泥棒国家の完成 The Sun Never Rises Again.
● 目 次 ● |
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■ ベンジャミン・フルフォードの著作物紹介 ■ |
『日本マスコミ「臆病」の構造―なぜ真実が書けないのか』 |
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2004年3月30日に光文社ペーパーバックスの1冊として発行された,ベンジャミン・フルフォード『泥棒国家の完成』を紹介する。 本書は「泥棒国家」(kleptocracy,クレプトクラシー)になり下がった「日本にこのままでは,未来はない!」と警告する。
光文社のホームページに出ている同書の広告は,こう解説している。
『泥棒国家の完成』の著者,ベンジャミン・フルフォード[Benjamin Fulford]は, 米経済誌『フォーブス』アジア太平洋支局長である。 1961年カナダに生まれ,上智大学比較文学科を経て,カナダのブリティッシュ・コロンビア大学を卒業後,日本でジャーナリスト活動に入る。 米紙の東京特派員を経て,現職に就いた。著書に『日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日』『ヤクザ・リセッション さらに失われる10
年』(ともに光文社ペーパーバックス)がある。 本ホームページの筆者は,本書『泥棒国家の完成』のなかより小泉純一郎に関係する記述を参照しながら議論してみる。
●−1 ASEANと靖国参拝問題
ASEAN〔東南アジア諸国連合〕は,1992年に域内貿易の自由化をめざすASEAN自由貿易地域(AFTA)の創設を合意し,2002年1月に発効した。 先発6カ国は,関税引き下げ適用品目の99%以上で関税率を5%以下に引き下げた。 しかし,まだまだ各国同士間において経済発展の度合にちがいがあり,社会慣習のちがいも大きく,そして,非関税障壁が貿易を阻害している。 ただ,加盟10カ国は「人口規模5億人の単一市場」をつくることで,ECやNAFTAなどと同じように,世界での発言力を確保する必要性は認識している。 そして,この「人口規模5億人の単一市場」をとりこもうとしているのが,中国なのである。中国がこの試みに成功すれば,日本がどうなるかはいわなくてもわかるだろう。 だから,2003年12月の小泉の「東京宣言」なのだが,彼はなにを思ったか,年が明けた2004年元旦,靖国神社に参拝してしまった。 小泉は本当に日本の「プライム・ミニスター」なのであろうか?(172-173頁) −−以上フルフォードの小泉批判は,確たる「考えがないかのように靖国を参拝するという行動をした」純一郎に向けられている。 しかしながら,本ホームページではすでに詳述したことだが,小泉は,自分が首相になるにさいして支持をしてくれた「党員をかかえる団体」=「軍恩連盟」や「日本遺族政治連盟」などに対して顔を立てる〔=義理立てする〕こと,いいかえれば「靖国神社に参拝にいく」という約束をはたす行為を最優先したのである。 その結果,内政‐外交上においてひとつの《世界史的な重要課題》である『アジア諸国との約束』をないがしろにした。 日本の各種報道機関(マスコミ),また,北朝鮮問題に関しては勇ましい発言を繰りかえす政治評論家などは,筆者が前段に指摘した事実にほとんど触れないまま,小泉首相の靖国参拝を論評したり批判したりする。 社会の木鐸たる,とりわけ大手の新聞社や,その方面における専門知識および関連情報にくわしいはずの評論家諸氏は,なにゆえか,それほどまでこだわって「靖国参拝」を繰りかえす小泉の真意を理解も分析もせず,的確な説明を与えていない。 首相は,一国の最高責任者としての立場にある。大所高所に立ち,あるいは未来への歴史的展望を忘れずに,みずからの言説‐行為を律しなければならない。それなのに小泉純一郎は,自分の支持者に対する個人的な恩義だけに忠実な政治家なのである。こういう人間にはとうてい,この国の舵取りを任すわけにいかない。 −−フルフォードの言及している「東京宣言」とは,なにか? 日本国の「首相官邸ホームページ」をみると,その宣言「全文」の日本語訳が掲載されている。長くなるけれども,以下にそれを参照する。
