■ [は じ め に] ■ 2002年6月9日の朝日新聞朝刊は,下段のような「社説」をかかげた。 2001年4月に小泉純一郎政権が誕生してから1年2カ月が経過したこの月である。だが,最近においてはまことにみっともないというか,みごとなまで体たらくのこの政権がなお,ダラダラと執権している。 小泉は,自分が総理総裁になった当初,小泉今日子の持ち歌を借りて, “ ♯〜 なんてったって アーイドール 〜♭ ” などと,記者のマイクに向かってうれしそうに歌っていた。いわば,自画自賛の〈讃歌〉であった。 それは,小泉が首相に就任した直後,異常に高い内閣支持率〔80%台の高率で調査機関によっては90%台〕がえられ,そのうれしさのあまり思わず口ずさんだ一句であった。 ところが,2002年5月における小泉内閣の支持率に関する報道機関の各種「世論調査」は,その不支持率が,支持率40%台を下まわる40%前後にまでなってきた事実を教えている。 いまでは,以下のごとき,みごとなまで無残な政治的状況がもたらされているのである。 【追 記】 2002年11月初旬における内閣支持率は主に,日朝国交正常化交渉での日本政府の姿勢が評価された理由をもって上昇,65%となった。同年前半における小泉内閣支持率が40%を切ることがあったときにくらべ,相当盛りかえしてきた。しかし,経済政策面でのみとおしは,なお不透明というか混迷したままである。 いずれにせよ,小泉首相が日本の「アイドル」たりうるか,はたまた「アイドル= idle 」的総理大臣なのか,依然みきわめがたい状況にある。 ■ [朝日新聞社説:2002年6月9日] ■ 『会期延長−−ダラダラ国会はやめよ』 司令塔がいない。いても指示がない。みんながボールのまわりをうろうろし,時間だけが過ぎる。反則ばかりがめだつ。 国会のことである。これがサッカーなら「入場料を返せ」と騒ぎになるだろう。 国会が最終盤を迎えて,政府・与党は会期延長をする構えである。だが,凡戦に飽きた観客からすれば,延長などせずにさっさと国会を閉じ,顔を洗って最初から出なおせ,といいたい。 もっとも,それでは小泉政権が破綻(はたん)してしまうだろう。抵抗勢力の思うつぼかもしれない。ならば,成立させるべき法案を絞りこみ,それにみあった最小限の延長幅にすべきである。 今国会では四つの重要法案があるとされてきた。このうち個人情報保護法案は強い反対論にくわえ,防衛庁の個人情報リスト問題が命とりになり,政府も成立を断念した。廃案にして出なおすべきである。 有事法案についても,審議をすすめるほどに,このままでは話にならないとわかってきた。これも,まずご破算にして練りなおすしかなかろう。 一方,郵政関連法案では小泉純一郎首相が鼎(かなえ)の軽重を問われる。「民営化への一里塚」との首相発言に郵政族が反発しているが,小泉改革の象徴だけに成立を期すべきだ。もう一つ,国民には苦い法案だが,医療制度関連法案も先延ばしはできまい。 それにしても,これほど惨めな国会も珍しい。疑惑がらみで参院議長をふくむ衆参両院の議員が3人も辞職した。疑惑のデパートといわれる鈴木宗男議員は,なお居座りを決めこむ。 役所をめぐっては防衛庁問題のほか,ロシア支援事業がらみで逮捕者が出たり,瀋陽総領事館の亡命事件で失態を演じたり,外務省はもみくちゃになった。 政府・与党の中心も機能不全だ。山崎拓・自民党幹事長は女性問題もあって十分な仕切り役は果たせない。福田康夫官房長官は「核容認」発言で混乱に輪をかけた。 秘書の犯罪や政策秘書の給与ピンハネ問題など,秘書のありかたが問われた国会でもある。だが,田中真紀子前外相の秘書給与疑惑はあいまいなままだし,秘書問題を抜本的に考える機運もない。 会期延長をするのなら,一連の疑惑や問題にけじめをつけなければならない。衆院を通過したあっせん利得処罰法改正案では,立証がむずかしい「請託」を構成要件にふくめて抜け道がつくられたが,これも参院でしっかり修正すべきである。 衆院の定数是正問題では「5増5減」法案が提出されている。動きは鈍いが,議員の利害を超えて成立させるのが当然だ。 いま,首相の存在感はめっきり薄い。やみくもに延長を叫ぶのではなく,初心に帰って態勢を立てなおすことだ。必要な内閣改造もためらうことはない。ダラダラ国会を開いていても,求心力をうしなうだけだ。 ■ 石原慎太郎研究会『検証・石原政権待望論−小泉政治との徹底比較−』(現代書館,2002年6月10日発売) ■ 本書は,『小泉政権は庶民の味方か? 石原慎太郎との比較研究でその本質を明白にする』中身である。以下しばらく,この内容を紹介する。すでに筆者が,ほかのページでくわしく論及,批判してきた諸点も多いけれども,ここでさらにとりあげてみたい。 −−本書は,石原慎太郎と小泉純一郎の生い立ち,政治遍歴・金脈人脈・基本理念・政策理念などを徹底的に比較,検証し,今後の政局の動向をおおきく左右する石原と小泉の動向を探ろうとするものである(19頁)。 1)「親戚同士」 石原慎太郎と小泉純一郎は,慎太郎の配偶者の父をとおして,小泉純一郎とは姻戚関係にある(8-9頁「石原一家と小泉一家のつながり」参照)。 2)「共 通 性」 石原と小泉とは,双頭のタカのように,その出処進退,行動理念,政治遍歴が驚くほど似ている(15頁)。 3)「ナルシスト:慎太郎」 石原は,自身の芥川賞の受賞,弟裕次郎の俳優としての成功という常人では経験できないような幸運によって,彼の性格は完全にスポイルされてしまった。 つまり,特権意識,傲慢さ,自分中心主義,わがままな性格となり,この性格は一生直らない。自分が世界でいちばん偉いと思っており,気にくわなければ,他人や他国を露骨に軽蔑し,平然と非難する。 その行きつく先が「自我狂」「石原教」というような自己陶酔的なナルシズムである(42頁)。 「自分しか信頼できない」と公言する石原は,ヒトラーを尊敬しており,ワンマンの独裁権力を手に入れれば,極度の政治的緊張状態のもとで,反対勢力の粛清という恐ろしい結果を招来することにもなりかねない(41-42頁)。 石原は,東京都知事再選への意欲をしめしているが(2002年5月8日),これは奇襲攻撃のまえに相手を油断させるためのフェイントではないか(11頁)。 4)「孤高と独善」 小泉は庶民の出であり,祖父の又次郎の資質をうけつぎ,謙虚さ・我慢強さ・既存の権威への反逆という性格をもっていた。石原ほど他人を軽蔑したり,偉ぶったりしなかった。 純一郎の思いこんだら一直線というひたむきさは先祖ゆずりであるが,それが方向を誤れば,猪突猛進する危険な側面となる。 総理大臣という最高権力者になり,しかも抵抗勢力に囲まれて四面楚歌の状態になると,失政や誤りを素直に認めない高慢さ,独善的言辞が露骨にみられるようになった。石原ほどではないにしろ,小泉もまた,大言壮語的な発言・演説がすくなくない(43頁)。 5)「孤立無援の小泉政権」 石原も小泉も,派閥の弊害を指摘し,主流派閥に抵抗してきたが,結局,派閥の弊害を是正することも,もちろん派閥を解消することもできなかった。 族議員政治も密室談合政治も解体していない。孤立無援の政治家:小泉が,まれにみる幸運の波に乗って,内閣を組織したが,結局は森〔喜朗〕派はいうにおよばず,主流派閥である橋本派にもとりこまれはじめている(47頁)。 6)「人 脈」 石原と小泉の尊敬する人物像,相似する人物像は,日本でいえば吉田松陰と福田赳夫,西洋でいえばアドルフ・ヒトラーとマーガレット・サッチャーである。中国やインド人など東洋人はあがってこない(52頁)。 両名の人事手法の特徴は,中曽根康弘などの「後見人」のアドバイスをのぞいて,ほとんど独断で決定することである。 周囲を側近や親族で固め,思想的に偏った文化人,財界人,御用学者でブレーン集団を固め,そこから政策を引きだして,政党や官僚にほとんど相談せずにトップダウン方式で,政策を遂行することである。これは独裁者に共通する手法である。 石原のばあいは,一橋総合研究所のような政策集団をもっているが,小泉は側近がほとんど身内や出身派閥人脈で固められ,ブレーンも有名人の寄せ集め的な,にわか作りのサロン的なもので,確固たる政策・アイデアがほとんど出てこない。 石原はブレーンやスタッフの話をよく聞いて,そこから政策を選択しているが,小泉のばあいは,アイデアを生かす能力も手法ももちあわせていないために,政策がジグザグでまとまらず,なかなか成果があがらない(56頁)。 7)「外国人人脈」 石原の外国人人脈は「反中国」の偏ったものである。 ◎ ロナルド・レーガン(元アメリカ大統領) ◎ リチャード・アレン(レーガン政権の国家安全保障問題担当補佐官) ◎ ジョージ・シュルツ(同上の国務長官) ◎ リチャード・アーミテージ(ブッシュ政権の国防次官補) ◎ マハティール・ビン・モハマッド(マレーシア首相) ◎ 李 登輝(台湾前総統) ◎ 金 美齢(台湾総督府国策顧問,東京都地域国際化推進検討委員会委員) ◎ ダライ・ラマ14世(チベット仏教指導者) ◎ ペマ・ギャルボ(チベット文化研究会) −−小泉は海外の人脈をほとんどもっていない。その人脈といえるのは,アメリカのジョージ・ブッシュ大統領,コリン・パウエル国務長官,イギリスのトニー・ブレア首相ぐらいではないか(63-64頁)。 8) 「基本的人権の危機」 石原は自己の地位やネームバリューを利用した公私混同が多い(74頁)。また,自国優先主義,軍事優先主義を全面に打ちだすところは,ブッシュと似ている。小泉もこのような石原に引きずれている(78頁)。 石原と小泉の手で,警察機構が強化,言論統制機構され,基本的人権が急速に空洞化しつつある(80頁)。 9) 「支配者がわの論理と倫理」 石原も小泉も,あの戦争が天皇制軍国主義国家によっておこされた侵略戦争であったことを,学生兵士や特攻隊兵士はその戦争に無理やり動員された犠牲者であることを語らない。 