直線上に配置

裴 富吉 学術論文 公表ページ


「満州国」とキリスト者の信仰
〔原題:「満州国」高官論メモランダム〕

―武藤富男『再軍備を憤る―追放者の告白―』昭和26年10月―


裴  富吉

直線上に配置

  
『大阪産業大学経営論集』第1巻第1・3号,1999年10月・2000年6月掲載。

  本 HP 2001年11月18日公表(用に改・補筆)。

直線上に配置


=も く じ=

1 は じ め に―信仰の告白か―

2 すりかえられた信仰の告白

 1)「自分の罪の告白」
 2)「時代の差と満州国」
 3)「溥儀について」

3 東條英機をイエス・キリストに譬えるまちがい

4 信仰を希薄化させる告白的からくり

 1)「武藤の懺悔」
 2)「武藤の経歴」
 3)「告白のしかた」
 4)「内閣情報局」
 5)「関東軍機密費」

5 侵略思想の残滓
 
6 すぐれているという神道

 1)「神道の解釈」
 2)「告白の中身」
 3)「サタンの存在」
 4)「靖国と鎮魂」

7 神を信じる人か

 1)「加害と被害のすりかえ」
 2)「多民族に対する不可視」
 3)「総括的責任」
 4)「禊であって,告白ではない〈告白〉」 
 


 はじめに―信仰の告白か―
 

 1) 筆者はすでに,「官僚と政治と宗教―『満州国』
官僚武藤富男の事例―(1)(2)(3・完)」という論考を
公表した
1)

 同稿は、戦後日本キリスト教界における言論活動や,
宗教系学校法人経営に大活躍してきた武藤富男に関する
考察をおこなった。

 同稿はまた,武藤富男がキリスト者であった出立点に
こだわり,彼が戦時‐戦後にかけてどのような行動・言
説の軌跡を描いてきたのか検討し,きびしい批判をくわ
えた。

 その結果,一信徒としての武藤富男は,1945年8月ま
での自分に関して「本質より自己批判する」ことを「終
始ぼかしつづけてきた」こと,そして,キリスト教を信
心する者でありながら素直さと徹底さを欠き,〈信仰告
白に似せた〉「単なる告白話で済ませてきた」ことを指摘
した。

 
 同稿はさらに,クリスチャンの立場を厳守する信仰告
白のありかたを〈理想型〉的に前提して考察し,武藤に
よる信仰告白はそれこそ,「お茶を濁した」〈告白文〉で
あった限界を批判した。
 
 今回あらためて,武藤富男『再軍備を憤る―追放者の
告白―』(文林堂,昭和26年10月)を吟味することによ

って,筆者がいままで感じていた基本的な疑念は決定的
に深まった。

 ここに公表する本稿「メモランダム(原題より)」は,以
上の基本的論点をさらに深耕し,キリスト信徒武藤富男
の政治性の問題を,戦時‐戦後にまたがって論究するこ
ととした。

 

 2) 武藤富男『再軍備を憤る―追放者の告白―』は,
1951〔昭和26〕年9月4日に開催されたサンフランシス
コ講和会議における対日講和条約調印(インド・ビルマ
などは参加拒否,中国は招待されず,ソ連などは調印し
なかった),ならびに日米安全保障条約調印〔いずれも
9月8日〕を念頭におき,公刊した著作と推察される。

 昭和26年9月8日付けで書かれていた同書の「序」は,
「私は内外のこの危局に当り,言いたいと思っていること
を何の遠慮もなく言い得るこの時代と民主主義と日本の
支配者とに感謝します」と,断わっていた。

 昭和22年の晩春,武藤は東京市ヶ谷の戦犯法廷に証人
として出廷し,日本人戦犯容疑者の弁護をおこなった。
そこで彼は,「満州国政府は宗教を圧迫しなかった,我
々はヒューマニズム(人道)に基いて満州建国をやった,
という二つのことを立証する意図」を方針に,被告たち
を弁論した
2)

 筆者は,このような発言をいきなり聞かされ,大いに
戸惑わざるをえなかった。旧「満州国」高官の立場を勤
めていたとき武藤は,異民族・他宗教を圧迫する公式発
言をした。戦後日本におけるキリスト教界の,りっぱな
指導者になっていた武藤である。それなのに,法廷用に
立てた訴訟戦術上の発言とはいえ,前段の弁論の骨子は
「いくらなんでも・ひどい」。

 

 3) 武藤富男は,東京裁判〔極東国際軍事裁判,昭和
21年5月3日開廷〕において,「天皇をかばって」絞首
刑になった東條英機を評して,「忠義とか臣節とかいう
ものを超えて,人間的な美しさを示して居ります」とい
った
3)

 筆者は,こういう武藤の感性および理性に対位してい
た彼の〈キリスト教精神の危うさ〉を感じとる。

 要するに武藤は,「キリストの十字架の光に照らされ
る時,東條の絞首刑に含まれている犠牲と贖罪の意味が
おぼろげながら現れて来るのです」と解釈していた

 戦時期日本のキリスト教は,この東條英機政権の時期
まですでに多くの弾圧をうけ,壊滅的な悲劇を体験した
はずである。だが武藤は,その東條の死がキリスト者た
ちだけではなく,日本民族全体の救済を啓示しえたと牽
強付会する。

  「彼〔東條〕は神の子イエスとは全く異質の人間です。
しかもなお彼の絞首刑には,恰度キリストの十字架につ
いて色々と解釈がなされるように,多くの意味が含まれ
ているのです」と理解していた
5)

 なかんずく武藤は,自分の「背教の罪」に対する犠牲
と贖罪をなさしめるための材料を,東條英機に求めたの
である。これは,東條個人の意図とは無関係の「特異な
独自の贖罪論」であった。東條にとってはまことに迷惑
な立論であったと思われる。なお,武藤の聖職者として
の専門は,「聖書学」と紹介されている6)


 すりかえられた信仰の告白
 

 明治以降の日本帝国について,武藤はこういう。
 
 「日本は他国の主権を尊重せずこれを犯し,多くの人
命を兵火によって殺し,多くの人々を武力の制圧下にお
いて支配したのです。この犯罪を私たちは素直に認めま
しょう。他人や他国を責める前に私たちは自分自身の罪
と私たちの父祖の犯した罪との責任を負いましょう」。

 「私は自分の戦争犯罪を神と国民とに対して最も深く
意識します」。

 「ですから追放解除注1)になっても,私には目出度い
という気分は少しもなく……。実質的追放は神と国民と
からされているのです。……従って私は神と国民とから
真の追放解除を受けるために,自分の犯した罪のつぐな
いになるようなことを今後もやって行きたいと思って居
ります」1)

注1) 公職追放指定は,昭和25年10月13日1万90
   人の追放解除,11月10日旧軍人3250人の追放
   解除。以後つぎつぎ解除され,昭和27年4月
   の講和条約発効で公職追放は失効。

 武藤はさらにいう。「極東軍事裁判〔武藤は通称「東
京裁判」,極東国際軍事裁判をこう呼ぶ〕の判決を被告
たちだけのものとせず,私たちのものとして之に服しま
しょう。……私たちは素直に自分の罪を認めましょう。
裁く者と裁かれる者との意志を超えてこの判決を神の啓
示として受けましょう。……ことに人間の生命を奪うと
ころの戦争については,どんな理由があるにせよ,これ
を罪悪と見る見方に徹底し,私たち日本人が過去に於て
犯したものはこの罪悪であることを承認しましょう」2)

 武藤の発言には宗教的な意味合いがこめられており,
戦争犯罪〔集団的・合法的人殺しなどの大罪〕をみなで
神のまえに認め,懺悔しようではないかと〈呼びかけ〉
ている。ある意味でそれは,宗教的な含意にすべてを収
斂させ,抽象化しようとする〈意図〉をもっている。

 こういう。「日本人が犯した罪を神の前に悔い改める
という重大な問題なのです。個人と民族との罪の問題は
国家の政体などよりもずっと根本的な問題なのです」3)

 武藤富男は,「国家の政体」のもとでおこった「個人
と民族との罪の問題」を「神の前に悔い改める」ことに
よって,そのすべてを浄化できると考えている。

 しかし,筆者は心配する。それでは,「日本人が自己
欺瞞と妥協とに陥り,アメリカの袖の下にかくれて自分
の罪をごまかしてしまう」4)事態が生じないか。

 つまり,「キリストの御名のもとに国家とこれに対す
る自分の罪をかくし,ごまかしてしまう」ことにならな
いのか,と。


 1)「自分の罪の告白」

 武藤はいう。「満州建国より大東亜戦争に至る迄私の
犯した罪の最大なものは神に対する罪であると思います」
と。

「満州国官吏となったということ,その地位身分そのも
のが,私を戦争犯罪者にしていたと言えましょう。私は
戦争犯罪人として原罪をもっていたのです」5)

 武藤は,自分の原罪:〈満州国官吏〉の立場にふれる
さい,満州国においては,王道精神や民族協和というヒ
ューマニズム(人道)と,これに対立する戦争目的に満
州を利用しようとする功利主義とがあったと規定する。
だから,満州国における日本人は,相反するふたつの理
念にはさまれ悩んだとも述べる6)

 すなわち武藤は,「ヒューマニズム(人道)は善であ
り,戦争目的の功利主義は悪である」と分けて考えたい
のだが,現実の様相におけるふたつの理念は表裏一体,
不可分の関連性にあって,いわばヤーヌス的な二面相で
あった。だから両者を,時代の変遷にむすびつけて分離
可能なべつべつの主義であるかのように語るのは,明ら
かに欺瞞である。

 武藤は,満州国そのものに淵源する〈国としての原罪〉
を甘くみている。


 2)「時代の差と満州国」

 武藤いわく,満州建国の当初は「善:王道精神や民族
協和というヒューマニズム(人道)」が強く,支那事変
勃発以後は「悪:侵略の刻印を捺されて非難され」た,
と。そして,「私は日本の青年たちが満州で経験したこ
の苦悩は尊いものであると思います」ともいっていた7)

 この発言は,明治以来日本が侵略路線のもとに獲得し
てきた満州利権をめぐって,人道であったかそれとも侵
略であったかと定立する議論である。

 しかしながら,この議論の前提である枠組:〈人道か
侵略か〉じたいが,根本的に不可解なのである。という
のは,他国を侵略する国家に〈人道的な要素〉を求めて
いた姿勢,そして,侵略するがわの人間に〈人道を期待〉
していたとする錯覚,そこにそもそもの問題があったの
である。

 結局,指摘中の「人道」なる項目は「侵略」なる大項
目に統合される。このことは,歴史的に記録されてきた
事実をみれば,一目瞭然である。

 まず,日中戦争以後,満州国の理念が当初の「人道」
からのちに「侵略」に移行していったという〔さすがに
「理念の重点が移動していった」とまではいっていない
が〕,満州国関係者によくみられる〈認識の思いちがい〉
を指摘する。

 “満州国“……は“満州事変”という戦争の結果とし
て生まれた。それも奉天,新京,哈爾浜(ハルピン)といっ
た大都市,主要鉄道沿線をのぞいた広大な国土で大小の
ゲリラ戦が展開されているなかで,着々と産業をおこし
ていった。軍事力を増強させていった。

 つまり戦争によって軍を養い,軍備を拡大させること
ができる。いや,そうした形態をとることが日本にとっ
ては有利であると考えはじめた。

 そのためには占領した土地を植民国家にし,自治だ独
立だと嘘ッパチをならべながら,植民型収奪のかぎりを
つくさねばならない。“満州国“の場合は,中国人を泣
かせながら収奪し,それによって軍事力を増大した8)

 つぎに,20世紀にはいってからの帝国主義史を概観す
ると,満州における日帝の既得権問題に関連させて「人
道」という用語をもちだす考えかたが,自己を欺瞞する
ための歴史観であったことがわかる。

 日本帝国が侵略していった満州の地で,「日本の青年
たちが体験した苦悩は尊い」という美辞麗句は,自画自
賛,唯我独尊,我田引水,牽強付会ともいうべき身勝手,
倒錯した観念論である。

 ちなみに聞いておきたい。満州の地に居住していた,
「中国や朝鮮などの青年たちが体験した苦悩も尊い」と,
同じ意味合いでいえるか。民族〔五族〕協和という満州
建国理念を強調する関係者は,そのほかの「四族」の苦
悩に無頓着であった。
 
 武藤はいう。満州という地はもともと,満州族と蒙古
族の居住地であり,近世にいたって漢族がはいりこみ,
ついでスラブ族がはいってきたときに,日本民族もこれ
にはいりこみ,アメリカの仲裁のおかげで南満に地歩を
占めたのである9)

 そうだとしても,無理をして海をわたり,満州の地に
まで帝国主義的に侵出していったのが,日本である。帝
国主義的な野望をひとまずおいても,満州に出ていく理
由がいちばんはっきりしない国家・民族が,日本であっ
た。


 3)「溥儀について」

 昭和9年,渡満するまでの武藤は,「天皇に対しても,
神社に対しても,近代インテリとしてのまたキリスト信
者としての態度を維持して来ました。天皇は国の統治者
として,皇太神宮は皇室の祖先を祀ったものとして,こ
れに敬意を表しましたが,これに神格を認めることはし
ませんでした」。

 「私が渡った当時の満州国の満系有力者たちは,王道
の言葉が示す通り,孔孟の道を施政の原理としていたよ
うです。そして関東軍もこれを認め,或はこれを奨励し
ていたようです」。

 「然るに昭和10年,皇帝溥儀の訪日により局面は一変
しました。囘鑾訓民詔書という詔書が出されたのです。
……この詔書の中で,日満一徳一心ということが言われ,
皇帝は『朕日本天皇陛下ト精神一体ノ如シ』と述べたの
です。

 この時から大御心という言葉が満州の政治に入って来
ました。皇帝は天皇の大御心を御心として満州国を統治
されるという政治理念が生まれて来たのです。……この
時分から満州国の指導理念は一体王道か皇道かという疑
をもつ者が出て来ました。勿論それは日本人です」10)

 「昭和12年頃になって満州国の精神的中心をはっきり
させなければならないという議が関東軍や日系官吏の上
層部に現れました。王道や民族協和は政治理念にはなる
が,国民全般を指導するところの精神的中心にはなれな
いというのです。そこでこの研究が始まりました。

 昭和15年晩春,皇帝は再度日本を訪問し,帰国するや
同年7月15日に国本奠定詔書というものを出しました。
これによって彼は満州建国の神は天照大神で,満州国の
大本は惟神の道にあり皇帝は建国神廟を建て天照大神を
奉祀し,自分と自分の子孫とは永久に之に対し崇拝の誠
を致す,と宣言したのです」。

 「昭和22年に前皇帝溥儀はソ連からつれられて来て極
東軍事裁判の証人台に立たせられ,そこで如何に自分が
関東軍の傀らいであったか,どういう風にして建国神廟
というものが自分に強制されたかを語りました。……私
は溥儀が思ったまま感じたままを正直に述べていたもの
と思います。……そして客観的に見てもあの証言は正し
いと思います。

 彼は戦争裁判では正直でしたが,満州国皇帝としては
不正直でした。話は逸れますが,彼は戦争裁判で日本の
皇室の悪口は一言も言わなかったことに私は感心してい
るのです。彼は皇室の方々にはきっとよい感じをもって
いたのでしょう」。

 「さて溥儀は,関東軍に圧迫されて心ならずも天照大
神を拝んだ,と証言しましたが,私は自分の職務上,天
照大神を満州国内に宣伝しました。……しかしさすがは
20世紀の中葉でしたから,関東軍も〔満州国〕政府も天
照大神への崇拝を人民に強制することはしませんでした。
唯皇帝が天照大神を崇敬し国民に範を示すという程度で
した」11)

 ――中国清王朝最後の第12代皇帝〔宣統帝,在位;19
08―1912年〕であった溥儀が擁立され,満州国執政〔の
ちに皇帝〕の地位に付いたが,その実権をにぎっていた
のは日本軍部「関東軍」であった〔「内面指導」〕。そ
のなかにあって溥儀は,日本の皇族の存在・意識形態に
関して,自身と共有できる要素を鋭敏に感じとり,これ
を活かして満州国における自分のカイライ的地位を高め
ようと画策したのである。

 武藤は,日本「皇室の悪口は一言も言わなかった」溥
儀を評価するけれども,彼の底意を読みきれていない歴
史講釈であり説得力がない。そもそも,カイライ皇帝が
「不正直で」あったことを責められるのか。

 一方,敗戦後中国に抑留され,そちらで裁判にかけら
れた「旧満州国の高官」など日本人戦犯たちは,カイラ
イ=あやつり人形であったにもかかわらず溥儀が裁判に
引き出されて語った証言は具体的であり,また的確であ
ったことにびっくり仰天させられたのである。

 東京裁判に証人として立った溥儀の証言は,多様な内
容にわたっていた12)
 

 ●満州国皇帝就任は,本庄 繁元関東軍司令官や板垣征四郎元大佐によってあくまで強制されたものである。
 ●自分の立場は,日本のカイライ以外のなにものでもない。
 ●八紘一宇思想の侵略性を力説。
 ●日本軍による妻の毒殺。
 ●神道による日本の「宗教侵略」などにふれていた。

 この裁判証言は,溥儀が自分にとり都合の悪い点を隠
してはいたが,「皇帝溥儀」という存在(カイライ)の利用
価値,およびカイライ国家「満州国」総体を理解するた
めの基準として有用である。本稿の考察はとくに,最後
の〈神道日本の「宗教侵略」〉に注目する。


 東條英機をイエス・キリストに譬えるまちがい
 

 「大東亜戦争に関係することにより私の犯した罪は…
…戦争犯罪であり,この戦争犯罪者として私は東條と共
に絞首刑に処せられたのです」。

 「東條の死によって民族的傲慢は処理されたのです」。

 「民族的利己心や民族的功利主義を生み出す源泉,強
力な武力を以て他国を侵し,自分の民族の発展を図ろう
とする衝動がこの妄執の中に潜んで居ります。しかし私
たちはこの邪悪を東條と共に絞首刑にかけたのです。

 今こそ私たちは心のうちに6年間じっと秘めて来た民
族への自信と誇りとそして愛情とを,誰にも遠慮せず,
誰をも恐れず,湧き立たせ,踊り上がらせ,先ず泣き,
次に語り,そして叫ばうではありませんか。

 しかしお待ち下さい。私たちは民族的誇りに有頂天に
なったり,うぬぼれたりすることのないように,いつも
東條の絞首刑を心に描いていなければならないのです」1)

 ――以上の引用は,公職追放指定を解除された,武藤
富男の喜びが溢れ出てくるような文章である。

 東條が絞首刑になってくれたおかげで,ほかの日本国
民たちは晴れて民族の誇りを回復できる。もうすぐアメ
リカ軍〔GHQ〕の占領は解かれるぞ,いままで首をすく
めて暮らしてきたがいよいよのびのび日常生活ができる
ようになる,これをきっかけに自分たちの矜持をとりも
どそうではないか。

 筆者の耳には,そのように訴えるかのように聞こえる。

 武藤はだから,こういう。

 「日本人の多くは懺悔の相手方をはっきり見きわめな
かったと思われるのです」。「私たち日本民族がその栄
光を取り戻そうとするならば,私たちはアメリカを主と
せず神を主とし,アメリカに従う前に神に従うことを旨
としなければならないのです。そのためにはこの機会に
懺悔のやり直し,否ほんとの悔改めをしなければならな
いと思います」2)

 ――こういう文句は,できれば戦争の時代,武藤が満
州国官吏のときに叫んでほしかった。安全な環境〔講和
条約の成立・日本の独立〕,自分のまわりの危険がない
時代になって,「アメリカに従う前に神に従うことを旨
としなければならない」というのは,いともたやすいこ
とである。