@ 日本国民および東南アジア諸国民のあいだに,相互の信頼と尊重に裏打ちされて育まれてきた「心と心のふれあい」は,未来の我々の関係の礎となる「共に歩み共に進む」パートナーシップへ発展してきた。 A 日本国が東南アジア諸国連合の地域の平和,安定,発展及び繁栄に貢献してきたことは,この地域に対する日本の二国間ODA総額が,その最大部分:約30%を構成してきたことにも明らかである。 B すべての人々の幸福のため,対話国および世界のほかの諸国とのパートナーシップや連繋を進め,強め,深めるという点において,日本とASEANとの関係は,前向きで行動指向であることを再確認した。 −−小泉首相まさか,ASEANに対する日本のODAが多額に上ることを理由に,靖国神社へ参拝することぐらいいいじゃないか,大目にみろよ,「たいしたことじゃない(!)」とでもいいたいのか。 そうだとしたら,これは「前向きで行動指向であるべき日本とASEANとの関係」を故意に否定するだけでなく,「心と心のふれあい」をたもちながらASEANと「共に歩み共に進む」パートナーシップにも背く姿勢である。 日本政府のODA予算枠は,毎年度減額を余儀なくされている。21世紀に入ってアジア諸国に対する日本のODA〔政府開発援助〕は,国家財政の逼迫状況を正直に反映させ, 20世紀のように潤沢に予算化できる経済的な余裕はなくなっている。 それでもなお,日本が経済「大国」としての風格にふさわしい実力を発揮し,ASEANに対して必要‐有益な援助を継続しうる時期においてこそ,アジア各国に尊敬される Japan となるための土台造りをしておかなければならない。 つまるところ,靖国参拝に小泉を駆り立てる背景には,先述の「首相の支持」団体である「軍恩連盟」や「日本遺族政治連盟」が控えていた。純一郎が靖国参拝をやめたらいっぺんに,その支持をうしなうことになるのである。 いわば,小泉の靖国参拝は「前門の虎(とくにアジア諸国,韓国や中国の批判)‐後門の狼(国内支持団体)」という苦しい状況に対面してきたといえる。 それゆえ,「熟慮に熟慮を重ねて靖国参拝を決めた」といいわけした純一郎の胸の内では,自分の地位をより長く維持することに一番の関心事があったのである。 ASEAN(Associaton of South-East Asian Nations)は,マレーシア,フィリピン,シンガポール,タイ,ブルネイ‐
ダルサラーム,ベトナム,ラオス,ミャンマー,カンボジアなどかつて,欧米の帝国主義に侵略され植民地‐地域だった国々が多い。 今日まで,上記の各国〔など〕に対する多額のODAを供与してきた日本なのであるが,小泉純一郎が首相となってから毎年,ASEANの基本理念を害する行為:「靖国神社参拝」を,堂々とつづけてきている。 1) 大東亜〔15年:アジア‐太平洋〕戦争は,アジア各国の独立や自主性を否定し,旧大日本帝国のアジア制覇‐統治をもくろんだ軍事的行動であった。 靖国神社は,戦争への動員・戦場での死をいとわず兵士となり,国家のために喜んで命を捧げたとされる「国民:臣民」を聖化する宗教的な場所である。それはけっして,「戦死した将兵をただ祀る〔慰霊:追悼する〕」ことだけが目的の宗教施設なのではない。 国家は,戦争という事態,最近の表現でいえば有事〔戦時〕発生にさいして率先,戦地に勇躍出向くことのできる将兵,つまり,戦いの場に臨んで死を恐れない強靱な神経をもった兵隊を,宗教精神的に育てておかねばならない。国家への忠誠心において彼らは,絶対動揺することがあってはならないとされるからである。 靖国神社は,国家のために死を提供することを強要する「神道的な施設」なのである。この点は,明治以前の日本神道にはなかった〈非〉宗教的な特性である。 小泉の度重なる靖国参拝は,ASEAN各国の反撥を買うだけでなく,その協調精神に本来する意図‐目的を損壊してもいる。
●−2 21世紀におけるアジア情勢の変化
日本が自分ではなにもかえられないうちに,「日本抜きアジア」はさらにすすもうとしている。 小泉純一郎泥棒政権の批判として,よく「アメリカべったり」「小泉純一郎はブッシュの忠犬」(Bush's puppy)などと批判されるが,実は,そんなことをつづけていても,日本はなんら得することはない。 靖国神社参拝などで,反日感情をあおる小泉純一郎は,世界中に進出・活動していなければならない日本企業の足をひっぱり,いたずらに日本国民を貧しくさせている。 とりわけ,中国進出ビジネスの足をひっぱっているのは,ほかならぬ日本政府なのである。小泉の靖国神社参拝をもっとも歓迎しているのは,いま中国に進出している世界の大企業たちである(フルフォード『泥棒国家の完成』192頁,194頁)。 靖国神社参拝から話を経済政策にうつすと,現在の小泉純一郎政権は,いかにグローバル化した世界に適合していないかがわかる。すでに,日本では1990年代の歴代内閣の政策は,ことごとく失敗してきた。 それは,アメリカにいわれるままの「金融ビッグバン」であり,「規制緩和と民営化」であり,「IT立国構想」であったからだ。 そして,いま小泉純一郎がやっていることは,ほぼアメリカが失敗したことの模倣にすぎないからだ。だから,彼の政策を「構造改革」とよぶことじたいおかしいのである(263-264頁)。 つまり,グローバリゼーションの世界のなかで,いまだにこれが効果的だという経済政策はみつかっていない。 