科学的管理法と『秋田魁新報』
−日本陶器 社内報『さきがけ』との関連性について−
裴 富吉
Had an Article about the Scientific Management
written in the Japanese Newspaper ?
by BAE Boo-Gil
T 日本陶器社内報『さきがけ』 |
U 日本陶器『さきがけ』と『秋田魁新報』 |
V 推理したある結論 |
断わり:本稿は『大阪産業大学経営論集』第2巻第3号,2001年6月に掲載された同名の論稿を一部割愛・変更し,ウェッブ形式に編集,転載したものである。注記は巻末にかかげた。 お願い:本稿の引照は基本的には,上記『経営論集』の参照を乞いたい。本ホームページからの引用などをおこなうばあいは,その旨「学術的なルール」に準拠した方法を採ることを願います。 |
T 日本陶器 社内報 『さきがけ』 |
佐々木聡『科学的管理法の日本的展開』(1998年)の,第1章「科学的管理法の導入」第1節「文献知識の導入と普及」は,関連する時代の事情をつぎのように説明する。 日本へ科学的管理法の知識が導入されたのは,1910年代初頭〔明治末年から大正初期〕である。そのさい,体系的管理 ( systematic management ) の諸手法や,ごく大雑把だが事務管理のそれもふくめて,包括的に伝えられた。こうした文献知識の導入は,早期的かつ網羅的であった。 1910年代半ば以降,そうした流れから生成した「人間工学」の概念や労働科学の理論が紹介され,国内でもみずからの実験にもとづいて,それらの諸原則を体系化,精緻化する試みがみられた。このころには,C.B.トンプソンやH.L.ガントらの文献の翻訳書も出版されるようになった。 1910年代後期から20年代初頭〔大正後期〕になると,それまで紹介された科学的管理法をめぐる諸原則や諸手法の知識は,教育機関における講座の開講や専門雑誌の発行によって,広く普及させる動きが活発になるともに,それらの諸原則や諸手法を実践にうつす動きがみられるにいたった。 科学的管理法が日本に導入される過程で登場した担い手は,おおむね3つの類型に識別できる。 @「管理規範論型」……星野行則,池田藤四郎,上野陽一,時国理一,麓 三郎。工場生産・事務的作業とははなれた立場にあって,科学的管理に関する知識を導入し,合理的な管理と組織および労使関係管理のあるべき姿を模索した類型。 A「事務管理実践家型」……鈴木久蔵,金子利八郎。事務的作業に従事しながら,科学的管理手法の必要を認め,これを導入した類型。 B「労働者管理重視型」……神田孝一,暉峻義等。実践的かつ合理的な工場管理の手段を研究する過程で,科学的管理の実際的手法を導入した類型。生産管理実践型。 −−1920年代後期〔昭和初期〕以降,本格的に展開される日本の科学的管理運動のなかで,@とAの類型の人々の多くは,日本能率連合会を主軸とする運動の担い手となっていく。またBの類型の人々は,ほかの導入の担い手もふくめて,日本工業協会による実践的手法の普及運動の推進者となっていく1)。 つぎにいきなりかかげる表1は,大正2〔1913〕年4月以降,日本陶器の社内報『さきがけ』に掲載された「科学的管理法関係の記事見出し〈一覧〉」である。 なお筆者は,『日本陶器七十年史』(昭和49年)において,この表1のように項目だけが簡単に紹介されていたものを,その現物すべてに当たってしらべ,詳細な「見出し」一覧を作成した。これについては〔表1の備注にもしるしたとおり〕,本稿の初出「論稿」にさかのぼっての参照を乞いたい。 |
題 名 お よ び 原 著 者 | 寄 稿 者 | 初 回 | 終 回 |
福利増進の妙法(無駄を省くこと) | 伊勢本一郎稿 | 大正2年4月 | 大正4年2月 |
労働工程の研究(アメリカン・エンジニアリング所載) | 雲 州 生 訳 | 大正3年5月 | |
労働功程の研究(H.エマルソン述) | 伊勢本一郎,雲州生訳 |
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人体機械 | 米店 小林生 |
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自動的監督機械(如何にして機械が作業を監視するか) −ファクトリー4月号− | M.I 生 |
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功程増進の原理(C.E.ノッペル所説) | 石 川 生 訳 |