 満州国国務院弘報処長の役目をもっていたとき,クリ
スチャン官吏武藤富男は,「日本神道にしたがうまえに
神〔イエス・キリスト〕にしたがうことを旨としなけれ
ばならない」といったのではなく,「満州国を構成する
五族〔本当は四族〕はすべて満州国皇帝,そして日本天
皇を宗教的精神に崇拝しなければならない」と,満州国
放送局のマイクにむかって叫んでいた。

 ともかく武藤は,敗戦後における日本民族に対して,
「懺悔の相手方をはっきり見きわめ」るべきことを提唱
した。けれども,本来その相手方に座しているはずのア
ジア諸民族の姿は,きわめて影がうすい。なにか重大な
勘違いを武藤はしている,そう思われるほどアジア諸民
族のとりあつかいは,ごくごく簡便である。

 とすると,戦争中に武藤が,「私たちはアジアを主と
せず,惟神を主とし,アジアにしたがうまえに惟神にし
たがうことを旨としなければならない」と弘報していた
中身と,同工異曲の思考方式がそこにありやしないか。

 東條英機に関する引用を,さらにする。

 「理由が何であるにせよ,戦争をしたことそのものが
犯罪であることを承認することなのです。私たちの遂行
した大東亜戦争が帝国主義的侵略であったか,自衛のた
めであったか,ということを超越して,神は戦争という
犯罪を東條の絞首刑を通して処罰し給うたのです」。

 「全世界の人々よ,どうか東條の絞首刑を日本人のた
めのみのものとせず,あなた方すべてに関係あるものと
して,これに眼をおおわないで下さい。はっきり見て下
さい。これが世界共通のミリタリズムを神が裁いた終局
の姿です」3)

 ――武藤は,東條英機の絞首刑を持ってイエス・キリ
ストが十字架にはりつけられた出来事に類推しているが,
これはおおきな錯誤である。なぜか,それは東條はイエ
スではなく,ただの軍人能吏であったからである。

 また,世界中の人々はおろか日本中の人々ですら東條
英機を,都合のよい単なるスケープゴートくらいにしか
みていなかったのにこれを,「大東亜戦争の意味:侵略
であったか自衛であったか」という争点を超越した「神
が裁いた終局の姿」であると勘ちがいし,宗教的な啓示
としてうけとめるべきだと大仰に解釈していた。

 東條の絞首刑を奇貨とすれば,日本および日本人の罪
ほろぼしができそうだから,みなで私のいうとおりひと
つ懺悔しようではないか,そうしたほうが得だよ,全世
界の人々も注目しなさいとでもいいたげである。

 しかしながら,武藤富男による日本国民および全世界
人に対するこのような〈よびかけ〉は,当時一般世論の
時流を配慮してみるに,はたして有意義であったか疑問
である。

 〔極東国際軍事〕裁判自体は,日本の国民からはわずか
な同情以上のものは呼び起こさなかった。しかし,判決
は連合国の道義的正しさを示しており,また一般国民を
罪から免れさせていたため,支持され続けていた4)

 敗戦後半世紀以上も経ってなお,日本という国・人々
における戦争責任・戦後処理の問題が「終局の姿」を現
わしえないのはいったいどうしてか,一考の価値があろ
う。

 武藤が心中深く意図したのは,自分自身の〈告白を早
めに切り上げ,けりをつけること〉であって,けっして
〈日本国民全体に問いかけること〉ではなかった。

 つまるところ,自己保身・自己弁護がねらいであった。
異民族に神道を押しつけた事実に多少の言及はあるもの
の,それがどのような迫害を彼らに与えたか分明にして
いない。

 「東條英機が死んでくれたことはよいことでした」。

 「日本のミリタリズムは東條と共に絞首されたのです」。

 「軍人のみならず,重臣,財閥,政治家,実業家,官
吏,学者,言論人,新聞関係者その他諸々の人々の罪は
東條の絞首刑に於て処断されているのです。どうか皆さ
ん,このことを思って良心の片隅にでも何かのわだかま
りが残るようでしたら,東條の絞首刑を思起して下さい。

 そしてミリタリズムの罪悪を自分のものとして意識し
て下さい。そしてミリタリズムの加担者としての自分は
東條と共に死んだのだということを思出して下さい」。

 「『日本人はすぐれている,俺は日本人だ,だから優
秀民族だ』と考えていた……方はどうか東條の死と共に
民族的傲慢は死んでしまったことを自覚して下さい。そ
して私たちは神の前に謙遜になりましょう」。

 「人類の罪を負い十字架の上に之を処理されたイエス
・キリストを仰ぐ時にのみ,私たちは神の前に個人と民
族の真価を知り,まことの謙遜の何たるかを悟ることが
出来るのです」5)

 ――うがったみかたではなく,こうした武藤の言説は,
自身の傷心をいやすための理屈だったと判断できる。こ
れほど調子のいい,ご都合主義の理屈もない。東條にす
べての罪をなすりつけるだけでなく,キリスト教の教義
を悪用さえしつつ,日本人全体に免罪符ができたと教唆
(!)していたからである。

 しかし,一般論でいったばあいでも,キリスト教精神
・倫理観については実質のところ無縁であった日本国民
に対して,上述のような謙遜や謙虚を求めても,「木に
よりて魚を求む」ようなものではなかったか。

 前述の言説は,キリスト教の立場たらんと懸命に努力
している人間にのみ獲得できる真理を,戦争中各界にお
いて重責をになってきた人々に安売りし,分け与えてい
るようなものである。このばあい当然,昭和天皇および
その一族も配慮のうちにあり,言外に意味されているも
のと推察する。

 武藤いわく,天皇「陛下そのものが落ちぶれた民族の
象徴であり,それを見ることは自分自身の落ちぶれた姿
を鏡に照して見るような気がするのです」6)

 『ドキュメント昭和天皇全8巻』(1984年〜1993年)
を刊行した田中伸尚は,植民地朝鮮の旧京城で国民学校

の元教師であった。敗戦後,まだその地にとどまってい
たときに抱いた素直な感想を,つぎのように記述してい
た。

 1945年8月末か9月ごろだったと思いますが,日本語
のビラのような新聞で,天皇が縄で縛られて法廷に引き
出され,裁判にかけられているというニュースが伝えら
れました。これを見たとき別に驚きはなく当然だろうと
思っていました。いえそう思ったのは私だけではありま
せんでした。しかしこのニュースがとんでもないデマだ
ったことを日本に帰って始めて知って,腰を抜かすほど
驚きました7)

 一連の占領政策のなかで連合国総司令部の下した高度
な政治的判断は,大東亜戦争までの日本帝国において最
高の戦争責任者であった昭和天皇裕仁を不起訴とし,免
罪した。

 武藤は,天皇の姿に自分〔たち〕の像を重ねて映しだ
そうとする。背後には,代わりにすべての罪を買って出
てくれた東條英機が控えている。

 白井新平『奴隷制としての天皇制』(1977年)は,連
合軍総司令官と天皇制との関係を,次のように記述して
いた。

 アメリカの占領軍総帥のマッカーサーが,日本国民に
日本人の反抗を抑圧する道具としての,象徴天皇制と,
戦力の否定とを,敗戦国民に対するお仕置,刑罰として
設定したのだということを忘れてはならない。

 ヒロヒトは,人間宣言で,マックに恭順を誓ったとき,
アメリカの統治政策の代貸元になることを表明したので
ある。

 だから30年後ヒロヒトがワシントンのフォードに御札
参りしたことは,われわれ人民にとって何だったかを考
えねばならない8)

 当時,天皇裕仁がすでに象徴になっていた自分の身分
を遵守せず,マッカーサーとの面会をとおしてどのよう
な「闇取引」をし,その後における日米関係の基幹形成
に重大な影響をおよぼす画策をおこなっていたかなどを,
武藤はよくしったうえで,上述のような天皇への〈同情〉
を表わしたのか。そうではない。自分のためであった。

 戦争中,満州のキリスト教会において長老を務めてい
た武藤は,天皇制を実体的にささえてきた国家的な神道
の宗教的理念を,どのように考えうけとめていたのか。

 あの時代,天皇制とその国家神道は,キリスト教徒に
生か死かの〈二者択一の踏絵〉を強いた。これを拒んだ
日本人の信者のなかには,ごく少数ではあったが命を落
とした者もいた。

 国家神道の復活と民主主義の擁護は,いやおうなしに
二者択一の関係にある。国家神道の本質と役割の究明は,
まさしく現在の問題というべきであろう9)

 踏絵を強いられる体験をせずに済んだ武藤富男であっ
た〔「妥協によってその地位を保つことから屈辱は生ま
れる」!10)〕。

 そのせいか,日本国家の象徴となって存続できた天皇
・天皇制をとらえて,キリスト教と同居させえるかのよ
うに誤解した。天皇・天皇制がキリスト者に踏絵を強い
ることのない宗教的存在に変質すれば,両者の同居は許
されるとでもいうのか。そんなことはない。

 以下は戦後の話である。日本人女性キリスト者中谷康
は,配偶者である自衛隊員が事故で死亡したのち靖国

神社に合祀されたのを拒否したが,この意志は当局によ
って無視されつづけた注2)
 

 注2)つぎの引照は戦前期に関する説明であるが,
   参考になる靖国神社批判である。

    戦没軍人全員が靖国神社に合祀されたわけ
   ではない。定められた基準にもとづく合祀者
   のほかは,天皇の「特旨」によるというかた
   ちで選別され,恩恵的に合祀された。

    ここに,靖国神社への合祀が,一方におい
   て合祀される個人の信教を無視した国家神道
   ――その人格的表現としての天皇――という
   宗教の側からの一方的強制であるとともに,
   他方において合祀されること自体があくまで
   天皇の恩恵にもとづくという,国家の二重の
   恣意性を見ることができる11)

     なお,中谷康子が起こした裁判の結末「最
     高裁判決」(1988年6月1日)は,合祀を合
   憲とするものであった。当時,最高裁判事で
   あった15人の出身校内訳は,東大12人,京大
   2人,中大1人である。

    いずれも戦前,つまり日本が侵略戦争を遂
   行している時代に,その国家のエリート・コ
   ースをめざして歩んでいた青年たちである。

    1918年から1924年に生まれた彼らの学んで
   きた時代環境は,個人の尊厳が国家より優先
   するなどという教育のない,しかも豊かな想
   像力を発露させることを許されない天皇制下
   にあった12)

 さらに武藤の言説を聞こう。

 「私たち日本民族は東條英機と共に絞首刑にかけられ
一度死ぬのです。あの絞首刑には自分は関係ないと言わ
ずに,アメリカ人の前ではなく,神の前に東條と共に一
億が首に縄をかけられて死んでしまうのです。

 そして神の前にあらゆる民族的罪悪を処理してもらい,
もう一度立上るのです。その意味に於て東條の絞首刑は
日本人の民族的救いに一つの機会を提供するものです。
……私共の仰ぐべきは,自らに罪なくして人類の罪を負
うて死んだキリストであり,東條の絞首刑は日本民族に
キリストに近づき神に至る機会を与えるのです」13)

 これに対して東條英機自身は,一国の最高責任者であ
ったから戦争に負けたことに責任はあるが,国際法にの
っとって考えると道徳的な責任はなく,戦争犯罪人とし
て裁かれる事由はないと反論をした。

 つまり東條は,「総理大臣としての責任を負うが,勝
利者に対しては何の罪も犯していない」と主張した14)

 武藤富男はそれでも,この東條英機が従容と死刑台に
のぼったことを「人間的な美しさ」と形容した15)

 天皇・天皇制の責任すべてをひっかぶり,あの戦争の
罪を背負って死に追いやられたとする東條に,人々の罪
をあがなうため十字架に張りつけられたイエス・キリス
トの姿を二重写しにする独創的な武藤の解釈は,キリス

ト教の理義にそぐわないものである。

 まず,〈軍政の担当者〉であった東條英機と,〈宗教
の聖人〉とされたイエス・キリストとのあいだには,絶
対的に相容れない精神論上の差がある。

 つぎに,救済の対象を敗戦国民全体に求めるかキリス
ト教徒に求めるかという,母集団の設定に関した集合論
上の差がある。それらを,同じ鍋に放りこんで処理する
ことじたいに疑問がある。

 絞首刑をまえに東條英機の読んだ感慨は,

  「初桜薫る命はいづこより」

であった。これではただの平凡人である16)

 それなのに武藤は,一般庶民の関与した戦争責任のみ
ならず,天皇・天皇制の戦争責任もすべて,この東條英
機の責任におっかぶせている。イエス・キリストと十字
架の名において,一億総懺悔論さえも無に帰させようと
する理屈は,言語道断のとんでもない詭弁である。

 ましてや,キリスト教を弾圧してきた天皇制と国家神
道の戦責問題を,東条英機を媒介につかって解消させよ
うとしていた。これこそ,「味噌も糞も一緒くたにした」
キリスト教的レトリックの濫用である。

 それは,聖句「汝の敵を愛せ」の,あってはならない
誤用である。

 ――ところで,昭和53年10月17日,東條英機元首相ら
東京裁判のA級戦犯は,昭和殉難者としてひそかに靖国
神社に合祀された。これで東條はともかく《英霊》とな
った。

 この元首相は,東京裁判で裁かれた「罪」の結果〈絞
首刑〉に架けられたが,このこととは関係なく《英霊》
として祀られたのである。

 日本国内において特定の立場にある人々は,東條英機
に対するこの神道上の処遇によって,あの「軍事裁判」
で不当に下された〔とする〕判決を無意味化できたつも
りなのである。

 戦後の靖国神社への戦没者(台湾人・朝鮮人軍人を含
む)の合祀は,靖国神社の依頼に応じて厚生省が祭神名
票を靖国神社に送付することによって実施された。

 この送付された祭神名票に基づいて,靖国神社では19
59年(昭和34)年と1966(昭和41)年にBC級戦争犯罪
裁判刑死者・獄死者を合祀した。

 A級戦争犯罪裁判刑死者・獄死者については,世論の
反発などを考慮しつつ,1978(昭和53)年10月ひそかに
合祀した17)

 敗戦後,靖国神社国営化法案が問題になったとき,日
本のキリスト教徒は聖書の教えにしたがって反対し,他
宗教とも協力してそれを撤回させた。このたび,靖国神
社に東條が《英霊》となって祀られたのである。

 それゆえ,その人物の「死」を「イエス・キリストと
十字架の関係」に譬えたやりかたは,クリスチャンとし
てけっして許されない,途方もない迷論である。

 わかりやすくいえば,武藤富男は結果的に,知的ピエ
ロの役まわりを演じたことになる。

 「戦後の日本」は,元首相東條英機を靖国神社に合祀
した。この国が,倫理的道義面ではもちろん政治的責任
面でもこの人物の罪業を認めていないという意向を,準
公式的に表明したことを意味する。

 それどころか,1945年8月まであの戦争などによって,
日本がアジア諸国に対して与えていた罪悪も認めないこ
とになる。

 武藤は,「十字架に架けられたイエス・キリスト」に
よる贖罪の意味を,その歴史的犯罪を惹起させた人物に
付会させ,はからずも神道イズムの〈禊ぎ〉行為を先導
する役割もはたした。

 その過ちは二重である。ひとつは抽象的なものであり,
キリスト教とは無縁の人物であった東條英機を引きあい
に出し,イエス・キリストの意味を故意に深読みしたこ
とである。もうひとつは具体的なものであり,「天皇陛
下に累をおよぼさず,安心して死ねること」を覚悟した
人物,「東條英機の絞首刑によって国民全体の贖罪がで
きる」ことを訴え,キリストが十字架に架けられたとい
う教義を完全に歪曲したことである。

 以上に考察してきた武藤富男の思考方式は,日本キリ
スト教を,国家神道的な神社機関に再度跪拝させる事態
を意味した。

 戦後になっても武藤は,戦時中と同じ誤ちを重ねて犯
していた。あやふやな宗教姿勢のなかにみいだせる,彼
の「詭弁ともいうべき救いがたい過誤」は,キリスト教
徒の風上にもおけないものではなかったか。

 とくに,日本帝国主義史の問題に関しては,武藤のよ
うに「帝国主義的侵略であったか,自衛のためであった
か,ということを超越して」考えることなどできない。
地上の国におけるあらゆる問題を,一挙に神の国に忌避
させ解決できるなどと考えていたのだろうか。


 信仰告白を希薄化させる告白的からくり
 

 1)「武藤の懺悔」

 武藤は,こう懺悔する。

 「さて私自身の告白に移りましょう。私は天照大神,
万世一系の皇統,天皇,皇帝,日本肇国,満州建国,民
族協和,大東亜建設という一連のものの間に理論づけを
行い,日本の国体学者たちがたてた体系のように,内に
こもってしまわず,もっと視野の広い,謂はば世界的な
体系を立てこれを宣伝しました。そして私が一通り知っ
ていたキリスト教神学体系というものは,こういう理論
づけをするのにかなり役立ちました」1)

 武藤は戦時中,キリスト者としての宗教的知識をカイ
ライ国家「満州国」のために悪用し,国家神道を侵略思
想として国外にまで輸出する役割をになっていた。

 だから武藤は,「私の信仰よりすれば,背教という最
悪の罪を犯したのでした。恐らく外国人宣教師や外国の
敬虔な人たちが私のこの仕業を見たなら口を極めて私を
詛うでしょう。しかし私は,自分に対し二つの言訳をし
て居りました」2)

 「その一つは民族の神に敬うことは民族そのものを尊
ぶことで宗教ではない。殊に満州に於けるこの問題は道
徳及政治に属することであり,自分は官吏としての職務
から,宣伝するのであるから,自分の信仰には背かない,
というのです」。

 「もう一つは,信仰は個人的なものであり,私は個人
の救を神の子キリストに求めている。然るに天照大神は
国家的なものであり,皇道といい惟神の道といい国家又
は民族の問題である,だから私がこれを宣伝しても,個
人としての信仰を捨てなければ背教ではない,というの
です」3)注3)

 注3) ここに言及した武藤のいいわけは,『朝日
   新聞』1998年2月10日夕刊「『平和憲法守れ』
   の論説40年―『キリスト新聞』の武藤富男氏
   の軌跡―」に紹介されている。

    この記事は,『再軍備を憤る』で武藤がな
   んどもふれていた,戦争責任に関する告白そ
   のものについては直接ふれていない。

    「国家神道」や靖国神社国営化にはきびし
   い姿勢をとりながら,古来の神社神道は評価
   した(同上記事)とされる武藤の考えかたは,
   神道を宗教史的に把握する作業をぬきにした
   ものである。

    それゆえ,国家神道が神社神道をとりこみ
   悪用してきた事実を歴史学的に批判する理論
   構築がなく,戦前期における国家神道の「反」
   宗教的な本質を根本的に理解することもでき
   ていない。

    古来からの伝統的な神社神道そのものを評
   価しようとするあまり,これと明治以来国家
   政策的に造成された国家神道との内的関連と
   を,厳格に識別できない立場は問題である。

    武藤は神社神道を評価するけれども,これ
   を歪曲しつつ国家主義的目的に流用してきた
   日本帝国の悪意を,好意的にうけとめている。

 ――武藤自身はのちに,その詭弁にひとしい理屈をす
こしは反省したかにみえる。だがその後も彼は,この理
屈になお執着しつづけてきた。このことは重大な問題で
ある。それは,個人の信教問題と国家体制の宗教問題と
を別離可能とみる論法である。

 その意味で武藤は,困難を予想される問題点から逃避
するため,はじめから〈逃げ道〉を用意していた。

 満州国も日本国家神道を公認宗教としたのであり,す
でに朝鮮における宗教弾圧は,既定の政策として実行さ
れていた。

 だから武藤のように,自分と同じ宗教を信じる「被支
配異民族が迫害をうけている」惨状を横目でみながら,
キリスト者としては許されない前述の,「個人の信教問
題」と「国家の公認宗教」とは別物だとする理屈を立て
ていたのである。この考えかたは,戦時期におかれた武
藤が,まさに「背教の罪」を実践していく足場となって
いたものである。

