石原慎太郎の都知事再選は不可である
も く じ |
●1 都知事再選への意志表明 |
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都知事再選への意志表明 2003年2月12日の新聞は,4月13日に投票のおこなわれる東京都知事選挙に石原慎太郎現知事が「再選出馬へ意欲〈2期やらねば成果残せない〉」といった,と報道した。 石原都知事は,「知事の仕事は最低でも2期務めなければ十分な成果が残せないことは,私だけでなくほとんどの人の共通した意見だ」と述べ,あらためて続投に意欲をしめしたというのである。 立候補をうんぬんされている当人が,都知事を「2期務める」ことは「私だけでなくほとんどの人の共通した意見だ」というのであれば,再選めざして出馬することは必至であろう。 先回〔1999年4月〕の都知事選でみごと当選した石原だが,立候補の表明にさいしては「後出しジャンケン」の慎太郎と揶揄された。今回は,だいぶ余裕もあってか,いかにも周囲に気をもたせ,もったいぶった態度をとっている。 筆者は,御年70歳になった石原慎太郎は引退の潮時を迎えており,立候補すべきではないと考える。 もっとも石原は,国会議員の25年間「かくたる成果も出せなかった実績」にうしろめたい気持をもっているから,世界的な大都市〈東京〉の行政を大統領的に引きまわせる都知事の立場は,居心地がたいへんよく,自分の趣味にも合うもののようにもみうけられる。それゆえ,彼が再選を意図する理由もよく理解できる。 しかしながら,本ホームページ〔他所〕で詳細に説明しているように,この人物の問題性である「自分以外の人間すべてに向けられる蔑視観」〔いわば〈唯我独尊〉〈傲岸不遜〉〈傲慢独善〉などに由来するそれ〕には,とくに十分な警戒を要すべきところである。
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各種の差別意識にまみれた石原慎太郎 すでに詳細に解説してきた点だが,石原慎太郎なる人間の『問題性』は,たとえばこういうふうに分析されていた。 1)「庶民の苦しみが分からない」 2)「国際感覚がゼロ」 3)「偏狭な国家主義者である」 4)「強引さがめだつ」 5)「独断性に不安」 6)「手法は総理としては通用しない」 これらにくわえて, 7)「一貫した人間差別主義者」 であり, 8)「偏見に満ちた煽動家」 であることも付加しておく。 7) でいわれる〈人間〉とは外国人,とりわけアジア人:民族の全般が標的であり,さらに同国人のジャパニーズに対しては,なかでも女性に対する差別観は強烈である。 なかでも,次項でさらに言及するごとき,「子どもを生む能力と無縁になった〔閉経期以後の〕女性」に対する「ババア発言」,すなわち,人類の半数の人びとを対象にとりあげ,徹底的に「人間あつかいしない」ような差別意識は,とうてい許しがたく,極悪なものである。
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バレンタイン・チョコレート ♡「ばばあチョコレート」を石原慎太郎都知事にプレゼント ♡ 2003年2月14日,20代~80歳までの女性約20人が石原慎太郎東京都知事に「猛省をうながす」ために,手作りのチョコレートを贈ろうと都庁を訪れた。 2002年11月,石原が週刊誌上で「文明のもたらしたもっとも悪しき有害なものはババアなんだそうだ」などと発言したのが怒りの発端である。 彼女らは,慎太郎のその差別発言の撤回を求め,市民団体ピースボートの有志らがつくったそのチョコレートを届けた(『朝日新聞』2003年2月15日朝刊「青鉛筆」)。 石原慎太郎はさらに,弱者=障害者の存在〔生きる価値〕を認めないような発言もしてきた。 石原の抱く外国人差別の価値観はまた,「第三国人」発言において明白である。 このように,東京都知事の再選をめざし立候補する予定の人物がきわめてあからさまに,「自分に1票を入れてもらわねばならない」人びと:有権者に対する《各種の差別観》を披露してきた事実は,重大かつ深刻な事態である。 ☆
