●裴 富吉 学術論文 公表ページ ●
−能率概念の体制無関連的な意味− 裴 富
吉
A leader in Efficiency Movement of Japanese Industrial World :
BAE Boo-Gil
T は じ め に−日本能率協会の創立− 戦前日本の歴史的展開は,1945年8月の敗戦を重大な区切にして戦後へうつる。日本が真珠湾攻撃直後「大東亜戦争」と呼称し,アメリカが「太平洋戦争」と呼称した第2次世界大戦は,日本‐ドイツ‐イタリア枢軸国の敗北に終わった。 連合国軍に占領された日本は,民主主義国に改変されることになり,抜本的というに近い諸改革がほどこされた。アメリカの軍事戦略的利害を基盤におこなわれた日本の戦後復興は,産業経済や企業経営の次元においては紆余曲折があったものの,1945年まで日本が独自に積み上げてきた生産能率・生産性向上・産業合理化の実績や成果を,1950年〔朝鮮戦争〕以降大いに活かす道を歩むことになる。 日本産業界が明治後‐末期より,経営能率増進にかかわり技術‐生産問題の改善・向上にとりくんできた経験や蓄積は,けっして軽少なものではなかった。そうした歴史的な前提があったからこそ,敗戦後〔それも1950年代以降〕において「戦前・戦中を連続させた」といわれるほど,日本企業の製造現場は刮目すべき発展・進歩をなしとげてきたのである。
戦時体制期,生産現場に対して急遽講じられた改善・工夫は,当面する実用〔=軍需緊急〕のための技法的諸対策であって,当時の環境要因=非常的状況においては必ずしも効果的ではなかった。しかも,むやみやたらな労働時間の延長で生産高を増やそうとするごとき,労働〔勤労〕者の肉体的諸条件を無視した精神主義の専制・先行にもうかがえるように,日本企業の製造現場は,能率増進の高揚のために不可欠な生産体制を,まともに用意も整備もできないでいた。 それでも,能率増進および生産性向上に関する連綿とした営為〔明治後‐末期,大正期,昭和戦前期〕が前提にあったからこそ,敗戦後実際に可能となった試みが多いといえる。とりわけ,能率研究およびその指導にたずさわる専門家の人材育成は,戦時期まで盛んになされてきた。
つまりこの国は,その先駆的な時代〔経営史的には1940年代前期まで〕があってはじめて,1970年代,企業経営運営面に関して“ジャパン アズ ナンバー・ワン”と称賛されたのである。社団法人日本能率協会編『まねじめんと60年−“エフィシェンシー”から“マネジメント”へ−』(同会,昭和47年)は,経営学的にみたばあい,どこまでさかのぼって日本の経営史・経営学史を眺望すればよいかを示唆している。本書記述の出発時点は,1912〔大正1〕年である。 本稿は,昭和17年3月に創立された日本能率協会の意味を,日本経営史から日本経営学史の問題領域に引きいれて議論し,その理論史‐実践史的な意義を探ろうとするものである。
なかでも,日本能率協会の初代理事長を勤めた森川覚三は,日本の企業経営史展開に関連させてみるとき,戦時から戦後の産業界においてどのような役割・任務をはたしたか,さらにその後における日本産業経済の発展・成長・飛躍に,どのような貢献をしたかを吟味したい。 本稿は,日本経営学史の立場に立ち,森川覚三という能率指導者に歴史的評価をくわえるのみならず,戦争の時代を生きてきたこの人物の生きざまを,「経営思想史」的視点により広い視野をもって理論的に考察するものである。
U ナチスドイツと森川覚三 森川覚三の執筆物からまず紹介するのは,昭和15〔1940〕年9月28日に初版を公刊するや非常に好調な売れゆきをみせた,『ナチス独逸の解剖』(コロナ社)である。本稿筆者所蔵のものは10月15日発行の4版であるが,「カギ十字に鷲のとまっているだいだい色の本の表紙」の本書『ナチス独逸の解剖』は,38版まで重ねたという1)。 『ナチス独逸の解剖』を森川が刊行したのは,「現在〔当時〕の吾々に数多くの示唆を提供してゐるナチス治政下の独逸,殊にその経済機構は何等かの参考になると信じたからである」2)。もっともいまとなってみれば,その「数多くの示唆」の真偽をみわけるのは,きわめてたやすい作業である。ともかくここではまず,この森川『ナチス独逸の解剖』を筆者が通読して気づいた誤謬を指摘し,批判をくわえておく。 @「ポーランド(波蘭土)について」 ……「それが独逸に刃向って万一惨敗し亡国の悲運に逢着しても,それに依って再び世界大戦に導く事が出来るであらう,その結果独逸が再び最後的に敗亡するであらう,然らば平和会議に於て再び波蘭土は前通り,或は以前以上の大きな領土に依って国を再興し得るに違ひないと云ふ様な飽迄他力本願的な功利的な考へが底にあった事は否めないと思はれる」3)。 1939年9月1日ドイツはポーランドに侵攻,第2次世界大戦がはじまった。またたくまにドイツはポーランドを蹂躙しつくした。森川は,ポーランド〔「平らな土地」という意味〕の歴史的な苦難の歴史をふりかえって,前段のような分析を披露した。しかし,ポーランドに関するその論評は,歴史的には誤れる観察であった。森川はその後において,この点を意識的にみなおしてきたのか。 森川に対しては,つづいて引照する以下の各項目に対しても,同質の疑問が提示される。 A「ナチスドイツのヨーロッパ制覇」 ……「惨苦の中から起ち上った独逸がもし欧州制覇の夢を実現し得たならば恐らくはこの鳶色の家並びに数々のこれ等の記念品は独逸復興の此の上ない記念として,その民族ある限り尊敬と感謝の念が捧げられ,この家を中心としてこのあたりこそは,復興独逸精神のメッカ,メヂナともなるであらう事が想像されるのである」4)。 なお,文中にいわれた「此の上ない記念〔品〕」とは,「ヒットラーの公室」「の壁面を飾るもので」あり,「1923年11月9日ミュンヘンに於ける革命失敗の日,卑怯なバイエルン政権の背信の機関銃に斃れた同志を永久に記念し感謝する為其の名を刻んだ銅版を壁に埋め,又其の内でも最も勇敢であったエッカート氏の胸像を飾った」それを指している5)。 いうまでもなく現在のドイツにおいて,その記念品:「エッカート氏の胸像」は「永久に記念し感謝する〔される〕」ことなどない,「過去の遺物」である。森川はそもそも,第三帝国に関する認識に関して,ナチス「独逸がもし欧州制覇の夢を実現し得たならば」という〈仮定〉をおいていたが,結果的にこれは,とうていみのがすわけにいかない〈おおきな過ち〉であった。 B「国会議事堂放火事件」 ……「当時伯林人士は尚ナチスの狂暴であった過去の印象から此の国会議事堂焼打は共産党狩りを断行する口実を設くる為ナチスの芝居として行はれたものであるとの噂さへした程であるが,時日の経過と共にヒットラーの性格も漸次国民一般に知らるゝに及び矢張り共産党の仕業であった事が後には確信さるゝに至った」6)。 森川の記述を一部借りていえば,「勿論これは後日談であるが付記して置く」7)が,そのドイツ国会議事堂放火事件はナチス〔恐らくヒトラー一味の指示がらみ〕の芝居であり,共産党狩りのためだけでなく,ナチスによる完全な国家全体主義的支配に道をひらくための謀略だった。このことは,いまではあまねくしられた歴史的事実である。 1945年以降も長らえた森川覚三であるから,戦前の歴史認識における自身の解釈に致命的な制約・限界があったことを認知できる時間は,十分にあったものと推測する。戦後に彼が,上記の放火事件に関連する〈歴史の真実〉に接しえなかったとは考えにくい。 C「ユダヤ民族虐殺の件」 ……「独逸,特にナチスを野蛮人の様に嫌ふ声が世界各国に起って居る様であるが,実は宣伝されて居る程非人道的な事は一つもないのであって無論経済的には迫害した,独逸国内に居堪らない様にした事は事実であるが故意に危害を加へた事はないのであった」。森川はそういって,「一般に何故ヒットラーが,ナチス独逸が,猶太人を斯く迄憎むか判らない点もある様に思はれるので此のナチスの猶太人整理事業を少し詳細に書いて見やうと思ふ」と述べ8),つづけて,ナチスによるユダヤ民族迫害の由来を説明している。 いまなお世界中に,「アウシュビッツの嘘」を虚構する似非知識人がいる。ただし,戦時中に前段のような見解を森川が開陳したからといって,それほど責めることはできない。当時は当然,ドイツの野蛮行為は宣伝されていなかった。しかし,いま,ドイツナチスがユダヤ人に「故意に危害を加へた事はない」などと主張したら,ドイツの歴史はもとより,世界の歴史にも無知な輩の妄言だと指弾されるほかない。 したがって,ヒトラー政権成立直後にはじまった一連のユダヤ人迫害に関して,「是だけの大騒ぎをし乍ら此日独逸国内に居住して居った猶太人で怪我をした者もなく,実に整然と計画的に行はれた事は美事であったが追はれた連中が本当の事を云ふ筈もなく,世界の与論は殆も猶太人を虐殺したかの様に伝はったのであった」9),と森川が本気で信じていたのであれば,それこそ,「穴があったらはいりたい」ほどの「赤っ恥をかいた」ことになる。 はたして森川は,戦後にいっそう明らかとなったナチスドイツによる600万人ものユダヤ民族虐殺の事実を,どのように回顧したのか。ぜひ,森川に尋ねてみたいと点である。 D「ナチスドイツにおける学問水準の低下」 …… 「焚書事件に依ってナチス独逸以前の猶太人文化を一挙に切り落したナチス独逸は,先づ各地大学の教授の不足に因り,同時に民衆の文化的低下を喰ひ止め得ない形勢となって来たので,早速ナチスの政治理論である大独逸民族主義を極端に主張し,ヒットラー総統の自叙伝『吾が闘争』を神聖視して,?に新独逸文化の基礎を見出さんと努力し始めたのであった」。 「若し今回の対英仏戦が予定通り独逸の欧州制覇に終らんか,国民意気の高揚と共に必ずやこのナチス独逸の純独逸民族に依る文化発展企画が何等かの形に於て急激に成果を結び来るべき事は予想に難くない」10)。 ナチス政権下,ユダヤ民族系の教授たちを一気に追放したがため,ドイツの高等教育機関はその学的水準を極端に低下させた。ドイツ民族‐国家全体主義論〔「血と土」論〕は,狂気に満ちた独善的な「人種‐民族」イデオロギーであった。ともかく,森川の想像した点,「ナチス独逸の純独逸民族に依る文化発展企画」は実現できず,完全についえたのである。 以上の問題については,ナチスのファシズム・イデオロギーを安直にうけ売りした能率研究家=指導者森川覚三の,歴史に対する感性,具備していた知識,現実認識の方法基盤などが問われねばならない。 E「義務労働の軍備的予備教育」 ……「体育と称して乗馬,自動自転車,貨物自動車等を実習させられ」る,「此の義務労働の真の効果は国民の全部が凡て此の門を通った後始めて批判され評価さるべきであると云ふのである。驚嘆すべき新時代が独逸に来るであらう事も今から眼に見えるではないか」11)。 国民皆兵体制の準備・構築は,自国の防衛を意図するためだけにとどまらない。とりわけ,他国を侵略する国家には不可欠の必須条件である。このことは,隣国侵略を国是とする諸国家においては共通の〈必然的な前提〉である。 第2次世界大戦中における森川の鑑識眼は,ナチスドイツの「今」=「当時の体制」をまともに射えていなかった。「驚嘆すべき新時代が独逸に来るであらう」か否か,その「後始めて批判され評価さるべきである」のはまさに,森川『ナチス独逸の解剖』昭和15年9月が提示した中身そのものである。
V 戦時体制期の能率運動
