● 2003年は冷夏となり,米作にも悪影響が出た。この年の春,東京都知事2期めに当選した石原慎太郎の影響も,日本という国にとって非常に悪い多くのものを,もたらしている最中(=現在進行形)である。
● しかし,今年の夏,ノンフィクション作家佐野眞一が好著を刊行した。それが,ここにその要点を紹介する『てっぺん野郎-本人もしらなかた石原慎太郎-』(講談社,2003年)である。
● 本書の特徴は,石原慎太郎の出生から説きはじめ,この男の素性までをくわしく分析した点にある。いわば,慎太郎の生い立ちからその経歴を今日まで追跡することによって,現在ある彼の本性を根本的に解明することに成功している。
● 本書から石原慎太郎の本質を指摘した個所を任意に引用しながら,--以下の議論をする。
1) 虚実をとりまぜながら,理想と現実を確信犯的に錯誤させて語ることは物書きの特権であって,政治家がその禁を犯したとすれば,とりかえしのつかない事態を現実に招くことになる(173頁)。
--この指摘は,「一流文学者」だと自称し,非常に高慢ちきな態度で「東京都知事の職位」に就いている石原慎太郎という男の危険性を正確に示唆している。
筆者もすでになんども指摘した点であるが,この男はすでに,「とりかえしのつかない事態」を着実に蓄積しつつある。
2) 余人をして絶対に敵わないと思わしめる慎太郎の自信と魅力がある。しかし,皮肉なことにそれが逆にアキレス腱となって,「成熟」を一貫して拒否してきた男特有の自己批評のなさや深みの欠如となって現われ,彼を政治家として大成させない理由ともなっている。これが私〔佐野眞一〕の慎太郎に対する基本的なみかたである(195頁)。
--けだし,この佐野眞一の「基本的なみかた」は至言である。
3) これはと惚れこむ相手には背伸びしてもぶつかり,そうでない相手は歯牙にもかけない。これを差別意識の表われととるか,正直すぎる対応ととるかで,慎太郎の評価は正反対に分かれる(203頁)。
--筆者のような在日外国人〔日本生まれの韓国籍の人間〕にとって,慎太郎がどのような人格と品性の持ち主に映るかは贅言を要しない。「差別意識」を丸出しにしてせまってくる人物がこの男だからである。評価などするわけがない。冗談ではない。
4) 一方で,早くから万能感と超人意識,そして強烈な自己愛の萌芽をみせた慎太郎は,他方で,いつになっても加齢と成熟をせず,大人になれない餓鬼大将の印象を慎太郎に刻んでいる。
そのナルシスティックでチャイルディッシュな感触は,安定感と寛容をいちじるしく欠くわがままと傲慢さの感触につながる。これは慎太郎を慎太郎たらしめている宿痾というべき独特のパーソナリティである(307頁)。
--筆者は,御山の大将,チャイルディッシュという形容を石原慎太郎に当てて論じてきた。同じ〔ような〕表現を佐野眞一がつかっているのを読んで,やはりそうかという印象であった。
5) 憎悪の感情が自分に向けられそうになると,魅力的な笑顔でそらす。無意識的過剰という評価とは裏腹のこうした神経の過敏さと気の小ささが,作家としても政治家としても,慎太郎をもうひとつ大成させてこなかった内なる理由である(334頁)。
--わけても,大口を叩くことが得意そうにもみえるこの男,実は小心者であり,神経質にも相当 コマッチャクレテイル
人間であることは,意外としられていない点である。
だからこそこの男,「マッチョ」を気どってその弱点をかくそうとする性癖がある。この程度の人間の根性をみぬけない日本在住の人びと,とくに慎太郎ファンたちが哀れである。
6) 慎太郎の論理の特徴は,自己を正当化するためなら,事実を自分の都合のいいようにねじまげてもかまわないと考える我田引水と夜郎自大の習性が,随所ににじみ出ていることである(366頁)。
--数々の差別発言をしたり「テロ容認発言」をしたりしたのちに,批判をうけるや,あれこれムキになっていいわけする彼の姿は,その「我田引水と夜郎自大の習性」をもののみごとに露頭させている。
