批判的経営学の興亡

−マルクス主義的経営学思想の理論分析−




● 裴 富吉 学術論文 公表ページ ●


   The critical doctrines of business management:

   Rise & decline of Japnan's Marxian schools.

裴  富 吉  ( BAE  Boo - Gil )


−中央学院大学社会システム研究所『紀要』第4巻第2号,2004年3月掲載−
 本HPには, 2004年3月16日公表〔ウェブ用に編集〕

なお,本稿の引用などするばあいは基本的に,
上記『紀要』に依拠した参照を願います。


なお,このウェブ版では末尾に
【 補 追 註 論 】(随時の補説・追論)
をおき,事後の論究を追補。


 

                                   −も く じ

    T は  じ  め  に

     −なぜ,いまマルクス主義的経営学を検討するのか−

     1) マルクス主義的経営学の無謬性信仰

     2) 「科学的経営経済学」の体系的叙述・歴史的考察

     3) 「科学としての経営学」の絶対性原理

     4) 「科学としての経営学」の変質

     5) 本稿の検討課題

    U 角谷登志雄『科学としての経営学』1979年
                                    
にみる「非科学性」

     第1章「科学的社会主義と企業=経営の理論」

     第2章「『資本論』の管理規定とその展開」

     第3章「社会主義社会の管理=組織問題」

     第4章「日本におけるマルクス主義経営学の歴史と現状」」

     第5章「理論創造の方向と研究方法の吟味」

     第6章「社会変革と科学としての経営学」

        V 批判的経営学としての「科学的経営学」の意味

     1) 批判的経営学:「科学的経営学」の変質

             1)−a)  中西寅雄「経営経済学」

             1)−b)  マル経「経営学全集」

             1)−c)「科学としての経営学」の変質

             1)−d)「個別資本説」の意義〔その2〕

         1)−g)「企業経済学説」の時代区分

             1)−h)  小   括

     2) 若干の思想史的分析

               2)−a)  マルキシズムの意味

               2)−b)  マルクスの立場

               2)−c)  マルクス主義経営学の混迷

             2)−d)  マルクス主義の原点

             2)−e)  社会主義の理想像と現実の姿

             2)−f)  小   括

        W 批判的経営学の再生は可能か

     1) マルクス経済学の解体と再生

     2) 小泉信三の「マルクス批判」論

     3) 資本主義の未来と批判的経営学の動向

     4) マルクス主義経営学の末路

       5) 経済学に対する経営学の独自性

     6) む す び−マルクス主義経営学の歴史的意味−

 

 

 

T は  じ  め  に
−なぜ,いまマルクス主義的経営学を検討するのか−

 

 1) マルクス主義的経営学の無謬性信仰

 筆者が大学院研究科時代〔1969〜1975年度〕に学んだ大学の学部には,マルクス主義的経営学の思想・立場に立つ教員が大勢いた。

 たとえば,当時その大学院修士課程におけるある授業は,経営学を専攻する3名の院生が出席し,担当教員と合わせて4名でおこなわれたが,その授業で使用したテキストは,角谷登志雄『経営経済学の基礎−労務管理批判−』(ミネルヴァ書房,昭和43〔1968〕年)であった。

 角谷登志雄『経営経済学の基礎』は,序でこう断わっていた。

   科学的経済学の1分科としての経営経済学は,マルクス主義的方法にもとづいて,資本主義企業・経営の本質の科学的解明と「経営者経営(管理)学」としてのブルジョア経営学の全面的批判という任務を持っている。このような性格と任務とを持つ経営経済学は,日本においては包括的に「批判的経営学」と呼称され,それぞれの研究領域において歴史的に大きな社会的意義と役割を遂行してきた1)

 筆者は,「科学的経済学の1分科としての経営経済学」という「批判的経営学」の立脚点については,上林貞治郎の経営経済学説を〈批判的に〉考察するかたちで,吟味したことがある2)

 マルクス主義的方法を採り,「科学としての経営経済学」を標榜する経営学者たちは,「ブルジョア経営学がもっぱら……経営者(管理者)学的・実用主義的研究を展開してきた」のに対比しつつ,自陣営がわの絶対的な優位性をつぎのように高唱した。

   正しい立場……真に科学的立場からの資本主義的経営・管理諸活動(資本機能)の本質的・経済学的研究は,科学的経営経済学の確立にとって,どうしてもさけることのできない重要な現代的課題の一つをなす,と思われるのである3)

 批判的経営学者の学問的な基礎は,「歴史的に」「正しい真に科学的立場」,すなわち,「科学的経済学の1分科としての〔科学としての〕経営経済学」にある。というのは,その学問の方法は,ほかのいかなる経営学者たちの〈立場〉にくらべても,卓越した〈理論〉を提供できる〈思想〉を備えている,と考えられたからである。

 批判的経営学者のそうしたマルクス(?)主義的な確信は,俗っぽくいえば,「イワシの頭も信心から」,あるいは「信じる者は強い:救われる〔気分になる〕」というぐあいに観察すべきものである。批判的経営学者の〈学問的な信仰告白〉は「眉唾もの」であり,批判されねばならない対象である。

 とはいえ,これまで「科学としての経営経済学」の主張を疑い批判する者は,「歴史的に」「正しい真に科学的立場」を冒涜する許しがたい行為,我慢ならない不埒な所業と決めつけられたあげく,彼らの逆襲をうけ,断罪された。

 いまとなってみれば,本稿のとりあげる角谷登志雄〔や上林貞治郎など〕は,学問的な思考とは縁遠いそのような「宗教裁判まがいの異端審判」を盛んにおこなってきた,批判的経営学者の代表格であった。

 上林貞治郎『ドイツ社会主義の発展過程−ドイツ民主共和国20年−』(ミネルヴァ書房,昭和44年)は,第2次大戦後東西2国に分割されたドイツを,つぎのように対照的な姿に論述していた。

 ◎ドイツ連邦共和国(西ドイツ) ……独占資本の帝国主義的諸政策は,西ドイツ資本主義の矛盾を解決するのではなく,その矛盾を繰りのべ,西ドイツ国民の耐えがたい犠牲において,いっそう深刻な矛盾をうちにはらむのである。

 ドイツ民主共和国(東ドイツ) ……帝国主義が,アメリカの指導のもとで,社会主義に対する闘争との基地に築きあげるためにドイツを分割した。だが,社会主義の政治・経済・生活・文化が建設されて,平和と福祉の基礎が築かれている。平和・社会的正義・民主主義・社会主義・国際友好の道を,自由な決意において迷うことなく,さらにすすむ意志に満ちている4)

 要するに,資本主義国の西ドイツはマスマス矛盾が深まる国家体制であるのに対して,社会主義国の東ドイツはマスマス発展し,今後も大いに希望のもてる国である,ということにつきる。敗戦後ドイツが東西両国へ分割された歴史的原因を,アメリカ帝国主義の主導のせいだと記述するような政治的な見解は,特定の価値観に偏向したものといえる。

 筆者が過去に勤務した某大学のある同僚は,社会主義経営‐会計理論への絶対的な「真の科学的な正しさ」を疑ってやまない上林貞治郎に向かってうっかり,その理論への疑問を批判のことばに表わして口に出したところ,ただちに激越なる叱責をうけた〔そのたぐいの「疑問・批判じたいがけしからぬ」という意である〕,という話を聞かせてくれたことがある。

 同様な話は,社会主義諸国における経営‐会計理論の現状やその実際の状況に対する批判的発言・分析的記述をした経営学者は,彼らからの猛烈な反論・反撃を浴びるだけでなく,たたみかけるように投げかえしてくる非難・罵声の渦に巻きこまれることにもなった。→「社会主義経済体制の歴史的な正しさを疑うことは,とんでもなくイケナイことなのだ!」(より正確にいうと罵倒に近いそうした発言)など。

 

 2) 「科学的経営経済学」の体系的叙述・歴史的考察

 ここでともかく前掲の,角谷登志雄『経営経済学の基礎−労務管理批判−』昭和43〔1968〕年がしめした「科学的経営経済学」の体系的叙述・歴史的考察は,どのような中身であるのか聞いておく5)

 @ “弁証法的唯物論−史的唯物論−政治経済学−(部門経済学)−企業〔経営〕経済学”という一貫したマルクス=レーニン主義的方法によって,企業とくに独占企業を中心とする経営諸現象とその本質を批判的・科学的に把握すること。

 A 資本主義企業における基礎的問題としての「経営」・「管理」・「労働」などの諸概念とその本質を,経済学基礎理論と資本主義企業の実態分析との関連において明確にすること。

 B 資本機能の現われとしての管理機能をその対象である作業労働との敵対的矛盾関係の歴史的展開として把握すること,いいかえれば,それを資本=賃労働関係,資本家階級と労働者階級とのあいだの階級闘争の具象化としての相互関係のなかで位置づけること。

 C 個別資本の運動機能としての労務管理をはじめとする具体的な経営活動の諸方法を,社会的総資本の拡大再生産との関連において,客観的経済法則と資本家の意識‐意志‐行為(前者の転倒的反映)との統一において,労働組合の生成,労働運動の高揚その他の歴史的・社会的諸契機との関連において,歴史的かつ全体的に分析すること。

 D 資本家的管理を企業における本来的生産ないし内部的活動のみに限局しないで,流通過程‐市場,国家,労働組合などの外部的組織・諸関係においても把握すること。それと同時に,経済〔経営〕を政治‐国家政策との統一・関連においてみること(例,「労働力」範疇と「労働者」範疇との関係)。

 E 資本家ないしその代理人によって遂行される経営〔管理〕活動の構造〔主体・客体・方法の関係〕とその客観的・批判的研究における階級的主体〔労働者階級の立場〕との区別を前提とし,後者による前者の「批判」の意味を,具体的形態の分析を媒介として明らかにすること。

 以上を,筆者のほうで大胆にまとめてみよう。マルクス主義的な「経営〔経済〕学の方法」にもとづく研究は,

 まず,マルクス=レーニンの思想・主義論を大前提におく。

 つぎに,政治経済学による客観法則的な理解・認識を踏まえる。

 さらには,資本主義的階級関係における「個別資本の運動機能の具体的な経営活動」〔ここでは労務管理問題が主な対象〕を,歴史的かつ全体的に分析,批判する。

 批判的経営学のこの方法は,ブルジョア経営理論およびその影響下にある社民的経営理論〔主として後者〕の思想的基盤を解明し,いわゆる経営学を社会科学としての経済学の一環として,すなわち科学的経営経済学として確立するための基礎的作業,「ブルジョア経営学の全面的批判という任務」に寄与することになる。これが,角谷『経営経済学の基礎』の核心である6)

 角谷登志雄の経営学的立場は,非常に政治運動的であり,特定の政治理念に規定されている。角谷〔や上林〕は,社会主義‐共産主義社会の到来を期待し,その実現の促進を意図する。その意味で彼らの学問は,「社会科学としての経営学」を題していても,けっして「社会科学」としての「経営学そのもの」ではなく,社会主義‐共産主義社会の具現をうながすための《道具‐手段》なのである。

 繰りかえすと,角谷〔や上林〕のいう「社会科学としての経営〔経済〕学」は,社会主義‐共産主義社会の到来・実現を促進するための学問であった。

 

 3) 「科学としての経営学」の絶対性原理

 角谷登志雄は,『科学としての経営学−変革期におけるその課題と方法−』(青木書店,1979年)という題名を付した著作を公表している。

 本書はのちにくわしく参照するけれども,同じ「題名」を付けたほかの経営学者の著作,たとえば,武村 勇『科学としての経営学−企業構造の二重性の研究−』(未來社,1969年)に比較すると,角谷『科学としての経営学』は「政治科学としての経営学」といったほうがよい内容である。

 ちなみに,武村 勇がその後に刊行する著作は,『経営管理技術論−企業目的と最適化行動−』(森山書店,1973年)から『経営学総論』(森山書店,1976年)『企業目的と組織行動』(森山書店,昭和57〔1982〕年)へと進展していった。

 同じマルクス主義的な学問方法から出立した経営学者でも,角谷のように思想科学面に昇華していく学問の方途をとるか,それとも,武村のように理論科学面に精緻化していく学問の方途をとるかによって,経営理論の原理‐体系的な展開は,本質論的におおきく異なっていくのであった。

 武村の『企業目的と組織行動』1982年は,「自分の描く理想がそのまま他の人々の願望と一致するかは別の問題である。頭の中でつくる組織理念はやさしいが,これを行動として事実の中に生かすことはきわめてむつかしい。これがイデオロギーと現実の乖離といわれるものである」といった。

 そして,「資本主義体制ないし自由経済体制という社会的枠組の中での企業の究極的目的は,動機としての利潤極大化の外在化したものである。個々の企業にとっては,この目的のために役立つ組織のみが現実的に意味をもつ」とも指摘していた7)

 武村の著述にうかがえる学問思想の源泉は,明らかに「マルクス主義」的だった。しかし,実際に「社会科学としての経営学」を講義するに当たっては,その社会科学性に政治的革命なる使命を注入していない。したがって,武村の諸著作は,学問の「革命的任務」を全面的に押しだす角谷〔や上林〕とは決定的に異なる基盤を有する。

 武村は「資本主義企業の究極的目的」を研究の対象にとりあげたのに対して,角谷〔や上林〕は,社会主義革命を熱望するゆえ,資本主義体制そのものを打破する思想〔の究極的目的〕を,「科学としての経営〔経済〕学」の〈推進的動機〉に据えてきた。

 とはいっても,角谷〔や上林〕のように革命的課題を前面にかかげなければ,「科学としての経営学」あるいは「学問の科学性」が保持できないかのように固執する立場は,みずからが強調する「科学としてのうんぬん……」の立場を限定しすぎたものといえる。

 そこには,重大な問題がある。それは,自説が絶対的な無謬性を確保していると思いこむ「唯我独尊」,「夜郎自大」である。さらには,ほかの諸異説を異端とみなすやこれを糾弾・排斥することに急な姿勢である。「科学としての経営学」は,あまりな高踏性をきわだたせた「政治運動的な目標設定」を作為しており,社会科学というにふさわしくない。

 

 4) 「科学としての経営学」の変質

 牛尾真造における「科学としての経営学」観の変質にも触れておく。

 牛尾真造は当初,『経営経済学批判−ドイツ経営学の系譜−』潮流社,昭和24年)および『経営学説史』(日本評論新社,昭和31年)をもって,こう主張した。

  「真の経営学とは,……北川宗蔵氏のいう『経営学批判』(『経営学批判』昭和21年・研進社)であらねばならない」。つまり,「Betriebswissenschaftたる『社会的総資本の立場にたつという経営学』(いったい誰がたつのか?)の批判からまず出発することを必要とする8)

 なぜならば,「利潤経済の否定者・プロレタリアートが苦悩にみちたその経営闘争を通じて現代を生きぬくための精神的武器」である「『国民的科学としての経営学』を身に鎧うとき」,「意識そのものの虚偽性と知的売笑のサンプルとしてブルジョア・イデオロギーの一環」である「現代の経営学」「の理論の欺瞞性と実践の反動性をあますところなく剔抉されるにいたる」からであった9)

 牛尾は,こう確言していた。

 「人間による人間の収奪にピリオドをうつことを窮極の社会的任務とする階級のイデオロギーにとっては,公然とその階級性と党派性を主張することこそが,真に正しい・もっとも客観的な『方法』を保障するのである」。

 「この任務が既成・俗流の経営学にたいする弁証法的・批判的克服なくして果たされえない」ものゆえ,「歴史的に先行するあらゆる経営学にたいして積極的な評価と批判のメスを加える」のである10)

 ところが,牛尾真造の著書,『入門経営学』中央経済社,昭和40年)『図説経営学』(雄渾社,昭和45年)は,基本的に同じ説明を与えているのであるが,経営学をこう定義していた。

 「わたしたちの経営学」11)は,「利潤獲得のために商品やサービスを生産し・配給する営利的な経済的集団,すなわち資本主義的企業の経営的構造とその機能過程を分析することによって,企業体の経営法則を正しくとらえようとする一つの社会科学である」。

 あるいは,そうした「正しい分析方法のもとにこの複雑な経営的現実を起動する巨大な資本主義的企業の運動法則を析出し,その発展の方向を展望することを任務とする実証科学であり,現実科学である」12)

 昭和30年ころから10年ほどのち,「科学としての経営学」に関して牛尾がみせた定義の変質は,「真に正しい」という修辞が「〈正しい〉」にかわった点においてだけでなく,吉田和夫の表現を借りれば13),「変革の論理を基礎とする経営経済学」から「認識の論理を基礎とする経営経済学」への変転をもみせた。

 贅言するまでもないが,「変革の論理」はマルクス主義的経営学者にとって必要不可欠の思想・イデオロギーを構成する基底であり,そのさい,要求された学問方法がマルクス『資本論』に依拠する「認識の論理」であった。真正のマルクス主義経営経済学はその「変革の論理」と「認識の論理」とを,弁証法的に止揚〔揚棄〕することになる。

 ある意味では,昭和30年ころまで牛尾真造〔など〕の見解は,敗戦後の斯学界を風靡したマルクス主義者の経営学「論」を代表していた。いわく「国民的科学としての経営学」,「人間による人間の収奪にピリオドをうつ」,「真に正しい・もっとも客観的な『方法』」など。

 もっとも,1990年前後を境に消滅したソ連・東欧の社会主義諸国家こそ,資本主義体制とかたちはちがえていたものの,「人間による人間の収奪」体制の亜種的典型にすぎなかった。マルクス主義によって立つ国家群は本来より,完璧な理想的政治体制をめざしており,社会体制の絶対的優位性を確信できると想定された。

 しかしながら,20世紀の現実は,「最強の共産主義こそは歴史上最も苛烈な帝国主義国であ」った14),といわねばならない。

 

 5) 本稿の検討課題

 以上,長々とこの「T はじめに」を記述してきた。

 要するに本稿は,「科学としての経営学(経営経済学)」を標榜するマルクス主義的経営学〔者〕のその社会科学性を,理論‐歴史‐政策という全体の問題次元に乗せて再検討しようとするものである。

 筆者がとくに問題とするのは,1990年前後に決定的となった主要な社会主義国家体制の崩壊に雁行したかのような,そして,いつのまにか消滅したかのようにも映る「日本のマルクス主義的な経営学」の動向であり,事後10数年が経過した現時点であらためて考察しようとするのである。

 日本のマルクス主義的経営学陣営の学者たちがどこかへいってしまい,行方不明になったわけではない。現役を退いた者もいるが,いままでとかわらず大学で教鞭をとって者もいる。だが,極論すればその陣営は実質的に,雲散霧消したかのようにみえる。

 それでも,その1人である田中照純『経営学の方法と歴史』ミネルヴァ書房,1998年)を公刊し,マルクス主義正統学派の21世紀に向けた脱皮を企図した。筆者は,本書の出版後,その書評を執筆した15)

 田中同書は,マルクス主義的経営学の本格的な変身を試みた。しかし,必ずしもその企図を成就させえたわけではない。この点は,マルクス主義的経営学者が本来具有していた特性と限界を明確に示唆する。いままでのところ残念なことに,田中照純につづいて,同じような試みに挑戦しようとするマルクス主義的経営学者は,いない。

 結局,吉田和夫が述べたこと,すなわち,「今日の個別資本学説の課題はまさに」,「認識の論理を基礎とする経営経済学」と「変革の論理を基礎とする経営経済学との流れ」とを「いかにして」「統一化するかということにある」16),というマルクス主義的経営学者たちの未来展望,いいかえれば,21世紀における日本の経営経済学に対する期待は,完全にみこみちがいだったことになる。

 筆者は,その批判点:「マル経経営学のみこみちがい」を裏づける証拠が確実にあるのかと問われたならば,こう答える。マルクス主義的経営学が,「夢と希望と確信」を満載した「思想・イデオロギー」に支持された「学問方法」であるかぎり,そうたやすくは崩壊したり消滅したりしなかったはずである。

 日本の経営学界は,マルクス主義的経営学における重大な「みこみちがい」をめぐって,これに〔牛尾真造の文句を借りるなら〕「ピリオドをうつこと」を,「真に正しい・もっとも客観的な『方法』」をもって議論してこなかった。

 他陣営の経営学者たちの思想と理論を批判することにおいては,「峻厳なることこのうえない」学的姿勢を堅持してきた〈マルクス主義的経営学〉者にあるまじき理論的な状況ではないか?

 眼前に広がっている斯学界の光景をみるかぎり,マルクス主義的経営学が定置させてきた領野に立ちながらなお,唯物史観的企業理論の内容を明確に展開する経営学者は,ごく少数である。

 昨今は,「マルクス主義的経営学」の表看板をかかげつづけられる,勇気のある経営学者がみかけにくくなった。かつて,その看板を高々とかかげていたにもかかわらず,いつのまにかそれをひっこめてしまった経営学者が多いのである。

 みかたにもよるがそれは,学問の「自由が必然的に生起」させたところの〈単なる様がわり:転向?〉だったのか。

 ● あの栄光はいずこに……,幻想だったのか。

 ● あの栄華はなんだったのか……,虚飾だったのか。

 ● あの戦闘的な勇姿がとてもなつかしい……,老兵はただ消え去るのみか。

 そう感じるのは,筆者1人だけだろうか? 21世紀初頭のいま,この地球上には圧倒的な軍事力を誇る,民主制帝国主義アメリカ合衆国ばかりが幅を利かせる時代である。従来,マルクス主義が批判の矛先を向けてきた最大の標的は,そのアメリカ「帝国主義」であった。

 


 

U 角谷登志雄『科学としての経営学』
1979年にみる「非科学性」

 

 角谷『科学としての経営学』は,「科学的社会主義の企業経営理論,科学としての経営学のみが,独占的大企業を,そして多くの資本主義企業を,労働するすべての国民に奉仕する社会的な公器に転化させるための正しい方途と態様を明らかにしてくれる」17)立場より上梓された著書である。

 第1章「科学的社会主義と企業=経営の理論」

 @「科学的経済学」……これは,現行の資本主義的搾取=抑圧関係(法則)の批判的な暴露・解明,および資本主義社会(経済)構成体の生成‐発展‐消滅,つまり,共産主義社会(経済)構成体への移行の必然性(法則)の分析という,ふたつの基本的な課題をもっている18)

 A「日本の経営学(経営経済学)の潮流(理論地図)」……これは,上林貞治郎にしたがえば各派の理論的立場・階級性にもとづいて,はぼつぎのように分類できる19)

 ◎ ブルジョア経営経済学

   a)  旧型・戦前型    

   b)  戦後型・再編成型  

   c)  新型・近経型    

 ◎ 中間型・小ブルジョア的経営経済学

     a)  右派 b)  中間派 c)  左派。

 ◎ マルクス的・マルクス主義的経営経済学

   a)  右翼社会民主主義的経営経済学

   b)  社会民主主義的(良心的・左派)経営経済学

   c)  マルクス主義的経営経済学

   d)  c) の変化形態のひとつとしての,トロツキズムの影響
        
をうけた極「左」的経営(経営経済)学

 ともあれ,客観的にみて,今日まで資本主義国で,資本家経営学に並立して科学的経営学が一定の量と質において発展しているのは,日本だけである。

 資本主義企業とその経営=管理についての経営学研究は,資本主義国のみならず社会主義国もふくめて類例のない独自的なものであって,現代において科学的社会主義の学説が自立的・創造的に発展しつつあることをしめす,ひとつの徴証となっている20)

 B「科学的経営学」……これは,上部構造である社会的意識諸形態に属している。この立場でみれば,科学的経営学の研究対象を「企業生産関係」と規定する見解(片岡信之)は,こういうふうに解釈される。

 つまり,社会的生産関係を研究する政治経済学に対し,経営学の独自性を主張するものであるが,それを社会的生産関係から切断し,企業の絶対的自立性を主張するならば,かの一部の個別資本説と同様に誤りとなる21)

 なお,角谷は後述において,この「企業生産関係」説は端的に,「生産力を社会的生産関係を捨象して切断し,企業の絶対的自立性を主張する」ものだと批判し,若干論調を異ならせた表現も残している。

 角谷が危惧する論点は,両「生産関係」間の「質的相違および区別=関連が捨象されているとみられることをはじめとして,多くの疑点がもたれている。……そのなかには非マルクス主義的論者までも含まれて」いることであった22)

 C「真の意味での新しい経営学」……独占企業の非人間性・反社会性を徹底的に憎み暴露し,それらを人民大衆の解放に奉仕させるための科学的な方途を解消する企業=経営の科学−,まさに,人間(人民)の英知と尊厳のための,日本人民の真の自由と幸福を実現するための,真の意味での学問である新しい経営学が求められている。

 およそ,社会変革が志向するものは,労働者階級をはじめ全勤労人民の自己解放,全人類の解放であり,すべての人間(個人)の尊厳を守り生活向上を推進することにある。科学的経営学は,そのような人間存在とその解放,社会変革の主体形成についての十全な認識なしには正しく発展させえない23)

 以上,角谷『科学としての経営学』第1章は,マルクス‐レーニン主義にもとづき,つまり史的唯物論に立つ弁証法的唯物論を駆使した「真の意味での学問である新しい経営学」を展示するものである。そうであるなら,スターリン『弁証法的唯物論と史的唯物論』をひもといてみると,こういう記述に接することができる。

   つまり,社会主義は,人類のよりよき未来についての夢想から,科学に転化する。

   つまり,科学と実践的活動との結びつき,理論と実践との結びつきと,その統一は,プロレタリアートの党のみちびきの星とならねばならない。

   社会の物質的生活は人間の意志から独立に存在する客観的実在であり,社会の精神生活はこの客観的実在の反映であり存在の反映である,ということになるのである24)

   スターリンのこのご託宣は,マルクス経済学を勉強したことのある日本の社会科学者:経営学者にとって,周知の内容である。角谷の主張は,このスターリンの見解から一歩も出るものではない。スターリン『弁証法的唯物論と史的唯物論』を教条的に奉戴し,教科書的・訓詁学的に利用するのが,角谷であった。

 マルクス主義の思想的な回路にみちびかれ,まず「政治経済学の使命」が論理的に定められ,これに従属するかたちにおいてつぎに,その1分科でしかない「経営経済学〔経営学〕」の任務も必然的に決まる。

 それゆえ,角谷の表現を再度引用すれば,「一貫したマルクス=レーニン主義的方法によって,企業とくに独占企業を中心とする経営諸現象とその本質を批判的・科学的に把握する」のが,「科学としての経営学」である。

 ここでは,経営学的次元の議論をおこないたい。

 角谷は前述のように,片岡信之『経営経済学の基礎理論−唯物史観と経営経済学−』(千倉書房,昭和48年)が提唱した「企業生産諸関係」説を,「企業の絶対的自立性を主張するならば,かの一部の個別資本説と同様に誤りとなる」と批判した。こうした裁断は,「上部構造である社会的意識諸形態に属している」ところの「科学的経営学」がなさしめたものである。

 しかし,経営学という学問は,社会的総資本の次元:下部構造〔土台〕における「社会的生産関係」そのものを,個別的資本の次元〔実はこれも下部構造・土台である〕において具体的に,いわば有機的・立体的に諸構成する「企業生産諸関係」そのものとして,研究対象にする。

 この事実を踏まえるとき,その〔片岡の〕視点が「生産力を切断し,社会的生産関係を捨象して企業の絶対的自立性を主張する」「経営学の独自性」の定立であるから,「かの一部の個別資本説と同様に誤り」であるとの論難は筋ちがいであり,当たっていない。

 「科学的経営学」という学問方法そのものは,「上部構造である社会的意識諸形態に属している」けれども,その研究対象である「個別資本運動とこれをになう経営者行動」は,「下部構造〔土台〕から上部構造までの総体」にまたがった,あるいはまた「本質と現象の全域」におよぶ「現実の問題」である。