そしてもっと大事なことは,自分たちがあの戦争から彼らの家族とともにおおきな戦時利得をえて,裕福な生活をしていたことを語らない。 あの戦争によって犠牲になった広島‐長崎‐沖縄……の人々,朝鮮‐中国‐台湾‐アジア‐太平洋……の人々の痛みについてはほとんどなにも語らない。なぜならば,彼らの一族こそ,アジアの無数の人々の屍の上に咲いたあだ花であるからだ(94頁)。 こういうことである。石原は,侵略戦争に否応なく動員された日本の民族‐日本の植民地支配‐侵略戦争に苦しめられたアジアの民衆からの視点がない。あるのは,日本の支配層:アジアの支配層からの視点だけである(87頁)。 小泉は大日本帝国の発動した戦争について,そのことばの端々から判断すれば,肯定的に評価しているのはまちがいない。それは,近代天皇制の擁護,靖国神社の肯定,特攻隊兵士の評価,教科書問題への対応などをみてもわかる(88頁)。 石原は,いわゆる「大東亜戦争」を肯定する「新しい歴史教科書をつくる会」のもっとも強力な賛同者であり,もっとも強力な推進者である。「つくる会」の歴史・公民の教科書を採用するよう都立の中学校に強引に働きかけてきた(105頁)。 小泉は石原よりも強く天皇制に対する幻想をもっており,最大限肯定的な発言をしている。両名とも天皇の戦争責任について,ほとんど黙して語らない(89-90頁)。 靖国神社は,天皇神道‐国家神道と密接にむすびついた宗教施設であるばかりでなく,天皇のための戦死した人々を「英霊」として祭り,天皇の名のもとに国民を戦争に動員するための施設なのである(92頁)。 10) 「本当は〈あめりか〉コンプレックス」 小泉政権下,有事法制の整備,つまり戦争体制の整備についても,恐ろしいスピードで進行しはじめている。 武力攻撃事態法案,自衛隊法改正案などは,アメリカの利害がからんだ戦争,日本の利害がからんだ戦争に,すべて人員・物資・施設などを動員することであり,経済・産業・交通・報道などの統制,戦前のような国家総動員法・翼賛体制へつながるものである(109-110頁)。 石原も小泉もブッシュ政権には親近感をもっている。石原は,大統領選挙でブッシュの当選を願っていたが,覚めた目でブッシュ政権をみている。小泉については,ほとんで盲目的な追従である(112頁)。 アメリカ軍の駐留経費は,米軍用地の借地料だけでなく,日本人従業員の労務費・光熱水料・訓練移転経費などにも拡大され,年間になんと2755億円にも達している。あまりにも気前がいいので「思いやり予算」と揶揄されている。 それに基地周辺対策費・民公有地貸借料などをふくめると,米軍駐留経費総額は約6700億円にも達する(これは米軍駐留経費の70%に当たる〔ここのみ,梅林宏道『在日米軍』岩波書店,2002年,133頁〕)。このような米軍にとって天国のような国は,世界中さがしてもどこにも存在しない。日本の財政難から大幅に削減すべきだという意見が強まっている。 石原は,この「思いやり予算」について,その不透明さを指摘して,その一部は米軍にも負担させよといっているにすぎない。小泉政権では,米軍基地や「思いやり予算」はあたかも手をつけてはならない「聖域」のようになっている(115頁)。 小泉は「日本のとってもっとも重要な国が米国で,私自身,根っこからの親米派だ。米国との関係がよければよいほど,近隣諸国との友好関係も維持増進できる」と恥ずかしげもなく述べている。対等なパートナーシップといっているが,これまでの追随政策をみていると,まるで親分‐子分のあいだのような卑屈な関係である(203頁)。 アメリカによる経済支配に苦しめられてきたアジア諸国と,アメリカの利害関係の深い小泉のあいだとにおける,アメリカ観のちがいの落差は相当なもので,旧日本軍の蛮行の記憶と記録をとどめるアジア民衆がおおきく遊離している。 2001年9月,小泉の東南アジア歴訪のさいには,マレーシアで小泉の靖国神社参拝,歴史教科書問題に抗議する集会がひらかれ,小泉人形が焼かれた(207頁)。 11) 「国家社会主義」 石原のばあい,理想的な経済体制は基本的には,修正資本主義・自由主義市場経済であるが,非常時には戦前の国家社会主義型の経済体制〔ファシズム型の統制経済〕を推しすすめるだろう(120頁)。 2002年度予算の防衛関係費は「歳出を5兆円削減」といっても,6億円増の4兆9669億円で過去最高になった。軍備は小泉内閣では「聖域」なのか。批判の噴出した公共事業・ODA予算はともにわずか 10.7 %の削減にとどまり,中小企業の予算も 5.7 %削られた(133頁)。 なお,日本の軍事支出は,アメリカ,ロシア,フランスに次ぎ,世界で第4位の「軍事費大国」である(ここのみ『朝日新聞』2002年6月14日朝刊参照)。 12) 「差別主義の権化」 石原都政も小泉内閣も,強気を助け,弱気を挫く,「悪のタッグマッチ」の張本人である(139頁)。 とくにひどいのは女性への侮蔑である。石原と小泉は,女性・障害者・病人・高齢者・在日外国人など「社会的弱者」に対する無神経な発言をおこない,冷淡な政策を打ちだすことでも一致している。彼らの権利が制限され,抑圧され,弱い者いじめや民族的排外主義がいっそうはげしくなっていく。 石原は,「生殖能力をうしなった女性」が生きているのはむだで罪だといい,文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァなんだ,といっている(95頁)。 小泉も延べで2年以上厚生大臣を勤めていたが,社会保障制度・厚生年金制度の改悪,そして石原都政による老人福祉・障害者福祉・児童福祉の切りすては,年配者たちが巨額の金融資金を消費にまわせない不安要因を提供している。現在の不況は「小泉不況」であり,「石原不況」でもある(156頁)。 13) 「中央集権主義者」 国と東京都の関係が逆立ちしている。石原都知事が小泉首相になんども直接「建言」しているが,東京都が都のみならず,首都圏‐大都市部の開発プランを作成し,それに国がついていくというあべこべの関係になっている。国が本来やるべきことを東京都がおこなうという逆構造がみられ,予算も東京都‐首都圏・大都市部に集中することになっている(163-164頁)。 石原が首都機能移転に反対する最大の理由は,どうやらそれが皇室や天皇に迷惑,不便をかけるからのようである。「国体」を重視する彼らしい発想である(171頁)。 石原は,都知事という地方の最高権力を手中にして,あたかも「地方分権の旗手」のように振るまっているが,その実態はどうなのか。 実際は,都知事の権力を利用して,中央への揺さぶりをかけ,運輸・建設・厚生・自治といった,地方でもできる権限を道州にまわして,都道府県・区市町村の権限を吸い上げてしまい,治安・防衛・外交・法務・財政・教育・情報・通信などの重要部門を中央官庁で統率していく体制を考えているのではないか。これは,中央集権国家実現の方向である(179-180頁)。 石原も小泉も,都市部出身者であり,都市部選出議員であり,これまでの地方優先の政策に反発しており,施設も予算も中央に集中させようとしている。不況の長期化で疲弊している地方が,彼らの政権のもとでは,その切りすて政策によってさらに,いっそう疲弊していくだろう(181頁)。 14)「科学的知識のデタラメさ」 東京都の大気汚染は,石原都政はじまって3年経つが,二酸化窒素にしろ,浮遊粒子物質にしろ,炭化水素にしろ,オキシダントにしろ,ほとんど改善のきざしはみせていない。 そもそも,ディーゼル車対策は,自分(自宅)中心の環境対策にほかならない。東京都大田区の田園調布は,一日中ディーゼル車が走りまわる環状8号線のすぐ近くである(184頁)。 石原はいまどき,原子力発電施設に関して「完璧な管理」などと時代錯誤の発言をする。原発を開発することによって,プルトニウムなど核分裂物質を蓄積して,核兵器の抑止力を確保しようという意図である(188頁)。 そして石原は,対中国・北朝鮮戦略として原子力空母の配備は不可欠である,と主張している(189頁)。 仮に石原が総理大臣になったら,北朝鮮や中国とのなんらかの衝突は避けられないだろう。政治腐敗や経済失政ではなく不審船問題で,小泉内閣の「倒閣」をいいだすのは石原らしいが,ここにも「石原総理大臣」の危うさがしめされている(210頁)。 以上,石原慎太郎研究会『検証・石原政権待望論−小泉政治との徹底比較−』2002年6月10日から,筆者の関心を惹く個所のみだったが,参照してみた。 @ 石原の極端なまでの独善的見解・暴力的性格はとくに,女性観に端的に表現されている。「生殖能力を終了させた女性」を平然と蔑視し,年配女性をはしたなくも「ババァよばわり」するなど,傲慢・増長もきわまったといえる。まるで,人格破綻者がわめきちらすような発言がめだつ。 しかし,石原慎太郎が都知事選挙において実際に悠々と当選するに当たっては,「罪だとか・無駄だとか・有害だとかといって軽侮した女性たち」の支持票も,たくさん,もらっていたはずである。この女性たちに対する侮蔑的妄言は,差別主義者である慎太郎の〈悪魔の真皮〉を,表面にさらけだしたものといえる。 石原自身の配偶者も当然,そうした軽蔑すべき女性の1人=範疇にふくまれる。だから,人類の半分を占める女性全員をそのように非人間的に馬鹿あつかいし恬と恥じない神経は,異様をとおりこしてまさに完璧に「クレージー」の圏域に達している。 A 筆者が重ねて警告してきたのは,こういうことである。 それは,石原慎太郎に「ミーハー」的な支持を与えた人々,ここでいえば「特定の年齢層の女性」に向かっても石原が吐いた,以上のような「われのみ尊し:他者はみな人間の屑だといった〈決めつけ的暴言〉」のもつ本質的な意味についてである。 −−ここで,石原に問わねばならない。 あなた(慎太郎)=自分を生んでくれたのは,誰か? そのあと女性として必然的に閉経期になったのは,誰か? 