同書,奥田「序文」7頁)

   この発言は,世界最高水準の会社収益を誇る自動車会社会長の,自信に溢れたことばであり,それ相応に説得力がある。

   しかし,いま日本社会は,全般的・平均的に「だれもが経済的に苦しくなっており」,「こころの豊かさをともに追求し」えないでいる。

   昨今の日本は確実に「活力と魅力のない国」に向いつつある。この事態を甘くみるわけにはいかない。

   「本論」では,伊丹敬之という研究者が庶民:一般大衆の味方でない事実を指摘した。しがない労働者・サラリーマン諸氏の応援団長役を,『2003年版 経営労働政策委員会報告−多様な価値観が生むダイナミズムと創造をめざして−』のアドバイザーを務めた経営学者に期することは,夢物語か。  


   「旧」マル経陣営の経営学者たちを中心に創設された「労務理論学会」発行の年報誌,『現代の雇用問題』(晃洋書房,2003年2月)は,「強い者の味方」である伊丹敬之先生に対するつぎのような批判を披露する。

   @   いわゆる「日本的経営」は,新しい時代をになう経営制度としてはすでに失格している。

   A   若者が働く意欲を喪失するような企業経営や職場の現状をどう変革していくのか,長期視点としては避けてとおれない課題である。日本の長期にわたる自民党政治や日本的労使関係は,このような重要問題を軽視しつづけてきた。

   B   日本の労働者,国民の雇用,生活が不安なのは,一方の当事者である労働者・労働組合や国民がまったく無視ないし軽視されて対策が立てられつづけたことに原因がある。

   C   離婚やホームレス,中高年の自殺が激増している日本である。失業問題は,数字以上にきわめて深刻である同書〔猿田正機〕,138頁,140頁,141頁142頁)

   −−たしかにそのとおりである。伊丹敬之のくりだす議論や提示する主張を聞くかぎり,叙上のごとき問題を解決するための手がかりは,皆無・無縁である。

   伊丹が日常的に営為しているのは,資本家‐経営者陣営のために有用で役立つ提言をなす努力であって,その「一方の当事者である労働者・労働組合や国民」は視野のそとである。

   したがって,その「反対がわ」というかその「周辺」にたむろする労働者‐サラリーマン諸氏の眼に映る伊丹敬之は,雲の上の住人としてあおぎみるべき〈偉い経営学者〉である。

   前掲,経営労働政策委員会編著『2003年版 経営労働政策委員会報告−多様な価値観が生むダイナミズムと創造をめざして−』日本経団連出版,平成14年12月の製作・発行に参画した実業界27名の委員はいずれも,日本有数の超一流企業で働く人びとである。

   かといって,ひともうらやむようなりっぱな日本の会社に勤務してきた労働者・サラリーマンといえども,すでにリストラ〔首切り〕の目に遭った人びとは多い。

   いまのところ会社で地位の安定している労働者・サラリーマンであっても,これからいつ,なんどき同じ目に遭うかもしれない。絶対だいじょうぶだという保障があるわけではない。

   伊丹の立場は基本的に,世評の高い大企業に勤務する者たちにとっても,けっして融和的なものではない。それは,より体制寄り,より強い者の味方!



 ※ 2003年2月20日補記



 ■ 経営コンサルタントの伊丹説批判 ■


   今日は,2003年2月20日。このページがウェッブ形式によって公表されてからすでに,1年3カ月が経過した。

   さて,インターネットの検索エンジンに「人本主義」と記入してクリックすると,ものによっては,本稿「日本経営と人本主義企業論」が第1頁めに出てくることをはじめてしって,びっくりした。

   「人本主義」で検索すると,まず,「伊丹敬之の著作紹介」や「伊丹先生をヨイショする」ページが数多く登場する。筆者の本稿のように「人本主義」を学術的に批判しようとする論稿〔や文章〕は,ごくまれである。

   ところで,ある検索エンジンで「人本主義」を探ってみたら,比較的まえのほうだが,経営コンサルタントの太田秀一という人物が伊丹学説に言及しているものをみつけた。

   「〈掲示板〉への書きこみ的な文章」の紹介になるが,それをここで参照しておく。

   太田秀一は,1960年北海道芦別市で出生,1984年慶応義塾大学経済学部(計量 →「計量経済学」のことか)卒後,日本IBMで製品マーケティング,役員補佐などを経て,1994年独立し,現職。EDI推進協議会普及啓蒙部会・委員(1998-),日本経済新聞「ネット時評」欄常任寄稿者,という経歴の人物であるEDIとは,Electronic Data Interchange:「企業間電子商取引」)