 マルクス『経済学批判』は,「生産諸関係の総体は社会の経済的機構をかたちづくっており,これが現実の土台となって,そのうえに法律的・政治的上部構造がそびえたち,また,一定の社会的意識諸形態は,この現実の土台に対応している」と規定した25)

 そこで,上部構造=社会的意識諸形態に属する「科学的経営学」が研究の対象にするのは,「土台から上部構造の総体」という現実そのものである。

 そして,その「現実」には,a)「経済の現実」b)「法と国家の現実」c)「非現実な純粋イデオロギー」という3つの段階がある26)。「科学的経営学」であろうがなかろうが,以上3つの段階全体にわたるものこそ,経営学という学問がとりあげる研究の対象であるはずである。

 唯物史観とか弁証法論的唯物論とかいった歴史観・哲学観に照らしてみても,角谷の議論は,論理的な思考に関して誤用をきたしている。

 なぜなら,「学問方法の立脚点」のひとつである「科学的経営学」が〈社会的意識諸形態〉に位置し,「上部構造である」と規定する問題と,その「研究対象の性格」が「下部構造〔土台〕から上部構造までの総体に広がりをもつ」,「本質と現象の全域」におよぶ「現実の問題」であることとを混同した議論だからである。

 簡潔にいうと,「研究の方法とその対象」に関する議論において,とりちがえがある。

 筆者は,経営経済学〔経営学〕は,個別資本の次元における「企業生産諸関係」そのものの「本質と現象」あるいは「抽象と具体」,政治経済学は,その総体:社会的総資本のかたちで構成される「社会的生産関係」そのものの「本質と現象」あるいは「抽象と具体」を,それぞれあつかう学問であると理解する。

 淺野 敞『個別資本理論の研究』(ミネルヴァ書房,1974年)は的確に,こう論述していた。

   客観的存在としての個別資本は本来抽象的性格と具体的性格との統一物である。……経営経済学だけではなく政治経済学もまた個別資本をその研究対象とするのであれば,両者は共に,個別資本規定を抽象的段階から具体的段階へと究明しなければならない。

   研究の方法としての「下降法」,すなわち,最も具体的な現象の表面から本質的な規定へと分析する方法と,理論の展開の方法としての「上向法」,すなわち,最も抽象的で単純な本質的規定から具体的で複雑な現象形態へと展開する方法とは,共に,個別資本の研究にあっても,社会総資本の研究にあっても,そしてまた,経営経済学にあっても,政治経済学にあっても,とられなければならない方法であって,二つの方法は,両対象,両科学の区別なくすべてにあてはまる方法なのである。

   自立性,個別性をもったものとしての個別資本こそが経営経済学の対象をなすのであり,このような対象規定にもとづいた個別資本の運動法則の分析,解明が経営経済学の内容,体系の出発点をなす。そして,個別資本の自立性,個別性という客観的独自性こそが,経営経済学,個別資本理論が成立する客観的根拠でなければならない27)

   したがって,政治経済学には本質面を認めるが,経営学〔経営経済学〕にはそれを認めないというふうに区別するかたちで,経営学の学問的性格を現象面でしか〈相対的に〉認めないような考えかたはとらない。しかも,この理解は「変革の論理」に触れず,「認識の論理」にかぎっている28)

   党派性〔階級性〕に引導された科学性〔学問性〕とは,教条性〔無謬性信仰〕の僣越の別称である。それは,論理を透徹させて思考を鍛えぬく理論的な試練に無縁のものである。

 筆者はいうなれば,「夢想から科学に転化する」みかたに立たない。科学を展開させうる「論理構築」の方法は,対象とする現実の問題に即して,徹底的に追究する道をたどるほかない。

 角谷流の「科学としての経営学」は,コミンテルン‐コミンフォルム的「経営学教科書」たる性格を,スターリン『弁証法的唯物論と指摘唯物論』より拝命している。この理論上の姿勢は実は,角谷自身の強調する「科学性(学問性)」あるいは「客観的立場」とは縁遠いものであった。

 角谷はまた,片岡「企業生産諸関係」説に関連させて,関係学説の主張のなかに「非マルクス主義的論者までも含まれて」いることを問題視していたが,この見解は党派性・階級性剥きだしの「非学問的な論及」である。

 どのようにしたら,「マルクス主義に立たないこと」が,学問としての不適格性を証明するに足る,無条件の根拠となりうるのか。いったい,どこの誰がそう断言できるのか。げに,恐ろしいまでの神官的な権能をもつ「マルクス〈主義〉」の宣告である。

 

 第2章「『資本論』の管理規定とその展開」

 資本主義社会における生産,経済諸関係の担い手である資本主義企業および経営=管理などについての科学的理論,したがって科学としての経営学の基礎は,『資本論』によってはじめて築かれた。

 資本主義の基本矛盾の激化,したがって,労働者階級等の主体的な組織化と階級闘争の発展に対して,独占資本主義国家の官僚制的な抑圧機構がますます強化され,それによって補強される企業の経営=管理の方法と形態は,多様化し巧妙化してきている29)

 要するに,労働者階級,働く人民がいっさいの搾取=抑圧から解放されるためには,生産手段を社会的所有にうつし,労働力の商品化を廃絶し,労働・生産の社会主義的科学化=社会化および無政府的な競争にかえて計画経済化を推進すること,それとともに企業とその経営管理を真に民主主義化することが必要である。

 いいかえれば,社会主義(共産主義)社会を実現し,国家を消滅させるためには,政治革命,労働者権力の獲得と確立が必須的な条件をなす30)

 以上によって明白なのは,角谷「科学としての経営学」の学問的・理論的な基本命題は,社会主義〔共産主義〕革命を起こすことである。

 日本の特定の大学がいつから政治学校になったかしらないけれども,大学の教員が教壇の場から学生に向かってそのように「革命意識を注入する教育」をほどこそうとするのは,1945年8月までの旧大日本帝国が学童‐生徒‐学生〔‐臣民〕に対して,「日本が神の国」であることを教えこもうと思想善導したのと同じように,途方もない錯誤であった。

 少子化時代に入った最近における日本の大学は,「顧客満足志向」を重視する経営戦略を採っており,角谷流「科学としての経営学」はもはや,古証文あるいは古文書とみなしてよい文献・資料と化した。その点は,20世紀の末葉にいたり,角谷が教職として主に所属してきた当該大学が率先,積極的に展開するにいたった大学改革の進行‐実現とともに,ますます明確になってきた。

 OECD調査団報告/文部省訳/矢野 暢解説『日本の社会科学を批判する』(講談社,昭和55年)は,「反対科学」でありつづけた日本の社会科学を,つぎのように批判した。

   この多彩で複雑でジグザグした世界を対象にダイナミックな地域研究が展開されるとしたら,日本の「社会科学」は格段の進歩を遂げるだろう。それとともに,……日本の学界の国際化という宿題も,急速に解決されていくことにもなるだろう。「社会科学」が社会主義のドグマから解放され,「教学主義」の伝統から切り離されるためにも,地域研究を通じて,文字どおりの「社会」科学になることがだいじなのである31)

  

 第3章「社会主義社会の管理=組織問題」

 『科学としての経営学』第3章では,一カ所だけに聞いておく。

   社会主義(共産主義)社会においては,資本主義社会の敵対的矛盾関係に規定された個人と社会とのあいだの対立関係は基本的に解消するとはいえ,一定の非敵対的な矛盾関係そのものまで消滅するわけではない。さらに,個別生産単位としての企業組織が存在するならば,それと個人とのあいだや企業相互間の非敵対的な矛盾関係の存在,それにもとづく種々の諸問題の発生はさけがたい。

 この意味において,新しい“個人−企業(集団)−社会(国家)”の相互関係,民主的な協力=競争関係の模索,協同的に労働する諸個人の解放と向上のための真の自由・平等・民主主義の追求と実現ということは,“企業”における組織と管理にとって決定的かつ継続的な重要課題であると思われる32)

 この見解は,理想的な社会主義〔共産主義〕社会そのものの実現に向けて,「科学としての経営学」に要請されてきた新しい課題を示唆したものである。

 そうであるなら,1990年前後に崩壊・消滅した社会主義諸国に関する原因分析,ならびに,その後の変貌いちじるしい中華人民共和国やベトナム社会主義共和国などの現状分析も,それぞれの国に関してなりに「決定的かつ継続的な重要課題であると思われる」。

 角谷登志雄らによる当該論点の継続的な究明は,角谷登志雄編著『激動の世界と企業経営』(同文舘,平成4〔1992〕年)に表現されている。本書は,こう主張する。

 「旧ソ連型社会主義」のような〔指令型・画一的計画経済制度や官僚主義だから,効率的かつ民主的な企業経営は不可能であった〕課題もふくめて,これまでの政治経済や企業経営に関する諸研究における教条や既成のパラダイムの根底からの批判・克服が求められている。旧来の教条的な「マルクス=レーニン主義」についても同様である33)

 筆者は,本稿の執筆に当たりあらためて,1990年前後以降に公表された角谷登志雄の論著を読みなおした。しかし,角谷編著『激動の世界と企業経営 』1992年における前段の主張は,目を疑わせるものであった。

 くわしくは,本稿VとWで詳論するけれども,「科学としての経営学」の理論的かつ現実的な絶対性の典拠を,1970年前後までのソ連や東欧の社会主義イデオロギー体制国家そのものに求めていたときとは,百八十度様がわりしたのである。

 他者の理論において生じた「変節」だとか「転向」だとかに対しては,口をきわめて追及し,執拗に糾弾することをけっしてやめなかった「経営学者のいつのまにかの変身ぶり!〔それともひそかな?〕」は,注目すべき言説である。

 

 第4章「日本におけるマルクス主義経営学の歴史と現状」

 戦後の日本におけるマルクス主義経営学の歴史的発展を時代区分すると,およそこうなる。各時期は,ほぼ数年ごとに,それぞれ前半期と後半期にわけられる34)

 ・第1期〔1945-54年〕復 活 期

 ・第2期〔1955-65年〕分 化 期

 ・第3期〔1966-75年〕展 開 期

 ・第4期〔1976年〜  〕転換‐確立期

  中西寅雄『経営経済学』(日本評論社,昭和6〔1931〕年)は,「日本におけるはじめてのマルクス主義的な経営経済学の体系的な労作の出現であり,大きな歴史的意義をもつものであった」。

 つづいて,同様な経営学的な研究が佐々木吉郎『商業経営論』(文華社,昭和8〔1933〕年)や,同『広告経済論』(中央書房,昭和12〔1937〕年)古林喜楽『経営労務論』(東洋出版社,昭和11年〔1936〕年)馬場克三「経営学に於ける個別資本運動説の吟味」(『会計』第43巻第6号,昭和13〔1938〕年12月)が登場した。

 さらにすこし遅れて,北川宗蔵・上林貞治郎・宮上一男などが,同様に『資本論』を基礎としながら,マルクス主義の諸分野にわたるより広い視野から経営経済学的研究を深めてきた。

 だが,不幸にも,日中戦争〔1937(昭和12)年7月以降〕から太平洋戦争〔1941(昭和16)年12月〕へと広がっていく帝国主義的侵略戦争,日本資本主義の破局化への深まりとともに,その成長・開花は抑止され中断してしまった35)

 角谷は,戦時体制期における学問抑圧体制の影響に触れて,こう述べる。

 「かつて主流をなした人たち」である中西寅雄・佐々木吉郎 ・木村和三郎などの“くずれ” 注),つまりマルクス主義的立場からの離脱とは対照的に,ほかの一群の人びとは,きわめて困難な環境と生活のなかで,マルクス主義の科学性と良心を堅持し,抵抗し,主張し,そしてひそかに研究をつづけた。前記の北川宗蔵,上林貞治郎,宮上一男,そして馬場克三である。

 ところで,治安維持法の弾圧をうけた“大阪商大事件”は,日本のマルクス主義経営学の歴史における殉職=抵抗の1ページに不滅の記録として残されている36)


   注)筆者はこの“中西・佐々木・木村などのくずれ”という表現がよく理解できない。各出身大学・関係学者からこの論点に関する発言〔反論〕があったのかどうかしらないが,なにをもって“くずれ”というのか適切な説明を与えるべきである37)

 

 以上,角谷による論及の基底にうかがえるものは,唯一科学的で,正しいマルクス主義〔的〕経営学の立場を守ってきた研究者は,自分〔たち〕以外に誰もいないという,尋常ならざる自負であった。

 それでは,日本におけるマルクス主義経営学の歴史的発展は,最近までどのような経路を描いてきたのか。すくなくとも,角谷が1979年に提示した「第4期〔1976〜 年〕転換‐確立期」のその後には,

 ・第5期〔1991年〜現在〕崩壊‐低迷期

を追加することが適当である。

 その意味では,栄光に輝いてきたはずの日本マルクス主義経営学は,1990年前後を経て21世紀を迎え,その終末的な時期に入っている。

 要は,戦争中も学問的な節操,いいかえれば,戦時体制国家ファシズム下にあっても,マルクス主義の思想的立場を曲げることのなかった経営学者だけが正統でありえ,科学的・客観的な立場をまっとうに保持しえたという絶対的な確信は,第2次大戦後に生きてきたマルキスト経営学者の科学的正統性・学問的絶対性,理論的客観性・論理的妥当性などを証明する最大の根拠だった。

 角谷は,「第3期〔1966-75年〕展開期」に起きた,「“マルクス主義”を僣称し,“社会革命”を口にする各種の暴力(学生)集団による反社会的な破壊活動,科学的社会主義と民主的研究者たちにたいする挑戦・攻撃が,全国の大学を中心としてくりひろげられた」点に触れている。

   とくに,左翼観念的傾向の経営学者のなかから,“全共闘”など小ブルジョア的急進主義ないしトロツキズムへの同調者が生まれ,それへの共感と連帯をみずから宣言する論者すらでてきた。たとえば,三戸 公氏や牛尾真造氏などの諸例がそれであった38)

 さらに角谷は,「主要な学派とその諸機能」として,

 a)  個別資本説,
 
b)  経営技術学説,
 
c)  上部構造説,
 
d)  建設的経営学説,
 
e)  企業経済学説,
 
f)  企業生産関係説

を挙げている39)

 角谷の採用する立場「e)企業経済学説」は,「諸批判にたいしても,科学的社会主義の見地から,その不十分さの克服への内在的な努力が続けられている」40)

 それゆえ,一番優越した経営学の志向性はあらかじめ与えられ,神権的な〈至上学説〉性を保証されたも同然だったのである。

 角谷登志雄と同質である学問の思想‐立場に立つ上林貞治郎は,つぎのように確信していた。いまでは,眉唾物の主張と観察するほかない〈いいぶん〉である。

 ◎ 科学的社会主義の理論 ……マルクス主義の3源泉と3構成部分は,a) 哲 学〔弁証法的唯物論および史的唯物論〕b) 経済学〔とくに資本主義および社会主義の〕c) 階級闘争・社会主義理論〔一般的にいえば政治学〕であり,これらは,相互に密接にむすびついている。

 ◎ 経 営 学……そのいわゆる「方法論」においても,唯物論‐弁証法‐史的唯物論の諸理論・法則・命題に注意していれば,もろもろの観念論的主張や誤りが,生まれることはない。

 ◎ 企業理論  ……労働価値論・剰余価値論・資本蓄積論・賃金理論などに注意していれば,企業の価格政策や需要供給だけにもとづく販売価格論,価値実体を抜きにした会計的諸計算などが生まれることがない。

 また,大企業と中小企業との収奪関係の正しい解明,平均利潤と独占利潤との関係の解明,コンビナートやコングロマリットにもとづく利潤増大の解明,オートメーションと剰余価値‐利潤との関係の解明なども,正しくおこなわれうる41)

 「正しく」はふつう,こうした理解のありかたを,「観念論的主張あるいは誤り」といってよいのである。社会科学の場における発言としてみるとき,「何々であれば」−「これに」−「誤りはない」という仮定法的な関連づけ=決めつけは,恣意的な推論である

 

 第5章「理論創造の方向と研究方法の吟味」
    −資本主義的管理をめぐる二つの傾向とその批判−

 本章からは,角谷流に特徴がみられる,「管理機能(労働)と生産的労働の関連問題」に関した記述を参照する。

 @ 「ともあれ,それが経営経済学と政治経済学との接点をなす問題の一つであるがゆえに,それを解明するためには,弁証法的唯物論・史的唯物論をはじめ科学的社会主義の学説の正確な理解が不可欠である」42)

 A 「しかし,科学的分析(弁証法的把握)をかたくなに拒否する宇野説の管理論への応用とでもいいうる,〔篠原三郎〕氏のような“管理の二重性”観こそ,逆に,『科学の発展を妨げるもの』であって,科学的社会主義の学説から大きく逸脱する危険をはらんでいる」43)

 B 「そこでは,社会変革と経営学研究との関係は切断され,資本主義企業経営の民主的変革という今日的課題にかかわる科学的経営学の任務は否定されてしまう。その具体例として,たとえば三戸 公氏の所説をあげることができよう」44)

 これらの引照において感得できるのは,自説‐持論の思想・立場に対して抱く絶対的秀抜性,そのかぎりない自信である。つまり,「自説を自己充足的な科学的社会主義と称する独断的な態度」である45)

 旧東ドイツ〔ドイツ民主共和国〕の経済学者,ギュンター・シュミットの『現代経営学批判』(ミネルヴァ書房,昭和35〔1960〕年,原著1957年)はそうした専断をみなぎらせ,こう記述していた。

   a) 「生産関係および経済法則を包括的に分析するものであるマルクス・レーニン主義政治経済学が,……あらゆる経済科学,したがってまた経営の科学的理論にたいする理論的な基礎である。しかし,その場合には社会主義的経営のみが問題でありうるにすぎない」。

   b) 「資本主義経営経済学は,その『理論』において単に客観的な経済法則に適応していないばかりでなく,科学的認識を敵対的にさまたげている」。

   c) 「資本主義的経営経済学は自分自身の存在条件を科学的,理論的に示すことができない」。「もし経営経済学が弁証法的方法をそれ自身の方法とするならば,経営経済学は経営経済学たることをやめるであろう」46)

 自分〔たち〕の学説・理論以外は,学問的になにかを欠落させた,とるに足らない不良品であるかのように論断していた。つまるところ,他者・異説 注)を,どこまでも執拗に全面否定しつくしてやまない「科学的経営学」とは,いったいどのような「科学としての経営学」であったのか。再度,疑問が提示されて当然である。


  注)角谷登志雄〔など〕はとくに,中西寅雄三戸 公の学説・理論などを,非常にむきになって非難・攻撃する。
 自身の確信するマルクス主義「企業経済学」説と同じ立場だと思いこんでいた経営学者が,そこから離脱し,転向したとみなされたのである。
 中西や三戸に対する「敵愾心の発露」,あるいは「裏切り者」あつかいの口調・態度は,研究者のものとして,とうてい理解しかねる。

 

 第6章「社会変革と科学としての経営学」

 角谷はこういう。

 @ 資本主義企業経営の止揚の必然性,資本主義的搾取=抑圧関係からの主体的な脱出口,その諸条件の形成の実態などをも,客観的・総体的に解明すべきである47)

 A もっぱら外国の諸文献の“批判”的考察だけにとどまっているような“批判的経営学”であってはならないということは,いまさらいうまでもない48)

 B 三戸 公は,法則的傾向の科学的分析の意味を十分に理解していないのではないか49)

   C かの中西寅雄は,『経営経済学』における当初の科学的見地は,やがて1936年の『経営費用論』(千倉書房)などを経て放棄されるようになり,戦後はついに,日本金融寡頭制支配の労資協調的な補強機関である日本生産性本部の研究所長に納まるまでにいたった。

 その意味おいて,中西寅雄の学説を論ずるばあいに,ただその原初的見解を文献的に問題にするだけではなく,その後の展開(転態)や,中西の直接的な指導をうけた“継承者”たちの動向などもあわせて,全体的・歴史的に考察するという視点が要求される50)

 この第6章における角谷の論及は,中西寅雄の「マルクス主義的経営経済学の開拓者的役割が大きかったがゆえに,その後のコペルニクス的転回は,今なお多くの後進研究者たちに複雑な感慨を抱かせる苦い教訓を与えているのである。

 その転向は,同氏の理論そのものの科学性と階級性,さらには学問的姿勢,個人の生き方の問題などに深くかかわっていたのではないだろうかと思われる」と把握するとともに,「三戸 公氏牛尾真造氏などの発言と行動は,多分に異常な事態のなかで突出した表明であったように思われる」とも解釈するのであった51)

 −−筆者がすでに他稿で詳論した問題点だが52),ここでは,さらに新しい議論をくわえて反論したい。

 とくに,中西寅雄「経営経済学説」に対する角谷登志雄の理解は,中西『経営経済学』1931〔昭和6〕年の成立事情を,「同氏の理論そのものの科学性と階級性,さらには学問的姿勢,個人の生き方の問題などに深くかかわっていた」点を,自説:「科学的経営学」の立場だけに強く引きつけ,解釈したものである。

 角谷の解釈は,中西寅雄の理論そのものに特有の「科学性と階級性,さらには学問的姿勢,個人の生き方の問題」に即しておこなわれていない。それは,わかりやすい表現でいえば,自身の思想・立場に我田引水した,単なる外在的・超越的な批判である。

   昭和初期は,左翼運動に対する全面的弾圧が行われた時代であると同時に,知的世界におけるマルクス主義の影響力が圧倒的だった時代でもある。マルクス主義理論の前提を全く共有しえない者であっても,その文献をひもといた経験があり,その諸概念を知的常識の一部として備えておき,場面によっては自ら使用するくらいのことは,当時の知識人にとってごく普通のことだった53)

   吾々〔小泉信三〕の時代の者でマルクシズムから学ばぬものは無かったといって好い54)

   角谷もみずから,「“中西個別資本説引用の原初形態を文献的に問題にするだけでなく,……その後の展開(転態)をもあわせて全体的に考察することが大切であると思われる」55)と語っていた。にもかかわらず,思想面‐理論面において単純に,中西寅雄学説が変節〔転向!〕したかのように〈曲解〉するようでは,まともな学史的解明をおこなうことはできない。

 最低限,「中西教授の理論的私経済学のそもそもの特色」は,「けっして根底からマルクス経済学の展開を意図したものではなく,むしろ広くドイツ経営経済学の問題意識をマルクス経済学でもって基礎づけんと意図したものであった点」(吉田和夫)56)だけは,理解しておくべきだった。

 参考までに,経済学分野におけるある文献を出し,関連する議論をしたい。

 中西寅雄『経営経済学』が刊行された昭和6〔1931〕年に,住谷悦治『経済学史の基礎概念−唯物史観経済学史−』(改造社)が公刊されている。本書は,住谷悦治『唯物史観より見たる経済学史』(弘文堂書房)大正15〔1926〕年の訂正・増補版である。

 住谷はこの2著において,マルクス経済学に関する論述を冒頭におき,「唯物史観より見たる経済学史」を論究,結論部でこう確言していた。

 ◎『唯物史観より見たる経済学史』大正15年の結論部……「吾々は今,謂ゆる資本家的経済学説の大要並びにその綜括的批判を終へた。そしてそれ等の学説の凡てが,資本家的社会生産関係の歴史的発達過程における必然的反映であり,従ってそれは資本制度の運命と共に終結すべきものであることを宣告した」57)

 ◎『経済学史の基礎概念』昭和6年の結論部……「我々は,いま,謂ゆるブルジョア経済学の大要ならびに,その批判を終へた。そして,それらの学説がのすべてが資本主義的生産諸関係の歴史的発達過程における必然的反映であり,従ってそれは,ブルジョア・イデオロギイとしての特質を有してをり,それは,やがて資本主義的生産諸関係が,より高度の生産諸関係(意識的計画的なもの)への止揚とともに結局消滅すべきものであることを推論した」58)

 住谷悦治は,「唯物史観より見たる経済学史」の「基礎概念:学説」の検討をとおして,社会主義‐共産主義体制の到来を推論,確信したのである。

 しかし,住谷『経済学史の基礎概念−唯物史観経済学史−』昭和年は,『唯物史観より見たる経済学史』大正15年の訂正・増補版として公刊するに当たって,「唯物史観」ということばをその主題よりとり,副題のほうに落としていた。しかも,その副題「唯物史観経済学史」は,同書装訂の中表紙だけに印刷されているだけで,表紙や背文字,そして奥付にも印刷されていない。なぜなのだろうか。

 それについては,昭和初期〔ヒト桁時代〕以降,旧日本帝国が学問‐思想‐言論にくわえてきた弾圧の歴史を思いおこせばよい。

 大正14〔1925〕年5月,治安維持法が施行された。事後,社会主義‐共産主義思想とその活動に対する国家の弾圧は,いっそう苛酷なものになっていった。住谷『経済学史の基礎概念』は昭和6年5月に発行され,そうした時代状況のなかにあっても,昭和8年5月まで2年間に20刷を重ねた〔筆者所蔵の同書奥付による〕

 とはいえ,中西寅雄「経営経済学説」をめぐる学史的な論点を,以上のごとき時代背景の強い圧迫感,閉塞的状況に短絡させるのは,予断的な決めつけ,読みこみすぎである。

 中西の『経営経済学』マルクス『資本論』を活用した個別資本〔運動〕説を提唱したさい,住谷悦治のように資本主義の止揚・消滅というマルクスの革命思想も直接とりあげたのではなく,「資本家的生産諸関係」において,資本主義の運動法則を客観的に把握することを意図したのである。

 中西はその意味で,こう主張した59)

    「経営経済学は経済学であって其他の学であってはならぬ」。

  「私はマルクス主義経済学に従って,それは資本家的生産諸関係を研究対象とする科学であると解する」。

  「経営経済学は,個別的資本の価値増殖過程を研究する私経済学又は企業経済学である」。

 「企業を対象とする理論的経営経済学(より厳密には私経済学)は社会経済学の1分科であり,相対的独自性を有つと同時に,社会経済学に包摂される限りに於て,絶対的独立性を拒否される」。

   中西はこのように,「マルクス主義」ではなく,その「経済学」にしたがいこの枠組のなかで,私経済学または企業経済学としての「経営経済学」を構想したといえる。

  中西寅雄「経営経済学説」の理解にさいしては,まず時代の背景を深読みしないこと,つぎに思想‐イデオロギー的にやたら引きつける解釈をしないことである。

 中西が「マルクス主義経済学にしたがって」「経営経済学は経済学;私経済学・企業経済学」だといっても,角谷登志雄と同じに,「一貫したマルクス=レーニン主義的方法」にもとづく「弁証法的唯物論−史的唯物論−政治経済学−(部門経済学)−企業〔経営〕経済学”」という教条に即して,経営経済学の「理論」そのものを提唱したのではない。

 中西「経営経済学」説の「批判」として聞くべき理解,いいかえれば,政治経済学と経営経済学の両研究対象の関連づけに関する分析的考察は,淺野 敞が与えたものがより的確である。

   「個別資本」(individuelles Kapital, Einzelkapital)と「社会総資本」(gesellschaftliches Gesamtkapital)との関係は,「部分」(Teile)と「全体」(Ganze)との関係ではなく,正に,「個別」(Individuelle, Einzelne)と「総体」(Gesamte)との関係なのである。

   中西教授の誤った規定は,……マルクスは,個別資本およびその考察の,社会総資本およびその部分の考察に対する独自性を論じているにもかかわらず,中西教授は,その反対に,社会総資本の個別資本に対する独自性を論じておられることにもとづく。その結果,中西教授は,個別資本を社会総資本の「部分」に解消してしまわれたのである。

   しかし,中西教授の規定に関しては,単に個別資本の「個別性」の規定が欠落している点を指摘するだけでは足りない。実は,中西教授の理論における「部分」と「全体」の規定そのものの欠陥が,正に,個別資本の「個別性」の規定の欠落と密接に関連しているからである60)

