奥平康弘 稿「『首相 靖国 参拝』に疑義あり」

 


 ■奥平康弘『「萬世一系」の研究−「皇室典範的なるもの」への視座−』(岩波書店,2005年3月)は,「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」(同書,382頁),訴えた著作である。

 ■こうもいう。「神道儀式を日常的に公然とおこなう天皇が,神道以外のありとあらゆる宗教・宗派を信奉する国民たちの『統合の象徴』であるというのは,おかしな話である。天皇は『象徴』であるためには,宗教的に中立であらねばならない」(同書,385頁)


 ■川口恵美子『戦争未亡人−被害と加害のはざまで−』ドメス出版,2003年4月)は,靖国神社の宗教儀式である「招魂祭」を,こう理解する。

 ■「〈招魂祭の儀〉で夫が神となるときの一瞬は,未亡人に夫の死の悲しみを喜びと錯覚させる魔術の儀式であった」(同書,58頁)


 ■千田 稔『伊勢神宮−東アジアのアマテラス−』(中央公論新社,2005年1月)は,日本の「神道と国家の緊密なしばり,古代の祭政一致的内容は,世界宗教としての普遍性とは遠くかけはなれたところにある」と解説している(同書,199頁)


 =こ の 頁 の 主 な 内 容=

◆ は じ め に ◆

◆ 憲法論の欠落 ◆

◆ 政教分離の原則 ◆

戦前の靖国神社

◆ 国家と宗教 ◆

◆ 靖国派ナショナリズムの皇国史的宗教観 ◆

宗教儀式のトリック

◆ 原始的宗教「神道」の時代錯誤性 ◆

◆ アジア諸国からの批判の意味 ◆

靖国神社の政治性

◆ A級戦犯の合祀問題 ◆

◆ 皇軍兵士「命」の値段 ◆

帝国臣民のホンネ

◆ 無理がとおれば道理がひっこむのか ◆

◆ 小泉純一郎「写真集」の公刊 ◆



 ◆ は じ め に ◆

 憲法学者,奥平康弘「『首相靖国参拝』に疑義あり」(『潮』2001年9月号)は,靖国神社=戦争神社に日本の首相が参拝する行為を批判する。この奥平論文は,当該の論点を明快に論及したものと好評をえている(『朝日新聞』2001年8月30日夕刊「論壇時評」)

 小泉純一郎首相が実際に靖国神社にいったのは,国会の演説でも明言していた8月15日〔2001年は水曜日)ではなく,2日分を前倒した13日であった。

 奥平のこの論稿の要点は,つぎの3点である。

 @ 首相は,憲法論を克服しなければ,靖国神社公式参拝はできない。

 A 小泉首相は「聖域」として戦前的な考えかたを維持しようとしている。

 B すべての戦争犠牲者を対象とする国立墓苑をつくれ。

 前段『朝日新聞』「時評」は,靖国参拝は単なる祭祀や儀礼ではなく,宗教活動であること,「私人」としてなら閣僚の参拝は認められるという主張は無効であること,これらのことがごく自然なかたちで,すなわち,ことばに歪曲をくわえることなく論証されている,と奥平康弘稿を論評していた。

 以下,奥平の見解を参照しながら議論をすすめていきたい。なお,記述中で筆者とは,このページの執筆者である。


 ◆ 憲法論の欠落 ◆

 1) 総理大臣の靖国参拝は,政治的問題というよりもむしろ,すぐれて憲法的問題である。問題は,国家が個人の内面にどこまでかかわるか,国家が振るまうべき限界をどう考えるか,である。

 国家と靖国神社は歴史的に,並々ならぬ関係をもっていた。靖国神社は戦前日本の象徴的存在であり,靖国参拝というのは,その過去の国家のありようをどう考えるか,国家として日本の戦争責任をどう考えるか,などの問題にも関係する。

 小泉首相は「なにがなんでも靖国にいく」「公人も私人もない」といい,自民党総裁選では「8月15日にはいかなる批判があろうと必らず参拝する」,とまでいいきった。

 以上のような姿勢には〈憲法論〉がまったく踏まえられていない。憲法論が克服されねばならない。つまり,靖国参拝が違憲,あるいは違憲の疑いがあるかどうかを,みきわめなければならない。


 「聖域なき構造改革」を謳い文句にした小泉首相であるが,国家と個人の関係,国家と靖国神社の関係といった,すぐれてイデオロギー的な問題については,戦前的なものの考えかたを「聖域」として温存,維持している

 もし,違憲であっても靖国参拝を断行し,あえて政治的争点を提起することも,別問題としてありうる。しかし,およそ総理大臣たる者が,「私は私人だから,憲法の問題とは関係ない」といえるか。


 −−筆者は,日本国首相小泉純一郎の靖国参拝に関する発言を聞いてまず感じた点は,この人はものを考えていない,とくに靖国問題については,過去の由来やその歴史的な展開に関する知識や事情を,最低限すらもっていないということである。

 近隣諸国とのあいだでは,いままでなにかと紛糾する材料を提供してきた,日本の政治家による「靖国参拝」の問題である。「靖国に参拝にいく」と事前に確言するくらいなら,日本の政治家としてまえもって,それ相応の学習〔覚悟!〕が必要であった。

 だが,ごく単純素朴で原始的な宗教心の発露にしかうけとれなかった一国首相による靖国参拝意向の表明およびその実行は,アジア諸国,とりわけ一番近い国々である韓国〔北朝鮮〕と中国から猛烈な反発をくらい,きびしい批判もうけている。

 19世紀末葉から20世紀前半の東アジアの歴史展開に触れるまでもなく,わけても,太平洋戦争〔日本がわは大東亜戦争といった〕時代,そして,敗戦後の関連する事情がどのような経緯をたどってきたのか,すこしは勉強すべきであ
った。

 靖国神社をみる海外の眼は,〈戦争神社war(military)shrine〉である。

 澤地久枝〔ノンフィクション作家〕は,靖国神社を,戦意高揚の役割をになう一種の軍神(いくさがみ)大量生産工場のようなものだった,と表現する。

 次段は奥平康弘の見解にもどる。


 ◆ 政教分離の原則 ◆

 2) 憲法20条3項;「国およびその機関は,いかなる宗教的活動もしてはならない」。

 総理大臣は「国家の機関」であって,問題は,いわゆる「私人」としての総理大臣が国家の機関に当たるかどうかである。自然人としての総理大臣は,生活領域においては自由に振るまってよい。

 たとえば,友人の葬儀に参列したさい,その宗教の儀式にしたがって,あるていど宗教的な振るまいをするのは,私的な生活領域に属するものである。

 しかし,私人だとする説明にもかかわらず靖国参拝という問題は,どうしても,国家のかかわる領域=「公的性格」がはいってくる。靖国参拝という領域にあっては,ふつうの個人的な生活領域の問題とはちがい,私人ならとおるという問題ではない。

 1985年8月15日に靖国に参拝したとき中曽根元首相は,こういう三百代言ないいかたを弄した。

 「総理大臣たる中曽根」= 私 人

 「総理大臣としての中曽根」= 公 人

 これは,公用車でいけば公人で,タクシーでいけば私人だ,というすり替えた話と同じである。


 この公人‐私人問題をうやむやにすると,私人としてなら天皇も8月15日に靖国神社に参拝できる。公人‐私人問題は,そういう重要な問題につながる芽をはらんでいる。

 最高裁は靖国問題について慎重な判断である。公費支出における愛媛県と靖国神社とのかかわりでは,相当限度を超え,憲法が禁止した宗教活動に当たるとして違憲判決を下している。