世界のグローバル化のスピードが早すぎて,まだ,誰もそれと共存できる道をみつけられないのだ。グローバル化に適した経済政策と市場のルールは確立されていない。 だから,そんななかで,いまだに規制緩和と民営化をさけびつづけ,改革に入口にさえ到達していない小泉純一郎は,時代遅れもはなはだしい。こんな滑稽きわまりない三文役者はいない。 小泉純一郎は,日本国民を地獄にみちびくガイドである(264-265頁)。 −−フルフォードの小泉批判は,日本国総理大臣の純一郎を“a guide to the hell”とまで決めつけた。 小泉にとっては,靖国神社参拝問題という政治的・歴史的な問題が日本経済の地位の劣化‐低下を招来させるという深刻な事態をすなおに認識することよりも,政治家としての自身の地位を守ることのほうがよほど大事なのである。 小泉政権の内閣支持率は2004年に入りなお40〜50%台を維持しているから,当人は,前段のごとき論点をそれほど気にしないでよいのかもしれない。しかし,内閣支持率じたいの上下変動はともかく,世界経済のなかで占める日本経済の不気味な地盤沈下をみのがすわけにはいかない。 日本の人口は2006年より減少しだすと予測されている。そして,日本の10倍:13億人もの人口を擁する中国の市場が今後における世界経済の動向に大きな影響をおよぼすだろうことは,衆目の一致する点である。 自動車会社のトヨタ,日産,ホンダをはじめ,三洋電機,キャノン,花王,イトーヨーカ堂などは,日本政府による〈政治‐経済改革〉のカタツムリのような歩みとは対照的に,世界経済を競争場に奮闘している。 もっとも,日本の企業すべてが順調な業績を挙げているわけではない。けれども,産業競争に果敢に立ち向かい,好業績を獲得している事業会社に比較してみるに,日本政府の行政管理はまったくだらしなく,なんともみっともない姿である。 フルフォードは,日本の政治‐経済に対する小泉政権の行政‐対応ぶりを,それはもうボロクソにけなしていた。 −−フルフォードの記述をもう一度拾い,小泉への批判をまとめておく。 ★ 靖国神社参拝は日本企業の足をひっぱり,日本国民を貧しくさせる。 ★ 靖国神社参拝は反日感情をあおっており,かえって,中国に進出している世界の大企業が歓迎するところとなっている。 ★ 「アメリカべったり」のブッシュの忠犬:小泉純一郎は,「日本抜きアジア」圏の形成に貢献している。 ★ 1990年代の歴代内閣の政策は,小泉純一郎泥棒政権までことごとく失敗してきた。それは,アメリカが失敗したことの模倣にすぎない。規制緩和と民営化をさけびつづける改革は,その入口にさえ到達していない。 ★ 時代遅れの小泉純一郎は,滑稽きわまりない三文役者,日本国民を〈地獄にみちびくガイド〉である −−日本国民はいまだ,a) 具体的にいうと,自民党‐公明党の現連立政権を交替させうるような,あるいは b) より一般的にいって,必要があればいつでも与党にとって替われるような「対抗勢力(countervailing power)としての野党」を育成できていない。 民主党の実態も現在のところは,単なる「第2」自民党にしかすぎない。 民意の反映を適宜に具現させえない,そして,政権の交替を円滑にさせえない「日本における民主主義の水準」は,アメリカに民主主義の本義を教えられてから半世紀以上経った現在でも,それほど高くはないのである。 現在の,小泉純一郎の自民党と〔宗教団体の創価学会を全面的に支持基盤とする〕公明党を政権の座から引きずりおろし,他党〔=野党〕に政権を樹立させるという〈担保:国民の政治監視体制〉を絶えず選挙民が留保していることが,民主主義の根本理念をまっとうに発揚させるために,ぜひとも必要である。それでこそ「日本における民主主義の資質」も高度化できるはずである。 ところが最近まで,日本における政治風土の健全な発展にとっては,そのような政権交替的な変化〔変革〕を起こすことがきわめて有益である,というような覚悟・認識がみられない。それどころか,日本の国民政治的な精神風土にあっては,政権移行に関する予兆はほとんどうかがえない。 つまり,いまの日本の政治社会においては,政治的な無関心が人びとのあいだに蔓延‐滲透しているだけでなく,日本国民は平均的にいって,変化や変革をあまり好まないことが特徴的である。そこには,「和」を尊ぶ日本国民の真骨頂がみてとれるといったら,いいすぎになるだろうか。 今日まで高度経済成長によって日本の享受しえてきた繁栄は,これからも積極的に維持‐向上していけるのか。そのための「市民社会的な努力の方向」がみうしなわれているのではないか。また,それに必要となるはずの「具体的な経済政策の可能性」にも,十分な関心がもたれていないのではないか。 筆者の属する年齢層は「団塊の世代」であり,その先頭集団に位置する。