自分の母親,そして妻〔いまや生殖能力をうしない老妻になった配偶者〕に対しても「ババァ」とよんできたのか? もっとも,男だって生きているかぎりいつかは必らず,性的〔勃起〕能力をうしなう時期を迎える。石原の発想にしたがうならば,そうなった男性も「生殖能力を終了させた者」として軽侮の対象になるのではないか。あるいは,あなたも「(クソ)ジジィよばわり」されなくてはならない者ではないか。 もちろん,石原慎太郎という男(今年で70歳)がすでに,もしもペニスの勃起能力をうしなった肉体的な状況にあるとするならば〔いまその能力があっても,生きているかぎり,そのうちダメになることは確実である〕,自分も「糞ジジィ」とよばれるにふさわしい存在である点をしかと認識しなければならない。つまり,「あれ〔ジュニアー〕がもはや立たない」慎太郎は当然のこと,自身によって軽侮の好対象とされねばならないのである。まったくもって「天に唾する言説である」。 女性差別・蔑視の石原発言は,結局,男性自身へも向けられたそれでもあった。つまるところ,この男:石原慎太郎は,自分以外すべての人間をひどくみくだした精神的な態度を,まったくの独りよがりなのだが,心中において確固と抱いていることに注意したい。 B 石原は,選挙で自分に1票を入れてくれた人々に対しても,叙上のような中傷誹謗を平然と浴びせることのできる,粗暴というか完璧に不誠実な人間なのである。石原の発言は,女性にかぎらず人間一般に対する侮蔑・侮辱の言動を意味する。「他者を差別する意識の権化みたいな人非人がまさにこの者:慎太郎である」ことを明白にしている。 こんなに下品・下劣・粗野・野卑な,普遍的人間差別主義者である石原慎太郎を日本の首相にしたら,この国はいったいどうなるか? 慎太郎のごとき,唯我独尊・夜郎自大・小児感覚的な人物を一国の代表に据えて,はたして,国家の運営をまともにやっていけるのか? こんなに「トンデモナイ」人間を日本の元首に選んだら,世界に顔向けできないほどみっともない国になってしまうのではないか。いまから非常に心配である。なんといっても,石原慎太郎だけはやめにしておきたい。 C 筆者は,この項目の最後でいっておきたい。 当選後3年以上が経過した石原都政に対するきびしい〈客観的な評価づけ〉がなされるべきである。 石原は自分が都知事として大々的にぶちあげてきた提言‐政策のうち,いくつもある「不首尾・不徹底・失敗に終わったもの」については,口を噤んでなにもいわない。 いつもの威勢のいい口つきは,いったいどこへいったのやら,自分に都合の悪い出来事:結果が出現すると,とたんに神経質な「マバタキ」を頻発しだし,表情を歪めて,「オレに都合の悪いことがらはいっさい聞くな・触れるな」というきわめて身勝手な態度を,誰に対してでも露骨にしめすのがこの男の常套・常態である。 石原はまさしく,a) 破廉恥において一流の無神経,b) 狡猾無比な傲慢において天下一品,c) 狷介無双の固陋さにおいて最高度の愚劣性などを,みごとに取りそろえた人物である。 石原慎太郎にもう一期都政を任せたいという都民のみなさん,この差別主義者に再び1票を入れるかどうかの判断は,あなたがた自身の考えることだからとやかくいわない。 だが,現在その成果が出つつある石原都政の実績をきちんとみすえ,そしてとくに,都民〔→人間全般〕に対する彼の人権感覚をよく詮索したうえで,地方選挙権を行使していただきたいものと感じるしだいである。 ■ [有事法制関連法案をめぐる省察] ■ 1)「情報公開法」 前項で言及した著作,石原慎太郎研究会『検証・石原慎太郎政権待望論』2002年6月は,代表者として久慈 力を出している。 ところで,2002年5〜6月にマスコミ報道を賑わせてきた話題がある。それは,防衛庁に対して「情報公開法」にもとづく情報開示の要求をした人たちのリストが作成され,同庁内のLANで各部署が閲覧・利用できる状態だったことが明らかにされたことである。
その防衛庁リストのなかにこの久慈 力(さいたま市在住)の情報が記述されていた。この事実については,つぎのような新聞報道がある。
防衛庁にとって久慈のような人物,いわば国家・体制がわの思想‐政策‐行為を批判的に観察し,真正面より対決的な言論活動をする者は,要監視の対象であることにまちがいないのである。前項の記述を一読いただいた読者にはすでに,その意味がよく理解できたものと思う。 2)「軍人のホンネ」 先日,中谷 元 防衛庁長官は,うっかりにもこういう過激な表現を吐いてしまった。ある野党の関係者による防衛庁に対するまちがった発言に対して,これに「私は攻撃する」といった。「抗議する」というべき個所を「攻撃する」といいまちがえたのである。 軍人・軍隊関係者の政治感覚‐日常的な神経〔もっともこれをまともなかたちでもっていればの話であるが〕が,どういうところに重点がおかれているか即座にわかる。彼らは,戦争の論理=軍事戦略と戦術に即してものごとすべてを観察,思考し,判断するように,きびしく教育・訓練されてきている。 その論理=戦略と戦術は,敵を攻撃,破砕し,撃破すること,すなわち,軍事‐攻防的に勝利することが基本である。 だから,この軍人精神・作法が完全に身に付いている防衛大学校出身の中谷防衛庁長官〔昭和55(1980〕)年 3月防衛大学校本科(理工学専攻)卒業(24期),昭和59〔1984〕年12月防衛庁陸上自衛官退官(二等陸尉)〕は,国会関係者のうけこたえにおいて,他政党関係者まで「敵あつかい(敵視))」し,「抗議する」というところを「攻撃する」などと口走ってしまったのである。 その言説は実は,けっして偶然〔うっかり〕に吐かれたものではなく,自身の脳細胞から「身から出た錆び」のように自然と滲み出てきた,軍人の論理にもとづく〈必然的な表現〉なのであった。 ましてや,「情報公開法」という正規の法律があっても,防衛庁に関する情報を開示請求し,関係情報を入手しようとする「怪しい者」は,誰であろうと「攻撃すべき」対象=《敵》に想定しておかねばならないのである。→ここでは,仮想敵国という用語を想起しておきたい。 3)「戦争論の現代的意味」 カール・フォン・クラウゼヴィッツ(Carl von Klausewitz, 1780-1831)『戦争論』1832-1834年は,「戦争を哲学的な基礎の上に,政治とのかかわりにおいて論じ,戦争の類型を明らかにし,戦争における道徳的要素や国民精神の重要性を主張した」(濱嶋 朗ほか2名編『社会学小辞典〔新版〕』有斐閣,1997年,656頁)。 1945年8月の敗戦まで戦争を断続的に遂行してきた日本帝国は,クラゼヴィッツの『戦争論』に精通していたようには思えない。だが,この著作が論及すべき対象としては,まことに適合的な材料を提供してきたといえる。 日本帝国が明治以来のアジア侵略戦争路線をすすめていくさい,とくに敗戦もまじか:「最後の戦争」段階になってより顕著となったことだが,「道徳的要素や国民精神」が異常なまで昂揚され,ときにはそれが絶叫されもして,戦争の遂行に不可欠の精神的背景となって極端に強調された。 戦争の論理を至上命題とすべき軍人たちの理屈によれば,ともかく,戦争=有事の事態に常時備え,ゆめゆめこれを怠ってはいけない軍隊にとって,この組織じたいに疑問を投げかけたり,その実態〔軍事組織はその性格上「秘密」というものがつきものである〕を調査しようとしたりするものは,まことにけしからぬ存在であるほかない。→ここでは,利敵行為ということばを想起しておきたい。 したがって,そうした意図〔軍関係情報の公開・開示要求〕をもって接近している人物・組織などは,それが法律で保障された関心・行為であっても,極力警戒の念をもって接しなければならない。さらには,そうした人物・組織の情報をさきに十分入手しておき逆に,その存在や特質などを知悉しておかねばならない。そして,いざ有事というさいに当たっては,それら人物や組織が軍隊の作戦遂行の妨害にならないように事前に措置しなければならない。 現在開催中の国会で立法をめざされている「有事法制関連法案」はまさしく,前段のような軍隊の論理を正面にかかげた法律案なのである。この法律が実際に成立したら日本は,戦前体制とは似かよった政治構造になると批判されているのである。 4)「情報請求者」 全国オンブズマン連絡会議(事務局・名古屋市)は,防衛庁に情報公開を求めた市民らのリストが作成された問題で,真相解明や再発禁止を求める抗議書を同庁に提出した。今後も,ほかの省庁や地方自治体でも同様のリストが作成されていないか,情報公開請求してしらべる方針である。 その抗議書は,防衛庁におけるリスト作りは「プライバシーや思想・信条の自由を侵害する」と指摘。防衛庁内の組織的関与を中谷長官が認めたことなどから,同庁内部による調査・検討だけでは,真相・原因の解明や再発の防止はとうてい期待できない」と主張。再発防止の唯一の手段として,「誰の指示で,なんにもとづきつくられたのかを公表すること」を求めている(『朝日新聞』2002年6月5日朝刊)。 以上の新聞報道にみられる全国オンブズマン連絡会議の防衛庁=自衛隊〔日本の軍隊組織〕に対する抗議・疑念は,軍隊に対する政府がわの「文民統制(シビリアン・コントロール)」が存在しないどころか,軍部〔防衛庁・自衛隊〕内においては,「戦争の論理」にもとづく国民敵視の姿勢が確固としてある点を雄弁に物語っている。 軍というものは,有事体制に対処‐構築‐遂行するに当たって,これにすこしでも妨害となる可能性をもつような「人物の行動」や「組織の存在」を,いっさい許そうとしない。これが,戦争を担当する政府部局のつねに堅持する基本方針であり,かつ偽わらざるその組織の感情である。 過去,どの国でもそうであるが,徴兵を忌避した若者に対する国家の冷酷無比な処置をみれば,前段でいわんとする内実はよく理解してもらえる点である。 5)「国民は敵か」 だから,「国民は敵なのか」という新聞社説〔2002年6月5日〕も現われている。その社説は,防衛庁の姿勢をこう批判する。 