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效程問題応用法(C.E.ノッペル述) | 伊勢本一郎,石川次郎,雲州生,石田重喜知訳 |
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働作賃銀及利益論(H.I.ガント述) | 岩田恒次郎訳 |
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米国に於ける科学的管理法実施応用の経過状況 | 雲 州 生 |
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能率増進法の例証(B.A.フランクリン述) | 石川次郎訳 |
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間接費の整理法 | 米店 小林生稿 |
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能率増進研究法(如何にして作業時間を研究すべきや)−(C.E.ノッペル講演要旨)− | 米店 小林生訳 |
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效程算出法に就て | G.I.生稿 |
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能率増進の心理的研究(F.ミュンスターベルク所説) |
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出所)『日本陶器七十年史』日本陶器株式会社,昭和49年,216頁。 備注) 原表どおりに引照したが,明らかなまちがいは訂正した〔朱記〕。本表のさらにくわしい内容一覧は,『大阪産業大学経営論集』第2巻第3号,2001年6月,59‐62頁〈原表〉→表1「社内報『さきがけ』に掲載された科学的管理法関係の記事」にもどって参照されたい。 |
−−本稿は,大正2〔1913〕年4月,日本陶器の社内報『さきがけ』第62号より連載された「科学的管理法関係の記事一覧」の歴史的な含意を吟味するものである。 明治37〔1904〕年,それまでの関連事業の蓄積を生かして日本陶器合名会社が創立される。昭和6〔1931〕年,同社は日本陶器株式会社となる。昭和56〔1981〕年,日本陶器株式会社は名称を,ノリタケ カンパニー リミテド へ変更する。 明治40〔1907〕年5月,日本陶器は会社の機関誌として『さきがけ』を創刊する。この社内報は「さきがけ」の文字にみられるように,斯界のさきがけ,進取の気概にあふれる編集方針をもって,同社の歴史と明治‐大正‐昭和の時流を伝えるものである。ことに明治末年から大正初年の社内では,科学的管理法の学習が盛んにおこなわれ,これが『さきがけ』誌上に登場したのは,大正2〔1913〕年4月発行の第62号からである。その基調は労使共栄,合理的精神の育成にあって,作業に対する考えかた,作業のすすめかたなどを中心とする寄稿である。 表1で冒頭62号の寄稿者伊勢本一郎は,「福利増進の妙法(無駄を省くこと)」を,大正4〔1915〕年2月まで連載した。内容は単なる科学的管理法の理論の紹介に終わらず,会社の仕事と実例に即している。伊勢本は,“efficiency”〔能率〕の訳語に困ったと後年に述べているが,これを「效程」と訳している2)。 日本における科学的管理法の導入問題を理解するうえで,日本陶器の社内報『さきがけ』は,帰納的な裏づけを提供する歴史上の一事例になると同時に,演繹的な根拠をさぐるにも適当なそれである。大正時代の前半より,進取的で意欲に富む日本の会社では,科学的管理法や能率増進法の摂取,受容,解釈,応用,実践が盛んにおこなわれたのである。 明治末期より大正年間にかけて日本の事業経営では,工場や鉱山の経営管理,銀行や商店の執務運営において,科学的な工場管理・事務管理を率先して導入し,顕著な成果を挙げた会社がある。宇野利右衛門は,つぎの模範工場の事例を紹介している(間 宏監修・解説『日本労務管理史資料集 第2期宇野利右衛門著作選 第9巻模範工場集』五山堂書店,1989年参照)。 『模範工場日光電気精銅所』工業教育会出版,大正3年。 世界大恐慌がおきた翌年発行された,報知新聞経済部編『能率増進時代−産業の新経営法−』(千倉書房,昭和5年3月)は,序のなかで,「産業合理化と能率増進とは欧米産業界を風靡し,今や不況に悩んでゐるわが産業界にも漸く重要視さるゝに至った」と述べ,以下のような内容を編んでいた。 ・銀行経営と能率増進 ……日銀副総裁 深井英五 欧米とくに,アメリカ科学的管理法の理論と実際に多大な関心をむけ,厖大な業績を挙げてきた日本の経営学界である。だが,自国における工場管理の歴史的展開を真正面よりとりあげることはすくなかった。筆者のしるかぎり,日本経営史の観点からする実証的な研究はともかく,日本経営学史の問題次元に乗せてその理論的な意味関連を摂取しようとする努力は,皆無であったといえる。本稿の関係でいうと,日本陶器が宇野利右衛門に着目されなかったことを,筆者は残念に感じている。 日本陶器は,合名会社として法人化する以前より長期間,陶器関係の事業を推進してきた。『日本陶器七十年史』によれば,欧米の製造技術に学ぶことにとりわけ熱心であった同社は,F.W.テイラーの科学的管理法に実践的な価値を認める時期も非常に早かった。日本陶器は,社内報『さきがけ』に関連する記事を連載すると同時に,工場管理の現場で実際にそれを導入し活用する意欲が高かったのである。 間 宏監修・解説『日本労務管理史資料集 第1期第8巻 科学的管理法の導入』(五山堂書店,1987年)に収録された,安成貞雄「科学的操業管理法の神髄」『実業之世界』第8巻第6号,明治44年3月は,当時における日本の工場管理に関してこう言及していた。 思ふに,日本の工場管理監督法の中には,新制度中の工夫と類似したもの,若しくは 同一のものが在るであらう。然しながら,之れを以て新制度を研究せずして,之れは陳 腐であると云ふが如き結論に急がず,公平に斯法を研究し,日本の実際の事情を斟酌して,之れを自分等の工場に適応せんことを望む3)。 |
U 日本陶器 『さきがけ』 と 『秋田魁新報』 |
筆者が注目するのは,佐々木聡『科学的管理法の日本的展開』に言及されていた,つぎのことがらである4)。 明治44〔1911〕年の『魁新聞』に,池田藤四郎により科学的管理法を紹介する記事が連載されたのが最初という説もあるが,確認できていない。佐々木の調査によれば,明治期に発行された新聞のなかで『魁』という紙名の新聞は, @ 大阪の魁新聞社発行の『魁新聞』 の3紙がある。このうち,大阪魁新聞社の『魁新聞』は,1881〔明治14〕年に廃刊になっている。 奥田健二は,『秋田魁新聞』に池田藤四郎の連載記事が掲載されたとしているが5),同紙に科学的管理法に関する記事はみあたらない。のこされた可能性は『東京魁新聞』が考えられるが,本紙の所蔵がほとんどなく,その有無を確認できない。 佐々木よりさきに間 宏は,上野陽一編『新版能率ハンドブック』(技報堂,昭和29年)に言及のある6)「池田藤四郎の連載記事」は,『サキガケ新聞』についに発見できなかったと断わっている7)。 さて筆者が,日本陶器の社内報『さきがけ』に,大正2〔1913〕年4月以降掲載されていた「科学的管理法関係の記事一覧」を目にしたとき,思いあたったことが,以上に関説された上野,間,奥田,佐々木ら(年代順)の指摘である。 そこで,こういう疑問が生じる。 1) なぜ,「魁(さきがけ)」という名称を付した当時の諸新聞に,「池田藤四郎が科学的管理法を紹介した記事」が発見できないのか。 2) いままで,日本陶器の社内報『さきがけ』に「連載されていた」「科学的管理法関係の記事」は,斯学界にくわしく紹介されたことがない。 3) 池田藤四郎が『サキガケ新聞』〔上野陽一の記述・表現〕,『秋田魁新聞』〔奥田健二の指摘・記述〕に「科学的管理法を紹介したとする記事」は,1911〔明治44〕年に掲載されたものだというが,日本陶器社内報『さきがけ』に掲載された「科学的管理法関係の記事」は,1913〔大正2〕年4月以降に連載されていた。こうした出来事にみられる近接した時期関係を,どううけとめればよいのか。 4)『日本陶器七十年史』は,明治末年から大正初年の同社では科学的管理法の学習が盛んにおこなわれ,その成果として,社内報『さきがけ』に「科学的管理法関係の記事」の寄稿がなされたことを記述している8)。 池田藤四郎『無益の手数を省く秘訣』は,奥田健二・佐々木聡編『日本科学的管理史資料集 第2集 図書篇第1巻 初期翻訳書・翻案』(五山堂書店,1995年)に収録されているが,その版は,大正4年3月15日実業之世界社から発売されたものの複製である。池田の同書は,この版までなんと150版を増刷していた。その間,約5.2日の間隔で増刷をつづけてきたことになる。 筆者の所蔵する昭和4年5月20日発行の同書は,題名を『能率増進無益の手数を省く秘訣訣』とし,マネジメント社調査部から発行されている。