 中西『経営費用論』昭和11年を,経営経済学に対する経営技術学として展開した。本書の性格を理解するに当たっては,大内兵衛『経済学』(岩波書店,1951年)がその根拠に触れる記述をおこなっている。これに聞いておきたい61)

 ◎ 経 済 学……これは,社会を解剖してその生理,その病理を明らかにしようとする社会科学である。しかも,その社会的人間関係をその生活物資に関する面の現象において研究するものである。社会に関する学問には,つぎの経営学のような,なお多くの分科がある。

 ◎ 経 営 学……これは,もっと広い意味における経済学のひとつであり,固有の経済学の知識を技術に応用し,実用に供する技術学である。すなわち,一定の目的を前提する点で技術であって,学ではない。家政学・会計学・財政学などもこれである

   ほかにまた,国家またその政治の原則を前提して,経済に関する政策を論ずる経済政策学があり,これも政治的な技術学であり,経済学からいえばその応用である。

 大内兵衛はかつて中西の同僚であったが,この経済学と経営学との関係づけに関する考えかたは,両者において完全に同じである。両名は,経営学(経営経済学)を理論的に構想する発想そのものにおいて消極的・否定的なのであり,技術学(技術論)に制限せざるをえない立場をしめしていた。

 ただし,大内が終始,マルクス主義経済学の思想‐立場に立っていたからといって,中西もそれと同じだったのではない。

 ところが,日本のマルクス主義経営学陣営に属する識者においてはその事実が一方的に誤解され,中西『経営経済学』昭和6(1931)年→『経営費用論』昭和11(1936)年において生じたと「解釈された〈転向〉」の問題が,激越な批難の対象になった。

 しかし,中西『経営経済学』昭和年は,とくに第1章「経営経済学の本質」をよく読めばわかることだが,もともと,角谷〔など〕のマルキスト経営学者の抱く思想・イデオロギーを支持する中身は,なにも提示していない。それゆえ,中西『経営費用論』昭和11年への理論的な軌跡をとらえた修辞,中西学説の〔コペルニクス的〕「転向」とは,完全に的はずれであった。

 いうなれば,マルクス主義なる〈教条図式の手鏡〉には映らない「相手‐その理論」などを,押しなべて,「偏倚‐逸脱者であり,離反‐反抗者にすぎないもの」と裁断してやまない「学問的狭量」がめだつのである。もとより,他説・異論に対するそういう「断罪的な理解」が要注意である。

   角谷にいわせると,「科学的経営学」に向けられる「諸批判にたいしても,科学的社会主義の見地から,その不十分さの克服への内在的な努力が続けられている」ということであった。

 しかし,「科学的経営学」の不足・不十分を,「科学的社会主義の見地から」「克服するのだという〈横滑り的解釈〉の適用は,説明にならない説明である。締まりのない〈循環論法〉である。

 つまり,その説明は「必要かつ十分な論拠」を提供するものではない。「社会主義」の思想は科学性に依拠しているから,これにもとづく科学的な「経営学」も科学的だという論法は,その証明力において,独断的な脆弱さを暴露したものである。

   マルクス主義の独断性,非経験性が殆んど抜き難い習性となっている。……換言すれば科学的社会主義を誇号するマルクス主義は,意外にも驚くほど非科学的なのである62)

 「社会主義の科学性」をもって「経営学の科学性」が証明できるのであれば,学問方法の議論において,むずかしい手続や面倒な努力は,いっさい要求されない。

 前者は,必然的・自動的に後者の科学性を証明するのであって,後者の不足・不十分は,前者の学的見地によってただちに克服できるという話である。

 それほど都合のよい,予定調和的な相互関係にあるその両「科学性」に関しては,そもそも,「説明し‐説明される主客」というような「相互間の論理的=客観的な関係」がみいだせない 注)

 角谷はそれでも,こう確信していた。

   それゆえに,科学(社会科学)としての経営学を学習し研究し普及することは,まさに人間としての生き方の問題に直結しているのである63)

  結局,角谷『科学としての経営学』がとなえたのは,経営学者の政治的な行動理念であった。戦争中を想起しつつ彼は,こうも主張していた。

   戦時中に,軍国主義・ファシズムによって,社会主義思想のみならず自由主義・社会民主主義すらも圧伏させられた歴史的事実を忘れてはならない。それをけっして再現させないため,マルクス主義経営学者はもちろんのこと,非マルクス主義的経営学者のなかの良心的・反戦的研究者や反共主義者でない多くの人びとの共同行動が,いま必要となっている64)

 この論点もすでに筆者が批判した対象であるが65),統一戦線方式に自陣営以外の研究者を糾合し,ともに「ことに当たろう」とよびかけるマルクス主義者たちは,つぎの点に答えるべき最低限の義務がある。

 つまり,20世紀における社会主義諸国家の生成‐発展‐崩壊の過程において数多く現象したものとして,そのような「統一戦線共闘方式のよびかけに応じた人士たちの運命」はその後,いかなる経路・命運をたどったかということである。

 「科学的社会主義としての見地」を高唱してきた角谷は,その解答をどのように用意するのか。「科学としての経営学」は現状において,なんら訴求力を有しえない「地に落ちた偶像」にすぎない。

 
  注)内田芳明『ヴェーバーとマルクス−日本社会科学の思想構想−』(岩波書店,昭和47年)は,マルクス『資本論』における物象化論・物象過程論と人間論・意識過程論の問題は,ひとつの解きがたい循環論のうえに立っている,と指摘する。

 

   唯物論と唯物史観に立脚する以上,人間の行動を動かす意識も思想も物質的なるものの反映である。しかし他方では,ヴェーバー的意味での近代的エートスは,マルクス『資本論』では,「原罪」として決定的なかたちで歴史的前提とされている。このふたつは明らかに,はてしなく循環関係に立つ。だからこそ,この循環関係にしばしば困りはてたマルクスは,ファウストの口をまねていわく,《はじめに事実ありき》と66)

   だから,高島善哉『マルクスとヴェーバー−人間,社会および認識の方法−』(紀伊國屋書店,1975年)は,マルクス主義の公式解釈においては,歴史における偶然性の問題,歴史の現実過程における不確実性の問題などの究明が,かなりおろそかにされてきたと指摘する。そして,マルクスの唯物史観から構想力の論理・創造力の論理を奪い,それを平板で陳腐な「ただもの」論にまで堕落させてしまったのはいったい誰の罪であったのか,とも問うている67)

 


 

V 批判的経営学としての「科学的経営学」
の意味

 

 1) 批判的経営学:「科学的経営学」の変質

 1)−a)  中西寅雄「経営経済学」

 19世紀後半,マルクス主義思想のもとづく社会科学が形成され,20世紀に入ってロシア革命が起こり,この地球上にはじめて社会主義国家体制が誕生した。

 その強大な影響力のもと日本においては,「個別資本〔運動〕説」なる経営経済学が構想され(東京帝国大学経済学部教授,中西寅雄『経営経済学』昭和6〔1931〕年),戦時中の潜伏期を余儀なくされるものの,戦後まで確実に継承されていくマルクス〔主義〕的な経営経済理論的系譜の原典を用意することになった。

 もっとも,中西は『経営経済学』を公表ののち,マルクス経済学的な企業‐経営理論の探究からはなれ,経営技術論的な会計実践への傾注を深めていく。戦時体制期において画期的に発展した日本の原価計算制度に対してはたした中西の貢献は,並々ならないものがある68)

 戦時体制期に原価計算制度の導入・整備に活躍したその「中西寅雄という経営・会計学者」と,『経営経済学』昭和6年を刊行した「経営経済学者中西寅雄」とはどのように解釈されるべきかについて,マルクス主義的経営学者による一歩踏みこんだ分析が与えられていなかった。

 要は,角谷〔など〕は,中西『経営経済学』昭和年から『経営費用論』(千倉書房)昭和11年への学問展開を,しごく簡単に「転向した」と政治イデオロギー史的解釈を添えて即断しただけである。いいかえれば,マルクス主義的な立場からする「高踏的な批判」あるいは「専断的な論難」を,中西学説に向けて放ったにすぎないのである。

 いずれにせよ21世紀の現段階において,マルクス主義〔的〕経営学はその陰影をどこに求めればよいのか,などと問わねばならないほど頼りなくなった。いったい,マル経「経営学」は真実存在していたのかといぶかしがられるほど,いまではその姿が探しにくいのである。往時,隆盛をきわめたあの勇姿は,雲隠れしてしまったのか。それとも,マル経「経営学」は本当は消滅・滅亡に瀕したがゆえに,その息づかいすら感じられないような,斯学界の理論状況になっているのか。

 1)−b)  マル経「経営学全集」

 つぎに列記するマル経陣営の企画・刊行した経営学全集は,角谷『科学としての経営学』も挙げていたものである。

 ◎ 現代経営会計講座−戦後日本の経営会計批判−全4巻,東洋経済新報社,昭和31年。

 ◎ 講座現代経営経済学全5巻,中央経済社,昭和43〜47年。

 ◎ 経営会計全書全24巻,日本評論社,1974〜1986年。

  ◎ 講座経営経済学全10巻,ミネルヴァ書房,1978〜1980年。

 以上,経営学関係の各全集は,その編著者たちに非マル経学者を一部動員せざるをえなかった学界事情があったにせよ,日本のマルクス〔主義〕的経営・会計学者を総動員した研究成果を収録・公表するものであった。

 しかし,1998年より刊行されはじめ,2003年10月現在で未刊の巻を数冊残す「叢書現代経営学全20巻」(ミネルヴァ書房)は,ソ連邦や東欧社会主義諸国の崩壊以後に,日本のマル経学者が企画した経営学全集である。本全集は,第20巻に林 昭・門脇延行・酒井正三郎編著『体制転換と企業・経営』2001年を用意している。

 「叢書現代経営学全20巻」はそもそも,「21世紀を迎えた今,先進国市場の成熟化と途上国市場の拡大,ソ連・東欧体制の崩壊と中国の解放経済体制化を背景とする国際競争の一層の激化,通商摩擦や規制緩和の動き,さらに南北諸国間の経済格差と地球環境問題の深刻化など,世界の社会・経済は大きく変貌しつつあり,日本の産業・企業もその盛衰にかかわる構造的な変化に直面しています」69)という時代認識のもとに,企画・刊行された全集である。

 むろん,「叢書現代経営学全20巻」そのものがマル経系列の経営学者を中心に動員して製作されている全集であり,第20巻『体制転換と企業・経営』2001年の編著者は,林 昭・門脇延行・酒井正三郎であった。本書の意図はなにか。

    1989年11月ベルリンの壁が崩壊し,以後旧ソ連・東欧諸国の社会主義体制が音を立てて崩れ始めたが,それからすでに約11年の年月が過ぎた。旧ソ連・東欧以外の社会主義諸国,中国,ベトナム,キューバの諸国にも少なくとも従来型の計画経済体制の変革といった体制転換の波が押し寄せた。これらの国々の体制転換は,各国で段階的な相違はあるものの11年後の現在おおよそ次のようなタイプに分かれつつあるように思われる。

    −−社会主義体制を基本的には維持しつつ,計画経済から市場経済への転換を図ろうとしている国々−中国,ベトナム,キューバ。

    −−旧社会主義体制の崩壊を前提として,資本主義体制の構築を進めるなかで,市場経済化を進めようとしている国々−旧ソ連各国,東欧諸国70)

 林 昭の執筆,同書の序章「『社会主義企業制度』改革の限界と崩壊の過程−ソ連型社会主義制度の強制移植とその結果−」は,第2次世界大戦後の旧社会主義諸国でおこなわれてきた経済改革と,そのなかでの企業制度改革の特徴を振りかえり,その改革がつねに挫折せざるをえなかった原因を考察する。そして,その根本原因は,旧ソ連の覇権主義であったことを明らかにする71)

 ここまで聞けばもう十分である。とりあえず一方的な批判になるが,こういっておく。

 日本の「科学的経営学」の立脚点に立ちマルクス主義経営学を推進してきた経営学者は,実のところ,みずからの学問内部にもはびこっていたはずの「覇権主義の改革」に,真正にとりくんでこなかった。それゆえ,「理論上の〈挫折〉」をすこしも〔!?〕味わうこともなく,「自己の学問的基盤を崩壊させる」に任せてきた。

 1)−c)「科学としての経営学」の変質

 角谷登志雄〔ら〕は以前,「科学としての経営学」の絶対的な確信性を披露しつつ,斯学界を睥睨するかのような学的姿勢をひけらかせ,「マルクス主義経済科学」の高地制圧的な,完全にも近いような有利性・優位性を享有・誇示してきた

 そのさい,その思想的=科学的,学問的=理論的な根拠に挙げられたものは,「旧ソ連主義企業がかかえていた経済効果の低さとその原因を考察し,民営化された新しい企業がそれを克服しなければならないと同時に,新しいコーポレートガバナンスの構築を計らなければならないことが指摘される。そのなかから新しい民主主義的企業経営はどうあるべきなのかについて問題提起がなされている」72)といったような,謙虚で控えめなものではなかったのである。

 すなわち,『科学としての経営学』は本来,「科学的社会主義の企業経営理論,科学としての経営学のみが,独占的大企業を,そして多くの資本主義企業を,労働するすべての国民に奉仕する社会的な公器に転化させる〔社会主義革命!〕ための正しい方途と態様を明らかにしてくれる73),と喝破していた。

 これは,角谷が多くの著作のなかに書いてきた,もっとも基本的な主唱である

 いいかえれば,その「科学としての経営学」が「科学的社会主義革命への企業経営理論たりうる」絶対的な根拠を提供しえたのは,「旧ソ連・東欧諸国の現実:実際であり,理想:模範でもあるこれらの社会主義体制」という存在が,問答無用に〈正義:基準〉に定座されえたからであった。

 角谷『科学としての経営学』は1979年の刊行であるが,1980年代に入って執筆された諸著作をひもとくと,社会主義諸国も現実に,さまざまな問題や矛盾を抱えていることが認知されるようになっていた。

 たとえば,角谷登志雄『戦後日本の企業経営−「日本的経営」とその転機−』(中央経済社,昭和58〔1983〕年)は,「社会主義国の企業経営の現状にたいする関心と憂慮があるということを付記しておく」と断わっていた74)

 また,角谷登志雄『現代の組織と管理−企業と個人の基本問題−』同文舘,昭和61〔1986〕年)は,こう断わっていた。

 「科学的経営学は,科学的社会主義の先達の所説によって,その礎石がすえられたことは周知のとおりである。……その当時にくらべて,資本主義経済はきわめて高度に発展している。したがって,今日においては,資本主義企業・経営の現状,および社会主義企業・経営の歴史的経験についての客観的分析のうえに,その創造的かつ自主的な理論の体系化を積極的に進めることが,その発展にとってぜひとも必要なことであると思われる」75)

  −−角谷の見解はこのように,いつのまにか,なしくずし的に変化してきている。

 なぜなら,科学的経営学がかつて,「客観的分析のうえに,その創造的かつ自主的な理論の体系化を積極的に進めること」ができると確信・主張したわけは,「社会主義国の企業経営の現状にたいする関心と憂慮があるということ」の可能性を,当初から念頭におく必要性すら感ぜず,完璧に排除できたからである

 「科学的経営学」なるものは,社会主義国の企業経営が資本主義国のそれに対して絶対的に優越し凌駕することを踏まえてきた。すなわち,「資本主義生産関係の内部において生産力が発展し得ざるに至るならば,人類は生産力の充全に発展しうる生産関係を求めるに至るは当然である」76)と考えていた。しかし,「科学的経営学」はその後,その根拠が根幹より揺らぎ,回避できない疑問や不信に直面している。

 それにもめげず,こんど〔1980年代に〕は,その「科学的経営学」の見地にみられた一定の変更〔転向?〕に関して明確な断わりもないまま,「科学的経営学の基本的視点に立ち」,「二つの領域としての企業経済学志向と経営管理学的志向との統一」というべき「志向と方法を具体化する」77)ことができる,というふうに様がわりした。

 けれども,そのように〈微分的に調整してきた〉「科学的経営学」の立場は,いつのまにやら,その原点にあったはずの「社会主義的絶対理念」を否定する〈積分的結末〉を出来させていた。だが,角谷〔ら〕はその重大な変質に無頓着であったか,あるいは故意に無視したのである。結局,「科学としての経営学」に固有だった本来的な出立点は,ないがしろにされたことになる。

 1)−d) 科学的経営学の転回

 角谷登志雄『労働と管理の経済理論』(青木書店,1969年)は,こういっていた。

   “弁証法的唯物論‐史的唯物論‐政治経済学‐部門経済学‐企業(経営)経済学という一貫したマルクス=レーニン主義の方法と理論にもとづいて,資本主義企業における労働と管理との関連を資本=賃労働関係の具体的形態の一つとして把握し,その本質を経済学的に明らかにすることによって,労働者階級の革命的実践に寄与するため,労資協調論批判の理論的基礎づけをめざしたものである。

 とくに,資本主義企業における労働と管理の基本問題としての敵対的矛盾関係を基礎にすえ,その本質関係が両者の同一視という転倒的関係として現われるところのからくりの解明とそれを修飾し糊塗する諸見解の批判に重点をおいたのである78)

 角谷登志雄『現代帝国主義と企業』(汐文社,1973年)は,こういっていた。

   現代における資本主義企業,とくに独占企業を科学的経済学の立場から分析したものである。

 すなわち,資本主義社会の生成・発展および消滅を根本的に規定する「資本主義の基本矛盾」および「資本主義の副次的矛盾」との関連において,資本主義企業の歴史的な生成・発展および消滅(社会主義企業への改造・転化)を統一的に把握するとともに,独占企業,その現代的形態としての「多国籍企業」,国家企業等の行動と諸特性の分析をつうじて,現代帝国主義の本質の解明を試みたのである79)

   1970年代まで角谷「科学的経営学(経済学)の立場」はこのように,資本主義企業体制を社会主義企業体制に変革することを最高の使命とする学問であった。そこでは,社会主義企業体制は到達目標そのものであり,夢にまでみた桃源郷でもあった

 ところが,1980年代より無視できなくなった「ソ連・東欧体制の不振‐崩壊と中国の解放経済体制化を背景とする」世界政治経済地図の激変をうけて,「社会主義国の企業経営の現状に対する関心と憂慮が」発生した。結局,その根本原因だった旧ソ連の覇権主義を指摘しないわけにはいかなくなった。

 角谷登志雄『経営学入門』(青木書店,1984年)を改訂した『現代経営学』(青木書店,1995年)は,1970年代まで厳密に規定されてきた「科学的経営学」「科学としての経営学」の思想的な立場を,ほとんど感じさせない著作である。

 角谷登志雄『現代の組織と管理−企業と個人の基本問題−』昭和61年は,「技術論的偏向におちいることなく,真の科学的経営学を確立し発展させるためには」,つぎのような「経営学の視点」を構える必要がある,と述べるにいたった。

   経営学(広義)における二つの領域としての企業経済学志向と経営管理学的志向との統一,ないし企業論的研究と経営論(管理論)的研究,いわば構造と機能との双方についての分析を統合すること,そして素材的側面とその資本主義形態的側面との弁証法的統一=運動として把握することによってのみ可能となるであろう80)

 1986年時点で角谷がしめしたこの「経営学の視点」はたとえば,かつて「左翼観念的傾向の経営学者」あるいは「小ブルジョア的急進主義ないしトロツキズムへの同調者」だと,みずから激越なる非難をくわえていた経営学者の1人,牛尾真造の〔その後における〕「経営学の視点」とほぼ同じものである。

 参考までに,牛尾のそれをもう一度引照しておく。

   「利潤獲得のために商品やサービスの生産し・配給する営利的な経済的集団,すなわち資本主義的企業の経営的構造とその機能過程を分析することによって,企業体の経営法則を正しくとらえようとする一つの社会科学である」。あるいは,そうした「正しい分析方法のもとにこの複雑な経営的現実を起動する巨大な資本主義的企業の運動法則を析出し,その発展の方向を展望することを任務とする実証科学であり,現実科学である」81)

 1)−e)「個別資本説」の意義〔その1〕

 松本 讓『現代経営学の基礎』(文眞堂,1997年)は,「現代経営学の基本問題」を,こう論及していた。文章各末尾〔  〕内は,松本同書に転載された原文論稿の初出年月である。

   企業経営の客観的認識は批判的認識なしには成立しえないのであり,ここに,「ブルジョア経営学」の批判としての批判経営学の確立の基盤が見出される……。そうであるならば,「ブルジョア経営学」の批判は,企業経営の客観的認識のための科学的批判でなければならず,それは「ブルジョア経営学」の単なる排撃ではなく,その研究方法および理論構成のみならず,基礎的範疇や概念などの誤り,その限界のよって来る根拠を具体的に明らかにしつつ,その科学性を徹底することであると解される〔1970年2月〕

   個別資本の具体的把握としての企業経営の実在的認識においては,概念および次元が問題となるが,そこでは存在の具体的様式,運動形態として,企業経営の構造と機能とを弁証法的に把握しなければならない。つぎに,経営技術ないし管理技術については,経営技術,管理技術および生産技術の概念を明らかにし,管理技術と生産技術の差異性と同一性を明らかにするとともに,それらを企業経営の具体的な場に,目的論的関連を因果論的関連の立体的なからみ合いにおいて位置づけられなければならない。

   経営実践の立場からは,それが,たとえ主観的なものであるにしろ,目的‐手段の目的論的関連をたどることが極めて重要であり,事実,経営技術論ないし経営管理論がかかる目的論的関連を拠点にして成立しているからである。したがって,因果論的関連と目的論的関連との立体的統一についての論理的操作が必要になるのである。

   かくして,目的に対する手段の適合性の検討を中心とする技術的批判と,その経済的意義と限界との解明に重点をおく科学的批判の弁証法的統一として,経営技術ないし管理技術の内在的批判が可能になるのである〔1967年4月〕82)

   以上,批判経営学における「個別資本問題のとりあつかいかた」に関する松本の見解は,1967年・1970年のものであり,先述の牛尾真造の見解は,1965年・1970年のものであった。

 角谷はこのように,1970年まですでに提起されていた「個別資本説」理解を,しかも「トロツキズムの影響をうけた極〈左〉的経営(経営経済)学」だといって,みずからの手で断罪,排斥していた経営学者牛尾真造の〔その後における〕見解とほぼ共通するそれを,1986年になって提示していた。

 それにしても不可解なのは,角谷が「トロツキスト」と非難した相手,牛尾真造のものと同じ「経営学の視点」を講釈するにいたった点である。政治経済学に対する経営〔経済〕学の独自性を積極的に認め,本質論・方法論でもその方向性において個別資本〔運動〕説などの見解を披露する経営学者に対しては,「企業の絶対的自立性を主張するならば,やはり,かの一部の個別資本説と同様に誤りとなる」83)と警告していたにもかかわらず,である。

 しかし,その警告「一部の個別資本説と同様に誤りとなる」ことは,1986年になって角谷自身のしめしていた「経営学の視点」にも適用されるものである。角谷が他者・異説に向けて放った批判の矢は,自分にももどってきたわけである。もちろん,この指摘は1970年代までにおける角谷の見解にこだわっていうものである。

 松本 讓は自説を,こう要約していた。

 「現代経営学」は,現代の「企業経営」を研究対象とする実践科学〔問題解決的指向性〕であり,「批判経営学」は,その主要な理論科学〔法則追求的指向性〕的基礎を,マルクス経済学の企業理論〔ゥ個別資本説〕に求めるということを提唱している84)

 松本角谷では,「批判(的)経営学」という見地の理解において相違がある。しかし,1986年における角谷の見解によれば,両者のあいだに相違は生じない。かつて,角谷は松本のような見解を批判し排除することに執拗であった。しかし,現在ではその面影がまったくない。

 1)−f) 「個別資本説」の意義〔その2〕

 松本はまた,上林貞治郎の経営経済学の位置づけ,すなわち「弁証法的唯物論‐史的唯物論‐政治経済学‐部門経済学‐経営経済学(企業経済学)という関連」のなかで,企業経済学説に対しては〔当然,角谷登志雄にも妥当する〕,こういう批判をしめしていた。

   経済学としての純化を強調するあまり,企業経営の独自性ないし「経営学」固有の特殊領域を脱落させてしまうという重大な問題をはらむものといわねばならない。しかし,かかる論拠には,個別資本説が,個別資本を形式・内容ともに,社会総資本の一部,一環として全面的規定性において研究せず,個別資本を孤立資本の立場から考察しているという警告が含まれている〔1970年2月〕85)

 以上で後部の記述については,個別資本〔運動〕説のなかで適宜,その「批判・問題」点が受容されつつ,批判的経営学全体の潮流が形成されてきたことに留意しておきたい。そして,前部の記述,つまり角谷登志雄〔など〕の経営経済学の立場がかかえてきた「経営学固有の特殊領域を脱落させる」という「重大な問題」は,角谷〔など〕が自説の立場を順次変質させることによって,適宜克服してきたものといえる。

 したがって,角谷が過去に,「客観的にみて,今日まで,資本主義国で,資本家的経営学に並立して科学的経営学が一定の量と質において発展しているのは日本だけである」86)と概観したものは,現在ではこういうふうに解釈しなおさねばならない。すなわち,角谷上林「企業経済学説」は,漸次消滅しつつ「個別資本説」に吸収されていった,と。

 角谷にあっては,その間における自説の展開〔変質そして転回!〕に関する,いいわけがないわけではない。

 たとえば,角谷『現代の組織と管理』昭和61年は,以前の「それらの多くの内容は,はなはだ不十分であり不満足なものである。それは,当時の研究と執筆におけるきびしい諸条件や環境に大きく規定され,とくに理不尽な干渉にゆがめられたことであった」と釈明していた87)

 だが,この記述は,上部構造である社会的意識諸形態に属しているのが「科学的経営学」の特性だと認識する,唯物史観に立っていたマル経学者の弁明にしては,あまりにもお粗末なものである。

 要するに,過去において自分の学問に不全性があったとすればそれは,上部構造=「経営学者角谷登志雄の意識形態」にあったのではなく,これを基底において疎外・妨害していた下部構造=土台:「当時をかこむ時代の制約」のせいだというのである。自分の理論が歴史的に記録した不十分・不満足を発生させた,その「正しい真の」「原因は,他所・外部にあり」といいたいのである

 この理解でいくと,かつて角谷が苛酷な批判を浴びせてやまなかった相手,すなわち,ブルジョア学者やトロツキストたちが迷いこんだという錯綜=藪のなかに,彼も入っていったかのように映るのである。追い打ちをかけていうならば,角谷は,上部構造と土台との肝心な関連性をもっともよく理解する学者ではなかったかと再問したい。

 1)−g) 「企業経済学説」の時代区分

 ここで整理しておきたいことがある。それは,角谷登志雄〔および上林貞治郎〕流「企業経済学説」が変質していったその性格を,腑分けするための時代的区分である。

 ◎ 1970年代まで「絶対確信期」 ……『批判的経営学,科学的経営学・科学としての経営学』を絶対的に確信していた。

 ◎ 1980年代での「動揺混迷期」 ……『同上』が相当揺らいでいた。

 ◎ 1990年代以降「崩壊消滅期」 ……『同上』が崩壊しそれに触れなくなった。

 仲田正機・夏目啓二編著『企業経営変革の新世紀』(同文舘,平成14年)は,仲田正機の還暦を記念して公刊された書物であるが,「私たちの立場は,企業経営を社会的に捉える立場である」と,「はしがき」で断わっていた88)

 正統派マルクス主義的経営学の立場に立つ経営学者は,1980年代ににおいて,角谷登志雄流の「科学的経営学」の学問的思想に執着しなくなった。マルクス,レーニン,スターリンなどから,思想的にはほとんど乳ばなれをしたといえる。問題はその後における進路であった。