 −−筆者は,神社に参拝する行為はすべてりっぱに宗教行為であると観察する。まともなクリスチャンやイスラム教徒は,神社に参拝することなど絶対にしない。逆にみれば,神社の宗教的な本質に関する議論はいったんおくとしても,神道の宗教儀式をとりおこなう場所・施設が神社の境内・建物である。

 神社に参拝〔お参り〕し,玉串しを捧げるという行為は,宗教的行為以外のなにものでもない。それなのに,ああだこうだといらぬ理屈を付けては,なんとしてでも靖国神社に,それも8月15日「敗戦記念日」に参拝にいくという。その宗教的行為に関して,私人と公人の差異を強調することは,どだい無意味である。
 
 それでもなお,私人〈対〉公人の区別にこだわって,私人ならば靖国参拝に問題はないとか,あるいは公人として靖国にいって参拝しても宗教行為に当たらないとか理屈を立てるのは,政治・憲法や宗教・信心に関する基礎知識を全面的に欠いた,そして,当初から議論など無用とする乱暴な姿勢である。

 靖国神社に参拝するという行為は,神道儀式によった宗教的な教義の具現化を意味する。それでもなお,その行為が〈政教一致に抵触すること〉などではないと強弁し,参拝を当然とする環境をつくろうとしている。

 アメリカに派遣されている日本の新聞記者は,小泉首相の靖国参拝を,「ドイツのヒトラーを讃える神社をつくって,首相がそこを訪れるようなもの」とはげしく非難するものもあった,と伝えている(『朝日新聞』2001年8月28日朝刊)


 戦前の靖国神社

 3) 奥平はこう指摘する。靖国神社は,戦前は内務省が管轄したふつうの神社とはちがい,陸軍省・海軍省が濃厚にかかわり,神職も陸・海軍省が任命するというとくべつな別格官弊社(「かんぺいしゃ」)であった。その意味では,国家のかかわりという点では,国家宗教的性格以外のなにものでもない。

 そうした国家神道が絶対主義的な国家の性格を決定づけ,侵略主義的な性格を国家に与えてしまったという反省のうえから,靖国神社を頂点とした護国神社をふくめて,宗教と国家の関係を打ち切るべきであるとして,憲法に政教分離が謳われたのである。

 ところが問題は,靖国神社の戦後改革において,その政教分離が徹底されなかった点にある

   憲法20条3項は,「国およびその機関は,いかなる宗教的活動もしてはならない」としるしているが,靖国神社がわがこの〈政教分離〉規定を,どううけとめていたか。戦後日本国家が本当に靖国神社との関係を清算したのかといえば,いろいろな解釈があるが,かたちのうえでは宗教法人となり,国家との関係を断ち切ったようにみえながら,実はそうではなかった。


 ◆ 国家と宗教 ◆

 4) 戦後,陸軍省や海軍省が消滅したあと,遺家族や復員軍人などの生活の援護などの行政分野の関係で,陸海軍の肩代わりをするために出てきた厚生省が,靖国神社に祀る戦没者の名簿の作成にかかわってきた。つまり,戦没者の行方を厚生省が調査し,確認した分について,靖国神社に送付した。それを靖国神社が自動的に神として祀ってきた。

 合祀という靖国神社の仕事がなりたつための本質的な部分に,厚生省および全国の地方公共団体という国家機関が深く関係した。こうした国家のがわの協力がなければ,靖国神社に祀られる戦後の神々は存在しなかった

 奥平はこう強調する。「そういうかたちでの国家と靖国神社のつながりがなければ,つまり靖国神社が一宗教法人として自立していれば,今日の〈靖国神社問題〉はなかった」。「そこには靖国神社がわの思惑や,遺族会とむすびついた自民党の政治家の,われわれにはみえないかかわりがあった」。そうであるならば,「それを決済することこそ〈聖域なき構造改革〉ではないか」。

 以上の問題に手をつけずに,靖国神社には明治〔1869〕2年に創建された東京招魂社以来の伝統があるからとか,「死んだら靖国神社に祀られるのだから」と約束したからというような,憲法とは関係のない説明がおこなわれ,聖域として温存されたまま今日にいたっている。これは,戦前をそのまま引きずった考えかたである。


 ◆ 靖国派ナショナリズムの皇国史的宗教観 ◆

 5)  奥平は喝破する。「靖国派のいいぶんは問題の本質を外している」。

 靖国神社がわや,ある種のナショナリスティックな人たちの,いくつかのいいぶんに検討をくわえておこう。

 @ 靖国神社は教祖や教典をもたず,組織もゆるやかな連合体であるから,宗教施設ではない。したがって,参拝は宗教活動に当たらないという議論について。

 −−靖国神社は現に宗教法人として登録されている。宗教を司る法人だからこそ,宗教法人であり,ということは,宗教施設であることを自認しているわけである。「靖国参拝の目的は慰霊であって,神を敬うものではない」といういいぶんにも無理がある。

 −−最高裁は1977年の「津地鎮祭訴訟」において,憲法が禁ずる宗教活動とは,「行為の目的が宗教的意義をもち,その効果が宗教に対する援助・助長・促進,または圧迫・干渉などになるような行為」であるとして,宗教活動として認定するには,なんのためかという「目的」と,その「効果」がともになければならないとした。

 「基準」といっているそれらに照らせば,靖国参拝が宗教活動であることは歴然としている。

 「靖国参拝の目的」は「慰霊である」。

 「死んだら」「靖国神社に神として祀られる」。

 「神だからこそ合祀されている」。

 「神である以上」「これを慰霊する」,

 「靖国参拝は目的的にも宗教目的そのもの」である。

 そこに生じる問題は,すくなくとも総理大臣,すなわち国家による特定の宗教に対するモラルサポートというものである。

 明治憲法もそれなりに信教の自由を謳っており,靖国神社に対する国家的な保護は信教の自由に反するという議論を回避するために,「神社は宗教にあらず」として,靖国神社がおこなう行事は〈国家の祭祀〉であって宗教ではない,という説明がなされた歴史がある。

 そうした詭弁によって国家神道が強制されたことを,われわれは忘れることはできない〔筆者はここで,「われわれ」とは日本人だけではなかったことを注記する。合祀者も同じ〕

 以上の詭弁がまかりとおるとすれば,伊勢の皇大神宮や出雲大社なども祭祀法人に切り替えることができ,そうなれば,天皇がおこなうあらゆる祭祀的行事全部を国費でおこなっていい,といった議論へ発展していくはずである。祭祀法人についての靖国神社がわの狙いも,あるいはその点にあるように思える。

 また,1985年の中曽根元首相の公式参拝のさいには,『二拝二拍手一拝』の神道形式をとらず,本殿で一礼しただけだから宗教活動ではなく,違憲ではないというような説明もなされたが,これも問題の本質を外している。

 問題はどういう参拝形式をとるかではない。ほかならぬ九段の靖国神社という場所に,総理大臣みずからが出かけていくことじたいが問題なのである。

 なぜなら,「国家として,死んだら神として靖国神社に祀ると約束したからいくのだ」というとき,そこにはその「約束」の意味に対する反省がまったくないからである。約束だから守る,というのは情緒論,心情論としては通用しても,「神として祀るから死んでもらう」という約束を強調するということは,いまなお,戦前の国家観・皇民観を引きずっていることをしめす以外のなにものでもない。

 その「約束」というフィクションが前提する旧国家そのものが解体しており,それをささえる旧ナショナリズムじたいがもはや公認のものではなくなっている。


 宗教儀式のトリック

 以上 @ の議論に筆者の論評をくわえておきたい。うしろのほうからさかのぼっていく順番で検討する。

 まず,1985年8月15日,中曽根元首相の公式参拝「本殿で一礼」形式に対しては,靖国神社がわはそのさい,こういう〈宗教的な対応〉を講じた。

 靖国神社がわは,中曽根のその参拝形式に対抗させて同時に「後祓い」をした。つまり,中曽根元「首相の参拝行為の意味」を「実質的な公式参拝とするるための宗教的儀式」,いいかえれば正式の参拝に意味を変換させる神道上の追加的な行為を,靖国神社がわがおおいかぶせるかたちで,勝手におこなったのである。