今回問題となった防衛庁のリストは,情報公開制度のはじまった2001年4月から作成され,請求者の職業や所属グループを書きこみ,個人や報道機関,オンブズマンなどに分けて集計していた。 行政機関個人情報保護法の目的外利用の禁止に違反する疑いが濃い行為である。だが,法律に抵触するかどうかにとどまらず,この本質ははるかに重大である。 国民が行政を監視し,チェックするための情報公開制度が悪用され,思想・信条の自由が,これほど安易に行政機関内部で無視されていたことは,民主主義の根幹を揺るがす事態である。 国民主権はいまの憲法のもっとも重要な原則である。しかし,日本の行政機構は明治以来,中央集権制度をつうじて全国から情報を集め,「守秘義務」のもとで情報を独占し,それを利用して国を統治してきた。 それに対して,1999年に成立した情報公開法は,行政がもつ情報は本来国民のものであり,官僚はそれを開示することによって政策に対する説明責任をはたすべきだ,という理念の上になりたっている。 行政に都合が良かろうが悪かろうが,国民に必要な情報はすべて出すのが原則である。個人のプライバシーに触れたり,国家の安全にかかわる部分などだけに「非公開」が認められているのである。 しかし,防衛庁には情報開示を請求する者はすべて,自分たちの領分に手を突っこむ「危険人物」と映っているようである。そこには,主権者たる国民に説明をはたそうとする意識はない。 残念ながら,これは防衛庁だけのこととは思われない。国がもっている情報が「原則非開示」から「原則開示」に転換したことを,日本の官僚組織はどれほど理解でしているのか。そこが問われている。だからこそ,今回の事件に対する政府の責任がきわめておおきいといわざるをえない(『朝日新聞』2002年6月5日朝刊「社説」)。 6)「自民国防部会の無知蒙昧さ」 戦前日本の軍国体制とは完全にちがった時代に生きているつもりでいたら,われわれはとりかえしのつかない錯誤を犯すことになる。いま,日本の国会に各種の法案が成立めざして上程されているが,これらのほとんどは,かつての「戦時体制期にきわめて似た日本の社会体制」を構築することをめざしたものである。このことには,かくべつ注意が必要である。 しかも,現代ではIT時代にふさわしい技術的な対応がなされている。防衛庁の情報開示を請求し,これを参照・利用しようとする個人や組織関係者の関連情報は,防衛庁内のインターネット:LANシステムに入力されている。そして,それをつかって,資料の開示を請求した者たちに関する「情報」を整理・分類・蓄積しつつ,庁内においては彼らへの警戒の目を向けて監視の網を張るだけでなく,さらには,敵視する態勢さえ明確に構えてきたのである。 a) さきに引照した同じ日の『朝日新聞』「天声人語」欄は,こういう批判を提示している(『朝日新聞』2002年6月5日朝刊「同欄」)。 戦争に備える有事法制の担当庁でのことである。その法案の欠陥のひとつは,日本に攻めこむような敵国の想定が現実離れしていることである。リスト問題では,守るべき国民を敵と想定しているのではないかとの疑いが出てきた。 もっとも,天声人語欄の執筆者はまだ,控えめにものをいっている。今回の事件に関して自民党関係者のなかには,防衛庁の「バレタやりかたがまずいのであって,絶対わからないようにやっているべきだった」といって憚らない者もいる。 b) 2002年6月12日の新聞報道は,こういうことを伝えていた。
自民国防部会の面々によるこうした乱暴このうえない,自衛隊〔軍隊〕の情報収集関連活動を奨励・激励するごとき応援団的声援は,体制がわ・支配者がわから国民や人々をとりしまり,統制する見地・立場からのものである。 自民国防部会の議員連は,自衛隊〔軍隊〕の本質を理解できていない。すなわち,軍隊というものは,いつ,なんどきその刃を自分たちに対して向けてくるかもわからない「潜在的な可能性を秘めた組織・集団である」ことを,まったくわかっていないのである。 彼らはいわば,国防族=専門集団を気どっていても,自分たちがサーカスの猛獣つかいである立場・役目を忘れたような,軍事問題に関しての完全に素人の発言がめだつのである。猛獣つかいは,演技の最中,一瞬のスキを猛獣に突かれて命を落とす危険と同居している。軍隊をかかえる国家はいつも,そういう性質の危険に接していることを,絶対に忘れてはならない。 文民統制という軍部に対する統制思想は,政府高官・幹部責任者が絶えず緊張を強いられる〈猛獣つかい〉の立場:状況におかれていることを,基本とするものでなければならない。この行政上の意識は「鉄則」と心えておかねばならない。 日本の軍事史をすこしはひもといて,考えてみないといけない。戦前体制下,日本軍内における皇軍派と統制派の対立をみよ。国家‐国民などそっちのけで,軍部内での主導権争いばかりであった。しかも,アジア各国への侵略路線に関するちがいが,もっぱらその争点であった。 軍隊〔自衛隊〕に文民統制のタガをきびしく掛けておかないことには,自分たち〔国防族議員〕=「体制派・支配派」の「味方である」と文句なしに思いこんでいたこの相手:軍じたいが,いつ勝手に反旗をひるがえし,保有する兵器・武力を悪用して謀叛をおこすかわからない。 「飼い犬に手を咬まれる」くらいなら,まだいい。オレたちだけは大丈夫などと,タカをくくって,のんびりくつろいでいたら,誰かに突如「寝首をかかれる」ことにならないともかぎらない。用心に越したことはない。つねひごろから,厳重な警戒が必要である。「文民統制」は,ダテや酔狂で実施するものではない。 軍隊というものに関するそういう〈注意深く醒めた想念〉は,被害妄想などではなく,現実的理性として実体化しておくべきものである。そもそも,なぜ「文民統制」が存在させておき,軍部に轡をかませておかねばならないのか,その原点に帰って考えねばならない。 戦争と平和の緊張関係を冷徹に観察しないで,政治家みずから「軍人〔自衛官〕は暴走するくらいがいい」,「まじめな自衛官は暴走する」などといっている。これほどまで文民統制の政治的意味をむやみに無視し,民主主義的な国家秩序の破壊可能性を,軍人たちに向かってわざと煽るような発言をする国防族議員たちは,国防問題に「無知蒙昧」な,それこそ「亡国の輩」である。 自民国防部会における彼らの発言は,戦前体制の古いことばでいえばまさに,民主主義国:日本に対する「国賊」と指弾されるにふさわしい。彼らはまた,民主主義のイロハさえわかってない愚かな議員集団だと形容できる。 自民国防部会の議員諸君は,軍栄えて国滅びた,あの辛い歴史を,もうすっかり忘れたのか? 忘却とは忘れさることなり(か)! 自民国防部会の彼らは,今回の防衛庁佐官クラス自衛官による情報公開請求者リスト作成行為をとらえて,「まじめに仕事をしている」と褒めあげていた。 だが,もとよりまったく次元の異なる問題〔「文民統制の問題」と「自衛官が一生懸命に任務をはたすべき問題」〕をつかまえて,しかもこれらを,情緒的次元で混同したままものをいう一群の姿は,国防問題にたずさわる専門議員集団のものとはとうてい思えない。彼らは実は,幼稚で低次元の軍事知識しかもたない選良たちにみえる。 かつての戦争中も,この自民国防部会の連中のように勇ましく軍部を応援する集団が,あまたいた。だが,軍隊=物的暴力装置に対する歯止めをかけるべき義務を,まずもって遵守しなければならない体制がわ・支配者がわ〔執権党〕の議員集団が,かくのごとく無謀で乱暴,「文民統制」の真義からかけはなれた〈素人的な見解〉を放つようでは,もしかするとこの国はもういちど「痛い目」に遭わないとわからないのか,などという心配さえ抱かざるをえない。 高性能な兵備,そして,りっぱな軍人がこの国:日本を護る。−−けっこうなことである。しかし,なにに向かって,なんのために,なにを,どう護るのか? 現在の世界情勢,とくに東アジア諸国の政情に関して,もっと慎重にかつ具体的にものを考え,日本の軍隊〔自衛隊〕の役割・機能を意義づけるべきではないか。自民国防部会の議員たちは,日米安保保障条約や日米地位協定のなかで自衛隊という存在〔の従属的関係〕を,いかに考えているのか。 c) 今回,防衛庁のおこした問題に対するその後の同庁の対応姿勢を観察した新聞社は,さらにこういうコラムの一句を書いている。
現代日本はひとまず,まともな民主主義体制を構えた政治‐社会構造であることを前提に考えてみよう。 全省庁に関する情報公開の民主的・合理的な公開方法の問題に目をつむって,情報収集活動をする「自衛官は暴走するくらいでよろしい」,「まじめな自衛官は暴走する」などときわめつきの暴論を展開することが,自民党内国防族議員たちの本心なのか。 そうだとすれば,日本の民主主義の状態・水準は,与党:執権諸党〔自民党‐公明党‐保守党〕において,まったく定着していないと断ぜざるをえない。とりわけ,物的暴力装置を合法的に保有している軍隊〔自衛隊〕にむかって〈暴走〉を是認,推奨し,エールを送る国会議員連は,国家選良の資格を疑われて当然である。 −−いずれにしても,戦前を連想させるような今回の防衛庁の調査である。 だが,現在開催中の国会に提出されている各種法案を全体的に観察すると,「戦前のような憲兵や特高が常時マークし,調査するような世の中になってはたいへんだ。杞憂であってほしいが,最近の政治手法をみていると,やはり心配になってくる。〈ものいえば唇寒し〉の世の中になっては困る」(『朝日新聞』2002年6月5日朝刊「声」欄より)というような杞憂・心配がまさしく,われわれのすぐ目の前に到来・現出している。われわれは,そのことに十分留意しておかねばならない。 7)「誰のための有事法案か」 有事法制関連法案の中身は,「自衛隊のための有事法制」であって「国民のための有事法制」でないという疑問が出されているが,これは当然のことである。明治以来,日本の軍隊は海外とくに,東アジアの諸国‐地域に侵略戦争をしかけてきた歴史しか有していないのである。 当時,そうした日本帝国の軍事路線に反対するには,決死の覚悟が必要であった。とりわけ「満州事変」以降の軍国主義体制,国家全体主義体制に突きすすんだ日本帝国を言論活動をもって批判するなどという行為は,死を覚悟でなければとうてい不可能であった。 戦争中の日本経済論を狂信的に論じたある社会科学者は,こういうことをおおまじめにいっていた。当時「国体」とは,天皇を神と仰ぐ大日本帝国を意味し,同時にまた,アジア諸国,太平洋の各地域で侵略戦争をおこなっていた大日本帝国の軍隊組織も意味した。