本文の頁数は,大正2年版の 141頁から291頁に増えている。同社が昭和4年12月に刊行したある本の巻末広告欄によると,同書の頁数はさらに340頁に増えている。 間 宏は,つぎの2点を指摘している。 @ F.W.テイラー・システムの紹介である,池田藤四郎「無益の手数を省く秘訣」と題した通俗記事は,『東京魁新聞』に掲載されたのではない。池田藤四郎のペンネームと推測される安成貞雄の,科学的管理法関連2稿が『実業之世界』(明治44〔1911〕年)に掲載されている。 A 単行本となった池田『無益の手数を省く秘訣』は,まず東京魁新聞社から〔同社,黄色叢書第1編,大正2年初版〕発売されている9)。 −−結局,日本陶器社内報『さきがけ』第62号(大正2年4月)以降に掲載された科学的管理法関係,とくに最初の寄稿文である伊勢本一郎「福利増進の妙法(無駄を省くこと)」の掲載は,大正2年1月28日刊行の池田藤四郎『無益の手数を省く秘訣』におおきな影響・刺激をうけていたことを推測させる。 池田藤四郎『無益の手数を省く秘訣』初版大正2年には,日本陶器合名会社創設者〔社員5名〕10)の1人である森村市左衛門(明治37〔1904〕年1月1日〜明治41〔1908〕年4月13日,合名会社社員)など,計4名が序文を寄せている。池田の本書は,日本陶器に言及してもいた。 |
V 推理したある結論 |
筆者がこの小稿で追究する要点は,砂川幸雄『製陶王国をきずいた父と子−大倉孫兵衛と大倉和親−』(晶文社,2000年7月)を一読したさい,感得したものである。 現 潟mリタケ カンパニー リミテド は,日本陶器合名会社として創業された3年後の明治40〔1907〕年5月,会社の機関誌『さきがけ』を発行する。この雑誌の目的は,事業の方針を社内一同に告知し,事業に関する新知識を報道することで,この雑誌をもって当業に従事する人々の羅針盤とすることにあった。大正時代の前期〔とりわけ大正2年4月から4年2月まで〕,この社内報『さきがけ』に掲載された科学的管理法・能率増進法に関する記事には,「欧米最新の経営手法を活用しようという意欲が感じられる」11)。 学界にせよ実業界にせよ,大正幕開けの時期において科学的管理法を紹介する作業は,時代を〈先駆ける〉役割をになったことを意味する。 −−筆者はここで,ある推理をする。 上野陽一と奥田健二が,明治44〔1911〕年に『サキガケ新聞』,『秋田魁新聞』に連載された記事だとする「〈未確認=誤解の〉科学的管理法の関連記事」と,大正2〔1913〕年4月,日本陶器社内報『さきがけ』第62号より掲載された「科学的管理法関係の寄稿文」とのあいだには,なんらかの関連性があるのではないか,と。〈関連性〉ととらえるのが正確でないとするならば,なにかの事由によって「両者が混同された」のではないか,と筆者は観察するのである。 この点は,前節Uで関連する説明を若干おこなったが,以下さらに,正確に表現できる事実関係のみ列記しよう。 @ 池田藤四郎稿の通俗記事「無益の手数を省く秘訣」だと勘ちがいされたらしい,安成貞雄(池田藤四郎のペンネームか?)の科学的管理法関連2稿は,『実業之世界』明治44〔1911〕年に連載された。 A 池田藤四郎の著書『無益の手数を省く秘訣』は,東京魁新聞社から大正2〔1913〕刊行された。 B @とAがからんで,東京魁新聞社『東京魁新聞』に池田藤四郎「無益の手数を省く秘訣」が連載されたとする誤解を生んだ12)。ただし,上野陽一の表現は「サキガケ新聞」であった。 C Bは,上野のいう「サキガケ新聞」を「秋田魁新聞」(→正しくは『秋田魁新報』)に読みちがえる誤解も生んだ。奥田健二『人と経営−日本経営管理史−』昭和60年は「上野の記述にそのまま従っておく」と断わりながら,なぜかそのようにまちがった読みかえをした13)。 さて,上野陽一『産業能率論』(千倉書房,昭和4年)は,「日本における産業能率研究の発達」という一項のなかで, ・「1911(明治44)年,池田藤四郎著『無益の手数を省く秘訣』出版」 ・「1915(大正4)年,日本陶器株式会社『工程増進新研究法』出版」 と記述している14)。 日本陶器の刊行した著作『效程増進新研究法』大正4年は,本稿Tの前掲表1「社内報『さきがけ』に掲載された科学的管理法関係の記事」に一覧した内容のうち,大正2年4月から4年2月まで社内報『さきがけ』に連載された,ほぼ「同名の寄稿文」22編をとりまとめ公表したものと思われる。 なお,『日本陶器七十年史』(昭和49年)は,つぎのように関説している。 