だが,この世代〔そして以降〕が続々と引退していく今後において〔2〜3年後から〕は,日本社会は恐らく衰退の一路に向かっていくほかないだろう。 たとえば,昨今における日本の教育現場では,入学式や卒業式で日の丸に敬意を表させ,君が代を歌わせるように強制さえできれば「この国を愛する人間(?)」が用意でき,かつ日本という「国家の発展に寄与する人材」も輩出できると誤解している。 狂人的な思いつき:発想を連発してやまない石原慎太郎都知事や,頑迷なる文部科学省高級官僚,国粋的右翼思想にまみれた保守一辺倒の政治家らは,昨今の日本が現象させている経済的衰退‐政治的零落の方途を,教育現場において子どもたちの「心のもちかた」をとおしてのみ,回復‐挽回できるものと勘ちがいしている。 むしろ,「心のもちかた」に関して大変革が迫られているのは実は〈彼ら自身〉なのである。時代遅れの「古い価値観」しかもたない彼らは,将来をになって立つこどもたちに対して「新しい価値観」が育つような教育をほどこすのではなく,頑迷固陋にも数世紀もまえの遺物的な「それ」を押しつけようとしている。 だが,そのことにまったく気づかない〈彼ら〉の自覚症状の欠落にこそ,現代日本のかかえた深刻な病理症状が政治社会面において集約的に現出されている,といえる。 「日本という国家」は,子どもたちに対して「自国を愛する」ことを強制している。国家や郷土,隣人への愛情を,教育しながら自然に身に付けさせるのではなく,なにがなんでも強制してつくろうとしている。愛とか愛情とかいうものはけっして,強制されて育成できるものではない。 かつて日本帝国の施政が犯したように,人を神とみなし,これを信仰するようにしむける教育をほどこした結果,どのような国が生まれ,どのような人間が造形され,そして,そうした国や人びとがどのような末路を迎えたか,この点の反省がまだまだ足りないのである。 だから,「思想,信条,良心の自由」を侵すかたちでしか,子どもたちに対する教育をほどこせないこの国の為政者は,本当は自身が「自国の将来像をどのように描こうとするのか」,まるでわかっていないことになる。 まさかいつまでも,「現在の自民党〔や公明党〕」を政治的に支持してくれる国民(市民,庶民)ばかりが教育されることを,望んでいるわけではあるまい〔実はそうであろうが……〕。だが,そのたぐいのことしか発想あるいは期待できない「貧しい精神」の持ち主しか,いまの日本の政治家にはいない。 旧大日本帝国の時代に「大和魂の発揮」を臣民に期待した政治家の本心と五十歩百歩なのが,〈彼ら〉の抱く「時代錯誤の愛国心」である。 『第2次大戦までの愛国心』と『グローバル化の進展した現代における愛国心』が同じものでありうるわけがない。 会社企業が国境を超えて,ドンドン合併し活動する時代である。日本における国際結婚は,アジア人の配偶者を中心にすでに5%に達している。愛国心をもつことじたい悪いことではない。しかし,他国家・他民族を一方的にみくだし,自国家・自民族の卓越‐優秀性だけを高揚させるような愛国心は,時代遅れである。 君が代を斉唱し,日の丸に敬意をしめせば国際人になれる,国際的なルールを身に付けられるなどと盲信し,この理屈を絶対化する感性は,国際的な普遍性も妥当性も有しえない〈単なる思いこみ〉でしかない。国歌‐国旗を日本のようには強制していない先進諸国がいくらでもある。 先進国的な人権擁護に関して,まともな法的意識のある国々では,人びとの内心の自由を侵すことになるような指導‐強制はおこなっていない。 世界史的に高尚な次元=普遍性への目線を有しえない「愛国心の形骸的・没論理的な強制」は,狭隘な愛国心を日本的精神をもって強制した敗戦前のやりかたと同じである。日の丸・君が代に対する疑問や反対の意志表明を絶対に容認しない国旗‐国歌の強制は,民主主義の基本精神に反するだけでなく,それを育てることにもならない。 小泉の靖国参拝は,「過去を正当化することによって現在に生かすことを,意図しているのだ」(池田浩士『虚構のナチズム』人文書院,2004年,16頁)といわざるをえない。 西川重則『「新遊就館」ものがたり』(いのちのことば社,2003年)は,靖国神社をこう批判する。 靖国神社の本質は,敗戦後の宗教法人靖国神社が戦前戦中の国家管理のときと異なっているのは,まさに外面だけであって,その内実はなにもかわっていない。戦前戦中の靖国神社はまぎれもなく,軍事施設としての靖国神社であった。 敗戦直後最後の「臨時大招魂祭」に,長いあいだ大元帥陛下であった「昭和天皇」が新制定の天皇服を着用し,戦死‐戦病死した人々に「親拝」した祭典は,どんな性格のものだったのか。 敗戦すなわち無条件降伏後の祭典であり,「英霊」「神霊」「祭神」などとよばれている戦死者・戦病死者も,再び戦没者遺族にとって,「神霊」「国の神様」から遺族のもとに帰る自由が与えられる第1歩を意味する臨時の祭典ではなかったのか(23頁)。 