しかし,時代とその状況は,当時とはおおきく異なっている。くわえて,米ソ冷戦構造はもはや過去の思い出であり,アメリカ一国がガリバー的に世界全体を支配しようとする歴史的な段階にある。 いまの日本にアメリカが求めている軍事的役割‐機能は,アメリカの世界軍事戦略に片棒担ぎをする日本であることは,まちがいない点である。
2001年5月末日,福田康夫内閣官房長官ら政府首脳の口から直接から飛びだした「非核3原則」みなおし発言=「憲法上は原爆が保有できる」という認識披露は,最近におけるこの国の歴史的な無責任さと,夜郎自大的な高慢さをみごとなまでに象徴する出来事である。 在日米軍の立場からすれば,いうところの「非核3原則」など実質においては,平気で無視してきた3原則である。とはいえ,日本政府は形式上,後生大事に守ってきたつもりのその3原則である。福田官房長官は,本音のところを白状したのでもあるが,政府高官の建前としては,けっして口にしてはならない事実を申し述べたことになる。 8)「個人情報保護法案」 今国会に上程された法律案のうち,われわれ庶民の生活におおきな〔悪〕影響を与える可能性のあるものは,「個人情報保護法案」である。それも,政府部門を対象とする「行政機関個人情報保護法案」が,防衛庁の個人情報リスト作成問題を機に論議の焦点となってきた(『朝日新聞』2002年6月5日朝刊参照)。 −−その問題点を指摘する。 疑問その1。……防衛庁のリスト問題のような事例を今後防止できるかどうか疑わしい。 疑問その2。……政府案のままでは,そうしたリストの作成が法律違反にならない可能性すらある。 疑問その3。……思想・信条や病歴など差別につながるような〈センシティヴ情報〉の収集が制限されていない。
9)「住基ネット」 すでに改正され,2002年8月から施行される予定の「住民基本台帳法」(「住基法」)は,住民基本台帳ネットワークシステム(「住基ネット」)にプライバシー侵害の危険があるとして,保護規定を設けていた(本項は『朝日新聞』2002年6月6日朝刊「私の視点」参照)。 その住基ネットは,全国民に11桁の番号をつけて,国の行政機関個人情報を統一的に管理するしくみである。日本弁護士連合会は,住基ネットそのものが個人情報保護の観点からきわめて問題があると指摘してきた。 2002年3月に国会に提案された行政機関個人情報保護法案は,付則の「保護」とは正反対の内容であったため,行政機関の恣意的利用を監視・制限する視点からの抜本的な修正を求め,住基ネットの施行延期も求めていた。その矢先,今回の防衛庁による個人情報リスト作成事件が発覚した。 行政機関個人情報保護法案が成立し,2002年8月から住基ネットが稼働すれば,コンピュータネットワークを利用して,今回のようなことが日常的・合法的にきわめて容易におこなわれる恐れがある。 今回の事件を問題視するなら,国家は行政機関個人情報保護法案の抜本的みなおしとともに,住基ネットの是非の再検討のためにその施行を延期する法案を成立させるべきである。 なお,民主党はこの「住基ネット」の8月施行を凍結する法案を,今期国会に提出する方針を固めたという(『朝日新聞』2002年6月9日朝刊)。 −−以上,国家〔地方自治体〕のかかわる「行政機関個人情報保護法案」の危険な役割・機能は,住民基本台帳ネットワークシステムが,為政者がわにとってはきわめて便利な国民監視のための道具に化する危険性を指摘したものである。 筆者のような日本生まれの外国籍の人間はすでに,外国人登録において番号化〔外国人総背番号制化〕されてきた。在日外国人たちは,もうすぐ〔8月から〕施行される予定の,日本国籍人用にしくまれた「住基ネット」体制の構築のために,実験用モルモットあつかいされてきた歴史があるのである。 以前は,「それらの法律」は外国人にかかわる問題だから,日本人とは無関係などと呑気にいってしりぞけていた「外国籍人によるその危険性」に関する指摘が,いまや日本人の身の上に直接降りかかってきたのである。 −−「住基ネット」のしくみを,つぎに描いておく。図解をいくつか参照してみた。
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10) 「オーウェル『1984年』」 国が手に入れた情報をどうつかうかは,国家官僚が判断することで他人からとやかくいわれる筋合いはない,国民全体を自分たちが管理するという発想が全省庁をおおってきた。 −−住基ネットに対する市民の批判を,つぎに紹介しておく。国家がわはこうした批判に,最低限きちんと答える義務がある。
この会社員の指摘は,もっともなものである。この国で,住基ネットによる便利さを誰よりも享受できるのは国家であり官僚であって,市民でも住民でもない点が大問題なのである。 「反戦の集会になぜ自衛官が」(フリーライター:実名あり,51歳)という新聞投書は,〈10数年まえの出来事〉を想起して,こういう。 今回明らかになった防衛庁による情報公開請求者の身辺調査。担当者の個人的行為ではなく,組織ぐるみのことだと判明した。〈あの集会〉に現われた自衛官が,国民の反戦活動を監視していたとは断定できない。しかし,その集会は新聞の片隅に告知された,ごくちいさなものだった。 平和憲法をもつ国民が戦争に反対するのは,道義に合った行動だろう。それさえも自衛隊に監視されているとしたら,慄然たるものを感じる。こんな組織が国民を統率しようとする有事法制には,容易に賛成できない(『朝日新聞』2002年6月6日朝刊「声」欄)。 番号によって姓名‐性別‐生年月日‐住所が把握されるだけなら,まだよい。こんどの防衛庁リスト事件のように,ほかの個人情報までリンクされたらどうなるのか。たとえば,税金やら病歴やら犯罪歴やらも番号で検索できるようになったら,どうなるか。国民は,番号ひとつでなにからなにまでしられてしまう「国家の囚人」になりはしないか(『朝日新聞』2002年6月11日朝刊,早野 透「ポリティカにっぽん−このまま番号になりたくない」)。 ジョージ・オーウェル『1984年』(原作 1949年,早川書房,1972年)は,国家による人民監視制度の完備が,恐怖に満ちた戦慄すべき社会をつくることを警告した「フィクション小説」である。 東京都国分寺市の星野信夫市長は6月12日,住民基本台帳ネットワークについて,「個人情報保護法が成立しないばあいは現場に混乱が起きる恐れがある」として,8月のシステム稼働を延期するよう片山虎之助総務相に要望書を提出した。この問題では杉並区長も「ネット凍結」を主張している(『朝日新聞』2002年6月13日朝刊)。 『朝日新聞』2002年6月14日朝刊「社説」もこういって,住基ネットの8月施行に反対している。 情報が市町村の端末から民間に漏れる危険だけではない。国の行政機関もこれを活用して,法的に認められた業務を超え,さまざまな個人情報を集積して,それを利用していく恐れは消えない。 改正住民基本台帳法が付則で,「施行に当たっては,政府は,個人情報の保護に万全を期するため,速やかに,所要の措置を講ずるものとする」としている。 しかし,政府が用意した行政機関個人情報保護法案は,行政機関による目的外利用に対する制限が弱かったり,行政がわへの罰則規定がなかったりするなど,きわめて不十分な内容である。この法案をふくむ個人情報関連法案の今国会での成立が困難になっているのは当然だろう。 住基ネットは,ブレーキが不十分なまま,走りだすことになる。「暴走」を避けるのは,みなが納得できるしっかりした個人情報保護法案をつくらなかった政府と国会の責任である。 巨大なネットワークに潜在する危険性に多くの人々が気づきはじめている。防衛庁で起きた情報公開請求をめぐる個人リスト作成などで明らかなように,行政機関が国民の利益よりも,自己の利益を優先させる事例もつぎつぎに出てきている。 このままシステムを稼働させるわけにはいかない。 −−だが,先進諸国中でも日本はいままさに,為政者:体制支配者にとって都合のいい「理想型的な国家社会」の制度・構造を,懸命になって形成しようとしている最中なのである。