 靖国神社の意図は,「本殿で一礼」という失礼な参拝形式を無化し,あるいは骨抜きにすることによって逆に,一国首相のその参拝の不十分性=不敬性を除去〔お祓い〕するとともに,しかしまた,一国の首相が形式的にせよ,参拝にきた事実だけは良いとこどりするために,神道儀式的に意味あるものに再解釈する,という宗教上の解釈手順を重ねたわけである。

 靖国神社がわのそうした対応は,ちまたの人々からみると,きわめて小手先の姑息なものである。だが,そうした神道的儀式がまさに,宗教的行為そのものの発動であって実は,靖国神社関係者が有意義とみなす作為である。

 特定の宗教においてそれぞれ独自,特有に発せられるもろもろの意味あいの儀式のことだから,当事者以外にはその真意を感知しにくい本性が内有されてもいる。

 靖国神社の代弁者たる田中 卓(皇学館大学元学長)は,中曽根元首相の参拝方式:「本殿で一礼」をとらえて,こう論じていた。
 
     このやりかたは,良くいへば知恵者の妙案,悪くいへば苦肉の愚策である。それでも,ともかく総理大臣の公式参拝が実行されたわけであるから,参拝作法としては不十分ながら,一歩前進といふ評価は与へられよう。名をすてて実をとるといふが,この場合は形をすてて実をとったわけである田中 卓「靖國神社公式参拝の根本的解決のために」,別冊「歴史研究」神社シリーズ『靖國神社−創立百二十年記念特集』新人物往来社,平成1年,157頁 
 


 2001年8月16日共同通信社配信の記事は,つぎのように報じた。

 「首相参拝時にお祓い 宗教的行為に当たる恐れ」

 小泉純一郎首相が13日に靖国神社を参拝したさい,お祓いをうけていたことが16日,分かった。お祓いは憲法の政教分離原則に抵触する宗教的行為に当たる恐れがあり,1985年に中曽根康弘首相が公式参拝したさいも断わった経緯があることから,今後議論を呼びそうだ。

 靖国神社によると,小泉首相は13日夕に神社に到着し,記帳後に口すすぎ,手洗いなどの清めの儀式をおこなったうえで,拝殿内でお祓いをうけた。その後,本殿に昇り,神道方式の「二礼二拍手一礼」によらない一礼するだけの方式で参拝したという。

 中曽根元首相は1985年8月15日に戦後初の公式参拝をおこなったさい,宗教色を薄めるためお祓いを断わる意向を神社側に伝えたが,神道にこだわる神社側がこれをうけいれず,清めの儀式の最中に元首相が気づかないようにお祓いを済ませたとされている。

   http://www.kyodo.co.jp/kyodonews/2001/yasukuni/news/20010816-183.html

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   それでは,神道流の「はらひ(祓い)」という宗教儀式の意味は,なんであるのか。

 それは精神的には,「われわれの信仰に対する反省であり,一種のざんげ」という問題である。

 だから,中曽根元首相が神道式の宗教儀礼にしたがわなかったという行為・態度は,不吉な・嫌な,近づく者に不幸をもたらすものと,とらえるべき,いわば「ケガレ」そのものであった。

 それゆえ,1985年8月15日における中曽根の靖国参拝は,神社勢力や神道関係筋にとって,げに忌むべき「ケガレ」であった。そこで,中曽根本人にはわからぬようにうしろで,神職〔神官〕が「お祓い」をくわえねばならなかったわけである安蘇谷正彦『現代の諸問題と神道』ペリカン社,2001年,157頁,159頁参照
 


   靖国神社がわの展開する特異な理屈には,かくべつの関心をむけておく余地がある。靖国神社がわは既述のように,首相の「本殿で一礼」という参拝形式=「名」に対しては,特定の宗教的操作をほどこして換骨奪胎させたことにし,それで意図的に「実」のあるものに変換したつもりなのである。

 その点は,靖国神社関係者にしか意味を生起させえない宗教行為であるから,靖国信仰に反対する部外者には不透明のまま,神殿の内部における密儀としておこなわれたことである。

 神社神道の教理的命題は,この宗教本来の未開性・原始性を理由に絶対的一神教の立場にある「ほかの諸宗教」とは,異なった立脚点にあること〔とどまっていることか?〕を,しきりに強調する。

 しかし,靖国神社はじめ日本全国に存在する各種神社は,その未開性・原始性にもかかわらず〈宗教的行為〉じたいをとりおこなう一点においてみれば,それこそ発展段階的な宗教上の完成度のちがいはさておき,宗教行為そのものとしての次元・含意において,その意味するものは同義・同質といえる。

 宗教教理における中身〔発展段階〕の相違点を絶対的事由に,どのような宗教であれ〈そのものとしてもつ宗教性〉になにか決定的な断層があるかのように主張するのは,論点をはぐらかした「説明にならない説明」である。


 ◆ 原始的宗教「神道」の時代錯誤性 ◆

 簡単に言えば,この地球上の大部分をおおっている「宗教上のグローバル・スタンダード」を故意に無視するのが,過去の国家神道であったし,現在の靖国信仰である。日本国内であっても諸種の神々を戴く宗教が混在する。そして,そのどの宗教を人々が信心するかも自由であるのに,その宗教のいかんを平然と無視して,戦争〔など〕で死んだ人々を委細かまわず勝手に合祀するのが靖国神社である。こんなに無礼であつかましい宗教が,この日本に存在する。

 靖国神社のみならず,天皇の代替わり儀式のさい,伊勢神宮のなかで秘密裏におこなわれる諸作法は,宗教的教義の完成度をひとまず棚上げしていえば,なかなかのものであり,明治維新以来懸命になって,帝国日本のよって立つべき求心基盤を形成する努力を重ねてきたものである。

 明治以来,日本の国家神道は帝国主義路線を推進するための宗教的教義であった。明治の維新だからといって登場した自由民権運動を抑圧するほかなかった理由は,民主主義の根本義が当時の日本に根づいてくれてはこまるからであった。大正デモクラシーは「下から」の動きをふくんでいたゆえ,戦後の日本において,占領軍に「上から」指南された民主主義を学ぶに当たって役に立ったことは,まちがいない事実である。

 しかしながら,1923〔大正14〕年普通選挙法の成立は,二卵性双生児の相手であった治安維持法とまさに抱きあわせで生まれていたから,その後にすすむ日本帝国は市民社会の形成はとことん,不全状態を余儀なくされてきた。

 いわば,中途半端な近代化路線をすすめた日本は,経済成長に必然的にともなうはずの政治的意識の成熟を,国民国家体制の内容物にはしたくなかった後発資本主義国であった。英仏流近代国家体制を真似せず,ドイツ後進資本主義を手本にしたのは,国民的意識に近代民主制感覚が強く芽生えることをそらしたかったからである。

 さて,小泉純一郎首相は,2001年8月13日に靖国参拝をしたが,「本殿で一礼」参拝形式をとった。時間的には1分もかからなかったといわれている。だが,靖国神社がわは今回もまた,自分たちの宗教儀式をもってそれをすり替える操作をしたものと推察される。

 宗教の問題はこのように,人々の心のなかに強く宿る主観的,主体的な問題である。しかし,それを表に出して国家の問題,公的な機関を代表する人間の行動に直結,反映させるやりかたは,いかようなものであれ,「政教分離」の原則を意図的に蹂躙する行為そのものである。