日本能率協会の誕生にいたる歴史的な経過については,社団法人日本能率協会編『10年間の足跡』(同会,昭和27年)第1章「日本能率協会,歩みのあらまし」が,まとまった記述を与えている。筆者本稿は,関連する事情についてごく簡単に触れるだけにとどめ,行論上とくに注目すべき事実にのみ言及する。 昭和16年12月8日開始された太平洋戦争〔日本は大東亜戦争と名づけた〕は,日本の諸製造業に対して戦時軍需生産体制を円滑に遂行するために大同団結し,生産増大にむけて職域奉公することをせまった。 日本能率協会はその戦争の開始をうけて,昭和17〔1942〕年3月30日創立された。日本能率協会は,各県の工場懇話会・工場協会を統合して昭和6〔1931〕年4月設立された日本工業協会と,能率事業をおこなっていた諸団体を昭和3〔1928〕年11月団結した日本能率連合会とを発展的に解消,統合し,結成された組織である。 ところで,昭和14〔1939〕年3月2日,「満州国」はすでに「満州能率協会」を創立していた。日本より3年も早く〈能率協会〉を用意した満州国は,原料資源供給国として戦時日本経済に対する基礎生産部門的な役割,いわば生産力拡充政策への協力を強く期待された。しかし,昭和12〔1937〕年7月7日日中戦争の開始にともない,また昭和16年12月8日真珠湾攻撃以降はもっぱら,戦争緊急用資材調達を重点主義とする生産増強策を要請された。 日本では昭和13〔1938〕年4月1日公布,5月5日施行される「国家総動員法」が,満州国ではすこし早い同年2月26日に公布されている。日本帝国のカイライ属国「満州国」は,いわゆる「偉大な実験場」とも称される国家体制をしつらえようと,この必要性に応じた「満州能率協会」を創立させたのである。 満州国建国以前の経過を追ってみると,《日満》間における能率関係団体や識者の交流は盛んであった。大正時代前期より満州方面で活躍する能率研究家や指導者もいた。 たとえば,旅順工科学堂〔のちに旅順工科大学〕では大正4〔1915〕年,石原正治が科学的管理法の講義をおこなっている。この高等教育機関で石原正治の科学的管理法の教育をうけた人材が,満州・満州国内の諸機関において能率意識をもって仕事にとりくみ,業務改善にはげむことになった。 南満州鉄道株式会社〔満鉄〕内における能率増進・生産性向上へのとりくみは,早い時期より積極的になされていた。このことは,同社の各10周年「社史」〔40年史まで4巻ある〕に記録されている。 満州能率協会が主催した第1回満州能率大会は,康徳6〔昭和14:1939〕年5月に開催された。満州能率協会大会とその名称をかえた第2回大会は,康徳7〔昭和15:1940〕年10月に開催,以下,第3回満州能率協会大会は康徳8〔昭和16:1941〕年10月,第4回満州能率協会大会は康徳9〔昭和17:1942〕年7月,第5回満州能率協会大会は康徳10〔昭和18:1943〕年7月にそれぞれ開催された。 満州能率協会の諸活動に関する紹介は,筆者の別著などがおこなっている12)。 日本能率協会の主催になる第1回日本能率大会は,「満州国」の満州能率協会による大会活動の開始時期より4年ほど遅れて,昭和18〔1943〕年3月11〜13日,大阪市中之島中央公会堂で開催された。第2回日本能率大会の開催は,敗戦後の昭和24年5月をまたねばならなかった。したがって,太平洋戦争中開催された日本能率大会は,その第1回きりであった13)。 〈能率協会〉という名称を付した団体は,日満「両国」ともに挙国一致体制ともいうべき,実に広範かつ強力な布陣内容をもって構成されていた。社団法人日本能率協会役員は,政界〔各省大臣〕,官界〔各省局長・課長位〕,財界〔大企業代表者〕,軍部〔主に将・佐官位〕,そのほか〔協会・研究所の幹部〕など,多彩な成員からなっていた14)。財団法人満州能率協会も同様なやりかたで,陣容をととのえ組織を構えていた。 そして,日本能率協会の運営面を実質的にとりしきる最高層の人物は,伍堂卓雄会長〔貴族院議員,海軍造兵中将〕,森川覚三理事長〔前企画院第7部長〕であった。同協会はさらに,岸 信介〔商工大臣〕を名誉会長に戴き,顧問に各大臣がずらりと並んでいた。 表1で「日本能率協会事業運営組織(昭和17年3月設立時)」を紹介する。
さて,森川覚三(明治29〔1896〕年3月生まれ)の学歴‐職歴は,こうである。 ・大正7〔1918〕年 京都帝国大学工学部機械工学科に入学 ・大正10〔1921〕年4月 同上卒業(このとき25歳),三菱商事株式会社東京本社に入社 ・大正12〔1923〕年8月 同社大連支店機械係主任となり,その後,満州技術協会理事,撫順炭鉱採炭合理化委員,南満州鉄道株式会社運搬管理委員などに就任し,同支店の売上を3倍にした。 ・昭和3〔1928〕年3月 独国三菱商事へ転勤 ・昭和8〔1933〕年5月 大連支店機械課長 ・昭和13〔1938〕年5月 有限責任独国三菱商事支配人 ・昭和15〔1940〕年1月 三菱商事株式会社東京本店機械部第1課長 ・同年12月 同社退社,企画院勅任技師官叙高等官2等となり内閣技術院〔前工業技術院,現産業技術総合研究所〕の創設に参画 ・昭和16〔1941〕年7月 企画院第7部長就任 ・昭和17〔1942〕年3月社団法人日本能率協会理事長 森川覚三は,実業界‐官界の両域に同時に分属する一員となって,満州および満州国における能率増進運動や生産合理化推進の歴史に関与してきた。 草柳大蔵は,満州および満州国の過去を,こう評価している。 つまり,日本は敗戦とともに「満鉄」をはじめ数多くのハード・ウェアを中国に置いてきましたが,「頭脳」というソフト・ウェアはすっかり引き揚げてきたのです。今後,このソフト・ウェアがいかなる形で継承され開顕されるかは,これからの課題であります。国家の要求(ことに資源問題),国民の価値観,教育の制度と方法などにかかわってくるでしょう15)。 中島 誠も,草柳と同じ解釈を披露していた。
満鉄調査部や東亜研究所のスタッフが,日本の植民地ないしは半植民地であった外地であればこそあげることができたあれだけ充実した調査・研究の国外での成果を,資本主義的生産,流通のシステムとして,戦後の平和な国内の企業社会で思う存分活かすことができたのは,決して偶然とはいえない16)。 すなわち,満州および満州国における経験と実績は,その哲学・思想・理想や制度・組織・人間とともに,戦後の日本に舞いもどってきた。注目すべきは,そのさい,植民地経営の体験:「加害者意識」と観念:「侵略思想」が内省されることなく,ただ被害者・敗戦の意識だけを抱いたまま,自国に帰還〔引き揚げ・復員(!)〕してきた点である。
「侵略地」での過去の出来事=生活体験を回想するさい,日本人たちがよく一様に発する〈あゝ満洲〉という口調は,歴史のなかで他国の人々に強いた艱難辛苦,あるいは赤裸々にいえばその阿鼻叫喚を,自己にまつわる苦しい〈思い出話〉としてのみかたづけたものである。それは,満州・満州国と称した中国東北部と中国全体に生きていた人々の存在を,相手としてまともに記憶できず,意識的と無意識的とを問わず透明化させ,完全に不可視化する〈物語の方法〉であった。
W 能率の概念と思想−戦時と戦後−
昭和17年3月,戦時下の要請にもとづき,日本全体の一元的な能率機関となる日本能率協会が発足した。その後の準備期間を経て同年6月,協会の機関誌として『日本能率』が創刊された。創刊当時は編集人員の不足のため,ダイヤモンド社の協力のもとに委託発行がおこなわれ,印刷・発行・発送発売などの事務は全部同社の手によっておこなわれた。昭和20年1月,空襲により同社の印刷所が焼失するまでつづけられた17)。 日本産業において大正年間,先取の気に富む会社がとりくんだ能率増進運動は,大正後期,能率の研究・指導にたずさわる諸団体・諸組織を輩出させ,能率問題を研究し啓蒙・普及するための関連雑誌も各種刊行された。 大東亜戦争‐太平洋戦争〔アジア‐太平洋戦争〕へと日本が戦線を拡大した段階を迎え,能率研究・指導関係の諸団体・諸組織は,最終的に国家的単位に一本化され,日本能率協会に統合されたのである。これとともに,発行していた能率関係の諸雑誌も『日本能率』へ統合され衣替えした注)。
日本能率協会の理事長に就いた森川覚三は,この雑誌『日本能率』に積極的に投稿する立場に立った。奥田健二・佐々木聡編『日本科学的管理史資料集 索引』(五山堂書店,2001年)は,同誌に掲載された森川覚三の寄稿を一覧している。敗戦時〔昭和19年10月〕まで森川が同誌に投稿した文章は,全部で10編である。 戦争中新たに創刊された日本能率協会編『日本能率』は,能率問題を具体的に議論し,戦争遂行に役立たすための雑誌であった。なお,満州能率協会の機関誌『満洲の能率』は康徳7〔昭和15,1940〕年8月から発行され,康徳11〔昭和19,1944〕年12月まで号を重ねた。日本能率協会『日本能率』も満州能率協会『満洲の能率』も,ちょうど同じ〔上記の〕時期まで刊行できていた。戦争中の非常にきびしい出版統制を斟酌するに,両機関誌はその発行に必要な条件を確保しえて,存続を許されてきたといえる。
@「創刊の辞」(第1巻第1号,昭和17年6月) 「皇国未曽有の大躍進時期に際して生れ出でた日本能率協会と其の機関誌『日本能率』は,既に其の発足自体の裡に特異なる性格と重大なる使命及責任を包蔵してゐると考へねばならぬ」。 「特異なる性格とは何を意味するであらうか。人類史上前例なき……最も重要にして且つ絶対的なる目標は此の戦争に飽く迄も勝ち抜くと云ふ事である。云ひ換へれば『戦争に勝ち抜く為』以外の目標は暫時犠牲に供せられねばならぬと云ふ事である」。 「日本能率協会は戦争に勝ち抜く為めに必要不可欠な且つ日本民族性に立脚した能率を追求実施発揮する機関でなければならぬと共に,日本能率は此の目的達成の為めの機関誌でなければならぬと云ふ特種の性格を持ってゐるのである」。 「勝ち抜く為め最も必要なる處へ能率増進の主力を注ぐ事が使命の第一であり,其の効果を端的に挙げ行く事が責任である」。 「能率技術も,真に我国情に適し大いに実効を挙げむが為めには,深く我民族性に適合した我民族自体の内より創り出されたものでなければならない」18)。 この森川覚三「創刊の辞」は,戦時期における能率概念の思想史的な位置づけや含意を明確に物語っている。それは,「戦勝という目標のための日本民族性に立脚する特種な性格の能率増進」であった。日本能率協会機関誌の名称〈日本能率〉はまさしく,「日本民族が戦争に勝ちぬくという使命」を強く意識して付けられており,それ以外にはなかったのである。 とはいえ,そのさい同時に付言された,すなわち「戦争に勝ちぬくため以外の目標は暫時犠牲にしてよい」という考えかたは,能率増進の根本理念・方向性〔ムダとムリ,ムラの排除〕に対して全面的な否定,そして根本的な反逆を意味する〈断わり〉であった。 したがって,そのような〈奇妙な留保つき〉の能率概念の提示は,「日本能率」ということばに付着する「重大な矛盾」に目をつむった,意図的に無視したそれである。このことは,いくら強調したりない肝心な問題点である。 ともかく,物資の能率的な生産が戦勝のために要請されたのである。だが,それに応えて生産された大量の軍用物資は,その目的地である「戦争や戦闘のおこなわれる場所=舞台」に投入されるや,急速に浪費される。すなわち戦場は,せっかくの能率的な生産の成果を一気に呑みつくし,またたくまに消尽する。 文字どおり能率が発揮され,生産が効率的になされても,戦場においてはその成果物が無茶苦茶な費消のしかたをされる。本来であれば,迂回生産あるいは直接消費の目的のため製造‐配給される物資なのだから,人間生活の全域において有益に利用されるために引き渡されるはずである。 だが,戦争や戦闘の場所=舞台においてはそうではなく,ムダに浪費する〔殺人と破壊の〕ために物資が投入される。戦場に向かって送りこまれる軍需物資は,生産的あるいは効率的とは逆反するかたちで,つまり,能率「本来の意味」を否定され,破壊浪費的に蕩尽されるばかりなのである。 戦時下の軍需品生産は,一国単位における拡大再生産過程を徐々に破壊していき,結局は縮小再生産過程を出来させる。それゆえ,現実の生産・労働現場においてはいっそう深刻な諸現象が出てくる。すなわち, ・物的設備の性能劣化,部品・資材の品質悪化, ・労働の希釈化,労働者の意欲喪失, ・現場管理体制における規律の低下・雰囲気の弛緩などによって, ・能率低下,生産減退が確実に浸透する。 昭和「12年以降の戦時経済は,これを企業界からみれば,非時局産業の一大犠牲において,時局産業の一大飛躍をあがなった時代であった」から19),一般庶民の生活全般における物資供給,とくに消費財の逼迫は,労働者・従業員の肉体的・精神的意欲をさらに削ぐことになった。 戦争史的なそうしたみじめな生活の実相は,歴史の記録に克明にしるされている。