 「結局のところ私は皇道とか惟神の道を宗教としない
ことによって自分の弁解の辞としていたのです。これに
は確かに一理ありました」。「人間の苦悩を救う力はこ
れからは出て来ないのです」4)

 つまり武藤は,神道は「汚れを嫌う宗教〔とはいえな
い宗教〕」だから,キリスト教がそれをうけとめる役割
をはたせばよかった,といいたいのである。しかしそれ
は詭弁だと,即座に指摘できる。

 戦前‐戦時期,日本国内および海外の日本植民地下諸
国において,神道とキリスト教とが棲みわけられ,対等
に共存できるような場を与えられていたかどうかをみれ
ばよい。

 それでも武藤は,こういう。

 「皇道も惟神の道も人間の魂の深刻なる苦悩を解決し
得ませんでした。即ち死と罪とを解決し得ませんでした。
その意味に於てそれは宗教とは言えなかったわけです。
私はこの点を自己弁護に使ったのです」5)

 ここでいわせてもらうならば,「皇道も惟神の道も」,
日本国内および植民地下諸国家・諸民族のキリスト教徒
〔またそのほかの宗教も〕に多大なる圧迫をくわえ,排
斥していた。一言でいえば,宗教弾圧した。

 皇道や惟神は「死と罪とを解決」するどころか,他民
族に「苦悩」と「死」を押しつける道をつくったのであ
る。特定宗教が国家公認の存在となれば,ほかの諸宗教
に圧迫・弾圧がくわえれられることは必定である。この
ような現象は,世界史上しばしば発生してきた。

 だからクリスチャンであった武藤は,こうも述べてい
た。

 「私たちが天照大神を礼拝したということに於て,ま
た国家建設の事業というものを天照大神の聖業と見た点
に於て,つまりこれを神格化し,そして超越的な想像力
と見たことに於て,建国神廟と皇道或いは惟神の道は宗
教の性質をもって居りました。

 ですからこれを宣伝することに於て私は自己の信仰的
良心に背き,神に背叛したのです。私はこれをなさなけ
ればならないならば,地位を去るべきでした。出世慾さ
え捨てれば地位を去ることは自由だったのです。私には
何の拘束もなかったからです」6)

 戦時期の武藤にはなにも拘束はなかったが,それに代
わるべき〈なにか〉があったのである。

 ――武藤富男『再軍備を憤る』が昭和26年10月に刊行
されるまで,敗戦後混乱していた社会をどのように武藤
は見過ぎ世過ぎしてきたか。

 前段における〈懺悔的な発言〉は,それまでの積もり
積もった私情を正直に吐露したものかもしれない。だが,
敗戦の年から武藤がどのように人生の軌跡を描いてきた
かを観察すると,理解に苦しむ点が出てくる。


 2)「武藤の経歴」

 『再軍備を憤る』奥付にも,こう書いてある。

 昭和20年9月日米会話学院創立〔→正式発足は11月で
あるから,この点は正確な記述ではない〕,

 昭和21年5月教育追放に会い,同学院の財産を寄付し
て財団法人を設立して退き,

 昭和21年4月賀川豊彦の依嘱をうけてキリスト新聞を
創刊,主筆となるが,昭和22年政治追放をうけてこれを
去り,

 昭和26年8月追放解除によりキリスト新聞主筆にに復
帰する7)

 ただし武藤富男はその間も,キリスト新聞の経営と論
説活動に,覆面をしてたずさわってきた。
 
 関連する事情は,武藤富男『社説三十年―わが戦後史
―第一部昭和21―30年』(キリスト新聞社,昭和50年)
にくわしい。

 公職追放指定はたしかに辛い処分であった。すでに国
家高級官吏を退いていた武藤であった。とはいえ,むし
ろ敗戦後こそ〈本来のキリスト教徒〉的な活躍ができる,
輝かしい世界のひらけてきた時代であった。

 クリスチャンとしての武藤富男は

 昭和5年に受洗し,
 
 昭和9年より18年までの満州国在住の時期,新京教会
長老を務めたこともある。

 昭和23年11月〔ほかに昭和22年秋との記述もある〕日
本基督教団補教師試験に合格,昭和24年3月大森協会補
教師となる。

 昭和25年,ローレンス・ラクーアを首班とするラクー
ア音楽伝道団がアメリカより来日するや,事務長兼通訳
として半年にわたり,同音楽団を助けて全日本伝道を完
成させた8)

 ――敗戦後とくに昭和20年代前半は,アメリカ軍を主
勢力とする占領軍の統治支配下,キリスト教が日本社会
を風靡する傾向もあって,皇室関係者までその代表者が
自身と係累の存続を賭けて,この宗教に媚びていた時期
である。

 そういう時代であったからこそ,教育追放および政治
追放をうけていたにもかかわらず,旧くからキリスト教
信者であるという好条件をテコに武藤富男という人物は,
その先頭を切ってすすむ八面六臂の活躍ができた。

 そうであれば,時間的な前後関係,すなわち武藤富男
が自著『再軍備を憤る』を〈昭和26年10月〉に刊行して
いたことに留意し,本書の意味をうけとるべきである。

 武藤は,公職追放指定が失効したのを境に公私ともに
自由な精神状態を回復させ,またアメリカ宗教団体との
交わりをとおして多少は得意な気持にもなっていた。こ
の時期にいたってようやく彼は,正直に自分の心情を表
出する時機をつかむことができた。

 戦後における武藤は,アメリカの宣教団とともにキリ
スト教を布教した時代もあってか,「親米」が基本であ
った9)

 前段のような心境の変化を経て武藤はさらに,「アメ
リカに従う前に神に従うことを旨としなければならない」
と,断言できるようになった。

 戦時‐戦後にかけて武藤は,まず日本帝国に従順にし
たがい,つぎにアメリカ占領軍に率先してなじみ,その
のちなんとか,神:イエスキリストに到達するという三
段跳びをおこなっていた。これはなかなかの見物,高等
技能の発揮であったといえる。

 誰かから自分の生命にかかわるような物理的な処置を
うけたり,あるいは精神的に致命的な迫害をこうむった
りする危険性は,すっかりなくなった。さてそこで武藤
は,いうべきことをいうために,本書『再軍備を憤る』
昭和26年10月を公表したのである。

 本書はその題名にしるされた「再軍備」の問題ととも
に,武藤自身の「信仰告白」問題に重点をおいた著作で
ある。問題は,その告白のしかたである。

 ――ちなみに指摘しておくが,当時〔昭和24年以降〕
武藤とは正反対に,日本再軍備の必要性をとなえていた
知識人たちがいた。

 昭和24年に組織された「新軍備再建同盟」は,各所に
講演会をひらき,「自衛隊建設に関する共同声明(世話
人総代国学院大学教授北岡寿逸,昭和27年6月10日)」
を発表した。その組織の主な成員は大学関係者であった
が,戦争協力を積極的におこなってきた人士も多くふく
まれていた。

 ここではそのうちから任意に若干名をとりあげ,簡単
に紹介しておく〔肩書や解説は,アジア大東亜・太平洋
戦争中あるいは敗戦直後におけるもの〕10)

 

 沖中 恒幸 戦争経済学を論じた中央大学教授。
 清瀬 一郎 東京裁判で日本側戦犯の弁護士を務めた。
 酒枝 義旗 戦争中の学問展開をゴットル経済学に韜晦・回避させていた早稲田大学教授。
 瀧川政次郎*) 満州国国務庁参事官などを務めたあと満州国建国大学教授。
 常盤 敏太*) 東京商科大学教授の法学者。
 難波田春夫*) 『国家と経済全5巻』(日本評論社,昭和13・13・14・16・18年)の著者で当時,東京帝国大学助教授。
 野田 信夫 三菱財閥の能率・合理化問題指導者,東京帝国大学非常勤講師。
 本位田祥男 元東京帝国大学教授〔平賀粛学で昭和14年依願免本官〕
 土方 成美 元東京帝国大学教授〔同上〕
 渡辺 鉄蔵 元東京帝国大学教授〔昭和2年休職・昭和4年退職〕,その後,全国無尽集合所理事長〔本職は昭和17年まで〕など歴任した。
 
 以上にかかげなかった人士もふくめて,多士済々であ
る。なかには,敗戦後教職追放の指定をうけた人物 *)
も含まれている。

 一方で武藤は,『キリスト新聞』1953〔昭和28〕年8
月15日号から,新聞の題字下に「平和憲法を護れ,再軍
備絶対反対」との標語をいれた。「あれをはずせば,多
額の広告代を出す」との誘惑もあったが,武藤はもちろ
ん断わったという11)。このころのクリスチャン事業家
富男の言動は,なかなか気骨のあるところを披露してい
た。


 3)「告白のしかた」

 ――武藤の論述にもどろう。満州国時代国務院弘報処
長に任ぜられ,「満州国の新聞,映画,放送等の弘報組
織を確立す」る任務をはたしてきた。

 しかしながら,「実際こういう宣伝をしていると,心
の奥底には何とも言えない空虚があるのものです。私は
熱を帯び声を大にして叫びつゝも,自分の魂の内奥には
空虚な寒々しいものを感じて居りました」。

 「私は今私の犯した罪を神と皆さんの前に告白し懺悔
します。そして天照大神皇道と惟神の道とを異民族にも
って行ったことがどんなに愚かだったかということを皆
さんにも知って頂きたいと思います。

 私の言いたいことは,日本的なものについてどんなに
私たち日本人が独りよがりをしていたかということです。

 私のように異民族に道を説いた者は,世界性のない日
本的なものにつくづくと哲学に貧困を感じたのです」12)

 武藤は,キリスト信徒ではあったが国家高級官吏の立
場において,満州国に日本が押しつけた国家神道に内有
の問題性:「哲学の貧困」を克服する仕事に従事した。
その結果,とくに軍部〔関東軍〕からその功績を認めら
れ,これに誇りを抱く気持になっていた。

 ところで,異民族に対する宗教的場面において,その
ような犯罪的行為をおこなったと自白する武藤であった
が,「私たちが原住民との間に人間として結んだ愛の交
りは,あの驚異すべき物的建設と共に私たちにとって美
しいも忘れ得ない思出です」とも語っていた。

 さらにいっていた。「中国の政体が何であろうが,私
は漢人を愛します。私は理くつなしに漢民族が好きなの
です。満州の建国に参じた日本人の方々の殆どは私と同
じ心持であると思います。侵略とか大陸政策とかをはな
れて,日本人と漢人とは気が合うのです。私は満州に沢
山の友だちをもっていました」13)

 はっきりいってこの記述は,満州へ侵略者となって出
ていった人物に共有の欺瞞的言辞である。一般的にみて,
このような発言をする人物にあっては,満州関係者とし
て過去を反省をする者はきわめてすくない。

 「原住民との間に人間として結んだ愛の交りは」,人
間関係としてはあくまで私的な次元のものである。

 だがそれよりも,その次元をふくめかつ超えて武藤た
ち〔日本人〕は,満州に暮らしていた諸民族に国家神道
をつ押しけただけでなく,政治・経済・社会・文化・伝
統・風土すべての公的側面において日本帝国の価値観を
最優先させていた。

 私的交際の場面における成果をもって,公的次元にお
ける国家犯罪的行為,あるいは自身の信じていたとする
神への背信が帳消しにできるものではない。

 「侵略とか大陸政策とかをはなれて」満州国の歴史を
語ることが,いったいどうやったらできるのか不思議で
ある。

 中国人を理屈なしに好きだといっていたその人物が,
日本の中国侵略政策を支持し推進させる宣伝係をこなし,
実は自分の好きだというその漢人たちがとても嫌がる統
治施策のお先棒をかついでいた。これで話はいよいよ入
りくみ,しかも悲劇的〔喜劇的!〕な様相を呈していく。

 そもそも「反満抗日」という標語は,どんな現象を表
現していたものであったのか。中国人たちにとって「反
満抗日」とは,暗黙裡には公私を問わず一致した気持で
あった。

 a) つぎの武藤の引用は,本人にも妥当するものであ
る。

 「人間が集まって国家をなすと,どういうものか国家
の徳性というものは個人の品性よりも遥かに落ちるので
す」。

 したがって,武藤はこうも述べていた。

 「私はキリスト信者として戦争指導者の側に立ったこ
とに於て神に対して二重の罪を犯した者であります。…

…唯犯した罪の重さに心を圧されつゝ神の前に絶えず懺
悔し,再び戦争に関係しないこと,人をして戦争に関係
させないことに努力することによって罪滅ぼしをするよ
り外に道はないのです」14)

 ――この叙述は,キリスト者として戦争指導層にくわ
わったことへの反省である。

 b)「私も戦争指導に関係した者として,殊に国民大衆
をアジって最後迄戦わせようと宣伝指導したことに於て,
国民同胞に対し罪を犯しているのです。……嘘を言うつ
もりはなかったけれど,このような敗け戦を望みがある
かのように宣伝したことに於て,又戦争指導者層の連帯
責任を負う意味に於て,私は自分の同胞に再び顔向けは
出来ないのです」15)

 ――この叙述は,戦争指導者の1人として日本国民に
嘘をついていたことへの反省である。ただし,あくまで
日本人にだけむけた弁である。

 c)「血は水よりも濃し,と言って,民族の血というも
のは洗礼の水よりも強い力をもって居り,クリスチャン
であっても自分の国,自分の民族のこととなると,神の
言葉に従うよりは政治家の言葉に従い易いものなのです。
このことは戦時中の日本人クリスチャンのとを考えれば
すぐわかることです」16)

 ――イエス・キリストの御言葉より血の濃さ・民族の
血が強い力を有することは,クリスチャンである武藤に
おいても,そのとおりになっていた。その関連でいえば,
「教育勅語のイデオロギーは,たぐいまれな強烈な宗教
教義であった」17)ことは,武藤富男の身中に染みこんで
おり,絶大な効果を現していた。

 教育勅語は,天皇崇拝と祖先崇拝を結合し,イエ段階
の孝を,ムラ段階から,さらにそれを拡大したクニ段階
の忠に一体化した。親への孝と祖先の崇拝は,神をうや
まい天皇を崇拝することとに内面的に連続し,本来的に
ひとつの観念であるとされた。この構造は,歴史的に日
本人の宗教意識の中心を占め,おもに仏教によって培わ
れてきた祖霊崇拝の観念を吸収して,国体の教義の重要
な構成要素としたものであった18)

 d)「毎日新聞の竹槍問題にも私は現に関係したのです」19)

 昭和19年2月21日,アメリカ機動部隊によってトラック
島が攻撃された。その翌々日の23日,毎日新聞に「竹槍
では間にあわぬ。飛行機だ,海洋航空機だ」という4段
見出しの記事が掲載された。これは,海軍受持ちの新名
丈夫記者が書いた記事で,戦争に対する非科学的な考え
かたを戒め,海空軍充実の緊要であることを力説したも
のであった。

 この記事は,実は海軍の意向を汲んで書かれたもので
あったが,東條英機はこれをみて激怒し,ただちに松村
陸軍報道部長,村田情報局次長をつうじて新聞紙の発売
を禁止し,執筆者の厳罰を命じた。理由は記事の内容が
敗戦主義であるということであったが,その実は東條式
精神主義を誹謗したとみたからであった。

 毎日新聞は新名記者の処罰を拒み,吉岡編集局長と加
茂編集局次長が責任をとって休職処分をうけた。ところ
が26日になると,新名記者は懲罰の指名召集をうけて郷
里の丸亀連隊へ,たった1人入隊させられた。(新名記
者は強度の近眼で兵役免除であった)。

 しかも連隊には「硫黄島か沖縄方面へ転属させよ」と
いう厳命が中央から発せられていたのだ。

 新名記者は大正年間に徴兵検査をうけたのであるが,
まだ当時は大正の老兵は1人も召集されてはいなかった。
そこで海軍がわは「大正の兵隊をたった1人取るのはど
ういうわけか」と陸軍をねじこんだ。

 そこで陸軍は,あわてて大正の兵隊を2百5十人丸亀
連隊に召集してつじつまをあわせた。新名記者は召集3
ヵ月ののち,海軍の尽力で7月東條の退陣とともに召集
を解除され,海軍に徴用されてフィリピンに報道班員と
して派遣された。

 太平洋戦争中,陸軍と海軍の対立抗争は国民が想像も
つかないほどひどいものであったが,この「竹槍事件」
などそのよい事例のひとつである20)

 ――戦争中のこういう言論史をかいまみると,武藤の
つぎのような回顧談は,かなり思いちがいをしていたこ
とがわかる。

 「本土作戦を真剣に(それこそ真剣です)考えていた
陸軍の軍人を,私は当時の新聞社の幹部のように嘲笑す
る気にはなれませんでした。恰度危篤に陥った病人にも
注射を打って望みをかけるように,最後の最後迄希望を
もとうとしました。

 戦後『神風』という言葉が,日本人の当時の無知を嘲
笑するかのような響をもつに至りましたが,神風を頼っ
たこの心持こそは私が昭和18年日本の情報局第1部長に
転じて以来職を辞する迄,私の胸奥にあった国民に呼び
かけさせていたものです。

 理性的に見れば幼稚であり原始宗教的であり,笑うべ
きものですが,形勢不利なる戦局にあって『神風』を頼
る心持は実は民族に対する熱愛の実現であると今になっ
て私は考えるのです」21)

 前述の説明に明らかであるように,毎日新聞の新名丈
夫記者は「本土作戦を嘲笑した」のではない。意図はべ
つのところにあった。当局に在籍し,弾圧するがわの当
事者でもあった人間が,このていどの認識あるいは記憶
力では情けない。

 ◎ 情報当局関係者の武藤が「神風」を信じていた,
あるいは「殊に陸軍の支配する満州にあっては陸軍の攻
撃力と精神力とを殆ど超人間的なもののように吹込まれ
ていたのです」などというのは,正直だが完全に科学的
精神に欠ける発言である〔→それは,民族に対する熱愛
の幼稚な表現であったという〕。

 ◎ それでも武藤は「職務上,日満生産力の機密を或
程度知って居りました」。戦争の「実情を即時キャッチ
していましたから,陸海軍の実力に付いても一般国民と
ちがって批判的に見ることが出来たのです」と述べてい
22)

 筆者は,以上の発言に「精神論」と「科学論」とが仲
よく同居していた点に不審をいだく。武藤ほどのインテ
リであれば,「上段の空想的観念」は「下段の現実的認
識」によって難なく排除できたはずである。

 「科学の知識」をもちあわせていれば,「観念の迷論」
に誘引されることも,けっしてなかったはずである。 
 

 当時における日本の戦力を「即時キャッチし,批判的
に見ることができた」と,武藤が自信をもっていえたの
であれば,なおさらそうであったはずである。

 ――次項4)でくわしくふれるが,内閣情報局設置〔昭
和15年12月発足〕と同時に陸軍と海軍の報道機構も解消
し,これに従事してきた現役軍人は,特例をもって文官
としての資格で,情報局内において枢要な地位を占めた。

  こうして武官が直接,言論・思想統制の任に参加し,
文化行政にも介入することとなった。ただし,軍の報道
機構は日ならずして復元してしまい,再び陸海軍が直接,
軍の名において国民によびかけ,情報・宣伝の一元化と
いう情報局設置の趣旨の大半は反古にされていた。

 陸海軍の報道部は,所属する陸軍・海軍の新聞記者会
に対して直接,しかもそれぞれ別個に指導し,戦局が不
利になるにしたがい矛盾し相克するものとなっていた。
その代表的なものが,この毎日新聞の事件である。昭和
19年2月航空機の配分をめぐって陸海軍が激しく対立し,
毎日新聞の「竹槍では間に合わぬ,飛行機だ,海洋航空機
だ」という,海軍の指導記事をめぐって生じた陸海軍の抗
争であった23)


 4)「内閣情報局」

 なかんずく,武藤のもっていた〈批判力〉とやらが問
題である。武藤は,世界を批判する眼力において狭量で
あり,限界をしめしていた。ここで,内閣情報局の組織
機構を紹介しておく〔表1「内閣情報局組織機構」参照〕