 毎年8月15日を迎えると,首相のみならず各閣僚たちも群れをなして,靖国神社へ参拝にいくが,この国はいつから,神道と政教一致の祭りごとをおこなう国家となったのか。

 つぎに,明治憲法のもと敗戦まで,存在的かつ存在論的にほかの多くの宗教を抑圧,弾圧してきた国家神道の具視的な施設:「靖国神社」は,敗戦後の一宗教法人としての立場をわきまえていない。戦前の夢をもう一度というわけでもなかろうが,本音では,国営化祭祀法人を心底希望しているはずである。

 明治憲法も謳っていたとする信教の自由とは,国営宗教だった靖国神社以外には付与されなかったから,逆説的な大嘘である。帝国臣民に与えられていた信教の自由は,神道という宗教を信心する点にかぎれば,存分にあった。

 それでも,特定の宗教に対する国家的な保護・育成策は信教の自由に反するという批判を回避するために,靖国神社信仰〔のちに国家神道と呼称〕は宗教にあらずとする詭弁を押しとおした。


 ◆ アジア諸国からの批判の意味 ◆

 戦前の日本では,靖国神社がとりおこなう行事は〈国家の祭祀〉であって,宗教行為ではないという説明がなされた。だが,このたびの小泉首相の靖国神社参拝は,宗教行為としての〈国家の祭祀〉に相当するものだとみられるほかなく,近隣諸国にきびしい批判を呼びおこす結果となった。

 いち早く韓国と中国が,日本の首相の靖国参拝を非難した。なぜ,近隣諸国が日本の首相のその行為に敏感にならざるをえないのか。またなぜ,小泉個人もふくめて官邸がわは,事前によく考慮して対処しなかったのか。不思議なくらい思考が停止状態にあるのが,この国の関係者たちである。

 小泉純一郎は,ただ日本人の〔すべてのジャパニーズがそうではないが〕ごく個人的に素朴な心情・情感,いいかえれば原始的な宗教的気分を根拠に参拝すると公言したにすぎない。この首相の発言をいままで聞いたかぎり,この人物がいったいどのような宗教観をもっているのか,皆目わかりえない。

 今日は,「言論もグローバリゼーションの時代だ。靖国問題の論者も『国内むけ』だけでなく,外国の聴衆を説得するだけの論理を磨く必要があるのではないか」(『朝日新聞』2001年8月28日朝刊)

 ともかく,経済大国を内外に誇り,国際政治面ではODAなどで多大な貢献をおこなってきた日本である。かつてはその反対にアジア侵略をおこない,近隣諸国に量りしれない加害を与えた日本でもある。

 宗教の次元でふりかえってみれば,日本が侵出していったアジア各地域にはくまなく神社が建立された。神道を強制された国々もあった。戦争と宗教=神道は仲むつまじい伴侶であった。敗戦後,日本の植民地に建設されたそれらの神社がどうなったか,日本人は意識的に振りかえってみたことがあるだろうか。

 戦前・戦中「外地」にあった何百もの神社は,日本の敗戦とともに一瞬にして消えさったのである。とくに現在の韓国〔北朝鮮〕は,過酷な宗教弾圧をうけたキリスト教関係では多くの犠牲者を出した。当時は当時で,日本の国教=神道は,アジア地域におけるそういうグローバリゼーションを進行させ,植民地支配者の立場よりする〈負の〉宗教交流を強要し,これに逆らう人々の命を奪ってきたのである。

 敗戦後半世紀以上も経ったいまになっても,「戦意高揚の役割をになう一種の軍神〈大量生産工場〉」のようなものだった靖国神社に,日本の首相が,しかも8月15日「終戦の日」に参拝しようとしたことは,この国が過去の敗戦を反省していないどころか,以前の野望を〔できるかどうかはさておき〕再現しようとするものだと,韓国や中国から批判をうけて当然である。


 靖国神社の政治性

 A 奥平がさらに問題にするのは,「靖国神社だけが戦没者を祀る唯一の場所である」,といういいかたについてである。

 それでは,国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑は,戦没者を祀る場所ではないのか。この問題は,靖国神社には戦前,国家的な強力な後援があり,戦後,宗教法人になる道をえらんだことによってその関係が絶ち切られたはずなのに,実は換骨奪胎して国家との関係を維持してきた問題と密接な関係がある。

 靖国神社には,厚生省の用意したリストに載っている,遺族がいる人だけを祀り,引き取り手がない遺骨を千鳥ヶ淵墓苑に納めるという棲み分けをした。これによって,声なき千鳥ヶ淵より靖国神社は政治的優位に立ち,戦前からの〈唯一の〉という神話を維持してきた。

 小泉首相は「靖国神社こそ唯一の場所だ」「靖国神社しかないじゃないか」という。けれども,靖国神社を〈唯一の場所〉にしたのは,靖国派の人びとの猛烈な政治闘争の結果なのであって,自然的にあるいは客観的にそうであるのではない。千鳥ヶ淵を副次的なものにした靖国がわの政策の所産である。


 ◆ A級戦犯の合祀問題 ◆

 B 憲法論に関して奥平は,こう主張する。

 8月15日「終戦の日」あるいは「敗戦の日」に靖国神社のおこなう行事は,戦後に固有のものである。それゆえ,靖国神社本来の伝統的な行事である春秋例大祭やみたま祭への参加とはちがうのだから,宗教活動に当たらないのではないかとする議論がある。

 だが,8月15日の行事は,宗教法人としての靖国神社挙げてのものであって,その本質において,上記の春秋例大祭やみたま祭とかわるところはない。

 小泉首相や中曽根元首相のように《8月15日の靖国参拝》にこだわればこだわるほど,客観的には国家機関と靖国神社の〈つながり具合:entanglement〉がきわだってみえてくる。そしてその結果,憲法上の論争的な意味合いが強まってしまうのである。

 A級戦犯の合祀問題を,歴史的経過に即して考えよう。

 靖国神社は,戦死した人だけでなく,餓死した人も,病死した人も,軍人であれ軍属であれ,軍のかかわった戦没者をいわば自動的に祀ってきた。そのなかで,戦後まもなく,ある種のナショナリスティックな人たちのなかから出てきたのが,「旧植民地で裁判にかけられて死刑になったり,入獄中に亡くなったB・C級戦犯の人たちも受難者ではないのか」という声であった。

 そこで,B・C級戦犯のばあいも,厚生省が復員軍人援護活動の一環としてリストをつくり,靖国神社に送ったのである。1978年,密かに誰かの手によって靖国神社にA級戦犯が合祀された背景には,そうした経緯がある。

 その論理が「A級戦犯の人たちもB・C級戦犯の人たちと同じようにあつかわなければおかしい。あの人たちこそ国家のために殉じた昭和の受難者だ」というものであったことは,容易に想像できる。これには厚生省は直接関与していないようである。そこで,「A級戦犯は靖国神社が勝手に合祀したのであって,国家とは関係ない」という言いかたがなされているわけである。

 A級戦犯はさておいても,B・C級戦犯のなかにはいろいろな人がいる。住民を虐殺したり,残虐な行為をした人もいるかもしれない。そういう人たちも神として祀られているのである。

 それにくわえて,A級戦犯の合祀である。小泉首相流の「靖国神社が勝手に合祀したのだ。私が分祀するわけにはいかない」といった説明は,建前としてはそうであっても,日本がいかに戦争責任の問題をあいまいにしてきたか,また,いまなおあいまいにしようとしているかを国内外に自白しているようなも
のではないか。