   なお,伊丹敬之も日本経済新聞とは深い関係をもつ学者である。

   太田秀一は,伊丹敬之〔ら〕を,つぎのようになで斬りにする(太田秀一 『ECスクエア通信』 No.42。 作成日:2002年05月10日,改訂日:2002年11月10日
 
http://www.cio-cyber.com/pj/ec2/BACK/n042.html#K4

   日本の「人本主義」は,まちがっていても,誰も死ななくてすむ。 だから当然,「キレイ事だらけ=まちがいだらけ」になりました。 それは,関西地方の「K大学」や関東地方の「H大学」の先生方が座っていらっしゃる, ふかふかの「安楽椅子」で生まれ,育ち,そして死んでいった,稚拙な幻想だったのです。

 日本は「論外」です。 幻想なんか学んだって,キモチがいいだけで,時間のムダですから。絶対に戦い〔企業競争のこと〕には勝てない。

 現に,人本主義経営の有名学者を,ありがたがってK大やH大から顧問に招いた日本の大会社は,昨年や今年,巨額の赤字を出しましたね。

   −−いうまでもなく,関東地方の「H大学」の先生方を代表するのが「人本主義」企業論の提唱者,一橋大学大学院商学研究科教授伊丹敬之である。また,関西地方の「K大学」〔神戸大学大学院経営学研究科教授〕の先生方を代表するところの〈特定の先生〉が誰であるかは,日本経営学会〔界〕に属する人間であれば誰でも即座にわかることである。

   太田秀一の,伊丹教授〔およびもう1人の神戸大学教授(先述に氏名が出ていたが)〕の学説‐理論に対する批判は,「キレイ事だらけ=まちがいだらけ」の「稚拙な幻想だった」という点に集約される。

   しかしながら,筆者のように「人本主義」企業論に対して学術的に批判的論及をおこない,第3者にこの「幻想の非理」性を納得してもらうためには,もっと十分に記述を与えて真正面から考察し,より精緻に論旨を展開しておかなければならない。

   「人本主義」企業論のいたらなさを指摘するのは簡単だが,周囲にその問題点を的確に理解してもらう努力が必要である。

   本稿〔前掲の本論〕で筆者の放った伊丹学説批判論は「痛烈だ」と形容されている(関東学院大学 経済学部教授 高橋公夫の表現)。それに比較すると,太田の伊丹批難は簡単明瞭であって,その善し悪しはともかく,「断罪」である。

   一橋の先生のお説だからといって,世俗的には広く受容されているかのようにもみえる伊丹説である。だが,本当は虚偽のイデオロギーでしかない。わかりやすくいうなら,もうなんの役にも立たない,空中分解してしまった学説・理論である。地上にいる者たちはせいぜい,落下してくるその破片に当たって怪我などしないよう気をつけたい。



 ※ 2003年2月20日追記



■ 経済学者の伊丹説言及 ■


 岩井克人『会社はこれからどうなるのか』(平凡社,2003年2月)は,「すべての経営者,すべてのサラリーマン,すべての学生に捧げる」「21世紀の会社論」である。つまり,日本の「会社の仕組み」を「『勤める』から『使いこなす』へ!」かえるために「経済学者がやさしく語る」書物である。

 岩井は,本書のなかで「伊丹敬之」という経営学者に向かって,こう言及していた。

 従業員を単なる労働サービスの供給者とみなす伝統的なサラリーマン観の不毛さに対する反動もあって,日本型経営が華やかなりし1980年代には,振り子がまったく逆に振れ,「人本主義」ということばが一世を風靡した。

 かくいう私〔岩井〕も,日本企業をユーゴスラビア型の従業員管理企業とみなした論文を書いたことがあった。それは,株主ではなく,従業員こそ,日本の大会社の実質的な所有者であるという主張である。

 私は,日本のサラリーマンを会社の外部の人間とみなす従来の経済学のみかたよりも,日本のサラリーマンを会社の実質的な所有者とみなす従業員管理企業論のほうが,はるかに日本の実情をとらえていると思っている。だが,同時にいまとなっては,これはやはりゆきすぎであったといわざるをえない。