  満州国高官時代の武藤は弘報処長を務めていた。国と
しての格にだいぶ相違もあるけれども,満州国における
その職位は,当時の日本国における内閣情報局総裁に匹
敵しよう〔表2「満州国日系官吏人事配置図」参照〕


 ――昭和11年7月,勅令によって内閣直属の情報委員
会ができた。これはマスコミの言論統制と国策宣伝を企
図していた。内閣書記官長を委員長に,内務省警保局長
・外務省情報部長・陸軍省軍務局長・海軍省軍事普及部
委員長・逓信省電務局長など,情報関係の関係省庁の役
人が委員に任命されていた。委員会の目的は各省の情報
に関する重要事務の連絡調整をおこなうことであった。

 昭和12年9月,この情報委員会は内閣情報部に改組さ
れ,さらに昭和15年12月,政府は陸海軍の各報道部・内
務省警保局・外務省情報部を一元的に統括して,これま
での内閣情報部を内閣情報局にして機構を拡充した。文
化統制・対外宣伝のための機構を整備して,内外思想戦
の中枢を構築したのである。

 内閣情報局のスタッフは,内閣・内務省などの役人や,
新聞記者などが情報官としてはいったが,重要職位には
現役将校が送りこまれ,とくに直接マスコミの指導に当
たる第2部「報道」には,部長をはじめ3人の課長のう
ち2人までが軍人で占められた。内閣情報局言論指導の
最高機関として,日本敗戦のその日まで現役将校の取締
・指導のもとに猛威をふるった24)

 内閣情報局は,情報の流れを完全に統制することによ
って国民を一方的に,天皇制ファシズムへ押し流す機関
である。モノと人の国家総動員法とならんで,情報面で
の日本ファシズムの実質的成立の指標とするみかたもあ
25)

 中国戦線のドロ沼化と,にもかかわらず無謀な侵略戦
争を継続しようとした日本の国家総動員体制であった。
太平洋戦争終結のその日まで,言論界の意にそわないも
のは意識的に弾圧され,迎合するものは優遇されて,す
べてのマスメディアがあやつり人形に化してしまった26)

 武藤富男は,内閣情報局第1部「企画」の部長を勤め
た。昭和思想・言論史に登場するこの武藤富男の姿を,
若干紹介しよう27)

 昭和19(1944)年7月10日,月曜日,午前10時,情報
局第2部長橋本政実氏は,中央公論,改造両社の代表を
三宅坂にあった元参謀本部跡の情報局にまねいて,自発
的に廃業することを申しわたした。改造社からは山本社
長が出向き,中央公論社からは松林専務と湯川支配人が
社長の代理として出頭した。 

 橋本第2部長の申しわたしの内容は,中央公論,改造
両社の営業方針に戦時下国民の思想指導上許しがたいも
のがあるから廃業するようにということであった。

  ことばどおりにうけとれば,自発的廃業を「慫慂」さ
れたことになるのだが,実際は決してそんななまぬるい
ものではなく,解散の命令と異るところはなかった。中
央公論社の場合でいえば,雑誌中央公論はもちろん,社
の名儀も権利も,いっさい他にゆずりわたすことは許さ
ぬというほど徹底したものであった。

 わたし〔黒田秀俊〕と寺内君とは情報局を訪れて,武
藤〔富男〕第1部長に面会をもとめた。しばらく部長室
で待っていると,やがて会議を中座したらしい武藤氏が
あらわれた。どすんと自席に腰をおろした武藤氏は,

「もうすっかりお膳だてができているんだ。どうしよう
もないよ」といった。

 武藤氏は,ついさいきんまで,島中社長にもわたしにも,
中央公論をつぶすようなことはしないよ,くよくよしな
いでがんばっていなさい,といってきた人だけに,この
ときはさすがに困惑したような面もちであった。

 「やっぱり解散という方向ですか」 
 「まあ,そんなところだ」

 「どうにかならないんですか」
 「2部の仕事だからね。管轄ちがいではどうにも
    ならん」

 武藤氏はそういうと,そそくさと腰をあげて会議へ出
ていった。
 
 情報局第2部「報道」第2課の情報官は,「言論弾圧
の武断派の雄」として勇名をはせた鈴木庫三陸軍中佐の
ような軍人が担当し,言論・思想にかかわる抑圧をおこ
なっていた28)

  このような軍人出身の担当者に比較すれば,武藤富男
のようなクリスチャン情報官は,抑圧をうけていた人々
の目には良識のふんい気を発散する人物に映ったものと
推測できる。

  しかしこの観察は,時代の流れを斟酌する相対的評価
を一歩越えて,より絶対理念的に評価されるべきもので
ある。武藤はキリスト教徒であった。


 5)「関東軍機密費」

 ところで,満州国在住時の武藤は,岸 信介から関東
軍機密費のお流れとして毎月2百円の小遣いをうけとっ
ていた29)

 当時,武藤の年棒は6千5百円であった30)

  満州の有名な人気女優であった李 香蘭〔山口淑子〕
の月給が2百5十円のとき31),武藤は,出所不明の機密
費を,年にして2千4百円,ふところにすることができ
たのである。

 武藤富男の弁は,こういうものであった。

  「領収証のとれない使途不明のカネを自由に捻出する
ことは,たとえ総務庁次長でもそう簡単ではありません。
私は毎月2百円ものカネをポンと渡してくれる岸さんを
見て,『これはなかなか豪気な人物だな』と思うと同時
に,『何かの名目をつけて,ある程度のカネを自由に使
う方法を知っているんだな』と感じました」32)

 ちなみに,当時の2百円を現在価値になおすと〔1990
年代の〕40〜50万円に相当する33)。またその「使いで」
も現在とはだいぶ差があったはずであり,現金としての
価値は実際の金額以上,かなり多めに見積もる余地があ

る。

 岸 信介から甘粕正彦を介して武藤富男に流れてきた
裏金の源泉は,おそらく,15年戦争期に日本軍が中国で
おこなったアヘン密貿易の収益であるか,あるいは新興
財閥として満州に進出してきた日産関係〔鮎川義介〕か
らの献金である。

 岸自身は「政治において手にいれる金はつねに濾過し
たお金でないといけない」といっていた注4)

 機密費なるものは元来,その使途になんら制限がない
のみならず,会計検査の適用もうけない。したがって,
もし責任者がその用途を誤るときは,いかなる罪悪をも
犯しうるのである。

 満州事変以来,陸軍の機密費が,軍閥政治を謳歌しこ
れに迎合する政治家・思想団体などにばらまかれたのは,
相当の額にのぼる。近衛文麿,平沼騏一郎,安部信行の
各内閣でも,内閣機密費の相当額を陸軍が負担していた。
これらの内閣が陸軍の横車に対し,敢然と戦いえなかっ
たのは,まったくこの機密費に原因していると思ってよ
34)

 注4)東京裁判では不思議なことに,日本帝国が
   中国でおこなってきた阿片政策を裁くことに
   ならなかった。被害をうけたがわの国も黙っ
   ていた。日本が侵略した北支地域に軍事支配
   的意図をもって設置された蒙疆銀行は,昭和
   20年までに,阿片による収益4億2千万円〜
   6億円を計上した35)

    現在価値への換算は,「万」の単位がおよ
   そ「2〜2.5億」である。

    
佐野眞一の最近作『阿片王−満州の夜と霧
   −』(新潮社,2005年7月)
は,関東軍の機
    密費の基本的な資金源となったアヘンを思う
   がままにあつかっていた
里見 甫こそ,満州
   の闇の部分を全身で吸収し,「魔都:上海」
   にアヘンという毒の華を咲かせた男=『アヘ
   ン王』だと位置づけ,追跡・解明した書物で
   ある。

    里見の業績は,アヘン販売による独占的な
   利益を関東軍や特務機関の機密費として上納
   する隠れたシステムをつくりあげた点にある。

    満州国で総務庁次長までなった古海忠之は,
   「満州国は関東軍の機密費づくりの巨大な装
   置だった」と語っている。    

    日本に戻り,昭和17〔1942〕年4月の翼賛
   選挙に立候補して念願の政治家となった岸も
   その1人であった。このとき
里見は岸に2百
   万円提供したという
(同書,106頁,118頁,173頁)

 

 武藤は,銅臭の感覚と信心する宗教とのかねあいを,
いかに観念していたのか。上述の事後談を聞くかぎりで
は,軍部機密費のおこぼれを毎月の「小遣い」にもらっ
ても,罪の意識はおろか,疑念さえいだいていない。岸 
信介の大物ぶりに感心しているだけの無邪気な発言であ
る。

 満州国「日系の頂点に岸 信介という近代史が生んだ
移植の人物が君臨したこと,さらに岸の強引な満州政策
がその後の本土に移入され,戦禍と敗戦につながってい
ったことに,ほとんど疑問を差し挟む余地がないこと」
36)を,すこしでも武藤は認識できていたのか。

 東條英機が絞首刑に処されたのは,昭和23年12月23日
注5)である。その翌日になぜか,岸 信介は釈放されて
いる。武藤の告白内容にしたがえば,「日本のミリタリ
ズムは東條英機とともに絞首刑にされた」結果,この岸
も無罪放免されたと解釈できる。

 注5)12月23日という日は,「平成」という元号
   が日本で使用されるようになってから,休日
   となっている。GHQの主導になる東京裁判
   の判決を,このように実行した含意をどのよ
   うにうけとるべきか,ここではあえて議論し

   ない。

 だが,その神学的な歴史解釈は,GHQ占領政策の基
本的変更を無批判的に追認したものである。それは,政
治的感覚において素朴にとどまり,歴史の理解において
ずさんである。

 内閣情報局の関係者で,武藤より下位の部署〔第5部
「文化」第3課「文芸」課長〕を担当したある人物は,
こういっていた。

 終戦の春には既に大蔵省監督官に転出していたが,情
報局という役所で5年近く課長をしていたということの
業の深さは,その職を自ら求めたのでなくても,自分自
ら深く思い知っている。それは職業軍人の場合に似てい
る。

 刑法や税法等の実定法上の責任は時効となっても,心
の問題としての戦争責任は,この数十年,私の胸から消
えることはない。

 価値観の転換した現在の立場から見れば,当時の戦争
協力は「悪」ということになる。私はその新しい立場か
ら,ふかく自己の責任を思う。

 国の「悪」を悪と意識せず,それに随順したという厳
たる事実に,私の心は重く痛み,私の胸にはふかい空洞
がうがたれた。それは木枯らしに似た音を,私の命の最
深部で,この30余年間,立て続けている37)

 同じ内閣情報局に勤務していたこの人物と武藤富男と
のあいだには,歴史的意識の把持に関して,埋めがたい
溝がある。

 『再軍備を憤る』昭和26年を公表したのを境にして武
藤は,自分の「業の深さ」や「悪」などに決着をつけた
気持になっていった。

 だが,前段引用中に出てきた人物〔井上司朗〕は,自
分の心にいやおうなしにきざみこまれた過去における深
刻な出来事の痕跡を,かき消すことのできない烙印だと
うけとめていた。

 このように,一方の人物はそれにいつまでもこだわる
気持を表明し,他方の人物は戦後「告白」する書物を公
刊したのを契機に,それ以後,それほどこだわらない姿
勢にかわっていった。井上と武藤は好対照である。
 


 侵略思想の残滓
 

 武藤富男はいう。

 「八紘一宇とか天皇の神性は後からつけた理論でしょ
うが,東亜解放のスローガンは現実に直面した有色民族
の魂の叫びであったことは事実です」1)

 東アジアの解放が,この地域で植民地とされていた諸
国家・諸民族の「魂の叫び」であったのは事実である。

 とはいっても,日本のそれとほかの東アジア諸国のそ
れとは,明確に識別されねばならない。

 20世紀前半における東アジア情勢をみたばあい,「東
亜解放」という「魂の叫び」が,この地域の有色民族間
をとおして共有できていたか。否である。

 「東亜解放」という「魂の叫び」は,アジア有色民族
が日本帝国に対し突きつけていた標語でもあった。

 戦後,日本の国粋論者の唱えた「大東亜戦争肯定論」
は,日本が帝国主義であったという事実は記憶の彼方に
押しやり,1945年以後,大東亜戦争が結果的に,アジア
の独立運動に関連する素因のひとつになった点を特筆大
書する。

 日本が大東亜戦争と称した戦いは,アジア植民地支配
権を欧米先進帝国主義国とあらそったものであり,アジ
アそのものを解放するためのものではなかった。侵略主
義国家の本質的目的をすりかえるため,歴史的諸事象間
の因果関係を意図的に読みかえたその技巧は,拙劣な欺
瞞である。

 このていどの事実も確実に把持できない,キリスト者
武藤富男の眼力が大いに疑われる。

 ――武藤は,「大東亜戦争の悲劇と犠牲とを考える時,
一つの民族が苦しむことにより,義が実現するという深
刻な課題に直面するのです。……恰度一個の人間が苦し
むことにより他の多くの人々が救われるように,一つの
民族が民族として苦しむことにより他の多くの民族又は
全人類が救われ又失われた正義が回復されるということ
があるのです」2)と,聖書からの引用を添えた主張を
していた。

 武藤のいう「ひとつの民族」とは,もちろん日本民族
を指している。

 明治以来 「大東亜戦争」にいたるまで,戦争や侵略に
明け暮れていたこの国の歴史を回顧するさい,他国に与
えた圧迫や被害を棚に上げて,自国の敗戦によってもた
らされた〈悲劇と犠牲〉を,日本の専売特許のごとくい
いつのるのはいかがなものであろうか。

 武藤富男は,そのへんの事情にふれてないわけではな
い。こういう。

 「私たちが罪を犯した相手方の国々に心から謝罪し,
賠償すべきものは賠償し,負けてもらうものは負けても
らい,相手方からよろしい,赦す,これから仲よくしよ
う,と言ってもらわなければ,日本人はアジヤ人と神に
顔向けは出来ない筈です」3)

 今日にいたってもなお,東アジア諸国に対する「謝罪
・賠償」の問題が,完全に終息したとはいえない状況に
あるのは,なぜか。

 それは「人を苦しめておいて知らん顔をし,罪を犯し
ておいてまぬがれている,ということを当然に思うよう
になる」4)からである。
 

 たとえば,731部隊〔正式名は,関東軍防疫給水部
本部(第七三一部隊),石井四郎軍医中将〕の負的遺産
である化学・生物細菌兵器は,いまなお中国各地に廃棄
された状態でのこされ,今後これを安全に処理するため
に日本政府も全面的に協力することを約束している。

 半世紀も時が経てば,人間の方面に関して生じた損害
・被害を請求する事例は,だんだんすくなくなってこざ
るをえないが,この731部隊の事例では,アメリカが
化学・生物細菌戦部隊の研究成果を独占しようと,石井
四郎元中将ら最高責任者を免責してきた経過もからんで,
その事後処理がいっそう遅らされる結果となった。


 すぐれているという神道
 

 1)「神道の解釈」

 「戦争の指導者たちが,神道を色々と改容して,戦争
をしよいように造りあげたと思うのです」。

  「思想的に言えば当時の日本の宗教思想は今から三千
年も前に発達したイスラエル民族の選民主義の20世紀に
於ける再現です。それが意識的に神道に結びついたもの
か,自然発生的に生まれたものか,私にはわかりません
が,選民思想は本来神道の中にはないのです」1)

 要するに武藤富男は,神道は明治以来国家・軍部に歪
曲され悪用されたのであって,本来選民思想をもってい
ないからこの宗教に罪はないという口ぶりであった。そ
の国の風土に由来した宗教の性格〔神道はもともと人々
の自然発生的な祖先崇拝観念に起源したもの〕を議論す
るさい,なぜ,その土着宗教が歪曲・悪用されるにいた
ったのかを分析せず,なにかほかのせいにし免罪するか
ような口つきは,説得力のあるものではない。

 神道は汚れの思想をもたず,規範・倫理も内在させて
いない。なにゆえ,このような宗教が国家神道と結合し
て,他国を侵略し,他民族を差別する価値観を誇示した
のか。

 選民思想をもつキリスト教を真似した国家神道の意向
注6)が,ともかく悪いといわんばかりの論調である。

 注6)明治後半の修身教科書では,国家神道の神
   々を超絶的存在として説明するために,キリ
   スト教の神観念の内容をそのまま用いるとい
   う奇異な現象がみられた2)

 武藤はいう。「もともと宗教は体制としては政治と分
離し,本質としては政治より優位にあるべきものが,と
もすれば政治に利用され易いのです。神社を国家の管理
にし,神道による祭りを国家的なものとしたのは確かに
制度としては間違いでした」。

 「日本の神道も政治に使われたのです。そこで私は制
度としての神道ではなく,宗教として信仰としての神道
について一言しこれによって私は日本民族の宗教的にす
ぐれたものであることを示したいと思うのです」3)

 神道がすぐれた宗教性を持つと認定するが,ここにお
おもとの錯誤が生じている。

 「日本の神社に偶像のないことに感心するのです。ロ
ーマの聖ペテロ寺に参詣し,聖者の像が沢山並んで人を
圧倒しているのを見た時,私は日本の神社というものは
何とすばらしいものだろうと感心しました。

 鏡や岩が御神体として祀られてはいますが,それは寧
ろ象徴であり神社で拝むものは祀られた人の人格なので
す。人格を神とする日本の宗教の中に私は宗教進化史か
ら見ても高く尊いものをみるのです」4)

 ――もっとも,聖者の像を偶像崇拝することと,生き
神様を偶像崇拝したこととのあいだに,それほど距離が
あるとは思われない。あの戦争も終結に近づいたころ,
伊勢神宮や熱田神宮に祀られていた「御神体:鏡や岩な
ど〔鏡・玉・剣〕」を,国民の命よりだいじなものとみ
なし,ひどく心配していたある人がいた。

 しかも,この彼自身が偶像に祭り上げられ,国民の崇
拝する対象となっていた。武藤はこの事実を,「高く尊
いもの」と説明するのか。

 「日本の神社に偶像のないこと」の,そのかわりとい
うわけでもあるまいが,生きた本物の人間を信心の対象
=〈現人神〉にしていた日本神道の歴史を,現在におけ
る日本神道の課題として完全に克服できているのか。

 新憲法において人間天皇は象徴となったが,三種の神
器はいまもある神宮に祀られ,これを「御神体として祀
っている」。天皇はこの御神体を祀る立場にある。

 「神社で拝むものは祀られた人の人格」であり,天皇
はこの「人の人格」の代表者となって,いつかそこに送
りこまれる予定者である。ここにおいて,戦争中との宗
教的連続性を否定することはむずかしい。

 そのような連続関係を,日本宗教進化史からみて「高
く尊い」といっていいものか,大いに疑問がある。キリ
スト者の発想に反する解釈である。

 「靖国神社に行けば父に,兄弟に,夫に,子に会える
という信仰もすばらしいものです。肉体の存在を超えて
不死永生の人格或は霊魂が生きるという信仰は何とすば
らしいものでしょう。この点は世界の最高の宗教と一脈
の共通点をもっているのです」5)

 だが,かつて日本臣民はそのような宗教観を強要され,
国家のために死ぬこと,いや国家のために他者を殺すこ
とをなんとも思わぬ人間となっていた。

 筆者は,キリスト者とはとても思えない。粗雑にすぎ
てあまりに浅薄な武藤の「靖国神社」観を聞き,意外な
印象をもつどころか,その没論理的無節操に驚愕,唖然
とさせられる。

 靖国神社は死んだ軍人を天皇と結びつけて天皇のため
に死んでいく軍人だけを〈英霊〉として讃えた。そうす
ることで靖国神社は多くの人びとに〈死の価値観〉を与
え続けた。

 天皇にまつろわぬ人も死を受けいれねばならない以上,
己を無理矢理に納得させる価値観が必要だった。

 タテマエであってもそれにすがるより仕方がなかった。

 靖国神社は天皇との結びつきによって,男たちや男た
ちの子や妻や母たちにも〈死の美学〉を吹き込み続けた
のである6)