「わが社は早く,明治の末葉から能率問題を重視して研究をすすめ,『效程増進研究法』という解説書をつくりテーラー式科学的管理法の普及につとめたり,またタビュレーティングマシンの応用をさきがけるなどしていた。昭和4年(1929),テーラー協会日本支部長上野陽一の指導のもとに能率課を社内に設け,たまたま来日のアメリカ能率技師キング・ハタウェーを招き,実際的な立場からの工場管理について助言を求めた」15)。 この記述は,実業界において当時八面六臂の活躍ぶりだった,能率指導者上野陽一に触れている。その事実は,日本陶器の能率増進を指導した上野陽一が,『産業能率論』昭和4年〔「日本における産業能率研究の発達」〕に,日本陶器株式会社『工程増進新研究法』を記載した経緯を感知させるものである。 池田藤四郎執筆〔?〕「無益の手数を省く秘訣」は,『秋田魁新報』に連載されていなかった。それにもかかわらず池田の「無益の手数を省く秘訣」が,「日本陶器『さきがけ』の寄稿文」(→解説書『效程増進新研究法』)を触媒に,『東京魁新聞』(「サキガケ新聞」)あるいは『秋田魁新報』(「秋田魁新聞」)に連載されたと,関係論者たちがとりちがえて解釈し,前述のB,Cのように紹介したのではないか。 なかんずく,池田藤四郎という人物ならびに連載記事「無益の手数を省く秘訣」〔ただしその所蔵は不詳である〕が,そうした「関連性」のなかに核心として登壇する。池田の『無益の手数を省く秘訣』(大正2年1月初版)は,大正13年ですでに百万部余を売りつくすベストセラーであった16)。 上野陽一は第2次大戦後,『能率増進 無益の手数を省く秘訣』は「非常ナ 好評デ 数百万部ヲ ウリ〜ツクシタト イワレテ イル」と解説していた17)。 「科学的管理法関係の記事」を掲載した日本陶器合名会社社内報『さきがけ』であるが,同社創設者の1人である森村市左衛門が池田の『無益の手数を省く秘訣』に序文を寄せたことは,両者の近しい関係を示唆する。 筆者の推理は,歴史的・実証的な根拠を十分準備したものではない。単なる「素材寄せ集めだけの合成」にもとづく推理であり,今後さらに,議論を詰めるための実際的な証明が必要である。その意味で本稿は,覚書的な論稿である。推理小説には結末があるが,本稿にはまだない。 筆者はひとまず本稿の論旨を,つぎの表2に表現してみた。 |
【 注 記 】 |
1) 佐々木 聡『科学的管理法の日本的展開』有斐閣,1998年,17-18頁。 2) 『日本陶器七十年史』日本陶器株式会社,昭和49年,215-216頁。 3) 間 宏監修・解説『日本労務管理史資料集 第1期第8巻 科学的管理法の導入』五山堂書店,1987年,〔原文の複写頁で〕56頁, 4) 佐々木『科学的管理法の日本的展開』19頁,注(5)参照。 5) 奥田健二『人と経営−日本経営管理史研究−』マネジメント社,昭和60年,55頁。 6) 上野陽一編『新版 能率ハンドブック』技報堂,昭和29年,67頁。 7) 間監修・解説『日本労務管理史資料集 第1期第8巻 科学的管理法の導入』「解説」7頁。 8) 『日本陶器七十年史』日本陶器株式会社,昭和49年,215頁。 9) 間 宏『日本における労使協調の底流』早稲田大学出版部,1978年,155-156頁,168頁注4。 10) 日本陶器合名会社は資本金10万円で設立された。その内訳は森村市左衛門3万円,大倉孫兵衛2万5千円,村井保固2万5千円,大倉和親1万5千円,飛鳥井孝太郎5千円である。 11) 砂川幸雄『製陶王国をきずいた父と子−大倉孫兵衛と大倉和親−』晶文社,2000年,126頁,128頁参照。〔 〕内補足は筆者。 12) 間『日本における労使協調の底流』156頁。 13) 奥田『人と経営』78頁注2。ちなみに,上野陽一『能率学原論』技報堂,昭和30年にみられる関連の記述は,上野編『新版 能率ハンドブック』昭和29年のそれと同じである。 14) 上野陽一『産業能率論』千倉書房,昭和4年,96頁。〔 〕内は筆者。なお,当時の日本陶器は,まだ合名会社であった。株式会社となるのは,大正6年7月20日である。 15)『日本陶器七十年史』244頁。朱記の部分〔あいだに〕は「新」が抜けている。 16) 池田藤四郎『能率増進無益の手数を省く秘訣』マネジメント社調査部,昭和4年5月,農商務大臣政友会総裁高橋是清「序」参照。 17) 上野編『新版 能率ハンドブック』67頁。 |
2000年12月25日脱稿 『大阪産業大学経営論集』第2巻第3号,2001年6月20日掲載 本HP 2001年6月27日公表 |
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