ところが,現在国家元首である小泉が靖国参拝によって表現しようとした宗教精神は,上述において西川重則が批判した靖国神社の「軍事施設としての国家神道」性の誇示である。 これから「普通の国」になりたい日本は,自衛隊を海外に派遣する機会を増やすだろう。そうなると軍隊の任務に「死」は必然的なものであるから,その事態にいまから備えておかねばならず,その「死をうけいれる追悼施設である靖国」神社の存在意義を高めておく余地がある,ということになる。 学校教育の現場での『国旗掲揚に敬意を表わし,国歌斉唱→心をこめて歌え!』という有無をいわせぬ指導=強制は,まず形式的・外面的に,つぎに精神的・内面的な姿勢においても,黙ってしたがうことを強要している。 教育をする場所においてそのように,人々の「思想・良心・信条の自由や多様性」を絞め殺そうとする教育当局の意図は,時代錯誤どころか民主主義の基本精神に反するものである。 国家に対する愛国心を無理やり強要し育てたとしても,文字どおりに愛国的な国民‐市民‐住民が登場したと考えるのは,幻想であり妄想である。その歴史的証左は,過去の出来事のなかにも数多く記録されている。
問題の焦点は,国家の象徴であるとされる天皇‐天皇制にみいだすことができる。君が代が誰の「詩(うた)」であるかは,解釈の余地が残るような問題ではない。 日本の国旗は,戦前‐戦中と同一のものをそのままに使用している。この国において,戦争責任に関するまっとうな反省だとか自責の念などは,ほとんどないのである。小泉純一郎の靖国参拝は,まごうことなく,そのひとつの行動的な証拠である。 第2次大戦後に生まれた世界史的情勢「東西対立の構造:冷戦の時代」は,帝国主義時代に旧日本帝国がおこなってきた「侵略と戦争の責任」をあいまい化させ,その記憶をはるか彼方に追いやることができた。 1950〔昭和25〕年6月に勃発した隣国の戦乱は,日本経済に起死回生・千載一遇の契機をもたらした。日本は,1955〔昭和30〕年までなしとげた経済復興の実績をみて,「もはや戦後ではない」と宣言することができた。 しかしその時点でも,自国がうけた戦争被害の傷跡はまだいくらでも遺されていた。〈大戦〉で被った大惨害のすべてを,戦後10年やそこらで消しさることができたわけではない。筆者は昭和30年代後半,東京都江東区で,戦争被害の痕跡を残した焼けビルで生活をする貧しい人びとをみたことがある。 ドイツのばあい,紆余曲折をみせながらも,ナチス時代に関する反省や自責の念を,真摯な態度で隣国や周辺諸国に対してしめさねばならなかった。それにくらべると,日本の戦争責任問題に対する内省・洞察は,「神として頂点に君臨した最高責任者」から「下々の一般臣民」まで,かぎりなくカラッポに近いものであった。 「経済大国」の風格にそろそろ陰りをみせはじめた日本である。これからも,アジアにおいて政治的な指導力を確実に発揮できるかどうか,おぼつかない面もある。 経済力は政治力の基礎である。また,戦争とは「他の手段をもってする政治の継続である」(クラゼビッツ Carl Phillip Gottfried von Clausewitz : 1780−1831 )といわれる。至言といえよう。 「経済→政治→戦争という因果関連と循環構造」は,国際政治において基本的に考慮されるべき「問題の要因と基盤」である。経済力がなければ政治力は容易に発揮できないし,さらには,戦争遂行力=実力も涵養されえない。 大東亜〔太平洋〕戦争に負けた旧大日本帝国の実態を想起してみればよい。戦争に負けるまえに政治交渉に失敗した。そもそもその以前の問題として,経済力の昂揚〔つまり,国家総合力→生産力拡充→生産増大→戦力増強〕においては,米‐英‐ソなどに対して勝負にならないほどの低い水準でしかなかった。 話を現在にもどそう。ダントツの実力を有するアメリカ軍は別格にして,「平和憲法」をもちながらも世界第4位の軍事予算を費消している自衛隊は,これまで,旧大日本帝国時代の軍隊のようにその戦力を使いまわすわけにはいかない事情があった。 とはいっても,有事関連3法案の成立〔2003年6月〕によって日本の自衛隊は,いよいよ,アメリカ軍の下請部隊たる位置づけを明確化するにいたった。以前より,アメリカ〔軍!〕の手先:しもべでしかなかった日本国の自衛隊が,その国際政治的・軍事同盟的な性格を,より明白に固定化したのである。 アメリカ軍の尻尾につながって作戦行動する日本国の自衛隊は,アメリカ帝国の世界支配にお手伝いをする意志をこのたび,いっそう明らかにしえたのである。経済力の衰えはじめた日本であるが,戦争をすることが本来の目的である軍隊=自衛隊をアメリカの援軍に差しむけることによって,これまであまり発揮できなかった自国の政治力〔他の手段をもってする政治の継続〕も,同時に行使したいかのようにみえる。 経済力における衰退・低下の傾向を,軍事力の行使・発揮によっておぎない,政治的な交渉力の退化に歯止めをかけようとする日本政府の意向が透けてみえる。ただし,日本政府のその意向はひたすらアメリカを意識したものであり,近隣アジア諸国への配慮を欠いたものである。