 千年以上の視野のなかで日本神道の歴史的性格を議論
すべき問題と,明治以来,帝国主義を推進させるための
国家宗教的役割をもたされた神社神道の問題とを混同す
るのは,おかしい。

 後者に不可避の問題性である「侵略・戦争に加担した
神道」と,前者にかかわる古くからの問題性である「古
来・伝統的な神道」とを区別せず,武藤は議論する。

 「靖国神社に行けば父に,兄弟に,夫に,子に会える
という信仰」は,キリスト教的宗教観とは隔絶した価値
観を意味する。

 靖国神社の役割は,侵略戦争に加担させられた兵士た
ちに,戦場における人殺しを憚ることなくおこなわせた
り,国家のためであれば無条件にすすんで命を捨てるこ
とを,疑似宗教的にささえる精神的支柱であった。

 旧日本帝国臣民であっても,戦争で死んで靖国神社に
祀られる息子より,戦場から生きて帰ってくる父・夫・
息子・兄弟を切望した配偶者や親族が,いなかったわけ
ではない。

 けれども,このように正直な人間的感情を圧殺し,国
のためであれば一言も文句をいわず命を引き渡せと強要
する,全体の意志を正当化するための宗教的な受皿を靖
国神社=国家神道は提供していた。

 大江志乃夫『靖国神社』(1984年)は,靖国神社の思
想をこう批判する。

 敗戦した敵の戦死者の霊を捨ててかえりみず,戦勝の
栄光に包まれた勝利者である味方の戦死者の霊のみを祭
るという考え方こそ,大変特異な異例の思想であるとい
わねばならない。

 靖国神社は,日本国民の,たんに信教の自由のみなら
ず,思想の自由をも拘束することを明白な目的とする国
家施設として維持され,これにたいする信仰が国民に強
制されてきた7)

 神道的な観念は,戦争にいって死んだあるいは殺され
た元兵士の家族たちに,「靖国神社に行けば父に,兄弟
・姉妹に,夫に,子に会える」特権があると教えてきた。
この観念=教えは,世界一般,普遍的に通用する宗教的
な精神ではない。

 武藤はそれでも,靖国神社は日本に固有の,風土的信
仰心を具現する場であると述べていた。

 クリスチャン武藤の立場は,「〔戦場で〕死んで靖国
神社にいかねばならない」という靖国神社思想(観念)
じたいを断固拒否しなければならないのに,いいかえれ
ば,〈宗教〉を国家が利用し戦場に国民を駆りたてる道
具にそれを仕立てあげていた〈からくり〉を,その根源
より否定しなければならないのに,「靖国神社に行けば
死者に会える」〔と思え!〕という点のみを,武藤は単
純素朴に評価していた。


 2)「告白の中身」

 武藤はいったい,戦争のなにを反省し,懺悔し,告白
したのか。これでキリスト者といえるのか。

 日本のまともなキリスト教徒でありながら,靖国神社
信仰〔伝統的で古来のそれに限定するとしても〕を是と
する者がいたら,これは絶対に矛盾する宗教精神の発露
となるのではないか。

 キリスト教精神は,もっと厳格な信仰心を要求してい
るはずである。

 宗教学的な教養もある武藤富男のことであるから,こ
ういう。

 「人格を祀り人格の不死永生を信ずる日本古来の道は
キリスト教にとっては日本的旧約であると私は考えます。
イスラエル民族の宗教を苗床として生まれたキリスト教
は民族的な宗教から出たところの世界的な宗教です。

 民族的なものは旧約であり世界的なものは新約です。
日本人悉くがキリストに接するならば,神ながらの道の
もっているよさは益々発揮され全うされて,日本人は宗
教的にすばらしい民族となり得ると私は考えるのです。
神ながらの道を畑としてキリストを移し植えましょう」8)

 満州国弘報処長時代の武藤は,満州国の人々に国家神
道を宣伝するさい,哲学的背景において貧困であった神
道イズムに,キリスト教義を応用して理論づけた。この
努力は,とくに軍部関係者から高い評価を受けた。

 その思考方式は,前段にあった〈日本古来の道〉は,
〈キリスト教:日本的旧約〉という関連づけを論拠とし,
つづいて「民族的なものは旧約であり世界的なものは新
約である」点へつなげられた。

 そのうえで,「世界的なもの」=「満州国」の建国理
念という概念構成が,国家神道:「神ながらの道」の到
達すべき目標であったとされた。

 だが,歴史の現実に照らしてみると,この考えかたは
完全に破綻していた。それにもかかわらず武藤は,敗戦
後それを再度もちだしていた。

 ――「神ながら〔惟神〕の道=神道を畑にし,キリス
ト教を宣教しようではないか」という愚かな方途の顛末
は,戦時中すでに実際に体験したことではないか。

 筆者は,キリスト教といえども,その宗教的性格のな
かに原始宗教的な素性を包摂している点をしらないわけ
ではない。また,日本にキリスト教を伝道するためには,
国民にひろく影響力をもっている神道精神を考慮すべき
だという見解も,理解できないわけではない。

 だが,上述にあった武藤富男の主張:「神道+キリス
ト教=なにか新しい〈日本〉宗教の創造」は,国家ファ
シズム時代の残滓を混濁させた発想である。

 戦争中「人格を祀り人格の不死永生を信ずる日本古来
の道」が,侵略戦争への道を合理化する宗教的背景をな
し,生き神様の存在を当然視させる苗床となっていた。

 神道は戦争する国家と深くむすびつき,とりかえしの
つかない犯罪的行為を惹起させる宗教精神となっていた。

 しかも日本神道はその行為を,いまもまちがいだとは
認めていない。戦後,日本のキリスト諸教会は,神道以
外の諸宗教とともに,靖国神社国営化に反対する立場を
しめしてきた。

 ここまで批判をくわえてきた「神道・神社」に関する
武藤の歴史的認識は,戦争の時代,満州国の人々に国家
神道を強要していたそれとたいしたちがいはない。

 結局,武藤の提起する神道観は,国家神道の時代に数
多く発生していた難問を,今日的な立場からでもよいの
だが,克服しようとする意欲も契機をもたない。

 満州国高官としてあの戦争に協力するはめになってし
まったと悔い,これを深く反省するつもりであったはず
の当人が,その戦争の時代を反省できたというにはほど
遠い,原始的な,シャーマニズム的な宗教論だけを展開
する。

 それは,国家神道を批判する視点をもちあわせてない。

 再び,大江志乃夫『靖国神社』(1984年)に聞くこと
にしよう。

 近代天皇制における天皇の持つ二元的性格,宗教的権
威としての「天子」のそれと政治的主権者としての「天
皇」のそれとをイデオロキー的に――物理的には大元師

としての側面であるが――みごとに統一し,さらに,こ
のそれぞれが持つ二元構成,宗教的には絶対の「神」
あることと温情溢れる「家父」であること,政治的には
権力国家の超越的支配者であることと共同態国家の日常
生活的支配者であること,この背反しあう秩序原理をも

みごとに統一したイデオロギーと制度が近代天皇制イデ
オロギーとその制度であり,その根幹を成すものが国家
神道であった9)

 さらに,村上重良『国家神道』(1970年)にも聞いて
みたい。

 国家神道は,多元的に発達し,依存してきた日本の諸
宗教のうえに,実体のない近代天皇制国家そのものの精
神として君臨した。

 そのため,この中身のない国教は,教義をもたず,宗
教ではない国家祭祀というたてまえで,政治的にきわめ
て有効な機能を獲得した。その理念が,民主主義,社会
主義等の実体のある政治思想や観念ではなく,神話に立
つ理論以前の精神,「惟神の道」であったことは,国家
神道のもつ矛盾である反面,かけがえのない強みでもあ
った。
 
 国家権力は,その時々の政治的必要に応じて,惟神の
道に,フリー・ハンドで恣意的な内容をもりこむことが
できたからである10)

 武藤の認識は,日本古来より伝承されてきた伝統的な
「神社神道」に関する認識と,明治以降,国家が意図的
な宗教政策によって形成し,国民に強要してきた国家神
道に関する認識とを単純に混淆したものである。

 「靖国神社に行けば父に,兄弟に,夫に,子に会える
という国家神道による信仰」は,日本臣民に対して帝国
主義的侵略路線への加担を正当化し,強制させるための
国家宗教的な精神背景を醸成した。それはまた,1945年
までキリスト教徒などを残酷に弾圧してきた官許〈信仰〉
でもあった。

 武藤は,神社神道あるいは民間神道における素朴な信
仰心と,国家神道における強圧的な押しつけ信仰とを識
別できていない。神道の歴史的な発展のなかでは明確に
区別されねばならない,

 そのふたつの系譜関係に無分別なのである。神道のな
かにふくまれてはいるものの,完全に換骨奪胎され,旧
日本帝国にいいように利用された〈民間信仰の要素〉の
みを抽象的に摘出・評価することは,国家神道に固有の
特性である帝国主義性を,いともたやすく容認すること
になる。

 要するに,武藤の神道観は「木をみて森をみない」も
のである。それはまた,「磁石をもたないで登山をする」
ような神道解釈論であった。これでは,日本神道全体の
客観的な把握は不可能である。


 3)「サタンの存在」

 武藤は,自分の身底に残存した帝国主義的な意識を,
キリスト者として芟除しきれていない。明治以後,国家
的施策のもとに形成された国家信仰〔国家神道〕のうち
にまぎれこんだ〈サタンの存在〉をみやぶれず,キリス
ト者の真価が問われていた。

 日本キリスト教徒の武藤富男は,国家が力をいれて形
成してきた宗教政策:「国家神道」精神の影響:教育的
効果を,自身が強くうけてきた。武藤は,自身にとりい
わば骨肉となっていた国家神道を批難してはいるものの,
その骨髄中に巣くって居すわる〈サタン〉との対決は回
避してきた。

 ときには彼自身,その〈サタン〉の役割を分担してい
た。

 戦時中,〈サタン〉の魔性をわかちあい発揮してしま
った自身を反省〔告白〕する武藤であったけれども,身
中に巣くっていた分身〈サタン〉は退治できなかった。

 靖国「信仰」に関する武藤の好意的な見解は,「神輿
とイスラエルの契約の箱と比べ,神社の祭りを旧約聖書
のレビ記と対照して,日本神道の深さに嘆息をもらした」
恩師である宣教師S.H.ウェンライトを引き合いに出
していわれたものである。

 だから,こうもいう。

 軍部に宗教が使われた点はありますが,国のため忠義
とされた者は神として祀られるというところに興味深々
たるところがあるではありませんか11)

 こういう武藤の心情的な発言は,軍国主義体制という
悪魔に魅了され,手先となっていたクリスチャンの姿を
彷彿させる。

 軍部に引きまわされた神道〔およびキリスト教〕は,
戦争に協力してきた行跡を反省しなければならない。
くに,過去にのこしてきた醜い思想や行為を再現させて
はならない。

 特定の宗教が戦争遂行・侵略支配を合理化,支援した
すえ,その失敗が明らかになったのである。

 だからたとえ受動的,被害者的にであったにせよ,そ
の失敗の原因であった「国家神道化による神社神道の悪
用」および「そこに生じていた諸関係」などを直視しな
い,古来伝統的な神道の要素のみを孤立させる議論は許
されない。

 参考にまで出すが,同じキリスト教徒の外国人であっ
てもウェンライトとはちがって,「公式行事としての神
式の招魂祭は,天皇への忠誠を他のいっさいに優越させ
るための軍隊的宗教の儀式であった」と,偏見なしに靖
国神社を観察した英軍の中将,サー・イヤン・ハミルト
ンがいる。このハミルトンの発言は,日露戦争後のもの
である12)

 明治20年代に〔ちなみに西暦1890年=明治23年〕確立
した国家神道の侵略的教義が,その真価をあますところ
なく発揮する時期は,1930年代初頭〔昭和一桁台後半期〕
であった。この時期にいたると,明治末年から昭和初年
にいたる制度的完成期を経てきた国家神道は,大陸侵略
の本格化を背景とする天皇制ファシズムの成立によって,
最終段階のファシズム的国教期を迎えるのである13)

 戦時中の武藤の発言は,「神の国」の教えにしたがわ
ず,「地上の国」の掟を優先していた。そして,武藤自
身「地上の国」の支配権力に座を占め,古来の伝統的な
神道を食い荒らす役割をはたした。

 「国に忠義とされる」ことと「神に忠実である」こと
とは,キリスト教の真義においては絶対に両立しない。
こんな初歩的な教義は説くまでもないことである。釈迦
に説法である。

 戦後,武藤は自分の行為を深く反省する気持を表わし
ていたはずなのに,それでもなお前段のように,キリス
ト教的精神に背く理屈を堂々と披露していた。

 キリスト教徒である武藤は,当然,戦後の靖国神社国
営化「法案」に反対していた。しかし,国家神道に内在
されるとみなした古来的伝統の〈良さ〉に拘泥するあま
り,権力支配がわが神社神道:古来的伝統の〈良さ〉を
国家神道の体内に刈りこみ,これを思う存分「翻弄して
きた事実」を直視できていない。

 かくて露呈するのが,武藤自身の「反面〈キリスト教
師〉的な姿」である。くわえて,それをまともに想起で
きず,まっとうな反省もしていない。これでは,みずか
ら「靖国神社国営化に反対していた」ことと平仄が合わ
ないし,歴史を回顧する理性においても,前後の不整合
を避けえない。


 4)「靖国と鎮魂」

 前項までの叙述を具体的に解説する,角田三郎『靖国
と鎮魂』(1977年)にすこし聞いてみよう。靖国神社・

国家神道に対する武藤の認識が,いかにずさんであるか
がわかる。

 要するに国家神道は,天皇を絶対者とする信仰のもと
に,ほかのいっさいを服属させようとした,非常に観念
的な〔したがって歴史的にいえば偽りに満ちた〕宗教で
ある。

 国家神道は,被害者の慰霊・供養をとなえつつ,実は
加害者がわの現世利益のためにすることがほんとうの目
的である。加害者による加害のための祀りで,つぎの殺
戮を有効に継続させる「再生産の手段」ともなっている。

 靖国神社は,民俗学的に御霊鎮魂の系譜とされるが,
きわだったちがいとして明治の天皇霊の猛烈さが怨霊を
圧倒してしまい,選別の論理がまかりとおっている。

 「天皇乃大命」によって,天皇に忠実であった者を,
国家神道における「神」とする。祀られる神は,祀る神
の権威のもとに生において死においても閉じこめられて
いる。

 そして,その生と死が,つづく世代の生と死を,天皇
制的国家神道の「惟神の道」へと誘うように再生的に利
用されるのである。

 靖国神社に土俗的な怨霊鎮魂のおそれは本当にはない。

 なぜかといえば,「死ね」と大声叱咤した大元師が,
今度は,死者の怨霊も完全に圧伏する猛烈なアキツミカ
ミの天皇霊の所有者として鎮魂の宣命を垂れ,さらに
儀の場に臨む者に,死者にならって臣道をつくして死ね,
というのであるから,これはたいへんなことである。

 とくに,死者の怨霊が靖国的慰霊で完全に鎮められた
とされ,したがって平気で,そこをつぎの死者をうむた
めの再生産的教育の場とできたことは重大である。

 だから神社神道の祭儀が,現憲法の最重要点「国民主
権」とどのくらいきびしく対立するか説明しよう。支配
と隷属関係を打ちたてる神社神道の祭儀,とくに「天皇
乃大命」をふりかざす靖国の祭儀では,こうした国民主
権も,各人の基本的自由も基本的に否定する。
 
 「明治のお心」「命令」のゆえに,臣下には,祀られ祀
られないことをみずから定める権利はないといい,この
大嘗会‐靖国の信仰こそ「日本人なら誰でもという人の
道・宗教をこえたことがらである」と主張し,さらにも
う一度それを法制化し,強制しようとしたのである14)

 ――武藤は,靖国神社国営化に反対したというが,こ
の反対の論理に関していえば,国家神道の骨格「封建遺
制的性格」を理解できていない。

 「キリスト者である」などというまえに,まず最低限
よく理解すべきことがらがある。つまり「教養ある知性
人」であり,くわえて「特定の宗教的立場」を擁する人
間にしては,お粗末きわまる国家神道・靖国神社〈観〉
なのである。

 武藤は,国家神道の〈真髄〉に厳然と控える,非民主
主義的・反主権在民的な本性に気づかない。靖国神社の
もつ宗教的機能のうち,ある一片にのみ注目して,国家
神道全体を不用意に許容する態度なのである。

 そうであればこそ,角田三郎がいうような,国家が国
民〔臣民〕に強制的に押しつける「宗教ならぬ宗教:
〈国家神道〉」が,靖国神社において「異教徒」の〈英
霊〉を神道方式をもっていっしょに祀る行為を,異常と
感じることのできないキリスト教徒の登場となるわけで
ある。


 神を信じる人か
 

 武藤は,たいへん勇ましく「正しい主張」をとなえて
いた。

 「正しい主張をするためには政治家は次から次へ
  と倒れて行き同じ主張をくり返すべきです」。

 「思想に対しては思想〔を〕もって闘いましょう」。

 「神の言葉がその正しさを証明してくれます」1)

 もし,政治家はそう「正しく主張」すべきものだとす
るならば,戦後,宗教家的な立場に移動した武藤富男の
ような人物は,なおさらのこと「正しい主張をくり返す」
べきであった。

 だが,戦時中「正しい」「主張」をとなえて「次から
次へと倒れる」列にくわわることのなかった,いいかえ
れば「正しい主張をくり返す」こととは無縁の人間であ
ったからこそ,今日の武藤もありえたのである。

 1945年8月まで日満に股をかけて活躍する国家官吏で
あった武藤は,正しい主張をとなえられる場にいなかっ
たし,もとより発言する意志もなかった。

 それゆえそれ以降彼は,当時の自分を想起するたびに
内心忸怩たる思いを抱いた。

 かといって,前段の「正しい主張」と突きあわせて,
〈自身の過去〉を内省する点検作業を満足にしてきたわ
けではない。

 戦後しばらく経って武藤はようやく,「神の言葉がそ
の正しさを証明してくれます」という〈思想〉を確信で
きた。

 戦時中における彼は,その〈真理〉に到達していない。
神道の祀る国家〈神〉は,1945年までキリスト教の祭る
〈神〉を下属させていた。

 それゆえ,戦争を遂行していた政府の中枢部にいた選
良武藤にとっては,キリスト教「神」の「正しさ」にふ
れることじたい,危険な行為,禁忌であった。

 武藤もまさに指弾するように,戦争中の日本人クリス
チャンは,神のことばにしたがうよりも政治家のことば
にしたがった。この点は,日本キリスト者に固有の弱点
であった。いうまでもなくそれは,キリスト教徒武藤自
身の問題性でもあった。

 「いうは易しおこなうは難し」であるが,戦争中はう
っかり「いうも難し」であった。

 戦争中,武藤が意図的に回避していた〈クリスチャン
のあるべき姿〉は,みずから説くつぎの一節に表現され
ている。

 「神の前に,また人間の良心に照し,どちらが正しい
でしょうか。……功利で動けばやり損った時は精神的に
も打撃が大きく,民族として再び立上れません。真理と
良心に従い神の前に正しい方策をとって行けば,たとえ
受難してもそれは栄光となり,もしそれが当れば世界を
照す道徳的な光となり得るのです」2)

 だが,戦時‐戦後にかけて武藤の軌跡は,こうなって
いた。

 戦時期は功利に動いて行動しすぎたので,敗戦を迎え
てそうとうに精神的打撃をうけた。とはいっても,民族
心を再度立ち上がらせなくなるほどではなかった。

 思うに彼は,戦争中「真理」から目をそむけて生きた
キリスト者であった。神の御前において,宗教的良心に
かなった行動をなしえなかった。彼の〈栄光〉はもっぱ
ら世俗に属するものであったから,ときにそれは世界を
照らす道徳的な光をさえぎる役目さえはたしていた。