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東京都民が問われる都知事選 東京都民は,こんな下劣で野卑な人物を,再び自分たちの住む首都の知事にえらぼうとするのか? 簡潔にいえば「女性の敵」が石原慎太郎。むろん,外国人の配偶者をもつ日本人=東京都民の敵でもある。障害者本人,そして彼らを家族や友人・しりあいにもつ人びとにとっても当然,石原慎太郎は敵である。 なぜ「敵」か? 上記の人びとの存在じたい,生命そのものを,石原は認めようとしない本音を抱いているからである。 かくべついいたいのは,「ミーハー」的に石原慎太郎を支持してきた庶民・大衆に対してである。あなたがたも,この都知事に関しては,相当に要注意である。あなたがたが1票を入れ当選させたこの男こそ本当は,一般市民を小馬鹿にし,軽侮してきた〈神経の持主〉なのである。 「生理が終了した女性」は,平均寿命〔余命〕で計算すればこれから30~40年もなお,「女としての人生」を過ごしていくことになる。 長寿化した日本社会を構成する壮‐老年女性たちの実在じたいを全面的に否定し侮辱する〈この男〉が,なにゆえ,この国の首都でノウノウと知事をやっていられるのか。しかも,再選をめざすなどといわせていいのか。 これでは,東京都民はオトコとオンナとを問わず,慎太郎に対して,不思議なくらい「甘い」,批判が足りないといっておかねばならない。 参考までに,東京都における有権者の半分をすこし超える数が女性であることを確認しておく。 2000年3月2日現在で東京都における選挙人名簿登録者数は,こうである〔この人口統計によれば,女性のほうが 8万3447人多い〕。 ・総 数 9,771,115名 ・ 男 4,843,834名 ・ 女 4,927,281名 女性有権者の数値のうち,単純に50歳以上が閉経期を迎えたと考えるに,石原は実に「愚かで無礼な発言」を,その範疇に属するオンナたちに放ったものである。これほどの女性差別‐人間侮辱は,ほかにない。 なお,住民基本台帳(2000年)によれば,東京都における50歳代以上の女性の人口を合計すると,233万人にもなる。1999年の都知事選で石原慎太郎候補が獲得した票数は,つぎの表のとおりである。
1999年東京都知事選挙結果
石原の「ババア」発言は,人類全体の半分を占める女性に向けられたものである。このようなオトコを,世界有数の大都市東京都の知事に2度も選ぶという愚挙は,絶対回避しなければならない。 老年‐壮年,若年‐幼年を問わない,女性諸氏,「こんなトンデモナイ男」に都知事を務めさせつづけていいのか! 怒らないでいいのか!
石原慎太郎『亡国の徒に問う』(文藝春秋,1996年初版)という著作がある。この本が,1999年に文庫本になって販売されたさい,そのカバーに掛けられた帯には「国を亡ぼすのは政治家か,官僚か,あるいはあなた自身か?」と,宣伝文句が謳われていた。 いまのシンタロウ・イシハラは,地方行政にその長としてたずさわっている「政治家」であり,まさしくその「あなた自身」である。
●5 やたら女性〔=他者〕を蔑視し,大物ぶる都知事 2002年10月10日(日本時間10月11日早朝),横田基地の軍民共用化を求め,訪米中の石原慎太郎東京都知事は,ワシントン市内で記者会見した。そのさい,大田昌秀前沖縄県知事(現参院議員)に言及し,前知事の訪米要請のやりかたをこう批評した。 大田前知事が在任中,訪米して基地返還を求めていたやりかたは「女学生みたい」。 「前に大田さんという知事がペンタゴン(国防総省)か,国務省の前にいって,沖縄の基地かえせって(いったが),そんな女学生みたいに叫んだって問題の提起にもならない」。 2002年10月6日,石原知事はワシントン入りし,翌7日にアーミテージ国務副長官と会談した。だが,横田基地の軍民共用化については,「国と国とが話し合う問題」と門前払いされた格好であった。 いまのところ〔2003年2月17日現在〕まで,石原知事がアメリカ当局関係者と協議,要請しようと試みた「横田基地の軍民共用化」問題がどうなったかについての続報はなく,進捗もみられない。 東京都知事の立場でアメリカに出向いた石原は,米軍専用:横田基地の全面的返還ならぬ部分的共用を求め,アメリカ当局関係者に直談判した。しかし,地方政治家としてのその外交的な行為は,国会議員のときにこそ実現すべきものではなかったか。アーミテージ国務副長官の応対はその点を突いており,問題そのものの重大性はさておいても,石原にかえした反論は妥当に聞こえるものであった。 ここではむしろ,石原都知事から沖縄前知事大田昌秀に差しむけられた「女学生みたい」という〈批評形式〉は,いわゆる「オンナ・コドモ」うんぬんという〈表現形式〉を想起させることを指摘しておく。 