−−これらの法律・法案は,行政効率の効率化や,住民サービスの向上,さらには,人権侵害の救済や個人情報の保護などを目的にかかげている。 しかし,よくみると,これらには随所に表現の自由を制約したり,プライバシーを侵害しかねない“毒”がちりばめられている(59頁)。 A 住基ネットで管理される国民全員の個人情報。……総務省は住基ネットの利点として,「国の行政事務の効率化」と「住民サービスの向上」を強調する。だが,この利点の強調にもかかわらず逆に,かえって不便となるサービス面が発生する。 総務省は「21世紀の行政情報化の社会的基盤」といっているが,すでにIT社会における「無駄な公共事業」との指摘も出はじめている(60頁,61頁)。 B 住基ネット接続を切断可能に,杉並区が新条例。……国主導の導入に対して具体的な条例を定めて抵抗を試みる自治体も現われた。東京都杉並区である。 同区では2001年9月に,個人情報の利用拡大などプライバシー侵害だと区長が判断したばあい,住基ネットへの接続を切断できる独自条例「杉並区住民基本台帳に係る個人情報の保護に関する条例」(住基プライバシー条例)を制定し,保護措置の強化を図った。住基ネット対策を講じた条例は全国はじめてとなる。 国の法と区の条例が対立することも想定されるが,そのさいは,区から憲法に違反するとして提訴し,司法判断を求めることになるという(61頁,62頁)。 C 近づく国民総背番号制。……本人確認のシステムとして,ほぼ全国の住民を確実に把握できる住民票コードは,政府にとってはのどから手が出るほどしようしたい情報である。歯止めのない住民票コードの利用は,国民をひとつの番号で管理可能にする「国民総背番号制」につながる不安がある。 現実は一歩ずつ近づいている。こうした政府の動きに対して,住基ネットの稼働を1年後(2002年8月より稼働予定:政府は予定どおり開始するといっている〔6月中旬の話〕)に控え,反対の声もようやく再び高まりはじめている。 ジャーナリストの桜井よし子,作家の三枝成彰らのよびかけで住基ネットの廃止を元える「国民共通番号制に反対する会」が,2001年11月21日に設立された。同会の賛同者には,元内閣安全保障室長の佐々(さっさ)淳行をはじめ,女優の川島なお美,ヤマト運輸元会長の小倉昌男,西澤潤一岩手県立大学長ら,各界の著名人約70名が名を連ねている。 代表を務める桜井は,「国民に付番するという話は,税の公平化を図るためという理由があった。しかし,この住基ネットでは実現できないのは明白。国民の個人情報が一元的に管理され,精神的に隷属させられるだけのシステムになってしまう」と警告する。 改正住基法が成立した第145回国会〔1999年1月〜8月に207日間開催〕は,電子メールや携帯電話の盗聴捜査を合法化する通信傍受法〔いわゆる盗聴法〕や,国旗国歌法が成立するなどこれまでの常識なら,内閣がいくつつぶれてもおかしくない重要法案が,小渕恵三政権(当時)のもとであいついで成立した。そもそも,成立の段階から国民の十分な理解をえたのかは疑わしい(62-63頁)。 D「住民にメリット」は自治体の2割。……住基ネットの導入に対する国の熱心さにくらべ,運営主体とされた肝心の地方自治体には,住基ネット導入に消極的な姿勢がめだつ。行政が胸を張って必要性を主張できない政策をすすめる価値などあるのか(64頁)。 E メディア規制の色濃い個人情報保護法案。……今国会に提出されたが,政府‐与党がその成立を断念したこの法案は,これほど本来の趣旨をはなれて,べつの意図をもつ狙いがこめられたものも珍しい(64頁)。 F とくに,個人情報保護法案は,住基ネット導入の前提条件である。さらに,「NPO活動も制約の恐れ」があり,「官に甘く民にきびしい」ものである(67頁,68頁,69頁)。 G ゆきつくさきは電子監視社会。……電子政府の取材をすすめると,IT社会を口実に「国民監視法」を手にしたい政府の思惑が透けてみえてくる。IT社会がもたらした最大の受益者が政府だと考えるのは,うがったみかたではない(73頁)。 −−以上の記述のなかには,本ホームページが批判的に論及した識者の佐々淳行の氏名が出ている。この佐々淳行が「住基ネットの廃止を元える「国民共通番号制に反対する会」の賛同者にくわわっていることは,ここではその理由が判明しないにせよ,評価したい点である。 〔D〕IT革命の急速な進展,電脳化された国家政府による国民管理・社会監視体制は,つぎのような動向も生んでいる。
−−なお,日本の戸籍‐住民基本台帳などの問題については,地方自治体に勤務経験のある佐藤文明のホームページ(→リンク)が参考になる。 11)「お上意識はつづく」 NPO法人ピースデポ代表 梅早弘道は,今回の防衛庁による「情報公開法にもとづく文書開示請求者のリスト」の作成,庁内への配布に関して,こう批判する。 そのリストには,請求者の住所・氏名だけではなく,請求理由や思想傾向を推測させる情報が調査されていたという。この法律を活用してきた私自身の名前も,まちがいなくそこにリストアップされていただろう。怒りやあきれはてたという感情と,日本の民主主義がいまだ揺籃期にあるという苦い現実をあらためて噛みしめることになった。 a) 行政機関において市民を思想・信条によって区別しなという,もっとも初歩的な感覚さえ普及していない。人権を恣意的に解釈してはばからない体質が,行政権力のなかにあることを物語っている。法が行政権力の都合によって運用される危険がおおきい。したがって,権力批判が確固として保証されることがきわめて重要である。 b) 今回の不正が,情報公開法というまさに市民が行政を監視し,行政の民主化を強めるための法律を舞台にしておこわれた点にある。リスト作成者は元情報公開担当者,そのリストの利用者も情報公開担当者たちである。情報公開法の担当者がその法律の精神をまったく理解していない。 c) 強大な武装集団を文民統制する中枢であるはずの防衛庁において発生した。リストの作成者や受領者は,3佐〔少佐〕や2佐〔中佐〕であるから,前線では隊長,幕僚では中堅幹部である。今回の事件は,そのような階級の人間に人権感覚が皆無に近いことをしめした。 −−私たちは,たまたま例外的な事件の出くわしたのだろうか。いや,私はむしろ,いまでも私たちが日常に接している「お上」意識が,この事件に再現されていると考える。中央官吏の多くは,市民を治めるべき対象と考えている。彼らの権力の源が市民に発しているという根本思想が,どれほどの官吏の身についているのだろうか。 十数年まえ,情報公開先進国であるアメリカの議会が発行した市民向けマニュアルは,つぎのような趣旨の宣言からはじまっていた。 「政府のもつ情報は人民のものである。国の機能は,社会に役立つように情報を保管することである」。 情報公開制度は,そのような基本認識における〈文化革命〉をともなってはじめて,民主主義への一里塚となる。今回事件の徹底した調査と公開,関係者の処分はもちろん。背景にある行政官の未熟な人権意識の徹底した改革がおこなわれなくてはならない(『朝日新聞』2002年6月1日朝刊「私の視点」)。 日本にいちばん欠けているのは,公的な思想である。パブリックとはなにか。社会とはなにか。国はなにを統括し,なにを統括しないのか。いま,新しい社会をつくろうというとき,社会とはどうあるべきかという哲学がなければ,戦略も立てようがないのである。残念なことにそれがないのが,いまの日本なのである(坂村 健『21世紀日本の情報戦略』岩波書店,2002年,242-243頁)。 12) 「文民統制と武士道」 日本の「自衛隊という名の軍隊」は敗戦後,アメリカ政府当局〔GHQ〕の指導・監視のもとで,旧日本帝国陸海軍を人的側面においては実質的に継承するかたちで創設され発展してきた。軍隊である自衛隊の幹部たちの意識では,戦後民主主義の根本精神が「文民統制(civilian control)」の次元において徹底されているようにはみえない。 なぜ,文民統制が軍隊・軍人に対して必要なのか。 軍隊は,国家みずからの意志の即して,なんらかの目的を達成させるにさいして利用される〈物的暴力装置〉である。 しかし,軍隊も組織であり,軍人である人間がかたちづくっているものであるかぎり,この幹部たちが国家と軍隊との関係を主客転倒させ,その物的暴力装置を悪用し,国家の実権を政治的に簒奪しようとすることは,実際にしばしば起こりうる現象である。 だからこそ,すくなくとも先進国になればなるほど,国家と軍隊との関係においては,「文民統制という絶対的な規律」が徹底されることになる。発展途上諸国において,政治‐経済‐社会‐文化など各種の要因のため軍事クーデターが発生しやすいのは,そうした文民統制のタガが,まったくかあるいはほとんど効いていないからである。
とはいえ,先進国でもまた,その国家のありかたや性格によっては,この文民統制を侵そうとする軍隊組織や軍人集団を生むことをなお,完全に阻止できない面ももっている。 日本は,戦後においてもなお,天皇〔昭和天皇のことだが〕に対しては,内密(オフレコ)で政治‐経済‐社会の全般情勢に関して「内奏を奉じて」きた。某防衛庁長官は,裕仁天皇から「自衛隊は旧日本軍の悪いところは見習わないでしっかりやれ」といわれたと,うっかりマスコミに漏らしてしまい,責任をとらされたことさえある。 日本における天皇の地位は,旧大日本帝国憲法下での立憲君主制から,敗戦後,新日本国憲法下での象徴天皇制へと脱皮させられ,変質した。 だが,現日本国憲法下において形式上非常に重要な,そして「摩訶不可思議な疑似的元首」となった天皇をはじめとして,下々の者までみなそろって,過去における戦争責任をまともに意識できず,その戦後処理も不十分なままに過ごしてきた国である。 だから,この国で防衛庁による今回の事件が起きたにせよ,国民全体が本当にマスコミで大騒ぎしているほど,深刻に感じているとは思えない。さもありなん,といういどの事件ではないのか。それほど,驚くほどの出来事ではないだろう。そういえなくもないのである。 ともかく,防衛庁の管轄に入いる法律である「有事法制関連3法案」は,国民の安全と権利をいかに守るのか。自衛隊は有事のさい,これらにどう対処するのか。ところが,この両輪の関係にあるべき問題が,「軍隊行動の最重視と国民生活の軽視・無視」においてしか検討されてこなかったのである。 その事実は,今回の防衛庁関係の事件「情報公開法にもとづく文書開示請求者のリストの作成,庁内への配布」をとおして,よりいっそう明らかになっただけではなく,戦前‐戦中において国家・軍部が国民(臣民)をどのようにあつかってきたかを想起すれば,ただちに納得いくことがらである。 大正12〔1923〕年9月1日に発生した関東大震災直後のどさくさにまぎれて,無政府主義者の大杉 栄とその家族を殺したとされる甘粕正彦元憲兵大尉は,その後,満州にわたって,カイライ満州国の建国(1932年3月)とその運営に深くかかわる。そして,1939年11月,株式会社満州映画協会の理事長に就任する。この甘粕は1945年8月,日本が敗戦したさい自死する。その直前に甘粕の詠んだ川柳がのこされている。