7) 国会議員時代の大ウソ。……慎太郎は,最近,テレビなどで日中平和友好条約に反対したなどと発言しているが,それは大ウソで,土壇場で妥協して賛成にまわっていた(378頁)。
みんなバカにみえて,自分ひとりだけ松の上にとまった鶴みたいな気でいる。自分以外の他人はほとんどバカにしかみえない慎太郎の唯我独尊的な体質は,危惧の念を抱いてみるべきである(379頁,413頁)。
--要は,口からの出まかせが多く,他人をバカあつかいしたうえ,平気でウソをつくのがこの慎太郎である,という点を忘れてはいけない。
8) 1975〔昭和50〕年の屈辱・汚点。……東京都知事選に立候補した慎太郎は,美濃部亮吉に敗けた。233万票対296万票だった。
これまで敗けというものをしらず,順風満帆でやってきた彼の人生のなかで,唯一の汚点であり,けっして忘れることのできない屈辱だった。
1999年3月,慎太郎が“後出しジャンケン”といわれながら都知事選への出馬表明をしたとき,長男の伸晃は「父の頭のなかには,都知事選に落選した24年まえから一貫して都知事のことがあった」といった。このことばほど,慎太郎の心中をいい当てたものはない(389頁)。
慎太郎のなかには,美濃部に敗れたコンプレックスがいまだつづいている,ということもできるかもしれない(444頁)。
--都知事選で美濃部亮吉に敗けたことは,トラウマとして慎太郎の記憶を悩ましつづけていたのである。したがって,1999年にあらためて都知事に当選したことは,本当にうれしく,喜ばしいことだったにちがいない。
9) 1975年の都知事選での敗退後,支援者たちに電話の1本もかけず,なんのあいさつもしなかった慎太郎に,人さまのことをあれこれいっていい資格はなかった(390頁)。
彼はまちがったのではないか。政治の世界など本当は不向きの男だったのではないか。彼は小説家であり,小説家こそ天職だったのではあるまいか(391頁)。
さすがと思わせるような……辛辣な人物批評にくらべると,政治家としての慎太郎の実際の言動は,はるかにつまらなくチープである(384頁)。
自民党で1派閥を統率する亀井静香はしばしば,「あいつ(慎太郎)はわがままがすぎる」と漏らしている。やはり,慎太郎は政治家ではなく小説家以外の何者でもない,というみかたにどうしても傾く(383頁,382頁)。
--まったくそのとおりである。筆者もなんども指摘してきたことだが,小説家がなんの拍子かしらないが,うっかり政治家になんかなってしまったものだから,この慎太郎は前述のように,日本というこの国の実体(実態)をドンドン悪化させている。
都知事になったらなったでさらに,その悪化の度合を加速させ,いっそう深刻にしてきた。「慎太郎が長として存在する」ことによって,日本‐東京における政治的な状況は疲弊し,劣化するばかりである。
10)「副知事:浜渦武生」は,醜聞を2度にわたって引きおこしている。現在,都政の9割はこの浜渦が握っている。「すべてを浜渦をとおせ」と慎太郎がいっているためである。慎太郎のまわりでは,マンガ並みのスキャンダラスな事件が実際につぎつぎ起きている(394頁,398頁,397頁)。
--都政においては,慎太郎による恫喝政治がある。あるいは,その裏舞台ではときおり,「犯罪そのもの」に近いといったほうがいいような「物理的圧迫さえちらつかせた暴圧的な行政」がまかりとおっている。
11)
慎太郎は政治家に転身するとき「自民党を自分に従属させる」と大言壮語したが,従属させるどころか,途中で放りだす無残な結果に終わった。慎太郎は結局,田中角栄に代表される自民党「ムラ」政治に敗退した(400頁)。
最初の掛け声は勇ましいが,結果は尻すぼみに終わる。これは青嵐会結成以来,慎太郎が繰りかえしてきたいつものパターンである(407頁)。
--国家議員を勤めてきた25年間〔四半世紀!〕において,慎太郎は,いったいどんな国家的貢献をなしえたのか? いまでは,その虚しさ・悔しさを都政独裁にぶつけ,発散させているようにみえる。