他者を論評するさい「女学生みたい」〔あるいは「オンナ・コドモ」〕だから,といって難詰する表現じたいが明らかに,女性〔およびコドモ〕を差別あるいは軽視,無視,蔑視したものである。 筆者はさきに,若年女性もぜひ,こういうシンタロウの「女性に対する差別意識」現象に注意しなければならないことを断わっておいた。 ここで,現・小泉政権に関してのみだが,元「女学生」だった現職大臣たちの氏名を以下に挙げておく。 ① いちばん有名なのは,純一郎首相にスカートの裾を踏まれてコケテしまった,前法務大臣の田中真紀子〔早稲田大学第一商学部卒〕。 ② 現在の法務省大臣が森山真弓〔東京大学卒〕,外務省大臣が川口順子〔同上〕,文部科学省大臣が遠山敦子〔同上〕,国土交通省大臣が扇 千景〔神戸高校卒・宝塚歌劇団出身〕。 彼女らは,若き日をオンナとして学校にかよっていた時代をもつ。つまり「女学生」として過ごしてきた時期がある。 しかし,なにゆえ,女学生だったことが「なにかを非難することば」に流用・悪用されねばならないのか? それは,石原の心底に潜む「女性軽侮の感情」が表出させた「差別の具体的修辞法の一例」だといってよい。 石原流の「独自の差別的な規定」にしたがっていうなら,田中真紀子,森山真弓,川口順子,遠山敦子,扇 千景の全員が,いまではまちがいなく,「文明のもたらしたもっとも悪しき有害なものはババアなんだそうだ」と指弾されるべき女性群に属するはずである。 上記氏名の諸大臣女性にその年齢を直接尋ねるまでもなく,またその事実を指摘しても失礼にならないとは思うが,彼女らは恐らく全員が「閉経期を済ましてきた女性」である。 かりに,石原の「ババア:有害」観〔感?〕に馬鹿正直に依拠するなら,日本国の現内閣は,どうしようもなく有害なババアの大臣4名〔前任まで勘定すると計5名〕をかかえてきていることになる。くわえて,沖縄県の前知事だった大田昌秀氏を石原都知事がおとしめようとする舌尖を観察するに,こういう事実がよくわかる。すなわち,この石原慎太郎という人物は,単なる女性差別主義者であることだけでなく,自分以外の他者すべてに対して差別観を抱く体質を保持していることが理解できる。 結局,石原慎太郎による「女性差別」の現象は,この男自身の根柢に沈殿したまま,どうしても払拭できないでいる「他者差別」の本性から噴出してくるものなのである。 石原はもしかすると,外務大臣川口順子の後見人になったつもりで,「アーミテージ国務副長官と会談し,横田基地の軍民共用化について」要請したのか。横田基地問題が東京都知事の仕事にまったく無関係とはいえない。けれども,それを頼みもしない川口外相にとっては余計なお世話……。
●6 石原慎太郎は,イジラレているか 『アエラ』2003年3月3日号は,石原慎太郎に関するあるアンケートを載せた。 石原が「好き」44%,「嫌い」12% 石原を「首相にしたい」31%,「ダメ」39% 「石原が首相になったら,まちがいをおこしそうな人だから,都知事ぐらいがちょうどいい」(パート,26歳)。 --筆者は思う。いままですでに「まちがいをおこしてきた」石原の軌跡を,そういうふうに理解し答える一般大衆をとらえて,彼らが「石原慎太郎をイジッテイル」と生半可に解釈するのは,楽観的にすぎる。 事態は逆であって,「慎太郎によって一般大衆がイジラレテ」きたことのほうこそ,より明白な経過であって,しかも重大な関心事である。 石原を「都知事するくらいまでならいいだろう」と考える一般大衆は,慎太郎の危険性・害悪性に鈍感であることを,まだ思いしらされていない。 石原の女性差別観は,その悪質な性格を端的に露呈させている。在日(アジア系)外国人にとって,石原は《差別の人》以外のナンピトでもない。 石原慎太郎が都知事の地位を首相へのステップとみなしているにすぎないことは,広く話題となってきた。それゆえ,この男を首相にさせたくないなら,知事にもさせ〔てい〕るべきではない。これは「理の必然」である。 石原慎太郎は2003年3月7日に,都知事選への再出馬を正式表明するつもりだと報道された(→本項目執筆時は3月2日)。この表明は,国政復帰への目が読めない状況を石原が踏まえてのものであった。 ◎
2003年2月16日,ほか
記述 |