 なぜならば,もしサラリーマンが会社の所有者であったとしたら,ときおりマスコミを騒がす「過労死」など,おこるはずがないからである。サラリーマンが過労死するのは,あくまでサラリーマンが誰かに働かされている存在であるからである。

 それでは,会社の外部の人間でもなければ,会社の所有者でもないとすれば,いったいサラリーマンとは何者なのだろうか。その答えを,すでにわれわれはしっている。会社の所有者ではない会社の内部の人間とは,会社の経営者である(同書,150-151頁)

 −−本ホームページの筆者は,ごく最近,ある縁者が勤務している某会社内では,働かされ過ぎが原因で「過労自殺」者がすでに3名も出ているという話を聞いた。

 働きすぎとは縁のない学者先生(!)があいかわらず呑気に,「人本主義」企業論の「意味のない〔しかし有害な(?)〕延命化」を図るために〈口舌の徒〉ぶりを存分に発揮しているあいだも,〈日本的〉経営〔もしかしたら「人本主義」的(?)企業実践か?〕による残酷な仕打ちがサラリーマン諸氏に対してくわえられているのである。


   ※ 2003年5月2日追記


 ■ 日本経済新聞の広告に出た伊丹著書の広告 ■


   今日は2003年12月25日,クリスマスである。日本経済新聞に日本経済新聞社自身の発行する諸著作の広告が出ていた。

 その広告は「日経のベストセラー 年末・年始に読むこの一冊」という文句を謳い,その1冊に伊丹敬之『経営戦略の論理 第3版』を出していた。なお,筆者の記憶では1〜2週間まえにも,同じ広告をみていたはずである。

 ともかく,なんとまあ,驚くことなかれ,第3版に全面改訂されたこの本は,初版のときから「戦略論のバイブルだった,つまり「戦略論のバイブル〔『経営戦略の論理』初版〕全面改訂」したというのである。

 筆者は思わず「ノケゾッタ」。日本経済新聞社〔およびその著者〕には非常に残念なことだが,本書『経営戦略の論理』初版(昭和55〔1980〕年)を筆者が読んでも,「戦略論のバイブル」と感じられるような印象は全然もてなかった。

 実は,2003〔本〕年度に所属する大学学部において,筆者が担当した「経営管理論」という経営学の基礎的科目の前期授業では,主に「経営戦略論」の内容で講義をしてきた。そのテキストに採用した図書は,石井淳蔵・ほか『経営戦略論〔新版〕』(有斐閣,1996年)であった。

 石井らの同書は発行後7年めになっていたせいか,細かいことをいえば,内容の訂正や補説が必要な個所がめだった。そういうしだいであったからましてや,伊丹の新・経営戦略の論理』(日本経済新聞社,昭和60〔1980〕年。初版から数えて6刷め)などは,テキストを選ぶに当たりその対象にさえ上らなかった。

 とはいえ,「戦略論のバイブル!」だった伊丹『同書』をテキスト候補から除外したことを,筆者は,まちがいだとはすこしも感じていない。

 伊丹『経営戦略の論理』の初版は,昭和55〔1980〕年の発行である。例によって,販売促進策であるかのように追って,日本経済新聞紙上には本書の書評が掲載されていた。

 そのときの評者は,野村総合研究所大阪支所長青山浩一郎である。青山は「企業人の座右の書として残る」本だと,伊丹の同書初版をヨイショしていた(『日本経済新聞』1980年11月9日)

 現在,伊丹が会長を務める組織学会の機関誌『組織科学』第15巻第1号にも,『経営戦略の論理』初版の書評が掲載されているが,筆者はだいぶ以前に,全巻所蔵していたそのバックナンバーのほとんどをゴミに出してい処分したので,残念ながらその巻号は手元になく,いますぐそれを参照できない。

 本論でとりあげた伊丹『人本主義企業−変わる経営 変わらぬ原理−』 (筑摩書房,1987年12月)の書評も,実業界がわの識者が書いていたが,結局,ヨイショの域を出ていない感があった(本論T,注記 4) 参照)

 近日中に必らず,伊丹『経営戦略の論理 第3版』に関する書評が,それも日本経済新聞に載るはずである。どういうヨイショが,どの評者によってなされるか興味津々である。


   ※ 2003年12月25日追記