本ページの議論は,1.2.3 . のあらすじで展開される。そのさい参考にした新聞記事は,以下にしるしたものである。また,その後における関連記事を逐次とりあげ,新しい議論もくわえている。
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★1. 2002年7月2日『朝日新聞』夕刊の「記事」に関する議論 ★ ※ その後における変化〔1〕:2002年7月 「文部科学省」の態度変更について ★2.
2003年2月21日『朝日新聞』朝刊の「記事」に関する議論
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★3.
2003年8月2日『朝日新聞』朝刊の「記事」に関する議論
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1.
【大学入学資格の要件緩和へ
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★筆者のコメント★ |
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1) 本質的問題のありか このたび,文部科学省は重い腰を上げてようやく,在日外国人学校〔高校:高等部〕の卒業生に大学入学資格を認める方向を検討しだすというのである。 だが,同省の姿勢は,在日コリアン系やチャイナ系学校の高校:高等部を念頭において,そのような改善の方向性を認めようとしているのではない。上記の新聞報道をみるかぎりもっぱら,インターナショナルスクール系(?)の外国人学校〔高校〕を意識したもののようである。 はたして,インターナショナル系高校以外の,在日コリアン系の高等学校〔在日韓国・朝鮮人系の高校:高等部〕や在日チャイナ系の高校〔なお,東京中華学校,横浜中華学院,大阪中華学校の3校は中学校課程までしかない〕などは,その念頭になかったのだろうか? インターナショナル系〔いわば欧米(人)系中心の〕高校の卒業生に大学入学資格を認めなきゃならないから,ついでに,在日コリアン・チャイナ系高校の卒業生にもそれを「おすそ分けするかたちで認めてやるんだ」といった程度のものなのである。 本来の議論であればまず,外国人系の高校〔高等部〕としてその大部分を占める「在日コリアン・チャイナ系の高校〔高等部〕の卒業生」に対して,「大学入学資格」の要件を認めていくためにするというのが,本筋である。しかし,欧米人系インターナショナルスクールの高校課程「卒業:修了」該当者にそれを認めるという議論にともなって,在日コリアン系・チャイナ系高校の卒業生にも「オマケ」的にそれを認めるという筋書きである。 2) 時代遅れの文教方針 21世紀になって世界は,国際化〔グローバル化〕の度合をいっそう深めている。前世紀末より日本社会はすでに少子化‐高齢化社会に突入し,その影響をうけた日本の大学は,18歳人口の減少とともに本格的な「冬の時代」を迎えている。それをおぎなうため主に,中国〔こちらが圧倒的に多数〕や韓国などアジア諸国から留学生を大量にうけいれたり,あるいは社会人学生もうけいれたりし,大学経営の一助にしている。 このさい遅ればせながらも,そうした時代の流れに対して画期的な貢献はできないにせよ,いままで,「骨絡みの差別・偏見」観に拘泥されたまま,なかなか認めようとはしなかった在日コリアン・チャイナ系の子弟・子女がかようアジア諸国‐民族系高校の卒業生にも,ともかく,「日本の大学」の大学入学〔受験〕資格を正式に認めようという話なのである。 筆者の属する大学では,専門学校の生徒にも編入学試験の受験資格を認めているくらいであるから,外国の高等学校だろうが国内の外国人系高等学校だろうが,お客さんとして大学を受験しにきてくれれば,文句なしに「大歓迎」の時代である。いいかえれば,とくに私立大学それも1流のブランド大学ではないところでは,もう必死になって客集めに狂奔しなければならない時代である。 教育産業にせまられているそういった時代のきびしい環境‐状況を観察するとき,文部科学省がいまごろになって,インターナショナルスクール系高校の卒業生に「日本の大学」の大学入学資格を認めるのだから,ついでに合わせて,在日アジア系高校の卒業生にもそれを認めるというやりかたは,いかにも日本政府:関係官庁(国家官僚)のやりそうな,狭量で順逆をわきまえない〈時代遅れの采配〉である。 3) 在日外国人差別の一典型 現在,日本国内では,私立大学を中心につぶれそうな短期大学・短期大学部が目白押しであり,地方の4年制大学では大きく定員割れしているところが数多くある。このような深刻な事態になってからやっとこさ,いままでさんざん差別してきた在日アジア系高校:高等部の卒業生に対して,「日本の大学」の〔一番問題なのは主に国立大学だが〕大学入試資格を与えるのだといっても,それほどたいした決断とは思えない。 筆者が本ホームページに公開してきた論稿「定住外国人差別の一事例-日本政府が外国人学校卒業生の大学入学資格を認めない歴史的な理由-」(『大阪産業大学論集(人文科学編)』 第92号,1997年6月公表)は,文部〔科学〕省によって執拗につづけられてきた,在日韓国‐朝鮮人〔コリアン〕系および中国人〔チャイナ〕系の学校法人に対する「差別施策の歴史由来的な不当性」を批判した。 以前より,日本の私立大学および公立大学のほとんどが〔国立大学だけは完全に蚊帳の外だった!〕,在日外国人系高校の卒業生に大学入学資格〔受験資格〕を認めてきた。いつまでもかたくなにその門戸を閉ざしていたのが,文部省の行政指導に盲従を強いられてきた国立大学なのである。気の毒なことであった。国立大学であっても独自の判断をおこない,わが校は「彼らに」大学入学資格を認めます,といった大学は皆無である。 4) 無反省の教育理念 問題の核心は,敗戦後一貫した日本政府・文部〔科学〕省の「まちがった教育政策」にある。それは,在日コリアン系・チャイナ系を中心とした在日アジア系の学校法人に対する「国家的規模での蔑視偏見・民族差別観」に淵源するものである。 筆者がいまから5年前の1997年6月に公表した前掲の論稿,「定住外国人差別の一事例-日本政府が外国人学校卒業生の大学入学資格を認めない歴史的な理由-」(のちにリンクあり)は,以上のごとき日本政府・文部〔科学〕省の「在日外国人系学校法人に対する姿勢」がいかに偏見・差別に満ちているか,くわえて,過去の歴史に関する反省のひとかけらもない頑迷固陋なものであるかなど,詳細に批判した。 そして,いち早く,在日コリアン系・チャイナ系などの高校卒業生に大学入学資格を与えることは, a) 先進諸国の一員であるはず〔つもり〕の日本にとって当然の責務であり, b) 世界全体の歴史的な動きや流れからみて必然の傾向であり, c) 教育倫理的・社会正義的に適合的・公正的な政策の変更である, と主張した。
※ 筆者がこの文章(原文)を書いて提出した時期は,1991年であった。それからもう11年〔一昔とちょっと〕が経過した。 日本の大学の閉鎖性はこれまで,「国内外からきびしい批判をうける日」を俟つまでもなく,教員採用に関しては国公立すべての大学で,そして,学生入学資格に関しては私立大学を中心に公立大学もふくめてその大多数で,実質上に改善されてきた。 日本の大学とくに,国公立大学における「外国人:外国籍」教員の任用問題は,在日韓国・朝鮮人大学教員と,この問題に理解ある日本人関係者などが協力して,文部科学省〔当時は文部省〕当局に働きかけてきた。そして,その永年の努力・折衝により,任期制の問題点をのこすにせよ,1982年8月に関連法案が実現(立法化)している。 むろん,文部科学省が2002年になってようやく,在日外国人系民族学校の高校卒業生にも大学入学資格を認める意向を表明したことは,好ましい同省の姿勢変更である。けれども,そのように方針を変更するための検討をおこない判断をしめした時期が,あまりにも遅すぎたというほかない。 |
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ところが,冒頭で引用した新聞(夕刊)には,同時につぎのような記事も報道されていた。 【 大検なしでも入学OK 都立大が新入試制度導入へ 】 東京都立大学(八王子市)は,高校を中退するなどして大学入学資格のない人でも,指定の授業で好成績をおさめれば入学できる「チャレンジ入試」を2004年度から導入する。大学入学資格検定(大検)をうけずに入学できる制度は全国初で,都は「ペーパー試験ではわからない力のある学生を選ぶ」としている。高校生が土曜日や夏休みに授業をうけ,その成績で入学を認める制度も採りいれる。 チャレンジ入試は,事前に登録した18歳以上の受験生に,4月から8月にかけて指定した都立大の授業を受講してもらう。履修成績や面接を踏まえ,若干名に入学を認める。2004年春の入学にむけ,来春は法学部と理学部で受験生を登録する。 都によると,中学卒業後に進学しなかったり,高校になじめず中退したりした人のなかにも,学ぶ意欲のある人はすくなくない。「それらの人に道を開き,暗記だけでなく,多面的に思考できる学生を選び,能力を伸ばしたい」という。 大学入学資格について,文部科学省はこれまで「大学全体の水準確保のため,大学にすべての裁量を認めてはいない」との見解だった。学校教育法では,大学入学資格者を,高校や中等教育学校卒業者以外に「同等以上の学力があると認められた者」と定めており,大検合格を条件としてきた。 インターナショナルスクールや朝鮮学校など外国人学校の卒業生については,この要件を緩和する方向だが,高校中退者らについては検討課題とするにとどまっている。 これに対し,都は学校教育法の施行規則に「大学において,相当の年齢に達し,高等学校を卒業した者と同等以上の学力があると認めた者」とあるのを根拠に,独自の入試制度は可能と判断した。 一方,都内の高校3年生や定時制高校4年生などの「現役」を対象に導入する「ゼミナール入試」は,理学部で導入。希望者は5月から10月まで,土曜日や夏休みに都立大が用意する講義や実験を受ける。履修成績やリポート,面接などを踏まえて若干名に入学が認められる。 通常の入試よりも合否決定が早いため,都は入学前教育も検討している。他大学などからは「青田買い」との批判も出そうだが,都は「生徒側には選択の幅が増える」としている。 |
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● さて,東京都立大学は文部科学省の一歩さきをいっている(!?),ということになろうか ● 1) 日本の大学の水準とは? 最初にいっておきたい。文部科学省の見解:「大学全体の水準確保のため,大学にすべての裁量を認めてはいない」というご託は,笑止千万である。そもそも,在日外国人系学校の高等学校卒業生に大学入学資格を認める問題と,いったいどういう関係があるのか疑問だからである。 日本の大学といってもピンからキリまである。いうところの〈水準〉を確保できていない大学が,いったいこの日本に何校くらいあるとしっての話か。日本の大学で,本当に大学らしい〔研究学問と教育内容の〕水準をまともに確保できている,つまりなんとか合格点に達している「大学」なんて,650校以上もある4年制大学のうちで,せいぜい150~200校くらいであろう。あとはみな,ごく当たりまえに「水準以下」なのである。 文部科学省の「大学全体の水準確保」とは幻想であり,現実無視の空論である。つまり,日本の「大学全体」で平均的にならしてみたら,日本の大学の水準〔?!〕は十分に確保できておらず,世界においては平均以下,落第なのである。こんなことは,大学の教育現場とくに非一流大学に勤務している教員にとっては,日常感覚=常識に属する認識である。 在日コリアン系・チャイナ系の高校卒業生にペーパーテストで日本の大学を受験させたら,どの大学であっても「合格する者はする」のである。また反対に,1条校である日本の高校卒業生でも,大学受験で「落ちる者は落ちる」のである。それだけのことである。 実際,筆者も在日コリアン系高校の卒業者であるが,国立大学は受験させてもらえなかったので,入学試験をうけさせてくれる〔受験願書をうけつけてくれた〕私立大学を複数志願し,いくつか合格したそのうち1校を選んで進学した。 むしろ,日本の大学が「在日コリアン系・チャイナ系ならびにインターナショナルスクール系などからも優秀な高校卒業生」をうけいれたら,現状の惨憺たる研究と教育の水準を,すこしは改善,向上させるために役立つかもしれない。 2) 文部科学省の国際感覚 これまで「在日コリアン・チャイナ系などの高校卒業生に対する大学入学資格」を自主的判断で認めてきた私立大学や公立大学は,東京都立大学当局がその事由に挙げていた点,つまり『学校教育法の施行規則に〈大学において,相当の年齢に達し,高等学校を卒業した者と同等以上の学力があると認めた者〉とある条項を根拠に,独自の入試制度は可能と判断した』という点を,ただ単純に敷衍・適用したにすぎないのである。 今日,地球上においては各領域で人間同士の交流活動が活発化し,国際化の波もすみずみまで押し寄せている。日本人の子弟・子女が海外の学校に大勢かよってもおり,また,日本国内で日本人の子どもたちがインターナショナルスクールにかよう事例も多い。新たに在日するようになった外国人や日系外国人たちの子弟・子女も増えており,この子どもたちが日本の学校にかよってもいる。 要は,大学のみならず小中高校段階からして教育現場の国際交流は盛んになっており,これまでの文部科学省の対応姿勢〔在日外国人系の高等学校が「一条校」であるか否かという「日本国内の設置基準や学習指導要領」など適用の問題〕をもってしては,もはや解決できない諸問題が「大学入学資格」にも波及してきているのである。
--本論にもどろう。 さらにはたとえば,日本国内で急増している不登校の学童・生徒にかかわる大学への進学問題の解決もせまられている。とりわけ,日本の大学「冬の時代」の到来は,大学がわに顧客の選り好みなどさせなくなったのである。大学は社会人向けにキャリアーアップ教程や教養課程なども準備し,顧客の開拓と創造にはげむ時代である。 ・以上,2002年7月3・7・21日,記述 |
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● 最近の新聞報道にみた日本の大学をかこむ世界情勢 ● 1)「大学改革 教育分野も重点助成-文科省 短大ふくめ100校選定へ-」(『朝日新聞』2002年8月19日朝刊) 〔→大学同士を競わせて大学教育の質の向上を図るため,文部科学省は2003年度から,全国の国公立の大学・短大から,とくに教育に力をいれている大学を選び,重点的に助成する方針を決めた〕 2)「国境越える大学 「質」を比較-ネット講義や海外展開,文部科学省来年度から研究 評価情報を収集・提供,おおきい潜在需要/米国の圧力も-」(『日本経済新聞』2002年8月20日) 3)「海外大学の進出『自由化』を検討-文部科学省方針-」(『朝日新聞』2002年8月23日夕刊) 4)「国連,出自差別に非難勧告 日本の部落問題も示唆」(『朝日新聞』2002年8月24日夕刊) --以上,最近の新聞報道の一端をみただけでも,在日アジア系高校の卒業生に対して,日本の「大学入学資格」を認めるとか認めないとかいう議論そのものが,大学本来の教育理念・目標からおおきく逸脱し,そしていかにも低次元のものであって,国際性を欠いた〈差別意識〉にまみれたものかがわかろう。 文部科学省がこれから,在日アジア系の高校卒業生に対する日本の大学「入学資格」を,事後追認的に遅まきながら認定していったとしても,教育制度面においていままで蓄積してきた在日アジア系外国人に対する「出自差別」の〈負の実績〉は,日本の歴史のなかに歴然と記録されることになる。 あえていえば,当該問題に関する意識的な改革を,国家精神の底面最深部にまで徹底させ,実行しておかなければ,同じような過誤が再びくりかえされないという保証はないのである。 すなわち,最近になって文部科学省のしめしている方針転換は,そのもっとも大事な論点に関する議論を抜かした,いうなれば,画竜点睛を欠くものなのである。 ・以上,2002年8月25日,記述 5)「京大,大検なしで外国人学校卒業生にも入試資格へ」(『朝日新聞』2002年9月13日夕刊) 京都大学は,朝鮮学校やインターナショナルスクールなど外国人学校の卒業生に入試の受験資格を認める方向で検討をはじめた。2002年9月13日に同和・人権問題委員会(委員長=山崎高哉・教育学部教授)で方針をまとめ,速やかな実現を求める意見を長尾真学長に提出するみとおしだ。早ければ来春の入試から実施する。国立大が外国人学校に受験資格を与えるのは全国ではじめてとなる。 文部科学省は「外国人学校は各種学校」と位置づけており,各国立大は,大学入学資格検定(大検)合格を受験の条件としている。 京大の同和・人権問題委員会は資格制限撤廃を求める学生らの要望をうけて1998年から検討をすすめてきた。朝鮮学校や韓国学園の授業や教科書をみるなどして「高校」の授業内容と差がないことを確認。13日午前の同委員会小委員会で学長に提出する意見の内容を確認した。午後の本委員会に諮る。意見提出後,学内で討議し,正式に決める。 文科省は,外国人学校について,学校教育法1条に定める「学校」に当たらないという見解をとっている。一方,同法は大学に入学することのできる者として,「高等学校を卒業した者もしくは中等教育学校を卒業した者もしくは通常の課程による12年の学校教育を修了した者または文部科学大臣の定めるところにより,これと同等以上の学力があると認められた者」とし,同法施行規則は高校を卒業した者と同等以上の学力があると認められる者として,「大学において,相当の年齢に達し,高校を卒業した者と同等以上の学力があると認めた者」という項目がある。 文科省によると,国内には朝鮮学校など外国人学校は 123校ある。中学校卒業の資格も認められず,かつては生徒は通信制高校などを卒業して国立大を受験した。1999年に中学校を卒業していなくても,大検に合格すれば受験できるようになった。 在日の学生らでつくる「民族学校の処遇改善を求める全国連絡協議会」によると,2000年度の調査で公立34校,私立228校と全体の約半数の大学が受験を認めているが,国立大はまったく認めていない。 京都韓国中・高校の李虎雄校長は「門前払いだった国立大学の受験ができるようになるのは朗報だ」と喜び,京都朝鮮中・高級学校の李宗一校長は「国が門戸を開く決断をするのが筋だが,1大学だけでも教育の権利を認めるのはおおきな前進」と評価する。 〈田中 宏・龍谷大学教授(日本アジア関係史)の話〉 学校教育法施行規則は,相当の年齢に達し,高校卒業と同等以上の学力があると認めた者は受験資格を有すと明記しており,実際に公立や私立の大学は受験を認めている。いままで,国立大で受験できなかったことのほうがおかしかった。京大で認めれば,ほかの大学にも広がるのではないか。 |
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2.【国立大入学「朝鮮」・「韓国」 今日〔2003年2月21日〕朝日新聞の朝刊一面トップにこの見出しの記事が報道されていた。つぎの枠内の文章がその内容である。 率直にいって筆者は呆れた。日本の文部科学者は実に狭量,あいかわらず視野狭窄であり,21世紀になったいまもまだ,歴史に対する前向きの展望ができない〔しない〕省庁である。このことを再確認させられた。