 それゆえ,武藤富男には告白すべき必然性があった。

 いまとなって武藤は,こういう。

 「戦争は自然を崩壊させ人命を殺し,文化をこわすこ
とです。それは如何なる理由があっても神の眼より見れ
ば罪悪です。罪悪に加担することはやめましょう。罪悪
への義理立ては善にはならず,悪を助長することになる
のです」。

 「最も高い善と正義とに徹底する,即ち神の意志に従
う……」のです3)

 ――戦争中における武藤は,天上の国の価値づけにし
たがえば,「最も高くない善や正義」を地上の帝国より
を賦与され,これを喜んで身につけ飾りたてていた。

 「神〔イエス・キリスト〕の眼」よりみればそれは,
罪悪であったといえる。

 戦後,「罪悪への義理立ては善にならず,悪の助長に
なる」と喝破しえた武藤であった。

 けれども,昭和20年代よりみせはじめる「自分の良心
にかなった行動」は,それぞれの時代にもてはやされた
〈世俗的価値観に対する徹底的挑戦〉になっていたか。

 敗戦後日本の再軍備反対を強調する武藤は,かつて自
分もつかっていた「満州国は独立(国)である」という
修辞を「ことばの魔術」である,と批判した4)

 関東軍が実質支配し,まともな憲法もそして民主主義
もなかったカイライ満州国と,敗戦後GHQ占領下で民
主主義を与えられ,新憲法をつくってもらった日本国と
を,同じ次元に乗せて論じてよいか疑問である。ものご
との根幹にかかわる議論が,武藤において弱いか,ある
いは無視されている。

 さて,武藤は断言する。

 「私は日本人です。神を信ずる日本人です。私は日本
の若人をしてもう一度大陸に血を流させるに忍びません。
私はいかにこのため迫害を受けようとも日本の若人を守
るために断乎として戦います。それを神は私に許して下
さると信じます」。

 「この時は決して人の顔色を見たり,新聞,放送の宣
伝に引かかったりしないで,日本と日本民族の現在及将
来をしっかりと見通して投票するのです」5)

 ――この記述ににじみ出ている特質に関して,つぎに
議論しよう。


 1)「加害と被害のすりかえ」

 戦時体制期に生きてきた自分〔武藤富男〕が,あたか
も,当時の支配体制から迫害や弾圧をうけた人物である
かのような,誤解されやすい記述をしていること。

 武藤が『再軍備を憤る』に提示したような「告白」は,
敗戦直後間髪をいれず即座に公表されるのでなければ,
加速度的にその価値を低落させる。

 カール・ヤスパース『責罪論』1946年〔→1945年から
46年の冬学期におこなった連続講義の一部の授業内容〕
を,引き合いに出すまでもないだろう。

 昭和26〔1951〕年10月,対日講和条約の終結を持って
公表された本書『再軍備を憤る』の「告白」は,〈冷め
たスープ〉どころか〈腐った卵〉みたいに始末が悪い。
いいところ,せいぜい〈出涸らしの茶〉である。

 石川三郎・富田泰次『軍閥・官僚ファッショ―日本を
崩壊せしめたるもの―』(昭和21年4月)は,武藤富男

のような公の立場にいた人間が答えるべき,戦時問題を
追及していた。

 太平洋戦争が勃発して間もなく東條軍閥は言論,出版,
集会,結社取締令を公布した。国民のすべてに箝口令を
布き自由を求め自由なる戦ひを欲せんとする一切の国民
感情を永久に凍結せしめんとする法的基礎がこゝに確立
された。

 太平洋戦はかゝる事情のもとに戦はれた。官僚,軍閥
ファッショは財閥と共に三位一体となり,思ふがまゝの
跳躍をつゞけた。網の目を張るが如くしてでっち上げら
れた複雑なその行政機構をみよ,統制機構をみよ,その
一つ一つは彼らの牙城を守るがための防衛線であり,そ
して又彼らの権力を拡大せんがための前衛線あった。

 軍閥による憲兵政治がさらにこれに拍車にかけた。天
を恐れざる彼らの専断――これがこの国
を亡くしたので
ある。敗戦はかくして天譴であった6)

 戦時体制期において,武藤が官吏として国家のため遂
行していた任務は,上述に指弾されている中身そのもの
であった。

 キリストを信仰する身でありながら,みずからも護る
べきこのキリスト教をふくめた諸宗教を弾圧する一員と
なり,天皇および天皇制にひたすらかしづき,旧憲法下
の専制的な君主国家に恭順の意をしめしていた。

 敗戦を契機に,自分の骨肉深くしみわたっていた昨日
までのファシズム的体質を,武藤はあらためて意識せざ
るをえなかった。

 だが,敗戦直後における武藤富男は,戦時中の自分を
冷静にみつめなおし告白する精神的余裕などもっておら
ず,GHQ占領下いかにうまく身過ぎ世過ぎをするか,
キリスト教関係を主としたアメリカさんといかに上手に
おつきあいをするかに,もっぱら精力をついやしていた。

 しかも,武藤富男のアメリカ関係者との交際はきわめ
て順調であって,キリスト者であった経歴を最大限に活
用した生きかたであった。

 だから,前段にふれたような〈負い目〉〔のちに本人
のことばでは〈ひがみ〉〕は,その間,意識しなくても
済んだのである。

 すなわち,国家官吏を退いていた武藤は敗戦直後,既
述にもあったように日米会話学院の創立やキリスト新聞
の経営・論説に活路をみいだし,牧会者の資格もとって,
自分の生命と生活維持を当面する一大事と位置づけてい
たのである。

 当時,混沌とし,みなが食うにもこまっていた世相を
うまく泳ぎまわることに夢中であった武藤は,石川三郎
・富田泰次の糾弾:「日本を崩壊せしめたるもの」とい

う叫びなど,聞く耳をもたなかったのである。

 要するに,戦時中のファシズム志向価値観をいともた
やすく転向〔放棄〕できた武藤は,敗戦直後クリスチャ
ンとして沈思黙考する時間をつくれず,余人と異なると
ころのない処世に腐心するばかりであった。

 あえていわせてもらうならば,世の中がまだ安定を欠
き混乱のさなかにある時にこそ,キリスト教徒である自
分を生かすよう言動すべきではなかったか。

 武藤は戦争中は「天(かみ)」の声に耳をかたむけない
でいたし,敗戦後は「天(キリスト)の怒りの声を聞け」と
いうような識者の叫びを聞きとれなかった。武藤が応え
るべき時はまさにその時であったのに,〈冷めきったピ
ザ〉を配達するかのように,のちに,本書『再軍備を憤
る』昭和26年10月を公表した。

 ――連合軍総司令部の民間検閲支隊(CCD)は,19
45年1月GHQのG−2〔諜報担当〕のもとに設置され,
日本が連合国に降伏した翌日,1945年9月3日から活動
を開始した。

 1945年9月から1949年11月までのあいだ,CCDは日
本のあらゆるメディア――新聞・ラジオ・映画演劇・レ
コード・書籍・雑誌およびパンフレット――に対して,
徹底した厳しい検閲をおこなった。スライドや紙芝居と
いえども,検閲官のきびしい目を逃れることはできなか
った。

 CCDの指揮下には,新聞・映画・放送班のほかに,
郵便班,電信電話班,旅行者所持文書班,特殊活動班,
そして情報・記録班があった。このCCDの活動が終了
した1949年11月以後においても,あらゆる印刷物のみな
らず,放送台本や映画までが事後検閲をうけていた。

 「日本に対するプレス・コード」は,1952年4月28日
の占領終了まで一度も改廃されなかった7)

 以上は,その相手はちがっていたものの,「攻守所を
かえた」関係のなかに武藤富男が放りこまれた,敗戦後
日本の政治的事情を物語っている。

 昭和20年代前半にかかわる国際情勢の変質にともなっ
て,アメリカの日本占領政策は,つぎのように変遷して
いった。

 a)「政治的情勢の転換」
 
 1946年,日本の国家体制のありかたを民主化する
     という合言葉がひろがってきた。

 1947年,「冷たい戦争」によるアメリカの極東政
      策の方向は,民主化政策に熱意をしめさ
     なくなった。

 1948年,日本とアメリカとの密接な関係,戦後に
     おける民主化の潮流に停頓がみえるよう
     になり,戦後史の転換がはじまった。

 1949年,アメリカの占領政策は,日本の国内体制
     を,前進基地としてつかいやすいように
     再編成する方針を露骨にしめすようにな
     った。

 1950年,占領政策は,5月から6月にかけてかな
     り露骨に言論・集会の抑圧措置をとるに
     いたった。マッカーサーは,日本共産党
     の非合法化を示唆するようになった。

 1951年,朝鮮戦争における日本の役割をつうじて,
     アメリカはすでにソ連との協議を放棄し
     て,日本との講和を早期に実現する方針
     を前年からかため,この年3月には,講
     和条約の草案が日本政府にもしめされた8)

 b)「経済政策の変質」 敗戦当初,占領軍の政策は厳
格をきわめ,ときには,日本経済の衰退を招く恐れがあ
っても,その政策を遂行した。しかし,米ソを軸とする
冷戦の激化が,米国の対日政策を緩和させ,占領期の後
半にはむしろ,日本経済を復興させ,日本を独立国とし
て国際社会に復帰させることを重視するようになってい
9)

 c)「東京裁判の変化」 その間,東京裁判は予想以上
に長期化し,米ソを中心とする冷戦状況がすすみ,連合
国が共同で新たな国際裁判を開催する条件がうすれてき
た。米英両国は,日本の戦争責任追及や戦争犯罪人処罰
に急速に熱意をうしない,とくにアメリカは,ただ1人
の主席検察官の地位など裁判に対して保持してきた主導
権を活用して,起訴困難と判断したA級戦犯容疑者から
釈放し,国際裁判終結の既成事実を積みかさねた10)

 d)「公職追放の意味」 GHQ当局によれば,公職追
放はあくまで懲罰ではなく,民主化を実現するための予
防措置であるということで,追放該当者が拘禁されるこ
とはなかった。しかし公職追放が,侵略戦争に対する責
任を最有力の基準として実施されたのは事実であり,追
放された者は公私の恩給や年給の受給を停止され,経済
的にも打撃をうけた。

 だが,占領期の「逆コース」のなかで,追放解除の動き
は本格化してきた。とくに,昭和26年5月以降には大量
の追放解除がおこなわれた。これと入れかわりに実施さ
れたのは,共産党員のレッド・パージで,昭和24〜26年
に約2万人以上の共産党員とそのシンパが,政府・報道
機関・民間産業から解雇された11)

 再び指摘させてもらうと,武藤富男が『再軍備を憤る
―追放者の告白―』を公刊するのは,昭和26〔1951〕年

10月のことであった。

 四囲の諸情勢をうかがいながら,これならもう大丈夫
だ,かなりのことをいっても戦時中のような危ない目に
は会わないだろう。戦後もそういう時期になったと観測
したのち,武藤はようやく動きだし,キリスト教徒らし
い態度を立てなおして告白をはじめた。

 戦争の時代に「悪者」だった人々を批難することも,
武藤は忘れていない。

 だがなぜ,公職追放指定が解かれるまえに,いうべき
こと,いいたいことをいわなかったのか。いつもお上を
意識している姿勢は,戦争中も戦後も同じであった。

 この時期の戦争責任論は,多くの場合,たんなる論説
にとどまるものではなかった。それは,責任ある者の処
罰や追放を,社会に訴えたものであり,また,これとは
逆に,こうした責任追及をかわすような自己弁護の意図
に基づいたものであった12)

 武藤富男は,キリスト者という拠点に立ち,他者のも
ろもろを批判する。このことによって,自分が一般の政
治家とはちがっていた点を強く訴求し,過去においては
政治家と同列の国家官吏であった自分の存在性を極小化
しようと企図する。

 そうして,日本帝国‐満州国官吏であったがゆえ公職
追放指定の処分をうけてしまった,その経歴に対する自
己批判そのものは最小限にとどめておき,キリスト者で
ある立場は最大限に利用しつつ,敗戦後の日本社会にむ
かって〈強烈な批判〉を意図的にくりだすことになった。


 2)「他民族に対する不可視」

 「満州国」という過去に論及しているのに,あいかわ
らず日本の国家・日本の民族のことにしかふれておらず,
こちらの利害・得失に執着していること。

 武藤富男は,満州国在住時「原住民」とも仲良く暮ら
していたと強調する。個人や家族単位での隣人との近所
づきあいは,なにも不仲であるよりは仲よく円満にした
ほうがいいにきまっている。

 「満州国」人たちからみて,武藤はカイライ国政府の
要人:重要人物であるから,この人およびその家族と親
しくしたほうが得である。

 自家の関連にかぎられた世界において,日本人と「満
州」国人の関係が良好であったことを理由に,満州国の
なかでの自分が五族協和の一端を実践していたかのよう
に,武藤は勘ちがいしている。こんな短見はない。

 「反満抗日」の標語に端的に表わされる日本国と満州
国人〔中国人〕とは,武藤のふれる私的単位でのつきあ
いはさておき,公的な場面にあっては,表面的にはとも
かく,深層底流にあっては険悪であった。

 武藤は叙述していた。

  「日本陸軍は満州国に国軍を作り之を実質的には関東
軍の一翼として作戦計画の中に入れました。その国軍が
どれだけの役に立ったでしょうか。日本が降伏した時は
彼らは反乱して日本人を苦しめたのです」13)

 日本人が「満州国」人たちを苦しめいじめてきた歴史
を考慮すれば,敗戦時中国人を主体とする満州国軍の反
乱を,予期できなかったほうが甘いのである。こんなこ
ともよく認識できないまま,武藤は満州国で高級官吏の
仕事をこなしてきたのか,といいたい。

 満州国警察は「臨陣格殺」という無法殺人用の超法規
を武器に,日本に抵抗する中国人たちをいとも簡単に処
分した。

 武藤は1度だけだが,市中でその現場をみたといって
いる14)

 さすがにエリート官僚武藤富男は,その現場をたびた
び目にすることはなかったようである。だが,「臨陣格
殺」「措置」という殺人行為そのものには言及しても,
それが〈普遍的見地においていけないこと〉だとは記述
していない。

 『再軍備を憤る』のなかでは,武藤はきっぱりこうい
っていた。

 「どんな理由があっても戦争中は罪悪です。人を殺し
てはいけないのです。……キリストは自由を守るために
戦争せよ。とは教えていません。汝らを責むる者のため
祈れと私たちに告げ〔て〕いるのです」15)

 満州国で「臨陣格殺」「措置」の現場に遭遇したとき,
キリスト教会長老でもあった武藤は,これを当然視はし
ていなかったようだが,かといって問題視していたよう
すもうかがえない。

 満州国の「治安問題」を論じるときの武藤の目線は,
植民地支配者のそれであった。それでもすくなくとも,
「臨陣格殺」によって処刑された人々のために,クリス
チャンとして〈祈ってあげた〉のか。その〈祈り〉の必
要な理由は,まずは相手のためであり,つぎに処断する
がわにいた人たちのためである。

 「汝らを責むる者」とは,いったい誰を指していたの
か。満州国時代のそれは,明らかに武藤自身でもあった。

 武藤は問うていた。

 「自国を守るために人間を殺すことが正しいか,それ
とも無軍備無抵抗で敵のために祈るのが正しいか,よく
考えて下さい」16)

 この問いに答えるのは,きわめてたやすいことである。
たやすくないのは,実際に自分が迫害をうけ,それこそ
殺されるような状況に追いこまれたとき,そのような高
貴な態度を堅持できるか否かである。

 戦争中における武藤は,国家の立場における宗教精神
を,自分の信心・宗教よりも上座においていた。それゆ
え,クリスチャンであることの証となる。「人殺しは悪
い・敵のために祈る」というような信仰告白とは縁がな
かった。


 3)「総括的責任」

 総括的な指摘をする。武藤自身の個人的罪責から,一
気に超越していて,全体的な〔日本国民の〕罪責に問題
を拡散させる意図が露骨なこと。

 一般庶民の感覚からはいちばん遠い場所にいた彼だか
らこそ,責任転嫁のそういう発想ができたのかもしれな
い。いいかえれば,武藤の姿勢は,戦責問題を論じる自
分の立場を,一挙に日本民族全体における罪責論に昇華
させるものである。

 戦時体制期,人的資源の枯渇に悩んだ日本帝国は,そ
の末期には老兵の範疇に属する人間まで徴兵し,動員し
た。さらには,反抗・反乱の恐れのあることも覚悟した
うえで,植民地朝鮮などの若者まで徴兵した。

 大東亜:太平洋戦争期,兵隊に駆りだされた男性はす
べからく,戦場にいって命をうしなうことを覚悟せざる
をえなかった。この覚悟の不要だった武藤富男という選
良の心中では,「戦争と平和」=「生と死」の緊張関係
が,いまひとつ現実味を欠いていた。

 武藤富男は,

 昭和2〔1927〕年 東京帝大法学部卒業,

 大正15〔1926〕年12月 高等試験司法科合格をはたし,
            卒業後は司法官試補,

 昭和4〔1929〕年 東京地方裁判所判事になっている。

 武藤は兵役にはついておらず,日本人男子として一兵
卒の苦労はしていない。戦前‐戦時,高級官吏としての
エリート・コースを歩んできたのである。

 ――あの戦争によって多大な被害をうけたのは,日本
・日本人だけではない。アジア諸国の人々に与えた不幸
・危害に関していえば,武藤はその当事者:加害者の1
人であった。

 国家官吏武藤富男のになっていた職責・地位は,命を
賭けて戦場に出むく義務を免除されていた。そうであっ
たにせよ,自分自身に不可避の制約・限界を抽象的,知
性的にでもよい,多少は認識できていればまだよかった
のだが,この点がまったく自覚されていない。

 したがって武藤の発言は切実感を欠き,迫力も感じら
れない。とくに真実味が希薄であって,他人事に接する
ような姿勢が顕著であった。

 なかんずく戦争中「満州国」と日本帝国の各情報担当
部署に勤務し,全体主義的国家統制のための弘報活動に
おいて要職をこなしていた人物が,武藤富男であった。

 それゆえ,前述の1)2)に関する議論もふまえて観察
すると,この人物は,徹底する自省の裏づけがともなわ
なければ,状況の変化によっては再び調子よく変節する
だろうことを,まえもって心配しておかねばならない。

 戦時体制期における武藤の行動は,〔その失敗(!)
を〕確認済みである。敗戦後,安全圏にわが身をおくよ
うになってから,「言いたいと思っていることを何の遠
慮もなく言い得る時代(『再軍備を憤る』序)を迎えた。

 しかし,平和で民主的な国になった日本は,武藤の力
強い主張〔の成功を!〕を試すための機会を与えなかっ
た。幸運にも現在までつづいてきた民主主義と平和の時
代は,武藤にかくべつ試練を課さなかった。これはもっ
けの幸いである。なにをいおうが「いいたいほうだい」
であったからである。

 武藤富男の,戦前‐戦時‐戦後を概観しておこう。

 『戦前』 「私は己れの罪を告白した。21歳にして神
の光に浴した時,私はキリストのうちにある人間の完全
性を見ることが出来た。25歳にして私はキリストの前に
己れの罪を自覚したのである」〔1929年12月のこと〕17)

 ――これは,神のみちびきにしたがう,羊となった武
藤富男。

 『戦時』 「学問もあり能力もある人物が己れを卑く
して貧しく無学な異民族の中に入り込み,神の栄光を現
しつゝある時に,私は軍人の権力に食いついて出世を考
えていたのです。それは神に対する背叛であり,罪であ
りました」18)

 ――これは,神の教えに背き,狼の群れにくわわった
羊〔の武藤富男〕。

 『戦後』 「唯犯した罪の重さに心を圧されつゝ神の
前に絶えず懺悔し,再び戦争に関係しないこと,人をし
て戦争に関係させないことに努力することによって罪滅
ぼしをするより外に道はないのです」19)