都知事選には共産党の新人,若林義春・都委員長(52歳)と無所属で再選をめざす石原慎太郎知事(70歳)が立候補を決めており,選挙戦の構図がほぼ固まった。 --東京都の女性有権者のみなさん,あなたは誰に投票しますか? 樋口恵子が都知事候補に名乗りを上げた。筆者は,石原慎太郎にとって強力なライバルが登場したことを意味する,と解釈しておく。 問題は,女性たちが自分たちにとって慎太郎が〈女性の大敵〉的な存在であることを,十分自覚するかどうかにかかっている。この男の本性をみぬき,都知事に再び当選させてはならぬという認識をもってほしいものである。 女性諸君〔とりあえず東京都の〕寝てちゃ ダメよ! |
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★ 石原慎太郎「批判」本 ★ この本は,このたび都知事候補に名のり出た樋口恵子も記述の対象にしていた。このことはともかく,筆者からみて注目すべき3カ所を引照しておきたい。 彼は弱者といわれる者,すべてが嫌いなのです。障害者,高齢者,女性,外国人。貧しい人,失業者,ホームレス etc 。でも,地方自治体において,これらの人々のためにおこなう施策はおおきな比重を占めるものであり,嫌いだからといって切り捨ててよいものではないはずです。 しかし,石原慎太郎は,それをおこなっているのです。弱者や福祉などということばは,彼のまえでは禁句のようなものでしょう。2代前の福祉局長は女性でしたが,就任して1年位で,ガンで亡くなりました。庁議などでガンガンやられて,忍びがたきを忍んでいたためだろうと,多くの職場の仲間たちのウワサでした(同書,115頁)。 彼の独裁を,それでも大衆人気がささえる構図。閉塞状況がつづき英雄の登場を待望する日本社会では,支配欲むき出しの強権を行使することに恥じらいを感じず,他者の生に対してかぎりなく無頓着で開けっ広げな差別主義者が,大衆のもっとも愚かな部分を癒し刺激して,思考停止におちいらせていく(174頁)。 ただ良風美俗を破壊しさへすれば新文学だと思っているような単純しごくなやんちゃ小僧のいたずらみたいな文学……(193頁)。 --愚かな一般大衆〔いわゆるミーハーちゃんたち〕を煽情し,差別の感情を抱かせるのが上手な石原慎太郎 君。しかし,そのミーハーちゃんたちこそ実は,慎ちゃんにいちばんバカにされていることに気づいていない。この事実関係に一般大衆=ミーハーちゃんたちが気づいたとき,石原慎太郎の偶像的仮面は一気はがれ落ちる。 樋口恵子に《小皇帝:慎太郎,差別主義者》の 空 虚 性を暴かせようではないか!
★ 石原慎太郎君,都知事再選 おめでとうございます ★ ● 朝日新聞の報道より。 --東京都知事選は,現職の石原慎太郎氏(70)が3百万票あまりを獲得,評論家の樋口恵子氏(70),共産党都委員長の若林義春氏(52)ら新顔4人を大差で破って再選をはたした。 有力候補が乱立して大混戦だった前回とは打ってかわり,高い人気をたもつ石原氏に対する「信任投票」の色彩が濃い選挙だった。 石原氏は終始,ディーゼル車規制や外形標準課税など1期目の実績を強調。都政運営にあたっては「国との対決姿勢」を強めていくことを訴えつづけた。無党派層を中心に地域や男女の別なく幅広く浸透。都連,都本部レベルで支持を決めた自民,公明両支持層も手堅くまとめて支持を広げ,前回を上まわる得票で他候補を制した。 樋口氏は,石原都政の「独断専行的な政治手法」などを批判。若林氏も「石原知事は都議会や会見でイラク戦争容認を何度も明言した」などとして批判したが,明確な争点として有権者に伝えきれなかった。 投票率は低調な選挙戦を反映して低迷。44.94%にとどまり,前回の57.87%を下まわった。
http://www.asahi.com/politics/update/0413/008.html
● 毎日新聞の報道より。 --石原慎太郎は,3百万票の大台を超える大量得票となった。有効投票数に占める割合は,過去の都知事選で最高の7割に達した。一方,毎日新聞が投票所でおこなった出口調査によると,石原に投票した人の7割が「4年間の任期をまっとうしてほしい」と答えた。 これについて,有権者の投票行動にくわしい田中愛治早稲田大学教授(政治学)は,こう分析する。「国が期待のもてる政策をしめせないのとは対照的に,石原氏は国に逆らい,新しい政策を打ち出してきた。変革への期待が,3百万票を超える得票につながったのだろう。裏をかえせば政党のだらしなさの象徴だ」と。 ただし,国政復帰を望む人が少ないことについては「有権者は参院選や地方選では冒険しても,外交や防衛,経済政策を左右する衆院選では慎重な投票行動に出る。『国までは任せたくない』という都民のバランス感覚の表われ」と語る。 