まず,「外国人学校の卒業生に国立大学入学資格を認めるかどうかをめぐる文部科学省の判断の背景には,現在の北朝鮮をとりまく情勢がある」と指摘している。 在日する韓国・朝鮮人〔などとくにアジア系〕の子弟・子女の教育問題に対してただちに,最近の政治的情勢を直結させて「価値」判断する方法こそ,きわめて政治的偏向であり,端的にいって短絡である。まさに,なにかを待ちかまえていて,これをとってつけたような「差別の理由づけ」なのである。 文科省関係者の態度はそもそも基本的に,在日の子弟・子女に対して要請されてよい〈教育的配慮〉を放棄したものである。教育現場に国家間の政治問題をもろにもちこむやりかたは,この国の教育空間において「国家的度量」が生かせるわずかな〈すきま〉すらないことを物語っている。 北朝鮮系の民族学校も最近は,その性格をだいぶ変化させている事実に目もくれない。自分たちがみたくないものには,いっさい目をつむり,聞きたくないものには,懸命に耳をふさいでいる。しかも,その語り口にただよう在日外国人〔アジア系:韓国・朝鮮人など〕に対する歴史的意識は,あいかわらず,明治の段階から一歩も前に踏みだしていない。 上記「解説」記事をさらに紹介しながら,以下に筆者の反論をしておく。 1)「議論の方向性」-無意識的かつ意図的な(?)差別- 文部科学省では検討をはじめた当初,外国人学校の卒業生すべてに資格を与える意見もあった。 しかし,それでは「朝鮮学校を学校教育法上の学校と同じようにあつかうことになり,これまでの文科省の立場を否定することになる」(文科省幹部の話)との根強い反対論があった。 そうしたところに,北朝鮮による日本人拉致事件〔2002年10月から日本社会を大いに騒がせているもの〕が追い打ちをかけた。 日本国民のぬぐいがたい不信感を背景に,文科省の別の幹部はまた,「いま認めれば北朝鮮を利することにつながりかねない」といっている。 --以上の反対論は,単に文科省の面子,つまり「1条校」でないことを理由にこれまでも,在日韓国・朝鮮人系の民族学校に「国立大学入学資格」を認めてこなかった経緯に,いまさらながら強く固執したものである。そして,最近話題である「北朝鮮による日本人拉致事件を奇貨として」,これを反対の理由づけ〔の強化策〕に流用〔悪用!〕してもいる。 今回における「大学入学資格の問題」に時事的出来事をひっぱりこんで,自分がわの理屈を補強する方法は,問題の本質を意図的にそらそうとするものである。あるいは,問題の本質から目をそむけさせようとするものでもある。 とはいえ,そうした展開のなかでなおも,「いままでそうだったから,これからもそうなんだ」という「理屈の提示」もあり,こちらは「没論理の最たる見本」である。ひたすら,韓国・朝鮮人系の民族学校〔高校〕卒業生には,国立大学への入学資格を与えないというだけなのである。文科省は,このたぐいの「かたくななこだわり」を,ワンパターン的にくりかえしているにすぎない。 韓国・朝鮮人系の民族学校〔高校〕卒業生に国立大学への入学資格を与えたら,従来の「文科省の立場を否定することになる」という意見にいたっては,いったいなにをいいたいのか,さっぱりわかりえないものである。時代の推移に沿って見解をかえることが,人や組織にあってはならないことなのか? これはもう,理解の域を超えた妄説である。 なにゆえ,日本「国民のぬぐいがたい不信(昨年秋から問題化した「北朝鮮による日本人拉致事件」)」と「国立大学への入学資格を韓国・朝鮮人系民族学校卒業生に認めない理由(いままで長い期間,検討課題であった)」とが,直接にむすびつけられて議論されねばならないのか? どうみてもそれは,感情むきだしの思考方式である。 この国教育関係の最高組織に座を占める優秀な人間の脳細胞で考えぬいた中身が,そのように論理性に欠き,情感に流された結論=意見でしかないのか。 とりわけ,「北朝鮮憎し」という感情論を妙に発展させ,韓国〔大韓民国〕系の民族学校までいっしょくたにした議論にいたっては,噴飯物である。もっとも,朝鮮も韓国も区別できていないし,あるいはしたくないのかもしれない。 かといって筆者は,「北朝鮮」と「韓国」,在日「韓国および朝鮮」人に関係する問題を,終始徹底して両方を別個に考えるべきだとか,あるいはまた,いつもいっしょにとりあかうべきだとかいうふうに割り切って接すべきものとは思っていない。 最近は,韓国・韓国人に対する日本・日本人のイメージは改善され,相互の交流や理解もすすみ,したがって,両国〔人〕の関係も非常に友好的になっており,将来にとってもいい雰囲気が醸しだされている。 小結。「文科省官僚の面子や意地を維持する」ためにも,在日韓国・朝鮮人系民族学校の卒業生に対して,国立大学の入学資格を認めないのだという論法そのものが,不当かつ不埒である。 2)「国際性を欠いた身内意識」 前述の記事にあったように,「日本政府は2002年3月〈インターナショナルスクール卒業生の入学機会の拡大〉を盛りこんだ「規制改革推進3カ年計画」を閣議決定している。 そこで,2002年3月末の期限に向けて,文科省が検討してきたのは,「海外企業の駐在員が家族とともに来日することへの障害になっている」し,「要望じたいが外国人学校の卒業生全体への資格付与を求めたものでなかった」からだ,という点である。 「国際的基準において認証」の与えられた「インターナショナルスクールの卒業生」については,日本の「高校卒業者と同等以上の学力があると認められる者」と指定し,国立大学入学資格を付与することを,同省の告示に明記すると断わっている。 文科省は過去,「1条校」でない点を理由に日本国内にあるインターナショナルスクールにも,国立大学入学資格を認めないことを堅持してきた。そのため,インターナショナルスクールから反発を買った経験もある。 ところがこんどは,インターナショナル系の高校卒業生に関しては,「英米にある民間の評価機関によって認証をうけていること」を入学資格の条件とする方針をしめして,日本「1条校」の「高校卒業者と同等以上の学力があると認められる者」とみなすことにした,といっている。 すなわちまず,a) 海外企業の駐在員の子弟・子女がインターナショナルスクールにかよう事例を念頭におき,つぎに,b) インターナショナル系高校に在学する日本人子弟・子女も配慮に入れ,これらの卒業生に対して国立大学入学資格を認める作戦に出たのである。 要するに,主に日本にあるインターナショナル系の学校にかよう a) 海外企業の駐在員の子弟・子女,および b) 日本人・日本民族の子弟・子女のためを配慮し検討する問題だから, c) 在日する韓国・朝鮮人の子弟・子女の問題なんぞは,はじめから視野に追いやっていい,といっている。それゆえ,韓国・朝鮮人系民族学校卒業生に「国立大学への入学資格を認めない理由」に触れる必要すらない,といいいたいかのようでもある。 在日韓国・朝鮮人系の民族学校卒業生が「1条校」に在籍していないとしたら,どうして「高校卒業者と同等以上の学力があると認められる者」となりえないのか? 日本国の文科省がそんなことまで勝手に裁断してよい問題か? 学生1人1人の学力水準・実力程度の問題を,形式論で切り捨てる粗雑なやりかたは,まったくもって〈教育的配慮〉とは無縁である。 日本の大学が諸外国から留学生をうけいれるさいに判断基準となる尺度は,a) 就学年数,b) 日本語力,c) 専門領域での勉学能力〔潜在力〕などである。在日韓国・朝鮮人系の民族学校卒業生が「1条校」高校の在籍者でないからといって即座に,上記 a) b) c) に関して「格別の欠落」もしくは「顕著な不足」があるとみなすのは,初歩的な無理解でなければ,まさしく素朴な偏見である。 世界中の各国にたくさんある大学〔の大学生〕あるいは高校〔の高校生〕をいちいちランクづけすることは,困難である。だが,彼らを留学生としてうけいれるに当たっては,就学年数や学生個人の日本語力,専門領域の修学可能性などがわかれば,それで十分である。 以上,いわば「学生の学力の評価‐判断に関するもっとも基本的な要因」はわざと無視し,自国の「1条校」要件や,海外の「国際〔米英〕的な認証」を前面に立てている。しかも,国内にあるインターナショナルスクールにだけ「日本の国立大学入学資格」を認めるという発想は,特定の国々を限定的にとりあつかおうとする本心を〔さらにいえば本当のところは日本国内での話なのだが〕,故意に隠した〈閉鎖的・うしろ向きの姿勢〉である。その実体は明らかに,在日系民族教育学校に対する差別的処遇である。 3)「日本辺鄙(ヘンピ)的な国際基準」 したがって,文部科学省の「インターナショナルスクールについては,英米にある民間の評価機関によって認証をうけていることを資格の条件とする方針である」とするものは,出発点からしてとてもおかしい。 日本の高等学校卒業生については,もっぱら「1条校」と認可された高校の卒業生であれば,国立大学入学資格については誰でもその資格はある。それなのに,なにゆえ,日本にあるインターナショナルスクールや外国〔欧米系〕の高校を卒業した者に注目して,そうした「国際的な資格」を認証要件とするのか? いままでに特別なかった認定基準である。 「英米にある民間の評価機関によって認証をうけていることを資格の条件とする方針である」というが,しかし,この認証方式をもって当該の問題,すなわち「海外各国すべて〔欧米だけでなくアジア,アフリカ,中南米〕の高校に在籍する日本人高校卒業生」に関する認証基準を,統一的に用意することができるのか? 恐らくこの質問は,はじめから欧米系だけを考慮し,それ以外は想定外である「文科省の観念的立場」では答えられない。 4)「アジア蔑視の教育政策」 要は,日本政府:文部科学省の披瀝する理屈そのものが「アジア軽侮」,アジア系民族学校に対する「民族差別」的発想である。 文科省関係者は,最近急に浮上してきた「北朝鮮方面関係の政治‐外交情勢」を,いきなり「国民感情」論的にもちだした。そして,これまで認めようとする意見もなかったわけではない「韓国・朝鮮人系の民族学校〔高校〕卒業生の国立大学入学資格」は,いまさららしく彼らには与えないと決めこんだのである。特定の予断=先入観があったと指弾されて当然である。 「教育の世界」に「政治の理屈」を直入させるやりかたは,「偏見と差別にまみれた」「つたない心情論一辺倒の展開」でしかなく,その狭量さ:視野狭窄性は非難の対象にしかならない。それは,韓国・朝鮮人系の民族学校〔高校〕卒業生に対する偏見と差別を赤裸々に表白するだけでなく,自国人の海外学校卒業生や国内のインターナショナルスクールに対する処遇としても,一貫性がない面を表出させている。 「英米にある民間の評価機関によって認証」を要求する点は,その範囲が特定の国々〔アメリカ,イギリス,ドイツ,フランス……〕にしかおかれていないゆえ,全世界的次元においては均衡が全然とれていない。当該の問題を,いっそう複雑化させるゆえんである。海外でも発展途上国に居住している日本人の子弟・子女は,全員が日本人学校にかよっているという前提での話となるわけである。 「英米にある民間の評価機関によって認証」が「学校教育法1条校」に相当するものと認定している。それも,a) 海外〔とくに欧米〕に在住し現地の学校にかよう〈日本人子弟・子女〉や,b) 日本国内のインターナショナルスクールにかよう〈海外企業駐在員の子弟・子女〉を想定した「認証」にかぎっている。つまるところ,c) 在日韓国・朝鮮人系民族高校卒業生に関する「国立大学入学資格」の問題は,その圏外に追放したつもりなのである。 逆にみてみると,欧米がわ教育機関では,日本文科省の「1条校」規定に関して認定をおこなっているか〔利用しているか〕といえば,やっていない。なぜなら,とりあえず就学年数で判断すれば充分なことであるからである。 --日本の大学業界は現在,私立大学の経営はむろんのこと国立大学の運営も,非常にきびしい大学「冬の時代」に突入している。 私立大学は,中国や韓国などの高等学校からの留学生を大勢うけいれ,大学経営の有力な支柱にしてきている。留学生の特別枠というかたちで彼らを受験させ合否判定をしてうけいれている。だから,その入学試験においては,「欧米の認証」や日本高校並の「1条校」要件などまったく無関係なかたちで,必要に応じてどんどん入学させている。 国立大学も公立大学も私立大学も,いちおう大学としてはみな同じものである。公立大・私立大の半数以上は独自判断で,受験機会を公平に与えるといって,在日韓国・朝鮮人系民族高校卒業生に対しても受験・入学を認めている。だが,国立大学は文科省に牛耳られ,言いなりになっており,彼らに入学資格を認めることができないでいる。 前掲の記事,「京大,大検なしで外国人学校卒業生にも入試資格へ」(『朝日新聞』2002年9月13日夕刊)という動向もあるが,今回における文科省関係者の議論が決定的となり既定方針にされれば,京大のその方向性はつぶされるにちがいないだろう。文科省の提示してきた理屈が正しいのであれば,「受験機会を公平に与えようと独自判断で在日系学校卒業生に受験・入学を認めている」公立・私立大学は,絶対にまちがっていることになる。文科省はなにゆえ,こちらの公立・私立大学に対しては国立大学に対するような行政指導をおこなわないのか。文科省の立場は一貫していない。 ともかく,公立大学や私立大学の半数以上は,在日韓国・朝鮮人系の民族学校卒業生に対して大学入学資格を認めている。それなのに,国立大学の入学資格に関しては,国立大学に対して絶対的な管轄‐指導権をもつ文科省がそうさせないというのである。こうした構図は,みようによっては奇妙きてれつであり,明らかに断層がある。
5)「政府の認可(日本)とNPOの認証(アメリカなど)」 海外〔とはいっても欧米先進国中心の〕「インターナショナルスクール卒業生」は,たとえば,アメリカ・イギリス・ドイツ・フランスなどの国家‐民族的な教育をうけてきている。それでも「欧米の認証」(アメリカはWASC:西部地域学校大学協会,イギリスはECIS:ヨーロッパ国際学校協議会などの認定組織)があれば,日本の国立大学の入学資格は認めるという理屈が,どだいおかしいのである。 たとえば,アメリカのWASCは,こう謳っている。
それでも文科省は,アメリカのWASCが自国の「1条校」に相当する認証としてこれを利用できると判断したのである。だが,その判断を下すに当たっては,どのような相互「比較の方法」を用意してこれを客観的に適用しておこなったのか,はっきりしない点である。 アメリカのWASCの“Accreditation”と日本の「1条校」認定基準とは,雲泥の差がある。 一方は,第3者的な中立の民間協会が100年もの努力を重ねてきて,一定の基準を当てはめて学校の評価をする機関であるのに対し,他方は,日本の官庁組織が国家的価値観を背景におき,つまり,国家価値観的に偏った認定基準をもって特定の学校群を「1条校」に認めず排除しようとする機関である。 米日間の各関係組織〔政府の機関か否かのちがいがおおきい〕にかいまみえる,あまりにも対照的な性格は,今回における文科省の主張を〈眉唾〉ものと疑わせるに十分である。 もともと,韓国・朝鮮人系の民族学校〔高校〕卒業生に対しては,その国家‐民族性の涵養をする教育の背景思想が問題だといって,国立大学の入学資格を認めてこなかったのが,日本政府‐文部科学省の主張:本音であった。 ところが,日本にある「インターナショナルスクール」系卒業生の入学資格の問題が出てきたら,外国である「欧米の認証」をもちだして「1条校」なみにあつかいうるといった。これは,たいそうヘンテコで〈チグハグな理屈〉である。 だが,アメリカでの,星条旗をかかげこれに敬意を表させ,国歌(U.S.National Anthem)を唱う学校に関する認定基準が,どうやったら,日の丸を掲揚させ,君が代の斉唱を強制する日本の学校の認定基準につかえるのか,不思議である。文科省の価値観にしたがうならば,その形式論理面からして疑われてよいはずである。 アジア系教育機関の背景に控えるだろう民族性・国家性は認めないが,欧米系教育機関のそれについては,特別の議論もなしになんとはなしに認めている。こういうご都合主義,ヘリクツの〔無意識的にも映る〕つかいわけのことを通常は,「ダブルスタンダード(二重基準)」といい,さらに,実際にそういうことをいう者は「二枚舌」の持主と指さされる。 なぜなら,日本の文科省が韓国・朝鮮人系の民族学校の存在じたいを認めたくない理由の根本には,民族性・国家性の問題が控えていたからである。明治以来,侵略し植民地化してきた国家や地域の人・民族は,一段下にみてきており,いまだそうしたみかたを完全に払拭できていない。そのために,日本国内にアジア系の子弟・子女を民族‐国家的に教育する機関が存在するという事実じたい,実にガマンならぬことなのである。 在日民族系の学校では当然,その国々の国旗が掲揚され,国歌が唱われる。文科省はそれが気に食わない。今回における問題はそれだけでない。しかし,その点においては同じ問題が出てくるのが,欧米組:アメリカさんやイギリスさんの,在日本インターナショナルスクールである。そこでも,米英の「国旗‐国歌」の「掲揚‐斉唱」がなされる。だが,こちらに対しては,日本国文科省「1条校」の認定はよろしいというのである。なぜなら,先方の「認証」があるからというのである。これでは話がずいぶんおかしくなってきた。 もっとも,アメリカのWASCは国旗だとか国家だとかを直接問題にしていないが,日本の文部省はそうではない。 欧米系インターナショナルスクールの優遇とアジア系民族学校の冷遇の姿勢は,いうまでもなく明らかである。これは「脱亜入欧」の現代版である。日本政府が難民のうけいれをしぶり,亡命者をいやがる姿勢と共通するものがある。 また,とりわけ問題に感じるのは,欧米優遇とアジア冷遇の姿勢が,旧来からの「偏見や差別」の基盤:「日本国粋的精神」と無縁でないことである。 かりに,アジア諸国がアメリカのWASCやイギリスのECISに相当する評価認定機関を用意したうえで,それに在日系民族学校〔高校〕も「認証」されているから,その高校の卒業生に対しても日本の「国立大学入学資格を認めてくれ」と要請されたら,日本文科省はどのように対応するのだろうか。 どうみても「はじめにアジア蔑視の排外精神あり」なのである。いかにしたら,民族系学校卒業生である韓国・朝鮮人の子弟・子女にも,国立大学の入学資格を認められるようにできるかという議論ではなく,それを認めないとする理屈=規定方針を固めるための議論しかない。哀れ……。 6)「途中の〈ま と め〉」 a) 海外の学校〔欧米系の話だが〕や日本国内のインターナショナルの卒業生だからといって,なにゆえ,日本人学生に関して「欧米の認証」を要求するのかという根本的な疑問が生じてくる。文科省の理屈や感覚でいけば,同じ日本人なのだから就学年数を判断基準にすれば,それでいいのではないか。いままではこの基準でやってきている。とりあえずはなにも支障がない。 b) それ以外の「認証」の手だてはないのか。文科省の1条校で認可されている日本の高校といっても,千差万別の高校がある。それこそピン‐キリである。こちらでは「卒業試験」もやらず,大学入学「資格試験」,あるいはそれらの高校に対する「認定機関による認証」もやられていないのに,受験するか否かはべつとして国立大学の入学資格があるという。なにか変である。 筆者はすでに,日本政府文部科学省のアジア人,とくに隣国人である韓国・朝鮮人の子弟・子女に対する民族差別的態度に関して,そうとうくわしく考察してきたので,ここではその議論はくりかえさない。 それにしても,文部科学省の出した今回の「民族学校卒に国立大学の入学資格を認めない」という方途は,完全に時代錯誤である。 本ページでの議論の出発点にあった筆者の論稿,「定住外国人差別の一事例―日本政府が外国人学校卒業生の大学入学資格を認めない歴史的な理由―」(1977年6月公表)は,こういう関説をおこなっていた。