 角谷登志雄編『マルクス主義経営学論争』(有斐閣,昭和52〔1977〕年)はまだ,

 
「馬場氏などの見解における賃労働(階級闘争)および歴史的発展(資本主義の根本矛盾の激化)からの切断,いいかえれば『個別資本』の抽離的考察の誤りとそれがもたらす階級的分析の稀薄さなどは」,「政治経済学との区別づけを急ぐあまり,結果的にそれとの関連・共通性を軽視し,かえってその矮小化をもたらすという誤りをおかした」,

と断定していた89)

 しかしながら,この個別資本説に対する批判は,角谷登志雄「科学的経営学」じたいの変転をとおして,自身の主張にも逆流するものとなった。

 角谷流「企業経済学説」は結局,松本 讓などが1960年代後半より提唱していた「現代経営学の基礎」論である「個別資本説」,あるいは,教条的・図式的に苛酷な批判をくわえていた牛尾真造の「経営学の視点」のほうに帰着したのである。

 いいかえれば,いまや角谷登志雄〔など〕の「企業経済学説」は,松本や牛尾〔ら〕の基本的立場に吸収され,解消したのである。

 1)−h) 小  括

 堤 矩之「批判的経営学研究の方法」(雑誌『経済』1975年6月)は,中西寅雄,牛尾真造,馬場克三の「個別資本運動説」に対して「批判的経営学の方法論争の反省」をくわえたのち,こう述べた90)

 ◎ 個別資本の運動を社会的総資本の運動,すなわち,社会経済法則から切りはなして企業内的に分析するという誤りをおかすことになった。

  個別資本は,社会的総資本の運動法則の作用のもとでとらえられねばならないとともに,社会的総資本と対比したときにこそ異なった特徴をよくしめし,経営学の研究対象を呈示するのである。

 こうした資本主義経済問題の理解は,マル経と近経の立場を問わず,あまりに当然のものというべきである。

 
@ 国民経済‐全体経済から遊離‐独立した個別経済としての個別資本〔つまり会社資本〕は,ありえない。

 
A 社会的総資本を,個々別々にだが各産業部門を介して具体的に,そして有機的・立体的に構成するのが「経営学の研究対象」である個別資本である。

 

  2) 若干の思想史的分析

  2)−a) マルキシズムの意味

   角谷登志雄は前段で,こう断言していた。「科学(社会科学)としての経営学を学習し研究し普及することは,まさに人間としての生き方の問題に直結している」91)

 あるいは,こうもいっていた。「マルクス主義経営経済学研究にあっては,ただ『資本論』などについての皮相的知識,その解釈的適用にとどまってはならず,哲学的・世界観的にマルクス主義が深められなければならない」92)

 前項まで指摘した角谷登志雄「科学的経営学」における一定の変身はまさしく,そのような問題意識をもって再考されねばならない。

 河合栄治郎『マルキシズムとは何か』(社会思想研究会出版部,昭和35年)は,日本における哲学・思想史の実情を,こう解説した。

   マルキシズムが出て来ない前に,日本にこれと対立するような一つの体系が出来ていたか。これと対応するどころではない,これに一部分でも比敵するものが日本の社会には一つもなかった。だからマルキシズムの侵入は空家侵入で,何もない空家に入って来て座り込んだということだと思う93)

 中西寅雄「経営経済学説」の登壇は,河合栄治郎が叙述するような思想史的背景のなかで生起した「日本における経営学史的な事象」であった。再言すれば,大正後期‐昭和初期は「知的世界におけるマルクス主義の影響が圧倒的だった時代でもある」。

   大正時代に知識人の間に急速に浸透したデモクラシーの思想は,ロシア革命の衝撃からマルクス主義への傾斜を深め,マルクス主義の世界像が当時のわが国社会を理解するのにきわめてぴったりしたものであったこともあって,多くのとくに若い知識人がデモクラットから社会主義者へと思想的変化を経験していったのである94)

   大正年代のはじめ,東京と京都の最も有力な経済学者〔福田徳三,河上 肇〕がともにマルクス主義の経済理論に深い注意を払い,これに傾倒するものさえ出るに至ったということは,マルクス主義流行の大きい原因となるに十分であった。大正8年をすぎると,わが国社会主義思想の中心はマルクス主義となった95)

 本稿Uの 注43)で挙げた中西学説関係の拙稿は,こういう指摘をした。

 角谷などは,中西「経営経済学説」の解明に当たって,時代的背景を適切・十全に配慮する経営学説史研究をおこなわなかった。そのため,終始一貫する「マルクス経済学者ではなかった中西寅雄」を,「自分たち〔マルキシズムの立場〕と同じ思想・イデオロギーの持ち主だった」と勝手に決めつけたり,実際に中西の保持していた思想的な本性を捕捉できないまま,戦時体制期を迎えて中西が〔コペルニクス的に?〕「転向」したと闇雲に非難したりもした。

 はたして,政治的な立場や世界観を異にする者は,共通の学問的意義を探究,発見し,理解することができない,とでもいうのか96)

   共産主義者は,自己の理論に反対するものはすべて資本主義の代弁者であると断定するが,味方か,しからずんば敵であるという軍人的精神は,学問的精神とは相いれないものである97)

 角谷などに顕著であった武断的な批評の流儀,「修正主義批判の立脚点」は,教条護持の傾向をしめしていた。すくなくとも学問の世界では,ドグマ主義は有害無益である。学問上の理論は,たとえ一般に真理とみなされているものでも,絶対の支持が要求されているわけではなく,ただ相対的に高度な信頼度をもつものとされているにすぎない。その信頼度はつねに修正を予想している。

 したがって,学問というものは,本源的に広義の修正主義の立場の上になりたっている。ことばの本来の意味にしたがえば,ドグマ主義と修正主義の対立は,思想の分野における信仰と科学の対立を意味している98)

 −−ここで,中西寅雄という経営学者の軌跡を,若干観察しておく余地がある。

 昭和14〔1939〕年1月28日,東京帝国大学経済学部の歴史に登場する有力教授,自由主義者の河合栄治郎は,「平賀粛学」によって休職処分をうける。この河合栄治郎の関連で,大内兵衛『経済学五十年上』(東京大学出版会,1970年)は,こう関説していた。

   河合君に恩顧をうけていた本位田,田辺,荒木(光太郎),山田(文雄),中西の諸君はどういう風に進退したのか,ぼくには少しもわからぬ99)

 中西寅雄の人物評を真正面より十分に論及する材料がみつけにくいが,向坂逸郎『わが資本論』(新潮社,昭和47年)は,中西が同僚たちに対して親切な人間であった事実に,こう言及していた。

   マルクスやエンゲルスが書いた新聞や雑誌も,完全にそろったのはない。私にもない。本を買うにあたって,好意を見せてくれた友人は多い。中西寅雄君は,とくに私の蔵書を集めるのに好意を示してくれた100)

 第1次大戦後のドイツに日本から留学した経済学者たちは,ドイツ・マルクの天文学的インフレの影響で入手しやすくなった経済学関係の文献収集に,手もちの予算・経費を最大‐有効につかうことができた。そのなかでも,中西の努力は刮目すべきであった。

 向坂逸郎の前段言及に関係させると,竹内 洋『大学という病−東大紛擾と教授群像−』(中央公論新社,2001年)は,中西の性格に関して「派閥遍歴」を指摘しつつ,こう述べている。

 中西の専門は経営経済学だったが,マルクス主義の影響を強く受けていた。だから,はじめは少数派に属していたが,しだいに,河合に接近する。しかし,河合が学部長を辞任してからは,河合派を離脱し,土方派に転ずる。振幅の大きい教授だった。中西の動きをみると少数派にいたとき以外は学部の中心派閥に属している。だから,機をみるに敏な鵺のような人物像が浮かぶかもしれない。しかし実のところはまったく反対である。

   中西は話に熱中すると,吸いかけていた煙草をよく消さないで洋服のポケットに入れて,ポケットから煙が出てしまうというほどのいわゆる「アブセント・マインデッド・プロフェッサー」(考え事に熱中して他の事をすっかり放念する教授の意)の典型だった。学問が好きな愛すべき誠実な教授だったが,とても気が弱いハムレット教授だった。ハムレットだからこそ,ひとつの派閥で筋をとおせなかったのである。慢性派閥病の経済学部の中で苦悩し,階段でたたずんでいたことも一再ならずの逸話が残っている101)

   こうした性格の持ち主だった中西寅雄の学問展開を批判し,中途において生起したという理論「転向」を指弾する理解は,筋ちがいの感さえある。批判的経営学〔マルクス主義経営学〕を正統的に伝承する経営経済学たちは,中西寅雄の描いた理論的形跡をおおげさに拡大解釈する傾向をしめしていた。

 結局,東京大学経済学部の関係者がつぎのように回顧した点を,どのようにうけとめるかの問題である。中西は「マルクス自体を相当読んでいた」,「経営学をマルクスによってやるというひとつの考えをもっていた。非常にそういうところがありました」102)

   当時の社会科学者達には,本人がマルクス主義者であろうとなかろうと,およそ反マルクス主義者でない限りは,社会科学の体系をマルクスの理論を中心に,あるいはそれに強く惹きつけられて考える,ということがほとんど常道のようになっていたのではなかろうか103)

 さて,マルクスの理論は,それじたい矛盾した点をもっている。われわれがなにか一定の理論を主張したり,ものを判断することができるためには,なんらかのロゴス〔論理〕によらねばならない。すなわち,「存在がさきであって論理がその存在のなかにある」という主張そのものは,ひとつのロゴス〔論理〕なのである。そのロゴス〔論理〕は精神とか物質とかというような,「対象」すなわち「客体」ではない。われわれがものを認識したり,考えたりするばあいの道すじである104)

 角谷登志雄〔など〕の「科学的経営学」は,存在を決定的・圧倒的に認識できるというマルクス主義の思念的な優越性を根拠にし,ロゴス:抽象力そのものが「科学としての経営学」における対象や客体を,絶対的に〈正しく真に〉把握できるものだと過信してきた。

 しかし,その過信のなれのはては,自説がまっこうより批判,否定,非難し,ときには糾弾,罵倒,排斥してきた「個別資本説」〔この学説はその後も確実に発展する理論史をたどってきたのである〕に嚥下・消化されたかたちになっていた。

 「科学的経営学」における抽象力の使用法には,十分な注意が必要である。

 2)−b) マルクスの立場

 猪木正道『共産主義の系譜』(角川書店,昭和28〔1953〕年初版)は,いみじくもこう看破した。

   マルクス主義の立場からは,一回生起的な,個人的な人格の尊厳は基礎づけ得ず,人間の自由は永遠の彼方におしやられざるを得ない。共産主義が西欧民主主義の虚偽に対する死の抗議としては大きな真理を蔵しながら,ついにメフィストフェレスと同じくアンチ・テーゼ以上のものであり得ないのはこのためである105)

 マルクス自身は,「余はマルクス主義者ではない」という印象的な,きわめて含蓄に富むことばを吐いていることを,あらためて想起する必要がある106)

 @ マルクスの革命思想は哲学から出発し,哲学に帰着している。

 −−原始マルクス主義は骨の髄まで哲学的であった。いわば,形而上学的範疇である。マルクス主義の独断性,非経験性は,ほとんど抜きがたい習性となっている。換言すれば,科学的社会主義を呼号するマルクス主義は,意外にも驚くほど非科学的なのである。

 A マルクス主義の包蔵する宗教的性格がある。

 −−プロレタリアートの階級闘争は,階級なき社会という地上における神の国を建設するための聖戦である。つまり,「原始共産制→古代奴隷制→中世封建制→近代資本制を経て,最後に世界革命により共産主義の自由の王国へと到達する」というマルクスの史観そのものが,原罪による人類の堕落と,キリストの再臨による最後の審判を説くキリスト教の終末観と霊犀あいつうじるものをふくんでいる。

 マルクス主義の宗教性はある意味で,マルクス主義の強みでさえあるが,その終末観的な歴史意識は史的唯物論の方法とはなはだしく矛盾する結果を招く。

 マルクスは,社会主義の実現には,資本主義的生産関係と矛盾するにいたるほど発達した生産力を,不可欠の条件とすることを主張した。『資本論』が社会主義の主体的,客体的諸条件を徹底的に追求したゆえんである。

 しかし,この科学的社会主義はその現実主義の限界を一歩出れば,マルクスは純然たる空想主義者であり,終末論者であった。

 百年まえに資本主義の没落を予言したことは,ただ天才のみがよくするわざである。

 B マルクスの革命思想において批判されるべきは,マルクスの立場からは人格の尊厳が基礎づけえない点である。

 −−マルクスは,人間を自己疎外の魔術性から解放しようとしながら,かえって物質的生産力やプロレタリアートという集団の魔術性に呪縛してしまった。ここに,マルクス主義がプロレタリアートの独裁の名において,全体主義的な奴隷制を生みだす危険が胚胎する。これは,マルクスが人間を社会関係のなかへと歴史的に解消したことからくる必然の帰結である。

 C マルクスの革命思想から学ぶべき最大のものは,マルクスが人間の自己疎外,ないし物化(Verdinglichung)という現代の根本的病弊に注目し,その根源が生産手段の私有財産制にあることを暴露し,生産手段の社会化によって,人間の自己疎外を揚棄しようとした点である107)

 角谷登志雄「企業経済学説」をささえ,「科学的経営学」をさらに裏づけた「科学的社会主義」思想は,猪木正道の共産主義=社会主義論において,その問題点が明述されている。

 いまとなって,以上に列記されたマルクス批判の意味合いは,わざわざマル経学者たちに突きつけるまでもないものである。しかしながら,猪木が『共産主義の系譜』1953年を公刊してから長いあいだ,本書の内容をすなおに聞く耳をもった正統派マルクス主義者は,存在しなかったといってよいのである注)

 「科学的経営学」は「科学的社会主義」に立脚していた。ところが,猪木も前段に指摘した「科学的社会主義」の限界は,1990年後におけるソ連や東欧の社会主義諸国の崩壊現象をもって,最終的にも確認された。それと同時に,マルクス主義的経営〔経済〕学者たちの「科学としての経営学」も,その理論内容においてかかえる重大な思想史的・哲学史的な欠陥を,基本的に認容せざるをえなくなった。その兆候はすでに1980年代に現出していた。


  注)筆者のしる範囲内での単著は,篠原三郎『現代管理社会論の展望 現代を見る眼−物象化を超えて−』こうち書房,1994年がある。

 

 2)−c)  マルクス主義経営学の混迷

 本来,価値とは哲学的,理念的な命題であるのに対して,価格とは具体的,現実的な命題である。剰余価値利潤についても同様なことがいえる。一方は当為をふくんだ概念であるのに対して,他方は明瞭に事実概念である。

 両者のあいだには,もちろん密接な関連があるけれども,また両者がつねに一致するということはありえない。マルクスは『資本論』執筆の過程で,しらずしてその両者を混用した節がある。彼は,革命的実践の過程でもその誤りを犯し,科学的思想の過程でも同様なことを起こしていた108)

 角谷の著作『労働と管理の経済理論』1969年からつぎに再度引用する文章は,そうした価値的な命題と現実的な命題との混用を,端的に表わす文節であった。

   一貫したマルクス=レーニン主義の方法と理論にもとづいて,資本主義企業における労働と管理との関連を資本=賃労働関係の具体的形態の一つとして把握し,その本質を経済学的に明らかにすることによって,労働者階級の革命的実践に寄与するため,労資協調論批判の理論的基礎づけをめざしたものである。とくに,資本主義企業における労働と管理の基本問題としての敵対的矛盾関係を基礎にすえ,その本質関係が両者の同一視という転倒的関係として現われるところのからくりの解明とそれを修飾する諸見解の批判に重点をおいたのである109)

 この論及は,いわば「労働経済学における理論上の研究課題」と「労働者階級の革命的実践という使命」とを混在させていた。しかし,角谷にいわせれば,これこそが「科学的労働経済学」の叙述だったのである。

 1980年代,角谷〔たち〕の「科学としての経営学」の思想的立場が動揺したわけは,社会主義体制国家の不調・混迷もあったが,当時,世界経済において日本型経営の優勢が現われ,日本経済が〈ジャパン アズ ナンバーワン〉と称賛されたことにもあった。もはや「労働者階級の革命的実践」は論及されなくなる。どうしてか?

   自国のおかれている客観的条件の透徹した認識を基礎におくことなくして,中ソいずれかの原則を,「論理」の正しさで,あるいは観念論的連帯意識で支持することぐらい,無意味な行為はありえない110)

 一方では,中華人民共和国やソビエト社会主義共和国連邦(当時)の社会主義国としての不振・低迷をみせつけられ,他方では,世界一の経済大国アメリカ合衆国をさらに凌ぐような勢いで産業発展を遂げてきた,自国=日本の実力もみせつけられたマル経経営学者たちは,マルクス主義的な学問志向において抱いてきた自負と信念を根底より揺さぶられたのである。

 角谷『現代の組織と管理』1983年は,最終の第6章「変革期と企業経営の民主化」で,こう記述する。

   資本主義企業・経営,したがって企業とその管理の二重性(矛盾)は,固定的・静止的なものではない。資本主義の根本矛盾と副次的諸矛盾の激化とともに,それらもまたしだいに激化していく。資本主義社会の変革とともに,その全体は新しい性格の企業と管理へ転化する。

 社会主義企業にあっては,資本主義経済のもとでの企業と管理とは本質的に異なる社会主義「企業」・「管理」が生成し発展しているのである。ただし,発達した資本主義国の企業・経営管理から社会主義への歴史的変化については,従来の方式とは異なったいくたの新しい民主主義的な過程と特徴をもつことは当然であろう111)

 この記述に明らかなのは,「労働者階級の革命的実践」というものが放棄されたことである。そうはいっても,資本主義社会の諸矛盾は今後も〔マルクスの理論どおりに〕マスマス激化することにかわりない。

 いわく,「いくたの新しい民主主義的な過程と特徴をもつことは当然であろう」から,「新しい性格の企業と管理へ転化する」。それでは,その「新しい民主主義的な性格の企業の管理」とは,どのようなものか。

   現状の科学的認識のうえに,その発展法則にもとづいて民主主義的に現状変革をめざすものである。それは,たんなる改良主義や極「左」的な一揆主義とは異なる科学的社会主義の道であり,事業である112)

 しかしながら,角谷「企業経済学説」は,「たんなる改良主義や極「左」的な」学説だと批判・排斥していたはずの,「三戸 公牛尾真造の個別資本説」に酷似した立場へ変転,同調していくのであった。

 ともかく,持論だった「科学的認識」や「発展法則」,つまり「弁証法的唯物論」や「史的唯物論」の立場はかえないものの,「労働者階級の革命的実践」はもう企図しないが,その代わりに,資本主義「企業経営の民主化」を変革の課題に据えるというのである。

 角谷自身にどのような事情・理由があったのかわかりにくいが,「弁証法的唯物論」や「史的唯物論」の立場にもとづく「科学的経営学」「科学としての経営学」の志向性は,変更・消去されたかのように聞こえる。1980年代は,資本主義に対する「労働者階級の革命的実践」は触れられなくなる。

 要するに,角谷の主唱は,資本主義における「変革の課題」としての「企業経営の民主化」に移行した。したがって,「民主主義的に現状変革をめざす」という標語が提示されることになった。

 しかし,おかしな変化が起きたものである。実というと,そういう提唱:民主化的な変革論は,近代経営学者たちが声を大にして叫んできたものとも似ているのである。

 さて,ソ連邦科学院経済学研究所著『経済学教科書』は,こう断じていた。

   科学的共産主義の理論としてのマルクス・レーニン主義は,社会主義および共産主義を建設する政策では,社会発展の諸法則を出発点とし,さきばしって実現させることも,法則になかった過程を人為的にひきとめることもしない。マルクス・レーニン主義は,修正主義や教条主義とはまったく無縁であって,実践と不可分にむすびつきながら発展し,新しい歴史的経験の総括にもとづいた新しい理論的諸命題をつけくわえていくのである113)

 「マルクス主義」とは,日本のマルクス経済学研究者の解説によれば,つぎのように記述されるものでもあった。

  a)  「労働力の商品化を基軸とする資本主義社会の体系的論理構成とその歴史的意義との客観的認識を前提として,資本主義社会の社会主義社会への変革を主張する」ところの,「科学的認識に基礎づけられた社会主義的イデオロギーとその政治的実践との総体にほかならない」

  b)  「そしてこのことは,マルクス主義における実践運動の中核としての前衛政党と,この変革運動の主体としてのプロレタリアート,およびそのイデオロギーとの関係に,特有の性格を刻印づける」ところの,「たんなる社会主義的イデオロギーというにとどまらず,歴史にたいする科学的認識に基礎づけられたイデオロギー的主張として,人類史におけるそれまでのさまざまなイデオロギーやそれにもとづく政治運動とはまったく異質な性格をあたえられることになる」114)

 とはいえ,角谷登志雄「科学的経営学」のばあい,このような世界史観に依拠していたはずだった「労働者階級の革命的実践」の使命は,いったいどこへいったか?

 「革命の実践」と「科学的認識」とは不即不離の間柄にあり,たがいに,よりいっそう高揚させられるべき「相即的」の関連にあったのではなかったか?

 したがって,そのどちらも,そうやすやすと放棄するわけにはいかないものではなかったか?

 それとも,論者の批判によって,混用されたと指摘をうけた「当為の概念」と「事実の概念」とを統一的(弁証法的?)に主張することは,ここにいたってはやめることにし,後者の側面,資本主義社会における「事実の概念」面を,もっぱら重視する視点に変更したとでもいうのか。

 しかし,マルクス・レーニン主義の立場を捨てないかぎり,「事実の概念」に関する「科学的認識」は,「当為の概念」である「革命の実践」という「価値判断」の束縛から自由でありえないものである。

 マルクス主義社会科学者にとってこの程度の認識は,「釈迦に説法」と思われる。

 安藤貞男『社会発展史入門』(新日本出版社,1966年)は,社会主義‐共産主義思想に関する大衆向けの啓蒙書であるが,こう主張していた115)

   資本主義の生産方法を一掃し,階級および階級搾取制度を完全になくし,社会主義社会を建設・組織しなければなりません。

   こうした任務をやりとげるのが,労働者階級独裁(プロレタリア独裁)の権力です。共産主義社会の実現するまでの期間が「過渡期」といわれ,この権力は,この過渡期に存在する権力です。

   多少とも資本主義が発達した国のブルジョア民主主義革命は,プロレタリア革命に成長転化せざるをえないことを,あきらかにしました。

   はたして,「民主主義革命から社会主義革命への連続革命の道をあゆんでい」116)くことは,あきらめたとでもいうのか? 問題なのは,その答えがどちらであっても,角谷流「科学的経営学」の立場が進退きわまったことである。

 2)−d) マルクス主義の原点

 向坂逸郎『マルクス経済学の基本問題』(岩波書店,昭和37年)は,こう断言していた。

 いっさいの社会的諸科学の方法の基本的原理となるべき史的唯物論によって,「社会の運動を支配する必然的法則を知ることは,この運動法則に意識的に適応する可能を生むのである。この適応は,社会的実践にほかならない。社会科学は,かくしてやはり予言しうる科学となる」117)

 だが,唯物史観が未来に向けてその実現を社会実践的に予測する「社会主義‐共産主義」社会は,資本主義社会に必然だとされた「没落の論理」法則の適用圏外におかれていた。

 そうだとすると,歴史の必然の終点として共産主義社会は永遠化され,そこでは,すべての運動・すべての発展が停止しなければならない。これは,ひとつの形容矛盾である。資本主義が息を引きとる瞬間までは弁証法,それからさきは弁証法の効力停止という二元論に解消することになる118)

 ともかく,マルクス主義的な唯物史観・弁証法的唯物論の予言・予測とはだいぶ異なった国ではあったがロシアで革命が起こされ,本物の社会主義体制国家ソ連邦が出現した 注)

 しかし,この国は70年あまり継続したけれども,大いに確信があったはずの必然的法則〔→永遠化〕にはしたがわず,いとも簡単に消滅した。それに反して依然,資本主義体制先進諸国は存続しつづけている。


  注)社会主義革命がロシアで最初に実現した点に関するマルクス‐レーニン主義からの説明は,たとえば,安藤貞男『社会発展史入門』(新日本出版社,1966年)第9章「社会主義革命」を参照されたい。

 

 結局,20世紀に入って社会主義‐共産主義社会国家のソ連邦が出現,しかも,第2次大戦後には社会主義国家が東ヨーロッパなどで一気に増えたものの,21世紀を迎えるまえにその大半がもろくも崩壊・消滅した。現実の社会主義諸国は永遠化されなかった。

 史的唯物論「以外の必然的法則」がそこに作用していたかどうかわからないが,社会主義‐共産主義の理想をめぐる世界史的な意義は,その大部分が滅失したといえる。

 それまでは,資本主義の自滅・倒壊を堅く信じて疑うことをしらず,同時に資本主義の矛盾・不当性やその打倒を声高に叫んできたマルクス主義経営学者は,20世紀第4四半期にいたり,社会主義諸国が「科学的認識」に合わない諸現象を起こしたことを理解し,「革命の実践」への思想・理論的な要求,ならびに実践・行動的な意欲を急速に喪失したのである。

 その意味では,日本のマルキスト経営学者たちの経営学論がいつしか,「革命実践ための理論」から「民主的変革論」に体質変換をとげた点については,それなりに歴史上の事由があったのである。

 1980年代より,角谷登志雄〔たち〕のようなマルクス主義経営学者は,自分たちの学問‐理論をささえる思想‐イデオロギー面において,一定の動揺を体験した。そして,1990年代の認識においては,どうしようもないほどせっぱつまった状況に追いこまれていた。

 角谷はいまでは,資本主義社会の「民主主義的な現状変革をめざす」経営学者となり,「企業経営の民主化」をおこなう方向で「変革の課題」を達成させるという主張を,「新しく」提示したのである。だが,この主張は,マルクス『資本論』の「労働者階級の革命的実践」性に関してなお,根本的な疑問を残している。

 いうまでもないことだが,「民主主義的な体制変革」なるものは,「労働者階級による革命的実践」そのものと同じではなく,角谷らの思想的原点に照らしても相当の径庭がある。つまり,角谷において,1970年代までの主張と1980年代以降の主張とは,整合性に欠けるごころか,もとより一貫性がない 注)

 結局,角谷は,マルクス主義経営学者としての原点をはぐらかしたといえる。

   マルクスは資本主義の分析によって,資本主義はそれ自身,崩壊する,という理論を展開し……た……にもかかわらず,社会主義者は,力(革命)によって資本主義を打倒しなければならない,と考えた119)

 なかんずく,マルクス主義経営学は「革命」という実践的目標を抜きとってしまい,そこからはなれ「民主主義的な体制変革」を口にするにいたった。すなわち,角谷「企業経済学説」は,マルクス『資本論』の本義を溶解させただけでなく,自説の依拠する最重要の立脚点さえ放棄したのである。

 史的唯物論に対する先述の批判は,社会主義‐共産主義社会の実現にさいして発生する「弁証法の効力停止という二元論」の問題性を提示していた。しかし,20世紀最後の10年間に生じた社会主義体制国家の消滅現象は,その批判の対象である「二元論」すら無化させた。


 
注)日本の某公党「綱領(案)」〔2004年1月17日,第23回党大会で改定された〕は,「四,民主主義革命と民主連合政府」で,こう記述している(該当HP参照)

   現在,日本社会が必要としている変革は,社会主義革命ではなく,異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破−日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。

 それらは,資本主義の枠内で可能な民主的改革であるが,日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力から,日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力をうつすことによってこそ,その本格的な実現にすすむことができる。

 この民主的改革を達成することは,当面する国民的な苦難を解決し,国民的大多数の根本的な利益にこたえる独立・民主・平和の日本の道を開くものである。

    −−筆者なりにこの文章を要約してみる。

    a)「変革は革命ではなく,改革を内容とする革命である」。

    b)  つまり,「革命改革を内容とする変革である」。

    c)  または,「変革改革であり革命となる」。

   ともかく,「当面」は革命志向を捨てたというのか。あるいは,必らずしもあきらめたわけではない,とでもいうべきなのか? まわりくどく,すっきりしない修辞である。

    以上, a)  b)  c)  の文章を,さらにこう解釈しておく。

    d) ともかく,「社会主義革命は民主主義改革ではない」。

   この解釈にしたがうとすれば,プロレタリア独裁はひとまず棚上げされたことになる。もしも,その棚上げではなく,根本的な変更を意味するとしたら,マルクス‐レーニン主義は水泡に帰したことになる。

   角谷は1992年に,現存した〔旧ソ連や東欧の〕社会主義国においての問題は,経済・経営,つまり社会の土台の社会的発展にとって,その上部構造としての旧来の国家や党が障害となっていたこと,したがってその根本的な改革革命)が不可欠となっていたことを,率直(科学的)に認識しなければならないと述べていた120)

   この理解のなかにはまだ,「科学的認識」にもとづく「革命的実践」がその達成を可能にするはずの,「なんらかの理想郷」が示唆されている。

   「見果てぬ夢」?