●−3 21世紀における「幻想の超大国:日本」
10年以上まえ,デイビッド・ハルバースタム『幻想の超大国−アメリカの世紀の終わりに−』(講談社,1993年)は,アメリカに関してつぎのように分析したが,いまでは攻守ところをかえて,ほぼ日本に当てはまるものになってしまった。 以下において「アメリカ」は「日本」に読みかえられ,逆にまた,「日本」とは「アメリカ〔など〕」に読みかえられるべき文章である。
−−上述で“ブッシュ”とはもちろん,現アメリカ大統領のパパさんのことである。 いまとなって日本は,産業経営の次元において好調な業績を上げつづけている一部の会社をのぞき,多くの会社が非常に苦しい運営を強いられている。そして,国家財政の次元では実質的に「債務国に転落し,国際競争力をうしなった」も同然である。 1990年ころまでは第1位を堅持していた日本経済の競争力が,最近では20番台に低迷している。 したがって,今後においてアジア諸国に対する日本の影響力も,その経済的地位の低落に応じて漸次低下していかざるをえない。 日本政府の財政・金融当局においてはいずれ,日本国民の蓄積してきた〈虎の子〉の資金・資産を担保にとりあげるかたちをとり,二進も三進もいかなくなりつつある〈自国債務の償却〉を一挙におこなう暴挙の可能性が大である。 日本国の住民は,自分たちの保有する預貯金を国家に詐取されたり減殺されたりすることのないように,ぜひともいまから防御策を講じておく必要がある。 日本経済の低迷・混乱は必然的に,国家や地方自治体の行政業務におけるサービス提供の質を悪化させる。そのことは,年金問題の推移をみれば明白である。 しかしながら,国内外における時代的にそういう困難な状況のなかで靖国神社参拝にこだわり,近隣諸国の憤激をよびおこす行為を度重ねておこなう「日本国の首相」は,まさしく愚者である。 19世紀末葉より20世紀前半,欧米帝国主義国路線の真似を必死にしてきた日本帝国は,日清‐日露戦争などをしかけ,アジアの諸国を侵略しつづけてきた。日本帝国は台湾や朝鮮を植民地として手中にし,さらに中国に戦争をしかけて属国の「満州国」をつくるなど,支配地域をさらに拡大してきた。 われわれは,日帝によるそうした侵略の道程にからんできた「先進の欧米帝国主義国」の関与,いいかえれば,日帝を応援したりあるいはその足を引っぱったりしてきた〈英米帝国主義の実像:利害〉をしかと記憶しておかねばならない。 ともかく日本は,敗戦の憂き目をみた。 −−さて,日本外務省は「日本のFTA戦略」(2002年10月発表)のなかで,「経済的連帯と政治的連帯とは表裏の関係にある」と述べていた。 だが今後,日本の経済力の低下が予想されていながらもその反面で,政治的力量を付けなければならない大事な時期にもかかわらず,小泉首相はあえて,アジア諸国の友好関係に水を注す行為:「靖国参拝」をおこなってきた。 もちろん,小泉が靖国参拝に執着する事情には,個人的に彼が抱く〈日本人としての宗教的な,漠然とした素朴な信念〉の裏づけもある。だが,もっとも肝心なのはそれが,自分を自民党総裁に選んでくれた「前述の支持団体」の視線・利害を最優先する,意識的な演技だったことである。これが一番注目すべき点である。 荒井利明『ASEANと日本−東南アジア経済圏構想のゆくえ−』(日中出版,2003年12月)は,経済と政治との深い関連をこう説明している。 経済は政治をかえる。FTA,そして経済統合は対立の緩和,解消に役立つ。EUにおける独仏関係が象徴的である。しかし,そこには政治的意思が不可欠である。日本は東アジアにおいて,経済統合,そして東アジア共同体の形成に向かって,イニシアチブを発揮すべきである。必要なのは,それを選択することであり,そのための政治的意思である(243頁)。 経済が政治をかえ,FTA:経済統合が東アジア地域の安定に寄与する。東アジア共同体の形成のために,日本の政治的な率先が期待されているといわれているにもかかわらず,これに反するほかない「神道」宗教的な行為=「靖国参拝」を毎年おこなうという愚挙を,小泉純一郎はおこなってきた。 かくのごとしであり,この国:日本の小泉純一郎という首相は,国内における自分の政治家的な利害関係だけを,近視眼的に尊重している。東アジア地域の経済的発展や政治的な協調関係の形成‐発展よりも,自身が獲得した権力の座に執着してきたのである。 なかんずく,小泉純一郎は自分の立場‐利害しか考えていない。この首相は,東アジア全体において日本が発揮すべきリーダーシップに考えが全然およばないのである。