在日韓国・朝鮮人系の民族学校で多少特徴のある領域の教育を「部分的にうけてきた」高校生でも,日本の国立大学を受験することになったときに「合格する・しない」は,日本人高校生とまったくかわるところがない。すなわち,なんといっても本人の実力と努力しだいなのである。 それにくらべて,海外駐在員〔外国人のこと〕の子弟・子女や,海外帰国〔日本人のこと〕の子弟・子女が,日本の高校〔など〕にはいかず〔事情でいかれず〕に,日本にあるインターナショナルスクール系の欧米高校を卒業したばあい,日本の国立大学を受験できる資格をえさせるためになされた工夫が,「欧米の認証」を判断基準に採用するかたちにしておき,その問題=障害をなくさせることだったのである。 しかし,他人の褌でスモウをとるような方法は,いかがなものであろうか? 文部省の主体性は,どこへ飛んでいってしまったのか? さきほどもいったように,そうした認証基準を設けるのであれば,日本で独自の高校卒業試験,つまり〔国立?〕大学入学資格用の試験を用意し,これを実施すればよいではないか。この試験をうけられる資格は就学年数にしておけばよい。その後さらに国立大学を受験して合格するかしないかは,当人たちの実力と努力の発揮しだいである。 とはいっても,そのような卒業‐資格試験を実施したら,日本の高校を卒業する予定の学生のなかから多くの不合格者を出すこと請けあいである。なぜなら,昨今における日本の高校生の学力低下は顕著だからである。 7)「日本弁護士連合会」の批判的見解 日本弁護士連合会は1998年すでに,「インターナショナルスクールと朝鮮学校の生徒が学校教育法に定める学校に相当する教育をうけているのに,入学資格を認めないのは重大な人権侵害だと」とする勧告書を日本政府に提出している。 日本政府の官僚のあいだにも,「学生の人生を左右する教育上の判断を時の政治情勢で決めるべきではない」との意見が少なからずあると指摘されている。 ところが,文科省は,韓国・朝鮮学校の生徒の「入学資格」問題を,インターナショナルスクール系卒業生の問題から分断する作戦に出たのである。いわゆる分割統治(divide and control)の手法をつかった,というわけである。 かといって,インターナショナルスクール系卒業生の全体を配慮したうえでの提言かと思いきや,そうではなく,そこにかよう日本人学生だけをもっぱら念頭においた議論をすると同時に,煮詰まってきたかにもみえた韓国・朝鮮学校の生徒の「入学資格」問題を,わざと棚上げするために画策した議論でもあったのである。 まことに,語るに落ちる話……。 8) 外国人学校の実態 文科省によると,日本全国で各種学校になっている外国人学校は約120校ある。そのうち英語で授業をしているアメリカンスクールなど,いわゆるインターナショナルスクールは約20校,朝鮮学校は約90校,韓国学校や中華学校など朝鮮学校以外の学校は約10校である。児童数は全体で約2万1千人,このうち約1万1千人が朝鮮学校にかよっている。 話は簡単である。特定の欧米系学校の卒業生はよろしいが,朝鮮系はじめ韓国系,中国系はダメよ(!)といっているにすぎない。今回時間をかけてきた議論にしては,旧態依然,なんの新味もない結論である。 文科省の関係部署やその担当者に,もう一度問わねばならない。公立大学や私立大学が在日民族系高等学校の卒業生に入学資格を認めていることは「まちがっていないのか?」 まちがいだと思うのならなぜ「やめさせないのか?」 まだ,時間がかかるかもしれない。しかし,歴史の審判が必らず近い時期に下るだろう。 9)『朝日新聞』社説(2003年2月22日) 筆者が以上の記述を2月21~22日におこなっていたら,22日朝日新聞「社説」が早速,今回の問題「大学受験資格-民族学校」をとりあげ,文科省の結論をつぎのように批判していた。
この社説は,日本の「教育を司る」政府の関係組織に対する〈忠言〉である。 世相の表層の流れに眼を奪われ,一時の問題にこだわりすぎて,将来をみあやまるべきではない。小心翼々にみえる。ふだんは「国民の教育」を指導する最高機関であることを自負し,いばりちらしている官庁であるのに,今回はなんとへっぴり腰であることか……。 筆者自身の体験を思い出す。それは,小学生の高学年から高校生の時代をすごした昭和30年代〔1960年前後〕のことである。日韓(韓日)会談における両国の政治交渉が難航していた時期である。筆者は,在日韓国人の子弟としてずいぶんひどい教育的待遇をうけてきた。 その体験は,子供心にも政治的情勢の影響があったことを感じさせるに十分だったが,こういう思いは,人間の成長・発達にとって悪い影響を与えかねない要因である。いまとなってなお,歴史はくりかえされる,ということにしてほしくない。 なにも関係のない,罪もない在日韓国・朝鮮人の子弟‐子女〔3世どころか,もう4世の時代である〕に対して,どうして既述のような「教育上のイジメ=差別的処遇」をくわえねばならないのか。 北朝鮮と日本の国交回復がいまだ実現できないのは,必らずしもあの国のせいばかりだとはいえない。文科省のような教育行政のほうが,よほど質が悪いとみるべき面もある……。 10) 焦点をずらしたまやかし的な態度 政治外交の政策概念として「相互主義原則」がある。日本政府文科省は,「欧米の認証」をもって,インターナショナルスクールを「1条校」並みにあつかう姿勢をしめした。だとしたら文科省は,日本の高校〔当然「1条校」の〕卒業生を,欧米関係諸国における「高校卒業試験合格者」=「大学入学資格の保持者」として「認証」することを要請したのか(あるいは,以後において要請するのか)? だが,この問題提起は,無意味な設定である。なぜなら,そのような要請をしなくても日本の高校を卒業した学生は,欧米やほかの国々の大学を受験することは,いくらでもできるからである。在日韓国・朝鮮系民族学校の高校卒業生も,日本国外では同様である。 にもかかわらず日本は,なにゆえその逆の関係,つまり,日本国内の欧米系インターナショナルスクールの高校卒業生にのみ,国立大学の入学資格を与えるとわざわざ断わることにしたのか。よく観察してみると,1人芝居にみえる。 明らかなのは,こういう点である。 つまり,一方における,在日韓国・朝鮮人系民族学校の高校卒業生〔既述のようにこちらが多数派であった〕に対する大学入学資格〔むろん国立大学の〕問題を意図的に排除するために,他方における,欧米系インターナショナルスクールの高校卒業生にかぎって大学入学資格を認定することが強調されたのである。 すなわち,欧米系インターナショナルスクール〔高校卒業生〕の「認証」問題を前面に押し出す《局面》を設けて,当面,在日民族系高校卒業生の存在・意味を矮小化,希薄化するという〈まやかし的な便法〉をつかったのである。いうなればそれは,毎度おなじみの「小手先の小細工」であり,問題の本質を回避した結論であった。 結局,「在日韓国・朝鮮人系民族学校の高校卒業生」に「国立大学の入学資格」を認めるかどうかという肝心の問題は,意図的に後景にしりぞけられた。 文科省の態度は,日本社会のなかで北朝鮮という国の印象が悪化したとき,民族学校=朝鮮学校の女子学生が通学時に〈民族衣裳〉を切り裂かれたり暴力をうけたりする事件が頻発してきた事実を,そのまま容認することになりかねないものである。 文科省は今回の議論にさいして,最近の「北朝鮮情勢」と「日本国内の教育問題」とを浅薄にも直結させた。この結末は,教育体制を管轄する公的官庁であるにもかかわらず,日本社会内のまちがった風潮を是正させる意欲すらないことをうかがわせる。 *
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11) その後の報道から考える -〔A〕-
すでに解説したように,『1991年1月10日にもたれた韓日外相会議の「在日韓国人の法的地位及び処遇に関する覚書」は』,『日本社会において韓国語等の民族の伝統および文化を保持したいとの在日韓国人社会の希望を理解し,現在,地方自治体の判断により学校の課外でおこなわれている韓国語や韓国文化等の学習が,今後も支障なくおこなわれるよう日本政府として配慮する』と合意した。 思うに,在日韓国系の民族学校に対して日本政府がそういう合意にもとづく配慮をしたばあい,どのような基準で判断するのか不明瞭なことなのだが,そこで教育をうけている児童‐生徒‐学生に実力‐学力に関しては,「一定の水準の確保」というものにおいて,なにか重大な障害が生じるという「価値判断」があるかのようにも映る。 とはいっても,前段のごとき「合意のある‐なし」にかかわらず,また時代の進歩にもかかわらず,これまでの文科省の姿勢に実質的な変化があったわけではない。文科省の本音では,在日〔永住〕する外国人たちとくに,韓国・朝鮮人や中国・台湾人の歴史や伝統,言語,文化を民族‐国家(nation-state)精神的に教育する機関の存在じたいが,どだい気にいらないし,もちろん積極的に認めたくもないのである。 とはいえ,日本の社会もそうとう国際化してきており,「日本人らしからぬ〔?〕日本国籍の保持者」もふくめ,新来の「外国人」もその滞在者の数を徐々に増してきている。 昨今における時代状況の質的変化を踏まえるとき,異民族排斥・異文化不寛容の真意:態度を露骨に出したかたちで,在日アジア系教育機関の高校卒業生に対する「国立大学の入学資格」拒否を理屈づけることは,やりたくてもやるわけにいかない。だから,その理屈づけはほかの方途に求めねばならない。 日本社会にまだ根強くある「よそ者:害国人」だとみなす差別精神が国際社会に悟られたりしたら,これは非常にまずい。日本は,難民や亡命者の受入にきわめて消極的な国だという悪評もある。それゆえ,在日アジア系教育機関の高校卒業生に対する「国立大学の入学資格」拒否の理由は,明確にちがった根拠にみいださねばならない。 それでも文科省はとりあえず,今回「在日韓国・朝鮮人系民族学校の高校卒業生」に「国立大学の入学資格」を認めない理由として,いままでさんざんつかいふるしてきた理由:「一定水準の教育の確保」を,またもやその根拠に挙げたのである。したがって,よりいっそう問題となるのは,その根拠をさらに裏付けようともちだした条件・要因である。 時の流れとは無縁,進歩や発展や成長という概念・意識・感性のひとかけらもみられないのが,日本国の文科省および所属する官僚たちの精神構造あるいは時代感覚である。 -〔B〕-
もしも,海外日本人学校にかよう子弟・子女の高校卒業生が,地元の国立大学に「入学資格」を認められないという国があったら,日本の文科省はなんといって抗議するのか。相手国から「お国でもそうやっているようですね」といわれたら,もうかえすことばもないだろう。 海外日本人学校は,日本の教育法:「1条校」に準拠した教育機関である。つまり,日本国が自称するところでの「一定水準の教育の確保」ができた高校生を卒業させる,海外の学校である。それなのに,海外の当該国がこの日本人学校の高校卒業生に大学入学資格を認めないとき,それはおかしいと抗議することになるのか。自国〔日本〕の作法にしたがうとこの抗議は,やってもとおらないものである。 さりとて,そういう事態が外国でおきているかどうか筆者は寡聞にしらない。実際,いまのところ,そのような問題が具体的に生じているわけではなく,日本政府がとくべつ対応すべき必要性も出ていない。 文科省はもともと,在日アジア系教育機関に対しては,いわゆる「1条校」の認可基準すらあまり認めたくないという「抜きがたい先験的な固定観念」をもっている。 日本の私立大学・公立大学の過半は,韓国・朝鮮系や中国・台湾系の民族学校高等部を卒業した生徒に対して,大学入学資格を認めている。彼らがそれらの大学を受験・合格,きちんと卒業し,その後社会に旅立ち活躍していく事実がある。また,彼らが諸外国の大学・大学院まで進学し,これまたきちんと卒業・修了したのち,世界に羽ばたいていく事実もある。 文科省は,在日アジア系民族高等学校卒業生が挙げてきたそうした実績を横目でみながらも〔みようとしない?〕,「一定の水準」などという「わかったようでわからない拒否のいいわけ」を,いまもなお,在日アジア系民族高等学校卒業生に向けて性懲りもなく繰りだし,教育制度上の差別を平然とつづけてきている。 だいたい,欧米系の教育認証機関が認めた基準を,文科省が日本の立場でわざわざ認めるという根拠は,なにか? それでは逆に,日本「文科省」は「1条校」の基準をもって,他国に対しても「認証基準」に採用することを要請するのか? -〔C〕-
どうして,欧米系インターナショナルスクールに対して「1条校」の判断基準を当てはめて評価しないで,「欧米の認証機関の基準」を借りて認めたのか? 在日韓国・朝鮮人系の民族学校には2校「1条校」が存在する。なぜ,「同じ対象」(外国人系学校)なのに,それぞれ「異なる基準」を当てはめ,つかいわける認可のしかたをとったのか? 一方においては,欧米系インターナショナルスクールに関して英米の教育認証機関が認めていることを,なにやら「葵の紋章」あるいは「錦の御旗」みたいに主体性もなく,他人任せの形式=〈他人の褌でスモウをとる〉ようにうけいれた。なぜなのか? 他方においては,在日韓国・朝鮮人系民族学校などに対して「自国の認定基準」を厳格に適用し,これまで韓国系外国人学校2校に対してのみ「1条校」を認めてきたのだが,今回問題となった「欧米の認証機関の基準」を,この2校には当てはめていない。なぜなのか? 筆者はさきに,日本文科省のそうした行政上の姿勢を「ダブルスタンダード(二重基準)」の「二枚舌」的行使と批判した。それは,欧米系インターナショナルスクールとアジア系民族学校をめぐってつかいわけられ,論理的整合性ならびに実質的妥当性において根拠を欠いた,文科省の「国立大学入学資格」の認定方法を指して提示したものであった。 今回,この問題が出てきたのち報道機関の記事内容をみても,「文科省が欧米系インターナショナルの高校卒業生に国立大学入学資格を認めた」ことじたいに関する,客観的な理由・事情・背景などを具体的に説明するものはない。ただ,そのように決められたことが言及されたにとどまる。 要は「はじめに結論ありき」であって,そのあとに「とって付けた」ような「いいわけ」しか述べられていない。なんといっても「ダメなものはダメだ」という,文科省のかたくなな姿勢がめだつのである。 いうところの「一定の水準」を判断する明確な基準はなにか。それが文部科学省官僚の胸のうちに秘密にされ,かつ自由裁量に任されているようでは,「他者=国外・国際社会」のみならず「国内の仲間=在日韓国・朝鮮人〔など〕」をけっして納得させうるものとはならない。 -〔D〕-
◎「民族教育促進協議会」(大阪市,郭 政義代表)……「時代逆行の検討」。 ◎「全国在日外国人教育協議会」(全外協,藤原史郎会長)……「許しがたい差別判断」。 ◎「中華学校6年生の新聞投書」……「ぼくの学校では中国語のほかに日本語の授業もあるし,算数,理科,社会科は日本の教科書をつかっているし,1年生から英語の授業もありました。 それに友だちにはアメリカ国籍の子もいたし,ぼくみたいに日本人の母と台湾人の父のように,2つの国籍をもっている子もいます。日本国籍の子も大勢います。たくさんの科目があって宿題も多くてたいへんだけど,将来,大学で自分のやりたい勉強ができるようにがんばっています。 どうかぼくたちのかよっている中華学校も,他のインターナショナルスクールと同じように,大学をうけさせてください」(『朝日新聞』2003年2月28日朝刊「声」欄。注記:日本語での投書である)。 ◎「翻訳業の女性の新聞投書」……「北朝鮮の体制やおこないを理由に,民族学校で学ぶ子どもたちが教育をうける権利をとりあげるというこの不条理な考えに,1市民として怒りを感じる。しかも民族学校を認定することは,〈朝鮮学校を学校教育法上の学校と同じようにあつかうこととなり,これまでの文科省の立場を否定することになる〉という強い反対論もその背景にあるという。 これは一国のプライドとやらを保ちたいがために,過去の過ちを直視してこれをあらためることをしない無責任なこの国の姿勢そのものである。この国では罪もない子どもの権利より1省庁の立場のほうが重んじられるというわけだ。この判断は民族学校に対する差別だけでなく,市民の権利がないがしろにされている事実を露呈している」(『朝日新聞』2003年3月5日朝刊「声」欄)。 ◎「大学入学資格 民族差別で門戸閉ざすな」……岡山朝鮮初中級学校長,趙 成虎(チョウ ソンホ)は,1965年12月に出された「民族(朝鮮人)学校は各種学校としても認めるべきでない」という「文部事務次官通達」に触れて,今回の文科省見解は,本質的には「国籍による差別ではなく,民族差別であり学校差別である」と批判する(『朝日新聞』2003年3月13日朝刊「私の視点」欄)。 ◎「政治状況を反映し冷静な判断を欠く」(京都韓国学園副理事長,宋 基泰)。「民族をしる権利奪いかねない」(中央民族教育委員会委員長,金 容海)。「民族学校排除の合理的根拠しめせ」(大阪市立大学経済学部,朴 一)。「子どもたちの夢を摘む決定」(大阪府民族講師会共同代表,朴 正恵)〔以上『民団新聞』2003年3月12日〕。 ◎「日本が強行してきた在日同胞への迫害行為に,さらなる差別をくわえるものだ」と抗議(在日朝鮮人らでつくる教育関連諸団体が開いた緊急集会で)〔『朝日新聞』2003年3月9日朝刊)。 --筆者はむしろ,文科省の見解のなかには「新たな国籍による差別,民族による差別,学校による差別」という,三位一体的な差別複合体がみごとに表出した点をみてとる。 a)「民族による差別」は,日本社会のなかに依然と存続し,消滅しない要因をうけついでいる。b)「学校による差別」は,「1条校」によってなお堅持,継続されている。c)そこにこんどは,英語圏英米系の学校に対してだけとくべつに,大学入学資格〔国立大学のそれに限定された話だが〕を認めるという新版の「国籍による差別」がくわえられたのである。 -〔E〕-
その意味では,1965年12月「文部事務次官通達-民族(朝鮮人)学校は各種学校としても認めるべきでない」という主張は,いまだに生きている。 それゆえ,1991年1月10日韓日外相会議の「在日韓国人の法的地位及び処遇に関する覚書」の中身,「日本社会において韓国語等の民族の伝統および文化を,今後も支障なくおこなわれるよう日本政府として配慮する」とした合意の内容は,いとも簡単に反故にされてきており,当初より虚偽に近い合意(?)だったともいえる。 実はこういうことなのである。 --日本の役所の官僚機構では,一度決めたことを手直しすることは,それまでの決定がまちがっていたことを認めることになる。そのため,途中でおかしさがわかっても変更はしないし,許されないシステムとなっている(前間孝則『日本はなぜ旅客機をつくれないのか』草思社,2002年,112頁)。 --まず,日本の国家官僚機構の硬直した姿勢が問題である。くわえて,文科省の姿勢にみてとれる《対アジア観の旧態依然》性がもっと問題である。 つまるところ,この国:日本のなかでいっしょに暮らしている韓国・朝鮮人や中国・台湾人をはじめ,多くのアジア系民族末裔の存在そのものを,対等‐同格の人間や集団とみなし,共生する仲間としてみることができていない。 文科省の姿勢のなかには,日本社会に巣くう宿痾の先端〔末端?〕がのぞける。 -〔F〕-