12)「家族愛・溺愛」の男。……息子への溺愛ぶりと,他人の痛みには寛容なのに,自分の痛みは絶対に許せない彼のわがままな性格は露骨に現われている。慎太郎の息子たちへの愛情のかけかたは,家族思いという次元をはるかに超えている(409頁)。
--かつて,他人に向かってはスパルタ教育論を書き「エラソウ」に公表した父,慎太郎であった。だが,そのわりに自分の子どもには,もうデレデレ,とても甘い人間なのが慎太郎である。
長男坊を大臣〔行革担当大臣→国土交通省大臣〕にさせえたのに味を占めたのか,2003年11月の選挙には3男坊を立候補させている。2人めの息子大臣,自分も入れれば石原家3人めの大臣をつくりたいかのごときにご執心なのか。
13)
「一見反逆精神にもみえる天の邪鬼の精神がある」慎太郎は,「トリックスターとしての人気維持の方法であっても,その方法で,慎太郎の思いどおり〈てっぺん〉にのしあがる絶好の環境までつくりだせるかどうかは,おのずから別問題である(415頁)。
--この記述は,慎太郎が一国宰相の器たりうるかという疑問に答えるものである。その答えは「否」であった。
14)
井の中の蛙にも似たひとりよがりの思いこみが打ちくだかれたり,思うような成果がえられなかったりしてイラ立ちが起こると,この男,それこそ「女学生」が悔しまぎれに口にする八つ当たり的ヒステリー発言が飛びでてくる(428頁)。
--「女学生」うんぬんは実は,慎太郎が女性差別をするさいによくつかうような修辞を意味したのだが,慎太郎自身にその修辞が返上・逆用されているところが〔佐野眞一の記述〕のミソなのである。
石原慎太郎が都知事選の選挙公約にかかげた「横田基地問題の交渉で勇躍渡米したにもかかわらず,米政府高官たちからソデ同然のつれないあつかいをうけた」。
佐野眞一はこう分析する。「人1倍プライドの高い慎太郎にとって,これは相当の屈辱だったにちがいない。このとき都知事としての限界を感じたことが,総理総裁への野心にあらためて火をつけたのではないか」(429頁)。
15)
慎太郎の政治手法の真髄が露骨なほど語られたのは,人びとの耳目を集めることに優先的な重きをおいた彼独得のポピュリズム的政治手法の発揮においてであった。2000年2月に突然突発した大手銀行に対する外形標準課税の導入は,そのもっとも端的なものであった(430頁)。
--石原都知事による「外形標準課税」導入の試みは,その思いつき的で,大向こうをうならせることばかりを狙った拙速性を,みごとにさらけだした。結局,失敗だった。
しかし,その失敗をすなおに認めないでなおもあれこれいいわけし,強がりもいい,懸命にとりつくろおうとするのが,この男のいつもの「みっともない姿」であった。
16)「幼稚なネポティズム(縁故・身内主義)」。……慎太郎には気心のしれあった仲間うちだけでことを運び,突然それを表沙汰にして,その反響のおおきさを内輪で愉しむ子どもじみたところがある。しかし,ヨット仲間の遊びごとならいざしらず,そのマフィアの掟もどきの秘密政治ゴッコを都の重要政策決定場面にまでもちこまれてはかなわない(433頁)。
--都政で慎太郎が実際にやっていることは,どこかの独裁的かつ後進的な発展途上国が未成熟な国政をやっている姿に,とてもよく似ている。
日本国民‐東京都民は,それでも,この男にうまくだまされつづけている。
17)「慎太郎の本心は日本人のホンネをアブリだす」。……野坂昭如はこういう。慎太郎は「毒舌」「暴言」というかたちで,日本人の隠されたホンネをさきどりしてあぶりだしてきた。
自分のなかに確実に存在する嫌悪の感情を突然白日のもとにさらされるから,大衆はたじろぎ,その感情を立てなおすため,正義の仮面をあわてて自分の顔に張りつける。
いくら慎太郎に反発しようとも,そのとき,心のなかはすでに慎太郎に強くグリップされている(433頁)。
--東京都知事選で慎太郎を再選させた都民の奥底にのぞけるだろう心情の機微は,野坂昭如が上述のように説明したところにみいだすことも可能である。