銃後がいくら能率的に諸物資の生産を遂行しても,生産的および消費的な人間生活の場に,それが有効に活かされえないのなら,その効用的な機能ははじめから扼殺されたも同然である。 戦争と能率との関連性には,以上のような困難が必至的に現象する。どうみても結局,戦争が能率を喰い殺していく。この難題の克服は,ほとんど不可能に近い。 戦争の進行にともなってい加速する乱費・蕩尽をさらに上まわる生産力を確保できないならば,戦争遂行力が極端に低下するまえに戦勝・優勢にみちびく戦争指導・講和外交をするか〔日露戦争の事例〕,あるいは,もとより無理・無駄な戦争をしないで済む国家体制を構築する,長期的な政治戦略の構想・樹立・実行〔日米安保条約が相当するか(?)〕が肝要である。 森川は,日本能率協会から発行された研究・啓蒙雑誌『日本能率』は,独自の日本的性格をもっており,民族的性格を背景として国家の要請に報いるべきものであると規定した20)。 けれども当時の日本は,あの戦争で重要な裏舞台〔軍需生産と兵站運用〕をささえる経済力・生産力の発揮=「能率増進」競争で,敵国米英〔とくにアメリカ〕に完全に敗れていた。その関連で,戦略全体における戦術指揮方法でも明らかに引けをとり,個々の作戦展開でも負けつづけた。そうだったのであれば,森川が戦争中,先段のように確信をこめて謳いあげていた〈日本能率〉の真義は,その倒錯性が根本的に批判されねばならない。 戦時期,森川が抱いていた「能率概念」に対する疑念への答えは,彼の著作中にすでに用意されていた。森川『ナチス独逸の解剖』昭和15年にかぎった話とするが,この著作に書かれていて戦後その誤謬が明白となった点が,全然みなおされていない。この点に対する森川自身の対応を吟味すれば,敗戦後まで生きてきた森川覚三流「能率概念」の本性が,より明白となる。 要するに森川は,戦争の時代に展開した〈能率概念〉をそのまま,戦後に流用した。〈日本能率〉にまとわりついていた戦争遂行協力的な雰囲気は,1945年8月:第2次世界大戦の終了とともに棚上げされた。しかし,まったくの健忘症でないかぎり,〈日本能率〉ということばで当時提唱していたはずの〈理想・倫理・目標・方途〉が,当人の記憶から完全に消し去られてしまうことはないだろう。
A「生産拡充と生産技術」(第1巻第4号,昭和17年9月) 最初に,本稿の見出し項目を以下に拾う。 1 生産拡充の目標 2 生産拡充の緒口 3 我国産業と生産技術 4 生産技術の発達に依る生産増強の実例 5 設計技術と生産技術 6 生産技術と能率問題 7 能率増進方策への危惧 8 生産技術の入口 1) 労務者の肉体的精神的苦痛を排除する努力 2) 作業研究への努力 3) 均衡ある安定性を実現する努力 9 む す び
本稿は,「4 生産技術の発達に依る生産増強の実例」のなかで,能率増進を成功させた3例〔製薬会社,工作機工場,ミシン工場〕を挙げている。しかし,戦時期に強調された〈日本能率〉の真義というものが,その成功例のいったいどこに発露されているのか理解に苦しむ記述である。 森川自身,「生産技術の第1の目標は,如何にすれば生産の質及び量が安定するか,如何にすれば凡有無馳がなくなるか,又如何にすれば労務者の技能乃至体力を,最も夫れを要求する處,即ち急所へ集中せしめ得るかを目標とすべきものであると私は考へてゐる」21)と述べていた。はたして,この説明のなかに,「日本民族性に立脚する特種な性格の能率増進」というに値する中身があったのか。そして,「〈日本能率〉の思想」がわずかでも発露されていたのかと問うてみるに,残念ながらおぼつかない。 しかも,「独逸に於ても既に証明済である如く,能率増進のみを目標として,理論にのみ捉はれ,民族性,習性,仕来りを充分に考慮せざるが如き事あらむか,予期せざる結果を将来する惧れがある。飽迄も民族性に立脚して,科学的反省を重ねて漸次積み上げて行く外はあるまいと考へられる」22)のであれば,その「日本民族性という点」においてこそ特種な性格が発すると論説した能率増進の特徴が,具体的に叙述されねばならないはずであった。 だが,前段に紹介された「日本の工場における〈能率増進の成功3例〉」をみるに,「科学的反省」がよく活かされている点は感知できても,これが日本民族性の発揮によるものかどうかという点は,まったく明らかになっていない。 本稿,森川「生産拡充と生産技術」を掲載した『日本能率』第1巻第4号(昭和17年9月)の「巻頭言」は,その題名を「新産業道」と付けており,こういっていた。 能率増進は事新しく言ふ迄もなく心の問題である。であるが故にアメリカの科学的管理は,必ずしもドイツの合理化と一致しない。蓋し国風の差違は技術のみでは如何にしても解決出来ないからである。 単に従来の自由主義産業経済の立場のみから,能率増進を思索し,実施するならば,日本の産業力は遂に米英のそれに打ち勝つことは不可能であると思ふ。何となれば機械は多く彼に於て優り然もそれを動かすべき人の心構は彼とチツとも違はないからである。其處で彼に打ち勝たんとするには,どうしても吾々独得の伝統の力に物を言はせる。 一つのハンドルを動かすにも,一つの鉄槌を打ち下すにも,国家に対する責務を完行し,以て四恩に報ぜんとする伝統の力に頼る外はない。以て物心一如の境地を現出する。異常なる注意力,異常なる思索力,異常なる考案力は其處から生れて来る。そして銃後の人によって動かされる兵器と同様な理外の理が顕現するのである23)。 この「新産業道」は,機械を動かす人の心構えは米英の人々とすこしもかわらない,ちがうのはただ,日本に独得の伝統の異常なる諸力にものをいわせ,そこに「理外の理」が顕現するというのである。そうであってこそ,「日本の産業力は遂に米英のそれに打ち勝つこと」が可能だといっていた。
ここで「道」といえば,当時「能率〈道〉」をとなえていた日本能率学の父,上野陽一の産業能率思想を思いおこす。上野は,昭和20年2月にこう述べた。 アメリカについては物心相即という表現を用い,日本の場合には物心一如というコトバを使っているが,結局同じことではないか。もし物心一如の立場からいえば,物量の大いことは,つまり精神力のサカンなことを意味している。アメリカは天然の資源に恵まれているとはいえ,それは原料関係であって,ヤハリこれを戦力化するには,科学も生産能率も労働力もなければならない。
これらは決して単なる物量だけではない。あれだけの物量を前線にもってくるためには,その背後に相当強大なる精神力がなければできないことである。これと同様に少ない物量をもってあれだけの戦果をあげる日本人の精神力のサカンなことも言わずして明らかである。 してみるとアメリカは物量主義,日本は精神主義などという子どもダマシのようなアサハカな対立観念にとらわれているときではない。またアメリカの哲学と日本の哲学とを比較して,アメリカは日本に比べて低級であるなどといってヒトリヨガリして喜んでいられるほどノンキな時勢ではない。 この社説では,アメリカのことを実用主義だとか能率主義だとかいって非難しているが,戦争には,さしあたり勝つという実用目的以外に何があるか。また物量をますためには,生産能率を高めるほかに何があるか24)。 上野陽一は,日本には精神力があるがアメリカにはそれがない,あるいは,日本の哲学は高級,アメリカのそれは低級とするごとき根拠を欠く〈俗論〉を排斥した。むしろ,アメリカの「サカンな物力の背後に控える精神力」を侮るなと警告した。上野は,物量主義・実用主義・能率主義の発揮には,それ相応の強大な精神力の背景があることを強調した。
敗戦をむかえる半年ほどまえ,上野はこうして,大和魂=日本精神の優越性を説く戦争指導者の浅はかな考え,いいかえれば「アメリカの物量主義に対する日本の精神主義」という対立観念の底の浅さ〔→「ヒトリヨガリ」「子どもダマシ」〕を,能率道思想家の立場から批判した。 戦争に「勝ち抜く」べきことについては,すでに前掲森川@の論稿も触れていたが,アメリカの実用主義=能率主義は,「日本民族性に立脚する特種な性格」である日本能率の精神的基盤よりはるかに優越した生産力,すなわち戦争遂行力を実現できた。それはある意味において,日本が「吾々独得の伝統の〔異常な〕力」と称したものに匹敵する,アメリカに「独得の伝統の〔経済〕力」であった。 最初から,物量の生産力発揮においては,日本とケタちがいの実力をもっていたアメリカの実用主義=能率主義である。当時,彼我における生産力の格差は,どうみても10〜20倍はあった。これが,戦争という即物的な目標とむすびつき,日米両国伝統の〔異常な〕力と〔経済潜在〕力とが競いあう。日本の敗北は必定であろう。第2次世界大戦の時期アメリカは,連合国がわの世界の武器庫であった。 たしかに,「国風の差違は技術のみでは如何にしても解決出来ない」ものではあろうが,「伝統の〔異常な〕,〔あるいは潜在〕力に頼る外はない」ことは,日本であれアメリカであれ同じである。真珠湾攻撃をうけたあとのアメリカは,この国のもつ〔異常(!)ではない,正常な(?)潜在的〕精神力を一気に高揚させ,本来有する巨大な生産力を発揮しはじめた。 大和魂を理解する精神の持ち主は,日本との開戦以後発揮されはじめるアメリカの実用主義の潜在力=精神的な実力を理解できなかった。それをようやく理解できるようになるのは,その実態を目の当たりにする敗戦後であった。 森川覚三は昭和17年12月,日鉄釜石製鉄所のコンサルティング活動によって4割増産をなしとげる。この成果は「IE手法だけを頼りに提案した……素晴らしい結果」であった25)。 その能率増進達成に関する成果は,日本におけるIE手法の適用によるものであって,なにも力んで「日本的伝統なる云々」というほどのものではなかった。それは,当時〈鬼畜米英〉と蔑称した敵国の開発した管理技法に日本の関係者が学び,これを適用して挙げえた能率増進の具体的な成果である。 その成果はまた,労働力の不足に代置できると考えられた労働時間の延長が,ある限度にいたればかえって労働生産性を低下させる弊害を生むことを,森川がしかと踏まえて挙げえたものである。 森川覚三が戦争中,軍部を後ろ楯にしてこそ達成できた能率増進に関する成果は,「単に産業事業場の労務者乃至機械当り生産量の増す点丈けが所謂能率増進となる」ことを実証した26)。 戦時期日本における産業事業場の能率実績は,その指標〈労務者乃至機械当り生産量〉を基準において観察すると,〈労務者乃至機械当り生産量〉の減少,生産力の低下,能率の低迷ばかりがめだっていた。
B「巻 頭 言」(第1巻第5号,昭和17年10月) 「所謂生産拡充が本当に出来ないならば何の様な結果が来るであらうか,吾等は考へた丈でも戦慄を感ずる。是が非でも生産拡充は遂行されねばならぬ」。 「一体何うすればいゝか,との質問に会ふ事極めて頻繁であるが,私は常に答へて,生産技術の創始,普及に依って,現有設備,人,物の範囲内に於て漸次製造より生産に転換し,極く荒見当で,出来高を5倍にする様各人其職域に於て努力する外はない。而して漸次生ずる余裕を以つて,せめて設備を2倍とし度い。併せて20倍の生産を実現する事が差当りの目標ではあるまいかと」27)。 ともかく森川が能率増進を指導し,4割増しの生産を達成できた日鉄釜石製鉄所の実例は,当時の日本では一般的な成功例ではなかった。したがって,あの戦争中,森川のいうとおり「生産の増進20倍」が実現できていたら日本が戦争に勝てたか,などと議論する余地はまったくない。