そして,「投票率が44%しかなく,知事選が半数以上の都民にとって意味を持たないということが大変な事態であることを,政党も政治家も真剣に考えるべきだ」と指摘した。 http://www12.mainichi.co.jp/news/search-news/875309/93s92m8e9691I-0-1.html ● 石原氏「2期目は今まで以上に過激にやる」国に対決姿勢 ● --2期目はいままで以上に過激にやる。場合によっては国をこづきまわす。それが日本の古い政治のしくみをかえることにもなる。 非常に分厚い,迫力のある選挙ができた。現実的,具体的に物事をすすめてきたことを,都民が正確に把握してくれたことが信任につながった。 投票率は都知事選で過去2番目に低かった。これも「残念だが,対立候補が幼稚で,都政のことをしらなすぎた。それを都民が突きはなしたということだ」と切って捨てた。 中小企業対策,新しい金融システム,福祉政策,教育改革。やり足りないことはたくさんある。東京が動けば,日本もずいぶん違ってくる。 公約にかかげた新銀行創設については「一室でブレーンストーミングしている」,米軍横田基地軍民共用化は「アメリカからボールを投げさせるのも必要で,準備している」。あらためて国と対決する姿勢を繰りかえす石原であった。 http://www.asahi.com/politics/update/0413/013.html
--もっとも,慎太郎君一流のこうした超強気の発言は,「都民のバランス感覚」,つまり,石原に「国政復帰を望む人が少ないこと」あるいは『国までは任せたくない』という〈都民の気持〉の表われ」を,まったく理解しないものである。 21世紀は,経済活動のみならず政治交流においても,地球主義(グローバリズム)がより浸透していく時代である。その意味で石原慎太郎という人物は,「グローバル化に対する,遅ればせながらの反動」であり,「あまりにもレベルが低すぎる」実例である(姜 尚中・森巣 博『ナショナリズムの克服』集英社,2002年,188頁)。 だからか,東京都民の期待は,石原慎太郎都知事の仕事=都政から国政の場面を切りはなしている。この事実に気づかないで石原は,「東京が動けば,日本もずいぶん違ってくる」,「場合によっては国をこづきまわす。それが日本の古い政治の仕組みをかえることにもなる」などとぶち上げているが,国政というものは外交問題と直結する政治の舞台であることを意識できていない。 しかしながら,その類の政治的な問題〈意識〉に欠けるところにこそ,この石原慎太郎君の特性:真価があった。石原自身は,今回の再選実現の結果をうけて,「対立候補の幼稚」さを「都民が突きはなしたということだ」と喝破した。けれども,都民は,国政の場=次元,そして世界政治・外交の舞台で,石原に活躍してほしいとは思っていない。 --石原慎太郎は,ミニ・ミニ 版ヒトラーである。 2000年4月9日の,在日外国人〔定住アジア人,それも韓国・朝鮮人や中国・台湾人〕を強く侮蔑した『第三国人』発言は,石原慎太郎の「レイシズム〔民族的・人種的差別主義〕」を象徴していたことを忘れてはならない。 森巣 博は,「石原慎太郎みたいなのが〈中国人犯罪者集団民族的DNA〉論をいう。これはもう,剥き出しのレイシズムです」と断罪する(姜・森巣,前掲書,184頁)。 民主党代表菅 直人は,「自分の美意識を政治といっしょくたにしているのが,根本的にまちがっています。血で絵を描くようなものです」と,どぎつい石原の政治感覚を批判する(『世界』岩波書店,2003年4月,65頁)。 東京新聞 嶋田昭浩・柏田健次郎『東京は変わったか-石原都政検証-』(都政新報社,2002年9月)は,石原の〈軽率にみえるが意図的な〉「第三国人」発言を,おだやかにだが,こう批判している。 だが,知事みずから……会見で「このごろの人には耳慣れないことば」と認めることばを,しかも過去に「差別」がからむ「特別の事情」のあることばを,辞書の第1義がどうであれ,なぜもちだす必要があったのか。理解に苦しむ(同書,236頁)。 --都知事に石原が再選されたからといって,これからも与党自民党などからなる「国をこづきまわす」と意図するのは,いっこうにかまわない。あえて,そういっておく。だが,他国〔籍〕人・異民族に対してあからさまに,偏見の態度と差別の意識を煽るような「人非人的言説」は,絶対にやめるべきである。 ともかく,東京都民は再び,正真正銘のレイシストである石原慎太郎を都知事に選んだのである。