これでは,日本外務省が日本のFTA戦略を介して期待するという「経済上や政治外交上のメリット」はもとより,東アジア諸国間の「政治的な信頼感」はとうてい実現不可能である。 要するに,日本政府の政治外交戦略にはもともと〈戦略〉とよぶにふさわしい構想・策術がない。わけても,その具体的な戦略策定以前にあるべき,日本国の基本的な「政治外交理念」が不在なのである。 現状のような日本でありつづけていたらいずれ,東アジアから干され相手にされなくなるかもしれない。好業績の日本企業は意欲的に海外に進出し,製造‐営業するようになっている。日本国内だけで営利活動をつづける会社は,それなりに事由のある業界に属しているゆえ,国外に進出する必要のないものである。 日本社会においては少子‐高齢化社会の様相がいっそう深まり,その事情にうまく対応できた業種‐会社以外は,IT関連産業はさておくとしても,顕著な企業成長を望めない経済事情がある。 日本の経済社会は,北欧型の高福祉社会を構築しつつ産業活動も活発化するための方策を,的確にしめしえないでいる。そうした状況に並行するかのように人々の気持はすさみ,社会は安定性をうしない,政治に対する不信感や無関心もあらわなのである。 日本国民はいまや,日本の政治に向かって「大胆な政権交替」を要求したり,日本の経済‐社会に「劇的な変革」を起こさせたりするという気持を,ほとんど喪失したかのようでもある。あたかも,自然死を待つかのようにズルズルと「自国の現状:体たらく」=衰退に身を任せるばかりであり,その無気力・無意欲は絶望的,悲劇的とみなしてもいいほどの段階に達している。 そうした世の中の情勢のなかで代表的には,石原慎太郎都知事や安倍晋三自民党幹事長のごときポピュリズム〔大衆迎合〕的な政治家の「臭い演技(パフォーマンス)」が日本庶民の煽情的要素によく訴え,没論理的・反合理的な観念的反応をよびおこす図式ができあがっている。 石原慎太郎や安倍晋三は,北朝鮮のような拉致事件を起こしてきた3流国家を絶好の非難‐攻撃の対象にすることにより,日本社会全体に重くのしかかっている「欲求不満:心理状態」を自浄する働き(catharsis)をはたし,なんとなくうっせきしているウップンを晴らす役割も演じている。
北朝鮮による日本人拉致事件の構図が明らかになる過程で,拉致被害者支援組織の関係者からは,これで植民地時代の「借りは返した!」と発言する人士もいて,日本人がわにおける問題理解の浅薄さを露呈させている。 いわゆる「中国残留孤児」問題は数千人の単位で存在するが,彼らが日本に「帰国」してからの生活実態は,実にみじめなものである。日本政府が彼らに提供してきた受入態勢はきわめて貧弱であり,当初において熱狂した日本での親族捜しの雰囲気は,いまや昔物語となっている。 最近報道された関連の記事を,つぎに紹介する。
なおその後,小泉首相が再び北朝鮮を訪れ金 正日総書記と会談をおこない,拉致家族の「北朝鮮生まれの子どもたち」も,日本に帰国(?)することができた〔2004年5月22日〕。拉致被害者が北朝鮮在住していた期間に出生した子どもたちが日本にきたのである。 2004年5月下旬,その子どもたち:在朝日本人2世については,かつて中国残留孤児の肉親捜しのときに展開されたのと同じように,あるいは,ときおりマスコミ報道に出現する皇室関係の報道のように非常に詳細な報道がなされている。 要するに日本は,帝国主義時代に自国がためこんだ自身の負債すらろくに清算できていない。北朝鮮に小泉首相が2回もいったのは,日朝国交正常化という本来の任務があったことを忘れてはならない。 ましてや,他国に与えた天文学的単位で甚大な被害を「数十人あるいは百人(?)」単位の拉致被害者の事実によって相殺できるなどと断定するのは,どうみても噴飯ものの話である。 仮りにそう相殺することにしたとしても,その差額が計算できるならばそれをきちんと数値化しておくべきである。いくらなんでもその数値に接したら〔完全に厳密な数値化が不可能であることは承知のうえでの話だが〕,「借りは返した!」などという倒錯の暴論は撤回せざるをえない。 わかりやすくいえばそれは,過去において日本帝国主義がアジア諸国に与えたとてつもない惨禍:戦争犯罪=「1000兆円の借金」を,「10万円出す〔返す〕」から棒引きにせよ,といっているような「虫のよすぎる話」である。いうなれば,冗談にもならない悪質で身勝手な,我田引水,牽強付会なのである。 ちなみに,すでに3世・4世の時代にもなっている在日韓国・朝鮮人,在日中国・台湾人の生活と人権に対面してきた日本政府の処遇は,その出自の「静かなる消滅」を期待するばかりであって,まともな共生‐共存の社会構築をほとんど否定してきた。 実は,その「静かなる消滅」が結末を迎えるまえにこの日本の地には,新しい対応を迫られている「新来外国人」の問題が噴出している。