C「能率増進の日本的性格」(第2巻第1号,昭和18年1月) 「元来日本の能率運動なるものは,最も多くアメリカ及びドイツから輸入されたものである」。「爾来20余年にもなるが,時代の要求とは云へ,今更のやうに能率増進を叫び出したのは,その何れの方法も結局大した実を結ばずに終った一左であらう」。 「今や我国は限られたる資材と労力と設備とにより,統制された経済機構の中に於て,国家興廃を賭する大戦争を行ふ為めに必要な生産能率の増進に邁進せんとして居るのである。これを過去に比すれば,国民は一層組織的となり合理的となり,科学技術の水準も遥に向上して居るのであるが,依然として日本人たることにかわりはない」。 「国体は世界の精華である。国民は四恩の感得が生れながらの特徴である。如何に自由主義に悪弊があらうとも,それが国民の骨の髄に浸み込むには,歴史が余りに荘重であり,伝統が余りにも堅固である。かゝる中核体を以て行ふ能率増進には,当然他国の企及し得ざる特種なものがある筈である。即ち日本的性格と称する所以である」28)。 森川覚三は,こういった。「世界の精華」「国体」を有する日本の能率増進は,「日本的性格と称する所以である」「他国の企及し得ざる特種なものがある」。 とはいえ森川は,アメリカの能率増進法やドイツ流合理化技術の本質や基盤を知悉していたはずである。それゆえ察するに,戦争中,日本教徒として無条件に唱和をせまられた呪文:〈日本の国体は世界の精華〉⇒〈日本能率〉精神論を口にすることは,森川にとってけっして本意ではなかったと思われる。 だが,雑誌『日本能率』に載せた精神主義的な文章・活字は,いまもそのまま記録としてのこっている〔同誌は復刻版も発行されている〕。 このCの論稿を森川覚三が活字にした昭和18年,当時予備役中将だった〔陸軍か海軍かは不詳〕ある人物は,こういうことをいっていたという。 大東亜共栄圏なんて夢です。米国はシッカリしとる。例の無限の物量だし,日本人よりはるかに頭がいい。日本人は頭がカチカチで,ウヌボレだけが強くて,自画自賛ばかりしている,兵隊もアメリカの方がよっぽど勇敢だ29)。 D「連続自己反省の提唱(巻頭言)」(第2巻第5号,昭和18年5月) 「近頃形容し難い焦慮を覚へるのを如何ともし難い悩みに陥ってゐる」。「況んや深慮,至難なる作業の責任ある地位に座る人が,毎日反省を重ね,質に於て,量に於て,将又,其の処理すべき事務に於て,もっと改善出来ないか,と自己反省を繰り返す事に依って,其人自身の人生完成への影響は無論の事,直接生産に寄与する事は甚大であらうと思ふ」30)。 森川はこの〈巻頭言〉に,こういう文句を書いた。戦時生産のための能率増進を図ることは当然の任務であるが,その進捗状況が必ずしも芳しくない。工場診断の業務指導を精力的につづけてきた彼は,「生産技術的立場より見れば,未だ未だ改善の余地が随處に転がってゐると云っても過言でない」31)と述べて,日本の工場管理の実態を焦慮した。もちろん,その焦慮は日本の戦争完遂力に直接かかわっていた。
E「無駄話〔其の1〕,其の2,其の3・其の4,其の5」(第3巻第6・8・9・10号,昭和19年6・8・9・10月号) 「無駄と無理とムラのない様にする事が能率であると云ふ人がある」〔→これは上野陽一を指す〕と断わったうえで森川は,「無駄の積りで工場歩きの合間合間に目に付く無駄を軽い気持ちで書き続け様と思ふ」この論稿を,昭和19年6月から4編に分けて執筆した。 能率増進面からみて,当時における日本の工場・事務所がいかに無残な管理状態に追いこまれていたかを,まずこう指摘した。 苛烈なる戦場の推移と共に生産の躍進的増強が是が非でも必要となって来た今日,工場歩きを本職とする立場から視ると,先づ第1に至る處,無駄の多過ぎるのに吃驚する。
資材の無駄,人間の無駄,設備の無駄,原素材,副資材等の無駄,時間の無駄,能力の無駄,動力の無駄,熱の無駄,書き立てると実に際限がない。次ぎの正味を生かす為の處でない事は勿論,これではまるで無駄で終始してゐて,時々思ひがけなく生産結果が飛び出すと云った様な感じさへする位である32)。 ところが森川は,工場労働者が当時,こうぐちっていた事情も紹介する。 「第1……は腹が減って夕方になると立ってゐる元気さへない」 「第2が作業衣糧が全く与へられないので困ると云ふ事」 「第3が仕事がなくて終日ブラブラ何も為さずに,然かも仕事をしてゐる様な恰好をせねばならぬのが辛い」。 さらに,「郵便局,区役所,電話局等何れも情ない事許りである」33)。 結局,森川は,工場管理の実態に関して具体的に, 1) 事務管理ができていないこと, 2) 幹部の人材不足, 3) 賃銀・給与体系の不備 などを指摘した34)。 以上,昭和19〔1944〕年9月までに関する現状報告であり,生産現場・事務所などにおける労働実態に触れたものである。当時の戦況は,日本に決定的に不利となっており,一部では講和にもちこむ話もひそかに出ていた。東條英機内閣が総辞職するのは,同年7月18日のことである。 太平洋戦争は,開戦後1年も経たないうちに戦局の趨勢が決まっていた。とくに,ガダルカナルをめぐる攻防戦〔昭和17年8月〜18年2月〕に敗れた日本陸海軍部隊は,飢餓と玉砕の部隊になった。現地で食糧確保ができなかったのは,戦争指導の欠如によるものである。そもそも,「現地自活は,戦闘集団の本来の任務ではない」35)にもかかわらず,あの戦争では事後も継続されたのである。 とはいえ,戦争の時代であるからあらゆる物資が,軍のために優先的に生産され供給されていた。もっとも,銃後の産業兵士たちが衣食にも困り,生産活動が円滑にすすまない状況では,最前線で戦っている将兵たちも,兵站面の不備でさぞや困っていたにちがいない。実際,アジア‐太平洋戦争で戦没した日本帝国軍人軍属の総数230万人のうち,なんと140万人前後が戦病死者,それもそのほとんどが餓死者と推定される36)。 それでも〔あるいは「だから」というべきか〕,銃後で督戦に励む厚生省のある医務官は,つぎのように《檄》を飛ばしていた。 今苛烈なる激戦は空に海に陸にあらゆる智謀をかたむけて闘はれてゐる。戦争は実に科学戦であり,智謀戦である。機械と機械との戦争である。我々今日の責務はこの科学技術に於いて米英を打負かすことである。あくまでも思索し,あくまでも工夫し尚決して混乱せざる頭脳,それは一体如何なる肉体から生れて来るであらう。逞しき体力。これのみが優秀なる科学技術と不抜なる魂とをもえ出さしめる源泉である。戦ひに勝つ為めには何よりも先づ強力な体力を養ふことである。日々の体力向上実践こそ大東亜戦争に勝ちぬく根本である37)。 森川はさらに,こうも述べていた。「是等の事情を相対的に考へ合せると,国全体として,生産増強の最大隘路となってゐるものは,資材でも,運輸でも,労力でも,食糧でも,ないのであって,実は親工場自体の経営者,乃至生産責任者の無理解と不行届と,不相変の資本主義的猶太思想に外ならない」38)。
結局,「日本民族的に特殊な性格を有する能率増進」を具体的にしめす工場生産の現場が,如上のような体たらくだった〔a) 生産資材の無駄使いや勤労者の食糧〔=体力〕不足の実情を無視し,b) 生産不能率の原因を他人:ユダヤ民族思想のせいにする〕のであれば,あの戦争に日本が「勝ちぬく」ことはもともと不可能事だったことを教えている。 森川はこのように,ユダヤ民族差別思想も披露していた。生産増強の最大隘路をユダヤ思想に求めた〈紋切型〉の決めつけは,いまからみれば「冷汗三斗」の発言である。このたぐいの差別発言は,当時識者全般が口をそろえて放っていた,ナチスドイツ受け売りの特定民族蔑視観である。筆者が前出,森川著『ナチス独逸の解剖』(コロナ社,昭和15年9月)に対してくわえた批判に通底する問題性が浮上する。 最後に,森川が昭和10年代日本政治の実相を棚に上げて,「所謂全体国家として,政党を解消し,議会を骨抜きにしてゐる国家は沢山ある。独逸然り,ソ聯又同様である。が何れも其直前に民間叩き上げの経験家を如何にして多く官界に入れるか,又最上層部が,社会の実相を常々把握する為めに何うしたらいゝかに腐心した形跡が窺はれる」,といっていた点を引用しておく39)。
森川覚三『生産能率の常識』(ダイヤモンド社,昭和22年2月)は,敗戦直後,物資が極端に不足した状況のなかで公刊された。本書の造本は,紙質・活字印刷・製本・装訂すべて劣悪である。 たとえば,a) ある個所2頁分の片端の行〔文字列〕に裁断がかかっていたり〔判読はなんとか可能〕,b) 折込「表」のうち何枚かは寸足らずで印刷されていない部分があったり〔該当部分の判読不可〕,c) 行のなかで活字の列が捻転したりしていた。 本書に「序」を寄せたダイヤモンド社石山賢吉は,こういっていた。 日本は工場改善が急務である。特に,敗戦後に於いてその必要を痛感する。資源のない国が資源を無駄にすることの夥しさよ。/更に人間の無駄遣ひはそれより甚しい。労力の剰る国が時間外労働をしてゐる。それでも一向成績が挙らない。揚げ句の果てが仲間喧嘩と来て居る。此の頃のストライキ騒ぎの醜さよ。それいふのは,材料でも,労力でも,無駄ばかりしてゐるからである。/日本の生産方法は大いに改善しなければならぬ40)。 つづけて,森川自身の「自序」に聞こう。
過去5年有余,不思議な運命に導かれて,私は我国能率向上運動に終始して来た。戦時中の特色として,挺身して来た対照〔対象〕は,殆んど全部軍需産業であった。生産増強であった。国家機密であった。挺身すればする程,我国産業の内容的,技術的空虚に驚くと共に,自己の微力を嘆じ,且戦慄を禁得ないのであった。 能率向上運動は,多分に政治的色彩を要請する様に思はれた。/終戦後,国情は大変化を見つゝある。極端なファショ的傾向から,極端な,無軌道とさへ危ぶまれる自由主義傾向へ。/此の窮状を打開し得る唯一の道は,1人当りの生産高を躍進させて,高い賃銀の労銀の原価にかゝって行く割合を引下げる事,云ひ替へれば産業能率の増進以外にあり得ないと私は難く信じてゐる41)。 ダイヤモンド社の石山賢吉は〈敗戦〉と表現し,日本能率協会理事長の森川覚三は〈終戦〉といった。これは対照的である。森川はけれども,戦時の「極端なファショ的傾向」は,敗戦:終戦を区切りに戦後の「危ぶまれる自由主義傾向」に変化していった,と記述する。 1945年8月を境に生じてきた,過去の絶対的価値観の変動に直面した森川は,再び「産業能率の増進」,より具体的にいいかえるとF.W.テイラーがいった科学的管理法の原理・思想である,「高賃銀・低労務費の実現」→「管理の科学化」→「生産性の向上」→「労使双方の最大の繁栄」に思いをはせるのであった。 第2次世界大戦中,「生産能率の常識」を欠いた日本産業の改善に努力し,戦力増強に貢献するために悪戦苦闘してきた森川である。戦後,あの戦争の時代における精神思潮を「極端なファショ的傾向」と修辞する森川ではあったが,ともかく戦時中,能率増進・生産増大を図るための製造技術的な改善指導に挺身してきた。 しかし,戦時の「国家機密であった」「我国産業の内容的,技術的空虚に驚く……戦慄を禁得ないのであった」ならば,皇国=大日本帝国が「勝ち抜く」ための〈可能性=資質・能力・潜在性〉が乏しかったことを,当時の森川はもとより,十分に理解していたといえる。 戦前日本の好調期においてさえ,英・米・独との各種産業能率比較は,正面よりみたばあい,表2「日本と各国産業能率比較」,また側(裏)面よりみたばあい,表3「各国炭坑労務者の死者と出炭量」のとおりであった。表3「各国炭坑労務者の死者と出炭量」は,「大東亜戦争」中に森川が公刊した著作に収められた統計である。表4「炭鉱出炭高指数(日本国内)」は,日中戦争以降における炭鉱の採炭能率の低下をしめしたものである。