 靖国参拝はその自白を行動でしめすものであり,アジア諸国から批判があるのは当然といっていい。


 ◆ 皇軍兵士「命」の値段 ◆

 以上,筆者の論評などもはさみながら長々と,奥平康弘の靖国神社参拝「違憲」論とでも名づけるべき論旨をくわしく参照してきた。

 1945年まで,旧日本帝国はとくに自国臣民を兵士に駆りだすとき,一銭五厘のハガキで召集をかけた。

 それだけでない。兵舎のなかに閉じこめた兵卒に対して,「おまえたちの命は天皇陛下のために捧げねばならない」と教説した。貴様らの命は「鴻毛より軽い」ものだが,天皇を頂点に戴く日本帝国は量りきれないほど重いものだ,という理屈を叩きこんできた。

 そして,アジア諸国への侵略に彼らを差しむけ,戦場となった敵国・敵地で残虐な行動をできる軍人,つまり強い兵隊さんに仕上げた。

 さて,戦争に動員された日本軍兵士たちは戦闘で死んだり,あるいは戦地で病気になって死んだり,あるいは餓死させられたりしたばあい,戦争中から靖国神社に〈神〉=英霊とされ,祀られてきたのである。

 かつて日本国家が臣民たちを戦争に駆りだしたさい,彼らをどのようにあつかってきたかを考えれば,戦死・戦病死・戦餓死した家族を靖国神社に〈神〉=英霊として祀ってもらえるといっても,けっして単純に認めていることではなく,複雑な心境でうけとめていることである。

 だから,戦争で家族を殺された遺族の人びとすべてが,戦死した自分の家族が靖国神社に祀られることを歓迎しているわけではない。とはいえ,戦場で死んでしまった夫や親,子,兄弟などのことである。国家〔戦前は内務省の管轄,戦後は厚生省が世話〕が彼らをどこかに祀ってくれることは,悪いことではなく,むしろ好ましいことである。さらに恩給も支給されれば,死霊の気持のほうは聞きようもないことだが,のこされた遺族の心中に積もる怨念も多少は,
慰められるにちがいない。

 ここで,われわれはもっと真剣に,深く考えねばならない。

 空を飛ぶ鳥の体に付いている1枚の「羽よりも軽い」などと人間の命を形容したり,軍馬よりも「人間兵士のほうが安価なものだ」と断言してやまなかった旧日本軍の価値観は,いくら強い兵隊をつくるためとはいえ,人間の生命を軽視する点において,とうてい許容されえないものである。
 
 それは,「あの戦争がいかに人々を粗末にあつかってきたか」という一点に関心があつまる問題である。
 


 
帝国臣民のホンネ ◆〔その序論〕

 第2次大戦が終わっても日本に復員〔帰国〕しなかった軍人たちがいる。彼らのことを未帰還兵とよぶ。未帰還兵はそのほとんどが戦地では行方不明者として処理される。

 戦後だいぶ時が経って(1970年代後半の話),タイでやっとみつけて日本によびよせたある旧日本帝国陸軍の元兵士は,バスツアーで東京を観光したさい,ガイドが宮城について,天皇の住む「新宮殿には134億円かけた」と解説をはじめるや,突如,激昂した。

 「天皇は金持ちになるために戦争したのか」。

 昭和(ヒロヒト)天皇は戦争中,靖国神社にいき,正式に英霊たちを参拝した。それも,軍服を着て,参拝した。

 その元日本帝国軍人は,日本が再び戦争をはじめると信じ,嫁もとらずにきたような男である。日本の薄っぺらな豊さに怒り,絶望し,「タイのほうがいい」と帰っていった。

 

  『日本経済新聞』2003年12月24日「私の履歴書,今村 昌平(23)」参照。なお,この文字色の記述部分はホームページを執筆する筆者が補筆した個所である。


 
帝国臣民のホンネ ◆〔本 論〕

 靖国神社の魂が対決,否定しなければならなかった帝国臣民の真情は,つぎのようなものであった。

 これは,鬼内仙次『ある少年兵の帰還』(創元社,2001年7月)のなかに記述されたものである。

 昭和18〔1943〕年8月,15歳で海軍に志願入隊,その後戦艦大和に乗りこみ九死に一生をえたその少年兵は,家族とくに,母と祖母のかぎりない愛情にみまもられて出征していく。

 出征の日,国民服に襷がけの姿で祖母を抱き上げて喝采を浴びた。そのとき祖母は,

 「死んだらあかん,生きて戻ってこいよ

と,孫に凭れかかるようにして泣いた。


 衛門の手前まできたとき,一度振りかえろうかと思ったが,必死に抑えて耐えた。そのとき,

 「あんた元気でなあ

という母の声がした。つづいて,

 「体に気をつけてなあ,体に気をつけてなあ」

と2度いうのが聞こえてきた。


 肩袋に入れたお守袋を押えた。お守の護符は母や祖母が面会にくるたびにもってきたものである。京都の伏見稲荷,成田の不動様,福山の三島神社,延廣八幡宮,月山大権現,阿伏兎観音,四国の子安大師,琴平宮。それらをしばらく押えていると,日本中の神様や仏様が……集合してしまったような気がして,一気に肩の辺りがざわざわ泡立ってくるのを感じた。


 「大和」が沈んだことによって日本はもう負けたのだとの思いが心を重く支配していた。それにこんどの戦いで自分がみたものは実に見苦しいものであったと思った。特攻隊というものは神様の存在だった。特攻で死ぬということは美しいことだと教えこまれた。しかし実際にそこでみたものは,悲惨で,身勝手で,嘘ばかりだったような気がしてならない。すべてが裏切られ,救けられた自分の幸運でさえ黒い染みがついたようにさえ思われた。


 敗戦の日八杉は,小さな黒い手帳に「停戦ニ考フ」という心の衝撃を書きとめている。

 1.  死マデ決シテ海軍軍人ニ身ヲ投ジタルハ何故ナリヤ

 1.  死ヲ決シテ特攻隊員トナリタルハ何故ナリヤ

 1.  死ヲ決シテ陸戦ニ訓練シタルハ何故ナリヤ

 1.  今マデ家郷ヲ忘レタルニ今急ニ家郷ヲ憂愁ニ思フハ何故ナリヤ

 1.  軍人ガ降伏後連合軍ニ楯ヲツクト何故悪キ事ナリヤ

 1.  大和民族ハ投降シテヨキモノナリヤ


 祖母は白髪が増え,見る影もなくなっていた。

 「よう戻れた,よう戻ってきた。もうこれで何も起こらん世の中になりますように」。

 そう言って,八杉の腰に手を回して泣いた。
 

 鬼内『ある少年兵の帰還』29頁,75頁,134-135頁,189頁,192-193頁参照。

 

 ◆ 帝国臣民のホンネ〔続き1〕 ◆

 2001年12月1日,皇太子の奥様が女児を生んだ。この出来事に関して,新聞の投書欄につぎの内容の寄稿が紹介された。

 某老人ホームでもテレビが「雅子さま,女のお子様ご出産」のニュースを流していた。痴呆のすすんでいる人が多いので,ほとんどが無関心。

 寮母が1人ひとりに教えていると「女の子でよかった」というおばあさんがいた。「どうして」「女の子なら兵隊に取られないから」。

 そのおばあさんは,みんなで昔の歌を歌うとき「ここはお国を何百里……」になると決まって涙を流している。弟が戦争で死んだそうだ。

 戦中戦後,どんなに苦労したかは手をみれば分かる。体はちいさいのに,手はおおきく節くれだっている。

 小泉首相は靖国神社で,どんな「英霊の声」を聞いたのか。このおばあさんの「女の子でよかった」の声を聞かせてやりたい。
 

  『朝日新聞』2001年12月9日朝刊「声」欄より。

 