 ――これは,狼に協力したことを悔やんでいた羊〔の
武藤富男〕。

 当初,神に忠実な〈羊〉たらんとする武藤富男であっ
た。しかしその後,その心中に潜んでいた〈狼〉性は,
羊の面を食いやぶって真皮になったかのようである。

 戦時中の彼は,羊に面をかくした狼のようであったと
形容できようか。「羊の面をかぶった狼」という修辞は,
よくつかう。

 だが,「羊の面をかくした狼」という修辞は,「狼の
面そのもの」と同義ゆえ,無意味である。

 満州国に在住し,このカイライ国の仕事をしていた武
藤富男は,満州に暮らす中国人たちにとって,〈狼〉そ
れとも〈羊〉のどちらにみえていたか。

 たとえ,武藤の気持が主観的善意においては〈羊〉で
あったにせよ,「原住民」の目に実際に映る彼は〈狼〉
であった。

 たとえ,彼自身が〈狼〉でなかったとしても,〈狼〉
の群れにくわわった一匹の従順な〈羊〉であった。

 武藤『再軍備を憤る』昭和26年は,興味深い発言をし
ていた。武藤は,周囲にこう警告していた。

 「どうか皆さん,羊と狼とを区別して下さい」と20)

 むろんこの発言は,中国人にはわかりきったことであ
り,もっぱら日本人むけである。 


 4)「禊ぎであって,告白ではない〈告白〉」

 武藤富男『再軍備を憤る―追放者の告白―』の意味を,
総括することにしよう。

 本書は,キリスト教徒武藤富男の戦責問題を〈禊ぎ〉
する著作である。「禊ぎであって告白でない」と解釈す
る理由は,キリスト教信仰の立場に徹していないその基
本的な性格にある。

 キリスト教的な告白として徹底性を欠いた武藤の態度
は,日本の風土にキリスト教が土着できなかった一典型
を例示している。

 もっときびしくいえば,それは,「信仰心の挫折を懺
悔のことばをもって透徹しきれなかった」キリスト者の
〈単なる語りかけ〉であって,日本へのキリスト教〈土
着化の証し〉とみなされ,その事例に挙げられるような
〈信仰告白〉ではなかった。

 武藤の〈以て非なる信仰告白〉は,「自己は告白をし
た」と他者に訴求することに重点があった。あたかも,
戦争中の自分において「背教の罪」が生じたのは,この
信仰告白を予定していたためであったといわんばかりで
ある。この態度はなにか胡散くさい。偽善的なふんい気
すら感じる。

 クリスチャンの立場にあって罪を犯したのであれば,
その罪の重さを一生背負い,〈信仰の道〉に則してこれ
からの人生を誠実に生きていこうと内省・決心するので
はなく,当面の重荷であったその罪を下ろすために,こ
の人は告白したかのようである。

 そのことは,東條英機の絞首刑を契機にして,自分の
「背教の罪」が浄化されたとする解釈に集中的に表現さ

れている。

 いったい,いかなる見地をもってすれば,東條の刑死
〔「東京裁判」〕をとおして,日本キリスト者の戦争責
任に「神の許し」がえられるとするのか。

 そもそもGHQの占領下にあった時期,日本基督教会
の最高指導者たちは,戦争中に犯した責罪に対する懺悔
をしなかったし,またまともな信仰告白をする人物もい
なかった。

 15年戦争中は多くの国民を動員して総力戦体制のもと
でおこなわれた。責任の程度の相違はあっても,それに
協力した各層の戦争責任をどのように考えるのか。

 とくに,アジア諸民族にはかり知れない被害を与えた
ことに対し,われわれはどのように責任をとるべきなの
かなど重要な問題が現在も課題として残されている21)

 ドイツでは戦争指導層はほぼ崩壊したために,連合国
側が占領を進めるにあたって新たなドイツ人指導層を発
掘していった……。日本では戦争指導者のごく一部を別
にすれば,ほとんど残り,「反省」なき彼らが戦後処理
を担った。このことは戦後の両国の少なからぬ影響を現
在も与えつづけている22)

 私は,明治生まれの文化人を評価する場合に,まずか
れが戦争中に何をしていたかを調べることにしている23)

 いずれにしても武藤富男は,筋違いの摩訶不思議な議
論を披露した。その要点を,以下の3点に整理しておき
たい。

 第1点……大東亜戦争の終結にいたるまで,日本が
アジア諸国・諸民族に与えてきた甚大な被害に,実質的
にはほとんどふれるところがなかった。

 アジアの人々は,日本帝国主義の侵略に抵抗していた。
キリスト者〔であっても,その職務上においては〕満州
国高官であった武藤富男に対峙していた彼らは,当然,
〈敵〉に位置づけられた。

 だが「汝の敵を愛せ」といわれても,武藤にはこの相
手じたいが,そもそもよくみえていなかった。

 満州国関係のある問題を論じた入江曜子は,満州国に
対する武藤の関与姿勢を,つぎにように記述していた。

 満州に骨を埋めると大見得をきりながら,いわゆる近
衛新党から議員立候補をうながす檄がとべば,ただちに
腰を浮かせた武藤富男,古海忠之ら〔満州国〕政府高級
官僚24)

 いうなれば,「戦争責任を考察する際の対他民族視点
の欠落は,彼のみならず,戦争責任論に共通する思考の
一面性,その偏りといえる」。それはまた,「非日本人
たる他者からの視線を感受できないという一の道徳的無
能力でもある」25)

 もっとも武藤個人にとってみれば,この他民族不可視
性はかえって幸いであった。クリスチャンでもあった彼
が,満州に生きる人々を十全に認識できたと仮定しよう。
そのばあい多分,キリスト教精神と満州国高官の立場と
のディレンマに,武藤は苦しまざるをえなかったと思わ
れる。

 だが,この仮想的な心配は武藤にとってもとより無用
であった。というのは,当時における彼は,この心配の
種を抱くような意識状態になかったからである。

 第2点……東條英機に戦争責任すべてをかぶっても
らい,この人物の絞首刑をもって,イエス・キリストが
十字架にかけられた出来事に譬えるという,とんでもな
い比喩をつかっていた。

 キリスト教思想によるこのような応用がありうるのか
と,皮肉ではなく感心する。だがその比喩は,責任転嫁
の詭弁,逃げ口上でしかない。

 ひるがえってみるに,大東亜‐太平洋戦争の局面がい
っそう悪化していった時期,戦後の「国体護持」をねら
い,またきたるべき戦争犯罪追及にそなえるため軍部を
切りすて,この軍部に責任転嫁,あるいは押しつけよう
とした動きが「宮中集団(グループ)」にみられた26)

 武藤の思考回路は,歴史の裏舞台における事情,すな
わち「宮中集団」が画策した構想:〈軍部責任転嫁〉論
に合致する複製品であった。

 武藤は,陳腐な「〈東條英機〉スケープゴート」論を,
敗戦後わざわざ蒸しかえしていたことになる。その意味
で,武藤の主張に新鮮味はなかった。ただし,〈イエス
・キリストと十字架〉を大上段に持ちだした点が,武藤
の独壇場であった。

 第3点……武藤個人の戦争責任問題を中心の論点に
すえて告白するのかと思いきや,なんと,みんなで懺悔
しようという論旨であった。つまり,自分という存在の
意味をひろい世間のなかに溶かしこみ,あいまいにして,
戦責問題からの〈自己の解放:無罪放免〉をもくろんで
いた。

 結局,武藤もふくめて「一般国民は,罰せられなかっ
たゆえに罪はないものとして,東京裁判をあたかも第3
者のごとく傍観したのである」27)

 肝心なのは,「私たち日本国民が1931年から45年まで
の間全力をあげて戦った戦争を,私たち自身がどう考え,
その経験を私たちの将来にどう生かしていくかという一
番肝心な問題がすっぽりと抜け落ちてしまう」ことであ
った28)

 だがいつのまにか,「被害者意識が8・15の逆転よっ
て急にふくれ上がり,チャンスさえあれば,己れを『戦
争反対者』,それどころか『民主主義者』としてさえ,
錯覚しかねまじき可能性がそこにあった」のである29)

 したがって,たとえ「懺悔」が要請されたとしても,
それが思想的な播種となりうる契機は,欺瞞されつづけ
たあげく敗北者にまでなりさがった,一億の心奥のどこ
にもみいだされはしなかった30)

 つまり,つぎのような虚偽意識だけがのこされたとい
える。

 日本の国際社会への新たな出発,とりわけアジアの諸
国との新しい関係の形成を阻害してきた,日本における
戦争責任意識の不徹底の大きな要因のひとつに,日本の
「王室」の不自然な存続がありはしないか,という問題
に突き当たる。

 イギリスにおける「戦争責任意識」の不在は,王室の
存続を媒介とする過去の帝国ならびに戦争の美化と切り
離すことができない。

 
 近代日本の一連の戦争も,イギリスの戦争と同様に,
日本の王室(天皇)の名において戦われた。

 敗戦によってその過去と決別したはずの日本において,
その過去の戦争の公的責任を負うべき王室が不可解にも
存続している事実が,じつは国民意識のうえで「過去の
克服」を阻害する大きな要因となってきたのではなかっ
たか。そして,克服されない「過去」に,日本人の「帝
国意識」が潜んではいまいか31)

 敗戦後半世紀以上が経ったいまもなお,「大日本」と
いう帝国主義の行跡にまつわる戦争責任や戦後処理が,
振り出しから論じられなければならないような様相は,
いったいなんであるとみればよいのか。

 ――昭和20年代日本を占領・統治したアメリカ国務省
内の意向,「天皇制は支持しないが,利用する」という
方針は,アメリカ政府の意思として対外的にも確定され
ていた事実である32)

 その後,アメリカ政府のその方針は日本政府に継承さ
れ,日本国内の人々を支配・統治するため活用されてき
た。

 国会を最高機関とすることと第9条が占領憲法の眼目
であって,平和主義と基本的人権をオブラートとして,
天皇制の無力化(国家信仰の廃止)及び第9条を日本国
民に自主的に発案させるように装うことが目的であった33)

 占領軍総司令官はさらに,「民主憲法を謳いながら天
皇の特殊地位を認める矛盾を,主権在民という皮で包み
込む苦心」34)(憲法第1条)をこらしたのである。

 だから,「明らさまに〔人間となった天皇を,国家の〕
象徴と言い切ってしまったときに,『統合の象徴』とな
りうるのかという問題は残る」35)

 この疑問は,民主主義の根本に照らして考えてみれば,
あまりにも当然のことである。GHQは,占領下の軍政
を背景に,日本に対して民主主義体制への移行を強制指
導した。これによって日本は,「ザ・ピープルズ:人々」
が自国の象徴に「人間天皇」を戴くという,〈主権在民
の見地〉よりみるとまことに摩訶不思議な国家となった
のである注7)

 注7)1999年6月18日,現天皇の配偶者〔前姓「正
   田」美智子〕の父正田英三郎氏が死去した。さ
   て天皇は,義父の葬儀だけでなく通夜にも出席
   せず,通夜に先だって葬儀所を訪れ,拝礼する
   だけであった。天皇が即位後,民間人の通夜会
   場を訪問したには,はじめてのことである36)

    数日後,ある新聞の投書欄に寄せられたひと
   つの疑問を紹介しておく。

    「世間一般では,血のつながりはなくとも,
   義理の親の葬儀に参加するのは当然である。そ
   れを『天皇』であるが故に参列しない,あるい
   は出来ないというのは,一体どういうことだろ
   う。

    国を象徴する『人』である天皇陛下は『神』
   であることをやめたのではなかったか。

    正田氏の遺体が自宅に戻った時に弔問にいか
   れ,さらに,通夜に先立って拝礼された陛下は,
   葬儀に参列したかったのではないだろうか」37)。   
 
    ――敗戦後,天皇を「神」から「人間」にさ
   せたはずの象徴天皇制は,国家の非明示的な意
   志,ならびにその担当機関である宮内庁の方針
   を観察すると,彼を,人間であるよりも神に近
   い存在に仕立てていく意向が明白である。

    国家神道の公的機関ではなくなった伊勢神宮
   であるが,そこに神として祀られている祖先を
   正式に拝むこと以外,日本の天皇は,誰であっ
   ても〈民間人〉に対して頭(こうべ)を垂れるわ
   にはいかない,という国家信教的な深慮遠謀が 
   明確に感得できる。 

    日本における村落共同体の掟を表現すること
   ばに,「村八分」がある。これは,火事と葬式
   以外においてはその対象者を,地域社会より完
   全に疎外する決まりである。天皇は,われわれ
   と同じ人間であっても,この村八分さえ超越し
   た,なにか崇高な座位を占めねばならず,かく
   べつ高貴な神格を有する存在であるかのように
   演出されねばならないのである。

    民主主義と天皇・天皇制との関係が,あらた
   めてきびしく問われるゆえんである。

 敗戦を機に,「〈生き神様(あきつみかみ)〉であった天
皇」を「〈象徴(シンボル)〉制の天皇」に変質させたダ
ラス・マッカーサーの措置は,戦後日本における民主
義的政治体制の不徹底を招来させる基因となった。

 現人神的「〈天皇〉制」と旧日帝的「帝国意識」とは
不可離一体であったものゆえ,1945年8月以降も,為政
者だけでなく人々の意識のうえにも,その残影は色濃く
のこされつづけた。

 ――日本は,第2次世界大戦での敗北によって,いわ
ばまったく他律的に帝国をうしない,それゆえにこそみ
ずからの「脱植民地化」をあいまいにしたまま,再びア
ジアの大国として振るまおうとしている38)

 −1999.6.25−


 

注   記


1 はじめに―信仰の告白か―

1)大阪産業大学論集〔社会科学編〕』第111号,第112号・第113号,1999年3月・1999年6月。
2)武藤富男『再軍備を憤る―追放者の告白―』文林堂,昭和26年10月,4頁。
3)同書,9頁。
4)同書,11頁。
5)同書,13頁。〔 〕内補足は筆者。
6)『新訂 現在日本人名録 98 4.ひろ〜わ』紀伊國屋書店,1998年,〔「武藤富男」〕889頁。

2 すりかえられた信仰の告白

1)武藤『再軍備を憤る』18頁,49頁,49−50頁。
2)同書,18−19頁。〔 〕内補足は筆者。
3)同書,101頁。
4)同書,101頁。
5)同書,21頁,22頁。
6)同書,23頁。
7)同書,23頁,24頁,24頁。
8)千田夏光『皇軍“阿片“謀略』汐文社,1980年,88−89頁。
9)武藤『再軍備を憤る』24頁。
10)同書,34頁,35頁。
11)同書,36−37頁,37頁,37−38頁。〔 〕内補足は筆者。
12)東京裁判ハンドブック編集委員会『東京裁判ハンドブック』青木書店,1989年,44頁。

3 東條英機をイエス・キリストに譬えるまちがい

1)武藤『再軍備を憤る』48頁,73頁,75−76頁。
2)同書,77頁。
3)同書,47頁,52頁。
4)レイ・ムーア編『天皇がバイブルを読んだ日』講談社,昭和57年,309頁。〔 〕内補足は筆者。
5)武藤『再軍備を憤る』61頁,131頁,56頁,62−63頁,66頁。
6)同書,60頁。
7)田中伸尚『ドキュメント昭和天皇 第6巻 占領』緑風出版,1990年,17−18頁。
8)白井新平『奴隷制としての天皇制』三一書房,1997年,133−134頁,135頁。
9)村上重良『国家神道』岩波書店,1970年,227頁。
10)武藤『再軍備を憤る』61頁。
11)大江志乃夫『靖国神社』岩波書店,1984年,127頁。この論点については後述。
12)田中伸尚『自衛隊よ,夫を返せ!』社会思想社,1988年,275頁。
13)武藤『再軍備を憤る』79頁。
14)同書,8頁。
15)同書,9頁。
16)中野雅夫『橋本大佐の手記』みすず書房,昭和38年,194頁。
17)東京裁判ハンドブック編集委員会編『東京裁判ハンドブック』177−178頁。

4 信仰を希薄化させる告白的からくり

1)武藤『再軍備を憤る』38−39頁。
2)同書,39頁。
3)同書,39頁。
4)同書,39−40頁,40頁。
5)同書,40頁。
6)同書,40−41頁。
7)以上,同書,著作略歴より。武藤富男『満州国の断面―甘粕正彦の生涯―』近代社,昭和31年,著社略歴も
  参照。
8)同書,著書教歴より。武藤,同書,同上。
9)「『平和憲法守れ』の論説40年―『キリスト新聞』の武藤富男の軌跡―」『朝日新聞』1998年2月10日夕
  刊。
10)北岡寿逸『我が思ひ出の記』鎌倉印刷株式会社〔非売品,代表者川瀬省吾〕,昭和51年,210−215頁参照。
11)前掲「『平和憲法を守れ』の論説40年」『朝日新聞』1998年2月10日夕刊。
12)武藤『再軍備を憤る』41頁,41−42頁。
13)同書,42頁,102頁。
14)同書,110頁,48頁。
15)同書,48−49頁。
16)同書,17頁。
17)村上重良『国家神道』岩波書店,1970年,138頁。
18)同書,140頁。
19)武藤『再軍備を憤る』46頁。
20)三枝重雄『言論昭和史―弾圧と抵抗―』日本評論新社,昭和33年,153−154頁。
21)武藤『再軍備を憤る』46頁。
22)同書,45頁。
23)宮本吉夫『戦時下の新聞・放送』人間の科学社,1984年,90頁,155頁。
24)茶本繁正『戦争とジャーナリズム』三一書房,1984年,320−321頁。
25)抑圧と抵抗の昭和史研究会編『抑圧と抵抗の昭和史辞典編 Vol.01』イクォリティ,1991年,114頁。
26)茶本『戦争とジャーナリズム』321頁。
27)黒田秀俊『昭和言論史への証言』弘文堂新社,昭和42年,122−123頁,122頁。〔 〕内補足は筆者。
28)塚本三夫『実録侵略戦争と新聞』新日本出版社,1986年,106頁。
29)上田誠吉『司法官の戦争責任―満州体験と戦後司法―』花伝社,1997年,101頁。
30)武藤富男『人間像修復』時事通信社,昭和45年,140頁。
31) 武藤富男『満州国の断面』近代社,昭和31年,110頁。山口淑子・藤原作弥『李香蘭 私の半生』新潮社,
  1987年,131頁。
32)原 彬久『岸 信介』岩波書店,1995年,72−73頁。岩見隆夫『新版昭和の妖怪 岸 信介』朝日ソノラマ,
  1994年,77頁。
33)塩田 潮『岸 信介』講談社,1996年,114頁。
34)田中隆吉『日本軍閥暗闘史』中央公論社,昭和63年,126−127頁。
35)千田夏光『皇軍“阿片“謀略』汐文社,1980年,230頁,226頁。
36)岩見『新版昭和の妖怪 岸 信介』108頁。
37)井上司朗『証言・戦時文壇史』人間の科学社,1984年,65頁。

5 侵略思想の残滓

1)武藤富男『再軍備を憤る―追放者の告白―』文林堂,昭和26年,69頁。
2)同書,71頁。
3)同書,100頁。
4)同書,100−101頁。

6 すぐれているという神道

1)同書,84頁。
2)村上重良『国家神道』岩波書店,1970年,143頁。
3)武藤『再軍備を憤る』84−85頁,86頁。
4)同書,86頁。
5)同書,87頁。
6)田中伸尚『ドキュメント昭和天皇 第3巻 崩壊』緑風出版,1986年,133−134頁。
7)大江志乃夫『靖国神社』岩波書店,1984年,121頁,140頁。
8)武藤『再軍備を憤る』88頁。
9)大江『靖国神社』82頁。
10)村上『国家神道』224頁。
11)武藤『再軍備を憤る』87頁。
12)大江『靖国神社』184頁。
13)村上『国家神道』196頁。〔 〕内補足は筆者。
14)角田三郎『靖国と鎮魂』三一書房,1977年,177−178頁・23頁,180頁・242頁,24頁。199頁