けれども,国立大学の教職員たちは,「国立大学受験資格」を,欧米系のインターナショナルスクール高校卒業生にのみ認め,韓国・朝鮮系および中国・台湾系の「民族学校卒業生」には認めない「文科省の態度」を,批判する動きをしめしている。以下は,2003年3月中旬における関連の動向である。 a) 東京外国語大学中野敏男教授らが文科省を訪れ,「民族学校排除の方針」に反対する要望書を,遠山敦子文科省大臣あてに提出した。 b) 京都大学大学院教員駒込 武らも同様に,「朝鮮学校など民族学校の卒業生にも大学入学資格を認める」よう求める要望書を提出した。 c) 在日韓国・朝鮮人の信者も多い創価学会を支持団体とする公明党は,冬柴鉄三幹事長が遠山文科相と面談,「朝鮮学校などアジア系学校の卒業生にも同じ時期から大学入学資格を与える」よう求めている。 *
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12) その後の報道から考える〔続〕 -〔A〕-
--筆者が思うに,文科省が今後において出すだろう結論は,もうみえ〔すい〕ている感じがある。恐らくそれは,「朝鮮学校卒業生にかぎっては資格を認めること」をしない結論となろう。 文科省は多分,上記の批判:「パブリックコメント(意見募集)」を配慮し,在日韓国系と在日台湾系の民族学校高校卒業生にだけは,「国立大学入学資格」を追加して認めるかたちに修正する。以後この対応処置をもって,当該問題に関して指摘されてきた外国人「差別だ」とする批判を,部分的かつ弥縫的に回避する方針をかかげる。 筆者はそう予測しておく。事後,事態の推移をみまもりたい。 日本国内の在日系子弟・子女の教育問題を「北朝鮮情勢」と直接にむすびつけ,〈差別〉するための正当な事由とするやりかたこそ実は,「本物の差別観」の露呈・行使であることをしるべきである。 教育は「百年の計」だといわれる。自国内の教育問題に関して〈他国籍人への差別〉〈異民族そのものへの差別〉を,平然と暴露する教育行政をおこなうべきではない。21世紀のこのさきを展望し,将来どのような評価を与えられるかをみこした識見が,この国の関係者においては備わっていない。 ところが,「在日アジア系民族学校高校卒業生」に関して「国立大学入学資格」を認めないと,あらためて表明した今回における文科省の態度に対しては,圧倒的ともいえる「パブリックコメント(意見募集)」での反対意見が出現した。 なんと,反対96%,賛成4%である。 今回「在日アジア系民族学校高校卒業生」に関して「国立大学入学資格」を認めないとの結論を出した文科省関係の識者〔?〕たちは,いったい,世の中の実相のなにをみて,またなにを考えながらこの結論:「アジア系民族学校高校卒業生」の「大学入学資格《拒否》」を決めたのか。 上記の記事のなかには,「なお時間をかけた検討が必要と判断した」という文科省の〈判断〉がある,と報道されてもいる。だが,いまさらなにをグダグダといいわけし,逡巡しているのか。不可解なことこのうえない。文科省のこういう姿勢:態度の奥底に抜きがたい〈差別の基盤〉をのぞきみ,その臭いをかぎとることはたやすい。 -〔B〕-
文科省は「当初案は合理的だが,アジア系学校にも入学資格の拡大を検討すべきだとの結論になった」と説明する。けれども,こういう論法はふつう「詭弁」と称される。 「当初案が合理的であった」と確信できるなら,その後においてあらためる余地は,まったくないはずである。どういう理由で現在「合理的でなくなったのか」? 「パブリックコメント(意見募集)反対96%,賛成4%」がその理由か? ならば,なぜはじめから「パブリックコメント」を尊重しなかったのか? いまさら悠長に「アジア系学校にも入学資格の拡大を検討すべき」というのは,文科省の不誠実や不手際,みとおしの甘さを棚上げしたものである。いわば「予断:決めつけ」「傲岸不遜」「偏見」「狭量」。 しかも,官僚用語である「検討する」〔ただしこの表現は「検討しない」という意をもつばあいも多い〕との答えを出したところは,みずからの不見識をおおいかくす厚顔無恥である。 -〔C〕-
こういう事情もある。英語教育にも力を入れている現地のエリート校も関心をよんでおり,はじめから現地校をえらぶ子供の増加も予想されている。日本人社員の増加に比例して,日本人学校の生徒が増えるとはかぎらない。 --ところで,日本人学校の卒業生〔中学生〕をうけいれている中国の現地校が,中国現地教育当局の意をうけて,それら日本人子弟・子女の入学に条件をつけたり,入学をこばんだりしているという情報は,いまのところまで寡聞にしてしらない。 つぎに,やはり2003年4月9日朝日新聞朝刊は,経済同友会が「卒業試験重視」と訴えたことを報道した。 経済同友会の教育委員会(委員長・河野栄子リクルート社長)は,提言「若者が自立できる日本」を発表し,その具体的な1項に「入学試験重視から卒業試験重視へ」という点を挙げた。 --現実的にみてその提言は,日本の文科省がこだわる「国立大学入学資格」をめぐって,日本の教育界に重大な〈含意:疑問〉を投げかけるものである。 すなわち,国立大学の受験資格において高校〔卒業〕生に形式的な要件を重視する「入学試験」の問題に重ねるかたちで,大学〔卒業〕生に対しては,内容的な要件=実力:学力を要求する「卒業試験」を前面に出した議論を,経済同友会はもちだしたことになる。 そういう議論を突きつめていくことになれば,文科省のいう〔〈合理的な事由〉をほとんど欠いた〕「国立大学入学資格」などという論点は,簡単に吹っ飛んでしまう可能性もある。 いわば,文科省が国立大学入学資格として「高校卒業生に課す形式的な要件」と,経済界が主に「大学卒業生に要求したい実質的な要請」とのはざまに反映する現象はまさしく,文科省の恣意的・主観的な,いいかえれば偏見的・差別的な「在日外国人学校およびこの在学生に対する文教政策上の姿勢・態度」である。 産業社会に輩出されるべき有用な人材育成を要求する経済同友会の提言「実質論」は,文科省行政の「形式論」の虚を突くことになり,その恣意的・主観的かつ偏見的・差別的な非合理的な感性とアジア蔑視の理屈を映し出す鏡ともなった。
-〔D〕-
敗戦後に復活した留学生第1号だといわれる同志社大学経済学部学生奥村 茂は,1950年に大学から推薦され,同志社の創立者新島 襄の出身校であるアマースト大学に,姉妹校という関係もあって留学した。 その留学にさいして奥村は,助言を求めてマッカーサーに手紙を出した。奥村は同様の手紙を10通ほど出した。アイゼンハウワー,エレノア・ルーズベルト,シカゴ大学総長のロバート・ハッチスン,そして胡 適などであった。 奥村いわく「驚いたのは,数年前までは敵性国家の1学生からの手紙に,世界的な有名人がつぎつぎと返事をくれたことです。日本では考えもつかないこと。これぞ民主主義というのが私の実感でした」。 奥村は同時に,日本に帰国後の感想を,こう述べていた。 「渡米したときのカルチャーショックもすごかったが,帰国時の精神的ショックはそれ以上でした。日本はなんという国か,とガックリしました」と。 なぜか? アメリカの大学卒業資格は,日本では大学卒業資格として認められず,公務員試験や司法試験を受験できない。それのみか,日本の大学への学士入学試験の受験資格もない。ようやく学士入学を認めた東京大学の法学部に入学したという(同書,241-243頁)。 この日本人自身に対する日本という国の冷たい仕打ちは,本ホームページで論じてきた中身と同じ筋道・性格のものである。奥村の口つきを真似ていうなら,日本文科省による文教政策の一環としての「大学入学〔卒業〕資格」問題をめぐる方針・姿勢は,「これぞ非民主主義」の好例:見本である。
-〔E〕-
「在日アジア系民族学校高校卒業生」に対して「国立大学入学資格」を認めない日本の文部科学省の姿勢に「対話」的要素をみいだすことはむずかしい。 最近,在日韓国人系組織である民団(在日本大韓民国民団)が発行する新聞『民団新聞』2003年6月11日号は,「外国人学校・民族学校の問題を考える弁護士有志の会」(共同代表=新美 隆・丹羽雅雄)の記者会見を報道し,文科省の姿勢をこう批判した。 2003年6月5日,文部科学省で記者会見した「弁護士有志の会」共同代表の新美 隆弁護士は,「現行法でも大学入学資格に道を開くのは可能なのに,文科省の通達行政が大きなガンになっている。〔国立などの〕大学がわがあいもかわらず文科省の通達にしたがうならば,こんどは大学自身の責任も問われる」と述べた。 新美弁護士は,大学入学資格を規定した文科省の学校教育法施行規則第69条について,民族学校排除がいかに恣意的におこなわれているかを指摘,法理論面からも各条項ごとに問題点を指摘,矛盾点をただしている。 結局「大学入試をおこなうのであれば,入学資格そのものが不要。民族学校排除は差別そのもの」という批判も集まっている。 さて,筆者が一瞥したところでの主観的判断にすぎないが,先述したフランスの高校卒業試験「バカロレア」は,日本の大学における入試問題〔それも小論文問題〕よりはるかにレベル(抽象度)が高いように感じる。 端的にいって,レベル(理念)が低い〔ない?……ただし差別はある!〕のが「文科省の文部〔通達〕行政」である。文科省はその「通達行政」を悪用し,とりわけ管轄下にある国立大学に対して,在日アジア系民族学校高校卒業生の入学資格を完全に認めさせてこなかった。そういう「国家的な国民‐民族《差別》」をつづけてきている。 -〔F〕-
国立大の8割,外国人学校卒業生に入学資格「与えたい」 朝鮮学校などの外国人学校の卒業生が大学の入学(受験)資格を無条件でえられない問題で,朝日新聞社が全大学の学長を対象にアンケートを実施したところ,現在は認めていない国立大の学長の8割近くが「与えたい」と回答した。私立大で,「すでに認めている」と答えたのは4分の1にのぼった。 ほとんどが各種学校である外国人学校は,学校教育法1条で定められた学校ではないため,卒業生は大学入学資格検定(大検)に合格しないと資格が認められていない。 今回のアンケートは,国公私立大学 701校を対象に実施。「朝鮮学校など外国人学校の卒業生に受験資格を与えたいと思うか」と聞き,国立96校,公立73校,私立 451校の計 620校(回答率88%)から回答をえた。 これまで国立大は,文部科学省の方針などから外国人学校の卒業生に資格を認めてこなかったが,74校(77%)が「与えたい」と答えた。「認めない」は7校(7%)だった。 受験資格を公平にしようという独自判断で受験・入学を認めてきた公立,私立大は少なくない。公立の15校(21%),私立の 115校(25%)がすでに認めていると回答した。公立の66%,私立の61%は今後,与えたいという考えをしめした。 朝日新聞社が1999年に実施した国立大の学長を対象にしたアンケートでは,回答のあった97大学のうち,46大学の学長が外国人学校の卒業生に資格を認めていない現状について「改善すべきだ」と回答している。 今回のアンケート結果からは,国立大が一段と外国人学校の卒業生の受験・入学資格を認める方向になっていることが浮き彫りになった。 この問題をめぐっては,文科省は2003年3月,教育内容が一定水準に達していると,米英の民間機関によって認証された欧米系のインターナショナルスクールにかぎり,卒業生に資格を認める方針を表明した。しかし,朝鮮学校などから「差別だ」との批判をうけ,方針を再検討している。 また,日本弁護士連合会が「人権侵害」として是正を勧告しているほか,国連子どもの権利委員会も「差別解消」を勧告している。 -〔G〕-
http://mytown.asahi.com/kitakyu/news02.asp?kiji=5040 外国人学校からの推薦入試,県立大が撤回 福岡県が異論「法令上困難」 朝鮮学校など外国人学校の卒業生に一般入試で大学入学資格を認めている福岡県立大学(同県田川市)が,2004年度から推薦入試も認めようとしたところ,県から再考を求められ,断念した。文部科学省は,外国人学校卒業生に大学入学資格を認めていないが,受験資格は公平に,という個々の判断で,一般入試の受験資格を認める公立,私立大が増えている。だが,推薦入学にまで門戸を広げようとした県立大の試みは,県の法解釈で頓挫した。 同大では,一般入試の出願資格を1995年から「高校を卒業した者と同等以上の学力があると学長が認めた者」として,外国人学校の卒業生の入学資格を認めた。 さらに2002年夏,九州朝鮮高級学校から推薦入試で受験できないかと問いあわせがあり,入試委員会が資格改定に着手した。 2003年4月の教授会で資格の対象校に「本学が高校と同等の教育をおこなっていると認める学校」をくわえると決め,学部代表者らで構成する評議会も了承。この内容は6月から進学説明会などで配布された。 ところが,県議会で知事が入学資格問題に言及した6月末,県学事課から「法令の枠内でやってほしい」と電話があり,3日の評議会で一転,改定部分に「文部科学大臣が認定又は指定した学校」と付けくわえ,外国人学校は該当しないようにした。 県学事課は,学校教育法56条が学校などの機関と学生個人の能力に着目して入試資格を定めていると解釈した。一般入試なら,「個人の能力を大学が認めた場合」として認められるが,推薦入試の場合,法律で認めていない機関の校長推薦が前提なので問題だとしている。 県の要請をうけて開かれた入試委員会では「法令は大学の判断を認めている」といった県への反発が出たが,橋口捷久学長は「最終的に法令上むずかしいと判断した。国は早く外国人学校を高校と同等と認める法改正をしてほしい」と話している。 今回の問題に対して,各種学校の卒業生は選抜方法にかかわらず入学資格がない,という立場の文科省大学課は,「一般入試と推薦入試を区別する法令はなく,県の説明は理解できない」と話している。 九州朝鮮高級学校の金 光正(キム グァンジョン)校長は,「大学がわは努力してくれたと聞いているので,残念だ」と語った。 --さて,在日韓国・朝鮮系,在日中国・台湾系の高等学校卒業生が,大学入学資格を認めている公立大学・私立大学への進学を志望し,その大学を受験・合格したとする。つぎは,無事に卒業までこぎつけられるかが課題となる。 むろん,在日民族系高校出身の大学生のなかには,在学中事情があって,退学したり除籍されたりする学生もいる。かといって,そのたぐいの出来事〔学籍移動〕は,ほかの日本の高校出身である大学生たちにも生起するものであって,とりたてて指摘しなければならないものではない。 もしも,日本の大学に進学したあと,在日民族系高校出身の大学生の「履修‐卒業」に関する「成績‐実績」が,ほかの高校出身の大学生たちに比べて「格段に低く」「有為な差」をみせる,すなわち,在日民族系高校出身の大学生のほうが「顕著に悪い」という結果が確認できるならば,文部科学省の行政指導には一理あることになる。 だが,教育法「1条校」でない在日外国〔韓国・朝鮮〕系高校出身の大学生だからといって,この「1条校」認定の高校出身の大学生よりも学力が絶対的に劣るとか決定的に差があるとかみなすのは,まったく根拠のない評定である。 そもそも,多くの公立大学や私立大学では「1条校」の認定のない在日外国〔韓国・朝鮮〕系高校高校生の大学入学資格も認め,各校が〈入学試験〉をうけさせ,選抜して合格させている。そうして,日本の大学へ進学した「在日の学生」たちのことである。だから,その出身校=「1条校認可の有無」によってなんらかの差が生じると《予断する見解》は,けっして許されない〈独断的錯誤〉を犯すものといえる。 文部科学省をはじめ関係機関などが実際に,以上に関する実態〔追跡〕調査をおこなったうえで,在日外国〔韓国・朝鮮〕系高校卒業生に対する大学入学資格を議論したり主張したりしてきたのかというと,まったくそうではなかった。もとより,高校時代に民族学校の高等部にかよっていた大学生たちのほうが出来が悪いと判断してよいような「決定的な証拠」もみつからない。 同じ入学試験を通過して選抜された学生たちをとらえ,出身校のちがい〔1条校認可の有無〕をもって「一定のちがい」があると先験的にみなすことじたい,それこそ,特定の専断的価値観にもとづく偏見・差別の感情吐露にほかならない。 文部科学省がわのいいぶんを聞いてきて理解できるのは,こういうことである。国立大学の「〈有〉入学資格の対象」から在日韓国・朝鮮系や在日中国・台湾系の高等学校卒業生を排除してきた理由は,もっぱら「1条校」の要件を欠く点に求められていた。 だが,日本国の国立大学にそのような在日の「民族系高校の卒業生」が入学・履修したばあい,たとえば「学力水準に問題があって勉学に障碍が発生する」と主張できるような「具体的な理解」にもとづいて挙証がなされたことは,いままでなかったのである。 なかんずく,在日外国人〔韓国・朝鮮,中国・台湾〕系民族学校の高校卒業生をすでにたくさん受験・合格させ,そして卒業させ社会に送りだしてきた「日本の多くの私立と公立の大学」においても,筆者が前段にとりあげたような問題点をかくべつ意識してきたところはない。 「大学入学資格」とは,いったい,なにを基準にして決めるものだったのか? 文科省が,在日インターナショナル系の高校卒業生にだけ国立大学の入学資格〔受験資格〕を認めると判断したさい,その理由に挙げた「欧米高校における卒業試験」〔たとえば,国際バカロレア機構の公用語は英語,フランス語,スペイン語の3ヶ国語である〕に関してすら,そもそも,いくつか疑問が出てくる。 ● まずバカロレア(フランス)やアビトゥーア(ドイツ)は,日本語による卒業試験ではないのに,つづいて日本の大学でおこなわれる日本語による入学試験まで,なにゆえ連続させることができるのか。前提におかれた条件が完全にちがうのである。これは,まことに不思議な「前提と発想と決定」ではないか。ここでは,留学生制度というものの存在・意義を指摘,強調しておくにとどめる。 ● つぎに「日本の大学入学試験」〔それも国立大学の入学資格〕と「欧米の高校卒業資格〔認定〕試験〔バカロレアなど〕」をいっしょくたにする,文科省の議論が根源よりおかしいことである。 通常,欧米の各国でバカロレアやアビトゥーアなどをえた学生は,基本的にはどの大学へも〔入学試験なしで〕進学できる資格を有したことになる。 ところが,日本の大学はその全国共通の高校卒業資格〔認定〕試験を条件にしていない。法律「1条校」の認可高校であることを前提にしながら,その卒業生に対して大学ごとに独自の入学試験を課している。 ● だから,バカロレアやアビトゥーアなどの〈高校卒業認定:大学入学資格〉を有した「欧米言語を母語にする学生」が日本の大学を受験する段になるや,後述のように2度手間:2重の負担が課せられることになってしまう。 筆者はすでに,こういう点を指摘した。欧米本国の高校卒業生は留学生として日本の大学に入ればよく,わざわざ日本の大学の入学試験をうけることなどしていない。だから,彼らに関して,上述のような「日本の大学への進学経路」=「〔国立〕大学入学資格」を考えようとする発想じたいが「非現実な想定」である,と。 日本の高校をふつうに卒業した学生は日本語がまともに(!?)できるので,叙上のごとき負担ははじめからない。 ● したがって,バカロレア〔フランス語〕やアビトゥーア〔ドイツ語〕などの卒業認定資格を有する外国〔人〕学生に対して,日本にきたら国立大学の入学=受験資格を認めるといってみたところで,「2次〔2段階〕にわたる日本の大学の入学試験をうけなさい」と要求するのでは,単純素朴にみても,2倍・2重〔以上,以外〕の負担(ハンディ)を彼らにかけることになる。