 ◆ 帝国臣民のホンネ〔続き2〕 ◆

 日中戦争が泥沼化していた1940〔昭和15〕年2月,衆議院本会議で立憲民政党の代議士斎藤隆夫は,政府・軍部の戦争処理を糾弾する演説をおこなった。

 国民からは斎藤を支持する多数の声が寄せられたが,軍部におもねる議会は斎藤を除名する。議会政治をみずから否定した政党はこの事件をきっかけに崩壊し,本格的な戦時指導体制を確立した日本は,翌年,太平洋戦争へと突入する。

 斎藤の反軍演説は,議会政治に寄せる思いの最後の輝きとなってしまった。

 斎藤隆夫の出身地である兵庫県出石町でも,その演説の趣旨は「早く戦争を終わらせたかった」ものとうけとられた。

 地元では,兵隊にとられた若者の戦死が続出していた。

 「母親はお国のために死んだと涙ひとつこぼさないけれども,胸のうちでは,そりゃあ悲しんでた。みんなが戦争が終わることを念願してた」。
 

 読売新聞20世紀取材班編『20世紀 大日本帝国』中央公論新社,2001年,190頁,195頁。



 ◆ 帝国臣民のホンネ〔続き3〕 ◆

 この話は,1945年当時,8歳の少女が感じた「戦争へ出征」する男の家族〔とくに母親〕に関するものである。

 昭和20年5月ごろの夕暮れどき,北九州で次兄の担任だった先生が訪ねてきた。入隊場所が兵庫県下なので会えればと,立ちよったとのこと。 

 中学生になった兄はまだ帰宅しておらず,後日面会に連れていくという母にその先生は,「数日のうちに戦地に赴くので……」と話した。

 別れのとき突然,母が先生のそばに寄り,「手柄なんかたてなくてもいい,弾をよけてね。死んだらだめですよ」といった。

 「そんなこと人に聞かれたら大変ですよ」と驚く先生に,「大丈夫。みんなそう思っているのだから。あなたのお母さんも口には出せなかったでしょうけれど。絶対に死んではいけませんよ」と重ねて念を押す母に,「私の母は泣いていました」と先生はいった。

 先生が去ったあと,目の下をぬぐう母をみて,出征するということは,死ぬということなのかと不思議に思いました。

 

 『朝日新聞』2003年12月24日朝刊「声」欄より。



 ◆ 帝国臣民のホンネ〔続き4〕 ◆

 

 昭和22年の夏,私は小学1年で,横浜から母の郷里信州に家族疎開中だった。  

 終戦から2年,なんの音信もなかった長兄が土間の上がり口に立っていた。戦闘服でリュックをおくと,敬礼をしておおきな声であいさつした。  

 「ただいま帰って参りました」。  

 母は正座で迎え,「お帰りなさい,よく無事で帰ってきた」というなり,泣き伏した。  

 毎朝神仏に無事を祈りつづけ,その間に次男が戦死,長女と五男は病死。育ち盛りの子供6人を抱え,母は「もう1人たりとも死なせない」という気迫の日々であった。  

 2人の息子を戦場に出したのち,次男の〇〇が母の夢枕に立った。母とのあいだには川が流れていた。「こっちに来い」と絶叫する母に「ここでお別れします」と敬礼したまま薄くなり,消えてしまった。  

 翌朝,母は「〇〇はだめだ」と,むせびながら語った。  

 戦後,次兄のサイパンでの悲報が届いた。その後,母はいいつづけた。「世の中で一番の親不幸は,親より先に死ぬことだ」。子供10人を生み,3人に先立たれた母の悲しみである。  

 突然帰還し,母を号泣させた長兄も,今年5月,母のもとに旅立った。

 

  『朝日新聞』2002年8月15日朝刊「声」欄より。



 ◆ 帝国臣民のホンネ〔続き5〕 ◆

 

 @ 昭和17年だったと思う。ある日,父に赤紙がきた。私は「とうちゃん,兵隊にいかんかったらどうなるん」,「ブタバコに入れらるんや」。ブタバコがなにか,しっていた。警察や拘置所に,父が囚人の散髪に出向くときついていっていたからだ。

 雨が降る寒い夜,敦賀の駅はごったがえしていた。駅前もプラットホームも召集兵をみおくる「バンザイ,バンザイ」が繰りかえされていた。私も父を見送ろうとプラットホームで,弟を背負った母の袖をつかみながら列車の到着を待った。列車が入ってきた。

 召集兵たちが乗りこんでホームがわに座った。列車はやがて動きはじめ,ひときわバンザイの声が高くなった。小さかった私には,たくさんの人垣で父の姿がみえなかったが,なにかいわなければとの思いがした。

 そして「とうちゃん,いくなー」と泣いた。隣にいたよそのおばちゃんが「ほんまやなあ,ほんまやなあ」と耳元でささやいた。

 父は帰ってこなかった。


 A  昭和19年9月14日,中国雲南省騰越の日本陸軍守備隊1500余名が玉砕のもと昇天した。この隊に息子がいたある母親は,「3日3晩,千人針を抱きしめ泣きとおした。あまり泣きすぎ,涙が出なくなり,眼医者にもいった。もう誰がきても会いたくない」と語った。


 B−a)  陸軍に通訳として入って,1941年12月24日に下関を出ました。卒業式は26日だったので,私は卒業式に出ていません。ただ22日に東京駅を出るときに,私の叔母がおりましてね,私が改札口から出て地下道を向こうのほうへいっているときに,

 大きな声で,「隆,死んじゃいかんよ」というんです。

 ぼくはもう吃驚しましてね,いまそんなこといっちゃいかんよ,と思ってね。旧友がみな歌を歌って励ましてくれたのを,「死んじゃいかんよ」とおおきな声でいわれて。

 私はいまでも,肉親というものはありがたいものだなと思っています。


 B−b)  父は尋ねました。「元気か?」「うん元気だよ。お父さん,俺,きのう特攻隊に選ばれてしまったよ」。

 父は「そうか」とだけ答えました。軍人なら誰しも特攻隊に選ばれる,当然だ,と軽く考えていたようです。

 しかし事情をくわしく話すと,両親の顔がかわりました。母が「2階にいらっしゃい」といいました。部屋に入ると母は,「断わることができないの」といって泣き崩れました。

 両親に別れるとき,父がつぶやきまし。「このいくさは負けだな」。朝日屋(旅館)の主人夫婦も心配して,ともに送ってくれました。


 B−c) 「お国のためにと自分が産んだ子どもを殺す母親はいないのです」。


 B−d) 「昭和14年」(日中戦争3年め)における日本の庶民の声。

 「戦争はいつまでつづくものでしょうか。御上はなんのためにかように人命を犠牲にして,大金を要してまで戦争をなさるるのか,私には不思議でなりません」。

 「大事な人の子を連れていって,幾年も幾年も無駄奉公させられてたまったものではない。焼けつくような熱いところで,飲み水もなく腹をへらして戦争をしているということだ」。

 「戦死にさいし,戦死して芽出たしと祝辞を述べたる村民あり,親として芽出たきことなし」。

 

 
  
@『朝日新聞』2004年1月28日朝刊「声」欄より。

  A 岩波書店編集部編『定年後−「もうひとつの人生」への案内−(第3版)』岩波書店,2003年,294頁。

  B−a)  青山学院大学プロジェクト95・編『青山学院と学徒出陣60年−戦争体験の継承−』発行者:雨宮 剛,2003年,83頁。

  B−b)  同書,152頁。

  
B−c)  大田 尭・尾山 宏・永原慶二編『家永三郎の残したもの 引き継ぐもの』日本評論社,2003年,146頁。

 
B−d)  半藤一利『昭和史 1926-1945 』平凡社,2004年,204頁。



 神国海軍の少年兵だった八杉康夫は前段(帝国臣民のホンネ ◆〔本論〕)のように,「聖戦」:大東亜戦争への疑問を列挙した。いずれも,靖国神社の国家的な神格性を騒ぎたてる一群が決まり文句で唱和する内容とは,無縁なものばかりである。