生産技術者の立場に徹していた森川は実は,あの戦争を遂行していた日帝の生産力の水準=実力をよくわかっていた。いずれにせよ,戦争の時代に森川が尽力していたことは,戦後の日本産業に必要だといっていたこと,すなわち「1人当りの生産高を躍進させて,高い賃銀の労銀の原価にかゝって行く割合を引下げる事,云ひ替へれば産業能率の増進」と同じであった。つまり,戦中も戦後も「産業能率の増進」を目標にかかげていたのである。 とはいえ,「戦争の時代」そして「平和な時代」をとおして,生産技術者としての森川がいかに生きてきたかと問われるさい,「一貫してりっぱだった」というよりは「前後してみると不可解だ」との印象を抱かせる。この種の問題は,たとえ理工技術系の出身者であっても回避できない重大な思想的・イデオロギー的論題と考えられるが,森川の意識の基底面においては希薄なことがらである。しかし,「戦時中から敗戦後への異相」のなかで記録された彼の発言を鑑みるに,なお吟味されねばならない論点が浮上する。 森川『生産能率の常識』昭和22年2月の本文を,さらにのぞいてみよう。 「我々大和民族は欧米人に比し,素質の上に於いて遜色なしと云ふ基礎の上に考察を進めて行き度い」と断わったうえで森川は,「無駄があれば必ず無理が伴ふ。無理がある以上必ず斑が生ずるのも亦不得己處である。此の無理と無駄と斑の為に,夫々一生懸命に努力し乍らも,拙い結果となるのが我々の仕事である」と42),戦時中における能率増進問題の不首尾・不始末を反省していた。 太平洋戦争で日本の主敵となったアメリカは,物量生産力の圧倒的な差をみせつけた。それに比較して日本の経済的力量は,年を追うごとに減退,弱化していった。だから,前掲表2,表3などにしめされた彼我における格段の落差は,戦争中さらに拡大した。 しかも,物量生産の「量と質とは車の両輪の如く一方を上げれば他も自然に上がるものである」43)。戦時体制下における日本の軍需品生産の不利は,相対的のみならず絶対的にも加速度的に増していったのである。 森川は,本書第6章「生産技術の誕生」であらためて,科学的管理法の創始者たち〔テイラー,ギルブレス〕に言及し,つづけて,第7章「我国産業の現状と共通的欠陥」を指摘する。この第7章は「企業者の科学的観念の欠如」44)をさらに,つぎの細目3点に敷衍している45)。 a) 「科学的観念が全然と云っていゝ程欠けてゐる事」, b) 「低賃銀,低物価製作を堅持してゐた為めに,技術の進歩や,管理の発展は,其必要がなかったのである」, c) 「我等の日常生活に政治を我等の仕事に科学を,然して我等の経営に哲学を導入せねば,我等の前途には破滅あるのみである」。
昭和20年代前半〔1940年代後半〕,日本は破産・破滅寸前の状態にみえた。アメリカを中心勢力とする占領軍政の支配下,民主主義が与えられたものの,政治面では混乱がつづき,経済面では根本改革を指示されたが低迷し,社会面ではなお人々の気持がすさみ,思想面でも民主主義がすぐ定着するわけもなく,全体的にみてとても安定したといえるような状態ではなかった。 ところが,隣国において突如動乱がおこり〔1950年6月25日朝鮮戦争勃発〕,息も絶え絶えだった日本産業は起死回生のカンフル剤〔特別需要:特需〕を打ちこまれた。以後,日本経済は一気に息を吹きかえし,1970年代になって世界に冠たる経済的地位をえる契機さえつかんだのである。 昭和30年までの推移をうけて翌年公表された,経済企画庁編『昭和31年度経済白書−日本経済の自立と近代化−』(至誠堂,昭和31年7月)は,「もはや『戦後』ではない」という有名な一句を記述し,戦後における日本経済の復興は自力でなしとげたかのように記述した。とはいえ,日本経済・産業・企業経営の実態はそれまで,どういうものであったのか。 要するに,私は我国産業の状態が,まだ科学的管理や生産技術を要求する程迄の水準の達して居なかった。其故に実験済の方法を努力しても,思った程普及しなかったのだと考へるゐる。……経営陣に科学的常識低く,近視眼的利潤追求のみに急であった處へ,低賃銀と来てゐたので,左様迄苦労して無駄を排除しなくても,勤労大衆の犠牲に於いて相当な利潤追求は為し得たので,一層普及を阻害したのであろう46)。 前述で森川は,戦争の時代における日本の欠点が「政治」や「科学」,「哲学」の不在にあったことを指摘した。しかし,能率増進問題にもかかわる思想〔つまり政治・科学・哲学というもの〕を,技術的指導家としてどういう実体・中身において,すなわちどういう意識・感覚でとらえたのかと問うてみるに,どうもこれがはっきりしないのである。
森川は,戦時期の日本帝国のみならずドイツ第三帝国に対しても,特定の論評をくわえていた。 それは,「政治」「科学」「哲学」の不在などではなく,一種の価値観,いわば自身による個人的な評価態度の表明であった。それゆえ戦後に,そうした経緯と無縁であったかのように論及をするのであれば,疑問が指摘されて当然である。 生産技術者であっても,戦争という異常事態のなかで能率増進問題に深く関与し,生産を増強させ,そして戦勝に寄与するのだという意識を強くもっていたはずである。もしそうでないといったら,嘘となる。 戦時中に森川の関与した仕事は,軍の強力なうしろ楯をえていた。それゆえ,ほかの関係指導者ではなしえなかった作業能率の向上・生産増強の成果を生むことができた。それはまた,戦争という大目標に「勝ち抜く」使命を第1義においた仕事であった。 だから,軍の絶対的ともいえる後援・協力をうけ,現場労働に生じる改革への抵抗を問答無用と排除しながら,生産の改善方法を献策し実行することもできた。 ところが,戦後になって彼の発言を聞くと,当時達成できた本来の仕事と成果が,まるで夢物語であるかのように記憶され,独白されている。 要するに,戦争の時代における能率増進にかかわった実施要領はすべて,「戦いに勝ち抜く」という「大目標=至上命題」,すなわち,その時期を代表する価値観〔「全体主義・国家主義」〕に直結していた。その後,敗戦という痛手があったにせよ,あるいは,戦争の時代と深い契りを交わしていた精神〔「日本国家的ファシズム」〕を忘れたにせよ,その全現象を忘失することは,常人であればけっしてできない芸当である。 筆者は,前項 「1) 戦時期の論稿」で,日本精神論に与する立場の観念論的な陥穽に触れた。 森川は,前段に言及したようなあの戦争の顛末に関して,疎遠・無縁の人材ではなかったのであり,それから逃げるわけにはいかない深い関与をしてきた人物である。ちなみに森川は,太平洋‐大東亜戦争の開始直前,某所でおこなった講演のなかで,こういう指摘をしている。彼は,こうもいっていたのである。 今後の戦争は精神力に加ふるにあらゆる点において遥に敵国を凌駕する極めて高度の科学技術の発達によって初めて圧倒的勝利が確保されることは明らかである。いかに精神力が旺盛であっても彼の半分以下の速度と性能では到度勝算なしと断定せざるを得ない47)。
戦争中,能率増進・生産増強のための改善対策を企画,実行し,それ相応の成果も挙げてきた技術者が,森川覚三である。しかし,森川は第2次世界大戦〔アジア‐太平洋戦争〕において,日本がわに「勝算がある」か否かについて,なお明確にしていなかった点がある。 前段の引用内容に照らして判断するに,戦時生産体制に関する森川の分析や発言は,戦勝を予測させうるようなものではなかった。ただし,森川自身「勝算なし云々」していたわりには,この重大な論点に関して淡白な論調であった。この点は,自己保身を意味する。 もっとも森川は,ドイツ〔や日本の枢軸国〕が戦争に勝てるみこみがないみとおしを,明確に語ったことがある。森川覚三『日本的能率への道』(日本能率協会,昭和44年)「ナチスドイツの解剖」という項目中の「世界大戦の予言が的中」において,こういう分析を披露し,憲兵隊の呼び出しをくらった経験に言及していた。 「満州国」の新京〔首都,現在の長春〕で講演をした森川は,「結局ドイツは勝つのか負けるのか」という質問が出たさい,こう答えた。これは,第2次世界大戦勃発よりすこし早い時期でのものだったと思われる。 4千万人のドイツ民族がいかにふるい立っても,世界中を相手にするような戦いには勝てない。いまドイツとソ連は不可侵条約を結んでいるが,これもいずれは破綻する。どこまでもつかということが問題だ。ソ連とやるというのがヒットラーの意志だから,いずれソ連とも戦うことになるだろう。 ナポレオンでさえ参ったソ連のような広大な国を相手にして,ヒットラーが成功するとは思えない。米国もいまは鳴りをひそめているが,いずれ英国が危くなれば,同じ民族だから米国も立つ。そうなると世界戦争になる。“数は力なり”で,かわいそうだがドイツは負けるだろうと私は思う48)。 この発言が公の筋の耳にはいり,外務省には叱られさらに憲兵隊の事情聴取もはじまって,一時期,森川の身辺が危うい状況になった。しかし,当時すでに森川は特別待遇されていたらしく,それ以上は危険分子視されなかった。森川は以後,ドイツ敗戦〔必敗〕予測は口にしなくなった。そして,戦争中の森川はその大局的な予測を忘れたふりをし,能率指導家としての任務遂行に没頭する。
だが森川は,以上と前後する時期,『ダイヤモンド』昭和15〔1940〕年12月21日号に「資本分離に反対す−ドイツの実際に学べ−」を寄稿し,こう高唱していた。 真に国を憂ひ,肚の底から信念に燃ゆるならば仮令生命の危険に直面するとも言ふべきは言ひ,反対すべきは堂々と反対意見を吐露すべきである。実業界に長い経験を重ね,是等の書生論の明らかな誤りを直感してゐる人達が一寸した犬糞的反響を恐れて言ふべきも言はず,反対すべきも反対せざる等はこれでも男子だらうかとさへ思ふ。官民一致して打開すべき国難に際し筆者は敢て実業界幾多の名士の奮起を希って止まない次第である49)。 日本が英米と戦火をひらくまえ森川は,「人間を機械の様に考へて優劣無差別に一律に月給を揃へて,個人の創意や,発明工夫を押へて全体主義的能率低下を誘導するの冒険を敢てして居る様な悠長な場合ではないと思ふ」と50),当時の生産現場における労務管理体制を批判していた。
この記述中にみられる全体主義的能率低下とは,けっしてファシズム体制そのものを批判することばではなく,労働者〔勤労者・従業員・工員など〕の個別的な仕事・成果を考慮しない,一律的な待遇による弊害を意味したものと思われる。こういうたぐいの発言も結局,戦争遂行体制を支援する意図がこめられていた。それゆえ,戦時期における文脈において森川の言論は慎重に吟味されねばならない。 ここでさらに,森川に聞きたいことがある。 森川『ナチス独逸の解剖』昭和15年9月は,ヒトラーが政権をにぎって約1カ月後の1933〔昭和8〕年2月27日におきたドイツ「国会議事堂放火事件」について,「共産狩りを断行する口実を設くる為ナチスの芝居……との噂」を否定したうえで,「時日の経過と共に……矢張り共産党の仕業であった事が後には確信さるゝに至った」と主張した51)。 しかし,それより5年まえ,美濃部亮吉『独裁制下のドイツ経済』(福田書房,昭和10〔1935〕年2月)は,この事件の真相をつぎのように〈解剖〉していた。 議会法に関する裁判は,トルグラー以下3人の共産主義者の無罪であることは勿論,放火が共産党の計画に基くものでないことを証明した。……更に裁判は,警察の努力がもっぱら共産党との関係をつくり上げるために払はれ,真の共犯者の発見をおろそかにしてことをも我々に示してくれた。真の犯人は,警察の探索を逃れて悠々と暮してゐるにちがひない52)。
戦争中,ナチス・ドイツ流のユダヤ民族に対する偏見・差別は,日本社会においても当たりまえの価値観となって浸透していた。もっとも,アドルフ・ヒトラー著『我が闘争』(1924年執筆,第1巻1925年,第2巻1926年発行)に書かれた日本〔広くはアジア〕民族蔑視の記述部分は,日本語に訳出されなかった(日本語訳は1940年以降何種類かある)。そのため,ドイツ語でこの本を直接読めない日本人は,ヒトラーの真意=他民族差別・有色人種蔑視に接しえなかった。森川はドイツ語に堪能であった。 「政治」「哲学」「科学」の重要性を公言していた人物:森川覚三は,ナチス・ヒトラーの真実にせまる著作〔昭和10年公刊の美濃部の前掲著作〕を実読しなかったのか。また,ドイツ国会議事堂放火犯がその後「悠々と暮してゐ」たことに,第2次大戦後にでもよかったが認識できなかったのか。 時代の進捗は,前時代における価値意識の徹底的否定,すなわち,価値観における重大な転換や決定的な変化をもたらした。たしかに,森川がになってきた仕事じたいは,〈能率増進の増進・生産体制の改善〉という技術的問題である。そして,生産現場の問題は必ずしも〈時代ごとの価値観〉に直接的な制約をうけない。 そのためか,生産に関する技術的問題であっても,これを大枠で囲んでいた時代において特有の価値前提を深く意識することもなく,いとも簡単に歴史を突きぬけて〔すりぬけて〕いった。戦時期も戦後期も,なにごともなかったかのように浮遊していく森川の言説は,摩訶不思議な前後関係を展開するものである。 以上の論及に関してはさらに,森川自身のつぎの発言を参照しておく。この発言どおりに話を聞いていいか問題があるゆえ,一定限度,留保が必要である。 1)「私は思った通りを口にし考えたままを筆にする悪い癖があると友人から度々忠告される。そのため口禍や筆禍を大して蒙っていないのはただ一つ運がよかったというの外あるまい。その代り人様の書物から拝借したり,思想を失敬したりする事は絶対ない。自分で納得出来ないとどうしても口や筆に出来ない性分である」53)。 2)「緒戦のときにいわゆる学識経験者は何といったか。日本は神国だから絶対に外夷に負けない。一億総蹶起。今から考えれば誰でもバカらしくなることをよくぬけぬけいったり書いたりしたものである」54)。 森川『生産能率の常識』昭和22年にもどろう。第14章「結論」にすすんで聞く。 森川はまず,「我国では兎角物事が観念的に走る傾向がある。能率の問題と同様であって」,「具体的に能率向上の努力へ第1歩を踏み出す人は皆無に近い現状である」ことを分析する55)。 a) あまりむずかしく考えすぎるのではないか。能率は常識であらねばならない。 b) 日本の事業家はあまりに近視眼的利益のみを追求するのではないか。理想をもっている事業家や経営者が皆無である。 そして森川は,高賃金の展開に処するための能率向上とりくみに関し,事業家・経営者に対して真剣な努力を要請する。また,労働者・従業員に対しては,こう述べる。当時〔1946:昭和21年9月〕の世相を反映した主張である。