   参考までに紹介するが,和田春樹『新地域主義宣言 東北アジア共同の家』(平凡社,2003年)は,21世紀の現在,政治的・社会的革命は不可能であるとして,改革的ユートピア主義の可能性を説いている121)

 

 さてここで,1世紀もまえの話になる。

 エデゥアルト・ベルンシュタイン(1850〜1932年)は,19世紀末資本主義の現実がマルクスの『資本論』,とくに蓄積論の展開と一致しなかったことを強調し,そこから労働者階級の窮乏化にもとづく資本主義崩壊論を否定した。

 そして,それを根拠づけるために労働価値説や弁証法的方法も批判し,さらに政治的には,党の「民主社会主義的改良政党」への脱皮を要求した。このため,カウツキー,ローザ・ルクセンブルクらの〈正統派〉マルクス主義者とのあいだに激烈な修正主義論争が展開された。しかし,理論的には問題を十分解決しないままに終わった122)

 このベルンシュタインの「修正主義」論〔世界大思想全集47所収,松下芳男訳『マルキシズムの改造』春秋社,昭和3年。世界大思想全集第2期,社会・宗教・科学思想篇15所収,戸原四郎訳『社会主義の前提と社会民主党の任務』河出書房新社,昭和35年。原著1899年・1920年〕は,最近における角谷説,資本主義社会の「民主主義的な現状変革」論を理解するための好材料を提供する。意味深長である。

 すなわち,「理論は革命主義,実践は改良主義」という自己欺瞞‐二重人格におちいったドイツ社会民主党は,歴史内的存在としての自己リアリティーを求めて,権威的抽象理念としての「自己:マルクス主義的源流」を修正する道を開いた。

 ベルンシュタインはそのさい,党の有力な指導者として思想的内部告発をおこない,党としてのリアリティーの回復を,重要なマルクス主義的諸命題の否認,具体的には,

 a)「絶対的窮乏化・両極分解の否認」,

 b)「プロレタリア独裁の否定」,

 c)「弁証法の拒否」,

などという犠牲においておこなった123)

 矢島悦太郎『概説社会思想史』(蒼柴社,昭和28年)は,ベルンシュタインの「修正主義」論の中身を,つぎの5点に整理していた124)

 a)「唯物史観の修正」,

 b)「資本主義崩壊論の修正」,

 c)「窮乏論の修正」,

 d)「恐慌論の修正」,

 e)「社会革命への戦術の修正」。

 なかんずく,ベルンシュタインが指摘した『資本論』の問題点は,こういうものであった。

   マルクスは,資本制生産様式の性格・その基本的矛盾が一路「一方向的」に激化していくと把握した。そして,それにふさわしいスタイルの体制変革が必然化するといった「一面的な弁証法」を,理路整然と,しかも「科学的に」理論化した。

 しかし,「量の質への変化を」,「量の一方向的発展から質への変化を」,そのようにみちびきだすところに問題があった。

 19世紀も後期になると,マルクスの指摘した資本制生産様式の性格や矛盾の現われかた,発展など多くの点について,マルクスの展望に齟齬をきたす問題が現われはじめてきた。その点を最初に指摘した画期的な著書が,ベルンシュタイン「社会主義の前提と社会民主党の課題(任務)」(Eduard Bernstein, Die Voraussetzungen des Sozialismus und die Aufgaben der Sozialdemokratie, 1899)であった125)

 ここに引照した論者石渡貞雄はさらに,『資本論』の19世紀的な制約を克服する方途を,以下のように議論していた。

 マルクスの弁証法が重要側面において生じさせた欠陥は,どのようなものであったか。

 それは,19世紀の資本制生産様式における基本矛盾の一方的発展,すなわち,体制変革の基礎となる基本矛盾の量的発展が一方向的に発展する状態をことのほか重視し,これを,資本の全時期にわたる性格・形態に固定化させる傾向を用意したことである。

 そこで,マルクスの最大の功績をなすものは,a)「体制間の弁証法」とよんでおく。実はこの弁証法こそ,マルクス弁証法の重要側面における欠陥でもあった。

  だが,その欠陥はマルクス主義思想に根をもつものではなく,むしろ,マルクス主義思想の「ひとつの重要な基礎:弁証法の不完全な適用」の結果,それも歴史的制約のため生じたものである。

 くわえて,マルクスにおいて欠落し偏向していた,いま一つの弁証法を,b)「体制内の弁証法」と規定しておく。

 つまり,マルクス弁証法の重要側面における欠陥は,この体制内弁証法にかかわるものである。

 ひとつは体制内弁証法の〈欠落・軽視〉であり,もうひとつは体制内弁証法の〈偏向〉である。

 〈欠落・軽視〉は基本矛盾面〔資本と労働者〕の展開で,〈偏向〉は資本の発展における弁証法の展開で発現する。とりわけ,後者の独自的な弁証法的展開が制限され,資本の新たな性格への展開を理解しにくくさせている。

 マルクスは,体制内における資本への対立と統一〔=体制内弁証法〕,その順次的展開による資本主義の新しい姿・変化にもとづいて,それに照応し規定される性格・内容の体制間弁証法に触れるべきであったが,そのいずれもない。

 以上の問題は,マルクス『資本論』の解釈的適用においてたとえば,資本主義の発達のなかで新たに成立した株式会社も「資本主義の性格に還元されてしまう」結末〔→本質還元論〕をもたらした。

 現代資本主義を認識する方法は,資本主義が現代資本主義に発展していく根拠と形態を,矛盾内容の体制内止揚〔=体制内弁証法〕の立場からみるものとなる。体制内弁証法の認識方法こそ,資本主義が不純物によって資本の運動法則と性格を19世紀前半的に歪めていたことを是正させるとともに,資本の新たな変化をも統一的に把握せしめるものである。

 要は,『資本論』における抽象力不足を理論的に是正し,現実ばなれした現代資本主義像を修正する必要がある126)

 −−以上,マルクス『資本論』の解釈をめぐり石渡貞雄は,
 
 a)「体制間の弁証法」に対応する概念として
 
 b)「体制内弁証法」を提示した。

 そこで筆者は,本稿の論旨に即して,こういう関連づけを措定してみる。

 a)「体制間弁証法」のみ重視した批判的経営学……角谷登志雄〔や上林貞治郎〕「科学的経営学」「科学としての経営経済学」の立場。経営学のごく相対的な独自性しか認めない考えかた。

 b)「体制内弁証法」を配慮した批判的経営学……片岡信之「企業生産諸関係」,松本 讓「現代企業‐経営論」,淺野 敞「個別資本理論」など,経営経済学・経営学の独立性を認める考えかた。

 石渡の論及を,もうすこし聞く。

 マルクス理論の死角を除去するためには,b)「体制内弁証法」を自覚的・全面的にとりいれることである。ブルジョア学者の「現代資本主義論」をいたずらに否定せず,その積極面に対する節度ある評価をくわえるのである。そして,資本主義の基本矛盾における a)「体制間弁証法」だけに焦点を合わす,伝来のマルクス主義の現実ばなれした不毛で暗い「現代資本主義論」を克服しようとするのである。

 a)「体制間弁証法」では,矛盾・対立の統一は,現代資本主義体制の全面的な否定と結着している。だが,b)「体制内弁証法」では,その体制の否定は意味されず,ただ,おおかたのばあい,その体制の性格の部分‐局部の否定や歪曲を起こすか,体制の性格の度合を全体としてかえたりするだけである。

 資本主義体制の現代的な変革の性格・類型・形態などを把握できるようにし,a)「体制間弁証法」を観念的,空想的なものとしないためにはこれを,b)「体制内弁証法」が達成した事実・段階のうえに基礎づけて考究しなければならない127)

 筆者は,角谷登志雄〔など〕の経営経済学者は1980年代,a)「体制間弁証法」に執着する立場を思想的に放擲し,実質的に b)「体制内弁証法」のほうへ重点を移行させた,と解釈する。角谷登志雄〔など〕の主唱は,a)「体制間弁証法」を完全に捨てるわけにいかなかったが,明確な断わりもないままいつのまにか,b)「体制内弁証法」重視の観点へ移動したといえる。

 「コペルニクス的」というには気恥ずかしい,そして,非常に緩慢な「論説の転回」ではあったものの,基本的な立場にそうした変更が生じ,「理論の転向」がなされた。それというのも,角谷登志雄〔など〕の「科学的経営学」=「労働者階級の革命的実践」は,「19世紀の資本のあり方を資本の全時期のあり方とみな」128) す現実的な限界に気づくのがあまりにも遅く,その失地挽回の時機をのがしていたからである。

 その意味で角谷登志雄〔など〕は,『資本論』を柔軟に解釈し,a)「体制間弁証法」b)「体制内弁証法」を対置させた,石渡貞雄のような「歴史理論的な工夫」と縁遠かったといえる。とはいっても結局,その b)「体制内弁証法」をうけいれる立場に変質を余儀なくされたのである。

 つぎに引照する降旗節雄『生きているマルクス』(文眞堂,1993年)は,以上における筆者の論及,つまり,「革命の実践」論から「民主主義的な体制変革」へと衣替えしたかのごとき,マルクス主義経営学者たちの思想や立場の真偽を,さらに深耕するための材料を与えている。

   @ 問題のない純正マルクス主義なるものの具体的な内容は,なにか。この点が一向に明らかでない。本当の社会主義はどこにあるのか。

 A 現在の社会主義圏の崩壊や一党独裁制の否定を当然とするが,これらマルクス主義者たちが,このような状況の展開以前には,まったく社会主義圏の政治やイデオロギーに対する根本的批判をしめさなかった。

 B つまり,理論によって現状を批判し分析するのではなく,現状に左右されて理論的立場をめまぐるしくかえていく。土台の変化に対して上部構造を急速に適応させていくという点では,彼らは唯物史観の生きた見本とみなされる。

 C マルクス理論の科学的正当性を擁護することは,反時代といってよいが,思想の本来の意義はつねに反時代にあり,それはあくまで,検証可能な科学的理論としての正しさである。イデオロギーとして擁護するものではない。

 D マルクス=レーニン主義として大きく括られてきた思想や理論のゴッタ煮のなかから,社会科学としてのマルクス理論を純粋に抽出し,現代社会分析の基準として方法的に再構築しなければならない129)

 これらの見解のうち@ A Bはすべて,「現状に左右されて理論的立場をめまぐるしくかえて」きた,日本のマルクス主義経営学者にも当てはまる。

 Cは,すでに筆者も,「土台の変化に対して上部構造を急速に適応させていく」「彼らは唯物史観の生きた見本」である点に言及してきた。

 Dは,彼らがゴッタ煮的な,もしくはすり替え的な主張の変遷において,「革命思想」あるいは「理想的な社会主義〔共産主義〕社会」だけはなお,素材のまま保存できると思いこんでいた点を教える。

 2)−e) 社会主義の理想像と現実の姿

 晩年のマルクスは,その学問的努力を「科学としての経済学」に集中した。とはいっても,経済現象が事実存在する人間的主体のこととしてみる,この根本的な観点までも棄てたのではなかった。否,むしろ事実は逆であった。

 マルクスの不幸は,彼がフォイエルバッハの人間学をうけとるにさいして,その哲学的人間学,キリスト教批判そのものに,もっとも根本的な点でなお一歩精密にすべきものの残っているのをそのままにして,彼の経済学の全精力を傾けつくさざるをえなかった点にあった。

   マルクス経済学,『資本論』そのものに,その不吉な影を落とさないわけにはいかなかった。商品の「価値と使用価値」,その「価値形態」から,「階級」・「革命」にいたる『資本論』の全体系の随処に生じる果てしない論議,さらには,理論と歴史,実践と理論,人間の生活・社会の物質的側面と精神的側面の区別・関係・順序にかんして起こる多くのマルクシストと反マルクシストの論争の通俗性は,けっして右〔上〕のことと無関係ではありえない。

 そうとすれば,マルクスの学問を現代に承け継ごうとする者は,経済的現象形態の内部の本質的ならびに歴史的な精密化とともに,それと超歴史的・根源的な本質との区別・関係・順序を,さらには,このことと必然的な関連において,人間の全生命において,物質的生産活動もしくは経済生活がいかなる位置を占めるか,それが同じ人生と他の側面とどこをとおしてどうかかわっているかを,根本的に突きとめる努力を怠ってはならないこととなるであろう130)

 1990年前後に社会主義体制国家群が一気に崩壊した政治経済現象をみたとき,「経済学者」や「経済学に関心をもつ哲学者」たちは,それにどのように対応したのか。彼らは〔その一部だが〕それ以後も,マルクス〔主義〕経済学を社会科学領域における偉大なる思想‐理論として,再評価・再構築しなおす学問的な作業にとりくんできている。

 ソ連邦や東欧社会主義諸国が倒れてしまい,残された主な社会主義国のうち中国は急速に「市場の経済化」をすすめ,いまや共産党組織の中枢部に資本家‐経営者を組みこまないと,社会主義体制の維持が危うい情勢である。

 「資本家は無産階級の敵」という図式的・教条的な理解の時代は,もう終わっており,いまでは前世紀の遺物的な思考方式である。

 水田 洋は1966年に,こういっていた。「生産力の上昇はおそらく,精神主義に反逆して,中共的人間改革にあたらしい問題をなげかけるであろう」131)。21世紀初頭のいま,この指摘は的を射た至言となった。

 国崎定洞(元東京帝国大学医学部助教授。1926年ドイツ留学,その後帰国せず1928年ドイツ共産党入党,1932年ソ連へ亡命)杉本良吉(演出家,本名吉田好正。1938年,女優岡田嘉子とソ連へ亡命)が,ソ連へ密出国したのは,単なる政治的亡命ではなかった。

 理想社会だからこそ,あるいは理想に向かって巨大な歩みをすすめつつある社会だからこそ,彼らを引きよせたのであった。スパイとして殺された彼らの運命を思うと,その実態との落差のあまりの大きさに痛ましさを禁じえない。それが「マルクスの夢の行方」だったのか。

 マルクスの夢は,表では社会主義体制を生み,裏では資本主義的福祉社会を生んだ。表がわでの結果はまず惨憺たるものだった。

 さて,予測という側面では『資本論』は失敗したが,だからといって『資本論』が失敗だけというわけではない。『資本論』には予測的側面のほかに原論的側面がある。この側面で『資本論』は不朽の価値をもつのである。事実,マルクスはたぐいまれな天才であった。それほどの天才であったとしても,ことが予測という段におよぶと,その理論は破綻せざるをえない132)

 以上の関連でいえば,角谷登志雄は1980年代を経て,「労働者階級の革命的実践」には触れなくなり,「民主主義的に現状変革をめざす」ことに変身したのは,妥当な理論転換であったといえなくもない。

 しかし,角谷は元来,「革命」と「変革(改革)」のちがいを絶対許容しえない「科学的経営学」を提唱していたはずである。それゆえ,これまでマルクス主義経営学者が十分手を付けていなかった学問的課題が残されている。

 それは,「原理論はどの点からも,徹底的に再検討される必要がある。その結果細部の訂正にとどまらない根本的な組みかえがおこなわれるようになるかもしれない」ということである133)

 筆者が不思議に思うのは,〈旧〉マル経経営学者たちがその後において新たに公表してきた著作は,その全部がといっていいくらい,マルクス主義経営学の「原理論を徹底的に再検討する」学問的作業にとりくんでいない点である。

 せいぜい目につく見解は,前掲した仲田正機・夏目啓二編著『企業経営変革の新世紀』2002年のように,「私たちの立場は,企業経営を社会的に捉える立場なのである」という,凡庸で特色のない「漂白された見解」にとどまっている。

 また,田中照純『経営学の方法と歴史』(ミネルヴァ書房,1998年)も既述のように,マルクス主義正統学派の脱皮を試図した書物であるが,マルクス主義経営学の真意を韜晦させた要素もふくんでいる。したがって,理論を変革するその意図が必らずしも,前後一貫されてはいない。

 筆者は,マルクス主義経営学の理論展開を,1970年代「絶対確信期」→1980年代「動揺混迷期」→1990年代以降「崩壊消滅期」と区分した。このような壊滅への道をたどった日本のマルキスト一群:「経営学者」に関して,なお一度考えておくべき要素がある。それは,日本のマルキストたちにおいては決定的に欠けていた要素である。

   18世紀啓蒙思想とヘーゲル哲学から出発して,人間の自由の回復を主張するマルクスの歴史観にとって,ヘーゲル哲学とも結びついているキリスト教神学にたいする高い教養が,暗黙に思想のささえとなっていることは,否定しがたいであろう134)

 マルクスは,利潤率の低落を動かしがたい“法則”とよび,そして,利潤率の長期的低下に,資本主義の起動力の衰滅という宿命的結果を読みとろうとしていた。この発想は,マルクス経済学が「体制批判の法則的科学 determinism の体系(労働価値説も“価値法則”とよぶ)」であることと,分かちがたくむすびついているものであった135)

 『資本論』は資本主義経済のしくみを分析し,その基本的法則を資本対労働の矛盾,剰余価値の法則として把握しなければならない。この二大発見,すなわち唯物史観と剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露とは,マルクスに負うところである。社会主義はこの発見によってひとつの科学となったのである。

 とはいえ,唯物史観は社会一般の発展法則を明らかにできても,特殊歴史的な社会である資本主義社会の滅亡の必然性と社会主義社会の発生の必然性の具体的な論証は,唯物史観では不可能であり,またその任務でもない。それを論証するためには,資本主義社会の経済的運動法則,すなわち,資本主義経済のしくみを明らかにしなければならない。そのためには経済学,すなわち『資本論』が必要だからである136)

 2)−f)  小   括

 日本のマルクス主義経営学者は,当初より「ヘーゲル哲学とも結びついているキリスト教神学にたいする高い教養」を欠いただけでなく,その後においては,「唯物史観と剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露」による「資本主義社会の滅亡の必然性と社会主義社会の発生の必然性の具体的な論証」をあきらめ,いまや「民主主義的な現状変革」論に終着したかのようにみえる。

 「スターリン……『弁証法的唯物論と史的唯物論』(1938年)……の『マルクス主義』を論証ぬきでマルクスの思想と同一視することは論理的にできない」137) といわれるが,そうだとしたら,日本のマルキスト経営学は,マルクスの思想からも,またマルクス主義の理論構想からも離反していたのである。「崩壊消滅」たるゆえんである。

 かつて,マルクス主義はその論敵からみると,科学の領域では叩けば世界観の領域に逃げ,世界観の領域で攻撃すれば科学の領域に逃げるという,始末の悪い両棲動物であった。たとえば,資本主義の発展の結果として必然的に革命が起こるなら,労働者の自発的な運動は不必要ではないかというような,しばしば繰りかえされる常識的批判も,この問題に関連をもつものといえる138)

 しかし,マルクス主義〔的〕経営学はいまでは,その「科学性」の基盤をつかいわけるという詐術をみやぶられ,破綻した。角谷登志雄をはじめ日本のマルクス主義経営学者たちの存在意義は,根源的に再検討されねばならない。

   方法はかれの人格と一体であり,文字どおりそれ以上分割できないもの Individuum である。念のためにいっておくが,このことは,方法についての論争が無意味であることを意味しない。そういう個性的な方法そのものを,研究の対象とすることができるのであ〔る〕。

   マルクス主義が,人類史上でもっとも有力かつ優秀な思想であることは,だれも否定できないであろうし,そのことと,マルクス主義のいくつかの抽象的な原則が歴史的社会的な条件の変化によって,具体的な適用における変化をうけることとは,なにも矛盾しないはずである139)

 この見解は,自分のマルクス主義を称して,「無党派マルクス主義であり,個人のものとしての方法ないし世界観である」140) といった水田 洋〔前出〕のものである。

 最後に,再度言及しておくことがある。こういう見解を記述する著作は,もはや,ソ連邦国定の『経済学教科書』のように,古文書あつかいされるべきである。

   マルクス主義にとっての重要な課題は,民主主義的統一戦線を強化することによって,ブルジョア・イデオロギーを理論的・実践的に批判・克服し,マルクス主義を民主的・科学的にきたえていくことである141)

 1990年前後以降,角谷登志雄がマルクス主義経営学のもとに営為してきた学問内容は,「マルクス主義」的なるものの,そのほのかな残影である。それはいつしか,経営〔経済〕学を「民主的な理論体系に変革」していくことに萎縮していったものである。そのため,「科学的経営学」の現代的課題,すなわち「科学と実践的活動との結びつき」「理論と実践との結びつき」と「その統一」であるはずだった「革命の実践」は,立ち消えになった

 日本の某公党の理論路線を解説していた著作,中原雄一郎『弁証法的唯物論入門』(新日本出版社,1965年)は,「革命の実践」にかかわる「科学的理論(科学的認識)」の考えかたを,以下のように説明していた。

   世界を改造し変革するには,どんな先入見をつけたさずに,世界の客観的な法則をありのままに認識しなければなりません。この徹底した科学性こそ,変革の立場に立つマルクス主義哲学だけがもつ特徴です。

   可能性というのは,……現実の発展の法則からうみだされる一定の傾向をいいます。……現実性の発展過程は,その深部の矛盾にもとづく必然的な法則性によって,可能性が現実性に転化する諸条件がつくりだされる過程です。

   実践は,主観と客観の一致をたしかめ,不一致を解決し訂正する唯一の基準です。このような検証の試練にたえぬいた客観的真理が,科学的理論の内容です142)

 マルクス経済学の批判論を根源的に展開した堀江忠男は,こうした唯物論的な弁証法哲学を完膚なきまでに,こう批判した。

 唯物論的弁証法が飛躍的・革命的な性格のものであるという「必然性」は,論理的にも歴史的にもまったく証明されていない。それは,社会に内在するものの反映ではなく,革命家マルクス‐レーニンの願望から目的論的に設定された〔彼らはもちろんそう自覚してはいなかったろうが〕ものであった。この意味では,彼らの弁証法も「逆立ち」した観念論であった。

 資本主義社会における人間性の完全な喪失と,共産主義社会における人間性の完全な回復という,無批判的なマルクス信仰,ヌキサシならぬ超単純な弁証法的図式をそのまま信奉するとしたら,これは笑うべきであると同時に恐るべきことである。

 マルクスの人間像は,19世紀的な弁証法的“必然性”に基本的に従属している宿命論的な人間像である143)

 それでもなお,経済学者の向坂逸郎は,無意味と思えるような議論をおこなっていた。

 客観的事実に変更をくわえること,すなわち社会主義革命を実現するという「変更の実践」は,客観的事実の法則・条件を「正しく認識し,正しくこれに適応する」ことによって,はじめて可能になる。「人間の行為がその目的を達せず失敗したとすれば,この法則の理解が不充分であったか,これに適合しえなかったかである」144)

 角谷はだからか,旧「ソ連型社会主義(経済)」について,「たとえ主観的には資本主義社会からの脱皮をめざしたものの,言葉の正確な意味での社会主義社会(経済)ではなく,いわば“社会主義の変形”ないし“擬似社会主義”とでもいうべきものであった」145) と,市場経済化への円滑な脱皮に失敗したソ連を論評していた 注)

 かつては「科学的経営学」を根拠づけていた強力な存在がソ連邦だったが,いまで,それが「言葉の正確な意味での」「正しい認識」,いいかえれば「正しい真に」「科学的」社会主義体制ではなかった,というのである。

 角谷の頭脳にはいまだ厳在しているものがある。それは,いまごろもちだしたところで一銭の価値もない,「理想(夢)の社会主義国」に対する「正しい認識」というものである。

 「三つ子の魂百まで」である。

 しかし,「青い鳥はいずこに」?

 「は幻となった,蜃気楼は消えた」!