「作家」慎太郎発言の始末におえないところは,たとえば「ババァ発言」にかぎらず,その発言についてことさらいうことは大人げないと思わせる下卑た魅力のようなものが,そのことばのなかに潜んでいることである。
慎太郎発言をあえて暴言,妄言と問題にせず,笑い飛ばして済ますことが,あたかも世の中をうまく渡っていくマナーのようなものだと考えている人が,異をとなえる人をはるかに凌駕している。そうとでも考えなければ,都知事の再選時
308万票という大量得票の謎を理解することはできない(440頁)。
18)「慎太郎の小心」。……「ババァ発言」についてみっともない弁解を翼々と繰りかえす慎太郎をみていると,マチズモの看板の裏の小心さが透けてみえるようで正視できない(443頁)。
こんな単純で古くさい歴史観の持ち主に本当に日本の将来が任せられるのか。ネオコン(新保守主義)に完全に掌握され,いまや世界制覇さえもくろむアメリカと本当にまともな交渉ができるのか。靖国参拝問題などで依然ケンカ腰の「シナ」と本当にうまくやっていくことができるのか(444頁)。
--慎太郎が一国の宰相になるなど考えたくもないが,そういう不安のほうが叢雲(むらくも)のように湧いてくる(444頁)。
19)「慎太郎の精神分析の必要性?」。……慎太郎という人物を解剖するには,政治や文学のメスだけでは解剖しきれないところがある。精神分析のメスでもふるわないかぎり解剖できないと思わせるところが,慎太郎という男の一筋縄ではいかない点である。
慎太郎をみつめる大衆のまなざしや,メディアのなかで,さらにおおきく増幅されている「奇妙な関係」は,彼がなにかのトラブルで失脚するか,「てっぺん」に登りつめるかするまでは,恐らく終わらない(445頁)。
--筆者は,「慎太郎の精神的世界」において,精神分析が必要なほどに「りっぱにもこみいったコンプレックス的心理」機制が内在するとは,寸毫も思っていない。また,彼を買いかぶる向きについてもあえて,これ以上あれこれ詮議する必要を感じない。
20)「核爆弾となる浜渦問題」。……石原慎太郎による新党結成と総理総裁への期待が高まるなか,慎太郎周辺の関係者がいま一番懸念しているのは,副知事の浜渦問題である。
石原は浜渦にキンタマを握られている。慎太郎にごく近い関係者によれば,慎太郎の威をふるうだけふるってきた浜渦に対し,最近では典子夫人や伸晃など石原ファミリーも露骨に不快感をしめすようになっている。
にもかかわらず,慎太郎が浜渦を依然重用しているのは,この関係者によれば,いまから30年近くもまえの代議士時代に,浜渦が慎太郎の「全幅の信頼をえた」ある出来事があったからである(449-451頁)。
浜渦問題は,総理総裁を狙う慎太郎のアキレス腱になるどころか,その夢そのものを粉砕する核爆弾になる可能性も否定できない(454頁)。
--「子分をみればその親分の器量がわかる」とよくいわれる。慎太郎の限界は浜渦に,はっきりみてとることができる。
21)「石原慎太郎はファシストか?」。……自民党長老の松野頼三は,慎太郎をこう切り捨てる。
「彼はポイント,ポイントではよいことをいうけれども,全然つながらない。ときには反対のことをいうことがある。上手にね。上手すぎるんだ」。
「政界に長くいると,その上手すぎる手つきがみえる。手品がみえる。観客は拍手だがね。私ら,舞台裏からみてるから,みえすぎるんだ」。
「慎太郎は危険ではない。君子豹変するほうだ。実利的な男だからね。自己顕示欲が強くて,中曽根康弘の若いころに似ている。けれども,中曽根のほうがずっとイデオロギーがあった」(453頁)。
「慎太郎は《かつがれにくい人》なんだ。自作自演の人間だからね。彼には諸葛孔明が必要ないんだ。自分が諸葛孔明のつもりなんだ」。
「彼にどんな能力があっても1人の力はしれている。彼を指示し,教える者がいない。だから彼は,東京で一番高い愛宕山で終わるかもしれない」。
--慎太郎が今後に化ける可能性は?