事業自体の健実な発展に協力し,当然要求し得る利益の一部の分配に満足し,其の増収に依る余裕を自己教養に用い,漸次実力を備へ社会的信用を得てこそ,初めて健実なる勤労大衆の幸福は招来され得ると云へる56)。 森川は,敗戦直後低迷した産業事情を直截にとらえ,能率研究・指導家の立場から一貫する提言をおこなっていた。もっとも,上記 a) b)
などは,いつの時代,いかなる状況においても妥当する見解である。したがって,この見解が要求された時代背景をさらに,意識しておく余地があったが,必ずしも念頭におかれていたわけではない。
また,労働者・従業員にむけた発言は「パイの増大→分け前」論であって,被用者の〈分〉=「1人当りの生産高の躍進」をしかとわきまえよ(!)といっていた。この論はいうまでもなく,資本家・経営者の立場に固有の思念=理屈である。それは,1955年に創立された日本生産性本部の提唱と同じである。 森川は昭和20年代はじめに,「社会秩序の破壊と混乱をのみ目的とする煽動者の口車にウカウカと乗って,有頂天になってゐる様では,やがて又悲惨なる運命のみが待ってゐる事を冷静に考へて貰ひ度いと念願する」57)と警告した。しかし,それから半世紀以上が経過したいまも,なぜか労働者・従業員にだけ「悲惨なる運命のみが待ってゐる事」が判明している。 いつの時代においても,製造現場:労働過程において労働者・従業員が能率向上・生産性高揚を達成してはじめて,高い賃銀も保障される。だからというべきか,事業・会社をつぶすような,「只衆を恃んで,無理押しに資本を搾取しようとする利己的な考へ方の運動は続かない」と58),森川はいった。 だが,敗戦以後における労使〔労資〕間の歴史をふりかえってみると,資本が労働に対して主導権をとった基本的な構造関係はあっても,その逆だった期間はほんのわずかであり,例外的な現象であった。すくなくとも,1950〔昭和25〕年6月に勃発した朝鮮戦争「特需」発生以降,会社経営の場における労使間の力関係は,「圧倒的に資本本来の経営権を発動する」かたちが守られた。 もちろん,労使の繁栄は,事業家・経営者の職能・仕事の発動にもとづき,労働者・従業員の実際的労働の能率的・効果的な実行〔1人当たりの生産高の躍進〕を俟つことによって,相乗効果的に達成できるものである。 とはいえ,資本主義的事業会社はそれじたいの繁栄・利害を,なによりも先行させるほかない経済的制度である。すなわち,営利追求的企業経営そのものの存続を最優先させることが理の必然であって,最終的には,労働者・従業員の立場・生活はいつも第2義的な位置づけをえるにすぎない。 1990〜1991年,高度経済成長時代の泡沫がはじける事態を迎えるまで,日本の労働者・従業員の生活・文化水準は,相対的にも絶対的にも改善され向上してきた。だが現在,日本に住む人々の生活水準を現実に探ってみると,十分に裕福だという意識をもてる社会層はかぎられており,少数派である。 すでに21世紀にはいっているが,この日本に居住する人々の生活実態を,衣食住をとおして観察してみればよい。衣と食は十分足りているが,住に関連する方面はまだまだ貧弱である。大都市周辺地域ではいまだ,下水道の普及がない地域がいくらでもある。 1990年代のことを「失なわれた10年」という。いまさら,なにをノンキなことをいうのかと感じるが,その間,失業率の悪化状態は改善されず,ホームレス〔家なき人々:無宿者〕を余儀なくされた人々や,リストラ・倒産を主原因とする自殺者も増え,正規雇用労働に従事する被用者の比率はますます低下し,雇用構造の転換もなお不調である。その結果,最近の日本社会には,表現しきれない深くうっ積した不満・不安がよどんでいる。 気骨あるまともな政治家が舞台から去り,世襲議員やタレント議員ばかりが国会に乱舞する時代である。政権交替がこれほど実現しにくい国はない。この国に住んでいると,民主主義の健全な機能発揮がほとんど期待できないのではないか,という絶望感すら抱くのである。 とりわけ,日本がかつて先進の欧米国家を追い上げ追い越したときと似た姿で,こんどは,新興‐発展途上後進諸国の企業経営が力をつけて日本に押し寄せる国際間の経済情勢である。日本の会社が工場生産や営業現場で能率‐効率を向上させても,その世界経済的な動静に対抗できるような抜本的対策をみいだすのは,より困難となっている。 森川は敗戦直後,「能率は常識」「理想をもった事業経営」を力説したが,能率や経営の問題に関するこのような認識方法がすでに,〈国際標準:グローバルスタンダード〉化しつつある。それゆえ,新しい勢力の興隆・追迫に対抗,克服するための方途をみいだすことは,なかなか困難な実情にある。 「先進国に遅れた工業が画期的の進歩を遂げ得るものなる事」は59),いまや攻守の「所」:方向をかえて日本に逆流してきている。 森川は,戦時中も能率的な工場経営法を強調し,労働者・従業員は高い賃銀がほしいのであれば,会社に利益を十分提供しうる労使協力体制を築き,その枠のなかで〈分をわきまえた態度〉を採るべきだと主張した。この価値観は明らかに,体制〔国家と企業〕がわのそれである。 しかしながら,戦後長らく森川のそうした指針にしたがい奮励努力してきた労働者・従業員は,いままでどれほど報われてきたというのか。戦争中は,お国のための「産業戦士」となって一生懸命に働けと命じられ,戦後こんどは,会社のために猛烈に働きつづけ,家庭・地域社会をおきざりにする「企業戦士」に変身させられたのである。 戦争中,能率の向上・発揮,生産の増強・高揚という目標は,まったくその逆の効果しか生まなかった。だが,敗戦後は平和な時代になり,ほどなく僥倖ともいえる契機が与えられたこともあって,能率増進への努力がその本来の効果を現わしはじめた。人々の生活もたしかに,以前より目にみえてよくなった。しかし企業中心社会のなかで,会社本位主義が浸透するとともに家族内関係は崩壊し,学校は荒れ放題,地域社会は空洞化させられた。 かつて繁栄を謳歌した企業社会では,リストラはむろんのこと,会社倒産の嵐が吹きすさんでいある。企業社会=会社はもはや,労働者・サラリーマン諸氏のよりどころたるゆえんをほとんど喪失した。最近では,リストラをする会社が希望退職者を募ると,締切期日よりまえに,しかも予定した人数枠をはるかに越える希望者が殺到する事例もある。 要するに,能率化の実現は,いったいなんのため,誰のためであったのか。そして,産業社会全体に対してどういう効果を産み,さらにどういう逆機能を世の中にもたらしたのか。われわれは,それらをあらためて吟味すべき時代に向きあっている。 森川の定義した「経営」概念は,以下のようなものであるが,そうした疑問に答えられるべき〈なにか〉を提示できるだろうか。 経営とは必要な資金を集め,なるべく無駄のない様に生産活動を続けさせ,出来たものをなるべく早く販売して資金に換へ,其企業体が不安なく安定して活動を続けて行ける様に経理的検討を不断に行い,各部面を担当する多くの人々が不満なく,不服なく,常に自分に課せられたる任務に漸進的な努力を続けて行く様に人事を管理し,且社会情勢の変化推移を鋭敏に感得し,推察して先づ其の企業体が不断に前進する様に万遺漏なく配慮按配し,進んでは其企業を通じて社会人類に奉仕して行く仕事と定義し度い60)。 これは,あまりにも体制普遍的に過ぎる定義である。いまはもう流行らなくなった,社会主義体制の企業運営にも十分妥当する記述である。さらに,非営利事業の各種経営法とみなしてもよい説明内容である。また,宗教法人や学校法人の運営管理に必要な配慮事項を列挙していると解釈することも可能である。くわえていえば,戦時体制期に軍需物資を生産供給していた営利会社が能率増進をするためにも,不可欠の要請であった。
昨今,資本主義体制のなかでまさしく,「社会人類に奉仕して行く経営の仕事」とはなんであるのかが問われている。だが,森川の経営「概念」は,それに答えうる実質を備えていない。誰のためにもなるということは,誰のためにもならないということではないのか。森川覚三は,誰かのためになることを一貫していい,おこなってきた人物である。上述「経営」概念の定義はその意味で,画竜点睛を欠くものであった。
X 能率の意味−なにが体制普遍的な問題か−
森川覚三「個人」を論じた書物として,日本能率協会企画編集委員会編『森川覺三の世界−経営能率に賭けた その生涯−』(日本能率協会,昭和61年)がある。また,日本能率協会の歴史ついては,日本能率協会編『10年間の足跡』(同会,昭和27年)がある。さらに,日本能率協会編『経営と共に−日本能率協会コンサルティング技術40年−』(同会,昭和57年)もある。『10年間の足跡』は戦中の歴史に言及していたが,『経営と共に−日本能率協会コンサルティング技術40年−』は,それに簡単に触れただけである。 『森川覺三の世界−経営能率に賭けた その生涯−』は,森川の経歴や業績をくわしく紹介する。この書物に描かれた森川覚三の人物像は,前節まで筆者が論究してきた論点,いいかえれば,「戦争の時代」および「平和の時代」における〈能率の思想史〉に照らしたとき,どのように再解釈できるだろうか。