 −−マルクス『資本論』第7篇第24章には,こういう一句があった。

   生産手段の集中と労働の社会化とは,それらの資本制的外被と調和しえなくなる時点に到達する。この外被は粉砕される。資本制私有財産の最後の時が鳴る。収奪者たちが収奪される146)

 現時点でたしかにいえるのは,「理想(夢)の社会主義国」「の最後の時はすでにどこかで鳴り響いていた」ことである。


 
注)日本の某公党「綱領(2004年1月17日改定)」は,「ソ連とそれに従属してきた東ヨーロッパ諸国で1989〜91年に起こった支配体制の崩壊は,社会主義の失敗ではなく,社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産であった」と解説している。

   上林貞治郎『経営経済学入門』(大月書店,1985年)も,同様な見解を披露していた。

    今日,社会主義諸国は,社会主義の法則・原則に基づく積極的発展とともに,それから逸脱した若干の否定的現象をも生んでいるが,私は,これらを社会主義の生成期の過渡的現象および各国の歴史に基づく特殊的現象として理解し,そして階級的搾取に基づく資本主義に対する,搾取から解放された社会主義一般の体制的優位性を正しく把握するよう努力している147)

   いうところの「社会主義一般の体制的優位性」が歴史的に「正しい把握」であったか否かは,あえて指摘するまでもないことである。歴史的に回顧するに,そういう理解そのものが「過渡的現象・特殊的現象」だったといえる。

   なにゆえ,叙上のような見解が披露されつづけてきたのか。

 それは,「唯物史観をつらぬくものが革命的情熱と経済主義とに分裂してしまえば,その両極はいつでも相互疎外の形で自分の分身を憎悪すべき敵と見なさねばならなくなる」148) からであった。

 いわば,社会主義‐共産主義をめざす革命的精神とそのための経済基盤は,絶えず,整合的・有機的に止揚されていくべき相手・同士なのであり,この関係からはずれるように起きた事象・事態はすべて,「過渡的現象・特殊的現象」と処理され,度外視されうるのであった。

   そうしてこそ,唯物史観や弁証法的唯物論の立脚点を十全に保護・防御・維持することができた,と信じられてきたわけである。とうてい学問的な思考とはいえない,ご都合主義をささえるための詭弁である。

 


 

W 批判的経営学の再生は可能か

 

 1) マルクス経済学の解体と再生

 高須賀義博『マルクス経済学の解体と再生 増補版』(御茶の水書房,1988年)は,従前のマルクス主義経済学の問題性を,こう解説していた。

 @ 日本では,スターリン教条主義は自然退場するかたちで温存されており,マルクス教条主義はまだ根強い。日本におけるスターリニストの平和的撤退は他国と比較するとかなり異常であり,そして,その脱スターリン教条主義の特殊性は,その後における日本のマルクス経済学の低迷と深く連動している。

 a) スターリン教条主義に対する批判的総括はおこなわれず,ましてかつてのスターリニストの自己批判は皆無である。

 b) 日本のようにスターリン教条主義がアカデミズムを支配したことのある国は,社会主義国をのぞいてほかにない。日本のスターリニストはソ連邦に似て,表舞台から去っただけであって,アカデミズムのなかに温存されている。

 c) 宇野弘蔵はスターリン論文に対する原理的批判をおこない,宇野派がスターリン教条主義に対して免疫をもっていた。これは特筆すべきことである。

 d) 『資本論』解釈学がとくに盛んな日本のマルクス経済学においては,脱スターリン教条主義化の日本的形態が残っている149)

  A 日本のスターリニストは,スターリン教条主義との思想的・理論的対決を避けて〔ましてや自己批判などやらずに〕,表面上舞台から去っただけである。その事実は,現在の日本のマルクス経済学の低迷と深くむすびついている150)

 以上 @ Aによる高須賀の指摘は,日本の「科学としての経営学」者の代表格である角谷登志雄に対しても,当てはまるものである。

 要するに人間は,“人間存在の永遠の根拠”と思われるようななんらかの「原点」を求め,そして,それを「みいだした」,あるいはそれからの「導きをうけた」などという主観的「確信」をもって,実際には人間自身が観念において設定したなんらかの“原点”に,みずからの自由を自己呪縛するわけである。

 マルクス=エンゲルスの思考方法にみられる存在と当為とのそういう混同,いいかえれば,認識の問題と意志の問題との混同は,「つまり「理性的なものは現実的なものであり,現実的なものは理性的である」というヘーゲル弁証法〔『法の哲学』1820年序言〕における,「理性の欺瞞」の悪影響によるものと考えられる。

 スターリン主義の論理は,あるひとつの想定とか構想とかをもって「科学的認識の成果」であるとし,科学的認識によってえられる客観的な真理はひとつだけだとして「絶対」化する。そうした思考方法は,マルクス=エンゲルスの思考方法の一端から展開されうるものであった151)

  「マルクスやエンゲルスやレーニンはそれ自体で『真理』であるとして教育された」というか,それを学習してきた「日本マルキスト正統派を自認‐自称する」角谷登志雄などは,社会主義の理念とソ連邦の現実の体制を同一視することをつねとしてきた。

 レーニンまでふくめた古典的なマルクス主義者たちの教義は,スターリン以後のソ連邦に体現されているものとされたのだった。それに批判的な姿勢をとる者の多くは,「トロツキスト」として糾弾された。

 しかも,その当の批判者がトロツキストの思想によって,直接影響をうけたことがなにひとつないにもかかわらずである。もっと悪いことに,糾弾するがわの本人が,トロツキイの理論と実践を自分の頭で,なにひとつ検討したことはないにもかかわらずである。

 人間の理論と実践はつねに可謬的である,といってもいいすぎではない。重要なのは,現代のわれわれを律する理論‐実践の規範を,あるときには誤謬を犯したに相違ない過去のいかなる思想家から学べるかを忘れてならない,ということである152)

 山口正之『社会主義の崩壊と資本主義のゆくえ』(大月書店,1996年)は,現代世界の変化と発展を規定しているものは,依然として資本主義に内在する矛盾であり,「資本主義の最高の段階としての帝国主義」に内在する矛盾である,と主張する。

 つまり,1989年革命以来の世界史的激動が掘りくずしたのは,「社会主義制度の完全な勝利」や「社会主義世界体制の確立」といったドグマであって,マルクス主義理論の有効性でもなければ,社会主義的現実そのものでもなかった。勝利しなかったものが,敗北することはなく,生誕していないものが死滅することもありえない,とも主張する153)

  山口正之のこの見解は,「理想(夢)の社会主義国」「の最後の時はすでにどこかで鳴り響いていた」ことを,必ずしもすなおに認めていない。マルクス主義思想に関してなお,「認識の論理」に対する「変革の論理」の,混淆的な優越性をまだ信じている嫌いがある。すなわち,「マルクス主義理論の有効性」や「社会主義的現実そのもの」に対する,過度の思いいれを捨てきれていない。

 それよりも,21世紀の世界においてわれわれは,経済‐軍事面の圧倒的優位に立ったアメリカ民主制帝国主義を相手にしなければならない。山口の指摘:「資本主義の最高の段階としての帝国主義」に内在する矛盾,いいかえれば,現段階における資本主義体制国家に特有の困難な問題から目をそらすわけにいかない。

 さて,向坂逸郎『マルクス主義と民族問題』(慶友社,昭和29年)は,敗戦後,昭和20年代の日米関係をこう描いていた。

   アメリカは日本資本主義を構造的に維持しつつアメリカ独占金融資本の独占利潤のために,また対ソ,対中共戦略の基点として,その支配力の下に隷属を強いている。さらにそのために日本の領土内に基地をもうけて,軍事力をもってこの支配を確保しようとしている154)

 向坂逸郎の残したこの記述から,はや半世紀が経った。つぎの記述は,21世紀におけるものである。

 在日米軍の任務は現在,アジア‐太平洋地域におけるアメリカの覇権の維持,権益の擁護,そして地域の警察官である。米ソ冷戦時代での第1の対象は極東ソ連だったが,現在では北朝鮮はむろんだが,それに劣らぬ軍事的警戒心を中国に対してもっている155)

 だが,軍事評論家の田岡俊次『図解日本を囲む軍事力の構図』中経出版,2003年)は,台湾の軍高官が議会で「中共の台湾侵略は根本的に不可能であります」と答弁する状況なのに,ほとんどカラ騒ぎのような「中国軍拡説」が広く信じられている,と解説する156)

 いずれにせよ,現段階の国際軍事情勢をみるかぎり,アメリカに正面から挑戦できる軍隊は世界から消滅した。アメリカは,戦争のエスカレートを恐れることなしに,世界各地に派兵をおこなうことも可能となった。そして,同盟国との協議や派兵に頼ることなく,単独で戦争に勝つ能力も手にすることになった157)

 したがって,現状にいたったアメリカの姿を「金融帝国主義から軍事帝国主義への戦略転換」にみいだしたある論者は,こういう批判をおこなっている。

 ベトナム戦争でアメリカが「敗戦した本当の理由」は,軍事費負担に耐えかねたことである。単純思考のブッシュ大統領は,そうした問題を冷静に考えずにイラクの戦争に突入した。そこで,「アメリカが戦争で勝てる」ということは本当は,「勝つだけの戦費を払える」ということである。つまり,その戦争に本当に勝ったのかどうかは,アメリカがこの戦争をする国力を本当にもっていたのかどうかをもって,今後はじめて検証がなされる。アメリカは実は敗戦したのである,と158)

 かつて,スターリンの一国社会主義が,実践的には,ヒトラーの国家社会主義とほとんどみわけのつかないものになったのは偶然ではなかった。ジョセフ・シュンペーターは,「実際のところ,スターリン体制は,本質的にひとつの軍事独裁である」と断定したが,これに反論することはほとんど不可能である159)

 筆者はここで,スターリンの独裁専制社会主義だった時代のソ連と,21世紀初頭に軍事制帝国主義に変身したアメリカを比較する議論には入らない。だが,こうした問題にもっとも強い関心を向けてきたはずの日本のマルクス主義経営学者は,もうすっかり意気消沈し,往時の面影をどこに探しだせばよいのかこまるほど存在感がなくなった。

 批判的経営学の系譜は,現在においてどのような位置づけができ,またどのような意義をみいだせばよいのか,あらためて吟味に値する現代的な論点である。

 

 2) 小泉信三の「マルクス批判」論

 マルクス経済学説批判の始祖,ベーム・バヴェルク(1851-1914)『マルクス学説体系の終焉』1896年は,マルクス経済学をこう批判した。

   マルクス自身,……「此の法則」−即ち剰余価値は資本の可変部門にのみ比例するといふ−は,「目撃に基く一切の経験に明かに矛盾する」と述べてゐるのである。然しながら,彼は……此を解決すべきことを約束して居る。

 勿論学識ある批評家は,此の矛盾は調和し難きものである……ことは全く断定的に予言出来ると考へた。……然しながらマルクス信奉者の大多数には,かくの如き演繹は全く何等の印象をも与へなかった。彼らに取っては,マルクスの単なる約束があらゆる論理的反証よりも大きな力を持ったのである160)

 既述に触れた論点,「マルクスの思考方法にみられる存在と当為との混同,認識の問題と意志の問題との混同」に対しては,昭和ヒト桁時代よりマルクス批判をおこなってきた小泉信三が,こう説明する。

   かれにあっては,社会主義は目的によって実現せられ,これにあっては,原因によって実現される。……マルクスの大著が資本論と称し,その資本主義の解剖は微に入り細を穿つに拘らず,社会主義社会の叙述が殆ど皆無であるのは,決して理由のないことではない。私有財産解消の必然性は,ただ抽象的先験的に論結されているだけで,まだ現実社会の実証的研究に基づいて論結されたものではない。

   もしも倫理的確信に基づく問題であるならば,社会主義の到来は必然ではない。必然の支配するところに倫理的判断は成り立たないのである161)

 すなわち,「目的である社会主義の理想とその現実」が無条件に〈善〉である想定できれば,〈悪〉であると断定された資本主義の現実は悲惨・残酷であり,必然的にその未来は崩壊すると予断〔決定〕された。そして,この学的(?)な地点にとどまり,あたかもぬるま湯に漬かったかのように,社会主義経済体制に関する「それ以上の学問的な探究心を発揮すること」を拒んだのは,誰であったか?

 小泉信三はさらに,くわえていう。もともと「生産力の発展が共産主義的社会秩序を齎らすという結論には必然性がない162)

 小泉がこのように,マルクス〔経済学〕批判を提示した当時(1933年),地球上にはすでに社会主義国「ソ連邦」が存在していた。

 だが,小泉が指摘した「マルクスの経済的社会進化思想」に固有の問題性は,とくに日本の学界においては事後,十分に顧慮されなかったのである。

 第2次大戦敗戦後,日本におけるマルクス陣営の経営学者は「解放の喜び」のなか,思想‐良心,言論‐集会などの民主主義的自由を謳歌する学問を享受できた。

 しかし,彼らは小泉信三のマルクス批判に答えないどころか,そのたぐいの批判を一律に,「理想(夢)の社会主義国」を認めない暗愚な者の「無理解な主張」だと一蹴しただけでなく,逆にその相手〔の無知〕を痛罵することさえしばしばであった。

 とはいえ,1990年前後にはソ連‐東欧の社会主義諸国が一挙に崩壊した。この雪崩的な現象によって,すでに1980年代,マルクス主義経営学者においても顕著になっていた「社会主義政治経済体制に対する疑念」,つまり「それへの確信の揺らぎ」が決定的,不可避となった。

 再び小泉の文句を借りれば,「社会主義者たるマルクスの『資本論』には,資本主義のことは書いてあるが社会主義のことは書いていない163)。にもかかわらず,書かれてもいないその「〈当為〉の理想」を大前提に確信し,「〈存在〉である現実」をめった斬りだった学問(?!)は,いまとなってその権威が完全に地に落ちたのである。

 小泉は,こうもいった。「共産主義必然論なるものは有意無意の誇張か,或は世界史をもって既定の窮極目的に向っての進行と見る形而上学または千年王国的信仰に基づくものである」164)

 ともかく,「マルクスの予定の結論である」「共産主義を世界史の窮極目標と見る形而上学」165) は,終焉した。

 日本における批判的経営学者,それもその正統派マルクス主義者を標榜した角谷登志雄など「企業経済学説」は,唯物史観の立場より強力に推進してきた経営学「観」=思想を信念的に誇示することにおいて,はなはだしく排他的・独善的でなければならなかった。

 それというのも,「社会主義の必然を云々するに至れば,それは甚だしい誇張か,或いは経験科学の領域を超えた形而上学的断定に帰するものであ」り,かつ「マルクシズムに存する社会主義必然論には,世界史を既定の世界計画の遂行と見る形而上学に立脚するところが多く,その限りにおいて科学的研究の範囲外に属するものである」166) ことを,指摘も暴露もされたくなかったからである。

 だから,自説・自派に賛意をしめさない他説・他派に対する彼らの常套的な対応方法は,簡単にいうと「同意・賛同しない相手に対しては一方的に排斥・非難するだけでなく,ときに脅迫的な威力行使も辞さない」ものであった。

 ソ連におけるルイセンコ学説が,そうした実例であり模範であった。マルクス・レーニン主義の弁証法的唯物論を証明するものとして,スターリンはルイセンコ学説〔小麦栽培に関する農法理論〕を利用した。

 戦中‐戦後をとおして,「科学的経営学」「科学としての経営経済学」を誇ってきた角谷登志雄など正統派マルキスト経営学者は,「今もかの時機におけるかの転回は,必然性の多い経済的事実の論理に従うよりは寧ろ或る程度それから独立した,政治的個人的理由から行なわれたと思われる」167) と推断した小泉信三の疑問を,21世紀初頭のいま,もう一度突きつけられたことになる。

 小泉はまた,「有名なボエムの『カアル・マルクス及びその体系の終結』は,発表後20数年を経た当時においても依然その価値を失っていなかった」168) と言及したが,1世紀以上が経ったいまでもその価値はうしなわれず,本稿におけるように再び引用されるマルクス批判の研究図書である。

 小泉信三によるマルクス主義「経済理論」に対する批判は,師である福田徳三の立場を継続したものである。

 小泉は,マルクス『資本論』第1巻における「労働価値説」と第3巻における「生産価格説」とのあいだの矛盾を指摘した。

 つづいて,純理経済学の陣営からのマルクス主義経済学に対する批判は,高田保馬,土方成美らが登場してしだいに盛んとなり,マルクス主義陣営の論者たちとの価値論争がにぎやかになった。

 なかんずく,マルクスの労働価値説に対する批判が正しいとしても,現実に「搾取」ということばで実感されるような現象が,社会的事実として厳存する以上,マルクス主義に対して決定的な打撃を与えることにはならなかった169)

 したがって,マルクシズムに学んできた者,「反マルクスではなく,反マルクシストであり,同時に『冷静なマルクスのファンであった小泉信三170) ,「マルクス主義の持つ値打はそれなりに認めながら,マルクス主義の中には誤りがあることを……指摘してい」た171)

 小泉は,「市民社会の経済学的解剖においてマルクスが非凡な成績を挙げ得たことは,何人も争う者はあるまい」,「恐らく19世紀後半における経済学に対する最大の貢献をもって許すべきものであろう」172) と,マルクスを称賛することも忘れていなかった。

 

 3) 資本主義の未来と批判的経営学の動向

 伊藤 誠・野口 真・横川信治編著〔植村博恭・ほか8名著〕『マルクスの逆襲−政治経済学の復活−』(日本評論社,1996年)は,マルクス『資本論』の意義を再確認する。

   マルクスの『資本論』にみられる,資本主義経済における市場,生産,資本主義企業の労働組織,資本の間の競争と信用の機構と動態などの重層的で有機的な考察を,新古典派の表層的な市場の理論と比較すれば,現代資本主義の分析にさいしても,それにもとづく現代的な社会主義論にとっても,明らかにマルクスの理論体系のほうが有効な基礎理論としての豊かな枠組みを提供しているとみてよい。

   ソ連型社会主義の崩壊によって,マルクス経済学の課題と方法の意義は失われるどころか,むしろ学問的にも興味ある発展の可能性を新たに広げつつあると確言してよいであろう173)

 霜田美樹雄『マルクス主義と宗教』(第三文明社,1976年)は,マルクス主義を批判しながら学問の使命に論及していた。

 つまり,人間の価値判断・未来設計は,どのように恒久的真理・絶対的価値体系を主張しようとも,それが形成された社会的存在が歴史的存在被制約性をもっているかぎり,それは歴史的には,相対的真理・相対的価値体系たる歴史上の位置づけをもつことを免れない。人間社会の歴史認識をつなぐ思想は,多くの相対的真理・相対的価値体系の「発展的連鎖」と考えてよいのである。

 それゆえ,もろもろの“意図された絶対価値体系”は,歴史的なそれぞれの時代に支配的な相対的価値的原理にすぎない。人間はつねに,歴史的存在被制約性をもつものだからである。したがって,それぞれの歴史的時点におけるそのときどきの理想像・未来社会を設定し,そのときどきの社会構造の矛盾の解決に専念しようとするのではないか174)

 日本において以前非常に活発だった批判的経営学の「資本主義経済社会に対する理論分析的な機能‐役割」は,最近はとみに弱体化し,往時の勢いがない。

 日本社会を活性化させるために必要な「反体制的な対抗勢力」,それも,社会科学領域における批判的経営学の存在意義は,それじたいに固有の難点を内在させてきたものの,けっしてあなどれない力量を誇っていた。

 21世紀における日本企業で働く労働者‐サラリーマン諸氏を直視しよう。彼らをかこむ悲惨・非情な経済社会環境をみて,それでもいいと思う人がいたら,まことに冷酷である。そういう人は,よほど体制がわの立場に気持がこりかたまった人間か,極度に同情心を欠く人間かである。ありていにいえば,批判的経営学の衰退・没落は,労働者‐サラリーマンの実質生活にとって,たいそう不都合な歴史的事態を意味する。

 どのような理想・思想・立場・信条に立つにせよ,現状を改革・変革したり,あるいは革命的な変動をおこしたりして世の中をよくしたいという感情・意識・意図・意向をもつことは,人間の気持としてごく自然であり,誰にも否定できないものである。

 2002年6月に刊行された経営学史学会編『経営学史事典』(文眞堂)は,20世紀における日本の経営学界を概観,紹介した手ごろな経営学小辞典である。本書は,「経営学史研究の意義と方法」を,「経営現象に対する認識論的特質を明らかにし,それが経営に対して有する意味を考察することである」とし,それには「2側面がある」と述べる。

   それはこういうものである。

 ◎「世界はどう存在するか」「経営はどうあるか」という事実認識の方法と,

 ◎「人間はいかに生きるべきか」「経営はどうあるべきか」という価値認識の方法である。

 前者は,実在と意識との関係理解にかかわる世界観‐科学観としての哲学であり,諸理論は「主観主義的(観念論的)‐客観主義的(唯物論的)科学観」の次元上に位置づけられる。

 後者は,理想・倫理・道徳・正義・福祉などにかかわる人間観‐社会観としての哲学であり,諸理論は「専制主義的‐民主主義的社会観」の次元上に位置づけられる。

 経営哲学や経営思想はこれら両面にかかわるものであるが,通念的には後者に比重をおいた表現といえる。

 経営学史は,歴史分析と理論分析の両面をつうじて,時代や環境の変化とともに動いてやまない経営現象に関する,新しい理論形成への道標を提示する役割をになっている。が,その道標から理論形成へとすすむのは,理論家の役割である。学史家が両方を兼ねるか否かは自由であるが,理論家は潜在的・実質的に両方を兼ねずして理論形成ができない175)

 以上の見解を披露した執筆者は,社会科学観の腑分けにさいして「観念論的=主観主義的」対「唯物論的=客観主義的」と関係づけ,「通念的には後者に軍配を上げる観点」に立つ考えをしめした。彼は,経営学の「方法論的基礎を……,社会現象を唯物弁証法的に分析する」学者である176)

 たしかに,批判的経営学説の1派として「科学的経営学」「科学としての経営経済学」〔企業経済学説〕は,真正面より理論家の任務にとりくんできた。しかし,彼らの抱いた思想・イデオロギーじたい「客観主義的(唯物論的)科学観」を装ってはいても,実は「主観主義的(観念論的)」に陥没していたし,また,その「客観主義的(唯物論的)科学観」が標榜されながらも,本当はその反極の「主観主義的(観念論的)科学観」に捻転していたのである。

 社会科学者においては,時代や環境を変革‐改革し,あるいは革命をおこさせるような理論形成に挑戦する役割があって当然であり,これを否定するわけにいかない。マルクス主義的経営学という学派の歴史的な実在は,そのひとつの証左であった。だが,いまでは,往時を追想するかたちでしかその面影が確認できない。

 マルクス主義経営学者は戦後の長いあいだ,「平家にあらずんば人にあらず」とでもいうべき傲慢な学的姿勢をひけらかし,異思想・他学派はやたら邪視・排斥するという陰険で粗暴な学風を隠さなかった。

 とはいえ,「批判的」経営学の志向性をもった理論的な業績として,今後に向けてもなお価値を有する論考が存在しないのではない。もちろん,前段に指摘したような非学問的性格とは無縁の論者によるものである。ここでは,つぎの3著を有力な成果として挙げておく。

 ・片岡信之『経営経済学の基礎理論−唯物史観と経営経済学−』
             
千倉書房,昭和48年。

 ・淺野 敞『個別資本理論の研究』
             
ミネルヴァ書房,1974年。

 ・松本 讓『現代経営学の基礎』
             
文眞堂,1997年。

 しかし,ほかの諸説はなぜか,「雲散霧消し」,「蜘蛛の子を散らした」がごとき現況である。

 

 4) マルクス主義経営学の末路

 マルクス経済学の領域では,1990年代以降も,マルクスの思想と理論をいかに再生‐復活させるかについて,それなりに盛んな議論がなされている。本稿は,その一部の関連文献を利用した議論もあった。それに比較すると,マルクス主義的な経営学の研究領域ではそうした試図・挑戦がほとんどなされておらず,対照的な光景が出現させている。

 かつては隆盛をきわめ,「飛ぶ鳥を落とす」くらい意気盛んであったのが,批判的=マルクス主義的経営学の姿容である。上林貞治郎は,「資本主義企業のマルクス経営経済学については,日本が世界で質量ともに高い水準にある」と,誇らしげいっていた177)。しかしながら,昨今における同陣営の勢力は,みるも無残な状況である。本稿はその原因に関する分析をした。

 鈴木 亨『唯物論と実存の探求』(季節社,1973年)は,マルクス『資本論』においてはじめて,社会「批判の学」としての社会科学が原理的に確立された事由に触れ,こう関説していた。

 批判の学としての『資本論』は,社会科学としての客観的法則の学であるとともに,主体的実存の学としての哲学である。今日の多くの社会科学と称せられるものは,社会批判の学としての性格を喪失している178)

 昨今における日本の「批判的」経営学はおよそ,鈴木のいう「今日の〔そのほか〕多くの社会科学」と同列になった。いうなればそれは,マルクス主義的社会科学に固有である「主体的実存的」な「社会批判の」「客観的法則学」としての性格を喪失し,その鋭利にもみえた牙を破損させ,つかいものにならなくなったのである。

 ここでは,マルクス主義的経営学者の愛用した常套句,「〈客観的(:必然的)法則〉の〈科学的認識〉」が,いかに正当化されていたかを想起しておかねばならない。

 カール・R・ポパー『科学的発見の論理 上』(恒星社厚生閣,1971年,原著1959年)は,「客観的」と「主観的」という語のつかいかたに関して,「科学的認識」が〈何人の気まぐれからも独立に正当化できるものでなければならない〉ことをしめすために「客観的」ということばを用いている,と言及した179)

 もう一度,マルクス〔主義〕経済学の大前提を,カール・コルシェ『マルクス主義と哲学』(三一書房,1975年)に聞いておこう。

 これは,「認識の論理」と「変革の論理」を統合的に把握しようとする「マルクス主義的経営学」が「批判的経営学たりうる原点」をしめす記述である。いまでは陳腐な中身にしか聞こえないが,あえて引照しておく。

   唯物論的弁証法は,プロレタリア階級の歴史的解放闘争の「理論的表現」としての「科学的社会主義」のための必然的方法論的基礎を形成するのである180)

 くわえてさらに,月並みの答えにしかならないが,自問自答的につぎの論及を引照しておく。社会科学における〈抽象力〉に言及したものである。

   〔社会〕科学者は,偶発的で一回的な運動を示す対象をとおして,そのなかを貫く必然性を,カテゴリーの自己展開によって,「法則性」として認識するのである。突発や偏位をはらみつつ運動する現実世界を,社会科学の対象とするとき,そして,かような現実世界を対象とする以外には,必然性を「法則性」として認識するてがかりがないとき,マルクスは,実験室も試薬も役に立たないのであって,ただちに抽象力が,これにとって代わらねばならないという意味の片言隻句を,『資本論』のなかで吐いたのであり,ここでかれは社会科学における方法の独自性に,言及していたのである181)

   角谷登志雄は1979年の時点で,日本マルクス主義経営学の発展段階最後部に「第4期〔1976〜 年〕転換‐確立期」を区画していた。この「第4期」につづけて,筆者は既述のように「第5期〔1991年〜現在〕崩壊‐低迷期」を追加した。

 この第5期が21世紀を迎えることができたと想定するならば,より明確になった事実がある。それは,日本マルクス主義経営学がその後において,そのなにを理論「転換」し,またそのなにを「確立」したというのか,ほとんど明らかにしていないことである。

 批判的経営学はいつであったか,マルクス主義的な企業経済理論に関する思想‐イデオロギーを,まちがいなく「転換」させていった。ただし,つぎの疑問も随伴させてのそれだった。

 すなわち,その「転換」という事態の発生に合わせて,個性的‐主体的‐自律的だとみなせるような,新しい「抽象力」の創造を十全に意識してきたのか?

 21世紀における経済‐産業‐企業経営の現実‐様相を,真正面より捕捉することのできるような,独自性ある「新しい企業理論」の「再構築」に努力してきたのか?

 「マル経」経営学は,その間〔→こまかくは@1980年代と,A1990年代以後の段階に区分できる〕,「転換」という表現のもとに自説:理論を根幹より変質させ転向してきた。同時にまた,思想・イデオロギー面での沈滞をきたし,迷走もはじめ,袋小路にはまりこんだ。いまのところ,そこから脱出する道が打開できたのかどうか,これを判断する適切な材料すら与えられていない。

 日本の某公党が提示する政治路線の「修正‐変更〔その後正式に改定〕」をうけ,これに適合させて自説・持論も忠実に「変質」させるという方向転換であれば,その学問・理論をになう社会科学者自身の「創造主体的な構想力」に関する資質が,基本より疑われて当然である。

 角谷登志雄『現代経営学』1995年は,旧ソ連などの「社会主義諸国」崩壊現象,市場経済化への転換の動き,「社会主義」理論の重大な誤りなどを指摘し,こう反省していた。

   古典の叙述や見解を絶対視する態度,研究・理論が政治や政党へ従属するという誤りをあらため,現代経済と企業・経営の歴史的な経過と問題点を全面的かつ客観的に分析し解明すべきであるという課題が,今日の科学的経営学にあたえられている。

   そのことは,それらの「社会主義」の理論と実際に大きな影響をおよぼしてきた科学的社会主義の諸先達の見解にかんしても,その先駆的な理論の内容を正しく評価するとともに,その歴史的・理論的な限界や不適切な部分ないし誤りを,その基礎的な事項もふくめて率直に批判し発展させることが必要であるという課題をも当然にふくんでいる。

   以上のような諸課題に誠実にとりくむことをつうじてのみ,真の意味での科学的経営学の発展と確立が可能となるであろう182)

   本稿で筆者が中心論点にとりあげ批判的に考察してきたのはまさしく,こうしたことばを操ることに頼った「仮想的な自己詐術」,あるいは「安価で手ごろな自己弁護論」におちいった「マルクス主義経営学者」の哀れな姿でもあった。

 角谷自身の問題であったはずの「古典の叙述や見解を絶対視する誤り」,あるいは「科学的社会主義の見解に関する歴史的・理論的な限界や不適切な部分ないし誤り」は,まるで他人事のように語られている。前述のように,特定政党の綱領に無条件に適応し移行する理論(?)展開をしてきたのであれば,それが学問の営為とみなせるのかという,根本的な疑念が湧いて当然である。

 前述,高須賀義博『マルクス経済学の解体と再生 増補版』1988年は,だから,日本にはまだスターリン教条主義が温存され,マルクス教条主義も残続しており,とくにスターリン教条主義の特殊性がマルクス経済学の低迷の原因だと指摘していた。

 ということで,1995年時点で角谷が表白した「今日の科学的経営学」「真の意味での科学的経営学」と,1970年代までにおける彼の「科学的経営学」「科学としての経営経済学」とのあいだにおいては,当人のいうような「〈真・正〉の意味での差異」はなにもみてとれない。

 それゆえ,その後においても「真正」マルクス‐レーニン主義的であらねばならなかった角谷の「科学的経営学」は,「第5期〔1991年〜現在〕崩壊‐低迷期」に立ちいたり,混迷の深淵に落ちこみ,消滅の局面に逢着した。

 技術評論家星野芳郎はこういっていたが,正直なところ,角谷も同じことを感じていたと推測される。

   社会主義が崩壊するとは思わなかった。社会主義に賭けて,いろいろな運動をしてきたからね。最初は社会主義が天下取ると思っていたんだから。天安門事件の3年前,86年ごろからかな,社会主義あかん,と思うようになったのは183)

 ただし,星野芳郎角谷登志雄のあいだには,同じでない面もある。星野は自分の社会主義に関する認識ちがいを素直に告白したが,角谷はそうではなかった。

 つまり,1970年代→1995年に継起した角谷内部における理論の「変質」は,世の中の流れに自説をご都合主義的に適応・修正させる,修辞面だけの「表相的ないいかえ」であった。

 それでもなお,「真の意味での(!)科学的経営学」をとなえている。

 いまとなっても,いったいなにをもって,その「真の意味での科学的経営学」だといわねばならないか? 