この人間が再任期間中にまた,どんな問題を,故意に〔これは実は逆説的に,彼の無意識:潜在意識という意味もふくむ〕,あるいは調子に乗って〔これは自己抑制をうしない本性を露出してという意味である〕おこすかが心配である。 前述のように,今回の都知事選における投票率は,前回の57. 87%を下まわって44. 94%となり,低調な選挙戦だった。しかし,なんといっても,現在〔2003年3月まで〕支持率の低迷がつづく小泉純一郎内閣と表裏の関係で過熱する慎太郎人気は,日本の政治の貧しさを映す鏡ともみえる(『日本経済新聞』2003年4月15日「春秋」欄参照)。 ヒトラーはかつて,狂騒‐錯乱の自著『我が闘争』のなかでこういった。この言辞は,ヒトラーが当時のジャーナリズムを批難するためにいったものである。だが,政権奪取後はこの〈民主〉政治社会的な現象を,逆に悪用することになる。
ヒトラーのナチス・ドイツを熱烈に支持したあげく,自国の崩壊に手を貸したのは,いうまでもなくそういった「市民階級」「軽信者の群衆」であった。 時代の差はあれ,ヒトラーの支持基盤と石原慎太郎のそれとにおいて「明確なる共通性」をみてとろうとすることは,けっして杞憂ではない。 石原首相〈待望論〉」に必然の理である《日本国の危険性》は,「火をみるよりも明らか」である。 --最近の言論界で論客の役割をはたしている福田和也は,石原慎太郎を異様にヨイショする。 福田和也『いかにして日本はかくもブザマになったか』(文藝春秋,平成14年7月)は,きわめて読みの浅い,つぎのような「石原慎太郎論」を披露している。 a) 福田はまず,ヒトラーがドイツで政権を掌握する前年,昭和7〔1932〕年8月号の『文藝春秋』に掲載されたある論稿を紹介する。 その具体的な内容は,当時日本の政党政治が機能不全となり,終焉を迎えざるをえなくなった原因を,軍部や官僚の政界への進出ではなく,「一般大衆の政党に対する強い反感もしくは失望」を原因とする「大衆の台頭」に求めたものであった。 福田は,この指摘は今日の状勢と考えあわせてみるとなかなか示唆に富んでいるという(133頁,132頁)。 b) 福田はつぎに,こう述べる。石原慎太郎は「あらゆるルサンチマンと異質」の人物である。だから,石原は「未来の国家国民に対して責任を負うことで……大衆のルサンチマンにつけこむポピュリズムと対立する」政治家である,と(141頁)。 --福田による石原慎太郎論の陥穽は,「ルサンチマンと対立する」=無縁の人物が石原慎太郎だと,見当違いの解釈をしている点にみいだせる。 ほかのページで詳論してきたので,ここではごく簡単にいうにとどめる。自称一流作家「石原慎太郎の潜在意識に隠された幼児的ルサンチマンの所在」を可視化しえない論評は,論客たる福田の存在価値を半減しかねないものである。 それゆえ,「大衆のルサンチマンにつけこむポピュリズム」そのものにほかならない「政治家が石原慎太郎である」ことを糊塗するだけでなく,それをさかさまにした迷論的誤評は,まったくもっていただけない。 ● 佐々木信夫『東京都政-明日への検証-』岩波書店,2003年2月 ● ① 政策運営に関する透明性,民主性が欠けている。 ② 自分の関心のある分野ではいろいろやる気を出すが,そうでない分野は放置する。とりわけ,都政の内部に対しては関心がない。 ③ 都民を巻きこんだ議論や世論形成,情報公開に手が付いていない。政策形成過程もオープンではない。「重要な都政の課題では都民投票も辞さない」と公約しているが,いまだ都民投票を課すような話は出ない。 ④ 華やかにすぐ結果の出る課題ばかりに走っている。それが,知事サイドの徹底した秘密主義にも現われている。だから,根回しや事前に話をするというこれまでの仕事のやりかたができなくなって,都議会や市区町村,関係団体とのあいだに摩擦が生じている。
つまり,石原都知事は自身の関心の高いテーマにはトップダウンで対応する。しかし一方,日常の都政の多くを占める日常業務(ルーティンワーク)には関心がない。都民生活にかかわる多くの行政分野が役人任せの従来型ボトムアップでつづけられている。このことが都民にとって幸せかどうか。 以上の石原都政に関する問題点指摘は,こうも分析,批判される。 a)「都政の華やかな上澄みの部分は石原都政であっても,そこから抜け落ちた大部分が旧来の鈴木時代に積み上げ方式であってよいのか。成果とスピードを強調する都政スタイルは評価できるが,一方で膨大な」事務事業の執行に発揮されるべきリーダーシップが存在しないなら,都民にとって望ましい都政とは必ずしもいえない」。 