「まあ,蜃気楼だな。いまさら危険を冒すより名を残すほうが名誉というものでしょう」(457頁)。
--ヒトラーに石原慎太郎を比較するのは,本当のところ,アドルフ君に対してたいそう失礼である。だから,筆者は両人を比較するときは,「ミニ・ミニ
ヒトラー」と慎太郎君を形容してきた。
22)「石原慎太郎の限界」。……政治家たる者は自己絶対化の軛(くびき)からはなれ,自己相対化の荒波に耐えなければならない。
だが,慎太郎はそうしたコペルニクス的転回を最後までやろうとしないだろう。やれもしないだろう。それは,慎太郎という生きかたの死を意味するからである(458頁)。
--以上,佐野眞一『てっぺん野郎-本人もしらなかった石原慎太郎-』のなかから,筆者なりに注目したい記述個所を適当に拾い,議論してきた。
もういい加減,慎太郎の本質・特徴・限界・制約をわかってもらわねばならない。こんな男は,日本に住む者すべてにとって,非常なる害悪である。彼はすでに引退にふさわしい年齢にもなっている。
さっさと消えてほしい。息子たちの孫の相手でもして,昔とった杵柄の自慢してたらヨカンベ。
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2003年10月22日 記述 ▼
【補
説】青山 佾『石原都政ノート』
平凡社,2004年1月。
本書は,1999年5月から2003年5月まで石原都政において副知事を務めた人物の「石原慎太郎」論である。
石原慎太郎の好きな読者には,その中身を直接読んでもらうことにして,最後部「9,これからの石原都政」から引照する(同書,203-216頁)。
●「世論を天才的に代弁する」〔つまり,慎太郎はデマゴーグであること〕。
……石原慎太郎は「他人の内心に関心がない」。他人の心をしろうとする「洞察力以前の問題」がある。
慎太郎がつねに考えているのは,マス:集団としての大衆から「自分がどうみえるか」である。「大衆がなにを思っているか」である。
大衆の気持をさきどりすることにおいて天才的であることは,『太陽の季節』が証明している。
以上の「仮説」に立つと,説明がつくことはたくさんある。たとえば「三国人」発言である。
大衆は一般に,内省的ではない。直感的,衝動的である。
●「石原さんが正しい」という声は聞かない〔つまり,慎太郎はアジテーターであること〕。
……正しい話は,つまらない。報道機関もとりあげない。正しい話をするのではなく,面白い話をするから報道するのである。
知事らしくない表現をするから,報道されるし,大衆も面白がる。
ウォルター・リップマンは,「直接的な政治闘争は本能的な智恵,力,証明不能の信仰を大量に必要としつづける」,「理性はそうしたものを規定することも統制することもできない」といった。
石原は,感覚的かつ実際的に,そのことをしっている。
石原都政1期めに関する青山流〈自己採点〉は,同書〔206-208頁〕に出ている。
なかんずく,「天才知事と都庁実務がピタリと息が合うと,仕事がすすむことがわかる」と,青山は解釈するのである。
●「基本理念が問われる2期め」〔つまり,スターきどり都知事の限界〕。
……暴言も発信力のうちである。
青山は,石原慎太郎の「知事らしくない言動に喝采を送る」のは,いまの世論が「既成の秩序,既成の概念の破壊者」として評価するからだという。
石原知事にもっともっと議論をしかけていけばいいと思う。文句があったらオープンにいうべきである。
都民のまえで議論すればいい。知事は自分の意見に対して「それはちがいます」といわれても嫌な顔をしない。基本的には議論好きなのである。
a) 石原知事は,自分が有能だから身辺に有能な人を必要としない。しかし,子分的な気風の人ばかりで周囲を固めると,判断をまちがえる。
知事という職はあくまで,特権ではなく責任である。知事は,オンブズマンではなく指揮者であり,責任者である。大衆はオンブズマンに喝采し,責任者には拍手を送らない。
b) 都政1期めは都庁実務者のがわと一定の緊張関係があった。それがなくなるのは,危険である。
多くの局長や部長が,定年の2年前,3年前に都庁を去った。死屍累々である。
風とおしがよくなるだけならいいが,実務力・技術力が落ちていることは否めない。そのマイナスを補うだけの新たなものを,まだ構築しえていない。
c) 知事が権威になってしまっては組織は死ぬ。国会議員の事務所とはちがって,都庁の巨大組織は,近代経営方式でなければ動かせない。
大衆うけしなくとも,理念・哲学・行動規範・判断基準をきちんとしめすことを考えなくてはならない。石原流:「言動をみていればわかるだろ」は通用しない。
個別の政策をつらぬく基本理念を構築して,世に問うときがきていると,私〔青山〕は思う。
d) これからの石原都政の最大の課題は,都庁においても都政独自の政策があらゆる分野において提案され,審議され,実行されてはじめて,パラダイム革新が実現されたといえる。
そういう組織風土を実現できてはじめて,石原都政が都政史に名を刻みつけることができる。
--本書,前東京都副知事だった青山 佾の著作『石原都政ノート』は,一見したところまったくの「慎太郎ヨイショ」本そのものであるかのようにみえる。まちがいなく,そうした性格の本である。
だが,同書の末尾部分「9,これからの石原都政」をすなおに読むと,慎太郎には都知事としての「基本理念」が基本的にない点が指摘されているだけでなく,若干遠まわしにだが,彼に固有の重大な問題点が的確に指摘・批判されている。
要は,東京都政は「慎太郎ワンマンショー」に化している。
青山は「石原知事にもっともっと議論をしかけていけばいい」というが,この男,自分に都合の悪い論点,あるいは議論に負けそうな相手は避けるという卑怯な性格をもっているゆえ,そういう買いかぶりの評価は一面的である。
「三国人」発言を問題にした共同通信の記者に対して慎太郎は,圧力をかけて地方に飛ばさせた。
だから,「石原慎太郎」都知事に「文句があったらオープンにいうべきである」などと勧めるのは,きれいごとであり,空理空論をもてあそぶことにしかならない。
石原慎太郎都知事を副知事として補佐した青山は,この男の「オープン」性がいかばかりのものか,よく承知のはずである。
「基本的には議論好き」な都知事が「自分の意見に対して〈それはちがいます〉といわれても嫌な顔をしない」範囲は,ごく限定されていることを断っておかねばならない。
そうでなければ,青山自身が「都政1期めは都庁実務者のがわと一定の緊張関係があった。それがなくなるのは,危険である」などと警告する必要は,全然ないはずである。
東京都政においてはいまや,「知事が権威になってしまっては組織は死ぬ」段階に到達しているのではないか?