とりわけ,そうした負担を当然視〔度外視?!〕した不公平・不公正なあつかいが問題である。 なんのことはない。バカロレアやアビトゥーアなどを有する外国〔人〕学生に対して「国立大学への入学=受験資格を認める」とはいっても,日本語の障壁がおおきいため,非現実的な話となるほかないのである。 ◎ 日本の国立大学は,英語やフランス語,スペイン語で入試をやれるのか? ◎ バカロレアやアビトゥーアなどの卒業資格をもった外国〔人〕学生であれば誰でも,東大や京大,一橋大学や神戸大学などが喜んでうけいれることになるのか? いまのところ,そうした仮定はきわめて非現実的なものである。 ● 真相の一端に触れるならば,今回における「国立大学への入学=受験資格を認める」件は,在日インターナショナル系の高校卒業生,いいかえると「日本に居住する外国人高校生」〔そこには日本人も在学しており,こちらをだいぶ配慮しているようすがうかがえる〕を,ついでになのだけれども,同時並行的に意識して提示されたものといえる。 それゆえ,欧米系高校卒業生の「卒業認定資格試験」に関連し惹起するだろう諸問題は,当初よりそれほど配慮するまでもないことだった。先述のごとき〈言語のハンディにかかわる問題〉は圏外に放置できるものだとみこんでいた節も「なきにしもあらず」である。 ● 文科省は,もっとも国内的な問題である「在日外国〔韓国・朝鮮〕系高校など卒業生=出身の学生」に対してだけは,国立大学の大学入学資格を,どうしても認めたくないのである。 つまり,国内的な教育問題としては少数的・2次的・副次的な位置を占めるところの,在日インターナショナル系の高校卒業生に対してのみ国立大学の大学入学資格を認めたさい,その理由づけに当たって,とってつけたようにもちだされたのが,相当程度に国外的な関係問題である「バカロレアやアビトゥーアをえた学生」などの欧米系の高校卒業認定〔資格〕試験であった。 目的と手段,結果と原因という関連で以上の理由づけを分析すると,そこにはっきりみてとれる〈齟齬の印象〉は否定できない。本末転倒どころか,因果関係そのものに無理なコジツケがある。せいぜい,恣意的でかぼそい理由づけしか用意されていない。 ● 日本の高校や在日系民族高校の教育内容〔物的設備および教科の理念と体系〕については,教育法「1条校」の条項を突きつけてその資格をうるさく詮索する。しかし,そのわりに「バカロレアやアビトゥーア」の認定内容についてはそれこそ,あなた〔当該他国〕任せの,ゆるい・歯がゆい対応がおこなわれているに過ぎない。 アジア諸国系に向かっては,なにやかやうるさくものをいい,ケチも付けてまわるが,欧米系に対してはいかにもいい加減で,甘い態度をみせる「日本国文部科学省」の姿が浮かんでくるではないか。 --以上のように,国立大学の入学資格を,在日韓国・朝鮮系など民族学校高校卒業生に対して認めないといいはってきた文科省は,その理由・根拠を当事者に対して十分に開陳し,納得的に説明することができていない。 文部科学省の姿勢は明らかに,あと知恵的,錯乱的,支離滅裂,あるいはまた,一時しのぎ,弥縫的,対症療法的であるだけでなく,相互に排反的,両立のむずかしい異質の措置を同居させてもいる。そのためか,無理を承知で〈質相の異なる諸口実〉を切り貼りしつつ,辻褄あわせにしかならない「理屈にならない理屈」の行使に終始してきた。 --「無理が道理を押しきれる」というわけではないのである。 その「理屈にならない理屈」の舞台裏に控えるものはなにか? それは,これまでも歴史的に根強くつづいてきた在日する韓国・朝鮮系など民族学校全体に対する「偏見の気分」の溢流である。さらに,アジア系の民族学校そのものに向けられてきた「差別の正当化」=「政治病理的な文教政策」は,「その気分」に流され歪められた精神構造の発露をもって正直に反映されている。 要するに「さきに結論ありき」である。それより,考えようにもよるが,日本の高校生にも欧米流の「卒業〔資格を認定するための〕試験」を課したらどうだろうか? その「日本の高校卒業認定試験」はとりあえず,5段階〔満点〕評価」でおこなうことにし,3.0 に満たない評価〔点数〕しかえられない学生には,高校卒業資格を与えないことにしたらよい。これが実施されたらきっと,日本の学校教育全体,とくに高校‐大学段階においては一大変革が生じる契機を提供できるのではないか? 日本でも「バカロレアやアビトゥーア」に相当する「高校卒業を認定するための試験」を実施したうえで,外国のその「バカロレア」や「アビトゥーア」などにも,日本の〔国立〕大学入学資格を認定するというのであれば,文科省の理屈は形式的にとおり,整合性もえられる。 もっとも,先述のように「ことば〔言語のちがい〕の問題」がなお残ることになるが,ここではあえて詮索しない。 --事実として日本国内においては,「欧米のそれ」に該当する「高校卒業を認定するための試験」を整備も実施もしていない。にもかかわらず,「他国:欧米が出したその〈卒業認定の試験〉資格」だけは,日本がわが勝手にうけいれ認定することにしたわけである。その結果,「バカロレアやアビトゥーア」に対して一方的に,日本の国立の「大学入学資格」が付与されるしだいとあいなった。 なんとまあ,ヒトのいいことか! そのことは,在日韓国・朝鮮系など民族学校を,国立大学の「入学資格」問題からあらためて締めだすための「好都合な〈便法〉」として,「バカロレアやアビトゥーア」などの《高校卒業認定試験》の資格が転用されたことを意味した。 文科省の,巧妙かつアクロバット的な「他民族排除・差別のためのそうした便法」の登場は,実にみえすいた歴史心理的背景・事情に淵源をもつものだったといえる。 ふつうは,外交的配慮も加味してとりあつかうべき案件でもあり,各国間との相互主義原則の貫徹を意識すべき問題かもしれない。もっとも,教育問題に関して他国との外交的な関係をあまり強く意識するのは,神経質な考えかもしれない。この点は,なんども触れたように,留学生の国際的な交流の状況を現実的にみればすぐ了解のいくことである。 --日本はともかく,欧米諸国に関しては国立「大学の入学資格」を一方的に安売り〔=身売り?〔それとも〕押し売り!〕した。だが,その代償のつもりなのか,在日アジア系民族高等学校に対してはあいかわらず,きわめて冷淡な態度をしめした。 こうした欧米‐日本‐アジア間の関連性は,逆転させて理解してみるべきものとなる。文科省の本心=秘策は,こうであった。 まず,在日アジア系民族学校を,文部行政面においては形式上別枠に位置づけておく。つぎに,その差別処遇を実質的に持続させるための工夫が,「バカロレアやアビトゥーア」など欧米系の「高校卒業試験の合格」資格を,日本の「国立大学などの入学資格」に認容するという対応となったのである。 そのせいで,欧米系インターナショナル学校に対する「若干の〈優遇措置〉」がもたらされたかのように映る舞台が用意できた。これはまさに「瓢箪から駒!」である。 在日アジア系民族学校の国立大学「入学資格」を認めないための理由づけにつかわれたのが,「バカロレアやアビトゥーア」など欧米系インターナショナル学校の「高校卒業試験の合格」資格を新しく,国立大学「入学資格」に認めるという荒技であった。これはいわば「敵は本能寺!」である。 繰りかえすけれども,在日の欧米系インターナショナル学校「高校卒業生」対して「日本の国立大学」への入学資格を付与するため根拠に援用されたのが,自国の高校卒業生には課していない「高校卒業資格試験」:「外国〔欧米〕の制度!」の合格だったのである。 そうした奇妙キテレツな〈奇策〉は,いかにもとってつけたかのようにもちだされたのであり,しかも,問題の本質を回避するための〈奇襲攻撃〉でもあったといえる。
とはいえ,欧米系インターナショナル高校卒業生に対するその〈優遇措置〉は,本当に実効性を発揮しうるものなのか,今後の動向として注目しておかねばならないものである。 つまり,欧米系の「バカロレアやアビトゥーア」など〈高校卒業認定試験〉に対応するかたちでしつらえられたインターナショナル系高校卒業生向けの「日本の〈国立〉大学入学資格」の認定が,実際面においてはたして,どのくらい利用されていくのか関心をもってみまもる必要がある。 文科省の主張(予想・予定?)にしたがえば,日本の大学進学を志望する欧米の高校卒業生やインターナショナル系高校卒業生は,今後その資格を大いにつかうことにならねばならないはずである。そういう方向が確実に生まれてこないと,その本来の意味は生かせられないからである。 文科省はただし,将来に向かってそうした方向とその意味を考えるに当たって,実証的,計数的な裏づけをもって主張していない。もっとうがったみかたをすると,文科省がその「将来性」じたいをまともに考えていたのかどうか疑念が抱かれるのである。 というのも文科省は,今回の決定:「国立大学入学資格は「朝鮮」「韓国」民族学校卒に資格認めず,インターナショナルスクール卒のみ付与」を多分,場当たり的におこなった嫌いがあるからである。 --「バカロレアやアビトゥーア」=「高校卒業の資格を試験・合格した認定」が,日本の「〈国立〉大学入学資格」にも併用できることになった。これによって,日本の大学入試に挑む外国系高校〔卒業〕生が顕著に「増加するのだ」とうけとめてよいのか? 今後の推移のなかで,その増加がたしかな傾向となって現われる保証はあるのか? 今回,文科省がしめしたところの,「国立大学入学資格は「朝鮮」「韓国」民族学校卒に資格認めず,インターナショナルスクール卒のみ付与」するとした「みせかけ〔一部進展?〕の国際化」は,本音ではやはり,在日アジア系外国人との共生志向を望んでいない精神構造を,再び白日のもとに晒すことになったのである。 要は「国立大学入学資格」問題に関した文部科学省の立場表明は,みかたによってはきわめてお粗末な対応であった。まさしく,没主体的・没論理的な思考方式をしめしていた。同時にそれは,かぎりなく「虚構」に近い理屈もみせていた。とりわけ分明なのは,在日系民族学校を差別する「タメにする〈それ〉」だったことである。 *
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13) その後の報道から考える〔続の続〕 -〔A〕-
京都大学内の「同和・人権問題委員会」は,2002年9月13日に「歴史責任・人権・教育の国際化」という観点から「可及的速やかに外国人学校出身者の本学受験を可能にするための体制の整備をすすめるべき」との最終報告をまとめ,総長に提出していた。 全国の国立大学を国の機関から切りはなした法人として運営する「国立大学法人法と関連5法」が国会で成立したこともあり,京都大学の決定は他の国立大学にも広がっていくものとみられる。 遠山敦子文科相は2003年7月9日,「民族学校卒業生への大学受験資格緩和方針の決定時期」について「2004年度の受験生にとって不都合のないよう時期を考えながらやっていく」との考えを明らかにした(『民団新聞』2003年7月16日)。 --民族学校卒業生への大学受験資格緩和方針に関する「文部科学省の姿勢」は,2003年7月9日国会(参議院本会議)で「国立大学法人法と関連5法が成立した」ことを踏まえ,確実に変化したかのようにみえる。 しかしながら,文科省が今回みせた姿勢の変化は,けっして,在日する外国人学校に対する方針の変更を積極的・能動的におこなったものではない。それは単に,国立大学法人法の成立=登場に応じて,イヤイヤながらなされたものにすぎない。 文科省がいままで「民族学校卒業生への大学受験資格」に対してやってきた〈自主的・主体的な〉努力は,そのすべてが「拒絶‐否定‐回避」だったのである。 つまり,文科省は今回のような姿勢の変化をみせたけれども,その根っこにおいて頑強に維持する「在日アジア系民族学校そのものに対する差別的な行政方針」は,これを基本的にあらためて「みなおす」とか「反省する」とかということは,ありそうもないといえる。だから,それは,文科省の〈精神改革〉と無縁の次元でなされたことに注意しなければならない。 文科省の姿勢はかわらないが,国立大学法人法の成立によって「国立大学に対する文科省の距離感」が異なってきた情勢に鑑み,そして,まさしくこの情勢の変化にその理由・原因を求めるかたちで,「民族学校卒業生への大学受験資格緩和方針」を打ちだしたにすぎないのである。 しかしながら,文科省は,さきの提案:「国立大学入学資格は「朝鮮」「韓国」民族学校卒に資格認めず,インターナショナルスクール卒のみ付与」が日本の世論からも非常に強い批判をうけ,圧倒的に不評・不利だった点を無視できない状況であった。そこで,今回の「国立大学法人法と関連5法」の成立にかこつけて,自省の方針を一定限度は変更せざるをえなくなったものと推測される。 問題の根幹は,こういうことである。すなわち,国立大学への「民族学校卒業生への大学受験資格」を認めてこなかった,文科省の基本姿勢の奥底に盤踞する「アジア諸民族蔑視と差別の精神構造」を除去する課題は,まだ残されたままである。 くわえて,在日アジア系民族学校に対する差別と圧迫を当然の方針とみなしてきた,これまでの文科省自身の文教政策がすこしも反省されていない。むしろ,この歴史的事実のほうが《大問題》である。 だいたい,アジア系外国人学校のことを〈民族学校〉と形容するのに対して,同じ日本にある学校でも,インターナショナル系外国人学校のことは必ずしもそう形容しない。ここに特定の意味の相違を読みとることも可能である。インターナショナル系外国人学校は,各国〈国民国家〉性や〈民族精神〉のありかと無関係だというだけの,確たる証明があるのか? 欧米系の文化・伝統は好ましく,アジア系のそれはそうではないらしいという,明治以来の日本国において特有の「二重基準」をそこにみてとることも不可能ではない。 ◎ 在日外国人問題においてはとくに先進的なとりくみをしてきている諸都市(川崎市・横浜市など)をかかえる神奈川県は,2003年7月11日,文部科学省が外国人学校へ大学入学資格を付与するために,具体的な方針を早急にしめすよう求める意見書を可決し,首相・総務相・文部科学相に提出した(『民団新聞』2003年7月16日)。 喜安 朗『天皇の影をめぐるある少年の物語-戦中戦後私史-』(刀水書房,2003年3月)は,日本政府の文教政策が「排外主義の伝統」を墨守してきた事実を傍証する(同書,241頁,242-245頁)。 1950〔昭和25〕年に同志社大学経済学部2年生だった奥村 茂は,戦後復活した留学生第1号だった。奥村は,同志社の創立者新島 襄の出身校であるアマースト大学に,姉妹校という関係もあって留学した。 アマースト大学で4年間猛烈に勉強し卒業証書を手にした奥村であった。だが,渡米したときもすごかったが,日本に帰ったときのカルチャー・ショックはそれ以上であった。 奥村はこう感じたという。--「日本はなんという国か,とガックリした」。 アメリカの大学卒業資格は,日本では大学卒業資格として認められず,公務員試験や司法試験を受験できない。それのみか,日本の大学への学士入学試験の受験資格もない。ようやく学士入学を認めた東京大学法学部に入学した。 以上は,日本という国の「閉鎖社会の毛管現象」のようなものである。 --文科省は「在日アジア系民族学校に対する差別と圧迫を当然の方針」にしてきた官庁である。したがって,それは,奥村の回顧する「閉鎖社会の毛管現象」そのものを発生させる「組織本体」なのである。 2003年7月9日の「国立大学法人法の成立」は,「民族学校卒業生への大学受験資格緩和方針」を文科省に打ちださせたが,奥村 茂という日本人自身がかつて体験した「閉鎖社会の毛管現象」は,けっして消え去ったわけではない。 なぜ,「民族学校卒業生への大学受験資格緩和方針」であって,「民族学校卒業生への大学受験資格全面認定」ではないのか? 叙上の「閉鎖社会の毛管現象」を完全には除去したくない,文科省の気持・感情がよく伝わってくる官僚的いいまわしである。 「これから緩和する方針」だという「閉鎖社会の毛管現象」的な表現なのである。 *
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14)
その後の検討:『外務省調査統計』からみた批判
さて,文部科学省は,教育内容などが一定水準にあると認証されたインターナショナルスクールの卒業生については「高校卒業者と同等以上の学力があると認められる者」と指定し,日本の国立「大学入学資格」を付与するとしたのである。 だが,この方針提唱は実は,日本に開設されているすべての「外国系学校の高校卒業生」を想定したり対象にしたりする議論ではなかった。筆者のこの解釈は,外務省が公表する「海外在留法人数調査統計」を参考に分析すれば,一目瞭然である(後述)。 http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/tokei/hojin/03/index.html 参照。 要は「バカロレアやアビトゥーア」=「高校卒業の資格を試験・合格した認定」を事由に,在日のインターナショナルスクール系の高校卒業生に対する「日本の国立「大学入学資格」を付与するとした「文部省の〈新しい方針〉」は,本音においては,「在日外国人(インターナショナルスクール)系学校の高校卒業生」あるいは「海外諸国の地元高校にかよった卒業生」のいずれを念頭におくにせよ,実質的にはまず,そこにかよう多くの「日本〔国籍〕人」高校生を配慮してのことであった。 欧米系インターナショナルスクールであれアジア系民族学校であれ,「在日外国人学校の高校卒業生」を問題にしているはずだったにもかかわらず,その中身をよく吟味するとなんのことはない,自国人=日本人の高校卒業生をもっぱら考えていただけなのである。 しかも,悪いことにその理由づけは,日本の国立「大学入学資格」から在日アジア系民族学校の高校卒業生を排除するにさいして,これを「〈裏づけ〉る理屈」にも併用していた。それも,第3者には「よくわかりにくく,悟られにくい理屈を開陳する説明方法〔ウソも方便!〕」であったことになる。 つぎに,外務省「海外在留法人数調査統計」より何点か紹介する(外務省ホームページ,前掲ページを,2003年7月26日 検索参照)。 2002年「海外在留日本人(邦人)数」は,こうである。 ◎ 長期滞在者 589,102 人 (67.3 %) ◎ 永 住 者 286,746 人 (32.7 %) ◎ 合 計 875,848 人 --以上のうち「地域別の推移」をその人数が多い順に5位まで挙げると,こうである。 ◆ 北 米 352,358 人 (40.3 %) ◆ ア ジ ア 189,159 人 (21.6 %) ◆ 西 欧 150,587 人 (17.2 %) ◆ 南 米 95,652 人 (10.9 %) ◆ 大 洋 州 63,588 人 ( 7.3 %) 海外に居住する日本〔国籍〕人は,年々増加している。海外在留日本人に関する教育関係の実情を観察すると,つぎのような傾向が明らかである。 「永住者」と「長期滞在者」〔それも北米と西欧〕に共通する現象だが,欧米先進諸国で暮らす日本人は,地元の学校に子どもを進学させるばあいも多い。これにくらべ,発展途上諸国〔アジアとアフリカなど〕では,文部科学省も認可する日本人学校にかよわせ,地元の学校にはあまりいかせたがらないばあいが多い。そのわけは,説明するまでもない点である。 いうまでもなく,とくに「前者」:欧米諸国で現地の高校を卒業した日本人のばあいが問題となる。