 問われた争点には直接答えず,問われてもいない論点を別途展示することで,自説・持論に生起した不可避の問題点をはぐらかし,黙殺してきた。

 現在までのところ,「科学的経営学」のその後における理論的展開は,その存否をみきわめるためにぜひとも不可欠な,「『真の意味での』歴史事実的な根拠,および論理実証的な材料」を提供できていない。だが逆に,それに反し,否定する材料なら容易に提示できる。それゆえ,角谷のいった「諸課題に誠実にとりくむこと」の姿勢は,疑いをかけられて当然なのである。

 いまとなって,「マルクス・レーニン主義の理論と実践の統一の見地にたいする批判は,どの点からみても,根拠のないものといわねばならない」〔見田石介〕184) といった類の「馬鹿げた信仰」的な告白は,全面的に拒絶されねばならない。

 学問‐理論のありかたにおいて,絶対の境地などありうるわけがない。それなのに,マルクス・レーニン主義に依拠する思想・学問が特効薬であるかのように語る社会科学者が,つい最近までこの国には,大勢いたのである。

 猪木正道は,「いかなる時と場所とにおいてでも万能であるといったふうな社会思想は,本来存在しません」と断言していた185)

 マルクス「自身の格言」に厳格にしたがっていえば,「マルクス主義の学問体系には根本的な欠陥がある」186),と「疑われてもよい」はずである。天才的人物の仕事とはいえ,人の考えることに完璧なものなどあるはずがない。

 

 5) 経済学に対する経営学の独自性

 あるマルクス経済学専攻者は,経済学という学問を説明するなかで,どのように経営学という学問を構想すればよいのかその手がかりを示唆している。

 a)「資本主義の一般理論」について。

 a)−@ 経済学は資本主義経済の運動法則を解明する科学である187)

 a)−A マルクスが構想した「歴史の学」は,特定の歴史期,資本主義社会の分析・叙述の学としてまずもって表象されなければならない類のものであった。この点で,マルクスの「歴史の学」を,無限定に歴史全般の認識論であるかのように位置づけようとするのは,「学」の水準からいって逸脱している188)

 b)「独占資本主義の理論」について。

 b)−@ 国家が基本的な階級関係の内部にまで直接に介入してそれを規制する点にこそ,それ以前の政策とは異なる国家独占資本主義の政策の特質がある189)

 b)−A かくして,「独占資本主義の理論」は「資本主義の一般理論」とはちがって,ある程度の蓋然性の論理を含むものとならざるをえない190)

 ある経済哲学者は,国家に対する資本家の概念をこう説明する。

   資本家を,単に自己増殖する価値としての資本の運動の「意識的にない手」としてだけでなく,その実存の主体性のうちに投資決意と貯蓄決意の分離の可能性をふくむ,生きた人間的個人として,改めて問題にしなければならない191)

 この把握は,資本家〔経営者〕の役割というものが,つぎの,

 
●「生産諸関係の総体:社会の経済的機構=現実の土台」

 
●「法律的・政治的上部構造」

 
●「一定の社会的意識諸形態,など

すなわち,「土台から上部構造の総体」という現実そのものを動かす力量をもつにいたった「意識的な担い手」であること,いいかえれば,現代資本主義における「経済の現実」に向かって,「ある程度の蓋然性の論理」を機能しうる「意識的な担い手」であることを,認めたものである。

 だから,そうした把握はまた,「社会科学としての経営学」の「研究対象の全体的な姿容:具体的な構図」の基盤を示唆するものでもある。今日の資本主義体制に対して現代の大企業が発揮する「蓋然性の論理」の「ある程度」なるものは,けっして軽小ではなく,むしろ決定的に重大であることは,まさに「経済の現実」である企業「経営の実態」において明白である。

 現代の経営学それも,個別資本〔運動〕説を中心に企業経営を研究対象にとりあげ理論を構想した経営学者は,〔前段のごとき〕資本の「ある程度の蓋然性の論理」の問題に,個別資本の「主体的な行動志向」の問題を重ね合わせる方途において,「経営学の方法」を具体的に議論してきた。

 仲田正機『現代企業構造と管理機能』(中央経済社,昭和58年)は,社会科学としての経営経済学にもとづいて企業管理を,理論的,歴史的かつ実証的に分析した著作である。仲田正機は,社会科学としての経営経済学の対象規定をめぐって,こう説明していた。

   @ 社会総資本と個別資本の関係に論究する。

 A 資本範疇の具体化=特殊化という上向法によって,企業の概念を考究する。

    そうして,基礎理論と事実認識をもって,独占的大企業の構造と機能を具体的で,かつ理論的に分析するための基礎視角を獲得する。

 B すなわち,現代企業の組織構造と管理機能は,資本主義的機能に基礎づけられて個別的自立性をもっているところの,特殊化された諸資本の現実の運動がどのような現象形態において構造化され,機能化しているかという視点から,それらの社会的・歴史的性格をもふくめてそれぞれの企業の実態に即して具体的に分析されねばならない192)

 以上において@はともかく,Bはそのままでよいと考える。だが,Aは,個別資本に対する対象規定およびその研究方法とを,社会総資本のなかから「資本範疇の具体化=特殊化という上向法によって」,「企業の概念を」「獲得する」と考えるのであれば,馬場克三学説の問題次元を克服していないというほかない。

 角谷登志雄上林貞治郎はといえば,先述のように,個別「資本のある程度の蓋然性」を認めない「企業経済学説」,いいかえれば,学問的な独自性を経営〔経済〕学に対して絶対的には認めず,ごく相対的しか許容しない「科学としての経営経済学」の立場を採っていた。その結果,21世紀のいまにいたり,「社会科学としての経営学」の立場を認めえなかった閉塞的な状況がかえって,「科学的経営学」の学問的な終焉を早めたのである。

 日本経営学の始祖上田貞次郎は,戦前におけるマルクシズムの流行を「舶来の迷信」と形容した193)。もっとも,迷信に舶来も国産もないと思うが,戦後,上田の次世代に当たるマルクス経営学者は,マルクス‐レーニンの名のもとに,またスターリンの後押しをうけて日本「国産の迷信」を斯学界に布教してきた。

   もしも階級闘争がマルクスの思想原理であるとすれば,マルクスを理解するとは,マルクスの思想を階級闘争の視座から徹頭徹尾《読みぬく》ことである。……すべてを−認識も行為も−階級闘争へ,これが根本テーゼとなる194)

   唯物弁証法においては,矛盾が一般に「対立」に還元されている傾きがある……。しかし,対立だけから果して真に統一,綜合に展開し得るものかどうか。この点は唯物弁証法にとって,今後の一つの大きな課題であろう195)

   しかし,資本主義の崩壊の必然性を論証したり,予言するだけではなんにもならない。それは,主よ,主よとよぶものが,神に救われるとは限らないのと同じである196)

   最近,日本のマルクス主義経営学陣営における内面的な変化は,「マルクス〈歴史の学〉を無限定に歴史全般の認識論には位置づけ」なくなり,その限界も悟るようになった。だから,その変化はまた,経営学のマルクス主義的な「批判的観点」をささえていた「確たる信念:思想‐イデオロギー的な立場」を撤回・放棄させ,「特定の歴史期,資本主義社会の分析・叙述の学」のほうへと軌道を修正させたのである。

 

 6) む す び−マルクス主義経営学の歴史的意味−

 結局,日本の批判的経営学は,「資本主義の崩壊の必然性」という《予測・期待》を実証も実現もできなかった。もちろん,マルクス主義経営学じたいの腰砕け現象を,みずから予知することもできなかった。いまとなって批判的経営学は,そうした理論の変質・転回・低迷によって「牙をもがれ」,かつ,その「牙を剥く」相手もみうしなった状態である。

 カール・コルシュ『マルクス主義と哲学』の記述表現を,ここでも借りて考えよう197)

 〔A〕「社会主義は,その目的においても,その全行程においても,自由を実現するための闘争である」。「唯物弁証法は,プロレタリア階級の歴史的解放闘争の『理論的表現』としての『科学的社会主義』のための必然的方法論的基礎を形成する」。

 〔B〕「マルクス主義理論の成立は,ヘーゲル・マルクス的にいえば,現実のプロレタリア階級運動の成立の『裏面』にすぎない。二つの面が合してはじめて歴史過程の具体的全体性をつくりあげる」。

   「ブルジョア科学のようにもはや『純粋』理論的科学でなく,またあろうとしないで,同時に変革的実践であるプロレタリア階級の新しい科学だけが,この〔ブルジョア経済学・哲学の『諸矛盾』と『アンチノミー』の〕呪縛をやぶることができる」。

 コルシュは,「〔A〕社会主義実現:階級闘争」のために「〔B〕変革的実践としてのマルクス主義理論」があることを厳格に指摘していた。すなわち,「プロレタリア革命の実践と,この革命的実践の内在的な現実の一成分である理論とのなかでだけ具体的に適用されうるものである」198)

 それゆえ,「〔A〕社会主義実現のための階級闘争」を棚上げした「〔B〕マルクス主義経営学」は,その「牙をもがれ」たも同然なのである。

 コルシュは,マルクス主義がもはや社会革命の理論ではなくなっているようなマルクス主義理論家にとって,まったく当然の帰結として,意識と現実の合致についての弁証法的な把握は余計なことになり,したがってついには,理論上の誤り(非科学的)とみえなければならないという結果になる,と論断した199)

 マルクス‐レーニン主義の入門書は当然のごとく,「マルクス主義は,解釈のための理論ではなく,変革のための理論です」,と解説していた200)

 しかしながら,角谷流「科学としての経営経済学」は,「政治的過程の理想化と道徳的問題の過度の単純化にもとづいている」。「技術的前提と道徳的前提とが深く絡み合っており,そこでは社会科学の技術的側面と実践論的側面との間に開かれたかつ持続的な対話が求められる」201) にもかかわらず,それらを,いとも簡単に片づくものと処置し,議論を切り上げていたのである。

 そうした対処の方法は,マルクス主義経営学者が「意識と現実の合致についての弁証法的な把握」にこだわったがゆえにかえって,「理論上の誤り(非科学的)」を招来するという逆説をきたしただけでなく,その「弁証法的な把握」じたいも放擲させるにいたったのである。「科学的経営学」の前途は,かたなしになったもひとしい。

 武並義和『イデオロギー支配と逆ユートピア』(世界思想社,1975年)は,ソルジェニーツィンの発した「ソ連社会主義体制批判のことば」を紹介する202)

 ◎「マルクス主義は悪魔である」。

 ◎「マルクス主義は死んだイデオロギーである」。

 そして,武並義和自身は,こうもいっていた203)

 a)「マルクス主義は,たとえ修正すべき多少の欠陥があるとしても,彼らにとってあくまでも〈神〉である」。「プロレタリアートは善玉であり,ブルジョアは悪玉である。この規準が動揺すること−それがまさにブルジョア的である」。

 b)「イデオロギーの狂信,反対派の仮借なき弾圧と粛清,大義名分による圧制」は,「昨日までの同志に対する罵詈罵倒が,これでもか,これでもか,といった調子で連日繰り返される。この心理は狂気と紙一重である」。

 c)「マルクス主義の知性の傲慢は,恐るべき知性の腐敗につながり,滲み出るその膿汁は腐食作用でもって人間存在を脅かしている」。

 ハーバート・A・サイモンはいった。

 「倫理的な言葉は,事実的な言葉に完全には変えうるものではない」。

 「それを正しいとか正しくないとか,客観的に記述することはできない」。

 「どのような推論の過程によっても,事実的命題を,倫理的命題から,導き出すことはできないし,また,倫理的命題は直接事実と比較することはできない−なぜなら,倫理的命題は事実よりはむしろ『当為』を主張するものだからである。それゆえ,倫理的命題の正当性を経験的または合理的にためす方法は存在しない」204)

 いまや今昔の感があるのだが,日本のマルクス主義経営学者も抱いたことのある根本テーゼ「階級闘争」の世界観は,資本主義体制に固有の矛盾を強調し,労働者階級との利害対立を煽り,社会主義社会到来の予言・必然を熱情的に論じるものであった。このことの歴史的意味は,いったいなんであり,どこにあったのか,あらためて検討されるべき余地がある。過去の出来事として置きざりにしておくには惜しい「学問の歴史」にまつわる検討問題である。

 


 

注  記 】の末尾につづく追 加 補 論 ジャンプする

 


【 注   記 】

 

1) 角谷登志雄『経営経済学の基礎−労務管理批判−』ミネルヴァ書房,昭和43年,序@頁。傍点は筆者。

2) 裴 富吉『歴史のなかの経営学−日本の経営学者:時代精神と学問思想−』白桃書房,2000年,第3章「科学としての経営経済学−上林貞治郎の思想と学問と理論−」。

3) 角谷『経営経済学の基礎』序A頁。傍点は筆者。

4) 上林貞治郎『ドイツ社会主義の発展過程−ドイツ民主共和国20年−』ミネルヴァ書房,昭和44年,344頁,345頁,346頁。

5) 角谷『経営経済学の基礎』序B-C頁。

6) 同書,序C頁。

7) 武村 勇『企業目的と組織行動』森山書店,昭和57年,序文1頁・2頁。

8) 牛尾真造『経営経済学批判−ドイツ経営学の系譜−』潮流社,昭和24年,10頁,9-10頁。

9) 牛尾真造『経営学説史』日本評論新社,昭和31年,4頁,3頁,4頁。

10) 同書,13頁,29頁。

11) 牛尾真造『入門経営学』中央経済社,昭和40年,7頁。

12) 牛尾真造『図説経営学』雄渾社,昭和45年,4頁,12頁。

13) 吉田和夫『ドイツ経営経済学』森山書店,1982年,217頁。

14) 金子 甫『資本主義と共産主義−マルクス主義の批判的分析』文眞堂,平成1年,332頁。

15) 裴 富吉「田中照純著『経営学の方法と歴史』(ミネルヴァ書房 1998年)」『立命館経営学』第38巻第2号,1999年7月。この書評は,記述中において引用した文献の注記個所を付記する形式とした。なぜ,そのような記述の方法を採ったかについてはあえて説明せず,断わっておくだけにする。

16) 吉田『ドイツ経営経済学』218頁,217-218頁。

17) 角谷登志雄『科学としての経営学−変革期におけるその課題と方法−』青木書店,1979年,まえがきD頁。

18) 同書,6頁。

19) 同書,13頁。

20) 同書,17頁。

21) 同書,25頁,28頁。なお,片岡信之『経営経済学の基礎理論−唯物史観と経営経済学−』千倉書房,昭和48年は,「企業の生産諸関係」と表現し(同書,はしがき3頁・ほか),角谷のように「企業生産関係」とはいっていない。

22) 同書,184頁。

23) 同書,36頁,35頁。

24) イ・ヴェ・スターリン,石堂清倫訳『弁証法的唯物論と史的唯物論』大月書店,1954年,113-114頁。

25) カール・マルクス,武田隆夫ほか3名訳『経済学批判』岩波書店,昭和31年,〔序言〕13頁。

26) カール・コルシュ,石堂清倫訳『マルクス主義と哲学』三一書房,1975年,129頁。

27) 淺野 敞『個別資本理論の研究』ミネルヴァ書房,1974年,19頁,20頁,36頁。

28) 吉田和夫『経営学大綱』同文舘,昭和60年,187頁は,裴 富吉『経営理論史−日本個別資本論史研究−』中央経済社,昭和59年を「本質論のみを展開したもの」と論及している。筆者による経営学講義の構想については,裴 富吉『経営学講義−原理と体系−』白桃書房,1993年参照。

 筆者の『経営学講義』における「経営学の原理的思考」の関連については,さらに中村常次郎の論著を参照されたい。@中村常次郎『経営経済学序説1』文化堂,昭和21年。A中村常次郎「経営学」,鈴木鴻一郎編『経済学研究入門』東京大学出版会,1967年。B中村常次郎編『経営学』有斐閣,昭和45年。C中村常次郎編『経営学原理』法学書院,昭和52年。

29) 角谷『科学としての経営学』39頁,65頁。

30) 同書,78-79頁。

31) OECD調査団,文部省訳・矢野 暢解説『日本の社会科学を批判する』講談社,昭和55年,179頁,150頁。

32) 角谷『科学としての経営学』130-131頁。

33) 角谷登志雄編著『激動の世界と企業経営 』同文舘,平成4年,〔角谷〕まえがき(3)頁。

34) 角谷『科学としての経営学』140頁。

35) 同書,145-146頁。

36) 同書,147頁。同書,149頁も参照。大阪商大事件については,上林貞治郎『大阪商大事件の真相』日本機関紙出版センター,1986年を挙げておく。

37) 裴 富吉『歴史のなかの経営学−日本の経営学者:時代精神と学問思想−』白桃書房,2000年,第2章「公社企業論:満州事業経営論」67頁以下に,筆者の関連する記述がある。

38) 角谷『科学としての経営学』159頁。角谷登志雄〔ら〕が他者に放った激越な排斥的論難に対する反論は,片岡信之「批判経営学における『批判』の意味について」,龍谷大学『経済学論集』第11巻第1・2号,1971年10月,三戸 公『自由と必然−わが経営学の探究−』文眞堂,昭和54年など参照。

 筆者の関連する論及は,裴『歴史のなかの経営学』第3章「科学としての経営経済学」180-184頁参照。

39) 角谷『科学としての経営学』174-184頁。本稿のU,本文で,注19)の個所にも学派分類に関する記述があった。比較対照しておきたい。

40) 同書,183頁。

41) 上林貞治郎『経営経済学入門』大月書店,1985年,24頁。傍点は筆者。

42) 角谷『科学としての経営学』192頁。

43) 同書,217頁。〔 〕内捕捉は筆者。

44) 同書,228頁。

45) 大藪龍介『マルクス社会主義像の転換』御茶の水書房,1996年,まえがきC頁。

46) ギュンター・シュミット,古林喜楽監修大橋昭一訳『現代経営学批判』ミネルヴァ書房,昭和35年,a) 55頁,b) 44頁,c) 53頁,50頁。

47) 角谷『科学としての経営学』237頁。

48) 同書,244頁。

49) 同書,249頁。

50) 同書,262頁。

51) 同書,262頁。

52) 裴 富吉「経営経済学の生成事情−中西寅雄経営学説に関する一考察−」『大阪産業大学論集〈社会科学編〉』第102号,1996年5月。裴 富吉「個別資本論史研究ノート−中西寅雄・中村常次郎両学説小論−」『上武大学経営情報学部論集』第5号,昭和63年6月。裴 富吉『経営理論史−日本個別資本論史研究−』中央経済社,昭和59年,第1章「経営学の理論−中西寅雄の経営学説−」。

53) 伊藤孝夫『瀧川幸辰−汝の道を歩め−』ミネルヴァ書房,2003年,109頁。

54)『小泉信三全集 第7巻』文藝春秋,昭和42年,〔「マルクス死後五十年」増訂版〕序11頁。本文〔 〕内補足は筆者。

55) 角谷登志雄編『マルクス主義経営学論争』有斐閣,昭和52年,〔角谷〕229頁。

56) 吉田和夫『ドイツ経営経済学』森山書店,1982年,208頁。

57) 住谷悦治『唯物史観より見たる経済学史』弘文堂書房,大正15年,344頁。

58) 住谷悦治『経済学史の基礎概念』改造社,昭和6年,457頁。

59) 中西寅雄『経営経済学』日本評論社,昭和6年,2頁,3頁,57頁,57-58頁。

60) 淺野『個別資本理論の研究』26頁。

61) 大内兵衛『経済学』岩波書店,1951年,22-23頁。

62) 猪木正道『共産主義の系譜 増補新版5版』角川書店,昭和41年,61頁。

63) 角谷『科学としての経営学』265頁。

64) 同書,270頁。

65) 裴『歴史のなかの経営学』,とくに,第3章「科学としての経営経済学」。

66) 内田芳明『ヴェーバーとマルクス−日本社会科学の思想構想−』岩波書店,昭和47年,55頁。

67) 高島善哉『マルクスとヴェーバー−人間,社会および認識の方法−』紀伊國屋書店,1975年,300頁,299-300頁。

68)『中西寅雄経営経済学論文選集』千倉書房,昭和55年参照。本書の巻頭に「中西寅雄と日本の原価計算」を寄せた黒澤 清の『日本会計制度発達史』財経詳報社,平成2年も参照。

69) 「叢書現代経営学全20巻」ミネルヴァ書房,1998〔〜〕年の各巻冒頭に掲載の「『叢書 現代経営学』刊行のことば」より。

70) 林 昭・門脇延行・酒井正三郎編著『体制転換と企業・経営』ミネルヴァ書房,2001年,はしがきB頁。

71) 同書,はしがきC頁。

72) 同書,はしがきD頁。

73) 角谷『科学としての経営学』まえがきD頁。〔 〕補足と傍点は筆者。

74) 角谷登志雄『戦後日本の企業経営−「日本的経営」とその転機−』中央経済社,昭和58年,まえがきE頁。

75) 角谷登志雄『現代の組織と管理−企業と個人の基本問題−』同文舘,昭和61年,前書E頁。

76) 相澤秀一『経済学説史』三笠書房,昭和22年,177頁。

77) 角谷『現代の組織と管理』前書D-E頁。

78) 角谷登志雄『労働と管理の経済理論』青木書店,1969年,序C頁。

79) 角谷登志雄『現代帝国主義と企業』汐文社,1973年,はしがき@-A頁。

80) 角谷『現代の組織と管理』前書D-E頁。

81) 牛尾真造『図説経営学』雄渾社,昭和45年,4頁,12頁。

82) 松本 讓『現代経営学の基礎』文眞堂,1997年,9頁,35頁。

83) 角谷『科学としての経営学』28頁。

84) 松本『現代経営学の基礎』はじめにA頁。

85) 同書,15頁。

86) 角谷『科学としての経営学』17頁。

87) 角谷『現代の組織と管理』前書C頁。

88) 仲田正機・夏目啓二編著『企業経営変革の新世紀』同文舘,平成14年,はしがき。

89) 角谷登志雄編『マルクス主義経営学論争』有斐閣,昭和52年,〔角谷〕232頁。

90) 堤 矩之「批判的経営学研究の方法」『経済』1975年6月,224頁。

91) 角谷『科学としての経営学』265頁。

92) 角谷編『マルクス主義経営学論争』〔角谷〕229頁。

93) 河合栄治郎『マルキシズムとは何か』社会思想研究会出版部,昭和35年,137頁。

94) 宮川公男『政策科学の基礎』東洋経済新報社,1994年,15-16頁。

95) 難波田春夫著作集7『近代日本社会経済思想史』早稲田大学出版部,昭和57年,113頁。〔 〕内補足は筆者。

96) 上山春平『弁証法の系譜−マルクス主義とプラグマティズム−』未來社,1968年,249-250頁。

97) 社会思想研究会編『経済学教科書の問題点 上』中央公論社,昭和31年,244頁。

98) 上山『弁証法の系譜』243-244頁。

99) 大内兵衛『経済学五十年上』東京大学出版会,1970年,287頁。

100) 向坂逸郎『わが資本論』新潮社,昭和47年,122-123頁。

101) 竹内 洋『大学という病−東大紛擾と教授群像−』中央公論新社,2001年,180頁。

102) 東京大学経済学部編『東京大学経済学部五十年史』東京大学出版会,昭和51年,675頁。

103) 馬場宏二『マルクス経済学の活き方−批判と好奇心−』御茶の水書房,2003年,10頁。

104) 弘津恭輔『マルクスレーニン主義批判』立花書房,昭和61年,78-79頁。

105) 猪木正道『共産主義の系譜 増訂新版5版』角川書店,昭和41年,はしがき5頁。

106) 同書,17頁。

107) 同書,60-65頁。

108) 伊達 功『増補 社会科学の歴史と方法』ミネルヴァ書房,1976年,295頁。

109) 角谷『労働と管理の経済理論』序C頁。

110) 菊地昌典『歴史としてのスターリン時代』盛田書店,1966年,275頁。

111) 角谷『戦後日本の企業経営』183頁。

112) 同書,185頁。

113) ソ連邦科学院経済学研究所著,経済学教科書刊行会訳『経済学教科書−改訂増補第4版−第3分冊』合同出版,1963年,640-641頁。

114) 降旗節雄『科学とイデオロギー−マルクスとウェーバーをめぐって−』青木書店,1968年,46頁。

115) 安藤貞男『社会発展史入門』新日本出版社,1966年,180頁,176頁。

116) 同書,177頁。

117) 向坂逸郎『マルクス経済学の基本問題』岩波書店,昭和37年,59頁,58頁。

118) 日下藤吾『唯物史観の再吟味』日下藤吾先生還暦記念論集刊行会(敬文堂出版部),昭和43年,8頁。

119) 桑山善之助『科学としての資本主義と社会主義』同成社,1970年,102頁。

120) 角谷登志雄編著『激動の世界と企業経営 』同文舘,1992年,〔角谷〕14頁。

121) 和田春樹『新地域主義宣言 東北アジア共同の家』平凡社,2003年,270頁。

122) 大阪市立大学経済研究所編『経済学辞典』岩波書店,1965年,1035頁右段。

123) 熊谷尚夫・篠原三代平編集委員代表『経済学大辞典(第2版)V』東洋経済新報社,昭和55年,363頁右段,379頁左段。

124) 矢島悦太郎『概説社会思想史』蒼柴社,昭和28年,473-477頁。

125) 石渡貞雄『現代資本論T−方法論的考察−』御茶の水書房,1967年,213頁,206頁,210頁。

126) 同書,215頁,216-217頁,217頁,218頁,221頁,257-258頁。

127) 同書,229頁,231頁,232頁。

128) 同書,215頁。

129) 降旗節雄『生きているマルクス』文眞堂,1993年,はじめにB-D頁。

130) 滝沢克己『「現代」への哲学的思惟−マルクス哲学と経済学−』三一書房,1969年,33-34頁,36頁,37頁。〔 〕内補足は筆者。

131) 水田 洋『現代とマルクス主義』新評論,1966年,201頁。

132) 日高 普『マルクスの夢の行方』青土社,1994年,17頁,21頁,38頁。

133) 同書,183頁。

134) 玉野井芳郎『マルクス経済学と近代経済学』日本経済新聞社,昭和41年,14頁。

135) 同書,99頁。

136) 平田喜久雄『『資本論』の論理』法律文化社,1978年,18頁。

137) 森田桐郎・望月清司,講座マルクス経済学第1巻『社会認識と歴史理論』日本評論社,昭和49年,3頁。

138) 水田『現代とマルクス主義』55頁。

139) 同書,213頁,215頁。

140) 同書,218頁。

141) 関 恒義『経済学発達史』青木書店,1792年,243頁。

142) 中原雄一郎『弁証法的唯物論入門』新日本出版社,1965年,13頁,160-161頁,210頁。

143) 堀江忠男『弁証法経済学批判−ヘーゲル・マルクス・宇野の「虚偽」−』早稲田大学出版部,昭和50年,44-45頁。堀江忠男『マルクス経済学と現実−否定的役割を演じた弁証法−』学文社,昭和40年,32頁,33頁,146頁。堀江忠男『二つの体制と政治経済学』早稲田大学出版部,昭和45年,146頁。