「大衆うけ」狙いばかりで,「実務力・技術力が落ちている」石原都政に,はたして,未来はあるのか?
ということで青山は,都政の「個別の政策をつらぬく基本理念を構築」し,「近代経営方式でなければ動かせない」と,石原慎太郎流の政治(?)方式の今後を占った〔心配した!〕わけである。
すなわち,慎チャンのワンマンショー舞台になってしまった現状の都政においては,近代経営方式にもとづく運営は期待できない。
--ここ2~3年,都立学校の教育現場では,入学式・卒業式での国旗掲揚への敬礼・国家斉唱の強制が,東京都教育委員会によって押しつけられている。
いうまでもなく,「そうしろ(させろ!)と命令している」のは,都知事の石原慎太郎である。
東京都教育委員会委員長は横山洋吉,先述の表現でいえば慎太郎の〈子分的な気風の人〉であるが,この男は,場末によくうろちょろしているような,チンピラ‐やくざ風まるだしの顔つきをしている。
横山の顔は,テレビニュースでもときどきみかけることができる。人間の品性というものはその面相に如実に出るものである。
男の顔は「履歴書」だともいわれる。
かくべつ驚くことでもないのだが,石原慎太郎都知事の腹心には,「そのたぐい〔程度〕の風采:品格の持ち主である人間」が多い。
子分の姿容をみれば,親分の器量もわかるといわれる。
2000年9月28日,酒に酔ったうえでの通行人とのトラブルや,写真週刊誌『フォーカス』のカメラマンらとのもみあいが表面化した東京都の浜渦武生(はまうず
たけお)副知事(当時52歳)は,そのお仲間〔子分〕の1人である。
都知事は,国旗掲揚への敬礼・国家斉唱の強制の問題をてこに,横山洋吉などを手先につかい,都立学校において,教職員や生徒に対する「良心‐思想の自由」の蹂躙をまさしく,ファシスト的(ミニ・ミニヒトラー的)に実行している。
--最近では,都立学校の入学式・卒業式当日,各学校には都職員(複数)が派遣される。
彼らは,生徒たちが日の丸掲揚に敬礼し,君が代を斉唱しているかを,つまり,教員たちがきちんとそれを指導・実行させているかを,その式の最中に監視するために派遣されている。
さらに,学校によっては,管理職〔校長や教頭〕に,生徒の「君が代の歌いかた」に対して「歌声がちいさい」という指導(叱責)をさせている学校もある。
そのような現状は,慎太郎君などが大嫌いな某国において「人民たち」が「偉大なる首領様」に捧げるための歌を一生懸命に歌わさせられている姿と瓜二つである。いかがなものだろうか。
日本の「国歌:君が代」が讃えて歌うところの,つまり,某国の「偉大なる首領様」に相当する「日本国の象徴」はなにか=誰か,あえていうまでもない点である。
日本の公立学校においてとりおこなわれる行事・式典のなかで「君が代」を歌う行為は,いまではあたかも「宗教的な儀式形式」になっている。
それでは,その「宗教的な儀式」が捧げられる祭壇に祭ってある実体はなんであり,そしてその意味は奈辺に求めるべきなのか?
21世紀のいまであるから,戦前日本における国家ファシズム体制のときのようにそれは「天子様」だとはいえない。
したがって,教育現場においてはよりいっそう,物理的強制をともなった「君が代斉唱・日の丸掲揚」の押しつけが昂進せざるをえない。
かくのごとき「強制」は,いったいなんのために教師や生徒に対する「押しつけ」としておこなわれなければならないのか?
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2004年3月29日 記述 ▼
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