7 神を信じる人か

1)武藤『再軍備を憤る』113頁,123−124頁,116頁。
2)同書,122頁。
3)同書,126頁。
4)同書,127頁。
5)同書,134頁,140−141頁。
6)石川三郎・富田泰次『軍閥・官僚ファッショ―日本を崩壊せしめたるもの―』高山書院,昭和21年4月,39頁。
7)レイ・ムーア編『天皇がバイブルを読んだ日』講談社,昭和57年,122頁,129頁。
8)昭和史研究会編『昭和史事典』講談社,昭和59年,各年冒頭頁を参照。
9)吉田準三『日本の会社制度発達史の研究』流通経済大学出版会,1998年,229−230頁。
10)東京裁判ハンドブック編集委員記編『東京裁判ハンドブック』16頁。
11)同書,159頁。
12)同書,184頁。
13)武藤『再軍備を憤る』135頁。
14)武藤富男『私と満州国』文藝春秋,1988年,164頁。
15)武藤『再軍備を憤る』142頁。〔 〕内補足は筆者。
16)同書,142頁。
17)武藤富男『恩師二人―ウェンライトと佐波亘―』キリスト新聞社,昭和42年,45頁。
18)武藤『再軍備を憤る』29頁。
19)同書,48頁。
20)同書,141頁。
21)前掲『東京裁判ハンドブック』まえがきiv頁。
22)田中伸尚『ドキュメント昭和天皇 第7巻 延命』緑風出版,1992年,200頁。
23)松浦総三『戦時下の言論統制―体験と資料―』白川書院,1975年,184頁。
24)入江曜子『貴妃は毒殺されたか―皇帝溥儀と関東軍参謀吉岡の謎―』新潮社,1998年,236頁。〔 〕内補足は筆者。
25)大沼保昭『東京裁判から戦後責任の思想へ』有信堂高文堂,1985年,111頁,112頁。
26)田中伸尚『ドキュメント昭和天皇 第5巻 敗戦〔下〕』緑風出版,1988年,546頁。
27)大沼『東京裁判から戦後責任の思想へ』146頁。
28)同書,11頁。
29)岩波講座 現代思想XI『現代日本の思想』岩波書店,昭和32年,〔真下信一「X 戦争責任の問題」〕321頁。
30)三枝康高『思想としての戦争体験』桜楓社,昭和42年,262頁。
31)木畑洋一編著『大英帝国と帝国意識―支配の深層を探る―』ミネルヴァ書房,1998年,259−260頁。
32)田中伸尚『ドキュメント昭和天皇 第6巻 占領』緑風出版,1990年,200頁。
33)伊部英男『半国家・日本―戦後グランドデザインの破綻―』ミネルヴァ書房,1993年,69頁。
34)田中伸尚『ドキュメント昭和天皇 第8巻 象徴』緑風出版,1993年,396頁。
35)伊部『半国家・日本』41頁。〔 〕内補足は筆者。
36)『日本経済新聞』1999年6月21日朝刊。
37)『朝日新聞』1999年6月25日朝刊。
38)北川勝彦・平田雅博編『帝国意識の解剖学』世界思想社,1999年,48頁。



 ◎ 1999年6月25日脱稿。

  『大阪産業大学経営論集』第1巻第1・3号,1999年10月・2000年6月掲載。

 本 HP 2001年11月18日公表(用に改・補筆)。


 お願い:本稿の引照は基本的には,上記『経営論集』の参照を乞いたい。本ホームページからの引用などをおこなうばあいは,その旨「学術的なルール」に準拠した方法を採ることを願います。
 



 
【補  遺】

 恵泉女学園大学の学部学生が作成したレポートを主要
素材に制作された著作,
森脇佐喜子『山田耕筰ん,あ
なたたちに
戦争責任はないのですか』梨の木舎,1994年
は,武藤富男『私と満州国』文藝春秋,1988年に言及が
ある。

 「何よりも,クリスチャンらしからぬ氏の不可解な思
想があちこちに見られた……。武藤氏のこの著書は,氏
が現在でも満州国軍部にかかわった日々を『栄光』と考
えているような回想録なのである」
(同書,86頁)

 武藤富男は戦後,明治学院学院長を務め,明治学院大
学などの成長・発展に手腕を振るったこともある。武藤
が明治学院学院長に就任したのは当然,クリスチャンだ
ったからである。


 明治学院大学は,ミッション系の学校法人として,戦
前‐戦中に「戦争協力」を強制された「行跡」を反省す
る姿勢を,明確に公表・発信している。関連文献を紹介
しよう。

 1) 岩波書店編集部編
     『ドキュメント明治学院大学 1989
          学問の自由と天皇制』
                 岩波書店,1989年。

 また,明治学院自身が製作,公刊した著作として,つ
ぎのものがある。

 
2) 明治学院敗戦五十周年事業委員会編
     『未来への記憶−こくはく 敗戦五十年
         ・明治学院の自己検証−』
               ヨルダン社,1995年。


 
2)は,敗戦50周年に当たり,明治学院は,戦争中に日
本政府の侵略戦争に協力した罪を神のまえに謝罪した。
「過去の反省のうえに未来を築かなければならない」
いう決意から,キリスト者として,教育者としての自己
検証をおこなったものである。

 同書
『未来への記憶−こくはく 敗戦五十年・明治学
院の自己検証−』
は,1939〔昭和14〕年,明治学院学院
長に就任した矢野貫城をとりあげている。また,戦中か
ら戦後も,数年間にわたり明治学院の理事長だった冨田
満牧師もとりあげている。

 とくに冨田は,朝鮮のキリスト者に神社参拝をさせた
りすることによって,多数を
殉教に追いやった〈罪〉
持ち主であった
(同書,10頁参照)

 戦前,武藤富男が満州国でどのような地位に就き,ど
のような仕事をやってきたか,また戦中の日本に帰国し
たのち,どのような公務についていたかは,本文中に詳
述したところである。

 
『未来への記憶』,こうした明治「学院指導者たち
の反省の告白と謝罪がなされるべきだった」ことを自己
検証・
実行した事実を,書物のかたちに著わしたもので
ある。

 ところが,武藤富男もその「反省と告白と謝罪がなさ
れるべき」対象の人物だったことは,みのがされてきた
のである。だから,この武藤の「罪を神のまえに謝罪」
することは,まだなされていない。


 筆者は
本稿,および武藤富男に関するもう1編の関係
論稿
「政治と官僚と官僚−『満州国』官僚武藤富男の事
例(1)(2)(3)」
(『大阪産業大学〈社会科学編〉』第111・112・113号,
1999年3月・6月・6月)
をもって,日本人的なクリスチャン
国家官僚だった武藤富男の軌跡を,詳細に吟味,批判し
た。

 
『未来への記憶』を明治学院が公表した時期の学院長
長は,中山弘正
(ソ連経済論専攻)である。中山は,武
藤富男に関して戦責問題がある事実に気づいていなかっ
た,ということである。この認識は,明治学院とくに,
クリスチャン教員たちに共通していたものと思われる。

 
矢野貫城冨田 満に対して武藤富男をくらべてみる
と,前者は,主に戦中に明治学院学院長を務めたのに対
して,後者は,戦後だいぶ経ってから学院長になってい
る。

 したがって,両者においては,同じ戦責問題であって
もその関与に関してはっきりした位相のちがいがある。
だが,問題の本質的性格は,時空を超越した共通性をし
めしている。



  ←「裴 富吉のホームページ」へ 戻 る

  ←「研究内容・公表成果」へ 戻 る

  ←「授業の方針」へ 戻 る



 ★ 2002年7月10日 追補 ★

 

 

【 追  論 】(2002年12月3日 記述) 


 ここでは,武藤富男『満洲讃歌』吐風書房〔旧満洲国奉天市〕,康徳8〔昭和16〕年6月にみる「未来予測の当否一覧」を検討する。

 武藤富男は,『満洲讃歌』の序のなかで本書を,「私の職務の関係のない随筆とか講演とかを集めた。しかしそれだけではあまり淋しいので,満洲讃歌1篇をものにした。之は満洲に生き満洲を愛する者の歌である」,と解説していた。

 満洲国滞在時,武藤は,キリスト教会長老を務めていた。キリスト教徒は,「神‐イエス‐聖霊」の三位一体を信仰する立場を保持する。しかし,1945年以前における武藤のキリスト教信仰の真価は奈辺に求められるべきものだったか,さらに検討してみたい。


 @「靖 国 神 社

 私共が忠霊塔に参拝し或は靖国神社を遥拝するのは,尊い戦死せられた勇士の霊が肉体の死を越ゑて永遠に生きてゐることを物語ってゐるのであります。人が死ねば魂も滅びてしまふと云ふ考へはもっとも浅はかな思想であります。私共日常の生活は人間の道徳的性格即ち人格は肉体の死によりては滅びないことを証明して居ります。野戦に斃れた多くの勇士達の霊魂は死を超ゑて永遠に生き,我等の祖国日本を又東亜全体を護るのであります。この信仰あってこそ私共の参拝は意味があるのであり,慰霊祭は意義が深いのであります(92頁)。 

 −−武藤が日帝軍隊の「戦死者の霊」を,キリスト教信仰の立場から慰霊する態度をとっていたかどうかは,疑いもなく怪しい点である。上述をみるかぎり武藤は,「国家神道」の立場に即してその態度をしめし,かつまた,それを〈当為性〉あるものとみなして真剣に語っていた。

 戦時期の日本においても,キリスト教信仰をつらぬきとうそうとし,国家に「生命」を奪われた日本人キリスト者がいなかったわけではない。しかし,当時において武藤の態度は,キリスト教信仰に縁遠い発言内容である。


 A「日本帝国 と 満洲帝国」

 日本は神武天皇橿原に御即位以来今日まで,皇統連綿として続き,その間に非常なる発展をなし立派な国をなした。吾々は2千6百年の歴史を貫く所の精神を満洲へもち来ってこの建国の大業に携ってゐるのである。だから日本の歴史をよく知ると共に満洲の歴史も判らなければならない。吾々は2千6百年と口ではたやすく云ってゐるれども,2千6百年の歴史の内容を充分に体得する努力はと云ふと極めて恥かしい次第である(144頁)

 満洲には2つの歴史がある。1つは建国前の歴史,もう1つは建国以後の歴史である。満洲建国8年の歴史は2千6百年の歴史につながってゐる。しかし満洲建国前の古い歴史にも縁がある。どちらによけいくっついてゐるかと云ふと,日本の歴史の方に強くくっついてゐる。つまり糊が厚いわけである(144頁,145頁)

 古い満洲には3千年の歴史があるが,その儘ではいけなかった。どうしても生れ変って来なくちゃならぬ様に出来てゐた。これは宿命であります。満洲の地には建国前には諸民族が入り込んで互に鎬を削って争ってゐた。すてておけば人間と人間との同士打になって滅びてしまふ。又満洲の国土はこのまゝうっちゃって置いては折角の肥沃豊饒な處が荒野になって了ふところだった。張学良に委せて置いたら満洲は旱魃や洪水で悩まされ,次第次第に荒廃に帰する様になったに違ひない(146頁)

 そこに満洲国が作り変へられねばならぬ歴史的必然性,つまりさうならなければならぬ理由があった(147頁)

 −−武藤は,神州の国「日本」:2千6百年の歴史よりも,長い歴史,3千年の歴史を有する「満洲の地」に日本帝国が侵出していくべき歴史的必然性を説明していた。だが,日本の「2千6百年の歴史の内容を充分に体得する努力」と同等,あるいはそれ以上に「古い満洲:3千年の歴史」も学ぶ必要があるのではないか。差し引き4百年も長い歴史をもつ「古い満洲」を,である。

 つまり,「満洲建国8年の歴史は2千6百年の歴史につながってゐる」なら,同じように「満洲建国8年の歴史は〈古い満洲〉3千年の歴史にもつながっている」といわねば,公平性を欠いた歴史認識にならないか。なぜ,満洲‐満洲国からはより遠くの「日本の歴史に方に強くくっついてゐる。つまり糊が厚いわけである」などと,強弁を振るわねばならないのか? 


 B「日本民族の主導性」

 建国の理想たる民族協和であるが,果して民族協和は出来るかどうか,又如何にせば民族協和が出来るかと云ふ事は,最も重大な問題である。……それは日本の2千6百年の歴史が証明してゐる。諸民族協和して世界に類例なき優れた1民族を創り上げた事実は,満洲における民族協和の成功の何よりの証拠となるのである。つまり皇道精神によって民族協和は必ず成し遂げられるのである(161-162頁)

 よく日本精神と云ふが,日本精神の真髄は皇道精神にある。皇道精神と云ふのは皇室がもろもろの民族を,親の子をいつくしむが如くおいつくしみになり,これを包容,同化して,皇室のまはりを取巻くところの1国民となされたところのその御精神,大御心を云ふのである。国民はこの有難き御恩に感じ,君が為には己を捨てて仕へまつり,万世一系の皇統を維持しまつったのであります。こゝに真の日本精神がある(162頁)

 日本人が指導民族になって,今迄仲の悪かった他の諸民族を導いてやらなければならぬ(157頁)。吾々は土地の建て直しをやると共に,今迄自然に対する愛の足りなかった諸民族を鍛へ直して優秀なる民族を創り上げなければならぬ。即ち民族の再創造を行はなければならぬ(160頁)

 日本人が南へ行って南方諸民族を指導して,其処に八紘一宇の理想を実現せんとするならばまづ北へ向ひ,北に力を注ぎ此処で実力を貯へなければならぬその力で自然の勢で南へ向ふ様にしなけばならぬ。こゝに満洲の建国に大きな意味があるのである。だから吾々には大きな使命が課せられてゐる(178頁)

  −−武藤の国家的な信念が,日本民族は「世界に類例なき優れた1民族」であって,また「皇道精神によって民族協和は必ず成し遂げられる」という断言を吐かせた,といえる。しかし,その「実際:歴史的末路」は,いかなる結果を迎えたのか。この事実を踏まえたうえで,武藤の《過去の立場》に対する具体的な評価をくわえねばならない。


 C「満洲建国の天神(あまつかみ)は天照大神である」

 日本人たることに就て固い思念をもち,戦争に行けば 天皇陛下万歳を叫んで死ぬことが出来るのである。斯く考へる時民族協和が完成して1つの民族を創り上げた国と云へませう。2千6百年の歴史は諸民族協和,民族創造の歴史である(166頁)

 満洲建国は第2の天孫降臨である。第1の天孫降臨は明治維新と明治大正の御治成を以て完成された。第2の天孫降臨による御聖業は之からである(202頁)

 満洲建国はこの輝かしい歴史を大陸の一角に於て大いなるスケールを以て展開したものであります。……天孫降臨,神武御東征である。吾々日本人はそのお供をして大陸に渡ったのである。吾々の高天原は日本である。吾々が遣はされた地は満洲である。さうして見ると満洲建国は神業である。満洲に新らしき国をお建てになりこれを育て給ふは天照大神であらせられる。満洲建国の天神(あまつかみ)は天照大神であらせらるる。建国の為に殉じた英霊は国神(くにつかみ)である(166-167頁)

 皇帝陛下はさきに回鑾訓民詔書を御渙発になった。 天皇陛下の大御心を皇帝陛下には御心とせられ,満洲国を御治めになる。日本と満洲とは一徳一心である。

 天皇陛下の有難い大御心は皇帝陛下によって諸民族に注がれ,民族協和が行はれて行くのである。そしてこの源を尋ねると日本の肇国精神にさかのぼる。そして満洲建国が実に天照大神の神わざであることがわかるのである。

 先頃皇帝陛下には国本奠定の詔書を御渙発になり,建国神廟を御創建になり,また最近建国忠霊のご創建を仰せ出されました。その深い意味は実にこゝにあると拝察するのであります(167頁)。 

 −−「第2の天孫降臨による御聖業」とみなされた「満洲建国」の之からは,日本帝国の敗戦とともに一夜にして崩壊した。「日本と満洲とは一徳一心である」ことの意義が一挙に突き崩された。結局「天照大神の神わざ」の「深い意味」など,どこにもなかったことになる。


 D さて,武藤『満洲讃歌』康徳8〔昭和16〕年が予測していた未来展望の当否(正解と正解)を一覧,採点する。 

 a) ムッソリーニ首相について →「× 不正解」

 「ムッソリーニ首相は力の人であり,意志の人であるやうに思ってゐたが,人物に接すると徳の人に近い,人なつっこさとやさしさをそなへた人物が枯れてゐるやうに思はれた」(56頁)。「余は聖なるムッソリーニ首相の姿を将来において見たいと思ふ」(57頁)。 

 b) フランコ大元帥について →「× 不正解」

 「フランコ大元帥は風采の実に立派な人である。その顔は人間美の極致である。やさしくて威厳があって端正で聡明である。友情は距離を超越する」(66頁)。 

 c) 満洲〔国〕の将来について →「× 不正解」

 c)-1 「満洲国はまだ子供だが,将来必ず偉くなる子供である。年が経てば経つ程立派な国になるのである。あまりせいてはいかん。7年や8年で大建設は出来ない。大事業は出来ない。徐々に力強くやって行かねばならぬ」(171頁)

 c)-2 「将来の満洲に起る文明を地域的に考へて見るにこれを3つに分けることが出来ると思ふ。その第1は松花江文化,その第2は鴨緑江文化,その第3は渤海湾文化である」(172頁)

 c)-3 「満洲は東亜の辺境だったが今や東亜の中心とならんとしてゐる」(176頁)

 c)-4 「私は満洲建国の精神はドイツより2千6百年進んで居ると考へて居る」(265頁)。 

 c)-5 「満洲は……欧州の各国とはスケールが違ふ。経済建設もこれからだし文化の建設も之からである。我々の頑張り方1つで十年が二十年の間には素晴らしい建設が出来る」(270頁)。 

 d)「ナチス」について →「× 不正解」

 「ナチス党のやってゐることを見ますと,難かしい理屈を言はずに,物事は簡単明瞭に決めてこれを実行して行く。これが一番よい政治だと思ひます。この点に就て我々は反省しなければなりません。難しい理屈を言ってはいけない。主義綱領は簡単明瞭で誰にも分る様にしなければいけない」(256-257頁)。 

 e)「日本人」について →「× 不正解」

 「日本人は非常に頭がよい西洋では,これはと思ふやうな頭のよい人間はゐない。一般の人間は学問も少いし悟りも悪い。……実際日本人は頭がよい」(267頁,268頁)。 

 f)「ヨーロッパ統合」について →「〇 唯一の正解」

 「私は『小さい国々を統合し欧州全体を1つにしてしまひなさい』と答へて置いた」(269頁)


 E「結 論」武藤富男に問われるべき論点

 武藤はかつて,「我々は満洲に職を奉じ東亜復興の大事業に参画してゐることに新なる喜びと責任と誇りとを感ずる」(271頁)と,満洲‐満洲国を〈讃歌〉した。

 武藤はその後,満洲‐満洲国について,『満洲国の断面』(近代社,昭和31年)で満洲国の黒子だった甘粕正彦を描き,『私と満州国』(文藝春秋,1988年)では満洲国の実態を自分史的に回想した。

 武藤に問われるべき重大論点「偽クリスチャン的性格」はすでに,筆者が「本稿」や「関連論稿」で詳述したところである。とはいえ,再度問われねばならないのは,かつての「東亜復興の大事業に参画してゐることに新なる喜びと責任と誇り」を覚えた武藤の矜持・尊厳は,敗戦後,いったいどこへ散逸しまったのか,ということについてである。

 −−武藤が「我々の頑張り方1つで十年か二十年の間には素晴らしい建設が出来る」といった満洲国は,足掛け14年の生命をもって消滅した。

 なぜか? どうしてか?