@「社団法人日本能率協会創立30周年宣言」 この宣言は,こう謳っていた。「生産性を高め,経営効率を向上することは,いかなる時代にも産業の基本的責任であり,小会は,この面での活動はますます強化しつづけますが,一方,新しい時代の新しい要請に応え得るよう,事業の革新を行ないます」。これが同会の「創立以来の伝統」であり,「社会全般の発展に一層強力に寄与し得る団体に成長することを誓い,ここに宣言します」61)。 以上で,「いかなる時代にも」という一般的規定そのものは,あながち理解できないものではない。だが,日本能率協会誕生した時代の事情背景をしる者にとっては,すなおに聞けない文句である。と いうのは,日本能率協会創立30周年宣言にしたがうと,「戦争の時代」も単なる〈ひとつの時代〉とみなされ,「いかなる時代にも」のなかにひとくくりにされているが,岸 信介の回顧するところ,「昭和16年12月には日米開戦となり,当時軍需生産の責任者である商工大臣であった私は,日本を代表する能率団体であった日本工業協会と日本能率連合会を合併し,一本化された強力は日本能率協会を創ることに意を決した」62)ものだったからである。 端的にいえば,当時の「戦争を遂行する帝国日本」に仕えていた「産業の基本的責任」=能率・生産性は,その時代に特有の目標:「戦勝」に奉仕すべきものとされていた。ところが,その戦争に敗れたのち早速こんどは,平時=平和の産業に能率・生産性が仕えるというのであるから,そこには一抹とはいいがたい疑念が生じてきて当然である。 はたして森川は,日本のばあい戦時と平時とにかかわらず,能率・生産性が「産業の基本的責任」をはたしてきたと考えるのか。森川「能率」概念の思考回路は,この重大な論点に答える論理の展開が完全に欠落する。 能率だ,生産性だといっても,いつ,どこで,誰によって,どのように,なんのために財貨・用役が製造・産出され,そして実際,それらがどのように利用・費消されたのか。 一方は,戦争という異常事態下において「大量殺人・破壊」=戦闘行為のために発生する厖大な乱費,天文学的数値の浪費であり,他方は,平和という安定した生活のもとでの物資の生産的,創造的な使用・消耗である。根源からして,両者の意味が完璧にちがうではないか。 それは,人間・社会の経済生活にとっての意味が完全に逆相であって,とうてい両立しがたい関係にある。一方は,直接に殺戮‐破壊にむかうだけである。他方は,ともかく世のため人のための活用→創造にふりむけられる可能性を期待できる。意義づけも方向性も天地の差ほどあるふたつの出来事が,どういうふうに考えたら同一線上に並べられるのか。 岸 信介は,戦後日本の首相になったほどの偉大・有為な人物である。戦争中,商工大臣などの立場より戦争推進に積極努力した岸であったから,日本が戦争に負けた結果,極東国際軍事裁判〔いわゆる東京裁判〕における〔勝者の〕裁きで「A級戦犯」とみなされ,巣鴨プリズンに拘置された。 だが,その後,占領軍による日本占領政策の変質にともない絞首刑にはならず釈放され,日米講話条約発効後は再び政界で活躍しはじめる。昭和31〔1956〕年12月発足の石橋湛山内閣で外務大臣となるが,短命に終わったこの石橋内閣のあとをうけ,昭和32〔1957〕年2月に第1次岸 信介内閣が発足する(昭和33年6月まで)。 要するに,日本能率協会は戦争を産褥とし,岸 信介を〈生みの親〉として生誕した。もちろん,明治以来の旧日本帝国主義がその大枠での土壌:産院であった。 日本能率協会という組織じたいがいけないといっているのではない。事実において,この協会が戦争に全面協力する〈戦争の時代〉があった。戦時における協会内部の事情や,国のおこなう戦局がどうであれ,能率や生産性を内部から必然的に腐食させていく〈根本的な本質〉を有するのが,戦争という行為そのものである。 日本能率協会は一時期,そうした歴史状況に真正面より対峙した組織体=現象体であった。能率協会という法人組織は,「全面戦争という緊急事態」に「能率問題という産業問題」が遭遇して挙国一致的に組織されたとはいえ,絶対的な自己矛盾を内在させ出発したのである。なぜなら,戦争目的の有効的に達成することは,能率が挙げた成果を蕩尽する事態を不可避の条件としたからである。 しかし,森川の言動=思想はなぜか,その究極的な問題底面にまでは降りていかない。能率増進の諸問題全般のきれいごとに終始し,戦争の悲惨・不幸には触れないで済ませてきた。この論点は,彼に向けて指摘されねばならない,もっとも根本的かつ重大な問題である。 『森川覺三の世界』に寄稿したある人物は,森川覚三を非常に高く評価し,こういっていた。 合理化・能率化こそ企業活性化の根源であり,すなわち国民経済発展の正道であるとの所信は固く,益々情熱を燃やされて,常に国家的見地からわれわれを激励,教導された63)。 戦時中,「国民経済発展の正道」を導く最高の価値・倫理はまさに,森川のいったとおり「戦争に〈勝ち抜く〉」点におかれていた。「国家的見地」とはいっても,戦争の時代と平和な時代とではその中身:含意は決定的に異なる。しかも,戦争期はとくに「国家」目的が強調されたが,平時期には「産業」理念が前面に出され,時代をかこむ価値観が根底より異なっている。
たしかに,「国民経済発展の正道」とか「産業の基本的責任」とか表現された高邁で抽象的な国家的理念は,時代を超えて〈普遍的な意義〉を通有しうる。だが,この概念に「戦中の〈価値観・世界観〉」と「戦後における〈価値観・世界観〉」とをそれぞれ対置させると,完全に正反対であるふたつの思想が現出する。それゆえ,これほど完璧に逆を向いたふたつの観点を「同一の標語」のなかに収めうる理念には,最初から疑いがもたれる。 産業経営における能率・生産性の問題は,トルストイの書いた小説の題名のようには収まらない。われわれが問題とするのは,『戦争と平和』に描かれた,戦争のもたらす不幸・悲惨〔能率概念でいえば経済社会全般にわたるムダ・ムリ・ムラ〕であって,小説の題名そのもののごときではない。 ここで,表4「戦争と平和の産業価値観」を作成しておく。表4のなかで,戦時期の価値観は,戦後期の価値観よりも包括的であって,より上位に位置する関係に関連づけられていた点に留意したい。
「戦争のための能率・生産」と「平和のための能率・生産」という対照区分は,単純に仕切れない要素もかかえてはいるが,基本的な方向・関係としては絶対に背反するものである。したがってひとまず,その区分〔対立性〕を絶対視する〔しなければならない〕見地が基本的観点として妥当であることは,むずかしい議論を俟つまでもなくたやすく納得できる。ところが,その「戦争と平和をめぐる単純明解な論点」は,森川の著作中では完全に追放され疎外されている。しかも森川の記述をみるかぎり,彼自身においては,その論点が意識的に議論されることがなかった。
A「森川覚三における先見の明と人間性」 森川覚三という人物は,他者からみてどのような印象をもたれ,どのように観察されていたのか。 a) 時 代 観 ……「森川さんは,明治の気骨と風格を如実に感じさせる人で,常に国の将来に想いを馳せておられた」。「森川さんはわかりのいい方であり,先見の明がある人だと敬服した」。「戦時中出された『ナチス独逸の解剖』などをみると,ある意味で愛国者であって,日本という国を外国から見て,日本のあるべき姿について,日本にずっといた人とは違って,日本は将来こうあらねばならないという考えを持っていたのではないか」64)。 先見の明があった森川は,「日本の将来」を「外国から見て」,「こうあらねばならないという考えを持っていた」と評価されている。しかし,戦時期日本経済の実態,製造現場惨状を知悉していた彼が,その「将来」まで的確に認識しようとしていたかといえば,なおあいまいな諸点をのこすのである。 1945年8月の無条件降伏に終わったあの戦争であったけれども,当時日本の経済力=生産力をすこしでもしる者であれば,もともと勝ち味のないのが日米戦争だった。そもそも,科学的管理や産業合理化の方法と実際をよくしっていた森川が,「戦争に〈勝ち抜く〉」のだと発言したことじたいに疑問が生じる。工学専門の高級技術者である彼は,生産・工場の現場で能率指導をする仕事をしていた。 それゆえ,日本が戦争を遂行する現実的な意味合い〔勝利するための現実的な実力:遂行力=生産力〕を,当初より重々理解できていた〔はずである〕。だが,そうした能率増進・向上に関する実践的指導の体験を,経済問題や社会認識,国家体制,国際関係の次元にまで上昇していかない,いいかえれば,あえて昇華しないようあえて自身をとどめていたかように映る。 森川を評してある人はまた,「あれだけの仕事をし,時勢に必らずしも乗っていたわけではなかった」と褒めあげていた。しかし,森川自身においては,〈時勢〉と表現すべき〈歴史〉的な観念:時代認識が希薄である。だから,敗戦後もともかく,「これからは企業も,国全体としても,能率ということを考えていかなくちゃいかん」といってのけ65),同じ文句=能率概念の〈体制普遍的命題〉だけを反復することができたのである。 森川は戦時中,能率増進・生産性向上のための技術的な指導・実践を,日本の各工場で一生懸命におこなってきた。敵国アメリカの高能率→高生産性に対抗すべく日本も,能率増進→生産増強に邁進しなければならなかった。しかもそれは,「戦争に〈勝ち抜く〉」ための努力そのものであった。とはいえ,その結末はいかにあいなったか。 戦争指導に深くかかわってきた森川自身は,そこまでにいたる経過を,いかに《確認‐評価‐反省‐再点検》したのか。森川が備えていたという〈先見の明〉に負けない,〈回顧の賢〉が提示されてしかるべきであった。だが,残念なことにその肝心の歴史的洞察は,森川のどこにもみいだしえないのである。 「『30数歳で刑死したイエスのキリスト教は80歳まで生きたシャカの仏教にはおよばない』というのを持論にしていた……森川さんは,宗教家ではなくて哲学者だったのではないか」66)とまで,もちあげられている。 そうであるならば,「森川さんがプロテスタントである」67)こともふくめ,能率指導家の有する〈技術的な専門知識〉の実存的意味を,戦争の時代における「日本全体の〈価値観〉」に突きあわせて哲学的かつ宗教学的に再考することが,森川自身の精神構造に対して要求されていないか。 b) 日本的精神 …… 「後年,森川さんが大倉邦彦氏の影響を受け」た。「森川さんは大倉邦彦先生は私の生涯に会った最大の恩師である。〔昭和39年から〕7年間先生の教えを受けたが,この7年間に私の人生観が根底から変ってしまった」と指摘されている68)。 筆者は,大倉邦彦の日本精神論=大和魂論を分析したことがある。 財団法人大倉精神文化研究所編『大倉邦彦傳』(同所,平成4年)は,大倉邦彦は,昭和20〔1945〕年12月11日A級戦犯として巣鴨拘置所に収容されたが,翌年8月30日容疑晴れて出所した事実を年譜にしるしている。大倉邦彦がA級戦犯に疑われた事由は,つぎのように説明する。 推されては,大政翼賛会をはじめ産業報告会,大日本興亜同盟など十数団体の要職に就いていた。国をあげて戦時一色という中で,邦彦の所属する団体はいずれも,ひたすら我国の勝利を信じ,戦いに勝つことのみを目標においていたことは当然のことであった。こうした活動が,ウルトラナショナリズムとして疑われたのである69)。 文中で大倉邦彦が戦時中,「我国の勝利を信じ,戦いに勝つことのみを目標においていた」ことは,森川覚三も同列であった。森川は,昭和39年から大倉邦彦の影響をうけはじめたというけれども,戦争の時代すでに2人は〈同じ目標〉を共有していた。これは偶然の一致ではなく,時代の流れが必然化させた現象である。しかし,その一致を浮上させた当時の強制力〔ウルトラナショナリズム:超国家主義〕に,2人がそれぞれどのように反応したか考えてみる価値がある。
戦時体制期〔昭和12〜20(1937〜1945)年〕に大倉邦彦が公表した諸著作のうち,経営学に関係するものを紹介しよう。 『勤労教育の理論と方法』三省堂,昭和13年11月。 『日本産業道』日本評論社,昭和14年8月。 『大東亜建設と教養』弘道館,昭和17年6月。 『産霊の産業』大日本産業報国会,昭和17年8月。 『神祇教育と訓練』明世堂,昭和17年10月。 『勤労世界観』明世堂,昭和19年9月。 これら著作が示唆する戦時勤労観は,日本精神・大和魂「論」=国体・「国民精神」論の典型であった。旧大日本帝国を理念的・実践的に合理化し推進する役目をはたしていたのが,大倉邦彦の論説である。 当時,大倉はまさしく,ウルトラナショナリズム:超国家主義を声高にとなえ,ファシズム:国粋主義に唱和し,神国日本によるアジア‐太平洋戦争の推進を正当化する理屈を並べたてていたのである。 したがって,大倉が「A級戦犯」の疑いを戦勝国にかけられたのは,しごく当然のなりゆきである。たとえば,アジア諸国の国家・民族・人々が大倉の書物を読んで,これをアジア侵略を正当化する内容だと感じないわけがない。 戦犯の容疑がのちに晴れたといってもそれは,日本を統治していた占領軍の勝手な都合による統治政策変更のせいであって,大倉邦彦という人物の戦争犯罪性が「あらゆる」意味合いで免罪できたと考えるのであれば,明治以降の日本によるアジア侵略の全局面が免罪されることになり,正当化されかねない。 敗戦後20年近く経って森川が,この大倉邦彦に計りしれない影響をうけたということであれば,ここでは大別して,ふたつの根本的疑念が生じる。