日本の文科省のこれまでの方針にしたがえば彼らは,日本の「〔国立〕大学入学資格」についてはその欠格条項が当てはまってしまい,受験できない。日本〔国籍〕人の学生だといっても,文科省の認可する「1条校」ではない「外国〔欧米〕の高校を卒業した」という要件にこだわっていたら当然,日本の〔国立〕大学は受験できないことになる。 --以上,外務省の統計などにもとづいた説明で,すぐわかることがある。 在日外国人系学校の高校卒業生全体を対象に「大学入学資格」に関する変更(改善?)を,「文科省の〈新しい方針〉」が打ち出したのかと思いきや,全然そうではなかった。その狙いは,バカロレアやアビトゥーア=「高校卒業の資格を試験・合格した認定」という点を論拠(テコ)に,日本にあるインターナショナルスクール系学校の高校卒業生にのみ「〔国立〕大学入学資格」を付与しようとするものであった。 ところが,本当のところ「文部省の〈新しい方針〉」は,その欧米系外国人学校(インターナショナルスクール)さえも,もともと念頭においた判断でもなかったのである。 それは本当は,日本人学生〔高校卒業生〕のことを念頭におくものだったのである。くわしくいうと,「日本にあるインターナショナルスクール」でも「外国の学校」でも「その高校にかよう日本〔国籍〕人」が「〔国立〕大学入学資格を付与されないことがない」ようにするための措置を,弥縫的に手当したにすぎないのである。 こうして判明するのは,文部科学省の「インターナショナルスクール系学校の高校卒業生にのみ国立〈大学入学資格〉を付与する」といった,一見たいそうあらためられたかにも聞こえる方針変更も,実は,主に「自国民子弟・子女のためだけにする改善措置」だったのである。 ふつう,そういうやりかたのことを「タメにするもの」あるいは「オタメゴカシ」と表現する。あるいは「他人の褌で相撲をとる」とも表現する。 文科省はつまるところ実質においては,在日外国人学校関連の教育問題にかこつけて, 「日本にある欧米系インターナショナル学校にかよう日本人高校生」と 「海外〔外国それも欧米〕に居住し地元の高校にかよう日本人高校生」 を考慮に入れる方向を想定したうえで,「日本の〔国立〕大学入学資格」に関する「方針の変更を提示した」ことになる。 したがって本来,当初において問題の対象だったはずの「在日外国人学校の〔欧米系インターナショナルとアジア系民族学校もふくめた〕高校生」は,実質「蚊帳の外」だったことになる。 すでに触れたように「敵は本能寺!」というか,あるいは,日本人高校生にかかわる問題=「身内の問題」だったにすぎない。 在日外国人系学校高校卒業生の「大学入学資格」を語るかのようにみせかせながらも現実は,日本国内の欧米系インターナショナルスクールの高校卒業生〔日本(国籍)人を主に想定!〕や,海外それも西欧各国の現地〔地元〕高校の卒業生〔当然帰国してくる日本人!〕に対して,日本の「〔国立〕大学入学資格」を付与するための施策だったといえる。 結 論。--まさしくどういっても「語るに落ちる」話! ● 一皮むくと,それにしても「なんとまあ,小賢しいかぎり」であるのか。小手先ばかりであって,本質を回避した言説がめだつ。 *
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15)
東京外国語大学の対応
外国人学校生の受験資格「独自認定を」
朝鮮学校など外国人学校卒業生の大学入学(受験)資格を文部科学省が認めていない問題で,東京外国語大学の外国語学部教授会(馬場 彰学部長)が「教育の機会均等に反する差別的なものだ」などとし,同大独自で資格認定するよう池端雪浦学長に求める決議を採択したことがわかった。 外国語学部は,同大では唯一の学部である。今回の決議は文科省に資格認定を求めるとともに,同省が認めないばあいは「本学独自の判断で資格認定すべきだ」と学長に要請した。 決議に賛成した教授らは,「国際化の時代に差別をなくすのは当然のこと。資格認定に積極的な学長の決断を応援する意味もある」と話している。 文科省は2002年3月,欧米系インターナショナルスクール16校にかぎり受験資格を認める方針を決め,朝鮮学校などを事実上排除したため批判が集中した。同省の方針がかわらないばあい,同校の卒業生らはあらためて大学入学資格検定を受験しなければならず,その出願期限が9月にせまっている。 「外国人学校・民族学校の問題を考える弁護士有志の会」(共同代表,新美隆弁護士ら)は,来春卒業予定の朝鮮学校生の代理人として,全国の国立大学の学長に,学校教育法施行規則にもとづき志願者ごとに「入学資格認定書」を発行するよう申請した。東京外大教授会の決議は,こうした動きをうけたものだった(『朝日新聞』2003年7月28日夕刊)。 --文科省に対して東京外国語大学は,在日韓国・朝鮮系民族学校の高校卒業生にも「国立大学の大学入学〔受験〕資格」を与えるよう求めると同時に,同大独自にその資格を認定しようとする方向も打ちだしたのである。 2003年7月9日に成立した「国立大学法人法」の影響もあってか,国立大学が各大学じたいの「入学〔受験〕資格」の問題に,主体性をもってまともにとりくむようになってきた。いままでの,非常に消極的というか故意に無関心にもみえた姿勢が,まるでさまがわりした印象である。 大学は,研究者‐知識人の集合体である。この組織集団がまっとうに合理的=論理的に考えれば,今回の東京外大がしめしたような判断に帰着するのは,必然でもある。いままでなぜか,国立大学がそのように当たりまえにおこなおうとする自主的な判断を,文科省は懸命になって妨害・阻止してきたのである。
3.【
朝鮮学校卒の入学資格は大学判断で。 --2003年8月2日の新聞は,こういう報道をした。 日本国内の外国人学校の卒業生が大学入学資格(受験資格)をえられない問題で,文部科学省が,欧米系インターナショナルスクールの卒業生だけでなく,朝鮮学校などアジア系民族学校の卒業生でも資格をえられるようにする方向で検討していることがわかった。朝鮮学校卒業生のばあいには,各大学の判断で資格が与えられるしくみを構想している。 文科省は現在,案の可否を政府や与党の関係者に打診中である。実現のみとおしが立てば,来年度の入学者から対応するため,すぐに関係する省令や告示を改正するなどの具体的な作業に入るとみられる。 関係者によると,文科省は,学校単位で認める規定と,個人単位で認める規定をそれぞれ設ける案を検討している。 学校単位では,多様な国籍の子どもが英語で授業を受けているインターナショナルスクールのうち,英米両国にある民間評価機関の認定を受けた学校の卒業生に資格を与える。 さらに,日本と国交のある外国の子どもが在籍している個別国の学校のうち,本国が正式に認可しているばあいには卒業生に資格を認める。こうした学校にはインドネシア学校やブラジル学校などがある。 一方で,それぞれの大学の審査で個人単位で資格を与えることも認める。朝鮮学校卒業生のばあい,北朝鮮との国交がないため,学校単位の資格付与の対象にならない。また,認定されていないインターナショナルスクールや本国に認可されていない個別国の学校の卒業生も同様である。そのばあいでも,志願先の大学がどのような学習の経験があるのかなどを審査し,条件にかなえば認められる。 公私立には自らの判断で受験を認めている大学があるが,国立大は文科省の方針にしたがい,大学入学資格検定(大検)に合格しないで受験することを認めてこなかった。実現すれば,大学の判断によっては,朝鮮学校卒業生にも大検をうけずに受験する道が開ける。 文科省は2002年3月,欧米系インターナショナルスクールの卒業生にかぎって資格を認める方針を公表したが,人権団体や大学教員らから「差別だ」との批判をうけて,再検討してきた。その間,野党だけでなく与党内の公明党や京都,大阪,兵庫3府県などからもみなおし要請があいついだ。 国立大のなかでも京都大が文科省に要望書を提出したり,東京外大の外国語学部教授会が,文科省が認めないばあいには自主的に受け入れるよう学長に求めたりしていた。 また,朝日新聞がこの春に実施した学長アンケートでは,8割近い国立大の学長が「資格を与えたい」と答えていた(『朝日新聞』2003年8月2日朝刊)。 --これまで日本国文部科学省の姿勢は,アジア系をはじめ欧米系もひっくるめ,在日外国人系民族学校を差別するに当たっては,国家権力を振りまわし,やっきになって圧迫するものであった。 だが,こんど自省がつくりあげてきたその「教育差別の構造をなくし,大学入学資格においていた高い障壁をとりのぞく」作業に当たっては,いかにもやる気がなく,しぶしぶ,遠まわしであり,そのうえあなた任せであることをよくよくしめしている。 国交があるとかないとかなどといっているが,日本国内に設置されている学校のことである。同じ高等学校であること〔核心は「就学年数の問題」だけ〕に終始する問題にすぎない。 それでも,こんどはいうにこと欠いてか,大学入学資格の認否を論じるさいの材料に「国交の有無」を新たにもちだした。在日朝鮮系民族学校の高校卒業生についてだけは,なるべくなんとか,「国立大学」の入学資格を認めない大学を残しておきたいという気持ばかりがみえみえである。 a) 在日朝鮮系民族学校は,北朝鮮〔朝鮮民主主義人民共和国〕本国が正式に認可しているが,国交がないから認めない。 b) 国交があっても認定されていないインターナショナルスクールや, c) 本国に認可されていない各国系の学校の卒業生も同様であって,国立大学への入学資格は認められないというのである。 ここで断わっておくべきは,a) の問題が本命の標的であって,b) と c) は抱き合わせ的,道連れ的に巻きこまれた,ごく副次的な問題であることである。それゆえ,a) に「国立大学」の入学資格を認めることにするならば,b) や c) のそれも,なんら問題なく認められることになる。 「国交の有無」という論点は,いままで関連する議論の俎上に上ったことはなかった。なにゆえ,いまとなってわざわざ,その論点をもちだしたのか? 文科省は,在日朝鮮系民族学校高校卒業生〔など〕に対してだけは,「大学入学資格」を正式に認可することがイヤなのである。そういう〈イヤラシクもうしろ向き〉の姿勢・気持は,隠すまでもなく表面に滲み出ている。 筆者はすでに,国際政治外交の流儀にもかかわらしめて「相互主義」の基本論点に言及したことがある。けれどもそれは,各国間で「大学入学資格」を積極的:前向きに『認めるタメの方向』での議論であって,文科省のような,後向きに「国交の有無」にひっかけた『認めないタメの方向』での議論ではなかった。 そういうたぐいのひねくれた議論を仕向ける文科省の基本姿勢には,骨の髄まで腐りきったと譬えたらよい「アジア人=〔韓国〕朝鮮人への〈差別精神〉」がみてとれる。 とりわけ,今回さらに文科省がみせた姿勢の変更点,→「それぞれの〔国立など〕各大学の判断をもって個人単位で入学資格を与えることを認める」という方針への転進は,在日韓国・朝鮮人に対する既存の「教育制度上の差別の構造と機能」を,可能なかぎり部分的にでもなお,日本の教育体制のなかに残しておきたいという意向が感じられる。 つまり,在日朝鮮系民族学校の高校卒業生〔など〕に対してだけは,大学ごとの独自の判断に任せるかたちなのだから,「国立大学」の入学資格を認めない事例があってかまわない。いいかえれば,これまでの文科省の指導指針,一律に「〈1条校〉の資格のない外国人学校高校卒業生に対して〈大学入学資格〉を認めない」というやりかたは採らないけれども,大学によっては認めないところがあってもよい,という考えかたなのである。 世論のきびしい批判がもたらしたこのたびの「文科省の姿勢変更」とはいっても,またもや小手先の,小賢しい工夫がめだつのである。依然,できうるかぎり,「外国人学校それも朝鮮学校の高校卒業生に対してだけは〈大学入学資格〉を認めたくない」という気分がいっぱいなのである。 だから,筆者はさきにも指摘したように,文科省は,在日朝鮮系民族学校の高校卒業生に対して「国立大学」の入学資格を認めない大学が残っていても〔このばあい追随する私立大学・公立大学も一部に当然残ることが予想される〕,その事態を黙過・黙認しようとしているのである。 文科省のそうした対応措置は,日本社会のなかに根強く残る在日韓国・朝鮮人「教育差別の構造と機能」を完全に解消することを,行政機関のひとつとして望んでいない意図を明示したのである。 今回しめされた文科省の方向性にしたがうのであれば,「在日朝鮮系民族学校の高校卒業生」に対して「大学」の入学資格を,今後=将来においてもなお認めない『日本の諸大学=追随する私立大学・公立大学も一部に当然残ること』を計算に入れておかねばならない。文科省は,これらの諸大学を排除しないことを宣言したにひとしい。 さきに引照した新聞記事は,「学長アンケートでは,8割近い国立大の学長が〈在日朝鮮系民族学校の高校卒業生〉に対して〈資格を与えたい〉と答えていた」と報道していた。文科省はもしかすると,その2割は残る(!?)かもしれない国立大学に対して,なんらかの期待をかけているつもりなのか? ともかく文科省は,「在日朝鮮系民族学校の高校卒業生」の「大学」の入学資格に関して,排除し差別する国立‐公立‐私立の諸大学が残ることを公然と認める方向性を示唆したのである。 このたび,問題になった在日外国人系民族学校高校卒業生の「大学入学資格」は,フランスやドイツの卒業資格みたく,大学に入る資格が自動的にえられる「入学資格」ではなく,あらためて受験しなければならない「受験資格」でしかない。それなのに,なにゆえそれほどまでこだわり,なんとしてでも〈民族差別の教育体制〉をこの日本社会の片隅に残しつづけようとするのか? 要は,「大学入学資格」の評価‐判断問題に関して,《国境》あるいは《国交の有無》などを直接にもちこんでいいのか? まさしくそういう態度こそ,教育担当機関が抱いていては絶対いけない〈差別の意識〉ではないのか? 朝鮮学校の高校卒業生である弁護士 金 舜植(キム スンシク)は,「大学受験資格-公平な認定,行政は決断を」と訴えていた(『朝日新聞』2003年8月2日朝刊「私の視点」)。ここではとくに「公平な認定」という点の意味を再考してみる余地がある。 文科省は以前,学校教育法第1条の「1条校」を形式‐実質両面での必要条件にもちだし,在日外国人系民族学校高校卒業生も在日インターナショナル系高校卒業生も国立大学の受験資格を認めない理由としてきた。 ところがこんどは,形式面のみに関係する外部要因でしかない,しかも当該論点とはいったい,どのような直接的関連性のあるのかも理解しにくい「国交関係の有無」までもちだし,これを,在日外国人系民族学校高校卒業生に対してのみ,国立大学の受験資格を認めないとする「文科省の理屈」につかったのである。 そのうえでさらに,国立大学が個別に独自に,朝鮮学校の高校卒業生:「受験生個人単位で大学入学資格」を認めてもよいとする,逆にいえば個々の大学としては「認めなくともよいとする」場面も許す案を準備したのである。 要するに,文科省の「在日外国人系民族学校高校卒業生の国立大学受験資格」に向かって再三再四みせつけてきた基本的な態度は,問題の核心部分には目をつむってみようとせず,肝心な論点の解決は避けてとおり,とことん,在日外国〔=朝鮮〕人に対する教育差別を残存させようとするものである。 この国において,教育制度上の「不当な差別」は,いつまで,どこまでつづくのか? 在日朝鮮人の問題は,在日韓国・朝鮮人の問題であり,在日中国・台湾人の問題でもある。もちろん,在日するすべての外国人にも共通し妥当する問題である。問題は教育問題だが,日本社会に存在するあらゆる外国人差別の問題にも通底するものである。
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どうしても朝鮮学校だけは大学入学資格を認めたくない文科省
2003年8月5日朝刊の新聞報道は,こういう文科省の動向をしらせていた。
筆者は,この記事の見出しをみたとき,一瞬こういう思いちがいをした。「いよいよ文科省は,日本の高校生に高校卒業資格試験,つまり大学入学資格試験を課すことになったか」と。 しかし,この記事をよく読んでみるに,なんということはない。文科省は,在日朝鮮系民族学校の高校卒業生に関してだけは「国立大学〔などの〕入学資格」を絶対認めないとする方針を,今後においても貫徹しようと必至に画策しているのである。 在日朝鮮系民族学校の高校卒業生に大学入学資格を認めない文科省の姿勢に対しては,日本社会からの批判も非常に強いことが判明している。そこで,上記のような「文科省の方向性」を貫徹させるための一助に付けくわえようとする計画案が,このたび文科省が新しくしめした「高卒認定試験創設」案なのである。 大検うんぬんの話も関説されている。だが,「自治体や企業の中には就職試験の際に大検合格を〈高卒〉と同様にあつかわないばあいがある」という実態=現状における問題点にはただちに手を付けようとはせず〔「今後の検討課題」!〕,そのまま是認するような態度である。それも当然である。いまのところ,在日朝鮮系民族学校の高校卒業生にかかわる大学入学資格の問題が,文科省の頭の上に重くのしかかった検討課題だからである。 いわく「朝鮮学校など外国人学校の卒業生にかぎらず,日本人の高校中退者や社会人なども対象とし,志願先の大学が定めた条件に合致すれば大検に合格していなくても,その大学を受験できるようになる」。「来年度入試からは,受験生の志願先の大学が個別に審査して資格を認められるようにする方針である」。 たしかに「日本人の高校中退者」は増加しつつあるから,いっている中身に意味がないわけではない。また「志願先の大学が定めた条件」を,大学入学資格を認めていない「在日朝鮮系民族学校の高校卒業生」に提示するのも,小手先的技法としては悪いことではない。 だが,このさいともかく,いままでどおり在日朝鮮系民族学校の高校卒業生に対して「大学入学資格」を付与しないためであるならば,大検資格の地盤沈下に手を貸すことも厭わない,無節操になんでもかんでもやるというように映る《文科省の姿容》なのである。 現状では多少問題をかかえるにせよ「大検という制度」があるのに,今回の「高卒認定試験創設」は「屋上屋を架す」かのごとき提案である。その真意はいったい,どこにあるのか。大検の制度はさておき,この「高卒認定試験」を,日本の高校生全員に課すというのであれば,まだその意図はわかりやすいが。 前述のように,大検合格者が就職関係で「高卒」と同様にあつかわれない問題は,現状のまま放置しておいていいのか。日本官庁ではいつものの得意な手=伸縮自在な〈行政指導〉は,どこへいってしまったのか。 とはいっても,大検の合格は「大学入学資格」についてはいえば,その「文字どおりの意味」を有している。大検に合格すれば,どこの国系統の高校だとかという学歴・背景とは無関係に,国公立‐私立を問わず日本の大学すべてを受験することができる。 元来,大検という制度は,高校を卒業していない日本人生徒・学生のための制度であった。そこで,在日朝鮮系民族学校の高校生も利用してきた実態は,どのように理解されるべきであるのか。この問題側面に関する文科省の態度は,きわめて冷淡であるだけでなく,彼らが大検をうけることさえ妨害してきた。 要は,この報道内容から伝わってくるのは,なにがなんでも,在日朝鮮系民族学校の高校卒業生だけには,けっして「国立大学〔などの〕入学資格」を認めたくないという頑迷な精神である。 いつまでも,どこまでも,文科省はどうして,在日韓国・朝鮮人に対する『このような「狭量な精神,排外の気持」しかもてないのか』。 「就学年数として同じ12年間の学校教育をうけてきた在日朝鮮系民族学校の高校卒業生」に国立「大学の入学資格を与えて」,そもそも,なにがいけないというのか? どこがまずいというのか? なにか決定的に支障となる要件があるとでもいうのか? 公立大学・私立大学の多くはこれまで,在日朝鮮系高校をはじめ,各種外国系高校の卒業生に入学資格を認めてきた。それらの大学に合格した当該学生たちは,そうした公立大学・私立大学の対応がまちがいでなかったことを,長期間かけて証明してきているではないか。 まともに,真正面より,答えよ。問題の核心を大検関係の問題のほうへそらすべきではない。筆者がいつも指摘することだが,文科省当局の姿勢・議論は,姑息に過ぎる対応策ばかりめだつのである。 在日朝鮮系民族学校の高校卒業生に国立大学〔など〕を受験させて,どうしていけないというのか? 断わっておくが,この疑問は「1条校」の関連を指していうものではなく,この日本という国に共生する人びとにかかわる「基本的な教育精神」やその「環境整備に関する諸問題」の指摘である。