b)「参加の視点をもたない現在の〈知事一極依存〉の都政運営では,5万人体制という巨大組織のエネルギーが十分活用されるとは思えない。職員参加は不可欠だ」。 c)「都政の巨大さ,複雑さを理由に都民参加を軽視するなら,都政の民主性は一気にうしなわれる。あらためて地方自治における透明性と民主性が都政に問われている」。 --結局,石原都政の実績:現状は,石原慎太郎という人間の個性や人間性を正直にそのまま表出している。 その点は,石原慎太郎生来の性分である「独善・独断,傲慢・専横,身勝手・気まま,お山の大将=ミニ・ミニ 版ヒトラー」という点をとおして存分に発揮されている。 この自称「1流」小説家が展開しつつある「2流」政治家的な政治手腕の姿容は,明らかに,民主制的な政治感覚をもちあわせていない事実を実証してきたのである。
★ 石原慎太郎が一国宰相の器でない と論じた著書からの引用 ★ 現在,石原がきわだった存在として認識されているのは,4年間の任期が保証され相応の「独裁性」をともなった権限をもつ東京都知事という官職が,石原の個性にみごとに合致しているからではないか。 したがって,日本の人びとが現状を放置したままで石原を総理に座に迎えたとしても,政治家としての石原の「消費」という結果に終わるのではないか。日本の現状は,単なる個性の気概といったものによって打開できるほど,容易なものではないからである(櫻田 淳『奔流の中の国家』勁草書房,2002年,194頁)。
★ 公約実現不可「お台場カジノ実験断念」★ 石原知事は「既存の法律に触れない(カジノの)運営を考え,ずいぶん研究したが,かなりむずかしい」と発言。換金ができないということから「法改正をしないかぎりは,いくら豪華な施設を造っても刺激的なものにならないと思う」などと述べた。 石原知事は,再選された2003年4月の知事選での公約に,新銀行設立などと並んで観光産業振興の目玉としてカジノ実験を挙げ,雇用促進や景気刺激策になるとアピールしていた。 東京都は大阪府や静岡県など他の自治体と連携してカジノ研究会を開催してきた。国に対しても「カジノ実現のための法整備」を要望しており,お台場での実験は断念するものの,カジノ実現に向けた模索はつづけるとみられる。 http://www3.nikkei.co.jp/kensaku/kekka.cfm?id=2003061308318
★ 国民的人気だと? ★ たしかにあの人〔安倍晋三〕は若いし,甘いマスクとソフトな声をしているから,ミーハー的な人気はあるだろう。だが,それだけで“国民的人気ある”なんていわれては,国民の1人としてぼくは迷惑だし,安倍さんだって困ると思う。 思うにそれは,マスコミがつくりあげた人気という面もあるのではないか。多くのマスコミが“安倍幹事長”という名前のうえに“国民的人気がある”なんて冠詞をおもしろがってつけ,それをやたらに反復するものだがら,国民的人気があることになってしまったじゃないかと思うのだ。 が,問題は安倍さんではない。今回の小泉純一郎さんのやりかたをみていると,政策よりもそういう人気作戦でのぞめば,つぎの選挙も国民はコロリだと思っているようで,そのうまさとロコツさがめだつ。 たしかに人気はたいせつだ。が,人気をささえているものはなにか。それをみる目ももたないとこの国はひどいことになるじゃないか(『朝日新聞』2003年10月2日朝刊,天野祐吉「国民的人気だと?)。 --筆者は,天野祐吉による以上の批評は,石原慎太郎知事にも妥当するものと考える。 もっとも,若い安倍晋三の「甘い」マスクだとか「ソフト」な声だとかいう評価は,筆者はしない。 すなわち,自民党新幹事長の顔としての安倍晋三は,多分に「甘さ」を残す顔つきであり,かつシマリのない舌足らずの発声をする男であるなどととらえるならば,まだしも理解できないわけではない。 だが,この程度の「ヒヨッコ:黄嘴」=世襲3代めの政治家に対して,ミーハー的な「国民的人気」が沸きたつといったような,一般庶民の意識水準・政治的感性そのものが,まず問題である。 この国は最近,ろくな政治家を輩出できていない。とくに自民党になると世襲の2世・3世議員が目白押しであって,本当に資質や実力があって政治家になった連中だというよりも,ただ先代の〈地盤・看板・カバン〉を継承できたからなれたにすぎない人物たちだ,という印象のほうが強い。 