 かつて軍営宗教施設であった靖国神社は,八杉のそうした疑問に返せる宗教的な解答をもたない。靖国の立場・思想にとっては,上記の条項ひとつひとつが,聞きたくもない禁句である。なぜなら,それらはみな,靖国の信仰心の全面的破綻を意味するものだからである。

 「明治維新から大東亜戦争まで246万余柱」の戦没者=英霊を祀るという靖国神社内に充満する価値〔死霊〕観は,「かく戦えり,近代日本」とする宗教精神に端的に表出されるそれである。過去の戦争を不幸だとか悲惨だとか,ましてや他国を侵略し,他人に惨害を与えたなどという歴史認識は皆無である。

 戦艦大和の乗員として戦いに挑んだ八杉康夫は,武運長久つたなく敗れたが,幸運にも死なずに生きて還ってきたのである。「かく戦った海軍兵」が真正面より靖国に投じた疑問符に対して〈現代の靖国〉は,なにを反論できるか。

 靖国の精神は,この人にはまったく通用しない。また,この人の提起した疑問に答えることもできない。日本の首都の中心部にいまも,そんな元国営の軍国神社が栄えている。その意味で「不思議の国,ニッポン」。

 靖国神社はひたすら,英霊を招魂し慰霊する宗教施設として存在しつづけてきた。

 英霊とみなされた旧日本軍兵士たちは,侵略戦争に動員され悪行を重ねてきたことの罪を背負わないでもいい,というのである。九段の社においては,国際法〔戦争のしかたに関する国際条約〕に規定されたところの「戦争上の行為」の問題など,度外視される。

 靖国神社の歴史のなかで特筆すべき出来事がある。それは,日中戦争勃発の翌年〔1938:昭和13年〕から,敗戦の年〔1945:昭和20年〕までのあいだ,昭和天皇が異例の毎年「春秋の臨時大祭」に参拝した事実である。裕仁天皇が必らず2回参拝するようになったのは,侵略戦争中だけであった(西川重則「岩手靖国違憲訴訟勝訴と私たちの課題」,岩手靖国違憲訴訟を支援する会編『岩手靖国違憲訴訟戦いの記録』新教出版社,1992年,62頁)

 そうした宗教的な本質を有する靖国神社に,よりによってわざわざ,敗戦の日に参拝にいくと宣言した日本の首相がいる。過去において,旧日帝の侵略をうけ,ひどい災厄をこうむった近隣諸国が,その行為をだまってみのがすわけがないではないか。これを「内政干渉」というのであれば,過去の日本が主要な4つの島から一度も外に出たことがなかったとする話が前提となる。

 それでも,アジア諸国の非難など気にせず,日本の首相は毎年「終戦の日」には靖国参拝にいくべきだとする。こういう精神は,21世紀の今後において日本の国際関係を進展させるうえで,けっして促進的な要因とはならない。このことは,火をみるよりも明らかである。すこし視野を広げてみて,多少は深く思考してみれば,日本の国益にもならないことが容易に理解できるはずである。

 あの過去の「戦争の記憶」は,一国内で完結的・自閉的に収納できない。そもそも戦争という出来事は,国際関係間の衝突であった。戦争をした相手がおり,殺したり殺されたりする国と国との関係である。ここで,クラウゼヴッツの著作の内容に言及する必要もないだろう。

 靖国神社は,そうした戦争の惨禍をなにか崇高で至高のものであるかのように読み替えさせ〔いわゆるマインド・コントロールす〕るための宗教的施設である。それだけでない。戦〔いくさ〕に出むく軍人を鼓舞し,殺人を正当化する精神改造用の宗教価値を用意している。この靖国神社の性格は,いまも不変である。

 靖国に日本の首相が参拝にいく。一国の代表者のこの行為がなにを意味するかなどと問うことじたい,愚問なのである。日本はいまや,宗教上のそういう意識構造〔原始宗教的シャーマニズム「政教一致の精神」〕をかたくなにもちつづけている「先進」国だと,世界中の国々にみられることとあいなった。

 作家奥泉 光は,こういう。「そもそも,国家が死者を英霊として祭るシステムこそが,〈失敗〉の要因だったではないか」(『朝日新聞』2001年12月28日夕刊「文化」欄)

   《伊勢》や《お天道さま》が,国家神道によって統治者である「現人神」の『皇祖神』とされ,政治という意識の次元へとおきかえられるとき,それは明治体制の正統性を保証するある種の絶対者へと化した。

   明治以後,明治神宮・乃木神社・東郷神社,あるいは楠木正成を祀る湊川神社など,人間を神として祀る神社がつぎつぎと創建されることとなった。戦死者を祀る靖国神社〔国家が死者を英霊として祭るシステム〕については周知のとおりである(北沢方邦『感性としての日本思想』藤原書店,2002年,168-169頁)

 すなわち,「臣民」の忠誠を引きだす装置としての明治国家の靖国の思想は,天皇への忠誠によって「人が神になる」という観念をとりいれ,一方では天皇は「弱くとも尊い存在」,守護される幼児ではなく,「神聖ニシテ侵スベカラ」ざる絶対的な権力として屹立していた。

 江戸時代の天皇の権力がミニマムだとすれば,その権力はマキシマムに拡大したものであった。

 この絶対的な現人神天皇のもとで,「臣民」は死を要求され,強制されたのであって,垂加神道のような下からの自発的な服従ではなかった。この点は決定的に異なっている(前田 勉『近世神道と国学』ぺりかん社,2002年,192頁)


 ◆ 無理がとおれば道理がひっこむのか ◆

 福田康夫官房長官は,今回における小泉首相の靖国神社参拝に関して,近隣諸国に対して「もし誤解があれば解かなければならない。今後の長いつきあいを考え,良好な関係を築くのは当然のこと」と述べていた。

 率直にいわせてもらうに,いまさらなにを愚かないいわけ:ゴマカシをいっているのか,という印象をもつ。

 2001年8月13日,日本の首相が靖国参拝したという意図的な出来事にまつわっておきた〈悶着〉は,その全部がといっていい,日本がわが提供した材料に原因するものであった。

 「誤解」が生じたことは事実であるが,誰がその誤解の素因を用意し,これをその後どのように問題化させたのかは,この年8月の経過を観察した者すべてが直視し,簡単に理解できたことである。

 誤解ということばをつかったことじたい,誤導的である。まるで,「誤解させた」ほうより「誤解した(?)」ほうが悪かった,みたいないいかたである。

 もっとも,それよりも誰がなにを誤解した,といいたいのか? 誤解の種をわざわざ蒔いたのは,誰か?