この文句は,あの戦争をとおして「大博打」に誘いこまれた日本の国民〔忠良なる臣民〕たちが,本当はどのようなひどい目に遭ったかを,もういちど想いだすためにうってつけのものである。 ある国の軍隊は当然のこと,その国民の生命や財産を守ってくれるものだとされる。しかし,1945年までの大日本帝国と旧日本陸海軍が実際にやってきたことといえば,国民〔臣民〕たちを無理やり大博打に引きずりこんだあげく,彼らの命をたくさんうしなわせ,わずかにもっていた財産さえ無に帰させ,国土は焦土と化しただけであった。 しかも,大東亜(アジア‐太平洋)戦争の最高責任者たちとされたA級戦犯のうちには,敗戦後にものうのうと生き延び,なかには総理大臣になったり,日本の闇社会のドンになったりした者さえいる。この者たちには,甘粕正彦の爪の垢でも煎じて飲ませておくべきだった。一言でいって,まったく潔くない者どもであった。 「日本の武士道」に照らして彼らは,どう審判されるべきか,などと考えたりしてもいいだろう。『葉隠』の名文句のひとつに「武士道とは死ぬこととみつけたり」というものがある。 さらに,こういう文句もある。「大事の思案は軽く,小事の思案は重く」。これは,大事の思案は平常のあいだに検討し,まえもって心に決めておき,その場に臨んでは,簡単に態度を決めるべきものである。これに反し日ごろの覚悟が不足であれば,その場に臨んで簡単に判断をつけることができず,誤りをふやすことになろうという意である。 A級戦犯でありながら絞首刑をまぬがれ,その後に生を長らえた者たちにとって,上記のような武士道の精神は,まったくの用なし,無縁の教訓だったわけである。昭和天皇の戦争責任にいたっては,もはや論外である。 13)「有事は戦争」 さて,評論家 吉本隆明は,小泉政権の現状をこう批判する。 小泉内閣は,とうとう半世紀まえの自民党内閣にまで退化してしまったような気がする。戦争をしらない幸運な国民が日本の大部分を占めるようになった現在,それを幸運の極みだと思わないで,「有事」などというあいまいなことばで,戦争状態や戦闘状態を空想しはじめたからである。 小泉内閣からはじまって,その空想の論議は,政府からテレビ,新聞などメディアに登場するゲスト,キャスターにおよんでいる。私はなんの役にもたたない,そんな空想よりも,現在の平和を胸いっぱいに享受したほうがいいと思う。そんな話題はあらかじめ論議しても無効だからである。 「有事」が目前にきたら,勇ましいのも臆病なのも沈黙してしまう。また,架空の政治的な遊びである「有事法制関連法案」も「個人情報保護法案」も吹っ飛んでしまうに決まっている。戦争世代の私にはそう思えるのである(『朝日新聞』2002年6月2日朝刊「私の視点」)。 14)「有事と自衛隊」 現在の日本にとっていざ「有事」というばあいは,自衛隊と米軍が円滑な作戦行動をとれるよう,関連法規を整理するのは当然であるというのが政府の主張である。その論法はわりやすい。だが,法案はきわめてわかりにくい。もっとも重要な米軍の役割を,正面から論じていないためである。 有事の認定があいまいなら,日本はアメリカの情勢判断と行動に引きずられ,「周辺事態」から切れ目なしに対米支援を深め,官民を動員することになる。つまり,事実上米軍が日本の有事認定の決定権をにぎることになりかねない。 日本本土への復帰まえの沖縄には,憲法は適用されず,基本的人権も保障されなかった。日本が当時の沖縄に近づくとは考えたくないが。だが,現「憲法下でこんなことは起きない」と断言できるだろうか。国会における政府のあいまいな答弁を聞いていると疑念は深まる(『朝日新聞』2002年6月4日朝刊)。 要するに,有事法制関連3法案の本質は,アメリカ政府の世界的な軍事戦略にしたがい,在日米軍の指揮局面において補完する戦術的な役割・任務を,日本の自衛隊に課するところにある。 そういう法律が成立することになれば,日本の軍隊:自衛隊があたかも,アメリカ合衆国の傭兵であるかのような存在になってしまうにちがいない。つまり,日本の自衛隊がアメリカ軍に「顎で使われる」〔しかも兵器や食糧,兵士の給料は日本もちであるから,ただ働きになるわけだが〕ごとき,「両国の関係」が出現するのである。 それでは,「日本の軍隊としてのプライド」をもっているはずの自衛隊の将兵たちから不満・不平が生じかねないことも,ここで付言しておこう。 15)「日本の民主主義」 現行憲法の保障する基本的人権は,本来すぐれて政治的な権利であり,なによりも政治を監視し,市民が政治に参加するために不可欠な権利である。それが,半世紀にわたる教育や人々の意識のうつりかわりに沿って,「生まれながらに誰もがもっている人権」と漠然ととらえられ,没政治化されてしまった点におおきな落とし穴があった。 もういちど,基本的人権の本来の政治的意義を評価する必要がある。私的な側面で自由にすることだけを尊ぶのではなく,政治を監視し,政治に参加する「表現の自由」の意義を重視しなければならない。個人情報保護法案はまさに,そのような自由の再評価を求めている(『朝日新聞』2002年6月7日夕刊,松井茂記〔大阪大学教授:憲法「個人情報保護法案,なぜ低い市民の関心−私的な自由のみを尊重,足りぬ政治的権利意識−」)。 今回の防衛庁に発した事件をとおしてわかったことは,こういうことである。 すなわちそれは,日本国における基本的人権の意識水準は,市民が政治を監視し,政治に参加する「表現の自由」が守られるどころか,政府や官僚〔軍人〕たちが市民を監視し,政治に参加する「表現の自由」を扼殺しようとしている事態を,それほど深刻にも重大にも感じていなかった点にある,ということである。 ここまで話がすすむと結局,マッカーサーにいただいた戦後民主主義の定着問題がなお,今日日本の政治意識にかかわる重大な論点たりうることが示唆される。当時マッカーサーは,日本国民の精神水準が12歳だとのたもうた。その後半世紀以上が経過したいま,民主主義の精神的年齢に譬えると日本人はいったい,何歳くらいになれたのか。 つまり,日本社会において民主主義の基本精神や具体的諸制度は,なにか「上から」与えられるものであって,自分たちによる必死の努力と,ばあいによっては犠牲を払いながらも勝ちとるものであり,そしてまた,たゆまない緊張感をもってそれを護り,よりよいものに築きあげていくという肝心な点が,はじめから十分に認識されていなかった。 ■ [その後の顛末] ■ 1)「不調国会」 その後の新聞報道は,今期国会で政府与党が可決‐成立をめざしていた諸法案について,こう伝えている。 ◎ 政府・与党は6月6日,住基ネット(住民基本台帳ネットワーク)の拡大を盛りこんだ「行政手続オンライン化関連3法案」について,今国会提出を了承する一方,8月に稼働する住基ネットの実施状況を踏まえて審議をすすめることで合意した。これにより,同法案の成立は事実上,次期国会以降に先送りされる(『朝日新聞』2002年6月7日朝刊)。 ◎ 政府与党は,終盤国会の焦点である4大法案のうち,個人情報保護法案の今国会成立を断念した。「表現の自由を規制する」という世論の批判にくわえ,野党の抵抗によって審議が大幅に送れていることや,防衛庁の個人情報リスト問題で行政機関の個人情報保護に対する信頼がおおきく損なわれたことから,会期延長しても成立は困難と判断した。政府・与党は,同法案に見切りをつけ,郵政関連法案と医療制度関連法案の成立を最優先する考えである(『朝日新聞』2002年6月7日夕刊)。 ◎ 政府・与党は6月12日,有事法制関連3法案の今国会成立を断念した。小泉首相が重視する郵政,医療制度両関連法案の成立を優先すると,有事法制に割く時間的余裕がないことにくわえ,防衛庁の個人情報リスト問題の余波で衆院有事法制特別委員会の審議の難航が予想されるためだ。首相は有事関連法案を廃案とせず,次国会で民主党など野党の一部の同調をえるかたちでの成立に強い意欲をもっており,政府・与党は今後,有事法制のありかたについて話しあう与野党協議機関設置など善後策の本格検討に入いる(『朝日新聞』2002年6月13日夕刊)。 2)「破壊者:慎太郎」 小泉政権はいまやもう,どうしようもないほどガタガタの状態である。現政権のこの様子を横目でみている石原慎太郎都知事は,都政はそっちのけで日夜,国政に打って出ることを考えているはずである。 しかし,都政をやらせただけでも相当ウンザリさせられているこんな男を,国政の場に再び跳躍させることになったりしたら,またとくに,よりによってまちがえても日本の「内閣総理大臣」などやらせたりしたぶんには,日本国は本当に崩壊に危機に直面する。 そのさい「キーポイント」は,国際面における外交問題であり,内政面における民主主義と自由の問題である。「(仮)内閣総理大臣」石原慎太郎は必らず,この2問題で暴発し躓き破綻する。 この国:日本を究極的に破壊する役目を慎太郎君にやらせたい方々は,どうぞこの人を存分に応援すればよろしいのである。だが,この選択がおおきな過ちであることは,自明の域に達している。 3)「戦争を気安く口にする男」 筆者が以上の文節を書いたあと,こういう報道に接した。