c) 科学性と神秘性 ……昭和10年代の日本にあって,「上野陽一さんや荒木東一郎さんのようなアメリカ風の科学的管理法については素人だけれど,ドイツ風の合理化をみてきた人は,他にそんなにいない」70)ため,重用されたのが森川覚三である。 1929年世界大恐慌を契機に盛んとなる産業合理化の動向は,国家の意図・指導のもとに形成されていた。三菱商事勤務の都合上満州国にわたり,その間,国家官僚に身分をうつした森川の仕事は,国家の要求に真正面より応える〈要の地位〉に位置していた。 つまり,こういうことであった。「人間森川さんの真のお姿」は,「森川さんとほぼ類似の行動軌跡を持った日本人の中に伍堂卓雄氏と岸 信介氏がある。この3人の日本人は,その後の経過を考え合わせると,まことに不思議な縁で結ばれていた」71)なかで観察されるべきものなのである。それゆえ,この〈縁〉に導かれながら,森川覚三という人材の真価を判断する必要がある。 ただし,伍堂卓雄は「軍人将星」,岸 信介は「政府高官」であったの対して,森川覚三の経歴は主に「民間企業出身の高級技術者」である。この出自の差は,彼らの行動理念および実際上の活動軌跡においても明白に反映されている。 軍部の人間は軍事的な戦略志向の立場,政府の官僚は国家政略の立場を重視するのに対して,森川のような実業界出身の専門家は,技術の論理でのみ世の中を観察する資質を養ってきたかにみえる。 森川は,戦後もだいぶ時間が経ってから大倉邦彦の影響をうけたといわれる。技術者の理屈=アメリカ流科学的管理の思考方法は素人だが注),ドイツ風合理化に慣れ親しんだ森川が日本の伝統宗教的な神秘主義の思想家に傾倒,親炙したことは,戦争の時代における生きざま:国家協力の姿勢も並べて考えると,ある種の疑念を生むのである。
戦争の時代,森川が生産・工場の現場で能率を増進しようとしたさい悪戦苦闘させられた相手=その妨害の実体は,大倉邦彦の〔似非哲学的な〕日本精神論に盤踞する〈なにものか〉であったはずである。 戦争中,大倉の上梓した著作をひもといてみよ,それこそ,森川が能率増進運動をもって撲滅すべきだった絶好の対象ばかりである。両名の邂逅がたまたま昭和39年であったからよいものの,戦争の時代であれば森川の仕事を,真正面より妨害する思想=狂信的な国家理念を喧伝していたのが大倉であった。 戦時体制下において森川は,自分のたずさわる仕事の体制普遍的な意味も,そして,その緊急特殊的な意味も意識的に問うことがなかった。体制普遍的な仕事である能率増進・生産性向上は,戦争という特種な任務に奉仕した。しかも,後者は前者に否定的にせまるほかない国家的な任務であった。 突きつめていえば,その両者の根本的に相矛盾した性格を,どこでどのように折りあわせるのか,いちどは真剣に考えておかねばならなかった。しかし,森川の著述・発言に接するかぎり,肝心なその点はあくまでも不明瞭である。 以上のような人生行路を評定するに当たって,「森川さんによる『産業能率の神秘的役割』」73)を絶賛するのは,いかがなものであろうか。 本稿の冒頭で筆者は,森川『ナチス独逸の解剖』唱和15年の分析が「神秘的でも本質的でもなかった」こと,いいかえれば,同書には時代の流れを的確に分析したりあるいはさきどりしたりするような中身はなく,むしろ,ドイツ〔の敗退必至を事前に適切に予測していたにもかかわらず〕ナチスに付和雷同,称賛してその紹介を「俗物的,現象的におこなった」ことを指摘した。 工学系出身の技術者だからといって,世の中の出来事にかかわり重大な関与をなしてきた自身の行動を,その功罪にわたって徹底的に吟味することが回避されてよいわけはない。戦後においても日本経済の発展に大いに寄与した人物だからといって,戦争経済の展開〔=「戦いに勝ち抜く」こと〕を推進するために能率指導をおこなってきた経歴に目をつむり,糊塗し美化するのは,問題の本質を隠蔽する所作である。 日本能率協会会長を勤めた伍堂卓雄も,戦犯容疑で巣鴨プリズンに収容されたが,戦犯起訴はされず1年後に釈放された74)。大倉邦彦も同じあつかいをされた。これに比して,パージの噂が飛びかったが戦犯容疑をかけられなかった森川覚三は,敗戦後も日本能率協会の理事長をつづけ,さらに〔昭和32(1957)年4月:61歳のとき〕同会の会長にもなった。 表5「日本能率協会組織図・役員名簿(昭和27年5月現在)」を参照したい。このとき伍堂卓雄は再び,会長に復帰している。 |
しかし,森川覚三という人物はそうした意義・位置づけのゆえに,戦争責任〔そして戦後処理〕問題を意識することでは,この国における識者によくみられるように,希薄あるいは皆無の精神構造を通有してきた。この森川の特性は,〈神秘的〉との形容を当ててもなお,おおいがたい問題点としてのこる。筆者はむしろ,いままで「問題となるべき問題」がとりあげられてこなかった〈周囲の事情〉にこそ,森川覚三にまつわる神秘性を感じとる。 森川覚三『ナチス独逸の解剖』昭和15年の末尾は,こう記述していた。 此の質素,此の人間愛に溢るゝヒットラーの個性あるが故に,8千万の,又戦時に於ては喜こんで一身を国家に捧げてゐるのであって,民衆は単に理論や法律や強圧だけで,自発的に動くものでない事を,擱筆するに当り特に付記して置き度いと思ふ75)。 1945年5月まで,ナチスドイツの支配下にあった諸地域では,どのような歴史の現実が展開されてきたのか。そして,森川はその後のドイツをどのように説明したのか。敗戦後ドイツの諸事情は,あまた公刊された文献に詳細に描かれているから,ここでは触れない。
だが,上記の引用文は,ドイツ第3帝国の実相〔ヒトラー政権下の暗黒面〕の表層,それもほんの一部分しか観察できていなかった。明らかなのは,森川がナチス・ドイツの最高指導者を,当然のごとく礼賛していた点である。 とりわけ,「戦時に於ては喜こんで一身を国家に捧げてゐる」,「民衆は粗食に耐え,過重の労働に堪え」たと紹介したドイツ国民の実情は,それでも,日本のばあいよりはるかにましな水準であった。 戦時日本における能率問題に関していえば,労働者・従業員たちは「粗食に耐え,過重の労働に堪え」ることができず志気を喪失し,生産性を確実に低下させていった。この実態は,森川自身が工場に出むき指導をおこない接触をもっていたから,知悉することであったと思われる。 -2001. 8. 17- -2002. 5. 25- |
【
注 記 】 2) 森川覺三『ナチス独逸の解剖』コロナ社,昭和15年,自序3頁。〔 〕内補足は筆者。
3) 同書,12-13頁。 4) 同書,79頁。 5) 同書,78-79頁。〔 〕内補足は筆者。 6) 同書,140頁。 7) 同書,140頁。 8) 同書,169頁。 9) 同書,174頁。 10) 同書,288頁,289頁。 11) 同書,305頁,306頁。 12) 裴 富吉『満洲国と経営学−能率増進・産業合理化をめぐる時代精神と経営思想−』日本図書センター,2002年,第4部第7章「満州能率協会大会の経過」。「研究資料『満州の能率』各巻各号の主要論文〔その3〕−第5巻(1943年)−」『大阪産業大学論集〈社会科学編〉』第110号,1998年10月を参照。 13) 当時における日本能率協会の諸活動については,社団法人日本能率協会編『10年間の足跡』日本能率協会,昭和27年,第3章「普及事業」を参照。
14) 日本能率協会編『10年間の足跡』42-43頁参照。
15) 草柳大蔵『実録満鉄調査部 上』朝日新聞社,昭和54年,4頁。 16) 中島 誠『アジア主義の光芒』現代書館,2001年,33頁。 17) 日本能率協会編『10年間の足跡』100頁。 18) 森川覚三「創刊の辞」『日本能率』第1巻第1号昭和17年6月,1頁,2頁,3頁。 19) 高橋亀吉『日本の企業・経営者発達史』東洋経済新報社,昭和52年,104頁。 20) 森川覚三「日本能率協会発足について」『日本能率』第1巻第2号昭和17年7月,9頁,10頁参照。 21) 森川覚三「生産拡充と生産技術」『日本能率』第1巻第4号昭和17年9月,8頁。 22) 同稿,9頁。 23)「巻頭言 新産業道」『日本能率』第1巻第4号昭和17年9月,2頁,3頁。 24) 産業能率短期大学編『上野陽一伝』産業能率短期大学出版部,昭和42年,204頁,206頁。 25) 前掲『森川覺三の世界−経営能率に賭けた その生涯−』109頁,111頁。 26) 森川「生産拡充と生産技術」8頁。 27)「巻 頭 言」『日本能率』第1巻第5号昭和17年10月,1頁。 28)「能率増進の日本的性格」『日本能率』第2巻第1号昭和18年1月,2頁,3頁。 29)『朝日新聞』2001年8月10日夕刊「窓」欄。 30) 森川覚三「連続自己反省の提唱〔巻頭言〕」『日本能率』第2巻第5号昭和18年5月,1頁,4頁。 31) 同稿,1頁。
32) 森川覚三「無駄話〔其の1〕」『日本能率』第3巻第6号昭和19年6月,10頁。この注記
32) および直前本文の〔 〕内補足は筆者。
33) 森川覚三「無駄話 其の二」『日本能率』第3巻第8号昭和19年8月,6頁,8頁。
34) 森川覚三「無駄話 其の三」『日本能率』第3巻第9号昭和19年9月,1-2頁。
35) 十五年戦争極秘資料集 補巻9 野田勝久編・解説『南方地域現地自活教本』不二出版,1999年,野田「解説」1頁,12頁。
36) 藤原 彰『餓死
(うえじに) した英霊たち』青木書店,2001年,138頁。
37) 柳澤利喜雄『決戦体力の目標』みたみ出版,昭和19年9月〔本書序文の日付は昭和18年9月30日〕,265頁。
38) 森川覚三「無駄話 其の三」『日本能率』第3巻第9号昭和19年9月,2頁。
39) 森川覚三「無駄話 其の五」『日本能率』第3巻第10号昭和19年10月,1頁。 40) 森川覚三『生産能率の常識』ダイヤモンド社,昭和22年,石山賢吉「序」4頁。/は改行個所。 41) 同書,「自序」1頁,2頁。〔 〕内訂正の補足は筆者。/は改行個所。 42) 森川『生産能率の常識』第2章「大和民族の素質」9頁,第3章「能率の概念」11頁。 43) 同書,14頁。 44) 同書,33頁。 45) 同書,38頁。 46) 同書,第9章「製造工業より生産工業へ」75頁。
47) 企画院第7部兼第1課長勅任技師 森川覚三『科学技術新体制の理念』生産拡充研究会調査部,昭和16年1月,15-16頁,18頁。注記:〈到度〉は到底か。
48) 森川覚三『日本的能率への道』日本能率協会,昭和44年,162-163頁。
49) 森川覚三「資本経営分離に反対す−ドイツの実際に学べ−」『ダイヤモンド』昭和15〔1940〕年12月21日号,20頁。
50) 森川覚三「技術発育の温床を提唱す」『日本評論』昭和15年11月,96頁。
51) 森川『ナチス独逸の解剖』140頁。 52) 美濃部亮吉『独裁制下のドイツ経済』福田書房,昭和10年,325頁。 53) 森川覚三『経営への直言』日刊工業新聞社,昭和34年,自序1頁。 54) 同書,123頁。 55) 森川『生産能率の常識』260頁以下。 56) 同書,266頁。 57) 同書,266頁。 58) 同書,266頁。 59) 同書,〔札幌市中山機械株式会社社長 中山五平〕283頁。 60) 森川覺三『経営合理化の常識』ダイヤモンド社,昭和25年,12頁。
61) 日本能率協会企画編集委員会編『森川覺三の世界−経営能率に賭けた その生涯−』同会,昭和61年参照。
62) 同書,194頁。
63) 同書,198頁。 64) 同書,204頁,229頁,182頁。 65) 同書,211頁。 66) 同書,261頁。 67) 同書,245頁。 68) 同書,155頁,172頁。 69) 財団法人大倉精神文化研究所編『大倉邦彦傳』同所,平成4年,1034頁,174頁。 70) 日本能率協会編『森川覺三の世界』99頁。 71) 同書,82頁,45頁。 72) 森川覚三『経営の組織と管理』日刊工業社,昭和31年,92頁,195頁,205頁,215頁。 73) 日本能率協会編『森川覺三の世界』213頁。 74) 日本能率協会編『森川覺三』216-217頁参照。 75) 森川『ナチス独逸の解剖』379頁。
|