戦前から日本に定住してきた韓国・朝鮮人,中国・台湾人などの人口の割合は,全外国籍人の4割を切っている。 日本は,歴史上の各種繰り延べ債権を負の成果としてあれこれと背負いこみ,いまさらながらのようにその克服を迫られている。 とはいえ,拉致被害者家族に対するような日本政府の姿勢が,中国残留孤児や在日外国人2世以下の処遇に対してもわずかでも反映されるならば,こちらの問題の解決はもっとたやすかったはずである。 たやすくない問題はむしろ,日本政府内に隠蔽されている排外‐差別精神のなにものかであり,しかも,それがいったいなにに原因するものなのかということである。 −−2004年5月27日の衆議院本会議で,難民認定のありかたを抜本的にみなおす「出入国管理及び難民認定法」の改正案が可決された。1982年に「出入国管理及び難民認定法」という名称になってから,はじめての制度改正である。 日本における現行の「出入国管理及び難民認定法」は,先進諸国の難民認定法にくらべ認定数がはるかに少なく,手続の中立‐公平性に疑問があると国内外から批判があった。このため,不認定への異議の審査に民間有識者が参与員としてかかわり,判断に客観性をもたせることにしたと説明されている。 2003年まで日本が認定した難民は,たった315人である。今回の改正は,2002年中国・瀋陽の日本総領事館に北朝鮮からの脱出者が駆けこんだのに保護しなかった事件がきっかけとなった(『朝日新聞』2004年5月27日夕刊参照)。 過去における日本の難民認定総数は315人だというが,ドイツはある年に40万人以上もの「難民庇護申請」をうけ,またある年には「条約難民:2万4〜5千人」をうけ入れてきた。 ドイツに代表されるヨーロッパ諸国のそうした難民受入の実績に比較すると,この国:日本はまるで,難民を「害国人」とみなしているかのようである。 法律をかえたのだから,この国の「難民うけ入れ数が急激に増える」と期待してよいのか。「不認定への異議の審査に民間有識者が参与員としてかかわり,判断に客観性をもたせることにした」とされているが,参与員=民間有識者が入れば「判断に客観性をもたせること」ができるという根拠はなにか,はっきりしない。 要は,この国が難民認定を積極的におこなう方向性で,その基本的な政策を転換する意向があるのかということである。 難民認定ではなく,不認定に客観性をもたせるために「参与員=民間有識者がかかわる」という理屈なら話はわかりやすい。だが,不認定をくつがえす可能性に道を開くかたちをとって,「出入国管理及び難民認定法」の改正をしたというのであれば,この国関係当局の常套手段である「オタメゴカシ」である可能性のほうが大きい。 ましてや,今回において出入国管理及び難民認定法「改正」のきっかけになったという,中国の瀋陽で起きた朝鮮人〔朝鮮民主主義人民共和国〕「公民」の〈日本総領事館への亡命事件〉に関連させて考えると,日本国が一番嫌いなその国の人びとをうけ入れるための法律改正とは思えない。なにかずいぶん皮肉な側面もある改正だと感じないわけにいかないのが,今回の同法改正に関する法務省の対応である。 日本は,外国人を亡命させ国内にうけ入れることを,極度に嫌がってきた。それなのに,法律の手直しをしたからといって,この国が「難民受入」数を一挙に増やすわけがない。 なにせ,日本が1982年以来,うけ入れた難民の数が315人である。 315人÷22年=は,1年あたり何人か? 14. 32人,である。難民はうけ入れない国だと宣言しているみたいな数値である。難民がこの日本に入国できるということは,僥倖に属することかもしれない。 ジパングなる国:「ジャパン」で難民に認定され入国できるのは,夢のような幸運〔皇運?〕なのであろうか? もっとも,いままでの実績からいっても日本は,難民に「人気のある国」ではない。以心伝心,である。 ところで日本は,今回における「出入国管理及び難民認定法」の改正後,毎年100人ずつでもいい,難民をうけ入れることにすれば,もう画期的といっていいほどその数を増やす結果になる。 つまり,今回の法律改正が日本における難民認定に大きな変化をもたらし,日本も相当多くの難民をうけ入れる,難民問題に理解のある国になりそうだ,といえなくもない。 ただし,それもあくまで,皮相な「善意的解釈」の域を出ない。そのことは,上述の数値計算〔割り算によれば毎年14人だったが,1桁上げて100人に増える!〕から判断しても贅言をまたない。 21世紀のいま,もしもこの日本という国が毎年100人の難民をうけ入れるようになったら,遅きに失した感も強いけれども,世界にどのように評価されるのかということである。
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◆ 2004年5月30日 記述 ◆