またまた,この男のマッチョ気どり,蛮勇的脱線の言説が頭をもたげはじめた。この男,他国に対して気に入らないことがあるからといって,すぐ戦争をおっぱじめるのだと,吼え,喚く。そんなに戦争がしたいのか。好戦的な男である。 1945年8月までの日本とアジアとの関係史をいまいちど観察してみてほしい。日本は,なにかといってはこの石原のような発言を頻発した。とくに日中戦争後,泥沼化した大陸の戦線を無謀にもさらに拡大していった。当時日本軍の支配地域は実質,「点と線」だった。 ところで石原慎太郎君,アメリカや中国に対しても,もしなにかあったら,北朝鮮に対するときと同じく勇猛果敢に「〈戦争するんだ!〉と吼える」ことができますか? 映画を譬えに出して「軍艦を送れ!」と勇ましく吼えているが,国際政治外交問題はそんなに単純明快でも簡単なものでもない。 −−第2次世界大戦の結果〔敗戦〕を,再度考えようではないか。 戦後においてこの国:日本は,「国家の国民に対する責任をしめしている」といえた義理か。ここで〈国民〉とは,かつての大日本帝国のなかに「2等・3等臣民」として包摂された民族:人々も入れて考えねばならない話である。日本国臣民だった「1等国民」でも,その責任を十分はたしてもらっていない人々が,まだ大勢いるのである。あの戦争は,この国に関係する人々の命のうばい,財産を無に帰し,国土や故郷を徹底的に破壊してきたのである。 石原慎太郎は,戦争が国家や国民,社会,文化,風土〔国土・故郷〕に対してもたらしてきた甚大な被害や非常な惨禍を忘れたのか。総理大臣になったら〔!〕自分だけは戦争事態には無関係,つまり安全地帯にいて指揮をとるつもりでいる。だからこそ,そういう冷酷・無責任なことを平然と放言できるのである。 まかりにまちがえても,こんな粗雑な思考を得意気に振りまわす人間を一国の首相(大統領?)にしたら〔「私(石原)が総理だったら」〕,地球全体をぶっこわし,人類全体を塗炭の苦しみに追いこむハメにもなりかねない。これほど愚かなで初歩的な錯誤もない。 4)「自衛隊は米軍の家僕か」 最優秀のブレーンにとりかこまれているが,ちょっと思慮の足りない風貌にもみえるアメリカ大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュは,「イラクとイランと朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の三カ国を名指しし,ひっくるめて「悪の枢軸」と呼んだ。これまでは「ならず者国家」よばわりしていたが,とりわけ「悪い」というので「枢軸」化したわけである。 日米安全保障条約はダテの国際条約ではないはずである。石原君が日本の首相になって,北朝鮮に戦争をしかけるような事態がくるまえに,アメリカ〔の現政権〕がその軍事的な必要を感じたと判断するときは,必らずさきに攻撃するものと予想される。 つまり,在日米軍の子分・手下である関係の位置・地位しかもっていない日本の自衛隊が,アメリカ政府の意向を差しおいて独自の軍事行動をとることは,可能性ゼロといってよい。その意味では日本の出番はない。あるとしても,アメリカ軍の下働き,野球でいえば球拾い。 テロ対策特別措置法にもとづき,インド洋で日本の海上自衛隊の「補給艦」からアメリカ海軍〔の補給艦〕に燃料が提供された(前述,写真も参照)。その後の話によると,アメリカ海軍はこの燃料を,ほかの国の軍隊〔第3国の艦船〕におすそ分けしたと伝えられている。なんともお人好しの自衛隊! それはいうまでもなく,「われわれの〔日本国に支払った〕血税」が提供したものですぞ。 梅田正己『有事法制か,平和憲法か』高文研,2002年5月は,その補給で提供したわれわれの血税の金額は,2002年2月末現在で38回,約5万9千リットル,約23億円だと記述している(同書,84頁)。
もっとも,有事法制関連法案は,イージス艦など高水準の充実した戦力・装備を保有している日本の海陸自衛隊を,球拾い〔後方支援〕だけさせておくのはもったいない。これからは,その実力にみあった任務も遂行できるよう,いいかえれば有事発生時にあっては「軍隊としての本来の役割」を,日本にもはたしてもらおうとするための法案である。 5)「文献紹介」 石原慎太郎は,一橋の出身者を中心に最優秀のブレーンにとりかこまれているが,そのわりに,実際に口から放たれることばは雑であり,品性も欠いていた。 筆者は経営学〔経営思想史〕が専攻であり,そのほかの諸領域を専門的に十分論じつくすことはできない。しかし,以上に長々と記述してきた内容を裏づけてくれる文献が,その道の専門家・研究者によって公表されている。 @ 纐纈 厚『有事法制とは何か−その史的展開と現段階−』インパクト出版,2002年3月に聞こう。著者は山口大学人文学部教員である。 この国は,いまや再び高度な軍事体制を敷きはじめている。中央省庁改革関連法や地方分権一括法,さらには,国旗・国歌法など数多くの法整備の一連の成立をみるとき,新たな装いのなかで,きわめて強制的な国民動員システムが構築されようとしていることがわかる。それが戦前の国民動員システムとまったく同一とは思わないにしても,敗戦をはさんでもなお,その連続性と同質性に深い憂慮を抱かざるをえない(同書,12頁)。 A 梅林宏道『在日米軍』岩波書店(新書),2002年5月に聞こう。著者は元大学教員で,現在は反核平和運動家である。 日米安保体制とは,締結時に意図した対ソ防衛体制ではもはやなく,米軍の全地球的(超地域的)な展開をささえる体制である(同書,49頁)。 日本という国のもっとも醜いありかたはまず,「専守防衛」といいながら在日米軍の攻撃力に依存していることであり,つぎに,「唯一の被爆国」といいながら米国の核兵器で日本を守っていることである。なぜ,日本はこれらの政策を恥じることなく選びつづけているのだろうか。私たちが,再び人間らしく,理念や理想を追求する社会に生きるためには,この問いを避けてとおってはならない(同書,はじめにA頁)。 −−本ホームページの筆者は,こう思う。戦前日本の国家体制は,大日本帝国が「アジアの盟主たらんとする野望」を達成するため軍備をととのえ,これを行使してきた。ところが,敗戦後の民主制国家日本はいまや,アメリカとむすんだ安保条約のもとで,米軍の意のままに自衛隊を作戦行動させられるという,まことにみっともない,主体性のない国になりさがりつつある。 梅林宏道は,さらにいう。「このような〈法の支配〉という理念そのものを平然と愚弄するような国においては,市民の倫理観は朽ち果て,国は亡びていくであろうと考えるのは,私だけであろうか」(同書,60頁)。 なかんずく梅林は,日本の安保政策の根本問題を,「自衛隊は盾・米軍は槍」という防衛役割分担にみいだしている。槍として危険な攻撃任務を負わされている米軍が,任務遂行に不可欠な訓練だと主張したとき,日本政府は反論できない。たとえば,米軍の戦闘機は,日本全土をわがもの顔に低空飛行訓練場にしているが,日本には地理的に本来,米軍に提供できる低空飛行訓練ルートなど存在しないはずである(198頁)。 2001年10月,アメリカ国防大学国家戦略研究所(INSS)から出された報告書「アメリカと日本−成熟したパートナーシップへ−」(いわゆる「アーミテージ・レポート」)を想い起こしておこう。この報告書が描いているものは,大西洋の対岸にイギリス,太平洋の対岸に〈平和憲法から自由になった日本〉,そして,ユーラシア大陸に両翼を広げている軍事大国アメリカの姿である。残念ながら,日本はいま,そのような方向に足どりを速めている(229頁)。 「究極の優勢」を求める米軍の動向には,すさまじいものがある。このような米軍の未来に呑みこまれないように,21世紀最大の日本の選択が問われている。無関心は許されない。 梅林『在日米軍』は,前段の問いに答えを用意している。興味ある方はぜひ,本書をひもといてほしいところである。筆者はその答えまで,ここでは紹介しないでおく。 以上のような専門家の現状分析と批判的認識を踏まえていえば,石原慎太郎のアジテーター的言説は,アメリカ当局や日本の一部の政治家・軍部官僚の思うつぼに,庶民の感情や意識を煽動するものである。しかも,ご当人はおおまじめで,しかも世界情勢に対する並々ならぬ理解を自身がもつかのように偽って,法螺を吹きまくる。この男は悪者である。 石原慎太郎は『亡国の徒に問う』(文藝春秋,1999年〔原本は平成8:1996年〕)という著作がある。この文庫本の帯に書かれた文句が奮っている。 国を亡ぼすのは,政治家か,官僚か,あるいはあなた自身か? この問いは,「去勢された宦官」たち(石原慎太郎の表現)だろう上記の人々=政治家や官僚だけでなく,むしろ,石原自身においてこそ問われるべきものである。この日本という「国を亡ぼす」ことに拍車をかける役割を,いま,みごとにはたしているのは,ほかならぬ《この男:慎太郎》だからである。 6)「国会議員の差別的言動」 6月7日新潟市で開かれた衆院有事法制特別委員会の地方公聴会で,自民党の森岡正宏氏が,反対表明した大学教授らを「反対しているのは大学の先生ばかり。日本の教育界はどうなっているのか」と批判した。 自民党議員森岡正宏は,各野党がこの種の公聴会に参考人としてよんだ知識人・学識者の見解・主張:「反対」じたいに対して,差別的暴言ともうけとれる非難・攻撃をくりだした。この言説は,民主主義の基本精神をより現実的,具体的に生かそうとするための「公聴会」制度を,全面的に否定したものである。 有事法制法案だけに関する問題ではないが,自党〔政府‐与党〕に反対する野党を支持し応援する思想・信条を抱く〈大学の先生〉の存在を,頭から認めない狭量・独断がめだつのである。 自民党〔そのほかの与党も〕がその見解・主張を聞くため公聴会によぶ参考人:大学の先生であれば,今回の有事法制法案に大いに賛同する思想・信条の大学の先生に決まっている。この点に照らしても,森岡議員の発言は身勝手などころか,いちじるしく公平性を欠き,かつ常軌を逸した「独断にもとづく暴言」であって,根拠のない「差別的な印象」を与えるものと断定される 7)「田中秀征の小泉政権診断」 『日本経済新聞』2002年6月15日「真説異説−そこが聞きたい」は,元経済企画庁長官の田中秀征(現福山大学教授)の小泉政権評価を載せた。見出しのみ引用する。 「小泉改革,実は官僚主導」 「民の立場だったはず / 政策,財務省の思うまま」 「デフレ対策尻すぼみ? / 再び小出しの道歩む」 「あとがき: 破壊か延命か 首相は岐路に」 小泉政権は発足当初,ものすごい人気だったが,いまやこのありさまである。もしも純一郎総理がこけて,その代わりに慎太郎政権ができたりしたら,「超人気から不人気への必然的なサイクル」は,よりいっそう短縮化されるにちがいないだろう。石原は,日本滅亡の近道へ案内する人物である。 |
2002年6月12〜16日,17日 記述