 したがって,韓国が,小泉首相が訪韓したい意向ならば,さきに「日本政府が誠意ある具体的な措置をとる必要がある」,つまり「日本政府による条件整備が先行すべきだ」とする立場をしめし,また中国が,「日本政府として今後の両国関係をどのようにもっていこうとしているのか説明をえたい」と述べ,日本政府の今後の対中姿勢しだいとの判断をしめしたのは,ものの順序として道理のとおった当然な外交上の反応である『朝日新聞』2001年8月26日朝刊,8月28日朝刊参照)

 譬えて,こういっておきたい。

 他人をいきなり殴っておいたあと,どうして私はあなたを殴ったか,どうしてあなたは痛いと感じたかなどいっしょに考え,これからは,同様な事件がおこらないようにともに協力しようなどといわれて,怒らない人がいるだろうか。


 ◆ 小泉純一郎「写真集」の公刊 ◆

 2001年9月上旬の話題のひとつが,鴨志田孝一撮影による『小泉純一郎写真集KOiZUMi』(双葉社,1800円)が発売され,当初からベストセラー的な売れゆきをみせていることである。

 人気美人女優のナイスバディを撮影したヌード写真集でもあるまいに,一国首相の写真集が非常に好調な売れゆきをしめす現象は,まことに薄気味悪い。

 その国の首相の写真集を出すくらいならば,この人物の政治手腕・実績評価・今後の期待などを正面より論じた〈絵本かマンガ本〉を出したほうが,よほどましではないか。

   『小泉純一郎写真集 KOiZUMi』は,小泉純一郎自筆サイン入りで,「厳選カラー & モノクロプライベート 秘蔵 フォット 94 カット,総理からのラブレター /長男・孝太郎さん,次男・進次郎さん  父への1枚の手紙」が主要な中身である。「私の全てがここにある」とも謳っている。

 筆者は,現首相のプライベートをしりたいとは思わない。小泉純一郎のアップ写真もみたいとは感じない。

 国の政治家,それも最高責任者のこのような写真〔集〕が社会に流通する現象は尋常ではない。過去の歴史を振りかえって,よく思いだしてみる必要がある。現在でも独裁的為政者が国家を支配している国々ではそうだが,大統領だとか国王とかの写真を国中に飾らせている。

 「写真集」とはいえ,いままでみたことも聞いたこともないような,一国首相のこの類の図書が発行され,好調な売れゆきをみせる現象である。このことは,日本社会に潜在,うっ積する大衆の不安・不満をやわらげたり,最近の面白くない社会状況を慰めたりする作用を有するのだろうか。

 問題は,日本の民主主義における一現象として,今回公刊された『小泉純一郎写真集 KOiZUMi 』を,どのようにうけとめるか,である。
 


 


 ◆ 小泉純一郎「写真集」の書評(『週刊朝日』2001年9月28日号)

 斎藤美奈子という人が書いたこの写真集の論評を紹介しよう。

 気になるけど自分では絶対に買いたくない本,てのがある。さしずめこれなど,その最たるものだろう。

 写真集だからビニールで包装され,立ち読みできないようになっている。

 政治家は基本的に人気商売。写真集が出ることじたいはかまわない。かまわないけど,一国の首相だよ。もうちょっと知性があると思うじゃないの。

 出来の悪い中学生のラブレターか,質の悪い結婚詐欺師の口説き文句かってなレベルである。

 〔そもそも,このホームページの中心人物である〕石原慎太郎は,この写真集の感想を聞かれて,「なんだ,ヌード写真集か?」と応じていたが(それもどうかと思うリアクションだが),当たらずとも遠からず。

 巻末には,身長・体重,血液型,星座,動物占い,好きな女性のタイプ等と並んで首相自作の短歌も載っている。

 ……その短歌は省略……

 誰かなんとかいってやってよ。


 はい,筆者は早速,前段のように「なんとか」いってみました!


  2001年9月23日の朝日新聞「書評」欄にも,この KOiZUMi写真集に関する書評が載っている。こちらは,売上協力の姿勢を積極的にみせたいような〈コビタ〉論評である。出版元は当然,大喜びだろう。 
 


 

 ◆ 佐高 信『小泉純一郎の思想』岩波書店,2001年10月

 本書は,岩波ブックレット 546 として公刊された。『小泉純一郎写真集 KOiZUMi』に言及している。

 −−佐高 信はまず,以下の諸点を指摘する。
 なお,〔 〕内補述は筆者である。

 ・小泉純一郎は,こんな歯の浮くようなセリフを吐ける人ではない。〔妥当な指摘〕

 ・中曽根康弘とのツーショットを収めている。〔タカ派の起源を示唆する〕

 ・箱根で静養しているときに広げているのが『産経新聞』だった。〔各紙にまんべんなく目をとおすべきか?〕

 ・森 喜朗,中川秀直,塩川正十郎などとともに,総裁になった祝杯を挙げているのは,森派から脱けたはずなのに,気にならないこともない。〔森 喜朗君とやはり同じ穴(自民党派閥)の狢か?〕

 ・長男と次男をこの写真集に登場させていることに違和感がのこる。〔自分の子どもがコマーシャルデビュー! なぜか,オヤジが首相となった直後のそのデビューである〕

 ・結局,写真集というのは,「人前に出るのは本質的に好きじゃない」人,小泉純一郎が出すものではない。こういうことは,やらない人ではなかったのか。「本質」がかわったではないかとさえ危惧する。驚異的な人気が「人見知り」の小泉をもかえてしまったのか。〔佐高は小泉を「クリーンなタカ派」と規定〕

 −−佐高はつぎに,こう論断する。

 小泉は「永田町の変人」もしくは「自民党の変人」ではあっても,一般的な変人ではなかった,というふうに切り捨てることもできる。〔今後,自民党を割って解体し,日本政治の基本構図を大変革,再編成できるかどうか,である〕

 小泉純一郎=「あいつだけはやめておこう」というのが,これまでの永田町の論理だったのに,自民党の総裁にまで推され,選出されて,かえるべき自民党〔永田町〕をささえてしまったのではないか。〔最大与党である自民党の人材不足もきわまった,背に腹はかえられぬ,とでもいうべきか?〕

 −−要は,小泉純一郎がこれまで堅持していた行動様式と,どうしても,今回の写真集がむすびつかない。

 『小泉純一郎写真集 KOiZUMiは,小泉流「独りの世界」をみずから,狭めるものなのではないか。〔それにしても最近はそれほど話題ではなくなったようだけれども? これは,2001年12月時点での話〕
 


 
 
 ◆ 山内昌之『政治家とリーダーシップ−ポピュリズムを超えて−』岩波書店,2001年12月

 本書は,こう警告する。

 大衆を駆りたてる興奮のなかに危険がある。

 世俗的カリスマとして,芸術を好み,音楽や芝居をも愛し,自分のポスターや写真集の出版に同意するなど,客観的にはパフォーマンスとよぶしかない仕事に市民の関心を惹きつけているときに,日本の失業率は5%台に上昇し,アメリカで悲劇的なテロル〔2001月9月11日同時多発テロ〕が起きたのである。

 カリスマに魅了されている市民は,その不斉合の意味を明らかにみおとしている(同書,14頁,16頁)
 


 

 ◆ アメリカ大統領訪日:2002年2月15日

 2002年2月15日来日したブッシュ米大統領は,明治神宮参拝を検討しているが,小泉純一郎首相は同行しないことを決めた。

 小泉首相が大統領に同行して参拝すれば「公的色彩を帯びる」ことから,憲法の政教分離原則に抵触するおそれがあり,今回は,神宮境内でおこなわれる流鏑馬を,いっしょに見学するだけにとどめる。

 政府首脳間では,「違憲訴訟が起きてもやるか。そこまでしていかなくてもいい」との意見が強く,首相自身も,靖国神社参拝のような個人的な思いいれがないことなどから,みおくることにした。

 なお,ブッシュ大統領は参拝が主目的ではなく,流鏑馬をみたいというのが強い希望だと伝えられる。参拝は神道形式によらず,一礼だけとなる予定だという。明治神宮には,過去にカーター,レーガン大統領が訪れているが,首相は同行していない『朝日新聞』2002年2月16日朝刊)

 −−明治神宮は,東京都渋谷区代々木にある旧官幣大社であり,祭神は明治天皇・昭憲皇太后である。大正4年着工,同9年完成。内苑と外苑に分かれている
 


        

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