安倍晋三は,2002年10月以降,マスコミを媒介に日本社会を大騒ぎさせてきている「北朝鮮による日本人拉致被害者」帰国(生還)の問題にかかわって,日本政府がわの関係者として〔当時内閣官房副長官〕,強硬な対応姿勢をしめしてきた人物である。 その安倍の姿勢が〔日本〕国民の関心・共感をよんだわけだが,マスコミもそれを盛んにヨイショするかたちで報道し,煽ってきたゆえ,その相乗的な結果もあってか,この安倍なる3代め政治家に対してはあたかも,非常な“国民的人気”があるかのような雰囲気が,作為的に醸成されてきたといってよい。 機をみるに敏な小泉首相は,2003年11月に予定されている衆議院解散後の総選挙を意識し,この人物:安倍晋三(満49歳)を自民党幹事長に選んだわけであるが,天野祐吉はこの人選を上述のように批評したのである。 ところで,2003年10月に入ってからの国会で,小泉首相が野党がわとの質疑応答で述べた内容は,つぎのように酷評されている。
なにゆえ,この国の人びとはこのような国会答弁をする一国の首相を,だまってみるだけで〔みていないのか?〕なにもいわないのか。 アメリカの国防長官はすでに「同じようなレトリックをつかい,世論から総すかんを食った」。イギリスのブレア首相も,アメリカのイラク攻撃‐侵攻に率先協力するに当たって,いくたものウソや意図的な情報操作があった事実を問題にされ,苦境に立っている。関係者の自殺事件も生じていた。 けれども,ドイツやフランス,ロシアがアメリカのイラク攻撃を支持しなかったにもかかわらず,米・英につづいてスペインとともにイラク侵攻を積極的に支持,応援した日本であった〔注記,以上に出てきた国々は,過去においてすべて,帝国主義をやってきた宗主国ばかりである〕。 しかも,小泉がアメリカを支持を説明するその〈論理〉は,前述における朝日新聞「社説」が批判するとおり,きわめてデタラメ,かつ没論理の開きなおった答弁にしかならないものであった。 朝日新聞「社説」は,最近の国会における小泉を評して,こう非難した。 「なにもいわない」が「声は張りあげ」「堂々と詭弁を弄(ろう)」し,「話をすり替え」て「まちがいでも押しとおす」。 国会は国民の代表が一国の大事を議論をするところである。これではまるで,大東亜〔太平洋〕戦争中の翼賛国会に登場した〈あの東條英機首相の姿を彷彿させる〉かのように映る。 断わっておくが,東條英機は小泉純一郎ほど声がおおきくなく,また詭弁を弄することも上手ではなかった。 東條英機はヒトラーに比較したら,ふたまわりもみまわりも小物であったが,石原慎太郎君も同じであった。本ページがこのように,ごく最近における小泉純一郎君の話に飛んだのは,石原慎太郎君との親近性・共通性を示唆したいがためであった。 ●「医師・建設業者らに有事の協力義務」……2003年10月3日の新聞夕刊は,こういうことを報じた。「自衛隊法施行令改正」 政府は10月3日の閣議で,有事のさいに自衛隊が協力を求める「業務従事命令」の対象者や管理できる施設などを具体的に定めるため,自衛隊法施行令を改正した。先の国会で有事法制関連法が成立したことをうけたもので,10月8日から施行される(『朝日新聞』2003年10月3日夕刊)。 有事体制関連3法に触れるまでもなく,この国はもはや「ふつうに戦争をできる〔したい!〕国になった」のである。というよりも,正確には,「アメリカの有事=戦争」に対していっさい文句をいわず「お手伝いする国」=日本がすでに誕生している,というべきなのである。 日本は,全国各地に配置されているアメリカ軍基地の存在だけでいっても,U. S. A. へのたいへんな協力ぶりである。それにくわえて,在日米軍基地関係に対する日本国の「思いやり予算」は,最近の年間平均額が2600億円である。 こんどは自衛隊だけでなく,挙国体制であめりかさんの戦争=有事に率先協力する国家体制づくりに血道をあげてきたのが,小泉首相である。 靖国神社(war shrine)に3年つづけて参拝した純一郎の気持がわかろうというものである。今後『有事にさいして予想すべき「自衛隊の戦死者」を「英霊」にする準備』を,さきにととのえておかねばならないのである。 アメリカという21世紀型世界帝国主義軍事体制の尻に敷かれている属国日本なる子分国家のいわば,軍事的な下部構造:土台が自衛隊であり,その上部構造:法制意識が有事体制関連3法であり,そして,その神学的な信仰要因〔戦争をできる愛国心?〕を準備するのが靖国神社の宗教的な役割である。
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