144) 向坂逸郎『マルクス経済学の方法』岩波書店,1959年,まえがきB・A頁。

145) 角谷登志雄『現代経営学』青木書店,1995年,222頁。

146) カール・マルクス,長谷部文雄訳『資本論第2巻(第1部下冊)』青木書店,1954年,1159頁。

147) 上林貞治郎『経営経済学入門』大月書店,1985年,174頁。傍点は原文,下線は筆者。

148) 梅本克己『唯物史観と現代』岩波書店,1967年,208頁。

149) 高須賀義博『マルクス経済学の解体と再生 増補版』御茶の水書房,1988年,78頁,84頁,84-86頁。

150) 同書,178-179頁。

151) 西田照見『マルクス思想の限境』新評論,1979年,232頁,137頁,136頁。

152) 佐々木力『生きているトロツキイ』東京大学出版会,1996年,64頁,119頁,121頁。

153) 山口正之『社会主義の崩壊と資本主義のゆくえ』大月書店,1996年,88-89頁。

154) 向坂逸郎『マルクス主義と民族問題』慶友社,昭和29年,224頁。

155) 山根隆志・石川 巌『イラクの戦争の出撃拠点−在日米軍と「思いやり予算」の検証−』新日本出版社,2003年,94-95頁。

156) 田岡俊次『2時間でわかる 図解 日本を囲む軍事力の構図』中経出版,2003年,はじめに2頁。

157) 小林正弥編『戦争批判の公共哲学』勁草書房,2003年,139頁。

158) 大西 広『グローバリゼーションから軍事的帝国主義へ−アメリカの衰退と資本主義世界のゆくえ−』大月書店,2003年,〔はじめに〕11頁,53頁。

 往時の「アメリカ金融帝国」に関する文献として,ヴィクター・パーロの著作を思いだしておく余地もある。ヴィクター・パーロ,浅尾 孝訳『最高の金融帝国−アメリカ独占資本の構造と機能−』合同出版,1958年〔原著,1957年〕。ヴィクター・パーロ,清水嘉治・太田 譲訳『軍国主義と産業−ミサイル時代の軍需利潤−』新評論,1967年〔原著,1963年〕。

159) 山口『社会主義の崩壊と資本主義のゆくえ』303頁。

160) ベーム・バウエルク,竹原八郎訳『マルクス学説体系の終焉』日本評論社,昭和6年,3-4頁。原文ドイツ語題名とこれを翻訳した英語題名は,Eugen von Bohm-Bawerk, Zum Abschluss des Marxschen Systems, 1896. [Karl Marx and the close of his system, 1949.]。

161)『小泉信三全集 第7巻』文藝春秋,昭和42年,〔「マルクス死後五十年」昭和8年〕 89頁,101頁,135頁。

162) 同書〔同所〕163頁。

163) 同書〔同所〕28頁。

164)『小泉信三全集 第10集』文藝春秋,昭和42年,〔「共産主義批判の常識」昭和24年〕102頁。

165)『小泉信三全集 第7集』〔「マルクス死後五十年」〕55頁,47頁。

166)『小泉信三全集 第10集』文藝春秋,昭和42年,〔「共産主義批判の常識」昭和24年〕76頁。『小泉信三全集 第7集』〔「マルクス死後五十年」〕137-138頁。

167)『小泉信三全集 第10集』〔「私とマルクシズム」昭和25年〕268頁。

168) 同書〔同所〕221頁。

169) 難波田春夫著作集7『近代日本社会経済思想史』早稲田大学出版部,昭和57年,124頁,129頁,129-130頁。

170)『小泉信三全集 第2集』文藝春秋,昭和43年,〔小竹豊治「解説」〕530頁。

171) 白井 厚・浅羽久美子・翠川紀子編,慶大経済学部白井ゼミナール調査『証言太平洋戦争の慶応義塾』慶応義塾大学出版会,2003年,12頁。

172)『小泉信三全集 第7集』〔「マルクス死後五十年」〕66頁,19頁。

173) 伊藤 誠・野口 真・横川信治編著〔植村博恭・ほか8名著〕『マルクスの逆襲−政治経済学の復活−』日本評論社,1996年,315-316頁,317頁。

174) 霜田美樹雄『マルクス主義と宗教』第三文明社,1976年,94頁,96頁,98-99頁。

175) 経営学史学会編『経営学史事典』文眞堂,2002年,〔稲村 毅〕6頁。

176) 稲村 毅『経営管理論史の根本問題』ミネルヴァ書房,1985年,はしがき@頁。

177) 上林貞治郎『マルクス経済学と近代経済学(新版)』ミネルヴァ書房,昭和44年,82頁。

178) 鈴木 亨『唯物論と実存の探求』季節社,1973年,〔あとがき〕197頁。

179) カール・R・ポパー,大内義一・森 博訳『科学的発見の論理 上』恒星社厚生閣,1971年,54頁。

180) カール・コルシュ,石堂清倫訳『マルクス主義と哲学』三一書房,1975年,191頁。

181) 秋谷重男『経済学における思想と科学』盛田書店,1970年,76頁。〔 〕内補足は筆者。

182) 角谷『現代経営学』1995年,245頁。

183) 『朝日新聞』2003年11月28日夕刊,星野芳郎「風韻」欄。

184) 見田石介『宇野理論とマルクス主義経済学』青木書店,1968年,257頁。

185) 猪木正道『社会思想史』弘文堂,昭和25年,79頁。

186) 堀江忠男『ONE FREE WORLD −ある経済学者の昭和史−』新評論,1989年,168頁。

187) 大内 力・戸原四郎・大内秀明『経済学概論』東京大学出版会,1966年,20頁。

188) 鷲田小彌太『唯物史観の構想−哲学の貧困の時代を抉る−』批評社,1983年,175頁。

189) 大内・戸原・大内『経済学概論』335頁。

190) 北原 勇『独占資本主義の理論』有斐閣,昭和52年,6頁。

191) 武藤光朗『経済学史の哲学』創文社,昭和44年,129頁。

192) 仲田正機『現代企業構造と管理機能』中央経済社,昭和58年,3-4頁,2頁,2-3頁。

193) 昭和文学全集27『小泉信三集』角川書店,昭和28年,〔7「師・友・書籍第2輯,上田貞次郎」〕134頁。

194) 今村仁司『現代思想の展開』講談社,1995年,86頁。

195) 武市健人編『論理学概論−形式論理学・記号論理学・弁証法−』青春出版社,1959年,160頁。

196) 小原敬士『資本主義入門−その歴史と将来−』社会思想社,昭和41年,251頁。

197) コルシュ,石堂清倫訳『マルクス主義と哲学』62頁,191頁,82頁,199頁。

198) 同書,201頁。

199) 同書,136頁。

200) 安藤貞男『社会発展史入門』新日本出版社,1966年,201-202頁。

201) 宮川公男『政策科学の基礎』東洋経済新報社,1994年,389頁。

202) 武並義和『イデオロギー支配と逆ユートピア』世界思想社,1975年,はじめに@頁。

203) 同書,a) はじめにA頁,116頁,b) はじめにB頁,67頁,c) 215頁。

204) ハーバート・A・サイモン,松田武彦・高柳 暁・二村敏子『経営行動』ダイヤモンド社,昭和40年,58頁,59頁。

 


 −2003年11月30日 脱稿−


 

 【 補 追 註 論 】(随時の補説・追論)

 


 ◎ 本稿校正中の2004年1月に,いいだ・もも『日本共産党はどこへ行く?』論創社が公刊された。この著作は,筆者が本稿で若干言及した「特定の論点」に関連して「深い究明」をおこなっている。

 同書は,B6版で本文763頁もある浩瀚な著作である。販売価格は5千円(プラス消費税)。いいだは,日本の某公党における政治実践的なマルクス主義の問題性に対して,徹底的な批判をくわえている。

 −2004年3月1日 追記−

 


 ジャック・ロッシ=ミシェル・サンド,外川継男訳『ラーゲリのフランス人−収容所群島・漂流24年−』(恵雅堂出版,2004年9月)は,本稿が分析・検討・批判した中心の論題に関して「誰に責任があるのか」と問い,こう答える(同書,446頁,447頁,453頁)

  ●「レーニン」
 
まずもってレーニンだ。マルクスはそれほどではない。なぜなら,彼は結果を予測していなかったからだ。しかし,レーニンはいろんな命令にサインしている。何百という,何千という農民を絞首刑にした。

  ●「スターリン」
 スターリンはそれを延長しただけだ。もし裁判をするなら,人民に対して犯罪を犯したソビエト共産党を裁判にかけるべきだ。ソ連という国家はニュルンベルグでナチを裁いたが,ソ連自身が罪を犯している。つまるところ,ソビエトの犯罪はナチスの犯罪のように1度も公的に有罪の宣告をうけてこなかった。

  ●「復讐心」
 全体主義体制が,人間的なやりかたで作られるものではないということは,しらなければならない。その他のことは,悪の巨大さがすべての復讐心を徐々に消しさる。復讐心は審理追求の障害となるもので,悪夢を再び繰りかえさないために戦うことは崇高な仕事であるだけに,そのような心は,個人的な貧しい勘定の清算に終わってしまうことだろう。

  ●「ユートピアは到来したか?」
 ジャック・ロッシは,自分の苦難=「収容所群島における漂流24年」が自分の選んだ主義・理論・行為の代償であって,当然の報いであることを強調している。それと同時に,共産主義の宣伝をし,ユートピアの到来を信じたフランスの左翼インテリが,共産主義崩壊のあとも,ぬくぬくとしていることをきびしく指弾する。

  ●「20世紀の悲劇:全体主義」
 ソ連のたどってきた道や,あまりにも多くの犠牲については,その原因がレーニンにあったことを,ジャックははっきり指摘する。20世紀の悲劇の原因である全体主義について,ヒトラーのナチズムとレーニンのボリシェヴィズムの,いずれに責任が大きいかといった問題設定には,ジャック・ロッシはあまり関心をしめさない。ジャックにとって,虎と狼のどっちが恐ろしいかということは,問題として成立しないからだ。

 −2005年4月29日 追記−

 


 ■−1 富永健一『現代の社会科学者−現代社会科学における実証主義と理念主義−』(講談社,1993年)は,エドゥアルト・「ベルンシュタインの指摘は,20世紀後半の先進資本主義諸国における『正統』マルクス主義の運命を,半世紀前にみごとに見とおしたものであった」と,指摘していた(同書,452頁)

 −2005年11月13日 追記−

 

 ■−2 大田一廣編,経済思想第6巻『社会主義と経済学』(日本経済評論社,2005年10月)は,マルクス『資本論』の論理構造を対象化してみたベルンシュタイン「修正主義」を,こう位置づけている(同書,303-307頁参照)

 1873年の恐慌につづく大不況の時代,ドイツやアメリカで重工業部門を中心にカルテルやトラストといった従来の資本主義の企業組織を超える組織携帯が広がり,複数の資本主義諸国が海外市場で競合するという事態が生じた。資本主義は明らかに,マルクスの時代からは変化しはじめていた。

 そういう時代状況に対応して生まれたベルンシュタインの議論は,当時の資本主義認識の深化に対して一定の影響を与えた。ベルンシュタインは,マルクスの理論に関する問題点・不備を,こう説明した。

 a) マルクスの理論は資本主義発展の一般的傾向の叙述であるかぎり正しいが,特殊な分野には適用できないことがある。

 b) 価値論などは対象を限定したばあいには,正しい。

 c) 全般的恐慌の勃発という議論は,現実の資本主義の変化によって妥当性をうしなっている。恐慌が生じない理由を,どう説明するのか問題が残る。

 ベルンシュタインは,以上のような議論=批判を経てマルクスの理論じたいの否認にまですすんだため,修正主義として攻撃された。とくに問題とされたのは,c) である。

 なぜなら当時,全般的な恐慌が,資本主義の没落や社会主義の必然性を根拠づける最重要な現実的事象として,認識されていたからである。もしも,全般的恐慌が生じないなら,資本主義に残された問題を改革して徐々によりよい体制に移行させればいい,という改良主義が現実味を帯びてくる。

 マルクスに対するベルンシュタインの批判に興味深い反応をしめしたのは,パルヴスであった。パルバスは,事態の変化をめぐって「視点をかえずに観察する能力」,いいかえれば「革命という視点」をうしなったベルンシュタインは現実認識を誤らせたと,反批判したのである。

 パルバスのいう「革命の視点」は,当時の社会‐政治状況のもとでは十分説得力をもちえた「社会主義革命の必然性」,つまり「資本主義の崩壊ないしは没落の必然性を確認する」ことにおかれていた。それは,プロレタリアートの社会革命的結果の可能性を探る視点であり,ある時代が革命の可能性をもつ時期であるかどうかは,革命的結集を必要とする客観的条件があるかどうかをみきわめることにある,とされた。

 パルバスのそのように「事態の推移」をみる視点は,「世界市場という国民経済を包含する世界規模の空間」と「より長期の時間的経緯」において,資本主義をとらえるそれであった。換言するなら,ある政策目的とくに「経済体制を変革するという目的」をもち,世界市場を舞台にして,制度(システム)の長期変動の態様を追求する視点であった。

 しかし,パルバスの反論は,ベルンシュタインの提起した問題に答えきっていない。

 −−かつては,「革命の視点」をしきりに高調していた日本のマルクス主義的経営学〔経済〕者たちが大勢いた。だが,いまとなってはもう,その面影すらない。往時における「彼らの勇姿」をもう一度想起したいと思っても,いつのまにか,それは遠くに退いており,茫洋たる光景でしかなくなった。過去においては勇猛果敢であって,非常なる自信に満ちていた「彼らの雄々しい活躍ぶり」が懐かしい。あれは《幻》だったのか,はたまた,単なる〈虚像〉だったのか。それほどまで影が薄くなってしまった。

 本稿が論及したように,1980年代に入ると「彼らの学問」はその核心部分だった「革命の視点」を曖昧化させていった。「1990年前後」を迎える以前,「マルクス主義的経営学の立脚点」は早くも破綻していた。以後,その残照をみつめながら生きのびてきた。

 「正統派マルクス主義」的経営学の堅固たる主義・信条・思想をいまなお密教的に堅持できているらしい「ある日本の経営学者」は,筆者の本稿を一読してくれたのち,「特高ばり」の「魔女狩り」の方向にはけっしてすすまぬようにと,ありがたい忠告・助言をしてくれた。

 筆者は,本稿がそのように「高みに立った議論」をしているとは考えていない。ただし,理論分析の水準を高くたもつ努力は,怠っていないつもりではある。

 振りかえってみれば,かつては「特高ばり」の「魔女狩り」をもっとも得意にしていたのが,日本のマルクス主義的経営学〔経済〕者たちだった。この史的事実は「彼」も否定しないだろう。それゆえ,前段にうけた「忠告・助言」は,筆者を「狐につままれた」かのような気分にしてくれた。

 是々非々の姿勢で学問にとりくんでいる筆者にとって,左‐右だとか革新‐保守だとかという陣取りは,無意味である。前段のような「忠告・助言」を呈示した経営学者(1941年生まれ)は,学会活動をとおして筆者とは知己の間柄であるけれども,筆者に対する理解に関しては確実に,違和感をきたしたようすである。

 本稿が主にとりあげた角谷登志雄氏に思想的な「査問を2時間」受けたことがあると,私信のなかでその〈過去の事実〉をそっと打ち明けてくれた経営学者もいる。いま,この事実をはじめて披露しておく。その該当者や情報源はもちろん公開できないが,筆者がこれからさらに数十年,生命を長らえたら,その私信を学問的な次元でとりあつかいうる時期がくるかもしれない。そして,その人が誰であったかを明かすことができるかもしれない。ほかにも,そうした体験をさせられてきた日本の経営学者が多数いる。

 本文中で某政党の綱領改定に言及したが,民主集中制下におけるその党の体質,または体質化しやすいを,25項目も列挙した油井喜夫『汚名』(毎日新聞社,1999年6月)も,その「査問体質」を出していた。本稿の検討に参考となる項目を適当に拾い,以下の3項目に整理しておく(同書,275-276頁参照)

 ◎−1「党社会主義理論の解釈権の独占」 ……唯一前衛党主義の幹部および彼らの論文に対する絶対的信頼が要求される。つまり,1人に党内権力が集中する集団指導の虚構。

 ◎−2「タテ型一枚岩主義」 ……党中央を頂点とする垂直制価値観以外の軽視・排除が当然視され,党中央や上部機関による事実上の「検閲」がおこなわれている。意見・異論・批判に対しては過剰な反応をしめす。

 ◎−3「没個性の体質」 ……上部からの指令待ち姿勢がある。つまり,党内情報の機関管理の徹底がなされ,全員一致が美化されている。離党者は裏切りあつかいされる。 

 −2005年11月18・21日 追記−

 


   先述にも登場した「ある日本の経営学者」は,「正統派マルクス主義」経営学の思想・信条を,いまもなお密教的に堅持している。彼は本稿を一読後,筆者に向かい,こう〈忠告・助言〉してくれた。「特高ばり」の「魔女狩り」の方向にはけっしてすすまぬように,と。

 筆者にいわせれば,彼のいいぶんは自分たちの陣営がかつて,もっとも得意にしていた「専売特許」的な特技を,なんの断わりもなく密やかに撤回したものである。

 ところが,いまではそれを押し売り的に筆者に譲渡できたつもりになっている。そして表面的には,不良在庫をあたかもうまく有償でスクラップ処分できたかのようにも,さっぱりした気持でいられるのである。

 筆者はいずれにせよ,そうした相互の関係を〈とても不思議な現象〉と観察している。

 さて,高橋 衞『明治から昭和へ 選択の屈折』(御茶の水書房,2005年10月)は,これまでのマルクス主義の学問形態を,こう批判‐総括する。

  マルクス主義の最大の欠陥のひとつは,その無謬性への独善的な確信と,それに付随した宗教的ともいうべき信奉性にあった。

 現実の社会主義も,その国によりさまざまな変質を遂げつつあるが,看板を降ろさずに,市場経済(=資本主義)への以降を公然となしくずし的にすすめる方式は,納得しがたい。その国がデモクラシーを欠如しているばあい,国内では許容されるかもしれぬが,おそらくその矛盾の露呈は時間の問題であろう。

 日本の関係政党にも,やはりわかりやすい清算が求められていると思われる。

 1917年以降に「段階論」を設定しえないでいる「宇野理論」などは,ロシア革命の幻想から脱去できないできたのではなかろうか。また,近代への憧憬を維持してきた「大塚史学」などは,社会主義社会をめざした「前衛」路線の「講座派」の後塵を拝することから,やはり抜け出せないできたのではないか。

 社会主義を標榜することを,ただ撤回することをいうのではない。少なくともソ連に始まり,そのリードで形成されてきた社会主義が崩壊したことは,紛れもない史実である。このことの十全なアウフヘーベン抜きには新たな理論的前進は,とうていありえない。

 日本の従来の近代史研究は,大なり小なり,この社会主義の動向に左右されてきた。社会主義ないしはその運動に対する共感・憧憬・幻想・さらにはコンプレックスから,失望・忌避にいたるまで,さまざまな影響を受けてきた。いまその崩壊に臨んでは,忘却から無関心・「我関せず焉」などや反発・否定など,またさまざまな揺り戻しへの対応に揺れている。

 もちろん,その以前から実証史学に徹して,影響から逃れていた研究者も,よかれ悪しかれ少なくはない。しかし,そのような両域もふくめて,いまやドラスティックな再対応が求められていると考えられる(同書,〔終わりに〕218-219頁)

 −2005年12月17日 追記−

  


    「満州事変」が起こされた1931〔昭和6〕年の時点で,マルクス主義に対する解明・批判の視座・議論を,日本帝国文部省の求めに応じて提供した,当時東京帝国大学経済学部教授だった河合栄治郎は,こう述べていた。

 マルキシズムは自分の思想への眼を開かしたのみでなく,およそ思想というものに対する青年学生の眼を開かしたという一つの特殊的役目を日本の社会に果たしたのである。

 マルキシズムが突いている原因,社会の弊害の核心をすっかり直して行くのでなければマルキシズムが地を払うということはむずかしいのである(河合栄治郎『マルキシズムとは何か』世界思想社,昭和35年,138頁)

 マルキシズムが指摘した資本主義体制において,もう問題も矛盾もなにもなくなったなどとはいえない。その「原因,社会の弊害の核心」を分析し批判するための「眼を開かした」「役目」が,その主義から消滅したわけでもない。

 『河合栄治郎全集 第10巻』(社会思想社,昭和43年)は,戦前日本の政治体制のなかで苦闘させれた自由主義者:河合栄治郎の軌跡を,つぎのように描いている。

 日中戦争〔1936:昭和12年〕が始まると,自由主義者の河合栄治郎に対する弾圧がはげしくなり,昭和13〔1938〕年10月,河合の4著書が発禁とされ,論壇から追放しようとする動きが表面化する。それは,河合『時局と自由主義』のしめした果敢な軍部批判・国家主義攻撃が,軍部と右翼勢力をいちじるしく刺激したためであった。

 著書の発禁につづいて,河合は〔1939:昭和14年2月〕出版法違反で起訴され,ついに有罪判決をうけた。その長いあいだの法廷闘争のため,彼の健康は害され,昭和19〔1944〕年2月死去した。『時局と自由主義』は,自由主義者河合栄治郎の運命を賭けた労作である(同書,土屋 清「解説」385頁参照。〔   〕内補足は筆者)

 筆者のしるかぎり,戦争中牢獄に囚われた経営学者が若干名いた事実は記録されている。だが,敗戦から約半世紀近くの期間,自由な学問環境がともかく確保させていた研究体制のなか,日本経営学界では不朽の一翼に映ってもいた,いうなれば,マルキシズムの思想と立場を一貫させえてきたはずの「かつてのマルクス主義経営学者」たちは,いったいどこへ去ってしまったのか。いまでは,その残兵ともいうべき斯学界の人士たちもいつのまにか,一様に宗旨替えしたかのごとくマルクス主義的論説を引っこめてしまった。

 前段に指摘した斯学界の研究情勢に関する歴史的な変転〔急変!〕の事実は,筆者と同世代の経営学研究者であれば,いわずもがなの知識,いいかえれば「公然の秘密」に属する。その後における変身形態を,下記のように分類してみたい。

 @ 研究課題をマルクス主義的な色調のないものに,漸次,カメレオン的に転換,置換,変更。

 A 「市民経営学」「社会経営学」を新しく標榜することによって,かつての「マルクス主義的な経営学」の思想・理論を,換骨奪胎的にかつ発展的に解消させようとする企図。

 B 大学研究者であるよりも大学行政管理者の立場に一身を移動させることによって,自身の学問に固有だったマルクス主義的な立脚基盤の残滓を忘れよう,払拭しようとする保身的な方途。

 C マルクス主義的思想・学説・理論の蹉跌にもめげず,心機一転,あらためて伝承・発展させようと試みる立場。

 −−大藪龍介『マルクス社会主義像の転換』(御茶の水書房,1996年)は,「マルクス主義理論研究の新しい地平を拓くべきこと」を「提唱」する。そして「新しいマルクス像」を「今日的に蘇えらせ生かすことができる……接し方」の構築・展開を主張する。

 前掲A 「市民経営学」「社会経営学」は多分,経営学においてこの大藪龍介の意図に匹敵する挑戦でもある。しかし,マルクス主義的経営学の伝統・成果との相互関連を読みとりえない形式と内容の記述方式であるためか,マルクス主義的な経営学の立場に従来立っていた人士も的確に指摘することだが,その体内にまちがいなくしこまれている「従前の批判的経営学」との理論的な系譜関係が論点から除外され,曖昧化し,不詳のままである。

 「市民経営学」「社会経営学」の評価でいえば,一部に好意的な論評がないわけではない。だが,そうした学問の志向性はけっして,突然変異的に発生していない。だからここでは,それが学史的に包蔵しているはずの理論上の継承‐発展の関係に関して,必須である自己説明を,欠かせた韜晦が指摘されねばならない。このわかりにくい「論点」は,その究明を今後に俟たねばならない。

 −2005年12月29日 追記−

 


 元大阪女子大学教授田川建三は,『キリスト教思想への招待』(勁草書房,2003年3月)という著作で,こう述べている。

 横道だが,ソ連邦の崩壊以後,つまり,マルクス主義を自称してはいたが,カール・マルクスとはまるで正反対の方向を向いていた政治権力が崩壊して以後,世界で,とくに日本では,カール・マルクスの本を人々が読まなくなった。奇妙な現象である。いまでこそ必要なのに。

 ほんの2,30年ぐらいまえまでは,うるさくマルクス,マルクスと騒いでおいでになった日本の評論家諸氏は,その看板をどこにお隠しになられたのか。まあもちろん,現在の世の中で経済の動きを理解するためには,カール・マルクスなんぞ読んでもなんの役にも立たない。

 株価の微妙な動きを察知して,うまく儲けるためには,マルクスなんぞまるで関係のない世界である。しかし,いまの世の中の圧倒的な経済による人間の支配のなかで,どうもこれだけで話が終っては困るという違和感をもって生きている方は大勢おいでになるだろう。

 その方々には,カール・マルクスをお読みになれば,その違和感の理由のかなりの部分がそこで説明されているのをみいだすことができよう(同書,309頁)

 −2005年9月16日 追記−

 


  【参  考】

 ■ 田川建三については「田川建三からのお知らせ」というホームページがある。

 ■ 早い時期に田川が大塚久雄の見解をとりあげた下記の論稿(先行研究の成果公表)をしらずに,

 →田川建三「翼賛の思想から帝国主義の思想へ−大塚久雄の「国民経済」論に見られる国家主義について−」 『批評精神』創刊号,1981年3月。

のちに〔20年もあとに〕似たような主旨を展開した章を収めた著作

 →中野敏男『大塚久雄と丸山眞男−動員,主体,戦争責任−』 青土社,2001年。

を,やたらもちあげる論評を披露した大阪大学文学部教授川村邦光に対しては筆者〔裴 富吉〕つぎの論稿判をくわえた。

 →「社会科学者思想論:「大塚史学」の再検討 −中野敏男『大塚久雄と丸山眞男−動員,主体,戦争責任−』 2001年は,論争の書か?−」 『大阪産業大学経営論集』第4巻第1号,2002年10月25日。

 

  この筆者の論稿は当然,田川建三にも謹呈させてもらい,有意義な所感を彼から拝受することができた。

 ■ 最近における経営学分野でも,先行研究をろくに精査もしないで,自説の斬新さを強調する論説が多い。それでは,読まされたほうが恥ずかしい思いをさせられることも,しばしばである。

 ■ 過去に蓄積されてきた学説史的な理論展開をないがしろにした研究「姿勢のそのツケ」は,非常に大きいのである。

 ■ というよりも,それをまったく研究してこないまま無縁でもありつづけてきたのだから,もともと,当該学問領域において必要不可欠な「基本前提的な学識を欠落させてきながら平然としていた」ともいえる。

 その典型的な見本が,明治大学経営学部所属の小笠原英司『経営哲学研究序説−経営学的経営哲学の構想−』(文眞堂,2004年11月発行)である。小笠原英司の,経営学的とはいえない,いいかえれば非社会科学的な発想の問題性は,筆者の別稿が批判的に考察している。

 −2005年9月16日 追補記−