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さらに,2003年8月5日朝刊の新聞報道は,こういう文科省の動向を続報していた。
--前段の記述でくわしく解説した点だが,再度言及する。 要は,文科省の姿勢=気持はどうしても,在日朝鮮系民族学校の高校卒業生だけには大学入学資格を与えたくないのであり,またできるかぎり多く,そうする諸大学を日本教育界のなかに残しておきたいのである。そこには,文部行政の『非合理な方針=感情的こだわり』がありありと表面に浮き出ている。 今回「文科省の見解」を真にうければ恐らく,在日する各国系列の高校卒業生は,朝鮮学校の高校卒業生をのぞき,そのほとんどが日本の大学入学資格をごく自然にえられることになる。 文科省はなかんずく,「朝鮮学校12校は,本国の正規の教育課程(12年)と同等の学校と位置づけられていることが日本がわで公的に確認する」ことが困難という「とんでもない遁辞」を披露している。 前出枠内の記事で,a) b) の条件を当てはめるにさいし,朝鮮学校の高校卒業生に関してだけはなぜか,大学入学資格を与えるための「公的な確認が困難」という理由をもちだしている。これに対して,そのほか大学入学資格を認められるとする各国系列の高校卒業生は「公的な確認が困難ではない」というわけである。 そういうことであれば,《朝鮮学校の高校卒業生→大学入学資格を与えるための「公的な確認が困難」である》ことと,《そのほか各国系列の高校卒業生→大学入学資格を認められる→「公的な確認が困難ではない》ことのそれぞれについて,「困難である」あるいは「困難ではない」という理由の仕切りを明確にしたうえで,「朝鮮学校の高校卒業生→大学入学資格〈不可=困難である〉」という点をさらに,具体的にくわしく説明すべき義務がある。 文科省の見解は,より明らかな説明が必要なその核心部分を回避するだけでなく,同省の本心を隠蔽しようともするいいぶんである。だから,一番聞きたい大事な論点になると,いかにも不鮮明・不明朗であり,遠回しでの間接的な論及しかできていない。 「本国の正規の教育課程(12年)と同等の学校と位置づけられていること」を「日本がわ=文科省」が公的に確認できるかどうかは,国交の有無を配慮するとしないとにかかわらず,北朝鮮にまでいって調べなければわからぬようなことがらではない。 問題の対象は,日本全国にある,目の前に存在する朝鮮学校〔の高級学校(←高等学校のこと)〕である。 もちろん,在日する朝鮮学校の高校卒業生が,日本の大学に受験するための教育を水準的・質的に備えているか否かの問題もある。現状において朝鮮学校では,この教育体制にかかわる内容的な諸問題に関して,相当積極的に改善する努力を傾けている最中である。朝鮮学校に関連するホームページもたくさんあって,その参考になる中身もある。一度よく,みてみたらどうか。 それにしても,朝鮮学校高校卒業生が「正規の教育課程として12年と同等の学校と位置づけられない理由」は,いったいどこにあるというのか。この肝心・カナメの点に関する文科省の説明があいまいなのである。消極的に排除しようとする形式的な理屈は,あれこれいって冷酷に立てようとするが,積極的に評価し包摂しようとする政策的な配慮は,はなっから全然もちあわせていないのである。 日本に存在する朝鮮学校のことであるゆえ,公的な確認をする‐しないの判断をするのは,ほかならぬ日本の文科省自身である。ヒトゴトみたいに「公的な確認が困難」という逃げ口上をつかった説明は,奇妙キテレツかつ卑怯ともいってよい「〈ズルイ〉もののいいかた」である。国境の向こうがわにある学校のことはない。自国内の掌中にあるそれではないか。 ほかにも在日する外国系学校の高校卒業生の大学入学資格を判断することは「公的な確認が困難ではなかった」はずであり,その確認作業はおこなってきたはずである(それとも口だけで本当は精査していないか)。同じく在日する朝鮮学校を「公的に確認するのが困難だ」として判断を避ける態度が,そもそも怪しいのである。 こういうことではないのか? 朝鮮学校じたいを「公的に確認したくない」文科省は,朝鮮学校の高校卒業生について「公的に確認すること」じたいを拒否=回避したのではないか。なにせ,文科省の思考方式はこれまでも「結論さきにありき」だったからである。 したがって,「朝鮮学校に大学入学資格を与える問題」に関して文科省のもちだした論理=「公的に確認〈うんぬん〉」という表現そのものが,みのがしがたい欺瞞性を映しだしているといえる。 朝鮮学校の教育内容を「公的に確認すること」を問題にする主管官庁である文科省の正体:本心,いいかればその深層心理をのぞけば,この官庁が「朝鮮学校に大学入学資格を与える問題」に関しては,「公的確認」を客観的におこなっているという実績はなかったのではないか。この種の疑念さえ出てこざるをえない。 筆者はすでに別の論稿で実証的に調査し主張したことだが,朝鮮高校の卒業生に「日本の大学入学資格」を認めないとする積極的な理由は,なにもみいだせなかった。国家理念がちがうとか,イデオロギーがちがうとか,異なる国籍がもつからとかいうような事由は,日本国憲法の精神の反する非教育的な反動精神による排斥の理屈である。 そんなことにこだわっていたら,20世紀に社会主義諸国だった国々より大勢の留学生をうけいれていた事実を,まちがいだったと大反省しなければならないはずである。だが,こういうことは問題にすらなっていない。 当該問題をめぐってみいだせる関連の諸「事情・背景」には,日本国文部科学省が朝鮮高校の卒業生に関してだけはそれを認めたくないという強い意向が控えていた,といえる。このことは,同省内で歴史的に形成されてきた,抜きがたい「朝鮮・朝鮮人〔韓国・韓国人=アジア・アジア人〕に対する偏見と差別」を推進要因になされてきたことでもある。 こんどはともかく,たとえば韓国学校高等部の卒業生には大学入学資格を認めることになるが,朝鮮学校の高校卒業生にはそれを認めないとする客観的な理由を,第3者の誰が聞いても十分納得がいくように説明できるのか? 文科省はかつて,一蓮托生的に大学入学資格を認めていなかった「インターナショナルスクール」と「在日の韓国‐朝鮮系学校」とを,本当は分けて別あつかいにしたい気持をもっていた。 すなわち,第1の差別は「インターナショナルスクール」には大学入学資格を認めるが,「在日の韓国‐朝鮮系学校」にはそれを認めないというものであったし,そして,第2の差別は後者のあいだに線引きをし,さらに新しい差別をつくりだすというものである(→今回の問題推移はまさにそのように展開してきている)。 とりわけその第2の差別は,韓国系の高校には大学入学資格を認めて納得させておき黙らせ,朝鮮系の高校にはあいかわらずそれを認めずに差別を残すという,あざとい技法なのである。 だから,こんどはその本心どおりにまず「インターナショナルスクール」に大学入学資格を認めた。だが,世論や関係筋からの批判があいついだことをうけて,つぎに「在日の韓国‐朝鮮系学校」のなかでも韓国系などには大学入学資格を認め,韓国‐朝鮮系学校のなかに線を引いた。これでとうとう文科省は,その本心〔邪心〕をきわめて明白に表明したことになる。 文科省には〈分割‐統治〉のつもりなどないものと思いたいが,そのやりかたはかえって,世論や関係筋の反撥を買うものでしかなかった。同時に,文科省はみずから「朝鮮・朝鮮人」差別の根本的姿勢を,より鮮明に晒す結果となったのである。 そういうふうに,在日する外国系教育機関に対してまったく一貫性のない〔あるか?〕文科省の教育政策は,同省の骨の髄まで染みこみ,とうていぬぐい去ることのできない不条理・非合理を,あらためて明らかにしてきている。 文科省が「公的な確認が困難」といった〈発言の真意〉は,朝鮮学校高校卒業生に対しては「大学入学資格」の「公的な確認をしたくない」という意向そのものにある。「それ=公的な確認」が本当に「困難」なのかどうかを,はたしてどうやってみきわめたのか? 当初よりこのことの明確な説明もない。そこに「偏見と差別の情感」を感じるのは,筆者だけではないと思う。 文科省は,「朝鮮学校の高校卒業生には大学入学資格を認めない」という理由を,いかにしてひねり出すかということしか念頭にない。逆に,朝鮮学校の高校卒業生も,同じ12年の就学年数を経てきた学生なのだから当然,大学入学資格を与えるようにしようとする〈当たりまえの姿勢=気持〉がない。 --差別,教育差別そのもの! 東京外国語大学は既述のように,「文科省に外国人学校卒業生の大学入学資格の認定を求め,認めないばあいは同大が独自に認めるよう学長に求めていた」が,この決議を提案した1人の中野敏男教授は, 「朝鮮学校への差別的なあつかいが巧妙に残され,怒りを覚える」としながら,「大学人として,認定できるしくみを検討しなければ」と話したという(『朝日新聞』2003年8月7日朝刊)。 中野敏男教授の怒りは,在日する外国人関係者すべての怒りでもあることを断わっておきたい。 なぜ,文科省はそれほどまで朝鮮学校への差別:教育差別にこだわるのか? この問題の裏には,北朝鮮問題をめぐる最近の熱い論点といたずらに短絡させている,自民党一部人士の政治的な強い影響力がある。それにしても,文科省関係官僚の人権感覚や国際感覚が疑われる。 朝鮮学校の高校卒業生に対しては事実上,日本の公立大学・私立大学の半数以上が大学入学資格を認めてきている。これには長いあいだの実績もある。今回の議論をめぐっては,国立大学の学長の8割近くが同様に認めたいと回答している。 文部科学省はともかく,「朝鮮学校の高校卒業生に対して大学入学資格をまだ認めていない」大学を,極力たくさん残しておきたいのである。それでも今後,「朝鮮学校卒業」という基準でこの学校の高校生にも大学入学資格を認める大学が増えていくものと予想される。 しかし,文部科学省が今後も,「朝鮮学校の高校卒業生」についてだけは大学入学資格を認めないで,在日する「ほかの外国系学校高校卒業生」の大学入学資格を認めるばあいと同じあつかいにしない方針をあらためないかぎり,日本のとくに私立大学のなかにはいつまでも,「朝鮮学校の高校卒業生」に対して大学入学資格を認めないところが残存する〔→「大検」をあくまで要求する大学も残ることになる〕ことを予想しておかねばならない。 文科省のひとつの狙いは,そこにある。いいかえれば,この文科省は「朝鮮・朝鮮人」を国籍・民族によって差別する〈日本の官庁〉なのである。教育行政を担当する官庁が,日本社会のなかに根強く残る差別を根絶するために努力するのではなく,率先その旗振りの役目さえ発揮している。 かつて,文部省をつぶせという意見が日本人識者のあいだから上がったこともある。わかるような気がする。
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2003年8月15日発行の在日大韓民国民団系新聞『民団新聞』は,今回文部科学省がしめした「民族学校卒業生に対する受験資格を緩和する方針」を,こう批判した。 すなわち,韓国系の東京韓国学校と京都韓国学園の高等部卒業生については,来年度から学校単位で「国立をふくむすべての大学の受験資格を認める」が,朝鮮学校については「学生個人単位で大学個々の判断に任す」という「二重基準」を設けている(『民団新聞』2003年8月15日)。 文部省は要するに,朝鮮学校高級部の卒業生には大学入学資格を認めないとした「素案‐方針」がすでにきびしい「世論の批判」をうけたことを配慮し,自省の責任による判断を回避するかたちで,朝鮮学校高級部の卒業生に関しては大学入学資格を「大学個々の判断に任す」という逃げ道を残した。 そうして,朝鮮学校出身の学生に対する差別を温存させるという〈狡猾かつ悪質な対応をした〉のである。 今回の文科省の方針変更によって新しく,日本の大学入学資格を正式にえることになった外国系学校は,上記の韓国系学校のほか,つぎのとおりである。 中華学校 インドネシア学校 インターナショナル・スクール アメリカン・スクール カナディアン・インターナショナル・スクール ブリティッシュ系学校 フランス系学校 ドイツ系学校 --『朝日新聞』2003年8月10日朝刊「社説」は,在日する外国系高校卒業生に関して提示された「大学入学資格」をめぐる文科省の姿勢を,こう批判した。 朝鮮学校もふくめた外国人学校の卒業生すべてに受験資格を認めるべきである。合格させるかどうかは試験の結果で決めればよい。私たちはそう主張してきた。 外国人学校をわざわざふたつに分けて,こんなにまわりくどい方法をとったのは,文科省が対北朝鮮強硬派の国会議員らの圧力をかわそうとしたからであろう。 --文科省「関係部局」の官僚たち,そして今回の問題「議論のために駆り出された関係識者たち」の識見や良識が根源的に問われている。
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文科省「見解」の理不尽・矛盾など ●『民団新聞』2003年8月20日の指摘。……文科省の見解には明らかに基本的な理不尽・矛盾が露呈している。その部分は赤字にかえておく。なお(※)を付した個所は,すでに筆者がその問題点を指摘したものである。
法政大学工学部教授 李 磊(り ライ)は,大学受験資格に関して「学校を認証する制度をつくればよい」と主張している(『朝日新聞』2003年8月23日「私の視点」)。 しかし,自国の高校卒業生に卒業資格試験を設けていない日本の教育制度のなかで,しかも,高校ごとの学力の質的水準が非常におおきくバラついている〔ピンからキリまである〕現状において,日本が「国際的に通用する資格」を設定できるかどうか基本的な疑問がある。 李教授はともかく,こう述べている。「外国人学校に対する対応に差が出た背景には,拉致問題などの懸案問題を抱える北朝鮮との国際関係もおおきい。しかし,どんな理由であれ,教育の機械を平等に与えないという事実は,日本の国際的なイメージを悪化させるばかりで,民主主義の先進国としてふさわしい対応とはいえない」。
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東京外国語大学の受験資格審査基準 東京外国語大学はその後,在日韓国・朝鮮系民族学校の高校卒業生に対しても「国立大学の大学入学〔受験〕資格」を独自に認定する方向性を打ちだしていた。 東京外国語大学がさらにその後,とくにその方向性からとりのこされた朝鮮学校の卒業生〔ら〕の受験資格については, 1) 就業年限が3年以上であること, 2) 卒業に必要な総授業時間数が2590単位時間以上であること という審査基準を決めた。このような具体的基準を定めたのは,国立大学で東京外大がはじめてある。朝鮮学校の卒業生はこの基準を満たすことになる(『朝日新聞』2003年9月11日朝刊参照)。
九州大学は2003年9月19日,2004年度の入学資格認定書を申請していた朝鮮学校の卒業予定者5人に対し,資格を認めることを決めた。 文部科学省が入学資格の基準を変更したのに合わせ,朝鮮学校の卒業生らの入学資格を個別に審査する要項を設け,2004年1月20日まで受験生の申請を受けつける。文科省によると,実際の受験生に入学資格を認めた国公立大は九大がはじめてという。 九大にはこれまでに,北九州市の九州朝鮮高級学校の1人と東京朝鮮高級学校の3人が入学資格認定書交付を申請していた。2003年10月に統合する九州芸術工科大へも神奈川朝鮮高級学校の1人から申請があり,計5人の資格を入学試験実施委員会が個別に審査。来年度受験する資格を認め,認定書は来週発送するという。 資格審査実施要項では,審査基準を「高等学校と同等以上」と定め,高校の学習指導要領に準じた授業時間や科目・単位数かどうかを審査する。申請書は9月22日以降,九大のホームページに掲載,希望者には郵送もする。申請には,卒業証明書または卒業見込み証明書などが必要という。 文科省は2003年8月,これまで入学資格を認めず,大学入学資格検定(大検)に合格する必要があった外国人学校のうち,欧米系インターナショナルスクールや韓国,中華学校などの卒業生全員には資格を認めると発表。朝鮮学校については,教育課程の「公的な確認が困難」という理由で,各国立大の個別の判断にゆだねることを決めた。 文科省は9月19日,学校教育法施行規則に関し,省令を改正。九大はこれに合わせて受験資格を認めることにした。 (09/19 22:45) http://www.asahi.com/national/update/0919/038.html
名古屋大学の入学試験制度検討委員会は,卒業見込み証明書の提出などを要件に朝鮮学校生に受験資格を認める方針を固めた(『朝日新聞』2003年9月20日朝刊)。 関係者によると,同大は受験資格の審査基準は,つぎの2点である。 1) 朝鮮学校高級部を卒業すること, 2) 学校のカリキュラムを十分に消化しているいること。
大阪大は2003年9月24日,朝鮮高級学校の在校生6人に,2004年度入試の受験資格を与えると発表した。 学校教育法施行規則の改正で朝鮮学校の卒業生らが各大学の判断で大学受験できるようなったことをうけた措置。6人は大阪朝鮮高級学校と東京朝鮮中高級学校の3年で,入学資格の審査を阪大に申請していた。 阪大は2003年9月19日,大学通則を改正し,審査の目安を「3年以上の教育施設での学習経験」があるなど高校卒業と同等以上の学力があることとした。 http://www.mainichi.co.jp/news/flash/shakai/20030924k0000e040078000c.html 横浜国立大学は2003年9月26日,朝鮮高級の卒業予定者5人に,2004年度の入学資格を認定したと発表した。東京中高級学校の3人と神奈川朝鮮中高級学校の2人で,大学入学資格検定に合格していなくても受験が可能になった(『朝日新聞』2003年9月27日朝刊)。 --以上,2003年9月までにおいて,朝鮮学校高級部卒業生に大学受験を認めるとした東京外国語大学,九州大学,名古屋大学,大阪大学,横浜国立大学などの方針:方向性をみて理解できるのは,文科省の不承不承の態度,はっきりいえば同省の「さらなる陰湿な妨害」によって,「やらなくてもよい関門・手順をわざわざ設けたうえで大学入学資格を認めさせている」という印象・事実があることである。 これからも,国公立大学で朝鮮学校の卒業生に入学資格を認定するところが増えてくるのであれば,各大学ごとに朝鮮学校高級部の受験資格を審査する必要など,まったくないのではないか? 国立大学数校がすでにそれを認めたのであれば,ほかの国立大学がいちち審査する手数をかける余地はないのではないか? その審査のための要件は,内容的にみてごく簡単なものである。むしろ,いままでなぜ,認めてこなかったのか,認められていなかったのかという疑問が湧いてくる。 それとも,文科省の狙いどおりに,朝鮮学校高級部の卒業生に対する大学受験資格を,これからも認めない国立大学‐公立大学や,そしてもしかしたら,私立大学も残ることを期待する関係者でもいるのか? 思うに,朝鮮学校高級部卒業生の大学受験資格に関してたとえば,国立大学間の話として「こっちの大学は認めるが,あっちの大学は認めない」などという具合になったら,かえって非常にまずいのではないか。すべての国立大学で一気にというか一度に認めればよいものを,なにゆえ故意に,そういう「不必要な屋上屋を重ねる作業」を各国立大学に課さねばならないのか? 朝鮮学校高級部卒業生に対して国立大学の入学資格を全面的に認める体制をつくったら,なにか都合悪いことでもあるというのか。朝鮮学校にかよう高校生1人1人に,いったいどんな咎があるというのか。八つ当たりもいいところである。日本はいつまでも,不思議な「教育制度上の差別」を残す国である。 日本政府文部科学省がなによりもさきに反省しなければならないのは,朝鮮学校の卒業生だけでなく,韓国系・中国台湾系の民族学校,インターナショナル・スクールなどの高校卒業生に対して大学入学資格を認めてこなかったこと,すなわち「日本の教育制度」の「差別的性格」そのものを維持してきたことである。 要は,朝鮮学校の卒業生に関する大学入学資格の問題は,その完全な解決をまだみておらず,「カッコづき」の処理状態にとどまっている。日本の教育界のなかには一部だが,朝鮮学校に対して差別的処遇をするようしむける頑迷な勢力が残存している。 つぎの段落は,日本の教育制度において,そうした差別的とりあつかいを好む政党集団が存在することを説明するものである。
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保守新党「排外差別意識まるだし」の反対意見 保守新党は2003年9月18日,文科省が外国人学校の卒業生にも大学入学資格を認めるみとおしについて,「朝鮮学校の卒業生に認めるのは時期尚早で適切ではない」と反対する質問状を,17日に同省に送っていたことを明らかにした。 同党の質問状は,外国人学校の卒業生への資格付与は「是認できる」としながらも,朝鮮学校を「朝鮮労働党・朝鮮総連の指導のもとにある」と指摘し,「現段階では,テロ国家である北朝鮮がすすめる各開発や懸念のもたれている生物化学兵器開発などの業務に,朝鮮学校の卒業生が将来関与する可能性をまったく排除できない」などとして,反対している(『朝日新聞』2003年9月19日朝刊)。 保守新党のこのような,朝鮮学校の現状〔最新事情〕に関する事実認識を欠き,しかも,猜疑心にこりかたまったような「朝鮮学校の卒業生にも大学入学資格を認めるのは時期尚早で適切ではない」という反対意見は,在日朝鮮人とその教育機関に対する排外差別意識をまるだしにしたものである。 保守新党は,最近まで実際になされてきている「朝鮮学校内における教育方針の変化」,すなわち「金 日成や金 正日に対する絶対的崇拝思想の排除」や「教育内容の顕著な変更」に全然目を向けていない。それでもともかく,朝鮮学校の卒業生に対する国立大学〔など〕の入学資格認定に反対する意見(質問状)を公表,提出した。 しかし,その質問状の提出によって,当該論点に関する保守新党の理解じたいに重大な問題があることが明らかになった。というのは, a) 朝鮮学校の現状に対する認識に「みのがせない欠落や限界がある」こと, b) 反対意見の表明そのものに「非常な偏向・極端な予断」があること, c) 「保守新党の痼疾」である「在日朝鮮人に対する偏見‐差別の体質」が見事に体現されていること などが,正直に物語られることになったからである。 現時点において,外国人学校の卒業生への資格付与は「是認する」が,「朝鮮労働党・朝鮮総連の指導のもとにある朝鮮学校だけにはそれを認めるな」,なぜなら「時期尚早で適切ではない」という理由を挙げた保守新党の理解は,そもそも基本的にふたしかかつあやふやなものだからである。 保守新党は,「テロ国家」である北朝鮮に「朝鮮学校の卒業生が将来関与する可能性をまったく排除できない」ともいうわけだが,可能性だけで人間を疑うのは,偏見にこりかたまった決めつけを意味し,在日朝鮮人の個々人に対する直接的な「国籍」差別=人権侵害の最たるものである。問答無用的にはじめから,可能性をもって彼ら全員を犯罪人:テロリストあつかいしている。 北朝鮮の国家的テロ行為に関与する「可能性」どころか,実際にそれに直接手を貸したり,協力する技術を提供したりする「人間や集団,組織,国家」は,過去に一部の人間にはたしかに存在した。だが,その事実はなにも日本在住の朝鮮学校出身者に限定されるものではない。 保守新党の議論は,朝鮮学校出身者の何年度卒業の何人がその該当者であるのかなど明確にしめしておらず,要注意である。こうした事情は重要な関連性を有する要因なのであるから,より正確な議論をするためにもその材料を明示しつつ主張をおこなうべきである。 たとえば,金のためであれば,旧ソ連から原発関係の技術を北朝鮮へ流出させたロシア人技術者もいた。日本人でも小金のためであっても〔50万円から100万円←人によっては大金〕,北朝鮮のテロ行為にすすんで協力してきた人間もいる。 「可能性」〔危険性〕があるからという旧「治安維持法」的,あるいはきわめてあいまいな基準,どういう因果の関係があるのかふたしかなこじつけをもって他者に容疑をかける感覚は,底意地悪いというか人間不信をあらわにしたいやらしい態度である。 また「時期尚早」ともいっているが,それでは保守新党はいつになったら,朝鮮学校の卒業生にも国立大学への入学資格を認めてもよいという時期になるのか,つまり,どのような条件が生まれたときにそれを認めるというのかその基準を明示すべきである。もとより,保守新党は偏見や予断,決めつけでもの:意見〔?〕を,それも反対するためだけにいっているのだから,それが定まるところはなかなかみつけにくいと推量される。 保守新党が文科省に提出した質問状には,「可能性」,法律的にいうといわゆる「虞れ」ということばの魔術を悪用する意図がふくまれている。「可能性をまったく排除できない」という理屈の立てかたにいたっては,誰にでも適用できる汎用的な「融通無碍の排外用の理屈で」ある。 日本人にその可能性はないのか? 北朝鮮が日本人を拉致するのを手伝った日本赤軍なる「日本人のテロ組織」があった。そうすると,彼らの出身校である「日本の高校の卒業生」にはその「可能性」はないのか,ということである。いや,こちらのばあいはごくまれ,例外的,偶然的な事例だから,そこまで極端にいうことはないとの反論をうけるかもしれない。 しかし,「可能性」はあくまでも「可能性」あるいは「虞れ」にすぎず,この性質・前提・仮定をおくことによってほか,想定することはできない話となっている。いたるところで「可能性」の「可能性」,「虞れ」の「虞れ」に関する話なのである。いうなれば,どこまでもきりがなく,かつ,はてのない話となりうるのである。 さて,ひとまずそんな屁理屈をこねくりまわすのはやめておき,日本人のがわにあっても,テロ国家:北朝鮮に協力し手を貸した人間もいたということである。日朝間の歴史のなかにその証拠というかその実績,記録が,現に残されているのである。 すなわち,「可能性うんぬんの問題次元」を飛びこえてすでに,北朝鮮に金で買われてテロ行為に手を貸してきた日本人もたくさんいた。相手国が北朝鮮でなくとも,それ以外の他国諜報部員の誘惑に負けてスパイ行為をおこなってきた日本人も,過去に何人もいたのである。 だから,そうした歴史的な事実までをもちだすかたちで説明をしてきたら,もうきりがなくなってしまうのである。保守新党の論法にしたがうとするなら,何国人の誰であっても「スパイ」「テロリスト」になりうるという疑いを,絶えずかけていなければならない。 というのは,あなたも私もいつか,某国諜報部員の提供する誘惑〔金銭や ♀ or ♂ など〕に負けて,スパイ行為に走ったりやテロリストになったりする可能性もあるのだ,といっておかねばならないからである。 「可能性」=「虞れ」という加工の自在なファジー概念で北朝鮮のテロ行為に協力する,手を貸す人間が朝鮮学校の卒業生のなかにいるのだという決めつけは,いまとなっては,既述のような「最近における同校の方針変更」を配慮するに,大きな疑問が出てくる。 また,北朝鮮関係以外のすべての集団・組織・国家に属する人間たちの関連性を,保守新党のいうところの「可能性」の配慮のなかには入れず,北朝鮮という国家との関係における朝鮮学校の卒業生だけを一方的に疑い非難するやりかたは,この朝鮮学校〔卒業生〕を意図的に狙い撃ちにした,悪意に満ちた,あるいは自分たちの被害者意識のみに過剰・過敏な対応・仕打ちである。 1941年12月8日,太平洋戦争がはじまった。それ以後,アメリカ本土に住むアメリカ国籍をもった日系人が強制収容所にうつされ,ひどい目に遭わされるという,アメリカにとっては「負の歴史」がつくられた。女も子供もいっしょだった。 アメリカは当時,「日本人は全員信用しなかった」という〈まちがったあつかい〉をしたため,そういう異常な事態を起こしてしまったのである。ドイツ系アメリカ人やイタリア系アメリカ人に対しては,そういうあつかいができなかったが……。 戦後もだいぶ経ってからだが,アメリカがその事件の被害者「日系人」に対して謝罪するとともに経済的な補償をしたことは,まだ記憶に新しいところである。 もっとも,日系人があまりに多い比率で居住していたハワイ州では,日系人を強制収容所に囲いこむことがとうてい不可能であった。したがって,ハワイ州では,アメリカ本土のような事態は起らなかった。参考までにいえば,戦争がはじまるまですでに,旧日本軍関係者がアメリカ海軍の状況に対するスパイ行為を,このハワイ州でおこなっていた事実もある。 過去において,朝鮮学校の卒業生のなかに北朝鮮というテロ国家に手を貸し,協力する人間がいたといって,その後においても同校卒業生全員をひっくるめあつかうかたちで,大学入学資格の面に関して差別待遇すべきだと短絡する理由はなにか? ▼ 坊主憎くけりゃ,袈裟まで憎い。 ▼ 羹に懲りて,膾を吹く。 仮りの話をする。日本の「某高校の卒業生」が確率的にみて他校よりすこし高い比率で,強盗犯や殺人犯を出している。それゆえ,今後もこの高校からは犯罪者が多く輩出される可能性がある。だから,この高校の卒業生全員が問題だ(犯罪者予備軍←可能性あり)と決めつけこじつけるのは,いくら日本の高校だといっても大問題になること請けあいである。 しかしながら,恣意にゆだねた論理的な可能性を夢想するならば,そういう演繹的推理も保守新党流に成立しうるのである。 最近は,日本社会のなかで外国人犯罪が急激に増加していることを強調するあまり,日本国籍人自身の犯罪がなにか影がうすくなっているようである。けれども,日本人じたいという範疇でくくって犯罪問題を考えるさい,日本人は犯罪をおかす人間を少数だがふくむ集団だから「日本人全員も犯罪をさらに犯す可能性がある,それゆえ,こいつらには〈なになにの権利・要求〉を認めるな」などといったら,もう収拾のつかない社会状況になってしまうのではないか。 在日朝鮮人のばあいなのであれば,そうした差別的な処遇をしてもかまわないというのか。 北朝鮮系〔を支持する〕人びとに対してだけ,そして,その朝鮮学校の卒業生にだけ「国立大学〔など〕の入学資格」を与えるな,というような,しみったれた,心のせまいいいぶんを,いつまで,この国・あの政党はいっているのか。情けない風景である。問題は「人の心のなかにあるそれ」である。
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朝鮮学校卒,国立大の大半が受験容認 7割,方針決定 全国83の国立大学のうち7割近い56大学が,2004年度入試で朝鮮学校卒業生に入学(受験)資格を事実上認める方針であることが2003年9月3日,朝日新聞社の調べでわかった。 朝鮮学校卒業生には受験資格がなかったが,「各大学の判断で認めてもよい」と文部科学省が方針転換したのをうけて,各大学が個別に検討をすすめている。残る27大学の対応も11月中には出そろい,その大半が56大学と同様に受験資格を認めるとみられる。 文科省は外国人学校について「学校教育法でいう高校ではない」として,卒業しても国立大学の受験資格を認めず,卒業生は高校中退者やフリースクール出身者と同様に,大学入学資格検定に合格しないと受験できなかった。 2002年8月の方針転換で,中華学校や韓国学校,英米両国の民間評価機関の認定をうけた欧米系インターナショナルスクールなどには資格を認めた。 だが,北朝鮮とは国交がないため「朝鮮学校の教育課程が確認できない」として受験を認めるかどうかの判断を各大学に委ねた。高校中退者やフリースクール出身者についても,志願先の大学が認めれば大検なしで受験できることにした。 2002年9月下旬から10月にかけて朝日新聞社が全国の国立大学に取材したところ,「朝鮮学校卒業生からの受験資格」をすでに認めたり,「朝鮮学校卒業生なら満たせる内容の審査基準」をつくったりするなどした大学が56あった。 このうち42大学は「朝鮮学校卒業生の受験資格を原則認める」「認める方向」と回答した。14大学は「審査対象はあくまで個人」などと明言を避けたが,審査基準の内容などから結果的には受験を認めるとみられる。 各大学が作成した審査基準は, ▽ 出身教育施設のカリキュラムが日本の高校と同程度 ▽ 主要5教科の授業を一定時間以上うけている ▽ 高校の学習指導要領に照らし,卒業に必要な単位を修得するみこみがある ――など。 朝鮮学校卒業生に受験を認める理由は, 「広く生徒をうけ入れるのは社会の流れ」(東京外国語大), 「教育の機会均等の観点から」(京都大), 「地域大学として生き残る上で開かれた大学をめざす」(三重大) などとしている。 高校中退者やフリースクール出身者に対しては,36大学が大検合格を条件とせずに高校卒業程度の学力があるかどうか個別審査すると回答し,9大学が大検合格を引きつづき条件にすると答えた。残りは未定。具体的な審査方法には苦慮している大学が多く,独自の学力検査や面接を検討中の大学もある。 朝鮮学校卒業生の受験資格を「原則として認める」「認める方向」と回答した大学は,つぎのとおりである。 室蘭工業大,小樽商科大,帯広畜産大,岩手大,秋田大,福島大,宇都宮大,群馬大,埼玉大,東京外国語大,東京農工大,東京海洋大,一橋大,横浜国立大,山梨大,金沢大,福井大,静岡大,浜松医科大,名古屋大,愛知教育大,名古屋工業大,豊橋技術科学大,三重大,滋賀大,滋賀医科大,京都大,京都教育大,京都工芸繊維大,大阪大,大阪外国語大,大阪教育大,兵庫教育大,神戸大,奈良教育大,奈良女子大,和歌山大,山口大,徳島大,福岡教育大,九州大,大分大。 http://www.asahi.com/national/update/1004/006.html
国立大学などがいままで,朝鮮学校卒業生の大学入学資格を認めなかった理屈は,完全とはいえないまでもこれで,ほぼついえたことになる。 しかし,かつて「中華学校や韓国学校,英米両国の民間評価機関の認定をうけた欧米系インターナショナルスクールなどに資格を認め」てこなかった文部科学省の理屈は,朝鮮学校系の高校卒業生にかぎってはなおも,そのまま残されたことになる。 結局,『北朝鮮とは国交がないため「朝鮮学校の教育課程が確認できない」として受験を認めるかどうかの判断を各大学に委ねた』文部科学省の態度は,姑息な逃げの一手=問題回避と非難されて当然である。 なお既述のように,「審査基準の内容などから結果的には受験を認めるとみられる」「14大学は〈審査対象はあくまで個人〉などと明言を避けた」という調査結果も出ていたが,文部科学省の腹積もりとしては,こういう対応をする国立大学がよりたくさんあってほしいと念じているだろう,と勘ぐっていたのが〈筆者の観測〉である。 また,今回の国立大学における判断状況:「朝鮮学校卒業生に受験を認める方途」をみて,私立大学のほとんどがこの動向にしたがうものと推測していい。だが,私立大学のなかにはそれでも,「認めない」大学があって不思議ではない。この点は,もうひとつの〈筆者の観測〉である。 文科省の責任回避にひとしい態度は,そのように判断〔否定〕する私立大学が残るだろう余地もつくったのである。むろん,その実際は今後における動きについて,目をはなさずにみまもる必要がある。 いずれにせよ,朝鮮学校卒業生に受験を認める各国立大学は,「開かれた大学をめざ」し(三重大学),「教育の機会均等の観点」に徹する点(京都大学)にその理由を求めたといえる。それは「社会の流れ」(東京外大)でもあるわけだが,在日関係者の筆者はその流れの緩やかさに呆れるとともに,皮肉のひとつもいいたくなる気分である。 これだけ大多数の国立大学が「朝鮮学校卒業生に大学入学資格を認めた」のであれば,文科省がその判断をしぶっていた「この点」は,否定すべき事由がなにもなくなったことを意味する。だから,こんどは,各国立大学のそうした「全体的な意向」をうけて,文科省が「まともな決断」をしなければならない段階になっている。 --文科省は,前述に言及した保守新党の見解,北朝鮮嫌いの感情を剥きだしにした形相で「朝鮮学校の卒業生に認めるのは時期尚早で適切ではない」というたぐいの,幼稚で〈没論理の単なる感情論〉に与すべきでない。もっとも文科省は,保守新党の見解を悪用している向きもある。 文科省は,日本社会の一部の感情を変におもんぱかり,国立大学受験を朝鮮学校卒業生にだけ認めないとするような,〈とってつけたような否定の理屈〉を振りまわすべきではない。そうした教育行政の姿勢にはもはや,いかなる歴史的妥当性も,わずかの論理的有効性もないことを肝に銘じるべきである。 日本国内外の政治的問題に朝鮮学校卒業生の大学入学資格を直結させる政治偏向的で狭量な意見には,怒りを覚える。朝鮮学校にかよっている「在日3世・4世以降の子どもたち1人1人」に,北朝鮮拉致問題の,いったい,なにをむすびつけ,イジメなくてはいけないというのか。 牽強付会もいいところである。日本には,残酷非情で,思考浅薄な政治家がいるものである。 1965年6月に日韓基本条約が協定調印されるまで,日本政府関係者,そして文科省〔当時は文部省〕当局が在日韓国・朝鮮人の学童・生徒・学生たちにくわえてきた差別・抑圧(その存在すら認めようとしなかった点)を想起するとき,その後の40年間近くもなお同様な教育的圧迫を,なんの罪も因果もない子どもたちに与えてきている関係官庁のやりかたは,日本の教育史に残すおおきな汚点といえる。
● 以上,長々と論述してきた在日韓国‐朝鮮人学校〔など〕高校卒業生に関する日本の国立大学「入学資格」の問題は,筆者が以前よりとりあげ,批判してきたものである。 本ホームページのなかには,このページにおける議論の前提をなす「つぎの論稿」も掲載している。念のためここにリンクを張っておきたい。
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